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4月30日、「校庭利用基準、変更せず=年間20ミリシーベルト―細野補佐官」との見出しで「時事通信」の次の記事がウェブ上に掲載された。(太字による強調はすべて引用者による。)

「 細野豪志首相補佐官は29日夜、TBSの番組に出演し、辞任表明した小佐古敏荘内閣官房参与(引用者注:この人物は典型的な御用学者という説があり、これは事実のようなので、辞任の理由をご本人の主張どおりに受けとっていいかどうか分からないが。)が甘すぎると批判した学校の校庭利用制限に関する放射線量の基準について「われわれが最もアドバイスを聞かなければならない原子力安全委員会は年間20ミリシーベルトが適切と判断している。政府の最終判断だ」と述べ、変更しない方針を示した。/ 同時に「通っているお子さんや親御さんの気持ちがあるから、(被ばく量を)できるだけ下げる努力を当然すべきだ」と強調した。 」(引用者注:/は改行部分)

上記のように、放射線量基準値「20ミリシーベルト」について細野豪志首相補佐官は「原子力安全委員会の助言」を強調しているが、翌30日、官直人総理も衆院予算委員会で「政府の決定は原子力安全委員会の助言に基づいたものだ」と反論し、また、高木文部科学相は、「この方針で心配はない」と強調した(フジテレビ)。三人とも「20ミリシーベルト」に何の問題もないとし、その根拠として官総理と細野氏の二人は原子力安全委員会の助言を挙げている。しかしこの言い分はおかしい。4月13日時点では、原子力安全委員会は、記者会見で、子どもについては大人の半分の「10ミリシーベルト」を基準とするのが適切と語っていたはずだ。

「 福島第1原発:子どもは年10ミリシーベルト目安
 福島第1原発事故の影響で、福島県内の一部の小中学校などで大気中の放射線量の値が高くなっている問題で、内閣府原子力安全委員会は13日、年間の累積被ばく放射線量について「子どもは10ミリシーベルト程度に抑えるのが望ましい」との見解を示した。同委員会は、10ミリシーベルトを目安とするよう文科省に伝えたという。
 10ミリシーベルトは、政府が福島第1原発から20キロ圏外の「計画的避難区域」の基準とした年間被ばく放射線量の20ミリシーベルトの半分にあたる。子どもは、大人よりも放射線の影響を受けやすいとされている。代谷誠治委員は会見で「校庭で土壌から巻き上げられた放射性物質を吸い込み、内部被ばくする場合もあることを考慮すべきだ」と述べ、「学校でのモニタリング調査を継続して実施する必要がある」とした。
 震災後にできた現地の市民団体「原発震災復興・福島会議」が、福島県が4月上旬に実施した小中学校や幼稚園などの校庭・園庭での調査結果を基に独自に集計したところ、県北地域を中心に、全体の2割で、大気中(地上1メートル)で毎時2.3マイクロシーベルト(0.0023ミリシーベルト)以上の放射線量が検出された。仮に、校庭に1年間いた場合に20ミリシーベルトを超える値で、同団体は線量の高い学校での新学期の延期や学童疎開の検討を要請している。【須田桃子】(毎日新聞 2011年4月13日 21時04分) 」

毎日新聞のこの記事は触れていないが、従来、一般公衆の被ばく許容量が「年間1ミリシーベルト」とされていることからすると、原子力安全委員がここで述べている「年間10ミリシーベル」も、おそろしく高い数値ということになる。記事によると、安全委員会は、10ミリシーベルトを目安とするよう文科省に(すでに)伝えたというから、これを素直に受けとって推測すると、「目安10ミリシーベルト」と伝えられた文部科学省か政府、あるいはその両方が安全委員会の提示した「10ミリシーベルト」に異議を唱えた結果、急きょ「20ミリシーベルト」に決定された確率が高いのではないだろうか?


   

この問題における政府・文部科学省の決定を批判し、撤回を求めた日弁連の「会長声明」(2011-4-22)には下記の文面がある。

「文部科学省は、電離放射線障害防止規則3条1項1号において、「外部放射線による実効線量と空気中の放射性物質による実効線量との合計が3月間につき1.3 ミリシーベルトを超えるおそれのある区域」を管理区域とし、同条4項で必要のある者以外の者の管理区域への立ち入りを禁じている。3月あたり1.3mSvは1年当たり5.2mSvであり、今回の基準は、これをはるかに超える被ばくを許容することを意味する。しかも、この「1.3ミリシーベルト同規則が前提にしているのは事業において放射線を利用する場合であって、ある程度の被ばく管理が可能な場面を想定しているところ、現在のような災害時においては天候条件等によって予期しない被ばくの可能性があることを十分に考慮しなければならない。 」

文部科学省は「電離放射線障害防止規則」において、放射線量が「3月間につき1.3 ミリシーベルト」を越えるおそれのある区域を「管理区域」と定めているそうであるが、「3月間につき1.3 ミリシーベルト」は、年換算にすると日弁連が述べているごとく「5.2ミリシーベルト」である。政府・文部科学省は「管理区域」におけるこの基準量のおよそ四倍もの放射線量を児童・生徒が通う小中学校に上限値として許容するというのだ。しかもこの「20ミリシーベルト」には「放射線管理区域」における基準の場合と異なり、内部被ばく量は含まれていないとのことだ。「管理区域」は部外者の立ち入りが禁じられ、また、放射線を扱う業務への18歳未満の就業は労働基準法で禁止されていることを勘案すると、この措置には大きな疑問をもたないわけにはいかない。

枝野幸男官房長官は4月30日午前の記者会見で、「20ミリシーベルトまでの被ばくはかまわないという指針ではまったくない。相当大幅に下回るとの見通しのもとで指針は示されている」と述べた。(毎日新聞)」とのことだが、「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」という通達文書に現実に「20ミリシーベルト/年」と明記されている以上、枝野氏のこの弁明は意味をもたないと思う。枝野氏などの政府・文部科学省が「20ミリシーベルトまでの被ばくはかまわない」と考えてはいないことを認めたとしても、現状のままでは「被ばくはかまわない」が「被ばくはしかたがない、やむをえない」に変わるくらいがせいぜいのことだろう。どうしても「明らかに誤解をされている」と言いたいのなら、現実にこの基準量の大幅引き下げ可能な政策を実現するしかない。


   

4月19日に政府・安全委員会・文部科学省が「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」を発表すると、直後から「政府の対策費用の節約のために、児童・生徒の健康が犠牲にされようとしている」「子どもたちの将来が心配だ」という声がウェブ上にあふれた。この種の問題において最も細心の配慮を必要とする年齢の子どもたちが生活する小中学校において「放射線管理区域」の四倍の量の上限値が許容されるという政策に多くの人がつよい懸念を示し、当局にきびしい批判を加えたのは当然のことだった。

文部科学省は「1~20mSv/年」について「安全と学業継続という社会的便益の両立を考えて判断した」と説明しているが、この説明は枝野官房長官の場合と同じく説得力をもっていない。日弁連が指摘しているように、公衆の安全と経済的・社会的便益を総合的に勘案した上で基準量として設定された数値が従前の「年間1ミリシーベルト」だったはずだからである。この基準を忠実に守ろうとすれば、現在地の学校での授業継続が不可能となる。政府・文部科学省は子どもの健康と将来を犠牲にすることになったとしても,経済的・物理的負担を惜しんで「20ミリシーベルト」の措置をとったのではないだろうか。安全委員会が「基準値10ミリシーベルト」を口にしてから一週間足らずで「20ミリシーベルト」の通達文書が発出されている点をみても、幅広い議論がなされたとは思えない。真摯な考慮・議論の末のぎりぎりの選択だったともとても受けとれない。このことを最も鋭敏に感じ取っているのは、教師や父母の悩みも深いだろうが、当の子どもたち自身だろう。

どこの国、どこの社会にとっても子どもはかけがえのない存在のはずである。しかし今回の「20シーベルト」の件は、日本政府が子どもたちの心身の健康や今後の健全な成長について大して深くも真摯にも考えていないことを白日の下に晒してしまっている。思えば、昨年高校授業料を無償化するにあたって朝鮮学校だけを対象外とするという差別政策を平然と敢行した日本政府、文部科学省であった。宮城県知事は、大震災直後の混乱のさなかで自分たちと同様の被害に遭い、同様に苦しんでいる朝鮮学校への補助金を打ち切っている。1924年の関東大震災は日本人の精神に悪い意味で途轍もなく大きな影響を与えたと言われているが、今の私たち日本人と日本社会は、おそらく関東大震災当時よりもっと深刻な社会的・精神的問題を抱えているように思われる。

この境地を脱して少しでもよい方向に進むためには、政府・文部科学省が「20ミリシーベルト基準」を必要とする環境下の学校に通う児童・生徒のためにこの措置を撤回し、安全な教育環境を用意することは絶対的に必要不可欠と思う。また、政府・文部科学省にこのような驚くべき発想が湧き出し、これを政策として躊躇もなく実行に移せるということは、その源に朝鮮学校のみを無償化の対象から外した経験があることは確かではないかと思える。大人より心身ともにつよい子どもの感受性が無視されて事が決定されている点では共通性があると思う。「20ミリシーベルト基準」とともに、朝鮮学校への差別政策を、政府・文部科学省はもちろん、宮城県、東京都、大阪府などの自治体も早急に撤回することを請願する。このようなことが一つずつ着実に実行されていくのでなければ未来に希望なぞ生まれようがないのではないだろうか。
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2011.05.02 Mon l 東日本大震災 l コメント (3) トラックバック (0) l top
「産経ニュース」(2011.3.31 15:00)に下記の記事が出ている。

「 宮城県は平成23年度当初予算に計上していた東北朝鮮初中級学校(仙台市太白区)への補助金162万4000円を交付しないことを決めた。北朝鮮による韓国・延坪島の砲撃事件を受けて凍結していた22年度分の152万1840円は未曾有の東日本大震災の被災地という人道的な見地から31日、交付した。」

片山貴夫さんのブログでは「宮城県は朝鮮学校への補助金を止めました。」と書かれているが、23年度分の補助金を交付しないことを決めた、ということは、事実「交付を取り止めた」「今後も交付しない」ということなのだろう。それでいて、22年度分をこれまでどおり交付したことを「東日本大震災の被災地という人道的な見地から31日、交付した。」とは、あたかも本来必要のない措置を寛大さからとってやったと言わんばかりの恩着せがましい言い回しである。これは県がそのように述べたということなのだろうが、自己欺瞞にもほどがあると思う。

朝鮮と日本の間の近代の歴史を知れば知るほどに、政府にしろ都道府県にしろ、日本は朝鮮学校の補助金を打ち切る権利など持っていない、朝鮮学校にはそのような仕打ちを受けるどのような理由もないということを痛いほど思い知らされることになる。「北朝鮮による韓国・延坪島の砲撃事件、云々」ということだが、これは方々で言われているように、韓国と米国の軍隊がそのような事態を引き起こすべく挑発したということではないのだろうか? それに北朝鮮は今回の大震災に対し懇切な見舞いの言葉とともに、義捐金も贈ってくれているし、私は今回はじめて知ったのだが、日本のこれまでの災害に対しても同様の配慮を示してくれていたとのことである。宮城県も知らないはずはないだろう。

朝鮮学校に23年度分の補助金を交付しないという宮城県の決定について、上記の片山さんのブログでは、

「宮城県は朝鮮学校への補助金を止めました。
 これは、震災に乗じて在日朝鮮人への敵視・差別を扇動する行為です。在日朝鮮人の人々が地域の住民とともに苦しんでいるときに、これは人としての感性を疑われる行為です。
 徹底弾劾しなければなりません。
 宮城県知事および宮城県当局の責任者は、不交付決定をすぐに取り消し、公式に謝罪しなさい。」

と述べられ、宮城県知事への抗議の送り先も以下のように示されている。

「 宮城県知事への抗議の送り先
   FAXの場合 022-211-2297
   宮城県総務部行政経営推進課
   知事への提案「明日のみやぎに一筆啓上!」係

  抗議メール入力フォーム
  https://www.e-tetsuzuki99.com/eap-jportal/PkgNaviDetail.do?lcd=040002&pkgSeq=31862


宮城県の村井嘉浩知事とはどういう人物なのかと思ってネットで検索してみると、この人は3月14日の石原慎太郎都知事による「やっぱり天罰だと思う」などの発言に対し、15日、

「「塗炭の苦しみを味わっている被災者がいることを常に考え、おもんぱかった発言をして頂きたい」と不快感を示した。」(産経ニュース)

とのことである。しかし、自身の行動はどうなのだ? 「塗炭の苦しみを味わっている被災者」について「常に考え」なければならないのは、石原都知事だけではなく、村井県知事も同様だろう。いや、村井氏は被災地の責任者・当事者なのだから、桁違いの考慮・配慮が求められているはずである。それにもかかわらず、被災者の苦難にさらに追い討ちをかけるこのような差別攻撃をあえてしているのだから、この件に関しての犯罪性は都知事よりはるかに重いだろう。

宮城県についてはさらに「JA7HLJ HF用ミニアンテナの試作実験 Super Rad Antenna」というブログの記事が目にとまった。こちらにも目を疑うような内容の記事が載っている。宮城県は、県民に対して「飲料水、土壌、農、水産物の放射能汚染数値を出したがらない」そうである。県民のつよい要望によって3月30日にようやく2回目の水道水汚染測定値を出したとのことだが、しかし農産物の値はスルーだったそうだ。下記の記事参照。

 わかった!宮城県知事は女川原発を抱えているから発表したくないのか
 宮城県は、ようやく、2回目の水道水測定値を発表したようです など。

宮城県のこのような対応は県民の健康、生活、生命を軽んじていることの証明であり、行政として無責任極まりない。決して許されないことだが、このような政策と朝鮮学校への補助金打ち切り政策とは同じ土壌から出たものではないだろうか。住民を自分たちの思い通りに操るという点では深い関係があるように思う。

折も折、4月1日、宮城県知事は県庁で職員に下記の訓示をしたという。(産経ニュース 2011.4.1 16:44)

「 宮城県の村井嘉浩知事は1日、年度初めに当たって県庁で職員にあいさつし「県政史上、最も重要な年度だ。50年後に『あの震災を克服して宮城県は大きく発展した』と評価されるよう、職員一丸で全力で取り組んでいこう」と奮起を求めた。/ 村井知事は、被災地での経験から「被災者が笑顔を取り戻し、安心して暮らせるよう取り組む決意を新たにした」と表明。当面の課題として、生活支援と災害廃棄物の処理を挙げ「一日も早く、復興に向けた基本方針やロードマップを作る必要がある」と述べた。/ また「既存の制度の枠組みを超えた対応を求められるケースが出てくる」として、国に対し財政支援や新制度の創設を求める意向を強調した。入庁した新人職員に対しては「若い力で県に活力を与えてほしい」と呼び掛けた。」(/は改行部分、下線は引用者による)

「大きく発展」することの「発展」がどんな具体的内容を想定しているのかは分からないが、文面にみられる「被災者が笑顔を取り戻し、安心して暮らせるよう」な地域にするためには、今のような県政を敷いていたのでは県の未来が明るいものになるとは思えない。宮城県はあえて、悪い方向へ、被災者をはじめ県民を分断し、さらに苦しめる方向へと舵取りをしているように思える。
2011.04.02 Sat l 東日本大震災 l コメント (4) トラックバック (0) l top
  

久しぶりの更新になってしまいました。
3月11日の東北地方太平洋沖地震と津波により不幸にも命を落とされた多くの方々に謹んで哀悼の意を表します。
被災された方々のなかには、ご家族を亡くされた方、家屋を失われた方が沢山いらっしゃるわけですが、悲しみを癒す間もないままに連続して原発事故が発生し、残念ながら今なお予断を許さない状態にあります。皆さんが現在もひきつづき嘗めさせられている筆舌に尽くしがたい多大なご心労、ご不自由にたいし、心よりお見舞い申し上げます。今後、一人でも多くの方がまだ安否の分からないご家族と無事再会できますようお祈りいたしますとともに、せめて暖かい食料、医薬品、防寒具、寝具などの生活必需品が充分に行き渡り、一日も早く落ち着いた安全な環境でゆっくりと心身を休ませることのできる日がくることを願ってやみません。

また、原発事故現場の最前線で作業に従事してくださっている方々のご健勝をお祈りいたします。


  

このところ福島第一原発事故に関して技術分野の専門家の発言が新たに耳に入ってくるようになった。先日、インターネットの映像で崎山比早子氏(放射線関連医師)、後藤政志氏(元原子炉格納容器設計技術者)、田中三彦氏(元原子炉製造技術者)などの具体的な説明や明確な見解を聞くことができ、大分原発の構造や仕組み、現在の現場の問題点などが理解できるようになったという気がしている。このような重大な事態に遭遇した場合は、私のようなまったくの素人でも、問題に関する正確な情報や知識の収集、納得のいく合理的な理解こそが、唯一心を落ち着かせ、不安やストレスを減少させる有効な手立てであると実感する。政府・行政・学者たちによる「(大気中の放射能について)この値は直ちに身体に影響が出るわけではない」とか「(放射能物質が検出された牛乳を)続けて飲むのでなければ大丈夫」などと今一つ論旨の不明瞭な説明や、「放射能汚染予測の数値を公表しないのは、誤解を招く恐れがあるから」などという意味不明の説明は、かえって私たちのストレスを高め、結果的には有害でしかないと思う。広瀬隆氏が地震の震度がM8.4→8.8→9.0と2,3日の間に何度も修正されたことに疑問を呈している説明も聞いたが、「そう言われてみれば…。」と思った。これはどういう事情による変更だったのだろうか?

3月11日以降、世上には海外をふくめて無数のニュースや意見が出ているわけだが、原発に関しては放射能汚染がこれ以上拡大することなく収束に向かってくれることを日々祈っているが、同時に、日本国内の原発はできるだけ早くすべて廃止して貰いたい、これからはもう原発に頼るという考えは一切捨ててほしいと切に願わずにいられない。50年代後半だったか、それとも60年代に入ってからだったか、「人間が地球と調和して生存することができないのなら、人類の滅亡も仕方がない。」と言ったのは正宗白鳥だが、そう言ったとき白鳥の頭のなかでは、農薬を含む化学物質の氾濫や開発と称しての森林伐採や戦争・核実験など、人間による地球環境破壊の問題が大きな位置を占めていたことは確かだったと思う。この期に及んで与謝野馨経済財政担当相のように原発政策の見直しについて「将来も原子力は日本の社会や経済を支える最も重要なエネルギー源であることは間違いない」と述べるなどは、はたして正気の沙汰なのだろうか。今のままでは、私たちは後の世代に巨大な負の遺産のみを残すことになるだろう。

個人的に気になったことの一つで、すでにいくつかのブログで取り上げられている件なのだが……。震災以後、佐藤優氏はネット配信の【佐藤優の眼光紙背】において「国家翼賛体制の確立を!」とか「大和魂で菅直人首相を支えよ」「福島原発に関する報道協定を結べ」などと1930年代の大本営さながらの檄を飛ばし続けている。もちろん、佐藤氏のことだから、こういう内容の主張をするのではないかと初めからおおよその予測はつくことだが、実際に危機を乗り切るための翼賛体制の必要性を力説した上で「この危機を乗り切るという明確な目的意識をもって筆者も言論活動を行う。」という宣言文を読むと、やれやれ、この人はこれから先もこういう演説をそこら中に撒き散らすつもりなのかと「ゾゾ~ッ」と寒気がしてきた。内容が、愚劣なだけでなくひどく有害だと感じるからだ。

「報道協定を結べ」という文章を一読すると、佐藤氏とは一部マスコミのいう「知の巨人」などとはまるで逆の知性の持ち主ではないかとつくづく思えてくるが、また、この人が如何に深く私たち一般大衆をばかにしているかを痛感する(注)。その度合いが常識の限度をあまりに大きく超えているために滑稽感さえ漂っているように思える。政府とマスコミは「報道協定を結べ」という佐藤氏の主張には、「由らしむべし、知らしむべからず」という本音があからさまに現われているのは確かだが、今回の原発大事故の背景にも、このような根拠のない優越感、人間的驕慢が根深く存在しているのではないか、大いに共通点があるのではないかとも思う。

「国家翼賛体制の確立を!」という主張にいたっては、かつての東条英機か松岡洋右の発言かと見紛うようである。ひょっとしたら、佐藤氏には彼らの亡霊が憑りついているのではないか?

佐藤氏は金光翔さんに提訴された裁判で、金さんが論文「<佐藤優現象>批判」のなかで佐藤氏のある主張を「人民戦線」と要約したことに対して、「人民戦線」という言葉は「歴史上の概念」であるから、論文の要約は不当であるという主張をしていたが、しかし「歴史上の概念」というなら、それは「人民戦線」にではなく、「(国家)翼賛体制」という言葉にこそ該当するのではないだろうか。佐藤氏は、

「翼賛について『広辞苑』(岩波書店)を引くと<力をそえて(天子などを)たすけること>と解説されている。太平洋戦争中の翼賛政治会や翼賛選挙の負の意味に引きずられずに、日本人1人1人が、民主的手続きを経て日本の政治指導者に選出された菅直人首相を助けることが重要である。」

と述べているが、これはいつもながらの詭弁だと思う。辞書で調べるのなら、なぜ「翼賛」だけではなく、ここで自身が強調している「翼賛体制」をもきちんと調べないのだろう。「翼賛体制」とは、挙国一致体制で侵略戦争にのめり込み、ついには無謀な真珠湾攻撃で破局に突き進んだ軍国日本の固有の歴史以外の何物でもないはずだ。佐藤氏は「翼賛政治会や翼賛選挙の負の意味に引きずられずに」というが、「引きずられずに」とはどういう意味なのか。そんなことを言うのなら、「国家翼賛体制」という言葉から「負の意味」以外の何を引き出すべきなのか、きちんと記すべきだろう。

良きにつけ悪しきにつけ、人間は誰でも生まれ育った社会環境の影響を受ける。だから伝統や慣習などのうち人に自然に身に付くものは身に付き、内部に蓄積されるものは蓄積されるだろう。けれども、その自然な領域を超え、強制の色合いを帯びて「愛情」「忠誠」「翼賛」「国益」などという概念が人に介入してくれば、その対象が国家であれ、郷土であれ、組織であれ、人間であれ、歪みが生じるのは避けられないように思う。日本の戦前・戦中の歴史こそがそのことを明確に証明しているのではないだろうか。そもそも、言論による痛烈な批判をうけて言論による反論もできないばかりか、批判を潰すために裏で動き回るような人の口から「国家翼賛体制の確立を!」とか「報道協定を結べ」などの偉そうな物言いが出ること自体おかしなことなのだが、むしろ、そういう行為をする人だからこそ、上のような檄が出るのかも知れない。

また、佐藤氏は3月20日の【佐藤優の眼光紙背】に「リビア情勢の東日本大震災からの復興に与える影響を注視せよ」と題して、日本政府が米・英・仏などによるリビアへの軍事介入を支持したことを

「国際社会は「大震災による被害と福島第一原発の危機に直面していても、日本政府は国際問題をきちんとウオッチし、迅速に反応することができる。国家機能は麻痺していない。日本は信頼に足る」という評価をしたことは間違いない。松本剛明外務大臣はセンスがよい。国益を守った。」

などと称賛し、一瞬これは官政権への指示命令なのかと錯覚するような下記の指摘もしている。

「これに加え、菅直人首相も同趣旨の見解を表明するとよりよいと思う。リビア情勢の進捗は予断を許さない。事態がより紛糾したときは、菅首相がオバマ米大統領、サルコジ仏首相、キャメロン英首相と電話会談を行い、日本としてもこれら諸国の行動を支持すると表明する必要がある。」

この記事では、こういう重大な問題を扱うとき筆者として必ず記述しなければならないはずの基本かつ肝心要の部分がすべて欠けていると思う。最悪なのは、自分がこの件に関する政府の方針をこれほど熱烈に支持する理由が何も記されていないことである。単なる言いっ放しであり、これではまともな言論とは言えないだろう。私などはリビアという国についてもカダフィという権力者についてもほとんど何の知識ももっていない。40年も独裁者として君臨していることや、息子など彼の一族が政権中枢を占めているところをみると、おそらく反体制派の人々が主張する国民への圧制や政治的腐敗・矛盾は存在するのではないかと推測はするが、たとえそうだったとしても、米・英・仏などの空爆は他国の主権侵害であることは事実だろう。彼らは「カダフィ政権による反体制派国民の武力弾圧をけん制し民間人を保護するため」と言うが、ベネズエラのチャベス大統領は「石油獲得だけが目的で、リビア国民の生命など全く気にしていない」と批判し、「攻撃に正当性はない」と述べている。キューバのカストロも同様の見方をしているようである。またエジプトを訪問中の潘基文国連事務総長は3月21日、カイロで「国連安保理決議に基づくリビアへの軍事介入に抗議するデモ隊に取り囲まれ避難する一幕があった。デモ隊はリビアの最高指導者カダフィ大佐の支持者らで、介入に参加した米国を非難するスローガンを叫ぶなどした。」(毎日新聞)とのことである。

それから、国連安保理の決議では一般市民が犠牲になることが明らかな空爆による武力攻撃までは論議もされず、認められもしていないという声もある。佐藤氏のように欧米の大国によるリビア攻撃を全面的に支持するというのなら、このような数々の疑問に進んで言及し、自分の考えを明確に説明することは論者として不可欠の責任ではないかと思う。

    …………………………………………………………………………………

(注) 佐藤優氏曰く、「冷静に考えると、論理などというのは、わが日本においては、総人口の5%ぐらいの世界でしか通用しないのではないか。95%は論理以外の形容し難い何ものか―観念だか、概念だか、刺激だか名指しできないもの―によって動いていると考えたほうがいい。そういう人々に対して、論理で物事を説明しようという発想自体が、そもそも間違っているのかもしれません。」(佐藤優著「国家論 日本社会をどう強化するか」(日本放送出版協会2007年)より抜粋)

論理の通じる5%のなかに自分自身が含まれているのは自明であるらしいのが、どうも…?。
2011.03.24 Thu l 東日本大震災 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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