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大分寄り道をしてしまったが、それでは、中野重治の「意義あり」(1956年4月16日号「アカハタ」・全集第13巻)を以下に引用する。


   一 どこに異議があるか
 だれかが意見をのべる。「異議ありませんか。」と議長がいう。だれも黙っていれば、異議なかったもの、その意見に、大体においてみなみな賛成したものと自然になつてしまう。
 ところで、私に異議がある。それは小さい。格別めくじら立ててさわがねばならぬほどのものではない。けれども、ちよつとしたことを黙つてほうつておいて、あとでそれが大きな損になつて帰つてきたことは日本でずいぶんあつたではないか。
『アカハタ』の文藝時評(3月6日号)で、小田切秀雄が、石原慎太郎の「処刑の部屋」のことを、「太陽の季節」とは「ちがうすぐれた作品」だといって、「流行しはじめたみじめな不良青年文学のなかで、この『処刑の部屋』だけは特別だ。」と書いている。ほんとうにもそうだろうか。私に異議がある。(略)

   二 文壇と安定
 作品「伸子」「によって、彼女〔宮本百合子〕の文壇における安定した地位が保障された。」――こういうことが、あつたとも、またありえるとも私には思えない。
「文壇」という言葉には、だれにもわかる一種の曖味さがある。それは、日本の文学世界を一面的に代表する。しかし全面的には代表しない。日本の文壇は、支配的な大資本の力で非常につよく動かされる。支配的な政治の力ではいつそうつよく動かされる。支配的な大資本の力と支配的な政治の力と、これをあわせて支配的なジャーナリズムの力といつてもいい。この資本の力と政治の力とはたえず動く。戦争のときの「文壇」を思い出せばいい。いまならば、『文藝』の審査会で、「『太陽の季節』なんて作文ですよ。あれはね。」と川端康成がいつて一座「笑」になつた石原慎太郎さわぎを考えてみていい。
 だからそこには、残酷なことがある。『新潮』の座談会で、「つまり文壇ジャーナリズムというものが段々藝能化してくるんだよ。その犠牲者なんだ。その藝能化してくるのは何も文藝春秋が悪いのでもなければ、芥川賞銓衡委員会が悪いのでもないけれど、何かそういう藝能化してくるときに彼〔石原〕はいいカモだったんだ。」と河上徹太郎がいっている。石原がもともと鴨だつたにしろ、これを鴨としてとらえたのは、芥川賞銓衡委員会、文藝春秋新社、その他あれこれだつた。河上流にいえば、「つまり文壇ジャーナリズム」の「段々藝能化して」きた傾向ないし事実だつた。そしてこのものは、文学からその本来の機能をうばおうとする日本最近の支配的大資本と支配的政治とに由来した。残酷さは若い作家にだけではない。『中央公論』は永井荷風の「男ごころ」を発表した。こういう目をそむけたくなるような出来そこないを発表する雑誌のむごさ、それが目をそむけたくさせる。
 それだから、「文壇」はしょっちゅう変る。相当の仕事をしながら、ジャーナリズムから捨てられて、その日をすごしかねて無残な死に方をした人には例がある。それだから、すくなくとも日本では、明治以来、「文壇における安心した地位」ということは、なかつたし、ありえなかつた。ある種の人間が、勲章、年金、恩給の老年期を迎えたのとはかなりにちがつている。
 むろん、「文壇」が文学なのではない。すぐれた作品、つよい作家は、「文壇ジャーナリズム」もこれを認めねばならなかつた。またこれを受け入れた。国会などに似ている。(略)

   三 「新しい世代」ということ
 つまり、文壇と文壇ジャーナリズムとは、支配的な大資本と支配的な政治との力で動かされる。この「文壇」に、日本文学そのものの求めている発展の航路へ舵をきらせるのは、支配的な大資本と支配的な政治とにたいしてたたかうものの仕事になる。この仕事は、いつも一本すじで行くとは限らない。それは、かちどきとして出ることも泣きごえとして現われることもある。しかし基本的に、抵抗、たたかいとして、ある程度の文学的出来ばえで登揚してきたときにそれが文学的新世代と呼ばれる。
 それだから、文学の上で新しい世代というときの第一条件は、作者の年の若さではない。樋口一葉が40で「たけくらべ」を書いても、宮本百合子が30で「貧しき人々の群」を書いても、彼女らは1895年の日本と1916年の日本とで文学の上の新世代だった。この点、石原慎太郎は古い古い世代ということになる。この青年は、23にもなりながら、大学まで出ながら、23までに死ぬほどの目をみさせられる男や女、大学からも高等学校からもしめだされている無数の才能、それが日本文学と正当にむすびつくことにたいする抵抗材料として、恰好な、日本文学藝能化のための「鴨」として支配的な大資本と支配的な政治との手でつまみあげられたことをよろこんでいる。いわばファシズムヘ行こうとする勢力のために政治の道具としてつつころがされながら、本人は、「若造が何を生意気なと言われるだろうが、その『生意気』を大切にしたい。」だの、「このむやみに積極的な行為の体系の中に生れた情操こそ」だの、「この、いわば、狂暴な思いあがりをなくすことなく動きながらぎらぎら生きて行きたい。」だのといって(『朝日』1月25日号)コップのなかでふんぞりかえつている。それだから、彼に芥川賞をあたえた人びと本人たちが、この「新人」に、愛情も、尊敬も、畏怖まじりの嫉妬も、石原に気の毒になるくらいあけすけに感じていない。
 無法、生意気、むやみに積極的、狂暴な思いあがり、こういう言葉は、支配的な社会・政治悪に組みうちをかけるときに生きてくる。つまんで打たれている将棋の駒の口から出ると滑稽になる。短篇「荒布橋」を書いたとき、おとなしい木下杢太郎は「無法」に美をあたえた。石原に出てくる青年の性交渉などは、たとえば野上弥生子の[迷路]の、ある金持ちの細君の仕かけ方にくらべてもありきたりすぎて古くさい。「処刑の部屋」が、基本的に浪花節から出ていないのはそこからきていると私は思う。小田切は、ああいう作品が「鴨」として取りだされたことの意味、またこの作家(?)、作品が鴨性格をもともと持つていたという事実、また今年の日本で、選者たちが、内部にいろいろ不ぞろいはありながら、結局だれもかれも低く値ぶみした作品をわざわざ取りだして芥川賞に立ててしまつたことの歴史的意味を、いわば年齢上の新世代にたいする一種の偏愛(?)のせいで見すごしたのだつたろうか。「処刑の部屋」を「すぐれた作品」とすることに私に異議がある。これ「だけは特別だ」とすることに私に異議がある。村上笹雄の「川の上の太陽」との差別待遇にも異議がある。ついでに、上林暁を「「老作家」とすることにも異議がある。上林と私とは同いどしで、われわれは現役第一線の兵卒だと私は考えている。
 ただし、『東京新聞』の「若い世代と日本の教育」という座談会(4月4日)をみると、安部能成、蝋山政道、上原千禄、高橋義孝などの教師をしている人たちが、「若い世代」になかなか寛容な態度に出ているのがわかる。大学生に接触の多い小田切にもあるいはその手の寛容があつただろうか。しかし文学ではむしろ厳格ということが望ましい。 」


小田切秀雄は中野重治に近い位置にいた人だったと思うが、このときは中野のこの批評に反論して二人の間にちょっとした論争があったとも聞いたが、それは私は読んでいない。中野重治が、 「支配的な大資本の力と支配的な政治の力と、これをあわせて支配的なジャーナリズムの力といつてもいい。この資本の力と政治の力とはたえず動く。」といって「戦争のときの「文壇」」を思い起こして注意を促していること 、石原慎太郎自身が口にしている「無法、生意気、むやみに積極的、狂暴な思いあがり」などの言葉を挙げて、「こういう言葉は、支配的な社会・政治悪に組みうちをかけるときに生きてくる。つまんで打たれている将棋の駒の口から出ると滑稽になる。」と述べていることなどは、その後の石原慎太郎が一貫して反動的政治家として世の表に出てきているところをみれば、中野重治は文壇の新人・石原慎太郎の作品と彼の当時の言動とから政治的・資本的支配的勢力との相性の良さ、類似の性格を見透していた、実に先見の明があったといえるように思う。ただ「滑稽になる」というより、「有害になる」といったほうがより相応しかったように思うけれども、これは後の話である。

これとよく似たことは、戦前1937(昭和12)年に近衛文麿が首相に就任したときの中野重治の行動にも見られる。1937年6月、中野重治は『都新聞』に「わたしは嘆かずにはいられない」という詩を発表している。韜晦の風を装ってはいるけれども、この詩はこの少し前に発足した近衛文麿体制を痛烈に批判したものであることは明らかで、この後、中野重治が執筆禁止という弾圧に曝されたのはこの詩の発表が直接の原因だったろうという見方をする人は多い。


   わたしは嘆かずにはいられない 
 しかしわたしは嘆かずにはいられない
 人がわたしを指してヒネクレモノといおうとも
 そしてそうではないと弁解したくならずにはいられない
 人が貴公子でありせめてもの慰めであるとするもの
 それが長袖にばけたサーベルである事実をわたしは人びとに隠せない
 わたしはただ訊ねる 彼の商売は何なのかと
 また鎌足以来一千年 彼の一家は何をして飯を食つてきたのかと
 ここに国があり 司法があり
 それが拷問をもつて人民に臨んでいるならば
 わたしは思惟の必然と学問上の仮定とに立つていう
 もしも人民が司法を逮捕して
 彼の耳もとで拷問のゴの字を鳴らすならば
 彼は涎をたらしてあることないこと申しLげるにちがわぬと
 みずから愛するものは愛をいつわるものを憎む
 うそつきを憎むのは正直であるものではないか
 しかし犬のしつぽのような人びとがあつてわたしをヒネクレという
 わたしは嘆いていう あれらはしつぽであると
 そしてわたしはいう ごみ箱のかげから往来へ出てこいと
 しかし彼らはいう おれは独立に振るのだと
 そしてそれらすべてがわたしを嘆かせる

 わたしは嘆きたくはない わたしは告発のために生まれたのでもない
 しかし行く手がすべて嘆きの種であるかぎり
 わたしは嘆かずにはいられない 告発せずにもいられない
 よしやヒネクレモノとなるまでも
 しかしわたしはいう わたしは決してヒネクレではないと 」(『都新聞』1937年6月13日号・全集第1巻)


中野重治が転向者として獄中から出てきたのは1934年で、この詩の発表の3年前のことになる。松下裕氏は「評伝中野重治」のなかでこの詩について、「全体の詩の調子は、いかにも情ない、つぶやき、ぼやき、ひとりごとでないとはいえない。プロレタリア文学時代の中野詩のさっそうとしたおもかげはどこにもない。」ことを指摘し、「「転向」者中野重治は、当時こういった調子でしか物を言うことができなかったのだ。世は準戦時体制だった。そのなかで彼はこういう調子で、近衛内閣の危険な本質を暴きたて、逼塞している詩人として、かなわぬまでも強権に一太刀浴びせたのだった。その苦渋にみちた立場が、詩の鬱屈した気分、くねくねした、思いきりの悪い、遠吠えのような調子にあらわれている。当時この詩が支配者側にどう受けとられ、どう当局の忌諱に触れたかという事実は明らかでないが、その年、1937年末の重治の執筆禁止の措置に悪く作用しただろうことは想像するに難くない。」と述べている。旧制高校時代からの友人である石堂清倫氏は中野重治の転向について、「中野は『転向』によって、一つの妥協と後退にふみ切った。彼は正面肉薄戦を断念して、迂回しながら敵の本陣に接近しようとした。彼は『転向』によっていくつかのものを棄てたが、目標を見失うことなく、それに到達する文学的手段は決して棄てなかった」(「中野重治と社会主義」勁草書房1991年)と述べているが、そういう判断の根拠の一つに詩「わたしは嘆かずにはいられない」の発表もあったのではないだろうか。

中野重治が「樋口一葉が40で「たけくらべ」を書いても、宮本百合子が30で「貧しき人々の群」を書いても、彼女らは1895年の日本と1916年の日本とで文学の上の新世代だった。」と述べているのは、実際に樋口一葉が「たけくらべ」を書いたのは23歳(24歳だったかも知れない)のとき、宮本百合子が「貧しき人々の群」を書いたときは17歳だったという事実を前提としている。「処刑の部屋」という作品には、エピローグとして「 抵抗だ、責任だ、モラルだと、他の奴等は勝手な御託を言うけれども、俺はそんなことは知っちゃいない。本当に自分のやりたいことをやるだけで精一杯だ。」という言葉が置かれている。「処刑の部屋」の主人公である大学生が「ほんとうに自分のやりたいことを」「精一杯」やるということの中身は何かといえば、暴力を使った喧嘩や女性との遊びのことなのだから、絵に描いたような典型的パターンであり、今読むとエピローグに表われている作者の力みようにはちょっと失笑を禁じえないところがある。不良とか、暴力とか、無頼、というようなものには多かれ少なかれそれ自体人を魅了するものがあり、私なども惹かれがちである。北野武監督の映画がほとんどみなヤクザを主人公にしているのも理由がないことではないのであって、そういう題材はそれだけで作者にとっては得なのだと思う。ということで、私は中野重治の見方に賛同する。

石原慎太郎は現在自分は何をやっても許されるといわんばかりの言動を好き放題、我が物顔で行なっているが、1995年にこの人が国会議員を引退すると発表したときには、別に誰もたいしてその退任を惜しんだりはしなかったように私は記憶している。彼は淋しくすごすごと引き下がっていったような印象さえある。ところが都知事就任後、石原慎太郎の野放図さが格段に度を増しているところを見れば、時代の流れ、風向きが10数年の間に格段に変わった、右傾化があからさまになったということを示しているのだろう。00年代に入ってからは佐藤優という、石原慎太郎と甲乙つけがたい右翼の論客が現れたが、そういう人物を岩波書店や週刊金曜日という世の中で良心的、左派系と思われている出版社が先頭に立ってその売り出しに貢献したという事実もある。自ら右翼と名乗りそのとおりの言動をしている人物を影に日にまるで「誠実で良心的な知識人」のごとくに喧伝していたのだから、これは異様としか言いようがない。こういうはどめのない流れのなかで、石原慎太郎には、「自分は特別な人間である」というもともと持っていた確信が今ではさらに増幅しているように見えるが、その根拠について遡って見てみるとやはり後にも先にもない大騒ぎのなかでの芥川賞受賞という過去の栄誉に拠るところが大であるように思う。

ちなみに、中野重治は、上記で『中央公論』が永井荷風の「男ごころ」という作品を掲載したことを批判している。「こういう目をそむけたくなるような出来そこないを発表する雑誌のむごさ」とも書いている。私はその作品を読んでいないが、これは出来がよほど悪かったのだろう、と私は思う。数々の名作を生みだした永井荷風の実績を汚すだけのよほどの愚作だったのではないか。そうでなければ中野重治は決してこんなことを公言しなかっただろうと思うのである。


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「 この詩はそのころ、『都新聞』に毎週日曜日、詩一篇ずつが掲載された「日曜詩」欄に発表された。詩人は18名で、窪川鶴次郎、三好達治、菊岡久利、津村信夫、小熊秀雄、中原中也、金子光晴、立原道遣ら、当時の代表的詩人を網羅している。そして、ほとんどの詩人が抒情詩を書いているなかで、重治だけが時事的な内容の詩を書いているのが目につく。この詩の発表された6月13日のわずか9日まえの4日には、第一次近衛内閣が成立していて、中野重治はそのことを正面から批判的に取りあげているのだ。
 1931年の「満洲事変」の勃発以来膠着した対中国政策の打開を期待されて登場した近衛内閣は、それに失敗し、かえって翌月の37年7月には全面的な日中戦争にまで突きすすんだ。以後、近衛は、軍部の政策をおおむね実行して、太平洋戦争開戦の尖兵の役割をはたしたのだった。
 わたしは、近衛内閣登場以後の新聞の紙面のあまりの変りようと荒廃ぶりを中野さんに言ったことがあった。中野さんは、「そうなんだよ、それまではまだ文藝欄などにも多少見るべき記事や論議もあったのに、近衛になってからは戦時一色になってしまったんだ」と言った。3ヵ月もつづいた「日曜詩」なども、新聞の文藝欄の最後の企画の一つだったのだろう。近衛文麿は国民的衆望を担って政局に登場してきたが、期待の根拠は天皇に最も近い古い公家の公爵という家柄とか、貴公子らしい風貌とかの、実体のない空疎なものだった。重治は、近衛の異常なほどの国民的人気の裏にひそむ政治的危険性に正面から挑んでこの詩を書いた。」(「評伝中野重治」松下裕)
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2012.11.13 Tue l 中野重治 l コメント (1) トラックバック (1) l top
中野重治の批評眼は、石原慎太郎の作品がそれまでの新しい文学の出現とは全然異なった色合いを帯びて現れ、世間の大、大注視のなかで芥川賞が授賞されたことに文壇と出版界の頽廃というべきか、不吉なものを感じずにいられなかったようである。無視するのではなく、二度、三度と、石原作品に対して、というより周辺の大騒ぎと騒ぎの性質に対してきびしい批判を行なっている。前に「芥川賞について思い出」のなかから新芥川賞作家・石原慎太郎に関する部分を引用したが、今回は「異議あり」という文章のなかから、やはり石原慎太郎に関する箇所を引用しようと思っているのだが、その前に、つい先日文芸評論家の豊崎由美・栗原裕一郎両氏による「「太陽の季節」は本当に芥川賞にふさわしかったか!?」という対談がネット上に公開されているのを見たので、この対談の感想などを少し書いておきたい。


栗原 … そしていよいよ、石原慎太郎「太陽の季節」ですが。
豊崎 文句なしの◎です。当時の選考は、間違っていません。
栗原 おおっと、トヨザキさんが慎太郎に◎をーっ! 僕は〇です。藤枝静男「痩我慢の説」との二択。
豊崎 「太陽の季節」に芥川賞を与えた当時の選考委員を、時代の空気をよくぞ読んだと褒めてあげたい。この受賞によって、芥川賞も、出版界も、社会までも動きましたからね。「痩我慢の説」に授賞していたら、そうはならなかったでしょう。
栗原 藤枝は結局、芥川賞をとれなかったんですが、ここで藤枝に授賞していたら、後の文学史は愕然と違うものになったでしょうねえ。
豊崎 いずれ動く時期が来たとしても、慎太郎ほどの効果はなかったと思う。「太陽の季節」は若い世代からの支持と、上の世代からの非難が同時に爆発して、世代間闘争をあらわにする装置の役割も果たしましたね。
栗原 価値観のドラスチックな転換が、たぶんあらゆる人の意識下で予感されていたんだと思うんですよね。この回の候補作を見渡しても、ほとんどの作品が何かしら戦前と戦後の価値観の対立を描こうとしているし、藤枝なんかも一歩踏み出したつもりで「新しい価値観も受け入れていかなきゃいけないんじゃないか?」ってところを描いているわけですけど、旧世代がエイリアンみたいな新世代を頭で外から理解しようという線で止まっている。そんななか、慎太郎は新しい価値観を体現する側として、内側からそれを描いて見せたわけですね。このコントラストがけっこう、残酷なくらい鮮明に出てしまっている。
豊崎 若い世代を代弁しながら、前世代には非常に挑発的。たとえばこういう記述が、選考委員の逆鱗に触れたんだろうなあと想像します。

彼にとって大切なことは、自分が一番したいことを、したいように行なったかと言うことだった。何故と言う事に要はなかった。行為の後に反省があったとしても、成功したかしなかったと言うことだけである。自分が満足したか否か、その他の感情は取るに足らない。
 」(強調は引用者による)


豊崎氏は「太陽の季節」に芥川賞を与えた選考委員について、「時代の空気をよくぞ読んだと褒めてあげたい」と述べているが、これはもしかすると授賞を推した選考委員への痛烈な皮肉なのだろうか? 豊崎氏は「(石原慎太郎は)若い世代を代弁しながら、前世代には非常に挑発的。たとえばこういう記述が、選考委員の逆鱗に触れたんだろうなあと想像します。」とも述べて、その「逆鱗に触れた」らしき石原慎太郎の文章を引用しているが、しかし私はこれを読んだ選考委員はその内容があまりに幼稚かつ月並みに低次元なことに失笑するか、こういう文章の書き手を文春などの各出版業界の要請に応じて芥川賞作家として売り出すことに加担してよいものかどうかという迷いを深めたかのどちらかではなかったかと愚考する。

石原慎太郎の上記のような言葉は別に珍しくも何ともないもので、昔からそこらへんにいくらでもころがっていたのではないだろうか。今でも反抗期の生意気盛りの中学生はそういうことを本気で考えているかも知れないと思う。ただ自分は確かに新しいことを言っているのだというような衣装をまとう術は、石原慎太郎は最初から達者だったようである。上等なものとは思わないが、それも才能には違いないのだろう。この少し後のことになるが、正宗白鳥は、自分が地元にある公立高校に進学せずに私立の学校を選んだことについて、子どもの時分、公立高校の学寮で「太陽の季節」に描かれているようなことが日常茶飯事に行なわれているという話が岡山の街中にまで噂として広まっていて、それを聞いた自分はその高等学校に行く気を失くした。ああいうことはちっとも新しくもないありふれたことなのだと何だか噛んで捨てるような調子で書いているのを読んだことがある。「慎太郎は新しい価値観を体現する側」だなどとなぜ言えるのだろう。現在の石原慎太郎の言動を見ていれば、基本的に戦前からの日本の古い思考形式と行動を反復しているに過ぎないことが分かるだろう。萌芽はすでにこの発言のなかにもあったのではないだろうか。豊崎・栗原氏の対談では、さらに選考委員について、特に授賞に反対した委員について次のような言及がなされている。


豊崎 大賛成ではないけれど最終的には推しましたという立場の、中村光夫の言い方もなかなか。勢いを褒めたり、文章の稚拙さを批判したりしつつ、最後に改行して突然、「石原さん、しっかりして下さい」。
栗原 これはちょっと「うっ」となりますよね。授賞に賛成したことに「とりかえしのつかぬむごいことをしてしまったような、うしろめたさを一瞬感じました」とも言ってます。
豊崎 後の論争のほうでも明らかになっていきますけど、中村光夫は慎太郎のことを純粋でうぶな少年だと思い込んでた節があるんですよね。で、心のきれいな少年をこんな騒動の渦中に引っぱり出して良いものか、とちょっと心配してる風。まあ、結局のところ、そんな思いはまったくの杞憂だったわけですから、中村先生も心配して損しましたね(笑)。
栗原 しかし何より、この後、論争の口火を切ることになる佐藤春夫の酷評ですよね。

この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった。
 これでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思ったものである。そうして僕は芸術にあっては巧拙よりも作品の品格の高下を重大視している。
 僕にとって何の取柄もない「太陽の季節」を人々が当選させるという多数決に対して、僕にはそれに反対する多くの理由はあってもこれを阻止する権限も能力もない。

豊崎 佐藤春夫と宇野浩二の二名は全否定。宇野浩二は、とにかく奇を衒っただけの通俗小説だとこきおろしてます。だけど、その批判より、選考会の内幕の書き方がおもしろいですよね。誰それが反対しただの、賛成しただのを以前書きすぎて怒られたなんてことまでバラしちゃって。あげく、これ以上書くとまた怒られるからこの辺でやめときます、だって(笑)。宇野先生、そんなんだから怒られるんだよっ!
栗原 川端康成は「多少のためらい」を感じつつも推すと。
豊崎 川端先生のここんとこ、言い得て妙ですよ~。「極論すれば若気のでたらめとも言えるかもしれない。このほかにもいろいろなんでも出来るというような若さだ。なんでも勝手にすればいいが、なにかは出来る人にはちがいないだろう」 
栗原 「なんでも勝手にすればいい」(笑)。川端はたまにこういうわかったようなわからないような選評を書きますね。
(略)
豊崎 佐藤春夫は、石原慎太郎なんて奴ァなにがなんでも認めない、っていうおじいちゃん世代の代表。選評じゃ、文句を言う字数が足りなかったと言わんばかりに「作品云々よりコイツの人間性が大っキライだ」っていう本音がひしひし伝わってくる内容になってます。まあ、気持ちはわからなくもないけど、自分だって品格を疑われるような作品書いてるじゃんねえ。
栗原 そうなんですよね。そこに舟橋聖一が、佐藤のプライバシーを伏字イニシャルで具体的に暴露しつつ、いやいや先輩だって「快楽主義的なたくましさ」と「やんちゃな無恥」で鳴らしてたもんじゃないですか、と突っ込んでいく(笑)。 」


佐藤春夫が、戦時中の太宰治のある小説(題名は今ちょっと思い出せないのだが、ストーリーは太宰らしき主人公が一家のなかから戦死者や出征者を何人も出しているある家を訪問したときの出来事を描いたものだったと記憶している)を批評している文章を昔読んだことがあるのだが、その批評は小説の内容に具体的に入っていって、小説のどの箇所、どの表現がどのようにすぐれていると佐藤春夫が感じているかが素人の読者にも明瞭に理解できるような書き方がされていた。そのとき何か新しい読書経験をしたような気がしたのだが、おそらくああいう批評のやり方というのは、詩や小説に読者の目を開かせる最もよい方法ではないかと今にして思う。また、中野重治の詩について述べていた佐藤春夫の言葉もとても印象的であった。中野重治の詩はそこらへんにありふれた卑近な言葉のみがつかわれている。新奇な言葉、難しい言葉などはまったく用いられない。それでいながらその詩には全体として高い品格が備わっている。これは大変なことなのだ、というようなことであった。これも私にはハッとする思いがけない言葉であったが、貴重なことを教えられた気がしたことは言うまでもなかった。私は佐藤春夫に特に何の思い入れも持っていないのだが、佐藤春夫は晩年自分で「門弟3000人」などと口にして、すっかり惚けているなどと悪評を被ったりしている。もともとアクが強い人でもあったのだろうが、それにしてもヘンなことを言ったものだと思うが、ただもし門弟が多かったのが事実とすれば、それは実際に佐藤春夫と接触することで門弟のほうに文学面の上達ということで利益があったからではないかと、私は自分の読者経験からしてそう思う。

そういう佐藤春夫が石原慎太郎を徹底して認めなかったのならそれは佐藤春夫が年をとっても文学者としての自己に忠実だった、正直だったというに過ぎないことで、他に意味はないように私には思える。そもそも「太陽の季節」への芥川賞授賞に賛成した川端康成にしても、中野重治の「異議あり」によると、「太陽の季節」が、文学界』の新人賞を授賞して話題になったとき、「『太陽の季節』なんて作文ですよ。あれはね。」ともらしたそうではないか。
(つづく)
2012.11.06 Tue l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
中野重治が、「中野重治全集」の編集を一手に担われた筑摩書房の松下裕氏に、「芥川については、中村真一郎の言っていることが一番よくあたっている」と何度も語ったという話は以前に書いたことがある。「中村真一郎の言っていること」とは、「今日、芥川の全作品を通して、ぼくらが感じるのは、実にこの懐しいばかりの人間的な優しさである。作者の機智や逆説は、忽ち古くなってしまった。しかし、ひとりの生きた人間としての彼が、心の奥に一生抱きつづけてゐた、無垢な少年のやうな、育ちのいい素直さは、今尚、ぼくらを郷愁に誘ふのである」という言葉のことで、中野は1954年に書いた「三つのこと 二「人間的」」という文章のなかで、「中村が芥川の「人間的」にふれて書いている言葉に私は賛成する」と述べている。

これに便乗して私も賛成するというのは調子がよすぎるようでちょっと気がひけるのだが、それでも芥川龍之介の文章を読んでいると、胸の奥のほうからその文章の書き手に対する愛情のようなものが自然に牽きだされる、そしてそれが作品を読み終えた後々まで消えずに残り保たれているということは事実なのである。私の場合、日本人作家のなかでこういう人が芥川の他にもう一人いて、それはかの夏目漱石である。漱石にも芥川がそうであるように、「実にこの懐かしいばかりの人間的な優しさ」があるように思う。また芥川に「無垢な少年のやうな、育ちのいい素直さ」があるとしたら、漱石には、「無垢な少年のやうな、潔癖一途な正義感」があったように思う。漱石、芥川が近代以後の文学者のなかで太宰治とともに最も人気が高い、よく読まれているというのは、私が感じているものと近い感じを持っている人が大勢いるということかも知れない。

ところが最近、私は中野重治に対して芥川や漱石に対するのと同じような気持ちを持つようになってきている。これはわれながら思いがけないことで、というのは、私は長い間中野重治について尊敬すべき立派な生き方をした人でありすぐれた作家でもあることは間違いないとしても、どうも今一つ親しみが湧かないというような先入観をもちつづけていたのだった。作品を丁寧に広く読むまえに、中野重治の政治的な立場やねちねちと相手を追いこんでいく執拗な論争のスタイルなどという、世の中で喧伝されているイメージを取り入れてある固定した作家像を自分で勝手につくり上げてしまっていたのだろう。

中野重治は詩人であり小説家であり批評家でもある一人の文学者である。中野自身は、自分は一箇の詩人である。他の人がどう見ようと、自分ではそう思っている、とどこかではっきりそう書いていた。高等学校に入学したばかりの時期の自分について、同窓生の桑原一治、大河良一、小木曾(おぎそ)三郎、望月荘郎、得田純朗などの名を挙げて、「来てみるとまわりはことごとく文学少年たちであった。(略)私は眼をみはり、うらやましさと詩作にたいするあこがれとで身うちをわななかせた。しかも私は与謝野晶子の『歌の作りやう』という本を春陽堂へ注文するほどにも全く無邪気であった」(「日本詩歌の思い出」)と書いている。

やがて彼は同人誌「裸像」「驢馬」に拠って「豪傑」「夜明け前のさよなら」「歌」などを書いて詩人としての出発をしたが、その詩は少し後の「雨の降る品川駅」もふくめて当時の文学者や文学青年に鮮烈な印象をあたえるものだったようだ。小説は「村の家」「汽車の罐焚き」「五勺の酒」「歌のわかれ」「むらぎも」「梨の花」「甲乙丙丁」など、傑作、問題作揃いで、現在もそれらの作品は何かにつけて語られている。詩人、小説家としての中野重治こそが最も重大であり貴重であることは間違いない。ただ、文藝批評家としての中野重治の力量、実績、功績もまたもの凄いと思う。24歳で書いた「啄木に関する断片」に始まって、戦時中の「斎藤茂吉ノート」「鴎外その側面」「「暗夜行路」雑談」など、文藝批評家としての中野重治の著述は、石川啄木、斎藤茂吉、森鴎外、志賀直哉という近代日本の重要な文学者を個別に論じる場合に絶対に除外することのできない作品群だろう。「斎藤茂吉ノート」などは、すべての茂吉論のなかで最もすぐれた作だと評する人が少なくない。松下裕氏の「評伝中野重治」によると、岡井隆は「『斎藤茂吉ノオト』は、おそらく、茂吉を文藝評論の対象にした最初の作品であった。そして、これを抜く批評文学は、茂告論に関するかぎり、その後もあらわれていない。」と述べているとのことだし、茂吉の次男である北杜夫も、「中野全集」の月報(1979年)に一文を寄せ「未だに茂吉論の中で「茂吉ノート」を凌駕するものは出ていないであろう。」と書いている。

 「 「斎藤茂吉ノート」は高校時代に読んだが、このたび再読してみた。そして、中野氏が思想も異なる茂吉にどれだけ打ちこんでくださつたかが更めて判り、胸が痛んだ。
 冒頭の「ノートをとる資格」からして、氏の謙譲ぶりがわかる。そのくせ、当時の資料の抜き書きからして、実に十全で適確であり、要を尽しておろそかでない。
 氏は、茂吉が自身や自分の仕事が「はかない」としきりに書いていることを指摘している。同時に、その論戦の文章など、たとえば「世間の人々よ。『真人間で居てえや』などと云つたつて駄目だ。今に見ろよ。じたばたしても駄目だぞよ」
 などという文章を克明に摘出されている。
 それは、「神々よ、僕をまもりたまへ」とか、「僕の此のあはれなる歌集に幸ひたまへ」とか「神々よ、僕の歌集を護りたまへ」などという初期歌集の後記に対応するものだ。
 氏は論戦の文章のあとで述べる。
「こういう言葉は、自身および自身の仕事を『はかない』などいつている人の口から出るもの、出ることのできるものではない。自分の仕事、自分の努力、自身の行く道に確信のあるもの、『南蛮鉄の如き覚悟』あるものでなければこうはいえぬであろう」
 同時に、
 「彼は気の強い人間である。しかも事あるごとに、神よ僕をまもりたまえとか、友よ僕のあわれな心をとがめるなとか、せめてもかすかな慰めであるとかいうことをいわずにはいぬ人間である。私はそういう人間ではない。私のあくは強くない。生まれてきた性質からして、私は、自分が茂吉を分析するのに十分には適していないことを知っている」
 あえて牽強付会にいえば、私は中野氏はある程度、茂吉に似た人間ではないかという思いがしきりとする。氏は気が弱いこともあつた。同時にあくもけつこう強かった。それが思想もまつたく別とした茂吉という人間に興味を惹かれた一因ではあるまいか。
 それゆえ、氏の茂吉に対する理解は、同時代の歌人などに比し格段のものがある。たとえば、
  家蟎(いえだに)に苦しめられしこと思(も)へば
    家蟎とわれは戦ひをしぬ
 というつまらぬ歌がある。これに対し、歌人たちはあれこれ論じているが、中野氏はきつぱりとこの歌を否定している。
 「茂吉にあるわかりにくいもの」は、もっとも中野氏の面目の表われている一章であろう。第一、中野氏自体、「わかりにくい」詩人であり作家であり評論家である。粘液質といつてもよい。ここにも私は中野氏と茂吉との近似をあげたくなる。茂吉に対する中野氏の評は、讃めるべきところは讃め、けなすべきところははつきりとけなしている。未だに茂吉論の中で「茂吉ノート」を凌駕するものは出ていないであろう。
 私事にわたれば、不肖の子である私は、この中野重治という立派なお方が本気になつて父を論じてくださつたことが、涙が出るほど嬉しいのである。 」(「「茂吉ノート」など」北杜夫)

これは、息子でありながら、中野重治と同じく茂吉の歌を心から敬愛していた北杜夫の心情が素直に表われたとてもよい文章ではないかと思う。けれども、批評家としての中野重治の面目が表われているのは茂吉論だけではないだろう。「「暗夜行路」雑談」はよく指摘されるように確かに作品の読みの勘違いなど明らかな欠点も挙げられるが、その着眼点からして中野重治以外の人には決して書けない充実した作品批評の文章であることは明らかだと思う。それから中野の啄木論について、堀田善衛は「啄木を論じるにあたって中野重治の「啄木に関する断片」を抜きにすれば何も語れないだろう、本当に不思議な人である」という趣旨のことをどこかで述べていた。「鴎外その側面」は、私は一部分しか読んでいないのだが、おそらく事情は同じではないかという気がする。漱石については、中野重治はまとまったものこそ書いていないが、断片的にまたついでのようにたびたびふれて書かれた漱石に関する文章は、たいていどちらかといえば漱石の弱点や否定的な面を取り上げているのだが、それにもかかわらず漱石に対する敬愛の念と理解の深さ、見方のユニークさは無類であって、私にはどれも一度読んだら決して忘れられないほど印象ふかいものであった。たとえば次の文章における漱石がそうである。

「 無限の挑発、無限の激励  ――私の明治――
 明治は45年つづいて終わった。私は明治35年に生まれた。だから「明治」は、私には10年間しか関係しなかったともいえる。しかし実際には、それはもっと長いもの、もっと大きなものとして、現に私にかぶさっているうえ、日に日にかぶさって来るものともなっている。
 明治から大正にかけて、私たち、あるいは私は、「明治」についてついにろくに教えられたことがなかった。自分でも学ばなかった。学ぶことを知らなかったというのが正しいかもしれない。
 中学校生徒のとき、私たちは年に一度橋本左内の墓まいりに学校から連れられて行った。左内の墓はあるかなしのちっぽけなもので、町の片隅ほどのところにうち捨てられたようにして建っていた。しかしいったい、そのころの墓というものすべてがそうだったように思う。遊覧バスがまわってきて、僧侶やバスガイドの娘が朗読調で何かを述べたてるということが一般になかった。法隆寺でさえ、昭和になってからさえ、法隆寺村の門前には前にもうひろにも人かげが見えなかった。だから私たち中学生は、えらかった左内の墓へ詣りはしたが、左内のことはろくすっぽ聞かなかった。横井小楠とのことなどはひと言も聞かされなかった。この左内が孝明天皇を見どころのある青年として見て、これを「政治的に使えるもの」と判断したことなどはこれっぽちも聞かなかった。小楠における共和思想の芽ばえのことなぞは聞きも読みもしなかった。左内の書いた二間も二間半もある長い長い手紙、つまりはそれが彼らの非合法文書で、それをあちこちにまわしてまた左内のところにもどってきたものだということなぞは高等学校へはいった年にようやく知ったことだつた。
 だから「明治」は、そもそもは幕末から来ているのだろう。あのころの人のことを考えると、諸外国ないし世界像のことについても、高野長英が小伝馬町の牢から脱獄してなかなかつかまらなかつた時、佐々木省吾という人が「何処へ奔り候や、定めてリュス[ロシア]などと察し候。御考へ如何……」といつた手紙を友人に書いていること――それはつまり、それに何とか返事を書いた――書いたにしろ書かなかったにしろ――友人がいたということでなければならなかつたが、私は無限の激励を受ける。「亡命」がどうのこうのと言っているきわではない。
 だからまた、明治政府をあんなふうなものとして露骨無惨な「実力」をもつてつくりあげた人びと、天皇に土地と金と軍隊とをあたえて、人民をにらみすえるものとして築造した人びとの見通しの確さから私は無限の挑発を受ける。尊敬し敬愛してやまぬ漱石にしても、明治天皇の死で明治が終わつたというふうに感じたのだつたと仮にもすれば、さすがに挫折などというきざつぽい言葉はつかわれなかつたが、その点は必ずしもそうでなかつたことをしたたかに考えさせる。
 山城屋和助事件ひとつ思い出してみてもそこは明らかなように私は思う。「明治」の国家権力の性格をあれは象徴していた。司法卿としての江藤新平は指揮発動のまっこう逆を行った。それが司法というものの当時における自然だったのだろう。これは吉田、池田、佐藤の線に比べて考えることができる。山城屋和助は、パリーから走って帰ってきて陸軍省のなかで、感服自殺して事件をもみ消した。明治天皇、大正天皇と来て現天皇は象徴・人間として残った。山城屋とはちがった方法、様式で事は運ばれている。こういう全体は、民主主義もへったくれもなく「明治百年」が生きている一面を照らしている。私は無限の挑発をうける。「明治」の克服としての日本発展ということがやはり最後のものなのだろう。羽田事件その他でマスコミは学生・青年側の「暴力」を書きたてた。あんなもののどこが暴力か。「明治」を見よと言いたい。」(1967年12月16日共同通信社配信・全集第15巻)
(つづく)
2012.11.03 Sat l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
孫崎享氏については、名前はさすがに知っていたが、著書もふくめてその文章を読んだことはこれまでたぶん一度もなかったと思う。ただ最近出版された「戦後史の正体」という本が話題を呼び、よく売れていること、その一部(100ページ分)がネットで読めるということを知り、それを読んでみた。
http://www.sogensha.co.jp/pdf/preview_sengoshi_ust.pdf

これは他の人の感想にもあったのだが、この本の文章は最初のページから何か一種異様な心持ちにさせられるもので、この印象は100ページを読み終わるまで変わらなかった。孫崎氏によると、そもそもこの本を書いたきっかけは、出版社から「日米関係を高校生でも読めるように書いてみませんか。とくに冷戦後の日米関係を書いてほしいのです」と「相談され」たことだったそうだ。「「高校生でも読める本」という言葉は魅力的です」とは著者の弁だが、申しわけないが、できれば高校生にこういう本は読んでほしくないものである。「日本のみなさんは、戦後の日米関係においては強固な同盟関係がずっと維持されてきたと思っているでしょう。そして日本はつねに米国から利益を得てきたと。とんでもありません。米国の世界戦略の変化によって、日米関係はつねに大きく揺らいでいるのです。おそらくみなさんもこの本をお読みになることで、日米関係の本当の姿がおわかりになると思います。」というが、日本に「戦後の日米関係においては強固な同盟関係がずっと維持されてきた」「 日本はつねに米国から利益を得てきた 」と思っている人間はそうそういないだろうし、「おそらくみなさんもこの本をお読みになることで、日米関係の本当の姿がおわかりになると思います。」などという言葉は、厚かましすぎるだろう。100ページを読んだだけでその本に対する結論を出すのは早計だという指摘もあるだろうが、歴史を語るというのに、100ページもの長い文章中に実証精神がどこにもまったく感じられないこのような本は、やはり「珍書」「トンデモ本」といわれても仕方がないように思う。

この本の後半では岸信介に対する驚くべき新たな評価がなされているようだが、私はここで岸信介が首相に就任した年の57年、および日米安全保障条約が国会で審議中の60年初めに岸について書かれた中野重治の文章を紹介したい。中野はこれにかぎらず岸信介という政治家について、またその政策について幾度も言及しているが、私はその指摘は全体的に岸の核心を衝いた信頼のおけるものだと思っている。注目したいのは、中野重治は吉田茂についてもきわめて批判的だが、この吉田より岸はずっと悪質だと述べていることである。中野は1947~50年の3年間にわたり日本共産党の参議院議員として活動しているので、吉田茂の首相ぶりは身近で見ていたことになる。すこし話が脱線気味になるが、いろいろな人の発言をみると、中野は実は国会議員として大変優秀だったようである。この点については機会があれば、また取り上げたいと思うが、中野重治が国会質問や演説に立つ日には、「傍聴席におおぜいの人がつめかけて、せまい委員会室などは身うごきならぬくらいだったという。このことは、当時の関係者たちが口をそろえて語っている。同僚議員だった社会党の木村禧八郎もそう言っている(「ほんものの人間としての中野重治さん」)。そのころの参議院議長は松平恒雄で、この人は会津藩主松平容保の子息で、共産党ぎらいだったが、中野議員の演説だけは聞くのを楽しみにしていたという。」「中野重治の国会演説は、論理が平明で、叙述が具体的で、言葉が厳密だった。そうして言葉だけでなく、演説それ自体が簡潔だった。」「中野重治の演説が藝術的で、心をうつものがあり、彼が当時の参議院で一、二をあらそう演説家だったことはまちがいない。」(「[増訂]評伝中野重治」松下裕(平凡社2011年))。松下氏によると、中野には、「自分が国会議員だったころのことをまとまった一つの小説に書くつもりがあった」そうである。松下氏も「中野重治のような観察力と表現力をそなえた文学者で、国会議員としてこれほどの活動をした人はその後も出ていないので、そういう作品のできあがらなかったことは残念なことだった。」と述べているが、こうして中野重治にそういう小説の意図があったことを聞かされると、私なども今さらのように残念に思う。ちなみに、中野の議員生活が3年間という中途半端な期間だったのは、彼が当選した第1回の参議院議員選挙では当選者のうち半数の上位当選者は6年間、残りの下位当選者は3年間任期という規則があらかじめ定められていたのだそうである。これも後になって振り返ってみると本当に残念なことだったと思う。せめて6年間くらいはやってもらいたかった、と思わずにいられない。それでは、以下に「どうして岸に書ける」「岸グループと天皇グループ」の2本の文章を引用する。


 どうして岸に書ける (『アカハタ』1957年8月・全集第23巻)
 西太平洋のなかのぽつんとした島、目にもはいらぬようなあのウェーク島が、アメリカ陸海軍の重要基地になつたのは1936、7年ころのことだつたろう。
 41年年末、ハワイの真珠湾へ不意討ちをかけた日本海軍は、たちまちここを占領して軍政をしいた。ウェークはその名も大鳥島と日本風にあらためられた。日本の兵隊はここで悪戦し苦闘した。
 とくにしまいのころがひどかつた。形勢逆転して、アメリカ海軍のほうが攻撃をかけてくる。アメリカ軍飛行隊がものすごい量の爆弾を投げおろす。それを風のように、浪のようにくりかえす。
 日本陸海軍はそのウェークに食糧をとどけなかつた。兵器をとどけなかつた。援軍を送らなかつた。とどけようにも送ろうにも、しかけが無理だつただけに、いまとなっては手も足も出ないというのが事の真相だつただろう。
 日本の兵隊は非常にたくさん死んだ。武器なし食いものなしで、彼らはにぎりこぶしひとつで戦つてたおれて行つた。生き残つたわずかの人が、1945年9月に降伏した。
 それは、降伏しようにもしきれぬ心持ちだつたにちがいない。まして死んだもの、殺されたものは、死ぬに死にきれぬ気持ちで仕方なしに死んで行つたにちがいない。成仏しかねるところ、たましいが中有に迷うといったところだつたにちがいない。
 彼らの亡霊が出る。それがあすこを通る日本飛行機にはたらきかける。そこで日本飛行機の事故が後を絶たぬ。こんなうわさが出たにしても、出るには出るだけの根拠があったといつたところだつたにちがいない。
 そこへ今度岸がアメリカヘ行った。話が岸の耳にはいった。遺族方面からもいろいろと要求がある。そこで岸が、このウェークに戦役者の慰霊碑を建てよう、その文字は、墓碑銘は、自分岸が筆をとつて書こうと言いだした。
 いや、いや、慰霊碑を建てるのは悪くあるまい。だが、字を岸が書いて、それで慰霊になるものかならぬものか。
 満州国産業部長、日本政府商工次官、東条内閣の商工大臣、同じく軍需次官(長官は東条)、何よりもあの開戦宣言の署名人、ウェークに兵隊をおくつて、ほとんどこれを見殺しにした男の字でウェークにそれが建つのを黙つて見ているものがあろうとは私には思えない。

 岸グループと天皇グループ (『アカハタ』1960年2月16日号・全集第14巻)
 ――安保特別委を前にして――
 戦後のある時期に「パンパン」という言葉が出来た。これはある事実が生じてそこで言葉が出来た。言葉は出来たが、宮本百合子はそれを使うことができなかった。彼女は、なんだか、「カタカナ言葉を二つ重ねた呼び方」とかいつた書き方でやっとそれを指していた。一人の日本人女として、その女きようだいたちにたいし、このカタカナ言葉を自分のペンで書くのに耐えなかつたのだろう。
 その後「オンリー」という言葉が出来た。これも事実が生じてそれから言葉が出来た。さて、「パンパン」ががさつで開けつぴろげなのにたいして、「オンリー」はじめついて内攻的に響いてくる気がするが、岸と岸グループを見ていると極く自然にこの「オンリー」が頭に浮ぶ。
 その直接の元祖は吉田茂とそのグループとだつた。「マッカーサー元帥にじかに会えるのは私だけなのだから、ぐずぐずいうな。」というのが取っておきの彼のせりふだった。それが今度は、一直線に、「事前協議について、私とアイク大統領とがこう共同宣言にいつてるのだから、日本の人民も、国会の野党も、ソ連政府、中国政府も、ぐずぐずいうな。」というところへ出てきた。オンリーぶりも極まつたというところだろう。
 けれども、吉田は頑固ものだといわれた。岸はそつがないといわれている。そこはどうなるか。しかし実をいえば、あのときの吉田には押しつけられた形があつた。今度の岸はすすんで買つて出ている。少なくとも、対等なのだと、すすんで買って出てるのだと自分で言っている。吉田が頑固ものと見せた軟骨漢だつたとすれば、岸はもみ手をした暴力団ということを基本性格としているだろう。卑俗にいっても岸の方がひどく卑しい。いまに始まったことでもないらしく、『世界大百科辞典』に「つねに時流に乗ずるのに敏で、政界のかけ引きもうまく、官僚出身政治家の筆頭にあげられている。」とかねて書かれている。
 ただ現実の「オンリー」たちは権力の座にはいない。彼女たちはさんざんに侮辱され、踏みつけにされたうえに捨てられ、まかりまちがつて殺されてさえいる。その悲しい荒かせぎのなかから彼女たちは税金を出している。それが日本にいるアメリカ軍の費用の半分、百十一億の部分にあてられ、岸の食いぶちをまかない、彼のアメリカ往復の旅費の一部をまかなつている。ひもつきということでどれだけオンリーめいて見えるにしろ、岸をオンリー呼ばわりするのは彼女たちを直接にも侮辱することであるだろう。
「極東」とはどこだかということが問題になつて、すべったの転んだのと岸が言っている。国会での問答はそれとして、この「極東」には全く限定がない。それは限定のないこと、無限定ということをこそ前提としている。現にアメリカ政府が、これは限定されてはならぬのだといつて日本政府の尻をたたいている。岸は、ただ簡単に、「東洋平和のためならば、何の……」といった歌、彼がさきに立つて歌わせた歌のあの「東洋」を思い出せばいい。もつと直接に、彼自身になかなかに関係の深かった、1946年5月からの「極東国際軍事裁判」の「極東」を思い出せばいい。核兵器をかついでなぐりこみをかけようとしている本人が、なぐりこみをかける当の場所をこれこれと指定して、その線からは一歩も踏みこみませんと約束して「事前」に自分をしばる馬鹿があるだろうか。
「極東」の限定が猫の目のように変るのは、それを無限定のままに固定させようという本来の目的のための手つづきを出ない。岸本人がそのさきへ出てしまつている。岸本人が金門島、馬祖島まで持ちだしてしまつている。
 ハボマイ、シコタンの問題でとうとう岸は「国民感情」を持ちだした。特に岸は、2月10日の国会答弁で「シナ」と「シナ大陸」とを持ちだした。(テレビ放送の限りでは、このとき「シナとは何だ。」というような声が誰からも出なかつた。また新聞は全然これにふれなかつた。) 国民感情、国民感情、この言葉が出るときこそ気をつけろ、という気持ちを忘れさせられるほど日本人一般が馬鹿で、岸がわるがしこくて、このわるがしこい岸が成功するだろうと岸と岸グループとは信じているのだろうか。
 調印を追つて出した新日本文学会の声明は、調印によつて問題が「新しい段階」にのぼつたことを認め、日本政府が、中国、朝鮮、ソ連などにたいする「敵視」態度から「敵対」態度に移ったこと、直接の挑発へと乗りだしたことを認めた。中国を「侵略国家」だとしてきた岸政府が、当の「侵略国家」へ侵略者として「自主的に」乗りこむことを声明して中国が「静観」すると考えるほどわれわれは盲だろうか。中国政府、ソ連政府の内政干渉をうんぬんする岸グループは、彼らの日本政府の仕事が、アメリカにとつては内政問題であるのに近いことを告白しているだろう。
 だからまた新日本文学会の声明は、アメリカ政府が日本「政府の意志に反して行動する意図のないことを保証する」といつているのは、日本「国民の意志に反して行動する意図のあることを保証する」というのに「近い」といっている。安保特別委はどうこのへんをしぼるだろうか。
 しかし別の問題もある。つまり天皇の問題がある。憲法でいえば、第七条本文とその第一項との問題というのになるのだろう。
 天皇の「人間宣言」が何を目論んで出されたかははつきりしている。さつきの「極東国際軍事裁判」との関係で、天皇が何を目的にどう取りあつかわれてきたかもはつきりしている。共産党が初めて合法化されての国会選挙のとき、天皇が何を目あてに国内旅行をさせられたか、憲法がメーデーの日取りとどう組み合わせた日取りで出されたかもはつきりしている。皇太子のいいなずけ決定、結婚が、警職法、選挙違反大量特赦とどう結びついていたか、皇太子夫妻のアメリカ行きが、何を目標に、本人に事前に話すことなしに取り決められたかもはつきりしている。こんど調印された新安保条約案が、どれほど日本と日本人民とを直接に侮辱してるか、どれほど大速度で日本を侵略戦争のお相伴に引きこもうとしているかは言うまでもない。そこで、万に一つもこれが国会を通つたとなつたらどうなるか。批准されたら――というのはそれだけで誤った先走りだと誰かが言うとしてもかまわない。
 先走りであつてもなくつても、批准もされ、公布もされてからでもかまわない。そうなつたあとででもこれはぶち破らなければならぬのだから。
 ところで憲法は、「条約を公布すること」を、天皇の、「内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」のなかに入れている。そこで、岸グループの「助言と承認により」、天皇は、「国民のために」ほんとにこれを「公布する」のだろうか。そこまでも、天皇には、「国民のために」の正反対に出る肚が自覚的にあるのだろうか。
 私は天皇に憲法違反をやれというのではない。けれども、この天皇は「人間宣言」をしただろう。私は日本国憲法に従う。これを尊重する。私は天皇にひとかけらの政治的権能でもを返してやろうというのではない。けれども、人間として、また一人の日本人として、これを「国民のために」公布することが天皇にできるかできないか。
(略)
 ただし私はこれを直接天皇に問おうとは思わない。しかし憲法学者たちはここをどう解釈するか。もつとも、国会が批准しなければこのたび限りここは一応きりぬけられる。 」

「天皇グループ」ということについては、中野重治は、死の年(1979年)に、「分割された領土――沖繩、千島、そして安保――」」(進藤栄一『世界』1979年4月号)という文章を読んだ感想を次のように述べている。

「……しかしここで、私などがどこまで何も知らずに、また知るための工夫について考えることなしにやつてきていたかも明けすけに見えてくると思う。天皇を含む日本政府側が、どれほど露骨に、どれほど言葉のないところまで卑しくアメリカ政治上層部また軍部に、国と国民とを差し出すばかりにしていたか、それをどこまで私たちが――と言って言いすぎならば私自身一個として知らずにやつてきていたか、それが今となって恥じている暇なくじかに責められてくる事実について一言だけ書いておきたい。」(『わが生涯と文学』筑摩書房1979年)

「分割された領土」のなかで中野重治に特に衝撃をあたえたのは、寺崎英成をとおしてシーボルトに伝えられた「天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。」という内容の「天皇メッセージ」だったことは間違いないと思われる。
2012.10.13 Sat l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
小説家の芥川龍之介が薬を飲んで自死したのは1927年(昭和2年)の8月で、今から85年前のことになるが、その死は、当時の社会に一方ならぬ大きな衝撃をあたえたようである。そのなかでも、特別に重い衝撃で心を揺さぶられたのは同時代の文学者たちであったことは間違いないだろう。当時文学活動をしていた作家たちが芥川の死について語っている文章のあれこれを読むと、その人が芥川の親しい知友であったかなかったかにかかわらず、個人個人がその死の報から受けた驚愕や衝撃の深さ、強さがはっきり分かるように思う。広津和郎も「年月のあしおと」に「芥川君の死は、何か實に悲しい。これは私ばかりでなく、多くの人々の感じたことらしかつた。」と記し、つづいて、その頃のある日、銀座でたまたま会った吉井勇が「そうだよ。芥川の死は悲しいよ。他の連中のは悲しくもあるが可笑しくもある。(略)併し芥川の死は、あれは可笑しいところが少しもなく、ただただ悲しいよ」と語ったということを書きとめている。

中野重治も芥川の死に大きなショックをうけた一人だったようである。その理由の一つには、芥川の死の1ヶ月ほど前、中野は芥川の自宅を訪ねて二人だけで数時間話をしたという事情があったことも大きかったのではないかと思う。中野の小説「むらぎも」や随筆「小さな回想」などによると、中野は、同人雑誌「驢馬」の仲間であり前々から芥川に私淑していた堀辰雄を通じて、「一度ぜひ会いたい」という芥川の言伝てをきいていて、それでその年の7月のある夕方、思い切って芥川家を訪問したのであった。その日、中野は異様なほどに痩せて憔悴しきった様子の芥川と対面することになったそうだが、芥川は中野に向かって「君が、文学をやめるとかやらんとか言つてるつてのはあれやほんとうですか」と訊いたそうである。芥川には中野重治が政治活動をやるために文学をやめる、断念する、というような話が噂として耳に入ってきていたらしい。中野は「いえ、そんなことありません」と応えたそうだが、すると芥川は「そう、そんなら安心だけれど……」とか「人は、持つて生まれてきたものを大事にしなければならぬだろう」というようなことを言ったそうである。そのような芥川の言葉に対して、「むらぎも」によると、主人公(片口安吉)は、必ずしも共感も賛同もしていない。むしろ反発しているといってもいいくらいの思いをいだくのだが、やがてその家を出た後の安吉の心情は、「あの痩せて背の高い人に、全く道理に合わぬ愛がどつとばかりに湧いてくるのが我ながら安吉として受けとめかねた。」と表現されている。(詳しくは「むらぎも」をご参照のこと。)

そのときまでに中野重治が芥川と会ったのは、雑誌「驢馬」の後見人のような存在であった室生犀星の家の門の前で偶然行き合って短い挨拶をかわしたことが一度あったというだけの関係だったらしい。しかし「驢馬」に発表される中野重治の詩に芥川はつよい印象を受けていたらしい。室生犀星宛ての芥川の手紙には、「中野君ノ詩モ大抵ヨンダ、アレモ活キ活キシテヰル。中野君ヲシテオモムロニ小説ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ抜クコト数等ナラン」(1926年12月5日)と書かれている。

中村真一郎は、芥川龍之介について、「今日、芥川の全作品を通して、ぼくらが感じるのは、実にこの懐しいばかりの人間的な優しさである。作者の機智や逆説は、忽ち古くなってしまった。しかし、ひとりの生きた人間としての彼が、心の奥に一生抱(いだ)きつづけてゐた、無垢な少年のやうな、育ちのいい素直さは、今尚、ぼくらを郷愁に誘ふのである」と述べているそうである。中野重治はこの一節を引いて、「中村が、芥川の『人間的』にふれて書いている言葉に私は賛成する」(「三つのこと」1954年)と述べているが、「中野重治全集」の編集を一手に引き受けられた松下裕氏に向って中野は、「芥川については、中村真一郎の言っていることが一番よくあたっている」と、何度も語ったそうである。そういうときの中野の胸のなかには、芥川が自殺を決意しながら、それを決行する前に、特に知り合いでもない自分のような若いもの書きに「文学をつづけてほしい」と言い残しておきたい、と考え、それを実行にうつしたことなども、芥川の「実にこの懐しいばかりの人間的な優しさ」や「無垢な少年のやうな、育ちのいい素直さ」の一つとして印象に残っていたのかも知れないと思う。

次に引用するのは、1956年、その年石原慎太郎の「太陽の季節」に芥川賞が授賞されたことに対して、またその出来事が一つの事件として社会に引き起こした反響に対して、中野重治がきびしい批判を持っていることがありありと分かる一文である。標題は「芥川賞について思い出」。56年当時中野のこの文章が世の中にどのような受けとめ方をされたのかはもう分からないが、ほとんどならず者と違わないような昨今の石原慎太郎の言動をみていると、中野重治のこの文章の内容が私には現在格別の重みを持って感じられる。長くなるが、以下に引いておきたい。

「 
 安部公房が昨日夕方プラーグヘ立った。そのとき彼の持って行った挨拶に、安部という作家はこれこれの人間だということを書いた短い紹介文章がついていたが、これは翻訳者が気をきかせてつけてくれたもので、なかに、安部は芥川賞を受けたものだという意味の言葉があって私は「なるほどナ……」と思った。また自然今度の芥川賞さわぎのことが私の頭に浮んだ。
 これこれのとはっきりしたことが思いうかんだわけではない。ただ、もしこんどの芥川賞のことをあっちに知つているものがいて、ことに今度のことだけを知っていた場合、紹介の紙きれをつまんだその男が、安部の顔を見なおしはすまいかというようなことがちらっと頭の隅をとおったのだった。むろん、安部の責任ではない。
 つまり、どこの国にもいろいろと文学賞といったものがある。受賞者の決定ということでもいろいろと出来不出来があるだろうと思う。ノーベル文学賞とかスターリン文学賞とかいつたものにもそれはあつた。それでも、日本の芥川賞の、それも今度のようなことはないしなかつたのではないか。選をする委員たちが、文学作品として誰ひとり感動しなかつた作品、感動とは行かぬまでも、どこか本質的なところで心をひかれる点があつたというのならまだしも、それの全くなかつた作品、それのないということで委員たちに一致のあつた作品、それが受賞作品ときまつたというようなことはほかになかつたのではないか。芥川賞というものが出来たときからのことを見てきたものは、芥川賞が変ったという思いにどうしても取りつかれる。
「故芥川龍之介を記念するために、文藝春秋社によって設けられた文学賞であって、昭和10年上半期より毎半歳ごとの新聞雑誌に発表された新進乃至無名の作家の小説、及び特にこの賞のために応募した作品中より、毎回一篇(時には二篇)を択んで授賞し、その作品は『文藝春秋』に再掲載した。文学賞としては最も成功したものであつて、授賞も概ね妥当に、反響大きく、有能な新入を文壇に送り出す功績があった。第一回の受賞作は石川達三の『蒼氓』であったが、次席の太宰治は『ダス・ゲマイネ』を、高見順は『起承転々』を同誌に発表し、受賞作に劣らぬ評価を得て、三者共に、はなばなしく文壇に登場したのをはじめに……」と山室静が『現代日本文学辞典』で説明しているが、なるほど、「太陽の季節」は「無名の作家の小説」ではあつた。しかし、「故芥川龍之介を記念するために……設けられた文学賞」というのにはまる作品かどうか。「反響大き」かつたかどうか。これで「有能な新人を文壇に送り出す功績」になつたかどうか。この決定で、「文学賞としては最も成功したもの」という芥川賞がもう一つの成功を重ねたかどうか。「授賞も概ね妥当に」があたるかどうか。「反響大き」かつたことを別にすれば、どれ一つもあたらなかつたと私は思う。委員たち全部が、いろいろ差別はあつても、すぐれた作でないと意見一致した作をそれにしたのだからこれは自然な決着だつただろう。
(略)
 いつか桑原武夫が、日本の政治世界のことで、「日本ではインテリの間でほぼ意見の一致がえられた正にその瞬間に、その意見と正反対のことが事実となつて現われる」「ユウウツ」のことを書いた。それなら、こんどは文学の世界にそれが出てきたのだったろうか。そうでもある。しかしそれ以上でもある。桑原の書いた話では、「インテリ」と実際政治(家)の世界とが別になつていた。こつちの「インテリ」が意見一致したとき、あつちの政治家が反対を実行してしまうという形に話がなつていたが、こんどは、すぐれた作でないという意見で一致した機関(?)本人の手で「その意見と正反対のことが事実となつて現われ」たのだから病は一歩すすんだとみるのが実際的で穏当だと思う。
(略)
 芥川賞を、よってたかって愚劣な作にあたえるということにしてしまえば話は消えてしまう。しかしそれでは、芥川賞というものの、また何賞のであれ、本来の趣旨に直接にそむくことになる。本来の趣旨にそむくための芥川賞銓衡委員会、そんなものは頽廃として以外には考えられまい。今度の芥川賞は、結果を全体としてみれば正にそれだった。
 それだけに、「反響大き」かったことを別にすればといったその「反響」だけは大きかった。この、「反響」だけ大きいということがそれだけで腐敗につながっている。作品が愚劣で、反響がすばらしく大きい。作品が愚劣で、本になってたちまち10万部売れる。
(略)
「太陽の季節」さわぎはそのへんのところへきている。『週刊朝日』か何かが書いて、本の広告に使ってある文句にこんな意味のがあつたが――つまり、あの作で、人間が描けていないだの、葬式の場面がおかしいだのいうのはノンセンスに近いので、そうであろうとなかろうと、これはもう「社会現象」になつているのだといつた文句があつたがある意味であたつている。問題は「社会現象」の側から押してきている。文学であろうとなかろうと、文学的なよそおいで文学作品として事を押しつけてしまう。「社会現象」としての既成事実をつくつてしまって、「事実の世紀」として文学と読者との正規の関係の上へローラーをかけてしまう。『学生生活』の創刊号が、「新しい恋愛と友情の発見」という題目で、「石原慎太郎と東大、早大、理大、お茶大等男女学生」の座談会をやるという広告(『わだつみのこえ』)を読めば事は順調に運ばれているといっていいのかも知れぬ。しかしそれを、芥川賞の決定というそもそもの仕事がつくりだしていたのだった。芥川賞決定ということがなかったとすれば、この青年が、「自分の実感を大切に――私の文学観」というようなチンプンカンを『朝日』に書くということは生じなかった。
「若造が何を生意気なと言われるだろうが、その『生意気』を大切にしたい。大人(といって僕らを無理に子供と見たてるつもりはないが)の気にさわるこのホウラツ(放埓)は大事にしよう。」「この年代の、大人の眼から見た悲壮さとコツケイさはそれを未だつかみ切れぬまま、けとばして来たはずのものに足を引かれる、いわば過渡的状態にある者の弱さだろう。が決して引き戻されてはならないのだ。少くともそれは観念を越えた別の世界にしかないはずだ。何を、どうしてするかということよりも、どれだけやれるかということを念願に『生き』たい。何故という決定を下す他の何ものをも僕らは信用しまい。」
「このむやみに積極的な行為の体系の中に生れた情操こそ初めて現代に通用するものではあるまいか。」
「この、いわば、狂暴な思い上りをなくすことなく動きながらぎらぎら生きて行きたい。」
「何を、どうして」から逃げてでなければ「生き」られぬ青年が、「大人」から「生意気」と見られているだろうと自分で空想している阿呆らしさ。するとたちまち、「要するに石原さんがいいたいことは、現代の若い人たちはポーズも周囲に対する自意識もなく、いわば純粋に行為をするのであって、一世代前の人達のごとく既成道徳破壊というような価値判断的な行為をするのではない、そして、このような若い人たちの何ものにも拘束されない『自然さ』の中に、新しいものが出てくる可能性がみられる、ということだと思う。(中略)私たちは粗雑な観念だけには頼れない」という註釈者が出てくる(『中央公論』林敦)という阿呆らしい「粗雑」さ。それを引きだしたのがほかならぬあの決定だったのだから、結果にあわてて事柄に釣りあいを取りもどそうとすれば、いきおい無理を重ねねばならなくなる。いくらかは見当ちがいに、しかし十返肇にむかってまで、「彼らが今になって急に開きなおり、倫理的だの文学性だのという方がおかしい。また彼は批評家が『新人のよさを賞讃し才能を伸ばすのが使命だ』といっているが、現在は彼のいう通りもちろんのこと、過去でもその批評家たちに賞讃されたことによって才能の伸びた作家がいたであろうか。日本の批評家たちがそれ程小説家達にとって影響力があつたろうか、このことは批評家がそれほど不勉強だということを意味する。」(同、御葦出雄)といった、文学史の事実にかなりに無知な、それほど「不勉強」な「日本の批評家たち」の大きな「不勉強」、その実行としてのこんどの芥川賞決定ということからの「影響」に完全に乗せられて発言していることに自分で気のつかぬ、しかしそれだけに、一面の理がないでもない反駁も投げかえされることになる。
 じつさい、釣りあいを取りもどそうとする働きは無理になり、残酷になり、没義道にさえなりかねぬところまで来ているだろう。
「いち早く新人の才能をああいうところで擦り減らすのはどうかなんていうのはずいぶんセンチメンタルだと思う。ああいうことで出てきたんだもの、すべからくああいうことで利用すればいいし、利用されればいい。場所を得たものじゃないかね。」「やっぱり社会現象としては無慚だよ。」「無慚だって、その無慚ということで出てきたんだもの、当然背負うべきものでね。」「それはわかるけど……」「つまり文壇ジャーナリズムというものが段段藝能化してくるんだよ。その犠牲者なんだ。その藝能化してくるのは何も文藝春秋が悪いのでもなければ、芥川賞銓衡委員会が悪いのでもないけれど、何かそういう藝能化してくるときに彼はいいカモだつたんだ。」「「犠牲者になること以外にないのだからしようがない。」「そんなことはない。就職してコツコツやっていけばよい。」「会社員になったって、銀行へ行ったってちゃんとやるよ。不良少年なんてとんでもないことだ。文学の犠牲といったって本当の意味の犠牲にはなれっこないよ。犠牲というにはあまりちゃんとしてるよ。心配することないね。」(『新潮』「批評家有用」のうち)
 座談会の言葉だから、論文のなかの言葉とはちがうだろう。賞決定に直接あずかった人びとの言葉というのでもない。けれども、鴨としてとらえたものがあったから石原は「いいカモ」にされたので、話をそこから外して、鴨としてとらえた方をば「悪いのでもなければ……悪いのでもないけれど……」としてしまっては石原に気の毒でないか。中村光夫の、「やっぱり社会現象としては無慚だよ。」というのが正直な感想と取れるだけに、推してはならぬものを推してしまったあやまち、そこに「無慚」を社会現象にまでひろげてしまった芥川賞銓衡委員会への批判に話を持って行くのでなければ理不尽で没義道な話になってしまうだろう。むかし中村武羅夫が、「原稿を書くことは、必ずしも特別な精神的仕事でも何でもなく、出版業者の原料の生産であるにすぎない。また、それでいいのである。いい悪いを絶して、これが現代の大勢なのである。この大勢に順応するものが栄え、これに反逆する者は、没落する。即ち、現実の力なのである。」と書いた。芥川賞銓衡委員会が、昭和31年になってそれを追う必要はない。それはなかったし、元来あってはならなかったことだろう。こんどの芥川賞は、芥川賞として頽廃方向での変化だった。」(「中野重治全集第13巻」収載)
2012.07.30 Mon l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
「ゴシップ」という言葉は最近あまり聞かれないようである。「スキャンダル」という言葉にとって変わられてしまったのだろうか。あくまで印象上のことだが、「スキャンダル」よりも「ゴシップ」のほうにはまだ愛嬌、他愛のなさ、柔らかさ、余裕、温かさ、おもしろ味が感じられる(場合が多い)ような気がする。昔(明治から昭和の初期にかけて)の雑誌、新聞には、よくさまざまな著名人のゴシップが載っていたらしいのだが、作家の随筆などにそういう話題が取り上げられていることがあり、時々その内容のあまりの意外さや特異さに度肝を抜かれるような思いをしたり、読んだ瞬間笑いだしてしまうというようなことがある。特別に印象ふかくて今でもよく覚えているのは、広津和郎の「年月のあしおと」に記されていたゴシップのことである。

広津和郎の父親は明治の小説家「広津柳浪」であり、「今戸心中」「残菊」など、今でも芝居ではたびたび上演されることのある世評高い小説を書いた人であるが、書けない時期の多い小説家でもあったようだ。広津和郎の幼少年時代の生活は並大抵でなく苦しかったそうで、その当時どこかの雑誌に「柳浪の子供たちが、ひもじさに金魚を食った」というゴシップが載ったことがあったそうである。広津和郎によるとこれはもちろんデタラメだということだが、それから二十数年経って、古本漁りが好きだった芥川龍之介は古雑誌からそのゴシップを見つけ出したらしく、広津和郎(当時、もちろん芥川のように華々しい存在ではなかったが、こちらも小説や文芸評論を書いていた)の行きつけのカフェに行ってその話をして帰ったそうである。ある日、広津和郞がいつものようにそのカフェを訪れると、


 馴染のウェートレスがにやにや笑いながら側に寄って来て、
「あなたは子供の時分に金魚を食べたそうですね」と云ったことがある。
「いや、食べないよ。一体誰がそんなことを云ったんだい?」
「昨日芥川さんが来てそう云っていましたよ。そして広津が芝居を嫌いなのは、子供の時分貧乏で芝居を見たことがないからだとも云っていましたよ」 」(「年月のあしおと」講談社1963年)

そのカフェには芥川龍之介も時々訪れていたのだそうだが、広津和郎の親しいところに行ってそういう話を面白おかしく喋ってみせるところに、芥川龍之介の中学生のようなnaughty boy(いたずら小僧)振りがあるのだと広津和郎は書いている。このゴシップには、ひもじさゆえに子供が「金魚を食う」という、話題の過激さ(どぎつさ)にギョギョッとさせられると同時に、着想のあまりの卓抜さ(?)に感心・驚嘆させられるところもあった。広津柳浪は家で金魚や小鳥を飼うのが好きだったそうなので、「金魚を喰った」はそのことを知っていた雑誌編集者の思いつきだったのかとも思うが、それを拡散した(?)芥川はそのゴシップの性格自体好みだったのかも知れない。

それから時代は少し後のことになるのだが、最近知ってちょっとおもしろいと感じたゴシップの話があった。松下裕氏の「[増訂]評伝中野重治」(平凡社2011年)に記されていたことなのだが…。中野重治にプロレタリア文学時代のことを回想した「あのころ」という題の短い文章があるそうで(私は読んでいない)、松下氏によると、これには「江口換と窪川鶴次郎」という副題がついているとのことである。当該部分を「評伝中野重治」から次に引用する。

「あるとき、『都新聞』か何かにゴシップがのった。『中野重治が窪川鶴次郎をつかまえてもっと勉強しろと言ったそうだ。もっと勉強して詩を書け。そして、いいのが出来たらおれが五円やると言ったそうだが、その中野本人、窪川のとこの二階に居候してるのだから世話はない』。こんな意味のことがもっと上手に書いてあって、それを読んで私たち夫婦はげらげら笑った。むろん私は窪川にそんなことを言っていなかったし、居候なんぞとはとんでもない。しかし話は、根も葉もないだけに実にうまく出来ていた」

窪川鶴次郎は文芸評論家で、佐多稲子の夫。中野重治とは第四高等学校時代以来の友人で、当時ともに雑誌「驢馬」の同人であった。そしてこの当時、中野重治は新婚であったらしい。「私たち夫婦はげらげら笑った」というのはそういう事情を現してのことと思うが、中野重治が窪川鶴次郎に「もっと勉強しろ」「勉強して詩を書け」「いいのが出来たらおれが五円やる」と言ったというのはどの言葉もみなおもしろくておかしいし、関係性を彷彿とさせるようでもある。「中野本人、窪川のとこの二階に居候してる」というのは、中野重治が昼間窪川・佐多夫妻のアパートを訪ねてきて、「書き物をしたいので2時間ほど部屋を貸してほしい」と言ったということを当時ものを書き始めていた佐多稲子が書いていたことがあるので、そのようなことが「居候」云々というゴシップに結びついたのかも知れない。それにしても、中野重治が「こんな意味のことがもっと上手に書いてあって」というのもおもしろくて、そのゴシップ記事の原文を読んでみたい気になったりもした。
2012.06.22 Fri l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 菊池寛宛の書簡

後の世代の者である私の目から見ると、中野重治が、一般的にこれは後ろ指(批判ではなく)をさされても仕方ないと考えられることがもしあるとすれば、戦争末期の42年、発会が決まった日本文学報国会に自分も入会したいという趣旨の書簡を菊池寛に書き送ったことくらいではないかと思う。この件は、ウィキペディアの「中野重治」には次のように記述されている。

「太平洋戦争開始時、父親の死去による帰省中だったために検挙をまぬがれた。戦時下も『斎藤茂吉ノオト』などの作品を発表した。文芸家協会の日本文学報国会への改組にあたって、自分の過去の経歴 (左翼活動)のために入会を拒まれるのではないかという不安におそわれて、菊池寛に入会懇請の手紙を送っていた(後に、手紙を保管していた平野謙によって暴露された)。」

後年、平野謙は中野重治のその行動について、中野は内務省警保局による38年の執筆禁止令につづく再びの執筆禁止令を恐怖したのではないかという指摘をしている。中野重治は全集の何巻だったか「著者うしろ書」のなかで平野謙のその指摘について触れ、そうではなかった、作品を発表できるかどうかなんてことはふらついた精神状態だった当時の自分には問題にもならなかった。自分が恐れたのは、ひたすら治安維持法による逮捕拘禁だった、という趣旨のことを書いていた。真珠湾攻撃の際、中野の東京の自宅には官憲が踏み込んだそうだから、故郷に帰省中でなければ当日逮捕されたことは間違いない。そういうなかにいた中野には、太平洋戦争の開戦をうけて多くの物書きが口々に洩らした、スッキリした、これでスッキリした、という発言はまったく別世界の出来事にしか思われず、心底コタエタらしい。そのような情勢のなかで中野重治は文学報国会入会が拒否されるようなことがあれば、それは即逮捕拘禁につながると思ったようである。

真珠湾攻撃から半年後の1942年5月にひらかれた文学報国会の発会式についても中野重治はどこかに(そのうち調べておきます)書いていた。その日の会場で大勢のなかに混じって乞食のように惨めな気持ちで式典を見上げていたこと、壇上に多くの作家たちが並ぶなか東條英機がその前に立ってあいさつを行なったこと、そのなかで東條が、爾来文学というものは天才の仕事でありまして…、という言葉を発したとき、その背後に隣り合って立っていた武者小路実篤と徳田秋声がわずかに身体を動かし、下を向いたまままチラと目を合わせて苦笑いしたこと、その光景がその日の自分にとって唯一の慰めであったこと、などを書いていた。
2012.05.30 Wed l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
「慟哭」をGoogleで検索してためしに一行目のサイトをクリックしてみると、目に飛び込んできたのは「「慟哭」(どうこく)は、 工藤静香 通算18枚目のシングル 。 1993年2月3日発売。発売元はポニーキャニオン 。」という文字…(笑)。そんな歌があるとは今の今まで知らなかった。作詞は中島みゆきだというから、普通の恋愛歌なのだろう。間違っても臣民や右翼が天皇や国家を思って泣くというような内容の歌でないことは確実だ。次に「慟哭」の意味について検索してみたら、「悲しみのあまり、声をあげて泣くこと。」とある。おもしろいと思ったのは同じサイトの「類語」の項目で、 そこには「号泣(ごうきゅう)/慟哭(どうこく) 」と出ている。

「[共通する意味] ★大声をあげて激しく泣くこと。
 [使い方] 〔号泣〕スル ▽妻の遺体にとりすがって号泣する若い夫
      〔慟哭〕スル ▽父の訃報(ふほう)をきいて慟哭する青年
 [使い分け] 「号泣」は、大きな泣き声で泣くことをいい、「慟哭」は、激しい動作で泣くことをいう。(提供元:「類語例解辞典」) 」

これを見ると、「慟哭」という名詞にも時と場所に相応しい適切な使い方がちゃんとあった(ある)わけである。決して初めから国家主義者の専用語ではなかったのだ。江藤淳は『昭和の文人』で「慟哭」を強引に中野重治に押しつけて自分一人で陶酔しているように私には見えたが、ああいうふうにある特定の言葉に対して特異な情念や意味を含有させるやり方は、そもそもは戦前の30年代後半から40年代にかけて活躍した京都哲学派と日本浪漫派の人々によって始められたようである。加藤周一の「戦争と知識人」(1959年)には次のように記述されている。

「 私はここで戦歿学生の手紙(引用者注:遺稿集『きけわだつみの声』収録のものだと思われる。)を引用しない。しかし愚かないくさのなかでの避け難い死に、何とかして意味をあたえようとしたとき、多くの手記の筆者たちがより所とせざるをえなかったのは、何よりも京都の哲学者と日本浪曼派の仲間であった、ということだけを指摘しておきたいと思う。
 それならば京都学派と日本浪曼派は、どういう論理で「大東亜戦争」を讃美し、絶対化しようとしたのであろうか。

3 日本浪曼派と京都哲学
 2.26事件(1936年)以来のファシズム「新体制」を正当化し、中国侵略戦争と太平洋戦争に理論的支持をあたえようとしたのは、日本浪曼派と京都哲学の一派だけではなかった。一方には狂信的な国枠主義者があり、他方には官立大学の御用社会学者があり、弾圧によってジャーナリズムが整理されていった後には、ほとんどすべてのジャーナリズムがただそのためにのみあった。しかしすでに繰り返し指摘してきたように、太平洋戦争の段階で戦場に追いたてられた世代の知的な層にとって、いちばん深い影響をあたえたのは、おそらく日本浪曼派と京都哲学の一派であった。
 日本浪曼派は反合理主義的な立場から、明瞭に定義することのできない言葉を駆使して、読者の情念に訴え、戦争の性質を分析せずに、戦争支持の気分を煽りたてた。保田与重郎はその意味での名手であったろう。浅野晃、芳賀檀、そして亀井勝一郎がこれに加わる。そこでしきりに用いられたのは、たとえば、「悲願」「慟哭」「憧憬」「勤皇の心」「悠久のロマンチシズム」「民族といふ血で書かれた歴史の原始に遡る概念」というような言葉であった。「悲願」という言葉は今でものこっていて、「原爆実験の禁止は国民の悲願である」などという。要するに、その論理的内容は、原爆実験をやめてもらいたいと日本国民が思っている、ということにすぎない。「慟哭」というのは、つまり泣くことである。大へん悲しんで泣くことだといってもよかろう。日本浪曼派の魅力の半分は、「大へん悲しんで泣く」といったのでは何の変哲もない事柄を、「慟哭する」ということで有難そうにするしかけ以外にはなかった。それにひっかかったのは、戦争中だろうと何だろうと、ひっかかった側に物事を正確に考え正確にいいあらわす習慣が足りなかったからである。こういう安上りなしかけで理窟らしい理窟のできあがるはずがない。
 しかし亀井勝一郎は、日本浪曼派式方言を使いながらも、とにかく理窟らしいものをつくりあげた批評家であった。中国侵略戦争に対するその見解は、たとえばつぎのようなものである。
「人間にとって求道は無限の漂泊であり、恐らく死以外に休息はあるまい。……たとへば我らの現に戦つてゐる支那事変そのものが、実は親鸞の教の真実を語つてゐるのだ。領土も、償金もいらぬ、云はばいかなる功利性をも拒絶した上に、今度の事変の理想がある。求めるところは東洋の浄土に他ならない。」(1941年6月講演)
 だから支那事変は、「民族の壮大な運命」であり、「天意として敬虔に享けねばならない」ものだということになる。」(『加藤周一著作集 7』平凡社1979年)(強調の下線はすべて引用者による。)

このような経緯と内実をもつ「慟哭」という言葉を中野重治に被せることの不当・不適切さは明らかだろう。ちなみに、加藤周一は医学部の学生として26歳で敗戦を迎えている。少年のころから反戦の意識をもっていたという加藤周一には京都の哲学者や日本浪漫派の人たちが用いる「悲願」「慟哭」「憧憬」「勤皇の心」などの言葉は自分たちを戦場に従順に引きずり出すために用意された、それにしてはお粗末な子ども騙しの理屈以外には見えなかったようである(ほぼ同様のことを加藤周一より5歳ほど年下の吉行淳之介もエッセイで何度も述べているが…)。その加藤周一が戦時中熱心に読んでいた現役の作家は、石川淳や林達夫とともに中野重治だったという。中野重治の「転向」という事実は、「村の家」という作品とともに転向作家と言えば中野重治というくらいによく知られていることだが、「村の家」を読むと中野重治は2年を経た獄中暮らしのなかで発狂の恐怖にとらわれるようになっていることが感じとれる。正直に言って中野重治のあの転向の仕方は中野の関係者を別にすれば、それを他人が責めることができることのようには思えない。

「中野の関係者を別にすれば」と先に述べたが、これとてもそう簡単に何かを言い切ることはできないだろう。石堂清倫氏の「「転向」再論ー中野重治の場合」によると、中野は1932年4月4日に逮捕され、 およそ2年後の34年5月26日に法廷で、「日本共産党員たることを認め、共産主義運動から身を退くことを約束」して、執行猶予で出獄しているが、「党の組織関係については一貫して陳述しなかった」とのことである。

当時の日本共産党中央委員には何人もの公安のスパイが潜り込んでいて、実質的には党は潰滅状態、個人の党活動は逮捕されるがためのものになりはてていたという。その他に当時の共産党の方針がどれだけ正しかったかという問題もあるだろう。石堂氏の諸発言のなかで驚かされるのは、共産党は天皇制廃止を党是に掲げながら、かつて党員の誰一人として、「天皇制イデオロギーの基本文献である」軍人勅諭、教育勅語に対する綿密な批判を試みた人物はいなかったということである。石堂氏は「支配階級は軍隊でも学校でもあらゆる機会に反復して教えこんでいる」のだから、「この有様では反天皇制の運動が「転向」として終わるのは必然であった。」と述べている。その他にも石堂氏は重要な問題点をいくつも(たとえば、日本人の愛国心が支配階級のみならず、社会主義者や共産主義者にあっても初めから排外主義的であったこと、など。)説得的に指摘されているが、そのようななかで獄中の中野重治があれ以上無理をしなかったのはよかったのではないか、むしろあれは適切な判断だったのではないか、と外野のそれも素人考えではそう思えたりする。

石堂氏の文章からの引用になるが、中野重治は自身の「転向」について「 僕が革命の党を裏切りそれにたいする人民の信頼を裏切つたという事実は未来にわたって消えないのである。」と述べて、自分の行為の非を認め、あるいは責めているが、同時に「それだから僕は、あるいは僕らは、作家としての新生の道を第一義的生活と制作とより以外のところにはおけないのである。」「もし僕らが、みずから呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的綜合のなかへ肉づけすることで、文学作品として打ち出した自己批判をとおして日本の革命運動の伝統の革命的批判に加われたならば、僕らは、そのときも過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮べたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。」と、文筆活動をとおした闘いへの決意を述べている。また、小説「村の家」で転向して戻ってきた息子の勉次に対して「筆を棄てて百姓をやれ」と説く父親に対して勉次は結局「よくわかりますが、やはり書いていきたいと思います」と答えている。

もちろん中野重治ひとりにかぎったことではないが、中野の場合の「転向」もこのようにさまざまな背景・要因・事情をふくみ持つのに対して、『昭和の文人』において江藤淳はそれらを一切がっさい無視して「転向=天皇の臣民への転向」という単一の図式にはめこもうとしている。前回のブログで1961年時における中野重治の江藤淳に対する批判を紹介したが、中野のあの批判はその後の江藤淳に対しては何らの影響も効果ももたらさなかったように思える。江藤淳は中野重治について「終生廉恥を重んじ、 」と述べているが、確かに中野重治はそういう人だったのかも知れない。佐多稲子の『夏の栞 ー中野重治をおくるー』(新潮社1983年)には、こんな場面が描かれている。最期の入院をしていた中野重治のもとを親しい人たちが訪れて、ロビーに詰めている。そこで、新しく出す本(多分、中野重治全集28巻のうちの最後の一巻のことではないかと思う)の題名について、編集を引き受けていた人物(松下裕氏)が、他の人に次のような話をしている。

「今度の本の題のことで、わが生涯と文学、というのはどうでしょう、と僕が云ったんですが、中野さんは、生涯、というのに一言ありました。自分から、生涯、と云うことに抵抗があるようです」

傍でそれを聞いていた佐多稲子は、「それは中野の感覚だ、と同感しながら、しかし私は何も云わず、…」と書いている。それからこういうこともある。中野重治全集第24巻に「原鼎あて河上肇書簡」(初出『展望』1967年)という題の文章が載っているのだが、ここで中野は河上肇の「晩年の生活記録抄」(河上肇全集第12巻)に出てくる「×さん」の「×」は誰であるかを推理している。要は、中野はこの「×」と伏せ字になっている人物は「原鼎」ではないかと推理し、そういう自分の推理のゆえんを河上肇から原鼎あてに出された多くの書簡や河上肇の日記に出ている原鼎についての叙述を引用することによって証明しようと試みているのである。なぜ中野がそういう試みをするのかといえば、原鼎という人物は中野の亡き友人(高等学校時分の後輩)だったからなのだが(その前提に河上肇の人と学問への中野の敬意があることは言うまでもない。)、この推理を述べるにあたって、中野は次のように書いている。

「むろん、河上さんも亡くなり奥さんも亡くなって、私はつつしみ深くあらねばならぬことを知つている。」

実際中野がここで展開している推理は無理のない穏当で節度あるものにちがいなく、内容には真情あふれる豊かさが感じられる。これらのことは江藤淳が述べるように、「廉恥を重んじ」る人の姿が彷彿とするエピソードだと思う。しかしながら、そういう中野について江藤淳は「終生廉恥を重んじ、 」と書いた後、すぐ「慟哭を忘れることがなかった。そのような中野重治の文業に対して、私はほとんど自らの慟哭を禁じ得ぬ思いであった。」とつづけているのだから、こういうところをみると、私には、こちらのほうは「廉恥を重んじ」る姿勢を持ち合わせていなかったように思える。中野重治はその文章や論理の展開について「執拗」とか「ねちねちとしている」とか「例によつてことばに異常なこだわりを示しながら」などとたえず人に言われながら、そういう相手に対して、たとえば「むしろ私は、土井こそ、まして「詩人」として、せめて常識程度には言葉にこだわれと言いたい。」(「誤解と誤解主義」全集24巻)などと言い返している。そういう中野重治の言葉に対する鋭敏なこだわりに江藤淳が配慮した様子が全然ないことにもちょっと驚かされる。

中野重治が「五勺の酒」を発表したのは1947年1月だから、敗戦からちょうど1年半後のことになる。その1年半の間に中野重治がアカハタなどに書いた文章には下記のものがふくまれている。「五勺の酒」を読む場合にも(江藤淳の中野重治論を読む場合でも)何かと参考になるかと思うので、引用しておきたい。


 ○ 租税と御下賜金
 わが天皇は今度税金を納めることになつた。わが天皇は、財産家として財産税を、戦時利得者として戦時利得税を納めることになつた。結構と思う。間違いなくそれを納めればそれだけ天皇は一人前の人間に近づけるわけだ。納税義務の履行ということで、特に戦時利得税の完納ということで、天皇は、戦時利得者としての責任の一部を正当にはたせるわけだ。
 そこでわが天皇は、その納税の意義を正しく理解せねばならぬと思う。大蔵大臣が、これを税金として扱うか御下賜金(ごかしきん)として扱うかまだ決つていないなどいつているけれども、税金は個人のほしいままな施与(せよ)ではない。税金は寄付金ではない。納税は義務であり、その不履行は法的に罰せられるのだ。国民はすべてかくのごときものとして苦しみつつ税を納めているのだ。
 天皇はこのことをよくよく理解せねばならぬ。万が一税金と御下賜金とをすりかえるようなことがあれば、それは国民にたいする最大の侮蔑であることを知らねばならぬ。

 ○ 実地と空想
 明治元年、天皇は牧場を入れて2万2千町歩もつていた。明治21年までそれが続いた。この年、天皇は国の土地90万8千25町歩を盗んだ。それから自分の土地29万5千町歩を出して、国の土地82万7千町歩を盗んだ。23年、国の土地200万町歩を盗んだ。27年、そのうち63万町歩を残してあとを売つた。別に23年、101万588町歩を自分用ときめた。そこで明治27年、その所有総反別、牧場を除いて360万町歩となつた。21年から27年までの7年で、彼はそれまでの所有土地の163倍を盗んだのであつた。
 これは帝国学士院の推薦で有栖川宮記念学術奨励金をもらつて皇室経済史を研究している奥野高広という学者が書いている。7年で164倍にした土地をその後の43年で何倍にしたか、その現在高が正確に知りたい。
 東京の宮城は65万7千111坪ある。京都の皇居は27万629坪ある。東京の宮城へ畑15坪建坪15坪の家を建てると2万2千軒ほど建つ。一戸5人として人口11万の美しい町が建つ。そこへ子供づれの戦災者たちを薪炭つきで住まわせたい。

 ○ 天皇と戦争犯罪責任
 政府――天皇の任命した幣原内閣――は、国民には戦争責任がないと言明した。逮捕された戦争犯罪容疑者たちは、しやべる機会があつたかぎり、彼らには戦争犯罪責任がないと主張した。フィリピンの山下などは、死刑の宣告後までも自己の無責任を主張した。それから貴衆両院の議員たちは、議会そのもので、彼らの無責任を主張した。
 国民に責任のないことは明らかだ。しかし政府が言明したのは、国民から追いつめられての結果だ。「一億総懺悔」が、国民から手ひどくしつぺ返しをくつた結果だ。しかしとにかく政府は言明した。戦争犯罪責任は国民にはない。国民はだまされ、威嚇され、戦争に駆りたてられただけなのだから。それから山下らは主張した。彼には責任はない。彼および彼らはただ「命(めい)のまにまに」戦つただけなのだから。それから逮捕された連中、「重臣」とその連類とは主張した。彼らには責任はない。彼らは強制されたのだから。彼らは「内心」戦争に反対だつたのだから。彼らは強制によつて自己を枉(ま)げたものではない。暗殺さえ彼らは恐れなかつた。ただ宣戦が天皇によつて布告されたため、「承詔必謹」の「臣道実践」においてそれに従つたまでなのだから。議員連中も同じく主張した。彼らには戦争責任がない。その理由は、――その理由は何だかわからなかつた。
 そこで戦争犯罪責任が国民にはないことになつた。将軍連にもないことになつた。「重臣」連にもないことになつた。議員連にもないことになつた。戦争犯罪責任はどこへ行くか。どこへ行くことができるか。
 逮捕された容疑者連中、現職の大臣連中、将軍連中、重臣連中によつて、戦争犯罪責任は、集中凝固して天皇に帰せられた。近衛などは、最も卑劣な証拠摩滅によつてそれを天皇に帰した。
 天皇の重臣、天皇の政府の大臣、天皇の軍隊の将軍、天皇の議会の議員、この連中がよつてたかつて、天皇を戦争犯罪の主犯の位置に追いあげたことは興味がある。彼らは天皇制擁護を叫んでいる。同時に天皇を戦争犯罪人の主犯の位置に追いあげている。

 ○ 憎悪と破壊
 売国奴的天皇政府批判の言葉をすべすべしたものにしようとする試みは正しいか。天皇制打倒の理論から天皇制にたいする無限の憎悪、呪いをひきぬこうとする試みは正しいか。共産主義者は愛せられねばならぬという言葉を共産主義者は敵からも愛せられねばならぬという言葉にすりかえようとする試みは正しいか。すべてこれらの試みは足腰たたぬまでに叩きのめされねばならぬ。
 国民の敵を国民の敵として国民の前に正確につるしあげよ。共産主義者の仕事は敵のカを破壊することだ。敵の組織、その機関、その活動、その反撃を先手をうつて破壊せよ。破壊という言葉が、軍国主義者、官僚、大資本家、大地主の連合軍によつて国民にたいする彼らの暴力活動の口実につかわれるかもしれぬことを恐れるな。破壊の実行が、口実につかう力をも敵からうばうのだ。憎悪と呪狙、破壊と荒療治、このことに責任を感じよ。売国奴的天皇政府をいまなお存続させておくことにたいする火傷をするような恥と悲しみ、そこに革命家、主義者があるのだ。

 ○ 道徳と天皇
 国民は道徳をもとめている。目のまえが苦しくとも、一本の道徳が、国民生活の全面をつらぬくことをもとめている。看板だけのぬりかえ、民主主義への擬装をにくむのも、それによつて国民生活が道徳的に腐らされるからだ。「無理が通つて道理ひつこむ」かぎり、鷺が烏で通るかぎり、まじめな国民の努力の根、そのたましいの支えが失われるからだ。あらゆる偽ものが、あの手この手と苦しい言いわけをしているのも、道徳をもとめる国民の声、その純粋の力に服せざるをえぬからだ。
 しかしあらゆる偽ものも、天皇ほどのずうずうしさをみせたものは一人もない。きのうは神、きようは人間というほどの烏ぶりをみせたものは一人もない。元旦の詔書ではおくびにも戦死者にふれず、たちまち供出強制令、金融資本救済令に判子をおし、その手で、背広にきかえて宮廷列車で戦災地見舞い(?)に出かけたほどの贋金ぶりをみせたものは一人もない。天皇は贋金つくりの王である。この点こそ国民道徳の腐敗源である。 」
2012.05.28 Mon l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 中野重治の江藤淳に対するきびしい批判…1961年

江藤淳は『昭和の文人』執筆時に中野重治が存命であったなら、果たしてこのような文章を発表しただろうかという疑問も私には浮かぶ。「 彼は…(略)…、終生廉恥を重んじ、慟哭を忘れることがなかった。そのような中野重治の文業に対して、私はほとんど自らの慟哭を禁じ得ぬ思いであった。」 などの発言は、「中野重治「再発見」の現在」がズバリ指摘しているとおり、江藤淳が「自分の姿に似せて相手を」、つまり中野重治を「つくりかえ」ていることだと思う。したがってこれは中野が無視や苦笑いで済ますことのできる程度・内容をはるかに超えていることを江藤自身解っているのではないかと思うから、中野が存命であったなら果たして…というような疑問をもつのだが、しかし江藤淳という文学者にはそのような感想や意見は全然通じないのかも知れないとも思う。(強調の下線はすべて引用者による。)

それというのも、江藤淳はかつて中野重治から「プライヴァシーと「せいのび」」(初出1961年。現在「中野重治全集24巻」に収載)と題された文章においてきびしい批判をうけたことがある。これは江藤淳が当時文学界に発表した「小林秀雄論 第二部 その四」」のなかで中野重治について書いた文章に対しての反駁文だが、中野重治は江藤淳の文章を一つひとつ細かく拾い上げ、その誤りを丁寧に指摘している。これを読むと、江藤淳は『昭和の文人』の中野論で顕わしているものと共通した側面を1961年当時すでに見せていたこと、そしてその側面を(他ならぬ)中野自身から鋭く指摘・批判されていたことが分かるように思う。

江藤淳への中野の「きびしい批判」と先に書いたが、とはいってもこの「プライヴァシーと「せいのび」」で中野が江藤を批判する態度・論調はいつもの中野のそれに比べるとかなり物柔らか、抑制的である。この理由の一つには、当時、1902年生まれの中野は59歳、1932年生まれの江藤は29歳であり、江藤はまだ非常に若かった。この30という年齢差や、このころの江藤淳は大江健三郎や石原慎太郎らと「若い日本の会」を結成、反安保の姿勢で活動していた時期なので、それらの事情が江藤を批判する中野の心境に影響していたのではないかと思われる。しかしもっと大きな理由は、問題が社会的出来事や文学・芸術方面一般のことではなく、直接に自分という人間をめぐる問題であること、特にそれが中野重治の転向以後の1935年、1936年ころの言動の問題であるという、問題のそういう微妙さ、複雑さによったのではないかと思う。

さて、「プライヴァシーと「せいのび」」だが、中野重治はここで、むかし斎藤茂吉が「私が死んで遺稿を出すときには、書簡だけは公表せずにもらひたいのである。」と書いていたことを紹介する。そして、「手紙を書いたという事実がある以上、また手紙そのものが残っている以上、その間の消息がほじくられずにはすまぬということは一般には認められることだろうと思う。」と述べ、また「書簡だけは公表せずにもらひたいのである。」という生前の茂吉の意思がその死後聞き入れられないであろう、書簡はほじくり返されるであろう、またそれはやむを得ないことであろう、とも述べる。そしてそこから一転、次のように書簡をほじくる側のほじくる理由を問題にする。

「しかし、ほじくりは何のためにほじくられるか。ほじくりのためのほじくりは生産的でない。ただその間の消息を明らかにするためのほじくりが生産的になる。そしてこの後のほうのほじくりについては、茂吉にしろ誰にしろ全般的にこれを禁止することはできない。わたくしごとからそのワタクシが、プライヴァシーの枠が外されるのだから。だからそこでは、消息を明らかにすること、真実を取りだすことにほじくりが従属させられる。そうなければならぬ。」

として、中野は書簡をほじくる、書簡がほじくられる、つまりある個人のプライヴァシーの枠を外す、枠が外ずされる場合の原則を明示する。その原則は、上記のように、①書簡が書かれた事情消息を明らかにするためのほじくりであること、②真実を取りだすことにほじくりが従属させられること、である。中野重治はそのように問題を立てておいてここから本題に入っていく。

「反対に、わが頭に或る仮定があつて、それを裏づけるためだけに文書あさりするのに止まるとなると話は学問的でなくなつてしまう。実地問題として、たいていの場合わが頭に何かの仮定がある。ほじくりをして行つてそれが事実の裏づけをえたように思えてくることがあり、しかしいつそう作業をつづけて行つてこの関係が逆になつてくる場合もある。この場合、ある人はそれまでの仮定をこわしてもうひとつ向うに新しい仮定を立てる。そしてさらに作業をつづける。しかし他の或る人は、第一の仮定から決して動かない。第一仮定に具合いいものをほじくりから取つてきて、これに逆らうらしいものは弾きとばして行つてしまう。第一仮定がそのまま固められる。
 ただちにそれと言うのではないが、それに似たものが私にふれて出ているので江藤淳の『小林秀雄論」(『文学界』)について書いておきたい。」

そう言って中野が江藤淳を批判した文章の中身は次のとおりである。一部を引用する。

「 そこ(引用者注:文学界に載った江藤淳の「小林秀雄論」)に私の「二律背反的な態度の矛盾」ということが出ている。
「 中野氏は、昭和10年代の感傷的な左翼青年がそう信じたほど一貫した『信念』の道を歩いていたわけではない。彼は孤立をえらびながら『提携』を説いたが、全く同様に従軍の覚悟を語りつつファシズム反対を説いている。しかし、この矛盾を責めるのはおそらく過酷であろう。」
 ここいらは、単純に言って私にわかりかねることでもある。当時の私に矛盾があつたとして、「この矛盾を責めるのはおそらく過酷であろう。」というところなどが私には単純にわからない。「矛盾を責める」というのが、もし矛盾を指摘してそれを認めよと迫ること、そしてそこからの脱出を要求することを意味するのならそれが「過酷」であるはずはない。それをしないのならば批評家が消えてしまう。ことわつておけば、私は、私には矛盾がなかったとか、『二律背反的な態度』がなかつたとか、「感傷的な左翼青年がそう信じたほど一貫した『信念』の道を〔私が〕歩いていた」とか言おうとするのではない。ただ私が「不可能をあえて主張した」とか、「できないに決まつているような路線に固執した」とか、「孤立を選びながら『提携』を説いたとか、「従軍の覚悟を語りつつファシズム反対を説い」たとか言われるとなるとちよつと待ってくれと言いたくなる。そんなことは事実としてないし、なかつた。何か江藤には、科学者、批評家として事実しらべをある程度で止めてしまうようなところ、同じく科学者、批評家として基本的に想像力の弱いようなところがあるのではないか。」
 
「 『中野重治氏は、昭和11年10月に『二つの戦争について』というエッセイを書いている。これが全集の現在までに刊行された巻に収録されておらず、年譜にも記載されていないのはどのような事情によるものか知らない。そこで中野氏が述べているのはこういうことである。』
「年譜」というのがどれを指すものか私にはわからぬが、あるいはどの年譜にもそれがのっていないのかも知れない。それはそれらの年譜が詳しいものでなかったという「事情」に単純によるのだろう。『全集』でいえば、それはそれの第15巻にのっている。しかし第15巻はその前の1冊から1年以上して出たのだから、江藤が見なかったというのならば仕方ない。ただ戦後に出た『楽しき雑談』第2にはのっている。年譜は別として、「どのような事情によるものか」という言葉に含みがあったのならば含みのほうがちがっている。
 そこで、「そこで中野氏がのべているのはこういうことである。」といって江藤が「2つの戦争について」の部分を引用している。ただし彼はそれを星加輝光の「戦時における小林秀雄」から引用した。星加の文章は『九州作家』第36号(1958年2月)にのったもので、江藤は、星加の「このエッセイに引用されている部分に拠った」とことわっているが、この「部分に拠った」というのが、星加の引用をさらに部分的に江藤が引用したというのかどうか今私にわかっていない。それは星加の原文についてみればわかるが今ちよつと『九州作家』が見つからぬ。なお江藤は、星加の評論を「すぐれた労作」と書いている。また江藤は、私の文章を本文では「2つの戦争について」といい、註では「2つの戦争のこと」といっているが後のほうが正しい。
「そこで中野氏がのべているのはこういうことである。」
 「そこで話を飛ばして、いよいよ戦争となった暁にはわれわれ文学者はどうなるか? 事情が非常に切迫して来た瞬問には、私は文学者といへども銃をとらねばならぬと思ふ。これは文学的表現としていふのでなく、全く文字どほりの意味においてだ。(中略)私はナチスではないからナチスを担ぎはしないが、生きた軍事知識のためにビストルも習ひたいし、タンクの活動もよく知りたい。(中略)フールマノフとかオストロフスキーとかいふ作家を読んで気づくことの一つは、奴等は鉄砲をうちもしたし鉄砲でうたれもした、人間の3人や5人は叩っ斬って来てゐるといふことだ。」
 こう引用してつづけて江藤は書いている。
「9月に在郷軍入会令が公布され、10月に内蒙古軍が綏遠に侵入し、11月に日独防共協定が成立し、12月にワシントン海軍条約が失効したというような当時の時勢の急転換を想いおこしてみれば、ほかならぬ中野氏のこのような発言がどれほど「民衆煽情」に役立つたかは容易に想像される。(中略)中野氏は、昭和10年代の感傷的な左翼翼青年がそう信じたほど一貫した『信念』の道を歩いていたわけではない。彼は孤立をえらびながら〔提携〕を説いたが、全く同様に従軍の覚悟を語りつつファシズム反対を説いている。」
 「……というような当時の時勢の急転換を想いおこしてみれば」、これこれのことが「容易に想像される」という本人を前において私は「加像力の弱いようなところ」などと書いたが、江藤の引用には無理があることを江藤自身も認めるだろうと思う。彼は(中略)と入れて心やすくつづけているが、第一の(中略)の前と後とのあいだには大きな段落がある。そしてそこの文句こそ、少なくとも私の書いておきたい肝腎のことの一つなのだった。第二の(中略)の前と後とのあいだにもちよつとしたことがある。それは当時おこなわれていた或る事実に関することで、つまりそういう、私としては曲りなりにも言っておきたくて書いた部分を飛ばしてしまって、勝手に(中略)でくくられてはたまったものでないという感じが出てきてしまう。しかも、「そこで話を飛ばして」の前にこそやはり私の言いたいことがあるのだつた。それだからこその「そこで」「飛ばして」であつただろう。私が、「従軍の覚悟を語りつつ」などということがどこにあるか。江藤が勝手に(中略)してしまった部分にでもそれがあるかないか。
 私は「孤立をえらびながら『提携』を説いた」りはしなかつた。帝国主義戦争反対の勢力、気運が孤立させられつつあるからこそ、孤立させられたくなくて「提携」を説いていた。このへんのことは、平野謙の私の『全集』第15巻の解説にも、また今彼の書きつづけているこの時期の文学史(『文学界』)にもよく触れられている。私の文章が「どれほど『民衆煽情』に役立ったかは容易に想像される。」と江藤はいうが、もしこの「煽情」が、たとえば「帝国主義戦争を内乱へ」といつたことの反対の煽情、帝国主義戦争そのものへの「民衆煽情」だつたという意味で江藤がいうのならば、彼における想像力の衰弱は極端なものということになるだろう。
 1935、6年における私の態度はへつぴり腰だつた。私の信念は動揺していた。「共産党という『正義『』に属している彼の、非党員林氏に対する優越感も作用していたかも知れない。』などはあまりに桁はずれている。

「『文学者に就て』について」で私は反対を書いている。当時「転向」のことがあつた。いくらかヒステリックにではあつたが、私は、「転向作家が転向によって失つたのは第一義的生活であって、第二義的、第三義的生活はまだ残されていると見るなぞは甘い考え方である(中略)だから彼らは、たとえていうのではあるが、第二義的に生きようとしてわずかに第三義的に生きてきたような作家より心ずつとずつと下へ、どん底まで堕ちたのである。」と書いている。だいいち、江藤が(中略)でくつつけて孫引きした文章で私は国内戦について書いている。それを、「アメリカ、ソヴェート同盟、中華民国の三つ」を「仮想敵国」とする国外戦との対比で書いている。過去の戦争での文学者と戦争との関係のところでも「シベリヤ干渉戦」という言葉で少しのことを書いている。そして実戦との関係ではただフールマノフやオストロフスキーを出している。知っている人もあるだろう。あのころ大森駅の上、馬込へ越える山のところに実弾射撃練習所があつた。あすこへ私ははいろうとしてはいれなかったことがある。内乱がおきると思っていたわけではない。しかしファシスト的な作家たちが陸海軍大演習にくつついて行き、私がピストルの射ち方も知らぬのは何さま残念というわけだつた。
 こんなことは笑われてよかろう。私が、帝国主義戦争への「民衆煽情」に役立つたなどはあまりに「容易に想像」されすぎている。
「二つの戦争のこと」に前後して私は「青葉時の憂鬱」を書いている。「不穏文書取締法案」、「国家総動員秘密保護法案」などとの関係で私は「軍民離間策ということ」について書いている。2・26事件以後の空気のなかでそれは書かれている。「ソヴェートについての考え方」では「支那ソヴェート」について、また「日本の外務省が……蒋介石と手を組んでソヴェート攻撃にのりだすことを宣言した」ことについて書いている。また「日本新聞記者の寧都訪問記」というものを書いている。「条件づき感想」では「北支事変」について書いている。「二つにわかれた支那その他」では中国の「二つの政府」について書いている。そしてそこでは、「私の同情が戦争と税企とになやむ厖大な零細農民の上にあるか、あらゆることをしてきたし今もしている浙江財閥などの上にあるかを別として」というようにへっぴり腰で書いている。つまり私は、帝国主義戦争との関係でいえば、「一貫した『信念』の道を歩いていたわけではない」と同時に、帝国主義戦争への「民衆煽情」の道とは大体において決して言えぬ道を歩いていた。そんなことが「容易に想像される」という江藤は、彼の今日の、今日以後の戦争関係問題についてあまりに手軽にすぎて考えているのではないかどうか。在郷軍入会令、日独防共協定、ワシントン条約などといつたものを持ちだしている本人が、そういう条件のもとで曲りなりにもあらがおうとしていた勢力、そのせめてものうごめきに眼をふさぎたかつたのはどうしたわけからだったろうか。 」


上記の文章のうちの「私としては曲りなりにも言っておきたくて書いた部分を飛ばしてしまって、勝手に(中略)でくくられてはたまったものでないという感じが出てきてしまう。しかも、「そこで話を飛ばして」の前にこそやはり私の言いたいことがあるのだつた。それだからこその「そこで」「飛ばして」であつただろう。」とか、「私の文章が「どれほど『民衆煽情』に役立ったかは容易に想像される。」と江藤はいうが、もしこの「煽情」が、たとえば「帝国主義戦争を内乱へ」といつたことの反対の煽情、帝国主義戦争そのものへの「民衆煽情」だつたという意味で江藤がいうのならば、彼における想像力の衰弱は極端なものということになるだろう。 」、「在郷軍入会令、日独防共協定、ワシントン条約などといつたものを持ちだしている本人が、そういう条件のもとで曲りなりにもあらがおうとしていた勢力、そのせめてものうごめきに眼をふさぎたかつたのはどうしたわけからだったろうか。」などを読むと、中野重治のなかでは江藤淳に対して、怒りもさることながら、その人間性と文学性への不信の念はそれよりもさらに強く深かったのではないかという気がする。

中野重治が、今では古典と言われるべき小説『村の家』を書いたのは1935年であった。江藤淳が中野批判の対象にしている諸々の出来事はその翌年および翌々年のことのようである。そのような時期に、中野重治が帝国主義戦争に「民衆煽情」をしたり、「従軍への決意」を語ったりするようなことがありえるかどうか、もし江藤淳の文章が何かの思惑をもって故意にこのように書かれたのでなかったのなら、江藤淳は対象について深く考えもせず、最低限必要な調査もしないでこのようなものを書いたことになる。どちらにせよ率直に言って、文学者としてのセンスの欠如や剥落を感じさせずにおかない話だと思う。この件のみで言うのではないが(たとえば、大岡昇平と埴谷雄高の対談による『2つの同時代史』をみると、大岡・埴谷の2人が揃って身も蓋もないと言いたいほどのあけすけな言葉を用いて批判的に語っている文学者はほとんど江藤淳しかいなかった(*)。井上靖に対する評価も大岡、埴谷ともにきびしいが、批判の内容、性格が異質である。今振り返ってみると2人の江藤評には中野の江藤批判と通底するものがあるように感じる。)、ただこの問題一つに話を絞っても、江藤淳が文壇で長く重きをなしたのは、個人の文学的才能や実力よりも、日本社会の右傾化、それに乗じた巧妙な処世術、文壇の衰弱・廃退、等々によるものではなかったのかという疑いをもたずにいられない。

……………………………………………


 江藤淳の「先見の明」(『大岡昇平・埴谷雄高 2つの同時代史』(岩波書店1984年)

 埴谷 安保のころのことでもうひとつおもしろいのは江藤淳のことだよ。「聲」に江藤が『小林秀雄論』を書く前だよ。そのころ江藤は吉祥寺にいたから僕のところに始終きていたんだよ。もともと彼は『夏目漱石』を学生時代に書いてそれを平野謙が非常に認めたんだ。荒正人は認めなかったけれどね。そういうことがあって僕のところに学生時代にきたのがはじめなんだよ。平野さんがほめているのにどうして荒さんは私のことをけなすんでしょうと聞くから、そりゃ荒は自分が漱石の専門家だと思っているからで、そんなの気にする必要はない、批評にかぎらず文学者はほめられたりけなされたりすることは当り前で、始終あるんだというようなことを答えたりしているうちに彼は結婚して、吉祥寺に住むようになった。それ以来僕のところに始終くるようになったんだよ。
 そのとき彼はまだ若くて、「近代文学」という戦後派が、日本文学の中心だと思っていたんだろうね。それが文壇状況がだんだんよくわかってくるにつれて、鎌倉組が中心であって、「近代文学」戦後派というのは傍流だということに気がついたわけなんだよ(笑)。
 大岡 それは文壇的にだろう。
 埴谷 そういうことだ。文学と文壇の差異に気がつくんだけれども、しかし安保のころはまだ「若い日本の会」をつくって安保闘争を彼なりにやっていたんだ。それを僕も盛んに激励した。
 大岡 そのときは鎌倉組は先が知れてる、反抗するのが有利だと思ってたんじゃないのか。
 埴谷 まだ戦後派の僕らが中心だったんだね。ところが、ハガチー事件で、左翼が羽田でやっているのを見たときからだんだん左翼がいやになってきたんだよ、江藤淳はね。実際くだらない左翼もいるからね。
 彼は社会党の大会に出席してがっかりもしたけれども、このハガチー事件が決定的だね。そして、左翼が次第にはっきりいやになってくると、『作家は行動する』を書いたり、「若い日本の会」をつくったのは、埴谷に煽動されたからだということに落ち着いちゃったんだよ。埴谷は若いものを煽動する名人で、自分まで煽動されちゃったというわけだね。
 大岡 あとからそう合理化するんだよ。ハガチーを見て、こりゃいけねえって思ったわけじゃない。前から寝返る気があって、きっかけに使ったんだ、とおれは思うよ。江藤に『小林秀雄論』を頼みに行った、というのは安保の前だよ。『作家は行動する』の中で彼が小林の悪口を書いているんだけれども、おれは、小林の文壇で果した役割としては君の言う通りであるけれど、小林という人間は違うんだ、だからそこを少し書いてみたらどうかといって、頼みに行ったんだ。「聲」34年(引用者注:1959年)12月号「冬号」おれが編集担当だから、10月頃手紙を出した。そしたら彼もそんな問題がちょっと頭に引っかかっていたと言って、そうして連載になったんだよ。
 まだそのころは、花田清輝という人は、本当に革命を頭のなかで考えている人です、と言ってたよ(笑)。江藤の転向もだんだんなしくずしにおこったんだろうね。
 埴谷 そうだよ。なしくずしなんだよ。『作家は行動する』のころは数日おきに僕のうちにきていて、僕といろいろ話をして、『作家は行動する』を書きあげた。
 ところが、それがまちがえたというふうになったから引っくり返ったわけだが、どうもうまいときに小林秀雄のほうに行ったな。
 大岡 とにかく『小林秀雄』は安保より前だ。しかし世の中は変わってくるからな。
 埴谷 世の中も変わってくるけど、江藤淳は、ある意味で言うと、右傾化の現在を先取りしたわけで、皮肉にいえば、非常に先見の明があるとも言える。状況が現在のように変わる以前に、江藤淳はすでにどんどん変わってきている。
 大岡 それはまあ、先見の明とは言えないだろう。
 埴谷 それはほめすぎかな(笑)。
 大岡 目先に従っただけだよ。
 埴谷 もちろん目先だけれども、しかし言い方は、うまくも、へたにも、いろいろあるわけだ、いまから言えばね。
 大岡 当人は先見の明と思っているかもしれないね。
2012.05.22 Tue l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
文芸評論家の福田和也氏が書かれた小説家 佐多稲子についての文章がウェブ上に出ていることを少し前に知った。
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/26762?page=3
初出は『週刊現代』(2011年11月)だったようである。10回の連載になっているが、第4回目の題名は、「カフェに溜まる文学青年たちが、女給の才能を存分に開花させる」である。「カフェに溜まる文学青年たち」とは、この翌年の1926年に佐多稲子の夫となる窪川鶴次郎をはじめ、中野重治、堀辰雄など、雑誌『驢馬』に集う同人たちのことである。 連載第1回目には、このときから7年ほど前、15、16歳の少女だった佐多稲子は不忍池の清凌亭という料亭で働いていて、そのとき芥川龍之介や久米正雄などの文学者たちと知り合っていたことなどもかなり詳しく叙述されている。佐多稲子の名前を、またその作品が語られる場面を見聞きすることが少なくなっている昨今、このような文章が書かれることは、古くからの佐多稲子のファンである私にはとても嬉しいことであった。「 …昭和の文学史は、佐多がいないと大分、寂しいものになるだろう。少なくとも、私にとっては、そして少なからぬ読者にとって佐多は、ある意味で、林芙美子よりも、宇野千代よりも、吉屋信子よりも大きな存在だろう。」との福田氏の見解にも、常々、佐多稲子を得がたい作家の一人だと思っている私は心から賛同する。

ところが、この連載にはつよい違和感・抵抗感をおぼえさせられる記述もある。それも佐多稲子本人に関してではなく、中野重治に関するものであり、この部分は上述した連載第4回「カフェに溜まる文学青年たちが、女給の才能を存分に開花させる」 のなかに出てくる。佐多稲子を論じる上で中野重治は欠かせない存在にちがいないのだから、執筆者の筆が中野重治におよぶのは自然なことだと思うが、その内容が問題で、私ははなはだ奇異な思いがした。以下の文章である。

「 文芸評論家、江藤淳はごく若い 頃 ---湘南中学時代、石原慎太郎氏とともに、従姉の夫であった第一高等学校文科教授の江口朴郎の元を訪れ、史的唯物論について話を聴いたという---を除けば社会主義、共産主義、つまりは左翼的な思潮にたいして常に一線を画してきたが、昭和六十年一月文芸誌『新潮』誌上ではじまった連載、『昭和の文人』で平野謙、中野重治を扱っている。

 平野に対しては、戦時下でのふるまいも含めて、かなり批判的なスタンスを取っているが、中野にはかなり同情的、というより深く、大きな共感を抱いているように見 える。

 例えば中野重治の詩、「雨の降る品川駅」について、江藤は次のように書いてい る。

「 どういうものか、私はこの『雨の降る品川駅』という詩が好きで、大学の講義で 昭和初期の詩歌を論じたときにも、進んで取り上げたことがある。そのとき、学生の 前でこの詩を朗読しているうちに、ある感動が胸に迫って一瞬読みつづけられなくなり、われながら少からず驚いたこともある。/それは、もとより私が、詩の中で謳わ れている『日本プロレタリアート』のイデオロギーに、いささかたりとも共感を覚えたためではない。

 イデオロギーではなく、『さようなら 辛/さようなら 金/さようなら 李/さようなら 女の李』という告別の言葉にこめられたあるラディカルな旋律が、突然思いも掛けなかった戦慄を喚び起したからこそ、私はしばらく朗読を中断したのである。/いま、あらためて読み直してみると、最初からこの詩のなかには、さほどのイデオロギー的抵抗を感じずに済むような、適切な距離の基軸が埋め込まれている。

 『さようなら』と呼び掛けられている『辛』も『金』も、『李』も『女の李』も、 誰一人として日本人ではない。朝鮮人でありながら、同時に『日本帝国臣民』であることを強制されていたこれらの人々が、『日本天皇』に敵意を抱き、敬愛の念を持たないのは、きわめて自然というほかない」

 ここで江藤は、かなりきわどい語り方をしている。日本プロレタリアートのイデオロギーについては、まったく共感を覚えないといいながら、同時に日本プロレタリアートの代表的詩人である、中野重治の作品に「読みつづけられない」ほど感動している。思想的にはまったく受け入れないが、感性においては全面的に肯定する、といった事態は、許容されるのだろうか。

 この問いは、かなり厄介なものだ。

 もちろん、人はイデオロギーを超えて理解しあう事は出来るだろう。けれども、 『辛』や『女の李』は、あきらかに戦前の日本を、そしてその国家を統治している天皇を打倒しようとしている。共産主義者である中野が『辛』の側に立つのは当然だと しても、天皇の臣下であることを引き受け、そして誇りにしてきた藝術院の会員であ る江藤は、しばしば天皇陛下の謦咳に接する機会にめぐまれている。その江藤が朝鮮の共産主義者の別離を謳った調べに感極まるとは。もちろん、そこにこそ文芸の神秘があるのだけれど。

 しかしまた一方で、中野にもまた、江藤と共鳴する響きがあった。 転向した共産主義者である、中野重治は、戦後すぐに書かれた短編小説「五勺の酒」のなかで、中学の校長の口を借りて、戦後すぐに行われた全国巡幸について、こう述べているのだ。 「移動する天皇は一歩ごとに挨拶すべき相手を見だすのだ。

 そうして、かぶつては取りかぶつては取りして建物のなかへはいつて行つた。歯がゆさ、保護したいという気持ちが僕をとらえた。(中略)なるほど天皇の仕草はおかし い。笑止千万だ。だから笑うのはいい。しかしおかしそうに笑え。(中略)僕はほんとうに情なかつた。日本人の駄目さが絶望的に自分で感じられた。まつたく張りということのない汚なさ。道徳的インポテンツ」。

 敗戦を迎え、『敵』であるはずの天皇に、無限の同情を覚える中野と江藤の距離はさほど遠くはなかっただろう。」(強調の下線はすべて引用者による。)


この文章は、「 カフェ「紅緑」時代は、稲子にとって、遅くやってきた青春時代だった。その輝きはまばゆく、その資質、才能を開花させただけではなく、人生行路をも、大きく変えてしまったのである。 」という佐多稲子の歩みと中野重治ら『驢馬』同人との運命的な出会いについての叙述につづいてのものである。福田氏の文章の内容自体への疑問だけではなく、こういうところでどうして江藤淳の中野重治に関するこのような文章が出てくるのだろう、との疑問もないではない。なぜこんな場面で何の脈絡もなく江藤淳の中野重治評が出てくる必要があるのか、あまりに唐突で、奇異な印象をうけるのだ。

江藤淳の『昭和の文人』に対しては「中野重治「再発見」の現在」という批判の文章があり、これもウェブ上で読める。数年前、私はこの批判文を読んで江藤淳の『昭和の文人』を初めて読んでみたのだったが、中野重治に関する記述については実に薄気味悪い文章だと思った。特に堪えがたく感じたのは「慟哭」という語句が頻出することであった。江藤淳は本の「あとがき」でも、

「  私はこの仕事によって、ほとんど中野重治という文人を再発見したといってもよい。彼は若年の頃の詩に詠じた『豪傑』にこそならなかったが、終生廉恥を重んじ、慟哭を忘れることがなかった。そのような中野重治の文業に対し て、私はほとんど自らの慟哭を禁じ得ぬ思いであった。

と述べているが、これに対して 「中野重治「再発見」の現在」は、

「 もちろん中野重治は再発見され、再評価されるべきだ。単に再発見だけでなく、今後もくりかえし再再再…発見されるだろう。しかし発見は事実に即し、テクストそのものに即しておこなわれなければならない。もちろん時代の変化によって、読みの変遷はある。それがあるからこそくりかえし「再発見」が必要になり可能になるのだから。だが、自分の姿に似せて相手をつくりかえることは「再発見」でも「再評価」でもない。そして江藤淳によって再発見された「日本民族の不幸に慟哭する中野重治」 「天皇を愛する中野重治」は、まさにそのようなものであった。」

と批判している。この批判内容に私は共感・賛同するが、特に下線を付けた箇所の批判には全面的に賛同する。
2012.05.20 Sun l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
1948年に成立した「軽犯罪法」に中野重治が反対意見を述べている国会演説を全集から引用して掲載する。1948年4月30日の日付である。この法律については、95年のオウム事件当時、信者に対して限度を越えて目茶苦茶な乱用がなされていたという記憶が今もつよく残っているのだが、この法律そのものが中野重治が言うように在ってはならないものなのか、それとも適切な適用がなされれば法自体はそう危険視する必要のない法なのか、この点をこれまでつきつめて考えたり調べたりしたことがない私には今残念ながら判断がつかない。ただこの演説を読んで、そこに並々ならぬ気迫と格調の高さがみなぎっていることを感じ、感銘を受けた。法案の本質・核心に焦点を絞ってそこから決して目を離そうとしない、その一点だけを問題にし、議論するという決意が疑う余地なくはっきり見えるように思う。国会で時にはこのくらい中身と迫力のある政治家の演説を聞いてみたいものだが、ないものねだりだろう、叶えられる可能性は当分ありそうにない。ウェブサイトで検索してみたところ、この演説は「参議院会議録情報」にも載っていることが分かったが、全集収録に際して多少言葉遣いの変更がなされているようなので、こちらのほうを採用した。


 軽犯罪法案反対 (全集23巻「国会演説集」)
日本共産党はかかる堕落した法案には賛成することができない。我々にとつて何が大事であるか、これは基本的人権であることは言うまでもない。日本の人民は、この基本的人権を、あの大きな戦争の犠牲をとおして保障されるまでに至つたのである。このことを我々は少しでも忘れてはならない。この大きな犠牲を払って、己れの基本的人権を保障されるところまでわれわれが漕ぎつけることができた結果なにが生じたか。人民から奪われていた生産物が、物質と精神との両面にわたつてあばかれ始めた。支配官僚の腐敗が、下から正されはじめた。そこでいかにして旧支配権力は自己の破滅を救い、又その犯罪をあばかれずに済ますことができるか。彼らはそのために何に訴えたらよいか。彼らが従来訴えてきたところの治安維持法は廃止されており、更に最近までわずかに訴えてきたところの警察犯罪罰令は廃止されざるを得ないところにきている。そこで彼らは、道徳の仮面に訴えるというほどまでに堕落したのである。即ちほかならぬ「道徳」に、自己の犯罪を守ろうとして訴えたのである。ここにこの法案の狡猾さ、それにもかかわらぬごまかせぬ腐敗が見てとられる。このことは、この法案を発案した当事者がすでに認めている。多くの重罪犯すら取りしまれぬ現在の警察の質と量とによつて、ここにならべられているような軽犯罪を取りしまり得ないことは、この参議院の労働委員会懇談会で、法務庁検務局長自身が認めている。すなわち彼らにとつては、そういうことはもはや問題でないのである。問題は、ここで牙を剥かなければおのれが破滅するということである。そこで牙を道徳的に剥いたのが、この法案である。こう我々は明らかに断定せざるを得ない。ケーペルがこういう意味のことを言つている。
「人が常に常に道徳的に語り得るためには、その人はいかほどまでに道徳的に堕落していなければならぬであろう!」
彼は感嘆符をつけて書いている。これが即ちこの法案である。この法案が通過したならば、それによつて何がもたらされるか、それは、国に満ちた犯罪と腐敗とを、正して行こうとする日本人民の下からの組織的行動にたいする、支配権力側からの一斉襲撃である。この襲撃が成功したならばどうなるか。国の腐敗はいっそう進み、国に満ちている犯罪はいっそう大きく充満してくる。日本共産党は、日本の国民生活がこれ以上腐敗し、日本の国に満ちた犯罪がこれ以上大きくなることを黙つて見ていることはできない。我々はその意味で、かかる仮面にかくれた、それ自身犯罪的な法案に真向から反対するものである。(拍手)


中野重治が演説のなかでその言葉を引いているケーベルというのは、1893年(明治26年)から1914年(大正3年)まで20年余東京帝国大学で哲学を教えた人物のことだと思う。上の中野重治の引用だけでは、言葉の意味したところがもう一つはっきりしないのが残念だが、少数政党である共産党は質問や演説にあまり時間をもらえなかったのではないかと想像される。

漱石は「ケーベル先生」をはじめ何度かこの人について書いている。ケーベルの来日当時、英文科の大学院生だった漱石は、美学を教わったそうである。ついでになるが、ここで、漱石がケーベル先生について書いた文章を2点掲載する。1914年(大正3年)、東大を辞職したケーベル先生は8月12日にドイツに帰国の予定だったが、第一次大戦勃発のため帰国が難しくなり、その後も機を逸して、とうとう日本に骨を埋めることになったそうである。恩師の帰国に際して漱石が朝日新聞に書いた下記の文章「ケーベル先生の告別」と「戦争からきた行き違い」にその経過が綴られている。漱石の死去は1916年(大正5年)なので、これはその2年前の出来事であった。

「 ケーベル先生の告別
 ケーベル先生は今日(8月12日)日本を去るはずになっている。しかし先生はもう二、三日まえから東京にはいないだろう。先生は虚儀虚礼をきらう念の強い人である。二十年前大学の招聘に応じてドイツを立つ時にも、先生の気性を知っている友人は一人も停車場へ送りに来なかったという話である。先生は影のごとく静かに日本へ来て、また影のごとくこっそり日本を去る気らしい。
 静かな先生は東京で三度居を移した。先生の知っている所はおそらくこの三軒の家と、そこから学校へ通う道路くらいなものだろう。かつて先生に散歩をするかと聞いたら、先生は散歩をするところがないから、しないと答えた。先生の意見によると、町は散歩すべきものでないのである。
 こういう先生が日本という国についてなにも知ろうはずがない。また知ろうとする好奇心をもっている道理もない。私が早稲田にいると言ってさえ、先生には早稲田の方角がわからないくらいである。(略)
 私が先月十五日の夜晩餐の招待を受けた時、先生に国へ帰っても朋友がありますかと尋ねたら、先生は南極と北極とは別だが、ほかのところならどこへ行っても朋友はいると答えた。これはもとより冗談であるが、先生の頭の奥に、区々たる場所を超越した世界的の観念が潜んでいればこそ、こんな挨拶もできるのだろう。またこんな挨拶ができればこそ、たいした興味もない日本に二十年もながくいて、不平らしい顔を見せる必要もなかったのだろう。(略)
先生の金銭上の考えも、まったく西洋人とは思われないくらい無頓着である。先生の宅に厄介になっていたものなどは、ずいぶん経済の点にかけて、普通の家には見るべからざる自由を与えられているらしく思われた。このまえ会った時、ある蓄財家の話が出たら、いったいあんなに金をためてどうするりょうけんだろうと言って苦笑していた。先生はこれからさき、日本政府からもらう恩給と、今までの月給の余りとで、暮らしてゆくのだが、その月給の余りというのは、天然自然にできたほんとうの余りで、用意の結果でもなんでもないのである。
 すべてこんなふうにでき上がっている先生にいちばん大事なものは、人と人を結びつける愛と情けだけである。ことに先生は自分の教えてきた日本の学生がいちばん好きらしくみえる。私が十五日の晩に、先生の家を辞して帰ろうとした時、自分は今日本を去るに臨んで、ただ簡単に自分の朋友、ことに自分の指導を受けた学生に、「さようならごきげんよう」という一句を残して行きたいから、それを朝日新聞に書いてくれないかと頼まれた。先生はそのほかの事を言うのはいやだというのである。また言う必要がないというのである。同時に広告欄にその文句を出すのも好まないというのである。私はやむをえないから、ここに先生の許諾を得て、「さようならごきげんよう」のほかに、私自身の言葉を蛇足ながらつけ加えて、先生の告別の辞が、先生の希望どおり、先生の薫陶を受けた多くの人々の目に留まるように取り計らうのである。そうしてその多くの人々に代わって、先生につつがなき航海と、穏やかな余生とを、心から祈るのである。 

 戦争からきた行き違い
 十一日の夜床に着いてからまもなく電話口へ呼び出されて、ケーベル先生が出発を見合わすようになったという報知を受けた。しかしその時はもう「告別の辞」を社へ送ってしまったあとなので私はどうするわけにもいかなかった。先生がまだ横浜のロシアの総領事のもとに泊まっていて、日本を去ることのできないのは、まったく今度の戦争のためと思われる。したがって私にこの正誤を書かせるのもその戦争である。つまり戦争が正直な二人を嘘吐きにしたのだといわなければならない。
 しかし先生の告別の辞は十二日に立つと立たないとで変わるわけもなし、私のそれにつけ加えた蛇足な文句も、先生の去留によってその価値に狂いが出てくるはずもないのだから、われわれは書いたこと言ったことについて取り消しをだす必要は、もとより認めていないのである。ただ「自分の指導を受けた学生によろしく」とあるべきのを、「自分の指導を受けた先生によろしく」と校正が誤っているのだけはぜひ取り消しておきたい。こんなまちがいの起こるのもまた校正掛りを忙殺する今度の戦争の罪かもしれない。 」
2010.05.17 Mon l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
中野重治全集の解題を書いている松下裕氏によると、中野重治は「政治活動をする人間として文学をやりたい」とどこかで述べているそうである。私はその文章を直接見てはいないが、こつこつその全集を読んでいると、中野重治は確かにそうであったろうということが実感される。戦前・戦中、書きたくても書けないことが胸に積もりに積もっていたのだろう、敗戦後5、6年間の中野重治の舌鋒鋭い言葉には迸るかのような勢いを感じる。天皇制、東京裁判、戦争責任の問題、等々、さまざまな問題がなんともヴィヴィッドな筆致で幅広く取り上げられ、批評の対象にされている。阿波丸事件、管季治事件などということも、どこかで断片は聞いたことはあっても詳細については全然知らなかったものを、中野重治全集によってそれらの問題が当時の社会でどのように受け止められていたのかなどについて私も多少知ることができた。他にも同様のことは数多くあり、次の例もその一つである。

ニム・ウェルズというアメリカ人女性が書いた『アリランの唄』という本を推奨している中野重治の文章がある。1953年(昭和28年)に「日本読書新聞」に寄稿された文(全集25巻に収載)で、題は「ニム・ウェルズの『アリランの唄』」。白竜の歌う「アリランの唄」は知っていても、この本については初めて知ったのだが、このなかに次の一節があった。

「 われわれ日本人は朝鮮を忘れている。朝鮮と朝鮮人とにたいするおのが犯行を忘れたがつているのだ。寺内が題辞を書き、竹越・内田が序を書いた『亡国秘密 なみだか血か』も忘れた。外骨のつくつた『壬午鶏林事変』も忘れた。1930年に出た金民友の『朝鮮問題』戦旗社版も忘れた。アメリカとの関係で、黒田寿男が日韓議定書の問題を国会で出したとき日本人はほんとうにおどろいたのだつた。」(下線は引用者)

黒田寿男と日韓議定書の問題。初めて聞く名前と内容だったので、ネットで検索してみると、中野重治の上の文章が書かれる2年前の1951年10月19日、時の首相吉田茂(注)に対する衆議院議員 黒田寿男の国会質問を見つけることができた。その年吉田茂が全権大使として渡米し、9月8日に「講和条約」とともに「日米安保条約」を結んで帰国してから1カ月余り後の出来事である。中野重治は「日本人はほんとうにおどろいたのだつた」という黒田議員の質問内容について何も書いていないが、これはこの日、10月19日の国会質問を指しているのはおそらく間違いないと思われる。黒田寿男は締結したばかりの「日米安全保障条約」と1904年に日本と韓国の間で結ばれた「日韓保護条約」の条文が酷似していると言い、そこからくる懸念について吉田総理に質問しているのであった。このような国会質問がなされたこと、それが当時日本社会を驚かせたり、話題になったりしたことを私は初めて知ってそれこそ大変驚いた。当時人々の間にどのような意見が出て、どのような議論や会話がかわされたのだろうか。国会答弁を読んだかぎりでは、吉田首相は黒田議員の質問に「それをお手本にしてつくつたものではなく」と答えているが、当然そうだろう。ただこの答弁のしかたには奇妙だといえば奇妙だと感じるところもある。首相の口調は思いもかけない質問をうけたというふうではないようにも思えるのだ。

去る4月25日は沖縄で普天間基地の県内移設に反対する大集会が行なわれ、9万人もの人々が結集したとのことである。鳩山政権は選挙前の公約を必ず守らなければならない。また高校の授業料無償化法案から朝鮮学校のみを排除しようとする動きをみても分かることだが、近年在日朝鮮人に対する差別を固定化し強化する露骨な動きが見られる。また最近、植民地支配に関して「日本は朝鮮に橋や鉄道を作ってやった、衛生設備を整えてやった」などの発言が日本人の口からよく出るようになっている。これは恥知らずの上にも恥知らずな言い分としか言いようがない。「日米安保条約」と「日韓保護条約」とを同列に並べるようなことは決してしてはならないが、こと条文に関しては、黒田氏が「生き写し」という言い方をしているとおり、双方の内容が大変よく似ていることは事実のように思う。時が時でもあり、日本社会の現状を考える上で参考になるようにも思うので、下記のサイト

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/012/1216/01210191216004c.html 
「第012回国会 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 第4号」

から該当個所を引用して掲載する。(なお黒田寿男の経歴をこちらで見てみると、学生時代は東大新人会のメンバー、1937年には「人民戦線事件」で投獄され、議会を追放された人物のようである。弁護士でもあった。)


「○田中委員長 黒田寿男君。
黒田委員 私は本日は平和條約と安全保障條約とを合せて、多少根本的な問題を総理にお尋ねしたいと思うのでありますけれども、総理の方でおさしつかえがありまして、予定しただけの時間がいただけませんので、きようはただ一問だけ特に御質問申し上げたいと思います。あとはこの次の機会に質問する権利を留保させていただきたいと思います。
 そこできようは、便宜上、私は安全保障條約の―この安全保障條約と申しますのは、今回の日米安全保障條約のことでありますが、この安全保障條約の性格について政府にお尋ねしてみたいと思います。私の見るところでは、日米安全保障條約は、名称は安全保障條約でありますけれども、実質的にはいわゆる安全保障体制の性格を備えていない。それでは一体何であるか、私も懸命に研究してみたのでありますが、結局私の結論は、安全保障條約ではなくて、むしろ保護国條約の性格を持つておる、あるいはその通りでないにいたしましても、それに非常に近い性格を持つておるものである、こういう結論に到達したのであります。これにつきまして私は自分の所信を述べながら、政府の御所信を承つてみたいと考えるのであります。
 そこで第一に、日米安全保障條約は、本来の安全保障條約ではないと私は結論を下すのであります。なぜであるか、本来の安全保障体制であるためにはどういう條件が必要であるかと申しますと、すべての参加国が継続的にして効果的な自助及び相互援助を行うものでなければならぬ、こういう條件が必要なのであります。現に本来の安全保障條約でありまするところの北大西洋條約、米此相互防衛條約、オーストラリア、ニユージーランド、アメリカ合衆国、この三国間の安全保障條約等の本来の衆団安全保障体制を研究してみますと、すべてこの條件を備えておるのであります。しかして今日吉田総理が単独で調印されて参られました日米安全保障條約なるものは、この條件を備えていない。だから暫定的なものであるという言葉が用いられておるのであります。すなわち将来本格的な安全保障体制ができることを米国は期待しておるというておるのもあります。将来本格的な安全保障條約になるのであるならば、今は本格的な安全保障体制でないということは明らかである。この区別だけははつきりさせておかなければならない国民は、名称が安全保障條約というので、本来の安全保障條約ができるのであるかのごとく考えさせられているのであります。これは、私は非常に危険なことであると思うのであります。そこで今度首相の調印されて参られました安全保障條約なるものは、いわゆる暫定的なものであつて、本来の安全保障体制としての條約ではない。このことをはつきり国民に知らせておく必要がある。この点につきまして私と同じようにお考えになるかどうか、ちよつと総理大臣の御見解を承つてみたい。
吉田国務大臣 これは安全保障條約の中にはつきり書いてあります。つまり日本が国連またはその他により、いわゆる恒久的なといいまするか、安全保障あるいは日本の独立を守るだけの措置ができたならば、そのときはやめると書いてあるので、暫定的というお話は私も同意であります。またこれをもつて何百年もやる考えはないのであります。しかしながら、日本は独立はできたが防備はない、その空間を満たすための暫定條約であつて将来国力が充実するか、あるいは国連その他の国際的機構が充実される場合には別に考えるべきで、独立を得たその瞬間における独立安全をどうしてはかるか、そのさしあたりの必要に応ずるためにこの條約はできたのであります。ゆえに暫定であります。またわれわれも暫定と考えております。
黒田委員 これは文字通り暫定と書いてありますから、わかる人にはわかるのでありますが、国民がこの暫定ということに気がつかないで、いろいろと間違つた考えを持つのではなかろうかと思いますので、あえてこの点を明らかにしていただいたのでありますけれども、やはり総理も暫定だと申されますし、むろん私も総理のおつしやつたように暫定と考えております。
 そこでその点を、はつきりさせておきまして、しからばこの安全保障條約が、本来の安全保障体制たることができないのはどのような條件が欠けておるか、このことを私は考えてみた。そうすると、それは言うまでもなく日本が自身として軍備を持つていないことである、こういうことがすぐ答えとして出て来るのであります。すなわち日本が自国の防衛のため漸増的にみずから責任を負い得るような條件をつくらなければ、安全保障体制に入ることができないのだ、こういうことが言えるのである。そこで、しからば日本は何ゆえにこの條件を欠かねばならぬか、こういう問題が次に出て来ると思います。それは言うまでもなく今の憲法が嚴として存在しておるからである。この憲法が存在する限りは、日本は、この條件を満たすことができない、すなわち再軍備をすることはできないのであります。従つて安全保障條約の名のもとに、実際は安全保障條約でないところの、しかも実質は一種の軍事條約が結ばれる、こういうところに落ちて行くよりほかない、こういうことになろうとしているのであると私は考えるのであります。そこで総理にお尋ねしたいと思いますことは、日本が再軍備をしなければ、この日米安全保障條約はいつまでも存続して行かねばならぬという論理の帰結になるのでありますが、そういうように解釈してよろしいのでありましようか。言いかえれば、この暫定的安全保障條約から、本来の安全保障條約に入らなければならぬ條件を満たすためには、再軍備をしなければならぬ、この條件にかかつておる。こういうように私どもは考えざるを得ないのであります。この点についてはつきりと総理の御見解をお尋ねしておきたい。
吉田国務大臣 お答えしますが、これは必ずしも再軍備―軍備とかあるいは兵力とかいうものに、一にかかつておるとは私は解釈しないのであります。日本の国力がどう発展するか、あるいはどう充実されるか、あるいは日本の今後における大勢といいますか、政治その他の條件あるいは客観情勢がどうなりますか、内外の情勢について判断すべきものであつて、いわゆる危險とかいうようなことは内外の情勢がきめるもので、その大きさ、その内容に従つて考えるべきものである。これは将来の事態の経過によつて判定すべきである。その事態において善処する。いかなる恒久平和條約ができるか、それはできたときに御相談をいたします。
黒田委員 そういうお答えでありますと、念のためにもう一度しつこいようでありますがお尋ねします。この点は昨日芦田氏もお尋ねになつたのでありますけれども、尋ねる方も答える方も、何か歯にきぬをきせたような応答であつたと思いますので、私どもももやもやとした感じがまだとれておりません、そこではつきりひとつお尋ねしてみますが、この安全保障條約の中に書いてあります「日本が自国の防衛のため漸増的にみずから責任を負い得るような條件をつくる」ということは、軍備を再建するということではないのでありましようか。この点をはつきりと私ども国民としてお聞きしたい。
吉田国務大臣 はつきり申しますが、これはいろいろの意案含んだ広義なものであります。
黒田委員 それではそのいろいろな條件の中に、軍備の再建というものも含まれているかどうか、その点を質問いたします。
吉田国務大臣 特に軍備を含むとかいうような、具体的な話はまだいたしておりません。
黒田委員 まあこれはこの程度にしておきます。何べん繰返しましても今言うようなお答えしかなさらぬだろうと思いますから……。
 そこで次の問題をお尋ねいたしたいと思いますが、その前に、ちよつと中間的にお尋ねしておきますが、日米安全保障條約が一種の軍事條約であるということは、これは政府もお認めになると思いますがどうでありますか。
吉田国務大臣 お尋ねは軍事條約……。
黒田委員 軍事的性質を持つた條約であるかということ……。
吉田国務大臣 軍事的性質は持ちます。
黒田委員 ちよつと聞き漏らしましたが、もう一度……。
吉田国務大臣 アメリカの駐兵を許しておるのでありますから、軍事的性質を持つております。
黒田委員 そこで今までの質問応答で、本来の安全保障條約ではない、しかもそれにもかかわらず、一種の軍事的な條約であるということがわかつたのでありますが、その次に私ども国民として真剣に考えてみなければならないと私の思いますことは、しからば一体この條約の性格は何であろうか。私どもは政治家として物事をいい加減に考えることは許されない。あくまで真相を突き詰め、真実を発見するという態度で国会におきましても働かなければ、議員としての役割を果すことはできないと考えます。そこで安全保障條約でないとすれば一体何かということを私は考えてみた。自助の力もなく、相互援助の力もない状態で、しかもそれは軍事條約でいるというようなものを締結するときに、その條約の性格は一体どんなものになるか、これを私は考えてみた。これは言うまでもなく、当方としては義務があつても権利はない。先方様は権利があつても義務がない。こういう根本的な性格を持つ條約に落ちて行くよりほかには行きかたがないものであるが、事実私は日米安全保障條約の内容を見て、米国とわが国との権利義務の関係は、まさにこの通りになつていると考えるのであります。これについて政府はどういうふうにお考えになりましようか。多少私の説明が極端であるかもしれませんが、必ずしも今申し上げましたように日本には権利が全然ない、向うにはまた権利ばかりあつて義務がないとは申しません。けれども事の本質から見れば、とにかく日本の方には権利はなくて義務ばかりある、向う様には権利ばかりあつて義務はない、大体本質的にこういう性格の條約になつている。こう私は考えますが、一般論としてどうでありましようか。
吉田国務大臣 いろいろ御議論もありますが、私はそう考えません。もし日本の平和が脅かされたとか、あるいは日本の治安が第三国の進出あるいは威嚇等によつて脅かされた場合には、日本としては当然米国軍を要求する権利がある。これに応ずべき義務がアメリカにはある。これは相互的な権利前務があるからこそ、ここに條約ができておると考えるべきであると思います。
黒田委員 この点につきましては、きよう私はこれ以上総理に御質問いらしません。私は総理とは見解が違いますけれども、これはまた他の機会に條約局長にでも少し詳しく聞いてみたいと思ひます。そこで私は今申しましたように、一種の軍事同即でありながら本来的の安全保障條約でない。わが国に権利がなく、相手ばかり権利を持つておる、こう申したのでありますが、私はこの見解から議論を進めるのでありますから、そのようにお考え願いたいと思う。
 そこでこの安全保障條約の内容はこのようなものである、その本質はこうだというふうに考えてまゐりますと、一体その性格は何になるか、この疑問がなお私どもの頭に残る。政治家の良心はこれを探求せしめねばやまないのである。そにで私はこれをやつてみた。咋日芦田氏は総理に対する質問の際に、日米安全保障條約のような内容を持つ條約の例を知らない、こう言われた。芦田博士の博学をもつてしてなおその例がないと言われた。それは安全保障條約という名前を持つておる條約の中に先例を見出そうといたしますから、そういう條約の中には今回の日米安全保障條約のような屈従的内容を持つたものはない、こう言われる意味であろうと私は考えるのであります。私どもはこの点は芦田氏と同意見である。そで方面をかえて先例を探してみなければならぬというとろに私は来た。どういう先例を探求すべきか、私は安全保障という名称にとらわれないで、その実質から見て、この條約が非常に従属的性格を持つておるその面に目をつけて、こういう見地から私は過去の條約について先例を調べてみた。そうすると私は先例がないのじやなくてあると思う、確かにある。実にあるのであります。共産党の諸君は日満議定書の例をよく引用されます。私から見れば、なるほどそれもある程度の類似性を持つておりますが、もつと多くぴつたりした類似性をもつものが、私の目から見ると、あると思う。もつと適切な例を私は指摘することができると思う。私は過去の條約集を、根気を出して年代的にさかのぼつて、先にくとページを繰展げて調べて参りましたところ、実に今から約五十年前、明治三十七年の日韓保護條約の例に私は到達したのであります。私はこの條約に目を通したときに、実にこれだと思つた。実によく似ておる。今ごろになつて保護国というと諸君はおかしいと思われるだろう。国際関係におきましてそういうものは次第になくなりつつあります。今はもうほとんどないといつてもよろしいでしよう。ところがこの日韓保護條約の例に、この日米安全保障條約の例が実によく似ておる。この日韓保護條約は、名前のごとく、韓国が日本の保護国となつたときの條約であります。それは実に約五十年近く前のことである。幾昔も前のことであります。そして、それがやがてその次には日韓保護協約となりまして、それからその次には明治四十三年にいよいよ韓国併合條約、こういうところに行き着いてしまつた。もとより私は日本がそういうところに落ちるとは思いません。けれども韓国がこのようなところに落ちて行く、その過程に、日本に保護を求めるという條約が、韓国と日本との間にできましたその條約に今日の條約は実によく似ておると思う。そして朝鮮は、今私が申しましたような三つの條約の成立の過程を経て、結局日本の資本主義侵略の手中に落ち、遂に日本の植民地となつてしまつたのであります。そうしてあの長い苦難の経験を経て、太平洋戦争の後に今や独立に向つて進んでいる、その途中でまた今回私どもが見ておるごとき苦難の道をたどりつつあるのであります。しかしとにかく朝鮮の向う方向は、独立への方向であるということだけは私ども大づかみに認めることができる。しかるにわが国は、これからかつての韓国のごとき状態に陥れられるような條約がここでできるのではないか、何という情ないことであるかと私は思う。今私はここで両條約の内容を諸君の前で対比してみます。この條約はあまりにも古い昔の條約でありますから、最近の條約集を買つてみてものつておりません。私も一生懸命古本屋を歩いて、本郷の古本屋でやつと古い條約集を見つけてそれを見たところが、この條約があつた。そこで私はいかに両條約の内容が、共々に、みじめなものであるかということを明らかにいたしまして、吉田総理の御意見を承りたいと思うのです。日米安全保障條約というと、私どもはむしろ日本の利益になるような條約であると思つております、けれども、日韓保護條約のような保護條約と言われてみれば、これは考えてみなければならぬということになるのではなかろうかと私は思う。そこで私は、日韓保護條約はごく簡単な條約でありますから、参考のために日韓保護條約と日米安全保障條約の内容を比較してみたいと思います。日韓保護條約はわずかに六箇條にすぎません。それから日米安全保障條約は前文のほかに五箇條であります。しかしこのような條索の数がよく似ておるというようなことは、これは本質的な問題ではありませんので、ただこれだけのことを申し上げて、さて内容上はどうかということを私は申し上げてみたい。
 日韓保護條約の第三條に「大日本帝国政府ハ、大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実二保護スル事。」こういうな條文がありますが、日米安全保障條約にもやはり「日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。」アメリカは「この希望をかなえてやる、」こういうことになつておりまして、ちようどこの第三條のような関係が示されておるのであります。
 それから日韓保護條約の第四條に「第三国ノ侵害二依リ、若クハ内乱ノ為、大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全二危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速カニ臨機必要ノ措竃ヲ取ルヘシ。而シテ大韓帝国政府ハ右大日本帝国政府ノ行動ヲ容易ナラシムル為、軍略上必要ノ地点ヲ臨機収用スル事ヲ得ル事、」この点が日米安全保障條約に非常によく似ておるのであります。わが国とアメリカとの場合もやはり内乱問題が取扱われている。「一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じようを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、」云々という言葉がありますが、ちようどこの日韓保護條約の第四條にこれと同じことが書いてあります。それから今も申しますように、日本国政府が必要の場合臨機の措置をとるということと同様なことが、日米安全保障條約の中に現われておるのであります。
 それからなおよく似ておるところがある。それは日韓保護條約には、「両国政府ハ相互ノ承認ヲ経スシテ後来」―今後のことでありましよう。「後来、本協約ノ趣意二違反スヘキ協約ヲ第三国トノ間二訂立スルコトヲ得サル事」こういうように書いてありますが、これも安全保障條約の第二條の「第一條に掲げる権利が行使される間は、日本国は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地における若しくは基地に関する権利、権力若しくは権能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第三国に許与しない。」と書いてあります。これも非常によく似ておる。
 それからもう一つよく似ておることがある。これで最後であります。ごく短かい。日韓保護條約の第六條にこう書いてある。
 「本協約一一関聯スル未悉ノ細條ハ大日本帝国代表者ト大韓帝国外務大臣トノ間二臨機協定スル事。」これは日米安全保障條約の第三條に「アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する條件は、両政府間の行政協定で決定する。」こう書いているのとよく似ておるのであります。ほとんど日韓保護條約の全部が、ちようどこの條文も同じほどの数でありますが、ぴつたりと日米安全保障條約に当てはまる、生写しということがありますけれども、私は写せると思う、合せてみれば同じだと言えると思う。私はこういう條約があるということを発翻したのであります。私はこの條約を見て非常に深い感慨に陥れられざるを得なかつたのであります。年代があまりにかけ離れておりますから、人々は注意しないことでありましよう。けれどもその本質を調べてみると、このような類似点があるということは私どもも無視することができません。このような日韓保護條約があつたということは、これは政府もよく知つておいでになると思ひますから、こんなことがあるとかないとかいうことを質問する必要はないと思います。が、一体講和とは何であるか、講和とは日本が独立することであります。その日本が独立しようという講和條約の中から日米安全保障條約というものが出て来た。その安全保障條約の内容が実にかくのごときものであるということを見たときに、私どもが率直に考えてみて、国民の一人として、これが独立のための條約であるというように一体考えられるでありましようか、私には考えられない。おそらく吉田総理は、そうお考えになつたからあの平和條約と安全保障條約に調印して帰られて、そして今、国会にその承認を求めておいでになるのであると考えますが、私がどうしてもこれに賛成する気になれないのは、この條約のかくのごとき本質を知ることができるからであります。どうでありましよう、こういうように考えて行くと、どうも私は日本がアメリカの保護国的地位に落される條約になるのじやないか、そう思われるのであります。これは政府に質問いたしましても、まさか政府はそうだとはおつしやらないでありましよう。だから私は質問はしませんが、私の結論だけは申しておきます。政府がどう考えられましようとも、私はそう考える。こういうように考える国民もおるということだけは、吉田さんも、また自由党の諸君もよくお考えください、それでよろしい。質問は致しません。そうして、こういうところに落されて、それで独立だ独立だといつておることが、はたしてほんとうに日本の独立のためになるかどうかということを、私は心から御反省を願いたいと思う。元来私ども国家の種類を―今私がここで講義する必要はありませんが、国家の種類を考えますと、一方において主権国があり、その反面において非主権国あるいは半主権国、不独立国というものがあるのであります。私はこのような條約の、すなわち安全保障條約というけれども、実際上の安全保障條約ではなくて保護條約である條約のもとに日本人が生きてゆかなければならぬようになつたときに、一体日本は主権国であるか、それとも非主権国でないとしましても半主権国、少くともこういうところに落されてゆくのではなかろうかという心配を私は持つのです。この憂慮は私だけが持つのでありますならば幸いでありますけれども、わからないからそう考えていないだけで、わかれば私と同じような心配を持つ国民がこれからどんどんとふえて来ると思う。私はそう考えざるを得ないのです。そこでこのような條約は―これは質問して答えは得られないと思いますけれども、私から見れば半独立国くらいに日本がなる條約にすぎないと思うのでありますが、念のために総理の御見解を聞いておきたいと思う。
田中委員長 この際ちよつと黒田君に申し上げます。総理大臣は四時からやむなき所用のために退席されるとのことでありますから、もう御承知のことと思いますがさよう御了承願います。
吉田国務大臣 私の言うことは、黒田君には承諾あるいは是認されないと思いますが、念のため申します。今度の安全保障條約は、日韓議定書ですか、それをお手本にしてつくつたものではなくて、全然新構想でつくつたものであります。先ほど申した通り、日本が独立する、その独立をどうして守るか、日本には防備はない、その真空を埋めるためにこの保障條約をつくつたのであつて、日韓議定書を調べてつくつたものではないのであります。また当時の日本政府の気持と申しますか、状態、あるいは朝鮮の状態と、日本の今日の状態とは全然違うので、われわれの将来が日韓併合と同じようなことになるとは、第一アメリカ政府がそういうふうに考えますまいし、われわれもまたされようとも考えませんから、この点は御安心になつてしかるべきものだと思います。
黒田委員 もとより吉田総理がおつしやいますように、日韓保護條約ができてそのあとに訪れた韓国の運命を、わが国が受けなければならぬようなことになろうとは私どもも考えておりませず、またそうならぬよう努力しなければならぬと思う。けれども今はあの当時よりもつと恐しい世界戦争というものがあるのです。あの時分にはこれほどの恐怖はなかつた、これほどの破壊のおそれはなかつた。けれども今やそういう我等のおそれがある。だから形の上で、必ずしも日韓保護條約が日韓保護協定になり、合併條約になつたというような途はふまなくとも、このような日韓保護條約的な條約の中に日本が引き込まれて行くと、日本の意思にあらずして外国と外国との戦争に巻き込まれる可能性を発生させるというようなことになつてしまう、そうなれば、この日韓保護條約の将来よりももつと恐ろしい将来が日本を訪れはしないかという心配もあり得るのであります。
 今日は私はなおいろいろと総理に御質問申し上げたいことがございますけれども、委員長の御注意もありましたし、次会に総理に対する質問の機会をもち得ることを希望いたしまして、今日はこの程度で終了いたします。」



「日韓議定書」と「日米安全保障条約(旧)」の全文を参考までに以下に示す。

日韓議定書 (1904年(明治37年)2月23日)

大日本帝国皇帝陛下ノ特命全権公使林権助及大韓帝国皇帝陛下ノ外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔ハ各相当ノ委任ヲ受ケ左ノ条款ヲ協定ス

第一条 日韓両帝国間ニ恒久不易ノ親交ヲ保持シ東洋ノ平和ヲ確立スル為大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ヲ確信シ施政ノ改善ニ関シ其忠告ヲ容ルル事

第二条 大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ皇室ヲ確実ナル親誼ヲ以テ安全康寧ナラシムル事

第三条 大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実ニ保証スル事

第四条 第三国ノ侵害ニ依リ若ハ内乱ノ為大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ而シテ大韓帝国政府ハ右大日本帝国ノ行動ヲ容易ナラシムル為十分便宜ヲ与フル事
2 大日本帝国政府ハ前項ノ目的ヲ達スル為軍略上必要ノ地点ヲ臨検収用スルコトヲ得ル事

第五条 両国政府ハ相互ノ承認ヲ経スシテ後来本協約ノ趣意ニ違反スヘシ協約ヲ第三国トノ間ニ訂立スル事ヲ得サル事

第六条 本協約ニ関聯スル未悉ノ細条ハ大日本帝国代表者ト大韓帝国外務大臣トノ間ニ臨機協定スル事


日米安全保障条約(旧) (1951年(昭和26年)9月8日)

 日本国は、本日連合国との平和条約に署名した。日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。
 無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。よつて、日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。
 平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。
 これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。
 アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある。但し、アメリカ合衆国は、日本国が、攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従つて平和と安全を増進すること以外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する。
 よつて、両国は、次のとおり協定した。
第一条
 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じよう{前3文字強調}を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。
第二条
 第一条に掲げる権利が行使される間は、日本国は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地における若しくは基地に関する権利、権力若しくは権能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第三国に許与しない。
第三条
 アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する。
第四条
 この条約は、国際連合又はその他による日本区域における国際の平和と安全の維持のため充分な定をする国際連合の措置又はこれに代る個別的若しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及びアメリカ合衆国の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする。
第五条
 この条約は、日本国及びアメリカ合衆国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が両国によつてワシントンで交換された時に効力を生ずる。



(注)「敵ながら天晴れ」という言い方があるが、中野重治は吉田茂に対してそうも思っていなかった、政治家としてもほとんど評価していなかったようである。ご存じのように、中野重治は1947年からの3年余を日本共産党所属の参議院議員としてはたらいた。そしてこのことはさほど広く世の中に知られていないようだが、国会での中野重治の演説は他党派の議員にも楽しみにして待たれるほどに感銘ふかいものだったという話もきく。それは極小の範囲内でのことかも知れないが、全集第23巻の「国会演説集」を見ると、そのような高い評価もあながちえこひいきや社交辞令ではないのかも知れないという気もする。

さて、中野重治は自分が国会議員に就任してみると、他の文学者にぜひ国会に足を運んでほしい、観察に来てほしいと念じたようである。1949年に「国会と文学者」という題で「あすこへ来て実地を見れば、見ただけのことは必ずある、酒を一ぱい飲むぐらいのことは必ずあるのだから、文学者という文学者が、見物という程度でもいいから国会へ出て見るのがいいと思う。」としきりに来場を勧めている(おそらくその願いが実現することはあまりなかったのではないかと思うが。)が、そこで、吉田茂に触れている部分があるので、以下に引用しておきたい。

「吉田という絵理大臣なども、新聞に出る写真やなぞとはちがつて、倣慢だとか、一本気だとか、そんな人間でないことが文学者の手で描きだされる必要がある。文学者がものの二、三十分も見ていさえすれば、あれがどういう人間だかということが間違いなくわかつてくる。一本気どころか、三本気とも五本気ともつかぬ、古手外交官風の手管つかいに過ぎぬことが見えてくるのだが、そういうことは、やはり文学者の眼に頼るほかないように――我田引水か知らぬがわたしとして思う。」

吉田茂は今も戦後政治家のなかで言及されることの際立って多い政治家である。だが、書物などにおける多くの描写・叙述においてその行動や発言に何か真に傑出したものが見いだせるか、印象ふかいものが存在するかというと、私にはそのような経験は記憶になく、案外吉田茂の印象は希薄である。中野重治のこの指摘は的を射ているように思う。この吉田観とは対照的な方向で、参議院のある議員の風貌を中野重治は見事に活写さしている。この議員が誰なのか私は皆目見当もつかないのだが、もしご存じの方がいらしたら教えていただきたい。

「 参議院にやはり外交官あがりのからだの小さい議員がいる。むかしは何がし自由主義的な点のあつた人らしいが、モスクワでは日本人のあいだでチャボというあだ名があつた。背の低い人にありがちの、いつも背いつぱいの高さに見せようとしてピンと伸び切つた姿勢でやつているのがおもしろい。なかなか役者のようなところがあつて、演壇に立つて胸ポケットから老眼鏡を取りだしてかける仕草などは見事なもので、日本の作家であの真似のできるものは一人もなかろう。つまり、手で眼鏡を持つて、それを顔の鼻にかけるという段取りをちやんとやる――と言つただけで説明不十分とすれば、ポケットから眼鏡を取りだして、その眼鏡の方へ顔を持つて行かないで、眼鏡の方を鼻へ持つて行くといえばはつきりしようか。そのあいだじゆう、背の低いからだはいつばいに伸ばしたまま、首も伸ばしたまま――というよりは項をいつぱいに伸ばしたままの――だから鼻は、最初演壇に立つたときの位置からすこしも動いていない。右うでで眼鏡を取りだすと、それをそのまま前上へ突きだして行く。そこで眼のさき一尺ぐらいのところで一旦とめて、今度は肘をひと曲げして一直線に鼻へ持つて行く。動かぬ鼻、動かぬ胸ポケット、眼のさき一尺の空間の一点、この三角形の、鼻から胸ポケットへの線以外の他の二線を眼鏡が移動して行く眺めは見事なものだ。これ一つ見れば、この外交官あがりの男の性格がそこにむきだしになつていることがわかる。こういう眺めを知らずにすごすのは惜しいと思う。」
2010.04.28 Wed l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
中野重治は、自分自身について、「もともと私は一人の詩人である。ひとがどう思おうと自分でそう思っている。」(労働者階級の文化運動・1947年)と述べているが、これは中野重治に大層ぴったりとした自己定義(?)のように私には感じられる。残念なことに、私は詩の鑑賞力についてほんの微々たるものしかもっていないのだが、それでも中野重治の場合、詩のみならず散文を読んでいても「醇乎たる詩人」と感じることがよくある。石川淳は、太宰治の発言で印象に残っているのは、ある時太宰が「真善美っていうことやっぱりいいね」と言ったことだとどこかに書いていたが、中野重治にも(太宰治とは内容のまるで異なったイメージではあるが)「真善美」は本人に倫理観として明晰に意識されていたのではないかという気がする。小説、評論、雑文、どんな分野の文章でもそのことは感じられ、それが「詩人だなァ」と思うことにつながっているようである(人ごとのようだが)。そして、もう一つ。中野重治が他の詩人との交流や思い出について語るとき、その表情、言葉、動作の叙述をとおして、詩人の人格の一面が眼前に見るがごとくまざまざと感じられるのであるが、これは中野重治が自分も詩人だからこそ掴みえたことではないかと思える。三好達治について語った言葉にもその趣はあるが、萩原朔太郎の思い出を述べた文章を読むと、特にそう感じる。萩原朔太郎という詩人の人物像、そのきわ立った特徴について中野重治が述べているのは、朔太郎の「孤独」や「不器用さ」というようなことや、その他諸々のことも含まれてはいるが、つまるところ「人のよさ」ということに尽きるような気がする。この「人のよさ」というのは、「善良」であるということになると思うが、「人(柄)の美しさ」といってもいいように思う。朔太郎について述べた中野重治の文章を全集から抜粋して以下に3点掲載する。最初の文章には「人のよさの記憶」という題がついているが、どうも朔太郎は中野重治に注意されたり、叱られ(?)たりすることが往々にしてあったようなのである。朔太郎は1886年(明治19年)生まれ、重治は1902年生まれで、東京で二人が知り合った時は中野重治はまだ大学生、朔太郎は16歳年長でもあり、すでに「月に吠える」「青猫」の詩人として広く知られていた。

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

① 人のよさの記憶
 わたしたちの知りあつたのは1925年ぐらいだつたろう。つまり今から25年以上まえのことである。それだから、萩原朔太郎ひとりのことではないが、全体としてその時分の人の持つていた人のよさということが、萩原朔太郎その人についても濃く思い出される。
 萩原朔太郎が、わたしを速達で呼びだして、どこかの牛肉屋のようなところへ連れて行って、二人で腰かけて一ぱい飲んでからふところから詩原稿を出してわたしに見せた。弟子が師匠に見せるのとはむろん違うが、まるで対等の人間にするようにして、いくらかはにかみながらそれをしたということをわたしは前に書いたが、そういうことが今でも世間にあるかどうかわたしは知らない。
 文学の世界、詩の世界で、どうもこのごろは、そんなことはありそうにないように見えるが彼にはそういうところがあつた。そのころでも、白秋というような人は、もともと無邪気なものではあつたが偉ぶることの好きな人だつたから、その点萩原朔太郎は当時としても反対のほうの人だつたと思う。
 この人のよさが、彼の場合は妙な具合にその議論好きに結びついていた。萩原朔太郎は理論的な人ではなかつた。むしろ非理論的な人だつたろうと思う。ところが、実地には、彼はよほど議論の好きな人で、理論的でなくつて議論することが好きなのだから、何か理論的なようなことを書けば必ず独断的になつた。これは、彼のアフォリズムなんかにもよく出ている。詩についての理論的著作なんかにもよく出ている。むかしの日本の恋愛の歌を論じたもの、蕪村を論じたものなんかにもよくあらわれている。
 理論的な追究をする人だからといつて、はじめから何の結論も予想されてないわけではない。そこに或る予感のようなものが、論理的な手続きをとびこえてあるのが普通のことだろう。インスピレーションというものも結局そんなようなものだろうと思う。そこでそれから、それに必要な材料が取りそろえられ、それらが一定の方式であんばいされ、正当な論理的手続きを経て結論へとみちびかれる。それだから、材料そのものの示すもののため、あるいは途中の論理の必然から、最初の予想とは反対のところへ結論が出てしまうこともあり得るわけである。しかし萩原朔太郎は、ほとんど必ず予感したところへ結論を持つて行つてしまつた。
 またそれが彼には完全に可能だつた。というのは、彼はそういう面倒なことをすべて無視して進んだからだつた。材料をあつめぬわけではない。しかし自分に気に入つた面からだけ材料をあつめている。論理をしりぞけるわけではない。しかし予感を的中させるに都合のいい面だけで論理を活躍させる。つまり彼は、理論をやる場合にも、全く非論理的で全く詩人的だつた。それだから、彼の理論的な仕事を学問としてみると一種マイナスの感じがくつついてくる。
 しかしまたそこに、一種の愛敬のようなものがあり、ことにその論理の勝手な処理が、何か自分の損得を考えてのことでないことが初手から明瞭だつたから、わが田へ利得のために水を引くものの醜さというものが微塵もなかつた。普通の人が直感として結論だけ言つておくところを、この人の議論好きはそれだけですますことができなかつた。どうしても何とか理窟をつけてみずにはいられない。それだから、この人の理論は、その進行の形、叙述の形が、一種の詩的詠嘆調を必然に取ることにもなつた。これは散文としての力感を弱めることにもなつたろうと思う。しかしそれでも、彼の非論理的な直観はなかなかに鋭くて、当時でも今でも結果として理論的にもおもしろいものがある。
 そういうわけだから、彼の理論や理論的解釈は、材料の上で、また論理の上で、たわいなくくつがえることもないではなかつた。彼の『恋愛名歌集』のなかにもそういうところがあつて、わたしがそのことを言うと彼がすつかり閉口して、その閉口の仕方がきつかつたのでわたしが閉口したことがあつた。一般に知識という点で彼に欠陥(?)があり、中国に関することなどでは彼の読むものにずいぶんムラがあるらしかつた。日本歴史のことなどについてもずいぶん無邪気で、まさか神武天皇が実在していたなどとは考えていなかつたようだつたが、『古事記』などのことを相当程度歴史的真実と取つているようなところがあつた。
 あるときわたしは、どういうときだつたか、室生犀星のところからの帰りだつたかも知れぬが、二人で歩いていて、どこかそば屋のようなところで一ばい飲んで歴史の話なんかをしたことがあつた。――何度かいつしょに飲み食いしたことを考えてみると、会とか個人の家でとかを除けば、いつもそういうそば屋みたいなところばかりで彼と会っている。わたしが場所をえらんだのでなかったから、彼がえらんでそういうところへはいったらしい。たぶん彼は、立派(?)な家やハイカラな家へははいり切らぬような性質だつたのだろうと思う。――そのとき彼がいろんな意見を述べたが、その意見は本や何かで読んだことと自分の気質とをむすびつけたもので、歴史的に真実でなかつたから、そのまま伸ばして行くと、彼の主観的に大きらいな俗流ブルジョアの見地を弁護することるなるのだつたけれども、そんなことと全く気がつかずにしきりに彼はそれを主張した。それでわたしはそのことを言つた。すると彼は、ぼくは何しろそんなことでは無知だからというようなことを言っていたが、そのあとで、そのことをわたしのほうで忘れたころになつて、いつかは君に叱られたがというような手紙が来て、叱られうんぬんは大げさすぎるとしても、何かそんなことがあつたかどうか考えてみて思いあたるふしがない、結局そのときのことだろうかと思つたことがあるが、非理論的なままで議論好きでありながら、必要な材料をねつつこく集めることの生れつききらいだつたこの人は、論理の欠陥をちょつと突かれるとひどく参ることがあつた。
 理論的なものを愛していると目分で思いこみながら、じつはその直感を愛していたので、論理の欠陥をつかれたとよりは、その愛するものが突かれたというふうにこの人には映るものらしかつた。こういうよさも今は世間にあまりないようだ。
 いまは、愛するものを突かれても平然としている人が多い。愛するところを持たぬのだろう。〈1951年)

② 『恋愛名歌集』の出たのがいつだったかとっさに思いうかばぬが、それのちょうど出た時分に萩原さんを訪ねたことがあった。何かのときに伊藤信吉と話していて、そのとき伊藤と私と二人で行ったのだったことがわかつたがそれも不思議だつた。そのとき訪ねたことは私はずつと覚えていたが、伊藤と二人づれだつたことはすっかり忘れていたのだつた。しかし伊藤の話をきくと――伊藤はまた馬鹿に詳しくそのときの空気まで覚えていた。――彼がいつしょだつたことは全く確実だつた。
 萩原さんは、出たばかりの『恋愛名歌集』に署名をして私と伊藤とにそれぞれくれた。私はその場でそれを開けて見た。それは日本の昔の和歌の萩原さんによる評釈で、私はすぐ萩原さんの誤りを見つけてそのことを萩原さんに言つた。
 萩原さんと私とは二つ三つやりとりした。萩原さんの評釈はほんとに独得のもので、それをそれだけで見れば、つまり当の和歌の作者、とくにその時代とかいうことを見ないで読めば、全く筋が通つていてしかも余人のうかがえぬ世界を空中に描いてみせたものだつた。ちようどわれわれが、『万葉』の歌を手あたり次第に取つて、そのころの語法ということも無視し、それが兄弟に贈られたものか愛人に贈られたものかということも無視してしまつて、1950年代の人間感覚と言葉感覚とで解釈していい気持ちになつてうつとりする――そういうのにそれは似ていた。佐佐木信綱も折口信夫もない。その上、あれほど日本語に敏感な萩原さんが、その敏感さに乗せられてしまつて、『月に吠える』などの調子を『新古今』へまでそのままさかのぼらせていたのだから無理は無理だつた。とにかくそんなのが一つ二つ行きなり目にはいつて、私も行きなりそれを言つたのだつたが、萩原さんがほとんど「あやまる」ような調子で言いだしたのには私のほうがまごついてしまつた。
「どうも僕は、文法のことなぞもよく知らぬもんだから……」
 私は、自分の軽率を悔いる暇もない、逆に閉口して、しかしそこを上手に切りぬける才覚もつかなくてどぎまぎした。そのときはそれなりになつたが、自分にたいする教訓のようなものは引きださぬことにしていうと、あれは萩原さんの天性の正直をあらわしたものだつた。萩原さんは子供のように正直な人で、また子供のように嘘のつけなかつた人だつたろうと思う。(1959年)

③ 萩原さんには妄信的なところがあつて、それがまた独学者風に哲学的、論理的な性格を持つていた。二人で酒を飲んだあるとき、萩原さんが日本人の優等性と中国人の劣等性とについて語つて、中国での人身売買の話になり、中国人のあるものは、子供を四角い箱に入れて胴を四角く育ててそれを見せ物に売る。こんなことはどんなひどい日本人にも考えられぬ。民族そのものとして優劣のある所以だというような話をした。そこで私がそれを反駁した。私に根拠があつたわけではなかつた。ただ強く反駁したことだけは覚えている。やはりそのとき、萩原さんは日本の古代のこと、桓武天皇あたり以前のことを論じていろいろと話したが、それは神話と歴史とをごつちやにして、さらにその上に萩原式幻想で美しくそれを統一したものだつた。『恋愛名歌集』のときもそうだつたが、たとえていうと、平田篤胤なんかが丸太か木刀かのようなやぶにらみをしたとすると、萩原さんは、香の煙か絹の糸かのようなやぶにらみをしているのだつた。ここでも私は反駁した。ここでは多少の根拠をもつて、それからやや無政府主義的な反天皇制気分も手伝つて強く反駁した。するとそれから2、3日して、萩原さんから長い手紙が来てやはり私はまごついた。萩原さんは生真面目な学者のように自分の誤りを認めて、私から「叱られて」という言葉を書いていたが、それは皮肉や自嘲なぞではなかつた。私の反駁にはハッタリがあつたのだつたから私はほんとに恥じた。(1959年)
2010.02.02 Tue l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回、山口二郎氏が著書「政治を語る言葉」(七つ森書館・2008年7月刊)のなかで中野重治の政治思想や人物像について述べている発言への違和感や疑問を記した。ところが、その本のなかで山口氏が中野重治について実際どんな発言をしているのかという、肝心の山口氏の文章を私はほとんど紹介していなかった。そのことに今日になってようやく気づいた。どうやら、長々と引用した中野重治の文章の入力作業に時間がかかり、疲労して注意力散漫になってしまっていた(いつものことのような気がしないでもないが。)ようなのだ。下記にあらためて山口氏の発言内容をひととおり記しておくが、その前に山口氏が、中野重治や永井荷風について語っている内容について感じたことをもう少し述べておきたい。

中野重治について、山口氏は、前回紹介したように「彼(中野重治)は左翼の人ではありましたが、日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだという薄っぺらな歴史観をもっていたわけではないんですね。」との発言の後、

「戦争で倒れた、戦争で苦しんだ普通の人々に対して限りない共感と愛着をもっていた、戦争で倒れた人々とともに戦後民主主義を何とかつくりだしていこう、庶民の感覚に根を下ろした民主主義をつくりだしたいという問題意識を彼はもっていた」

と述べているが、この発言の内容自体をおかしいとも間違っているとも思わない。でも、これを読んで、これはまさしく中野重治について述べられた文章だと実感する(できる)人がいるかといえば、あまりいないのではないだろうか。この内容では、評される人物を中野重治としなくても、大抵の人には当てはめることのできる批評のように感じる。当時の政治家や官僚など、支配層の誰かの発言だといってもあながちおかしくはないのではないだろうか。否、むしろそのほうが相応しいような気もする。昭和天皇の心情だとして語られても違和感はないかも知れない。実際、昭和天皇が国民に持っている限りない温情の発露としてこのような趣旨の話をこれまでいろんな人が語るのを沢山聞いてきたような気もする。

永井荷風についての山口氏の発言にも少し触れておきたい。山口氏は、中野重治について、戦後の早い段階から「敗戦を解放と言祝ぐ側にも、犠牲者に対する一定の敬意や悲しみの共有が必要」という問題を視野に入れて、戦後民主主義を論じてきた人物とする一方、

「権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統も存在したという主張をぶつけることも必要である。こうした視点については、政治史学者の坂野潤治氏の著作から多くを学んだ。講演で、永井荷風や石橋湛山を重視したのも、この理由による。こうした意味での連続性を強調することによって、ナショナリズムと戦後民主主義との接合を図りたいというのが、私の意図であった。」

と述べている。山口氏は、永井荷風を「権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統」を体現した人物と考えているようだ。「伝統」というのは、「日本の伝統」という意味だろうから、山口氏の説から推理すると、日本にはもともと「権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統」があって、その伝統にしたがって永井荷風は自由を貫いたということになる。でもそれは全然違うのではないだろうか。日本にそのような自由の伝統がなかったからこそ(少なくともそのことが最大の原因をなして)、永井荷風は完全に日本社会から孤立し、自ら「偏奇館」と名付けた自宅に籠城したかのような、世捨て人のような生き方をすることになったと言っていいのではないかと思うのだが? そもそも「権威や権力を恐れず」ということ自体誤りだと思う。永井荷風は戦争中も意欲的に小説を書き、日記を書き続けたが、万が一当局に踏み込まれても大事にいたらないよう、伏せ字を多用するなどずいぶん念入りな細工を施していたようだ。要するに、隠れて書いたのである。「権威や権力を恐れ」なかったら、荷風も治安維持法で逮捕されていただろう。日本には個人が自由にその意思を貫いて生きられる伝統はなく、荷風自身当然権力を恐れもしたけれども、それにもかかわらず、特異な個性と利子生活者という条件をもっていたために、かろうじて自己の生き方を貫いたということではないだろうか。山口氏は「世間を冷静に見つめた永井荷風」とも記しているが、冷静に、客観的に万象を観察し、誤りなく社会や戦局の趨勢を見通すことができたのは、荷風の場合、その精神がひとり完全に日本社会から外部に出ていたからではないだろうか。「ナショナリズムと戦後民主主義との接合を図りたい」ためなのだろう、日本に自由を貫く伝統が存在したとする(したい)山口氏が、自分のその考えと志向を補強するために永井荷風という強烈な一個の個性を強引にもってきたという印象は否めない。


では、山口氏の著書「政治を語る言葉」から、主に中野重治に関する文章を引用しておく。

「私のとらえ方を単純な図式にすれば、次のようになる。
1 満州事変以後のアジア太平洋戦争は、他国との関係においては日本の侵略であり、誤った戦争であった。
2 戦争に敗北し、戦前の国家体制が瓦解したことによって、民主主義体制が生まれた。その意味で、戦後民主主義は戦争の犠牲者のうえに成立している。
3 戦後民主主義を守り、育て、国民自身が国の運営の主人公となり、再び誤った路線に進まないようにすることこそ、戦争犠牲者に報いる道である。
 このような枠組みは、きわめて常識的なものであり、少なくとも認識のうえでは、多くの人々と共有可能であると私は考えている。しかし、とくに2の論点については、認識だけではなく、犠牲者の死をいかに意味づけ、弔うかという感情の問題が入ってくることは避けられない。この点について、敗戦を解放と言祝ぐ側にも、犠牲者に対する一定の敬意や悲しみの共有が必要だと思う。戦後の早い段階からこの間題を視野に入れて、戦後民主主義を論じてきたのが中野重治であつた。私の講演で中野を重視したのはこのような理由による。
 もう一つの視点として、戦前と戦後の断絶のみを重視するのではなく、自由や民主主義の追求という理念の連続性を重視する必要もあるということを強調したかつた。戦前の日本には悪いことばかりではなかったというのは保守派の主張だが、逆に、権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統も存在したという主張をぶつけることも必要である。こうした視点については、政治史学者の坂野潤治氏の著作から多くを学んだ。講演で、永井荷風や石橋湛山を重視したのも、この理由による。こうした意味での連続性を強調することによって、ナショナリズムと戦後民主主義との接合を図りたいというのが、私の意図であった。(略)

中野重治が説く足もとからの民主主義
 (略)中野重治は後に離党しましたが、この当時は共産党の活動家として、精力的に小説や評論を執筆しておりました。しかし同時に、中野は大変なナショナリストでした。
 彼は『展望』という月刊誌の1946年1月号に「冬に入る」という論説を書いています。これを読むと、彼は左翼の人ではありましたが、日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだという薄っぺらな歴史観をもっていたわけではないんですね。戦争で倒れた、戦争で苦しんだ普通の人々に対して限りない共感と愛着をもっていた、戦争で倒れた人々とともに戦後民主主義を何とかつくりだしていこう、庶民の感覚に根を下ろした民主主義をつくりだしたいという問題意識を彼はもっていたと、私は理解しています。
 そこで「冬に入る」という論説の一部を紹介します。占領軍によって与えられた民主主義、与えられた自由なんていう、斜に構えた議論がありますが、それは違うと中野は力説しています。「日本の国民は与えられた自由の前に少しも『戸惑ひして』いない。かえって日本の国民は、与えられた民主主義が自己の力で独立に獲られたものでないことを泣かねばならぬほどよく知っている。それだから日本の国民は、与えられた民主主義の糸ぐちを大事なものとして、貴重に取りあつかわねばならぬことをよく知ってそれをそのように扱っている」と書いています。
 それから、戦争に動員された普通の人たちの立場から、どのようにして戦争責任を追及していくのかについて、中野はこう書いています。「『身命を抛って』戦った兵隊はそのことにおいて、『身命を抛って』しまった兵隊はそのことにおいて、病気になり不具になった兵隊はそのことにおいて、そのすべての遺家族をつれつつ、その他の国民とともに、軍閥・軍国主義の国民的問責陣の主軸の一つをなしているのである」。つまり、名誉の戦死とか、国のために死んだという形で意味づけるのではなくて、まさに吉田満が描いたように、戦後の日本こそは、国民自身が常に目覚めて、国を誤った方向に行かせない。そういう民主主義の社会をつくっていく。そういう形で戦争の犠牲者を悼む、尊ぶ。そのことの裏返しとして、間違った戦争を引き起こした指導者の責任をきちんと追及していく。こういう論理を、中野は敗戦直後に想定していたわけです。
 残念ながら、日本の革新勢力というか、左派勢力は、そのような民衆の共感に基づいた戦争責任論を十分展開できず、そのことが長い間、戦後の政治に影を落としてきたと言えます。」

2009.12.01 Tue l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
政治学者の山口二郎氏に「政治を語る言葉」(七つ森書館・2008年7月刊)という著作があることを知ったのは、金光翔さんのブログによって、だった。この「政治を語る言葉」では中野重治と永井荷風という二人の文学者が取り上げられているとのことで、金さんは、6月19日の記事「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか 6」で中野重治をふくんだ山口氏の下記の文章

「彼(注・中野重治)は左翼の人ではありましたが、日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだという薄っぺらな歴史観をもっていたわけではないんですね。戦争で倒れた、戦争で苦しんだ普通の人々に対して限りない共感と愛着を持っていた、戦争で倒れた人々とともに戦後民主主義を何とかつくりだしていこう、庶民の感覚に根を下ろした民主主義をつくりだしたいという問題意識を彼はもっていたと、私は理解しています。」(50頁。強調は引用者)

を引用し、次のように批判していた。

「私はこの一節を読んで、驚いてしまった。「日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだ」という認識は、「薄っぺらな歴史観」なんだそうだ。(略)」

ここで金さんが批判しているのは、上記のように「日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだ」という認識を、「薄っぺらな歴史観」という山口氏の見解である。私も金さんの批判はもっともだと思ったが、ここにはもう一つ問題があるように感じた。中野重治は「日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだという薄っぺらな歴史観をもっていたわけではない」という山口氏の中野重治についての認識は妥当かという問題である。中野重治は、「日本は侵略戦争(で悪いこと)をしたから、負けて当然」という歴史観をもっていなかったのだろうか。そうではなかっただろうと思う。山口氏が引用している「冬に入る」という文章は、『展望』の1946年1月号に載ったものだが、同時期の『民衆の旗』1946年2月号には、「日本が敗けたことの意義」という題の次の文が掲載されている。

「 しかし国民のなかには、日本は太平洋戦争に敗けたのだと思っているものがまだまだ多い。日本は太平洋戦争に敗けた、それもおもにアメリカに敗けた、アメリカの物量と科学とに敗けたのだと思っている人がまだまだある。私はそんなことでは、日本の再建はおぼつかないと思う。そんなことでは、食糧難の突破も、憲法の制定も、戦争犯罪人の処罰も、てきぱきとは運ばぬと思う。戦争に敗けたと知るだけでは足らぬ。何戦争に敗けたのか、どんな戦争に敗けたのかを知らねば新日本は生めぬと思う。
 日本は何戦争に敗けたのか。日本は太平洋戦争に敗けたのではない。太平洋戦争「で」敗けたのではない。アメリカないし連合国は、太平洋戦争「で」勝つたのではないのだ。太平洋戦争という土俵の上で、日本と連合国とが勝負をして、日本が投げられ、連合国が土俵に残ったというのでは決してないのだ。太平洋戦争という、日本の出した土俵そのものが微塵になったのだ。
 日本の仕かけた戦争は「聖戦」ではなかった。それは野蛮で卑劣な戦争だった。それは「アジア人のアジア」のための戦争ではなかった。アジア諸民族を奴隷にするための戦争だった。それは「自存自衛」のための戦争ではなかった。他国を侵略し同時に自国民をも奴隷とする戦争だった。天皇の国日本は、「大御稜威の下」その「八紘一宇」の精神で満州人を殺し、中国人を殺し、安南人を殺し、フィリピン人を殺し、同時に自国民に重税を課し、自国民手持ちのすべての物資を徴発し、少年から老人までをいくさに引きだして殺し、産業と文化とを破り、耕地を荒らし、これに反対するものすべてを国への叛逆者として縛ったり殺したりした。それは、人道とその文明とにたいするあくまで下等、あくまで野蛮な破壊戦だった。それだから連合諸国がこれをうち倒したのだ。連合諸国は別々の国だ。イギリスと中国とは国柄がちがう。中国とアメリカとは国柄がちがう。アメリカとソ連とも国柄がちがう。しかし彼らは、民主主義の国々として、国柄のちがい、人種のちがいを越えて、人類とその文明とに噛みついた二ひきの狂犬を連合して始末したのだ。そしてその結果、アジアがアジア人のものとなったのだ。帝国日本の「アジア人のアジア」のための戦争がうち破られた結果、フィリピンはフィリピン人のものとなり、中国は中国人のものとなり、朝鮮は朝鮮人のものとなった。」(中野重治全集第12巻p37)

敗戦の2、3ヶ月後に書かれた文章であり、今読むと、戦争にも連合国に対する見通しにも誤りや甘さがあるかとも思うが、それは仕方のないことだと思う。中野重治は、戦前・戦中の文学者のなかで国家から最もはげしく憎まれた人物の一人だった。1932年には投獄され2年間の獄中生活の後転向を余儀なくされた。1942年に「文学報国会」ができたときは、その会から弾き出されることを恐れ、菊池寛宛てに入会についての問い合わせの葉書を書いてもいる。中野重治のこの時の心境について、平野謙や埴谷雄高などは1938年に執筆禁止処分を受け、その後もずっと特高警察のきびしい監視下に置かれたため、「文学報国会」会員から外されたら、これでもう永遠に執筆の機会が奪われるという精神的恐慌状態に陥ったのではないかとの推測を述べているが、中野重治自身は、治安維持法による逮捕拘禁をのがれるために「文学報国会」に拘ったのだと記している。

「つまるところ、それは「執筆著作の機会」うんぬんにはほとんどまったく無関係だった。主眼は逮捕拘禁をのがれることにあって、下手に執筆の機会があたえられるなどは、ふらついている私にとって鋏みうちを食う危険でもあったろう/12月8日政府発表の途端の、猫も杓子もの調子での、「これですうッとした」、「胸のつかえが一ぺんに下りた」といった声のいっせい噴出、それをあびせられる側の一人として私が受けとらねばならなかったときのことを私はおぼえている。「執筆著作」のことなどは、いわば主観的に私に問題でありえなかった。」(『歳末補註』1971年)

「文学報国会」の発会式について、中野重治が会場にいた自分のその時の心情について「乞食のような惨めな気持ち…」と書いているのを私はどこかで読んだことがある。このようにいくらか中野重治の著作を読んだことのある私には、山口氏が述べる中野重治像は、「一体これは中野重治のことなのだろうか」というような、まったく別人のごときイメージしか喚起されないのである。「政治を語る言葉」を読んでみて、永井荷風についての記述にも同じ感想をもったが、これは別の機会に譲ることにして、山口氏が自著で引用している中野重治の「冬に入る」について述べると、全集を見てみたところ、この部分は、当時、『東京新聞』に発表された河上徹太郎の

「8月16日以来、わが国民は、思びがけず、見馴れぬ配給品にありついて戸惑ひしてゐる。――飢ゑた我々に『自由』といふ糧が配給されたのだ。」/「私は今更不ざまな戦時中の政治の死屍に鞭つ興味を持たぬ。その頃『自由主義を撲滅せよ』といふスローガンの下に、彼等の頭の悪い観念論に同化し得ぬ風潮を味噌も糞も一しょくたに葬らうとしたのに対し、今更『自由』の旗印の下に共同戦線を張って復讐をすることは、之亦、反撃の相手と同じく捉はれたことであり、目標の不明確なことであり、志の低劣なことである。」/「然し自由も配給品の一つとして結構珍重されてゐる。」

という文章を批判する文脈で述べられていた。長くなるが「冬に入る」から引用する。

「 10月26日の『東京新聞』で河上徹太郎氏のこういう言葉を読んだときにも私はそれをすらりと呑みこむことができなかった。私はいやな気がした。いまもしている。
「見馴れぬ配給品にありついて」、「国民は……戸惑ひしてゐる」、「配給された自由」、「自由も配給品の一つとして」、私にはこういう言い方が自由を穢しているもののように思えてならなかった。こういう言いまわしが、自由と国民とに或るよごれをつけようとして、文学的に頭で考えだして書かれた言葉であるように思われてならなかった。
「配給された自由」という言い方は、気がきいているようにみえる。いまの日本の自由と民主主義とが、全的に国民の手でもたらされたものでないという事実から、この気のきいてみえることがいっそうそういうものとして通用しそうな外観をもつてもいる。
 しかし、それだからといってそれが正しい言いあらわしであるかどうか。国民に与えられた自由が、いわば外部からのものであったにしろ、それを国民の内部に全く無関係に「配給品」あつかいすることが正しいかどうか、いったい国民がそれを与えられて「戸惑ひしてゐる」かどうか検べてみることは一応も二応も必要なことだろう
 日本の国民が今持っている自由はたしかに国民がこれを全的に獲得したものではない。日本の国民は、王の処刑をふくむ革命の実行をしたものでもなく、バスチーユの破壊を実行したものでもなかった。それは帝国日本の連合国にたいする完全な敗北によって、それを機縁としていわば外側から日本国民に与えられたものであつた。しかし日本の国民は、自己の民主主義革命を実行できぬうちに自国の敗戦によってそれを外側から得ねばならなかったという、帝国日本から「第四等国への顚落」と外部から銘うたれねばならぬような事態をとおしてそれを得ねばならなかったという歴史的事実のうちに、かえって与えられた自由を「配給された自由」と称ぶことを一般に許さぬ内面的権威を持っている。
 それだから、日本の国民にとって与えられた自由は決して「思ひがけぬ」贈りものではなかった。それは日本の国民が喘ぎかわいて待ったものであつた。日本の国民は与えられた自由の前に少しも「戸惑ひして」いない。
 かえつて日本の国民は、与えられた民主主義が自己の力で独立に獲られたものでないことを泣かねばならぬほどよく知っている。それだから日本の国民は、与えられた民主主義の糸ぐちを大事なものとして、貴重に取りあつかわねばならぬことをよく知ってそれをそのように扱っている。あの、大きな、長いあいだの苦痛、あの大きな、長いあいだの、そして今もつづく大きな飢え、それをとおしてこの糸ぐちにたどり着かねばならなかつたことを知っている国民は、この糸ぐちを一種のヒステリーに仕立てようとする人びとに従う必要を自身認めぬし、この糸ぐちをほしいままな個人的「復讐」に仕立てようとする人びとにも従う必要を毫も認めていない。
 河上氏は、「言論の自由」を「戦争責任者へのヒステリックな憤懣を喚き立てること」として書いている。
「或ひは此の敗戦を戦争責任者の失敗と怨むより、いはば天災の一種と観ずるのが、佯らざるわが国民の良識に近い。かかる時、専ら戦争責任者へのヒステリックな憤懣を喚き立てることが『言論の自由』だとすれば……」
 また河上氏は、戦時ちゅう支配した軍国主義観念とのたたかいを、当の軍国主義と同様な、「志の低劣な」「復讐」だとして書いている。
「私は今更不ざまな戦時中の政治の死屍に鞭つ興味を持たぬ。その頃『自由主義を撲滅せよ』といふスローガンの下に、彼等の頭の悪い観念論に同化し得ぬ思潮を味噌も糞も一しょくたに葬らうとしたのに対し、今更『自由』の旗印の下に共同戦線を張って復讐をすることは、之亦、反撃の相手と同じく捉はれたことであり、目標の不明確なことであり、志の低劣なことである。」
 たしかに、「専ら戦争責任者へのヒステリックな憤懣を喚き立てること」は、「言論の自由」の主要本質ではない。けれども、それだからといって、当の戦争責任者その人が、彼にもわかたれた「言論の自由」において、「言論の自由」に「ヒステリックな憤懣の喚き立て」を等置して、そのことで、本来はしばしば無邪気なものに過ぎぬ「ヒステリックな憤懣の喚き立て」をも遮断し、それによって戦争責任者の本質的批判そのものをも遮断しようとするとすればどういうことになるだろうか。むしろ今の場合、「戦争責任者へのヒステリックな憤懣の喚き立て」さえも取りあげて、これを戦争責任者への本質的批判へ導いて行くことが「言論の自由」を本質的に尊重する所以でもあり、「戦争責任者へのヒステリックな憤懣の喚き立て」に出てそこにとどまるしかないような人びとにたいする河上氏の文学者・批評家としての態度であるべきであつたのでもなかろうか。
 たしかに、軍国主義と軍国主義者とにたいしてほしいままな個人的「復讐」をはかること、「今更不ざまな戦時中の政治の死屍に鞭つ」ことは、けっして日本民主主義と民主主義者との任務ではなかろう。ベルリンが落ちたとき、地下壕から出てきたベルリン人のあるものは、写真を片手に、写真の主、彼らの個人的仇敵を廃墟のなかにさがしまわった。そしてそれを、街を占領した赤軍すらがある程度以上には制御することができなかつた。悲惨な、凄惨な話である。この種の事態の到来を断乎として予防すること、最悪の場合にもそれを最小限にくいとめることが日本の民主主義のために大事である。けれども、それだからといつて、復讐されるかもしれぬという恐怖に日夜おびえている人びとが、別の言葉でいえば、「戦時中の政治」の生きた「死屍」として生き残っている人びとが、国民が「自由の旗印の下に」張る「共同戦線」に「志の低劣な」個人的報復戦線を等置して、この戦線の中心眼目を「死屍に鞭つ興味」にあると主張するとすれば、どういうことにならねばならぬだろうか。
 現にこのことは日本政府によって実行されている。日本の政府は、下村陸軍大臣の名で発表した10月22日の声明のなかでこういっている。
「軍人の遺家族、傷痍軍人に対する擁護、復員された軍人軍属の将来保証の中で、前の二つ、即ち遺家族、傷痍軍人の件に就ては決して心配は要らぬ。外地に在る軍人の留守宅俸給、賜金手当等、これ等の給与が従来通り継続せらるることは申すまでもないことであり、傷病兵諸君は今後陸海軍が全く解体した後においても、必ず政府の手によって保護せらるることは既に決定してゐる。第三の問題即ち内外地を合して約六百万に上る復員軍人軍属の将来保証は実に国家としての大問題で、吾々の日夜心を悩ましつつある事項である。」
 つづけて、「最近国の内外において軍国主義の払拭、軍閥打倒覆滅といふ事が盛に論ぜられて居り、過去を顧みればその議論の起るのは当然である。私共は職を軍に奉ずる以上、仮令個人的には身に覚えなき事であっても甘んじて軍人として、或は軍の指導者として共同の責任を取り、悪かつた処や間違ってゐた点等は率直にお詫び致してゐる。ただここに何としても憂慮に堪へない事は、いはゆる軍閥的行為に対する追及と懲罰とが必要の程度を越し、その飛沫がこの種の行為に関係もなく、命のまにまに身命を抛って御奉公した純真な将兵の上にまで振りかかり、其の結果として此等の人々が罪なくして精神的にもまた物質的にも社会から閉め出さるる様になりはしないかといふことである。」
 政府の、このほとんど盗人たけだけしいともいえる狡猾は短時間効を奏した。ある新聞は、この狡猾に引きずられてそれを幇助するような見出し文句を書いた。ある新聞は、「指弾罪なき軍人に及ぶを憂」えた陸軍大臣の衷情にたいして心から無邪気な同情を表白した。そしてそれは短時間に過ぎた。軍人の遺家族、傷痍軍人、復員した軍人軍属の将来保証の問題はその後ますます深刻に真相をあらわにしてきている。
 しかし問題は、政府が、軍閥と軍国主義とにたいする国民の反感・批判・問責に個々の軍人への誤った報復を等置して、そのことで国民に泣きおとしをかけつつ、前者、軍閥と軍国主義とにたいする国民の批判の眼を曇らそうとしたことであつた。軍国主義への国民の批判と、「命のまにまに身命を抛って」戦った兵士にたいする国民の同情とは別ものではない。政府と陸軍大臣とがそれを切りはなそうとしてもそれは駄目である。「身命を抛って」戦った兵隊はそのことにおいて、「身命を抛って」戦って身命を抛って」しまつた兵隊はそのことにおいて、病気になり不具になった兵隊はそのことにおいて、そのすべての遺家族を連れつつ、その他の国民とともに、軍閥・軍国主義の国民的問責陣の主軸の一つをなしているのである。軍閥・軍国主義にたいする国民的追及の根拠の一つは大臣が泣きおとしの材料に使った「純真な将兵」そのもののなかにある。連合軍の手に俘虜となってその俘虜であることに日夜不安を感じている無数の同胞のその魂の苦痛のなかにある。そうして、それであるのに、昭和20年10月22日になって、戦病死した兵隊、傷痍軍人、その遺家族、復員軍人軍属、南方洋上の、またその他の地の俘虜にたいする施策がボイコットされつつ、こういう泣きおとしが政府の手で国民のまっこうへ射ちだされたというその事実にあるのである。
 そうして、政府に或る安心、その射撃効率についての或る確信を与えていたものは、軍閥・軍国主義批判における、自由と民主主義との理解・把握における、国民の側の弱さ、足りなさ、不十分であつた。11月4日の『東京新聞』にのつた、安藤安枝という人の「或る日の傷心」という投書もそれを説明するものの一つだと私は思う。
「10月30日御茶の水の千葉行ホームに立つて居りました私の耳に、異様などよめきと共に『おい皆んなパラオ島帰りの兵隊をよく見ろ』と大きな声が響き渡つて来ました。私は内心敗戦したとは云へ、兵隊さん達は懐しい日本の地を踏みどんなに嬉しさうなお顔をして居られるかと待兼ねました。電車に乗られるため後方ホームより、前方ホームに白衣も眩ぶしく歩んで来られました。然し眼前に見えた兵隊さん達のお顔は率直に申せば骸骨そのままです。即製の竹の杖を皆さんがつき、その手は皮だけで覆はれて恐らくあの白衣の下の肉体も想像がつきます。
 新聞で読む栄養失調症の兵隊さんの顔には白い粉がふいてゐるとのことでしたが、眼の前に見た兵隊さんの顔は誰も皆小麦粉を吹き付けた様な白さ、此の兵隊さんの姿を見て男の方も女の方達も声を上げて泣き出して終ひました。此の様に兵隊さんの肉を削った戦争責任者は之だけでも重罰の価値がありませう。この兵隊さんの姿を妻や子が親が見たらどんなでせう。電車を待つ間にやっと私は兵隊さんに『御苦労様でした、大変で御座いましたでせうね』と泣きながら申しますと、一人の兵隊さんは『いーやー』と心持ち首を動かしましたが、男の方の気軽さで云ふ『いやー』といふ声が出せないんです。混雑するので思はず私は側に居た見知らぬ子供の手を引いて居りましたが、眼の前にゐた兵隊さんが不自由に手を動かし、鞄の中からお弁当箱を出して、蓋の上に乾パンを載せ、声も出ぬ儘私の手を引いて居ります子供に差し出されたではありませんか。子供は無邪気に両手を出しましたが、そのお子さんの母は『勿体なくて戴けません』と繰返し泣いて居りました。私は兵隊さんの御心情も察せられ『折角の兵隊さんのお心持故戴きませうね』と戴きました。涙で見送る眼に白衣だけが残り、二輌目に乗りましたが、車外では兵隊さんを御送りしようと一斉に心からの見送りをして居りました。
 皆さんデモクラシー運動も大いにやって下さい。婦選運動も結構でせう。然しかう云った兵隊さんが各処に居られることを忘れないで心に銘記してからやって下さい。戦災死、戦災者の方達の上に心を止めないことには、敗戦日本に与へられた只一つの有難い国体護持も道義滅亡によって無価値なものとなるでせう。大口買出部隊に一言申します。闇買出しに使用するトラックにこの兵隊さん達を柔い蒲団を敷いてせめて上陸地から目的地に運んで上げる親切心を起して下さい。」
 これが全文である。これを泣かずに読める日本人はあるまい。そうして、安藤氏の兵隊にたいする気持ちも「デモクラシー運動」や「婦選運動」にたいする気持ちも、すべての日本人に素直に呑みこめるだろうと私は思う。また、「デモクラシー運動」や「婦選運動」やが、こういう兵隊の存在と安藤氏の心持ちなどとから多少とも離れたもののように安藤氏に映じていることをもすべての人が素直に受けとるだろうと思う。
 そしてしかしこのことが、軍閥・軍国主義への批判における、自由と民主主義との理解・把握における、国民の側の弱さ、足りなさ、不十分ということに動かし難く結びついている。そしてこのことが、独立の民主主義革命をとおしてでなしに、民主主義ないし民主主義への糸ぐちがいわば外から与えられたという国の歴史的実情に結びついている。日本の国民には、「言論の自由」とは「戦争責任者へのヒステリックな憤懣を喚き立てること」だといわれればそこへ引かれるような、「『自由』の旗印の下に共同戦線を張」るとは復讐戦線を張ることであり、その眼目は「低劣な」「死屍に鞭つ興味」であるといわれればそこへ引かれるような後れが一般にあるのである。それだから、文学者・批評家としての河上氏のあの言葉は、あの限りそういう役をしたのである。自己の屍に鞭うたれることに興味を感じない人びとの或る気持ちと行動とをば、あの限りで弁護したのである。そのことで、日本軍閥と日本軍国主義者とを救うために日本国民を的に掩護射撃をすることになったのである。その反対の行動に出ることが河上氏にとつても国民にとつても望ましいと私は思う。」

中野重治の上の文章が、山口氏の述べる趣旨とはまるで異なる内容をもつことは歴然としているのではないだろうか。小説、評論、雑文とにかかわらず、中野重治がもし山口氏が把握しているような内容の文章を書き続けてきたのだったら、今頃もう中野重治の文章が読まれるようなことはなかったのではないだろうか。文学には虚偽やごまかしをうけつけないところ、弾き飛ばすところがあると誰かが述べていたと記憶するが、私もまったくそう思う。古典について考えてみれば誰しも得心がいくのではないかと思うが、一定の時間を経ると、大抵のことはその真偽・善悪・美醜が自ずと明瞭になるように思う。

山口氏は、「中野は大変なナショナリストでした。」とも述べている。そうかも知れない。でも、このような重要でありかつ繊細・微妙な問題をふくむテーマについて述べるときは、ナショナリストはナショナリストであったとして、どのような世界観の下での、どのような性格のナショナリストであったかを、誤解のないようにできるだけ正確に述べる必要があるだろう。山口氏はその点に欠けるところがあるように思う。中野重治は最晩年の1977年「緊急順不同」という本を三一書房から出版しているが、自ら「雑文集」というこの本について、全集の「著者うしろ書」において「いろいろのことに触れているが、見てのとおり朝鮮のことをかなり扱っている。扱っているとまでは言えぬにしろ、それに触れているとは言えようと思う。その点では、たとえば石堂清倫から批評を受けることなどもでき、書いた本人としてはうれしく思っている。(略)」と述べているように、驚くほどに多く朝鮮および在日朝鮮人についての言及がなされている。「雨の降る品川駅」は中野重治の詩のなかで最もよく知られた作品の一つではあるが、その後も、また晩年になればなるほど、これほど数多く朝鮮、特に在日朝鮮人について書かれていたとはこれまで知らなかった。「さすが」と思わずにいられないほど、重要な深い指摘があると思う。また、中野重治のナショナリストの性質についての判断の参考になるかどうかは分からないが、1972年に書かれた「レスリングとボキシング――私のなかの愛国主義と非愛国主義」という一文があるので紹介したい。ナショナリストうんぬんを言わなくても、これは大変おもしろい文章なので、読んでいただければと思う。中野重治は、単に「食わずぎらい」に過ぎなかったようだが、当初、レスリングもボキシング(ボクシング)も嫌いだったそうである。

「 そうして時がたつた。いまや私はときどきテレビでボキシングを見る。それからレスリングを見る。両方ともプロのほう、商売のほうのを見る。家のなかで私ひとりだけがそれを見る。ニュースの時刻に重なつたりして見られぬこともあるが、家じゆうで四方からいやがられながら私はそれを見る。四方からしかしいつもは二人きりだからたいしたことはない。親類縁者がやつてきても私は非難され、嫌悪され、軽蔑されさえするのらしいが、私はなるべく彼らを刺戟しないように工面して何とかして見ている。
 私はテレビで見るだけで現場へは出かけない。このごろは炬燵にはいつていて、知らずに声を出したり、炬燵やぐらの脚を掴んで音が出るほど握つてゆすつたりするのらしいが私は弁解しない。そしてこうやつて見てきて、私のなかにおかしな傾向ができてきているらしいのに気づいて私は自分でどぎまぎすることがあつた。
 私はテレビで野球を見る。角力を見る。柔道も見れば甲子園大会なども見る。いちばん困るのが大角力の場所で、ある時期には3時半から5時半まで見、それから夜11時からダイジェスト版を見るのだつたから私はほんとうに困つた。角力のせいでではない。場所関係の制度について私は何も知らぬが、それが必ずというように原稿締切りにかかるために私は困るのだつた。このごろはダイジェスト版というのがなくなつて、私は助かりはするがさびしくないことはない。
 ところで、どんなおかしな傾向が私のなかに出来てきているというのか。出来てきているらしいというのか。簡単には説明できそうにないが、誤解されるかも知れぬことを承知で書けば、プロ・レス、プロ・ボキシングの二つについて、私のなかに愛国主義と非愛国主義とが、愛国主義的傾向と非愛国主義的傾向とがいくらか固定して出来てきているらしいのがそれだつた。
 もともと私はボキシングから見はじめていた。何年まえになるか思い出せもしないが、はじめのうち私はプロ・レスを見ることができなかつた。ときどきかけては見るものの、とてもそれ以上は眺めていられない。あまりにひどい。あまりに陰惨、残酷で、その上ずいぶんひどい違反をやる。それがそのまま見のがされる。それは言葉どおりスポーツらしからぬ醜だつた。背骨が折れるほどに、血だらけになつて死ぬるほどにひどいことをする。そこへ行くとボキシングのほうはいい。それでさえ初めは、アメリカの重量級選手なんかがどさツどさツとやる音、むしろ響き、あれが私には聞いていられなかつた。「顔面をとらえる」という言葉さえ私にはいやだつた。
 それがそのうちそうでなくなつた。あれには男らしいところがある。いい試合には昔物語の剣士のようなおもむきがある。「顔面をとらえる」も「ボデー攻撃」も気にならなくなつた。しかしそのときになつてもレスリングは見られない。
 それがどれだけ続いたか調べることもできないが、いつの間にやら私はレスリングを見るようになつていた。見ていてそれがおもしろくなつていた。そしてそれからまただいぶして、さつき言つた愛国と非愛国とのごつちやが自分のなかにあるらしいのに私は気づいたのだつた。
 結論からいうと――結論というのも大袈裟になる。――私はボキシングのほうに私自身の非愛国主義を感じてきている。レスリングのほうに愛国主義を感じてきている。愛国・非愛国というのだからこれは他流試合の場合、日本人選手がどこか外国の選手とたたかう場合のことに関してくる。日本人と外国人とがたたかう。しかも日本人の私が、肝腎の日本人選手に必ずしも贔屓しない。日本人選手が負ければいいというのではない。決してそうではないが、どんなやり方をしてでもどうしても勝てとは自然のこととして思わぬというのが実地のそれだつた。
 これはレスリングの場合に比べてみて自分でよくわかる。プロ・レスの場合、私はどうしても日本人側に贔屓する。日本人選手、どうしても勝てと切に思う。
 愛国主義、非愛国主義なんという言葉を私はもともと使いたくない。それはここで便宜上使うのに過ぎぬが、何でそんなものが出来てきたろうかと考えてみると、選手も問題があるらしかつたがそれ以上審判に問題があるのらしかつた。
 愛国主義のプロ・レスのほうからいうと、日本側選手たちの伎倆の問題もあつた。それだけ独立に引きだしていう場合の技術、訓練、それの不足ということも考えられなくはなかつたが、それ以上に試合のやり方にたいする私の不満があつた。何で彼らが、はじめからしまいまで、必ずといつていいほど相手側のコーナーへ引きこまれて行くのか。誘いだされるのか。何で彼らが、ある型の攻撃を連続して、同時に高速度で相手に加えないのか。何だか彼らに、最後の一つ手まえのところで、相手の様子をつつ立つて見ているようなところがある。よほど特別のときでないかぎり、日本人選手たちは同じところを蹴りつづけない。ねじり続けない。三度も五度も投げとばしたにしても、あと五つ六つ続けて投げとばさないで、もひとつ甲斐ないところで押えこんでしまう。そして撥ねかえされる。相手に休養をあたえてしまう。見ていて歯がゆくなるが、そのうえ外国人選手は見ていられぬほどひどいことをする。
 第一に私にあの仮面というのが気に食わない。何の必要があるか。彼らは非道なことをする。髪の毛をむしる。歯で噛みつく。眼をえぐるようにする。吊鐘のところを打つ。トランクスのうしろへ手をかける。それは力くらべ、業くらべではない。それにたいして日本人選手たちがおしなべておとなしい。さんざんに傷めつけられるのを待つていたようにして我慢する。相手の首にロープを巻くようなことは外国人のほうが主としてやる。しかし我慢しにくいのは審判者の態度こそだつた。
 正確でないが、あれはミスター・トルコとかいうのだつたかも知れない。何でそんな名なのか。国籍がトルコなのかも知れぬが、眼のくらんだ外国人選手にあばれられて、ミスターそのものが投げられたりすることもあるのだから一概には言えまいが、私には、審判の態度がどうしても故意に見えて仕方がない。わざとそう持つて行く。外国人選手がビールの栓抜きなんかをどこかに隠していて、腰のところからひよいと出してそれでひどいことをする。審判がそれを原則的にとがめない。日本人選手が相手を押えこんでカウントを取る。決まりの一歩まえで相棒が飛びこんできて日本人選手の背骨のところを蹴る。日本人選手の一人が審判に抗議する。ミスター・トルコが腕を上下に振つて抗議をしりぞける。そのあいだじゆう、土俵で外国人選手の反則が続けられる。そもそも言つて、日本人選手側の抗議の仕方がなつていない。あの「タッチ」のやり方でも、タッチしないでしたようにしてしまう外国人選手のやり方と、ちやんとしていながらしなかつたように審判に取られてすごすご引つこんでしまう日本人選手側のやり方と、見ていて腹が立つてくる。業が湧く。一般に、審判と外国人選手側とがグルになつていて、日本人選手側が絶えずそれに提燈持ちをさせられている、それを合法化するための道化を演じさせられているという形になる。そもそもいつて、プロ・レスの審判が一人だというのが気に食わない。それは不正を前提にしている……
 そこで私が日本人選手側に肩を入れたくなる。私が愛国主義者なのではない。ただ不義に従いたくない。それだけのことなのらしい。そこで相対的に、ボキシングの場合それほどにはいらつかぬのらしい。ボキシングの審判は複数になつている。そこに、一般的にいつて正義が感じられる。角力では一人の行司が立つ。しかし別に複数の検査役がいる。写真も使われる。そこはオリンピック競技なみ、競馬なみに近代化されている。ボキシングの場合、レスリングに比べて私が非愛国主義的になるように見えたのは、そこでは大体において正義が保証されていて、ずぶ以前の素人がおかしくやきもきしないでもすむという信頼感があつて来たせいなのらしい。
 ところでこのごろになつて、ついこのあいだの 「世界フェザー級タイトル・マッチ十五回戦」というので私に変化が生じた。これには「WBC」という肩書がついていて、何だかもう一つ世界なになにというのがあるのらしいが私の勘ちがいらしくもある。ボキシングでは例のカシアス・クレーに絡んで私に意見があるが、それは又のことにしてこの十五回戦はひどかつた。私は、日本で行なわれたこの試合はと書いておきたい。
 見ていると目の前で不義がまかり通つて行く。私は手で炬燵板を打つて罵つた。
 それでも、ずぶ以前はわかつているのだから私は新聞を読んでみた。ずぶ以前は誤つていなかつた。
『サンケイ新聞』の「ファイティング原田氏」の言葉を見てもいい。「日本ボクシング協会会長の笹崎氏」の言葉を取つてもいい。『東京新聞』の若山圭五、「日本におけるホームタウンデシジョン(身びいき判定)、これは世界のボクシング界に周知の事実だ……だがこんなにひどいのは初めてである」を取つてみてもいい。笹崎会長の、「こんなことをやられては日本の信用はゼロだ」を見てもいい。『毎日新聞』の八代の言葉を取つてもいい。『読売』『朝日』その他もかわらない。『デイリースポーツ』の「さらした悪名の本領、声援が怒号に……ファンは正義、ジャンジャン抗議電話、子供にわかる勝敗だ」を読んでもいい。なかでも私は『デイリースポーツ』の寺内大吉を読んだ。「ボクシングに訣別の辞」と題がついている。
「ドル・ショックにも逆重要事項が否決されてもビクともしなかつた僕だが、今夜ばかりは腰を抜かしてしまつた。この試合がドローとは……。僕は腰を抜かしながら決心している。もう絶対にボクシングは見ない。とくにレフェリーをやった鄭なにがしとは一体いかなる人物なのであるか。
 これはもはやスポーツではない。政治だ。それももつともいやらしい低級な政治というほかはない。」
「だれがなんといおうとも、歴然たる柴田の敗戦であった。ピストン堀口と中村金敬戦をリングサイドで見物して以来、僕のボクシングファン歴は四十年を越えるが、はつきりとここで訣別を告げたいと思つた。」
「もしもJBCが真の見識を持つならば、今夜の採点を厳重に調べ直すべきであろう。先夜の輪島戦でも……選挙違反もいいところ、その恥の上塗りである。」
「まず、その前にあの韓国人レフェリーをだれが、どこから選んできたのか、この点をはつきり明白にすべきであろう。」
 炬燵板を叩いて罵つた私はまちがつていなかつた。レスリングでの私の愛国主義とボキシングでの非愛国主義、つまるところそれは、スポーツに正義を求めること、試合審判でその不義に従いたくないこと、ただそれだけのことだつた。
 私は『スポーツニッポン』の深沢七郎の「風流巷談」も読んだ。私の意見に似ている。私のが深沢のに似ているのだろう。そしてそのへんで念のため私は『赤旗』を見た。そして「やはりナ……」というように感じた。「強打不発で苦戦、マルセルと引分ける」とそれは書いている。
「柴田がからくも引き分け、二度目の防衛を果たしました……得意の強打も不発に終わり不利な展開かとみられましたが、結局、審判の採点は三者三様、柴田は危うく引き分けて命拾いの防衛をなしとげました。」
 こう十九行、しかし写真入りで書いているのに過ぎない。『毎日』の、大活字で書いた「防衛へ微妙(!?)な採点、柴田を救う中立国の『いい主審』」の件には徹底して沈黙をまもつている。ふたりの談話にしても、確信と謙遜とのマルセルは排除して、「調子はよかつた」という柴田のだけを出している。つまり『東京』の、「ふてくされ気味、さながら敗者のインタビュー」だけを勝者の談話のようにして、「からくも」にしろ、「王座防衛者」の言葉としてのせている。ありつたけの新聞を見たわけではない。しかしこの手の報道が、『赤旗』以外に一紙でもあつたとは私に思えない。私のなかの愛国主義と非愛国主義、私のなかのスポーツ審判における正義と不義とから行けば、柴田・マルセル戦での限り、『赤旗』は非愛国主義と不義とに立つていた。しかしそこを私の結論とするのではない。私のずぶ以前の素人考えを書きつけるのにとどまる。」

「そしてそのへんで念のため私は『赤旗』を見た。そして「やはりナ……」というように感じた。」にはちょっと笑ってしまった。ちなみに、この記事が書かれた7年後、79年に中野重治が死去したとき、日本で唯一その死を報じなかった新聞が『赤旗』だったそうである。

2009.11.30 Mon l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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