QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
私の住んでいる街には分館や閲覧所をふくめると合計13もの市立図書館がある。おかげでいつも何かと重宝に利用させてもらっているのだが、先日そのホームページにアクセスして亀山郁夫訳ドストエフスキーの『悪霊』が入庫しているかどうか検索してみたところ、全館でゼロであった。じつは1年ほど前にも同じことをやってみて、そのとき『悪霊』は米川正夫訳と江川卓訳が数点あり、亀山訳はないことを確かめていたのだが、ただ当時は亀山訳『悪霊』は刊行途中だった(3巻中の3巻目はまだ刊行されていなかった)ので、今後まとめて入るようなことがあるかも知れないと思っていた。しかし現在『悪霊』刊行は完了しており、それからすでに半年以上が経過しているので、今後図書館側がこの本を購入することは何かよほどのことがないかぎりもうないように思われる。ついでに、ドストエフスキー作品に対する亀山氏の最初の翻訳であった『カラマーゾフの兄弟』とその次の『罪と罰』についても検索してみると、前者は6点、後者は3点の在庫状況である(ただし、紛失などによるものか、欠け落ちている巻もそれぞれ1、2冊ずつあるようだ。)。

図書館が亀山訳『悪霊』を一冊も購入していない理由を考えてみるに、図書館側がこの作品の刊行を知らなかったということは普段の書籍購入状況から推察してまったく考えにくい。おそらくは意識的に購入を控えた、見送ったのではないかと推測される。そして購入見送りの理由としては「翻訳に問題がある」という判断がなされた可能性が高いように私には思える。『悪霊』は蔵書として米川正夫訳、江川卓訳が数冊ずつ現存しているのだから、新訳に瑕疵が大きいと判断したならば、わざわざお金を出して購入する必要はないわけである。もちろんこの推測が当たっているかどうかは分からないが、ともかくこの措置はよかった、見識であったと私は思う。

とこのように言っていながら、私自身は亀山訳『悪霊』は読んでいない。その前の『罪と罰』も。『カラマーゾフの兄弟』を読んでみて亀山氏の翻訳の文章にほとほと懲りたのだ。古典は丁寧に読み、熟読してこそその良さが理解でき、味わいが感受できると思っているが、亀山氏の翻訳にはそもそも熟読を困難にするところ、丁寧に読めばそれだけ苛立ちが募っていくというところがあるように思う。その原因は、まず日本語の文章として意味が通じない箇所が多いからである。「亀山訳はわかりやすい」というのが出版社サイドの売り文句だったようだが、亀山訳を読んだ人にはぜひ機会と時間をみつけて他の人の翻訳も読んでみてほしいと思う。

『カラマーゾフの兄弟』以来、亀山訳の検証をつづけておられる木下豊房氏のサイトを拝見すると、「亀山郁夫訳『悪霊』Ⅱ「スタヴローギンの告白」における重大な誤訳」という記事のなかに、「『カラマーゾフの兄弟』から『悪霊』へと、亀山訳の欠陥のパターンを通覧してきた現在、引き続き「検証」作業を続けることの虚しさを感じる。」との記述がみられるが、一読者の立場からみても、この感慨にはまったく同情の念を禁じえない。『悪霊』に関する木下氏と森井友人氏の文章を読ませていただき(お二人には多大な労に対しあらためて「お疲れさま」とお伝えしたい。)、つよく感じたことがいくつかあるのでその点を記しておきたい。木下氏の文章においては、特に次の部分が印象深かった。

「…… <私にとっては、ことによると、あのしぐさそのものの思い出は、今にいたってもなお、さほど厭(いと)わしいものではないのかもしれない。もしかしたら、あの思い出は、今も何か、私の情欲にとって心地よいあるものを含んでいるのかもしれない。いや ― たったひとつ、そのしぐさだけが耐えられないのだ。>いや、私が耐えがたいのは、ただあの姿だけ、まさにあの敷居、まさにあの瞬間、それ以前でもそれ以後でもない、振りあげられた、私を脅しつけるあの小さなこぶし、あのときの彼女の姿ひとつだけ。あのときの一瞬のみ、あの顎のしゃくりかた。それが私には耐えられないのだ。」(亀山訳『悪霊』Ⅱ、p.579-580)

詳細についてはぜひ上に記したサイトをじかに見ていただきたいのだが、亀山氏は他の翻訳者(米川・小沼文彦・江川氏など)の訳では明確に「(スタヴローギンの)行為」と訳されている箇所を、「あのしぐさ」とすることで、これが「スタヴローギンの行為」ではなく、「マトリョーシャの行為」であるかのように訳しているのである。亀山氏の訳語「しぐさ」が「マトリョーシャの動き」を指していることは、その次に出てくる「そのしぐさだけが耐えられないのだ。」という文中の「しぐさ」が、紛れもなくマトリョーシャの動きであることを見れば間違いのないことなのだが、しかし「あのしぐさ」の箇所は本来「スタヴローギンの行為」以外の何ものでもないことは前後の文脈からいってあまりにも明白である。もし亀山氏の訳のように、スタヴローギンにとって「今にいたってもなお、さほど厭わしいものではないのかもしれない」ものが、「あのしぐさ」、すなわち「マトリョーシャの行為」を指しているということになるのであれば、『悪霊』という作品は何が何やら意味不明、作品全体が支離滅裂なものということになってしまいかねない。それほどまでにこの誤訳は無視することのできない、重大な語訳であると思う。しかもこれは単なる誤訳というより、木下氏が疑念を表明されているように、亀山氏のある思惑、少なくともある強烈な思い込みが作用しての結果ではないかと思われるのである。これはちょっとある種の恐怖をさえ感じずにいられない出来事である。

森井友人氏の文章「亀山郁夫訳『悪霊1』アマゾン・レビュー原稿 新訳の読みにくさ・文脈の誤読 ―ドストエフスキー・ファンの願い―」は、亀山訳『悪霊』のなかで日本語として文脈が読みにくいケースを丁寧に指摘した後、「訳者がそもそも文脈を誤読している」ケースの指摘がなされている。その例として挙げられているのが、「ステパン・ヴェルホーヴェンスキーの物語詩が外国の革命的な文集に無断で掲載された時の当人の反応を描写する箇所」である。

「外国から送られてきたその文集を手にした彼は(……)毎日どこからか祝電のようなものが送られてくるのを待ちわびながら、そのくせ人を見下すような外面を装っていた。祝電は一通も送られてこなかった。そこでようやくわたしと仲直りしたわけだが…」(亀山訳p.22)

森井氏は、「この「祝電」が誤訳であることは、文脈から見て取れる。」と述べ、以下のような指摘をされている。

「そもそもステパンは、反体制の進歩的知識人として扱われることに自分の存在意義を見いだしている人物である。だからこそ、語り手の「私」が「この詩も今となってはまったく罪のないものだから出版してはどうか」と主張した時に不満の色を見せて拒絶し、よそよそしくなったのだし、また、だからこそ、この件で彼は慌てふためきながらも、内心気をよくしているのである。」

「「祝電」を送られるようでは、自分の詩が今となっては罪のないものでしかないことを証明することになってしまう。そんな事態をステパンが待ち望むはずがない。待っていたのは、この件で身に降りかかるかもしれない危険(例えば弾圧等)について警告するような内容の電報、つまり、自分が今も当局に一目置かれる反体制の進歩的知識人であることを傍証してくれるような電報のはずである。したがって、ここに「祝電」などという言葉が使われているはずがなく、原文に単に「電報」とあったのを訳者が勝手に「祝電」と「意訳」したと推測がつく。実際、Web上の原文を見ると、単に「電報」と書かれているだけであり、江川訳ほか先行訳でもむろんそのまま「電報」と訳されている。」


森井氏のこの指摘と解釈は正しいと思う。この場面は作品のごく最初のほうにあり、ステパンがどのような人物なのか、このとき読者にはまだよく理解がおよんでいない。だからステパンが待っている「電報」がどのような意味合いのものなのか、瞬間多くの読者が理解に戸惑う個所ではあると思う。実際、初読(江川訳)のとき私もここを読んで即座にはステパンの心理をうまく把握できず、文脈を理解するために前に戻って二度、三度と読み返してみたものだった。そうして初めて森井氏が述べているところと同様の理解に至ったのだが、この挿話にはステパンという人がどういう性格であり、どういう主義主張の傾向や特徴をもった人物なのかが最も鮮やかに現れているように思う。森井氏は「亀山訳を信じて読んだ場合、その脈絡が不明となるだけでなく、ステパンの心理と人物像の理解にも支障をきたすことになるだろう。」と述べているが、まったくそのとおりであり、「誤訳」として見過ごすにはあまりに重大な翻訳上の過誤だと思う。特に、「ステパンの心理と人物像の理解にも支障をきたすことになるだろう。」との指摘は重大であると思うが、上述した「あのしぐさ」の場合においても木下氏が同様の指摘をされている。ロシア語を知らず、したがって原作を読めない読者は亀山氏のこの訳によってスタヴローギンおよびマトリョーシャの人物像についてとんでもない誤解をさせられることになるのだ。そしてこちら(「あのしぐさ」)の誤訳のほうがステパンの場合より問題はよりいっそう深刻だと思う。

森井氏は文章の最後を

「まずは大量誤訳を指摘されている『カラマーゾフの兄弟』に立ち戻り、その間違いを徹底的に正すところから再出発していただきたい。――読者のためにも、そして、何よりドストエフスキーのためにも。/これが一ドストエフスキー・ファンの心から願いである。」(/は改行)

と締め括られている。もっともな発言だし、私もそう願いたいと思う。でも、光文社にしろ亀山氏にしろ、『カラマーゾフの兄弟』の「間違いを徹底的に正す」というような誠意(と能力)がこの人々に望めるのであれば、あれだけ数々の批判を受けた後で『悪霊』をこのような姿かたちで出版するようなことはできなかっただろう。『悪霊』に関して木下氏と森井氏が誤訳、不適切訳として数々指摘されているうち、「あのしぐさ」と「電報」のたった2点の誤訳にかぎっても、どちらも決定的と言えるほどに深く作品の本質に関わる問題なのは明らかであり、それがこのような有様ではこの新訳はドストエフスキー作『悪霊』の翻訳と口にするのは憚られるレベルのものではないのかと思う。このような本に対しては、原則として私の街の市立図書館のように「購入しない」という処置をとること、どうしても購入する必要がある場合は古本を買うことなどの対抗措置をとることにしよう。それにしても自ら翻訳も手がけているある人物が「翻訳はひとつの形式である。そう把握すると、原作に立ち戻ることが重要になる。」と述べているのを読んだことがあるのだが、亀山氏の翻訳ぶりをみると、この言葉がいかに正確に翻訳の核心をついているか、実感的に理解できるように思うのは皮肉なことである。
スポンサーサイト
2012.06.12 Tue l 文芸・読書 l コメント (1) トラックバック (0) l top
私が西部邁氏を知ったのは、他にもそういう人は多いのではないかと思うが、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」という番組によってであった。最近はほとんどテレビを観ないので、あの番組にもここ7、8年とんとご無沙汰しているが、今はもう西部氏も出演していないとどこかで聞いた記憶がある。それでも一時期(主に90年代)は眠いのを我慢してしばしば朝まで観たりしていたせいで、当時準レギュラー格で出演していた西部氏が出演した番組も通算すると十数回は観ているのではないかと思う。
 
「朝生」における西部氏の印象だが、今も記憶に残っているのは、氏の発言には「高貴」、「衆愚」という言葉がよく交じっていたということである。「高貴」という言葉は、日本の歴史と伝統をしっかり身につけた、強く気高い精神をもって生きている理想的人間のことであり、「衆愚」とは戦後の日本国憲法の下で生きる目的を見失い、あてもなく漂流して生きている、私たち凡庸な大衆を指しているように私には感じられた。

藤岡信勝氏や西尾幹二氏らによって「新しい歴史教科書をつくる会」が発足したのは96年末。一説には、この会が結成されることになったのは、この数年前から、韓国をはじめアジア各地の女性たちから、太平洋戦争中、旧日本軍により強制的に慰安婦にされたという訴えと告発がなされ、その犯罪に対する謝罪と賠償を求める訴訟が相次いだことが原因だったといわれている。藤岡・西尾氏ら右派の人々はこのままでは日本および日本人としての誇りが致命的に傷つけられるという危機感に迫られでもしたのだろうか。

西部氏も漫画家の小林よしのり氏などとともに「つくる会」に加入したが、これは「朝生」で西部氏の政治や社会に関する主張を聞いていた私には何の不思議も違和感もなく、当然の成り行きのように思われた。私だけではなく、当時の「朝生」視聴者の多くはそのように受けとめたのではないかと思う。西部氏は現在「つくる会」を脱会しているそうだが、氏は「つくる会」において「中学公民」の教科書つくりを主導し、また「国民の道徳」という600頁余の大部の本を出版もしている。

実は今回私が「国民の道徳」(扶桑社2000年)、「核武装論」(講談社現代新書2007年)など、西部氏の本を何冊か読んでみたのは、ブログ「こころなきみにも」の萩原俊治氏が西部氏を尊敬していると述べ、その理由について次のような記述をされていたからであった。

「 私が西部邁を尊敬するようになったのには二つ理由がある。

 ひとつは西部が『大衆の病理』(NHKブックス、1987)や『白昼への意思――現代民主政治論』(中央公論社、1990)などで述べている大衆批判やメディア批判に深く共感したからだ。ここで批判している大衆(あるいは民衆)から西部は自分を除外しているのではない。西部自身も大衆であるとして自己批判しながら他者をも批判している。このような大衆批判はドストエフスキーやジラールの大衆批判にそのまま重なる。

 西部を尊敬するようになったもうひとつの理由は、西部がドストエフスキーやジラールなどと同様、回心体験を経ているということだ。たとえば、ドストエフスキーはベリンスキーをお手本とする左翼思想からシベリア流刑を経て、キリスト教的な「土壌主義」(ロシアのキリスト教に根ざした思想を奉ずる立場)を自らの思想であるという立場を取るようになる。簡単に言えば、彼は自分の自尊心の病に気づき、回心したのだ。言うまでもないことだが、ドストエフスキーの「土壌主義」というのは、排外主義的な愛国思想(「右翼思想」)とは異質のものだ。それはいわば「愛郷思想」、いや、思想とも言えない、生きる姿勢とも言うべきものだ。 」
http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/20110912/1315816431

� 西部氏が展開する大衆・メディア批判がドストエフスキーにそのまま重なる、�西部氏はドストエフスキーと同じ回心体験を経ている、という萩原氏の見解には驚いたし、違和感もおぼえた。ドストエフスキーの研究者である萩原氏と異なり、私は何ら専門的な知識も教養ももたない一文学好きに過ぎないのだが、萩原氏には、「亀山郁夫訳カラマーゾフの兄弟」批判をとおして敬意をもっているだけよけいにこの件を黙って通り過ぎることはよくないと思うので、僣越ながら以下に私見(というほどのものではないが)を記しておきたい。

冒頭に少し書いたが、私は「朝生」で西部氏が発言するのを聞いて、氏に対し、� 排外主義的国家主義者の典型 � そのことを知的装い、豊富で洗練された表現や修辞で別の新しい思想のごとく人前に差し出すことができる。その意味で、聡明 � 階層的不平等や階層的支配・被支配関係を是とし、またその必要性を信じている。実はエリート意識の持ち主でもある � 「大東亜戦争」肯定論者 � 核武装論者、というようなイメージをもっていた。

政治思想としては平沼赳夫氏や田母神俊雄氏などの極右思想家とほぼ同一の思想の持ち主のように思えるが、西部氏はさすがに教養人・知識人であって、たとえば「核武装論」には、

「核論議が(日本にかぎらず)世界中で嫌われているのは、防衛論におけるいわゆる現実主義者たちの軍事ゲームを操っているかのごとき物言いに違和を覚える人が少なくないからでしょう」

との記述がある。核および核武装に対する読者の警戒心をよく認識していると思うし、またその認識をすぐ文章に反映させることかできるというのもきっと相当な力量の持ち主なのだろう。本書には「当たり前の話をしようではないか」というサブタイトルもついていて、一巻をとおして物静かで柔和な物言いに終始している。しかし口調がどんなに柔和であろうと物腰が低かろうと、はたまた知的な文体で綴られていようと、この本が日本の核武装を唱え、軍事大国化を目指すための煽動的書物であることに変わりはなく、本の最後は次の文章で締めくくられている。

「 あの大東亜戦争は、日本人が「国民精神を生き還らせるためには、国民生命を死に至らせなければならぬ」との覚悟で行った戦さであった、ということができるでしょう。その意志を受け継ぐことを、戦後にただ生き延びただけの列島人は拒絶しました。それから六十年余が経ち、かつてのと同種の問いがつきつけられているのです。つまり、「自尊と自立」の国民精神に「安全と生存」を保証するためには、国民の生命にたいして「危機と死滅」を予感させる「核」という難物を、我々の懐にしっかりと掻き抱いてみせなければならないということになった次第です。

私たち日本人は本来なら戦後も「大東亜戦争」の精神を歴史と伝統として受け継がなければならなかったのに、それを拒否した。現在の日本がこういう無秩序・無道徳の頽廃した国に成り下がったのはそのためである。故に、遅きに失したとはいえこれから核武装をし、戦前の秩序を取り戻し、大衆はいざという時には国のために死ぬだけの覚悟をもって生きなければならない。そうして初めて日本人は衆愚の状態から脱することができる、というわけであろう。

萩原氏は、西部氏の大衆批判は「ドストエフスキーやジラールの大衆批判にそのまま重なる」と述べているが、本当にそうなのだろうか。西部氏の大衆批判が「自分を除外しているのではない。西部自身も大衆であるとして自己批判しながら他者をも批判している。」という場面に私は行きあった記憶がないのだが…。ドストエフスキーは「死の家の記録」で、主人公に

「どんな凶悪犯罪者であれ、また反省の情の微塵もない救いようのない者であれ、自分が犯罪者であること、悪事をなした者であることは知っていた。自分を良いと思っている者は一人もいなかった。」

と語らせている。多くの人が述べていることだが、シベリア体験で得た民衆に関するこの発見と確信こそ、ドストエフスキーの文学、思想の根幹をなすものではないかと私も思う。ドストエフスキーの心の底には民衆へのこの信頼が確固として居座り、生涯動くことはなかったように思える。核武装を唱え、国家のために死ぬ覚悟を持て、などと民衆に要求するような人物がドストエフスキーと並べて論じられているのをみるのは率直なところ少し苦痛であった。

それから、「回心」ということだが、残念ながら私は不勉強のためにこの問題について言えることをほとんど持たないのだが、それでも、西部氏にドストエフスキーの苦しい体験と比較できるようなどんな回心の経験があったのだろうと疑わしく思う。田原総一郎氏は、「脱原発の風潮は60年安保闘争に似ている」(8月10日)というタイトルの記事で、下記のように書いている。

「 安全保障条約は、吉田茂内閣が取り決め、岸内閣がその条約を改正し、その内容は日本にとって改善されていた。だが、私は吉田安保も改定された岸安保も条文を読んだことがなく、ただ当時のファッションで安保反対を唱えていただけだった。「岸信介はA級戦犯容疑者であるから、きっと日本をまた戦争に巻き込むための安保改定に違いない」と思っていたのである。
 当時、東大の安保闘争のリーダーは西部邁氏であった。私は西部さんに「吉田安保と岸安保はどこが違うのか。それぞれを読んだか」と聞いてみた。西部さんは「読むわけないだろう。岸がやることはろくなものではない。日本を戦争に導くだけだ」と言っていた。
 60年安保闘争に参加していた者はほとんど安保条約の中身など読んだこともなく、ただ反対していただけなのである。科学的・技術的な議論が行われない脱原発の動きは、この安保闘争とよく似ていると感じる。 」

この記事中の西部氏に関する部分を読んで感じるのは(前々からそのように感じないわけではなかったが)、西部氏は実際的な遣り手でもあるらしいということである。左から右へといわゆる政治的転向をしたわけだが、左における「安保闘争のリーダー」からやがて入会した右の「つくる会」では「公文」の教科書や「国民の道徳」という本を執筆、出版するなど、「つくる会」の指導者として遇されている。自らそうなりたがるのか、他人に推されるのかは分からないが、ただ私には、こういう道程はその人の優秀さの証明であると同時に恥ずかしいことでもあるように思える。「国民の道徳」にはこういう記述がみられる。

「 今から二十余年前、「現代日本は高度大衆社会としか思われない、私はそういう愚劣な社会に抗う決意だ」と最も大衆的な新聞紙上で書いたことがある。そのとき、ある年配の役人が「あなたがこの世から放逐されるとしたら、そして大衆リンチに遭うとしたら、この文章が証拠の第一のものになりますよ」とコメントした。私は放逐されたのだろうか、そうかもしれない。私は大衆リンチに遭ったのだろうか、そうかもしれない。いずれにせよ、はっきりしているのは、これ以上に恥知らずに生きるには私は弱すぎるということである。」(p576)

西部氏がこの世あるいは世の中から放逐もされていなければ、大衆リンチにも遭っていないことは明白である。この文章には大衆への嫌悪と、自分(の高貴さ)に満足し、陶酔している西部氏の内面が映っているように思えてならない。こういう西部氏がどうしてドストエフスキーと重なるのかが私には理解不能なのだ。ドストエフスキーは自分の苦しい経験から、たとえば死刑についてこれまでどんな人も描いたことのない、おそらくは思い浮かべることもなかったのではないかというほどの恐ろしく深みを感じさせる観察をムイシュキン公爵をとおして披露している。

「殺人の罪で人を殺すことは、当の犯罪よりも比べものにならないくらい大きな刑罰です。判決文を読みあげて人を殺すことは、強盗の人殺しなんかと比べものにならぬくらい恐ろしいことですからね。…
 夜の森などで強盗に切り殺される人は、最後の瞬間まで、かならず救いの希望をもっているものなんです。もう喉を切られていながら、当人はまだ生きる希望をもっていて、逃げたり、助けを求めたりする例はいくらでもあるんです。ところが、死刑では、それがあれば十倍も楽に死ねるこの最後の希望を、確実に奪い去っているんですからねえ。そこには判決というものがあって、もう絶対にのがれられないというところに、むごたらしい苦しみのすべてがあるんです。いや、この世にこの苦しみよりもひどい苦しみはありませんよ。」(ドストエフスキー『白痴』木村浩訳)

西部氏は「国民の道徳」のなかで、「人はなぜ人を殺してはいけないのか」という命題について、「自分が他人から為されては困ることを、他人に為してはならぬ」、「ともかく殺人についていえば、他人から殺されたくないなら他人を殺してはならない、これが社会秩序の大原則である。」としごく良識的なことを述べた後、次のようにつづける。

「しかし、例外のない原則はない。殺人もまたコミュニケーションの一形態なのであってみれば、コミュニケーションの極限的な場面である戦争や死刑にあっては、さまざまな規則を付加した上で、殺人を合法的とみなすことになる。また道徳についていえば、自分の愛するものが凌辱されたとき、それにたいする復讐として相手を殺すことは、今では法律的には罰せられるが、道徳的には許されたり称賛されたりする場合もある。つまり、殺人否認の原則から逸脱する特殊ケースが戦争であり死刑であり、あるいは復讐であるということだ。 」

西部氏の思想にも耳を傾けるべき点も多々あるのだろうとは思う。そうでなければ萩原氏も西部氏をあのように賞賛するということはないだろうから。それでも西部氏の場合、その思想の行きつく先はどこかという問題が常に存在していると思うのだ。「戦争」「死刑」「復讐」という問題に関する西部氏のこの文章にも、西部氏の思想をドストエフスキーの文学と重ね合わせて語ることの無理が現れているのではないかと思うのだが、どうだろうか。ちなみに、西部氏の「国民の道徳」に対しては「徹底批判 国民の道徳」(大月書店2001年)が出版されている。まだ少ししか読んでいないが、執筆者は大日向純夫・山科三郎氏など13人の著者によるもので、興味深い内容のようである。

追記ーこの記事をアップしてからふと気がついたのだが、「つくる会」が結成される前後、世の中の空気や流れが明らかに変わった、と感じ出したころから、私は文学と文学者にそれまで以上につよく惹かれるようになった。そのころから読む本 (文学に関係する) の量もいくらか増えたかも知れない。もっともそれは以前に比べてということで、たいしてかわり映えはしていないが、心境の変化はたしかに生じたのだった。


9月27日、誤字の訂正と文章の追加をしています。
2011.09.25 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
中原中也が死去したのは、1937年(昭和12年)10月、死因は「結核性脳膜炎」。生れたのは1907年(明治40年)だから、ちょうど30歳で亡くなったことになる。1909年生れの大岡昇平より2つ年長、1902年生れの小林秀雄より5つ年少であった。生前に刊行した詩集は1934年(昭和9年)の「山羊の歌」一冊。死去の少し前、清書をおえて小林秀雄に託した原稿が、「在りし日の歌」として刊行されたのは、死の翌年のことであった。

生前唯一の詩集である「山羊の歌」について、大岡昇平は、次のように書いている。

「中原は羊の年の生れであった。(略)同じ羊でも戦闘的な「山羊」と自分を想像することを好んだ。「山羊の歌」題名の由来はそこにあるのだが、高森文夫の証言によれば、「修羅街輓歌」が最初に選んだ題だったという。
 それにしても私は憎む、
 対外意識にだけ生きる人々を。
 ……………
 いま玆に傷つきはてて、
 ――この寒い明け方の鶏鳴よ!
という怒りと歎きが、「山羊の歌」刊行当時、中原の切実な感情であった。「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ」(いのちの声)という宣言で、詩集は閉じられる。」(角川書店『中原中也全集 1』解説)

30歳での死はなんといっても早すぎるが、大岡昇平は、中原中也が死んだ1937年以後、日本が辿った現実をみると、中原中也の神経があの苛烈な事態に堪えられたとはとうてい考えられない、よい時に死んだといえるだろう、とどこかに書いていた。詩集「在りし日の歌」は、『蛙聲』という詩で終わっているが、不気味な世界、不吉な先行きを感じさせずにおかない詩であるように思う。

 天は地を蓋(おほ)ひ、
 そして、地には偶々(たまたま)池がある。
 その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
 ――あれは、何を鳴いてるのであらう?

 その聲は、空より来り、
 空へと去るのであらう?
 天は地を蓋ひ、
 そして蛙聲は水面に走る。

 よし此の地方(くに)が濕潤に過ぎるとしても、
 疲れたる我等が心のためには、
 柱は猶(なほ)、餘りに渇いたものと感(おも)はれ、

 頭は重く、肩は凝るのだ。
 さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
 その聲は水面に走って暗雲に迫る。 」

「在りし日の歌」の「後記」には、中原中也の手で次のように記されている。

「詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も既に23年を経た。もし詩を以て本職とする覺悟をした日からを詩生活と稱すべきなら、15年間の詩生活である。/長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠(すくな)くない。今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾツとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確實に確めた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも云つておきたい。 」(1937.9.23)

このような文を読んでいると、中也の『わが半生』という詩の

 私は随分苦労して来た。
 ……………
 とにかく私は苦労して来た。
 苦労して来たことであった! 」

という一節がひとりでに浮かんでくる。

「中原来て晩まで。中原に居られるのも嫌、帰られるのも嫌、変な気持です。中原帰つたら当分変な気持、中原にすまぬと云ふ気持ちです。」

上記の文は竹田鎌二郎という中原中也の友人の日記にある言葉だそうだが、大岡昇平は、「これはわれわれの、少なくとも私の気持にはぴったりです。」と述べている。

大岡昇平は、『スタンダールと私』(1966年)という表題の文章のなかに、

「私の作品にスタンダールの本質的な影響というべきものはない、と自分でいってしまうのは少し辛いが、恐るべき現実から、目をそらしてはならない、というのも、スタンダールの教えなら、それに従うほかはない。」

と書きしるしている。大岡昇平は『わが文学生活』(1976年)においてインタビュアーに「文体の上でとくに影響をうけた作家というと、誰でしょうか。(略) というのも、たいへん特徴ある文体をもっていらっしゃるように思うからです。決然とした、しかも明晰な文章ですが、…」と訊かれて、

「スタンダールです。なんでもスタンダールより師匠はいないのですよ。」

ときっぱり答えている。だから、「私の作品にスタンダールの本質的な影響というべきものはない」と述べているのを読んで、私は最初かなり驚いたのだが、それでも自分の作品についてのこの判断は案外当をえているのではないだろうか。

大岡昇平は死の直前までスタンダールについて書いているが、その文章の出だしのところで、「愛するものについてうまく語れない」と述べている。その言葉はスタンダール、大岡昇平、双方の愛読者である私などにはとてもよく理解できるように思った。大岡昇平はスタンダールについて「わが文豪」「わが大作家」「わがスタンダール」という言い方をよくしていて、そういう言い方一つにしてもスタンダールに対する愛着と敬意の混ざった感情がいつもよく伝わってきたものであった。学んだことは数知れずあったのだろうが、そして読者にもそのことはよく理解できるようにも思うのだが、それでも本質的には二人の作家としての個性は異なるように感じる。むしろ、小説家と詩人との違いは厳然とあるにしろ、中原中也のほうがスタンダールと共通性があるように感じるのである。選択する言葉がどちらかというと単純な語句のせいなのか、それらの語句による表現がいつも非常に深いある一点に達しているという実感のせいなのか、読みながらうける印象に共通点があるような気がする。もしかすると、大岡昇平自身、そのことを感じてはいなかっただろうか。

「「語り尽くせない、これ以上の讃辞はないだろう」とヴァレリーはスタンダールについていったが、同じことが中原についてもいえるのではないでしょうか。」(『思い出すことなど』筑摩版 大岡昇平全集 18)

と大岡昇平は書いている。
2010.12.06 Mon l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回書いた文章は、『大岡昇平・埴谷雄高 二つの同時代史』から-という題とあまり関係ない内容になってしまった。今回もそんな予感がしないでもないのだが、まずは『二つの同時代史』に載っている中原中也に関する話題から。

「 埴谷 中原のことはいまは秋山駿をはじめとしてみんなが書いて、中原中也は大岡昇平がいろいろ書いたからこんなに有名になったというのが定説になってるけど、『俘虜記』の中で君はすでに中原のことを書いてるよ。君はドイツ人に、日本の詩人の代表とし中原の詩を翻訳してやっているんだ。」
 大岡 たまたま入ってきたドイツ人の捕虜に独訳してやった。
 埴谷 『俘虜記』に中原の詩が出てくるんだから、ずっと戦前から君は中原のことをほめつづけているんだ。
 大岡 おれに独訳できたんだから、これはまた不思議だねぇ(笑)。とにかく高校は乙文だし、捕虜は暇だから、ドイツ語を教わりながら共訳したんだ。 」

大岡昇平が、レイテの捕虜収容所でドイツ人捕虜が教えるシラーのバラードに対抗して、中原中也の一つの詩を独訳し、「現代日本の最大の詩人の作品である」といって見せた作品は、『俘虜記』によると、やはりミンドロ駐屯中に立哨の時口ずさんだ『夕照』だったそうである。当時の大岡昇平には、『夕照』中の勇ましい箇所よりも「小兒に踏まれし 貝の肉」というような柔和な感じの詩句が心に訴えてきたとのことである。ただ、埴谷雄高は上の対話で「中原中也は大岡昇平がいろいろ書いたからこんなに有名になったというのが定説になってる」と述べていて、大岡昇平はここでこそその言葉を否定していないが、中原中也について書いた文章において何度かその「定説」なるものを明確に否定している。たとえば、「中原中也の読まれかた」(『波』1975年)という表題の文章で、そのような評価は「私にとってありがたい言葉だが、事実に反している。このことには旧臘17日の授賞式(引用者注:野間賞)の挨拶で言及したが、念のためここに書きとめておきたい」と述べて、「詩の読者は作品とじかに向かい合う。(略)詩壇においても、中原の評価は私が書いた「ため」ではなく、「にもかかわらず」高まってきているのである。」といろんな例を挙げて説明している。

詩でも小説でも、文学作品にそのものとしての価値がなければ、誰がどう誉めようと、その場かぎりのことで終結してしまうだろう。大岡昇平が自分の功績を否定するのは当然の態度・姿勢だと思う。大岡昇平は1943年(昭和18年)ふと開いて見た亡き友(こういう言い方をよく大岡昇平はしている)中原中也の詩が思いがけぬ甦りをもたらしたと書いているが、実は、その当時、高校生や大学生の一部では『湖上』(ポッカリ月が出ましたら、 /舟を浮べて出掛けませう。 /波はヒタヒタ打つでせう、 /風も少しはあるでせう。 …)や『春日狂想』(3/ ではみなさん、/ 喜び過ぎず悲しみ過ぎず、/ テムポ正しく、握手をしませう。/ つまり、我等に欠けてるものは、/ 実直なんぞと、心得まして。/ ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――/ テムポ正しく、握手をしませう。)などの詩が熱心に愛誦されていたそうである(大岡昇平自身は戦後になるまでそのような事情はまったく知らなかったという)。萩原朔太郎についてもその死後全集発刊に対する三好達治の献身的な努力があったからこそ、朔太郎はいつまでも読まれるのだ、と評している文章を読んだことがあるが、こちらの方も決してそんなことはないだろうと思う。大岡昇平、三好達治は中原中也、朔太郎の作品の秀逸さと愛着とに惹かされ、そうすることに喜びや自発的な責任を感じるからこそ、詩人の全集刊行に協力を惜しまず、詩の読解や解説を書いたりして広く紹介したのだと思うし、そのことには何の疑問もなく本質的には無償の行為であったに違いないと思う。

ところが特に大岡昇平に対しては、彼の没後、「大岡昇平が死んだので、これでようやく中也の詩を先入観なく自由に読むことができる環境ができた」というような趣旨の発言がいくつもあった。大岡昇平の死後数年経ったころ、中原中也の有名なお釜帽を頭に載せたピエロ風の写真を撮った店の主人がつい何年か前まで生存していたことが分かった。なぜ大岡さんはそのことを調べようとしなかったのだろう、とまるで写真館の調査をしなかったことが大岡昇平の失態であるかのように書いている文章を見かけたこともある。この書き手は私の知らない人だったが、今さらそんなことを言うのなら、写真館の主が生存しているうちに、自分で調べてみればよかったろう、調べた上で自分で発表するなり、大岡昇平に教えてあげるなりしたらよかったではないか、大岡昇平がいなくなった今になってそういう不平不満を言うのは筋違いで、卑怯な態度ではないかと思ったものだ。

さて、大岡昇平が中原中也と知り合ったのは、昭和3年(1928年)。大岡昇平は翌年,京都大学に入るのだが、東京の大学に入れないこともなかったそうだが、わざわざ京都に行った理由の一つには、中原中也との関係がギクシャクしだしたせいもあったそうである。

 埴谷 京都は何年に行ったんだっけ。
 大岡 昭和4年。そろそろ中原と仲が悪くなってくるころだよ。
 埴谷 要するにうるさくなってきたんだな。
 大岡 うるさいより、堪えられないってこと。とにかく朝昼晩くるんだからね(笑)。つまり波状訪問。二日泊って帰って行って、やっと今日は一人になれたと思って、夜、風呂に入って机にむかって本を広げると、窓の下から「大岡ぁー」って中原の声がする(笑)、ぞっとしたね。また泊まりにきたんだよ。」(『二つの同時代史』)

大岡昇平は自分のあだ名は「ひがみ屋」とか「さびしがり」であり、若い時からどんな交友関係でも相手に訪問されるより自分が訪問する方がいつもはるかに多かった。逆だったのは、唯一、中原中也だけであったとどこかに書いていた。二人が本当に親密で関係がしっくりいっていたのは知り合ってから一年間だけだったようだが、大岡昇平は周知のように、戦後倦まずたゆまず中原中也について書き、中也の全集の刊行に献身した。新たな伝記や作品や書簡なども発見され、全集は三度も出されたが、1979年、その三度目の全集刊行後、経過を振り返って大岡昇平はこんなことを書いている。

「思郎さん(引用者注:中也の弟)の近著『中原中也ノート』にも、私の『中原中也』に対する不満が表明されている。こうして私は中原の二人の弟(拾郎さんとは年が大分違うので、お話をする機会がない)から不興をこうむった形になったのであるが、中也自身からは申すまでもない。遺稿中に、「玩具の賦」(昭和九年)があるだけではない。考証を進めているうちに、彼がその短縮稿を「文学界」へ発表しようとしたことが明らかになってきた。こんど新発見の書簡十通にも、私の悪口が二度出てくる。まるで私は中原から悪くいわれていたことを掘り出すために、作業をしているようである…(略)」(『四谷花園アパート』)

中原中也の日記には、「今日は非常にお天気がよい」と尋常に記された後、「大岡といふ奴が癪に障る」(昭和10年)という悪口もあるが、中原中也の友人(大岡昇平も青山二郎の部屋(四谷花園アパートの一室。中原中也も昭和8年(1933年)に結婚した後、このアパートに住んでいた)で何度も会ったことがあるというが、青山二郎の中学時代からの友人だった人物。)が亡くなった(1972年)数年後、改築の際、天井裏から家族の誰も知らなかった日記や書簡がごっそり出てきて、その中には大岡昇平が上の文章で述べているように、中原中也からの十通の書簡も含まれてあり、そのうちの一通には

「大岡一族が集つてゐると裏長屋みたいだといふのは実際だよ。シャアシャアしながらケチなんだ。あんな暗い感じのものもない。いつそまだケチの方がいい。ケチなのにシャアシャアでは、当人シャアシャアでケチの方が帳消しになるつもりだから煮ても焼いても食へないものになるだけだ。」

と記されていたそうで、「まるで私は中原から悪くいわれていたことを掘り出すために、作業をしているようである」という大岡昇平の嘆きの感想は、読者の目にもそのとおりに映り、私は同情してしまうのだが、大岡昇平はつづけて次のように書いている。

「書簡の中にある「大岡一族」については、少し弁明しておかなければならない。(略)「一族」は、当時私が同棲していた女とその姉である(略)」「私の同棲した女については、青山の『中原中也の思ひ出』にも出てくる。彼女は「エスパニョール」の「女給」だった。」「私がシャアシャアしているのは、現在でもそうだが、いまわれわれが金を使って生活している以上、ケチでない人間はいないはずである。他人をケチだとは、自分がケチでなければわからないことだろう。女たちは信州松本の出で、むしろ朴訥で、気よしだった。だから私と二年も同棲したりしたので、少なくとも、彼女と私は、中原にケチといわれる筋合いはない。」と怒って(?)反論しているが、中原中也に関する知友による多くの証言から推しても、実際大岡昇平のいうとおりだったのではないかと思われる。

しかし、遠い昔のそんな出来事はもはやどうということのないことであり、私が感銘を受けるのは、大岡昇平がこういう手紙を書いた中也に対して一時的には癪にさわり、腹を立てたりしたとしても、その詩がある以上、中也に対する尊敬や懐かしさには何らの変化もあるはずはなかっただろうということに対してである。

大岡昇平には、後輩にあたる何人もの作家の質問(インタビュー)に応えていろいろなことを話した「わが文学生活」(中央公庫1971年)という本があるが、その最後の部分で「しかし観念の世界でも、現実の世界でも、ことが絶えないからね。とにかく知りたいことが年がら年じゅうあとからあとから飛びこんでくるからおさまる暇はないですよ(笑)。」と述べている。1976年時点では、「知りたいことが…あとからあとから飛びこんでくる」とは言えただろうが、現在だったらどうだろうか。さすがに、現状を見たら、またこの中に置かれたら、もうそうは言わなかったのではないかという気がする。ただ、結びの言葉である「しかし、文学に対してだけは忠実であるということはいえるかもしれないな。忠誠ですよ(笑)。」という発言に対しては心から合点することができる。中原中也(富永太郎に対してもそうだが…)に対する姿勢にそのことがよく出ているように感じる。



最後に、中原中也の詩『湖上』と『春日狂想』を「中原中也全集 1」(角川書店)の「在りし日の歌」より引用掲載しておきたい。(偶然だが、私もこの二つの詩は好きである。)


 湖 上

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
   
沖に出たらば暗いでせう、
(かい)から滴垂(したゝ)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。
   
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでせう。
   
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。
   
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。


 春日狂想

   1 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
  
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
 
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
 
奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2
 
奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前(せん)より、人には丁寧。
 
テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりぢぢい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
そこで地面や草木を見直す。

(こけ)はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。
 
    ((まことに人生、一瞬の夢、
     ゴム風船の、美しさかな。))

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外(そと)はまことに賑(にぎや)かなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国(あつち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、 
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう。
2010.12.05 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
夜、眠りにつく前、たいてい睡眠剤代わり(?)に本を一、二冊寝床に持って行くのだが、ここ一、二年、その回数が一番多いのは、『大岡昇平・埴谷雄高 二つの同時代史』(岩波書店1984年刊行。実際に対談が行なわれたのは前年の83年)である。それで、いくつかこの本について、またこの本に関連しての話を思いつくまま記してみたい。

二人とも1909年(明治42年)生まれで同い年。70歳を二つ、三つ越えた二人が幼年時代からのそれぞれの経験や見聞きした出来事を振り返り、語り合うという趣旨の本で、内容は戦前戦後の歴史を知る上でも大変興味深く、読みながらついつい彼らが今もし生きていたら、どんな発言をし、どんな文章を書くだろうか? などと想像したり、またいまもこの二人の文学者を好きなことには何の変わりもないが、日本の将来を見通す彼らの目も案外甘かったのではないかと不満をおぼえたりもして、それやこれやで読んでいて飽きがこない。

同年といっても、埴谷豊高は台湾生まれで1923年(関東大震災の年)、家族揃っての上京までは父親の仕事の関係(台湾精糖の社員)で台湾で育っている。大岡昇平のほうは東京渋谷育ちである。こちらは父親が株屋で、幼年時代は貧乏だったのに、1920年(大正9年)の不景気の時父親は「売り」に出て、大儲けしたそうである(しかし、1931年(満州事変の年)に「買い」に出て破産したそうだが…)。その時建てた新築の家は当時のお金で5万円もかかったというから、何とも豪勢な話である。

埴谷雄高は本の後書きとして「ボレロ的饒舌をつづけて」と題し、

「この対談をはじめるにあたって、大岡昇平は、この俺達の年齢じゃこんなことを二度やることもないから、言いたいことはみんな言いつくしてしまおうぜ、と述べ、私も、そうだ、なんでもみんな話そう、と応じたのであった。尤も、一応年代を追ってゆきながらも、話があちこちへ跳ぶこうした種類の対談で「言いたいことを言いつくしてしまう」ことなど必ずしも果たせず、言いおとしたことも多いけれども、しかし、80パーセントくらいは、「ポンコツ二廃人」ながら、話しおえたのである」

と記しているが、「80パーセントくらいは(略)話しおえた」という言葉は、おそらく本音であろう。二人が知り合ったのは戦後それぞれが作家として出発した後のことだったようだが、老年に近くなってから急速に親しくなっていったようであり、ここでは二人とも忌憚なく本心を語っているのではないかと思う。ただし、大岡昇平の毒舌と論争癖は大変(?)なものだから、意見が異なると想像される場面では、埴谷雄高の意見表明がやや譲りがちのようにもみえる。たとえば、ドストエフスキーについて、埴谷雄高は、『地下室の手記』以降の作品がそれまでより断然よいと考えているに違いないのだが(彼はドストエフスキーとその作品を論じた多くの文章でそんなことは議論の余地もなく明白なことであるかのような言い方をしている。)、大岡昇平がドストエフスキーの中では『死の家の記録』が一番いいと述べているのに、異議は唱えていない。でも『死の家の記録』を非常に高く買う人は他にもいて、大岡昇平によると、数学者の遠山啓がそうだったそうだが、中野重治も『死の家の記録』をドストエフスキーの作品中最も印象深い作品、人間の生への「飢渇」が漲っている作品として絶讃していた。しかし、大岡昇平がこの作品について埴谷雄高に「ドストエフスキーのなかで一番優れているだろう。この意見にはシンパがいるんだ。数学者の遠山啓だよ。遠山啓は、『死の家の記録』のあとの作品を認めないんだ。」と言うのに、埴谷雄高が持論を主張せず、「トルストイもそうだよ。ドストエフスキーでいちばんいいのは『死の家の記録』だと彼はいっている。」と応じているのは、埴谷雄高という人は温厚(芯はきわめて強いと思うが)な人なのだなぁ(もしかして年のせい?)。それでも、「…おれは『野火』に「たとひわれ死のかげの谷を歩むとも」というエピグラフをつけたけど、これは中村真一郎に対する挑戦なんだ。死の影とかなんとかいってるけれども、軽井沢にいてなにが死の影だ。こっちは兵隊で本当に生死の境を潜って来たんだぞって言う気持ちがあったからね。」との大岡発言に対しては、「いやあ、きみは本当に闘争力が旺盛だな。独歩に対しても闘争心、中村に対しても闘争心、そのうちに埴谷に対しても闘争して、死者たちについて何か書くんじゃないか。実際、感心だよ。」と述べた後、「ただ、その闘争心は他の人に向けてくれ、おれに向けないで(笑)。」とつづけているのは、一本釘をさしているようで可笑しい。

大岡昇平は1928年(昭和3年)に小林秀雄と知り合い、そのすぐ後に中原中也をその小林に紹介されて知り合っているのだが、こうして大岡昇平の旺盛な「闘争心」云々の話をきいていると、表題にわざわざ「昇平に」という言葉を付している中原中也の『玩具の賦』という詩が思い浮かぶ。1934年(昭和9年)、この詩が発表された時期の中原中也との関係について大岡昇平は、「…例によって喧嘩もしたし、「玩具の賦、昇平に」なんて体裁の悪い詩を書かれたりしたのだが、彼の談話はまた生気を取り戻したようで、私の方では昔ながらの彼の豊かな映像と素早い判断に感嘆していたのである。」(『中原中也』講談社文庫1989年)、「おまえも俺に喧嘩を吹っかけて、俺が評論などでちょっと頭を出かけると「昇平に」(「玩具の賦」)という詩を書いたり、それを「文学界」に持ち込んだりした。おまえの方にも嫉妬がある。まあ俺に対する軽蔑を伴ってるが。俺がひょっと頭を出かけるとおまえは出て来て、あいつは駄目な男だと言う。そういうことはあったので、まあお互いさまだと思ってくれ。」(同上「著者から読者へ」)などと述べているが、後者は死去の8日前に入院中の病院で口述したものだということである。)せっかくだから、またおもしろい詩なので、大岡昇平が編集し解説も書いている「中原中也全集 2」(角川書店1967年)からこれを引用し掲載しておきたい。


  玩具の賦
             昇平に
どうともなれだ
俺には何がどうでも構はない
どうせスキだらけぢやないか
スキの方を減(へら)さうなんてチャンチャラ可笑(をか)しい
俺はスキの方なぞ減らさうとは思はぬ
スキでない所をいつそ放りつぱなしにしてゐる
それで何がわるからう
俺にはおもちやが要るんだ
おもちやで遊ばなくちやならないんだ
利権と幸福とは大体は混(まざ)る
だが究極では混(まざ)りはしない
俺は混(まざ)らないとこばつかり感じてゐなけあならなくなつてるんだ
月給が(ふ)えるからといつておもちやが投げ出したくはないんだ
俺にはおもちやがよく分つてるんだ
おもちやのつまらないとこも
おもちやがつまらなくもそれを弄(もてあそ)べることはつまらなくはないことも
俺にはおもちやが投げ出せないんだ
こつそり弄べもしないんだ
つまり餘技ではないんだ
おれはおもちやで遊ぶぞ
おまへは月給で遊び給へだ
おもちやで俺が遊んでゐる時
あのおもちやは俺の月給の何分の一の値段だなぞと云ふはよいが
それでおれがおもちやで遊ぶことの値段まで決まつたつもりでゐるのは
滑稽(こつけい)だぞ
俺はおもちやで遊ぶぞ
一生懸命おもちやで遊ぶぞ
贅沢(ぜいたく)なぞとは云ひめさるなよ
おれ程おまへもおもちやが見えたら
おまへもおもちやで遊ぶに決つてゐるのだから
文句なぞを云ふなよ
それどころか
おまへはおもちやを知つてないから
おもちやでないことも分りはしない
おもちやでないことをただそらんじて
それで月給の種なんぞにしてやがるんだ
それゆゑもしも此(こ)の俺がおもちやも買へなくなった時には
寫字器械奴(め)!
云はずと知れたこと乍(なが)ら
おまへが月給を取ることが贅沢だと云つてやるぞ
行つたり来たりしか出来ないくせに
行つても行つてもまだ行かうおもちや遊びに
何とか云へるものはないぞ
おもちやが面白くもないくせに
おもちやを商ふことしか出来ないくせに
おもちやを面白い心があるから成立つてゐるくせに
おもちやで遊んでゐらあとは何事だ
おもちやで遊べることだけが美徳であるぞ
おもちやで遊べたら遊んでみてくれ
おまえに遊べる筈はないのだ

おまへにはおもちやがどんなに見えるか
おもちやとしか見えないだらう
俺にはあのおもちやこのおもちやと、おもちやおもちやで面白いんぞ
おれはおもちや以外のことは考へてみたこともないぞ
おれはおもちやが面白かつたんだ
しかしそれかと云つておまへにはおもちや以外の何か面白いことといふのがあるのか
ありそうな顔はしとらんぞ
あると思ふのはそれや間違ひだ
北叟笑(にやあッ)とするのと面白いのとは違ふんぞ

ではおもちやを面白くしてくれなんぞと云ふんだろう
面白くなれあ儲かるんだといふんでな
では、ああ、それでは
やつぱり面白くはならない寫字器械奴(め)!
――こんどは此のおもちやの此處(ここ)ンところをかう改良(なほ)して来い!
トツトといつて云つたやうにして来い! 」(1934.2) 

この詩について、大岡昇平がどこかに、「全然覚えてはいないが、多分中原の部屋を訪ねて行った時に、(自分が)珍しいおもちゃがあるなぁとか何とか挨拶代わりに言ったのではないか」というようなことを書いているのを読んだことがある。それにしても、詩といえども「おまへにはおもちや以外の何か面白いことといふのがあるのか/ありそうな顔はしとらんぞ」以下の舌鋒は鋭い。鋭すぎる。

大岡昇平が戦後中原中也の詩集や全集の刊行に注いだ力と情熱は傍目にもたいしたものだったようだが(ただ会ったこともない富永太郎の詩の編纂に対しても同様だったようである。この場合の情熱も、その詩に最初に触れた時に覚えた感動が原因だったことは大岡昇平本人の文章や談話からして確かだと思われる。)、これは友人だったこともさることながら、召集される前、いよいよ死の覚悟も必要とされると思っていた頃、ふと中原中也の詩集を開けて読んでみたところ、「彼の残した詩句が不思議に心に染みるのを認めた」ことが真因だったようである。『俘虜記』には、フィリピンの前線で歩哨の際に、中原中也の『夕照』という詩に勝手な節をつけて歌っていたという文章があるし、前述の『中原中也』にも、「前線で立哨中、熱帯の夕焼を眺めながら「夕照」を勝手な節をつけて歌った」と記述されている。

丘々は、胸に手を当て
退けり。
落陽は、慈愛の色の
金のいろ。

ただ、この『夕照』について、「同時に昭和4年頃私がこの詩を褒めた時の、中原の意地悪そうな眼附を思い出した。「センチメンタルな奴」とその眼はいっていた。」(『中原中也』)とも記されているところに、二人の性格と関係性がほのみえるようでちょっと可笑しくもある。
2010.11.29 Mon l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
以前、東海林さだおの「逆上の露文入学」を引用掲載したことがあるが、私には得体の知れない奇人・変人としか映らない数学者の岡潔宅訪問の顛末を描いたこの文章もとてもおもしろい(友人である漫画家の園山俊二が死去したときの追悼の文章もとてもよかった。「天使」という言葉ほど園山俊二に似合う言葉はない、と訥々と記されていたが、読んでいると、筆者が心からそう思っているのが読む者にひしひしと伝わってくるような文章であった。それから、漫画家として売り出す前に家で一生懸命描いた漫画を持参してあちこちの雑誌社を回って歩く、本人いわく「漫画行商」をしていた時期のことを書いた文章も忘れられない。)。

この「岡潔センセイと議論する」も、岡潔の奇妙さと一見気弱・従順のショージ君の組み合わせがおもしろくて、昔何度も読んだのだが、ただ、今回久しぶりに読んでみて、何か隔世の感があるような気にはなった。時代は変わった…、と思ったのだが、これは何も「グループサウンズ」とか「日活のアクションスター」なんてなつかしの言葉が出てくるという理由だけではないような気がする。岡潔も今どきの言い方でいうと「トンデモ」ということになると思うが、少し違うように感じるのは、岡には今ではもうあまり見ることがなくなった何か(たとえば、右顧左眄しない一徹さとか)があるように感じるからだろうか。

さてタイトルは、上述したように「岡潔センセイと議論する」。いかにも勇ましい感じだが、スタイルは、ショージ君が奈良の岡宅におじゃまして岡の話をひたすらかしこまって聞くというもの。数学者の岡潔といわれても、私は数学、チンプンカンプン、岡潔個人についても昔雑誌の対談を一、二度読んだくらいで、しかもその印象はまったくよくなかった記憶があるのだが、この訪問記はそんなことに関係なく、大変おもしろい。私などには見えなかった岡潔の一面を東海林さんは的確に捉えたのだろう。

記事の執筆時期については、正確な日付は分からないのだが、多分1960年代の終りから1970年代の初め頃ではないかと思われる。当時東海林さだおは文春で『にっぽん拝見』という連載記事をもっていたらしい。釣りや競馬や商店街やストリップ劇場などいろんな場所を探索して歩いて記事にするという、雑誌でよくある企画ものだったようだが、ある日、担当の編集者から、「こんどは、オカキヨシさんに会ってみませんか」と言われた。「オカキヨシ……ハテ聞いたことあるぞ、グループサウンズの一員だったかな、いや待てよ、日活のアクションスターかな」と思いあぐねるうち、数学の岡潔だといわれて、ショージ君は、オビエてしまった。ショージ君も数学が苦手だったのである。

「 ボクは数学と聞いただけで、数々のいまわしい思い出が、頭をよぎるのである。
 解析Ⅰ、解析Ⅱ、幾何、ああ思い出してもセンリツが背中を走る。
 数学の授業が始まって終るまでの、あの重苦しい、長い長い灰色の時間よ。
 試験の答案をもらうとき、女生徒に見られぬように、パッと引ったくり、すばやく折りたたみ、卑屈な笑い浮かべて、教壇から自分の机に戻る足どりの重さよ。
 考えてみれば、ボクは、あのころから女のコにモテなかったなァ、と思い出は、よくない方へ、よくない方へと拡がるばかり。
 岡先生は、こともあろうにその数学の先生なのである。
 考えれば考えるほど身がすくむ。
 編集部の人の話によると、今回は、数学の話ではないという。
 岡先生の近況は、数学から離れ、荒廃する日本の行く末を案じて自宅に道場を建てられ、念仏三昧の毎日を送っておられるという。
 今回は、岡先生が、どんなふうに日本の行く末を案じておられるのか、また、次代のにない手である若者をどうお考えになっておられるのか、そこのところを、ボクが、若者の代表としてうけたまわってくるという趣向だという。
 それではということで、早速、編集の人と二人で岡先生の住む奈良へ電話をかける。
「もしもし、こちら文芸春秋の浸画讀本の者ですが、今回、『にっぼん拝見』という企画で、東海林という浸画家が、ぜひ先生にお目にかかって、お話うかがわせていただきたいわけなのですが」
「なに?漫画家が?わたしに?……なぜ漫画家がわたしに会う必要があるのです。漫画家はふざけて書くから会いません。会いたくありません」
「そこを、ぜひなんとか……」
「日本はいま、どういう時だと思いますか?」
「……」日本は、どういう時かと聞かれ、一瞬ちんもく。チト待てよ、たとえば安保の……
「では、さようなら」
ガチャン。
いったい、なにがどうなったのか、ボクは呆然と受話器を見つめるばかり。
だが現代のマスコミというものは、こんなことぐらいで、ひるむものではないのである。とにかく奈良まで行きましよう、行けば行ったでなんとかなりますよ、ということになってしまうのである。」(東海林さだお「岡潔センセイと議論する」)

こうしてショージ君は編集者共々奈良に向かったのだが、出発前に岡潔の本を「片はしから買い求め、読みふけった」そうである。そして、何か共通の話題はないものかと考えると、「数学は、インスピレーションによって新しい発見をすることが多いというが、じつをいうと、恐る恐るいうのであるが、漫画のいわゆるアイデアといわれるものも、このインスピレーションの一種によってできあがるものなのである。であるから漫画家は、毎日が、インスピレーションの連続なのである。」と考えたショージ君は、ようやく岡先生との細い一筋の共通点を見出した気分になることができ、ある日、編集者とともに奈良の岡宅に向かった。以下、本文より引用する。

「 朝早く起きて斎戒沐浴、ふだんは磨いたことのない歯も磨き、靴も磨き、ネクタイもキチンとしめて岡先生のお宅に向かう。
だが先生は、はたして会ってくださるだろうか。電話で「では、さようなら」と断わられているのである。それなのに、厚顔にも、こうして奈良までノコノコやって来てしまったのである。もし断わられたらどうしよう。(略)

一月の奈良は、氷るように寒い。
奈良の山を背負った田ンボの中に、岡先生の新居が見えてきた。
文化勲章受賞当時、六畳二間の文化勲章」と騒がれた家を引きはらって、二年ほど前に建てられた白壁の大きな家である。敷地も二百坪はあると思われる。
このへん、坪いくらぐらいするだろうと、俗塵にまみれた漫画家は考える。
ともすれば、ひるむ心にムチ打ち、玄関のベルを押す。
たぶん、お嬢さんと思われる人が出て来て用件を聞き、「しばらくお待ちください」といって引っ込む。
 家の中で協議が行なわれているのであろう。緊張の十分。
そして、「お会いするそうです。お上がりください」といわれたときは、うれしさと、緊張のあまり足がもつれ、よろめくように座敷にころげこんだ。
(略)
 浸画家といっても、漫画界では一流の、人品いやしからぬ紳士が、ゆったり現われると思いきや、ヘンなアンチャンみたいのが、赤い背広着てドタドタところげこんできたのであるから、先生としても、さぞビックリされたことと思う。
 だが先生は、優しい瞳をして、静かにすわっておられた。
 蓬髪、痩躯、鶴のように痩せた、という表現そのままに、先生はキチンと正座されている。ボクも座ぶとんの上にキチンと正座する。
「わたしとしては、漫画家には会いたくないが、東京からわざわざおいでになられたのであるから、わたしの最近の心境のようなものでしたらお話ししましょう」
 といわれる。
 早速、メモ帳出してキッとかまえたが、ボクはここ数年、正座というものをしたことがない。一分とたたないうちに、足がしびれてくる。足もしびれるが、ボクのズボンは安物なので、ヒザが抜けてしまわないか、それも心配である。シワだって寄る。
 先生のお話は、まず日本の防衛論から始まった。
 先生のお話は、急に飛躍したり、前後がつながらないことが多いが、これは、先生の頭脳が、通常人の約二万七千倍も速く回転するせいであると思われる。(この二万七千倍については後述する)
「エー日本は兵力の放棄をうたっておりますが、相手の国が(兵力を)放棄するかどうかを考えていません。(これでは)いったいどうなりますか」
「そして民族の団結心がない。国を愛していない。みんな自己主張ばかりしています。そしてみな、物質中心の考え方しかしない。こんな状態が続けば国は亡びます」
「あのォ安保条約に関して先生は……」
「今いうよ」
「ハハーッ」
「安保は存続させるべきです。日本のこんにちの繁栄は、安保があって(米軍に)守ってもらっているからこそ、こうなったのです。もしこれを放棄して、米国が日本から去れば、中共は必ず攻めてきます。これは自明です。今の日本人は、こんなことさえもわからないのです」
「ハハーッ」
「そして日本は、今や、亡国直前のユダヤと同じです。みんな、儲けることしか考えない。そして団結心がない。そして国を愛するという気持ちがない。日本は亡びます、十中八九亡びます」
「ハハーッ。亡びます……と」
 ここからお請は情緒の問題に急転換する。
 お話のあいだ中、ずっと体は左右に揺れ続け、ハイライトを口にくわえるが、火はつけない。つけないでまたテーブルに置く、またくわえるということをくり返す。
「情緒の元は、すべて頭頂葉にあります」
ボクの足のシビレは限界に来たが、先生は決して、「おたいらに」といってくださらない。やむなく、先生のスキをみて、ソロソロとヒザをくずしにかかる。
「最近の人間は頭頂葉を使わずに、前頭葉ばかり使っています。自然科学的なものの考えの元は前頭葉にあります。西洋人は前頭葉ばかり使ってきました。だから物質第一主義となったのです」
 この頭頂葉という言葉は、先生のお好きな言葉であるらしく、じつにヒンパンにお話の中に出てくる。
 そして「頭頂葉」といわれるたびに頭のテッペンをバシッとたたかれる。そのありさまは、ほんとにバシッという感じで、先生の腕時計が、そのたびに、カチャカチャと音を立てるほどなのである。
「日本人は、大型景気に浮かれ、借金をしてどんどん設備投資をしています。借金だから利子を払わなくてはいけません。ですからそのうち、大量倒産時代が必ずやってきます。そのとき日本人は団結心がないからたちまち亡びてしまいます。それもみな、情緒というものを忘れてしまったからです。それは、頭頂葉(バシッ、カチャカチャ)を使うことをしないからです」
 そうして先生は「国が亡びるのを座視するに忍びず」その対策を、本に書いたり、人にいったりしてきたのであるが誰もわかってくれない。
「日本人は情操を解するただ一つの秀れた国民です。もともと頭頂葉(パシッ、カチャカチャ)の発達した国民です。それがいつのまにか、こんなことになってしまった。情けないことです。日本はもうすぐ亡びます」
 話が佳境にはいり、熱してくると、体の揺れも激しくなり、「頭頂葉」の出てくる頻度も激しくなり、当然、頭をたたかれる回数も多くなる。バシッ、カチャカチャも多くなる。
 しかし、あんなに頭をたたかれては、頭頂葉のために、よくないのではないだろうか。あるいは、ああして頭頂葉を鍛えておられるのだろうか。
 お茶が出、コーヒーが出て、話はどんどん発展する。
「とにかく日本は、いま、亡国寸前です。亡びるのは自明ですから、それまであなたは漫画でも書いていなさい」
「ハイ。そうします」
 お茶を飲みすぎて、ボクの膀胱は、ついに満タンになってしまった。
「あのォ、おトイレは」
「だいたい今の人間は自然科学を重視しすぎます。自然科学で、人間はなにを知りえたでしょうか。たとえば、今私は坐っている。立とうと思う。そうするとすぐ立てる。これもまた不思議なことです。全身四百いくつの筋肉が統一的に働いたから立てたのです。なぜこんなことができるのか。目然科学はなにひとつ教えてくれません」
 膀胱をしっかり押さえつけ、シビレる足をなでつつお話を拝聴する。
「今、全学連が騒いでいますが、先生としては……」
「あんなことをしてもなんの役にも立ちません。すべて物質中心主義、自然科学過信がまねいた結果です」
「あのォ、宇宙開発が今盛んに……」
「いくら物質を科学しても、何も得られません。ムダなことです。宇宙を開発しても人間は幸福になりません。大切なのは心です」
「最近の女性は……」
「最近の女性は、あれはいったいなんですか。性欲まる出しにして尻ふりダンスなどしておる。まったく情操の世界から逸脱しておる。セックスは種の保存のために必要です。仏教では親が子を生むのではなく、子が親を選ぶのだといいます。ですから男女のまじわりは気高く行なわねばなりません」
 セックスについて語るのに「気高く」という表現が使われたのでボクは一瞬息をのむ。
「最近の若者の無知ぶりはひどい。わたしはせんだってある女子大生の知力をはかってみましたところ、わたしの二万七千分の一しかありませんでした。そして最近になって、もう一度はかってみましたら、さらに、そのときの三十分の一になっていました。これはじつに、合計百万分の一ということです」
(略)
「日本の最近の男女の乱れぶりは亡びる前のアテネに似ています」
先生はここで急に声をひそめ、
「日本の共産主義の若いものは、『歌って踊って恋をして』の方針でやっているらしい。わたしが最近、親しい僧侶から聞いた話では、男たちが、若い女性を輪姦して、それで女が喜びを知って共産主義に走るということをしているらしい。これは、私が相当の地位にある僧侶から聞いた語だから、ウソではないでしょう」
 ボクは岡先生の口から輪姦という言葉がとび出してきたのでびっくりしてしまった。そして、老いたる高名な僧侶と先生が、ヒソヒソと輪姦の話をなさっている場面を、思わず想像してしまったのである。
「それにしても」と先生は続ける。「こんなことをして、ほんとうに日本はどうなるのでしょう。まちがいなく亡国寸前の姿です。日本はまもなく亡びます。十中八九亡びます」と、おいとまを告げて玄関に出たわれわれに、さらに先生はこう続けられたのである。
 玄関で靴をはく間もボクの心は深い憂いに沈んでいた。どうやら日本はまもなく滅びるらしいのである。本当に日本はどうなるのだろうか。この非常のときに、漫画など書いてていいのだろうか。不安が次第につのり、胸がいっぱいになり、ぼくはヨロメくように玄関から退出したのである。(略)」(同上)


以上、(『ショージ君のにっぽん拝見』文春文庫1976年)より引用したが、「日本は、いま、亡国寸前です。亡びるのは自明ですから、それまであなたは漫画でも書いていなさい」と岡に言われて、ショージ君が当然のように「ハイ。そうします」と応じるところがおかしい。この文庫の解説は野坂昭如が書いていて、この「岡潔センセイと議論する」をたいそう誉めている。「……岡潔へのインタビュー、というよりその形をかりて、老先生を肴にした文章/名にしおう狷介孤高偏屈独断の人物を相手に、その周辺をとびはねているだけの如くみえて、余人の誰もえがき出せなかった岡の人物像を、見事、浮び上らせたのだ。」。野坂昭如のこの解説もドンピシャの名評のように思える。
2010.10.14 Thu l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
こちらの記事を読んでくださった方から、次のコメントをいただいた。コメント欄に返信を書きかけたが、長くなりそうだったので、本文で書くことにした。コメントの全文は以下のとおりであった。

「漱石がロンドン大学の授業について行けなかった」というのは、佐藤氏がどういう意味で言ったのか分かりませんが、当たらずといえども遠からずでしょう。当時の英国では漱石が目指していたような「英文学の研究」はまだ行われていなかった。ジェイン・オースティンやメレディスなんぞはわざわざ研究する値打ちがあるものとはみなされていなかった。授業は中世英語などでしょう。これは現代(ヴィクトリア朝を含めて)の英語から見れば全くの外国語で、予備知識が無ければチンプンカンプンのはず。「授業について行けなかった」から漱石がだめだったということではないのです。」

このコメントを幾つかに区切った上で返信コメンを書くつもりだが、簡潔な書き方が苦手なほうなので話が要領をえなくなるのが心配だが、その点ご容を。コメントの最後のほうから答えていきたい。

① >「授業について行けなかった」から漱石がだめだったということではないのです。

については、まったく同感です。漱石がもしロンドン大学の授業について行けなかったとしたら、漱石のような優秀な人でも母国語を使えない本場で授業を受ければ初めはそんなこともあるのね、とか、どこに問題があったのだろう、と思うだけで、「漱石がだめだったから授業について行けなかった」などと思うことはありません。

② >授業は中世英語などでしょう。これは現代(ヴィクトリア朝を含めて)の英語から見れば全くの外国語で、予備知識が無ければチンプンカンプンのはず。

私は外国留学の経験がないのでよく分からないのですが、あなたがおっしゃっている「中世の英語」云々の意味は、当時、ロンドン大学の授業が一貫して中世英語で行われていたということですか? もしそのような趣旨ならば、そんなことはなかったかと思いますが…。それでしたら、英語を母国語としている英国の学生にも「チンプンカンプン」になるのではないですか? 中世の文学をテキストとした授業の場合は、もちろん中世英語が出てくるのは当然ですが、それならば大抵の人にとって新規なことのはずで、日本人である漱石だけではなく、英国の他の学生にとっても同じ条件のはずですから、漱石が「授業についていけなかった」という話とは質がちがうことですね。シェイクスピアは中世の人とはいえないでしょうが、それに近いですね。漱石の蔵書にはシェイクスピア全集が7揃いもあったと言います。学生時代からよく読み込んではいたようですよ。

一番肝心なのは、本人が「授業を受けるのを止めたこと」についてどう言っているかだと思いますが、通学を中止した理由について漱石は知人に、次のような手紙を書いています。(2通ともロンドン到着後およそ3、4ケ月後)

「僕は書物を買うより外にはこの地において楽(たのしみ)なしだ。僕の下宿などと来たら凰が通る暖炉が少し破損している憐れ憫然(びんぜん)なものだね。こういう所に辛防しないと本などは一冊も買えないからな-。(略)大学もこの正月から御免蒙った。往復の時間と待合せの時間と教師のいう事と三つを合して考えて見ると行くのは愚だよ。それに月謝などを払うならなおなお愚だ。それで書物を買う方が好い。然もそのProf.がいけすかない奴と来たらなおなお愚だよ。君はよく6時間なんて出席するね。感心の至だ。僕のコーチ(引用者注:個人教授を依頼したシェイクスピア研究者のクレーグ博士)も頗る愚だが少しは取る処ありで、これだけはよさずに通学している。」(藤代禎輔宛。1901年2月5日)

「 宿はそれで一段落が付た。それから学校の方を話そう。University Collegeへ行って英文学の講義を聞たが第一時の配合が悪い。むやみに待たせられる恐がある。講義その物は多少面白い節もあるが日本の大学の講義とさして変った事もない。汽車へ乗って時間を損して聴に行くよりもその費用で本を買って読む方が早道だという気になる。尤も普通の学生になって交際もしたり図書館へも這入たり討論会へも傍聴に出たり教師の家へも遊びに行たりしたら少しは利益があろう。しかし高い月謝を払わねばならぬ。入らぬ会費を徴収されねばならぬ。それのみならずそんな事をしていれば二年間は烟のように立ってしまう。時間の浪費が恐いからして大学の方は傍聴生として二月ばかり出席してその後やめてしまった。同時にProf. Kerの周旋で大学へ通学すると同時にGraigという人の家へ教わりに行く。この人は英詩及シエクスビヤーの方では専門家で、(略)余り西洋人と縁が絶ても困るからこの先生の所へは逗留中は行くつもりだ。」(狩野亨吉・大塚保治・菅虎雄・山川信次郎宛。1901年2月9日)

漱石という人は、自分ができもしないことを虚栄心のためにさもできるかのように話したり、ごまかしや嘘で自他を欺いたりすることを「愚」なこととして最も嫌う人のように思います。「私の個人主義」のなかに「世界に共通な正直という徳義」なんて言葉も使っているくらいです(笑)。漱石の美点はそういうところにもあり、上で引用した書簡には何の誇張も偽りもないと思いますよ。漱石の英語が卓抜であったことは日本在住の英国人の間でも有名だったらしく、五高で漱石に英語を教わった野間真綱によれば、五高の外国人教師H・ファーデルは生徒に対して「君等は英語に熟するには外国へ行く必要はない、日本丈けで充分熟達することが出来る。その証拠は夏目教授だ」と語ったという(『英語教師 夏目漱石』川島幸希(新潮選書2000年))し、英国留学に向かう船中でも英国婦人から同じような賞賛を受け、漱石自身日記に、「誰にも我英語巧ミナリトテ賞賛セラル赤面ノ至ナリ」と書いています。自分では決してそうは思っていなかったからこその「赤面」だったのでしょうが、そういう漱石のことですから、もしロンドン大学の授業内容が自分にとって重荷だったのなら、正直にそのように書き、日本での教育のどこに問題があったのかについても率直に記すだろうと思います。

後一つ、二つ、証言(?)を。これは以前にも書いたことですが、文学論の序から、漱石自身の言葉を。

「大学の聴講は三四ケ月にして已めたり。予期の興味も智識をも得る能はざりしが為めなり。私宅教師の方へは約一年間通ひたりと記憶す。」

もう一つ。下記の『漱石研究』はこちらのブログ(http://soseki.intlcafe.info/kenkyuu/index07.html)の引用ですが、ブログ主の方の試訳だそうです。該当部分を一部引用させていただきますと…。執筆者は ビョンチャン・ユー。ウェイン州立大学で英文学を講じておられるそうで、翻訳者の方の説明によると、「 漱石の著書の翻訳の他、ラフカディオ・ハーン研究書『神々の猿』などの優れた研究書もある。」とのことですが、この方はロンドンにおける漱石について次のように述べています。

「 …当時漱石は、後に発病した慢性胃潰瘍とともに死ぬまで彼についてまわることになる神経衰弱の最初の発作に悩まされていた。しかし、彼の神経が冒されたのは、人々が考えたように、厳しい現実に直面し、感受性豊かな心が耐えきれずに絶望状態に陥ったためではなかった。漱石は当時、個人的な危機に直面していた。つまり、彼の苦しみは、純粋な魂が魂自身と取り組もうとしていたことから来る苦しみだった。
 この個人的危機は漱石が松山、ついで熊本へと引っ越した頃から兆しはあった。ロンドンでそれが最終的にやって来た時、そのショックは激しかった。英国到着後、漱石はケンブリッジでもオックスフォードでもなく、ロンドンを滞在先に選んだ。それは経済的な理由からだった。スコットランド、アイルランドといった地方も考えたが、英語を学ぶにはそれよりロンドンの方がよいのは明らかだった。漱石はロンドン大学の聴講生の登録をすませたが、まもなくその授業がまったく期待はずれのものであることがわかり、授業に出るのをやめた。その結果、大学で会うのは個別指導教官のクレイグ博士だけとなった。博士はシェイクスピア学者だったが、とくに知的な刺激を与えてくれる人物ではなかった。博士について指導を受けるかたわら、漱石は自分の専門分野についてできるかぎり多くの本を読もうと努めた。とくに、名前は知っているが読んだことのなかった、一般に定評のある本は片端から読んだ。しかし、一年たった後、そんなことをしても、大学卒業時に感じていた英文学に対する疑いは晴れないことがわかった。実際のところ、漱石がやっていたのは、問題と対決することではなく、むしろ、それからどんどん遠ざかることだった。だが、とうとうその問題と正面から対決する込む時が来た。その時、漱石の魂はまさに暗黒の夜を経験することになった。」

この文章のなかの「彼の苦しみは、純粋な魂が魂自身と取り組もうとしていたことから来る苦しみだった。」という一節ですが、これは「文学論」の序に見られる漱石自身の次の文章と対応しているのではないかと思います。

「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、全く此幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。/ 卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。/ 翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は之を充分味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。/ 大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会せり。/余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。 /余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。 /余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。 」(『文学論』序)

こういう漱石にとって、そもそも文学とは何か、人間にとってなぜ文学が必要とされるのか、という根本的な問題に自力で答をあたえること、これを解決することこそが最重要課題ではなかったかと思います。何しろ「卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。」という発言は只事ではないと思います。ですから、漱石には「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題」を解釈することが英国留学の当初からほとんど生死を賭けるほどの重大問題であって、

③ >当時の英国では漱石が目指していたような「英文学の研究」はまだ行われていなかった。ジェイン・オースティンやメレディスなんぞはわざわざ研究する値打ちがあるものとはみなされていなかった。

あなたが名前を出しているジェイン・オースティンやメレディスを漱石は確かに好きだったようですね。漱石の作品にメレディスの影響を指摘する人もいるようですし。ただ、漱石はオースティンにしろ、メレディスにしろ、誰か特定の個人を研究したかったわけではなかったのではないでしょうか。1年間必死に次々といろんな本を読破してみた後に、これではいけないと悟り、「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり」という生き生きとした発見の言葉をきくと分かると思うのですが、漱石は英文学そのものに違和感や疑念をもっていて、そこに彼の切実な悩みがあったのではないでしょうか。漱石は謙遜な人ですから、自分は英国で重大なものを掴んで帰国した、というような大見得は切りませんが、その後の漱石の滾々と湧きだし溢れるかのような創作力を見ると、また、「私の個人主義」で述べている、

「(文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設、一口でいうと、自己本位という四字をよう やく考えて、この自己本位という言葉を自分の手に握ってから)その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰欝な倫敦を眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。 (略) すなわち外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。 」

というような発言をみると、漱石には初めから漱石固有の問題の解決こそが最重要事であったように思います。最初のコメントに戻りますが、以上のことを総合的にみて、

④ >漱石がロンドン大学の授業について行けなかった」というのは、佐藤氏がどういう意味で言ったのか分かりませんが、当たらずといえども遠からずでしょう。

というあなたのご意見にはとうてい同意できません。「ロンドン大学の授業について行けなかった」にしても、「一部を見て、西欧社会全体が個の確立した人間で構成されているというふうに不当拡張してしまったのではないでしょうか」にしても、佐藤氏の話はだいたいいつもそうですが、出典・根拠が記されていません。言いっぱなしです。

ただ、漱石は英国到着直後、コックニーに大変悩まされで、人が何を言っているのか本当にわからなかったようです。友人にも愚痴のようなハガキを随分書いていますね。これについては、上述した「英語教師 夏目漱石」の著者・川島幸希氏(秀明中・高の校長だったという。一読の価値あり)も、初めてロンドンに行った時はコックニーをさっぱり聞き取れなかったそうで、相手が「一瞬何語を話しているのかと思ったほどであった。」と述べ、

「コックニーの洗礼をはなから受けた漱石が「日本の西洋人のいふ言が一通り位分つても此地では覚束ないものだよ」と自信を喪失したのもうなずける。/ ただ漱石自らが書き残しているように、日本語に方言があるのと同じで英語も地方によって異なり、さらには日本語以上に階級によっても違うのだから、渡英直後に聞き取りに不自由を感じてもそれほど挫折感を持つ必要はなかったはずである。にもかかわらず、漱石がコックニーにこだわったのはなぜか。それはコックニーが大英帝国の首都ロンドンで話されていた言葉だったからだと思う。」

と記しています。英語の話せる知人によると、サッカーのベッカムの言葉がコックニーでテレビなどで聞くとやはり聞き取りがたいそうですね。
2010.10.10 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
   

時々、夏目漱石はなぜ英文学を専攻したのだろう? という疑問というか、戸惑ったような声をきくことがある。もっともな疑問だと思われる。当ブログにも「なぜ英文学 漱石」という検索で訪れてくれた人がいるくらいなのだ。私にも本当のところはもちろん分からないのだが、「落第」という題の文章(漱石は大学予備門の2年の時だったか、腹膜炎を煩って試験が受けられず、落第の憂き目にあったのだ。)によると、漱石は、12、3歳で中学に入ったが、そこがおもしろくないので、2、3年で止めてしまい、二松学舎という学校に入ったそうである。どうやらここは漢学・漢文を教える学校だったようだが、その頃のことを漱石はこんなふうに書いている。

「元来僕は漢学が好(すき)で随分興味を有って漢籍は沢山読んだものである。今は英文学などをやって居るが、其頃は英語と来たら大嫌いで手に取るのも厭な様な気がした。兄が英語をやって居たから家では少し宛(ずつ)教えられたけれど、教える兄は癇癪持、教わる僕は大嫌いと来て居るから到底長く続く筈もなく、ナショナルの二位でお終いになって了ったが、考えて見ると漢籍許り読んでこの文明開化の世の中に漢学者になった処が仕方なし、別に之と云う目的があった訳でもなかったけれど、此儘で過ごすのは充(つま)らないと思う処から、兎に角大学へ入って何か勉強しようと決心した。」

あくまでも「落第」における言い分だが(漱石には自分のことについては何事も少し低めに言う癖があるように思えるので)、「何か勉強しようと決心した」漱石は、成立学舎という学校に一年間通ってそこで一生懸命英語を勉強したと、次のように述べている。

「入学して、殆んど一年許り一生懸命に英語を勉強した。ナショナルの二位しか読めないのが急に上の級へ入って、頭からスウヰントンの万国史などを読んだので、初めの中(うち)は少しも分らなかったが、其時は好(すき)な漢籍さえ一冊残らず売って了い夢中になって勉強したから、終(つい)にはだんだん分る様になって、其年(明治17年)の夏は運よく大学予備門へ入ることが出来た。」

これが英文学者・漱石の誕生につながっていくわけだが、ただ漱石は予備門時代の当初は建築家になろうと思っていたと書いている。その理由というのは、自分は変人である。元来変人だから、このままでは世の中に容れられない。しかし、職業を日常欠くべからざる必要な仕事をすれば、変人を改めることなく生きていくことができる。「此方が変人でも是非やって貰わなければならない仕事さえして居れば、自然と人が頭を下げて頼みに来るに違いない。そうすれば飯の喰外れはないから安心だと云うのが、建築科を択んだ一つの理由。」だそうである。それともう一つは、もともと漱石は美術的なことが好きだったので、実用と共に建築を美術的にしてみようと思ったのだそうである。ところがそうはならなかった。これはよく知られたことだが、米山保三郎と云う友人が漱石に文学の道に進むよう進言したのだ。この米山という若くして亡くなった人物を漱石は大変尊敬していて(「我輩は猫である」にも「天然居士」として描いている)、1909(明治42)年に米山保三郎に関してこんな俳句を書いているそうだ。「空間を研究する天然居士の肖像に題す 己酉 四月」)米山はおそらく漱石の文才の非凡を見抜いていたのだろう、下記のように言ったそうである。

「之は非常な秀才で哲学科に居たが、大分懇意にして居たので僕の建築科に居るのを見て切りに忠告して呉れた。僕は其頃ピラミッドでも建てる様な心算(つもり)で居たのであるが、米山は中々盛んなことを云うて、君は建築をやると云うが、今の日本の有様では君の思って居る様な美術的の建築をして後代に遺すなどと云うことは迚も不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝える可き大作も出来るじゃないか。」と米山はこう云うのである。」

こう云われて見ると漱石は、成程そうだと思われるので、又決心を為直して、

「僕は文学をやることに定めたのであるが、国文や漢文なら別に研究する必要もない様な気がしたから、其処で英文学を専攻することにした。」

のだそうである。うーん……。時代の趨勢、風潮の影響が大きかったと思うが、ただこういうきっかけで、しかも英語で後世にも残るような大文学を書こうとして英文学に進んだのでは、後に漱石が「卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。」と述べるようになったというのも無理はないような気もする。しかし、進路の選択というのはたいていそういうものかも知れない。もちろん例外はいくらもあるだろうが、将来が茫漠としたものに映ることの多い若い時のことなのだから、案外こういうちょっとした偶然の契機が作用する場合が多いのではないだろうか。

しかし、偶然による進路の選択と言えば、漫画家&エッセイストの東海林さだお氏の「露文受験」の右に出るものはあまりないのではないだろうか。これには漱石も真っ青、とても勝ち目はないと思う。


   

では、『逆上の露文入学』という題の文章を「ショージ君の青春記」(文春文庫1980年)から次に引用する。

「 長い長い一年だった。(引用者注:ショージくんは浪人したのである)
(略)
 多賀子の噂を、一度だけ風の便りに聞いた。
 暑い夏の陽盛りに、日傘をさして歩いていた、というただそれだけのものだった。
 それだけの報告でも、ぼくには生々しかった。
 暑い陽ざしの中の、日傘の下の多賀子の汗ばんだ顔が鮮やかに浮かんでくるのだった。
 二年目は、目標を早慶二枚に絞った。
 二校には絞ったが、学部はたくさん受けた。
 早稲田の政経(新聞)、法、教育、商、文学部、慶応の経、法、商、文学部の合計九学部を受けた。
 この九つの志望学部を見て、人は、いったいこの男は将来なにになろうとしているのか判断に苦しむと思う。
 新聞記者になろうとしているようにも思えるし、普通のサラリーマンになろうとしているようにも見える。教師になろうとしているようにも思えるし作家とも考えられる。
 この九つの志望学部から、「漫画家」という正解を引き出せる人はまずいまい。
 だが、この男の志望は、すでに漫画家ということでちゃんと決まっていたのである。
 要するに大学ならばどこでもよかったのである。
 それが証拠に、早稲田の文学部は、最初、「美術史」を受けるつもりだった。
 それが終局的には露文を受験することになってしまうのである。
 渡画家志望の人間が、なぜ露文などに入ってしまったのか。
 浸画とロシア語と、いったいどういう関係があるのか。
 もともとなんの関係もないのである。
 ただ入学願書受付の窓口が、「露文」と「美術史」と隣り合わせだった、ということがそもそもの発端なのである。
 漫画家志望の人間が、「美術史」を学ぼうとする心情は、ある程度理解できると思う。
 ぼくは受験票にも、ちゃんと「美術史」と書き、受験料二千五百円ナリを握りしめて、受付の行列に神妙に並んでいた。
 あと自分の番まで、二、三人目というところでふと隣りの行列を見た。
 これがいけなかった。
 隣りは露文である。
 ここで急に迷ってしまったのである。
 もともと、大学ならどこでもいい、と思っている人間である。
(入学してから女のコとつき合うとき、美術史よりも露文のほうがモテるのではなかろうか)
 そういう考えが、モクモクと胸中に湧きあがってきた。
 女のコと話をする場合でも、
 「たとえば写楽の浮世絵は……」
 などとしゃべるより、
「たとえばドストエフスキーの『罪と罰』の中の……」
 などとしゃべるほうが、ずっと格好がよいのではなかろうか。
 大学受験は、いわばその人の人生を決定する大事な問題である。
 なによりも、まず自分の将来、適性などを第一の基準にして決定しなければならないはずである。
 それなのにぼくは、「女のコとつき合うときのモテ具合」を第一の基準にして考えてしまったのである。
 ぼくの受付の番まであと二、三人である。
 決断の時間はあと二、三分しかない。
 人生の重大事を決定するための時間としては、二、三分という時間は決して充分な時間とはいえない。
 また、人生の重大事を決定するときは、いつもより冷静な頭脳と、明智な判断力が必要である。
 なのにぼくは、こういう状況に陥ると、いつも逆上するのをつねとしていた。
 むろん、このときも、例にたがわず逆上したのである。
 事柄の重大さに比例して、逆上の度合いもまた激しいものがあった。
 受付をやっていた人も、きっと驚いたに違いない。
 自分のところの行列に、それまで神妙に並んでいた男が、突如血相を変えて、隣りの列に移ってしまったのだから。
 ぼくはこの「逆上による決断」によって、つねに決断を下しつつ、今日までを生きしてきた。
 その決断がよかろうはずがない。
 よい結果を生むはずがないのである。
 この、人生の重大事を決定するときには、いつも逆上する、という習性は、今もって直らない。
 たとえば靴下一足買いに行っても、逆上なしでは靴下を購入することができないのである。
 ぼくの欲しいのは、たった一足の靴下である。
 なのにデパートでは、何百、何千という靴下が、ぼくを待ち受けているのである。
 元来靴下などというものは、気楽に買うものである。
 靴下一足の購入で、その人の人生が変わるわけでなし、あるいは一足の靴下のために生計に破綻綻をきたすというものでもない。
 むろんぼくも、気楽に靴下売場に赴くわけである。
 気楽に赴いたにもかかわらず、ぼくの目前には、何千の靴下が展開されているのである。
 最初茶色の無地の一足が目につく。
(靴下の件が延々と何ページも続くので、略)
 靴下一足でこれであるから、いわんや、背広などという大物を購入するときは、その一週間前ぐらいから、ナワトビ、ボデービルなどをして体を鍛え、座禅などもして、心の落ちつきをはかり、しかるのちにデパートへ赴く、というような、大がかりな準備が必要になるのである。
 さて。
 九学部の受験は九日間たて続けに行なわれた。
 そういうふうにスケジュールができていたのである。
 合格発表もまた、九日間たて続けに行なわれた。
 ぼくは毎日毎日発表を見に行った。
 毎日毎日ぼくは落ちていた。
 大学受験は、一つだけ落ちてもかなりガックリくるものであるが、それが八日間毎日毎日落ちているのである。
九日間を耐え抜いたその強靭な精神力をぼくは今にして思う。
 九日目にやっとぼくの受験番号が、掲示板の片隅に、ひっそりとひかえめに、つつましく出ていた。
 その番号は、刀折れ、矢尽きてポロポロになった兵士のように、痛々しく感じられた。
「合格した」という喜びより、
 これで助かった」という感じのほうが強かった。
 それからまた、
「なあんだ」というような感じもした。
「なあんだ、ちゃんと受かったじゃないか」
 ぽくは、大学へ入りさえすれば、ただちにバラ色の青春が展開するのだ、と思い込んでいた。
 そのことだけを思って浪人生活を耐え抜いたといってもよい。
「大学へ入りさえすれば」ただちに恋人ができ、ハイキングでランランということになり、スキーでランランということになり、ダンスパーティでランランということになり、とにかく、来る日も来る日もランララランランと口ずさまずにはいられない日々が到来するのだと堅く信じていた。
 だが、実際はランランの毎日ではなかった。
(略)
 ロシア語の授業は、まるでおもしろくなかった。
 もともと、女のコにモテるために入った露文であったから、勉強に身が入るはずがなかった。
 第一、露文科に入るとロシア語を勉強させられるということをまるで知らなかったのである。
 ロシア語だけが印刷された教科書を、ドッサリ買わされて呆然となった。
 表紙がロシア語であり、目次もまたロシア語であり、そのあとずーっとおしまいのページまで全部ロシア語であった。日本語は一字たりとも出てこなかった。
 ロシア語は、それまで一度も見たことがない不思議な文字である。
「これを一体どうしろというのだ」
 ぼくは怒りさえ感じた。
 これが書物である、とは到底考えられなかった。
 不思議な模様がビッシリ描き込まれた、紙で作られた玩具であるように思えた。
 むろんこれは玩具ではなく、この不思議な模様も、辞書とか文法書などをあやつって調べていくと、ちゃんと解読できるということであった。
 しかも一週間の授業のうちの半分以上が、この不思議な模様との対決に費されるのであった。
(こんなことをこれから四年聞、毎日毎日やっていかなくてはならないのか)
 ぼくは再び呆然となった。
 ぼくは憤慨さえした。
 露文は、どういうわけか左翼系の学生が多く、授業が始まる前には、いつもなにやらそういった内容の討論会みたいなものが開かれるのがつねだった。ぼくはいつも教室のうしろのほうでただ呆然としているより他はなかった。
 そして授業が始まると、ロシア語だらけの本を眺めて、また呆然としていた。
 入学してまもなくのメーデーに、露文専修一年も魁単位で参加した。
 これにもぼくはただ呆然とついていった。
 露文科に入って、ぼくは、ただただ毎日呆然としていたのである。
 赤いノポリやら横幕やらを押し立てて、構内を一周したあと、われわれは神宮外苑を目指して 出ていった。
 警官隊の一隊に遭遇すると、なぜか興奮し突っかかっていったりした。
 そして、神宮外苑に到着すると、記念掃影をして、流れ解散となった。
 今、その写真を取り出してみると、学生服に角帽が半分以上を占めているのである。
 今にして思えば、ノンビリしたデモであった。
 なにしろデモに行って記念撮影をしてくるのであるから、多少過激な運動を伴うハイキングのようなものだったのかもしれない。
 露文のクラスは総勢三十数名で女性が五人ばかりだったように思う。
 ここでもぼくは女性に恵まれなかったのである。
 級友たちは、いつも文学論やら、マルクスやらレーニンやら毛沢東やらを論じており、ぼくはただ呆然とそれを聞いているより他はなかった。
 ぼくは完全な異端者であった。
 当然、友人はできなかった。 」


以上で引用終わり。ショージ君は「友人はできなかった。」と書いているが、苦悩の大学生活一年間を過ごした後、「漫画研究会」なるものが学校に存在することを伝え聞き、そこに入って、園山俊二やしとうきねおや福地泡介など大勢の仲間を得ることができたのだ。東海林さだおのエッセイのうちベスト3に入るほど好きな文章なので、一部抜粋して載せてみた。漱石の文章とのつながりはそんなに(もしかして、全然?)なかったような気もするが、楽しんで読んでいただけるかも?
2010.09.29 Wed l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
もう7、8年前のことになるだろうか。友人のお母さんが亡くなって、その後しばらく経ってから、部屋や衣類などの片づけの手伝いに行ったことがあった。その際、本棚も整理したのだが、棚には武田泰淳の著書もあり、その名前が友人と私、二人のうちのどちらからか出たとき、そばにいた友人のお父さん(もう80をいくつも過ぎていた。この数年後には亡くなられた)が、すかさず「泰淳よりも、奥さんのほうが上手いんじゃないの。」とはっきりとした口調で仰った。もしかすると、「上手い」ではなく、「おもしろい」とか「いい(すぐれている)」という言い方だったかも知れない。お父さんは無口な方であり、突然のことでびっくりしたのだが、私も友人も「そうかも知れない」「そうですね」という返辞をしたように思う。武田泰淳は小説家であり、妻である百合子さんは小説は書いていないから、二人を比べるのはそもそも無理かも知れないし、友人のお父さんにしても何も夫の泰淳をけなしたり、ケチをつけるというような意図は全然なかったと思う。ただただ、武田百合子の文章がおもしろく、受けた感銘があまりにも深かった、印象が鮮烈であったことがこのような表現をとらせたのではないかと思う(余談ではあるが、このお父さんは晩年にいたっても岩波書店の『世界』の購読者であった。おそらく数十年来の読者だったかと思われる)。

このお父さんではないが、私にしても、今「随筆」といってすぐに思い浮かぶのは、内田百と並んで武田百合子の名であり、その文章である。それでは、前回につづき山小屋の暮らしをつづった文章を「富士日記」より引用して掲載する。

「 昭和43年 (1968年)
 3月25日(月) 雪一日中降る
 夜半に雨の音がしていたが、七時半、起きてみると、雪はうすく積ってまだ降りやまない。
 朝 ハヤシライス、スープ。
「今日はくもりのち雨となり‥ます。春の雨。菜種梅雨です」と、テレビはまた言っている。この辺で雪が降っていることなど知らないらしい。
 主人、スチームバスに入りたいと突然言う。二年位使わなかったスチームバスを倉庫から出し、花子と二人で組立てる。庭の方へ向けて食堂に置き、雪が降るのを見ながら主人入る。そのあと顔を剃る。私、花子も雪を見ながら、入る。
 主人、スチームバスが気持よかったらしく「大岡がこれをみたら入りたがるにきまってるからな。折りたたみだから貸してやってもいいな」。大岡さんは入りたがらないかもしれないのに、そんなことをいっている。
 昼 ふかしパン、キャベツ酢漬、ベーコンスープ、紅茶。
 昼食は花子が作る。雪となったので、キャベツの芯まで薄く切って、丁寧に使う。

 6月1日(土) くもり 
 二時ごろ、大岡さんへ行く。晩にビールにお誘いする。コッカースパニエルの六カ月の子供がきている。私に喜んでとびつく。よその人が大好きな犬なのだそうである。
 昼寝をする。
 六時、大岡夫妻と犬がみえる。奥様、ワラビのおひたしを作って持ってきて下さる。
 夜 ビール、黒ビール、春巻、シュウマイ、ビーフシチュー、のりおむすぴ。
 犬の名は、本名をアンドレ、愛称はデデちゃんという。この犬はおむすびが大好物らしく、とび上って食べてしまう。主人が厚い木綿の兵隊靴下をはいて脚を組んでいると、デデは高くなった方の足の先を、首をのばしては噛んで喜んでいる。主人が足を揺らすと余計喜んで足の先をしこしこ噛む。大岡さんは、はじめのうち黙っていたが、我慢ができなくなったらしく「デデ!! それは汚ねえんだぞ」と、デデに注意した。
 ワラビの作り方(大岡夫人に教わる)

 6月3日(月) くもり 
 夜六時、二人、大岡家へおよばれ。
○ビール
○湯葉の煮たのの上に山椒の葉一枚のせたもの
○ワラビの酢のもの
○山ウドと椎茸の甘煮
○かに、にんじん、椎茸の卵とじ
○かにコロッケとトマト
 大岡家の御馳走(ビール以外は、全部大岡夫人が作ったのだ)とてもおいしい。
 デデは一昨日、うちでおむすびを食べすぎたらしい。今日はあまりもらえない。テーブルの下で私の足を噛んでいる。大岡さんに判らないように噛ませる。
 大岡家のかにコロッケの中味のこと
○ホワイトソースの中にゆで卵を入れると、固まり易くていい(奥様の話)。

 8月22日(木) 晴れ
 大岡さんの新しい車の窓硝子は、走ってきて曲がってゆくとき、光線の加減で紫と青の間のような色に見える。正午近く、私が管理所から帰ってくると、大岡さんの車が坂の上バス停の方から疾走してきて大岡家への曲り角を右折していった。デデと大岡さんは乗っていない。大岡夫人はサングラスをかけて藍色の和服で運転。大岡夫人の顔色が硝子の加減か蒼白く着物が青くて、その美しいこと優雅なこと。大輪の青い朝顔のようだ!! 私は道ばたの石に腰かけて見送った。感動したときには体操をして現わすことにしているから、車のうしろに向って「万歳」を三唱した。陽盛りの野原には、われもこう、おみなえし、ききょう、キスゲが咲き乱れて、蝶が死にもの狂いで舞っている。

 テレビで。教養番組「中国の知識人」をみる。「佐々木〔基一さん〕は眼つきがいいなあ」と主人、つくづくと言う。
 テレビは、チェコの放送を、今日も続けてやった。
  夜、星なし。風が涼しすぎて素足では寒い。カーテンにスイッチョがとまって、あちこちで啼く。蚊は風呂場に集ってしまった。
 九時近く、しとしとと雨降りだし、夜遅く、大雨。


 昭和44年 (1969年)
 4月8日(火) くもりのち風雨強くなる
 今日は花祭りである。NHK教育テレビ后八時より「仏陀の思想」がある。それに主人は出ているので、一寸みてから寝るといっていたが、眠くなってきて7時にねた。代わりに私がみていた。
 テレビのニュースで。連続射殺魔少年の下宿を調べるとメモが出てきた。それは金銭に対する異常な執着を示していた、といってテレビは騒いでいる。「貧乏だったんだ、いいじゃないか。お金に執着のあるメモがみつかったって。そういうお前は金が好きじゃないのか」――解説者があまりにもしたり顔に報告するから、テレビに向かって私は声を出して言ってやる。
 台所の引出しに「オレンジジュースの素」があった。お湯で薄めて飲んだら気持がわるくなった。三年位前のお中元のだから腐っていたのかしら。

 7月11日(金)
 朝 ごはん、鮭のフライ、キャベツとにんじん酢抽漬、豆腐とわかめ味檜汁。
 昼 お好み焼(桜海老、ひき肉、青のり、ねぎ、きりいか)、かぼちゃと茄子の妙め煮、スープ。
 夜 ごはん、炒り豆腐、きゅうりのあんかけ、のり、うに。
 食堂の硝子拭き。夕焼でも虹でも花畑の花でもごはんを食べながらみられる西側の二枚の硝子戸は、ことさら念入りに磨く。主人はテラスで風に吹かれている。
「帝銀事件の平沢画伯が描いた絵で、日本髪結っためくらの女の人が鏡に向っている絵見たことある? 『心眼』て題がついてるの。ずい分昔に一回しかみたことないけど忘れられないよ。あれ? この話、あたし前にもしたっけね。どういうわけか、硝子磨いたり鏡磨いたりするとき必ず思い出す。誰もいなければ一人で思い出しているだけだけど、そばに、とうちゃんがいるとついしゃべっちゃう」「もう何度もきいたぜ。しかし、まあ、しゃべりたきゃ、しゃべったってかまわんがね」
 それで、また、この話をながくながくしゃべってしまった。

 8月1日(金) 晴
 十時半、山に戻る。先に大岡家へ寄り、鱒ずしと赤坂もち、その他野菜を届ける。デデが帰ってきていた。

 8月2日(土) 晴のち曇
 主人、朝から下痢。仕事部屋でふとんをかぶってねている。便所にたっては、またねる。

 8月3日(日) 快晴、俄か雨あり
 主人の下痢はすっかり治った。朝からオムレツが食べたいと言う。

 8月4日(月) 俄か雨ののち陽がさす
 朝から「朝ごはんのあと大岡のところへ犬を見に行くぞ」と、主人急かす。あまり早く伺ってはわるいので、ゆっくり後かたづけをして、十時過ぎに出かける。
 大岡さんは、一昨日の午後から胃が痛くて、下痢をして熱が7度3分あるとおっしゃる。主人は「俺のはもう治った。俺のは東京に二日いる間、ビールを飲み続けてクーラーにあたっていたから冷えたのだ」と、いやに元気よく主張する。「女房は下痢しないで俺だけした」と言うと、大岡さんも、「女房は下痢しないで俺だけだ」とおっしゃる。(私は鱒ずしのせいかなと思ったが黙っていわないでいた)。大岡さんは下の町でクロマイシンを買ってきた。大岡さんは、「クロマイシンはほかの菌まで殺してしまうから、あまり沢山のんではいけないんだ」と、のみながら教えて下さる。「吉田の医者を紹介してもらうから、お前のところもそこに行け。病気の時に急に行って頼んでも具合がわるいから、まず前に俺が一回行って顔つなぎをしておくから」と言って下さる。「そうすれば、往診もしてくれるぞ」「うちはワカマツをのんで、いつも治してしまうよ」と主人は言っている。
 記念品にもらったガスライターのガスを大岡夫人に入れて頂く。大岡夫人は、小さいねじまわしを出してきて、眼鏡をかけて、すぐうまく入れて下さる。私はその入れ方を見ている。「夫婦ともライターが判らないのか」と大岡さんは呆れる。「夫婦ともライターがいじれるのか」と武田は感心する。「私は自動車きり、それも自分の自動車きりしかよく出来ない」と、私は言う。
 大岡さんは、吉田で買ってきたリズムアンドブルースのレコードをかけて、リズムアンドブルースについて教えて下さる。武田が、ふうん、と言っているだけなので、「武田はテーマミュージックしか判らねえんだな。武田向きのやつをかけてやろう。『その男ゾルバ』というの知ってるか」。リズムアンドブルースを中途でやめて、ちがうのをかけて下さる。「白い恋人たち」というのも一枚かけて説明。私は「白い恋人たち」は知っていた。そのあと、大岡さんはもう一度「その男ゾルバ」のところだけかかるように狙って針をおとす。ちゃんとぴったり、うまくかかる。奥様はおかしそうに首をかしげて佇っている。十一時ごろ、おいとまする。
 昼 ホットケーキ、紅茶、かにときゅうり三杯酢。
 陽があたりはじめる。洗濯ものを出し、主人はテラスで日光浴をはじめると、パラパラと雨が降りだす。それの繰り返し。「大岡のように忙しい天気だなあ」と、主人言う。そして、「大岡の下痢、本当は鱒ずしのせいかもしれないぞ。鱒ずしだと思っていると困るから、俺のはビールとクーラーだぞと何度も言ったんだ」と言った。
 夜 ごはん(桜めし)、しらす、大根おろし、金山寺味噌、いんげんピーナツ和え、みょうがと卵の吸物、夏みかんゼリー。

 テレビで。
 富士山有料道路一合目の上で、埼玉の畳屋さんの乗用車と静岡の枕製造業のマイクロバスが衝突、双方に重軽傷者を出した。乗用車のスピード出しすぎと、見通しのきかないカーブのため。
 昨日、大学法が強行採決されたので、今日は学生のデモ、文部省の前あたりに機動隊が出て、六十人逮捕された。まだ夜間デモ、集会が続いている。


 昭和45年 (1970年)
 7月20日(月) 晴、風なし
 夕食後、ぽんやりと外を見ていると、大岡夫妻がみえる。桃一箱と神戸牛の粕漬を頂く。
 大岡さんの小説の中の文章が紅葉台の「Y」ドライブインの前に看板になって出ている。承諾をとりにこないで勝手にしている。そのことと、看板はやめてもらいたいので、出版社から話をつけにいったら、桃二箱と山菜の味噌漬のようなものをごちゃごちゃと持って謝まりにきた。秋まででやめてもらうことになった、という話。この桃はその一箱。
 デデは一週間経ったら山へ来るそうだ。
 大岡さんと奥様は、きじ料理屋に入ってみたそうだ。千二百円できじ鍋というのを食べた。肉は数えるほどしか入っていない。でも、まあまあ食べられる味だった。奥の部屋では土地の文化グループらしい人たちが、短歌か何かの会をやっていた。「あの人、才能あるじゃんか」と大きな声でにぎやかにやっていたそうである。
 大岡さんは、今年、現在は、フォーリーブスの大ファンで、テレビは欠かさず見、レコードも買い、ゴシップも沢山知っている。フォーリーブスの中の西洋人のような顔の男の子のファンだったが、その子がへンに薹がたってきたので、別の男の子にした。前は九重祐三子(?)のファンだったが今はこれ。(これは大岡夫人が語りました。)

 7月28日(火) 快晴
午後二時ごろ、パンクタイヤを持って下る。スタンドでみてもらう。太いねじ釘がささっていた。一週間位前からブレーキをふむと妙な音がしていたので、ついでにみてもらう。部品を取り替えなければならない。タイヤが直ってから部品を買いに行ってくれ、全部終ったのは六時過ぎ。

 スタンドは今年はアルバイトの女の子三人と十六歳位の 少年、整備の出来る若い衆がいる。ノブさんもきている。ノブさんは中年になって肥り気味だ。
 スタンドのおばさんは、風通しのいい日陰のベンチに私を坐らせ、自分も隣りに坐って話しこむ。中央道が出来てからは途中のスタンドで給油してくることが多く、おばさんやノブさんの顔をみるのは久しぶりだ。
 おばさんは隣りに坐るなり「万博に行ったか」と一番はじめに訊くから「行かない」と答えると「ここらでは三人に一人はいかない。わしはその一人の方よ。今年は忙しくて、まだ行ってない」と不満そうに言う。忙しかったわけは、去年おばさんのお母さんが八十歳(?)で死に、少し経ったら、そのおばあさんのところに四十年居候していた、まるきりの赤の他人で、どうして居候していたのか、おばあさんも本人もまわりの人も、よく判らないような按配のおじいさんが死に――これも八十歳位。クリスマスころから脳溢血で倒れていたスタンドのおじいさん(おじさんのおとうさん)が正月の二日にちっとも苦しまずに死に、六月におばさんの姉さんが五年もの間入院したり退院したりしていたが、東京の病院で死んだ。四人も死んで忙しかった。スタンドのおじいさんが倒れる前に、一カ月半ほどおばさんが新宿の病院に胃が悪くて入院した。いまでもおばさんは錠剤「命の母」と、のみ薬を四種類毎日のんでいる。この辺は坊さん一人五千円のお経料をやる。盛大な葬式なら一万円位。戒名のいいのをつけてもらうには五万円位やる。もっとやる人もいる。このごろはお互いに商売していて忙しいので、四十九日や新盆などでもよばないで、配りものをしてすませる――と、こんな話をおばさんはした。
 私がきじ料理屋の話をすると、「あのきじ料理屋は宿屋だったが場所がわるくて、ほかの宿屋がどんどん出来はじめて客をとられるので、考えてきじ料理の店にした」のだと言う。
 おばさんは急に思い出したらしく、「テレビの『細腕繁昌記』は面白いね。出ている人がみんなうまいね。いろいろ考えて商売してるっちゅうところがいい。『信子とおばあさん』よりこの辺では人気がある。信子はつまらなかったねえ。何のこともなかったねえ。細腕は面白い。みんなあんな風にして商売してるだ。みんなあれとそっくりだ。商売してるもんはいろいろ考えに考えてやってるが、なかなかうまくいかねえな」と、しんみりとして一人でうなずいていた。


 昭和46年 (1971年)
 7月8日(木) 晴
 午前中、吉田へ買出し。
 ハチミツ五百円、仁丹、茄子、きゅうり、赤いすもも一箱二百円、トマト、豆腐、油揚げ、豚ひき肉、ワンタン皮。罐ビール一箱、瓶ビール一箱。
 留守中に大岡夫人が「今夜来るように」と誘いにきて下さったとのこと。五時半に二人出かける。
「何故、およびしたかというと、ワグナーのレコードと新しいステレオと新しいカラーテレビを大岡はみせたくて仕方がないんです」と大岡夫人は、おかしそうに言われる。
 大岡さんは、毛むくじゃらのじゅうたんに寝ころんでいる。寝ころんだまま、ステレオのスイッチをひねれるように、新しいステレオが置かれている。スイッチを入れると、部屋の隅の四角い二つの箱の方からいい音が出てくる仕掛になっている。寝ころんだ位置できくと一番いい音なのだそうである。ワグナーのレコードは、カステラの箱を二つ重ねたほどの厚さの箱だ。中にはワグナーのレコードのほかに三冊、本が入っている。この本を読んでから、この中に一緒に入っている解説のレコードをきいて、それからワグナーのレコードをきけば、ワグナー研究学者第一人者になれてしまうほどの精しさのものだそうである。ラインゴールドのはじめの方と、ワルキューレのまん中へんと、解説(日本語)のレコードのはじめの方をかけて下さった。
 主人は「ワグナーをきいていたら霊感が湧いて、小説の題を二つも考えてしまった」と言った。大岡さんは「貸してやるから持っていっていいよ」とおっしゃった。大岡さんは「タダでこのレコードは貰ったけれど、本当は十四万円ぐらいするぞ」とおっしゃった。
 お刺身を御馳走になった。楽しかった。
 足もとが暗いので、大切なワグナーは明朝運ぶことにして車の中に置いて庭を下る。
 今夜は二人とも早く眠る。

 7月15日(木) 快晴、夕方雨
 朝 ごはん、味噌汁、うに、のり、卵、いわし大和煮。
 昼 パン、野菜スープ、トマト。
 夜 ごはん、コンビーフ、たたみいわし、おひたし、清し汁。
 気が遠くなるようなよい天気。草刈りをする。そのあと、水を沿びて、テラスで風に吹かれていたら、いつのまにかねてしまっていた。
 午後、私が食堂の椅子に腰かけているとき、テラスから主人がふっと入ってきて、硝子戸を音をたてないように閉めはじめる。一人で黙ってそそくさと閉めている。全部閉め終ると「タマは外に出ているか。タマを出さないようにしろ。百合子、じっとして音をたてないようにしていれば大丈夫だからな。いま熊が、そのつつじの向うを歩いている。もうじきほかへ歩いていくからな。じっとして外へ出ないでいろよ」と、低い声で抑揚をつけずにゆっくりと言った。タマは二階に昼寝している。二人は食堂の椅子に並んで腰かけていることにした。熊は大きな犬の三倍位の大きさだったという。遊びながら散歩している風に庭先を横切ろうとしているようだったという。しばらくして「もう 大丈夫だろう」と主人は言った。私はいそいで大岡さんへ行く。「熊がいたから、デデを外に出さない方がいい」と言いに行く。主人が報らせておけというので管理所にも行く。「あの、私が見たのでなく、主人だけが見たのだから、主人は眼がわるいので、もしかしたら間違っているかもしれないのですが……」と、小さな声でいうと「何かね。ごみの棄て方かね」と不審そうな顔を向ける。「熊が出ました」と言うと、大騒ぎになってしまった。ガードマン一人と管理所の人三人位がジープで来て、熊の歩いていった方角へ向って林の中を、洗面器やバケツを叩いて見回ってくれる。いなかった。
 今日のテレビは、ニクソン訪中のニュースばかりやっていた。

 7月22日(木) くもり、夜に雨
 涼しい。時々晴れては、くもる。
 タマ、今日ももぐらの子供をくわえて来る。しばらく遊んでいて、死ぬと放り出して外へ出て行った。土に埋める。

 8月4日(水) くもり、風つよし
 タマ、暗くなって大急ぎで家に入って来る。いつもより急ぎ足なのは、もぐらをくわえてきて、みせたかったからだ。もぐらは、この前のより成長して倍ほど大きくなっているが、毛並はまだ子供らしくビロードのようだ。ビロードの色は真黒から薄墨色に、もぐららしく変ってきている。前足もこの前のよりずっと大きく、水かきがついているみたいにひろがっている。主人は「タマ。お利口さん、ああ、つよいつよい。えらいねえ。そうかそうか。見せてくれるのか」と、しきりに猫に話しかける。そして私に「こういうときは、ほめてやらなくちゃならんぞ。もぐらをとりあげて捨てたり叱ったりしちゃいかんぞ。猫がへンな性格になるからな。いじけるからな」と言いきかせる。私も「タマ、よく見せにきてくれたね。ありがとさん。そうか。お前はつよいね」と、真似してほめた。今日のもぐらは丈夫らしく、いつまでも動いているので、タマは満足して遊んでいる。やがて動かなくなると、ふしぎそうにみつめて、放り上げてはバスケットボールをしているようにいじっていたが、ふいと飽きて、箱に入ってねてしまう。

 10月23日 くもり
 昨夜、中公の谷崎賞の会があったので、今朝「今日はやめておく? 一日のばす?」と訊くと「山へ行く。紅葉も見たい、少し休みたい」と言う。予定通りに出かける。昼少し前に赤坂を出る。
 中央高速道に入って、真直ぐの道をスピードをあげて走り出したとき「昨日、中公の会に出ていてしゃべっていたら、急に口がうまくきけないんだなあ」と、赤坂を出たときから眠っているようにしていた主人が話しだす。顔をみると、いつもの通りの顔色で、おかしそうに、うっすらと笑っている。少し恥ずかしそうにしている。
「そう。うちへ帰ってきても、だから黙っていたの?」
「会から帰ってくる車の中では、もう治ってたんだ。酒飲んでくたびれてたからなあ。淑子さん〔嫂〕の話はきいてただけだ。口きくのが面倒くさかったからなあ。あのときは治ってたんだ。ヘンだったかなあ」
「別に。あたしは、いつもよりお客に口きかないな、と思ったけど。お嫂さんはへンとは思わなかったでしょ。気がつかなかったみたい」
 主人は「腹がすいた」といって、持ってきたサンドイッチを食べはじめる。
「このまま、山へ行く? 戻って医者に診てもらおう」
 頸を振りすぎるほど振って、じろりとにらむ。サンドイッチをのみこんでから「山へ行けば治るさ。酒の飲みすぎだ。判ってるんだ。医者なんかみせたって同じだ。こうやっていたいんだからいさせろよ」
 私は真直ぐ向いたまま、ずっと車を走らせた。
 主人は手をのばして私の髪の毛を撫でる。
 語気を荒くしたことを恥ずかしそうに、お世辞をつかうように「こうやっていさせろよ」と、今度は普通の声で言いながら。
 山へ着いて、遅い昼食。ごはん、じゃがいもと玉ねぎのオムレツ、スープ、りんご。
 主人も私も昼寝。
 夜 牛肉バター焼、ごはん、大根おろし、わかめとねぎ、味檜汁。
 いま、庭に芥子が咲き乱れている。いまごろになって咲いている。

 10月24日
 本栖湖、西湖、朝霧高原へ行く。紅葉を見に。
 昼 天ぶらうどん、おひたし、りんご。
 食堂で主人の髪を刈る。そのあと、主人入浴する。
 タマが庭をせっせとおりて来る。会社員が夕方、家へ帰って来るときのように。遠くから見ると、タマの顔に黒いひげが生えているようだ。テラスまで来るとタマは得意そうに顔を仰向けてみせる。蛇をしっかりくわえている。三十センチ足らずの小蛇だ。蛇はくわえられて苦しいから脂がにじんで反りくり返っている。だからひげのように見えたのだ。「あ、タマ。蛇をくわえてきた。とうちゃん、見てごらん。タマの顔はダリにそっくり」。主人は私の声を聞くなり仕事部屋に入り、乱暴に音をたてて襖を閉めきる。タマは仕事部屋の前にきちんと坐って蛇をくわえたまま待っている。蛇をくわえているから鳴いてしらせるわけにはゆかない。みせたいから開けてくれるまで黙って坐っている。「いいか。タマを入れちゃいかんぞ。絶対に開けるな。俺はイヤだからな。タマをどこかへつれてけ。蛇は遠くに棄ててこいよ」。主人は中から、急に元気のなくなった震え声で言う。
 私はタマの頭を撫でて「タマ、えらいね。遠くからせっせと持ってきたのね。大へんだったね。見せてくれてありがとさん」と言う。蛇をくわえたままの猫を風呂場に入れておく。
 食堂に落ちている髪の毛を掃除機で吸いとって掃除したあと風呂場に行くと、蛇は死んでいた。タマはまた外へ出てゆく。蛇を箸でつまんで犬の墓のところを掘って埋める。「もう大丈夫。埋めてしまったから」と私の顔が入るだけ襖をあけて報告した。
 夜 桜めし、おでん、漬物。

 12月14日(火)晴 風つよし
 11月27日から12月9日まで、主人入院。その前後一カ月半ほど、山にこられなかった。
 前九時東京を出る。


 昭和47年 (1972年)
 6月21日(水) うすぐもり
 主人山へ来るとすぐ「ひかりごけ」のオペラのテープを聴いていたら急に聞えなくなったので、買出しのついでに吉田の電気屋へ持って行ってみてもらう。やっぱり電池がなくなっていたので取り替える。取り替えてくれてから、電気屋のおじさんはスイッチを入れて、しばらく聴いてみて、首をかしげる。
「こりゃあ歌かなあ。何だ? バッテリーがわりいときに録音しただな。もう一度バッテリーを取り替えて録音すりゃあ、歌らしくなるで。もとの録音がわりいで」と、私に注意した。
 帰りがけに、カンナをわけに大岡家へ寄った。
「武田が来なくたってビール一本位飲んでゆけ」とすすめられて、私は玄関から上ってしまった。ビールを一本御馳走になった。大岡さんは、主人の病気のことを訊かれた。こんな風、と話すと「『富士』のとき酒飲みすぎたな。しばらく何にもしないで休めばいいさ。少しよくなったら、ほんとはアメリカかなんかに二人で行って来るといいんだがなあ」とおっしゃった。「もう少しよくなったら、アメリカの田舎にいこうかしら」と、私はアメリカの田舎のことも知らないのに答えた。「しかし武田はいいよ。年とったって、中国文学と仏教というてがあるからなあ」。大岡さんは慰めるように私に言われ、私も笑った。
 夕飯のあと、主人は急に「大岡のところへ行く」といいだした。私が、さっきビールを御馳走になって、こんな話をした、といったので、自分も行きたくなったらしい。猫を家の中によび入れて出かける。夕焼が少しして、気持のいい風が吹いている。白い月が出ている。また、ビールを御馳走になる。いろいろ、話をしているうちに大岡さんは主人をしげしげと見ながら、げらげら笑う。
「笑っちゃ悪いけど、おかしい。武田が糖尿病かあ。何だかおかしいなあ」。私もおかしくなって笑ってしまう。「俺だっておかしいや」と、主人も笑っている。
 デデは、あんまり我儘でうるさいから東京においてきた、とのこと。
  すっかり暗くなって帰る。とても楽しかった。月夜になった。庭をおりるのも明るい。ふざけながらおりる。


 昭和48年 (1973年)
 5月1日(火) くもりのち時々晴
 庭のけし畑には蕾が二本出た。
 着いてすぐ、主人も私も昼寝。
 昼 麦ごはん、こんにゃくとにんじんと椎茸の白和え、とりささみつけ焼、キャベツ酢漬、とろろ昆布のおつゆ、トマト。
 早めに昼食。そのあと、テラスで主人の頭を刈る。ついでにひげも剃る。
「今だから言うけど、歯なしのころは顔が剃りにくかった。唇がへっこんでるから剃り残しが出来て。口のところはひっぱったり、口の中に空気入れてもらったりして剃ってた。
いまは剃りいいよ。しわがなくなって」
「大岡のやつ、俺が歯を入れたときここにやってきて『お前、病気したら眼が澄みやがったな』なんて、みるなりいったぞ。しゃべっているうちに『お前、入歯したらワザとらしい顔になったな』なんて言いやがった」
「ほんとだ。そういわれればそうだ」。私は笑いだした。主人も笑った。 」(武田百合子「富士日記」中央公論社1977年(現在中公文庫))
2010.08.28 Sat l 文芸・読書 l コメント (2) トラックバック (0) l top
「富士日記」が中央公論の月刊誌『海』に載ることになったのは、武田泰淳が亡くなった1976(昭和51)年10月、編集部から山小屋でつけていた日記の一部を『海』に出したらどうか、との話があったからだそうである。妻である百合子さんは「ずい分ためらいましたが、供養の心持で」引き受けたことを一年後に出版した「富士日記」単行本の「あとがき」に書いている。日記は武田泰淳や一人娘の花さんも時折書いてはいるが、ほとんどは武田百合子の手になるもの。山小屋が建ったのは昭和38年(1963年)、日記は翌年の昭和39年(1964年)から十数年にわたって書き続けられている。すばらしく精彩に富んだ魅力ある文章だと思うので、そのうちのほんの一部だが、書き写させていただき、二回に分けて掲載する。最初読んで、特に印象に残った場面や出来事、おもしろいと思った会話など(個人的な好みも入っていると思うが、大岡昇平の言動の描写も抜群だと思う)。


「 昭和40年 (1965年)
 8月5日(木) 晴
 后六時、私と花子、外川さんと約束をしておいた河口湖湖上祭に下る。主人、急に留守番するという。
外川さん(引用者注:前回掲載した「日日雑記」の「トガワさん」と同一人物)は三人に来てもらいたい(特にセンセイ)と思っていたのに、私と花子だけということになって、ガッカリしたらしい。
 六時に外川さんの家の前に着くと、もう湖上祭に行く車でつながっていて、道一杯つかってハンドルをきり、大まわりして外川さんの家への小路に入る予定だったのに、そんなことは到底できない状態。すぐうしろには、大きなオートバイのおにいさんが女を乗せて五、六台続き、絶対あとへ退らないし。外川さんは少し先の右側の小さな農家へ入って行き、しばらくして「オーライ」と手を振ったので、少し前進してから、農家の入口めがけて右折すると、そこは車幅一杯の私道で左側は田んぼ。私の車の前にすでに千葉ナンバーの車が一台入っている。私の単が右折したのを見て、すぐ真似してもう一台あとから入ってきたので、私の前に一台、あとに一台、あれよあれよという間に一列に並んで三台入りこんでしまった。
 私が「この前の千葉の車、出られないんじゃないの。私、こんなところへとめて大丈夫かなあ」と言うと「なあに湖上祭終るまじゃ帰らねえ。九時半か十時ずらあ」と平気である。農家の障子窓があいて顔を出したおじいさんは心配そうにしていたが、外川さんが威勢がいいので黙ってしまって「中のもの、とられねようにしてくれやあ」と小さな声でいって窓をしめてしまった。何ともへんなところなので「私の車のうしろの車の人がいる今のうちに道へ戻して、外川さんの家の前にやっぱりとめたい」と訴えたが、外川さんは丈大夫だといって歩きだす。
 外川さんの前庭まできてから、もう一度「千葉の車が出られないだろうから」と言うと「ほっとけ。何もせん方がええだ」と言う。外川さんは前庭から座敷へ上り「暗くなるまで茶でも上っておくんなって」とすすめる。主人から出がけに「外川さんのうちに上りこんで御馳走になったり、酒沢山飲んだら駄目だぞ」と念を押されているので断わるが、暗くならなくては行っても無駄だ、というし、奥さんも庭先に下りてきて、是非、というので上る。
外川さんは私と花子が上るとすぐさま、座敷のテレビをつけて、テレビと話しこむほどの近さに坐りこみ、画面に眼をすえたままになる。水戸黄門をやっている。ときどき「うう」という呻き声を出しては、穴のあくほどみつめている。水戸黄門様が浅はかな殿様をたしなめて悪い家来をやっつける話で、外川さんは鼻水が垂れてきても拭かない。黄門様が終えると、すぐパチンと消して、体の向き包変え、今度は私に話しかけはじめた。わかった。外川さんはこの番組がはじまっていたので、早くこれを見たいから、千葉の車のことなんかどうでもいい、早く座敷に上りたかったのだ。外川さんは黄門様を見ている間、子供がそばにきて首をつっこんで見ようとすると、ゲンコで頭をなぐって向うへ追いやり、自分だけテレビの前で専用にして見ていた。
 さしみ、トマト.酢のもの(いか、くらげ、さば、たこ)をビールと一緒に運んできてすすめられる。
 そのうちに急に思い出したように「重ね重箱」があるから見ろ、という。棚の上のものを払い落して探したり、押入れの中からも、ものを放り出してのぞいたりして、外川さんと奥さんはやっと見つけ出す。カビが一杯生えていたが、五重ねのケヤキの見事なものだ。しかし、二箱はフチがとれている。外川さんは十年前にレークの(湖畔のことらしい)頭バカになった人から「当時の金でサンデンエン(三千円のことらしい)で買った」と言った。奥さんと、東京から花火を見に泊りがけできているらしい外川さんの妹さんも座敷に寄ってきて、坐りこんで話をしはじめる。
 そのうち暗くなってきて、湖畔に出かける時刻となる。外川さんは「さてと」と言って、ゆっくり立上り、用意の出来ている消防の印ばんてん、河口湖町消防団誘導部長と衿に染めぬいてあるのを着て、衿のところをすっとひっぱって姿勢を正し直立不動となる。そして白い日おおいのかけてある制帽を両手で大切そうにかぶる。奥さんは、衿のところを嬉しそうに直してやった。私と花子は手を叩いて「ステキ」と言った。外川さんは、この出動の場面を主人にみせたかったのだ。忠臣蔵の大石内蔵助のようだった。
 湖畔のLホテルに行くと、外川さんが予約しておいたはずだというのに満員だという。どの部屋も、湖に張り出した見物席も満員で、さかんに飲み食いしている。大座敷のようなところでは、東京からテレビでよくみる落語家がきていて、漫談のような司会のようなことをやって、みんな真赤な顔で笑いどよめいている。湖の見えない席で、西瓜とジュースを四本、外川さんは注文してくれた。そして「これから誘導の仕事が待ってるで」と言って敬礼すると、まわれ右をして出かけて行った。私たちは、外川さんにわるいと思っていたので、やっとほっとして、それを食べ終るとすぐホテルを出て、夜店を見たり、音がすると空の花火を見上げたりして湖畔を歩く。

 遊覧船に乗ってみた。船はこぼれ落ちそうに人を乗せて音楽をかけ、湖の中央まで出て、ゆっくりまわって戻ってくる。二十五分、一人九十円。まわりどうろうを買う。二百円。盆踊りの絵がまわると踊り子の手足がふわふわ動いてみえる。
 湖畔で花火を見る席には、人がぎっしりで、新聞紙を敷いて仰向けに寝転んでいる足の間を、踏まないように歩いて、遊覧船の乗り場まで行ったのだ。死にそうな位の年のおじいさんが、家族の人に囲まれて、新聞紙を敷いて寝て、仰向けになって花火を見ている。死んでしまっているのではないかと思うぐらい、じいっとして花火のあがる方角だけ見ている。この敷いている新聞紙は、売り屋がいて、その人から買っている人もある。私たちも、新聞紙があいていたので、それを敷いて仰向けになって、しばらく花火のあがるのを見た。ねころんで見ると、首がくたびれないので、ずーっと終りまで見ていられるのだ。
 花火があがって、音もなくふっと消えてゆくのを、くり返しくり返し見ていたら、梅崎さんのことを思い出して涙がでた。
 九時半頃、卵を六個買って抱えて、車をとめたところに急ぎ足で帰ると、女一人男二人がいて、怒っている様子。千葉の車の人だ。一人の男はやたらにヒステリックになっていて「二時間も待ったぞ。のんびり笑いながらやってきやがって」とふるえ声で噛みつくように言った。「花火見にきたんでしょう。花火見物の人は、花火が終るまで帰ってこないのはわかってるでしょ。あんたたちも花火終るまで見ていればよかったのに。花火見にきてのんびり笑いながら歩いて何が悪い。せっかち」と、あんまりふるえ声でどなるので、いい返したら、その男は私に殴りかかろうとした。もう一人の男が中に入って「こんな田んぼでけんかしたって仕方がない。早く車を出さなくっちゃ」と言って、私のうしろの車を四人で持ち上げて田んぼの所に斜めにうっちゃって、私の車をバックで道に戻し、やっと千葉の車が出られることになる。私のうしろの車は小さかったので、案外軽く持ち上げられたから、田んぼの中に三分の一ほど浸ってしまうこととなり、一番損をした。来年は、もう、こんなところにとめない。
 花子は「おかあさん、ほんとは私たちも少しわるいね。遅く帰ってきたからね。あの男の人ヤクザのおにいさんでしょ。おかあさんがぶたれたら負けるよ」と、単に乗ってから小さな声でいった。私は気分が少し昂揚して「ぶちにきたら、卵全部投げつけて、それから車のチェーン出してふりまわしてやろうと思って」とうちあけた。
 今年の湖上祭は、朝から晴れていたので花火がいつになくきれいに揚がったのだそうだ。その日、一度でも雨が通ると、あと晴れわたっても、空気がしけているし、花火玉の火薬もしとって、煙ばかり多いそうである。湖上祭の日は、朝から快晴ということは少なく、曇っていて雲の上に花火が打ち揚がってしまって、音だけがして見えなかったり、しとしと降って夕方からやっと晴れだすという日が多いらしい。
 「花火が終ると、このあたりの夏は終りだね。盛りを過ぎるねえ」と、外川さんも外川さんの奥さんも、地元の酒屋や八百屋のおかみさんも、ガソリンスタンドの人も、気がぬけたように言うのだ。明日かあさっては立秋なのだから。


 昭和42年 (1967年)
 7月18日(火) 快晴、夕方少し雨、雷鳴
 ポコ死ぬ。六歳。庭に埋める。
 もう、怖いことも、苦しいことも、水を飲みたいことも、叱られることもない。魂が空へ昇るということが、もし本当なら、早く昇って楽におなり。
 前十一時半束京を出る。とても暑かった。大箱根に車をとめて一休みする。ポコは死んでいた。空が真青で。冷たい牛乳二本私飲む。主人一本。すぐ車に乗って山の家へ。涙が出っ放しだ。前がよく見えなかった。
 ポコを埋めてから、大岡さんへ本を届けに行く。さっき犬が死んだと言うと、奥様は御自分のハタゴを貸して下さった(7月19日に書く)。

 7月19日(水) 晴 三時頃より雷雨
 夜一時止む。また小雨となる。
 昨夜、何度も眼が覚め、覚めると、しばらく泣いた。
 朝、陽があたっている。
 朝 ごはん、佃煮、油揚げつけ焼、大根おろし、味檜汁、のり、卵。
 ポコの残していったもの、籠と箱と櫛をダンロで焼く。土間に落ちているポコの毛をとって、それも焼く。何をしても涙が出る。
 昼 ハムサンド、とりスープ、紅茶。
 主人の顔をみないようにしている。主人も私の顔をみないようにしている。お互いに口をきかないようにしている。
 二時少し前、私だけ下る。今日は梅崎春生さんの三回忌の御命日だ(私は前から心づもりしていたのだ。私一人ならポコを座席に乗せて行ってこよう。富士霊園までは人通りも少ないから吠えたてないし、霊園の中は広々しているから、お墓でポコと遊んでこようと思っていた)。一人でお墓参りに下る途中で黒い雲が空一面となる。山中湖までくると雷鳴をともなった豪雨となる。湖面は急にふくらんできて、湖岸の道路は川のようになる。ワイパアをつけても水の中を走っているようで、前は何も見えない。車は全部スタンドや茶店に一時避難して休みだす。私はスタンドに逃げこんだ。しばらくして雨は上ったが、霊園までの赤土の道は水が出てぬかって通れないだろうと そこの人たちの話なので引き返す。(略)
 帰ってきて、主人とビールを飲んでいると、大岡さん御夫妻来る。
「どうしてる? 犬が死んでいやな気分だろう。慰めにきてやったぞ」と、入ってこられる。私は奥様に貸して頂いたハタゴで機織りを教わった。
 御飯どきだったが、へんなおかずだったから、枝豆、ハム、かに、で、皆でビールだけ飲んだ。
 大岡さんは、昔から犬を始終飼っていた。で、いろいろな死に目に遭ったのだ。
 大きな犬を飼っていたとき、鎖につながれていた犬が、そのまま垣根のすき聞から表へ出てしまい、大きな犬だったのに石垣が高いので下まで肢が届かず、首を吊ったようになって死んでしまった。道を通りかかった御用聞きだか配達だかの男の子がみつけて報らせてくれた。「絞首刑だな。自殺というか……」
 大岡さんは、そのほかにも、犬の死に方のいろいろを話された。そして急に「おいおい。もうこの位話せばいいだろ。少しは気が休まったか」と帰り出しそうにされた。
「まだまだ。もう少し」。主人と私は頼んだ。大岡さんは仕方なく、また腰かけて、思い出すようにして、もう一つ、大の死ぬ話をして帰られた。門まで送ってゆくと、しとしととした雨。夜は、釜あげうどんを食べた。
 遅くにゴミを棄てに表へ出る。まだ、ポッリボツリと犯みこむように雨は降っている。
 ポコは、あの濯木の下の闇に、顔を家の方へ向けて横たわって埋まっている。昨夜遅くなってから、よく寝入ったときのすすり上げるような寝息がひょっと聞えたように思ったが、それは気のせいだ。ポコ、早く土の中で腐っておしまい。

 7月20日(木) 晴、昼ごろ俄か雨
 朝 かに、卵、グリンピースの焼飯、スープ。主人が作ってくれた。私の分も。
 車を拭く。トランクも開けて中を拭く。実に心が苦しい。
 いつもより暑かったのだ。一時間ごとにトランクから出してやる休み時間までが待てなかったのだ。ポコは籠の蓋を頭で押しあけて首を出した。車が揺れるたびに、無理に押しあけられた蓋はバネのようにポコの首を絞めつけた。ひっこめることが出来なかったんだねえ。小さな犬だからすぐ死んだんだ。薄赤い舌をほんのちょっと出して。水を一杯湛えたような黒いビー玉のような眼をあけたまま。よだれも流していない。不思議そうにものを視つめて首を傾げるときの顔つきをしていた。トランクを開けて犬をみたとき、私の頭の上の空が真青で。私はずっと忘れないだろうなあ。犬が死んでいるのをみつけたとき、空が真青で。
 埋める穴は主人が掘ってくれた。とうちゃんが、あんなに早く、あんなに深い穴を掘った。穴のそばにべったり坐って私は犬を抱いて、げえっというほど大声で泣いた。泣けるだけ永く泣いた。それからタオルにくるんで、それから犬がいつもねていた毛布にくるんで、穴の底に入れようとしたら「止せ。なかなか腐らないぞ。じかに入れてやれ」と主人は言った。だからポコをじかに穴の中に入れてやった。ふさふさした首のまわりの毛や、ビー玉の眼の上に土をかけて、それから、どんどん土をかけて、かたく踏んでやったのだ。
 昨日、大岡夫人は「庭に犬を埋めると、よほど土を盛らないと、ずんと下りますよ」とおっしゃった。早くずんと下って、もう一ぺん土を盛るときがくればいい。
 昼 おじや、コンビーフ、白菜朝鮮漬風、トマトと玉ねぎサラダ。
 陽がかっと射してきて鳥が噂きだす。どこもかしこも戸を開け放つ。犬がいなくなった庭はしいんとして、限りもなく静かだ。
 ハタ織り少しする。
 管理所に新聞と牛乳を頼みに行く。牛乳は二本ずつ明日から。新聞は(朝日と山梨日日)明後日から。
 ハイライト一個買う。七十円。
 歩いてきたので、大岡家の前を下り、村有林の道を歩いて戻る。林の日陰にこしかけて、ハイライト二本吸う。死んだのがかなしいのではない。いないのが淋しいのだ。そうじゃない。いないのが淋しいのじゃなく、むごい仕打で死なせたのが哀れなのだ。私はポコをいつも叱っていたが、ポコは私を叱ったり意地悪したりしなかった。朝起きた私にあうと、何年もあわなかった人のようになつかしがって迎えた。昼寝から覚めたときだってそうだった。いやだねえ。

 8月21日(月) 雨
 台風十八号が近づいている由。
 九時、宿へ花子たちを迎えに。会計を済ませる。全額四千七百円。中学生割引だそうだ。
 門に大岡さんの車がある。奥様が庭を戻ってこられたところ。「今、お魚を置いてきました」
 黒鯛一尾、イナダ三尾、イセエビ一尾。頂いた。
 黒鯛はカラアゲにする。イナダは煮る。イセエビを茹でる。順繰りに食べることにする。たのしみ!!
 花子たちをのせバスの時間に合わせて下る。花子の友人は土産物店で、お母さんへのおみやげの絵葉書と財布を買った。新宿西口行二時四十五分発のバスに乗り込ませて、見送る。

 夜 黒鯛カラアゲ甘酢あんかけ、焼き茄子、ごはん。
 主人満腹。満足して、はやばやと眠る。
 八時ごろ、花子の友達が無事に帰宅したか、東京へ電話するため出かける。管理所は灯りが消え、入口が開かない。
 先日届いた浅山先生の葉書では、二十一日の午後Sランドに到着予定となっている。明朝行ってみることにしていたが、出たついでに電話を借りがてらSランドまで下ってみる。Sランドのフロントで東京へ電話をすると「迎えに出かけて、まだ戻ってこない」と留守番の人が言う。一寸気がかりなので、三十分後に、また電話してみることにする。待っている間に「今日、京都から女の客が着いたはずだが」と訊ねると、午後にお入りになったと言う。四階の一号室を訪ねて浅山先生と話しているうち、十時半過ぎる。ノックして、フロントの男「今、武田さんにお客様がきている」と告げにくる。一体、誰がきたのだろうと降りてゆくと、主人、蒼い顔をして佇っている。垂らした両手を握りしめている。花子、そのそばに、ぼーっとして随いている。外に出ると煌々とライトをつけ放しにしたジープがとまっていて、管理所の人が大型懐中電灯を持って二人いる。主人、体を震わせていて一言も言わない。ジープのあとをついて車を出して帰る。主人、車の中で「黙っていなくなる。それが百合子の悪い癖だ。黙ってどこかへ行くな」。怒気を含んで低く言う。運転しながら「ごめんなさい。これからは黙っていなくなりません」と言う。まだ怒り足りなくて震えている。「とうちゃんに買ってもらった腕時計もちゃんとします」。常に叱られていることも思い出して加える。「そうだよ。百合子は夜でも昼間と思ってふらふら出かける。時間の観念が全くゼロだ。今にとんでもない目に遭うぞ」「はい」
 ゴルフ場の林の道で、霧除けの黄色い灯りをつけてくる車が、すれちがうところで停った。大岡夫人が運転して大岡さんが乗っている。探しにきたよとのこと。ひたすら謝る。
「どっかで酒でも飲んでるんじゃねえか、心配することはねえと俺は思ってたんだ。しかし武田が蒼くなってやってきたからなあ。ひょっとして死んでたら、大岡はあのとき探しにも出なかったと、後々まで恨まれるからなあ。車を出したよ。あんまり心配させるなよ」。ひたすら謝る。
 霧が深くて、道が雨で濡れていて、滑って走りにくい夜であった。

 8月22日(火) くもり時々雨
 朝 ごはん、のり、納豆、うに、卵とじゃがいも妙め、味噌汁(玉ねぎ)。
 昼 ごはん、イナダ煮付、佃煮、キャベツ酢漬。
 夜 ごはん、豚肉衣揚げ、サラダ、さつまいもから揚げ。
 午前中、管理所に行き、昨夜、捜索のジープを出してもらったお礼とお詫びを言う。
「この辺じゃ、夜、二時間もめえに出たが、まだ着かねえというときに探しに出ることがある。林の中に車をとめて運転手が眠っていることがよくあるだ。武田さんの奥さんは、まさか、そんなこともあるめと思ったけんど、ジープを鳴沢方面とゴルフ場の方へ手分けして二台出した」
「ガスが湧いたし、道も濡れていたで。山の道には馴れてる奥さんのこんだから、まさかとは思ったが、車が沢に走りこんでひっくりけえってることもあるだからなあ。探照灯で沢や窪みを照らしながら走った。先生はジープに一緒に乗りこまれたで、そんなこんなを見ているうちに、なおのこと心配になったずら」。昨夜、捜索に出てくれた人たちは、寄ってきて、笑いながらそう言った。
 帰りがけ、大岡家に寄って、昨夜のおわびを申し上げる。大岡さんは、玄関へ出てこられて「あんまり人騒がせなことしないでくれよ」と言われる。「はい。ごめんなさい。今度、奥様がいなくなったとき、私が一生けん命探します」と、心からお詫びする。今日、朝日新聞の黛さんがくるから夕飯に来い、とのこと。
 工事の職人、一寸やってきて、すぐ帰る。雨が降り出すと仕上げは出来ないから、天気をみて仕上げ塗りをするという。
 夕方、大岡夫人迎えにこられる。三人ともいらっしゃい、といわれるが、私と花子は遠慮して、武田だけ、夕食に作った肉の衣揚げを少し持って行く。黛さんの前に三人お客があったので迎えが遅くなったとのこと。とても忙しかったらしい。
 夕食のあと、花子の二度目のハタ織りのタテ糸を作る。花子はハタ織りをしながら留守番しているという。
 八時半過ぎて、私だけ大岡家へ迎えに行く。私もビールを頂く。黛さんに昨夜の騒ぎを説明しながら、また繰り返し、皆で笑う。
 私がビールを飲みだすと「盲合子、おいとまするぞ」と、いつも口癖の主人は、今夜はそんなことを言わない。子供のようにはしゃいで上機嫌でおしゃべりだ。
「武田さん。昨夜のお顔とはまるでちがいますね。昨夜、花子ちゃんと玄関に現われたときの顔つきといったら……」。大岡夫人がからかうと、また、その話に戻って、皆大笑いした。
 車を降りると、向いの沢の寮に向かって、主人はながいながい、バシャバシャという、ビールのおしっこをする。しながら「百合子オ。松茸エ、マツタケエ」と大声を出す。
 庭の萩、オミナエシ咲き盛る。夜でも見える。 」
2010.08.26 Thu l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
二、三日ぶりに出かけたウォーキングの帰り、一時間半ほど歩いてもうすぐ家に帰りつくという時に、道端でふと武田百合子の随筆のどこかに載っていた話が頭に浮かんできた。夫である武田泰淳が死んだ時、葬儀の場で読経を唱えているお坊さんたちの目からとめどなく涙が溢れ出ていたという話である。百合子さんは、そういう場面を初めて見たと書いていた。武田泰淳は浄土宗のお寺の生まれ。お坊さんの中には武田泰淳を子どもの時から知っていた人もいたのだろう。当時(1976年)、自分が若かったせいか、私は武田泰淳の死をさほど若死にとも感じていなかったが、実はまだ65歳だったのだ。

急にこんなことが思い浮かんだのは、先日、武田泰淳の小説や評伝を二、三、読んだからだと思う。家に帰ってから、たしかあの話が載っていたのは「日日雑記」ではなかったかと本を探し出して見てみたのだが、肝心のその場面は見当たらず、富士山麓の山荘の隣組である大岡昇平や、山荘を建てた時からのお馴染みの登場人物である石屋のトガワさんが出てきて、思わず読みふけってしまった。武田百合子の随筆は最初の「富士日記」から始まって、どの本、どの場面をとっても生き生きとしていてまさしく傑作揃いと思うのだが、せっかくなので(何がせっかくだか自分でもよく分からないが(笑))、今日は、トガワさんが百合子さんの山荘を訪ねてきて話をしていく場面を引用しておきたい。1983~84年頃の文章だと思うのだが、かねてから読むたびにおもしろいと思っていたところなのだ。

「 快晴。タケヤア、サオダケエ、と昼ごろ竿竹売りの車が、めずらしく山まで上ってきた。一本も売れなかったらしい。暫らくするとタケヤア、サオダケエの声を流しながら下りていった。
 何だか今日もトガワさんが来るような気がした。三時ごろトガワさん来る。右脇に紙包、左脇にカボチャを抱えて庭を下りてきた。私はこの間貰ってまだ食べずに棚に置いてあるカボチャをいそいで隠した。紙包はきゅうりと茄子ととうもろこしとじゃがいもとにんじん。
 トガワさんが今日してくれた話。
 トガワさんの家の敷地は九百坪ぐらいある。坪十五万円ぐらいはするから、いまは大へんなものだ。昭和三十年ごろは全体で三千万円だった。でも、その前までは三十万円ぐらいだったそうだ。土地が高度成長の一時期に値上りしたから、土地成金がこの辺でもうんといて、土地の争いも絶えないそうである。(この山小屋を建てるとき、石工事一切をトガワさんに頼んだ。そのころトガワさんは、自分の石山から発破で切り出した石を運んできて石垣や土留めの石段をこしらえる石屋さんだった。いまは公共事業も請負う土建会社の社長さんである。胸に金色のポールベンをさしてる。)
 トガワさんの弟さんも石屋さんをやっていた。弟さんは旧登山道の上り口に七百坪ばかりの土地を持っていたが、敗戦後、ホンダのバイクがどうしても欲しくて(なぜ欲しいかというと、それにまたがって石山へつっ走って行きてえという気持だとトガワさんは説明を加えた)、坪百五十円だかで手放して、ホンダのバイクを当時六万円か七万円で買ったのだそうだ。
「いまになって考えてみりゃ、損をしたです。いま持ってりゃあ、あの辺は坪七万か八万、九万、いやまっとするら。七万としても四千万か五千万のものになってる。ホンダのバイクはいまでも六万か七万で買えるら」
「あたしの兄さんという人もね」似たようなことを思い出したので私も話した。「丁度そのころだと思う。ラッキーストライクが喫いたいばっかりに山林を売り払いましたよ。あのころのアメリカ煙草は禁制品で進駐軍PX横流しの闇値段だったから、えらく高かったでしょう。もっともまだ煙草の喫えない弟妹(あたしら)にも、ふんだんにPX横流しのドーナツとか金紙に包んだ胡桃入りの玉チョコなんか買ってきてくれたから、みんなして寄ってたかって肺や胃袋に入れたわけ。アメリカ人になったみたいだなんてね、うっとりして……。あっという間に山林は煙になって、たちまち日本人に戻っちゃった」
 トガワさんは、いままで遠慮して食べないでいた焼きいかへ矢庭に手をのばすと立て続けにくしゃくしゃと食べはじめた。そうして、かねがね猿蟹合戦に登場する粟の髭武者のようと私が感服している古風な顔を、お酒を飲んだように真赤にして、そうかねそうかね、と肯きながら低く笑いだした。笑いがとぎれると、涙の出てきた眼をこすり、そうかねそうかね、山林が……そうかねそうかね、とまたくり返して、ずい分と長い間笑っていた。
 毎年そうだ。いまごろは虫にくわれる。二人ともシャツの上から、鳩尾やお腹のあたりを無茶苦茶にひっかきながら話をした。
 夜、机の上でキンバエが、金色の卵みたいなものを(宇津救命丸ぐらいの大きさ)ころがして、いつまでも遊んでいた。虫か何かの眼玉か。
 追記。トガワさんは、山林が煙になった話が何故か気に入ったらしく、このあともくる度に私にその話をさせようとして、それとなく水を向けるので、私は何回か同じ話をした。トガワさんは待ちかまえていて、ひとしきり笑った。」(「日日雑記」中央公論社1997年)

トガワさんの入ってくる様子を見て、「この間貰ってまだ食べずに棚に置いてあるカボチャをいそいで隠した」というところがおかしい。ラッキーストライクのような話を聞くと、一度だけではなく何度でも聞きたくなるのは人情であり、話をしてくれるようにそれとなく水を向けるのは、きっとトガワさんだけではないのではなかろうか。
2010.08.25 Wed l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
   (1)
1946年の末、中野重治は『漱石と漱石賞』という題の文章を書いている。当時、それまで夏目漱石の全集を一手に引き受けていた岩波書店とは別のある出版社が漱石の全集を出すこと、その全集出版に際して「漱石賞」を創設するという発表をしたことがあったらしい。全集刊行も賞の創設も選者の顔ぶれも、何もかもが中野重治には漱石を汚すこととしか思われなかったらしく、これはその動きに関連して書かれた文章である。漱石について中野重治は下記のように書いている。

「 彼は軍国主義を認めたが、それを資本主義に結びつけて考えることはできなかつた。彼はその人生と文学との道で労働者階級を見つけることなしに生涯を終えた。ほかならぬ漱石が自分で推薦した「土」を文学として十分読めなかつたという事情がそこに原因をもつていよう。その日暮らしの労働者には物質上の苦労はあつても精神上の苦労はないという、この人とも思えぬ、しかし決して見のがすことのできぬ考え方の特徴がこの人の実態のなかにあつた。」

漱石の文章を読むと、私はだいたいいい心持ちになる。特に近年はこういう人がいてくれて本当によかった、という気持ちをいつももっているのだが、ただ返す返すも残念に思うこともある。『満韓ところどころ』に明らかな民族的差別表現のことである。これについては、別の場所で中野重治も書いている(この文章が載った本が手元にないので記憶で書くのだが、それは漱石を責めるというような論調ではなかった。中野重治は自らの詩『雨の降る品川駅』にも帝国主義の尻尾のようなものがくっついているのが認められるという趣旨のことを述べているので(「中野重治全集」「著者うしろ書」)、漱石や自分をも含めた日本人全体の意識の問題として認識し、考えていたように思われる)。

こちらのサイトに、「満韓ところどころ」における漱石の民族的差別発言を批判する中国人学者の談話が掲載されている。執筆者は牧村健一郎氏。朝日新聞社勤務の人で、漱石に関する著書ももっておられるようだ。一部引用させていただく。

「漱石は埠頭で働く無数のクーリーを見て、その紀行「満韓ところどころ」で、「大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚らしいが、二人寄るとなお見苦しい」と書く。また「チャン」や「露助」という表現も記している。
(略)
 90歳になるという大連外国語学院の元教授・李成起さんは、中学のころから習い続けた日本語が達者で、日本近代文学を専攻する温厚な老教授だ。/「漱石先生は中国でも文豪として尊敬されています。私はとくに「こころ」に感心しました。人間の深い魂を描いています」という老教授も「満韓」の表現についてはこういった。「先生(漱石)のような偉大な文学者が、言ってはならない言葉を使ったのは大変遺憾に思っています。中国人を、文学者ではなく、戦勝者の目で見ています。あのクーリーたちは今の大連市民の祖先ですよ」/漢文、漢詩を学んだ漱石は中国文化を深く尊敬しており、差別意識はなかっただろうが、帝国主義の時代に入った明治人として、友人同士の気楽なやりとりのつもりで、書いたのだろう。これを中国人が不快に思い、批判するのは、また当然だろうと思った。」

かつて英国留学時、日記に、

「日本人を見て支那人と云はれると嫌がるは如何、支那人は日本人よりも名誉ある国民なり、只不幸にして目下不振の有様に沈倫せるなり、心ある人は日本人と呼ばるるよりも支那人と云はるるを名誉とすべきなり、仮令然らざるにせよ日本は今迄どれ程支那の厄介になりしか、少しは考へて見るがよからう」

と書きつけた人とは思えないようなひどい発言だが、これは相当の見識をもつしっかりした人でも時代の大勢に巻き込まれ、流される恐れは常にあるということを証明しているのだろう。しかし、漱石のこの差別発言は今も日本社会に悪影響を残しているのではないだろうか。「あの漱石にしてこうなのだから、我々が少しくらい差別的発言や行動をしたって仕方がない。あれこれ言われる筋合いではない」というような内心の弁解として作用している側面があるようにも思う。しかしそれは受け取る側の間違いであろう。晩年の漱石が意志として表に現わした行動、生き方を見ると、漱石の過ちや限界の上に現在の私たちが乗っかることは決して許されることではないと思う。中野重治は上述の文章につづき、次のように述べている。

「 しかも彼はあくまで真面目に、正直に、日本人の文学と生活とに真実をもとめて悪戦苦闘した。学習院が講演の礼に届けてきた金十円について、文部省が押しつけてよこした学位について、『太陽』の人気投票で押しつけられた金盃について、また学校教師、大学教授、新聞人としての職業について、世渡り上手からは偏屈とも神経過敏とも笑われるばかりの、むき、生真面目さですべてに対して行つた。くれるという博士ならもらつておけ、西園寺が御馳走するというなら行つて食つてこようというようなさばけた考えに彼は従うことができなかつた。他をもおのれをもあざむかぬことで自己の個性を確立しようと、これが生涯をかけた彼の仕事であつた。彼はそれを、個の確立が具体的に保障される革命と革命階級とから切り裂かれた一人身でやろうとした。ここに彼の暗さ、絶望的な孤独感、家族にまでたいする猜疑が生れ、彼自身は死ぬまでそれにさいなまれることとなつた。彼はそれを尊重しつつそれにひとすじにすがつて行つた。広瀬中佐の愛国詩について、彼はその「俗悪で陳腐で生きた個人の面影がない」(「艇長の遺言と中佐の詩」)ところから、彼の軍人としての「誠実」を疑うことも辞しなかつた。
 彼のこの態度は年とるにつれ、作家として成長するにつれ、読者がふえて世間に名がひろまるにつれて強まつて行つた。そして日本の「家」とその夫婦関係とはその腐敗と虚偽とで最後まで彼を苦しめたものであつた。おそらく、五十歳の彼の疲労と渋面とには、彼の死後三十年してはじまつた民主革命のなかで個の確立をしやべりたてるすべての九官鳥とは別種の人間的誠実が輝いていたであろう。しかも啄木のしたのと裏表の関係でした自然主義批評のなかで彼の求めた「ヒロイック」が、作品として実をむすぶことができなかつたところに彼とわれわれとの悲劇があつたのである。

 しかし一部の日本人は、死後三十年のこの作家を改めて侮蔑しようとするかのようである。紙の出どころについてよからぬうわさのある本屋が新しく『漱石全集』を出し、それに景気つけるために漱石賞をつくり、その選者として石川達三、林房雄、林芙美子、横光利一、武者小路実篤、内田百聞、久米正雄、松岡譲、青野季苦、里見の人びとが発表されたのである。これらの人を総体として見るとき、どこに漱石の生き方、漱石の文学との順直なつながりが見出されようか。一体としての彼らのどこに官僚的なものとのたたかい、それからの脱走、金銭からの芸術の防衛、年とるにつれ名がひろまるにつれて増した世俗との対立、人生と文学とにおける真実追求の苦闘が認められようか。戦争に対する彼らの反応が彼らのすべてを一括して漱石に対置している。まことに、まことに、貧しい小学教師にまつこうから丸太をくれ、そのまま拡声器へ「暴力にはあくまで屈せず」と吹きこむカトリックの文部大臣に花たばの捧げられる新憲法世界にふさわしいかぎりの国柄である。」

   (2)
中野重治がこの文章を執筆したのは第一次吉田茂内閣の時で、「カトリックの文部大臣」とは、後に最高裁長官に就任する田中耕太郎のことである。「漱石賞」の「選者」として名前の挙がっている人のなかには内田百や青野季吉もいて、この人たちが中野重治によって十把一絡げに論難されているように見えるのは私には気の毒に感じられるが(中野重治自身これらの人をみな同列に見ていたのではないと思うが)、それはともかくとして、上の文章のなかで、私が特に感銘をうけるのは、「広瀬中佐の愛国詩について、彼はその「俗悪で陳腐で生きた個人の面影がない」(「艇長の遺言と中佐の詩」)ところから、彼の軍人としての「誠実」を疑うことも辞しなかつた。」という箇所である。漱石は『艇長の遺書と中佐の詩』に次のように書いている。

「 昨日は佐久間艇長の遺書を評して名文と云(い)つた。艇長の遺書と前後して新聞紙上にあらはれた広瀬中佐の詩が、此遺書に比して甚だ月並なのは前者の記憶のまだ鮮かなる吾人の脳裏に一種痛ましい対照を印した。
 露骨に云へば中佐の詩は拙悪と云はんより寧ろ陳套を極めたものである。吾々が十六七のとき文天祥の正気の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出来栄である。文字の素養がなくとも誠実な感情を有してゐる以上は(又如何に高等な翫賞家でも此誠実な感情を離れて翫賞の出来ないのは無論であるが)誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉れたならと思ふだらう。」(『朝日新聞』1910年(明治43)年)

明治末の世相に「軍神」「英雄」として喧伝されている人物の遺書について、新聞紙上でこれほど率直に大胆に自己の感想を披瀝し、しかも読者に対して執筆者の誠実さ、真剣さを疑う余地を微塵もあたえない、このような文章は世に稀なことではないだろうか。しかも漱石の執筆は中佐の死の直後なのである。漱石は中佐の詩について、下記のように「偉さう」「偉がってゐる」とまで書いている。

「其詩は誰にでも作れる個性のないものである。のみならず彼の様な詩を作るものに限つて決して壮烈の挙動を敢てし得ない、即ち単なる自己広告のために作る人が多さうに思はれるのである。其内容が如何(いか)にも偉さうだからである。又偉がつてゐるからである。

道義的情操に関する言辞(詩歌感想を含む)は其言辞を実現し得たるとき始めて他をして其誠実を肯はしむるのが常である。余に至つては、更に懐疑の方向に一歩を進めて、其言辞を実現し得たる時にすら、猶且其誠実を残りなく認むる能はざるを悲しむものである。微かなる陥欠は言辞詩歌の奥に潜むか、又はそれを実現する行為の根に絡んでゐるか何方かであらう。余は中佐の敢てせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁(か)するのである。 」

この一文が朝日の文芸欄に載ったのは、1910年(明治43)年7月20日。この時漱石は胃潰瘍のため長与胃腸病院に入院中であり、翌8月には療養のため修善寺温泉に転地している。いわゆる「修善寺の大患」が起きたのはその8月中のことであった。幸い漱石はこの危機を乗り越え、快復に向かうことができたのだが、もし不幸にもそうでなかった場合、『艇長の遺書と中佐の詩』が遺稿になった可能性もあったのではないだろうか。その辺りの詳細は私には分からないが、かりにそうだったとして、私は、この文章は漱石の遺稿として少しも恥じるところのない、むしろ文学者漱石の独創性を如実に示す、遺稿として相応しいものだったとさえ言えるように思う。

このようなことを思うにつけ、また人間の言葉を受けとめる漱石の命を懸けているかのような一徹な真剣さ、内にもっている揺らぎようのない確固とした信念、飾ることのない率直な表明の仕方などを見たり感じたりするにつけ、佐藤優氏の漱石に関する発言はいつも本当に苦々しい。とりわけ、前回述べたところの『ナショナリズムという迷宮』におけるデタラメでいい気な漱石論や、「私と鈴木宗男代議士との関係についても、「私設秘書」と「恫喝政治家」というような関係ではなく、(略)夏目漱石『こころ』の主人公と先生のような関係であることを検察側にどこまで正確に理解させるかということも、私にとっては重要なことです。」(『獄中記』。版元の岩波書店にはこのような佐藤氏の主張をどう考えるのか、今あらためて訊いてみたい。)という、何の実証も伴わない、その必要性の自覚さえまったく感じられないいかにも唐突な発言は、私にはひとえにうまい世渡りのために漱石を利用しようとするもの、そのことによって読者を騙し、さらに漱石を侮辱するものにしか映らない。

追記-以前私は、文芸評論家の三浦雅士氏の『漱石 母に愛されなかった子』という本(岩波新書2008年)について批判的に述べたことがあるが、ただ決してこの本を佐藤優氏の発言と同列に見ているわけではない。三浦氏の本は、過去に多くの漱石論にすでに書かれている内容(たとえば、大岡昇平の『小説家夏目漱石』)が何倍にも薄められ、しかも事実関係が不正確な点が多いように思えた。それが非常に不満足だったのだが、ただ佐藤氏の場合のように悪意や何らかの思惑など他意のあるものとは全然考えていない。下手な書き方のためにそのような誤解をあたえる恐れがあるのではないかとふと気になったので、一応記しておきたい。


最初の意図と異なり、書いているうちに、なんだかタイトルにそぐわない内容になってしまいました。読者の皆様、申し訳ありません。
2010.07.24 Sat l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
大分前のことになるが、こちらの記事で、佐藤優氏が述べている夏目漱石に関する発言(魚住昭氏との共著『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社2006年。朝日文庫2010年)について二点疑問を述べたのだが、どうも書き方が大雑把だったと思うので、もう少し丁寧に書いておきたい。この件については、その後、ブログ「liber studiorum」のa-geminiさんが「佐藤優と夏目漱石」というエントリーをあげ、「昔読んだ岩波文庫の『漱石日記』と『漱石書簡集』をひっくり返してみましたよ。」ということで、漱石自身の言葉を拾いだし、漱石が「ロンドン大学での授業についていけな」かった、という佐藤氏の発言の疑わしさについて言及されている。a-geminiさんのブログは、その他、「マルコフ理論」(?)を駆使して活躍する佐藤氏を取り上げた数々の記事も必読。論評は鋭く、その上、おもしろ味があると思う。

さて、佐藤氏の最初の問題発言「漱石がロンドン大学の授業について行けなかった」という点については、漱石自身、『文学論』の序に、「大学の聴講は三四ケ月にして已めたり。予期の興味も智識をも得る能はざりしが為めなり。」と書いている。友人に宛てた書簡にも「時間の浪費が恐いからして大学の方は傍聴生として二月ばかり出席してその後やめてしまった。」(ブログ「liber studiorum」より引用)とある。また、昨年(2009年)、熊本大学五高記念館で漱石がイギリスから文部大臣あてに提出した申報書(報告書)の写しが発見されているが、その一つには、「大学ノ講義ハ」授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」と記されていたそうである。漱石にとって、ロンドン大学の講義は「期待外れ」のものであり、間違っても「授業についていけない」などということではなかった。そう言い切っていいと思う。(強調の下線および太字は引用者による。以下同じ)

上記の件については私は佐藤氏の発言のいい加減さに呆れたのだが、よりいっそう気になったのは、反論がしにくい(巧く説明するのが難しい)だけにむしろ後者の発言のほうであった。

「そこで見たイギリス人はエリートですよね。彼らはもともと個が確立しているんです。(略)そんな一部を見て、西欧社会全体が個の確立した人間で構成されているというふうに不当拡張してしまったのではないでしょうか。」

いいえ、そんなことはないでしょう。すかさずそう言いたくなるような佐藤氏の上の発言である。漱石は、イギリスの知識層(ロンドン大学関係者)について佐藤氏のように「彼らはもともと個が確立している」とも思わなければ、まして「西欧社会全体が個の確立した人間で構成されている」などと思ったことはいっぺんもないのではなかろうか。管見の限り、私は漱石がそれらしき発言をしているのを読んだことがないし、誰かがそのようなことを書いたり話したりしているのを見聞きしたこともない。上述した「liber studiorum」が掲載している、ロンドンでのある日の漱石の日記の一節を引用させていただくと、

「 ……余が下宿の爺は一所に芝居に行きしところRobinson Crusoeを演ぜしが、これは一体真にあったことなりや小説なりやと余に向って問いたりし故、無論小説なりと答えしに余も然思うといえり。よって18th cent.に出来た有名な小説なりといいしにさようかというて直ちに話頭を転じたり。その女房は先日まで女学校を聞きつつありし女故、少しく教育のあるべきはずなるが文学のことはやはり一、二冊の小説を読みしのみ。そのくせ生意気にて何でも知ったかぶりをするなり。こちらにて少々六ずかしき字を使えば分らぬくせに先方にてはくだらぬ字を会語中に挟みてこの字を知っているかと一々尋ねられるには閉口なり。これらはただ現今のOuidaまたはCorelli位の名を如るのみ。しかして必ずしも下賤なものにはあらず。中以下は篤志のものにあらざれば概してかくの如きものならん。会話は自国の言語故無論我々鯱立しても及ばぬなり。しかしいわゆるcockneyは上品な言語にあらず。かつ分らぬなり。倫敦に来てこれが分れば結構なり。倫敦上流の言語は明晰にて上品なり。standardならんか。これなら大抵分るなり。かかる次第故西洋人と見て妄りに信仰すべからず。また妄りに恐るべからず。しかしProf.などは博学なものなり。それすら難問を出して苦めることは容易なり。」

佐藤氏がどこで上述のような話を仕入れたものか分からないが、困るのは、発言の根拠が示されていないこと。これはいつものことなのだが、読むほうは正確な判断・論評をするのに非常に支障をきたす。困ることのもう一つは、佐藤氏の発言が、一見しただけではもっともらしく見えることである。当時の日本と西欧の位置関係ということもあるし、また、漱石がロンドンで一時期傍目にも病的な精神状態におちいっていたという周知の事情があるためでもある。よく知られているように、漱石は『文学論』の「序」に、

「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。」「英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。」(『文学論』の「序」)

と書いている。もしかすると、佐藤氏は漱石自身のこの有名な言葉から、「大学の授業について行けなかった」とか「西欧社会全体が個の確立した人間で構成されているというふうに不当拡張してしまった」などの勝手な憶測をしたのではないだろうか。しかし、漱石にとってのイギリス留学は、もしこれがなかったならば、今在るかたちでの文学者漱石は誕生しなかったであろうというくらいの重大な出来事なのだから、そういうことに関して佐藤氏のように、さしたる根拠もありそうにない話をさもさも確実な事実であるかのように本のなかでしゃべるのは読者にとって困ったことだ。それも本の発行元はかつて漱石が契約社員として小説その他のほぼ全文章を発表しつづけた朝日新聞社なのだから、呆れてしまう。

1900年(明治33年)の留学当時、イギリスはヴィクトリア朝の末期、イギリスについて述べている漱石の言葉から推測すると、イギリスという国もロンドンの街も漱石には親しみや好ましさを感じさせなかったようだ。また、ほとんどの時間を下宿の自室に閉じこもり、読書と思索に没頭していたようなので、これではさぞかし孤独であったろう。その上、経済生活は衣食住にもこと欠く余裕のないもので、この経済的困窮にも漱石は苦しめられたようである。上述した熊本大学五高記念館で見つかった報告書には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」とも記述されていたそうで、そのようにただでさえ苦しい経済事情のなかで、漱石はロンドン市中の古書店からなんと800冊前後もの本を購入して帰国しているのだから、不如意の程も察せられる。けれども、漱石は後年、『私の個人主義』(学習院大学における講演会の筆記録。1914年(大正3年))のなかで、イギリス留学を振り返って、

外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。

と述べている。漱石は自分について大袈裟なことを言わない人、何事においても自己を吹聴するような行為を嫌悪する人だった。そのことは文章を読めば感じとれることだが、また多くの証言にもそれは表れている。たとえば漱石晩年の門下生であった内田百は漱石が『道草』を書いていた当時、部屋の一隅に積んであった書き潰し原稿を見て、他の二人の門下生共々、「その書き潰しの原稿用紙を頂戴したいと云ふ事を、恐る恐る先生に申し出」ると、「そんな物がいるなら持つて行つてもいいよと先生が云つたので、早速三人で分けた。」そうである(『漱石先生の書き潰し原稿』)。この出来事について、百は、「先生が御自分の書き潰しの反古などを私共にやつてもいいと云はれたのは、不思議に思はれる」と書いている。百によると、

「大體先生はさう云ふ事がきらひであつた。私共から云へば、先生の推敲の跡をその儘に辿つて見られる書き潰しの原稿は何物にも代へ難い物であるけれども、先生から見れば屑籠に入れる前の紙屑に過ぎない。さう云ふ物を傍から大事がるのは傍の者の勝手としても、先生自身からそれに便宜を興へると云ふ様な事を先生はしたがらない人であつたが、その時はどう云ふ風の吹き廻しか、安安とお許しが出た。/トルストイは自分が天才であると云ふ事を自分で承知してゐるが、ドストイエフスキーはそんな考は少しもなく、ただ自分の生活の為にあれだけの仕事をした。ゲーテは自分の名が後世に傳はる事を生きてゐる内から知つてゐたに違ひないが、シェクスピヤは今日まで自分の作品が読まれようなどとは夢にも思はなかつたであらうと云ふ様な事を漱石先生が話されるのを聞いた事がある。(略)漱石先生が右の話でドストイエフスキーやシェクスピヤの方を買つて居られた事は云ふ迄もない。」(『漱石先生の書き潰し原稿』)

漱石がそういう人となりであるだけに、晩年になって(1914(大正3)年。死去の2年前)、自ら実質的にイギリスで「ある力を得」て帰って来たと公言していることはよりいっそうの重みをもって聞こえる。確かにイギリス留学は結果的に漱石の人生を一変させる出来事になったわけだが、なぜそうなったのか、その経緯については、漱石が大学で英文学を専攻して勉強を始めてからの歩みを知る必要がある。『文学論』の「序」や『私の個人主義』などにおける漱石自身の言葉を見ることにしたい。

「 私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。その頃はジクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞が落ちていると云って叱られたり、発音が間違っていると怒られたりしました。試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並べてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい解るはずがありません。(略)とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです。私の煩悶は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支ないでしょう。 」(『私の個人主義』)

漱石は幼少の時から漢文学に親しんでいて、自分の漢詩文を味わう力には疑いをもっていなかった。それだけではなく、漢詩の創作力、文章力においても抜群の技量をもっていた。大学予備門時代、23歳の漱石は夏休みに友人たちと房総に旅行したが、帰京後、漢詩文紀行『木屑録』を書いた。同級の親しい間柄であった正岡子規に見せると、子規は「英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なり」と跋を書いてよこしたそうである(『正岡子規』ホトトギス1908(明治41)年)。漱石が東京帝国大学の英文科に進むのはその翌年だから、してみると、予備門時代から漱石は英語力においてもよほど秀でていたのだろう。ともかく当時の漱石は英文学に対しても、これまで自分が漢文学に対して培ってきた文学の観念で向き合えば、それでそのまま通るものと考えていたようである。

「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。」(『文学論』の「序」)

ところが、現実はそうではなかった。英文学の勉強を積み重ね、その結果周囲から優秀だと賞賛されても、心の内は英文学への違和感に付き纏われ、「文学とはどういうものだか、……」「とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだった」(『私の個人主義』)と心の内を打ち明け、さらに『文学論』の「序」では次のようなことまで言っている。

卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。余はこの不安の念を抱いて西の方松山に赴むき、一年にして、また西の方熊本にゆけり。熊本に住すること数年いまだこの不安の念の消えぬうち倫敦に来れり。

このような煩悶、不安をかかえた漱石はロンドンの下宿の一室で英文学の研究のためにこれまで読みたくても読めなかった著名な本を片端から、とにかくできるかぎり数多く読破するという方針を採ったそうである。その経過と結果は、

「擅まに読書に耽るの機会なかりしが故、有名にして人口に膾炙せる典籍も大方は名のみ聞きて、眼を通さゞるもの十中六七を占めたるを平常遺憾に思ひたれば、此機を利用して一冊も余計に読み終らんとの目的以外には何等の方針も立つる能はざりしなり。かくして一年余を経過したる後、余が読了せる書物の数を点検するに、吾が未だ読了せざる書物の数に比例して、其甚だ僅少なるに驚ろき、残る一年を挙げて、同じき意味に費やすの頗る迂闊なるを悟れり。」(『文学論』の「序」)

仮に一日一冊読了したとしても一年で365冊。本は万巻を数えるのだから、漱石の「驚ろき」も「迂闊なるを悟れり」もどんなにか切実な実感だったろう。漱石はその時の衝撃や感慨、決意について下記のように記している。

「 翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は之を充分味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。/ 大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会せり。/余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。/余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。/ 余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。」「余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。始めは茫乎として際涯のなかりしものゝうちに何となくある正体のある様に感ぜられる程になりたるは五六ケ月の後なり。/ 留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。」(『文学論』の序)

「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心した」以後のことを、漱石は『私の個人主義』においては下記のように説明している。

「 私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。今は時勢が違いますから、この辺の事は多少頭のある人にはよく解せられているはずですが、その頃は私が幼稚な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私のやり方は実際やむをえなかったのです。 」

漱石についての著作がある文芸評論家の樋口覚氏によると、漱石が英国から持ち帰った本のなかには自然科学書がかなりあったそうである。これにはロンドンの下宿で一時同宿した科学者の池田菊苗の影響が大きかったことは小宮豊隆著『夏目漱石』に書かれている。また、漱石の談話筆記『處女作追懷談』にも、「池田君は理學者だけれども、話して見ると偉い哲學者であつたには驚ろいた。大分議論をやつて大分やられた事を今に記憶してゐる。倫敦で池田君に逢つたのは、自分には大變な利益であつた。御蔭で幽靈の樣な文學をやめて、もつと組織だつた研究をやらうと思ひ始めた」とあるほどである。漱石は、ロンドンから帰国した直後の自身の生活に題材をとった小説『道草』において、主人公健三の生活ぶりを次のように描いている。

「健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心は殆んど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。/ 娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から謡の稽古を勧められて、体よくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。/自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。」(『道草』1915(大正4)年)

上の文章のうち、「自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている」という叙述はつと胸をつかれるほど印象的だが、重要なのは、「心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた」という表現だと思われる。留学前、漱石の心にわだかまりつづけていた「英文学に欺かれたるが如き不安の念」は、イギリス留学を終えた後、「異様の熱塊があるという自信」に変わったのではないだろうか。時間に対する守銭奴の如き態度にしても、心の底に存在する「異様な熱塊」の促しだとも理解できるように思う。
2010.07.23 Fri l 文芸・読書 l コメント (3) トラックバック (0) l top
 「ジューチカの贋もの説」と「マトリョーシャのマゾヒスト説」- 発想の根は同一

前回、「ペレズヴォンはジューチカに非ず」という亀山氏の説を取り上げ、あれこれ思いをめぐらしたり、記事を書いたりしているうち、亀山氏が著書「『悪霊』神になりたかった男」で『悪霊』のマトリョーシャについて述べていた説を思い出してしまった。マトリョーシャが母親に布きれやペンナイフを盗んだ疑いで折檻される場面について、マトリョーシャはその時泣きながらマゾヒスト的な快感を覚えていたのだと言うくだんの説である。もともとこのような読み方は私には突拍子もないことにしか感じられなかったし、以前からドストエフスキー研究者の木下豊房氏や萩原俊治氏などからつよい批判や反論が発せられていたわけだが、別の犬をジューチカに似せるために誰かがその顔に傷を付けた可能性があると述べているのをあらためて読んでいるうち、これはスタヴローギンに凌辱され、その結果首を吊って死んでしまった少女マトリョーシャをマゾヒストと見るのと同じ質の発想であり、二つの説には同じ幹から生え出た二本の枝のような関係があるのではないかと思った。マトリョーシャは12歳、コーリャは13歳である。マゾヒストとかサディストなどというフロイト学説に依拠した亀山氏の作品解釈自体に私はとてつもない違和感を覚えるし、亀山氏の述べるところを聞いてもあまり根拠をもっての説とも感じられないのだが、「解題」を読むと、亀山氏は、ペレズヴォンとジューチカの関係をめぐってコーリャに対してもその説を適用しているように見える。「解題」で開陳されている「ペレズヴォンはジューチカに非ず」という亀山氏の解釈をあらためて見てみる。

「コーリャは、結核で死にゆこうとするイリューシャの「傷」の原因を推しはかり、ジューチカ(?)を探してきて徹底的に仕込むのだが、非情なしごきに似たその訓練ぶりは、彼の冷徹な意志を思わせる。/ こうして、片目がつぶれ、耳に裂け目のはいったペレズヴォン(改名されたジューチカ)は、コーリャに完壁に奉仕する存在となった。文字通り「ございます犬」の誕生である。コーリャをめぐる、このあたりの微妙な設定のもつ重層性を理解するには、くどいようだが、「第二の小説」の知られざる構想にまで想像の翼を広げて考えないことにはおぼつかない。犬のジューチカとペレズヴォンが同一かどうかという問題は、複雑きわまりない連想の糸をたぐり寄せてしまう。もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。」(「解題」。下線は引用者による。以下同じ。)

上の文章を読むと、亀山氏はここで、ペレズヴォンとジューチカとは同一犬ではない、コーリャがペレズヴォンの片目をつぶし、耳に裂け目を入れてジューチカに似せたのだと主張していると見て差し支えないと思われる。亀山氏は、いや自分は同一犬ではないと断定しているわけではない、単に疑いがあると述べただけだと言うかも知れない。しかしそのような弁解は成り立たないと思う。このような作品全体の秩序を根幹から揺るがしかねない重大な新説を述べる以上、亀山氏にはロシア文学者として、また『カラマーゾフの兄弟』の翻訳者として、発言に責任が生じるのであり、これはその覚悟がないかぎり公言すべき性質の説ではないはずだからだ。また、自分は「だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか」という文のとおり、決して片目をつぶし、耳に裂け目を入れたのがコーリャだと断定しているわけではないとも言うかも知れない。けれども、コーリャは犬(ジューチカ)を探し出したことを誰にも打ち明けていない。家の中で一人で隠密裏に飼育し、芸を仕込んでいたのだから、犬の顔に傷をつけることができるのはコーリャしかいない。まさか二人暮らしのコーリャの母親はそんなことをするなんぞ考えも及ばない性質の人である。

コーリャがジューチカそっくりの犬を作り上げるために、別の犬の顔にナイフで傷を付けたという解釈がどんなに重大であるかは、その場面を想像してみるだけで分かろうというものである。亀山氏は、登場人物の誰彼についてあれはマゾヒストだとかサディストだとか断言しているが(管理人注:リーザやイワンの名が挙がっている)、スメルジャコフについて、下記のように述べている。

「小説のなかでのきわめつきのサズィストは、むろんスメルジャコフである。猫の葬式ごっこをして遊んだ彼は、やがてイリューシャをそそのかし、犬への残虐ないじめを実行させた。」(「解題」)

柔らかいパンの中にピンを入れて飢えた犬に食べさせ、それがどうなるか見物しよう、というのは残酷な趣味である。スメルジャコフにそそのかされたとはいえ、自分もスメルジャコフと一緒にその行為をやってしまったために、イリューシャは重い病気になるほど苦しんでいた。コーリャに事情を打ち明けた時のイリューシャの様子は、コーリャによると、

「犬は、すぐにとびついて丸呑みにするなり、悲鳴をあげて、ぐるぐるまわりだすと、やにわに走りだし、走りながらきゃんきゃん悲鳴をあげて、そのまま消えてしまったんです。これはイリューシャ自身の言葉ですけどね。あの子は僕に打ち明けると、おいおい泣きながら、僕に抱きついて、身をふるわせていました。『走りながら、きゃんきゃん悲鳴をあげるんだ』と、そればかりくりかえしてましたっけ。」(『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳。以下同じ)

イリューシャの心のなかは「きゃんきゃん悲鳴をあげて」いたジューチカで占められていたのである。そういうイリューシャの苦しみをコーリャは隅々まで十分には理解していなかった。理解していたならば、探し出したジューチカに芸を仕込むなどの計画を思いついたり、実行したりなどしないで、すぐにイリューシャの元に連れて行っただろう。コーリャはそのようにして真っ先にイリューシャを安心させるよりも、ふっくらと犬を太らせ、芸のできる完璧な犬に仕上げたいという自己の欲望の方を優先したのだ。それは何事においても自分本意の考え方から抜け出せない彼の性質のためであろうが、それだけではなく13歳という少年らしい子どもっぽさ、幼さのせいでもあっただろうと思う。それにもう一つ、その方がイリューシャをより喜ばせることができるとも考えたのだろう。このようなコーリャが見知らぬ犬の「片目をつぶし、耳に裂け目を入れる」行為をするなんぞ現実的に想像できるだろうか?

そのような発想・行為は、パンの中にピンを入れてそれを呑み込んだ犬がどうなるか見物しようと言い出したスメルジャコフのそれとどう違うだろうか。スメルジャコフが「きわめつけのサディスト」ならば、犬の顔に傷をつけるコーリャも「きわめつけのサディスト」になるだろうし、事実、亀山氏はそのように主張したいのだろう。これを、犬の立場になって考えるとどうなるだろうか。ピンの入ったパンを投げあたえられることと、口や耳にナイフを刻まれることとの間に苦しみにおいてどのような違いがあるだろうか。またコーリャがそのようなことをしてジューチカの贋ものを作り上げたとして、もしイリューシャがその事実を知ったならば、彼は絶望してその瞬間に死んでしまうのではないだろうか。コーリャははたしてそのようなことを理解できない少年だろうか? またペレズヴォンがジューチカでなかったのなら、日夜ジューチカのことで頭を一杯にして、父親のスネギリョフに、

「僕が病気になったのはね、パパ、あのときジューチカを殺したからなんだ、神さまの罰が当たったんだよ」(『カラマーゾフの兄弟』)

とアリョーシャの前で三度もくりかえして言っていたというイリューシャが、コーリャが伴ってきた犬を見てそれがジューチカでないことに気づかないなどということがありえるかどうか、亀山氏は考えなかったのだろうか? またアリョーシャがそのような出来事の不自然さに気づかないということがありえるかどうかについても思いをめぐらせなかったのだろうか? コーリャは、自分が引き起こした衝撃のために布のように顔を蒼白にしているイリューシャに向かって無邪気にこう言うのだ。「どうしたの? こいつを君のベッドへ上がらせりゃいいよ。こい、ペレズヴォン!」。そして、

「コーリャが掌でベッドをたたくと、ペレズヴォンは矢のようにイリューシャのところにとびこんだ。イリューシャはやにわに両手で犬の首をかかえこみ、ペレズヴォンはそのお返しにすぐさま頬を舐めまわした。イリューシャは犬を抱きよせて、ベッドに身を伸ばし、顔を房々した犬の毛に埋めてみなから隠した。 」(『カラマーゾフの兄弟』)

この後、コーリャは、鞄からブロンズの大砲を取り出してみんなに見せるのだが、そのときのコーリャの心情について、ドストエフスキーは下記のように叙述している。

「急いだのは、彼自身も非常に幸福な気持だったからだ。これがほかのときなら、ペレズヴォンのひき起した効果のおさまるのを待ったにちがいなかったが、今はあらゆる自制を軽蔑して、急いだ。『これだけでも君たちは幸福だろうが、もう一つおまけに幸福をあげよう!』と言わんばかりだった。彼自身もすっかり陶酔していた。」(『カラマーゾフの兄弟』)

コーリャは常に自分というものの価値について過剰に意識しないではいられない、従ってその行動がどうしても自分本意になりがちの少年ではあるが、同時に利発で愛情のふかい善良な少年であることにも疑いの余地はないだろう。コーリャはイリューシャが寝ている部屋に入ってきた時、下記のような様子を見せた。

「 だが、コーリャはもうイリューシャのベッドのわきに立っていた。病人は目に見えて青ざめた。ベッドに半身を起し、食い入るようにまじまじとコーリャを見つめた。コーリャは以前の小さい親友にもう二カ月も会っていなかったので、突然すっかりショックを受けて立ちどまった。こんなに痩せおとろえて黄ばんだ顔や、高熱に燃えてひどく大きくなったような目や、こんな痩せ細った手を見ようとは、想像もできなかったのだ。イリューシャが深いせわしい呼吸をしているのや、唇がすっかり乾ききっているのを、彼は悲しいおどろきの目で見守っていた。一歩すすみでて、片手をさしのべると、まったく途方にくれたと言ってよい様子で口走った。
「どうだ、爺さん‥…具合は?」
 だが、声がとぎれて、くだけた調子はつづかず、顔がなにかふいにゆがんで、口もとで何かがふるえだした。イリューシャは痛々しい微笑をうかべていたが、相変らず一言も言えずにいた。コーリャがふいに片手を上げ、何のためにかイリユーシャの髪を掌で撫でてやった。
「だいじょぶ、だよ!」小さな声で彼はささやいたが、それは相手をはげますというのでもなく、何のために言ったのか自分でもわからぬというのでもなかった。二人は一分ほどまた黙った。」(『カラマーゾフの兄弟』)

そのコーリャについて、今、コーリャの連れてきた犬を抱いているイリューシャがどのように感じているかと言えば、

「彼はつきない興味と楽しみをおぼえながら、コーリャの話をきいていた」(『カラマーゾフの兄弟』)

イリューシャとコーリャに対するこのような描写を見れば、亀山氏の想像がいかにありえないことであるか、愚劣であり、残忍でさえあるかが一目瞭然であろう。亀山氏は、コーリャがジューチカに似せるために、どこかから連れてきた犬の耳や口にナイフを入れている場面を具体的に想像してみたことがあるのだろうか。それともそんなことは考えもせず、ただ自分の思いつきに夢中になってそのような読解が現実に成立しえることかどうか検討することもなく述べたのだろうか。どちらなのか私には分からないが、亀山氏のこの見解は、『悪霊』のマトリョーシャについて述べたマゾヒスト説とよく見合った、同一の発想によるもののように思う。

『悪霊』の主人公、ニコライ・スタヴロ-ギンは、ある時期、女性との逢い引きのためにゴロホワヤ街の大きな建物のなかの一部屋を、ロシア人の町人夫婦からまた借りしていたが、マトリョーシャはその夫婦の娘である。

「母親は娘を愛してはいたのだが、よくぶつことがあり、町人によく見られるように、〔何かにつけ〕ひどくどなりつけることもあった。この少女は私の女中代りで、衝立のかげの片づけもしてくれた。」(『悪霊』江川卓訳。以下同じ)

と、スタヴローギンはチホンに見せた告白の文書に記している。亀山氏が「マゾヒズム」説を唱える根拠にしている場面の文章を『悪霊』から下記に引用する。(下線は引用者による。)

「ある日、私の机の上からペンナイフがなくなった。それはまったく不必要なもので、なんということもなく、そこに置きっぱなしになっていたものである。まさかそのために娘が折檻されるなどとは思いもしないで、私はそのことを主婦に話した。ところが彼女はたったいま、何かのぼろきれがなくなったのを、娘が〔人形を作るために〕盗んだにちがいないと考えて、娘をどなりつけ、髪をつかんでお仕置きまでしたところだった。そのぼろきれはまもなくテーブル掛けの下から見つかったのだが、少女は〔自分が非もないのに折檻されたことに対して〕文句ひとつ音おうとはせず、ただ黙って目をむいているばかりだった。私はそのことに気づき、〔彼女はわざと文句を音おうとしなかったのだ〕またそのときはじめて少女の顔に目をとめた。それまでは、ただちらちら見かけるという程度だったのだ。彼女は髪や眉の白っぽい、顔にそばかすのある子で、ごくふつうの顔立ちをしていたが、表情にはほんとうに子供子供した、もの静かなところ、いや、度はずれにもの静かなところがあった。母親は、理由もなくぶたれたのに娘が口答えをしないのがおもしろくなくて、なぐりこそしなかったが、人形をつかんで娘の頭上にふりあげたところだったが、ちょうどそこへ、私のペンナイフの一件がもちあがったのである。[事実、その場に居合せたのは私たち三人だけで、私の部屋の仕切りのかげにはいったのは、少女一人だけだった。]おかみは、最初の折檻が自分の手落ちであっただけにすっかり逆上してしまい、[箒にとびついて]箒から小枝の束を引抜くと、娘がもう数えで十二歳だというのに、私の見ている前で、みみずばれができるほど娘を打据えた。マトリョーシャは打たれても声をあげなかった、おそらく、私がその場に居合せたからだろう。しかし、打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。
[ところが、実はその前にこういうことがあったのである。おかみが鞭を作るために、箒のほうへとんでいったちょうどそのとき、私はたまたま自分の寝台の上に、何かのはずみで机からそこへ落ちたのだろう、例のペンナイフを見つけたのである。私の頭にはそのとき、娘をぶたせるために、このことを言わないでおいてやろうという考えがうかんだ。私は即座に決心を固めた。こういう際、私はいつも息がとまりそうになる。しかし私は、何ひとつ秘密の残らないように、いっさいをできるかぎり明確な言葉で語っておくつもりである。
(略)
少女は、泣いたあと、いっそう無口になった。私に対しては、悪感情をもっていなかったと確信している。もっとも、私の目の前であんなふうに折檻されたことを恥ずかしく思う気持は、たしかに残っていただろう。しかし、こういう羞恥を感じながらも、彼女は、従順な子供らしく、自分一人を責めていたようである。」(『悪霊』)

亀山氏は、「打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。」というマトリョーシャの態度をマゾヒスト説の根拠にしているようである。しかし、これについては、上述の木下氏や萩原氏からロシア語の解釈を含めた明確な反論が出ているが、私も翻訳の一読者としてそのような解釈はまったく成立しえないように感じる。まず、スタヴローギンは、マトリョーシャが母親からみみみずばれができるほどに打据えられても声をあげなかった理由について、「おそらく、私がその場に居合せたからだろう。」とちゃんと書いている。また、マトリョーシャの普段の様子について、「表情にはほんとうに子供子供した、もの静かなところ、いや、度はずれにもの静かなところがあった。」とも記している。彼女はつよく自己主張するような性質ではまったくなく、自分一人で我慢する性質であり、この時もよその人であるスタヴローギンがいたこととともに我慢して声をあげなかったのだろう。そのことは、この事件の後のマトリョーシャの様子についてスタヴローギンが「私の目の前であんなふうに折檻されたことを恥ずかしく思う気持は、たしかに残っていただろう。しかし、こういう羞恥を感じながらも、彼女は、従順な子供らしく、自分一人を責めていたようである。」と述べていることでも明らかだと思う。

次に、「打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。」というマトリョーシャの態度は、どんなに彼女が忍耐つよい従順な性格であっても、これは確か萩原氏がブログ「こころなきみにも」で述べていたことだと思うのだが、なんの落ち度もなく濡れ衣をきせられ、打ち据えられたのが口惜しかった、納得できなかった、同時に切なく悲しかったからだろう。実はマトリョーシャにかぎらず、子どもはふとこのような姿態をかいま見せることが往々にしてあるものなのだ。子どもはたとえば可愛がっていた生き物に死なれたり、親に理不尽な怒られ方をしたり、年長の友達にいじめられたりして、幼くして人生の不条理を切々と感じることがある。そんな時、どうかすると1時間や2時間、あるいはそれ以上の長い時間、沈黙のうちにただえんえんと泣きじゃくったりすることがあるのだ。そういう時の子どもの姿は孤独感や物悲しい神秘的な気配さえ醸し出していることもある。このことは自分自身や兄弟姉妹やわが子の幼年時代を思い出してみると、誰しもふと思い当たることがあるのではないだろうか。打たれても声をあげなかった、しかし、打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた、この時のマトリョーシャの態度を私は特に不思議にも不可解にも感じないし、むしろ既視感を覚える。ドストエフスキーはこのようなことを十分に知り尽くしていたのではないだろうか。

またスタヴローギンはぼろきれやペンナイフが紛失した事情をこと細かに説明しているが、これはマトリョーシャが受けた打擲は紛れもなく濡れ衣であること、それとともにマトリョーシャの忍従的な性格の表現ということがスタヴローギンのみならず、作者の意図にもあったのではないかと思うのだが、その点についての亀山氏の解釈はどうなのだろうか? モノが紛失した事情がこんなに丁寧に描かれている理由も考えに入れるべきではないだろうか。ここにマゾヒズムの入り込む余地はないように思う。なにより、マトリョーシャがマゾヒストなら、スタヴローギンに凌辱された後、彼女はなぜ病気になるほど一人で苦しみ、「神さまを殺してしまった」とうわごとを言い、顔には「子供の顔には見られるはずのない絶望があらわれ」、ついには首を吊って死んでしまうようなことになったのだろうか。スタヴローギンは文書に、この後、納屋で首を吊って死んでしまうマトリョーシャについて、死の直前の様子を次のように書いている。

「マトリョーシャのほかにはだれもいなかった。彼女は自分の部屋の衝立のかげの母親のベッドに横になっていて、ちらと顔をのぞかせたのが見えたが、私は気がつかないふりをしていた。窓はあけられていた。空気はあたたかく、暑いほどだった。私はしばらく歩きまわってから、ソファに腰をおろした。このときのことは、ほんの一瞬にいたるまで、はっきりと記憶している。私は、なぜか知らぬが、自分がマトリョーシャに声をかけようとせず、彼女を苦しめていることに、すっかり満足しきっていた。私はたっぷり一時間ほど待った。すると、ふいに彼女が衝立のかげからとびだしてきた。彼女がとびだした拍子に、その両脚が床にふれてことんと音を立てたのが聞え、それから、かなり足早な足音が聞えて、彼女は私の部屋の戸口に立った。[彼女は突っ立ったまま、黙ってこちらを見ていた。卑劣にも私は、辛抱しとおして、彼女のほうから出てくるまで待ちおおせたことがうれしくてたまらず、心臓がどきりと躍ったほどだった。]私はあのとき以来、一度も彼女を間近で見たことがなかったが、たしかにこの間に彼女はひどくやつれていた。顔はかさかさに乾き、頭はたしかに熱をもっているらしかった。(管理人注:この前に、スタヴローギンは、マトリョーシャの母親から、「マトリョーシャがもう三日も病気で、毎晩熱を出し、うわごとを言う」と聞いていた。どんなうわごとを言うのかとたずねると、それは「おびえた」うわごとで、「神さまを殺してしまった」というようなことを口走るのだと。)
 目は前よりも大きくなって、じっと私を見据え、最初そう思えたのだが、鈍い好奇心を浮べているようだった。私はすわったまま相手を見返し、その場を動こうとしなかった。そして、そのときふたたび、ふいにまた憎悪を感じた。しかし、すぐとまた、彼女が全然私をこわがっていないで、ひょっとすると、熱に浮かされているのかもしれないと気がついた。しかし、熱に浮かされているのでもなかった。やがて彼女は突然私に向って、しきりと顎をしゃくりはじめた。無邪気な、まだ非難の仕方も知らないような子供が、相手を強くとがめるときの、あの顎のしゃくり方である。それから、ふいに彼女は私に向って小さな拳を振りあげ、その場所から私を脅しはじめた。最初の瞬間、私にはそのしぐさが滑稽に思われたが、じきに耐えきれなくなってきた。[そこで私はふいに立ちあがって、恐怖をおぼえながら足を踏み出した。〕彼女の顔には、子供の顔には見られるはずのない絶望があらわれていた。彼女はなおも脅すように私に向って手を振りあげ、とがめるように顎をしゃくった。私は[立ち上がり、恐怖をおぼえながら彼女のほうへ足を踏み出し]、用心深く、小声で、できるだけやさしく声をかけたが、彼女が何も理解しそうにないことに気づいた。それから彼女はふいに、あのときと同じように、両手でさっと顔を覆うと、その場を離れて、私に背を向けて窓ぎわに立った。……](『悪霊』)

コーリャが犬の耳と口にナイフで傷を付けたのではないかという説も、マトリョーシャが母親の折檻にマゾヒスト的快感を覚えていたという説も、私は現実的な検証にとうてい耐ええない単にグロテスクな読解だと思う。コーリャとイリューシャとジューチカ(ペレズヴォン)とは物語のなかでたがいに緊密な関係をもって存在している。スタヴローギンとマトリョーシャの関係についても同じことが言えると思う。それに対して、亀山氏は一人遊びのような感覚でできるだけ刺戟のつよい思いつきを考え出しては、それらをほとんど吟味もしないで公開の場で披露しているように思える。亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』は、ネットで検索してみたところ、どうやら朝日新聞の『ゼロ年代の50冊』のうちでも上位に選出されているようである。私は「ペレズヴォンはジューチカにあらず」という説は『カラマーゾフの兄弟』という作品の根幹を揺さぶる重要な読解の一つだと思うので(管理人注:「解題」にはこの他にも重大な場面に対する摩訶不思議な読解が多数あると思う。)、この作品を選出し、推称している選考委員の人々には、亀山氏のこの読解をどのように考えるのか、このような読解がこれまでに指摘されてきた夥しい質量の誤訳と関係はないのかどうか、一人一人に考えを聞いてみたいと思うのだが、望めないだろうなぁ。でもこの程度の読者の質問にも応えられない専門家の存在というのも思えば物悲しいものではないだろうか。本来、このような問題は、人に質される前に、出版・編集者をはじめとした関係者は確固とした自分の考えをもっていて然るべき範疇のことのはずなのだが……。
2010.07.10 Sat l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
   

朝日新聞の読書企画「ゼロ年代の50冊」に亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が選ばれていることに関連して、読者として感じていることをもう少し書いておきたい。いろいろ考えても、否、考えれば考えるほど、この翻訳が識者、編集者、読者によって朝日新聞の紙面に見るごとく絶讃されている状況(注1)は異様で、これは文学作品の基本的な味読や読解力の面で、また出版・編集関係者の熱意や誠意の面でも、致命的な衰退・腐敗・歪みをきたしていることの表われのように思えてくる。なぜそのように思ってしまうのか、その理由・根拠について『カラマーゾフの兄弟』に対する亀山氏の読解の一例を具体的に細かに見てみることで探ってみたいと思う。

亀山氏は『カラマーゾフの兄弟 5』に「解題」を載せていて、そこで『カラマーゾフの兄弟』を自分がどのように読んだかを登場人物とその行動に即して述べている。その内容には思わず唖然としてしまう説が少なくないのだが、その一つに、コーリャ少年が十分に芸を仕込んだ上で病床のイリューシャの元に連れてきた犬ペレズヴォンは、イリューシャが待ち焦がれていた犬ジューチカではないという示唆をしていることがある。亀山氏は「もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。」とまで述べている。これがどんなに驚くべきまた恐るべき読解であるかは、あの場面を実際に読んだことのある者なら誰でも感じることではないかと思うのだが、日本の文壇(今も存在するのかどうかは知らないが)や雑誌・新聞を含む読書界においては、あるいはもうそうではないのだろうか?

イリューシャはまだ元気で学校に通っていたころ、スメルヂャコフにそそのかされて飢えた犬にピンを埋め込んだパンを投げ与えるという残酷ないたずらをした。この事件についてイリューシャからすべての事情を打ち明けられていたコーリャが後にアリョーシャに語ったところによると、

「あの子は何かのきっかけで、あなたの亡くなったお父さん(そのころはまだ生きてらっしゃいましたけど)の召使スメルヂャコフと親しくなって、あの男がばかなあの子に愚劣ないたずらを、つまり残酷な卑劣ないたずらを教えこんだんです。パンの柔らかいところにピンを埋めこんで、そこらの番犬に、つまり空腹のあまり噛みもしないで丸呑みにしてしまうような犬にそれを投げてやって、どうなるかを見物しようというわけです。」(引用は新潮文庫の原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』から。以下同じ。)

そこで二人はそういうパン片をこしらえて、片目がつぶれ、左耳が裂けているむく犬のジューチカに投げてやった。

「犬は、すぐにとびついて丸呑みにするなり、悲鳴をあげて、ぐるぐるまわりだすと、やにわに走りだし、走りながらきゃんきゃん悲鳴をあげて、そのまま消えてしまったんです。これはイリューシャ自身の言葉ですけどね。あの子は僕に打ち明けると、おいおい泣きながら、僕に抱きついて、身をふるわせていました。『走りながら、きゃんきゃん悲鳴をあげるんだ』と、そればかりくりかえしてましたっけ。」

イリューシャからこの話を聞き終えると、コーリャは次のような態度をとったのだという。

「あの子を鍛えてやりたかったもんですから、実を言うと、ちょっと芝居をして、実際は全然それほどじゃなかったかもしれないのに、すごく怒ったふりをしたんです。僕は言ってやりました。『なんて卑劣なことをしたんだ。君は卑劣漢だぞ。もちろん僕は言いふらしたりしないけど、当分君とは絶交だ。』」

コーリャは数えで13歳、イリューシャはコーリャより3つか4つ年下である。悲しみと苦しみに苛まれていたその時のイリューシャにとって、誰よりも慕っていたコーリャのこのような態度はどんなに大きなショックだったろう。その上、この出来事の直後、イリューシャは学校帰りに父親のスネギリョフがドミートリーにあご鬚を掴んで往来を引きずり回される場面を目撃することになる。その時イリューシャは二人の間に割って入り、父親を許してくれるようにドミートリーに懇願さえしている。愛してやまない父親のその時の惨めな様子を友だちから「へちま、へちま」とからかわれると、イリューシャは父親をかばってみんなに一人真っ向から立ち向かうが、このようなつらい境遇は、イリューシャにナイフでコーリャの膝をついて血を出させたり、友だちと石の投げ合いをするような事態に追い込むことになる。その結果、イリューシャは完全に孤立してしまうのだが、彼が重い病気に罹るのは、このようないくつもの心労が重なった後のことだった。

イリューシャが病気になり学校を休むようになると、アリョーシャの絶妙なタイミングの助言や仲立ちもあり、友だちはみんな次々にイリューシャを見舞い、仲直りをした。ところが、コーリャは訪ねて行こうとしないのだ。イリューシャと真っ先に和解したスムーロフ少年に、コーリャは「病人を見舞いに行くのなら、《自分なりの計算》がある」とか、「ジューチカが生きてさえいるなら、犬一匹探しだせないなんて、揃いも揃って間抜けばかりだ」と謎のようなことを言うのだったが、実は、後にコーリャ自身が述べるところによると、彼はジューチカを探し出して、この犬にペレズヴォンという名を付け、家で懸命に芸を仕込んでいたというのである。完璧な芸を覚えさせた後に、イリューシャの元に連れて行き、驚き喜ばせようという計画を練っていたというのだ。後にそれを聞かされたアリョーシャはそのようなやり方をやんわりと咎めるのだが、ともかくコーリャはそういう少年なのだった。

「少年たち」のなかで、コーリャ・クロソートキンの肖像は誰もが口を揃えるように飛び切り明確であり、美しくもあり、印象ぶかい。それは確かなことだが、イリューシャという少年もまた固有の重みと希有な存在感を備えた、作品になくてはならない登場人物である。そのことは亀山氏も認めていて、「カラマーゾフの兄弟には、魅力的な「脇役」が数かぎりなく登場する。」と述べ、下記のようにつづけている。

「 脇役のなかでもとくに印象的なのは、スネギリョフ二等大尉と子どもたち、ことにその息子イリューシャと、友だちのコーリャ・クロソートキンである。/スネギリョフ二等大尉と息子イリューシャが織りなす数場面、第4編「錯乱」、第10篇「少年たち」、さらに「エピローグ」は、ドストエフスキーのもっとも豊かな人間的想像力が発揮された例といってよい。」

上述の亀山氏の見解には私もまったく異論はないのだが、この後ジューチカとペレズヴォンが同一犬ではないことを示唆する発言が飛び出したのには、呆然としてしまった。

満足の行くまで犬の訓練をなし終えたコーリャはようやくスネギリョフ家を訪ねる。そこで彼は二ヶ月振りに会ったイリューシャが病のためにすっかり痩せおとろえているのを見て衝撃を受けるのだが、やがて部屋のなかに犬を呼び寄せる。この場面を描いた文章を上記と同じく原訳『カラマーゾフの兄弟』から引用する。その後、亀山氏の「解題」からこの場面を解釈した文章を紹介する。はたして亀山氏の言う「ペレズヴォンはジューチカにあらず」という説が成立する余地があるかどうか、作品と解題の両方を併せて読むことで、読者はこの問題に関する自分の判断を確認できると思う。(注2)

長くなって恐縮なのだが、その後にさらにもう一つ、森有正の著書『ドストエーフスキー覚書』からこの問題に関連する場面の文章を抜き出して掲載したい。森有正という人とドストエフスキーとの関係については昨年ブログ「こころなきみにも」ではじめて教えられたのだが、読んでみると、確かにこの『覚書』は今後もそうそう現れるとは思えないすぐれたドストエフスキー論だと感じた。内容は深く繊細、丁寧な分析は興味ぶかく教えられるところが大変多かったのだが、有り難いことに、この本には、今ここで問題にしている「コーリャとイリューシャ」そして「ジューチカとペレズヴォン」をめぐる関係性についても詳細な論述がなされていた。読み比べることで、私たち読者は大抵「ジューチカとペレズヴォンが同一犬ではない」という説が如何なるものであるか、自ずと、しかも確実に知りえるのではないかと思うのである。ではまず作品の引用から始めたい。


   

 『カラマーゾフの兄弟』「少年たち」からの抜粋 (原卓也訳。下線は引用者による。)

「 コーリャはイリューシャのベッドのすそに腰をおろした。おそらく、ここへくる途中、どんな話題からくだけた会話をはじめるか、準備してきたのだろうが、今や完全にその糸口を見失っていた。
「いいえ……僕はペレズヴォンを連れてきたんです……僕は今、ペレズヴォンという犬を飼ってるんですよ。スラブ的な名前でしょう。向うに待機してますから、僕が呼び子を吹けば、とびこんできます。僕も犬を連れてきたんだ」ふいに彼はイリューシャをふりかえった。「なあ、爺さん、ジューチカをおぼえてるかい」突然彼はこんな質問でイリューシャにすごいパンチを浴びせた。
 イリューシャの顔がゆがんだ。彼は苦痛の色をうかべてコーリャを見た。戸口に立っていたアリョーシャ眉をひそめ、ジューチカの話はせぬようにと、ひそかにコーリャに合図しかけたが、相手は気づかなかった。あるいは気づこうとしなかったのだ。
「どこにいるの……ジューチカは?」張り裂けるような声で、イリューシャがたずねた。
「おい、君、君のジューチカなんか、ふん、だ! 君のジューチカはどこかへ行っちまったじゃないか!」
 イリューシャは黙りこんだが、また食い入るようにまじまじとコーリャを見つめた。アリョーシャは、コーリャの視線をとらえて、必死にまた合図を送ったが、相手も今度も気づかなかったふりをして、目をそらした。
「どこかへ逃げてって、そのまま行方知れずさ。あんなご馳走をもらったんだもの、行方不明になるのも当然だよ」コーリャは無慈悲に言い放ったが、その実、当人もなぜか息をはずませはじめたかのようだった。「その代り、僕のペレズヴォンがいるさ……スラブ的な名前だろ……君のところへ連れてきてやったよ……」
「いらないよ!」突然イリューシャが口走った。
「いや、いや、いるとも。ぜひ見てくれよ……気がまぎれるから。わざわざ連れてきたんだもの……あれと同じように、むく毛でさ……奥さん、ここへ犬をよんでもかまいませんか?」だしぬけに彼は、何かもうまったく理解できぬ興奮にかられて、スネギリョフ夫人に声をかけた。
「いらない、いらないってば!」悲しみに声をつまらせて、イリューシャが叫んだ。その目に非難が燃えあがった。
「それは、あの……」坐ろうとしかけた壁ぎわのトランクの上から、ふいに二等大尉がとびおりた。「それは、あの……また次の機会にでも……」彼は舌をもつれさせて言ったが、コーリャは強引に言い張り、あわてながら、突然スムーロフに「スムーロフ、ドアを開けてくれ!」と叫び、相手がドアを開けるやいなや、呼び子を吹き鳴らした。ペレズヴォンがまっしぐらに部屋にとびこんできた。′
「ジャンプしろ、ペレズヴォン、芸をやれ! 芸をやるんだ!」 コーリャが席から跳ね起きて叫ぶと、犬は後足で立ち、イリューシャのベッドの前でちんちんをした。と、だれ一人予期しなかった事態が生じた。イリューシャがびくりとふるえ、突然力いっぱい全身を前にのりだして、ペレズヴォンの方に身をまげると、息もとまるような様子で犬を見つめたのだ。
「これは……ジューチカだ!」ふいに苦痛と幸福とにかすれた声で、彼は叫んだ。
「じゃ、君はなんだと思ってたんだい?」よく透る、幸せそうな声で精いっぱい叫ぶと、コーリャは犬の方にかがみこんで、抱きかかえ、イリューシャのところまで抱きあげた。
「見ろよ、爺さん、ほらね、片目がつぶれてて、左耳が裂けてる。君が話してくれた特徴とぴたりじゃないか。僕はこの特徴で見つけたんだよ! あのとき、すぐに探しだしたんだ。こいつは、だれの飼い犬でもなかったんですよ!」急いで二等大尉や、夫人や、アリョーシャをふりかえり、それからふたたびイリューシャに向って、彼は説明した。
「こいつはフェドートフの裏庭にいて、あそこに住みつこうとしかけたんだけど、あの家じゃ食べ物をやらなかったし、こいつは野良犬なんだよ、村から逃げてきたんだ……それを僕が探しだしたってわけさ……あのね、爺さん、こいつはあのとき、君のパン片を呑みこまなかったんだよ、呑みこんでたら、もちろん、死んでたろうさ、それなら終りだ! 今ぴんぴんしてるとこを見ると、つまり、すばやく吐きだしたんだよ。ところが君は、吐きだすとこを見なかった。吐きだしはしたものの、やはり舌を刺したんだね、だからあのとききゃんきゃん鳴いたんだよ。逃げながら、きゃんきゃん鳴いたもんで、君はてっきり呑みこんだと思ったのさ。そりゃ悲鳴をあげるのが当然だよ、だって犬は口の中の皮膚がとても柔らかいからね……人間より柔らかいんだ、ずっと柔らかいんだよ!」 喜びに顔をかがやかせ、燃えあがらせて、コーリャは興奮しきった口調で叫んだ。
 イリューシャは口をきくこともできながった。布のように青ざめ、口を開けたまま、大きな目をなにか不気味に見はって、コーリャを見つめていた。何の疑念もいだかなかったコーリャも、病気の少年の容態にこんな瞬間がどれほど苦痛な、致命的な影響を与えうるかを知ってさえいたら、今やってみせたような愚かな真似は絶対にする気にならなかったにちがいない。だが、部屋の中でそれをわかっていたのは、おそらく、アリョーシャだけだったろう。二等大尉となると、まさにごく幼い子供に返った感があった。
「ジューチカ! じゃ、これがあのジューチカかい?」 世にも幸せな声で彼は叫びたてた。「イリューシャ、これがジューチカだってさ、お前のジューチカだよ! かあちゃん、これがジューチカなんだよ!」 彼は危うく泣きださんばかりだった。
「僕は見ぬけなかったな!」スムーロフが情けなさそうな声を出した。「これでこそクラソートキンだ。この人ならきっとジューチカを見つけるって、僕は言ってたけど、やっぱり見つけたね!」
「ほんとに見つけたね!」さらにだれかが嬉しそうに応じた。
「えらいや、クラソートキンは!」さらに別の声がひびいた。
「えらいぞ、えらいぞ!」少年たちがみんなで叫び、拍手をしはじめた。
「まあ待ってくれ、待ってくれよ」コーリャはみなの叫び声に打ち克とうと努めた。「こうなったいきさつを、今話すからさ。問題はほかのことじゃなく、こうなったいきさつにあるんだから! 僕はね、こいつを探しだすと、家へ引っ張ってきて、すぐに隠したんだ。家には鍵をかけて、最後までだれにも見せずにいたのさ。ただ一人、スムーロフだけは二週間ほど前に嗅ぎつけたんだけど、これはペレズヴォンだって僕が思いこませたもんで、見破れなかったんだよ。そこで僕は合間をみてはジューチカにあらゆる芸を仕込んだってわけさ。今すぐ見せるよ、こいつがどんな芸を知ってるか、見てやってくれよ! 僕はね、爺さん、すっかり芸を仕込んで、艶々と太ったこいつを君のところへ連れてくるために、教えていたんだよ。どうだい、爺さん、君のジューチカは今こんなに立派になったぜ、と言うつもりでさ。あの、お宅に牛肉の細片か何かありませんか、こいつが今すぐ傑作な芸を見せますからね、みんな笑いころげちまいますよ。あの、牛肉は、細片でいいんですけど、お宅にございませんか?」
二等大尉は玄関をぬけて家主の家へまっしぐらにとんで行った。
(略)
「それじゃ、ほんとに君は、犬に芸を仕込むだけのために、今までずっと来なかったんですか!」アリョーシャが不満げな非難をこめて叫んだ。
「まさにそのためです」 コーリャはいたって無邪気に叫んだ。「完全に仕上がったところを見せたかったんですよ!」
「ペレズヴォン! ペレズヴォン!」 突然イリューシャが細い指を鳴らして、犬を招いた。

「どうしたの? こいつを君のベッドへ上がらせりゃいいよ。こい、ペレズヴォン!」 コーリャが掌でベッドをたたくと、ペレズヴォンは矢のようにイリューシャのところにとびこんだ。イリューシャはやにわに両手で犬の首をかかえこみ、ペレズヴォンはそのお返しにすぐさま頬を舐めまわした。イリューシャは犬を抱きよせて、ベッドに身を伸ばし、顔を房々した犬の毛に埋めてみなから隠した。

原訳による作品の引用は以上である。次に、亀山氏の「解題」を掲載するが、上の作品を読んだ後で、イリューシャという少年に対する亀山氏の解釈や、ペレズヴォンは本当にジューチカなのかと本気で疑っているらしい記述を読むと、正直なところ、亀山氏の翻訳がなぜ先行訳の水準とは次元を違えて誤訳や不適切訳が多いのか、つくづく納得させられる思いがする。亀山氏の「解題」は以下のとおりである。


   

 亀山郁夫「解題」

「 スネギリョフの息子で早世するイリューシャが、まだ元気に通学できたころに見せたふるまいは、やはり常軌を逸している。仲良しのコーリャにナイフを突き立て、アリョーシャの背中をねらって石を投げ、スメルジャコフのそそのかしで飢えた犬に針を含ませたパンを食べさせた。すべてに、どこかに癒しがたい恨みをかかえ、だれかれかまわず「仕返し」したいという衝動があったにせよ、針を含ませたパンを犬に与えるなどの行為の是非がわからないほど、幼かったとはとても思えない。やや飛躍するが、そこに色濃く未来のテロリストの面影がちらついているとみるのは、うがちすぎだろうか。
 コーリャとイリューシャは、先生と生徒、さらには主従関係、強力な支配者と非支配者の関係にあった。コーリャは、この年齢にしては天才的といえるほどの知能・教養、カリスマ性を備え、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールまで読んでいることになっている。あるいは、生半可ながら社会派の批評家ペリンスキーや、当時の革命民主主義者ゲルツェンの思想にも親しんでいた。
 自称「社会主義者」である彼は、目的成就のためには頑として意志を通すところがあり、イリューシャに対する鉄のような教育も、「社会主義者」に彼を育てたいという強烈な願望の現れだったにちがいない。
 いっぽうイリューシャは、専制君主的な少年コーリャの足下に屈し、絶対的ともいえる主従関係を結ぶことになるのだが、彼自身もきわめて自尊心が強く、対等でありたいという願望にとりつかれていた。その背伸びした思いが、先ほどの犬いじめにつながるのである。イリューシャにとってそれは、たんなる悪ふざけであったというより、むしろ意志的な行為、すなわち自分が大人であることを示す、あるいは大人になるために自分に課した試練でもあったように思えてならない。
 しかし、犬いじめの一件は、思いもかけずイリューシャの心の「傷」となり、コーリャとのあいだに決定的な亀裂を生んだ。コーリャは、結核で死にゆこうとするイリューシャの「傷」の原因を推しはかり、ジューチカ(?)を探してきて徹底的に仕込むのだが、非情なしごきに似たその訓練ぶりは、彼の冷徹な意志を思わせる。/ こうして、片目がつぶれ、耳に裂け目のはいったペレズヴォン(改名されたジューチカ)は、コーリャに完壁に奉仕する存在となった。文字通り「ございます犬」の誕生である。コーリャをめぐる、このあたりの微妙な設定のもつ重層性を理解するには、くどいようだが、「第二の小説」の知られざる構想にまで想像の翼を広げて考えないことにはおぼつかない。犬のジューチカとペレズヴォンが同一かどうかという問題は、複雑きわまりない連想の糸をたぐり寄せてしまう。もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。 」 (下線は引用者による)

上述の亀山氏のイリューシャ観と後にその文章を引用する森有正のイリューシャ観とを読み比べると、二人のイリューシャに対する評価はまったく対照的である。亀山氏の目には、アリョーシャがスネギリョフ家を訪ねるやすぐに見抜いたイリューシャの心根の優しさ、父親への愛情のために一身をなげうって闘おうとする勇気などは目に入っていないかのようである。もし亀山氏が小学校の教師だったら、イリューシャのような悪童的振る舞いをする子どもがいたとして、その心中の苦しみなどには目もくれず、同僚教師などに「あの子は異常ですよ」「あれでは、将来はテロリストですよ」とでも言い出しかねない短絡、軽率、そして洞察力の致命的な弱さなどを感じる。

さて、もし亀山氏が述べるごとくにジューチカとペレズヴォンが同一の犬でないとしたら、『カラマーゾフの兄弟』は、これまで読者を魅了してきた美しい場面の一つがたちまち一転、醜悪な姿に変貌してしまうだろうと思う。『カラマーゾフの兄弟』は、かれこれもう百年以上もの間、世界中で読まれてきた作品だが、普通人並みの理解力をもった読者のなかで亀山氏のような読解をした人物はこれまでどこかにいたのだろうか? 私はいなかったと思うのだが……。コーリャがイリューシャにジューチカだと思わせるために、どこかから拾ってきた犬の片目をつぶし、耳に裂け目を入れるようなことをしたのなら、そのような行為に至る少年の心の不健康さ、醜悪さは想像するさえ耐えがたいものがある。これでは、コーリャという少年がもっている生気溌剌としたイメージは消え、まったくコーリャも作品も別様のものに一変してしまうことになるだろう。亀山氏の翻訳を称讃する文学関係者には(もちろん「ゼロ年代の50冊」企画関係者も含まれる)、亀山氏のこのような読解をどのように考えるかを明らかにする責任があるだろうと思う。亀山氏の意識はどうであるにしろ、その解釈は作品の本質そのものへの指摘だと思うからだ。

またイリューシャはペレズヴォンが部屋に飛び込んできたとき、「これは……ジューチカだ!」と苦痛と幸福とにかすれた声で、叫んだ」のだが、この時イリューシャは見誤って「苦痛と幸福とにかすれた声」を上げたのだろうか? また、イリューシャのその叫びを聞いたコーリャも、「じゃ、君はなんだと思ってたんだい?」と「よく透る、幸せそうな声で精いっぱい叫」んだのだが、この時コーリャはイリューシャを騙すために、芝居をして「幸せそうな声」を張り上げたのだろうか? 亀山氏のこの読解には、思慮や思考力を欠いた粗雑な思いつき、その思いつきへの頑なな固執と欲望、などというものばかりが感じられてならない。


   

次は、森有正の文章の引用である。イリューシャを、コーリャを、筆者がどのように考察しているかを読んでみたい。

 森有正『ドストエーフスキー覚書』 (筑摩書房1967年)(作品の引用文は米川正夫訳)

「 イリューシャ対デューチカ対クロソートキン

デューチカは、もともとイリューシャにとって、単なる一匹の犬、どこにでもいる平凡な番犬にすぎなかった。しかしかの事件に際しての邂逅において、デューチカはイリューシャにとって他の犬とおきかえることのできない存在となってしまった。イリューシャにとって、元気なデューチカを目前に見ること以外に慰めはなくなってしまったのである。それがかれにとっての罪の赦しなのである。殺したものの復活、これ以外にかれの赦し、かれの慰めはないのである。アリョーシャは言う、「とにかく、わたしたちはどうかして、デューチカはちゃんと生きていて、どこかで見た人があるというように、あの子を信じさせようと骨をおってるんです。このあいだ子どもたちがどこからか、生きた兎を持って来ましたが、あの子はその兎を見ると、ほんの心持にっこりして、野原へ逃がしてくれと言って頼みました。で、わたしたちはそうしてやりましたよ。たったいま親爺さんが帰って来ました。やはりどこからかメデリャン種の仔犬を貰ってきて、それであの子を慰めようとしましたが、かえって結果がよくないようでした……」(第三巻三四九頁)。デューチカが元気で生きていること。この新しい事実に邂逅することだけが、イリューシャの赦し、赦し以上の赦しとなるであろう。この赦しがあれば、病気の苦痛も、死も何ものであろう。イリューシャは今は死ぬこともできないのである。「駆けながら鳴いているデューチカ」はかれが死んでもやはり存在しつづけるであろう。かれは分裂したままで存在しつづけるであろう。それがかれにとって唯一の現実なのである。倦怠は死によって消滅する。しかし罪は消滅しない。科学的事実より他の現実を信じない現代人にとって、これは神経衰弱症の思いすごしにすぎないかもしれない。しかしドストエーフスキーはこの現実の中に生きている。かれはそれに邂逅したのだから。
 コーリャが捜しあてて飼っているペレズヴォンは、実は、デューチカだった。デューチカは死ななかったのである。しかもコーリャは、イリューシャがデューチカの生を熱望しているのを知りながらそれをかれの所へ連れて行って見せようとしないのである。それが生きていたことを知らせようともしないのである。かれは。ペレズヴォンに、十分、芸を仕込んで、その上でイリューシャのところへつれて行って、その芸でイリューシャをびっくりさせようというのである。これはイリューシャの現実に対する完全な無知からでた、気楽な思いつきであった。しかしその原因は決して気楽なだけとは言えないものを含んでいる。すなわちコーリャの所業の裏には自分の手柄を幾倍にも美化しようとする自己中心的な願いがひそんでいる。さらに、イリューシャの安心を完全に自分の意志の下におこうとする、支配欲が潜んでいる。かれはペレズヴォンにいろいろな芸をしこむ。そのしこみ方、扱い方がかれらしいのである。「かれはおそろしい暴君のような態度で、さまざまな芸を教え込んだ。とうとうしまいにはこの憐れな犬は、主人が学校へ行った留守じゅう唸り通しているが、帰ってくると喜んで吠え出して、狂気のように跳ね廻ったり、主人のご用を勤めたり、地べたに倒れて死んだ真似をして見せたりなどして、一口に言えば、べつだん要求されるわけでもないのに、ただ悦びと感謝の情の溢れるままに、しこまれた芸のありったけをして見せるようになった。」(第3巻314頁)。かれはずいぶん残酷と思われるような芸をも平気でしこむのであった。かれとペレズヴォンとは無類の仲よしになるが、支配権は完全にいつもコーリャの手中にあった。コーリャは、ペレズヴォンの存在を愛するよりも、そのしこんだ芸を自慢しているのであった。かれはペレズヴォンにおいて無二の存在に邂逅していないのである。

 クラソートキン対アリョーシャ

 スネギーレフを含めて、少年たちの群に対して、アリョーシャは独特の立場にたって活動している。すべての人はかれに自分の心の奥底を打明ける。スネギーレフも、少年たちも、クラソートキンさえも。しかしイリューシャは少し違う。かれは自分のデューチカに対する罪を打明けない。かれはデューチカの復活以外の慰めを欲していないのである。イリューシャは真に男らしい少年であった。
 クラソートキンはかねてからアリョーシャに深い興味を抱いていたが、例の独立の欲望から、あくまで対等の立場にたって、アリョーシャと話そうと望む。かれは内心さまざまに工夫を凝らして自分に威儀を附そうとする。はじめてアリョーシャに会う時にも、わざわざスムーロフをやってアリョーシャを凍りつくような往来まで呼び出させるのである。それに反してアリョーシャはなんの飾るところもなく、気軽に出てくるのである。クラソートキンはアリョーシャに、イリューシャとの関係、デューチカ事件のことを巨細にわたって述べたてるが、それは自分がどんなにイリューシャを支配し、イリューシャを「陶冶」しているかを知ってもらうためである。アリョーシャは『ああ、実に残念です。君とあの子の関係を前から知らなかったのが、わたしは実に残念です。それを知っていれば、とっくに君の処へ行って、一緒にあの子のとこへ来てもらうように、お願いする筈だったのに。……わたしは君があの子にとって、どのくらい大串な人か知らなかったんです。』という。しかしアリョーシャの意味はおそらくクラソートキンには通じない。アリョーシャは、クラソートキンがイリューシャを教えることではなく、慰めるのに、大切なかずかずの条件を具えた人であることを知ったのである。アリョーシャはまっさきにデューチカのことを尋ねる。しかるにクラソートキンはペレズヴォン(実はデューチカ)を現につれているのに、そのことを秘して語らない。しかしクラソートキンはアリョーシャとの話にひどく満足した。なぜかというとアリョーシャは「まったく同等な態度でかれを遇し、まるで『大人』と話をするように物を言う」からであった。クラソートキンは人から対等におとなとして扱われることを欲しながら、他の子どもたちに対しては暴君として臨むのである。かれはその矛盾に気がつかない。かれは、ペレズヴォンをイリューシャの傍につれて行って、びっくりさせようとして、『カラマーゾフさん、ぼくはいまあなたにひとつ手品をお目にかけますよ』という。(略)
 やがてデューチカは、元気で生きたまま、イリューシャの傍に帰ったが、これについては、後述する。ただアリョーシャは、『じゃあ、君はただ犬を教え込んでいたために、いままで来なかったんですか?』と思わずなじるような調子で叫ぶ。
 それからコーリャを中心にして一同の話がはずむ。コーリャは、その才智ともの慣れたしかし確信のある態度で、完全に一座を支配してしまう。ただアリョーシャだけが押し黙って、真面目な顔をして、沈黙を守っているのである。不安になったクラソートキンは、やっきとなって、アリョーシャと話を始める。コーリャは世界歴史を尊敬しない。かれの尊敬するのは数学と自然科学だけである。古典語に関しては、それは狂気の沙汰であり、たかだか秩序取締りの政策以上のものではない。ただ「いったんはじめた以上、りっぱにやり遂げた方がいいと思う」からそれをやっているにすぎないのである。かれはまた神を信じていない。それは「世界秩序といったようなもののために」考えだされたものである。話はヴォルテールから社会主義に転じ、かれは自分を社会主義者であるという。かれはラキーチンからそれを教えこまれたのである。しかしこれらの話に際して、アリョーシャは一歩も妥協せずに、コーリャの思い上った態度を自ら自覚させてゆく。かれはその社会主義もラキーチンから吹きこまれたものであり、ほとんど本も読まずに知ったかぶりをしていることが、曝露される。そしてイリューシャの姉、びっこのニーチカがコーリャに『なぜあなたもっと早くいらっしゃらなかったの?』といったということから、アリョーシャは『君もこれからここへ来ているうちに、あの人がどんな娘さんかということが判りますよ。ああいう人を知って、ああいう人から多くの価値ある点を見いだすのは、あなたにとって非常に有益なことです。それがなにより具合よく君を改造してくれるでしょう』と述べる。われわれはここにソーニャとラスコーリニコフとの関係を想起する。コーリャはニーチカのように、まったく自ら求めるところなく、純愛を人に注いで忍従することのできる人との接触によってのみ、自己を改造することができるであろう。コーリャはついに悲痛な調子でいぅ、『ええ、実に残念ですよ。どうしてもっと早く来なかったろうと思って、自分を責めているんです。』さらに、『……ぼくが来なかったのは自愛心のためです。利己的自愛心と下劣な自尊心のためです。ぼくはたとえー生涯苦しんでも、とうていこの自尊心から遁れることはできません。ぼくはいまからちゃんとそれを見抜いています。カラマーゾフさん、ぼくはいろんな点から見てやくざ者ですよ!』と告白する。しかしかれは、アリョーシャがかれを軽蔑してないこと、を感ずる。『ああ、カラマーゾフさん、ぼくはじつに不幸な人間ですね。ぼくはどうかすると、みんなが、世界中の者がぼくを笑っているんじゃないかというような、とんでもないことを考えだすんです。ぼくはそういう時に、そういう時にぼくは一切の秩序をぶち壊してやりたくなるんです。』という。コーリャは自分を苦しめていたのであった。しかしかれは、自分を軽蔑しない、真率な、アリョーシャに対して、深い慰めと愛とを覚える。『じつにりっぱだ! ぼくはあなたを見損なわなかったです。あなたは人を慰める力を持っていらっしゃいます。あぁ、カラマーゾフさん、ぼくはどんなにあんたを慕っていたことでしょう。どんなに以前からあなたに会う機会を待っていたでしょう!』コーリャはアリョーシャに対する限りない愛を告白する。
 なぜこのようにクラソートキンの態度が変化したのか。それはアリョーシャの、人を軽蔑しない、人を同等に扱う、尊敬にみちた、態度によるばかりではなかった。またアリョーシャがかれの内心の苦しみに触れたからばかりではなかった。病いに疲れたイリューシャとの会見がかれに重大な影響を及ぼしていたのである。かれは、イリューシャを一目見て、自分の態度がまったく誤っていたことを直観したのである。

 クラソートキン対イリューシャ(下)

 クラソートキンは、イリューシャの病室にはいって来た時、社交上の礼儀作法の驚くべき知識を示した。かれは「おとな」としてはいって来たのである。「けれど、コーリャはもうイリューシャの寝床の傍に立っていた。病人はみるみるさっと蒼くなった。かれは寝台の上に身をおこして、じつとコーリャを見つめた。こちらはもう二カ月も、以前の小さい親友を見なかったので、愕然としてその前に立ちどまった。かれはこんなやつれて黄色くなった顔や、熱に燃えてなんだかひどく大きくなったような眼や、こんな痩せ細った手などを見ようとは、想像することもできな かったのである。かれはイリューシャがおそろしく深い、せわしそうな息づかいをしているのや、唇がすっかり乾ききっているさまなどを、悲痛な驚きをもってうちまもった。」。病みやつれたイリューシャの姿。かれがのんきにデューチカをしこんでいる間に、イリユーシャは、病気と心労とのために、まったく変ってしまった。「コーリャは急に手を上げて、なんのためかイリューシャの髪を掌で撫でた。」かれは自己支配を失って、イリユーシャの姿とひとつになってしまったのである。かれは自己の誤りを覚り、同時にイリューシャに深い愛、本当の愛を感じたのである。しかしかれはその時、一つ憎むべき芝居を打ってから、ペレズヴォンを呼び入れた。「『跳ねるんだ、ペレズヴォン、芸だ! 芸だ!』コーリャはいきなり席を立ち上ってこう叫んだ。犬は後脚で立って、イリューシャの寝床の前でちんちんをした。と、思いがけないことがおこった。イリューシャはぶるぶると身震いをして、急に力いっぱい体を前へ突きだしペレズヴォンの方へかがみ込んで、茫然感覚を失ったようにその犬を見た。
『これは……デューチカだ!』かれは苦痛と幸福にひび割れたような声で叫んだ。」。かれはペレズヴォンの芸などには見向きもしなかった。『見たまえ、どうして君は見ないんだね? ぼくがわざわざ連れて来たのに、イリューシャは見てくれないんだからなあ!』とコーリャは不平を言った。イリューシャはベッドに飛び上ったペレズヴォンの頭を両手で抱き、その房々とした毛の中に頭を埋めてしまった。ここにイリューシャの苦悩のひとつは完全に解決した。このイリューシャを前に見て、コーリャの心中には新しい愛が生れ、それはアリョーシャによって、さらに深められるのである。コーリャはここにイリューシャとアリョーシャとのふたりに邂逅したのであった。そしてそれはかれ自身の罪を明らかにした。かれはおもむろにひとつの系譜からいまひとつの系譜へと転換しはじめる。それは、しかし、かれの内における内的闘争の新しい開始を意味する。アリ㌢-シャは『ねえ、コーリャ、君は将来非常に不幸な人間になりますよ。』という。コーリャ自身もそのことを知っている。コーリャはこのように新しい生命の閾の上まできた。しかしかれはまったく新しくなることはできないであろう。内的闘争の開始。しかしかれはまったく新しくなることはできないであろう。内的闘争の開始。しかしそれで地上においては十分なのではないであろうか。新しい生命が芽生えはじめたこと。これは非常に重大なことではないであろうか。クラソートキンは来合せた医者と口論の末、『お医者さん、ニコライ・クラソートキンに命令することのできる者が、世界じゅうにたったひとりあるんです。それはこの人なんです(とコーリャはアリョーシャを指さした)。ぼくはこの人に従います、さようなら!』と叫ぶ。かれはまた病室から玄関へ走りだして泣いた。かれのなかに新しい現実が生れた。『……ああ残念だ、どうしてぼくはもっと前に来なかったんだろう』と、「コーリャは泣きながら、しかもその泣いていることを恥じようともせずに呟いた。」

 死。イリューシャの死。その埋葬。私はこれ以上に深く美しい叙述を知らない。二、三をひろってみよう。花で飾られた椅麗な枢の傍で、コーリャは、アリョーシャにきいた、「『あなたの兄さんは罪があるのですか、それともないのですか? お父さんを殺したのは、兄さんですか下男ですか? ぼくたちはあなたのおっしゃることを本当にします。話して下さい。ぼくはこのことを考えて、四晩も眠らなかったんですよ』
『下男が殺したんです。兄に罪はありません』とアリョーシャは答えた。
『ぼくもそうだと言ってるんです!』スムーロフという少年がだしぬけにこう叫んだ。
『そうしてみると、あの人は正義のために、無辜の犠牲として滅びるんですね』コーリャは叫んだ。『でも、たとえ滅びてもあの人は幸福です! ぼくはあの人を羨ましく思います!』
『君はなにを言うんです? どうしてそんなことができますか? なんのためです?』とアリョーシャはびっくりして叫んだ。
『でも、ぼくはいつか正義のために、自分を犠牲にしたいと思ってるんですもの』とコーリャは狂熱的にこう言った。
『しかし、こんなことで犠牲になるのはつまりませんよ。こんな恥曝しな、こんなおそろしい事件なんかで!』とアリョーシャは言った。
『むろん……ぼくは全人類のために死ぬことを望んでるんです。でも恥曝しなんてことはどうだって構いません。ぼくらの名なんか、どうなったって構やしない。ぼくはあなたの兄さんを尊敬します!』」
 コーリャは、すでに新しい現実に足を踏み入れた。かれ は人のために辱めをも喜んで負う気になっている。無条件で、アリョーシャの言葉を信ずる気になっている。これにはなんらの理由づけをすることもできない。イリューシャの姿とアリョーシャの姿が、かれを、変化させたのである。
  しかしこの美しい人々も、美しくなかった人々も、すべて、やがてイリューシャのように死ぬであろう。それではすべては無意味になるのか。シュストフのニヒリズムは真実であるのか。
  コーリャは言う、『ぼくは悲しくってたまりません。もしイリューシャを生き返らせることができれば、この世にありったけのものを投げだしても、ぼく惜しいとは思いません。』 コーリャは、イリューシャのなかに、まったくかけがえのない存在に邂逅したのである。かれの心にひとつの現実が生れたのである。
  「『カラマーゾフさん!』とコーリャは叫んだ。『ぼくたちはみんな死から甦って命を得て、またお互いに見ることができるって――どんな人でも、イリューシャでも見ることができるって、宗教の方では教えていますが、あれは本当でしょうか?』
『きっと甦ります。きっとお互いにもう一度出会って、昔のことを愉快に楽しく語り合うでしょう』アリョーシャはなかば笑いながら、なかば感動のていでこう答えた。
『ああ、そうなればどんなに嬉しいだろう!』とコーリャは思わず口走った。
 
ラスコーリニコフにも、スタヴローギンにも、ドミートリーにも、イワンにも、生れなかった、真の現実への転換が、コーリャに生れた。ドストエーフスキーはそれを真実に信じていたであろうか。すべては死をもって終る。人間はそれ以上のことを言いえない。かれは、ありえないことを、無邪気な少年たちの物語のなかに、象徴的に措いたのではないであろうか。
邂逅! それのみが真実を開示する。人間の新生も、死よりの復活も、偉大なる邂逅として以外には絶対に把握されない。ドストエーフスキーの全作品に充ち満つる人間の苦悩は、人類を救う偉大なる現実の邂逅へ、終末的に、指向されているのである。かれは絶望している。しかも絶望していない。 」

上の文章を読むと、ペレズヴォンがデューチカでないことの可能性など森有正の頭のなかには片鱗もないことが分かるだろうと思う。作品の全体から眺めても、またジューチカとペレズヴォンが登場する具体的場面に即して見てみても、それは当然のことだと思う。亀山氏のような読解をしたのでは、『カラマーゾフの兄弟』を根本から崩壊させることになるだろう。指摘されている夥しい誤訳の表出は、このような読解力と密接不可分のものだと思う。

ちなみに森有正は、「あとがき」に、次のことを述べている。最後に、この言葉を紹介して終わりにしたい。

「本書は、文字どおり、ドストエーフスキーの作品についての貧しい『覚書』である。専門も異なり、また原文をも解さない私が、このような『覚書』を公けにすることは、はなはだしい借越ではないかということをおそれている。もちろん、体系的なドストエーフスキー研究ではない。そこには多くの誤謬や思い違いもあるであろう。しかし、私の心はまったくかれに把えられた。神について、人間について、社会について、さらに自然についてさえも、ドストエーフスキーは、私に、まったく新しい精神的次元を開いてくれた。それは驚嘆すべき眺めであつた。私にとって、かれを批判することなぞ、まったく思いも及ばない。ただ、かれの、驚くべく巨大なる、また限りなく繊細なる、魂の深さ、に引かれて、一歩一歩貧しい歩みを辿るのみである。」

  ┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄┄

(注1) 6月13日の朝日新聞「ゼロ年代の50冊」では、亀山氏の翻訳『カラマーゾフの兄弟』と並んで佐藤優氏の『国家の罠』も取り上げられていることは前回も書いたが、その佐藤氏もあちらこちらでこの翻訳を絶讃している。これに関して佐藤氏が問題なのは、氏は亀山訳を称讃するに際し、「(亀山訳は)語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」「それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがちですが、新訳のおかげでプロテスタント誕生直後の16世紀だということがはっきりします。」(『ロシア 闇と魂の国家』文春新書2008年)などと虚偽の発言をしていることである。先行訳に対し存在しない誤訳を指摘し、その虚偽を基にして亀山訳を褒めあげているのだ。ここには想像を絶する知的不誠実があると思う。これは文学作品と先行翻訳者に泥を塗り付け、読者を欺く行為に他ならない行為だからだ。佐藤氏は同趣旨の発言を原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』を出版している新潮社の文芸雑誌「小説新潮」でも行なっている。これを黙認しているのだから、新潮社はもう出版社としての最低限の矜持も誠意ももちあわせていないのだろう。しかし過去にこれまでどんな著作家、どんな出版社がこのような破廉恥な行為をしたことがあっただろうか? 率直に言って、私は佐藤氏のこのような言行に、焚書を行なう精神と通底するものを感じる。何度もこの件を取り上げてしまうのはそのためである。こういう行為をあえて行なえるということは、私にはことに際して自分を律しうる、歯止めになるような著述家としての倫理観をなんらもっていないということを現わしているように思える。

(注2) 実は、この問題については、ブログ「連絡船」でとても緻密な分析がなされている。また当ブログでもこちらで言及している。

 
2010.07.04 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回から大分間が空いてしまったが、今日は、6月13日に朝日新聞の読書企画「ゼロ年代の50冊」に「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』」とともに採り上げられていた佐藤優著「国家の罠」について、感じたことを書いてみたい。

  
朝日新聞は「国家の罠」に「不条理と戦い権力の本質に迫る」という見出しを付けている。記事によると、政治学者の山口二郎氏は「50冊を選定した識者」の一人ということだが、その山口氏は識者アンケートでこの本を「検察=正義という常識を変えた、権力の本質に迫る本」と称讃している。また、読者の投稿文章も「担当検事との会話を忠実に再現」「強靱な精神力」「歴史に対する謙虚さ」「読者にこびない」「マスコミ、司法、社会の不条理と戦う文学の力」という具合であり、紙面にはこの本に対する絶讃といってもよい言葉が並んでいる。

2005年にこのノンフィクション作品がよく売れ、社会的反響を呼んだことで、本に書かれていた「国策捜査」という言葉も広く世に知れ渡ることになったが、この言葉自体は「国家の罠」の出版以前から使用されていた。私は魚住昭氏の文章のなかに「国策捜査」という言葉を見た記憶があるし、保坂展人氏の「どこどこ日記」(2006年1月8日付)にも「国策捜査という言葉は、金融機関の破綻時や企業不祥事の後で、即座に始まる捜査を私たち捜査権力の外にいる者が「国策捜査」という言葉を使ってきた。しかし、被疑者を前にして、検察官が「これは国策捜査だ」と語ったという記述には驚いた。」と記されている。「検察官が「これは国策捜査だ」と語ったという記述」とはもちろん「国家の罠」における佐藤優氏の記述を指している。このように、「国家の罠」が「国策捜査」という言葉を流行らせ、大きな一種のブームを作り上げたことは事実だが、ただ、このような現象面の出来事を一切抜きにして本の内容だけに――そのなかの事実関係だけに焦点を絞って考察するとどうだろうか。

この作品が「ゼロ年代の50冊」が言うような「不条理と戦い」「検察=正義という常識を変え」「権力の本質に迫」った本であるかどうか。この点につき、私には大いに検討の余地があるように思える。上の諸氏による高い評価には、前提条件として、「国家の罠」には佐藤氏の経験した事実がありのまま正直に記されている、という認識が存在していると思われる。そうでないかぎり、「不条理と戦い権力の本質に迫る」などの言葉は出てこないだろうからだ。しかし私はこの点に疑問をもっているので、以下で検討してみたい。まずはじめに、朝日新聞の「国家の罠」に関する記事を引用しておく。

「 ■ 不条理と戦い権力の本質に迫る

 知もてロシアは理解し得ず
 並の尺では測り得ず
 そはおのれの丈を持てばなり
 ロシアはひたぶるに信ずるのみ

 19世紀ロシアの詩人チュッチェフによる有名な4行詩を、佐藤優氏は「ロシアや知恵や理性ではなく、経験によってもわからない」と解釈した。崩壊前夜のソ連でモスクワの日本大使館に勤務し、共産党幹部に深く食い込んでいた。腕利きの分析官にしてからが、「ロシアの闇」は分からない、という。それはまた、「国家の闇」に通じるものでもあったろうか。
 佐藤氏は、外務省関連機関に対する背任などの罪に問われ逮捕、有罪が確定した。筆者によれば、逮捕は「国策捜査=冤罪とは違うが、国家が自己保存の本能に基づき、ターゲットとした人物になんとしても犯罪を見つけだそうとする政治事件」によるもの。512日間にも及ぶ独房生活での思索から生まれたのが『国家の罠』だ。
 読者からは<拘留が500日を超えて、その間の担当検事と会話を忠実に再現できるとは、強靱な精神力はもちろんだが、歴史に対する謙虚さがある>(埼玉県の藤村敏さん・59)、<形容詞の少ない行政文書のような筆致は、読者にこびないという点で新鮮>(京都府の森原康仁さん・30)といった手紙が寄せられた。
 逮捕された当時、佐藤氏はテレビ、新聞を始めとして、世間の強烈なバッシングの下にあった。<佐藤氏は同志社大神学部の先輩>だという石川県・小坂直樹さん(44)はこう書いてきた。<逮捕直後に、同窓生らが設立した支援会への援助の手紙をわたしは黙殺した。マスコミ、司法、社会の不条理と戦う文学の力を見せつけてくれた作品。そしてわたしにとっては、生涯消えぬ後悔を心に刻むことになった本>
 50冊を選定した識者アンケートでも、山口二郎・北海道大学教授は「検察=正義という常識を変えた、権力の本質に迫る本」と高く評価していた。(近藤康太郎) 」

佐藤優氏の有罪判決(第一審2005.2.17日、第二審2007.1.31日、最高裁2009・7・2日)が出てから、この人を国策捜査の被害者であると断定的に発言している人物をこれまで何人も見ている。ライターの魚住昭氏や青木理氏、岩波書店『世界』編集長の岡本厚氏、それから上述の山口二郎氏など。2005年、「国家の罠」が出版された当時は魚住昭氏が先頭に立ってその主張をしていた記憶があるが、最近はあまり魚住氏のそういう声をきかない。もっとも「神保町フォーラム」という会で今も一緒に活動しているようだから依然その考えに変化はないのだろう。

青木理氏は、「背任罪」と「偽計業務妨害罪」に問われた佐藤氏の上告が棄却された最高裁の有罪判決(懲役2年6月、執行猶予4年)を受けて、「週刊金曜日」(2009.7.10)で下記のように述べている。

「しかし、この報を耳にして「佐藤氏はやはり犯罪者だった」などと受け止めた人は、ほとんど皆無だったろう。私も同様であり、(略)
 
 多くの人が既に周知の事実として認識しているように、これらはいずれも、政界やメディアなどを覆い尽くした鈴木宗男氏バッシングの中で「ムネオ逮捕ありき」の捜査に突き進んだ検察が無理矢理に描き出した「虚構の絵図」に過ぎない。いまさら語るまでもないが、佐藤氏は二〇〇五年に『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を著し、「国策捜査」という言葉を人口に膾炙させるきっかけをつくった。その後の活発な言論活動を含め、佐藤氏の言説が広く受け入れられているのは、検察捜査の歪みを何よりも雄弁に物語る。 」

青木理氏の上の文章は、とてもジャーナリストの書いたものとは思えない。判決を聞いて、佐藤氏を犯罪者と受け止めた人は皆無だったろう、とか、「「国策捜査」という言葉を人口に膾炙させるきっかけをつくった」とか、「佐藤氏の言説が広く受け入れられているのは、検察捜査の歪みを何よりも雄弁に物語る」などという事情は、これは当たり前すぎて書くのも気がひけるくらいだが、何ら判決の不公正、佐藤氏の主張の正しさを物語るものではない。青木氏がここで述べるべきことは、佐藤氏を無実だと自身が信じ、このように社会に訴えているその根拠についてである。かりにもジャーナリストを名乗るのなら、最高裁判決のどこがどのように誤っているのかを根拠を示した上で指摘するべきだろう。これまで裁判に異論を述べた人はほぼ例外なくそのような方法をとってきたはずだ(最も著名な例として広津和郎の「松川裁判」)。ところが青木氏は、事件に関する客観的な証拠や論証の代わりに、「佐藤氏の言説が広く受け入れられているのは、検察捜査の歪みを何よりも雄弁に物語る」などと、佐藤氏が言論人としてマスコミで活躍し、その本が売れていることがあたかも無罪の証拠であるかのように述べている。これは詐術ではないだろうか。青木氏は、「この報を耳にして「佐藤氏はやはり犯罪者だった」などと受け止めた人は、ほとんど皆無だったろう。」と述べているが、必ずしも「皆無だった」とは言えないのではないかと思う。たとえば、こちらのブログのコメント欄には、次のような文章が寄せられている。

「なお、同氏(注:佐藤氏)が自著の中で、有罪判決を批判していますが、実際に判決文を読んでみると、随分変な批判だと思われます。/(自著では、公費を外国人派遣等に用いる省内決済に上司が押印しているので、無罪だとしていますが、判決文では、押印は認めた上で、それは国会議員の圧力によるもので、背任の成立を妨げないとしています。概略なので正確ではありませんが。)/ここでは有罪無罪を論じるつもりはなく、自著で判決文の内容をきちんと説明しているかに疑問があるということです。

著書の中で、私が真偽がチェックできるのはそこだけですが、そこが信用できないとなると、他も・・・と思われます。」

佐藤氏の主張および判決についてこのような疑問や感想をもっているのはこの人物だけではなく、多数存在すると思う。私も同様の疑問をもっている。魚住氏や青木氏や岡本厚氏らが佐藤氏の無実(国策捜査の被害者)を主張するのなら、これらの人々はみなジャーナリスト界に棲息している人たちなのだから、なおさら具体的な根拠を示す責任があると思う。判決を検証し、それを書く場所は、『世界』や『週刊金曜日』などいくらでもあるはずである。なぜそれをしなかったのだろうか。佐藤氏が逮捕されたとき、新聞に「 外務省関連の国際機関「支援委員会」をめぐる背任事件で、逮捕された同省前国際情報局主任分析官佐藤優容疑者(42)が、鈴木宗男衆院議員(自民党離党)にしっ責された職員の前で「謝るときはこうするのだ」と土下座し、職員にも土下座を強要していたことが17日、関係者の話で分かった。(時事通信)[2002年5月17日16時1分更新]という記事が出たり、その後も、外務省出身の今は国会議員になっている人物のブログに

「 某国会議員と密接につながり、某国会議員にすべての情報を流し、気に入らない相手は某国会議員が介入してくるシステムを作っていました。佐藤氏全盛期の時代、彼は自分のスクールを作り、どんどんお仲間を増やし、そのお仲間が省内をゲシュタポのように闊歩していました。ロシア外交に関わる人たちの間では疑心暗鬼が増大し、その圧力に耐え兼ねて多くの有為な外務省員が辞めていきました。その損失は大きいです。私自身、ある案件で某国会議員に説明に行ったら、同氏が横に聳えていて強権的にご託宣を垂れていたのを思い出します。「おい、おまえ外務省のお役人じゃないのかよ?」と思ったのが懐かしいです。」

という記事が載ったりしていた(現在は削除されている)。私がこれらの記事の証言内容にかなりの信憑性を感じてしまう原因は、ひとえに言論活動を始めてからの佐藤氏の不審な言動にある。雑誌の媒体によって主張内容を平然と変えて使い分ける、信じがたいようなデタラメ(嘘)をあちこちで書き散らす、そしてそのような行動が批判の対象にされると(これは当然あるべき批判であり、むしろないほうが異様である)、反論文は書かず、掲載雑誌社に内密の会合をもちかけたり、批判した人物(金光翔さん)の勤務先に抗議したりという、およそ言論人にあるまじき卑怯な行動をとる(私は現実にこういう行動がなされるのをはじめて見聞した。右翼の街宣車を使っての言論の自由に対する妨害・脅迫活動とどちらが悪質か、その判断はなかなか微妙だと思う。)、その上、週刊誌に「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど、目茶苦茶な内容です」などと、批判者の言論内容についてデタラメ(例のごとく!と言っていいのではないかと思う)を述べる、そして週刊誌のほうではその発言に沿った記事が作られ、全国の書店で売り出される。と、このようなしだいだが、これは正しく言論の自由、表現の自由を侵害し、破壊しようとする行為である。このような行為をなす人物が具体的な根拠も示さずに主張する「国策捜査の被害者」説をどうしてそのまま信じることができるだろうか(最も素朴な基本的な疑問なのだが、同じ言論人である青木氏や魚住氏らはなぜ佐藤氏のこれほど明らかな言論侵害行動に注意をしたり、問題にして話し合ったりしないのだろうか? これを腐敗とは感じないのだろうか。それとも内部では活発な意見交換や相互批判なども行なわれているのだろうか?)。それから、佐藤氏が自らを国策捜査の被害者と訴えながら、一方でしきりに国策捜査の必要性を説いていることは、私などには、これは恥知らずの極みの行為のように映るのだが、青木氏らはどう考えるのだろうか。

  
朝日新聞も「国家の罠」に「不条理と戦い権力の本質に迫る」という見出しを付けるのなら、当然そのような判断をなした根拠を示すべきであった。山口二郎氏は「検察=正義という常識を変えた、権力の本質に迫る本」と述べているが、「国家の罠」が出版されるまでは「検察=正義」という常識が本当に存在したのかどうか、また、「国家の罠」が出版されたことで実際にそれまで存在した「検察=正義という常識を変えた」のなら、なおさら「国家の罠」が事実(真実)を述べているという根拠を示すべきであろう。山口氏にはぜひ「国家の罠」を「権力の本質に迫る本」と断言する理由は何なのか、これからでも遅くないから立証してほしいと思う。読者の投稿を見ると、「歴史に対する謙虚さ」や「マスコミ、司法、社会の不条理と戦う文学の力」というコメントが出ている。これには私は明確に異論があると言わないわけにはいかない。佐藤氏は、歴史や文学について実に多弁に発言しているが、その内容を見ると、歴史にしろ、文学にしろ、この人はこれらを自己の私欲のために利用していると疑わざるをえない。佐藤氏がこれまで如何に歴史や文学をないがしろにするデタラメを書いてきたか、その結果としてどんなに歴史や文学を汚しつづけているかについては、拙文「佐藤優氏の「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』批評」を読む」や「佐藤優氏のドストエフスキー読解」に書いているので、よかったら読んでいただきたい。(注)

私も「国家の罠」を読んでしばらくの間は、自分は国策捜査の被害者であるという佐藤氏の主張に特に疑問をいだかず、少なくとも当人の主観においてはありのままの事実が記述されているのであろうと単純な受け止め方をしていた。理由の一つには、これは凄い本ですよ、という魚住昭氏の発言が影響していたように思う。私は魚住氏のこの言葉について、書きたいことを停滞なくどんどん書けそうな感じの佐藤氏の筆力に対する感嘆であると同時に、魚住氏が事件についてそれ相応に調べた結果、国策捜査による逮捕・拘留という佐藤氏の主張を裏付ける何らかの根拠をもっているのだろうと漠然とながらそのような想像をしていた。「特捜検察の闇」(文藝春秋2001年)や「差別と権力」(講談社2004年)などの著書を読み、魚住氏に一定の信頼感をもっていたのだ。「国家の罠」を読んだ際の私の感想について述べると、珍しい経験をきかせてもらっているというおもしろさは十分に感じた。いまひとつ分からない、論理的にすっきりしないと感じる記述もあったが、でもそれも反感や疑念などの否定的感情に結びつくというほどのものではなかった。

ところが、そのうち、佐藤氏が右派の雑誌や新聞紙上で、「国家の罠」で述べていた内容と明確に相反する主張を述べている文章を次々に見ることになる。このことについて述べるのは繰り返しになるのでもう止めたいのだが、一例だけ挙げると、佐藤氏は「国家の罠」で、

「 田中女史が国民の潜在意識に働きかけ、国民の大多数が「何かに対して怒っている状態」が続くようになった。怒りの対象は100パーセント悪く、それを攻撃する世論は100パーセント正しいという二項図式が確立した。ある時は怒りの対象が鈴木宗男氏であり、ある時は「軟弱な」対露外交、対北朝鮮外交である。
このような状況で、日本人の排外主義的ナショナリズムが急速に強まった。私が見るところ、ナショナリズムには二つの特徴がある。第一は、「より過激な主張が正しい」という特徴で、もう一つは「自国・自国民が他国・多民族から受けた痛みはいつまでも覚えているが、他国・他国民に対して与えた痛みは忘れてしまう」という非対称的な認識構造である。ナショナリズムが行きすぎると国益を毀損することになる。私には、現在の日本が危険なナショナリズム・スパイラルに入りつつあるように思える。

排外主義的ナショナリズムを野放しにするとそれは旧ユーゴやアルメニア・アゼルバイジンャ紛争のような「民族浄化」に行き着く。東西冷戦という「大きな物語」が終焉した後、ナショナリズムの危険性をどう制御するかということは、責任感をもった政治家、知識人にとっては最重要課題と思う。(略)
橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗の三総理、鈴木宗男氏は排外主義的ナショナリズムが日本の国益を毀損することをよく理解していた。それだからこれらの政治家は、第二章で説明した「地政学論」を採用し、推進したのである。 」

と記している。「橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗の三総理、鈴木宗男氏は排外主義的ナショナリズムが日本の国益を毀損することをよく理解していた。」という記述には首をひねった。特に「神の国」発言でアジア諸国のみならず国際的にも批判を浴びた森元総理についての認識には理解しがたいものをおぼえた。こういう記述が本のあちこちに見られる点が前述したような「いまひとつ分からない」部分だったのだが、それでも、上の文章中の「「自国・自国民が他国・多民族から受けた痛みはいつまでも覚えているが、他国・他国民に対して与えた痛みは忘れてしまう」という非対称的な認識構造」や「危険なナショナリズム・スパイラルに入りつつある」現在の日本をひどく危惧している様子の記述を読んで、この人は、台湾や朝鮮の植民地支配や関東大震災時の朝鮮人虐殺や侵略戦争など過去における日本の加害の歴史に否定的な考えをもち、昨今の「排外主義的ナショナリズムが急速に強」まりつつある日本社会につよい危機感をもっているのだと理解することは読者として当然だろう。それ以外の読み取り方はなかなか困難だと思われる。ところが、佐藤氏は、その舌の根も乾かないそのすぐ後に、北朝鮮や朝鮮総連はもちろん、中国や韓国を敵視した発言を連発する。北朝鮮について、武力行使を含めた恫喝外交を盛んに煽る発言を繰り返してきたことは金光翔さんが詳細に指摘しているとおりである。また、韓国について「国家の自縛」(産経新聞社2005年)では、前に書いたことだが、

「その韓国ですが、歴史・教科書問題での執拗さ、謝罪要求のしつこさには本当に閉口させられますね。」というインタビュアーの質問に答えていわく、

「 そう思いますよね。ですから「斎藤さん、確かに斎藤さんと手切れの約束をしてあのとき百万円いただきました。しかし、斎藤さんとの子供が今度中学に入るんです。私立にも入れたいんであと二百万円ください」そんなふうに言ってくるような女性と一緒ですよね。(略)これは国際社会のゲームのルールと合致しません。だから実はそんなに怖くない。/ 理不尽なことやったらそれは国際社会の中で受けいれられないから、そこは淡々と「いろいろとおっしゃられるんですけども、賠償の問題についてはすでにけりがついております。日韓基本条約に即した形で私たちやっておりますので。何かあります?」こういうふうに言えばいいと思うんですよね。日韓共通の教科書で歴史認識の問題を片付けようというのであれば、「まず北朝鮮と韓国の間で共通の歴史認識を作ってから日本に持ってきてください」と、こう対応をした方がいいんですよ。」

と述べている。「手切れの約束をしてあのとき百万円いただきました。しかし、(略)子供が今度中学に入るんです。私立にも入れたいんであと二百万円ください」というような話の持ちかけ方をする女性が世の中にそうそう存在するのかどうかが第一に疑問だが、上述の発言の全体がひどく低劣であることには間違いないだろう。もちろん、この主張内容は「国家の罠」で述べていた内容とはまるで別人のもののようである。「自国・自国民が他国・多民族から受けた痛みはいつまでも覚えているが、他国・他国民に対して与えた痛みは忘れてしまう」というナショナリズムについての認識はどこに行ってしまったのだろうか。「国家の自縛」が出版されたのは、「国家の罠」と同じく2005年のことである。

  3
今日は読書企画「ゼロ年代の50冊」の佐藤優氏に関する記事について異議を述べたが、佐藤氏と朝日新聞社との関連では、他にひとつ述べておきたいことがある。これは朝日新聞の労働組合に関することなのだが、昨年5月3日、朝日新聞労働組合は、「言論の自由を考える5・3集会」で佐藤優氏をゲストに招いて講演を依頼している。asahi.comから記事を引用すると、

「朝日新聞労働組合は5月3日、「第22回言論の自由を考える5・3集会」を兵庫県尼崎市の市総合文化センター(アルカイックホール・オクト)で開く。小尻知博記者(当時29)が殺され、記者1人が重傷を負った1987年5月3日の朝日新聞阪神支局襲撃事件を機に始まった。
 テーマは「閉塞(へいそく)社会とメディア――萎縮(いしゅく)せず伝えるために」。第1部は作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏が講演。第2部は政治学者で東大教授の御厨(みくりや)貴氏を進行役に、佐藤氏と京大大学院准教授(メディア史・大衆文化論)の佐藤卓己氏、危機管理コンサルタントの田中辰巳氏がメディアのあり方などを議論する。総合司会は朝日放送の浦川泰幸アナウンサー。 」

このような企画は端的に小尻記者を冒涜するものではないかと思う。自分が批判されると、堂々と反論文も書けず、出版社に圧力をかけるしかなす術をもたない言論人に、一体どんな「言論の自由」が語れるというのだろう。また当時、小尻記者について「週刊新潮」はデタラメの記事を連続掲載していたが、佐藤氏はその「週刊新潮」と組んで(少なくとも佐藤氏は事前に「週刊新潮」のインタビューを受けているのだから、「週刊新潮」から批判者に関する記事が出ることは承知していたはずである)、自分への批判者をおとしめるスキャンダル記事を作成していたのである。このような人物に、よりによって「言論の自由」に関する講演を依頼するなど、救いようのない悲劇的な腐敗というべきか、それとも笑うしかない喜劇というべきか、なんともたとえる言葉がないように感じさせられる出来事であった。佐藤優氏と「週刊新潮」が金光翔氏に「名誉毀損罪」で提訴され、いまその裁判が進行中であることをマスコミが一切報じないのは、朝日新聞労組の事例が示すように、言論の自由を自ら侵害する(他人の言論の自由を侵害せざるをえない言論活動を自ら行なっているのだとも言えるだろう)言論人を重用している自分たちの矛盾が白日の下に晒されることを恐れているからではないのだろうか。


(注)「JanJan」という市民メディアの記者・西山健一氏は、朝日新聞労働組合主催のこの集会について記事を書いている。「「言論と自由を考える5・3集会」に参加して」というこの記事によると、佐藤氏は講演で次のようなことを述べたそうだ。

「 基調講演した佐藤優さんは、「株式会社である新聞社を認識すること。そのためには、マルクス経済を学ぶことだ。また新聞は、読者に読まれるおもしろさが必要で、夏目漱石の『それから』『三四郎』などを記者は読み勉強してほしい」と要望し、情報操作、週刊新潮の誤報、メディアの可能性、朝日新聞への期待などについてふれた。その中で、一連の週刊新潮の朝日新聞阪神支局襲撃事件で、新潮からの軽率なインタビューに応じてしまったことを謝罪した。」

「一連の週刊新潮の朝日新聞阪神支局襲撃事件で、新潮からの軽率なインタビューに応じてしまったこと」は大変大きな問題だろう。あの記事の事実関係について本気で信じ込んだのなら物書きとしての基本的な洞察力が問われることだし、佐藤氏の数々の普段の行動から推測すると、あるいは確信犯だった可能性もなしとは言えないのではないだろうか。

夏目漱石についても自分は漱石の作品を非常によく読んでいる、すべて知悉しているというかのような高みに立った話しぶりだが、率直に言って私はこれも不思議なことに感じる。なにしろ佐藤氏は、「ナショナリズムという迷宮」(朝日新聞社2006年)において、下記のような漱石に関する発言をしている。

佐藤 夏目漱石は政府留学生でしたね。期待を背負っての留学だったでしょう。ところがロンドン大学での授業についていけない。そこで見たイギリス人はエリートですよね。彼らはもともと個が確立しているんです。確かにエリート問の議論や外交の場面では、ヨーロッパの知識人、ロシアの知識人、日本の知識人、それぞれの思考に型があるという程度のことは言えます。そんな一部を見て、西欧社会全体が個の確立した人間で構成されているというふうに不当拡張してしまったのではないでしょうか。」(下線は引用者による)

下線部分について私は初耳である。「ロンドン大学での授業についていけない」というのは、おそらくロンドンの下町言葉であるコックニーをロンドン到着直後の漱石が聞き分けられなかったという逸話を佐藤氏は何らかの誤解でこのように思い込んでしまったのではないかと思われる。それにしても、留学当時の漱石の英語力、英文学に関する実力の程を把握していれば、もし誰かにそのように聞かされたとしても、「それはおかしい、ありえないことだ」とすぐに感じとったはずだと思う。それほど漱石の英語および英文学に関する実力が傑出していたことは周知の事実である。ロンドン大学の授業についていけないなどということはどう転んでもあるはずはないのだ(事実漱石はロンドン大学の聴講を止めてしまったのだが、その理由について授業を受ける意味がない、期待外れだという趣旨のことを自ら述べている)。また、明治時代の大学を初めとした上級学校の授業方法や学生の実力の高さを思えば、佐藤氏の上述の発言は不思議なことに思われる。当時、漱石のような学生は大学予備門の時から、数学や物理などについても英語をはじめとした外国語で授業を受けていた。佐藤氏はメディア上で日本史に関して最も多くを語る人のように思えるが、このような発言を見ると、実は漱石についてだけではなく、明治の教育制度についてもどの程度知悉し理解しているのか大変疑問である。

また「(西欧の)一部を見て、西欧社会全体が個の確立した人間で構成されているというふうに不当拡張してしまったのではないでしょうか」などという発言には、私ははなはだ鼻白む思いがした。一体漱石は、どこで「西欧社会は個が確立している」などと述べたことがあるのだろうか? そのような話を私は聞いた記憶がないのだが、漱石という人には、良し悪しではなく、おそらく明治初期に精神の形成期をむかえた人の常として、このようないかにも近代風を絵に描いたような発想はなかったように思う。それに加えて「不当拡張し」た、などという発言には、確か「獄中記」に書かれていたと思うが、自分と鈴木宗男氏の関係を「こころ」の先生と主人公の関係にみなしているのを読んだ時と同じく、思い上がりや無恥を感じてなんだか大変不快であった。
2010.06.27 Sun l 文芸・読書 l コメント (3) トラックバック (1) l top
6月13日の日曜日、朝日新聞の読書企画「ゼロ年代の50冊」に『国家の罠』(佐藤優著)と『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー著、亀山郁夫訳)がそろって取り上げられていた。太文字の見出しは、下記のとおりで、

【国家の罠】 不条理と戦い権力の本質に迫る 
【カラマーゾフの兄弟】 視界開けた、古典は新しい

執筆者は近藤康太郎記者である。私は現在朝日を講読していないので、こういう企画が立てられていると知ったのも、13日にブログ「連絡船」がこの件を取り上げていたのを読んだからだった。ブログ主の木下和郎氏は、選ばれた「50冊」のなかに亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が入っていることを知り、「感想募集」に応じて投稿をされたそうである。2年にわたって今もブログに書き続けておられる労作「亀山郁夫批判」(四百字詰め原稿用紙にして1000枚以上)を添付した上で。詳しくはぜひ「連絡船」でこの件についての記事を読んでいただきたいと思う。

近くのコンビニで新聞を買ってきて読んでみると、なんとも気がめいるだけの記事であった。亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』には、ブログ「こころなきみにも」の萩原俊治氏の投稿原稿も「厳しい指摘」として採り上げられているが(萩原氏も木下氏同様、労を惜しまずわざわざ投稿されたのだ。)、紙面に載っているのは「文学作品の翻訳は日本語として条理の立った読みやすいものであると同時に、緻密なものでなければならない」という言葉だけである。これでは、「厳しい指摘」というより、単に翻訳についての一般論を述べているようにしか思えない。ヘンだと思っていたのだが、やはりこれは下記に引用させていただく投稿原稿(ブログに公開されている)とは相当に異なっていたのである。

上述の萩原氏のコメントのすぐあとに近藤記者は、「指摘の成否はおくとして」と記し、誤訳問題に自分は関知しない、中立の立場に立つかのように装う。すでにほうぼうで指摘されているように、今後の出版文化を占う上において決定的に重要だと思われるこの誤訳問題(さまざまな指摘があるが、その内容を見れば、重要さの度合いは誰にも分かることと思う)に、中立的立場などというものが誰かにありえるのかも非常に疑問であるところに、まして「指摘の成否はおくとして」というような姿勢は単に無責任なだけなのだが、近藤記者はそう言っておいてすぐさま、「以下のような感想は、本と文化にたずさわるだれにとっても、重いのではないか」とつづける。この「以下のような感想」というのは「重厚で難解な印象のロシア文学が、驚くほど明快だった」という亀山訳を称讃する読者の感想である。これが記事の結論部分なのだった。

萩原氏の投稿原稿の全文は以下のとおりである。

「「超訳」にすぎない亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がベストセラーになったのは、メディア(朝日新聞、毎日新聞、NHK、集英社など)の強力な後押しがあったためだ。このことは、たとえば太平洋戦争の頃と同様、今も、メディアがスクラムを組んで大衆を操作すれば、大衆はコロッと欺されるという事実を私たちに示している。戦慄すべきことだ。それに、メディアの宣伝文句に踊らされ、その超訳をつかまされた大衆の何割が全巻を読みとおしただろう。このような疑問を抱くのは、その超訳は読者による緻密な読みを拒否するものでもあるからだ。ドストエフスキーの作品だけではなく、文学作品は筋を追うだけでは面白くない。緻密に読んで初めてその面白さが分かる。従って、文学作品の翻訳は日本語として条理の立った読みやすいものであると同時に、緻密なものでなければならない。超訳『カラマーゾフの兄弟』はこの二条件のいずれも満たしていない。」

ブログを読ませていただくと分かるように、萩原氏はドストエフスキーの研究者で、大学でドストエフスキー作品の講義をされている方だが、投稿原稿は、①亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』のベストセラーは多くのメディアの後押しで生まれたもの、②文学作品の翻訳には日本語として条理の立った読みやすさが必要だが、亀山訳にはこれが欠けている、また緻密に読んで初めておもしろさが分かるというのが文学作品であり、したがって当然翻訳にも緻密さが求められるが、亀山訳にはこれもない。つまり翻訳に必要不可欠の二点を亀山訳は欠いている、というように要約できるのではないかと思う。ところが、朝日の記事を見ると、萩原氏のコメントの前に、「新訳で読みやすくなり、視界がさあっと開けた」(作家の高山文彦さん)とか、近藤記者自身の「飛躍的に分かりやすくなった同書」という記述があるため、萩原氏のコメントは亀山訳の「読みやすさ」を全面否定しているにもかかわらず、「読みやすくはなったが、緻密さに欠ける」というように、読者に全然別の意味に解されかねない文脈に変化させられている。これは「さして重大な批判ではない」と読者に思わせるための意図的な語句の選択・配置・操作ではないだろうか。

……と、悲しいことに、私は最近メディアの姿勢に狡猾な策略(本来の思考力のほうは正直に言ってひどく衰退しているように感じるが)のようなものを折々に感じるもので、ついこうして疑心暗鬼におちいってしまうのである。けれども実際、近藤記者は「同書には、しかし「誤訳」という批判もつきまとう。」と述べていながら、すぐ「指摘の正否はおくとして、」と平然と誤訳問題を打ち捨てているのだから、こちらが疑いふかくなるのもあながち無理はないのではあるまいか。もちろん「ベストセラーは、メディアの強力な後押し」という指摘についてはおくびにも出さず、触れていないのだし。近藤記者にかぎらず、私は新聞記者や編集者や出版者の、批判(文化や学芸にとって死活的に大事な問題に関してさえ)を決して謙虚に真剣に受け止めることのできないこういう姿勢は文学の本質に反している、むしろ文学が分析・批評の対象にするべき現象の一つのように感じる。

亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を読むのは、小沼文彦訳、原卓也訳などを読んでいた私には苛立たしくも奇妙奇天烈な経験だった。ブログに感想を書いておこうと思ったので、なんとか全体の三分の一余りを努力して読んだ。そして優れた文学作品の翻訳としてある水準に達していると信じることができる、そのため心安んじて繙くことのできる訳本を他にもっていることをつくつく有り難いと思った。推測するに、もし『カラマーゾフの兄弟』を亀山訳によってはじめて読み、そうして感動したという読者が確かにいるのなら(たとえば「ゼロ年代の50冊」にコメントを寄せた読者のように)、それも原作の力に負っているのではないだろうか。亀山訳はどのページも呆れ返るしかないような稚拙な日本語で充ちあふれているように私には思えたが、そしてその原因は、「連絡船」が

「亀山の誤訳を、どんな翻訳作品にもつきものの表層的な誤訳として考えてはいけない。読みやすい日本語を心がけたために生じた誤訳などという亀山の弁解にごまかされてはならない。そもそも亀山に原作をまったく読めていないことこそが、夥しい誤訳として現われているのだ。これは深層的・構造的なものだ。どんな読者も亀山より作品を深く理解するだろう。亀山ほど狂った、素っ頓狂な読解はありえない。」

と述べているとおりだと私も思うのだが、それでも原作がもっている底力はどんなにお粗末な翻訳をも突き破り、断片の一つひとつであってもなお読者の心にひびくところがあった、ということではないかと考えたりもする。亀山訳(だけ)を読まれた人にはぜひ先行訳のうちのいずれかの『カラマーゾフの兄弟』を新たに読まれることをお勧めしたい。それを実行さえすれば、大方の人は翻訳の出来映えの歴然とした差異に気がつくと思う。その上でなお亀山訳を称讃するという人はそうはいないはずだ。

しかしこれは、亀山訳を称讃する既存の作家や書評家や編集者・出版人には当てはまらない。彼らは彼らなりの意図や思惑で発言し動いているのであり、本来自分たちが負っているはずの文学作品と読者と文学の世界への責任を放棄していると思う。そうではない、心底亀山訳を優れていると信じて称讃しているのだというのならば、その人は普通当たり前の読解力さえもっていないことになり、どちらにしろ、このようなことでは将来はかぎりなく暗い(注)。朝日新聞の文化部は、せめて、この企画を機会にこの件について真剣な検証を行ってみてはどうだろうか。

「ゼロ年代の50冊」選出のもう一つの話題作「国家の罠」については、次回に書きたい。



(注) 先日、とあるブログで沼野充義という人の次の文章が引用されているのを読んだ。

「 最後に、翻訳論となると誰もが引用するベンヤミンの「翻訳者の使命」を少し引き合いに出してみよう。(中略)

 そう考えた場合、私なりの見方では、翻訳には3種類の基本的なストラテジーがありうる。第一に翻訳先言語に焦点を合わせ、異質な要素を翻訳者の文化の文脈に「適応」させてしまうもの(これをアメリカの翻訳理論家ローレンス・ヴェヌティは「馴化」と呼んでいる)、第二に、あくまでも言語への忠実さを目指すもの、第三にいわばその両者の間にあって、両者を媒介するもの。第一のタイプは「カラマーゾフの兄弟」の新訳に代表されるような、いわゆる「こなれた」翻訳で、「同化的」と呼ぶことができる。第二のタイプは学者やある種の文体的実験を目指す翻訳家によって実践されるもので、「異化的」な作用をもたらす。第三の「媒介的」なタイプは、翻訳者の母語と外国語の間を媒介し、そこにいわば第三の言語を作ろうとするものだ。無論、この第三の言語とはユートピア的なもので、現実にはベンヤミンのいう「純粋言語」同様、存在しないのかも知れないが、私はその媒介的な場で展開するものこそが「世界文学」と呼ばれるに相応しいと考えている。」

亀山訳を「こなれた」翻訳と言っておられる。どういうところがそうなのか、沼野氏にはぜひ教えを乞いたい。とても関心がある。
ベンヤミンの「翻訳者の使命」が亀山訳を肯定的に語るのに引用されているのはちょっと…。


6月18日 「上述の萩原氏のコメントのすぐあとに 云々」の段落には、やや強引な表現がありましたので、訂正しました。
2010.06.17 Thu l 文芸・読書 l コメント (2) トラックバック (0) l top
前回、三浦雅士氏の「漱石 母に愛されなかった子」という本の感想を批判的に書いたが、言いたかったのは、漱石自身が母に愛されなかったというつよい潜在意識をもっていたという三浦氏の断定には説得的な根拠がほとんど示されていないではないかということであった。特にいただけないと思ったのは、『坊ちゃん』というフィクションの主人公の行動を通して漱石の心理と行動を説明し、自分の言い分の正当性を証明しようとしている姿勢であった。

『坊ちゃん』は、夏目漱石が初めて書いた小説である『我輩は猫である』と同時期に、『猫』と同じく「ホトトギス」に発表された作品である。『猫』は1905年(明治38年。ということは日露戦争の最中である。)1月号から翌1906年の8月号までの連載。『坊ちゃん』は20日程で一気呵成に書かれ、1906年4月号に一挙掲載されている。「『坊ちゃん』の載った号には『我輩は猫である』の第10章も載った」(高橋英夫)そうだから、当時の漱石の創作力がどんなに旺盛で豊かだったかが分かる。

漱石は、芥川龍之介の『鼻』を本人に宛てた手紙に「落ち着きがあって、ふざけてなくって、自然そのままのおかしみがおっとり出ているところに、上品な趣があります。それから材料が非常に新しいのが眼に付きます。文章が要領を得て、よく整っています。」と書いて若い芥川を感激させたが、この手紙の文面は、そのまま『坊ちゃん』にも当てはまるように思う。『坊ちゃん』は作品全体が簡潔であり、活き活きした魅力にあふれているので、おもしろみもおかしさも「おっとり」しているというより、読者をして声をあげて笑い出させることが多いが、それでも清や下宿のおばあさんと坊ちゃんとの会話には「おっとり」したおかしみもあるように思う。これから、『坊ちゃん』のなかから魅力がある、おもしろいと私が思う場面を以下に引用し、感想を書いてみる。(下線はすべて引用者による。)

「校長は時計を出して見て、追々ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を呑み込んでおいてもらおうと云って、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。校長の云うようにはとても出来ない。おれみたような無鉄砲なものをつらまえて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなえらい人が月給四十円で遥々こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。そんなむずかしい役なら雇う前にこれこれだと話すがいい。おれは嘘をつくのが嫌いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断わって帰っちまおうと思った。(略)到底あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った。

漱石は帝国大学英文科を卒業して高等師範学校に就職することになるが、1914年(大正3年)の講演『私の個人主義』によると、実は卒業を控えて漱石には高等学校と師範学校の双方に口があり、結果的に漱石は両校に承諾を与えるような格好になってしまったそうだ。事が面倒になり、困った漱石は、いっそ両方とも断ってしまおうかとも思ったそうである。結果的には、師範学校に赴任することになるわけだが、校長の嘉納治五郎と面会したときの様子を次のように述べている。

「私は高等師範などをそれほどありがたく思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡したくらいでした。/ 嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったと云って、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を懸持しようなどという慾張根性は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数をかけた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。」(『私の個人主義』)

四国の中学校での校長と坊ちゃんとの辞令を前にした会話はすこぶるおもしろいが、これは漱石自身の経験がモデルだったわけだ。寄宿生から宿直中の布団にバッタを入れられ、一晩中寝ずに生徒たちと談判した後の坊ちゃんと校長の会話にも妙味がある。校長に「あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に及ばん」と言われた坊ちゃんは、「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業はやります、云々」と答えるのだが、

校長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれていますよと注意した。なるほど何だか少々重たい気がする。その上べた一面痒い。蚊がよっぽと刺したに相違ない。おれは顔中ぼりぼり掻きながら、顔はいくら膨れたって、口はたしかにきけますから、授業には差し支えませんと答えた。校長は笑いながら、大分元気ですねと賞めた。実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。」

下線を付した部分の校長の態度、言葉にはなんともいえない渋い味わいがあると思う。また、坊ちゃんも、校長は自分をひやかしたのだとちゃんと感じとっているところはなかなかのものだと思うのだが、このように、坊ちゃんは決して一本調子の人間ではない。感情の機微の感じ取り方はいつもたいへん正確だし、人との対応は意外に大人である。たとえば下宿のおばあさんと交わす坊ちゃんの会話は年齢にしては巧みである。坊ちゃんは清の手紙を待っていて、時々おばあさんに「東京から手紙は来ませんか」と尋ねてみるのだが、おばあさんは「何にも参りません」と気の毒そうな顔をするが、時々部屋にやって来ていろいろな話をする。

「どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお出でなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。可哀想にこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭を置いて、どこの誰さんは二十でお嫁をお貰いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁を試みたには恐れ入った。それじゃ僕も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
「本当の本当のって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」この挨拶には痛み入って返事が出来なかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極っとらい。私はちゃんと、もう、睨らんどるぞなもし」
へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか
「どうしてて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦がれておいでるじゃないかなもし」
こいつあ驚いた。大変な活眼だ
「中りましたろうがな、もし」
「そうですね。中ったかも知れませんよ」
「しかし今時の女子は、昔と違うて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「どこに不たしかなのが居ますかね」 」

24歳で結婚するのは珍しくないと半ダースの例をあげるおばあさんの様子も眼前に見るように活き活きしていて感嘆するが、「へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか」、「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」という坊ちゃんの受け答えを見ると、話の内容は悠々としていて、態度は練れている。二人の会話を聞いているうちに、このおばあさんと清との共通点も相違点も自然と理解され、この場面も一度読んだらまず忘れられない。おばあさんは、坊ちゃんをこの下宿に紹介したもの静かなうらなり先生とマドンナと教頭の赤シャツ、この三人の間に起きている悶着の詳細をも坊ちゃんに話してきかせる。この日から数日後、偶然停車場で見かけた坊ちゃんが「全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握ってみたような心持ちがした」と形容することになるマドンナはうらなり先生の婚約者だそうだ。

「「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持ってお出るし、万事都合がよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過ぎるけれ、お欺されたんぞなもし。それや、これやでお輿入も延びているところへ、あの教頭さんがお出でて、是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどい奴だ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んで懸合うておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手馴付けておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが悪るく云いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがお出たけれ、その方に替えよてて、それじゃ今日様へ済むまいがなもし、あなた」
全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」」

おばあさんの話を聞き、「それじゃ今日様へ済むまいがなもし、あなた」と言われた坊ちゃんは「全く済まないね」と即答し、つづいて「今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」と言葉を重ねるが、こういう感じ方、考え方が坊ちゃんの真骨頂であろう。私の知るかぎり、『坊ちゃん』を最も数多く読んでいる人は、作家の大岡昇平である。中学1年で初めてこの小説を読んだという(偶然にも私が初めて読んだのも中学1年の時であった。)大岡昇平だが、1966年、朝日新聞に「私は若いころからスタンダールをやっていて、『パルムの僧院』を二十遍以上読んでいる。ところで漱石の「坊っちゃん」の方は、多分その倍ぐらい読み返しているのである。」と書いている。二十遍の倍となれば四十遍。大岡昇平が死去したのは1966年から22年後の1988年だから、その後再読はさらに重ねられたことだろう。大岡昇平のこの文章には「主人公は、あまり知恵はないが、正義感に満溢した快男子である。人生の不正と欺瞞は、その美しい心情の反応から、立ちどころに裁かれる。」と書かれている。「全く済まないね」というおばあさんへの即座の返答も「美しい心情の反応」の一つであることは間違いないだろう。

さて、バッタ事件である。

「 おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構うものか。寝巻のまま腕まくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先の一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、生憎掃き出してしまって一匹も居ない。また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜へ棄ててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は急いで馳け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載せて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込めた。「篦棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」

漱石が少年のころから落語好き、講談好きだったことは有名だが、「あしたになりましたらもっと拾って参ります」にはじかに落語の一節を聴いているような愉快さがある。「菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」という坊ちゃんの駄洒落はあまり冴えていないように感じるので、ここでは「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」という生徒のツッコミの方が鋭くはある。(笑)。 

生徒のこのへらず口の叩き方を見ていると、『我輩は猫である』において艶書事件の相談をもって苦沙弥先生を訪ねてきて「下を向いたぎり何にも言わない」中学生の古井武右衛門が彷彿としてくる。あそこには「元来武右衛門君は中学の二年生にしてはよく弁ずる方で、頭の大きい割に脳力は発達しておらんが、喋舌る事においては乙組中鏘々たるものである。現にせんだってコロンバスの日本訳を教えろと云って大に主人を困らしたはまさにこの武右衛門君である。」という叙述があったが、この中学生たちも何かやむをえない相談事が生じたために一人で坊ちゃんの下宿を訪ねなければならない事態におちいったとなると、きっと武右衛門君と同じような悄然とした態度をとるに違いない。しかし今は集団だから、「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」などとどこまでも「やに落ち着いた」態度を押し通そうとするので、坊ちゃんの怒りはさらにカッカと燃え上がることになる。

と、こんなふうにだらだら書いていくときりがないのでこのくらいにしておくが、今回『坊ちゃん』を読み返して、私はこれまで以上に作品に魅力を感じた。坊ちゃんの率直なものの感じ方、行動に尊いものを感じるのだ。これは時代のせいだと思うが、また作者の漱石をこれまで以上に好きだと感じた。他の作品もぼちぼち読み返してみたい。
2010.05.13 Thu l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
文芸評論家の三浦雅士氏に「漱石 母に愛されなかった子」という本がある。2008年刊行の岩波新書である。私はこれまで三浦氏の著作を読んだことはなかったが、「母に愛されなかった子」という題名に興味を惹かれて図書館の棚から手にとってみると、本文最初のページは次の文章で始まっていた。

「 漱石は母に愛されなかった子だった。少なくとも漱石はそう思っていた。そのことはたとえば『坊ちゃん』を読めばすぐに分かります。」(下線は引用者による。以下も同様)

下線を付した部分に私は驚いてしまい、「これはいけない!」と思った。そもそも漱石について「母に愛されなかった子」という表題を付けること自体、はて、そう言い切ってしまっていいのだろうか? と少し首をひねったのだった。というのも、漱石は『硝子戸の中』などで母親の思い出を書いたり、他のところでもふと母親の記憶に触れたりしているが、私の知る範囲でだが、母親の言動によって心が傷つけられたなどの辛い思い出、悪い記憶は一度も書いていないはずだ。たとえば、『硝子戸の中』には次の文章がある。

「母の名は千枝といった。私は今でもこの千枝という言葉を懐かしいものの一つに数えている。だから私にはそれがただ私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない。/(略)/悪戯で強情な私は、けっして世間の末ッ子のように母から甘く取扱かわれなかった。それでも宅中で一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中には、いつでも籠っている。」

このように漱石は母親に対して「強い親しみの心」をもっていたと述べている。けれども一方、漱石は、生れ落ちてすぐに里子にやられ、8、9歳になって実家に呼び戻されるまで養父母の下で暮らさなければならなかった。随筆ふうの文章や自伝的小説と言われる『道草』などを読むと、このことは漱石にとって決定的に不幸なことであったに違いないと感じられるし、『硝子戸の中』には、

「私を生んだ時、母はこんな年歯をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰り返されている。」

とも書いているのだから、漱石はあるいは口にこそ出さないが、はっきり嫌っていた父に対してだけでなく、母に対してもある屈折した感情をもっていたかも知れない。三浦氏が漱石について「母親に愛されなかった子」という見方をするのならそれもまるっきり理解できないというわけではない。この本が表題を支えるだけの充実した内容と説得力を持ちえれば、むしろこの主題は興味ふかいことであり、漱石の人物および作品の評論・研究としても意味があるのではないかと思う。しかしながら、書き出しがこれでは…。

『坊ちゃん』は自叙伝でも随筆でも歴史小説でもなく、小説である。作家が想像力をもって自由に構想し、事実に脚色をくわえて創作する小説を解読することにより、その著者が母に愛されなかった、少なくとも著者はそう思っていた、ということの証明がなされるなど、論理上からいっても考えられないことである。

たとえばスタンダールの『赤と黒』という作品はよく知られているとおり父親に憎まれ虐待されて育つ主人公をもつ。その主人公・ジュリアンも父親を憎悪している。一方、『赤と黒』の作者であるスタンダール自身も父親を心底から嫌っていて、このことは本人が『アンリ・ブリュアールの生涯』他でことあるごとに書いている。だから作者自身の父子関係があの『赤と黒』という作品のジュリアン父子に反映しているであろうという推測は十分可能だし、現実に多くの研究者や読者がそのような指摘をしている。しかし、そうだからといって、スタンダールの親子関係の実態は、『赤と黒』を読めば分かる、などということは決して言えないはずのことである。スタンダールは自分が父親の養育によってどれほど酷い目に遭ってきたかということを生涯をとおして力説していたが、16歳で故郷を離れパリに向かうとき乗合馬車に乗り込んだ息子を見て父親は涙を流しているが、一方息子のほうはその父親の顔を醜いと感じた、という感想を述べている。人によっては、このような我が儘かつ薄情な息子をもった父親こそ本当に気の毒だと感じるのではないだろうか。スタンダール自身の認識とも『赤と黒』に描写されている親子関係の内容とも異なって。

このように、小説のなかのある人間関係から作者をはじめとした登場人物の実生活における意識や実態を想像したり推測することは自由だし、ある程度まで可能なことではあるだろうが、しかし、ことの性質上、決してそれは確言はされえないことのはずである。これはどのような作品と作家の関係についても言えることだと思う。作者個人の実生活上のある秘密なり感情なり事実なりの実在の証明が、その作家の作品の検討によって論証しえた実例がこれまでにもしあったのだとしたらそれを教えてほしい。

以上の問題は小説という文学形式の原則に関わっての疑問だが、次は、『坊ちゃん』という小説の内容に即しての三浦氏への疑問である。これまで私は『坊ちゃん』をおそらく7、8回は通読していると思うが、その読後感からすると、確かに、父親にしろ、母親にしろ、「坊ちゃん」に対して厳しいし、決して温かいとは言えないとは感じる。むしろ冷たいのではないかとも思う。しかし、「坊ちゃん」があまりにも無鉄砲で日常的に心配をかける息子であることも事実であろう。なにしろ隣近所から「悪太郎」と呼ばれているくらいなのだ。親は心配や責任感などで気苦労が絶えず、そのために甘い態度は見せられなかったのだという見方もできるだろう。いずれにせよ、「漱石は母親に愛されなかった、少なくとも漱石はそう思っていた」ことが、『坊ちゃん』を読めば、理解できるなどということはまったくないと思うし、三浦氏の断言は理解しがたい。

三浦氏は、自分の述べていること――漱石は母親に愛されなかった、少なくとも漱石はそう思っていた――を証明しようとして、作品から文章を多数引用し、解説にこれつとめているのだが、それはことごとく空回りしているように思えた。たとえば、坊ちゃんが母親の死に目に会えなかったことについて、三浦氏は次のように述べている。

「 母が病気で死ぬ二、三日前、台所で宙返りをしてかまどの角で肋骨を打って大いに痛かった。母がたいそう怒って、おまえのようなものの顔は見たくないと言うから、親類へ泊まりに行った。その泊まりに行っているあいだに母が死んだ、というのです。怒ったときに顔も見たくないというのは、怒りの強さを示すひとつのレトリックにすぎない。親がそういうレトリックを使うことは誰だって繰り返し体験することであって、誰もほんとうにそうだと思いはしない。ところが坊っちゃんは、そのレトリックを言葉通りに受け取って、病人の母を置き去りに、じゃあ、目の前から消えてやるよ、とばかりに親類の家に泊まりに行ったわけです。いささか穏やかではない。拗ねている、僻んでいると受け取られてもしようがない行動である。
 本人もそれを認めている。そう早く死ぬとは思わなかったと書いているからです。そんな大病ならもう少しおとなしくすればよかったと思いながら帰ってきた、と。これは乱暴もいたずらも父母の気を惹くための行為だったと認めているようなものだ。

母親に「おまえのようなものの顔は見たくない」と叱られて親類の家に泊まりに行ったことをもって坊ちゃんが「拗ねている、僻んでいる」と断定することはとうてい無理だと思うし、「じゃあ、目の前から消えてやるよ」というような心理や発想は、坊ちゃんの性格から遠くかけ離れていると感じる。しかし、三浦氏は、これこそが坊ちゃんのあらゆる行動の真の動機だと捉えているようである。この場合だけではなく、やがて物理専門学校を卒業した後教師として赴任する四国の中学校での坊ちゃんの行動もすべて「じゃあ、目の前から消えてやるよ」という拗ね、僻みという心理が原動力になっているというのである。この「じゃあ、目の前から消えてやるよ」という発想については後でまた取り上げることになると思うが、さらに、「これは乱暴もいたずらも父母の気を惹くための行為だったと認めているようなものだ。」という見解にいたっては、どうしてこういう解釈ができるのかまったく理解できない。これでは、坊ちゃんが友達にからかわれて西洋ナイフで指を切ったのも、「弱虫やーい。」と囃し立てられて学校の二階から飛び降りたのも、動機は親の気を惹くための行動だったということになる。三浦氏の読解をさらに見てみる。

「で、帰ってきたその坊っちゃんのことを兄が親不孝者だとなじる。母の寿命を縮めたのはおまえだというわけです。坊っちゃんとしては口惜しい。愛されていると信じたい、そのことを確かめたくてしたことが、ことごとく裏目に出てしまうから口惜しい。口惜しくて悲しくてたまらないのは自分のほうだ。そこで兄の顔を殴ってしまう。また叱られる。
 面白おかしく書いているので、こちらもつい軽快に読み飛ばしてしまうが、ことは母の臨終にまつわることである。考えてみれば、ずいぶん深刻な話なのだ。じっさい、漱石自身、親類の家に泊まりに行って母の臨終に立ち会っていないのです。親類へ行っていて立ち会えなかったと、後年になって書いている。もちろん仔細が書かれているわけではないが、しかし心理的にはこれにたぐいすることがあったと十分に想像できる。短いながら、『坊っちゃん』には心理の機微がきちんと書かれているからです。
 事実はどうであれ、漱石はここで、坊っちゃんを借りて、自分の母への心理的なこだわりを書いているのだと言っていい。

坊ちゃんが親類の家へ泊まりに行くことになったのは、「台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲っ」て、母親に、おまえの顔は見たくないと言われたからだが、この宙返りをも三浦氏は、坊ちゃんが「愛されていると信たい、そのことを確かめたくてしたこと」だと言っているようである。漱石が実母の臨終に立ち会っていないことを私は今回三浦氏の上述の文章ではじめて知った。だとすると、これは作品と実生活の出来事とが一致していることになるのだから、漱石のどの作品にこの事実が書かれていて、どのような内容の文章なのかをここで紹介してほしかった。そうすれば三浦氏の論証の説得力がいくらかでも増したのではないかと思う。また三浦氏は、漱石の実生活に「心理的にはこれにたぐいすることがあったと十分に想像できる。」と書いている。つまり、三浦氏は、漱石の母が死去した際に漱石が親類の家に行っていたのは、『坊ちゃん』の場合と同じように、母親に叱責されて、という事情があったのではないかと推測しているわけだが、その推測の根拠は、「『坊っちゃん』には心理の機微がきちんと書かれているから」だと言う。しかし、母親の死に際して『坊っちゃん』に描かれている文章は、次のとおりである。

「そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかったと思って帰って来た。そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれの為めに、おっかさんが早く死んだんだと云った。口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた。」

簡潔な文章であり、自然なあっさりとした書き方だと思う。これでどうして、漱石が『坊っちゃん』と同じ心理的経験をしたに違いないとまで言えるのか不思議である。まして、この場面によって、「漱石はここで、坊っちゃんを借りて、自分の母への心理的なこだわりを書いているのだと言っていい」とまで述べられたのでは、それがどのような性質の「心理的こだわり」なのか三浦氏が何も書いていないので、読者の私は戸惑うばかりである。

そういう母への心理的なこだわりが、逆にその正反対とも言える清という下女のイメージをかたちづくったと言えます。清のような老女が周辺にいたのかもしれない。あるいは、実母自身のなかにそういう一面がじつはあったのかもしれない。それを拡大したのかもしれない。けれど、それを取り出してひとつの明確なイメージにまで高めるためには、それなりのエネルギーを必要とします。母の一面をむやみに拡大するにもエネルギーがいる。その出所は母への心理的なこだわりの強さ以外には考えられない。漱石は母に対してわだかまりがあったのだと考えるほかない。

清に限ったことではないが、作家が明確な性格と輪郭をもった一人の人間を創造するには、確かにエネルギーがいるだろうと思う。清はたいそう魅力と存在感のあるおばあさんだから、尚更そうだったかも知れない。しかし漱石によるこういう人物造形の出所がなぜ「母への心理的なこだわりの強さ以外には考えられない」のかが分からない。三浦氏は自分がそのように考える理由を他人が理解できるようきちんと説明すべきであろう。その他、

「清の話が出てくるそのつど、坊っちゃんは父母の情愛には恵まれなかったんだ、少なくとも本人はそう思っていたんだと思わせるわけです。母への心理的なこだわりが清を生んだと言わざるをえない。

という表現を見ても同じ感想をもつ。もっとも、三浦氏も読者からこれまで私が述べてきたような反論がくることは予想していたようで、

「 漱石は母に愛されなかった子だ、少なくともそう思っていた、そのことは『坊っちゃん』を読めば分かると述べて、坊っちゃん自身の、おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった、母は兄ばかり贔屓にしていた、という有名な台詞を引いたわけですが、坊っちゃんがそうだからといって漱石もそうであるとは限らない。小説と現実は違う。漱石自身の体験、教師として松山中学に赴任した体験をもとにしたとはいえ、『坊っちゃん』はあくまでも小説、つまり作り話である。証拠にはならないと反駁されるかもしれない。

と述べている。ところが、このような(読者からの)反駁に対する三浦氏の説明は次のとおりである。

「 しかし、四国に赴任してからの坊っちゃんの行動は、おしなべて、母の臨終のときに坊っちゃんがとった行動の焼き直しなのだということになれば、話はまた違ってくるでしょう。いたずらをしたら母がたいそう怒って、おまえのようなものの顔は見たくないと言うから、じゃあ、消えてやるよ、とばかりに親類の家へ泊まりに行った、その泊まりに行っているあいだに母が死んだというエピソードの、基本的には繰り返しであるということになれば、これは作者自身のわだかまりを反映していると考えるほかない。」

三浦氏は、最初のほうで引用したように、母親に叱られて親類の家に泊まりに行った坊ちゃんの行動は、母親に愛してもらえないために拗ね、僻んで「じゃあ、消えてやるよ」というごとき心理に支配されたものであると述べていた。そして四国の中学校における坊ちゃんの行動もその「焼き直し」である、つまり天麩羅事件に関しての教室での振る舞いやバッタ騒ぎや赤シャツとの戦いの際の坊ちゃんの行動は母親の臨終の際の反復だと述べているわけである。それは、坊ちゃんの「じゃあ、消えてやるよという、潔くもあれば捨て鉢でもある」母親に対しての構えであり、そのような「母に対してとった構えが習い性になってしまったところから出ている」とのことである。

「潔くもあれば、捨て鉢でもある」と三浦氏は書いているが、「潔い」ことと、「捨て鉢」であることは、似て非なるものである。これまで三浦氏が坊ちゃんの行動の原因について説明を重ねてきた、「拗ね」「僻み」「じゃあ消えてやるよ」というような発想・心理は、「捨て鉢」とは結びついても、「潔さ」とは逆の性格のものであろう。これがごく普通の一般的な言葉の理解ではないだろうか。

三浦氏は、坊ちゃんが校長の「生徒の模範になれとか徳を及ぼせとか言う」訓示に対し、とても言われたとおりにはできないからというので辞令を返そうとする行為についても、「母親に愛されなかった子」としての「拗ね、僻み」による「じゃあ、消えてやるよ」という心理のせいにして説明している。しかし、これは、学校出たてで世間知らず、もともと正直で単純な心の持ち主である坊ちゃんが、校長の話を大まじめに受けとめたからだろう。この反応は、「じゃあ、消えてやるよ」などという拗ねた心性とは正反対のものであることは誰が読んでも明らかだと思うのだが、三浦氏は次のように言う。

「『坊っちゃん』という小説の全体が母の臨終での一件の繰り返しだというのは、相手の台詞を言葉通りに受け取ってみせるところだけに表われているわけではない。母への心理的なこだわりは、結局、母が自分をどう見ているか、どう評価しているかということへの関心の強さから生まれているわけですが、坊っちゃんは中学の教師や生徒が自分をどう見ているか異常にこだわっている。自分がどのように見なされ、どのように扱われるかということにじつに過敏に反応する。自意識過剰と言ってもいいほどです。そのほうがさらに重要な、母の臨終での1件の繰り返しである。」

このような見方をする三浦氏は、坊っちゃんが、

「他の教師に聞いてみると教壇に立って一カ月くらいは自分の評判が良いか悪いか非常に気にかかるそうだが、自分はいっこうにそんな感じはなかった。」

と述べていることについても、それは「実際の行為とはまるで矛盾する」と決めつけている。私には、三浦氏のこの発言こそ不可解である。坊ちゃんの「自分の評判が良いか悪いか」気にかからなかったという発言がどの行為とどのように矛盾するのかが不明なのである。三浦氏はあらゆる坊ちゃんの行動を「母に愛されなかった子」という自ら設定した命題に結びつけなければならず、自分のその観念に脅迫されてなんでもかんでも強弁しなければならない羽目におちいっているのではないか。坊ちゃんの行動は、校長、赤シャツをはじめとした同僚教師、生徒、下宿のおばあさんなど、接する相手の行為や言動に対していつも健全に反応していると思う。その性格は単純率直、正義感の横溢した清新な魅力に富んでいて、「拗ね、僻み」などの暗い感情とは縁遠いのではないだろうか。もっとも、作品全体の基調は決して単純でも一概に明るくもないので、そのことと坊ちゃんの性格・行動とがあいまって、いまだに広く読まれているのではないだろうか。三浦氏は『坊ちゃん』のおもしろさ、魅力がどこにあると考えているのだろう。

前に述べたように、漱石は、母の千枝という名前がほかの女の名前であってはならない気がするほどに母の名である千枝という言葉を懐かしく感じていると書き、また、

「悪戯で強情な私は、けっして世間の末ッ子のように母から甘く取扱かわれなかった。それでも宅中で一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中には、いつでも籠っている。愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のある床しい婦人に違なかった。そうして父よりも賢こそうに誰の目にも見えた。気むずかしい兄も母だけには畏敬の念を抱いていた。」

と述べて母親への敬愛の念を吐露しているのだが、三浦氏にかかると、このように漱石が母を褒めていることの理由は、「私を生んだ時、母はこんな年歯をして懐妊するのは面目ないと云った」ことや、最初の養子先が古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったこと、そのために漱石はその道具屋の我楽多といっしょに、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていた、ことなどを書いて発表したので、世間に「これだけでは不人情な母と思われかねないと思った」からであろう、と述べるのである。このような三浦氏の態度は、単なる邪推とつまらない揚げ足取りの域を出ておらず、そのために最初の意図がどうあれ、三浦氏の書くことは漱石の作品の魅力の源泉を涸らす役目をになう結果になってしまっているのではないかという気もする。また上の引用文において漱石が「愛憎を別にして考えて見ても」という言葉を記していることについても、三浦氏は、次のように述べている。

「 文面からは漱石が母に愛されていなかったとは思えない。少なくとも、相互に悪い感情を持っていたとは思えないわけだが、だからこそ逆に、なぜ里子に出し養子に出したのかという疑問がいっそう強められただろう。それが、愛憎を別にして考えてみても、という、ふつうならばあまり挿入しないだろう言葉に込められた意味ではないか。」

漱石は、「宅中で一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心」が自分のうちにあることを述べたすぐ後で、「愛憎を別にして考えてみても」と書いている。これは、三浦氏の判断とは異なり、家の中で自分にもっとも愛情をかけてくれたのが母だったからという私情による依怙贔屓の感情によって母を「品位のある床しい婦人」と述べているのではない。漱石はそう言いたいがために、わざわざ「愛憎を別にして考えてみても」とことわっているのではないかと思う。

その他、三浦氏は、漱石が『一貫したる不勉強』と題された談話のなかで「二松学舎」に通っていた時分に「毎日弁当を持って家を出るが学校には行かずに道草を食って遊んでいた」と語っていることに対して、漱石は「登校拒否者だった」「いわば命がけで登校拒否していたのである。」とまたまた根拠もなく決めつけている。漱石が中学を中退した後、大学予備門に入るまでの経緯についてはこれまでも多くの人が不思議がってそれぞれの推測を書いている。しかし三浦氏のような断定の仕方をした人を私はこれまで見たことがない。それは、これまでの論者がはっきり分からないことを分かったかのように書いてはならないというもの書きとしての最低限の節度をわきまえていたからであろう。

岩波書店の「漱石全集」は「世界に冠たる」(藤枝静男)全集として知られている。漱石没後間もなく始まった全集出版には、漱石の門下生が中心となって相談が始められ、内田百聞も森田草平とともに校正に携わったそうである。その百聞の『実説艸平記』によると、全集校正にあたって、まず、漱石の仮名遣い、送り仮名、用字の癖などを調べ、それに則った「漱石文法」を作成したそうである。そのような準備を整えて仕事に取りかかったにもかかわらず、「実際の場合にぶつかると、それがしょっちゅうぐらつく」。ときには七校も八校も取るようなことになり、岩波からは頻りに進捗させてくれと言ってきたそうである。それについて、百聞は「遅れる責めは重重こちらにあるとしても、だからこちらが悪いのだからと云ふので、漱石先生の全集に、これではいけないと思ふ所をその儘にして校了にするわけには行かない。」「だれに迷惑を掛けようと、発行日が少少どうならうと、この全集に承知の上で誤りを遺す事は出来ないと云ふのが十三号室(引用者注:校正室)のみんなの本心であった」と記している。その時には岩波書店は少々このような校正のやり方に困っただろうが、少し長い目でみると結局そのほうが想像を絶するほどに得(徳とも言える)なのである。岩波書店の信用は何よりも漱石全集によって作られたと聞いたことがある。

今も「漱石全集」を発行しつづけている岩波書店だが、編集者は、たとえば「漱石は母に愛されなかった子だった。少なくとも漱石はそう思っていた。そのことはたとえば『坊ちゃん』を読めばすぐに分かります。」という冒頭の言葉に疑問を感じなかったのだろうか。
2010.05.09 Sun l 文芸・読書 l コメント (3) トラックバック (0) l top
4月23日追記
本エントリーで、木下豊房氏の文章を引用させていただいたが、その引用文について木下氏から一部訂正があるとのコメントをいただいた。訂正箇所は、亀山郁夫氏の訳文の箇所で、「なぜならそれは神の愛の姿であり」は引用の誤記であり、実際の亀山訳は「なぜならそれは神の愛の似姿であり」になっているとのことである。(下線は管理人による)
木下氏のサイトにおける文章はすでに訂正されているので、本エントリーでも引用文を差し替えさせていただいた。


先日、木下豊房氏のサイトで「亀山訳引用の落とし穴」という一文を読んだ。佐藤優氏は大分前から文芸雑誌「文学界」に「ドストエフスキーの預言」というエッセイを連載していたようである。そういえばどこかでそんな話を聞いたような気もするが、どうやら相変わらずあやしげなことを書いているらしい。「あやしげなこと」などと言うのはいかにも言葉が過ぎるようだが、しかしもうそうとしか思えないのである。私の知識などは何事においても狭く小さいものでしかないが、それでも関心があるなどの理由で多少の知識をもっていることについて佐藤氏が書いているのを読んでみると、必ずといっていいほど腑に落ちない点がある。述べられている事実関係に誤りがあったり、解釈が頓珍漢だったりで、書いている事柄に関して正確な知識をもち、全体を把握した上でものを言っているとはとうてい思えないことがしばしばなのだ。このことは、他のブログなどでもよく指摘されていることである。たとえば、

http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-fd39.html (数学・自然科学系)
http://clio.seesaa.net/article/143204107.html (歴史系)
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A1R23I7DNMSHYT/ref=cm_pdp_rev_title_1?ie=UTF8&sort_by=MostRecentReview#R2RRKQ8CVLNMLH (「国家の自縛」書評・経済系)、等々。

今回、木下氏の文章を読ませていただいても、これまでとまったく同じ感想をもった(掲載号を図書館で探してみたが、借り出されているのか見つけることができず、残念なことに今のところ参照していない)。まず、長くなるが、下記に木下氏の文章を引用させていただく。

「……佐藤は文芸誌「文学界」に連載中の「ドストエフスキーの預言」というエッセイで、ゾシマ長老の説話の次のような一節を含むかなり長い文章を亀山訳から引用し、それに対する自分のコメントを付けているのである。

「兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪のある人間を愛しなさい。なぜならそれは神の愛の似姿であり、この地上における愛の究極だからだ。神が創られたすべてのものを愛しなさい。<以下省略>」(亀山訳2巻451頁)

この個所で佐藤優はこうコメントする。「ここでゾシマは、罪ある人間を<神の愛の似姿>としている。これは神学的に間違っている。確かに人間は<神の似姿>である。しかし、神は罪を有していない。従って、罪まで含めた人間を神の似姿とすることは、罪の責任を神に帰すことになる」云々。ここで佐藤はあたかもゾシマ長老の考え方を訂正する役回りを演じているかのようであるが、実は亀山訳の不正確さを踏まえての佐藤の解釈そのものが見当はずれなのである。ロシア語原文を見てみよう。(括弧内の訳は亀山訳に沿いながら、ポイントの個所を傍線で示す)

 «Братья, не бойтесь греха людей, любите человека и во грехе его, ибо сие уже подобие божественной любви и есть верх любви на земле. Любите всё создание божие, <・・・> »(14-289)(兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪ある人間を愛しなさい。なぜならそれはもはや神の愛に似た行為であって、地上における愛の極致であるからだ。神が創られたすべてのものを愛しなさい)

 亀山は「罪ある人間を愛しなさい」を受けての「神の愛に似た行為」(«подобие божественной любви»)を「神の愛の似姿」と訳したことによって、佐藤の見当違いの解釈の原因を作った。早とちりした佐藤は原文を確かめることもなく、前文を受ける 「それは」(«сие»)を「罪ある人間」ととらえ、「神の似姿」に重ね合わせた。まともにロシア語を読める者ならば誰にも明白であることであるが、「それは」(«сие»)は文法的に中性形で、「罪ある人間を愛すること」という「行為」を受けているのであって、男性形である「人間」(«человек»)を受けるはずがないのである。

 ちなみに先行訳は、「罪ある人間を愛すること」を受けて。「なぜなれば、これはすでに神の愛に近いもの」(米川訳)、「なぜならそのことはすでに神の愛に近く」(原訳)、「なぜと言うて、それこそが神の愛に近い愛で」(池田健太郎訳)、「なぜならば、これはすでに神の愛に近いもので」(小沼訳)、「なぜなら、それこそが神の愛に近い形であり」(江川訳)となっていて、亀山のようなまぎらわしい誤訳をしているものは一つもない。」

木下氏が参照できなかったという小沼訳、江川訳を見てみたところ(管理人注:木下氏の最初の文では小沼訳、江川訳はまだ参照されていなかった)、次のとおりであった。

「 江川卓訳(集英社 p360)
 お坊さま方、人間の罪を恐れず、罪あるままの人間を愛されるがよい。なぜなら、それこそが神の愛に近い形であり、この地上での愛の極致だからである。神のすべての創造物を、その全体をも、一粒一粒の砂をも愛されよ。一枚の木の葉、一条の光をも愛されよ。動物を愛し、植物を愛し、一切の物を愛されよ。一切の物を愛するとき、それらの物のうちにひそむ神の機密を会得できよう。いったんそれを会得したならば、あとは美ますます深く、たゆみなくそれを認識していくようになろう。」

 小沼文彦訳(筑摩書房 Ⅱ p128)
 諸師よ、人間の罪を恐れてはならない。罪あるがままの人間を愛するがよい。なぜならば、これはすでに神の愛に近いもので、この地上における最高の愛であるからである。神のあらゆる創造物を、その全体をも、そのひとつひとつをも愛するがよい。一枚の木の葉、ひとすじの日光をも愛すべきである。動物を愛し、植物を愛し、ありとあらゆるものを愛さねばならない。あらゆるものを愛するならば、あらゆるもののうちに神の秘密を見出すであろう。一度それを発見すれば、あとはまいにちまいにち、いよいよ深く、いよいよ多くのものを認識して疲れを知らぬようになるであろう。そしてやがては、今度は完全な普遍的な愛で、全世界を愛するようになるに相違ない。」(下線は引用者による)

以上のように、江川訳、小沼訳ともに、確かに木下氏が引用している他の先行訳と事情はほぼ同じであった。そして、前後の文脈からして、この訳は大変自然だと思う。死を前にしたゾシマ長老は自分の弟子たちに人間どうしが互いに愛し合うことをさとし教えているのだから、この場面でゾシマが「罪ある人間」を「<神の愛の似姿>と」述べるなどは、内容が不自然であるばかりでなく論理的にもおかしいだろうと思う。佐藤氏は、亀山訳の「罪ある人間を愛しなさい。なぜならそれは神の愛の姿であり」を読んで、「ゾシマは罪ある人間と神の愛とを同一視している」と受け取り、そういうゾシマは神学的に誤っている、と指摘しているわけだが、おかしい・誤っていると思ったのなら、そのときなぜまずもって他の訳文を参照してみなかったのだろう。手間を厭わず米川訳でも原訳でも見ていれば、すぐに自分が誤読していることに気づいたと思うのだが…。そもそも、もし佐藤氏の指摘していることが事実だったとしたら、しごく単純な内容の疑問なのだから、厖大な数のこれまでの読者・研究者が誰も気づかなかったというようなことがそうそうありえると思っているのだろうか。これからはまず最初に自分の読解力をこそ疑ってみるのがいいのではないかと思う。このようなことでは読者に迷惑がかかるばかりである。

私は、「文学界」(2010年1月号)の連載第九回「無神論者ゾシマ」を図書館で読んでみたが、冒頭から大変不愉快な印象を受けた。佐藤氏は、こんなことを書いている。

「 ドストエフスキーは愉快犯である。神などまったく信じていない。神を信じたいと思っても信じることができない現代人の一人である。『カラマーゾフの兄弟』におけるテーマも無神論者について描くことであった。」

自分には『カラマーゾフの兄弟』の何もかもが分かっていると言わんばかりのなんとも傲慢なものの言い方だと思うが、「ドストエフスキーは愉快犯」とはどういう意味だろうか。ドストエフスキーは神を信じていないにもかかわらず、信じたふりをして読者を欺き、その状態をおもしろがっているとでも言いたいのだろうか。ドストエフスキーは「神を信じたいと思っても信じることができない現代人の一人である」とか、『カラマーゾフの兄弟』のテーマは「無神論者について描くことであった」と躊躇なく言い切っているが、その理由を述べるのは評者の当然の務めだと思うが、それは書かれていない。下記の場合も同様である。マサリクというチェコの学者について、佐藤氏は、

「大審間官もゾシマ長老も、同じような無神論者なのである。マサリクは、このことに気づいた数少ないドストエフスキー研究家なのである。」

と述べているが、「大審間官もゾシマ長老も、同じような無神論者」であるという見解は初めて聞いた。佐藤氏がこのように断定する根拠は何だろうか。「マサリクは、このことに気づいた数少ないドストエフスキー研究家」と述べているところを見ると、佐藤氏は、自分自身をこれまでドストエフスキーとその作品について述べてきたマサリクを含む多くの論者の一段高みに立たせて、大審問官やゾシマを信仰者と見るのは誤っているという判断をくだしていることになる。このような兆候は佐藤氏には常に見られる特徴なのだが、自分自身を知らなさすぎると言えるだろう。それにしてもこういう重大な断定をするからには、その理由をここでしっかり説明することは発言者の当然の責任のはずである。しかしいつものように佐藤氏は決してそうはしない。ただ、えんえんとマサリクの文章を引用するだけである。これでは根拠もなく思いつきで、あるいは好き勝手に、「大審間官もゾシマも、無神論者」と決めつけていることにしかならないのではないだろうか。佐藤氏も雑誌社もこうやって読者を騙るのはもういい加減にしてほしい。

音楽家の坂本龍一の父親は、長年文芸雑誌の編集者を務めた人だったそうだが、辺見庸との共著「反定義 新たな想像力へ」(朝日新聞社2002年)において、坂本龍一は父親のこんな発言を紹介している。

「うちの父がいま八十歳です。「どうしてこんなになっちゃったんだろう」というんですよ。「日本人ってどうしてこんなになっちゃったんだろう」って。原発で人為的な事故が起こったでしょう。しかも誰もきちんと責任をとらない。ぼくにポロっと言ったことがありますよ。「日本人は、こういうことだけはやらなかったのにな」って。父の時代の日本人は、こういう事故は起こさなかったと。もう生きていたくないという気持ちもあるでしょうね。見たくないっていう。」

想像するに、最近の出版・編集のあり方についても、もし聞かれたならば、この人は原発事故に関する発言と同様のことを言うのではないだろうか。いくらなんでも亀山郁夫氏のドストエフスキー翻訳や佐藤優氏の評論などの言説内容が一切の批判を封じ込める形でほぼ全マスコミによってもてはやされている現状はあまりにも異様であり、見ていて、つい一昔前までの出版・編集者は「こういうことだけはやらなかった」という感想が湧いてくるのを禁じえないのである。
2010.04.22 Thu l 文芸・読書 l コメント (2) トラックバック (0) l top
東本高志氏は金光翔さんの「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利を(も)強調すべき――朝鮮学校排除問題」という記事への批判文を書かれたが、これに対する金さんの「東本高志氏への反論」に対しては、もう一週間以上経ったが、直接的には何も反応されていないようである。私は東本氏のブログを今回はじめて拝見したのだが、ブログタイトルが、「「草の根通信」の志を継いで」であることを知り、ちょっとした感慨をおぼえた。「草の根通信」といえば、大分県中津市在住の作家の故・松下竜一氏。私は「草の根通信」は読んだことはないが、松下氏の著書は『豆腐屋の四季』をはじめわりあいよく読んでいて、数年前氏の死去を知ったときは「もう少し書いてほしかった」と残念に思うと同時に、病身をおしての長い間の地道な奮闘努力に対し、しみじみ「お疲れさま」という気持ちをもった。そういう松下氏の志を継ぎたいという東本氏の意思がブログタイトルにも表われているのだと思うが、今回の文章およびそれをめぐる言動を拝見するに、残念ながら、松下氏ならば決してこういう行動はしないのではないかと感じることがあった。それは次の2点で、一つは文章の読解について、もう一つは、意見の交換や議論の際の、それこそ東本氏自身の言葉を用いていえば、「作法」ということについてである。

 1.文章の誤読の問題

東本氏が批判の対象にした金光翔さんの記事が、授業料実質無償対象から朝鮮学校のみを排除しようとする政府方針に反対し抗議する声明文などを見て、「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」への言及が非常に少ない、それはもっと強調されるべき、と述べているものであることは明白であり、この点については東本氏もその趣旨を理解しておられるようである。ただし、東本氏の目には、声明文の多くが「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」を十分に含んでいる、そのことをもきちんと主張しているように映ったということで、この点金さんと観方が異なったわけである。しかしそれならば、東本氏が自身の記事で引用提示している声明文について、「これ、このとおり。歴史的経緯に触れた声明文もたくさんありますよ。」と述べるだけでよかったのではないか。なぜ、「仮定の論」、「マッチポンプ的な論文作成の手法」、「自らが仮定したいわば架空の論でしかない論」、あるいは「仮定上の問題への作為的反論」というような認識を示すことになったのだろう。

金さんが記事中で植民地支配や歴史的経緯に触れていない声明文や抗議文の実例を挙げなかったことをもって、東本氏はそれを「仮定の論」「架空の論」と受けとめたようだが、実例を挙げない理由が、声明文を出すという行為そのものに対して「一定の評価をしている」からであると読まなかったのだとしたら、それは東本氏の読解力不足を示しているに過ぎないのではないだろうか。普段金さんのブログを読んでいる人なら分かることと思うが、これまで金さんが意見を述べる場合に根拠や理由を曖昧にしたり明示しなかったりというようなことはまずなかったように思う。したがって、今回具体的な実例をあげない理由は、「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」を強く訴える文が少ないことへの懸念を一方で持ちながら、しかし声明文のようなかたちで抗議の声を挙げることに対しては「評価をしている」からこそであることは、一読すればまずたいてい理解できたのではないかと思うのだが。

それから、東本氏は金さんの「懸念」を「マッチポンプ」と認識したようであるが、これも誤読、あるいは読み取りの浅さを示しているのではないかと思う。ここ数年の朝鮮総連への弾圧に対する社会的容認や黙認、佐藤優氏のような国家主義的・排外主義的言説が岩波や週刊金曜日をはじめとしたリベラルと広く社会に認知されている集団や個人に黙認され、高く評価されつづけてきているという現状について、これまで金さんはつよく異議申し立てをし、批判をつづけてきた。こういう金さんの経験、日本社会への観点からすると、今回の「懸念」があるいは杞憂であれ、声明文に歴史的経緯への言及が少ない(と金さんに思える)ことが意図的・戦略的なものではないかという懸念を持たざるをえなかったということは、東本氏も感じとってもよかったのではないだろうか。

 2.議論における作法の問題

以上、東本氏の読解に対する疑問を述べたが、次は議論における作法、対応の仕方ということについてである。東本氏は、金さんのブログ「私にも話させて」をご自身のブログで「お気に入り」に登録しておられるようであり、普段からよく金さんの文章を読んでいるはずなのに、今回明確な根拠も示さずに、いきなり「架空の論」とか「マッチポンプ」などの強烈な言葉を用いていることには、自分が正確な読み取りをしているかどうか一旦立ち止まって内省を試みてみたという痕跡や気配が見られないこともあいまって、批判や議論をする場合の作法に疑問を感じた。松下竜一氏には人一倍その種の繊細さ・慎重さが身に備わっていたと思うのだが。またそれ以前に、金さんのあの文章を読んで、松下氏ならば東本氏のような読み取りは決してしなかったと思う。そのような点で私は松下竜一氏を信頼できた。だからこそ乏しい財布をはたいて新刊本を購入したりもしたのである。

あるいはこれは東本氏の意図的な行為ではないかも知れないが、たとえ意図的でないとしても、これが読者にどのような受けとられ方をするかという点を考えなかったのだとすれば、やはりその姿勢は疑念をもたれても仕方のない行動だと思えるのだが、東本氏は、金さんの反論を受けた4日後、そのことには一切触れることなく、他のブログに掲載されていたという吉野弘の詩と茨木のり子の文章とをブログに掲載し、次のように述べている。

「…(略)… 私も吉野弘さんの「祝婚歌」という詩と茨木のり子さんの「祝婚歌」という文章を紹介させていただこうと思います。私がなぜおふたりの詩と文章を載せたくなったのか。その理由はおふたりの詩と文章を読んでいただければご了解いただけるものと思います。」(下線は引用者による)

金さんの記事に対する東本氏の批判文がブログに公開されたのは3月27日、これに対する金さんの反論は30日、そして「祝婚歌」という詩と文章が東本氏のブログに載ったのは4月3日だった。私は、東本氏は金さんの反論に自分の言葉で答える代わりに、この詩と文章をブログに載せたと思ったのだった。そして詩や文章など文学作品を東本氏が自己の行為の弁明のために利用しているのではないかとも感じたのだが、ちがうだろうか。もしそのような意図や思惑なしにこの行動がなされたのだとすれば、あまりに鈍感過ぎる。どちらにせよ、ひどく文学精神に反する行為のように感じた。

東本氏のブログには、ブログタイトル「「草の根通信」の志を継いで」のすぐ下に、「大分在住者の政治的・文学的発信」との言葉がある。この行為も「文学的発信」だとすればこれはその種のものとして最悪のケースではないだろうか。他人のある文章に対して自分の方から批判を行ない、それに対して相手はすぐさま精緻な反論を率直に行なった。それならば、批判した当事者としては自分の言葉でその反論に応えるしか方途はないはずである。それをしないで、「私がなぜおふたりの詩と文章を載せたくなったのか。その理由はおふたりの詩と文章を読んでいただければご了解いただけるものと思います。」などと曖昧とも思わせぶりともつかない言葉を添え(いったい読者は何を了解すればいい?)、他人の文学作品を掲載し、これでもって議論に代えようとするのなら(少なくとも読者はそのように読むし、読まれても文句は言えないだろうと思う。)、東本氏の批判に自分の言葉で応答した金さんに対して大変非礼であると同時に、この詩と文章およびその作者に対しても失礼ではないだろうか。また松下竜一氏がこのことを知ったら何と言うだろうか。こと、この問題に関するかぎり、私には東本氏がとられた対応・姿勢には感心できない面が多かった。
2010.04.08 Thu l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回の記事のタイトルはどうも内容に即していないように思われるので(いつものことで恐縮だが)変更して①とし、さらに中野重治のこの問題に関連する文章を②として新たに紹介したい。ちょっと長文だが、時間のあるときに読んでいただければと思う。中野重治が死去したのは1979年だが、晩年になればなるほど、彼の朝鮮および在日朝鮮人に触れた文章の量はそれまでと比べて格段に増えているし、文章に込められた熱意の度は異様なほどにふかまっているように感じられる。私自身、読んで教えられることが多かったので、以下にその全集から、1973年執筆の「在日朝鮮人の問題にふれて」と「日韓議定書以来」という二つの文章を抜粋掲載する。


 在日朝鮮人の問題にふれて

「……(略)事の本質は、志賀直哉の『震災見舞』のなかにも見つけられると私は思う。」
 こう書いたとき、私は「震災見舞」そのものは引用しなかつた。ここで一部分引用する。この年春志賀は我孫子から京都粟田口へ移つていた。6月には有島武郎が自殺した。そして9月の大地震が来た。志賀は見舞のため束京へ出た。「震災見舞」は何とかいう雑誌に発表されたがそれが発禁になつた。「震災見舞」のために発禁になつたのか今確かでないが、鳥がたつようにして京都を出て――しかしばたばたはしていない。――東京へはいつて、それからちよつとしての部分をここへ引く。志賀は年41だつた。
「山〔上野の山――中野〕から見た市中は聴いてゐた通り一面の焼野原だつた。見渡すかぎり焼跡である。自分はそれを眺める事で強いショックを受けるよりも、何となく洞ろな気持で只ぼんやり眺めて居た。酸鼻の極、そんな感じでは来なかつた。焼けつつある最中、眼の前に死人の山を築くのを見たら知らない。然しそれにしろ、恐らく人の神経は平時とは変って了ってゐるに違ひない。それでなければやりきれる事ではないと自分は後で思った。それが神経の安全弁だと思つた。此安全弁なしに平時の感じ方で、真正面に感じたら、人間は気違ひになるだらう。入りきれない水を無理に袋に入れようとするやうなものだ。」
「自分はそれからも悲惨な話を幾つとなく聴いた。どれもこれも同じやうな悲惨なものだ。どの一つを取つても堪らない話ばかりだ。が、仕舞にはさういふ話を自分は聞かうとしなくなつた。傍でさう云ふ話をしてゐても聞く気がしない。そして只変に暗い淋しい気持が残つた。」
「そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけて休んでゐる時だつた。丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。
『――叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかつたのがある!』刺子の若者が得意気にいつた。『――鮮人が裏へ廻ったてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ』刺子の若者は自分に気を兼ね一寸此方を見、言葉を切ったが、直ぐ続けた。『然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ。』二人は笑つてゐる。ひどい奴だとは思つたが、平時さう思ふよりは自分も気楽な気持でゐた。」
 異常な状態がわかる。しかしここで、「然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから……」が、「……迫ひかけると、それが鮮人でねえんだ」から来ていた事実に問題はあるだろう。
「鮮人」が確かなら、「かう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから……」がそもそも出て来ない。日本人が日本人の手で、ただ彼が朝鮮人とまちがえられたということただ一つで、それがそうでないとわかつた後でそのままナグサミに殺される。「鮮人」にまちがえられたのが運の尽きということになる。まちがえられるに事欠いて、なにしろ「鮮人」とまちがえられたのだからなアということが大前提にある。まちがいとわかつても、何にまちがえられたかといえば朝鮮人にまちがえられたというその「朝鮮人」に原罪の原罪がある。それは、上から、ほとんど凅疾的に吹きこまれてきた日本帝国主義側のインフェリオリティー・コンプレクスと裏表になる。そこに亡霊が生きている。そこにほとんど黙阿弥ものめいた世界が現出する。共産主義者と見まちがわれたために、それが見まちがえだつたことが明らかになつたあとでも残酷に殺されて殺した本人が罪悪感をまぬかれる。まぬかれた側の根源的弱さがそこで暴露される。そしてそれが暴露されればされるほど残忍が出てくる。インフェリオリティー・コンプレクスが大きいだけ残忍が大きくなる。救われようのない頽廃がそこに出てくる。アメリカ軍のヴェトナム行為がそれを証拠だてている。そこを、ここで、われわれが自分に引きあてて直面に見なければならぬというのがわれわれの問題であるだろう。
 関東大震災と朝鮮人との関係でいえば、ここで私は今東光を引くこともできる。『小説新潮』、1972年9月号、「青葉木菟の欺き」で今は佐左木俊郎のことに触れている。佐左木俊郎を直接知つている人も少なくないにちがいない。今はこう書いている。
「……幸いにして彼はずつと後(昭和5年)になつて『熊の出る開墾地』という作品を世に問うまでに至つたのである。
 ところが、佐左木俊郎は大正12年9月の関東大震災に命を失うことなく助かつたが、あの混乱の中で朝鮮人虐殺事件が起つた時、彼は朝鮮人に間違われて電信柱に縛りつけられ、数本の白刃で嬲殺しに近い拷問を受けたのだ。彼は、
『日本人という奴は、まつたく自分自身に対して自信を持つていない人種ですな。僕の近所の奴等が僕が自警団員のため額や頬をすうと薄く斬られ血まみれになり、僕は彼等に日本人だということを証明して下さいと叫んでも、ニヤリと笑うだけで首を振つて保証してくれる者が一人もないのですよ。男ばかりでなく親しい近所の女房どもさえ、素知らぬ振りなんです。僕はこの時ほど日本人だということが恥ずかしく厭だつたことはありません』
『其奴等は今どうしてる』
『なあに。ケロッとしたもんですよ。あの時、口を出したら自分等も鮮人と思われるから怖かつたつてね』……………」
一つの事実とともに、佐左木の「近所の女房どもさえ」、確かに朝鮮人ならば殺されても然るべきものとする勢いに抗しえぬ状態にあつたことが語られている。それは直ちに、佐左木俊郎がまたその状態にあつたということではない。佐左木自身ならば、朝鮮人とまちがわれて日本人が刃物の拷問を受ける不当を不当としただけでなく、朝鮮人が朝鮮人だからといつて、それだけで日本人から殺されさいなまれることの不当を不当としたにちがいない。ただ一般的に当時の日本で、「破戒」のなかで藤村が描いたように、ポグロームをけしかける勢力のもとで、けしかけられるのを待ちうける状態に通常の国民がおかれていた事実はここで語られている。そしてこのことを、1972年、3年のわれわれが陰に陽に承けついでいることを私は否定できぬように思う。日本共産党五十年史は、この点、そこをマイナス方向で代表しているものの一つとして見られるというものであるだろう。
 その責めは、終局的には日本人民に来る。日本文学にも来る。(略) 」(73年1月20日)

「 
 日韓議定書以来

 1932年下半期の「在阪朝鮮人の生活調査」のことで、「そこでの第一の問題は『貧』のことである。」と私は書いた。この「貧」のことを、ここでこれ以上には書いていることができない。しかしとにかく、「渡来当時ノ所持金」についてみると、世帯主が所持金「0円」、つまり文無しで来た場合が68パーセントだつたことをわれわれは知つておきたい。そしてそれらの世帯のうち――というのは、文無しで来た世帯だけを指すのではない。所持金「10円以下」その他の世帯も含めてのことである。――合計約2800世帯が「三畳以下」に住んでいたことを知つておきたい。一世帯あたりの人数をしらべると、最高が三人の2889世帯、次ぎが四人の2365世帯、次ぎが二人の2242世帯、次ぎが五人の1648世帯だから、ここから直線で類推することはできぬにしろ、およそこのへんの世帯が「三畳以下」に住んでいたろうと見当をつけることは許されよう。大阪と東京とはちがうが、32年当時の東京の模様から推すと、一般日本人の場合これほどのことはなかつたろうと私は思う。私個人の知識で書くことで、正確なことを知つている人には教えてもらいたい。つまるところ、2863世帯が、日本警察の留置所でほど狭くそこに住んでいなければならなかつた。そして留置所では、そこに坐つていれば飯が、どれほどひどいものにしろ配られたが、ここでは、主人は働きに出かけねばならなかつた。細君は台所を処理するうえ、赤ん坊があればそれを育てねばならなかつた。そしてその彼らを、「植民地」なみの貸銀を日本人労働者に支払うために、日本資本家陣がそれだけ余計苛酷にしぼつていたのだつた。しかしそこが、当時の日本の労働者運動、社会主義・共産主義運動の上でどれだけ自覚的に取りあげられていたかいくらか覚束なく私は思う。この手のことを感じで言つてはならぬにちがいないが、当時、「日本帝国主義の植民地であつた朝鮮、台湾の解放の旗」をかかげ、「日本と朝鮮の労働者は団結せよ」と呼びかけていた側が、在日朝鮮人勤労者の「無条件の政治的、経済的平等――殊に社会的平等のため」、不断に日常的にたたかつていたかの点いくらか私は覚束なく思う。なるほど言葉としての原論はあつた。しかし日常具体的に各論がなかつたという記憶は今のところ消すことができない。
 文学に関係するものとしていえば、当時の在日朝鮮人の実態に即して、文学上の主要問題の一つとしてこれを取りあげる点、まつたく私たちが質量ともに弱かつたと私は思う。文学方面について言つて、この点でわれわれの知識が極端なほど狭く、またそれさえも、上からの忘却政策によつて押しながされていた形が強かつたのではないかと思うことがしばしばある。ここで私は徳永直の言葉を引きたい。徳永の言葉は彼自身を描きだしているが、同時にそれは私たち総体の無知、鈍感を描きだしているともある意味で言えはしないか。むしろ言わねばならぬだろう。
 1932年より大分あとのこと、徳永が何かの関係で「満州国」へ出かけて行つたことがある。彼はいわばほうほうの態で帰つてきて、かなり不自由な形で若干のことを書いた。その行きしなのときに彼が私にハガキをくれた。彼はそれを朝鮮通過のときに書いていた。このごろそのハガキが出てきたが、いま文面どおりに写すことはできない。ただ確かにこんな意味のことがそこにあつた。
「いま朝鮮を通過しつつある。朝鮮の労働者はひどい状態で働かされている。朝鮮人労働者がほとんど奴隷的な状態で働かされているのは日本でだけかと思つていたが、本国へ来てもまつたく同様だ……」
徳永は、労働者、勤労者の生活状態に実質的に敏感な作家だった。当時の戦争進行が、政治イデオロギーの上でいろんな揺れを徳永に与えていたにしても、そしてこの揺れがこの敏感に再び揺れを与えていたにはしても、彼のこの実質的敏感はとにかく一貫したものだつた。その徳永にも、代々木五十年史にいう日本人労働者の「植民地的」低貸銀、そしてその際の朝鮮人労働者のそれ以下の実情の忘失ということはぽおつとした状態で事実としてあつた。1920年代から30年代へかけて、日本「内地」の警察留置所で「朝鮮刑法」という言葉が通用していた事実を覚えている人はまだいるにちがいない。留置所のなかで、何かの場合警察官によるリンチが行なわれたが、特に残忍な形のものがこの名で通つていた。日本「内地」の警察留置所で、日本人、「内地人」にそれが加えられる場合それがこの名で呼ばれたということは、朝鮮で「鮮人」にたいして加えられるときは、ことさらそれがこの名では呼ばれなかつたことを意味していただろう。たとえば東京の留置所で、日本人にたいしてわざわざ「日本刑法」でやつつけてやるぞといつてことさら残忍なリンチが加えられなかつたことにそれは見合う。労働条件、労賃の件にしても、朝鮮人労働者の朝鮮内での実態が、日本「内地」なみ、それ以上だつたとすれば、彼らがわざわざ「植民地的」労賃の日本「内地」へそれほどに連れこまれたはずがないと考えることは誰にしろできる。侵略戦争の進行中、それがいつそうそうであることも誰にしろ想像することができる。しかしそれが、一般に本国人に忘れられ勝ちだということも争えぬ事実としてあるだろう。植民地の搾取から来るもののおかげで本国小ブルジョア層(植民地で、たとえば朝鮮で生活する本国人層を含めて)がそこへ引きこまれるだけでなく、本国人労働者階級も一般にそこへ引きこまれるということは事実としてある。東京の留置所で、「本国人」、「内地人」にたいして「朝鮮刑法」リンチが加えられてならぬだけでなく、朝鮮人にたいしてそもそもそれが加えられてならぬことについての「本国人」の感覚が鈍らされる。この呼び名そのものの含む朝鮮人侮蔑にたいする鈍感がそこで養われて蓄積される。それが、関東大震災のときの朝鮮人虐殺にたいする日本人われわれの鈍感につながつていただろう。朝鮮人とまちがわれて殺された日本人の不運には同情しても、まちがわれないで、朝鮮人とわかつて殺された朝鮮人の不幸はこれを頬かぶりで見送るという精神が養われてきたにちがいない。まして、自分とまちがわれて(まちがいとわかつたときでさえ)殺された日本人にたいして、ある朝鮮人たちの感じた深い同情、名状しがたく憤ろしい悲痛の念は想像してみることさえ不可能という日本人精神が養われてきただろう。私は軍国主義植民者勢力、搾取者・圧迫者勢力によつて養殖されてきたこの日本人精神が、混濁した愛国主義と入りまじつて今の現在まで陰に陽にわれわれ自身のなかに残つてきているように思う。
 これ一つをわめきたてて言おうとは私は思わない。けれども、日米安保条約にたいするわれわれの反対闘争のなかにさえそれのなごりがなかつたかは考えて見ていいと思う。
 あのとき、社会党の黒田議員が日韓議定書の件を持ちだした。国会はどよめいた。多くの日本人がわがこととしてそれを受けとつた。しかしあのとき、どれほどのことをわが日本が朝鮮にたいしてしたかにたいする国民の怒りはそれほどには湧かなかつたと私は記憶する。うろ憶えの気味でよくないが、あのとき私たちのなかで、暴慢で本国顔、主人顔をするアメリカ政府側と、卑屈で属領顔、家来顔をする日本政府側とにたいして燃えあがつた国民の怒りのなかに、日韓合併、日本人による「韓国併合」のときの朝鮮人民の怒りと悲しみとがどこまで溶けこんでいたか私ははつきり指摘することができない。あのとき日本側が押しつけた条々、それが沖縄返還のときにも、ヴェトナム問題の今も、なまなましく日本国民に思い出されていたか、いるかについて私は弱々しくしか答えられぬように思う。
「韓国駐箚軍司令官長谷川大将」の押しつけた条々がどの程度われわれの頭に今も出てくるか。
「-軍事行動に妨げなき限り内外人の権利は保護す。
 -軍政地域内に於て軍事行動を妨害したる者は軍律により処分す。
 -軍政地域内に多数人員を集合する場合は予め軍司令官の許可を経るを要す。
 -許可なき外国人は軍政地域内に出入滞在するを許さず。
 -軍政地域内にては次の条項を執行す。(以下略)」
「日本国政府及び韓国政府は韓国警察制度を改善し、財政の基礎を鞏固にするの目的を以て左の条約を締結せり。
第1条 韓国の警察制度の完備したる事を認むる時に至る迄、韓国政府は警察事務を日本国政府に委任す。
第2条 韓国皇室警察事務に関しては……」
『亡国秘密 なみだか血か』の著者は、このヘん、「……警察権は警務総監によつて統べられ、憲兵本位の警察制度を布き……警務機関の統一と共に憲兵の新に増派せられたる者2000余名に及び、是等を主たる機関として十三道の各要所要所に配置したる外、補助機関として従来の巡査を其儘使用し、是に加ふるに多数の密偵諜者を用ひたれば、韓国内至る所警戒陣頗る厳密を極め細鱗と維も漏らさざる網の如きものありき……」と書いている。二人の著者村上、後藤はこうも書いている、「翻て統監側に於ける策戦は如何、智謀半島の邦人中随一と称せらるる少将明石元二郎氏は憲兵司令官に兼ぬるに韓国警務総督の重職に在り、寺内統監を助けて画策至らざるなし、陰然として統監参謀長の態あり、統監の旨を受けて……」
 日韓議定書の件はこうして順調に「韓国を日本帝国に併合する」「併合条約」締結へと進んだ。「日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其の后妃及後裔をして各其の地位に応し相当なる尊称威厳及名誉を享有せしめ且之を保持するに十分なる歳費を供給すへきことを約」した。それからこの仕事で「勲績ある者に対して授爵式」があり、朴泳孝その他に侯爵が、李完用その他に伯爵が授けられた。そこで「寺内総督は併合顛末奏上の為め10月20日帝都に帰る、陛下総督の偉功を嘉みし給ひて特に儀仗兵を賜ひ……」となる。ここに来る経過がどうわれわれに知りつくされているか。それをどうわれわれが新しく思い出しているか。憲兵司令官明石についてなども、このときの彼の働きよりも日露戦争のときの働き、ストックホルムを根拠地にロシアの1905年革命に働きかけたといつた話の類が日本でおもしろおかしく話されているのではないだろうか。
 日本と中国との関係は発展し定着しようとする勢いを見せている。その種の動きは朝鮮とのあいだにも見られる。しかしそこに多少のちがいもある。たしかにそこに原因も理由もあるにはちがいない。ただ私は、日本が朝鮮を完全に「併合」していたことからくる問題、あの「併合条約」の第1、2条に規定された問題とその後のその実施実情、第二大戦後の日本帝国主義からの解放、独立の問題があると思う。「併合条約」の第一条、第二条はこうなつていた。
「第一条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す。
 第二条 日本国皇帝陛下は前条に掲けたる譲与を受諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す。」
 ここからして、「全然」また直接に「在阪朝鮮人の生活状態」も出てきたに違いない。端的にいえば、日本帝国の無条件降伏、日本天皇の例の「終戦の詔勅」は、それまでの敵側諸国にたいしてことごとく平伏したものではあつたが、朝鮮・韓国にたいしては全く平伏していなかつた。むしろそれは、朝鮮をわが内へ引きいれておいて他の一連の国々に無条件降伏をしたものだつた。加害者が被害者を、加害者自身に加えておいて他に対するという非道で恥知らずの性格をそれは持つていた。そしてこのことにたいして、日本人民のたたかい、活動は非常に不十分なものだつたように私は思う。そしてそれがそのまま今に及んでいはしないか。隣国中国について見れば、南京事件その他が明らかにされている。あるいは明らかにされつつある。花岡のことなども明らかにされている。無論すべてが明らかになつたのではない。しかし朝鮮と朝鮮人との問題に比べては相対的にそう言えるだろう。朝鮮と朝鮮人との問題は、その点全く手つかずだと言わねばならぬにちがいない。『統一評論』二月号の「沖縄における日本帝国主義の蛮行」(上)を見てあらためて私はそう思う。この種の問題を私はろくに知らなかつた。これには、沖縄への「朝鮮人強制連行と虐殺の記録」と副題がついている。この「連行」は日本「内地」からだけでなく朝鮮白身からのものを含む。沖縄で日本軍は地元の人びとを残酷に扱い、全く残酷に死に追いやつた。同時に、朝鮮人をそれ以上残酷に扱い、言いようなく残忍に死に追いやつた。
 残忍な朝鮮人殺しは慶良間列島でも行なわれた。ずつと前、私は自分の書いたものに「慶良間は見えても睫毛は見えぬ」という沖縄の諺をつけていた。しかしそこで、時はおくれるにしろ、これほどのことがあつたことを私は全く知らずに今に来た。『統一評論』の記述は尾崎陞、藤島宇内たちの調査に基いている。朝鮮と朝鮮人との問題は、ほとんど新しく、あらためてそこに近づかねばならぬ性質のものとしてわれわれの足もとにあると思う。(73年3月22日)
2010.04.06 Tue l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
ここ1、2年、中野重治の全集を一冊ずつ図書館から借りてきてはぼちぼち読んでいるが、どの巻も大変おもしろい。中野重治に対して私は昔からずっと尊敬の念はもっていたし、「歌のわかれ」や「むらぎも」などの小説や詩は好きではあったが、ほぼ同時代の作家のなかでは戦後に現れた大岡昇平や埴谷雄高などに比べるとあまり親しみは感じていなかった。なんだか人間が立派すぎるというか、いかめしい印象があって近づきがたいという気がしていた。でも、こうして実際に評論や文芸時評や中野重治自身は「雑文」と称している時事的な文章などを読んでいて、いつのまにか読者を懐のうちにいれてしまう大きさや説得力や離れがたい人間的魅力をもった作家であることを実感させられている。

中野重治は、1938年に国家により執筆禁止処分をうけたといわれてきたし、私もそう理解していたが、中野自身によると、実際は内務省から雑誌社・新聞社に対してこれこれの人間(中野重治の他、宮本百合子など)には執筆依頼をしないようにという達しが行ったのであり、作家本人に直接その旨の通告があったのではなかったそうである。そうであっても実際にはこの達しにより雑誌などへの文章の寄稿は不可能になったわけで、困窮した中野重治は、東京市の「小額給料生活者失業応急事業」の臨時採用に応募して雇われたこともあったそうだ。

その職を世話してくれたのは朝鮮人の金子和という人物だったそうで、これから取り上げるつもりの文章『三畳以下に住む2800世帯』が書かれたのは、一つにはそのような縁があったせいかも知れない。また、この文章が執筆されたのは1973年だが、そのころ朝鮮高校などの若い在日朝鮮人に対する日本人の襲撃事件が頻発していて、そのことについても中野重治は別の場所できびしい怒りをこめた一文を書いているので、そのような現実を見るにつけ、遠い過去の記憶が鮮明に呼び起こされ、過去と現在の連続性の問題なども痛切に感じたのだったかも知れない。中野は自身が東京で臨時採用された1938年の6年前、1932年に大阪府がやはり失対事業の一環として行なった調査事業の記録『在阪朝鮮人の生活状態』を基に、当時の在日朝鮮人が置かれていた環境や経済の実態を考察する文章を書いたのだった。これが上述した『三畳以下に住む2800世帯』で、このエントリーの最後に抜粋して掲載する。大阪府はこの事業に50名の臨時雇員を当てたそうだが、その他に通訳者として大阪市内居住の朝鮮人知識階級失業者20名をも臨時採用し、調査には計70名が従事したそうである。

この調査記録を読んだだけで、日本にやって来た朝鮮人の大多数が、植民地支配下の朝鮮で飢渇状態に追いやられ、生死をかけても自国を出ざるをえない切羽詰まった状態だったことが理解される。何しろ、日本に来るにあたり、その68パーセントもの人が所持金なしだったというのである。中野重治も、植民地支配の全般的な実態について、ひどいと知ってはいたが、これほどとは思わなかった、という趣旨のことを何回も書いているが、これは私などはもっともっとそのように思う。この問題とは離れるが、たとえば、「笞刑」という刑罰について、ドストエフスキーの「死の家の記録」にその実態が克明に描写されている。芸術的なほどの残忍な笞の使い手である刑吏がでてきて罪人に笞を振るう場面は一度読めば決して忘れられないものだが、読んでいるそのとき私は日本が朝鮮で「笞刑令」を作り、植民地支配に抵抗する数千の朝鮮人を死ぬ目にあわせているなどは全然知っていなかった。中野重治はこの刑罰についても他所で書いているので、「これほどとは思わなかった」ということのなかにはこのことなども含まれるかと思う。

朝鮮人が見舞われたこのような災厄、信じがたいほどの過酷な生活実態を知ると、学費の助成金を朝鮮学校のみ除外するなどということを平然と言い、平然と実行しようとさえしている日本の政治・社会の異常さが身にしみて感じられる。このようなことを言い出す政治家がいて、それを聞いた政治家のなかに「とんでもない!何という恥さらしなことを言うのだ。」と一喝する者も、強硬に反対する者もなく、実際に朝鮮学校を除外して法案を通過させる行為をすることのできる政府が世界中さがしていったい幾つあるのだろうか。人権に関する重要な問題で、原理原則を外して突っ走ると必ず禍根が残り、災いが生じる。これは歴史を見ると歴然としていると思うが、そうするまでもなく、現実の社会生活のなかで私達の誰もが日常的に経験していることではないだろうか。ましてや、その対象になるのは自国が一方的に踏みつけにし、災禍をあたえつづけてきた当の相手である。在日朝鮮人のほとんどは、中野重治の表現によると日本が「連れこんだ」朝鮮人の子孫の人々である。日本以外の他国はそのことをみんなちゃんと知っている。政府は、一刻も早く、無条件に朝鮮学校の除外政策を撤回しなければならない。それは何ら特別なことではない。ごく普通、最低限に当たり前のことのはずである。

中野重治は、『日本共産党50年史』という、日本共産党発行の記念誌についての感想を述べるなかで、次のような批判をしている。

「じつは私は、あの『第1章 日本共産党の創立』、その第1項『創立当時の日本の支配的制度』、その書出し7行目でそもそも引つかかつたのだつた。日本の『労働者は植民地同様の低賃金』、こう書いたとき、この筆者たちは、学説のことはさておき、在日朝鮮人労働者のことをてんで肉感的に思い出さなかつたのだろうか。日本人労働者が『植民地同様の低賃金』だつたとして、そのとき朝鮮人労働者は、朝鮮で、また日本で、何的低賃金だつたとこの筆者たちは言いたいのだろうか。だいたい、『日本の支配的体制』が、どれだけの朝鮮人を日本へ追いたて、ほとんど強制的に連れこんでいたかが一行も書いてない。関東大震災で、『何千人という朝鮮人も〔「も」ではない。「も」では付けたり扱いになる。〕虐殺された』のならば、何万人もの朝鮮人が、すでにそれまでに連れこまれていたという事実をそれは語つているだろう。それがないだけでなく、それがからだで感じられていない。」『在日朝鮮人の問題にふれて』(1973年1月)

そして、日本政府が「日本へ追いたて、ほとんど強制的に連れこん」だ朝鮮人の実態に関して、先に述べた『三畳以下に住む2800世帯』(『新日本文学』1973年4月号)という一文が書かれている。植民地時代、朝鮮人が好き好んで、あるいは選択の余裕をもった上で日本にやってきたようなことをいう人も少なくないようなので、長くなるが、引用しておきたい。


「50名の臨時雇員」、「20名の朝鮮人通訳者(臨時採用)」と私は書いたが、あわせて70人のこの人たちのこともちょつと書いておきたい。70人のうち、日本人50人は「小額給料生活者失業」者というものだつた。朝鮮人20人は、「大阪市内居住の朝鮮人知識階級失業者」というものだつた。またそもそものところ、「在阪朝鮮人の生活状態」調査というこの仕事が、大阪府の、「昭和7年度小額給料生活者失業応急事業の一として」「行」なわれたものなのでもあつた。つまりそれは、「応急」の「失対事業」の一つだつたわけである。
 むろんそこに正面の大目的はあつた。それは決して名目だけのものではなかつた。それは堂々と、正面から、あるいはあけすけに掲げられていた。
「大阪府管内に在住する朝鮮人は近来夥しく増加して他府県に其の比を見ない。而も其の後年々増加して之が為種々の社会問題を惹起し、住宅問題を始め労働問題、融和問題等は年と共に益々其の重要性を高め、殊に朝鮮人労働者は労働貸銀の低廉等の関係から内地人労働者の失業率を高め更に近時に於ては彼等自らの中に失業問題を発生し朝鮮人の保護救済は其の要が益々切なるものとなつた。而して其の問題の解決は極めて微妙な問題であって、先づ彼等の生活状態、生計状態を知るは勿論、彼等の渡来に関する事情、渡来当時の状態等をも熟知して彼等に対する内地人の理解を深め以て之が対策を講ぜなければならん。本調査は彼等の生活の真相を如実に知る基本的資料を得るために実施したのであつて、内鮮融和並に朝鮮人保護の参考に資するを得ば幸甚である。」
 ここで、「其の要が益々切なるものとなつた」、その「解決は極めて微妙な問題であつて」というのは、問題が非常に厄介な性質のもので、その解決となれば手も足も出ぬような気がするということであつただろう。とにかく、代々木50年史のいう日本人労働者の「植民地同様の低賃金」、さらにそれを下まわる朝鮮人労働者の低質銀、それが「内地人労働者の失業率を高め」ている事実、ところが、「更に近時に於ては」、この朝鮮人労働者「自らの中に失業問題」が出てきた事実をそれは語つていた。それは、日本人労働者の「植民地的」低質銀、朝鮮人労働者のそれ以下の、学問上何というか私は知らぬが「農奴的」とでもいうべき低質銀、つまり近代的な意味で「貸銀」の概念からはみだしてしまう際まで来たひどい報酬制、そして今度はそこでさえもの「失業」のあらわれ、むかし三浦周行が、室町期の土一揆、国一揆について書いたような事情の近代的に大がかりにされた状況、それの部分的到来の告白ということにそれは繋がつていたかも知れない。そうして、それの解決の、つまりそれの予防事業の「参考に資するを得ば幸甚である」という調査事業が、ほかでもなくそんな状態のもとでの日本人下級サラリーマンの失業者、おなじく「朝鮮人知識階級失業者」を対象とした「応急」失対事業の一つとして実施された事実を、にがにがしくも、非常に興味ふかいことにも今私は思う。当時私は、この種の事実を知らなかつた。この種の事実を、文学上の仕事仲間たちがろくすつぽ知らなかつた事実についても知つていなかつた。私たちがごそつと逮捕された時期だつたからでもあつたろう。「昭和7年」、つまり1932年といえば、プロレタリア的、革命的、民主的文化運動がかなり基礎的に弾圧を受け、小林多喜二たちはほとんど完全に非合法生活に追いこまれていた。触手をひろく伸ばして問題をとらえ、その意味を理解し、応急策をたて、それを実行に移す時間をあたえずに支配的政治勢力側が我が方を駆り立てた時期にあたっている。そこでひと口に言って、当時われわれは朝鮮人問題を十分に理解していなかつた。これを、ここで私は個人として言う。誤りがあるかとも思う。その節は教えてもらいたい。私は、私個人のせまい経験から書く。その中心の一つには、日本へ連れこまれた朝鮮人の生活について、私たちがろくすつぽ知つていなかつたという事実、日本の共産主義・社会主義運動も、いくらか知つていたにはしても突きこんでは知らず、またこれを中心問題の一つとしては扱つていなかつたらしい事実について私個人の貧しい記憶を書きつける。むろん私は、ある何ごとかに私が直接携わつていない場合、そのことのため、またそれに直接関係ある仕事で人がどれほど苦労して働いていてもそれがわからぬという事実、そしてそんな苦労をしているものがどこにもいないと思いこみかねぬ事情を知つている。しかしとにかく、そんな条件のもとでいえば、当時あるいは「先進的」な――この言葉を私は好かぬが――日本人労働者、知識人さえ、朝鮮人問題になかなか内側までははいつて行かず、ある点では、反動的な民族主義イデオローグたちよりさえ部分的に後れていはしなかつたかと思うことがある。ある極端な場合には、日本のプロレタリア的革命家、その運動さえ、そのなかに朝鮮問題軽視、朝鮮人蔑視、すくなくともそれに近い何かを含んでいはしなかつたか、その点いくらか心もとなく思う瞬間があるという私個人の感じを記録しておきたいと思う。
 第二大戦後、あの東京裁判のとき、旧満州帝国の溥儀元皇帝(注)が検察側証人として法廷に立つたことがあつた。そのときの模様を、日本のほとんどすべての新聞類が、この傀儡皇帝を浅ましい人間として描くやり方で扱つた事実を私は覚えている。アメリカ勢力の支配のもとでだつたには違いないが、傀儡を傀儡として仕立ててこき使つてきた日本の天皇主義、軍国主義の姿はほとんどすべての日本新聞類がひた隠しにして押し通した。まして朝鮮と朝鮮人とに関しては、国土と人民とを日本が奪つたことについて何ひとつ、ひろく正規には事が明らかにされなかつた。新聞もラジオも学校数育もそれをしてこなかつた。関東震災での組織的朝鮮人虐殺などをひた隠しにして押し通したのは勿論のこと、それと裏表の関係で、朝鮮王族と日本「皇族」方面との政略婚姻の事実についても何ひとつ恥じた姿勢はそこに見られなかつた。まして、朝鮮人から朝鮮語を奪った事実、朝鮮人の苗字、名まえを日本式に暴力的に改めさせた事実などなどについて何ひとつひろく公けにすることはこれを完全に圧服して押し通した。人の名のこの問題は、近年の日本人のある層、「タレント」とか藝人とか水商売の人たちとかの外国名まえ採用とは完全に質がちがつている。そしてそれは、日本の「領土」問題での政治的鈍感(しばしば全く意識的な)と裏表の関係で、「南鮮」と「北鮮」との「国境」問題、「南ヴェトナム」と「北ヴェトナム」との「国境」理解(誤解)に結びついている。早い話が、1973年現在、北ヴェトナムと南ヴェトナム とのあいだに、また北朝鮮と南朝鮮とのあいだに、「国境」があるという考えは相当多くの日本人のなかに事実としてあると私は思う。日本人が日本人について、また国としての日本について、「東海の君子国」だの、「くはしほこちたるのくに」だのと、これつぱかりも考えていないという証拠はいまだに一般的にはない。旧溥儀皇帝、旧朝鮮王族、それとの関係で、日本の今の天皇が、どれだけ何かの責任をもつて階段に立つ力があるか日本人一般は自分自身に明らかにしていないと私は思う。「日本人一般は」などと言わなくてもいい。日本の労働者階級、日本の「先進的」な人びと、私たち自身とも言つていいと私は思う。
(略)
 「睦仁天皇の日本政府が閔妃を殺したとき、ジョンソン大統領のアメリカ政府がゴ・ジン・ジェムを殺したとき、殺害者の側には侮蔑と計算とだけがあつた。伊藤博文をたおしたとき、安重根には熱烈で透明な憎悪があつた。」
 問題のここの関係を、われわれ日本文学者があまりにかすかすにしか見てこなかつたと私は思う。「戦後」についてみても、たとえば小林勝の作品の受けとり方などにもそれが見られ、近年の、日本語で書いている朝鮮人作家たちの仕事の受けとり方にもそれが見られはしないか。1928年の日本で、全く抜け目なく治安維持法と結びあわせにして普通選挙制がしかれることになつたとき――この結びあわせにそれ自身の問題があつたが――ここから一般に女がはずされただけでなく、具体的にも原則的にも朝鮮人、台湾人がはずされていた事実、これをどれだけ切実なものとして私たちが肝に銘じてきたろうか。日本共産党が、「日本帝国主義の植民地であつた朝鮮、台湾の解放の旗を敢然と」掲げたこと、「日本と朝鮮の労働者は団結せよ」と呼びかけたことは正しかつた。この旗を掲げてこう呼びかけたのが日本共産党だけだつたことも事実だつた。しかしそれが日常のたたかいにまで具体的に実現されなかつたことも残念な事実だつた。
(略)朝鮮の歴史、それも日本との、日清戦争、日露戦争、日韓合併以後の時期だけでもの関係史についてのわれわれの一般的無知、むしろ一般的忘却がそこにあるだろう。もしかすれば、「戦後」に来て、朝鮮の「独立」以後、特にこの十年来、この一般的忘却が意識的に組織され養成されてきたと見られるフシさえなくもないと私は思う。(略)東京その他での、朝鮮人学校生にたいするここ何年来の暴行連続にたいする一般の無反応にもそれは見られる。青年・学生運動方面に見られるこれにたいする無反応、小学校から大学までの教職員組織に見られるこれにたいする無反応にも重畳してそれは見られる。その底に幾重にもたたみこまれた因子があるにはちがいないがやはりあの「調査」へ帰ろう。そこでの第一の問題は「貧」のことである。
 当時大阪市には警察管区が33あつた。そのうち水上署関係3管区が調査から除かれ、「調査上地理的に不便な柴島、大和田」2管区が除かれ、「朝鮮人居住者の極めて僅少な船場、島之内」両管区が除かれた。「極めて僅少」、つまり船場、島之内は金持ち区域で、朝鮮人は一般に、金持ち区域でないところに住んでいたという事実からこれは来ていたのだつたろう。いろいろの表がある。「渡来当時ノ所持金ニヨツテ分チタル世帯主数」表を見ると、世帯主の68パーセントほどが所持金「0円」である。17パーセントほどが「10円」以下、5パーセントほどが「20円」以下、2パーセントほどが「30円」以下、1パーセントほどが「40円」以下、何パーセントか、図表では黒の横線一本ほどが「50円」以下である。「世帯使用の畳敷によつて分ちたる世帯数」表を見ると、一世帯で「一畳以下」「二畳以下」に住んでいるのが770世帯、「三畳以下」が2082世帯、「四畳以下」が618世帯、「五畳以下」が1799世帯、「三畳以下」の2082世帯が百分比17・59で最高である。 」


(注): 元満州国皇帝・溥儀が東京裁判に検察側証人としてやってきた時の日本のマスコミ、天皇を含めた政府役人の溥儀への酷薄な対応・処遇について、中野重治は、1946年のその当時から晩年にいたるまで、『五勺の酒』を初めとした小説においても、随筆や感想文のような文章においても、執拗なくらいに繰り返し書き、飽くことなく批判している。中野重治が日本人の人格の度し難く厭な面をそこに象徴的に見ていたのは間違いないように思う。
2010.04.04 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
『おかしな娘 古在直枝遺稿詩集』(1967年)より詩2編のご紹介。


 「芭蕉クン」

「私は 芭蕉クンのことを
 かんがえると
 涙がでる

 私は 芭蕉クンのことを
 かんがえると も少し
 生きてても
 いいような気がする

 私は 芭蕉クンのことを
 かんがえると ポカツポカツと
 する

 芭蕉クンは 一人で
 行脚したので ので

 そのことを考えると……
 マネツコマンザイ
 マメヤノコゾウ
 ウスツパカのハゲアタマ

 といわれても なんでもかんでも
 一人行脚して
 『静けさや いわに しみいる せみの声』
 といつてみたい 」
 


 「コイケサン」

「コイケサン
 アノネ
 コナイダ
 ウチニ アルトモダチガ タズネテキタノ

 スナオナハナシ

 オタクニ クルノニ ミチガ
 ワカラナク ナツタモノデ
 アルヒトニ キイタラネ
 『ああ あの エリザべス テーラーみたいな人の
 いるところですね』
 トイイマシタヨ

 トコロデ
 ワタシトアネガ 一瞬 ジブンノコトジヤナイカ
 トオモツタノハ
 ソレハマア ユルセルトシテモ(ナゼトモシレズ)
 五十ヲ スギタ ハハマデガ
 ウスラアカク ナツタトハ
 ナンダカ ナンダカ ムナシイオハナシ 」


詩集は、海で泳いでいて太平洋の潮流のために沖に流され、24歳にして亡くなった古在直枝さんがノートに書き残していた詩を父上が編まれたもの。(中野重治「詩集『おかしな娘』の件」『文藝』1969年2月号初出。「中野重治全集 第24巻」から引用)。読んでいると、「ポカツポカツとする」。おもしろくて、自由を感じさせてくれて、ふと慰められもする。



--追加--

 「アンポトウソウゴ」

「私は 誰も非難しない
 私は 誰も疑わない

 〈事実〉が終わつた後
 非難するヤツには
 〈事実〉が終わつた後
 疑うヤツには
 〈その事実〉の中で
 すでに――
 あなたは
 動く資格を持つてはいなかつた

 どんな形でも
 どんな皮肉でも
 〈そのときの事実〉に参加したものには
 これから動くこと
 あなたが 場面を動かすこと
 それだけのみが のこされている

 人間に疑問符を持つケンリは
 ない
 自分自身にさえ
 それはない

 …………
 …………

 場面を 動かせ
 場面を 動かせ
 注意深く
 思慮深く
 計算高く
 効果的に
 ちょうど 上等のシバイの
 ように
 (シェイクスピアのシバイのように)

 …………
 …………
 ディ・エンドは
 悲しくても
 嬉しくても
 楽しくても
 憂うつであつても
 〈上等〉でありさえ
 すれば!!

 腹のなかでは
 満面の笑顔 」


(1月12日 詩「アンポトウソウゴ」を追加しています。直枝さんの紹介文も修正しました。)
2010.01.11 Mon l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
明けましておめでとうございます。昨年は、拙文を読んでくださり、ありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いします。

お正月でもあることだし、たまには何か楽しいことを書きたいと思いつつ、残念ながらあまり思い浮かばないのが現状で、下記の文章も楽しい話とは言いがたいと思いますが…。

もうだいぶ昔の話です。図書館の棚の前で何気なく一冊の本をとりだしてパラパラめくっていたところ、ふとこんな文字が目に入りました。「その人のことを思い出すと、いつでも心が明るくなり、思わず口もとに笑みが浮かび上がってくるというような存在の人がいる。」
これは記憶で書きました。決して正確な写しではありません。何しろその時一読したきりであり、ついでにいうと、この本の作者名も私はいつの間にか忘れてしまって、記憶していないのです。が、これを読んだ時は、何かしら興味を惹かれ、ちょっと推理しました。さて誰のことだろう。恋人? そんなことを漠然と思ったのですが、つづきを読むと、答はなんと「神」だったのです。私は心底驚いてしまいました。神様、というと厳めしい裁き手のごとき存在としかその時まで感じとることができていませんでしたから。きっと無意識のうちに自分をよほど罪ある人間、救われない悪人と感じていて、心の底では罰があたらないかと常々ビクビクしていたのかも知れません。

それでも、これは後々じわじわと感じたことなのですが、この文を読んだ(知った)ことは私にはとてもよい経験でした(著者はもしかするとキルケゴールだったかも知れません)。神様をそのようにうけとめる余地があるということを知ったこと自体がとても心やすまることで、嬉しい気持ちがしたものです。実際にそれ以後はそれまでに較べると格段に楽な気持ちで、少なくとも怯えることなく、神についての人の話を聞いたり、読んだり、少しは考えたり、感じたりすることができるようになった気がします。不思議なことですが。 たとえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』という小説などは、読んでいると、それも時によることではありますが、上の言葉がじつは真理かも知れないと感じさせてくれるようにも思います。

それにしても、「その人のことを思い出すと、思わず口もとに笑みが浮かんでくる」と書いてあるのを読んで、「恋人」を思い浮かべるということは、「恋愛」についての考えがまったく足りなかったと思います。大抵の場合、「恋愛」はおそらくそういう性質の感情ではありませんね。多かれ少なかれ力に余る激情を伴うもので、明るい気持ちになったり、笑みがうかんでくるというような平安・静謐な感情とはほど遠いというのが本質ではないかと思います。それでその後、「思い出すと思わず笑みが浮かぶ」というような存在の人物、あるいはその人物にまつわっての出来事が自分にもあるだろうか、あるとしたら何だろう。おりにふれてあれこれ思いをめぐらしてみました。

たとえば、わが子が赤ん坊の時、または4歳頃までの幼児だった時期には、上の文章がそっくり該当するようなことがずいぶんあったような気がします。それから自分自身の子どもの頃を思い出すと、やはりそういう存在をもっていましたね。プロ野球の長嶋茂雄選手。正確にいうと、長嶋選手のプレイですね。走塁、守備、打撃といろんな場面を頭のなかにたくさん蓄えていて、好きなときに好きな場面を呼び寄せては(というより勝手に浮かんでくるのですが)、うっとりしたり、気持ちが活気づけられたり、伸びやかな、豊かな感情を味わったりしていたような気がします。今、日本プロ野球はもとより、大リーグのどんな選手のプレイに対しても、いま一つ物足りなさを感じてしまう(無意識のうちにあれ以上のプレイがあるはずがないとハナから思い込んでいるのかも知れません)というのは、長嶋選手の数々の記憶がこれ以上はないほど完璧な姿で頭に焼きついているためなのでしょう。さて、現在ですが、散歩している時などに思い出すと、思わず気持ちが明るくなるようなものがあるかといえば、「赤と黒」の作者として知られるスタンダール、そしてスタンダールの自伝である「アンリ・ブリュラールの生涯」のなかのいくつかの文章はそう言えそうです。

スタンダールは生前まったく売れない作家でした。たとえば「恋愛論」は10年間で10数冊しか売れなかったそうで、スタンダールが売れ行きを問い合わせると、本屋は「あの作品は聖別されているのでしょう。だれも手に触れようとしません」と返答してきたということがスタンダールの原稿の端っこに記されていたそうです。「赤と黒」も「パルムの僧院」もほとんど誰にも読まれませんでした。「アンリ・ブリュラールの生涯」は当分刊行する予定も意思もないままに半ば退屈しのぎに書かれたもので(とはいっても、スタンダールは50年後、80年後の読者との邂逅を本のなかで約束していますが)、それだけにこの本には、スタンダールの性格や思想が何の飾りもなく素朴に率直にあらわれていて、飽きることのない尽きぬ味わいがあるような気がします。たとえば、こんな場面は何度読んでもおもしろいと思うし、好きな箇所なので下記に2点引用しておきます。未読の方には、ある種のおもしろさを感じていただけるかも知れません。(「キュブリー嬢」とはスタンダールが12、13歳の頃、彼が住むグルノーブルに公演にやってきた劇団の、喜劇を演じ、歌う若い女優のこと)

「 私は、一時間前から、書くことに、キュブリー嬢のころの自分の印象を正確に描こうとつとめることに大いに喜びを感じているようだ。しかし、いったい誰が私とか我とかをやたらにつめこんだこんな書きものを読む勇気をもつだろうか? 自分自身にも鼻につく。こういうのがこの種の書きものの欠点で、それにこういうつまらぬ書きものに、山師的な味つけソースをかけて供するすべを私は知らない。つけくわえていいだろうか? ルソーの『告白』のように、だ。いやいけない。いくらそういう非難が馬鹿ばかしくても、人は私が羨望しているか、それともこの大作家の傑作と自分との非合理でばかばかしい比較をこころみようとするのだ、と考えるだろう。
 私は改めて、もういちどだけ、抗議しておく。私はペリゼ、サルヴァンディ、サンマルク・ジラルダンのような『討論』紙おかかえの偽善的衒学者を、心から、最高度に、軽蔑している。しかし、だからといって、自分を大作家に近いなどとは信じてはいない、ということだ。私が自分にすぐれた才能があると認めているのは、ある瞬間瞬間に非常に明らかに自分に見える自然をよく似ているように描くこと。第二に、真実にたいして私は完全な誠意と尊敬の念をもっていること。第三には、書く喜びということ。ミラノのジャルディーノ通りのペロンティ氏の家で1817年に狂気に達するほどの喜びを、もったことである。」

「 だが、キュブリー嬢のことにもどろう。そのころは、なんと私は欲望から遠かったことだろう。そして、欲望で非難されることを恐れる気になったり、どんなやりかたであろうと他人のことを考えたりすることからいかに遠かったことか! 私のために人生ははじまりかけていたところだった。
 この世にただ一人の人しかいなかった、キュブリー嬢。ただ一つの出来事しかなかった、彼女はその晩舞台に出るだろうか、それとも翌日なのか?
 彼女が出ずに、出しものが悲劇だったときの、なんという失望!
 広告に彼女の名を読んだときの、純粋で、やさしい、勝ちほこったような恍惚感はどうだったか! 私の目には、まだあの広告が見える。その形、その紙、その文字。
 この広告の出ている三、四カ所へ、このいとしい名をつづけさまに、私は読みに行った。ジャコバン門のところ、公園のアーケード、祖父の家のそばの町角。私は、ただ名を読むだけでなしに、その広告全部を何度も読む喜びを味わうのだった。この広告をつくった悪い印刷屋のすこし磨滅した活字が私には愛しいもの、神聖なものになった。そして、長い年月のあいだ、私はもっとも美しい活字よりそれをもっと好きだった。
 つぎのようなことさえ、私は思い出す。1799年11月にパリに到着したとき、活字の美しさが私には不愉快だった。キュブリーの名を印刷してあったような活字ではなかったから。

彼女は出発した。それがいつごろか、私には言うことができない。長いあいだ、私は二度と劇場へは行けなかった。……」(岩波文庫・桑原武夫・生島遼一訳)

「真実にたいして私は完全な誠意と尊敬の念をもっている」というスタンダールの言葉について、大岡昇平は、「このような姿勢を持ち続けていれば、人はそう大きく誤った方向には行かないことが分かる」というような趣旨のことをスタンダールに関して述べていますが、私もこの考えに全面的に賛成です。最初に述べた「神」とは何ら関係のない話になってしまいましたが、どうぞお許しを。
2010.01.01 Fri l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
ブログ「連絡船」の木下和郎氏が、「亀山郁夫氏に呼びかける」というタイトルで、「(亀山氏は)『悪霊』の翻訳にかかっているらしい。ついさっきネットでこの情報を読んで、声をあげてしまいました。最悪です。」、「『悪霊』翻訳は中止してください。/そうして、できるだけ早く謝罪と撤退をしてください。」と書かれていたのは、9月30日のことだった。直後に少しこの情報を探してみて見つけられなかったのだが、数日前、ようやくというべきだろうか、あるブログにその情報が載っているのを読んだ。もっとも、この記事が木下氏の読まれたネット情報と同一であるかどうかは分からない。私が見たのは、こちらのブログで、この方は亀山氏出演の深夜のラジオ番組をタイマー予約しておき、それを翌日聴いたのだという。

「亀山先生は、今「悪霊」を翻訳しているという。そして、「タイトルを『悪魔』とか『悪鬼』とかに変えて読者にはげしく迫ってみようと思う」という爆弾発言があった。」

テレビやラジオの音声には、聞き違いということが起きがちだ。言葉の意味の聞き誤りもあるし、ニュアンスの受け止め方の違いということもある。しかし、記事によると、ブログ主の方は「3回くらい繰り返して聴いてしまった」ということだから、上記の発言は正しく亀山氏が述べたものと受け止めていいのではないかと思う。そう判断し、この発言から感じたことを述べてみる。

「タイトルを『悪魔』とか『悪鬼』とかに変え」るという亀山氏の発言が本気なのかどうかは分からない。もしかすると冗談なのかも知れないが、しかし公的な場所での発言なのだから、本気と受け止めることにする。『悪霊』の原題は「Бесы」らしいが、これがロシア語で正確にどのような意味をもっているのか、ロシア語の分からない私には判断がつかないところだが、それでも日本語で考えると、悪霊、悪魔、悪鬼、はそれぞれの単語が持っている意味が異なるのは明らかなように思う。題名に『霊』という字が入るのと入らないのでは大変な相違があるのではないだろうか。日本文学史上広く世に知れ渡ったこのタイトルの変更を口にする亀山氏はそのことについてこれまでにどれだけ掘り下げた多面的な考察をしたのだろうか。

また、タイトルを変えて「読者にはげしく迫ってみようと思う」という発言はまったくいただけないと思う。亀山氏は『悪霊』がドストエフスキーの作品であること、翻訳者の使命は原作者とはまったく異なることをどれだけ自覚しているのだろうと思った。亀山氏のこの言葉に品位がないと感じられたのは、おそらくそのことについての亀山氏の認識が疑われる、もっというと発言にドストエフスキーおよび原作をないがしろにしている印象すら漂っているからではないだろうか。

ドイツのある作家が翻訳および翻訳家について述べた文章で、「翻訳の読者は原作を理解できない人々なのだろうか?」と書いているのを読んだことがあるが、これは、そうではあるまい、という意味をこめての記述だったに違いないと思っている。というのも、翻訳者の姿勢は本当にそうでなければならないだろうと想像できるからだ。この論理のとおりに、つまり翻訳者は読者が作品を理解できるという前提で翻訳をしなければならないのだとしたら、当然翻訳者が作品を一般の読者より高次元の水準で理解していることは当たり前のこと。こんなことは本来言うまでもない基本的なことに違いないのだが、でも情けないことに、率直にいって亀山氏には木下氏同様、私も読者としてこの点に疑念をおぼえる。

亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』では、ホフラコーワ夫人、その娘リーザ、カテリーナ、グルーシェニカという4人の女性が、アリョーシャとの会話において自分の行動なり考えなりを説明するのに、全員揃って「私、○○したってわけ。」という普通めったに聞くことのない大変特異な話し方をしていた。これらの女性たちは『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のなかで一人として欠くことのできない重要な人物ばかりであり、言うまでもなくそれぞれに個性的な性格の持ち主である。年代も10代、20代、40代とそれぞれに異なる。小説の場合、登場人物の物の言い方、言葉遣いは、行動と同じようにその人の性格や個性を表わす最重要要素のはずである。逆方向から言うと、読者は、作者によって描き分けられたそれぞれの人物の物の言い方によってその性格や個性や人生を理解していくのだ。だからこれは物語の筋や進行ともふかく関わっているはずである。亀山氏の訳本で、4人の女性全員が「私、○○したってわけ。」という物の言い方をしているということは、亀山氏は一人ひとりの人物像を個別に把握し切らないままに『カラマーゾフの兄弟』を訳したと判断されても仕方のないことだと思う。

亀山氏の『カラマーゾフの兄弟』訳は誤訳・不適切訳が多数指摘されているが、私が最も驚き、かつ、その後もふと頭に浮かんできて、いまさらのように呆れてしまうのは、上記の件であった。その上に伝聞の形で知ったことではあるが、今回の発言である。『悪霊』についていうと、亀山氏は翻訳より前に、この困難な作品(私自身はこの作品をちゃんと理解しているという自信がない。だからこそ翻訳者にはいっそう信頼のおける訳をしてほしい、そうでなければ困るという気持ちがある)を正確に読みこなす力があるのかどうか、どうしても疑問を感じてしまうのは、これではやむをえないのではないだろうか。
2009.12.08 Tue l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
昨年12月5日に文芸評論家(文明批評家ともいえる)の加藤周一逝去のニュースを知った時、喪失感も寂しさもおぼえたが、同時に、胸に一個の見事な作品の完成を見るような感動もあった。89歳という長寿といいうる年齢に達していたことも理由の一端ではあったかと思うが、もちろんそれだけではない。ここ数年、それまで長年にわたり自己の信念として、基本的・原則的な価値観の表明として公的に述べてきたはずの発言を、気づいてみるといつのまにかガラリ変質させてすましているように見える物書き、学者、ジャーナリストなどが非常に多いと感じていた。時にはジョージ・オーウェルの『1984年』の世界のようだと思うこともあったほどである。でも、加藤周一にはそんな懸念は初めからまったく感じなかった。加藤周一の精神、内包している思想や感覚は、そのような醜悪な(と感じられた)行為をするにはあまりにも精神の位が高く、思想の根拠は堅固であるという全幅の安心感、信頼感をもてたのだ。これは大きなことだった。死去の報せをきいたときにもこの信頼感がよみがえり、「全う」という印象が一番つよかった。前述した「物書き、学者、ジャーナリスト」と加藤周一のような人との姿勢の違いは何に起因するのだろう。決定的に作用するのは思想の質の違いだろうか。これは自分を省みる上でもよく考えてみるべき問題だと思うが、でも実のところ、つい数年前まではこのような姿勢が普通、当たり前のことだと思っていたのだったが…。

『20世紀の自画像』(ちくま新書・2005年)からノートにメモしていた加藤周一の発言を記すが、まず、「沖縄、アイヌ、「在日」と日本文学」のなかで、現代日本文学について

「文学の現状を聞かれれば、それはもちろん、いちばん生産的なグループは在日の作家たちではないかと思います。なぜかといえば、共通の大きな問題を抱えているからでしょう。/彼らの小説の世界は心理的な葛藤だけじゃすまない。それは在日ということ自体が、すでに問題を含んでいるからです。大きな社会的な、第一次戦後派が拡げた文学の世界を、いま引き継いでいるのは在日の人かもしれません。」

と書いていた。私はあまり雑誌や新刊本を読まないので、現状の文壇や論壇について詳しくないが、ブログなどで目に触れる範囲でいうと、在日朝鮮人が書いた文章は一般の水準に比してテーマのつき詰められ方が格段に異なる、深さが違うように感じることが多い。文学や思想においては、深くなければ持続的な拡がりを作り出すことはできないはずなので、加藤周一がここで「第一次戦後派」という言葉を遣っているのもあながちおかしくはないのではないだろうか。加藤周一自身も「第一次戦後派」の一人だったはずである。また、あとがきに、2005年に発生した中国の大規模な反日デモについての次の文章があった。私はこの論旨をまったくの正論だと思う。

「個々の争点の現状は、日中いずれかの側の「致命的国益」に触れるほど重大なものではない。しかしそれをまとめてみれば、日本の「右寄り」傾向のあきらかな加速を示す。その流れのなかに、いわゆる「歴史意識」の問題がくり返しあらわれた。すなわち過去の侵略戦争の膨大な破壊に対して現在の日本社会がとる態度の問題である。/戦後60年日本国を信頼し、友好的関係を発展させつつある国は、東北アジアの隣国のなかに一つもない。/その責任のすべてが相手方にあるのだろうか。/何度も指摘されたように、戦後ドイツは隣国の深く広汎な反独感情に対して「過去の克服」に全力を傾け半世紀に及んだ。類似の目的を達成するために保守党政権下の戦後日本は、半世紀を浪費した。今さら何をしようと半年や一年で事態が根本的に変わることはないだろう。/私は「反日デモ」がおこったことに少しも驚かなかった。もちろん何枚のガラスが割られるかを予想していたのではない。しかし日本側がその「歴史認識」に固執するかぎり、中国や韓国の大衆の対日不信感がいつか、何らかの形で爆発するのは、時間の問題だろうと考えていた。その考えは今も変わらない。アジアの人びとの反日感情と対日批判のいら立ちは、おそらく再び爆発するだろう。それは日本のみならず、アジア、殊に東北アジアにとっての大きな不幸である。私は私自身の判断が誤りであることを望む。」


加藤周一は1945年敗戦を迎えた時25才で、東大医学部の学生であった。戦争には少年時代からずっと反対であり、当然のことながら少数者の孤立感のなかにいたようだが、学生時代には強硬な戦争批判者であった文学部の渡辺一夫や神田盾夫といった教師の存在が支えになっていたそうである。著書『羊の歌』では、渡辺一夫について、「天から降ってきたような渡辺助教授」という表現がされている。

ちなみに、その当時東大文学部の助手をしていた日高六郎は、戦争に対する当時の文学部内部の実態について『映画日本国憲法読本』(フォイル・2004年)のなかで次のように話している。

「文学部のなかで、長い戦争に対して疑問をもつ、あるいは反対だということをはっきりとした姿勢で考えていた人は教員80人近くいたと思いますが、ふたりだけ。渡辺一夫先生と、それから言語学科の神田先生。そのふたりは、はっきりと戦争全体に反対。ぼくも、そうですけれどね。あとは、いわゆる日支事変段階ではね「この戦争は一体どこまで泥沼に入ってしまうのか」と懸念をもっている人はいくらかいた。しかし日米戦争で空気はがらっと変わります。ハワイ真珠湾攻撃の日に、たまたま大学へ行ったんです。ある研究室のドアからね、教授、助教授の興奮した声が聞こえました。戦争の性格が変わった、この戦争はアジアの植民地解放戦争なんだ、これで戦争目的ははっきりしたと。そういう声が聞こえてきた。なるほど、これがこれからの日本政府の宣伝のポイントになるだろうという感じを受けました。/僕はアジアの植民地解放のためというスローガンを出すならば、なぜ朝鮮と台湾の問題に触れないのか。朝鮮の自主独立を許す、台湾を中国へ返すということを、日米戦争が始まったときにすぐに宣言していたら、アジアの解放もいいですよ。しかし、自分の植民地はそのままにしておいて、これはアジア解放戦争だと言っても通用しませんよ。」

実は昨年春頃から加藤周一の著作集を読み始めていた。時たま、その著作を図書館で借りて読んでみるといつも大変おもしろい。どの文章にも、感嘆したり、よく理解できないながらも興味深かったり、教えられる箇所が必ずといっていいほどある(もちろん肯けない観方もあるが、それは別人である以上、当然のことだろう)。できればまとめて手元に置いておきたいと思っていたところ、ある古本屋さんで平凡社からでている16巻本を、うち欠本が一冊あるという理由でとても安く買うことができ、こつこつと読んでいたところでの訃報であった。

私がこれまで読んだのは著作集(購入した16巻本の後、つづいて24巻までが出版されている)のほんの一部に過ぎないのだが、そのせまいわずかな読書経験から感じたことを書いてみたい。まず、加藤周一の博学はものすごくて、無知無学の私などは驚嘆し圧倒される。が、加藤周一自身は、広い知識を持つことはそれ自体に何ら意味があるのではない、知識は何のために必要とされるのかということを著作でよく表現し、証明しているように思った。日本の古来からの歴史、その時々の日本と中国や朝鮮との関係、明治以後の日本と西欧との関係、それらの多岐にわたり複雑な問題を、文学(この範囲が広くて加藤周一は鎌倉仏教までをも文学の範疇にいれている)を中心とした芸術作品を通してできる限り正確に観察し、そのなかに分け入って深く分析し、明瞭にしようと努めた形跡が著作集からよく見てとれるように思ったし、その試みは現実に相当高い水準で成功しているのではないだろうか。

日本の近・現代の文学者に関する評論もとても興味深かった。特に、森鴎外、夏目漱石、永井荷風に関する批評がおもしろい。夏目漱石についての『漱石に於ける現実 ――殊に『明暗』に就いて――』は1948年に書かれたものだが、1978年刊行の著作集の[追記]には、「少なくとも小説について、私の意見の要点はここに尽きる。すなわち漱石の最高の小説を『明暗』とすること、その理由は何かということである。」と記されているが、加藤周一は、漱石のなかに「教養の豊富さ」や「知性人たるの本質」を見るのは、誤りだと述べている。

「文壇の知性も教養も、明治以来、日本の一流の水準に達したことはない。例外は、おそらく、鴎外の知性と露伴の教養とであり、又それのみであった。彼等だけが、「学殖なきを憂へない。」と豪語することが出来たし、又豪語に値することが出来たのである。漱石は決してそうではない。又私見によれば、そうである必要もない。」

上の文章で、加藤周一が近代文学史上「鴎外の知性」と共に、「露伴の教養」を別格扱いしているのは、まったく卓見だと思う。私は以前図書館で露伴の全集を少し眺めてみたことがあるのだが、中国古典について述べている露伴の知識の範囲や一個の漢字(この漢字がまたそれまで見たこともないもので、たとえば「漢」という字に例をとると、これを十倍にしたほど画数の多い字であった。ただその大がかりな字が見たものを惹きつける風格、美的力を持っているように感じられたこともつけ加えておきたい。)についての物凄い考証研究ぶりに仰天し、読んでみようにも手も足もでず、すごすごと引き返したことがある。自身もすばらしい小説家である娘の幸田文が晩年にいたっても自分の存在を「露伴の娘」ということに限定しているかのような話し方をしていたのは、実際に少し露伴の書いたものを眺めてみると、文の言葉はそう言わないではいられない実感に支えられていたのであったろうと納得させられるのだった。自分も勉強家である大岡昇平は、全集収録の「明治・大正の作家たち」において「露伴の生涯と作品は、多くの驚異を蔵し、/その文筆活動は小説、詩、歴史、評論、考証随筆に及び、その広さ、豊かさにおいて、鴎外、漱石がわずかに比肩する。/その41巻の全集を理解する人は、ますます数少なく、史前世界の巨獣のような、わけのわからぬ活力と原理を持っていることが、漠然と想像されるだけである。この特異な人物の真価が十分に解明されるには、長い歳月が必要であろう、あるいはその機会はもはやないということが考えられるのである。」と述べている。露伴全集の2、3冊を前にして私はまさしくその本が「わけのわからぬ活力と原理を持っていること」を、「漠然と想像」しただけであった。(露伴に関心のある人には、塩谷賛著「幸田露伴」をお勧めしたい。)

さて、知性や教養に漱石の価値の根拠がないとすれば、ではどこに真骨頂があると加藤周一が考えているのかというと、

「『こゝろ』は、他に例を見ない失敗であった。この小説家だけが、自らの知性をためし、その限界によって、失敗し、その限界を超える可能性を知ったのである。従って、漱石の知性は、その成功のために必要な前提であったが、真の文学的価値を決定する作品は、小説家の「知性人たる本質」に根ざすよりも、知性人たらざる本質に根ざす。/『猫』は今日読む能わず、『こゝろ』は読み得るかもしれないが、我々の文学世界に何らの新しい現実を加えていない。新しい現実は、『明暗』のなかにある。」

と、漱石は「『明暗』によって、又『明暗』によってのみ、不朽である」と言うのである。そして上記のように、『明暗』は、漱石の「知性人たる本質」によってではなく、「知性人たらざる本質」によって生み出されたのだと述べ、それでこそ、その他のすべての小説が達し得なかった、今日なお新しい現実、人間の情念の変らぬ現実に達し得たのだという。また創造のからくりのなかに潜むデモーニッシュな力の大きな役割を述べて、「そのデーモンは、『明暗』の作者を、捉えたのであり、生涯に一度ただその時にのみ捉えたのである。それが修繕時の大患にはじまったか、何にはじまったか、私は知らない。確実なのは、小説の世界が今日なお新しい現実を我々に示すということであり、それに較べれば、知的な漱石の数々の試みなどは何ものでもないということである。」とも記している。

加藤周一がいかに高く『明暗』を買っているかがよく分かる文章であるが、彼は、漱石の内部には強烈に表現と認識をもとめているものが確実に存在し、この『明暗』によってそれを見事に実現しえた、とも述べている。作品のどこにそれが認められるかというと、まず登場人物の微妙な心の動きを執拗なほどに正確に捉える文体に見ている。『明暗』は、作者の鋭い観察と、論理的な分析の鮮やかな協力によって、明治大正の文学史に無双の心理小説だというのだが、しかしそれだけではない。観察に加えて、作者漱石がもったにちがいないはずの内的体験ということを強調している。

「我々の憎悪や愛情やその他もろもろの情念は、しばしば極端に到り、爆発的に意識をかき乱し、ながく注意され、ながく論理的に追求されれば、意識の底からは奇怪なさまざまの物が現れるであろう。我々の日常生活にそういうことが少ないのは、我々の習慣が危険なものを避け、深淵が口を開いても、その底を見極めようとはしないからである。しかし、その底に、我々の行動を決定する現実があり、日常的意識の奥に、我々を支配する愛憎や不安や希望がある。それは、日常的生の表面に多様な形をとって現れるが、その多様な現象の背後に、常に変らざる本質があり、プラトン風に言えば、影なる現象世界の背後に、観念なる実在がなければならない。観念的なものは現実的であり得るし、むしろ観念的なもののみが現実的であり得る。なぜなら、それが、小説家に、深く体験され、動かしがたく確実に直感されたものであるからだ。」

漱石は、上記の「深く体験され、動かしがたく確実に直感された」内的体験を『明暗』によって現実的なものとして恐ろしいばかりに見事に表現しえたのだが、このことはその観察がどんなに鋭く正確でもそれのみでは実現不可能であり、「内的体験」の存在こそがそれを可能にしたということを加藤周一は指摘しているのだと思われる。私は『道草』もとても好きだが、しかし『明暗』を漱石の小説の最高傑作とする加藤説に賛同する。『明暗』では、人間の心理が息苦しいほど鋭く正確に捉えられ、緊密な文体で十全に表現されているように私も感じる。何度か読んだけれども、そのたびにどうして漱石はこれほどまでの心理洞察力を持ち得たのだろうと不思議な気さえするので、加藤周一のこの文章は大変示唆にみちていて興味深かった。ただ、上記の文章のなかで「観念的なものは現実的であり得る」という部分までは理解できるように思うのだが、「むしろ観念的なもののみが現実的であり得る。なぜなら、それが、小説家に、深く体験され、動かしがたく確実に直感されたものであるからだ。」という見解が、観念的でないせいだろう、私はちゃんと消化できない。どなたか教えてくださる方がいれば、ぜひご教示ください。

森鴎外、永井荷風についての評論も独創的で、興味のつきないおもしろさがあると思う。これらについては今日は詳述できないが、加藤周一はその人間や生き方への評価とは区別して(荷風については「惨たる生涯」とも述べている)、この二人の文章を格別に高く評価しているようである。それは、たとえば、「外国文学のうけとり方と戦後」という文章のなかの「文章の変化」の項目の一節にも読み取れると思う。

「明治以後の日本文へ欧文が及した影響は、漢文の影響の最大なるときに、最大であった。すなわち鴎外であり、その次に荷風である。また漢文の影響の最小なるときに、最小であった。すなわち昭和期殊に戦後の諸家である。/日本文が漢文の影響を脱するに従って、欧文の影響をうけるようになったというのは、俗説にすぎない。むしろ逆に、漢文の影響と欧文の影響とは平行し、時と共に減じてきたのだ。/散文の場合には、外国の小説の影響がそれほど破壊的ではなかったかもしれない。しかし翻訳小説は沢山あらわれた。したがって翻訳の文章の大部分は、もはや鴎外訳の場合とはまるで性質の違うものであった。そういう翻訳小説をよむことによってえられるだろう信念の一つは、疑いもなく、小説の文章は週刊雑誌の記事と本来ちがわぬものだということ以外ではないだろう。少くとも荷風はそうは考えていなかった。しかし戦後の小説家の多くはそう考えているらしい。」

永井荷風の文章が並外れて立派である(美しいといったほうがいいかも知れない)ことは私も深く実感したことがあった。私は印刷物の版下を作る仕事を細々とやっているのだが、10数年前のこと、ある時、雑誌(多分、『三田文学』だったと思う)に載せるので、荷風を論じた300枚ほどの手書きの原稿をパソコンに入力してほしいという仕事をうけた。当然のことなのだろうが、そこには荷風の文章が数多く引用されていた。入力してみると、その文章のすばらしいこと! 特に時代が進めば進むほどに、荷風の文章は洗練され、品位をまし、特に「下谷叢話」の場合は、キーをうつ手元から感覚のなかに優美で品格にみちた言葉がひとつながりになって流れ入るようであった。それは読むだけでは実感できないことであったが、このような経験は初めてであり、その後もない。こういう個人的な経験を絶対視するわけではないが、それでも上記の加藤周一の批評はおそらくほぼすべて的を射ているのではないかと思う。この文章は、1960年に書かれたものだが、それにしても、加藤周一の日本の現代文学に対する観方はきびしい。この後、年ごとにさらにきびしくなっていくのは察知できることだが、実はしだいに現状の日本文学についての発言は少なくなっていったように思う。「外国文学のうけとり方と戦後」は次の文章で終わっている。

「文学は思想である。思想はまた感覚から出発するものである。外国文学のうけとり方を正面から問題にするとすれば、思想をとおして感覚にまで到らなければならない。私は外国の思想の影響は、明治以来の日本文学に浅かったといったが、その理由は、第一、当方の社会そのものの含む問題が別のところにあったからであり(管理人注:キリスト教および近代の人権宣言の影響下にある西洋の文学は、天皇制下の日本文化とでは根本的な条件の違いがあった、など)、第二、外国の思想を支える感覚的体験の質が無視されていたからである。第一の点について、戦後におこった変化を、私はすでに述べた(管理人注:天皇制下で社会・生活環境が根本的に異なるなかで西欧の文学を受容した戦前と、彼我の違いが不分明になりむしろ相互に共通点が多いことを前提にして西欧文学を受け入れた戦後。その根本的な違い)。第二の点についても、戦後に大きな変化がおこったであろうか。しかし第一の点は、社会の全体の問題であり、第二の点は、外国文学と接触するその人の個人の問題である。私は後者の点については、戦後の劃期的な成果を、森有正『流れのほとりにて』にみたいと思う。なぜこの本は広くよまれなかったか。劃期的だからである。なぜこの本は劃期的であるか。西洋思想の感覚的基礎をみきわめようとする自覚的な努力を、綿密に記録した例は、開国以来今日に到るまでにまだ一度もなかったからである。同じような努力がなかったわけではない。そういう努力はあった。たとえば鴎外にもあったが、荷風にもあった。しかしこれほど自覚的な努力は多分なかったし、その過程のこれほど綿密な記録もなかったのである。今後外国文学のうけとり方を問題にするときには、どうしてもこの本を通らざるをえないであろう。そうしなければ、どれほどもっともらしい談義をしても、それがこの本のまえで軽薄にひびくことを免れるわけにゆくまい。ヴェネツィアの古い石が自分の感覚とならなければ、フォースターの思想のすべては空文にすぎないということだ。/しかし外国文学はうけとる必要のあるものだろうか。おそらくその必要はあるまい。しかしおそらくそうせざるをえまいと私は考えている。」

この文の[追記]では、本居宣長は自由自在に「漢文」を書くことができたからこそ、無理をしてまでやまとことばで押し通そうとしたことが述べられ、「中国文学の影響は、18世紀の日本に宣長を生んだ。西洋語で書くという習慣がなくて、西洋文学の影響は、20世紀の日本に日本文のなかで外来語を用いることを好む多数の文筆家を生んだ」と記されている。そうすると、「外国文学はうけとる必要はあるまい」、これは皮肉なのだろうか?

加藤周一は成人後の人生の半分をヨーロッパやアジア諸国の大学で教員として生きてきたようで、特にヨーロッパ生活が長かったそうだが、私の知る範囲では、日本文学と欧米文学以外の、たとえばロシア文学やアジアの文学については述べていないように思う。しかし、たとえば、もし亀山郁夫氏のドストエフスキー翻訳本を読んだら何と思うだろう。絶句するのではないかと思われるが、それとももはやあきらめの境地にいただろうか。

最後に、加藤周一著作集の「月報」に大岡昇平が寄せている「加藤さんの印象」という一文を引用して終わりにしたい。この短文にはそっけないようでいてよい味わいがあると思うのだが、上記の加藤周一の文章で取り上げられている、またブログ「こころなきみにも」の萩原氏がよく敬意をこめて触れておられる森有正がでてくる。それぞれがまだ若かったころのパリにおける一挿話だが、大岡昇平によると加藤周一と森有正は当時印象がよく似ていたとのことである。

「 私は復員して1948年まで、明石の疎開先を動けなかったので、『1946・文学的考察』や『マチネ・ポエティク詩集』など、敗戦直後の加藤さんの活躍は知らない。はじめてお眼にかかったのは、1954年、パリにおいてである。彼は当時、医者としてソルポンヌに留学中だった。やはりパリ在住の森有正さんに紹介されたと思う。パリのどこにお住いだったか。私はサン・ミシェル通りがリュクサンブール公園にぶつかるあたりの、リュ・ロアイエ・コラールという横丁の安ホテルにいた。森さんはそれよりもう少し南の、アべ・ド・レペという横丁の、たしか「オテル・ド・フランス」にいた。名前が大きくいかめしくなれば、それだけ汚なくなるのは日本とは反対で、森さんはそういう安ホテルに下宿して、ソルボンヌに提出するのだとかいう、パスカルに関する厖大な未整理原稿をかかえていた。それは見せてもらえなかったが、フランス文化を理解するためには、フランス人と同じくらいその伝統に沈潜しなければならない、という意見で、フランスの田舎をこまめに廻っていた。/私はそれはとてもできない相談だから、いい加減にして、東京の教壇に復帰することをすすめてみたが、てんで受け付けて貰えなかった。しかし私はそういう森さんの頑固さ、30歳を越えても自分の思想形成のために、清貧に甘んずる態度を、尊敬した。彼のパスカル研究はその後どうなったか知らないが、1957年からその滞仏記録『バビロンの流れのほとりにて』などを日本で発表しはじめた。独自の体験の哲学を打ち立てた。/森さんのことばかり書くようだが、当時、私が加藤さんから受けた印象は、極めて森さんに似ていたからである。/加藤さん、森さんから、私の学んだことは、へんに身なりを飾らないこと、余分の金を稼ごうとしないことである。外国語をやること、教養を大事にすること――これは戦争のため欧米との文化的格差がひどくなっていた1954年頃では、不可欠なことであったが、そこに金持へこびる、成上り者みたいな生活態度が加わると、鼻持ちならなくなる。知識人は貧乏でなければならない――これが加藤さんから学んだ第一の教訓である。/加藤さんは1957年に『雑種文化』を出した。森さんと同じ講談社の「ミリオン・ブックス」だったのは、変な縁だが、加藤さんの方が少し先だったはずである。これは帰国してから書いたものだが、外国滞在の成果であることは共通している。
 「私は西洋見物の途中で日本文化のことを考え、日本人は西洋のことを研究するよりも日本のことを研究し、その研究から仕事をすすめていった方が学問芸術の上で生産的になるだろうと考えた」「ところが日本へかえってきてみて、日本的なものは他のアジアの諸国とのちがい、つまり日本の西洋化が深いところへ入っているという事実そのものにももとめなければならないと考えるようになった」。
 その結果、加藤さんは日本文化を「雑種文化」と規定した。このあまりに有名になり、多くの人の手に渡って俗化してしまった概念が、以上のような体験と考察の末に出たものであることに注意を喚起しておきたい。」(大岡昇平)
2009.12.04 Fri l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
(1)
萩原俊治氏のブログ「こころなきみにも」の連載「亀山訳『カラマーゾフの兄弟』批判」を読ませていただいているが、述べてみたい感想や触発されて思い浮かべたことなどがあるので(まるで、『カラマーゾフの兄弟』でトロイの建設者が誰であるかを言ってみたくてたまらない少年カルタショフの心境みたいで恐縮だが!)、僣越ながら記してみたい。

まず、【亀山訳『カラマーゾフの兄弟』批判2】における

>【誤訳】アレクセイが「偉大な人物ではない」という訳(原、小沼)。

「作者の言葉」のこの訳文については、じつのところ、私もずっと前から腑に落ちない思いをしていた。小沼訳では、次のようになっている。

「わが主人公アレクセイ・フィードロヴィッチ・カラマーゾフの一代記に取りかかるにあたり、私は多少のためらいを感じている。それはほかでもない、私はアレクセイ・フィードロヴィッチをわが主人公と読んではいるものの、彼がけっして偉大な人物でないことを、自分でもよく心得ているからである。」

作者は、このようにアリョーシャを「偉大な人物ではない」と述べていながら、一方、同時に、読者からの自分に対する

「彼をその主人公に選んだのは、あなたのアレクセイ・フィードロヴィッチになにかすぐれた点があってのことなのか?」

という質問を予期しているわけである。すると、「偉大な人物」と「すぐれた点がある人物」とは全然重なり合わないことになるので、「はて?」と戸惑いをおぼえた。そこで私は、作者の言う「偉大な人物」を勝手にナポレオンとかシーザーのような歴史上の人物に見立てて自分を納得させることにした。「偉大な人物でない」という意味を、自らの手で直接社会を動かし、新たな歴史を作り出す軍人や政治家のような型の人物ではないというふうに理解しようとしたのである。今から思えば、無意識のうちにも「偉大な人物」をこの連載で萩原氏が述べているような、老若男女の誰でもが知っている「超有名人」と捉えたことになる。それでも、ドストエフスキーがナポレオンのような「有名人」を「偉大な人物」と断定するのも奇妙だという感じが残りはしたが…。

それで一応納得したつもりでいたのだが、再び混乱したのは、昨年原卓也訳を読んだ時だった。小沼訳は、アリョーシャについて単に「偉大な人物でない」とだけ述べているが、原訳は、なんと「人間として彼が決して偉大でないことは、わたし自身よく承知しているし」と、アリョーシャを「人間として偉大でない」と言い切っているのだった。小沼訳は最初に読んだ本ではあり、肩肘張らないとても自然な訳のように感じて私は愛着を持っていたが、昨年はじめて読んだ原訳は精確かつ繊細な文章だと読みながら感服する思いがしていたので、この訳には大変困惑した。すぐに思ったことは、「それではゾシマ長老はどうなのだろう?」ということだった。アリョーシャが人間として偉大でないのなら、アリョーシャもその世界に共に住んでいるように思えるゾシマ長老も人間として偉大ではないというのだろうか? それともゾシマとアリョーシャ、この二人の人物の精神の大きさや深さをドストエフスキーは厳密に区別しているのだろうか? ドストエフスキーはそもそも「人間として偉大な人物」としてここで具体的に一体誰を想定していたのだろう。 ナポレオン? では、シェークスピアは? などと割り切れない思いであれこれ考えを巡らせたのだった。

しかし仕方がないので、それ以来、もうこの箇所は避けて通ることにした。だから、江川訳が「アレクセイは「大人物などと言えた柄ではない」という訳をつけている」ことも「そうだったっけ?」と今回はじめて知ったようなしだいであった。萩原氏が「偉大」という単語を完全に削ってしまい、「無名」とされたのは、翻訳を読む身には大変納得できることであった。そのような訳が可能であることを知っただけでも気持ちがすっきりとして嬉しい。

(2)
次に、大変興味津々だったのは、エピグラフの「はっきり言っておく」という文句の中の「はっきり」という言葉の遣い方に関する議論であった。まず4人の翻訳者の訳文を記そう。

亀山郁夫訳:はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネの福音書、十二章二十三節)

原卓也訳:よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

小沼文彦訳:誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の実地に落ちて死なずば、ただ一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし。

江川卓訳:まことに、まことに汝らに告ぐ。一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多くの実をもたらすべし。

「はっきり言っておく」とか「はっきり言うが…」というように、他の誰かを前にしていざ話の口火をきるような場合に遣われる「はっきり」という単語には、萩原氏が言われるように、確かに、警告・非難など否定的なニュアンスがつきまとう。これは「はっきり」という単語の意味が「明瞭」とか「明確」であることと関係があるのかも知れないが、実際、この言葉は、意志的にというか、主体的に、かなりつよい否定のニュアンスをこめて用いられる場合がほとんどのように思う。その場に警戒心を含んだ緊張を惹起することも少なくないのではないだろうか。萩原氏が例にあげている「はっきり言うけどね、わたし、あんたのことなんか大嫌いよ」はまだ穏当(?)だが、「はっきり言っておく。もう一度今回と同じことをしたら、そのときはただではすまないからそう思え、云々」。ぴったりしすぎていて、大変、コワイ! このような用法が可能である「はっきり言っておく」は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、……」という至言の前おきに全然合わない。不釣り合いだと思う。

一方、「はっきり」は、上でも述べたが、「明瞭」という単語と同義語と言っていいと思われる。文章を読んでいて、時々、「明瞭」に「はっきり」というふりがなが付されているのを目にすることもある。「はっきり言っておく」という言葉が、日常的に使用されている上述のような事例と異なって、「明瞭に言っておく」と字義どおりの意味合いでエピグラフに用いられていると想定したらどうだろうか。

「明瞭」という言葉を私はいつも頭の片隅においているような気がするが、考えてみると、どうやらそれはスタンダールがバルザックに宛てた手紙のなかの「私の規則は唯一つよりありません。即ち明瞭に書くこと。明瞭でないと私の世界は崩壊します」という言葉と共に、のようだ(私はスタンダールのファンなのである)。雑誌やブログなどで文章を読んで、「この人の文章は明瞭だな」というように感じることもある(たとえばブログ「私にも話させて」の金光翔さんの文章)が、『カラマーゾフの兄弟』におけるエピグラフの「はっきり言っておく」の「はっきり」に関連してやはりスタンダールのこの言葉を思い浮かべた。スタンダールの『パルムの僧院』が発表された時、バルザックは「ベール(スタンダール)氏は各章ごとに崇高が炸裂する作品を書かれた」と絶賛する文章を書いてスタンダールを感激させたが、そのなかで幾つかの批判もした。文法的な誤りや書き方が無造作だという指摘もその一つだったが、これに答えて、スタンダールは上記のように「明瞭」の一語で応答したのだった。熱烈なスタンダリアンであった大岡昇平は、「同時代に読者を持たなかったスタンダールは自分を後世に伝へる為に、常に真実をしかも真実だけを語ってゐるかどうか、について不安があった」から「明瞭」であることに拘ったのだと推測し解釈している(「バルザック『スタンダール論』解説」・1944年)。

少し脱線したが、「明瞭」であることは、それ自体大変貴重なことでありすぐれた美点だと思う。反対の意味をもつ「不明瞭」「ぼんやり」「曖昧」であることが、話すにしろ、書くにしろ、現実にどのような困惑・混乱を生じさせることがあるかを考えれば「明瞭」の意義が理解されるのではないだろうか。さて、『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフだが、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、……」という言葉はそれ自体この上なく「明瞭」だと思う。内容豊富な明瞭なことを語るのに、あえて「はっきり言う」と前おきする必要はまったくないばかりでなく、文脈上むしろそれはおかしいのではないだろうか。「よくよくあなたがたに言っておく」、「誠に、まことに(あるいは、まことに、まことに)汝らに告ぐ」のどちらかが、断然、だんぜん、いいという気がする。
2009.11.11 Wed l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回の「感想 (3-3①)からのつづき。

   エピローグ 3 イリューシャの葬儀。石のそばの挨拶

新訳 p42  「それじゃあ、お兄さんは真実のために、無実の犠牲者として死ぬわけですね!」
コーリャが叫んだ。「たとえ死んでも、お兄さんは幸せです! うらやましいぐらいです!」

原訳 下・p482  「それじゃお兄さんは、真実のために無実の犠牲となって滅びるんですね!」コーリャが叫んだ。「たとえ滅びても、お兄さんは幸せだな! 僕は羨みたいような気持です!」

小沼訳 Ⅲ・p434  「するとつまり、あの人は正義のために罪のない犠牲となって身をほろぼすんですね!」とコーリャは叫んだ。「たとえ身をほろぼしても、あの人は幸福です! うらやましいと思うくらいですよ!」

江川訳 p848  「じゃ、お兄さんは正義のために無実の犠牲者として滅びるんですね!」コーリャが叫んだ。「それなら、たとえ身は滅んでも、あの人は幸福ですよ! ぼくはうらやましいくらいです!」

感想  またしても「死ぬ」という訳語の登場だが、この場合の「死ぬ」はこれまで多用されてきた「死ぬまで」や、あるいは「死ぬほど」などの、比喩としての「死ぬ」ではなく、文字どおりの「死亡」という意味だと思われる。だが、ドミートリーがうけた判決は20年のシベリア流刑であり、死刑を宣告されたわけではない。翻訳者は「長期流刑」を「社会的な死」と考え、あえて「死ぬ」を選択したのかも知れないが、やはり先行訳の「滅びる」「身をほろぼす」という正確な訳のほうがよいと思う。


新訳 p43  やせこけた顔の輪郭はほとんど変わっていなかった。

原訳 下・p483  痩せ衰えた顔の目鼻だちはほとんどまったく変っていなかった…

小沼訳 Ⅲ・p434  その顔はやつれてはいたが、生前とほとんど変りがなかった。

江川訳 p849  やつれたその顔だちは、生前とほとんど変らなかったし…

感想  「顔の輪郭」というのは「顔の線」という意味のはずなので、この場合は「目鼻だち」「顔だち」という訳のほうが、状態を正確に表現しているのではないだろうか。


新訳 p45  彼はもうこの三日間、石のそばに葬ると言い張ってきた。しかし、アリョーシャも、コーリャも、家の女主人も、も、そして少年たちもそれに反対してきた。

原訳 下・p484  彼はこれまでも、三日間ずっと、石のそばに葬ると言いつづけてきたのだった。だが、アリョーシャや、クラソートキンをはじめ、家主のおかみや、その妹、少年たち全員が横槍を入れた。

小沼訳 Ⅲ・p436  彼は前にも、この三日のあいだ、石のそばに葬ると言いつづけていたのである。 しかしアリョーシャや、クラソートキンや、家主のおかみさんや、その妹や、すべての少年たちがそれに口を入れた。

江川訳 p850  彼はもう三日間も、石のそばに葬るのだと言いくらしていた。しかしアリョーシャや、クラソートキンや、家主のおかみさんや、その妹や、少年たち全員がそれに反対した。

感想  新訳は「家主」を「家の女主人」としているが、そのすぐ後に、同じこの人物を「老婆」と記しているので、この「女主人」という言い方には少し違和感をおぼえる。また、家主の妹のことを、単に「妹」としているが、この場面にいたるまで、家主もその妹も物語にまったく登場していないので、単に「妹」とだけ記されたのでは、読者はこの妹がいったい誰の妹なのかと一瞬戸惑う。先行訳のように「その妹」と訳したほうが適切ではないかと思う。


新訳 p45  家主の老婆がきびしい口調で言った。「教会のなかには十字架を立てた墓地があるのにさ。あそこなら、あの子のためにお祈りもしてもらえるだろうに。教会なら賛美歌だって聞こえるし、輔祭さんは一生懸命に読経してくださるし、それがそっくりそのまま、あの子の耳まで届くから、あの子のお墓のそばで読んでもらっているのも同然じゃないか……」

原訳 下・p485  家主の老婆がきびしい口調できめつけた。「教会の構内には十字架の立った墓地があるんだよ。あそこならお祈りもしてもらえるしさ。教会から賛美歌もきこえてくるし、補祭さんの読んでくださる美しいありがたいお言葉も、そのつどこの子のところに届いてくるから、まるでこの子の墓前で読んでくれるようなもんじゃないかね」

小沼訳 Ⅲ・p436  家主の老婆はきびしい調子で言った。「そこの構内にはちゃんと十字架のついた墓場があるのにねえ。あすこならお祈りもしてもらえるしさ。教会から歌は聞こえるし、助祭のお祈りの言葉だってそのままそっくり、そのたんびにあの子のところまでとどくから、お墓の上でお祈りをしてもらっているのも同じことじゃないかね」

江川訳 p850  家主の老婆がたいへんな剣幕でまくし立てた。「教会の柵の中は十字架の立った土地なんだよ。あそこならこの子のためにお祈りもしてもらえる。教会から歌声も聞えるし、補祭さんが朗々と読んでくださるありがたいお言葉も、その都度そっくりこの子のところに届くじゃないか。まるでこの子の墓前に供えてくださるようなものじゃないかね」

感想  「教会なら賛美歌だって聞こえるし」の「教会なら」は、「教会から」の誤植なのだろうか? 墓地は確かに教会のなかにあるが、「教会から」ではなく「教会なら」だと、教会からイリューシャの眠る墓地までの空間を流れてくる賛美歌の声が感じられず、訳として拙いと思う。


新訳 p46  少年たちは柩を持ち上げた。だが、母親のわきを通るとき、彼らは一瞬立ち止まって、母親がイリューシャと最後のお別れができるように柩を床に下ろした。

原訳 下・p485  少年たちは柩を担ぎあげたが、母親のわきを運びすぎる際、イリューシャとお別れができるよう、ちょっとの間立ちどまって、柩をおろした。

小沼訳 Ⅲ・p436  少年たちは柩をかつぎあげたが、母親のそばを通るときに、ちょっと足をとめて、柩を床へおろした。

江川訳 p850  子供たちは柩を担ぎあげたが、母親の前を通るとき、ちょっと足を止めて、イリューシャと最後の別れができるように、柩をおろした。

感想  「柩を持ち上げた」というだけでは、柩を床から上に持ち上げた少年たちが 、その後、それをどのような格好で持ち運んでいるのかが読者には分からない。先行訳では「担ぎあげる」と明確に叙述されているところをみると、きっと原作でちゃんと目に見えるような具体的な描写がなされていたのだと思われる。そのことに翻訳者も編集者も最後まで気づかなかったというのは信じがたいことだが、あるいは気づいていながらこれでもよいと思ったのだろうか。翻訳者と同じく、あるいはそれ以上に編集者の責任が大きいのではないかと思う。


新訳 p47  彼は何か解決できない心配ごとをかかえているのか、棺の枕を支えようと急に手を差しだしたり、棺を持っている人の邪魔ばかりしたり、棺のかたわらを駆け回ったりしながら、なんとか少年たちの輪に加わろうとしていた。

原訳 下・p486  何か解決しえぬ心配事をかかえているみたいに、だしぬけに柩の頭の方を支えようと手をのばして、運んでいる人たちの邪魔をしてみたり、そうかと思うと、柩の横に駆けよって、せめてその辺にでもどこか割りこむ場所はないかと探してみたりするのだった。

小沼訳 Ⅲ・p437  彼はなにか解決のつかない心配ごとでもあるように、棺をかついでいる人たちの邪魔をしたり、そうかと思うと、棺のわきを駆けまわって、せめてそのそばについていようとして場所をさがしたりするのだった

江川訳 p850  何か解決しえぬ心配事をかかえているみたいに、だしぬけに柩の頭の方を支えようと手をのばして、運んでいる人たちの邪魔をしてみたり、そうかと思うと、柩の横に駆けよって、せめてその辺にでもどこか割りこむ場所はないかと探してみたりするのだった。

感想  わが子を亡くしたばかりの父親の茫然自失の精神状態を描写しているというのに、「心配ごとをかかえているのか」はあまりにも鈍感な表現に思える。


新訳 p48  教会は古く、かなり貧しくて、聖像の多くから金箔の縁飾りが落ちていたが、祈りをあげるには、かえってこういう教会のほうが気分が出るものである

原訳 下・p486  古い、かなり貧弱な教会で、金属の飾りのすっかりとれてしまった聖像がたくさんかかっていたが、お祈りをするにはこういう教会のほうがなんとなく落ちつくものだ

小沼訳 Ⅲ・p437  だがこういう会堂のほうがなんとなくお祈りをするには感じがいいものである

江川訳 p851  古びた、かなり貧弱な教会で、聖像はあらかた飾り額がはずれてしまっていたが、こういう教会ではかえってしんみりとお祈りができるものだ

感想  ここで、「気分が出る」という表現はないだろうと思う。死者であるイリューシャはたったの9歳、父親であるスネギリョフの悲痛な心情を読者としてもほとんど我がことのように感じている場面なので、この表現には興ざめな思いをさせられた。もしこの葬儀に参列していたと仮定して、亀山氏にしても古びた教会を眺め回しながら「これは気分が出ますね」などと口にすることはないだろう。また誰かそんなことを述べる人がいたとしたら、その言葉がその場にどんな反響をまきおこすかくらい想像できるだろう。亀山氏だけではない、この訳語に疑問をもたなかったらしい編集者を初めとした関係者の言語感覚は疑問である。


新訳 p49  ついに埋葬のときが来て、ろうそくが配られた。正気をなくした父親はふたたびそわそわしだしたが、悲壮で強烈な感動を与える埋葬の聖歌に、彼の心は揺さぶられた。

原訳 下・p487  いよいよ、お別れの賛美歌に移り、蝋燭が配られた。分別をなくした父親はまたそわそわしかけたが、心を打つ感動的な葬送の歌が、彼の魂を目ざめさせ、打ちふるわせた。

小沼訳 Ⅲ・p438  いよいよ、埋葬ということになって、ろうそくがくばられた。正気を失っていたような父親はまたもやあたふたしはじめた。胸にしみわたるような、感動的な葬送の歌は、彼の魂に刺戟をあたえ揺り動かした。

江川訳 p851  ついに、葬送の式がはじまり、一同に蝋燭が配られた。正気を失った父親はまたそわそわしはじめたが、感動的な、心を打つような葬送の歌声が、彼の魂をも目ざめさせ、震撼させた。

感想  新訳の「悲壮で強烈な感動を与える聖歌」という訳は、他ならぬイリューシャの葬儀における聖歌が感動的だったこと、それは二度とはない、たった一度かぎりの固有な出来事だったという事実を表現していないように感じる。「埋葬の歌」それ自体が持っている力もさることながら、イリューシャの葬儀の時の歌声が感動的だったことを原作は述べているはずなので、その点、先行訳の表現のほうがそのことをも含みこんで巧みだと思う。


新訳 p49  彼はなぜか、ふいに体全体をちぢこませ、時おり小刻みに号泣しはじめた。最初は声をひそめていたが、最後は大声でむせび泣きをはじめた。

原訳 下・p487  彼はなにか急に全身をちぢこめて、最初は声を殺しながら、しまいには大声にしゃくりあげて、短く小刻みに泣きはじめた。

小沼訳 Ⅲ・p438  彼はとつぜんからだをちぢめるようにして、しゃくりあげて泣きはじめた。はじめは声を殺していたが、しまいには声をあげてむせび泣くのだった。

江川訳 p851  彼は急に全身をちぢかめたような恰好になり、しきりときれぎれのすすり泣きをもらしはじめた。最初は声を忍ばせていたが、最後にはもう大声でしゃくりあげるのだった。

感想  「彼はなぜか、ふいに体全体をちぢこませ」という訳の「なぜか」も、上で取り上げた「心配ごとをかかえているのか」や「気分が出るものである」の場合と同じように、大変鈍感な訳だと感じる。


新訳 p49~50  最後のお別れをして棺の蓋を閉じようとしたとき、イリューシャを覆い隠すなど許さないとでもいうかのように両手で棺の柄を抱きかかえ、死んだわが子の唇に何度もむさぼるように口づけした。
やっとのことで彼を説き伏せ、階段からなかば引きおろしかけたところで、彼はとつぜん片手を伸ばし、柩のなかから何本かの花をつかんだ。彼はその花をしげしげと見やりながら、ふと新しい考えを思いついたようだった。そのために彼は一瞬、なにか肝心なことを忘れてしまったらしかった。徐々に物思いにふけりはじめたようで柩が持ち上げられ墓に運ばれるときも、とくに抵抗することはなかった。

原訳 下・p488  (略)やっとそれを説き伏せ、もう階段をおりかけたのだが、ふいに彼はすばやく片手を伸ばして、柩の中から花を何本かつかみとった。その花を見つめ、何か新しい考えがうかんだために、肝心のことを一瞬忘れてしまったかのようだった。彼はしだいに物思いに沈んでゆき柩を担ぎあげて墓に運びだしたときにも、もはや逆らわなかった。

小沼訳 Ⅲ・p438  (略)やっとのことで説き伏せられて、階段からおろされようとするとき、彼はとつぜん片手をさっとのばして、棺のなかからいくつかの花をつかみだした。彼はじっとその花を見つめていたが、なにか新しい考えのとりこになったように、一瞬、肝心なことを忘れてしまったようすだった。しだいに彼は深い物思いに沈んでゆくようになって柩がかつぎあげられて墓地のほうへ運びだされたときには、もはやそれに反対しようともしなかった。

江川訳 p851  (略)ようやく説きつけられて、もう段を降りはじめたのだが、彼はふいにまたすばやく手をのばして、柩の中から何本かの花をつかみ取った。その花をづくづくと眺めるうち、彼はふいに何かの新しい考えに打たれ、一瞬、肝心のことを忘れてしまったようだった。しだいに彼は物思いに沈んでいき柩がかつぎあげられて墓地に運びだされるときには、もう何も逆らおうとしなかった。

感想  「階段からなかば引きおろしかけた」という訳は、読んでいて、ここで「引きおろ」されているのはスネギリョフなのだろうか、それとも棺なのだろうかと判断に迷ってしまった。文脈からするとスネギリョフのことだと思われるが、しかし「引きおろ」すという表現をみると物―棺を指しているようにも思われる。明瞭であってほしい。/「ふと新しい考えを思いついたようだった。そのために彼は一瞬、なにか肝心なことを忘れてしまったらしかった」という訳文は、実にへんてこだと思う。彼、スネギリョフは、事実として新しい考えを思いついたのでもなければ、肝心なことを忘れたわけでもないだろう。原訳の「何か新しい考えがうかんだために、肝心のことを一瞬忘れてしまったかのようだった」という訳が事態を完璧に表現しているのではないかと思う。/「物思いにふけりはじめたようで」における「ふけり」という言葉にも違和感をおぼえる。「ふける」というと、「耽溺」という言葉がそうであるように、当人の意思が入った行動のように感じられるので、ここでは相応しくないのではないだろうか。/また、「柩が持ち上げられ」の「持ち上げられ」については、前のp48の場合と同じく、「担ぐ」という言葉がないために正確な描写になっていないと思う。


新訳 p50  スネギリョフが両手に花をたずさえたまま、口を開けた墓穴のほうへ低く身をかがめたので、少年たちは驚いて彼の外套をつかみ、うしろに引きもどした。

原訳 下・p488  スネギリョフは両手に花をかかえたまま、口を開けている墓穴の上へ思いきり身を乗りだしたため、少年たちがぎょっとして彼の外套をつかみ、うしろに引きもどしたほどだった。

小沼訳 Ⅲ・p438  例の花を手に握ったまま、スネギリョフが墓穴の上に身を乗りだすようにしてのぞきこもうとしたので、少年たちが驚いて、彼の外套をつかんで引き戻した。

江川訳 p851  スネギリョフが両手で花を抱えたまま、口を開けている墓穴の上へあまり身を乗り出すので、少年たちがぎょっとなって彼の外套をつかみ、後ろへ引き戻したほどだった。

感想  「墓穴のほうへ低く身をかがめた」という訳文も、これだけでは、少年たちがスネギリョフの動作になぜ「驚いて彼の外套をつかみ、うしろに引きもどした」のか、一読していてすっきり理解できない。


新訳 p54  少年たちにつづいて、アリョーシャも最後に部屋を出た。「思うぞんぶん泣けばいいんです」と、彼はコーリャに言った。「こうなると、もう慰めようがありませんからね。しばらくここで待って、それからなかに入りましょう」
「そう。慰めようがない。ほんとうにおそろしい」コーリャも同意した。
「カラマーゾフさん」コーリャはだれにも聞かれないよう急に声をひそめた。
「ぼく、とても悲しくて。もし、イリューシャを生き返らせることができるんなら、この世のなにもかも投げ出してやるのに!」
ええ、同感です」とアリョーシャが言った。

原訳 下・p488  コーリャが部屋をとびだし、少年たちもあとにつづいた。最後にアリョーシャも出た。「気のすむまで泣かせておきましょう」彼はコーリャに言った。「こんなときには、もちろん、慰めることなどできませんからね。しばらく待って、戻りましょう」
「ええ、むりですね、悲惨だな」コーリャが相槌を打った。「あのね、カラマーゾフさん」ふいに彼は、だれにも聞かれぬように声を低くした。
「僕はとても悲しいんです。あの子を生き返らせることさえできるんなら、この世のあらゆるものを捧げてもいいほどです!」
ああ、僕だって同じ気持ですよ」アリョーシャは言った。

小沼訳 Ⅲ・p441  (略) 「あのねえ、カラマーゾフ」と彼は誰にも聞かれないように、急に声を低めた。「僕はとっても悲しいんです。もしもあいつを生き返らすことができさえすれば、僕はこの世のありとあらゆるものを投げだしてもいんだがなあ!」
ああ、僕だってそうですよ」とアリョーシャは言った。

江川訳 p853  (略) 「ねえ、カラマーゾフさん」彼は、だれにも聞えないように、ふいに声を落した。「ぼくはとても悲しいんです。あの子を生き返らせられるんだったら、この世のあらゆるものを投げだしてもいいくらいの気持です!」
ああ、ぼくだって同じですよ」アリョーシャは言った。(略)

感想  「この世のなにもかも投げ出してやるのに!」というコーリャの言葉は、コーリャのイリューシャを生き返らせたいという切実な感情の表現としてはいささか粗雑・乱暴なように思えるが、アリョーシャの「ええ、同感です」も、他の訳と比べると一目瞭然、形式的な冷淡な相槌のように感じられる。これまで見てきたアリョーシャの性格・人柄からして、このような場合に、「ええ、同感です」という発言はしないのではないだろうか。


新訳 p54   「カラマーゾフさん、今晩、ここに来たほうがいいでしょうか? だって、大尉はきっとものすごく酔っぱらってますよ」
「たしかに、たくさん飲むかもしれませんね。きみとぼくの二人だけで来ましょう。あの人と、母親とニーノチカの三人と、一時間かそこらいれば十分でしょう。みんなでいちどに押しかけて行ったら、あの人たち、また思い出すでしょうしね」とアリョーシャは忠告した。

原訳 下・p488  「どうでしょう、カラマーゾフさん、僕たち今晩ここへ来たほうがいいでしょうか? だって、あの人はきっと浴びるほどお酒を飲みますよ」
「たぶん飲むでしょうね。きみと二人だけで来ましょう。一時間くらいお母さんとニーノチカの相手をしてあげれば、それで十分ですよ。みんなで一度に来たりすると、また何もかも思いださせてしまうから」アリョーシャが忠告した。

小沼訳 Ⅲ・p441  「あなたはどうお考えです、カラマーゾフ、今晩ここへきたほうがいいでしょうかね? あの人はまた飲むにちがいありませんからね」
「ことによると、飲むかもしれませんね。それじゃ僕たちふたりだけできましょうか。おかあさんとニーノチカのそばに、一時間も一緒にいてやったらそれでいいんじゃないですか。みんなして一度に押しかけてくると、またみんなにイリューシャのことを思いださせることになりますから」とアリョーシャは注意した。

江川訳 p853  「どうでしょう、カラマーゾフさん、ぼくたち、今晩はここへ来たほうがいいんじゃないですか? だって、あの人が飲みつぶちゃうでしょう」
「たぶん、飲むでしょうね。きみと二人だけで来ましょう、それでいいですよ、一時間もいっしょにいて、お母ちゃんとニーノチカの相手をしてあげれば。みなでいっしょに来たりすると、またいろんなことを思い出させてしまうし」アリョーシャが忠告した。

感想  先行訳では、アリョーシャとコーリャが晩にもう一度スネギリョフ家を訪れることにしたのは、イリューシャの母親とニーノチカを慰めるためのように訳されているが、新訳ではスネギリョフも含めた家族全員の相手をするための訪問のように訳されている。これも気になったが、それよりもさらに気になったのは、新訳の「一時間かそこらいれば十分でしょう」という会話の「いれば」という言葉である。もしこれが、「一緒にいれば」とか「いてやれば」などであったならすぐに意味が分かると思うのだが、「いれば」では、ごく単純な内容のことであるにもかかわらず、その意味するところが読んですぐには察知しにくい。これまでの感想で述べてきたことだが、新訳にはこのような例が随所に見られる。


新訳 p55  「でも、なにもかも変ですよね。カラマーゾフさん、こんな悲しいときに、いきなりクレープなんかが出るなんて、ぼくたちの宗教からすると、なにもかも不自然ではありませんか!」
「スモーク・サーモンも出るんだって!」大きな声で《トロイの建設者》が言った。
「カルタショフ君、きみ、まじめにお願いするけど、そういうばかな冗談言って話の邪魔しないでくれ。べつにきみとしゃべってるわけじゃないし、きみがこの世にいるかどうかなんてこっちはとくに知る気もないんだからね!」コーリャは腹立たしげに少年のほうをふり向いて、話を断ち切った。相手の少年は顔をぱっと赤くしたが、口答えする勇気はなかった。

原訳 下・p491  「なんだか変ですよね。カラマーゾフさん、こんなに悲しいときに、突然ホットケーキか何かが出てくるなんて。わが国の宗教だとすべてが実に不自然なんだ!」
「鮭の燻製も出るんだって」トロイの建設者を見つけた少年が、突然、大声ですっぱぬいた。
「僕はまじめに頼むけどね。カルタショフ、ばかみたいな話で口出ししないでくれよ。特に君と話してんでもなけりゃ、君がこの世にいるかどうかさえ知りたくもないような場合には、なおさらのことさ」コーリャがその方を向いて苛立たしげにきめつけた。少年は真っ赤になったが、何一つ口答えする勇気はなかった。

小沼訳 Ⅲ・p441  「だけどおかしいじゃないですか、カラマーゾフ、こんな悲しいときに、なんの関係もないパン・ケーキかなんかをだすなんて、われわれの宗教からすると、実に不自然なことですねえ!」
「あすこじゃ鮭も出すんですって」とトロイの建設者を知っていた少年が、不意に大きな声で口を入れた。
「僕はまじめに君にお願いしますがね、カルタショフ、もうそんな馬鹿なことを言ってくちばしを突っ込むのはやめにしていただきたいもんですね。君と話をしているのでもなければ、君がこの世にいるかどうかさえ知りたくないような場合にはなおさらのことだよ」とコーリャは彼の方を向いて腹立たしげに叩きつけた。少年は思わずかっとなったが、口答えひとつする勇気もでなかった。

江川訳 p854  「でも、ずいぶん変な話ですね、カラマーゾフさん、こんな悲しいときに、突然プリン(ホットケーキふうの薄焼きの菓子)が出てくるなんて、わが国の宗教っていうのは実に不自然なんだな!」
「あそこじゃ鮭(燻製)も出るんですよ」トロイを発見した少年が、突然大声でいった。
「まじめなお願いだけれどね、カルタショフ、そういうばかげた口出しはしないでくれないかな。とくに、きみと話しているわけでもなければ、だいたいきみがこの世にいるかどうかも気にしていないときにはね」コーリャがいら立たしげに少年をさえぎった。少年はとたんにまっ赤になったが、何も言い返す勇気はなかった。

感想  新訳の「ぼくたちの宗教からすると」、小沼訳の「われわれの宗教からすると」という訳文では、葬儀の直後にお菓子なんぞがでることはロシアの宗教とは相容れない不自然な風習・伝統であると、宗教ではなく、お菓子をだすような風習について批判しているように読める。でも、宗教を初めとしたロシアの現状の何もかもに批判的な哲学少年であるコーリャを知っている読者には、原訳、江川訳の「わが国の宗教だとすべてが実に不自然なんだ!」「わが国の宗教っていうのは実に不自然なんだな!」のほうが適切な訳ではないかと思えるのだが┄。/「ばかな冗談言って話の邪魔しないでくれ」という訳の「冗談」だが、カルタショフは冗談を言ったつもりは毛頭ないはずだし、コーリャもそのように受けとめたわけではないだろう。したがって、「冗談」ではなく、普通に「話」としたほうがよかったのではないだろうか。/それから、「きみがこの世にいるかどうかなんてこっちはとくに知る気もないんだからね!」という訳文だが、先行訳をみると、この時のコーリャの発言は、「今・この時」に限定された、この場かぎりでのカルタショフに対する心境であり発言だと察せられるので、新訳にもそのことを明確に示す工夫をして欲しかった。


新訳 p56  少年たちの一行は、小道を静かにのろのろと歩いていたが、スムーロフがいきなり叫び声をあげた。
「あっ、イリューシャの石だ、あの石の下に葬ってって、言ってたんですよ!」
 アリョーシャはその石を見た。かつてスネギリョフが、イリューシャについて話をしたときの光景が、まざまざと目に浮かんできた。泣きながら、父親に抱きついて、
パパ、パパ、あのときはほんとうにひどい目にあったね!」と叫んだ話である。アリョーシャの記憶に、そのときの光景が一気に浮かびあがった。なにかが、彼の心のなかで、ぐらりとはげしく揺れたような気がした。彼は真剣な、いかめしい顔をして、イリューシャの友だちである生徒たちの、愛らしい明るい顔をぐるりと見渡し、ふいに話しはじめた。

原訳 下・p492  その間にも一同は小道を静かに歩いていったが、突然スムーロフが叫んだ。
「あれがイリューシャの石です。あの石の下に葬りたいと言ってたんですよ!」
 みなは無言で大きな石のそばに立ちどまった。アリョーシャは石を見つめた。すると、イリューシェチカが泣きながら父に抱きついて、「パパ、パパ、あいつはパパにひどい恥をかかせたんだね!」と叫んだという話を、いつぞやスネギリョフからきかされたときの光景が、一時に記憶によみがえってきた。胸の中で何かが打ちふるえたかのようだった。彼は真剣な、重々しい様子で、イリューシャの友だちである中学生たちの明るいかわいい顔を見渡し、だしぬけに言った。

小沼訳 Ⅲ・p442  いつの間にかぶらぶらと静かに小径を歩いていた。突然スムーロフが叫んだ――
「ほら、イリューシャの石だ、この石の下に葬りたいって言ったんですよ!」
 一同は無言のまま、その大きな石のそばで立ちどまった。アリョーシャはその石を見た。するといつかスネギリョフが物語ってくれたイリューシェチカの話――イリューシャが泣きながら父親に抱きついて『パパ、パパ、あの男はパパをなんとひどい目にあわせたんでしょう!」と叫んだという、そのときの光景が、一度にぱっと彼の記憶によみがえった。彼の胸のなかでなにかが急に動いたような気がした。彼はまじめな、厳粛な顔をして、イリューシャの友達の学生たちの、可愛らしい、明るい顔をぐるりと見まわした。そして彼は不意に言った。

江川訳 p854  そうこうするうちにも、一同はゆっくりと小道を歩いて行ったが、とつぜんスムーロフが叫んだ。
「これがイリューシャの石ですよ、この下に葬りたいと言っていたんです!」
 大きな石の傍らで、みなは無言のまま足を止めた。アリョーシャは石を眺めやった。するととっさに彼の記憶に、いつかスネギリョフが話してくれた情景が、まざまざとよみがえってきた。イリューシェチカはあのとき、泣きながら父親にかじりついて、「お父ちゃん、お父ちゃん、あいつはお父ちゃんになんという恥をかかせたんだろうねえ!」と叫んだのだ。彼の魂の底で何かがはげしく打ち震えたかのようだった。彼はまじめな、重々しい顔つきで、イリューシャの友だちである中学生たちの、愛らしい、明るい顔を見渡し、だしぬけにこう言った。

感想  イリューシャは確かに、自分が死んだらあの石の下に葬ってほしい、と言っていた。でも、作品を読むかぎり、その言葉を聞いたのは、父親を初めとした家族のほかは、アリョーシャとコーリャだけだったはずで、葬儀を了えたこの時「あっ、イリューシャの石だ……」と叫んだスムーロフがイリューシャのその言葉を直接聞いたことがあるかどうかはっきりしない。だが父親はその日じゅうずっと教会の墓地ではなく、イリューシャの願いどおりに石の下に葬ると言い張っていたのだから、みんなの頭にはそのことがふかく印象付けられていたはずで、スムーロフの叫びも「あの石の下に葬ってって、言ってたんですよ!」とかつてのイリューシャの言葉を伝えたというよりは、その日の父親スネギリョフの言葉を指して、「あの石の下に葬りたいって、言ってたんですよ!」と述べたと考えるほうが自然ではないかという気がする。/新訳の「パパ、パパ、あのときはほんとうにひどい目にあったね!」という表現については、以前にも述べたことだが、イリューシャの傷つけられ苦痛にみちた心情が正確に表現されるためには、先行訳の「パパ、パパ、あいつはパパにひどい恥をかかせたんだね!」「あの男はパパをなんとひどい目にあわせたんでしょう!」「あいつはお父ちゃんになんという恥をかかせたんだろうねえ!」などのように、父親が特定の誰かにひどい恥をかかされたということが明確である必要があると思うので、先行訳のほうが断然適切な訳だと思う。


新訳 p57  覚えてるでしょう? あの子に以前、あの橋のたもとで石をぶつけられたことがあるけど、あの子はそのあと、みんなからあんなに愛されるようになりました。立派な少年でした。正直で、勇敢な少年でした。父親の名誉と、父親に対するひどい仕打ちを感じて、そのために憤然と立ち上がったのです。ですから、第一にぼくらは、死ぬまで彼のことを忘れないようにしましょう。

原訳 下・p492   その少年はかつては、おぼえているでしょう? あの橋のたもとで石をぶつけられていたのに、そのあとみんなにこれほど愛されたのです。立派な少年でした。親切で勇敢な少年でした。父親の名誉とつらい侮辱を感じとって、そのために立ちあがったのです。だから、まず第一に、彼のことを一生忘れぬようにしましょう。

小沼訳 Ⅲ・p443  この少年はあの橋のところで、覚えてるでしょう? 前にはみんなに石をぶつけられたけれども、あとではみんなにこんなに愛されるようになりました。彼は立派な少年でした。善良で、勇敢な少年でした。彼は父親の名誉と、父親にくわえられたいたましい侮辱をその身に強く感じて、それを守るために立ちあがったのです。ですから、まず第一に、みなさん、一生涯、彼のことを覚えていることにしましょう。

江川訳 p854  この少年は以前はみなに石を投げられた少年でした。憶えているでしょう あの橋のたもとの出来事を? ――ところがその後では、みなにこんなにも愛されたんです。彼は立派な少年でした。善良な、勇敢な少年でした。父親の名誉と理不尽な辱しめとを心で感じとって、その恥辱をそそぐために立ちあがったのです。ですから、第一に、みなさん、ぼくたちの生涯を通じて彼のことを記憶していようじゃありませんか。

感想  まず、新訳の「あの子に以前、あの橋のたもとで石をぶつけられたことがある」という箇所だが、ここではアリョーシャ(もしかすると他の少年たちも?)がイリューシャから石をぶつけられたということになっているのだが、先行訳をみると、逆に、イリューシャが他の少年たちから石をぶつけられたということになっている。文脈をみると、先行訳のほうが適切なように思われる。/次の「父親に対するひどい仕打ちを感じて」という新訳の表現は、イリューシャが父親に加えられたひどい仕打ちを「どのように」感じとったかについて一切触れていないのでひどく舌足らずな訳文のように感じる。/最後に、新訳の「死ぬまで」という表現についてだが、この場合は文脈上、これまでほどの違和感はおぼえなかった(慣れたのかも知れない)が、ただ、先行訳のようにごく普通の言い方である「一生」とか「生涯」と訳したほうが『カラマーゾフの兄弟』という作品には相応しいとは思う。


新訳 p60   さっきコーリャ君は、カルタショフ君に向かって、『きみがこの世にいるかどうか』、そんなことは知る気もないって言いました。でも、カルタショフ君がこの世に生きていること、その彼が、トロイの建設者がだれか答えたときみたいに顔を赤らめず、美しい、善良な、ほがらかな目で、今このぼくを見つめていることを、どうして忘れることができるでしょう。

原訳 下・p494~495  さっきコーリャがカルタショフに、『彼がこの世にいるかどうか』を知りたいとも思わないみたいなことを言いましたね。でも、この世にカルタショフの存在していることや、彼が今、かつてトロイの創設者を見つけたときのように顔を赤らめたりせず、すばらしい善良な、快活な目で僕を見つめていることを、はたして僕が忘れたりできるでしょうか? 

小沼訳 Ⅲ・p445  さっきコーリャはカルタショフに、僕たちは『彼がこの世にいるかどうか?』知りたくもないとか言いました。しかしカルタショフがこの世にいることを、それからもういまでは、あのトロイのことを言ったときのように顔をあからめもしないで、すばらしい、善良な、明るい眼つきで僕を見つめていることなどが、いったい忘れられるものでしょうか。

江川訳 p856  さっきコーリャがカルタショフに、『きみがこの世にいるかどうかも』知りたくないなんて言いましたね。でも果たしてぼくに忘れたりできるでしょうか、カルタショフがこの世にいることを、そしていまそのカルタショフが、もうトロイを発見したときのように赤くもならず、あのすばらしく善良な、はればれとした目でぼくを見つめていることを。

感想  「きみ」「彼」という、翻訳者による言い方の違いが気になったので下線を付してみた。カルタショフについて新訳と江川訳は「きみ」とし、原訳と小沼訳は「彼」としている。原文がどうなっているのか気になるところだが、「きみが」というのではなく、「彼が」という第三者を指す表現は、アリョーシャのコーリャとカルタショフに対するきめ細かな配慮かな、とも思ったが、他の何らかの意味があるのだろうか?



以上で亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の感想は終わりである。上記のような形で書いたのは、他でもない、これは翻訳についての感想ではあるが、作品がドストエフスキーの作品である以上、間接的にドストエフスキーについて述べることにもなるのだが、難しくて、これ以外の方法による書き方は力不足でできそうになかったからだった。

私が亀山郁夫氏の名前をはっきり認識したのは今から2、3年前のことで、亀山氏が雑誌『文學界』(2006年8月号)において佐藤優氏の著書『自壊する帝国』を評した「類稀な「人間力」を見せつける凄まじい一冊」と題された文章を読んだ時だった。この一文は、こちらのブログが掲載しているのを偶然読ませてもらったのだが、筆者の亀山氏は、この本を以下のように絶賛していた。

「どれほど混沌とした時代にも、一つの状況、ひとつの現象を作り出してしまう天才がいる。そうした天才の類稀な「人間力」を見せつける凄まじい一冊、それが『自壊する帝国』である」「グロテスクな拝金主義と弱肉強食の「哲学」が跋扈する現代の日本で、これほど没私的に行動する人間を法の裁きにかける力とは、時代とは、何なのか。「本源的な力」を失った日本の、佐藤優に対する「冷笑」をこそ恐れるべきではないのか。」

この時私は亀山氏についてほとんど何も知らなかったのだが、ただメディア情報によって、この人が今『カラマーゾフの兄弟』の新訳を手がけている翻訳者だということは何となくうっすら知っていた。上の文章を読んで、私は一方では「ああ、またしても佐藤氏の崇拝者 出現?」とごく普通に(?)呆れてもいたが、一方、心の奥で大変驚いてもいた。「このようなことを述べる人がドストエフスキーの小説を翻訳するの? それも『カラマーゾフの兄弟』を?…」と思ったのだった。上の文章のなかでなるほどこれは佐藤優氏に対する評価として正解かも知れないと思えたのは、佐藤氏は確かに「拝金主義」ではないかも知れないということくらいだった。それにしても、亀山氏の文章を読んだ時、私はその批評対象である『自壊する帝国』を未読だったのに、「天才の類稀な「人間力」」とか「没私的に行動する人間」というような佐藤氏に対する絶賛文を読んだだけでドストエフスキーの作品の翻訳に携わる人としての亀山氏につよい疑いをおぼえたのだから、佐藤優氏の言説内容(追記-というよりむしろ、佐藤氏を久方ぶりに出現した稀にみる思想家のごとく持ち上げ、喧伝する言論・出版界)に対する当時の自分の不信がどんなにつよかったかということが分かる。

その次に読んだ亀山氏の文章は、今となっては順序が不確かなのだが、多分、佐藤優氏との共著である『ロシア 闇と魂の国家』(文春文庫2008年4月刊)という本ではなかったかと思う。ドストエフスキーについても二人の間であれこれ話し合われているのだが、それを読んで、私はこれが『カラマーゾフの兄弟』についての会話なのだろうか? と索漠たる思いがしたことをよくおぼえている。佐藤氏などは、アリョーシャについて「……ぼくはアリョーシャが自殺するようなことはないとみています。アリョーシャは、自殺などしない、もっと本格的な悪党だと思います。」などと、佐藤氏は大抵そのような調子 ではあるのだが、なんの根拠も述べずにアリョーシャを「悪党」呼ばわりしていた。

前に書いた文章のなかで私は過去に『カラマーゾフの兄弟』を翻訳した先行者について、「錚々たる過去の翻訳者たち」云々と書いた。これはある種の権威を前提にしたような言い方のようにもみえかねず、あまりいい表現ではないとその時もちょっと思ったのだが、言いたかったことは、現在とは比較にも何もならないほどに作品を読む力をもっていたことはまちがいないと思われる70年代頃までの読者の厳しい目にそれらの翻訳作品は耐えることができた、その事実が確固として存在するということだった。ここ1年の間に、私は小沼、原、江川各氏の訳本を一通り読んでみたが、亀山氏の翻訳が先行訳を前にすると、どのような面から見ようとも次元が異なって拙劣であることは、私のようなごく一般的な読者にとってもあまりにも明白であったと言うしかない。ほとんどページを繰る毎に読者に違和感や疑問をおぼえさせ、熟読を苦痛にさせるような翻訳が甚だ拙いことは誰でも認めないわけにはいかないだろうと思う。

追記-『カラマーゾフの兄弟』の翻訳問題について関心をお持ちの方には、下記のサイトを自信満々で推奨します。ぜひご欄になってみてください。
 木下豊房氏のサイト 
 こころなきみにも
 連絡船



2009.11.04 Wed l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』第5巻は、後半部の「ドストエフスキーの生涯」や「年譜」「改題」などの文章(もちろんすべて亀山氏執筆)が大半を占め、本文(エピローグ)は実質60ページ足らずである。だから、この巻だけは全文を丁寧に読み通そうとつとめてみた。これまでに感想を記した第2巻、第4巻は、少年たちをめぐる物語をのぞいて、他は実のところ精読したとはとても言えない。主な理由は集中・没頭するのが難しかったためだが、今回、第5巻を行きつ戻りつして丁寧に読んでみて、改めてこの訳本の問題が深刻であることを痛感した。ほとんど1、2ページごとに、いやそれ以上の頻度で違和感や疑問をもつことになってしまったのだ。このような事態は決して一翻訳者の問題ににとどまるものではない。ともあれ、そういうことで思わぬ長文になってしまったため(読んでいて疑問を感じる箇所はもっとあったのだが、指摘のしかたが困難なためにこれでも相当数削除した)、2回に分けて載せることにした。それにしては、我ながら単純な感想しか書けていないのだが、一読者の率直な感想と意見の表明として読んでいただければと思う。


『カラマーゾフの兄弟 5』  (第12刷)

   エピローグ 1  ミーチャの脱走計画


「エピローグ1」は、判決から五日目の朝、アリョーシャがカテリーナの家を訪ね、ミーチャの脱走計画やその計画を立てたイワンについてなど、二人の間にさまざまな会話が交わされる場面である。

新訳 p8  隣の別室では、幻覚症をわずらっているイワンが、意識不明のまま横になっていた。

原訳 下・p459  隣の部屋には、譫妄症になったイワンが意識不明で寝ていた。

小沼訳 Ⅲ・p413  すぐ隣りの部屋には気が変になって意識を失ったままのイワン・フョードロヴィッチが横になっていた。

江川訳 p835 すぐ隣室には、譫妄症のイワンが人事不省のまま横になっていた。

感想  新訳の「幻覚症をわずらっているイワン」という文の「わずらっている」という表現に、何かしら悠長な感じ、場違いな印象をもった。急激に病んで意識不明になった重病人についての叙述というより、長患いのやや安定感のある病人についての文のような感じがしたのだった。ほんの少しの表現の違いなのに、結果的に大きな差を生むことが、先行訳を見ると分かるように思う。


新訳 p8  カテリーナは、公判での例の騒ぎのあとただちに、意識を失った病気のイワンを自宅に移すよう手配した。社交界でこれからかならず起こる人の非難を無視したのである。

原訳 下・p459  あの日、法廷での騒動のあとすぐに、カテリーナは、将来必ず起るにきまっている世間のあらゆる噂や当人の非難を無視して、イワンを自分の家に移すよう命じたのだった。

小沼訳 Ⅲ・p413  カテリーナ・イワーノヴナはあの公判のすぐあとで、将来かならず起こるにちがいない世間の噂や非難をまったく無視して、発病して意識を失ったイワン・フョードロヴィッチを自分の家へ運ばせたのである。

江川訳 p835  カチェリーナは、あの公判での一幕のすぐあと、将来まちがいなく社交界でかげ口をきかれ、非難を受けることを承知のうえで、意識不明のイワンを自分の家に移すように命じたのだった。

感想  たしかに世間の非難は起こると思われるが、それでもイワンを自宅に移した時点においては非難はまだ起きていないのだから、新訳の「これからかならず起こる人の非難」というような断定の仕方は読んでいて拙いと感じる。「起こるはずの人の非難」とか「起こるにちがいない人の非難」というような訳文のほうが、読者としては安心感、信頼感をもって読みすすめることができるように思う。


新訳 p9  カテリーナは青ざめ、ひどく憔悴している様子だったが、同時に、病的といえるほどはげしく神経を高ぶらせていた。彼女は、アリョーシャがなぜいま、ほかをさしおいて自分のところにやってきたのか察していた。

原訳 下・p460  カテリーナは青ざめてひどく疲れた様子だったが、同時に極端なほど病的に神経をたかぶらせていた。なぜ今アリョーシャがさりげない様子で訪ねてきたかを、予感していたのである。

小沼訳 Ⅲ・p413  カテリーナ・イワーノヴナはあおい顔をして、ひどく疲れていたが、同時に強い病的な興奮を感じていた。しかしこの朝なんのためにアリョーシャがわざわざ訪ねてきたか、彼女にはちゃんと察しがついていたのである。

江川訳 p835  カチェリーナは青白い顔をして、ひどく疲れた様子だったが、同時に病的なくらいはげしく興奮していた。アリョーシャがいま何のために訪ねて来たのか、うすうす察しがついていたこともある。

感想  新訳の「ほかをさしおいて」の「ほか」が何を指すのか、読んでいて分からない。確かにアリョーシャは「この朝、別の場所にのっぴきならぬ用事をかかえていたため、急ぐ必要があった」(原訳)ということではあるが、でも新訳が「アリョーシャがなぜいま、ほかをさしおいて自分のところにやってきたのか察していた」というカテリーナは、アリョーシャが「のっぴきならぬ用事をかかえていた」ことを知らないはずである。そもそも、先行訳には「ほかをさしおいて」という趣旨の叙述はない。先行訳と新訳の翻訳者とは原文の語句の意味を違えて読み取っているかのようである。


新訳 p10  囚人の一団がシベリアに送られるここから三番目の中継監獄で、十中八、九起こるはずです。そう、それまでにまだいろいろとありますわね。

原訳 下・p460  流刑囚の一隊がシベリヤへ護送されるときに、ほとんど確実なところ、ここから三つ目の中継収容所で行われるはずですわ。ええ、まだだいぶ先の話ですわね。

小沼訳 Ⅲ・p414  みんなと一緒にシベリヤへ護送されるとき、おそらく、ここから三つ目の駅で脱走させることになるでしょうよ。ええ、まだずっと先のことですけれど。

江川訳 p835  囚人の一隊がシベリアへ護送されるときに、まずまちがいなく、ここから三つ目の仲継監獄で決行の予定なんです。ああ、それはまだ先の話ですわ。

感想  自分たちで主体的に「脱走を決行する」わけだから、「起こる」より、「起こす」のほうが訳として適切ではないだろうか。また、「まだいろいろとありますわね」という訳文は読んでいて意味不明である。先行訳では「それはまだ先のこと」というように、この箇所は、脱走の決行までに「まだ時間がある」「時間的にまだ余裕がある」というような意味合いで訳されていて、新訳の「いろいろと」とはずいぶん異なっている。


新訳 p11  あの淫売のせいであのとき癇癪を起こしたんです。ほかでもありません、あの女がドミトリーといっしょに国外に逃げるということに対してです!

原訳 下・p461  その時はあたくし、あの売女のことでかっとなったんですわ、つまり、あの女までドミートリイといっしょに国外へ逃げるってことに対してです!

小沼訳 Ⅲ・p415  あのとき 腹を立てたのは、その商売女のことですけれど。つまり、あの女までがドミトリイ・フョードログィッチと一緒に外国へ逃げるというのが癖にさわったんですわ!

江川訳 p836  わたしがかっとなったのは、あの売女、あの売女のことでですわ、だって、あの女までが、ドミートリイさんといっしょに外国へ逃げるだなんて!

感想  国外に逃げる主体はあくまでも、有罪判決をうけ、今や流刑が確定したミーチャなのだから、「あの女」とするのではなく、先行訳のように「あの女までもが」と訳したほうが自然であり、的確な訳なのではないかと思った。


新訳 p11  つらかったんですもの。あれだけの人が、まだ昔の恋のことでわたしを疑ったりするってことが……で そのときなんですよそれよりもだいぶ以前に、ドミートリーさんなんか愛していない、愛しているのはあなただけって言ったのは! わたしが憎しみのあまり癇癪を起こしたのは、ただあの淫売に対してだけって

原訳 下・p461  だって、あれほどの人が、あの男へのあたくしの愛情が今までと変らないと疑ったりするなんて、つらかったんですもの……しかも、そのずっと以前に、あたくしは自分ではっきり、ドミートリイなぞ愛していない、愛しているのはあなただけだって、あの方に言ったというのに! あたくしはただ、あの売女に対する憎しみから、あの方に腹を立てただけなんです

小沼訳 Ⅲ・p413  (略) しかも、そのずっと前に、わたしはドミトリイなんか愛していない、愛しているのはあなたひとりだけだって、はっきりとあの人に告白したんですもの! わたしはただあの商売女に対する憎しみのために、あの人に向っ腹を立ててしまったんですわ

江川訳 p835  (略) それも、どうでしょう、わたしはもうそのずっと前に、自分の口からはっきりと、わたしはドミートリイさんなんか愛していない、わたしの愛しているのはあなた一人だけだって、あの人に言い切っていたんですものね!/わたしがあの人にかっとなったのは、あの売女に対する憎しみからだけだったんです

感想  新訳のこの文章は、何度読んでも意味を読み取ることができなかった。まず、「そのときなんですよ」の「そのとき」がいつのことを指しているのか分からないのだ。これまで木下豊房氏のサイトや「連絡船」で何度も指摘されてきたことだが、もしかすると、ここでも時系列の把握に関する問題が顔をのぞかせているのかも知れない。簡単に時系列を記すと、下記のようになる。ただし、「日付」以外の出来事および事実関係の記述はすべて、カテリーナがアリョーシャに打ち明け、話してきかせた内容に拠る。

本 日   朝9時前、アリョーシャがカテリーナを訪問

5日前   判決公判日

その前日  公判前日。 イワンはカテリーナを訪問し、彼女に詳細なイワンの脱走計画書を預ける。その話し合いの最中、その3日前から二人の間にくすぶり続けていた喧嘩が再度始まった。イワンが帰りかけたところをアリョーシャが訪ねる。その時イワンはもう階段を下りかけていたが、カテリーナから呼び戻され、アリョーシャと共にもう一度家に入る。

上の3日前。 これは、公判の4日前のことになる。イワンは、ミーチャが有罪になった場合に備え、彼を国外に脱走させるための計画の要点をカテリーナに打ち明ける。その話のなかで、イワンがミーチャの脱走にはグルーシェニカも同行させると述べたのでカテリーナは思わずかっとなり、腹を立てる。イワンはそれを見て、カテリーナがこんなに立腹するのは、ミーチャへの絶ちがたい愛情ゆえのグルーシェニカに対する嫉妬だと疑った。少なくともカテリーナにはイワンの態度はそのように見えたのだが、しかし、こういう疑いはカテリーナにとっては非常につらく情けないことであった。というのも、そのずっと前 カテリーナはイワンにはっきりと、「わたしはドミートリイさんなんか愛していない、わたしの愛しているのはあなた一人だけ」と言い切っていたのだ。

以上、時系列を見てみたが、「そのときなんですよ、それよりもだいぶ以前に、ドミートリーさんなんか愛していない、愛しているのはあなただけって言ったのは! わたしが憎しみのあまり癇癪を起こしたのは、ただあの淫売に対してだけって!」という新訳におけるカテリーナの発言の内容はやはり意味不明で、この訳文から正確な文意を読み取ることは至難の技だと思える。


新訳 p12  (注:イワンは)その場で、わたしのところにお金を置いていきました。1万ルーブルぐらいありましたわ……ほら、これがそうです。検事がだれからか、あの人がこのお金をつくるために債券を送ったことを聞き込んで、論告のなかで言及したお金です

原訳 下・p462  そのときにお金を、1万ルーブル近く、あたくしに預けたんです。あの方が現金に換えたのを検事がだれかから聞きこんで、論告の中で言及した、あのお金ですわ

小沼訳 Ⅲ・p415  その場でわたしのところに、1万ループリほどのお金をおいて行ったんですの。そのお金のことを、検事は誰かから、あの人がお金を替えにやったことを聞きこんで、論告のときに言いだしたのですわ

江川訳 p836  で、すぐその場で、1万ループリ近くのお金を預けていかれたんです、―― ほら、検事が現金に換えたのをだれかから聞き込んで、論告の中で持ち出したあのお金ですわ

感想  新訳は、「ほら、これがそうです」と、あたかもその場に1万ルーブルがあるかのように叙述しているが、先行訳にはそのような場面は描かれていない。カテリーナがアリョーシャに「もしかしたら明日、(略)詳細にわたる計画の全貌をお目にかけますわ」(原訳)と述べているところを見ると、今のところアリョーシャは「脱走計画書」も見せられていないようであり、このような筋の展開からしても、「ほら、これがそうです」、「このお金」というように、その場における1万ルーブルの存在を明示しているかのような亀山訳は疑問である。


新訳 p13  わたし、敬虔な気持ちにかられて、思わずあの方の足元にひれ伏しそうになったんですが、そこでふと思ったんですよ。そんなことしたら、あの人、ミーチャが救出されることをわたしが喜んでいると考えるだろうって (あの人ならぜったいにそう考えるはずです!)。で、あの人がそんなおかしな考えを抱くかもしれないと思ったら、それだけでもうすごくいらだって、腹を立ててしまったの。で、あの人の足元にキスをするどころか、またしてもひと悶着を起こしてしまったってわけなんです!
 そう、わたしってほんとうにだめな女なんです! わたしの性格って、こうなんです。恐ろしくだめな性格! ああ、あなた、見ていてくださいね。わたしがあんまりやりすぎるから、あの人もわたしを捨ててほかの人に乗り換えるんですわ、ドミートリーと同じように、もっと気楽にやっていける人にね。でも、そうなったら……いいえ、そうなったらわたし、耐えられなくなって死んでしまいます

原訳 下・p462  あたくし敬虔な気持であの方の足もとにひれ伏そうとしかけたんですけれど、でも、ミーチャを救えるのをあたくしが喜んでいるとしか受けとってくれないだろうと思うと(きっとそう思うにきまってますもの!)、あの方がそんな間違った考えをいだくかもしれぬという、そのことだけでひどく苛立って、また癇癪を起してしまったものですから、あの方の足に接吻する代りに、またぞろあんな一幕を演じてしまったんですわ! ああ、あたくしって不幸な女! そういう性格なんです、とってもいやな、不幸な性格ですわ! ええ、見ていてごらんなさい、あたくしってこんなふうにしていて結局、もっと気楽につきあえるほかの女のためにあの方も、ドミートリイと同じように、あたくしを棄てるような羽目にしてしまうんです、でもそのときは……そう、そうなったら、もう堪えられませんわ、あたくし自殺します

小沼訳 Ⅲ・p416   (略) ええ、まあ見ててごらんなさい、わたしはこんなことをやって、結局はあの人にすてられてしまうんですわ。あの人もドミトリイみたいに、もっと楽な気持で暮らせる女にわたしを見かえてしまうにちがいありませんわ。でもそうなったら……いいえ、そうなったらわたしにはとても我慢ができません、わたしは自殺してしまいます

江川訳 p837  (略) ええ、見ていてごらんなさい、わたしきっと自分から、自分から仕向けて、最後にはあの人も、ドミートリイと同じように、もっといっしょに暮しやすい女のために、わたしを捨てるようなところへ追い込んでしまいますわ。でも、そうなったら、いえ、そうなったらもうわたしには耐えられません、わたし、自殺します

感想  「わたしがあんまりやりすぎるから」の「やりすぎる」には違和感をおぼえる。カテリーナがここで嘆息しているのは、たとえば原訳の「こんなふうにしていて」のように、自分の性格やそこから発生する言動など、自分自身のあり方そのもののことではないかと思われる。「やりすぎる」という言葉の意味も実は不明確だと思うのだが、それにしてもここでカテリーナが述べているのは「やりすぎる」こととはニュアンスの異なることではないだろうか。それから、「死んでしまいます!」と「自殺します!」とい二つの言葉の意味するところも当然同じではないはずである。「死んでしまいます」という言葉からは、必ずしも自らの手で命を絶つという確固とした意志は感じられないし、もともとその含意もないと思われるが、「自殺します」が、そうでないことは言うまでもないことである。


新訳 p15  彼はその瞬間をおそれ、苦しんでいる相手を許してやりたいと願っていた。それだけに、自分がたずさえてきた頼みごとますます困難なものになった。彼女はまたミーチャの話をはじめた。

原訳 下・p464  だが、彼はその瞬間を恐れ、苦しんでいる彼女を赦してやりたいと望んでいた。それだけに、自分の持ってきた頼みが、いっそうむずかしいものになってきた。彼はまたミーチャのことを話題にした。

小沼訳 Ⅲ・p417  彼はその瞬間がくるのを恐れて、苦しみ悩んでいるこの女性をそっとしておいてやりたいと思った。するとそのためにわざわざやってきた自分の用件を、彼女に伝えることがますます切りだしにくくなってきた。彼はまたミーチャのことを話しだした。

江川訳 p838  しかし彼はそういう瞬間を恐れ、苦しんでいる彼女を宥してやりたいと望んでいたのである。それだけに彼は、自分の持って来た言づけがいっそう切り出しにくくなっていた。彼はまたミーチャのことを話題にした。

感想  新訳はミーチャの話をはじめたのは「彼女」、つまりカテリーナのほうとしているが、文脈からすると、「彼」、アリョーシャである可能性が高いように思われた。


新訳 p17  「今日わたしがあなたをお呼びしたのは、あなたがご自分であの人を説得してくださるっていう約束をしていただくためなんです。それとも、あなたからすると、ここで逃げ出すのは潔くない、男らしくないってことになるのかしら。というか、そう……キリスト教の教えに、もとりませんかしら?」ますます挑戦的な口ぶりでカーチャが言い添えた。

原訳 下・p465  「今日あなたをおよびしたのも、ご自分であの人を説得してみせると約束していただくためにですのよ。それとも、あなたのお考えでは、脱走なんてやはり不正な、ほめられないことでしょうかしら、それとも何というか……キリスト教的ではないことでしょうか?」いっそう挑戦的にカーチャは言い添えた。

小沼訳 Ⅲ・p418  「(略)……つまり、キリスト教的でないものでしょうか、どうでしょう?」と前にもましていどむような調子でカーチャはつけくわえた。

江川訳 p839  「(略)……キリスト教徒にあるまじきことなんでしょうか?」カーチャはいっそう露骨な挑戦の調子でつけ加えた。

感想  「キリスト教の教えに、もとりませんかしら?」という訳だが、「もとる」は「背く」という含意のはずなので、「もとりませんかしら?」ではなく、「もとりますかしら?」でないと、意味が通らないと思われる。


新訳 p18  「兄は、今日あなたに来てほしいと言っているのですが」しっかりと相手の目をにらみながら、彼はふいに口走った。彼女はぎくりとして、ソファの上で彼からかすかに体を引いた。
「わたしに……そんなこと、ほんとうにできるのかしら?」彼女は青ざめ、口ごもるようにつぶやいた。
「できますし、そうすべきなんです!」すっかり元気づいたアリョーシャは、いくらか強引な口ぶりで切り出した。

原訳 下・p465  「兄が今日あなたに来ていただきたいと言っているのですが」突然、しっかり彼女の目を見つめながら、彼は口走った。彼女はびくりと全身をふるわせ、ソファの上でわずかに身をひいた。
 「あたくしに‥‥‥そんなこと、できるはずがないじゃありませんか?」蒼白になって、彼女は舌足らずに言った。
「できますとも、そうなさるべきです!」すっかり元気づいて、アリョーシャは粘り強く言いはじめた。

小沼訳 Ⅲ・p419  「兄がきょうあなたにきていただきたいと言っていました」とじっと彼女の眼を見つめながら、彼は不意に叩きつけるように言った。彼女は思わず全身をふるわせて、長椅子の上のアリョーシャから、からだをかすかにずらすようにした。
「わたしに……そんなことができるかしら?」と彼女は顔を蒼白にしてつぶやいた。(略)

江川訳 p839  「兄はきょうあなたに来ていただきたいと言っているんです」彼女の目をひたと見据えながら、彼は思わずこう口に出した。彼女はぎくりと全身を震わせ、ソファの上で、ほとんどそれとわからぬくらいかすかに身を引いた。
「わたしに……そんなことができるものですか……」蒼白な顔になって、彼女は口の中でつぶやいた。(略)

感想  「しっかりと相手の目をにらみながら」の「にらむ」は、「こわい目つきでじっと見る」という意味のはずだが、文脈から見ても、またアリョーシャの性格からしても、アリョーシャは何もカテリーナをにらんだわけではないだろう。この場面であえてこの「にらむ」という言葉を遣う必要はないようであり、先行訳のように「見つめる」「見据える」などのほうがよかったのではないかと思う。次の「ほんとうにできるのかしら?」という訳文だが、これではミーチャに会いに行くようにというアリョーシャの突然の勧めをカテリーナが即座に内諾し、そのことを前提にして喋っているかのようにひびき、違和感がある。小沼訳も新訳と近いが、それでもさほど抵抗を感じないのは、小沼訳には、「ほんとうに」という新訳の言葉がないからではないかと思う。


新訳 p18  あの日から、兄にはいろんなことが起きてましてね。あなたに対して、数えきれないぐらい罪を犯していることを自覚しているんです。

原訳 下・p465 あの日以来、兄はずいぶん変りました。あなたに対して数えきれぬくらい罪を犯したことを、兄はわかっているのです。

小沼訳 Ⅲ・p419 兄もあの日以来ずいぶん変わりました。あなたに対して数えきれないくらい罪のあることも、いまではよくわきまえています。

江川訳 p839 あの日以来、兄の心には大きな変化が起きました。今の兄は、あなたに対してはかり知れないくらい罪があることを理解しています。

感想  「兄にはいろんなことが起きてましてね」の「いろんなこと」のなかには、あの日(判決の日)以来のミーチャの変化も含められているのかも知れないが、「いろんなこと」の中身の描写や説明が後にも先にも一切ないので、この「いろんなこと」が何を指しているのか読者にはまったく理解がおよばない。先行訳を見ると、そもそも原文に新訳のいう「いろんなことが起きた」という意味のことが書かれているのかどうか疑問に思える。


新訳 p20  アリョーシャの口から、思わず挑戦的な言葉がほとばしった。「兄の手は汚れてませんし、血もついてないんです! これから兄がたえしのぶ、数え切れないぐらいの苦しみに免じて、すぐに兄を見舞ってやってほしいんです! 行ってやってください。闇のなかに旅立っていく兄を見送ってください……敷居の上からでも、せめて……だって、そうしなくちゃいけないでしょう、そうしなくちゃ
「そうしなくちゃ」という言葉を、とほうもない力で強調し、アリョーシャは口を閉じた。
「そうしなくちゃいけない、でも……それができない」カーチャは呻くように言った。(略)
「行かなくちゃだめです、行かなくちゃ」アリョーシャはまた、執拗な調子で言葉に力をこめた。


原訳 下・p467  「兄の手は汚れていません、血に染まってはいないんです! 兄のこれからの数限りない苦悩のために、今こそ見舞ってやってください! 行って、闇の中に兄を送りだしてやってください……戸口に立つだけでいいんです……あなたはそうすべきなんです。そうする義務があるんです!」アリョーシャは信じられぬほどの力で《義務がある》という言葉を強調して、結んだ。
 「行くべきでしょうけれど‥…でも、できませんわ」カーチャが呻くように言った。(略)
「いらっしゃらなければいけません、いらっしゃる義務があるはずです」ふたたびアリョーシャが容赦なく強調した。

小沼訳 Ⅲ・p420  「(略)……あなたには義務があります、そうしなければならない義務がありますよ!」とアリョーシャは『義務があります』という言葉に信じがたいほどの力をこめて言葉を結んだ。
 「義務はあるでしょう……でも……そんなことはできませんわ」とカテリーナ・イワーノヴナはうめくように言った。(略)
「あなたは行かなければなりません、行く義務があります」とまたアリョーシャは有無を言わせぬ調子で言った。

江川訳 p839  「(略)……だってあなたにはそうする義務が、義務があるはずです!」アリョーシャは《義務がある》という言葉に信じられないほどの力をこめて、こう結んだ。
「義務はあります、でも……できないんです」カーチャは呻くような声で言った。(略)
「あなたは行かなければいけません、行く義務があるんです
アリョーシャはもう一度、容赦なくこの言葉に力をこめた。

感想  第4巻の「第11編 兄イワン」における「あなたじゃない」というアリョーシャの言葉をめぐる問題と同じできごとがここでも生じている。上記で見るとおり、先行訳においてはどれも、アリョーシャがカテリーナに向かって「義務がある」という言葉を二度述べたことになっていて、その二度とも「義務がある」もしくは「義務」という箇所に強調のための傍点が振られている(注:当ブログでは傍点のかわりに太字を使用)。しかし新訳では先行訳が使用している「義務がある」という言葉がことごとく「そうしなくちゃ」になっており、また傍点は一つも振られておらず、他にも何ら強調の記しはない。アリョーシャのように温和な性格の、相手が誰であれ人に対する柔軟で配慮の行き届いた理解力をもつ人物が、このように他人に対して「行く義務がある」と、それも非常に強い調子で執拗に繰り返すということは、只事ではない。アリョーシャが述べている「義務」という言葉には、人が自ずと、あるいは他の人との間に負っている責任を果たすことへの強制や命令の気配さえ感じられるように思うのだが、カテリーナもそのことをはっきりと理解しているようである。彼女は、原訳によると「行くべきでしょうけれど……でも、できませんわ」と述べているし、新訳でも「そうしなくちゃいけない、でも……それができない」と発言している。三つの先行訳がすべて「義務」と訳しているのだから、亀山氏もこの「義務」という言葉に気がつかなかったはずはないと思うのだが、もしそうだったなら、なぜわざわざ「義務がある」を「そうしなくちゃ」という言葉に置き換えたのだろうか。原作においては、「あなたじゃない」の場合がそうだったように、おそらく「この義務がある」にも強調のためのたとえばイタリック体などが施されていたのだろうと思われる。そして亀山氏は「あなたじゃない」の場面で原作を無視もしくは歪曲した訳をしたために、ここでもそうせざるをえなかった、そうでないとかえって不自然になるという判断が働いたのではないかという気がするのだが、事実はどうだろうか。しかし「そうしなくちゃ」と「義務がある」とでは、それが言い表しているもの、意味するものが全然別次元のものであることは誰の目にも明らかだと思う。「義務がある」という言葉は、「そうしなくちゃ」などの月並みな言葉とは全然異なり、倫理的な意味を持つ重い言葉のはずである。この訳文は、またしても原作を歪曲していることになるのではないだろうか。



   エピローグ 2 一瞬、嘘が真実になった

新訳 p22  それにしても彼(注:医師のワルヴィンスキー)は気立てのいい、人情味あふれる青年だった。ミーチャのような男にとって、いきなり人殺しや詐欺師の仲間に放り込まれることがどれほどつらいか、何よりもまずこれに慣れなくてはならないと、ワルヴィンスキーは考えたのである

原訳 下・p469  それにしても同情心の厚い善良な青年だった。彼は、ミーチャのような人間にとって、いきなり人殺しや詐欺師の仲間入りするのがどれほどつらいか、それにはまず慣れる必要があることを、理解していたのである

小沼訳 Ⅲ・p421  彼は親切な、情けぶかい青年であった。彼はミーチャのような人間には、とつぜん人殺しや詐欺師の仲間入りをさせられることが辛いものだということがわかっていたので、あらかじめそれに慣れさせようとしたのであった。

江川訳 p840  それにしてもこれは善良な、同情心ゆたかな青年にちがいなかった。彼は、ミーチャのような男にとって、いきなり人殺しや詐偽師たちの仲間入りをするのがどんなにたいへんなことか、その前にまず慣れる必要があることを理解していたのである

感想  新訳では、①ミーチャのような男には、いきなり人殺しや詐欺師の仲間に放り込まれることは大変つらいこと ②まずこれに慣れなくてはならないこと の両方を、医師のワルヴィンスキーはミーチャを診た後に初めて考えたかのように訳されているが、先行訳では、ワルヴィンスキーはその人格のうちにもともとすぐれた理解力を持っていたことがうまく表現されている。そのため、新訳のこの箇所は、先行訳にくらべて奥行きに乏しい文章になっているように思われる。


新訳 p24  「トリフォーンのやつ」ミーチャは心配そうに話しだした。「旗籠屋をすっかりぶっこわしちまったって、床板はずしたり羽目板はがしたり、『回廊』までばらばらに壊したそうだ。ずっと宝探しやってやがるのさ。そうさ、あの金さ、おれがあそこに隠したって検事が言ってた千五百ルーブルだよ。……」

原訳 下・p470  「トリフォーンのやつな」ミーチャがそわそわして言った。「あいつ、自分の宿屋をすっかりぶっこわしちまったそうだ。床板をあげたり、羽目板をはがしたり、《回廊》をばらばらにしたりしたんだとさ。宝探しをやってるんだよ。おれがあそこに隠したなんて検事が言ったもんで、例の千五百ルーブルを探しまわってるのさ。……」

小沼訳 Ⅲ・p422  「トリフォーンのやつが」とミーチャは落ちつきのない調子で言いだした。「ポリースイッチのやつが、自分の旅館をすっかりぶちこわしてしまったそうだ。床板をあげたり、羽目板をひっぺがしたり、にかい『ベランダ』を取りこわして、ばらばらにしちまったそうだよ。(略)」

江川訳 p841  「トリフォーンのやつがさ」ミーチャが落ちつきのない調子で話しだした。「あのポリースイチだよ、あの宿屋をすっかりぶちこわしてしまったそうだぜ。床板をはがす、羽目板をひっぺがす、あの《回廊》ばらばらにししてしまったとさ。(略)」

感想  ミーチャは、トリフォーンがありもしない千五百ドルを手に入れるためにモークロエの自分の旗籠屋をこわしてしまったことについては、ばかばかしいと軽蔑こそしても、心配などはしていないはずである。彼はカテリーナを訪問してきたアリョーシャがどんな話を持ってここにきているのかが気になって仕方がない。それにもかかわらず、その話を避け、看守から聞いたトリフォーンに関する噂話をし始めたのだから、「心配そうに話しだした」という言い方には違和感がある。ここは、やはり「そわそわして」や「落ちつきのない調子で」の訳のほうがしっくりくる。


新訳 p25  「……いいか、イワンはほかのだれよりも抜きん出るぞ。生きていくのはやつで、おれたちじゃない。いずれ元気を取りもどすさ」
考えてください。カーチャはたしかにイワンのことで気をもんでいるのに、あの人が元気になることだけはほとんど疑っていないんです」アリョーシャが言った。

原訳 下・p471  「……なあ、イワンはだれよりも偉くなるぜ。生きていなけりゃいけないのは、あいつだよ、俺たちじゃない。あいつはきっと快くなるとも」
ところがね、カーチャはイワン兄さんの容態が心配でならないくせに、全快することはほとんど疑ってもいないんですよ」アリョーシャが言った。

小沼訳 Ⅲ・p424  「……それはそうと、イワンは誰よりもえらくなる男だよ。生きなけりゃならないのはあの男で、おれたちじゃない。あれの病気はきっとよくなるよ」
だけど、どうでしょう。カーチャは心配で心配でびくびくしているくせに、インワンが全快することだけは、ほとんど疑っていないんですからねえ」とアリョーシャは言った。

江川訳 p842  「……それにしても、イワンはだれよりもえらくなるな。前途があるのはあいつで、おれたちじゃない。あいつは全快するよ」
ところがね。カーチャはイワンのことが心配でならないくせに、全快することはほとんど疑おうともしないんです」

感想  「生きていくのはやつで、おれたちじゃない」という訳文ではまったく意味が通らないと思う。「考えてください」という表現も、「え、なにを?」と言いたくなるほどに唐突に感じたが、先行訳では、ここは「ところがね」とか「だけど、どうでしょう」と割合気軽な感じに訳されていて、こちらのほうが適切ではないかと思う。「気をもんでいる」という訳も、イワンが意識不明の瀕死の病人であり、カーチャがその容態を非常に心配していることは明らかなので、「気をもむ」よりも「非常に心配」という訳のほうがよいのではないのではなかろうか。


新訳 p26  もしも護送中なり、向こうについてから連中に殴られるようなことがあったら、おれは引き下がらないし、やつらを殺して銃殺にでもされる。

原訳 下・p472 もし途中でなり、向こうへ行ってからなり、殴られるようなことがあったら、俺は泣き寝入りしないぜ。そいつを殺して、銃殺にされるさ。

小沼訳 Ⅲ・p424 もしも途中か、あっちへ行ってからなぐられるようなことがあったら、おれは黙ってなぐられちゃいない。おれはそいつを殺して、自分は銃殺になるだろう。

江川訳 p842 もし道中で、いやあっちへ行ってからでも、殴られるようなことがあったら、おれは黙っちゃいない。おれはそいつを殺して、自分も銃殺になるだろう。

感想  「やつら」が正しい訳だとすると、集団暴行をうけることになるわけだが…。


新訳 p31  グルーシェニカと向こうに着いたら……すぐに、どこかもっと遠い人里離れた土地で、野生の熊どもといっしょに畑を耕し、働きはじめる。

原訳 下・p475  グルーシャと向うへ渡ったら、すぐにどこか、なるべく奥の、人里離れたところで、野生の熊を相手に畑仕事をして、働くんだ。

小沼訳 Ⅲ・p427  グルーシャと一緒にあっちへ行ったら……おれはすぐにどっかなるべく遠い、人里を離れた遠いところで、野生の熊を相手に働きはじめる、大地を耕して働きはじめる。

江川訳 p844  グルーシャと向うへ着いたら、おれはすぐさま、どこか人里離れたところへ引っ込んで、熊を相手に、畑を耕して働くんだ。

感想  新訳の「もっと」という言葉が気にかかった。どの土地を起点として、「もっと遠い人里離れた土地」というのだろうか。これはおそらく「なるべく」という意味で遣われたのではないかと思われる。


新訳 p35  「愛は終わったのよ、ミーチャ!」カーチャは、ふたたび話しはじめた。「でも、終わったことがわたしには痛いくらいに大事なの。そのこと、永久に忘れないでね。でも今からほんの一分のあいだだけ、そうなったかもしれないことをしましょうよ」

原訳 下・p478  「愛は終ったわ、ミーチャ!」カーチャは、ふたたび話しはじめた。「でも、あたしには、過ぎてしまったものが、痛いくらい大切なの。これだけは永久におぼえていてね。でも今ほんの一瞬だけ、そうなったかもしれぬことを訪れさせましょうよ」

小沼訳 Ⅲ・p430   「愛は終りをつげてしまいましたわ、ミーチャ!」とまたカーチャは言いだした。「でも、その過ぎ去った思い出がわたしには胸が痛むほど大切なんです。このことはいつまでも覚えていてくださいな。いま、一分だけ、できるはずでできなかったこと実現させてみましょうよ」

江川訳 p846  「愛は過ぎ去ったのよ、ミーチャ!」カーチャはふたたび言いはじめた。「でも、その過ぎ去ったことが、わたしには胸が痛くなるくらい大切なの。このことは永久に心に銘じてね。でも、いまは、ほんの束の間でもいい、そうなるはずだったことを実現させましょうよ」

感想  「終わったことがわたしには痛いくらいに大事なの」という新訳の表現は、不正確でありまた稚拙ではないかと思う。小沼訳では「過ぎ去った思い出が…大切」と訳されているが、読んでいてよく理解できる訳である。「終わったことが…大事」という訳だと、過去のさまざまな出来事や思い出がそこに何ら含みこまれないように感じる。


新訳 p36  「あなたもいま、別の人を愛しているし、わたしも別の人を愛している、でも、やっぱり、あなたのことを永久に愛しつづけるし、あなたもそうよ。そのこと、知ってました? ねえ、わたしを愛してね、死ぬまでずっと愛してね!」カーチャはそう叫んだが、その声には、どこか脅しにも似た震えが聞きとれた。
「愛しつづけるよ、それに……いいかい、カーチャ」ひとこと言うごとに息をつきながら、ミーチャも話しだした。

原訳 下・p478  「今ではあなたもほかの人を愛しているし、あたしも別の人を愛しているけれど、でもやはり、あたしは永久にあなたを愛しつづけるわ、あなたもそうよ。それを知っていらした? ねえ、あたしを愛して、一生愛してね!」何かほとんど脅しに近いふるえを声にひびかせながら、彼女は叫んだ。
「愛すとも……あのね、カーチャ」一言ごとにいき継ぎながら、ミーチャも口を開いた。

小沼訳 Ⅲ・p431  「いまではあんたはほかのひとを愛していますし、わたしもほかの人を愛しています。それでもやっぱり、わたしは永久にあんたを愛しつづけるでしょうし、あんたもわたしを愛してくださるのよ、こんなことがおわかりだったかしら? ねえ、わたしを愛してくださいな!」とほとんど脅迫するように妙に声をふるわせて、彼女は叫んだ。
「愛しつづけるよ……そして、ねえ、カーチャ」とひとことごとに息をつぎながら、ミーチャも言いだした。

江川訳 p846  「あなたもいまはほかの女の人を愛している、わたしも別の人を愛している、それでもわたしは永久にあなたを愛するの、それからあなたもわたしをよ。思いがけなかった? いい、わたしを愛するのよ、一生涯愛しつづけるのよ!」彼女の声は、まるで相手を脅してでもいるように震えをおびていた。
「愛しつづけるよ……それからね、カーチャ」一語ごとに息をつぎながら、ミーチャが話しだした。

感想  先行訳 が「一生」とか「生涯」「一生涯」と翻訳している箇所は、新訳においては、ことごとく「死ぬまで」と訳されている。亀山氏はこの表現を偏愛しているようだが、読んでいて、私はどうもことごとく違和感をもった。奇異に感じるのは、このように「死ぬ」を用いた表現が、これだけにとどまらず、「リーズ、ぼくは死ぬほど悲しいんです!」(第2巻p101)、「たしかに彼は、いま死ぬほど悲しかった。」(第2巻p102)のような場合にも用いられていて、必ずしも「一生」「生涯」を指す場合にだけ遣われているとは限らないことである。「死ぬまで」と「死ぬほど」、どちらにしても大変特異な表現なので、読むほうとしては翻訳者がどのような考えや意図をもってこの「死ぬ」という言葉を遣っているのだろうと考えてしまう。


新訳 p37  あのときも信じていなかったわ。いちども信じたことがなかった! あなたが憎らしくて、ふいにそう信じ込ませてしまったの、そう、あの瞬間……

原訳 下・p479  あのときだって信じていなかったわ! 一度も信じたことなんかなくってよ! あなたが憎くなって、ふいに自分にそう信じこませたの、あの一瞬だけ……

小沼訳 Ⅲ・p431  あのときだって信じてなんかいませんでしたわ! 一度だって信じたことなんかありませんわ! あんたが憎らしくなって、急に自分にそう信じこませてしまったんですわ、ほら、あの瞬間に……。

江川訳 p846  あのときだって、ほんとうになんかしていなかったわ! 一度だってほんとうにしたことなんかない! あなたが憎くなって、突然、あの一瞬だけ、自分にそう思いこませたの……

感想  カテリーナは法廷でミーチャがフョードル殺害の実行犯であると証言した。そのカテリーナが監獄を訪れてミーチャに会い、そのミーチャから「君は僕が殺したと信じているの? 今は信じていないことはわかるけど、あのときは……証言したときには……ほんとに信じていたのかい?」(原訳)と尋ねられ、その時の自分の心理について話しているのだから、特に正確な訳が必要とされている箇所のはずである。だから、新訳が「そう信じ込ませてしまったの」と、先行訳にはある「自分に」という言葉を省いていることは肯けないことである。


新訳 p39  彼女(注:カーチャ)は早足で歩き、先を急いでいたが、アリョーシャが追いつくとすぐに早口で話し出した。(略)
「兄もまったく予期していなかったんです」アリョーシャはそうつぶやきかけた。「まさか、あの人が来るなんて思ってなかったんです……」
それはそうね、でももう、その話やめましょう」断ち切るように、彼女は答えた。

原訳 下・p480  彼女は足早に歩き、急いでいたが、アリョーシャが追いついたとたん、早口に言った。(略)「兄はまったく予期していなかったんです」アリョーシャがつぶやきかけた。「てっきり来ないものと思っていたので……」
そうでしょうとも。その話はやめましょう」彼女はぴしりと言った。

小沼訳 Ⅲ・p434  彼女は足早に歩き、急いでいたが、アリョーシャが追いついたとたん、早口に言った。(略)
「兄はまったく予期していなかったんです」アリョーシャがつぶやきかけた。「てっきり来ないものと思っていたので……」
そうでしょうとも。その話はやめましょう」彼女はぴしりと言った。

江川訳 p847 彼女は足早にさっさと歩いていたが、アリョーシャが追いついたとたん、早口にこう言った。(略)
「兄は思ってもいなかったんです」アリョーシャが口の中でつぶやいた。「来ないと思いこんでいたんです……」
そりゃそうでしょうとも。その話はやめましょうよ」彼女はさえぎった。

感想  普通、「先を急ぐ」という言葉が遣われるのは、そのすぐ後に用件を抱えていて、心急く心情や態度を表現する場合のように思われる。この場面に「先を急ぐ」という表現は相応しくないのではないだろうか。一方、監獄でグルーシェニカが突然入ってきてカテリーナとはちあわせしてしまったことの事情を、アリョーシャがカテリーナに「兄もまったく予期していなかったんです」と説明しているのに対し、カテリーナが「それはそうね」という答えを返すのは実に奇妙である。これに関してはどこがどう奇妙かは、述べる必要はないのではなかろうか。
2009.11.01 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。