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橋下徹大阪市長は、4月2日発売の『週刊朝日』(4月12日号)の記事「石原慎太郎代表の復帰と賞味期限切れで焦る橋下市長」に怒りを爆発させ、その結果、昨秋の同誌連載「ハシシタ・奴の本性」に関して同誌と発行元の親会社である朝日新聞社に対し、法的措置を講じる決意を固めたそうである。今回の記事というのは、最近の橋下氏について「行列のできる法律相談所」や「たかじんNOマネーGOLD」といったテレビ番組への出演が目立つことを紹介し、「焦ると政治家はネット番組ややわらかい番組に出たがるものです」とか「もう橋下さんでは視聴率がとれない。議員団とのドタバタ劇に大阪人は興味を示さない」などの第三者証言を紹介するなど、橋下市長の影響力の衰えを指摘したもの。

これについて、橋下氏は、「週刊朝日が僕に対して重大な人権侵害をやったのはつい半年前。そのことで公人チェックを緩める必要はないが、せめてそのような大失態をやったなら、真正面からの政策批判かルール違反行為の追及で攻めて来いよ。それを、こんな人をバカにしたような記事を載せやがって」「俺が知事になって今があるのは、行列のおかげだし、たかじんさんのおかげでもある。たかじんさんが復帰したと言うことで番組に伺って何が悪い」などとツイッターで怒りをぶちまけているが、週刊朝日のこの記事を一読したかぎりでは、確かに「真正面からの政策批判かルール違反行為の追及で攻め」た記事ではないが、かといって特に事実を捏造したり歪曲した「人をバカにした」というレベルのものにも見えない。書かれたほうにとってはもちろん愉快なものではないだろうが、まぁまぁ事実を客観的に記述しているといえるのではないか。これが「人をバカにしたような記事」だというのなら、自分のほうは常日頃もっともっと「人をバカにしたような」ことを連発しているのではないか? そういえば、この人は、スポニチ(3月22日)の記事「たかじん復帰を祝福した橋下徹市長」によると、

「 やしきたかじんの1年2カ月ぶり仕事復帰となった関西テレビ「たかじん胸いっぱい」収録では、親交のある橋下徹大阪市長がVTR出演し、「本当に復活おめでとうございます。大阪府民、日本国民が楽しみにしていたと思います」と祝福した。 」

とのことである。まあこれは「人をバカにした」とまでは言えないかも知れないが、「日本国民が楽しみに…」の一言には読んでいてそういうことを平然と口にできるこの市長の感覚にギョッとしたな。正直なところ…。この人のなかにはたかじん周辺がメディアの先端に位置しているくらいの認識がひょっとしたらあるのだろうか。

それはともかく、先日は、大阪市が行なった市職員への思想アンケート調査に対する大阪府労働委員会の決定に関して、橋下氏は自身が反省の弁まで述べて殊勝な(?)態度をとっているにもかかわらず、労組側が重ねてきびしい批判をしたというのでこの人は怒りを爆発させてたちまち態度を一変させたが、今回の週刊朝日の件も経緯は同様のものに思える。あのときも橋下氏は、「朝日新聞出版の篠崎充社長代行らから掲載の経緯に関する第三者機関の検証結果の報告や謝罪を受け」ると、「全て理解し、納得できた」、「僕の言いたかったことを理解した上で対応策も検討していただいている」と評価し、いったんは完全に鉾をおさめたのである。(こちら
出自をめぐるその記事とはまったく性質を異にする新たな記事にいくら腹が立ったからといって、一度「全て理解し、納得できた」と公言した過去の出来事を蒸し返して、「やっぱり提訴してやる」というのではまったく道理に合わない。提訴するのならあくまで今回の記事を対象にすべきだろう。

ところで週刊朝日の昨年の「ハシシタ・奴の本性」だが、あれは明確な差別的内容の記事だったことは明らかだと思う。もっと言えば、その前に出た週刊新潮や週刊文春の記事も同様に差別感に充ちたものだったろう。ただし週刊朝日が公人橋下氏の人間的欠陥を取り上げてそれをあからさまに出自と結びつけて記述していたのに対し、新潮・文春はそこまで露骨な表現はしなかったというに過ぎない。要はこちらの二誌は狡猾だったわけだが、ある特定の人物の言動を批判するにあたって、その批判に正当性があるという自信があるならば、その人物の出自を問題にする必要性はまったくないはずだ。というのも被差別部落出身であることはその人物が故のない差別を受けてきた一方的な被害者であることを意味するのであって、それ以外の意味は持ちえないだろう。それなのに、週刊朝日の連載では、橋下氏がいかに問題のある危険人物であるかを証明しようという目的のために橋下氏の出自を持ちだしているように見えた。新潮・文春もその意図をあからさまに出してはいないとしても執筆者は同様の意図をもっていたのではないだろうか。これでは、自分たちの批判の正当性を自ら投げ出していることにしかならないだろう。それだけではない。こういう記事を書いた以上、論理的には今後差別を批判する記事など書けなくなるだろう。いや、朝鮮学校の授業料無償化除外や補助金の打ち切り問題を見れば明白なように、現在のマスコミに差別を罪悪と捉える感覚・思考が衰弱してしまっているからこそ、あのような記事が出たのだと言えるようにも思う。そして現在週刊朝日に猛攻撃をしている橋下氏自身が先頭に立って差別的政策、言動に精を出していることはまぎれもない事実である。この人がこれまでずっと大阪府市の朝鮮学校にどれほど残忍な差別的仕打ちをつづけてきているか、市職員への思想アンケート調査もまたどんなに根深い問題をはらんでいることか。橋下氏はそれとこれとは違うなどの言い分は通用しないことを知るべきだろう。
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2013.04.09 Tue l 橋下徹 l コメント (1) トラックバック (0) l top
「軽い脳梗塞」のためひと月ほど入院していたという石原慎太郎氏(日本維新の会共同代表)は、3月30日久々に記者会見し、そのなかで「どうせみんな早く石原が死にゃあいいと思ってるんだろ。そうはいかねえぞ。俺が死んだら日本は退屈になるぞ」と述べたそうである。石原氏がいなくなれば日本が退屈になると思う人がいるのかどうか知らないが、以前の国会議員時代だったら、石原氏もそんな大口は叩けなかっただろう。かりに口にしたとしてもその言葉は浮くだけだったように思う。今回は「慎太郎節全開」などと書いた新聞もあったことだし、世間も別に冷笑視する風潮でもないようだ。別にあのころがよかったというわけではさらさらないが、こういう人物にこんなセリフを言われてしまうのが救いようのない現在の軽薄さと歪みだろう。当時と比較しても日本社会の変貌は深刻であることをいまさらながら感じさせられた。

軽薄なくせに歪んでいるといえば、会見で石原氏が次期参院選に「出てもらいたいねぇ、僕は」と発言していた維新の会共同代表・橋下徹大阪市長である。3月25日、昨年2月に全職員を対象に市長が先導して実施した「政治・組合活動に関する職員アンケート」について、労働組合法が禁止する不当労働行為に当たるとして、大阪府労働委員会は大阪市に対し、「今後はしない」との誓約文を組合側に渡すよう命令した。橋下市長はこの命令を受けていったん、「第三者機関の決定だから、厳粛に受け止めなければならない。これからはルールを守っていく」と述べて陳謝し、不服申し立てをしない意向を表明した。ところが、同日夕方になると、たちまち態度を一変。理由は、労働委員会の決定を受けて同じく記者会見を開いた労組側が「橋下市長がやってきたことは間違いだ」ときびしく批判したからだという。いわく、「組合の振る舞いを全部棚に上げて、鬼の首を取ったように謝れというのは違う。争うべきところは争わないと、全部組合の主張が通ってしまう」。橋下氏はきっと、めったに謝罪などしない市長たる自分、この橋下が素直に非を認めこれから態度を改めるとまで述べているにもかかわらず、重ねて批判されたことにいたくプライドを傷付けられて逆ギレしたのだろう。彼は自分の謝罪に対して労組が感謝してくれるとでも思っていたのではないか?こういう増長し切った人物に対しては、決して退いてはならない。相手はそれを狙って高飛車に出てくるのだから退いたら思うつぼなのだ。それにしても、私は今回初めて「政治・組合活動に関する職員アンケート」の全文を見たのだが、この内容は事前の予想をはるかに超えて凄まじいものだった。

まずはじめに、市長によって「このアンケートは任意の調査ではありません。市長の業務命令として、全職員に、真実を正確に回答していただくことを求めます。/正確な回答がなされない場合は処分の対象となりえます。」と述べられているのだ。この文面を素直に読んで脅しと受け取らない者がいようとはちょっと考えられないのだが、いよいよアンケートの本文に入ると、氏名、職員番号、所属部署、職種、職員区分を書けと指示している。それから、「組合活動に参加したことがあるか」「特定の政治家を応援する活動をしたことがあるか」「あるとしたら、それは誰かに誘われたのか、それとも自分の意思だったか」「職場の関係者から特定の政治家に投票するよう要請されたことがあるか」「紹介カードを配布されたことがあるか、あるとしたらそれをどのように処置したか」「組合の幹部は職場において優遇されていると思うか、その場合、それを指摘しづらい雰囲気があるか」などと(ただし、質問の仕方はです・ます口調)調査はそら怖ろしくもえんえんとつづくのである。憲法が保証している思想・信条の自由も、人としての侵すべからざる尊厳も何もあったものじゃない。ふと、ものの本で読んだ戦前の特高の取調べについての体験者の証言が思い浮かぶほどだ。実際、ああいうアンケート調査を断行することができる橋下氏一派の体質とはまさしくそういうものではないだろうか。普通の神経の持ち主ではこういうことはとてもできるものではないだろう。この「アンケートで精神的な苦痛を受けたとして、職員(一部元職員)ら55名が、大阪市に対し慰謝料として1人当たり33万円、総額1815万円の損害賠償を求める訴訟」をおこしておられるが、この裁判の勝利を切に祈る。(関連サイト

2013.04.02 Tue l 橋下徹 l コメント (1) トラックバック (0) l top
「  入れ墨調査実施せず、橋下市長が市教委を批判
 橋下徹大阪市長は25日、市教育委員と意見交換し、「プライバシー侵害のおそれがある」などとして市教委が入れ墨調査を実施しないと決めたことについて 「入れ墨のある教職員がいたらどう責任を取るのか」などと強く批判した。
 調査は橋下市長の発案で市長部局の全職員に実施。だが市教委の同意が得られず市立学校の教員らには行われていない。橋下市長は「行政職員より、教職員に入れ墨がある方が 『ちょっと待ってくれ』というのが保護者の感覚」と主張。「教委は労務管理の責任者であることを認識してほしい」と迫った。
 これに対し、教委側は「学校では過去に入れ墨関連の不祥事はない。魔女狩りのような調査は信頼関係を崩す」などと反発した。」 (朝日新聞 2012年5月25日)

大阪市教育委員側が主張するとおり、入れ墨調査は「魔女狩り」に他ならない。調査をした結果かりに入れ墨を施している教職員が存在したとしたら、橋下氏はその人をどうしようというのだろう。血祭りに挙げて当面の話題にでもするつもりなのか。しかし、入れ墨をしている人がいようといまいと、調査の執行自体が、教育現場の環境と人間関係を根底のところで破壊するだろう。教職員、生徒、保護者はそれぞれ心の深部に傷を負うだろう。それほどこのアイディアは非情かつおぞましいものである。2、3ヶ月前、大阪のどこかの中学校の卒業式では、君が代斉唱の際、校長サイドは教職員が起立しているかどうかの監視だけではあきたらず、きちんと声を出して歌っているかどうかの口元チェックを行なったのだという。

その報道は今思い出しても心が暗欝になるおぞましい話であった。人の心のなかに土足で入り込む、という表現があり、このことの非人間性についてはよく批判の的になるが、口元監視については他人の心のなかに土足で入り込もうとすると同時に、口という他人の身体のなかまで監視し、スキあらば侵入しようとする蛇のような執拗さが感じられた。この入れ墨調査はその延長線上の出来事である。君が代、入れ墨ときて、次はどんな挑発・脅迫が待っているのだろう。そのうちご真影への敬礼とか言い出してもおかしくはない流れ・雰囲気である。政府や自治体の長による国民・住民へのどんな憲法違反が行なわれてもマスコミにはそれを指摘し検証する職業意識も気概もない。現状は好き放題やりたい放題の者の天下である。いったい口元チェックだの入れ墨調査だのを、対象の意思を無視して平然と実行する政府や自治体が世界のどこに存在するのだろう。学校の入学・卒業式に国歌を歌うという国さえ私は聞いたことがないのだが、歌わなければ処罰という国が他にどこかにあるのか、マスコミは調査して教えてほしいものである。

児童・生徒は、日々学校で多くのことを学んで成長していかなければならない存在である。そういう児童・生徒は自分たちが日々教わっている教師が国歌斉唱で監視されたり、入れ墨調査などをされているのを見て、何を感じるだろうか。教師が人間としての尊厳、個人としての個性にまったく敬意を払われていないことは明らかなのだから、そういう教師を子どもたちが心底から尊敬したり慕うことが可能だろうか。多かれ少なかれ、その心情に翳りが生じることは避けられないように思う。橋下市長は、市教委に対し、「入れ墨のある教職員がいたらどう責任を取るのか」などと強く批判したそうだが、「入れ墨のある教職員がいた」からといって、その教員が入れ墨を盾に人を脅したり、犯罪を犯したりするのでなければ、何の問題もない。昔、小説家の永井荷風は女性の名前を腕に彫っていたそうだが、慶應大学で講義をしていた。入れ墨がある人間が教壇に立つのはけしからぬなどと愚劣でヤボでギスギスしたことを言う人間はいなかったようで幸いであったが、ここでももちろん市教委は何の責任もとる必要はなく、むしろ市教委に向かって的はずれにも「どう責任を取るのか」などと脅し文句を口にする市長のほうに無視できない問題がある。

橋下市長は「行政職員より、教職員に入れ墨がある方が『ちょっと待ってくれ』というのが保護者の感覚」とも主張したそうだが、もちろん行政職員に対する入れ墨調査もとんでもない暴挙である。橋下市長の場合、やることなすこと、人権侵害、憲法違反の疑いの濃厚な行為・発言の連発である。そういう橋下氏の言行を支持する人は、自分が日々安全に暮らしていけるのは、まがりなりにも、法によって、とりわけ憲法の各条文によって人権の保証がなされているからだということを自覚したほうがいいと思う。 たとえその行動に憲法違反・人権侵害の恐れがあろうとも橋下氏を支持するというのでは、自分は今後人権侵害などの、どんな理不尽な目に遭ってもかまわない、甘受すると述べていることに等しいのではないか。

橋下市長は「保護者の感覚」を勝手に決めつけて「入れ墨調査」に執念を見せているが、この姿勢は実に不気味である。保護者および大人の感覚として、私は入れ墨調査など決してやってほしくないという気持ちでいっぱいである。学校の先生には子どもに学ぶことのおもしろさを教えてもらいたい、どの子どもも差別なく受け入れてやってほしいなど希望はいくつもあるが、入れ墨がその人の身体のどこかにあるかどうかなどまったくどちらでもいいことである。自分とは異なる他者にそのような関心の持ち方をするのは不健全であり、非礼きわまりないことであろう。

それにしても、 そんなことをすれば「プライバシー侵害のおそれがある」「魔女狩りのような調査は信頼関係を崩す」と、当然予想される常識的な指摘や忠告を人にされていながら、それに一顧だにしないで非合理かつ邪悪な自己主張を繰り返すことのできるリーダーというのは始末におえないと思う。最低限必要な論理も倫理も持ち合わせていないことがあまりにも明白だからなのだが…。
2012.05.26 Sat l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
1週間ほど前のことになるが、橋下徹氏が口にしたと言われる発言の正確なところを確かめようとしてネット検索をしていたところ、北村隆司という人の次の記事に行き当たった。

 「反「ハシズム」学者が橋下市長に勝てない理由―私の分析」

このなかに、非常に驚かされたことに、橋下徹大阪市長をインドのマハトマ・ガンジーになぞらえて論じている箇所があった。執筆者の北村氏によると、「理念と原点が確りしてい」る橋下氏の戦略は、ガンジーの「塩の行進」に似たものがあるというのである。その文章を以下に引用させていただく。

………………………………

「 橋下さんは、自分の理念と原点(オリジナルインテント)が確りしていますから 、何処から攻められてもぶれません。又、間違ったと思えば直ぐ訂正し、知らない事は素直に知らないと認めるのも、いさぎよいのではなく、そうしないと原点が崩れるからです。

彼の戦略は、ガンジーの「塩の行進」戦略に似たものがあり、反ハシズム学者とはスケールが違います。

インドの独立運動の重要な転換点となった塩の行進は、英国植民地支配を支える収入源だった塩の専売制度に運動の焦点を絞った、ガンジーの天才的な戦略ですが、橋下市長の「新しい統治機構」を目標にした「都構想」戦略と通ずる物があります。

塩の専売制度は、誰でも海岸地域で作れるにもかかわらず、一般人が塩を作る事を禁じ、違反者には刑事罰を課し、労働者が金を払って塩を買う事を強制した制度で、日本の霞ヶ関と良く似た統治機構でした。

ガンジーが塩の専売制度に抵抗の焦点を絞った事は、地域、階層、宗教、人種的な境界を越えた共感を呼び、インド人大衆を広く動かすのに十分な力を発揮しま した。

「都構想」は、これまでの個別政策中心の「対症療法」から、諸悪の根源である 「官僚制度」と「中央集権」を追放する「根本療法」への戦略転換の象徴で、英国の統治機構を追放する事を目的とした「塩の行進」の役割りを果たすものです 。

ガンジーの基本的な考え方の一つであるサッテイヤーグラハとは、サッティヤ(真実)とアーグラハ(説得)とを統合したものですが、これも、橋下市長の基本型で、朝から生テレビの論争で圧勝を呼んだ秘密兵器です。国民は、現場の「真実」なしの理屈だけの「説得」には騙されなくなったのです。 橋下市長の見逃せないもう一つの才能に、「特定の立ち場に立って、そのあるべき姿を代弁する」アドヴォカシー能力があります。この能力は「課題」を中心に「問題点」を分析し「適正手段」を選択する、客観的な論議には欠かせない能力です。

内田樹教授はその著書で「アメリカの初期設定のように、理念に基付いて建国されていない日本には、立ち帰る原点がない」と指摘し、国政に於ける原点の重要さを強調されましたが、橋下市長の強みの源泉として、個々の政策の良し悪しではなく、原点を持った稀な政治家である事も見逃せません。

視聴者の圧倒的多数が、橋下市長との論争で山口、香山、薬師院各教授が完敗したと判定した理由は、弁論技術の巧拙ではなく、理念の有無と現場把握力の差です。」

………………………………


このような発想がなされ、このような文章が書かれうるとは私は思っていなかった。「ガンジーの基本的な考え方の一つであるサッテイヤーグラハとは、サッティヤ(真実)とアーグラハ(説得)とを統合したものですが、これも、橋下市長の基本型で、朝から生テレビの論争で圧勝を呼んだ秘密兵器です。」などと、執筆者は本気で考えているのだろうか? ガンジーと、「朝から生テレビ」(「朝まで生テレビ」の誤りだと思うが)や橋下徹氏とを並べて論じているが、最初のほうを少しばかり観たあのテレビ番組の内容を思い出すと、双方の気の遠くなるような隔たりにいまさらのように気づかされる。「 彼(注;橋下大阪市長)の戦略は、ガンジーの「塩の行進」戦略に似たものがあり 」って、「似たものがあ」るなどとこの文章の書き手がもし本当にそう思って記述したのなら、そんなことを思っているのは世界広しと言えどもこの人だけだろう。現在橋下氏を熱烈に支持している人々のなかにはあるいはそうだ、そうだ、と唱和する人がいるかも知れないが、けれども本心からそんなことを思う人間はまずいないだろう。なぜなら誰もが知るようにガンジーの「塩の行進」の目的は自分たちの国インドを長い強固なイギリスによる植民地支配から解放し、独立をかち取るためであった。ガンジーの人生も人格も政治的活動もそのすべては過酷な植民地支配からの国の独立、人々の解放に捧げられたものであり、ガンジーという人が私たちの内に敬愛の念を呼び覚ましたり、その言葉、行動が崇高さを感じさせずにおかない理由の第一はそのためであろう。

一方、橋下氏はどうか。自国が長い間植民地にして言葉や名前を奪い、人々を村ごと焼き払う、教会ごと焼き払うなど残虐のかぎりを尽くした朝鮮に対して謝罪の気持ちなどは一片もなく、朝鮮学校の補助金問題への対応や北朝鮮に対する「ナチス」「暴力団」などという罵倒を見れば分かるように、侮辱のかぎりをつくしている。世界のあちこちでナチスに比されているのは過去の日本であって北朝鮮ではありえないことを知らないのだろうか。ひょっとしたらこの人は潜在的に自分に対していだいている評価を、どんなことを言っても大事には至らないのだから言いたい放題口にしてもかまわないと思っている(らしい)北朝鮮に向けているのではないかという気がする。たまにツイッターの文句をみることがあるが、そう言いたくなるほどにその発言内容は異様である。

このように植民地支配に対して強者が弱者を支配して何が悪い、くらいにしか考えていないことが明白な酷薄かつ薄っぺらいお調子者にすぎない人物を、北村氏は植民地支配に対して持続的で賢明な戦いを挑みつづけた20世紀の偉人の一人であることは間違いないであろうガンジーに並び比べているのだ。本当に恥ずかしいことである。ガンジーが、①1939年インドを訪問した賀川豊彦に向かって、②また1942年には公開状「すべての日本人に」において、言葉の端々に対象への行き届いた配慮をにじませながらも、日本の行動について、対日感情について何と言ったか、 「世界の名著 ガンジー ネルー」訳・蠟山芳郎(中央公論社1967年)から以下に引用しておきたい。

 ① 「あなたがた日本人は、すばらしいことをなしとげたし、また日本人から、私たちは多くのことを学ばなくてはなりません。ところが、今日のように中国を併呑したり、そのほかぞっとするような恐ろしいことをやっていることを、どのように理解したらよいのでしょうか。」

 ②-1 「まず初めに言わせてもらえば、わたしはあなたがたにいささかの悪意も持っていません。けれどもわたしは、あなたがたが中国に加えている攻撃を非常にきらっています。あなたがたは、崇高な高見から帝国主義的野心にまで降りてきてしまいました。あなたがたは、野心の達成には失敗してアジア解体の張本人となり、知らず知らずのうちに世界連邦と、同胞関係をさまたげることになりましょう。同胞関係なしの人間は、いっさいの希望をもてなくなってしまうのです。」

 ②-2 「こうした楽しい回想(引用者注:日本山妙法寺の僧侶たちとの共同生活や交流を通じての日本人への高い評価)を背景にもっていたので、あなたがたが、わたしには理由のないものに思われる攻撃を中国に加えたこと、そして報道が正確だとすれば、あの偉大な、そして古くからの国を無慈悲に荒らしてしまったことを思いだすたびに、わたしは非常に悲しく思います。」

 ②-3 「さらに私たちは、あなたがたやナチズムに劣らず私たちがきらっている帝国主義国に反抗しなくてはならないという、特殊な立場にあります。帝国主義に対する私たちの反抗は、イギリスの人々に危害を加えると言う意味ではないのです。私たちは彼らを改心させようとしています。イギリスの支配に対する非武装の反乱です。今、この国の有力な政党(会議派のこと)が、外国人の支配者と決定的な、しかし友好的な闘いを交えています。しかし、このことで、外国からの援助を必要としてはいません。あなたがたのインド攻撃がさし迫っているという特定の瞬間をねらって私たちが連合国を困らせているのだというように、あなたがたは聞かされているということですが、それはたいへんまちがった情報です。もしも私たちが、イギリスの苦境を乗ずべき好機にしようと欲しているのならば、3年前、この大戦が始まったときに、すでに私たちは行動していたはずです。イギリス勢力の撤退を要求する運動を、けっして誤解してはいけません。事実、報道されるように、あなたがたがインドの独立を熱望しているならば、イギリスによってインドの独立が承認されることは、あなたがたにインドを攻撃させるいかなる口実もいっさいなくしてしまうはずです。さらに、あなたがたの言うことは、中国に対する無慈悲な侵略と一致していません。
 わたしは要請したい。もしも、インドから積極的な歓迎を受けるだろうと信じようものなら、あなたがたはひどい幻滅を感ずるという事実について、けっしてまちがえないようにしてください。イギリス勢力の撤退を要求する運動の目標とねらいは、インドを自由にして、イギリス帝国主義であろうと、ドイツのナチズムであろうと、あるいはあなたがたの型のものであろうと、すべての軍国主義的、帝国主義的野心に反抗する準備をインドに整えさせるためです。
 もし私たちがそういう行為に出なければ、私たちは世界の軍国主義化をただ傍観している見下げた奴に堕落してしまうのでしょうし、また、非暴力こそ軍国主義的精神と野心とに対するただ一つの解毒剤であろうとする、私たちの信念を無視することになってしまうでしょう。」

上記のようなガンジーの公開状の文面について、訳者の蠟山芳郎氏は、「ガンジーは、インドが独立を獲得するのに他国の援助を欲していないこと、世界大戦を利用する考えをもたないこと、この際イギリスをインドから撤退させることこそ、インドが大戦争の渦中にまきこまれない保証であること、などを慎重に考えたうえで非服従運動を起こしたことをていねいに説明しているのだが、神経の荒っぽい日本政府ならびに軍当局からは、なんら関心をひきだせなかった。」と書いている。


以上見てきたように、北村氏が橋下大阪市長をガンジーに並べて持ち上げようとしている行為は単に恥を知らない人物の行為というしかないように思う。北村氏は、おそらく橋下氏をナチズムに譬えた「「反「ハシズム」学者」に対抗してガンジーを持ち出したのだろうが、これはあまりに歴史を、また読者をなめた行為であって、一片の説得性も持っていないことは明白だろう。

ところが、このような一種詐欺まがいのことをやっているのは北村氏だけではないのだ。同じくインドのジャワーハルラール・ネルーの発言に対しても日本のあるタイプの人々は、自分の主張に都合のいい部分のみを選んで引用し、ネルーの発言の趣旨とはまったく異なる意味内容にしてしまっている。以前同様のことを「新しい教科書をつくる会」も行なったと聞いたことがあるが、次の『日本に学べ』という記事もそうである。(強調のための下線はすべて引用者による)

「 「日本が勝ちました。大国の仲間入りをしました。アジアの国、日本の勝利は、全てのアジア諸国に計り知れない影響を与えたのです。少年の私がこれにいかに興奮したか、以前、あなたに話したことがありますね。この興奮はアジアの老若男女全てが分かち合いました。欧州の大国が負けました。アジアは欧州に勝ったのです。アジアのナショナリズムが東の国々に広がり、『アジア人のためのアジア』の叫び声が聞こえました」(筆者訳)。
  インドのネルー首相は、少年の頃、日露戦争での日本の勝利を知った。インドがまだ英国からの独立運動を行っていた頃のことだ。冒頭の一節は、ネルーが後年に書いた「娘に語る世界史」の一節である。娘とは、のちにネルー首相の後を継いでインドの首相になったインディラ・ガンジー首相だ。上野かいわいの日本の小学生たちは、戦後に上野動物園から象や猛獣がいなくなっていたことを嘆き、象を送ってくれるようにネルー首相に手紙を書いた。ネルー首相の贈り物は、まな娘の名をとったインド象「インディラ」であった。」

私の40有余年の外交官生活で得た感想は、日本ほど世界中で尊敬され、好かれている国は少ないということだ。(略)」


上の文章中、下線を引いた部分は、原文においてはおそらく下記の文章の下線部分と同一箇所ではないかと思う。執筆者は文中で明らかな嘘をついているわけではない。しかし、この部分だけを引用してすましていることは作者および読者に対して完全に不誠実であろう。この文章のすぐ後には、「ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけくわえたというにすぎなかった。」という真に重大な言葉がつづいているのだから、これを抜かしての引用ではネルーの意図したところが読者には全然伝わらない。それどころか、読者はネルーの意図とは逆の内容を教えられることになる。以下に「みすず書房」の大山聰氏の訳文をもう少し長く引用しておく。未読の方はぜひ読み比べていただきたく思う。


「 父が子に語る世界歴史 4(ジャワーハルラール・ネルー著・大山聰訳)(みすず書房1959年初出)
 117 日本の勝利 1932年12月30日
 日露戦争は、1905年の9月のポーツマス条約でおわった。ポーツマスは、アメリカ合衆国にある。アメリカ大統領が両当事国をそこに招いて、講和条約が締結されたのだった。この条約によって、日本はとうとう旅順港と遼東半島をとりかえした。日本が中国との戦争後に、これらを放棄しなければならなかったことは、おぼえていることと思う。日本はまた、ロシアが満州に建設した鉄道の大部分と、日本の北方によこたわるサハリン(樺太)の半分をとった。さらにロシアは、朝鮮にたいするいっさいの権利を失った。
 かくて日本は勝ち、大国の列にくわわる望みをとげた。アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとなが、おなじ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国はやぶれた。だとすればアジアは、そのむかし、しばしばそういうことがあったように、いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。ナショナリズムはいっそう急速に東方諸国にひろがり、「アジア人のアジア」の叫びが起こった。しかしこのナショナリズムぱたんなる復古でも、旧い習慣や、信仰への固執でもない。日本の勝利は、西洋の新産業方式の採用のおかげだとされている。この、いわゆる西洋の観念と方法は、このようにして、いっそう全東洋の関心をあつめることになった。

 118 中華民国 1932年12月30日
 日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかを、われわれはみた。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は、朝鮮の没落を意味した。日本は開国の当初から、自己の勢力範囲として、すでに朝鮮と、満州の一部に目をつけていた。もちろん、日本はくりかえして中国の領土保全と、朝鮮の独立の尊重を宣言した。帝国主義国というものは、相手の持ちものをはぎとりながら、平気で善意の保証をしたり、人殺しをしながら生命の尊厳を公言したりするやり方の常習者なのだ。だから日本も、朝鮮にたいして干渉しないと、ものものしく宣言した口の下から、むかしながらの朝鮮領有の政策をおしすすめた。対中国戦争も、対ロシア戦争も、朝鮮と満州を焦点とする戦争だった。日本は一歩一歩地歩を占め、中国が排除され、ロシアが敗北したいまでは、あたかも無人の野を行く観があった。
 日本は帝国としての政策を遂行するにあたって、まったく恥を知らなかった。ヴェールでつつんでごまかすこともせずに、おおっぴらに漁りまわった。1894年、日清戦争の開始直前に、日本人は朝鮮の首都ソウルの王宮に腕ずくで押しいって、日本の要求を聞き入れなかった女王〔閔妃〕を廃して、幽閉した。日露戦争後、1905年に朝鮮国王は、むりやり朝鮮独立の放棄をみとめさせられ、日本の宗主権を受けいれた。しかしこれでもたりず、5年もたたないうちに、この不幸な国王は廃され、朝鮮は日本帝国に併合された。これは1910年のことだった。3千年以上にわたる長い歴史をもつ独立国としての朝鮮はほろびた。廃位された国王は、5百年まえにモンゴル人を駆逐した王朝〔李氏朝鮮〕に属していた。しかし朝鮮は、その長兄と仰いだ中国とおなじく、罰金を支払わなければならなかった。
 朝鮮――この国は、古い名称で呼ばれることになった。朝の爽やかさという意味だ。日本はいくらかの近代的改革をもちこんだが、容赦なく朝鮮人民の精神をじゅうりんした。長いあいだ独立のための抗争はつづけられ、それは、いくたびも爆発をみた。なかでも重要なのは、1919年の蜂起であった。朝鮮人民――とくに青年男女――は、優勢な敵に抗して勇敢にたたかった。自由獲得のためにたたかう、ある朝鮮人団体が正式に独立を宣言し、日本人に反抗したばあいなどは、かれらはただちに警察に密告され、その行動を逐一通報されてしまった! かれらはこうして、かれらの理想に殉じたのだ。日本人による朝鮮人の抑圧は、歴史のなかでもまことにいたましい、暗黒の一章だ。朝鮮では、多くは大学を出たばかりの、若い少女が、闘争の重要な役割を果たしていると聞いたら、おまえもきっとこころをひかれるだろうと思う。 」
2012.05.18 Fri l 橋下徹 l コメント (2) トラックバック (0) l top
先日(5月9日)、佐藤優氏が「週刊文春」の最新号で、橋下徹大阪市長がもしも総理大臣に就任するとしたらそれを支持するか否かというアンケートに答えて、自分は支持する、と語っているというブログ記事を読んで、一瞬のけぞってしまった。いくら何でもそんな無節操なことを…? などと言ったらわざとらしいかも知れない。これまでの佐藤氏の言動を見れば節操とか正直とか一貫性とか羞恥心なんてものを氏に求めても仕方がないことは多くの人の目にすでに明らかだろうから。それでも、佐藤氏が橋下氏について「新潮45」( 2011.12月号 )という雑誌で「状況対応で向こう岸に渡ろうとしている現在の日本によくいるひ弱なエリートの一人に過ぎない 」「支離滅裂なひ弱なエリートである橋下徹氏の素顔を描く方が、この政治家をめぐる神話を脱構築する効果がある」と語っていると聞いたのはついこの間(とはいえもう5、6ケ月前のことになるが)のことだった。「新潮45」でのこの佐藤氏の発言を最初に知ったのは私の場合こちらのブログによったのだが、ブログ主のZED氏は、この発言について「それにしても、佐藤優が橋下に対してあんな事を言ってるとは思わなかった。」と述べつつ、

「とは言え、佐藤の親分である鈴木宗男(ヤクザ用語で言う所の現在「社会不在」中)の、そのまた親分格である小沢一郎が橋下に対して「つかず離れずで行け」として裏で手を組むそぶりをしている事から、多分佐藤は時期を見て橋下に媚を売る方向へ転換するだろう。とりわけ橋下が選挙に負けていたならともかく圧勝してしまった以上、佐藤ら小沢一派は急速に橋下一派への接近とゴマすりを始めるはず。 」

と記述されていた。私は橋下氏を「ひ弱(なエリート)」とする佐藤氏の見方は的はずれの度が過ぎていて奇異な感じをうけた(橋下氏は誰が見たって、(佐藤氏と同様に)「ひ弱」とは言えないだろう。)ものの、「佐藤ら小沢一派は急速に橋下一派への接近とゴマすりを始めるはず」とのZED氏の見方には「?」と感じた。この疑問は佐藤氏が口にする政治信条と橋下氏のそれとが異質だなどと考えた上でのことでは全然なく(後に述べるが、私はしばしば佐藤・橋下、両氏の言動に共通性を感じてきた。)、佐藤氏とその周辺の人々が形成しているらしき人間関係を思い浮かべてのことである。「フォーラム神保町」の仲間であるはずの山口二郎氏や香山リカ氏が現在盛んに橋下批判を繰り広げている以上、また佐藤氏が金光翔さんに提訴された民事裁判での代理人が、かつて橋下氏がテレビで視聴者に向かって懲戒請求を煽動したことで大きな被害を被ったことが明白な光市事件弁護団の弁護人である以上、佐藤氏も内心はどうあれ、また鈴木宗男氏(小沢一郎氏)絡みの何らかの思惑が存在するにしろ、当面さすがに橋下擁護の言論は口にしない、できないのではないかと思ったのだった。でもこうなってみると、そんな考えは甘過ぎたということである。

山口二郎氏、香山リカ氏などが橋下氏についてその言動のファシズム性を「ハシズム」と呼称して(編集者の発案かも知れないが。)批判していると聞いたとき、とっさに思い浮かんだのは、正直なところ、「見事なまでの二重基準」「厚顔無恥」というような言葉であった。橋下氏の言動に対して真っ先にファシズム性を指摘・批判している山口氏や香山氏は、佐藤優氏という、橋下氏とほぼ同様の排外主義・民族差別主義的言論活動を展開してきた人物にこれまでどう対応してきたのだろう。一言でも批判するどころか、金光翔さんの「「佐藤優現象」批判」のような論考が出ても完全無視し(この論考については当然知っていると思う。)、明らかにこれを「タブー」として取り扱い、佐藤氏と仲良く行動を共にしてきた人たちである。そういう自分たちのこれまでの行為について、橋下=ファシズム批判を行なっている現在、どう考えているのだろう。佐藤氏の言説や自分たちの行動にはフッァショ的な要素はなかったと考えているのだろうか。

しかし橋下氏を問題視するだけの思考の働きを備えていながら、自分のすぐ側にいる佐藤氏の同種の傾向に疑問を持たないという感覚や思考構造は私には理解不能である。佐藤・橋下というこの2人の言動や、そこからかいまみえる世界観には、もしかすると2人の異質な点を挙げたほうが早いかも知れないというほど、共通点が多いように思える。下に挙げる「眼光紙背」の各文章のタイトルを見ただけでもおおよそ判るのではないかと思うが、これらの掛け声は場合によっては橋下氏の口から出てもおかしくはないのではないだろうか。

じつは上で引用させてもらった「新潮45」もふくめてここで取り上げる佐藤優氏の原文に目をとおしたのは今回がはじめてである。 ここ1年ほど、私は活字媒体における佐藤氏の文章はほとんど読んでいなかった。ネット上の「眼光紙背」はたまに見ていたが、内容は相変わらずで(例:「アメリカに対して異議申し立てをきちんとする野田佳彦首相を外務官僚は全力で支えよ」 2011年11月15日 )、投稿頻度はめっきり少なくなっている。昨年の3月11日以後、「国家翼賛体制の確立を!」「大和魂で菅直人首相を支えよ」「福島原発に関する報道協定を結べ 」「頑張れ東京電力!」など立て続けに発表した記事の内容があまりに醜悪だったため、批判に晒されこそすれ(こちらこちら)、表だってはさすがに誰もこれを評価はしなかったようである。それに加えて岩波書店の「世界」への寄稿が中断されたままのせいもあるのだろう、もうさして活発な言論活動は行なっていない印象を受けたこともあり、わざわざ雑誌や著書に手を伸ばす気にはなれなかった。(強調の下線はすべて引用者による。)

この機会に「新潮45」や最新号の「週刊文春」(久しぶりに週刊誌を買ったら、380円にもなっていて驚いてしまった。)やネット上に出ているものなど、佐藤氏の文章をいくつか読んでみた。どれも相変わらず佐藤氏らしいハッタリの効いた発言揃いだと思ったが、このうち山口二郎氏の2012.1.16日付Twitterでの発信「佐藤優さんが橋下の本質はマッカーシズムだと看破してました」には特にそう思った。

山口氏の「佐藤優さんが橋下の本質はマッカーシズムだと看破してました 」との口調には佐藤氏の慧眼に感心しているというような気配があるが、「新潮45」掲載の橋下氏を論じた佐藤氏の文章の題は「「反ファシズム論」では彼に勝てない」である。いわく、ファシズムの先導・煽動者は弱者に優しいが、橋下氏は弱者に優しくない。また橋下氏は「大阪府知事に就任してから、大阪府中の労働組合連合会や教職員組合と対決姿勢を鮮明にし、結果として組織された労働者の団結を強化している。ファシストはこのような間の抜けた戦術をとらない。」などと、ファシズムの理論家だったというマラパルテという人物の「クーデターの技術」(イザラ書房)という著書に全面的に依拠して「橋下=非ファシスト」と主張し、「橋下氏は、ファシズムを構築する意思もインフラも持たない。状況対応で向こう岸に渡ろうとしている現在の日本によくいるひ弱なエリートの一人に過ぎない。実態から懸け離れた反ファシズム論を展開し、橋下氏の幽霊政治を恐れるよりも、スキャンダリズムを最大限に駆使し、支離滅裂なひ弱なエリートである橋下徹氏の素顔を描く方が、この政治家をめぐる神話を脱構築する効果があると筆者は考える。」と結論づけている。

しかし多くの人と同様、私も橋下氏にはもちろん強烈にフッァショ性を感じさせるところがあると思う。学校の教職員に対して処分で恫喝して君が代斉唱を押しつけたり(おそらくこれがいたく石原慎太郎東京都知事の気にいったのではないか)、ついには斉唱している教職員の口元の監視という世にもおぞましい行動に打って出てみたり(監視を実践した校長はこれが橋下市長の意に添うと考えたのだろう。しかしこれは途轍もないレベルでの人権侵害であり、人間の尊厳の全否定であり、それと同時に古今東西の「歌」というもの総体への他に考えられないほどの侮辱であろう。)、その前には大阪府内の朝鮮学校に補助金の廃止で恫喝して教育内容への干渉を企んだり、北朝鮮・朝鮮総連との関係の転換を迫ったり、そのようにして児童・生徒を初めすべての朝鮮学校関係者、在日朝鮮人全体に不当な心労を舐めさせておきながら、結局補助金の多くを削っている。橋下氏のこういう施策およびこういう施策を行なっているにもかかわらずその支持率が高いというところに私もフッァショ性を感じる。でもまぁファシズムの定義はさまざまに存在するようなので、佐藤氏が「橋下氏は、ファシズムを構築する意思もインフラも持たない。」と言うのなら、それに対してあえてケチをつけたり、取り合おうとは思わない。しかし「新潮45」であれだけ明確に橋下氏のファシズム性を否定した佐藤氏が「橋下の本質はマッカーシズム」と述べたというのはまったく解せないことである。それでは、マッカーシズムはファシズムと無関係・無縁の主義だというのが佐藤氏の理解ということになるが、これはどう考えてもおかしいだろう。この佐藤発言はネットでも見ることができる。

「 佐藤優氏 橋下徹氏の成功はニヒリズムを克服できるかどうか
 過去のどの政治家と比較すると橋下氏の特徴が鮮明になるだろうか。筆者は、1950年代の米国で活躍したジョセフ・マッカーシー上院議員(1908~1957年)との類比で現在の橋下氏を考察している。マッカーシー上院議員が展開した「赤狩り」(共産党員もしくはその同調者と見なされた者への激しい攻撃)は、マッカーシズムと呼ばれたが、これに橋下市長の手法は親和的だと思う。
 米国のジャーナリスト、リチャード・ロービアは、〈マッカーシーは重要な意味での全体主義者ではなかったし、反動でもなかった。こういう用語は主として社会的、経済的秩序にかかわるものだが、かれは社会的、経済的秩序には全く関心がなかった。
 マッカーシーが思想、主義、原理の領域においてなにものかであったとするなら、一種のニヒリストであった。かれは根っからの破壊勢力、 革命的ビジョンなき革命家、理由なき反逆者であった〉(R・H・ロービア[宮地健次郎訳]『マッカーシズム』岩波文庫、 1984年、16頁)と指摘した。
 マッカーシズムの嵐が吹き荒れたのは、わずか4年間に過ぎなかった。外交・防衛政策にポピュリズムを持ち込んだマッカーシーは、国益を害する存在になったので、政治、経済、メディアのエリートによって放逐されたのである。
 しかし、マッカーシズムによって反共主義が定着し、社会に寛容さがなくなった。橋下氏が敵を探し出し、それと対決する手法を取り続けるならば、いずれかの段階において、 政治舞台から排除される。聡明な橋下氏はそのことに気づいているので、方向転換を考えていると思う。その成功は、橋下氏がニヒリズムを克服できるか否かにかかっている。(※SAPIO2012年5月9・16日号)」

「聡明な橋下氏」ねぇ。半年前は「支離滅裂なひ弱なエリート」と評していたというのに…。それはともかく、私はこれまで佐藤氏とは異なり、マッカーシズムはファシズムの一種である、少なくともファシズムの特徴をさまざまに備えた主義主張だと理解していた。こういう理解は別に珍しくもないごく一般的なものと思うのだが? たとえば、 加藤周一と鶴見俊輔の対談を収めた 「20世紀から」(潮出版社2001年)でもマッカーシズムは話題にされているが、加藤周一はマッカーシズムについてナチスのホロコーストと比較して「(イデオロギーが絡むと)正義は全面的にこちら側にあるから、反対意見はぜんぶ間違っている。そういう人間はいないほうがいいということになる。マッカーシズムも物理的に殺したわけではないけれども、通底するものがあるんです。」と述べている。

佐藤氏が引用している『マッカーシズム』という本を私は読んでいないが、この本の著者はマッカーシズムについてファシズムとは異質の主義だと述べているのだろうか。おそらく誰にしろそんなことを言う人物はないないと思うのだが? そもそもマッカーシーがニヒリストだったとしても、そのことは彼がファシストでなかったことの証明にはならないはずだ。また佐藤氏はSAPIOや文春で、「現時点までの橋下氏の政治手法を見る限り、社会的弱者に対する優しさ、排外主義の両要素が欠如している。橋下氏をファシスト視する言説が説得力を持たないのは、分析する対象の実態と噛み合っていないからだ。」(「SAPIO」2012年5月9日号)と述べている。朝鮮学校への対応を見れば橋下氏に「社会的弱者に対する優しさ」が見られないのは事実だが(とはいえ、ご本人は公務員叩きをすることで、公務員一般を既得権益者とみなして反感をもつ層に優しさを現しているつもりかも知れない。)、しかしこの朝鮮学校のケースは(佐藤氏の主張とは逆に)排外主義の要素を橋下氏が存分に備えていることを明白に証明している。「説得力を持たない」のは佐藤氏の言説のほうだろう。こうしてみると、橋下氏に関する佐藤氏の発言内容はまさしく下記の指摘のとおりではないだろうか。

「 ただ、上記文春記事をちょっと読んでみると「橋下は石原慎太郎と違い、これまで排外主義を政治的カードにしていない」といった内容の事を佐藤は書いていたが、これもまた全くの嘘ハッタリもいい所だ。朝鮮学校への補助金カットは? 北朝鮮や総連を暴力団やナチスになぞらえた事は? 橋下はこれまで充分すぎるほど排外主義を政治的カードに悪用してきた。それこそ石原慎太郎並みに。

佐藤から橋下へのおべんちゃらコメントは、やはり相変わらずの嘘ハッタリと露骨なゴマすりにまみれた「佐藤節」全開であった。何しろ差別主義者に対して 「あなたは差別主義者じゃありませんから安心して下さい」というのだから、これほど橋下の琴線に触れる言葉はあるまい。石丸次郎や在特会の例を見るまでもなく、この手の差別主義者連中ほど「自分は差別主義者じゃない」と主張したがるものなのである。」
2012.05.14 Mon l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
「 堺市の竹山市長が「大阪都構想」について「議論する協議会に参加しない」と表明しま した。
 大阪市の橋下市長は「平松前市長と同じ」と堺市長を批判しています。
 松井大阪府知事、橋下大阪市長のもとを訪れた堺の竹山市長。
切りだした内容は…
 「2月の議会で(協議会設置の条例を)上程させていただくことは、今回は難しい」 (堺市 竹山修身市長)
 「大阪都構想」について話し合う協議会への参加を見送るというのです。
 「大阪府と堺市の間に二重行政ないと思ってます。今の政令都市よりさらに権限と財源がほしい」(堺市 竹山市長)
 政令市に昇格してまだ6年の堺市が、「大阪都」によって分割されるのは納得できないという竹山市長に対し、橋下市長は…
 「非常に残念です。平松前市長が言っていた主張と竹山市長が同じことを言い始めた。『独自で行くんだ』と。首長(市長)になってしまうと、独自でやりたくなってしまう」 (大阪市 橋下徹市長)
 あきらめきれない橋下市長は、今後も粘り強く、竹山市長に協議会への参加を呼び掛けたいとしています。」 (02/03 22:38) (MBS 毎日放送)

上の報道のように堺市の竹山市長は大阪都構想の協議から降りると表明したそうだが、これは自然の成り行きではないかと思う。別の報道記事によると、市長は都構想に対して「民意もない」とも述べたそうだが、普通に考えてそのとおりではないだろうか。というのも、私は神奈川県在住の者だが、もしも川崎や横浜という都市が人口が多すぎる、二重行政で不効率だ、などの理由で消滅させられて県によって吸収・分割されるという話が出てきたとしたら相当な戸惑い・抵抗感をおぼえるにちがいないと思う。愛着( 住民にとって愛着の程度は府(県)と市(町村)では具体性において差異がある)も無視できないが、それよりも、権限も財源もこれまでよりずっと縮小させられ、端的にいって自主権を奪われることになるのだ。たとえば、政令指定都市の場合、府県知事を通さずに独自に国と交渉ができるそうだから、その権限の大きさと自治体としての独立した性格が分かろうというもの。都構想は堺市の側に立って考えてみれば、ほとんどメリットのない話のように思われる。これは大阪市にしても同様ではないだろうか。

村上弘氏の「『大阪都』の基礎研究 ー橋下知事による大阪市の廃止構想ー」によると、専門家の間では、東京都制は太平洋戦争の勃発がなかったらおそらく実現できなかっただろう、と言われているそうである。1943年の都制導入は戦争遂行のための国民統制・支配の必要上それまでの東京市より東京都という集権体制のほうが国にとって都合がよいという理由によるもので、決して住民の福利や生活向上、東京の発展のためではなかったということである。また先進国にかぎることだが、東京都のような都区制度を採用している大都市は世界のどこにも見られないそうだ。そりゃあ、基礎自治体の当事者にとっては権限も財政も他の一般的な自治体より小規模にさせられるのだから勘弁してもらいたい制度だろう。東京都特別区は現在も法人税、市民税の徴収の権限は付与されておらず、東京都から配分してもらっているのだ。戦後の東京の発展は都制度によるものではなく、首都機能によるものであることは明らかであるように思われる。

橋下氏は「平松前市長が言っていた主張と竹山市長が同じことを言い始めた。 『独自で行くんだ』と。首長(市長) になってしまうと、独自でやりたくなってしまう」と述べているが、この言い方はじつにヘンだし、平松・竹山の両氏に失礼だろう。もし、これまで府と大阪・堺市が合併してそれなりに実績を積み上げて上手くいっているところに市側が基礎自治体として独立したいと言い出したのならまだ橋下氏の言い分も分からなくはないが、これまで大都市自治体として実績を積んできた市に対して合併を強硬に言い出したのは知事時代の自分のほうだったろうに。このような無神経で自分勝手な言い分を聞いていると、橋下氏こそ府知事になったことで大阪市や堺市が持つ権限や財産を府のものにして『独自にやりたくなった』のではないかと言いたくなる。

もちろん橋下氏は都構想について大阪全体の発展のためと称しているし、主観的にはそうにちがいないだろう。が、堺市長は「大阪府と堺市の間に二重行政ないと思ってます。」とも発言している。この発言からは、そもそも都構想が生じた原因の一つであったはずの「二重行政の除去」について府と市の間できちんと詰めるというような作業はこれまでやったこともないし、大まかな共通認識さえ築いてきていないらしい様子が伺える。してみると、橋下氏が大阪市を(可能ならば堺市も)廃止しなければ大阪全体の発展につながる政策はできないという政策とはどのようなものなのか? 第三者は本人に具体的な構想を語ってもらうしか知りようがないし、これだけ重大な課題なのだから橋下氏にはもうそろそろ公的にきちんと語る必要も責任もあるだろうと思う。
2012.02.04 Sat l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
何かと最悪の出来事つづきだった2011年ももうすぐ終りですね。今年一年、拙い記事を読んでくださった方、ブログなどで取り上げて評してくださった方、厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。

3.11以後、これだけの事故が起きたのだから、危機感で政治も少しは良い方向へ変わるのではないかという期待をもったのですが、菅さんが少し頑張ったという印象はあるものの、以後むしろ事故前より悪くなったように思えます。来年はもっときびしい日々になるかも知れませんが、皆さんどうぞよろしくお願いします。これは今年最後のエントリーです。代わり映えのしない内容ですが、お読みいただければ幸いです。


   1
オール・ジャパンで(対談・野田佳彦×小島慶子 )
小島:では、数ある税金の種類の中で、なぜ《消費税》なのですか。社会格差が広がる中、格差の上の方にいる人達からたくさん吸い上げて、それを、チャンスに恵まれなかったり、とても弱い立場に追い込まれている人たちに回すようにするのが先なのではないでしょうか。皆が負担する消費税より、「お金がたくさん有る人からまず取る」タイプの 税目もあるのでは?
野田:どなたにも、社会保障は必要になります。人生の前半の段階では子どもを持つ若い方への子育て支援、 また、人生老いていく時には、年金、医療、介護が必要になってまいります。だから、特定の誰かではなく世代を越えてオール・ジャパンで、公平感がある税金で《お互いに支え合う》んです。今回の震災では、支え合う強い絆が生まれましたが、社会保障もまさにそうで、保険料と税金等で、世代を越えた支え合い制度を構築するんです。 」

野田首相はこれまで自ら執り行なう政策について有権者にまともな説明をしたことはなく、珍しく口を開いたと思えばこんな調子である。諺に「物言えば唇寒し秋の風」とか 「言わぬが花」とかいうのがあるが、これらは野田さんにはまさにピッタリの格言のように思える。だから口を開かないようにしているのかも知れないが(?!)、「オール・ジャパン で」、「公平感がある税金で」って、貧乏人には「公平感」なんてさらさらないですよ。「不公平感」の次元を超えて、3年後、5年後、はたして無事に生活していけるのだろうかと不安にかられているのですが。まして今年は東日本大震災、大津波、原発の炉心溶融による放射能洩れ事故が起きた年である。被災して家族や家や仕事を失った人々には日々このような増税はじわじわと効いて生活を圧迫することになるのだ。それにしても「オール・ジャパンで」という言い方はあんまりだろう。毎日新聞のこちらの記事を見ても「税と社会保障の一体改革」はやはり「消費増税と社会保障の更なる切り捨て」に他ならないのだ。消費増税の問題だけではない。アレヨアレヨという間もない27日の武器輸出禁止3原則の緩和決定といい、ここ数日の沖縄・辺野古アセス評価書の搬入方法といい、この政権は何か非常に不気味である。


   2
同じことをやろうじゃないか(対談・石原慎太郎知事×橋下徹市長:教育の破壊的改革を追求)
 橋下 今の教育行政は組織になっていない。政治的中立性の名のもとにコントロールが利かない状態。ここの組織化を考えて教育基本条例案を出したが、文科省は「橋下が言ってることは法律違反」と言ってきました。それなら法律違反と言われる条例をつくって、国民的議論を巻き起こすしかない。
 石原 (職員に向かって)おい、大阪の条例を取り寄せろ。同じことをやろうじゃないか。 」

石原都知事は大阪市長選で橋下市長の対立候補を応援した与野党幹部が、橋下氏との会談では歓迎ムードだったことについて、「こびを売ってみっともない」と切って捨てたそうだ。確かに石原氏はわざわざ大阪まで橋下氏の選挙応援に行ったのだから(これはあるいは自分の息子である自民党幹事長の考え・立場が絡んでいるのかも知れないと思うが。)与野党幹部と同列には扱えないが、この対談内容は「こびを売って」いるかどうかは微妙だが、たいへん「みっともない」ことでは与野党幹部たちとあまり変わりないように私には思える。今さらながらではあるが、この対談における石原氏の発言は何れも石原慎太郎という人物がとことん底を打って低劣になっているということを証明しているのではないだろうか。 教育基本条例案についての橋下氏の狭量で底の浅い話を聞いて、「おい、大阪の条例を取り寄せろ。同じことをやろうじゃないか」って、一体何という反応だろう。このような暴君二人が学校に対して現在以上にさらに抑圧を強めていくことは、児童・生徒・教員・保護者の精神・生活から喜びや解放感を根こそぎ奪い、窒息させ追い詰めていくことになるだけだろう。

だいたい、石原氏は高校時代学校をよく休んだり、教師に反抗したというようなエピソードをエッセイに書いていたと思うのだが? それに弟は典型的かつ徹底的な不良少年だったのでしょう? また橋下氏は子沢山らしいが、家で育児に関わったことは全然ないとテレビで話しているのを聞いた記憶がある。このように、自分ができもしないことを他人には強引に一方的に押し付け(この教育基本条例案は保護者に対し一方的に責任や義務を課している。)、 恫喝さえ繰り出して支配しようとするのは恥知らずのやることであり、したがって教育現場にとって二人は最悪最低の首長というしかないだろう。 実際に二人が話している内容には子ども、教師、保護者の心情や環境や立場をいくらかでも慮った言葉はただの一つもない。窺えるのは、自分たちがどうやったら学校と学校関係者を効率的にコントロールし、羊のごとく従順な学校集団に作り替えて支配できるかという一念だけである。こういう首長にかぎって朝鮮学校は北朝鮮や朝鮮総連に支配されているから補助金を出さないなどと教師・生徒・児童を執拗に恫喝し、それをまた臆面もなく実行に移すのだ。このような行動・姿勢を指して一般社会では支配と呼ぶのである。教育基本条例案提示と朝鮮学校への補助金排除は彼らの本質の二つの顕れではないかと思う。

対談のなかで、石原氏は「僕が橋下さんを評価するのは、僕と同じ考え方だからなんだよ。」と言い、橋下氏はどういう意味だか「滅相もない。」と笑える返事をしているが、 条例案に対する教師や親たちの切実な不安や不信を思えば、まったくいい気なものだと感じる。どの新聞でだったか、少し前に、この教育基本条例案に関するアンケート調査に対して教員の9割が反対と答えたという記事を見たが、以下の記事は毎日新聞からの引用である。

「 維新の条例案について、全国の教育関係者は一様に否定的だ。特に現役の教師からは、厳しい批判の声が上がっている。
 栃木県立高校の30代の男性教諭は「教員にも生徒にもまったくためにならない」と言い切る。「教員は自分の評価を高めることにきゅうきゅうとし、同僚と協力しなくなり、クラス編成で成績の低い子を押しつけ合うことにもなりかねない」とし、学校の雰囲気の極端な悪化を予想。「そんな職場で働きたくない」と話した。東京都の市立小に勤める 男性教諭(34)は東京の実情と比較しながら「石原都政の10年余りで、都教委が教員への管理を強めた結果、特に若手は現場の状況に即していない指示でも、そのまま従うようになった。大阪もそうなるのでは」と懸念。「問題教員もいるが、背景に過密な労働環境があることも知ってほしい。処分強化で学校は良くならない」と訴える。

 千葉県内の公立高校の50代の男性教諭は条例案について「まず『罰』ありきの印象。教育の質向上が目的なら、処分より研修の充実が先ではないか」とし、統廃合も「定員割れを一方的に努力不足と評価するのは乱暴。結果的に行き場のない子供が増える」と疑問視する。しかし「今の学校には批判をはね返す力はない。生徒が活躍することで、教師の仕事を理解してもらうしかない」とも話した。」

「都教委が教員への管理を強めた結果、特に若手は現場の状況に即していない指示でも、そのまま従うようになった。」という話には憂うべき傾向がはっきり出ていると思う。数日前には愛知県知事も維新の会の教育基本条例案に賛同の意を表明したとのこと。これら教育現場破壊首長たちをどうにかして弾き飛ばしたいものである。


   3
命をあやめるのが今のルール上難しいなら、公務員の絶対的身分保障をなくしたい。
 橋下 命をあやめるのが今のルール上難しいなら、公務員の絶対的身分保障をなくしたい。
 石原 まったくですね。
 橋下 警察や消防、自衛隊は別としても、通常の公務員は役所で仕事をしているだけですから、絶対的身分保障を外したい。今回の職員基本条例案も処分や分限免職をもっと活用するというもの。楽で安定した仕事をしたいんなら民間へ、つらくて不安定でも公の仕事をしたいなら公務員に、という価値観にしなければならない。公務員の世界と大戦争になると思いますが。
 石原 クビの心配がない仕事なんて、滅多にない。アメリカも政権が変わるとワシントンの役人が半分ぐらい変わる。日本はほんとに安穏としている。 」

はて? 上記の「命をあやめる」という発言はどんな意味なのだろうか。脈絡もなく、突然こんな言葉が出てきたのには驚かされるが、橋下氏にとっては「命をあやめる」ことと「公務員の絶対的身分保障をなく」すことは等価だとでもいうのだろうか。これに対する「まったくですね。」との相づちもヘンだ。やはり似た者同士? 大阪市交通局では現在物凄い数の早期退職希望者が出ているそうだが、こんな発言を年中聞かされるのでは、さもありなん、と思う。しかし、公務員の絶対的身分保障なんて言い方はまったく不正確だと思う。一般論でいえば、確かに公務員は民間企業に比べて身分が安定してはいるだろうが、人間、明日のことは誰にも分からない。思いがけず病気になることも、事故や犯罪に巻き込まれることもないとは言えず、解雇や自ら退職しなければならないことだって起こりえるだろう。

先日大阪の府か市における公務員のボーナスの平均額が新聞に出ていたが、そんなに驚くほどの額ではなかった。あれでは子どもの教育費や家のローンなどがあれば生活にさほど余裕があるわけでもないように思えた。それにもかかわらず、公務員よりはるかに豊かであろう橋下氏がその地位について「絶対的身分保障」などと称して公務員を既得権益者の代表のごとくに叩くのは、彼らを敵にしつらえて大衆感情を刺激することで、府民を自分に引き付けようとする策略に過ぎない。公務員の労働条件が悪化すれば、民間企業でも経営者にさらなる賃下げなど付け入るスキをあたえるだろう。これでは働く者同士の共食い状態を招くだけではないだろうか。橋下氏はこのようにやたらと人に解雇をほのめかして脅しておきながら、一方では、「大阪市の最高意思決定機関として新設された市戦略会議の2日目の会議が24日、開かれた。生活保護について橋下市長は「ルールは守らなければならないが、受給認定は厳しくしてほしい」と注文した。」(産経12月24日)そうである。現状、生活保護の認定はどの地域でも非常にきびしいと聞く。受給者の半数は老人だというし、他は病人であるなどよほどの事情がないとまず認定してもらえないそうである。橋下氏はどしどし解雇はしたい(発言を聞くとそうとしか思えない。)、生活保護は受給させたくない、という自分の姿勢に矛盾は感じないのだろうか。生活保護の受給認定を厳しくせよ、と橋下市長に言われた以上、担当者には今後相当のプレッシャーがかかることだろう。これもまた橋下氏の他の行為と同様、「百害あって一利なし」の類いのことのように思える。
2011.12.31 Sat l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回につづき、大阪府の「教育基本条例案」について検討するつもりなのだが、その前に、日本経済新聞(12月13日)に載っていた「橋下氏、大阪市の公募区長「ダメだったらクビに」 市長に罷免権与える制度目指す」という記事に触れておきたい。「19日に大阪市長に就任する橋下徹氏は13日、市内24区で導い入する区長公募で、実績を上げられない区長については、市長が任期途中で罷免できる制度設計を目指していることを明らかにした。」「区長は2012年4月に就任予定。任期は4年。橋下氏は「区長には市長と並ぶくらいの権限や責任を与えるが、ダメだったらクビになる。これができれば公務員制度は変わる」」と発言したとのことである。

橋下徹という人物は、ここでも「ダメだったらクビ」と述べているように、自ら何かの行動を起こすたびごとに必ず、「~したらクビ」「~しなかったらクビ」と特定の対象に対する懲戒解雇をいとも簡単に、声高に主張する。 教育基本条例案と職員基本条例案の二つがまさにそうであるが、ある個人に対してその生計の糧を奪う重大処分である「クビ」宣告を行なう権限を、別の個人はたとえそれが首相であろうと持っていない。 実際、歴代の首相が特定の誰かにクビ、解雇と公的に主張したことなどなかったはずである。橋下氏は区長公募に際して任期途中の区長罷免制度を設けるのなら、その場合は当然任命責任も問われるべきであろう。橋下氏のように憲法の指し示す精神などは頭から考慮の外、自分の支配欲を満足させるための歪つな制度作りに腐心し、府職員など他人の馘首についてはまったく心痛めるふうもなく平気の平左、そのくせ自分の失敗の責任については寸毫も負うつもりのない得手勝手な首長では救いようがない。もっとも責任ということについていくらかでも解っている、あるいはよく考えている人間なら他人にクビ、クビ、と軽率に口ばしったりしないだろう。だいたい、上の場合の「ダメ」の基準は何なのか。それを決める以前に「クビ」を決めるのは本末転倒、これでは「初めにクビ(の脅し)ありき」であろう。このような手法で何をやろうと事態の悪化は必然、良くなることは決してないだろう。

それでは、「大阪府教育基本条例案 (平成23年10月5日・大阪府議会提出版)」について、感じたこと、気になったことなどを述べていきたいのだが、条文の何れをとっても重大な問題含みであることが明白なこの条例案のなかでも最も注目すべきは、何といっても「第2章 各教育関係者の役割分担」 だと思われるので、この内容から検討したい。

「(基本指針)
第5条 府における教育行政は、教育委員会の独立性という名目のもと、政治が教育行政から過度に遠ざけられることのないよう、選挙を通じて民意を代表する議会及び知事と、 府教育委員会及び同委員会の管理下におかれる学校組織 (学校の教職員を含む)が、地方教育行政法第25条に基づき、適切に役割分担を果たさなければならない。」

条例案は、上記のように「政治が教育行政から過度に遠ざけられることのないよう…」という文句を記している。「過度に」という語句を用いているところをみると、政治は基本的には教育行政から遠いものであるべきこと、また政治が「教育委員会の独立性」を侵害して教育に介入することは「教育基本法」「地方教育行政法」によって厳に戒められていることを大阪維新の会はきちんと認識しているようである。一方、条例案は、 議会・知事・教育委員会・教職員を含む学校組織の四者はおのおの「地方教育行政法第25条に基づき、適切に役割分担を果たさなければならない」とも主張している。そこで「地方教育行政法第25条」は誰にどのような役割分担を定めているのかを以下で見てみたい。

「(事務処理の法令準拠)
第25条 教育委員会及び地方公共団体の長は、それぞれ前3条の事務を管理し、及び執行するに当たつては、法令、条例、地方公共団体の規則並びに地方公共団体の機関の定める規則及び規程に基づかなければならない。 」

役割分担を定めているのは、上記の25条ではなく、その「前3条」のようである。では「前3条」を以下に引用する。

「(教育委員会の職務権限)
第23条 教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務で、次に掲げるものを管理し、及び執行する。
 1 .教育委員会の所管に属する第30条に規定する学校その他の教育機関(以下「学校その他の教育機関」という。)の設置、管理及び廃止に関すること。
 2.学校その他の教育機関の用に供する財産(以下「教育財産」という。)の管理に関すること。
 3.教育委員会及び学校その他の教育機関の職員の任免その他の人事に関すること。
 4.学齢生徒及び学齢児童の就学並びに生徒、児童及び幼児の入学、転学及び退学に関すること。
 5.学校の組織編制、教育課程、学習指導、生徒指導及び職業指導に関すること。
 6.教科書その他の教材の取扱いに関すること。
 7.校舎その他の施設及び教具その他の設備の整備に関すること。
 8.校長、教員その他の教育関係職員の研修に関すること。
 9.校長、教員その他の教育関係職員並びに生徒、児童及び幼児の保健、安全、厚生及び福利に関すること。
 10.学校その他の教育機関の環境衛生に関すること。
 11.学校給食に関すること。
 12.青少年教育、女性教育及び公民館の事業その他社会教育に関すること。
 13.スポーツに関すること。
 14.文化財の保護に関すること。
 15.ユネスコ活動に関すること。
 16.教育に関する法人に関すること。
 17.教育に係る調査及び基幹統計その他の統計に関すること。
 18.所掌事務に係る広報及び所掌事務に係る教育行政に関する相談に関すること。
 19.前各号に掲げるもののほか、当該地方公共団体の区域内における教育に関する事務に関すること。

(長の職務権限)
第24条 地方公共団体の長は、次の各号に掲げる教育に関する事務を管理し、及び執行する。
 1.大学に関すること。
 2.私立学校に関すること。
 3.教育財産を取得し、及び処分すること。
 4.教育委員会の所掌に係る事項に関する契約を結ぶこと。
 5.前号に掲げるもののほか、教育委員会の所掌に係る事項に関する予算を執行すること。

(職務権限の特例)
第24条の2 前2条の規定にかかわらず、地方公共団体は、前条各号に掲げるもののほか、条例の定めるところにより、当該地方公共団体の長が、次の各号に掲げる教育に関する事務のいずれか又はすべてを管理し、及び執行することとすることができる。
 1.スポーツに関すること(学校における体育に関することを除く。)。
 2.文化に関すること(文化財の保護に関することを除く。)。
2 地方公共団体の議会は、前項の条例の制定又は改廃の議決をする前に、当該地方公共団体の教育委員会の意見を聴かなければならない。 」

以上、地方教育行政法の各条文を読んでいけば解ることだが、この法律は教育委員会に対し公立学校(小・中・高)の組織編制から学校の設置・管理・廃止、教育委員会・学校・その他の教育機関の職員の任免その他の人事に関することなど、実に幅広い職務権限を認め、あたえている。それに比較して、「地方公共団体の長」の権限は一目瞭然、関与できる範囲も内容もきわめてせまく限定されている。第24条が規定している長の職務権限は、大学、私立学校に関すること、教育財産の取得と処分、教育委員会の所掌に係る事項に関することの契約締結、教育委員会の所掌に係る事項に関する予算を執行すること、の5項目である。 第24条の2は、スポーツと文化に関する長の権限を規定しているが、このうちのスポーツに関する規定では、「(学校における体育に関することを除く) 」というただし書きが付されている。法律は、「地方公共団体の長」の学校教育に対する具体的・直接的な関与をまったく予定していないし、認めてもいないのだ。地方教育行政法が定めている「地方公共団体の長」の職務権限のうち、学校教育に重大な作用・影響をあたえるのは、また長自身の教育に対する思慮や情熱や世界観などが如実に現れるのは、もちろん24条5項の予算の執行のあり様においてだろう。

橋下府知事が教育行政にどのような予算の執行・配分をしてきたのかは、大阪教職員組合(大教組)の教育文化部長・田中康寛氏の証言を基にこちらに書いた。吉田氏の証言どおり、橋下府知事が教育予算を削って削って、また削り、の連続であったことは、他のいろいろなブログをみても間違いないことのようである。たとえば、こちらのブログ記事。

▼教育関連費を大幅削減
●1年期限の「定数内」講師を急増。 07年4206人(9・2%)→10年5780人(12・ 3%)
●私学経常費助成を大幅削減。 11年度は小学校50%、中学校35%と削減幅を拡大。高校は 昨年同様10%を削減。小学校への1人当たりの助成額は、府は11万5千円 で全国最低レベル(国標準30万円)に
●学校警備員補助を廃止。09年度は交付金化(5億円)→11年度からゼロに。橋下知事 「子どもの安全は府の仕事ではない。学校設置者の市町村の仕事」(10年9月議会答弁)。府の補助廃止に伴い2011年度は9市町村が廃止
●さらなる府立高校統廃合を計画。「3年続けて定員割れの学校は廃校」(教育基本条例案)

●府立高校教務事務補助員等を雇い止め。年収約120万円の非正規労働者348人を、08年度末までで雇い止め(4億4千万円)
●センチュリー交響楽団補助金を廃止。07年度4億1864万円→09年度1億1千万円→11年度廃止
●国際児童文学館(吹田市)を閉館  」

上記7項目のうち、下段の3項目は教育予算には入らないのかも知れないが、広義の意味では大いに教育に関係するだろう。理科の実験の準備などで補助員の存在は欠かせない、これでは教師はますます激務に追われることになり、そのしわ寄せは結局生徒に行く、というある先生の嘆きを読んだことがある。また、小学生のなかにも特別に音楽が好きな子、本を読むのが好きな子がいる。その傾向を楽団や児童文学館はよりいっそう深め、伸ばしてやることができるだろう。また多くの子どもが音楽や読書の楽しみを知る契機になることも多かっただろうに…。

それから橋下府知事は就任した一年目から障害児の教育予算もバッサリ20パーセント削減したそうである。障害児児童が減少しているというならまだしも大阪では1999年以後の10年間で 6000人も増加しているそうである。 大阪府立障害児学校教職員組合(府障教)の福田徹委員長によると、「大阪の(一般の小・中学校にある)障害児学級の在籍数は、08年度1万2760人で、前年度比1242人増と、99年度と比べ、この10年間で6000人も増えるなど、増加の一途を辿っています。その学級で働く看護師も非正規雇用で、時給は1000円前後と、まさに官製ワーキングプアです。支援学校の在籍数も6090人で、前年度比226人増。多目的室や作業室、理科室、図工室、教具室などを普通教室に転用したり、中には、テラスを間仕切りして教室に使っているところもあります。」という。このような状態であるにもかかわらず、いくら請願しても府は支援学校を増設しようとしない。前回、 修学旅行の引率教師の食事代が削られて自費になったことを書いたが、これは障害児学級の宿泊学習の場合も同様だという。

「予算削減と付き添い教員の食事代が自費になったため、できるだけ安いところにすべく行き先を変更したり、あるいは中止した学校もある。出張旅費も削られたため、生徒の就労のための企業訪問も一日で何カ所も回らなければならず、「一日のうちに家庭訪問に行って、企業訪問にも行って、学校に帰ってきなさい」という状況になっているという。 また、生徒は電動車イスなので、バスもリフト付きバスになって、その分、バス代の上乗せとなり、旅費予算を圧迫するという。 宿泊する場合、食事も普通食ではなく、刻んだり、アレルギー除去食などにしてもらえるのは一部のホテルに限られるため、当然、割高になって足が出るので、これもまた、宿泊費の上乗せになるという。学校管理費は、平均して200万~400万円の削減。このため、水道光熱費も10パーセント削減。バスのガソリン代も削らなければならず、これからなにが起こるかわからないという。
 プールも、9月までやっていたが今年はやめたとか、水を入れ替えるオーバーフローの回数を減らしたり、夏はクーラーも子どもが帰った後は切るようにするなど、職場環境も悪化しているという。これまで節約して捻出したお金でつくっていた、子どもに合わせた教材も、今後はつくれなくなってくるという。 水が大好きな子どもは、水を流しながら遊ぶことが多いが、それもできなくなる。これまでにも、学校の修繕費やコピー代、大型ごみの処理回数を減らしてきた支援学校では、「こんだけやってるのに、これ以上、どないして減らすんや!」と怒りの声が上がっているという。」(一ノ宮美成+グループk21著「橋下「大阪改革」の正体」講談社2008年12月)

このようにしてまで教育予算を削った分がどこに行ったのかは明確でないようなのだが、ぜひ詳細を知りたいものである。橋下府政の3年半で府の負債は4000億円程増えたそうだが、これは財界の要請による、しかも無駄な公共事業などに使われているという声もあるのだ。

いずれにせよ、橋下氏の教育行政に対する向き合い方や行動には、健全な良識も知性も情熱もまた子どもに対する大人としての最低限の包容力も感じられない。橋下氏はこれほど大幅な教育予算の削減を行なって学校関係者を苦しめておきながら、なお、「教育基本条例案」に見るごとく、教員の相対評価を強行しようとしたり、懲戒免職の言辞で脅したり、ついには、高等学校・支援学校の教育目標を定めるのは知事であること、教育委員会と学校長はその目標を実現するための具体的施策を講じなければならないとまで言い出している。条例案の該当箇所を下記に引用する。

「(知事)
第6条 知事は、府教育委員を任命する権限のみならず、地方教育行政法の定める範囲において、府内の学校における教育環境を整備する一般的権限を有する。
2 知事は、府教育委員会との協議を経て、高等学校教育において府立高等学校及び府立特別支援学校が実現すべき目標を設定する。

(府教育委員会)
第7条 府教育委員会は、前条第2項において知事が設定した目標を実現するため、具体的な教育内容を盛り込んだ指針を作成し、校長に提示する。
2 府教育委員会は、常に情報公開に努めるものとし、府内の小中学校における学力調査テストの結果について、市町村別及び学校別の結果をホームページ等で公開するととも に、府独自の学力テストを実施し、市町村別及び学校別の結果をホームページ等で公開しなければならない。

(校長及び副校長)
第8条 校長は、前条第1項の提示した指針をもとに、学校の具体的・定量的な目標を設定したうえ、当該目標の実現に向けて、幅広い裁量を持って学校運営を行う。
2 校長は、学校運営を行うに当たり、具体的計画を提示して、府教育委員会に当該計画を実行するための予算を要求することができる。
(略) 」

問題の第6章2項の「知事は、府教育委員会との協議を経て、高等学校教育において府立高等学校及び府立特別支援学校が実現すべき目標を設定する。」という文言だが、この3年半、橋下知事は予算の大幅削減など教育界に対して世にも無慈悲な施策をしておきながら、今度は府立高等学校及び府立特別支援学校が実現すべき目標を自らが設定する、と主張しているわけである。どうも悪い冗談としか思えないが、橋下氏とその周辺は本気なのだからとことん恥を忘れた人たちの集まりなのだろう。そもそも「実現すべき目標」の内容については何の説明もない。その時々の知事の考え方一つに委ねられるということだろうか。こんな戯れ言のようなものを実現すべき目標として押し付けられる学校・生徒はたまったものではないだろう。この条文には強烈な支配欲とともに思考の稚拙さ・粗雑さとがいり混じっていて、そのせいか私には狂気じみたものに感じられる。

新聞報道によると、文部科学省は「知事が教育目標を設定する」と定めた維新の会提出の教育基本条例案について、地方教育行政法に基づき「職務権限に属さない目標の設定について知事が規則制定できない」と指摘。また、教育委員が首長の定める目標を実現する責務を果たさない場合についても 「罷免事由とすることはできない」と、条例案に否定 的な姿勢を打ち出したそうであるが、これが普通一般の見解・態度だろう。この条例案の全体をつらぬく異様さを文部科学省もさすがに放置できなかったのだろうか。
2011.12.15 Thu l 橋下徹 l コメント (2) トラックバック (0) l top
11月27日、大阪維新の会の橋下徹・松井一郎の両氏が大阪市長・府知事選に当選した翌28日、 中央日報は選挙結果を報じるこちらの記事のなかで橋下氏について以下のように書いている。

「38歳だった2008年に大阪府知事選挙で当選した彼は就任第一声で、「あなた方はいま破産した会社の従業員だ」とし、公務員賃金と各種団体補助金削減を果敢に推進した。大阪府の公務員には「死に物狂いで改革しよう。そしてともに死のう」として刻苦の努力を要求した。万年赤字に苦しんだ大阪府は彼の就任から2年で黒字に戻った。1日で安定した身分が失われることになった大阪府の公務員は激しく反発したが橋下氏の人気はかえって沸き上がった。」

この記事の問題点は「万年赤字に苦しんだ大阪府は彼の就任から2年で黒字に戻った。」という部分で、すでに多くの人によって指摘されているように、これは「真っ赤な嘘」、と言って悪ければ、橋下氏とマスコミが共同で世の中に流布し、府民を初め人々を錯覚させてきたまやかし、ハッタリの類の言説である。その罠に中央日報という新聞社もまんまとはまったのだろう。以下は今年2月19日にこの件に関して橋下氏が発信したTwitterである。

「減債基金からの借り入れを止めて、今では通常の借金返済に加えてこの基金の返済もやっています。赤字債の退職手当債は発行禁止、その上で貯金としての基金を760億円積み立てました。11年ぶりの赤字予算、決算からの脱却。それでも教育等に数百億円単位で金をぶち込みました。」2011/02/19(土)
 
ご覧のように、 内容は「私、橋下徹率いる大阪府は11年ぶりに府の財政赤字を黒字に転換しました。貯金も760億円積み立てました。この黒字は、教育費などの福祉にも数百億円の予算を注ぎ込んだ上での成果であります。」との報告だが、このツイートについて、ブログ「opeblo」が正確で分かりやすい分析・論評をされていると思うので以下に引用させていただく。

「  嘘でもないが本当でもない
上のツイートだけ見ると、橋下知事はもの凄く結果を出している様に見えるわけでして、実際はそれは違うのですが、では彼が上のツイートで嘘をついているかと言えば、確かに彼は嘘をついてはいないんですよね(明らかに嘘のツイートも他にありますが)。他の重要な情報を伝えていないため、ツイートを読んだ人の多くが誤解して受け取ってしまう様になっているだけで。

このツイートの「貯金としての基金」というのは、財政調整基金の基金のことを指していまして、確かに23年度当初予算の段階では769億円積み立てられています。ですから、それ単体では確かに嘘ではありません。

しかし、これには他に重要な情報がありまして、平成22年度予算において、実際に4152億円、通常債に限っても827億円の借金をしているのですが、その事については語られないわけです。実際にお金が余ったとしても、それ以上の借金をその年にしていたのであれば、意味あいもその評価も変わってくるかと思うのですが、そこには触れず、760億円お金が余って積み立てたという事だけが伝えられる。

「赤字予算、決算からの脱却」についても同じ話でして、自治体の予算は借金も収入に含まれるため、府債を数多く発行すれば黒字になりますので、赤字・黒字それ自体に大きな意味はないのですが、その情報については触れず、大阪府が赤字予算から脱却したということだけが伝えられる。で、 このツイートを読んだ読者の多くは、760億円もお金が余り、 黒字決算でさも財政状況が改善したかの様に誤解してしまうわけです。嘘をつかなくても、一部の情報を隠しさえすれば、本当でもないことを信じさせるのは簡単だというお話。

橋下知事は、 「メディアは一部分しか伝えない」とツイッターを始めたらしいですが、一部分しか伝えないのは当の自分のツイートも同じだったと言うことですね。分かってて伝えないのであれば悪質だと思いますし、分かっていないから伝えていないのであれば、財政状況の初歩的な事も知らないという事ですから、さすがに知事として能力的にどうなのかと思います。おそらく確実に前者だとは思いますが。」

ブログ主の方の 「 おそらく確実に前者だとは思いますが。」という点に関しては、私も同じく「 確実に前者だと思います」 。現実は、平成22年度における大阪府全会計の負債残高は6兆1477億円だったとのこと。橋下氏の府知事就任時の負債残高は5兆7000億円台だったそうなので、 結局、橋下府政は3年半で負債を4000億円も増やしたということである。それにもかかわらず、上記のようなデタラメのツイートをしたり、府知事退任の挨拶で「皆さんは優良会社の従業員です」などと、就任時の「民間会社で言えば、 皆さんは破産会社の社員です」という発言とは逆のことを、実情には無関係に好き勝手に(府の借金が5億円をはるかに越えていることを指して職員を「破産会社の社員」呼ばわりしたはずなのに、借金が府史上初の6億円を越えた現在、なぜ「優良会社の社員」に格上げなのだ?)述べるのは、知事としての自分の実績に関する印象操作を行なっているわけであろう。 どうしても厚顔無恥とか盗人猛々しいなどの言葉が浮かんでくるのだが、それだけ有権者とマスコミを甘くみている、舐めているということだと思う。

ツイートでは、「それでも教育等に数百億円単位で金をぶち込みました。」とも述べているが、この言い方に私は多大な違和感をおぼえた。単位で、とか、金をぶち込み、という言葉は児童・生徒・学校など教育関係分野にはあまりにもミスマッチであり、競馬か何かの賭け事に大金をはたいたという類の話でも聞かされているような奇妙な印象をうける。何しろ、2008年の橋下氏の府知事就任以来、府の教育予算は私学助成をふくめて前年度から350億円も削られたそうである。 その結果、学校の修学旅行や合宿旅行などにおいて引率の教師には食事代も出なくなり、教師は宿舎から外に食事に出なければならなくなったとのこと。大阪教職員組合(大教組)の田中康寛・教育文化部長がそのように語るインタビューを読みながら、これには目を疑い、まさか、と思ったのだが、事実に違いないようである。

田中氏は、橋下氏の教育施策を橋下氏本人が掲げた「教育日本一」の看板に対して、日本一は日本一でも「 切り捨て教育日本一」だと述べている。「それも二つの意味で切り捨てです。一つは、教育に市場原理を導入し、選別教育で子どもへの教育の補償を切り捨てるということ。もう一つは、公(教育)を縮小すること。道州制に向けて、教育は市町村にまかせて府はなにもやらない。つまり、大阪の公教育をつぶし、徹底的に教育を民営化の方向へ持っていくということです」。田中氏だけではない。取材に応じて橋下氏の施政について語る人からは、ほぼ例外なくその言行不一致ぶりや不誠実さが明らかにされる。橋下氏の発言について「それは嘘です。」「あれも嘘っぱちです。」という言葉がどれだけ頻繁に出ることだろう。以下に田中氏のインタビュー(一ノ宮美成+グループk21著「橋下「大阪改革」の正体」講談社2008年12月)の一部を引用する。

「 田中 知事は、「財政再建プログラム案」を「障害と命、治安に配慮」と自画自賛しましたが、これも嘘です。 たとえば、障害者教育に関していえば、支援学校(旧養護学校)に通学するのに1時間半以上かかる子どもたちがいます。支援学校が少なすぎて、校区が広いからです。それで、08年度に通学バスを増やすということで1800万円、宿泊行事の付き添い看護師に300万円、計2100万円増やしたということになっていますが、実際の支援学校施策を見ると、軒並み5割カット、8割カットです。いじめ・不登校も重点政策になっていますが、実際は2億円減額で、 公立関係の教育費全体で5億6800万円も削っているんです。 必要性があるどころか、ムダとしかいいようがない、また学校も要求していない小学校の芝生化の調査費に1000万円も計上していますが、大阪府全体の緑化予算はバッサリ3億7000万円も減らしているのです。周りの樹がドンドン枯れていっているのに、小学校の校庭の芝生化で緑化が進むのか。学校行事のスポーツ大会の予算も減らしました。充実、充実と言っているが、嘘ばかりです。

ーー修学旅行の先生の食事代も自己負担と聞いて、驚いたんですが。

田中 旅費も20パーセント以上削られ、宿泊行事分は食費も日当も削りました。修学旅行では、食事も生徒といっしょにとり、夜は騒ぎ回るからきちんと寝るよう指導する。食費が出なくなれば、教師は生徒と離れ、自分たちは外で食事をしなければならなくなります。大事な教育活動の一環である修学旅行の意味がなくなってしまいます。 だいたい、中学校の場合、生徒を引率したら1万円ぐらい食事代が必要です。今回給与も削減されて、新卒の20代の教師の給与は手取りで年収220万円にもならない中、修学旅行の引率をしたら自動的に1万円天引きされる。この物価高では、府教委が設定している宿泊予算を超える可能性もあり、その分は教師が自腹を切らなければならない。支援学校の場合は、食事、世話、宿泊は一体のものです。食事だけ別ということになると、勤務時間はどういうことになるのか。 その間は子どもたちに責任を持たなくていいということになるのか。いずれにせよ、食事代は自分で払え、という発想なんです。それで、支援学校では宿泊学習を取り止めたところも出ています。 経常費もバサッと削りました。教育委員会に提出する報告書・冊子は、これまで印刷会社に出していましたが、今度からは自分たちで印刷してホチキスでとめて提出しなければならなくなりました。教師の勤務時間は1日11時間です。予算が削られれば、教師は雑務に追われて、肝心の子どもと向き合う時間が減り、そのまま子どもにしわ寄せがいきます。それでなにが、誰も求めていない芝生化や御堂筋のイルミネーションか、と言いたいです。地球温暖化防止が叫ばれ、洞爺湖サミットでは、サミットの開催期間中、東京ではライトアップが中止されたほどです。御堂筋の銀杏並木を傷め、資源を浪費し、それこそヒートアイランドを増進させるだけです。それもこれも、全部関西財界の要求で行っていることです。

ーー知事は、「習熟度別学習指導」を府下全域で導入すると言っていますが。

田中  「習熟度別学習指導」は、橋下知事の発案でもなんでもありません。「競争と差別」の新自由主義の教育版として、義務教育段階から、子どもたちを「できる」「できない」で選別し、 教育内容に格差をつけ、エリート教育と切り捨て教育を狙うものです。教育にとっていちばん大事な共通の教育内容の保障をやめてしまうというものです。 「習熟度別学習指導でよくわかるようになった」というアンケート結果がよく報告されます。ここには二つの理由があります。一つ目は、多くの場合、「習熟度別学習指導」は、教育の加配が行われ、少人数指導になっていることです。面倒見がよくなり、わかりやすくなるのは当然です。 二つ目は、学習内容が全然違うことです。カメさんクラスとウサギさんクラスで、同じプリントでやっているかというと違う。自ずと教育内容に差がつけられることになる。「つまずいた子を直す」と言いながら、小五の子であっても小三ぐらいのプリントをやることになる。普段の共通授業に出ず、習熟度別クラスにずっと行っていたら、五年生で学ばなければならない授業内容は教えてもらえず、三年生のプリントをその時間、ずっとやって過ごすことになる。そのクラスでできるようになった、底上げされたといっても、できる子の問題をやったら80点を取れるのか。相変わらず、5点、10点しか取れないでしょう。要は、差別や選別という「階層分け」された中での満足感にすぎないわけです。目標そのものが初めから低く設定されているわけですから、上がることはないわけです。 つまり、一回できないクラスに入ったら、二度と全体のクラスについていけないということになる。だから、どんどん振り落として、落ちた子どもを切り捨てるためにこの「習熟度別学習指導」はあるのです。そういう切り捨てのシステムです。そうなると、子どもも「どうせオレはできないんや」とあきらめや嫉妬、疑心暗鬼が生まれ、できるクラスの子も競争に駆り立てられ、孤立し、クラスはこれまで以上に、お互いに居心地の悪い場所になります。いずれにしても、できる子とできない子との差がいっそう開くだけで、「学力」 の底上げは難しいでしょう。 本当にできない子どもを保障するためには、先生がつまずいている子を放課後も残して、個別に面倒を見てあげることです。それがつまずきを克服していくうえでいちばんいいのです。 実際、大阪の多くの学校でやっています。宿題ができない子どもへの補充学習に、きわめて多忙な中でも多くの先生が小・中学校で取り組んでいます。

田中 もう一度、「習熟度別学習指導」 の話に戻しますが、いま三クラスあって、各クラスに5人ずつつまずいた子がいたとします。もし最初から「できる子」「普通の子」「できない子」とに分ければ、「できない子」のクラスには、三クラスから計15人の子どもが集まることになります。そこに一人の先生が入っていくことになります。その15人が同じところでつまずいたら、一人の先生でも対応できるかもしれませんが、現実には15人全員、つまずいているところは違います。算数でも、分数とか小数点とか、さまざまなところでつまずいています。そ のため、一人の先生で15人、一人ひとりに対応しなければいけなくなります。「習熟度別学習指導」 にしなければ、一クラスの中の5人へのつまずき対応であったのが、今度は、一人の先生が15人の子どものつまずきに一斉に合わせるということになるから、この15人は、面倒を見てもらえるのがいままでの三分の一になります。だから、つまずいている子は、結果的にいっそう面倒を見てもらえなくなります。掃き溜めみたいにされる。結局、切り捨てられるというのが「習熟度別学習指導」です。 ずっと世界中で研究され続けていて、アメリカでも1970~80年代にかけて、膨大な数の調査と研究が行われています。しかし、有効性を実証する結果は、ほとんど得られず、大部分は無効性と危険性を実証する結果を示すだけでした。フィンランドも実施していましたが、85年に廃止しました。「できる子」によい影響を与えず、「できない子」にはまったくプラスにならないという研究結果からです。逆に選り分けるのではなく、「教え合い」というグループ学習をやり始めて、一気に学力が上がりました。だから、「習熟度別学習指導」は学問的にも有効性が示されていないものです。

ーー最後に伺いますが、橋下知事は、本来公表してはならないとされる学力テストの市町村別正答率を、「公表しないなら、予算で差をつける」と脅し、強権的に公開しましたが。

田中 今回の学力調査でも、文科省は「習熟度別学習」の設問をいっぱいくっつけています。 しかし、07年のテスト調査では、「習熟度別学習」で算数の学力が高くなったかどうかの報告が出ていませんでした。今回の調査でも報告がありません。逆の結果が出ている可能性があります。文科省にとって都合のよい結果が出ていたら、すぐに公表するはずです。早寝早経きで朝ごはんを食べるなど、規則正しい生活が学力向上に効果があった要因として分析されていますが、 「習熟度別学習」にあったとは書けなかったということです。大阪府議会での議論でも、府教委は有効性について答えられませんでした。「習熟度別学習」が有効な指導方法だというのは、証明されていません。それどころか、逆に「習熟度別学習」をやめたほうが効果が上がったというのが、全国で唯一学力テストに参加していない愛知県犬山市の実例です。 前回調査でも、文科省も府教委も、子どもの暮らしを支える生活実態や教育条件の違いを見なければならないのに、その相関関係を示しませんでした。学力テストにおいて、秋田県と福井県は二年連続で高い正答率を示しましたが、大阪府の就学援助は約30パーセント、三人に一人で全国ワーストワン、秋田県の7倍です。10パーセント以上の生徒が就学援助を受けている中学校の比率は、大阪は87パーセントであるのに対して、全国平均は46パーセント、秋田県は27パー セント、福井県は16パーセントです。 生活保護でも同じ傾向です。離婚率もトップクラスです。持ち家比率も同様に低いという傾向にあります。福井県が「日本一住みやすい県」とされているのとは大違いです。これだけ生活格差がはっきりしているのだから、なんらかの教育施策をとらなければいけないのに、大阪の教育費は、削って削って一人あたりの金額は全国で42位です。これに比べて福井県のそれは2位です。 大阪府の小学校六年では30人以下学級の比率が41パーセントであるのに対して、 国平均は62パーセント、秋田県は73パーセント、福井県は84パーセントに達しています。生活習慣も、大阪の子どもは、朝7時までに起きる子は三人に一人ですが、国平均は三人に二人です。大阪は寝るのも遅く、12時まで起きている子は二人に一人です。塾に行く子が多いこともありますが、一人親家庭が多く、生活が苦しく、ダブルワークで夜遅くまで働いている家庭が多い。それに、一人親が働いていたら、子どもの食事はつくれません。 一方、大阪府の子どもたちの自宅での勉強時間は、3時間以上が14パーセントと、秋田県の5.7パーセントと比較しても高くなっています。両極端に分かれているのです。 塾に通い、 長時間勉強する子どもたちと、まったく勉強しない子どもたちに大きく分かれ、格差が広がっているということです。学力調査の結果にも、それがはっきり出ているのです。にもかかわらず、 教育予算をバッサリ削って、「教育日本一を目指せ」と、教委や教職員、なによりすでに追い詰められている子どもたちの尻を叩くのは、大いに間違っています。秋田県、 福井県と比べ、行政施策の違いが歴然としているのです。 中山前国交相が暴言を連発して引責辞任しましたが、そのとき、「学力テストの役割はもう終わった」と発言しました。学力テストの狙いは、もともと文部科学省の諮問機関である「専門家検討会議」の「全国的な学力調査の具体的な実施方法等について」(06年4月)でも、学力を上げるというより、「PDCサイクル (計画→行動→状況把握というマネジメント手法の一つ)」 を使って、各学校を管理することだと、はっきり書いてあります。なぜ、橋下知事が学力テストの結果を全国の都道府県で初めて公表したのか、それも強権発動してまでやったのか、その狙いは、発表を通じて市町村、学校の管理をすることにあるのです。それは、学校教育に介入し、コントロールすることで、政府や財界に都合のいい人材を育成することを目標にしているからです。もっと長いスパンで見れば、PTAなどつぶしてしまい、「学校支援地域本部」を中心に民営化を推進するとともに、 学校と地域社会を思い通りにコントロールすることが狙いなんです。橋下知事が突然、教育委員会のみならず、PTAの解体を叫んだのも、そうした政府・財界の戦略が背景にあるからで、いわゆる過激発言ではなく、本音だったからです。」

修学旅行に際し、引率の教師に食事を出さないことに対して皆さんはどのように感じられただろうか? 食事は旅行に行かなくても摂るからという理由で自己負担に決められたそうだが、忙しく動き回らなければならない旅行先で三度、三度の食事の度に自腹を切ったり、メニューを考えたりしなければならないというのは教師にとって経済的・精神的負担は相当に大きいだろうと思う。中学・高校ともなると修学旅行も三泊四日くらいになるのではないか。単に経済面だけにとどまらず、教師に対し修学旅行中の食事を出す必要はない、すべて自己負担にしよう、との発想も、その発想を実現する過程も想像するだに寒々しく、物悲しさも漂う。これは親類や友人・知人に、慶事があるからと手伝いを頼み、 一生懸命に働いてもらいご馳走もでき準備万端調ったところで、当の相手にあなた(方)はもう帰って、と空腹、手ぶらで追い返すような待遇ではないだろうか。そういうことは普通誰もしないだろう。児童・生徒に対しても良い影響はあたえないだろう。

中途半端で終わることになってしまうが、長くなりすぎるので、今日はここまでにしよう。次回は上の田中氏の発言などを参考にしつつ、大阪維新の会が「教育基本条例案・職員基本条例案」を出してきた意図について考えてみたい。
2011.12.09 Fri l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
11月27日の夜、 テレビ東京で「日本作詩大賞」発表とかいう番組を放映していて、画面では70年代の映像かとおぼしき沢田研二が阿久悠作詞の『 勝手にしやがれ 』を歌っていた。歴代の大賞受賞作品を当時のVTRで紹介しているところらしい。たまたま観たのだが、ステージをはつらつとリズミカルに歩き回り、 時々上向いてシャボン玉を吹いたりしながら歌っているジュリーの姿が、伸びのある柔らかな歌声ともども抜群に格好よく、思わず見とれてしまった。次に都はるみが出てきて歌うと、こちらもまた円みのある情感豊かな歌声で、画面にすっかり吸い込まれてしまった。奥村チヨは千家和也作詞の『終着駅』を歌った。こういう歌があることをすっかり忘れていたが、「今日も一人、明日も一人」という歌詞に反して、どこかおもしろい歌だ。森進一は阿久悠作詞『 さらば友よ 』と 川内康範作詞 『 花と蝶 』の2曲を歌った。前々から私は森進一がデビューした60年代後半からの7、8年は森進一の全盛時代であると同時に、歌謡界も森進一の時代であった、と勝手に思っていたのだが、こうして当時の歌声を聴いているとその思いを新たにするようであった。

何年ぶりかと思うほど、テレビに没入して一心に見入っていると、急に画面が切り替わって、徳光和夫さんが出てきた。司会をしているのだ。ハシモトさんが当選したようですね。これで生番組だということがわかりますね、とか言っている。一瞬何のことか意味が分からなかったのだが、次の瞬間、いっぺんに興醒めがして、猛烈に不快になった。時計を見ると、まだ8時を過ぎたばかり。こんなに早く選挙結果が出るとは! 気持ちよく眠っているところを荒々しく叩き起こされたような気分である。徳光さんもねぇ、今そんな余計なこと言わなくてもいいのでは? チャンネルを切り替える視聴者がいてあなた方が損するだけでしょうに……。

ということで、天国から地獄へ、というのは大袈裟だが、せっかくのささやかながらも心楽しい時間が台無しになってしまった。それにしても、橋下徹氏の人気というのが私には今もって分からない。彼がテレビのコメンテーターをしているのを見たときからそうであった。とあるテレビ番組で光市事件の弁護団を口汚く罵り(自分も一応弁護士でありながら!)、視聴者に向かって懲戒請求を煽動したときはあきれ果てる思いがしたが、その行為に同調する人たちが意外に多いことには驚いた。が、これは前にも書いたことだが、そういう最中、自民党が橋下氏に対して大阪府知事選擁立に動いたことにはもっと驚いた。何というか、日本の政治および政治家のレベルが堕ちるところまで堕ちたという気がした。いくら自民党でも、かつての三木、福田、大平といった政治家たちが橋下氏を担ぐ姿は想像できない。

テレビにおける橋下氏は常に饒舌ではあるが、コメント内容はいつ見ても薄っぺらで知性にも情味にも欠け、索漠としていた。世間に流れているさまざまな考えや意見のなかでも橋下氏が口にするのは最も俗悪で、少数派に対して露骨に冷酷な性質のものだったと思う。そこには人間味もなければ、一抹の見識も感じられない。まして思考の深み、 厚み、高さなど、求めらるべくもない。特権階級の人間ならともかく、われわれ一般庶民にとってこういう人物はいざというとき決して頼りになどならないことはあまりにも明白だと思われた。もっとも、最近のマスコミ、とりわけテレビにおいて寵児としてもてはやされるためには、誠実、正直、繊細・鋭敏な感受性、知性などといった徳は邪魔なだけかも知れないが…。

27日の夜、大阪市長に当選した橋下氏は大阪府知事に当選した松井一郎氏とともに記者会見を行なったが、教育基本条例案・職員基本条例案については次のように述べたとのこと。

「<教育基本条例案・職員基本条例案>できるだけ早期に、市長提案する。教育委員会も総務部も徹底して反論の機会を与えた。民意を無視することはできない。行政マンはそれに従うのが当たり前だ。教育条例案は保護者と一緒に校長や教員を評価し、外部の有識者に判断してもらう。知事が思うままにする条例ではない。教委の独裁を改めさせる。」(毎日新聞11月28日)

上述の橋下氏の発言について少し考えてみたい。まず「民意を無視することはできない。行政マンはそれに従うのが当たり前だ。」という発言について。 選挙で自分が知事に選ばれたということは、 教育基本条例案と職員基本条例案も大阪市民に支持された、この2つの条例案は自分の当選によって民意であることが証明されたということであり、これに素直に従わない行政従事者はすなわち民意に逆らうことになるのだと関係者を脅迫しているのだ。選挙の争点としては大阪都構想が最も注目を浴びたし、次点の平松氏も50万票余りも獲得したのだから、それらのことも考慮する必要があると思うが、それでも橋下氏が75万票で圧勝したことは事実だから、もし教育基本条例案と職員基本条例案が憲法を初め教育基本法や地方教育行政法などの法律に抵触・違反する疑いの濃厚な、あのように異様なものでないならば、民意ということを相応に強調してもいいと思う。しかし、あの2つの条例案はどのような理由・理屈を何百、何千並べようとも世の良識にも人の良心にとってもとうてい耐えられる代物ではない。あの案には他者を意のままに動かそうとする強烈な支配欲・猜疑心・侮蔑などの低劣で浅ましい感情や意識が充ちみちているように思える。橋下氏は府知事時代の2008年、府立国際児童文学館の内部を自分の私設秘書をつかってビデオカメラで隠し録りしたことがあった。理由は職員の仕事ぶりと利用者の様子を観察するためということだったが、橋下氏自身によると、実はこの文学館だけではなく、他にも存廃の議論になっている複数の公共施設を同様に隠し録りしていたとのことである。ご本人は、「民間では当たり前。何の問題もない。」とシャーシャーとしていたが、いったいどこのまともな民間会社で従業員や訪問客の隠し録りなどなされているのだろう。

その発想・行為、そして事後の悪びれたふうもなく平然とした態度には私なども本当に驚き、薄気味悪く感じたことを記憶しているのだが、児童文学者で児童文学館開設の端緒をつくった人でもあり、また当時は同文学館の管理・運営に理事として携わっていたという鳥越信氏は橋下氏の盗撮について、「とにかく驚いている。昔の特高警察やヒトラーのナチスに通じる体質がある」(一ノ宮美成+グループk21著「橋下「大阪改革」の正体」講談社2008年12月)と話されている。多くの人が同種の印象をもったのではないだろうか。当時かなり話題になったので、周知のことだと思うが、この児童文学館は国内外の多くの人の「閉鎖しないで欲しい」「存続してもらいたい」という心からの嘆願も空しく、橋下知事の意向により閉鎖となってしまい、現在は府立中央図書館の一偶に縮小して移動(移動後は蔵書の保存にかける費用はゼロとのこと)になっているそうである。この件について上述の本からもう少し引用しておきたい。

「 早稲田大学教授をしていた鳥越氏が、1979年、学生時代から食費を削り、電車賃を浮かせて集めた12万点に及ぶコレクションを寄贈したことをきっかけに、同文学館は84年5月5日のこどもの日に開館した。鳥越コレクションの寄贈については、全国の自治体や大学、企業に呼びかけ、最後は滋賀県と大阪府の激しい誘致争いになった。滋賀県の武村正義知事(当時)が鳥越氏の自宅まで訪ねて来るなど熱意を示したが、当時の岸昌知事の懇請を受けて大阪府に同文学館が設立されたという経緯がある。
 日本児童図書出版協会から年間2000万円相当分をはじめ、鳥越氏本人や個人なども含めて毎年9000冊が寄贈され、購入分と併せれば年1万5000点ずつ蔵書が増えている。現在の蔵書は、外国の児童書を含め70万点に及ぶ。一階の子ども室は無料で開放され、漫画や図書など、約3万点が貸し出されている。
 図書館法の定めに従って設立され、出版されている中から選んだ本を貸し出し、蔵書を最後は「消耗品」として処分してしまう図書館とは、その性格・機能がまったく異なる。 日本の児童文学書をすべて収集し、蔵書は「備品」として、「可能な限り刊行時の状態のまま保管」するため、箱、カバー、帯も含めてコーティングして永久保存する。そのため、図書館で一般的に行われている管理用のバーコードの貼付などはしていない。
 大口寄贈者としては、前述の日本児童図書出版協会のほか、「南部コレクション」と呼ばれる個人からのもの、大阪の街頭紙芝居の元締めをしていた人からの1万セット・10万枚の紙芝居がある。児童文学だけを専門に収録した施設としては世界で唯一のものである。専門職員がいて、その年に出版される児童本、4000~5000冊を読み、研究、整理を行うとともに、日ごろから、図書館や家庭文庫、学校の先生、お話ボランティアたちの本選びの相談を受け、定期的に交流会や子どもを対象にした「おはなし会」や 紙芝居の実演などの催しを行っている。新人を対象とする児童文学賞「ニッサン童話と絵本のグランプリ」や府立大手前高校同窓会・金蘭会と共同で「国際グリム賞」を創設し、奇数年で表彰を行うなど、児童文学育成・発展のための事業も運営している。
 こうした活動が評価され、同児童文学館は08年、「貴重な資料を横断的に収集しており、職員の専門性とあいまって漫画研究に欠かせない拠点である」として、第12回手塚治虫文化賞特別賞を受賞したばかりだった。」

隠し録りした文学館のビデオを見た橋下氏は、「漫画ばかり並んでいるから『漫画図書館』に名前を変えるべきだ」「『職員にやる気がない』と厳しく批判した」(朝日新聞 9月6日夕刊)という。しかし、この知事発言には逆に新聞投稿欄への投書を初め、多くの利用者から具体的反論がなされたとのことである。さもありなんと思うが、それにしても、こんなに豊かさや情熱や歴史を感じさせる児童文学館に対してこのような情けなくも味気ない言動しかとれない知事というのも前代未聞ではないだろうか。そしてこういう言動の延長線上に、全国学力テストの順位が低かったことに対し、何てザマだ、と一人で騒ぎ立てた、あのような姿があるのだと思う。

記者会見の話題に戻ると、「教育条例案は保護者と一緒に校長や教員を評価し、外部の有識者に判断してもらう。知事が思うままにする条例ではない。教委の独裁を改めさせる。」との発言もまた異様である。保護者は校長や教員の評価などできない。保護者の環境・生活は千差万別であり、全員が校長や教員の人格や能力を正確に知ることはまず不可能だが、それでなくても、教員の人生や生活に直接影響をおよぼす5段階評価などどうしてできるだろう。教師・子ども・保護者の人間関係はズタズタにされる恐れがある。 これは橋下氏の保護者への責任転嫁であり、また保護者を共犯者に仕立てようとするものではないだろうか。「 外部の有識者に判断してもらう 」というのも意味不明だ。外部の人間が有識者であってもなぜ学校の教員一人一人の能力を知りえるのだろう。まともな人なら誰も引き受けるはずがないと思う。「教委の独裁を改めさせる」ということだが、 大阪府の教育委員会が何か独裁的行動をしてまずい結果を惹き起こしたことでもあったのだろうか。それが分からなければ判断のしようがないのだが、そういえば退任した二人の教育委員が橋下氏の不合理な言い分に反論したと先の本に記されていた。橋下氏のかなり棘のある口ぶりからすると、それをまだ根に持っているのだろうか? あるいは、現在、府の教育委員会が正当にも教育基本条例案に反対していることをもっての独裁呼ばわりなのだろうか?
2011.12.02 Fri l 橋下徹 l コメント (1) トラックバック (1) l top
   

J-CASTニュース(2011/5/17 20:06配信)の記事「起立しない教員は「クビ」 橋下知事、国歌斉唱で処分基準」は、「大阪府の橋下徹知事は2011年5月17日、国歌斉唱時に起立しない教員の免職処分基準を定めた条例案を9月府議会で審議する方針を示した。」という記述の後、国歌に関する橋下知事の過去の発言を次のように伝えている。(強調はすべて引用者によるもの。)


「 府教委の指示に従わない「君が代反対」の教員が絶えない中、橋下氏は以前からの国歌斉唱への強いこだわりを見せてきた。
たとえば2008年の「全国産業教育フェア大阪大会」の開会式挨拶では、数百人の高校生を前に、自らが受けた教育について「戦後教育の中でも最悪。国歌も歌わされたことがない」と批判し、「社会を意識しようと思えば国旗や国歌を意識しなければいけない」と熱弁。大阪府庁の新規採用職員任命式では2010年から君が代斉唱を取り入れ、「日本国家の公務員が国歌をきちんと歌うことは義務」と語っていた。」

このように橋下氏は自分が受けた学校教育について「最悪」「国歌も歌わされたことがない」と述べている。「国旗・国歌法」が成立したのは1999年なのだが、橋下知事のこの発言をみると、彼の理解では、「君が代」は戦前・戦中・戦後を通し一貫して日本の国歌であったということのようだ。でも事実は決してそうではなかったようである。


   

詩人・小説家であり、批評家でもあった中野重治は、「君が代」は「日の丸」(注1)と異なり、明治以後のどのような法律においても国歌として定められたことはただの一度もないことをたびたび書いている。1977年(死去の2年前)の「男の一分と裕仁天皇」(全集28巻に収載)という題の文章は、冒頭が次のとおりである。

「「キミガヨ」を国歌なみに扱おうとする動きがあり、これはみな知つている。これに反対の声があることも、世間みな知つている。ただしこれは、キミガヨを国歌として「復活」させようという動きなのではない。キミガヨは、旧憲法、旧法律上、国歌であつたことがなかつたのだから。なかつたもの、それの復活ということは法的にありえない。このことは、私は何度か書いてきた。ただそれは、天皇が超憲法的に「神」とされてきたのに並んで、超憲法的、超法律的に、つまり全く不法に国歌あつかいで事実上おしつけられてきたのだつた。だから、キミガヨ国歌あつかいの新しい陰謀は、言葉どおり不法の企てであつてそれ白身憲法背反のことである。」(引用者注:この文章は全体が長くもなく、内容はなかなかに興味深いので、これに続く後半部は(注2)として、末尾に引用しておくことにする。)

この文章を読むと、中野重治は当時、「君が代」が「国歌あつかい」はされても法制化されることがあるとは当面の問題としては考えていなかったようにも思える。日本国憲法の前文や各条文の内容から推し測って、この憲法の下では、天皇と天皇家の栄光・繁栄を祈り寿ぐことが主題の「君が代」を法的に国歌として定めることはいくら自民党政権でも躊躇するだろう、できないだろうと考えたのだろうか。あるいは、そういうこと以前に、明治以後「天皇が超憲法的に「神」とされてきたのに並んで、超憲法的、超法律的に、つまり全く不法に国歌あつかいで事実上おしつけられてきた」歴史的事実、それに対する反省も性懲りもなく再び同じことを企む勢力への弾劾をここではひたすら述べているのだろうか。

「君が代」は過去国歌であったことはないと述べているのは、思想史家の藤田省三も中野重治同様である。1990年のとある集会で「今なぜ大嘗祭か」(「戦後精神の経験?」収載)と題して、藤田省三は下記のような話をしている。

「明治時代には日露戦争の時でさえ、1905年日露戦争の最中ですね、『朝日新聞』の今で言う「天声人語」みたいなコラムに、「皇室に歌あり、民に歌なし、民に歌なき国民は不幸なるかな」という政府批判がちゃんと載っているんです。ということは、知っている人はもう“「君が代」というのは「国歌」でも何でもないんだ。天皇家の歌であるかも知れないけれども、国民の歌ではない、民の歌ではない”ということをはっきり知っていたのです。それがその後の数十年のうちに、つまり私たちが子供のころ(引用者注:藤田省三は1927(昭和2)年生)が一番すごかったわけですけれど、さっきいったようにきびしい条件のもとで、周囲から圧力をグンと加えて、「臣」と「民」を溶接させて、一億一心にするころになりますと、学校のなかに殆ど毎日のように、歌わせるわけですから。いつの間にかそれが「国歌」であるかの如き幻想を日本中の一億人がみんなもってしまった、もたしてしまった。 」

私は中野重治、藤田省三という二人の作家が残している作品・著作は傑出してすぐれていると感じていて、いい加減な内容を書いたり話したりするようなことはないと思うので、彼らの発言内容はまず間違いなく事実だと思うが、そうだとしたら、「国歌も歌わされたことがない」という橋下知事が受けた教育は、少なくとも国歌という点にかぎっていえば、別に「戦後教育の中でも最悪」だったわけではなく、しごく正当なものだったということになるだろう。


   

「君が代」に纏わる話題でほとんど唯一といっていいくらいなのだが、私が愉快にも痛快にも感じ、好きだと思うのは、宮沢賢治に大きな影響をあたえたといわれている、賢治小学校3・4年のときの担任教師であった八木英三先生の言葉である。八木先生は宮沢賢治の伝記類には必ず登場するので知っている方も多いかと思うが、当時まだ二十歳にもならない若いこの先生は広い自由闊達な精神をもっていて、「君が代」についても教室で「君が代ではない、わが代だ。わが代こそ千代に八千代に、だ」と語って生徒たちを驚かせたそうである。

私もこの話を何かの本ではじめて知ったときは思いもかけなかった言葉に出会って驚いたのだが、この挿話一つで、この先生が心も頭も自由であるとともに、如何に生徒たち一人ひとりの人格と人生を大事に思っていたか分かろうというものである。また、八木先生のこの言葉により、あの歌は大人にとってもそうだが、児童・生徒にも決して相応しいものでないことが自ずと炙り出されているように思う。都知事や府知事や教育委員会などの狭量で硬直した「義務だ、ルールだ」「起立し、歌わなければ停学だ、懲戒免職だ」という言動は教師だけではなく、児童・生徒の精神にも多大な悪影響をあたえているのではないかとの懸念もつよくいだかされる。このように八木先生の挿話は現実と照らし合わせて実にいろいろなことを感じさせ、考えさせるものであるが、詩人宮沢賢治によき感化をおよぼした、大きな影響をあたえたという評価についても、一も二もなくすんなり納得させるつよい力が「わが代」という発想・言葉には確かにあると思う。


     ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

(注1) 「日の丸」の法制定
1870年(明治3年)、太政官布告第57号「商船規則」制定。(縦横比率は7対10とし、赤丸は旗の中心から100分の1竿側(左)寄りとする)
1899(明治32)年、船舶法を制定し、船舶の国旗掲揚について定める。

「映画日本国憲法読本」日高六郎(2004年11月6日)
「――先生はヨーロッパにいらっしゃるわけで、外側から日本を見ることでわかることは何かありますか。
 僕は、中国で生まれて中国で育った。(略)僕は、もう少し日本人にはアジアの民衆の気持ちを知ってほしい。この間、サッカーの試合で中国の観衆が日本の国歌のときにブーイングしたけれど、僕は中国人の心が痛いぐらいにわかる。あの15年戦争のなかで2000万の人間が死んだ。南京虐殺事件が話題になるけれど、もっと小さい町、小さい村でどんなことが行われたか。(略)日本が徐州を占領したとき、もう青島は日本軍の支配下です。中国の小学校や中学校の子どもたちに日の丸を持たせて徐州陥落のお祝いの旗行列をやらせる。そういうことに親父も憤慨していた。非常に保守主義の私の父もね。
 結末はどうかというと、解散する場所で、ひとりの子どもが、「かいさーん」という声と同時に、日の丸を下に落とし、靴で踏みつけた。先生も子どもも、全員それをやりました。
 不思議なことに、日本軍側は、処分という事件にしなかった。むしろそういう事態が起こったことが外に拡がり、知られることを防ごうとしたんですね。」


(注2) 「 ところで、このあいだ天皇の新聞記者会見というのがあつた。あれは宮内庁が取りしきるもののように見える。出席の記者も、よほど変り者ぞろいなのかも知れない。ただし、しらべずにこう書いてしまつては私の方がまちがうかも知れない。失礼の場合は、事実を示されれば私の方で訂正する。
 そこでしばらく前のその会見のとき、だれか記者が、裕仁天皇がマッカーサー元帥のところへ行つたとき、どんな話をなさつたのかという意味のことを質問した。すると天皇が、それは二人だけのあいだの話で、人に洩らすわけには行かぬ、それでは男としての面目がすたる、というようなことを言つて記者は黙つてしまつた。納得したのか、二の句がつげなかつたのかは、新聞印刷の限りわからなかつたが。
 しかし私は全く異様な気持ちをいわば舌でなめた。天皇がアメリカへ行つたとき、マック夫人から言いだしたが天皇は訪問しなかつた。それには理由が「男として」あつたのかも知れぬ。しかし時がたつた今になつても、日本の新聞記者に洩らせぬようなどんなことをあのとき天皇はマックと話しあつたのか。約束なりしたのか。「男の一分(いちぶん)」、「男として」、――女を含めて言葉の方が泣くだろう。」(77年10月18日)

簡単な感想だが、77年にはすでに敗戦後の昭和天皇がマッカーサーに対し、占領終了後も米軍は沖縄に50年、あるいはそれ以上の長期にわたって駐留して日本を守ってほしいと懇願していたことが明らかにされていたので、このころ中野重治の天皇に対する見方はこころなしかそれ以前より一段と厳しくなっているように感じる。
2011.05.21 Sat l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
   

2008年の大阪府知事選に自民党(古賀誠議員など)がタレント兼弁護士の橋下徹氏擁立に動いていることを知ったときには、驚いた。自民党の支持者だったことは過去一度もなかったと思うが、それでも「そこまで落ちぶれたのか、 自民党!」というような見下げはてた気持ちがしたものであった。当時の橋下氏は、大阪のテレビ番組で視聴者に向かって光市母子殺害事件の弁護人たちに対する懲戒請求を煽動し、その結果、各弁護士会には煽られた視聴者からの懲戒請求が殺到するという騒ぎを引き起こしていた。また、当時、彼のホームページには、「橋下流、交渉術」として、『合法的な脅し』と『仮装の利益』『お願い』の三つが弁護士業遂行上の手法として堂々掲げられていた。これはずいぶん話題になったから多くの人は周知のことだろうが、一応記しておく。

「身に付けていった交渉術が『合法的な脅し』と『仮装の利益』。
 これが僕の交渉方法の8割から9割を占めます。
 最終手段で『お願い』をすることもあります。
 合法的な脅しとは、法律に反しないギリギリのラインで、相手側にプレッシャーをかけることです。
 『仮装の利益』とは、『こちらの要求に従えば、これだけの不都合が避けられますよ』と、実在しない上乗せを示し、相手を得した気分にさせて要求を通すというもの。
 これも合法的な脅しと併せてよく用いる交渉方法です。
 それでも話し合いに進展が見られないときに使う奥の手が、『お願い』です。」


また、これは雑誌の見出しだったのではないかと思われるが、「論理とは詭弁だ 異色の若手弁護士が語る説得法 『詭弁を弄してでも、黒いものを白いと言わせるのが論理的な交渉の醍醐味』と豪語する橋下弁護士 」という文章が今も依然としてネット上に見られるが、ソースは分からない。ただ、上記の文章にも言えることだが、「論理とは詭弁だ」とか「黒いものを白いと言わせるのが論理的な交渉の醍醐味」などというせりふは実に橋下的であり、これが他の誰でもない、橋下氏自身の発言であるだろうことはちょっと疑いようがないように思えるところが、なんとも言えない、個性的である。

「懲戒請求」煽動の問題に話題を戻すと、橋下氏はこの件で二件の訴訟を起こされている。一件目の提起は2008年であり、二件目は2009年で一件目とは別の弁護人19名によるもので、橋下氏と読売テレビを相手に一億円以上の賠償請求がされているとのこと。どちらの裁判も現在進行中のようである。弁護士の阪口徳雄氏は、自身のブログで、二件目の訴訟について、「この裁判は橋下弁護士は再度敗訴するだろう。」と述べている。以下に同ブログからもう少し引用させていただく(/は改行箇所)。

「テレビで、被告人の弁護人の訴訟活動を批判するなら、これは表現の自由の範囲内。/しかし彼は、視聴者に向けて『懲戒請求』を呼び掛けている。/懲戒請求された弁護士らは無意味な懲戒請求でもそれに対応する負担が生じる。橋下弁護士も弁護士である以上、懲戒請求の現実は知っているはず。/しかも、この懲戒請求の呼びかけは、無責任なワイドショーテレビなどが作りだした『世間の意見』に迎合しただけで、弁護士として何の見識も見られない。/弁護士がこの程度のレベルと思われるだけでも、同じ弁護士として恥ずかしい限り!!」

とのことであるが、当たり前の弁護士で阪口氏のこの意見に反論するのは難しいだろう。大阪府知事選は結局橋下氏は無所属で出馬、自民党と公明党は府連レベルで支援したそうだが、「弁護士失格」(刑事にしろ、民事にしろ、裁判を余儀なくされた場合、この人に弁護を依頼しようとする一般市民が何人いるだろうか? たとえタダでも。)としか言いようのないこのような人物を選挙に担ぐことができるという時点で、自民党にも公明党にもあきれはてるのだが、ただここまでくると、もう個々の政党の問題というより、日本の政治土壌の問題であり、これはその腐乱現象の象徴的出来事ではないかという疑いをもつ。


   

橋下府知事が君が代斉唱時に起立しない教員は辞めさせると述べた件について、最初に5月16日の発言を日経新聞から引用する。(強調はすべて引用者による。)

「君が代起立しない教員「絶対辞めさせる」 橋下知事 (日経新聞ウェブ刊5月17日)
地域政党「大阪維新の会」の府議団が5月議会に提出を目指す君が代斉唱時に教員の起立を義務付ける条例案について、大阪府の橋下徹知事は16日、「(起立しない教員は)絶対に辞めさせる」として、強い姿勢で臨む考えを示した。府庁で記者団に語った。
 維新府議団は同日、条例案の対象に府立学校だけでなく、府内の政令市を除く市町村立の小中学校の教職員も加える意向を示した。
 橋下知事は「国歌・国旗を否定するなら公務員を辞めればいい。公務員の身分保障に甘えているだけ」と強調し、「辞めさせるルールを考える」と述べた。維新は条例案に罰則を設けない方針。起立しない教員は地方公務員法に基づく懲戒処分を受ける可能性があるが、最も重い処分の免職の適用は困難との見方もある。
 府教育委員会は2002年に君が代斉唱時の起立を府立学校などに通達し、職務命令違反で懲戒処分とした教員は計7人いるが、処分はいずれも最も軽い戒告。また東京高裁は今年3月、都立学校の教職員167人の処分を「懲戒権の乱用」として取り消す判断をしている。」


次に、翌17日の橋下府知事の発言とこれに対する周辺の反応をスポーツ報知の配信記事から引用する。

「橋下知事「許さない」 「君が代」起立しない教員、全部クビ!(スポーツ報知 5月18日)
 大阪府の橋下徹知事(41)は17日、入学式や卒業式での君が代斉唱時に起立しない教職員に対する免職処分の基準を定めた条例案を、9月の府議会で審議する意向を表明した。橋下氏は「辞めさせるルールを考える。国旗国歌を否定するなら公務員を辞めればいい」と16日に述べており、その具体策として条例化への意欲を示した。大阪府教職員組合は、同様の条例は全国でも例がないと指摘し「民主主義の根幹を揺るがす」と猛反発している。

 君が代斉唱時に起立しない教職員はクビにする―。16日には「身分保障に甘えるなんてふざけたことは、絶対許さない」と強硬発言を繰り返していた橋下知事はこの日、その具体策として条例化に言及。「(校長などからの)職務命令違反を繰り返した場合、段階を踏み停職を入れるが、最後は免職処分とする」と処分基準の考えを示した。

 自身が代表を務める「大阪維新の会」の府議団が、教職員に起立を義務づける条例案を、19日開会の5月議会に提出する予定。維新の会は府議会で単独過半数を占めているため、提出すれば可決する見通しだ。ところが、維新の会の条例案には罰則規定がないため、橋下知事は、その実効性を担保するため、免職処分の手続きを定めた規定の条例化を目指す。

 これに対し、大阪府教職員組合は「大変大きな問題。知事に異論を唱える声を条例で封じる。これはファッショ以外の何者でもない」と指摘。また、「教育文化府民会議」はこの日、条例案の提出を見合わせるよう府議会各会派に求めるなど、反発の動きも出ている。

 大阪市、堺市の政令市を除く府内の公立小中学校教職員の処分権は大阪府教育委員会にあり、従来の規定では、懲戒処分のうちで最も軽い戒告が“上限”。府教委によると、2002年度以降、君が代斉唱に関する職務命令違反で厳重注意か戒告となった教職員は計9人だという。同知事は「免職になるルールを作った後は政治が介入せず、どういう職務命令を出すかは学校現場に任せればいい」とし、最終的な処分の判断を学校側に委ねる意向を示した。 」


いったいぜんたい、こやつは、…いや、この方は、いつの時代のどこの国の専制君主なのかと見紛うばかりの暴君ぶりである。99年に「国旗・国歌法」が成立したとき、当時の小渕首相は「命令とか強制とか、そういう形で行われるとは考えておりません」「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではありません」と国会答弁し、野中官房長官も「強制的に行われるんじゃなく、それが自然にはぐくまれていく努力が必要と考えております」という旨の答弁をしていた。

現実にはそれ以前から学校現場では学習指導要領に基づく「強制」が行なわれてきており、首相らの発言を額面どおりに受け取る向きは少なかったと思われるが、しかし、国会での答弁は公的発言であり、これは政府による国民・市民への誓い、約束には違いないだろう。第一、「国旗・国歌法」が制定されたからといって、それが入学式や卒業式に国旗・国歌を強制できる根拠になりうるとは法律のどこにも記述されていない。

その後の経過をみると、東京都などは教師を休職処分にまでしたりと常軌を逸した行動が続けられてきたが、とうとう「懲戒免職」の脅しをかける知事まで現れたわけである。橋下氏は府知事選出馬の会見で「石原都知事の政策に感動した。」と述べていたと記憶するが、この強硬ぶりを見ると石原慎太郎の影響もあるのかも知れない。朝鮮学校への都・府それぞれの補助金を他地域に率先して打ち切った点も共通している。橋下知事の場合はわざわざ学校を訪問までして、教員・生徒たちに散々気を遣わせた上での打ち切りであった。なかなかできることではないだろう。

16日に橋下知事は「国歌・国旗を否定するなら公務員を辞めればいい」、「辞めさせるルールを考える」と述べているが、冗談ではない。被告人を弁護するのが職務である弁護士がその役割を忠実に果たしているのに対し、テレビ番組で調子に乗って懲戒請求を煽って騒動を起こすのがせいぜいの弁護士、仕事上の交渉術においては『合法的な脅し』と『仮装の利益』提示を得意としていた弁護士。つい数年前までそのような弁護士であったこの知事から、「国歌・国旗を否定するなら公務員を辞めればいい」といわれる筋合いはない、と教師は内心誰でもそう思うだろう。

「日の丸」「君が代」には日本が他国への侵略を恣にし、他民族を苦しませぬいた戦前・戦中の歴史がいまだに生々しく刻印されているように思われる。もし日本がこれまでに自己の過ちを素直に認めて被害国および被害者に心からの謝罪をし、できるかぎりの補償をしてきたならば、国旗・国歌についての日本人の考えももっと多様にそして自由になり、認識も深められていたのではないかと思う。しかし現実はそうではなかった。「国旗・国歌法」は議論らしい議論もされず、硬直した単調で一本調子の言説が行きかう延長線上で強引に制定されたのだった。理由は一つではないだろうが、日の丸・君が代を素直に受け入れることはとてもできない。そのように感じ、考える人々が存在するのは当然のことだと思う。

逆に、そのような感受性や歴史観が根絶やしになったなら、現状の日本社会はまったく絶望的になるのではないかという気がする。そしてこのような思い、考え方、生きる姿勢を憲法19条の「思想・良心の自由」は個人の正当な権利として許容している。というより100パーセント保証し、支持しているとさえいえると思う。憲法に支持されず、許されていないのは、地位にモノをいわせて個人の尊厳の象徴ともいえる「思想・良心の自由」を踏みにじり、その上、他人のかけがえのない職業、生活の糧でもある職業まで奪おうとする、そこまで思い上がってしまっている橋下知事のほうだろう。歌は強制され脅迫されて歌うものではない。少数意見の存在の価値を知らないリーダーは救いがたい。大阪府議会はこのような恥ずべき条例案の提出をぜひとも拒否してほしい。なんだか、学校の先生も、児童・生徒も、ひいては私たち一般市民も、実は帝国ニッポンの臣民だったのかと錯覚する気分である。
2011.05.19 Thu l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
子どもの世界だけではない。大人社会にも蔓延しているといわれて久しいイジメ。大人の世界で起きたイジメということですぐに思い浮かぶことが私にもいくつかあるが、筆頭は2004年暮れ、吉本興業所属の有名タレントが、同じく吉本興業の社員である女性の態度が悪いとかの理由でこの女性をテレビ局の控え室に連れ込んで殴ったり唾を吐きかけたりして怪我をさせたという事件である。

この女性は別のタレントのマネージャーであり、その日は担当するタレント(勝谷誠彦氏。管見の範囲ではこの人は自分のマネージャーがうけた暴行についてのコメントは一切しなかった。一般論としてその女性がよいマネージャーであることを週刊誌の連載記事に書きはしたようだが。)に付き添って大阪の朝日放送に来ていて、このような災厄にあったのだというが、何でも、この人は10数年前に吉本の二人の上司と一緒にこの有名タレントと食事か何かで席を共にしたことがあったそうだ。その時以来、久しぶりに再会したので挨拶しようと考え、局内のソファに一人で坐っていたタレントに「以前上司のAやBと一緒にあなたにお会いしたことがありました。」というようなことを話しかけたところ、相手はもうそれで怒りだしたのだという。その後この暴行の件が世間に知れ渡って、そのタレントが記者会見をひらき、そこで話したところによると、女性が上司の名前を「A」とか「B」というように呼び捨てにしたことが癇に触ったのだということだった。しかしこれは誰でもすぐに理解できることだと思うが、芸能プロダクションにとってタレントは華、社員はあくまで裏方だというこの人の意識が社員である上司の名を呼び捨てにさせたのであって、それを察知しないタレントの感覚のほうがどうかしていると思うが、それについて、このタレントは、本心かどうかはともかく、100%自分が悪いと話してはいた。

私はこの有名タレントの涙ながらの謝罪会見を、朝の後片付けをしながらテレビ朝日の「スーパーモーニング」で見ていたが、大変不愉快であった。挨拶をしてそのしかたが気に入らないからの理由で、密室に連れ込まれ、殴られたのではたまったものではない。女性の話によると、このタレントは激怒した状態で部屋に連れ込んだ後、ドアに内から鍵をかけたのだという。女性の恐怖心は察するにあまりある。タレントは「殴っただけではなく、唾をかけたということですが…」という記者会見での質問に対しても、バツが悪そうに「偶然、かかったかも知れません。」というような言い方で、唾をかけたことをも決して否定はしていなかった。暴行され、怪我をした女性は、その後自分で救急車を呼んで病院に行ったのだという。

驚かされたのは、この会見をビデオで見終わった後の「スーパーモーニング」のコメンテーター達の発言であった。男女の司会者に加え、大谷昭宏、橋下徹の二氏、もう一人は大学の先生だという女性(名前は失念)であったが、全員揃ってタレントを庇い、殴られたこの女性を非難したのである。「Sさん(タレントのこと)は正義感が強いから」とか「上司の名前の呼び捨ては、タレントを含めてみんな同じ吉本所属には違いないのだからやはり問題があるのではないか。」、果ては「吉本興業の社員教育に問題があるのではないか」とか、その他、一々はもう覚えていない何だかわけのわからない理由を並べ立てていた。最も強力、かつ場をリードしていたのは、やはり現大阪府知事の橋下徹氏で、そのタレントと共演している他局の番組においていかに自分たち共演者が司会役であるそのタレントの気分を損ねないよう気を遣っているかについて得々と説明していたっけ。(この番組には、たしか芸能レポーターも二人出ていた。この人たちのほうがコメンテーターよりも公平なコメントを発していたような記憶がある。といっても、一方的にタレントの肩をもったわけではないというにすぎないが。)

私はあまりのことにしばし呆然としてしまったが、数分後これではならじと新聞でテレビ朝日の電話番号を確認し、電話をかけた。スタッフルームにつないでほしいと言うと、分かりました。お待ちください、といって、すぐに電話を回してもらえた。「もしもし」と出てきたのは、ハキハキした声から察するに30歳前とおぼしき若い男性であったが、「あの女性が非難されるいわれは一つもないと思うんですが?」というと、間髪を入れずに「でしょう!?」という返事が返ってきた。「いやァ、僕も、今、一体これはどうなってるのかと考えこんでたところなんですよ」というような、思いがけなくというべきか、こちらにとっては大変気持ちのいい応答だったので、内心ホッとしながら「それが、そう考えるのが普通だと思います。」と言うと、「そうですよねぇ。――いや、よかったです。」というような会話がなされた。その後、「これは、ちゃんと言っときます。」「ぜひよろしくお願いします。最後までちゃんと見ていますから。」という経過で電話を終えたのだった。そして実際、番組終了間際に、もう一度この話題が取り上げられた。あの青年はディレクターなのか、どんな役割をになっている人なのかは分からないが、約束どおりちゃんとやってくれたのである。他にも同じ趣旨の電話がかかったのかもしれない(そう思いたい)が、それでも橋下氏はやはり橋下氏、何の躊躇もなく、タレントを怒らせるマネージャーのほうが悪いという一点張りのことを述べてシャアシャアとしていた。大谷氏は、非常に気まずそうな笑い顔で、口の中でもぐもぐと何かを言っていたが、でもそうして反論の素振りを見せているだけ、実は何も言ってはいなかったと私の目には見えたのだが、これは錯覚だったろうか? 女の先生は自分の発言を悔いているような沈んだ感じにも受けとめられたが、本当のところは分からない。

その後、目にはいった範囲でいうと、この事件でタレントのほうを明確に厳しく批判したのは、コラムニストの小田嶋隆氏と日刊スポーツの女性記者の二人だけだった(と思う)。小田嶋氏はその直後『イン ヒズ オウン サイト』という新刊を出版されたので、私はこの件に関する発言(読売系週刊誌の連載記事や小田嶋氏の個人サイトにおける)に敬意を表する意味でこの本を購入し(とてもおもしろかった)、日刊スポーツの記者の方には、記事に賛同するメールを送信した。それから『サンデー毎日』も女性に同情的な記事を掲載したと記憶するが、その誌面に載っていた被害者女性のシルエットを見たらとても華奢な体型の人であった。

それにしても、相手が著名だったり力を持っていたり、自分たちの利害と直結するとなると、ごく当たり前の道理も蹴飛ばされる。一方的に殴られ、蹴られ、怪我させられても、同情もしてもらえず、相手を怒らせたという理由で非難攻撃に晒されることがありえることを思い知らされた。これほど露骨なイジメはさすがにこれまで見たことはなく、これはテレビが率先してイジメにお墨付きを与えているのだから、凄まじい世の中になったと痛感させられた出来事であった。他のテレビ局も似たりよったりの報道内容だったようである。その頃すでにテレビを見ることがめっきり少なくなってはいたが、この出来事を契機にいよいよその傾向がつよまるようになってしまった。
2010.02.07 Sun l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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