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この文章はコメント欄の返信として書き始めたのですが、長文になってしまったことに加えて前々から問題意識を持っていた内容でもありますので、こちらにエントリーとしてアップすることにしました。


やすさん、ゴログのご紹介ありがとうございます。檜原転石さんのブログでも同じものを紹介しておられましたね。(檜原さんには大分前にコメントをいただきながら、返信が遅れてしまっていてすみません。風間さんの事件にも関心を寄せていただいているようで、うれしいです。) じつは私は大道寺将司さんと外部とを繋ぐ隔月の交流誌「キタコブシ」を講読しているんですよ。もう10年余になります。ですから、今回の「一行詩大賞」受賞に関して拘置所側が何を危惧してか主催者側との連絡妨害行動をとっていたことも知ってはいました。大道寺さんの俳句はいつもまず「キタコブシ」に掲載されますが、私はズブの素人ながらも読みながらしばしじっと見入ってしまうことがよくあります。優れた詩句が持っている力なのでしょうね。今は病舎に入られていますが、気力は衰えず、健康なときと同じペースで執筆もされています。ただ時事的な問題では、もちろん教わることも多いのですが、特に最近は戸惑うことも増えています。ちょうどそういうことをつらつら考えているときにやすさんからコメントをいただいたわけでした。コメント内容からはかなり飛躍する話になってしまい恐縮ですが、この際、どのような文章に私が戸惑ってしまうかについて少し書いてみます。

○ リビアのカダフィが死んだとか。下水道の土管の中に隠れていたようですが、独裁者の最期とはそんなものでしょう。早速、オバマは歓迎のコメントを発しましたが、ではパレスチナは、シリアはと質したい。
○ 今朝の朝日新聞に「逃亡逮捕射殺に病死」という川柳が載っていました。独裁者の末路です。
○ 北朝鮮のミサイルは失敗とか。米・中・露などの大国だけが核やミサイルを保持、使用できるのはおかしいという北朝鮮の主張は頷けるけれど、そんなものに大金を注ぎ込むよりも民衆が腹一杯食べられる社会にすることこそが大事なんじゃないですか。最高指導者だという若者だけがぽっこりと肥満して、民衆は枯枝のように痩せているのに「人民共和国」はないと思います。

「最高指導者だという若者だけが……」という記述については、在日朝鮮人という読者から批判的内容の文章が寄稿されました。「確かに、指摘されていることに間違いはありません。誰もがそう思っているでしょう。でも、北朝鮮=悪のイメージまたは嘲笑というような文章が見過ごせません。…そのようなつもりで書かれたのではないとは理解していますが、どうしてもその文章が私の差別されてきたアンテナのようなものにひっかかって仕方がありません。私の友人や知人が北朝鮮を何度も訪れており、5月にも訪朝してきました。その人たちに何度も正直な感想を求めました。…なによりも、北朝鮮のひとたちは普通に暮しているということです。ピョンヤンでは、恋人同士が楽しそうに歩いていたり、田舎ではお百姓さんたちが休憩時に唄を歌い踊っていたりと、外部からの遮断ゆえにその限られた中で普通の風景があったということです。日本では、若者も年寄りもワーキングファーで、働けども食べていけない現状があります。食物や物は溢れていても、自殺者が年間3万人を越えるのはどうしてなのでしょうか。果たして、どちらが幸福といえるでしょう。」という指摘に対して、

○ ……さんに不快な思いをさせたことをお詫びします。ぼくが北朝鮮の民衆が「枯れ枝のように痩せている」と感じたのはアジアプレスの写真を見たからで、メディアの報道を鵜呑みにしたわけではありません。……ぼくは体制を支持するのと民衆を支持するのとは別だと思うんです。食料不足だったり、物乞いをする子どもたちがいるという現実から目を逸らせてはいけないと思い、敢えて毒気のある書き方をしました。

「北朝鮮のミサイル」との記述に対しても「ちと驚きました」という指摘が国外在住の読者からありましたが、私も北朝鮮が米韓日の合同軍事演習から受けている絶えざる圧迫を無視していることやカダフィの死亡についての記述は公平な見方ではないように思う、という趣旨の投稿をしました。直近では、

○ 改憲や秘密保護法についてのアベシンゾウをはじめ政府、与党の底の浅い言説に接すると、反天皇派のぼくでも現在の天皇、皇后の認識(彼らは政治にかかわる発言はしないようにしているが)の方が至極まっとうなものに思えます。

と書かれていました。このようなことは大多数の人が思っていることなのかもしれないし、また間違っているとも言えないとは思うのですが、かつて「反日」を名乗り、「虹作戦」なるものを計画した人にしては、受け止め方が単純に過ぎるような気がして違和感を禁じえませんでした。獄中という閉ざされた環境下での情報の不足・偏りを考えなければいけないとも思いますが、あの計画の着想やその後の行動を当事者として否定しているときいた記憶がないだけに、ではあれらはいったい何だったの? と怪訝な思いもするのです。獄中にいる人を含めた周囲の人に対する配慮がよく行き届いた人であることも含めて、真摯な姿勢に常々敬意をもっているのですが、上に書いたようなことはどうしてもうまく理解できないでいます。
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2013.11.21 Thu l 社会・政治一般 l コメント (6) トラックバック (0) l top
8月21日にシリアの首都ダマスカス近郊で化学兵器が使用されたか否かについて調査し、結果「使用された」と断定した報告書を9月15日国連に提出した国連調査団は、25日再びシリア入りした。シリア政府と反体制派の双方が、3月にシリア北部で化学兵器が使われたと主張している件についてあらためて調査するための再入国だということである。次の記事によると、

「 今回の調査では、北部のカーンアルアサルで3月に化学兵器が使われたという情報について調べる。国営メディアは、この攻撃は反体制派が仕掛けたもので、25人が死亡、110人が負傷したと伝えた。
一方、反体制派はダマスカス郊外で政府軍が化学兵器を使ったと主張している。」

シリアは未知の国なので地域名のことなども理解しにくいのだが、カーンアルアサルというのはアレッポのことらしい。3月の化学兵器使用疑惑事件については、5月、調査のためにシリア入りした3人の国連調査委員会の1人であるデル・ポンテ氏が「反体制派が化学兵器、特にサリンを使ったという具体的な証言がある」と発言した。しかし直後に、同調査委員会が、「化学兵器を使ったかどうかの決定的な証拠はない」との声明を発表し、まだ調査段階であることを強調するという経緯があった。この事件に関する査察団の再入国はよいとして、今回の調査もまた前回(8.21事件の調査)の場合と同様、「化学兵器が使われたかどうかを確認するにとどめ、政府軍と反体制派のどちらが使ったかについては結論を出さない見通しだ。」ということである。おかしなことで、普通に考えれば反体制側の仕業であると推論または断定されることを恐れているとしか言いようがないだろう。デル・ポンテ氏は今回の調査団のメンバーには参加していないのだろうか? 

8月21日にダマスカス郊外の反体制派の支配地域で発生した事件について、国連調査団の報告書は、「子供たちを含む市民に対し、比較的大規模に、化学兵器が使用された」として、事件は化学兵器による攻撃であり、使われたのは神経ガスのサリンだったと断定した。するとこれに対して、米欧はなぜか、やはりアサド政権の仕業だったではないか、と理解に苦しむ主張を展開した。ケリー国務長官にいたっては、シリア政府は少なくとも11回化学兵器を使用したとも発言している。何の証拠も提示しない状態での発言なのだから、これは口からでまかせ、放言の類にひとしいのだが、強国アメリカはそれで通るのである。化学兵器を使用した時期に関してケリー氏は何も述べていないので、2011年3月から今日までの約2年半の間に11回使用、という意味なのだろう。

国連の報告書は、「ダマスカス郊外グータにサリンを搭載した地対地ミサイルが撃ち込まれたことを示す明確な証拠が採取された。」という。調査は、現場の生存者や救急隊員からの聴き取り、髪や尿、血液、土壌などの試料採取などによるという。オバマ、ケリーだけでなく、サマンサ・パワー国連大使も、「報告書は政権側による使用を示すものだ」と断定。その理由として、「アサド政権はサリンを保有しているが、反体制派が持っているとの証拠はない」「政権側の支配地域に入り込み、そこから反体制派の地域を攻撃するという行動を反体制派が取るとは思えない」と述べている。

国連大使のこの言い分は、オバマ・ケリーがアサド政権に化学兵器の使用責任を押しつけるに際して根拠を一つも口にしなかったのも無理はなかったと思えるような、拙劣な主張である。「反体制派が持っているとの証拠」がなければ、それが即保有していないことの証明になるとでもこの人は言うのだろうか。しかも反体制派は化学兵器を持っているとの証言があちらこちらから続々と出てきている。また「政権側の支配地域に入り込み、そこから反体制派の地域を攻撃するという行動を反体制派が取」ることがありえないのであれば、3月の事件は政権側の支配地域で発生し、被害者も政権側の人間たちだったのだから、あれは政権側が起こした事件ではありえないということになるだろうに、なぜ声高に、アサド政権の仕業である、と叫び続けるのだろう。こういう幼稚かつ支離滅裂な理屈でも世界に通用する、通用させることができると考えているところに米国のそら恐ろしさがあるだろう。これに対してロシアのチュルキン国連大使は、「反体制派の仕業だった可能性は否定できないと反論。反体制派が当時、ただちに被害を報告しなかったのはなぜかと問い掛けた」。

ロシアのチュルキン大使の上の発言をみると、反政府側はどうやら、事件後すぐには外部に対して被害の報告や手続きを何も行なわなかったようだ。彼らは8月21日の明け方1時過ぎに攻撃を受けたと主張している。そしてその直後に(実は映像がアップされたのは事件以前の時間帯だったという不思議な指摘もある。)、被害者の悲惨な映像をインターネットにアップしているのだが、これは一体どういうことだろう。朝日新聞の報道によると、被害者が病院に運ばれてきたのは昼過ぎだったという地域住民の証言もあるようだ。朝日新聞(9月22日)は、インターネット電話でシリア国内の被害者から次の話をきいたという。

「「化学兵器が使われた。何でもいい。とにかく助けてくれ」
 ダマスカス郊外に住むアリ・フーリさん(23)は8月21日午後、無線連絡を受けて、攻撃を受けた東グータ地区ザマルカに向かった。駆けつけると、女性や子どもを含むおびただしい数の人がもがいていた。手分けして建物の上層階に運び、シャツを脱がせて体を水洗いする応急措置をした。簡易ガスマスクをつけていたが、のどや腹部に激痛が走り、息苦しくなって意識を失う。野戦病院のベッドで6日間、生死の境をさまよった。 」

上の被害者は、「8月21日午後、無線連絡を受け」たと述べているが、それならばその動きは事件発生時刻からゆうに半日が経過した時間帯に起きたということになる。ロシアの国連大使の「反体制派が当時、ただちに被害を報告しなかったのはなぜか」との問い掛けには事件の真相を解き明かす鍵があるに違いない。3月の事件について国連調査団がどのような調査をしてどのような判断を示すのか注目である。
2013.09.27 Fri l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
ブログ「私の闇の奥」に昨日(30日)アップされた「もう二度と幼い命は尊いと言うな」という記事には、今回米欧がシリアを攻撃するための根拠にしている「アサド政府による毒ガス使用」などは到底考えられない、つまりそれは嘘である理由が幾つも列挙されているが、最も分かりやすい理由として次の点が挙げられている。

「 前回(3月、アレッポ近郊)の毒ガス使用事件の真相解明のため国連調査団がダマスカスに到着したその8月21日に、わざわざ新しく政府側がダマスカス近郊で毒ガスを大々的に使用して多数の子供たちを殺傷するとは全く考えられません。同じ8月21日、ダマスカス近郊で政府軍と共に戦っていたレバノンのヒズボラ派兵士三人が毒ガスにやられたことがベイルートから報じられています。アサド政府が、化学兵器を使用していないことを国連の調査を通じて立証し、米欧の直接軍事介入を何としても避けたいと思っている時に、毒ガスを使用するわけがありません。 」

完全に上記指摘のとおりだと思う。周知のように、(今年)3月にも米欧は、「シリア政府軍が化学兵器サリンを使用した」と今回とまったく同様の内容を喧伝していた。これを理由にして反政府側の全面的支援に踏み切る口実にしようと企んでいたのだ。ところがこのときは、シリア国内の毒ガス使用問題を調査している国連の調査団の一員であるカルラ・デル・ポンテ(Carla del Ponte)という女性が、サリンは罪をアサド政府になすり付ける目的で、反政府傭兵側が使用したことを示唆する証拠があると述べた。米欧は水を注されたのだ。もしポンテ氏のこの発言がなかったら、この直後に米欧はシリアに対して軍事攻撃を仕掛けていた可能性もありえなくはなかっただろう。そのような、まさにシリア存亡の危機に遭ってからたった数箇月で、しかも藤永氏の指摘のように、3月の毒ガス使用事件の真相解明のため国連調査団がダマスカスに到着したその日に、どうして、何の目的でシリア政府が化学兵器を使用するなどということがありえるだろうか? この世にはポンテ氏のような真に公正で勇気ある人が存在するのでまだ救いがあるわけだが、ただ現在この人はどういう立場に立たされているのだろうか?

昨日(30日)、オバマ米大統領は、「シリアのアサド政権が化学兵器を使用したことに間違いはない」として「限定的な軍事行動を検討している」と明言したそうである。また同日、米政府は、シリア政権側が化学兵器を使用して民間人を死亡させたことを確信するに至った根拠とされる情報を以下のように公開したそうである。

「 公表された報告書の中で米ホワイトハウス(White House)は、関係者の証言、人工衛星データ、無線傍受を含む「複数の」情報活動に基づき、8月21日のダマスカス(Damascus)近郊での攻撃で子ども426人を含む1429人が死亡したと断定している。
 また、この攻撃作戦について非常によく知るシリア高官が、ロケット弾が市民に向けて降り注ぎ始めた直後に行った通話を、米国側が傍受したことも明かされた。報告書によると、通話の中で同高官は、化学兵器が使用されたことを認め、国連調査団が証拠を得ることに対する懸念を示す発言をしたとされる。 」

この記事を読んで感じることは、すべてがでっち上げの嘘っぱちであることが今となっては余りにも明白だということである。白々しくわざとらしい欺瞞に吐き気がしそうである。アフガン、イラク攻撃は言うにおよばず、2011年以降のリビアやシリアをめぐって展開されてきた米欧の行動、その推移を見てきた身には、米欧はシリア攻撃のためにこの際大急ぎでいくつもの架空の出来事をでっち上げたのだろう、としか感じられないところが恐ろしいところである。世界中で米欧のこの言い分をすんなり信じることができる人間は、全人類の10%も存在しないのではないだろうか。もちろん日本政府、日本メディアも含めてのことである。日本のメディアは1年余り前の2012年5月に108人の市民が殺されたホウラ事件について、こぞってアサド政権の仕業のごとく書き立てた。しかし事件後、ドイツやイギリスのメディアを初めとした多くの団体や市民があれは反体制派の自作自演であるときびしく指摘した。今回の毒ガスによる殺戮もホウラ事件の再現である確率は恐ろしいばかりの高さを示しているだろう。日本のメディアはホウラ虐殺事件に対して現在どう考えているのか、明らかな誤報を継続して打ち鳴らし、我々読者・視聴者を騙したのではないのか、ぜひ検証に取り組み総括を述べてもらいたいと思う。
2013.08.31 Sat l 社会・政治一般 l コメント (4) トラックバック (0) l top
周知のように、民主党の菅直人氏は7月16日、東京電力福島第1原発事故を巡り、安倍晋三首相が「菅総理の海水注入指示はでっち上げ」と題したメールマガジンを掲載し続けているのは名誉毀損にあたるとして、慰謝料など1100万円と謝罪を求めて東京地裁に提訴したとのことである。

「 訴状などによると、安倍首相は自身の公式ホームページに2011年5月20日付で掲載したメルマガで、同年3月12日に行われた海水注入について「東電はマニュアル通り淡水が切れた後、海水を注入しようと考えており、実行した。しかし、やっと始まった海水注入を止めたのは、何と菅総理その人だった」などと記載した。
 菅氏側は「海水注入が中断された事実そのものが存在しない。海水注入の中断を指示したという事実も存在しない」と指摘。首相のメルマガは虚偽であり名誉を毀損したとしている。メルマガの記事の訂正と謝罪を求めたが、首相側の反応はないという。菅氏は16日記者会見し、提訴の理由について「ネット選挙が始まった中で、国民に誤った情報を流し続けることが悪影響になると考えた」と述べた。」(毎日新聞07月16日)

2011年5月20日付の安倍氏のメルマガの内容について当時チラと聞いたような記憶はあるが、この『菅総理の海水注入指示はでっち上げ』全文を読んだのは今回が初めてである。いや、聞きしにまさる酷い内容だと思った。こんなものを以後今日まで2年余りも自身のサイトに掲載しつづけていたのかと思うと、何事においても恥を知らないらしいこの人の政治感覚にますます恐怖や気味悪さをおぼえずにいられない。2011年3月12日の、福島原発1号機への海水注入をめぐる管氏を中心とした官邸内の動きはその後国会をはじめメディアでもかなり詳細な検証が行なわれてきており、この件に関するかぎり、安倍氏の記事内容こそが完全な「でっち上げ」であることは今では世間周知のことのはずだ。安倍氏のメルマガの全文は下のとおりである。

「 福島第一原発問題で菅首相の唯一の英断と言われている「3月12日の海水注入の指示。」が、実は全くのでっち上げである事が明らかになりました。
複数の関係者の証言によると、事実は次の通りです。

12日19時04分に海水注入を開始。
同時に官邸に報告したところ、菅総理が「俺は聞いていない!」と激怒。
官邸から東電への電話で、19時25分海水注入を中断。
実務者、識者の説得で20時20分注入再会。

実際は、東電はマニュアル通り淡水が切れた後、海水を注入しようと考えており、実行した。
しかし、 やっと始まった海水注入を止めたのは、何と菅総理その人だったのです。
この事実を糊塗する為最初の注入を『試験注入』として、止めてしまった事をごまかし、そしてなんと海水注入を菅総理の英断とのウソを側近は新聞・テレビにばらまいたのです。
これが真実です。
菅総理は間違った判断と嘘について国民に謝罪し直ちに辞任すべきです。 」


まず、冒頭の「実は全くのでっち上げである事が明らかになりました。」という断定調の書き出しからして胡散くさい。日頃、日本のマスコミ報道は、「…が明らかになった」「…が分かった」というような断定調をよく用いているが、こういう場合は、必ずしも明白ではない事実をさも本当らしく見せるための言い方である場合が非常に多いように思う。安倍氏はマスコミのそれをそっくり真似たのではないか。

つづいて、「複数の関係者の証言によると、事実は次の通りです。」というわけで、「菅総理が「俺は聞いていない!」と激怒」、「やっと始まった海水注入を止めたのは、何と菅総理その人だったのです」、「この事実を糊塗する為最初の注入を『試験注入』として、止めてしまった事をごまかし、そしてなんと海水注入を菅総理の英断とのウソを側近は新聞・テレビにばらまいたのです」などと、あたかもこれらは確実な事実であるかのように数々並べ立てているが、結果的には安倍氏のこの発言こそがすべて明白な嘘であることが明白になっているといっていいだろう。しかも安倍氏は、「これが真実です」と、ご丁寧に念押しの断言までしているのだから罪はいっそう重い。そもそも安倍氏のいう「複数の関係者」とはどういう立場のどんな人物なのか、複数とは2人なのか、3人なのか、それとももっと多人数なのか、皆目分からない。一方の側の一方的な言い分を聞いただけで、それが間違いのない確実な情報かどうかについて検証した気配もない。内容的には、普通ならば「この話はちょっとおかしいな」と感じてもよさそうな話の程度だと思うのだが……。

何より不信を感じずにいられないのは、安倍氏の文章からは、海水注入からやっと10日2ヶ月過ぎたばかりのとき、深刻きわまりない原発事故がこれからどのような経緯をたどるのか、誰もが不安でならない時期だったにもかかわらず、一人の政治家として先行きを懸念・危惧している気配や、事故収束のために自分も精一杯力を尽くそうというような意志や義務感が全然伝わってこないことである。文面にたち込めているのは、ただただ政敵である民主党政権の落ち度や失敗を突いてやろう、それによって自分が得をしようという利己的な下心ばかりであるように感じる。だからこそ、この3月12日官邸で海水注入を実行する意志統一が出来ていたことが後にほぼ判明したにもかかわらず、そのままこの記事をサイトに載せつづけることができたのではないか。安倍氏がもし一貫して自分の記事内容のほうこそ正しいと思っていたのなら、その後自ら検証を行なってその結果を新たにサイトに載せるべきだったのである。それが最低限の責任ある態度だったはずだが、安倍氏はそれさえしていないのだから、「間違った判断と嘘について国民に謝罪し直ちに辞任すべき」なのは、明らかに現在の安倍氏のほうだろう。
2013.07.18 Thu l 社会・政治一般 l コメント (2) トラックバック (0) l top
よく読ませていただいていたZED氏のブログが6月始めから突如アクセス不能になったので、これについてどなたか事情をご存じの方がいらっしゃれば教えてください、と記事に書いたところ、復活希望さん、やすさん、 (゚∀゚)さんたちから、貴重な情報やこの件を同じく気にかけている旨のコメントをいただいた。おかげで、ZED氏が幸いにも新たなブログを立ち上げておられることがわかったのだが、新ブログでの説明によるとこの間の事情は下記のとおりだったそうだ。

「 まずは以前使用していたブログが突然凍結されてしまった事について、ちょっと御説明申し上げます。原因は筆者が以前記事で批判した「言論封殺魔」としか言いようのないある卑劣な人物が、忍者ブログの運営会社に圧力を掛けた事が原因でした。この人物は批判に対して言論で反論するという事をせずにいきなり運営会社に圧力をかけるという手口を好み、本当に言論でメシを食う人間の風上にもおけない下劣な存在としか言いようがありません。
もちろんそれでブログを凍結されたからといって、筆者は簡単に引っ込むつもりはありません。改めてブログを作り直して活動を再開する事にいたしました。過去の記事はこれから少しずつ復活させて順次再掲載していきますので、もう少しお待ち下さい。
忍者ツールの運営会社に圧力を掛けた「言論封殺魔」が何者なのかについては敢えて実名を挙げませんが、大体想像がつきますよね、という事にしておきましょう。筆者がこれまで何度も激烈に批判してきたある人物です。この言論人失格である事を自ら証明してくれた「言論封殺魔」に対して、筆者は今後とも変わらぬ批判を続けていく事は言うまでもありません。」(2013年06月24日)

石丸次郎氏は、かつてZED氏(の記事)に対して、いきなり法的手段に訴えることをちらつかせた上に、「あなたがサイトを使用している「忍者ブログ」に対しては、悪質な迷惑行為、名誉棄損および信用棄損、偽計業務妨害があった旨を通告し、場合によっては、「忍者ブログ」に対しても法的対処をすることを通告します。」というメールを送ってきたことがある。(ZED氏のブログでは今も巻頭にこのメールの全文が掲げられている)。それを見て、私は文筆業者を名乗っている人物が一市民の批判的書き物に対していきなりこんなものを送りつけてくるなんて、前代未聞ではなかろうか、と思ったものだった。

今回「忍者ブログの運営会社に圧力を掛けた」人物が誰であるかについてZED氏は確言していない。ただ石丸氏はかつてのZED氏にあてたメールのなかで、「あなたには、私を批判する自由があります。あなたが私の言論活動を嫌うこともあなたの自由です。/論争することを私は歓迎します。/しかし、いわれなき誹謗中傷とは断固闘います。」と述べていた。このうちの「いわれなき誹謗中傷」とは、

「NEDから石丸次郎およびアジアプレス、アジアプレス出版が発行する雑誌「リムジンガン」は一切の資金提供を受けたことはなく、これからも受ける予定はまったくありません。韓国で発行されている雑誌「イムジンガン」と、石丸次郎およびアジアプレス、アジアプレス出版が発行する雑誌「リムジンガン」は、現在いかなる関係もありません。」

という実情をZED氏が理解しないままに(あるいは曲解して)、事実とは異なるデタラメの文章を書いているということではなかったかと思う。しかし石丸氏のメールを受けとったZED氏は石丸氏の上記言い分を自分のブログにそのまま掲載し、納得したところは納得したとちゃんと書いたのだから(新たなる疑問やそれに伴うさらなる批判は批判として書き加えながらも)、批判の中身に誤解・過ちを混じえてしまった側の責任の取り方としてはこれでひとまず十分ではないかと思うのだが…? むしろ、自分のほうからメールを送っておきながら、この返答に対して何らの応答もしていない(第三者にはそのように見える)石丸氏のほうにこそ問題があるのではないだろうか? たしかにZED氏の言葉遣いは時に苛烈すぎて文章の内容よりもその言葉遣いのほうが読み手の印象に残ってしまう場合があるような気がするので、もしかすると石丸氏はその苛烈さに怯えてしまい、裏から手を回す以外に自分自身の手や口ではウンともスンとも応答できないでいるのだろうか? それともまともに論争しても内容で勝ち目がないという自覚でもあるのだろうか? まぁ北朝鮮に関して何十年も渾身の取材をつづけてきたという硬骨のジャーナリストに限ってそんな情けないことはないとは思うが、不可解には感じる。

この件に関しては、もう一点気になることがある。かつてmedia debugger氏がZED氏の問題に関してアジアプレスおよび石丸氏にメールを送ったところ、

「 吉沢さま
メールをいただきありがとうございます。
しっかりしたブログを運営されていらっしゃいますね。
現在非常に多忙にしておりまして、来週、お返事を差し上げたく存じます。
ご了承くださいませ。
 石丸次郎拝 」

という返信をもらったそうである。ところが、その後、約束の「来週」になってもmedia debugger氏のブログに石丸氏からの返事が届いたという記事は書かれなかったように記憶する。これもおかしなことだと思う。 

私は石丸氏の連載も著書も読んだことはないのだが、ただ時折ZED氏のブログで紹介されている石丸氏の発言には唖然とすることが多かった。たとえば、ツイッター上での次の発言である。

「平壌地方の今朝の天気は快晴だとか。そうそう、昨日北部のムサンからも電話。砲撃事件の報道見て、「とっとと戦争起こったらいいのに」。早く政治が変わって欲しいという表現だ。」(2010年11月24日)

それから2011年、ZED氏が書店で「週刊金曜日」(2011年4月8日発売号)を立ち読みしていたところ、石丸氏のコラムに「北朝鮮でも地震が起こったらいいのに」という発言が「北朝鮮内部の情報提供者」のものとして出ていたという。「北朝鮮でも」ということは、2011.3.11東日本大震災の発生を受けてのものだろう。これも上述の「砲撃事件」の場合と同じく、「早く政治が変わって欲しいという表現」なのだそうだ。

2件ともに、この発言が実在したものとは正直なところちょっと信じられない。2つの発言の主が同一人物かどうかは分からないが、この人(たち)は、北朝鮮でどんな地位、職業に就いているのだろうか。完全に天涯孤独の身の上であり、家族も隣人も友人も持っていないのだろうか。しかし北朝鮮のような物質的に貧しい国では、そういう環境下で生きていくのは不可能ではないかと思われるし、そもそも戦争にしろ大地震にしろ、そういう大惨事が起きたら真っ先に自分自身の身が危ういではないか。それなのに2つの発言から伝わってくるのは、無責任というか、気楽というか、まるで他人事のような雰囲気だけなのである。要するにこれらの発言は私には信憑性が感じられなかったのだが、もし本当にこういう発言がなされたのだとしたら、発言主は石丸氏が欲している情報の傾向・性質を察した上で、それに調子を合わせている、迎合している確率が高いのではないだろうか? そのように推測していくと、「朝鮮半島で戦争が起こるのを一番待ち望んでいるのは石丸次郎自身ではないのか」と言われても仕方がないのではないかと思える。

さらに問題なのは、今年初め、石丸氏が発信源となってネットで大きく喧伝されることになった「餓死者急増で「人肉喰い事件」続発の断末魔」(2013年02月21日)という情報の件である。こちらも上述の場合と根っこは同じなのではないだろうか?

「アジアプレスの報告書によれば、空腹に耐えかねた人民の様子を、黄海南道農村幹部はこう訴えている。
「私の村では、5月に子供2人を殺して食べようとした父親が銃殺になりました。妻が商売で留守の間に長女に手を出したのですが、息子に目撃されたため、一緒に殺したのです。家に戻ってきた妻に『肉がある』と勧めたのですが、子供の姿が見えないことをいぶかしんだ母親が翌日、保安部(警察)に通報すると、軒下から子供たちの遺体の一部が見つかったそうです」
 祖父が死んだ孫の墓を掘り起こして食べたり、殺した人の肉を豚肉として流通させる事件もあったという。」

「飢餓」「餓死」という問題は、人間ならば誰にとっても無関心ではいられない共通の関心あるテーマである。まして「人肉食」という問題が絡んでくるのであればなおさらである。日本軍国主義下の戦場における兵士の死因は、実際の戦闘よりも餓死のほうがはるかに多いと言われている。大岡昇平の小説『野火』のように「飢餓」と「人肉食」とをテーマとした深刻な作品もある。こういう問題をジャーナリストが取り上げる場合、特に取材の過程では繊細な注意深さや慎重な上にも慎重な態度などが要求されることは言うまでもないことだろう。しかし、上記のアジアプレスの報道内容にそういうものが少しでもあるだろうか? 「子供2人を殺して食べようとした父親」というが、父親が自分の子を食べようと思うほどに飢えた状態ならば、子どものほうもすでに骨と皮のごとく痩せ細った状態にあるのではないだろうか。父親はどうして外部の人間に向かって牙をむこうとしないで、哀れな自分の子どもを殺そうとしたのだろう。鴨長明の『方丈記』にも、養和の饑饉の悲惨な現実が活写されているが、著者は、僅かな食料を得ると親は子に率先して与えるがために、先に息絶えるのはたいてい親のほうだったと述べている。もちろんそういう場合だけではないだろうが、「息子に目撃されたため、一緒に殺した」とか「妻に『肉がある』と勧めた」などという表現には、飢えによってわが子を殺すまでに追い詰められた父親の苦悩や迷いなどの感情が片鱗も感じられず、ひどく奇妙な印象を受けるのである。また「祖父が死んだ孫の墓を掘り起こして食べた」などというのも、その孫がいつ死んだものか分からないが、常識的には誰でも、墓の下の遺体は腐乱状態になっているものと考えるのではないだろうか。このような話を「餓死」「人肉食」が在ることの証拠として差し出してもかまわないという石丸氏の姿勢には驚かされる。石丸氏は国連に対して報告書を提出して真相究明を求めたようだが、「イタル・タス通信」は下記のように述べている。

「 FAO(国連食糧農業機関)の平壌代表部副代表ビライ・デルザ・ガガ氏は、イタル・タスによるインタビューの中で、一部西側メディアで報道されている北朝鮮における飢饉は「実情に即していない」と述べた。
北朝鮮には食糧問題が存在するものの「飢饉の兆候は何一つ認められない」。食糧の中央配給システムが作動している北朝鮮では、現在、住民ひとりにつき、一日あたり穀物400gが与えられているが、北朝鮮市民の食物はこれに限られるものではない、とガガ氏。
 北朝鮮政府は食糧問題が未解決であることを認識しており、状況改善のために必要な措置を取っている、とガガ氏は強調した。」

石丸氏の「北朝鮮は餓死・人肉食」報道によって、ネット上にはさもこれが疑いのない事実であるかのようなおびただしい数の書き込みがあふれている。北朝鮮に対して、読者に対して、石丸氏はどのような責任のとり方をするつもりなのだろうか。
2013.07.02 Tue l 社会・政治一般 l コメント (3) トラックバック (0) l top
谷垣禎一法相は4月26日東京拘置所で2人の死刑を執行した。2月の3人に続く執行であるが、死刑執行に対してまったく躊躇の感じられない谷垣法相の発言や態度をみると、今後も現在の頻度で執行が繰り返される確率が高いように思われる。その理由は、何といってもこの10年余における死刑判決の連発である。71年以降の30余年間では死刑確定数が2桁に達した年は88年(11人)の一回のみ、あとはずっと1桁の数で推移してきたのだが、2004年以降の9年間では1桁の確定数で済んだのは2010年(8人)だけである。具体的には、1971年~2003年までの33年間の合計死刑確定数は139人であった。ところが2004年~2012年の9年間の合計数も同じ139人になるのである。恐ろしいばかりの死刑判決と死刑執行の激増・多発であるが、このことが意味しているものはそう単純なものではないだろうと思う。

一昨日知人からとどいたメールには26日の死刑執行について「…今回は報道がとても小さいような気がします。」と危惧の念が記されていたが、本当にそのとおりで、今回の死刑執行はやる側の法務省が計画どおりなら、それを知らされ受けとめる側の私たちも予想された事態の進行をただ見ているだけという雰囲気にどんより浸かってしまっているように思う。このことは、安倍政権下で進行しつつある憲法改正の動き、軍事国家化、TPP参入決定、経済格差拡大、閣僚や国会議員の靖国参拝問題、領土問題など、最近の国内のきなくさい動向と密接に関連しながら動いているとみて間違いないだろう。

たとえば閣僚や国会議員による靖国参拝について中国や韓国、北朝鮮などの他国から批判・抗議を受けると、安倍晋三首相は国会答弁で植民地支配や侵略について「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかで違う」(23日)、「国のために尊い命を落とした英霊に対し、尊崇の念を表するのは当たり前だ。わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない」(24日)と述べた。「盗人猛々しい」とはまさにこのことだろう。

侵略とは、ウィキペディアでみると、「国際法上、ある国家・武装勢力が別の国家・武装勢力に対して、自衛ではなく、一方的にその主権・領土や独立を侵すことを意味する」、国連決議の侵略の定義では、「国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」とある。定義について、その後もさまざまな模索がつづいていることが事実としても、戦前・戦中の日本が朝鮮や中国をはじめとしてアジア諸国に対して行った軍事行動は、「他国の主権、領土、独立」の侵害であることは否定できない事実である。安倍氏は、侵略の定義は定まっておらず、「国と国の関係でどちらから見るかで違う」などと珍説を述べるのなら、過去の日本の行為が「国と国の関係で」自分の目にどのように映っているのかを具体的に明確にすべきだろう。なぜなら、世界では、ましてアジア諸国においては敗戦に至った日本の軍事行動を安倍氏のように侵略と考えない人間は皆無であることは疑いの余地のないことだからである。

「国のために尊い命を落とした英霊に対し、尊崇の念を表するのは当たり前だ。」という考えは日本の極右思想の持ち主にとって普通のことであるらしいのでそう驚きはしないにしても、「わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない」という発言は本当に凄まじい。侵略され、数百万の人間が傷つけられ殺された国の人々が加害国に対して侵略の正当化は許さないといえば、安倍氏の頭のなかではその言葉は「脅かし」に転換するらしい。これは一方的な加害者があろうことか被害者になりすまそうとすることに他ならないのだから悪質きわまりない。以前の首相在任当時も感じたことだが、確かに安倍氏にはそういう欺瞞が一貫してまとわりつき陰惨さをかもしだしているように思う。

報道によると、安倍首相は「それ(靖国参拝など日本が戦死者に敬意を払う権利)を削れば関係がうまくいくという考え方は間違いだ」と指摘し、昨今の中韓両国の対日批判には、国内政治上の動機があるとの見方を示唆したそうである。A級戦犯が靖国に合祀されていたことが報道されたのは1979年。その後も鈴木善幸氏をはじめとした首相や閣僚の靖国参拝がつづいていたにもかかわらず、1985年の中曽根首相の公式参拝まで日本政府は中・韓などアジア諸国から批判や抗議を受けたことはなかったというのが安倍氏の上記発言の理由だという。実際に抗議・批判がなかったか否かについていま私は正確なところを知らないのだが、かりにそうであったとしても、それが他国の心証を害することはなかったことの証明になどなるはずがない。自分自身やその肉親が日本の侵略によって心身に深い痛手を負ったり殺されたりした人々が日本の政治家の靖国参拝に強烈な怒りと警戒心を呼び覚まされないはずがないのだ。安倍氏は自らの発言によって自身がいかに身勝手一方の狭隘な考え方しかできない政治家であるかを全世界に証明していることを知るべきだ。

前に戻って、「国のために尊い命を落とした英霊に対し、尊崇の念を表するのは当たり前だ。」という安倍発言だが、「国のために」の「国」とは具体的にいったい何を指すのだろう。この「国」にはたして一般庶民は入っているのだろうか。A級戦犯の一人一人は「国」のために命を落としたのだろうか。たとえば、A級戦犯の代表格たる東条英機という人物も、「国のために尊い命を落とした」のだろうか。しかしこの政治家が正確にどういう人物であったかを見るのはたやすいことであろう。細川護貞著「細川日記(下)」(中公文庫)から1944年10月15日および同16日の東条に関する記述を次に引用する。

「  10月15日
 14日午前9時、吉田茂氏の永田町の邸に行く。此日松野鶴平氏の招きにて、近衛公、鳩山氏、吉田氏等と共に深川に海の猟に行く。風強き為海産組合長佐野某宅にて雑談、帰途吉田邸に公、鳩山氏と立寄り雑談の際、白根宮内次官は東条礼讃を為し居る由鳩山氏語り、一体に宮内省奥向に東条礼讃者あるは、附け届けが極めて巧妙なりし為なりとの話出で、例へば秩父、高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物、衣服等の御土産あり、中に各顧問官夫々のイニシアル入りの万年筆等も交りありたりと。又牧野伯の所には、常に今も尚贈り物ある由。鳩山氏は東条の持てる金は16億円なりと云ひたる所、公は、夫れは支那に於てさう云ひ居れり、主として阿片の密売による利益なりと。共謀者の名前迄あげられたり。余も何かの会合で、10億の政治資金を持てりと聞けり。過日の海軍懇談会の折も、昨今の東条の金遣ひの荒きことを矢牧大佐語られたり。或は多少の誇張もあらんも、多額の金を持参し居るならん。夜金子家を問うての雑談中、故伯の病革る頃、日々100人前の寿司と、おびただしき菓子、薬品等を、東条より届けたりと。鳩山氏は、「斯の如き有様なれば東条復活の危険多し」と云はれたり。

   10月16日
 朝、川崎豊君を訪問、談たまたま東条に及びたるに、彼は昨年中華航空にて現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直に重役以下釈放となりたることあり、是はその金が東条のものなりしを以てなりとのことにて、以前より里見某なるアヘン密売者が、東条に屡々金品を送りたるを知り居るも、恐らく是ならんと。又東条の附け届けについては、やはり金子伯病気の折のことを語り居れり。 」

44年の10月といえば、一般庶民は誰もかれも深刻な食料・生活必需品・医療品不足に呻吟していた只中である。東条はこの時期に満州で貯め込んだのだろう、10億とか16億などという途方もない額の金を持ち、「秩父、高松両殿下に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には会毎に食物、衣服等の御土産」、「(故牧野伯宅に)日々100人前の寿司と、おびただしき菓子、薬品等」など大盤振る舞いをしていたらしい。「細川日記」に出てくる証言者の顔触れをみると、この人たちの当時の地位と立場から推測して証言はおそらく事実とみてそう間違いはないのではないだろうか。彼ら自身の戦中の行動がどうであったかはさておき。

しかもこれだけではない。太田尚樹の「東条英機」(角川学芸出版2009年)によると、東条は首相在任中その地位を利用して「懲罰召集」を行なっていたのだという。中野正綱が43年1月1日、朝日新聞紙上で東条を批判したところ、中野は即逮捕された。「自白しないと貴様の息子を召集して、激戦地区に送り込むぞ」と、東条の命を受けた四方は部下の大西和夫を通じて恫喝した。東条内閣打倒を触れ回った工学博士松前重義は45歳でフィリピンに二等兵として送られた。ある毎日新聞記者は極度の近眼で召集免除の身だったが、東条の怒りを買ったことで陸軍中央から「指名召集」を受けてフィリピンに送られた、等々。この「懲罰召集」から読みとれることは、東条は自ら指揮して国民を戦士にしたてて戦場に送ることにまったく責任を感じてはいなかったらしいということである。いずれにしてもこの人物が卑劣きわまりない軍人政治家だったことは確かだろう。

「細川日記」には戦時中満州で東条と組んで権勢を誇っていた岸信介に関する記述も見られる。1944年9月4日の項は次のとおりである。

   9月4日
「 井沢多喜男氏、父を訪問され、「岸は在任中、数千万円少し誇大に云へば億を以て数へる金を受けとりたる由、然もその参謀は皆鮎川にて、星野も是に参画しあり。結局此の二人の利益分配がうまく行かぬことが、内閣瓦解のひとつの原因でもあつた。これについてはさすが山千の藤原が自分の処で驚いて話した」と。」

文中の鮎川は鮎川義介、星野は星野直樹のこと。両名とも、当時「満州の実力者」を示す呼称として喧伝された「二き三すけ」の一員である。藤原とは藤原銀次郎という人物のこと。岸信介に関する上の記述内容の信憑性については、「満州の支配層に流通し、日本本土にも流れたといわれる巨額の政治資金をめぐって、岸と東条が特別の絆で結ばれていたという関係者の証言には無視できないものがある(『新版・昭和の妖怪 岸信介』原彰久著)、「戦後、星野は、「岸君は満州に来た当時は一介の官吏だったか、内地に帰るときにはもう立派な政治性を身につけていた。実際、あそこまで手を汚さなくてもよかったのだが」と述懐しているが、岸が何をしたのかをよく知る者の皮肉である。」(『東条英機』太田尚樹著)などをみると、おそらく実態からそう遠くはなかったであろうと私には思われる。A級戦犯のすべての人物が東条や岸なみであったとまでの断言はできないが、いずれにせよ「国のために尊い命を落とした」という安倍発言は許しがたいとともに意味不明である。

追記
記事をアップした後、4月28日に政府主催で執り行われた「主権回復の日」を祝う行事で、安倍首相をはじめとする参加者が「天皇陛下万歳」を叫んだことを知った。この行事については、不快感が強かったためニュースを見なかったのだが、まさかそんなことまでしているとは! 本当に気味が悪い。
2013.05.02 Thu l 社会・政治一般 l コメント (8) トラックバック (0) l top
去る1月に国連安全保障理事会が北朝鮮の衛星ロケット打ち上げ(昨年12月)に対して2087号制裁決議を採択したと知ったとき、胸のうちに多大なストレスを感じた。これは今も消えていない。何のための宇宙条約なのだ? と思うからだ。米国や韓国、日本などにとってそれがどんなに堪えがたく業腹であろうとも、宇宙条約の加盟国がその規約に則って行動を起こした以上、それを罰するなどということがあってよいはずがない。「悪法も無法に勝る」という言葉があるが、この考え方でいくと、宇宙条約は「悪法」以下の価値と権威しかもっていないことを決議に賛成した国々はそろって認めたことになるのではないだろうか。そもそもこういう恣意的運営をしていたのでは、安保理のみならず国連自体への人々の信頼もいよいよ失われていくことだろう。

北朝鮮の言動はその後エスカレートしているが、このような緊張状態に北朝鮮の政治家と一般市民はいつまで耐えられるだろうか。米国を初めとした大国・強国が北朝鮮のような弱小国に対して、むしろエスカレートさせるように、させるようにと嘲弄的に事を運んでいく姿は本当に残忍さを感じさせる。安倍晋三首相はNHK番組出演の際、「このままだと北朝鮮は間違いなく滅亡への道に進んでいく。金正恩第1書記は政策転換をして繁栄の道に進む英断をすべきだ」、「北朝鮮による事実上の長距離弾道ミサイル発射に関し、「米国も射程に入り、(米国は)『脅威』と初めて非難した。北朝鮮は米国の発信を甘く見ない方がいい」と述べた」(3月15日)そうである。北朝鮮に対してひたすら強硬姿勢で、自ら制裁、制裁と突っ走ってきた人の発言にしては他人事のような言い方だが、「北朝鮮は米国の発信を甘く見ない方がいい」という発言には、米国に追従する方向でしか政治というものを考えることのできない人の本心がよくあらわれているように思う。安倍氏にとっては、米国の思惑だけが重大関心事なのであり、北朝鮮の苦衷などはまったく問題外なのである。

2003年に加藤周一と大江健三郎が雑誌の対談をしており、そこでは核をめぐって北朝鮮の話題も出ていた。最近その内容を思い出して再読してみたのだが、大江健三郎が提言し、加藤周一も賛成しているその会話の内容には私もつくづく共感した。以下に引用する。

「  核の傘から出ること
 加藤 大江さんがいまおっしゃった中に、「帝国」という言葉があります。この言葉は、少なくとも第一次大戦以後は、いい意味では使われないですね。「帝国主義」といえば悪いし、「帝国主義的支配」といえば悪い。私は第一次大戦後に生まれた人間だけれども、私の生涯の中で「帝国」という言葉をいい意味で使った例は知らない。ところが、今年になってから、米国では、真面目な新聞や雑誌の論文などに、「帝国」という言葉がいい意味で出てきている。これは意味論的に言えば画期的だ。「悪いやつはみんなアメリカが征伐してやるから安心しろ」という意識が、デメリカ人の中に出てきている。
 私は、核拡散防止体制が限界に来るのは時間の問題だと思います。なぜなら、合理的な理由づけのない不平等性があまりに激しい。だから、それを固定しようとしても、無理がある。フランスは核を持っている。イタリアは持っていない。「なぜですか?」と言われると困るでしょう。中国は核武装していて安全保障理事会の常任理事国。「どうしてインドの核兵器はいけないのか?」とインド人に言われたら、答える言葉がない。現にインドにも拡散する傾向が出てきている。持つと持たないとの間に、正当化されない合理的な理由なしの不平等があるというのが、不拡散条約風化の理由の一つ。
 もう一つは、核保有国の間での格差がまた大きすぎる。核弾頭の数だけから言っても、10のオーダーと、100のオーダーと、さらに何千発というゼロの三乗の数を持つ国がある。これだけ極端な違いがあると、包括的核実験禁止条約(CTBT)などといっても簡単にいかない。それが現存する極端な不平等を強化するように作用するからです。こういう体制は長くもたない。長期的安定のための唯一の方法は、核廃絶、つまり目標がゼロで、それに向かって何千発も持っている国が具体的なプログラムを示して、それを実行することだけです。現状維持は空想的だ。
日本の場合、核兵器を拡散させたほうがいいという立場ではないけれど、「現状維持で日本は核開発しません」では駄目なのです。世界が減少のほうに向かわない限り不拡散体制が崩れるのは時間の問題ですから、周りの国が核武装した時に日本だけしないのかどうかという問題が出てきてしまう。その問題は解決するのが非常に困難だから、何より日本はそういう問題をつくらないようにすべきなんです。それには世界全体が減少の方向に行くしか道はない。日本は核兵器反対、情勢がおかしくなったら非核三原則を手直しするというのではなくて、逆に徹底させると言えば、合理的に筋が通る。核問題には、ほかに出口はない。
 大江 私も、核兵器を廃絶するには、核兵器を持っている国が、核廃絶に向かって本気で取り組むほかないと思います。実際、「核の冬」の恐怖の認識から、その方向に進みかけたこともあった。そして、冷たい戦争が終わってアメリカとロシアが、核兵器を大幅に削減してゆこうという条約(START)を結んだ。あのとき核廃絶は可能だという気持ちを、私ははじめて持ちました。ところがその勢いが、9.11以後、すっかり背後に退いてしまい、暗い気持ちでいます。
 いまおっしゃった非核三原則を日本が徹底するということはその通りですが、私はあらためて日本は核兵器の被害を被った国として、その被害をよく知っている国として、核兵器に反対する権利があるということをいいたいのです。そして、本当に日本が核兵器反対ということを、特に東北アジアの中国や北朝鮮に対して表明しようとすれば、アメリカの核の傘の中にいるのは、やめなければいけない。
 加藤 もちろんそうです。
 大江 非核三原則を強調する人も、日本がアメリカの核の傘の中にいることへの異議は申し立てません。日本人は、戦後アメリカの核の傘から出て核廃絶に向かう方向を主張しようとはしなかった。日本が北朝鮮を説得できる唯一の道は、日本はこれからすぐ始めて、アメリカの核の傘から脱退する方向に、まず5年間なら5年間、全力を尽くすという約束をすることしかないと思います。
 加藤 核保有の根本的な前提は、国の安全を保つためには核兵器が必要だという考えですね。北朝鮮に「核兵器をつくるのをおやめなさい」と言えば、向こうは「核兵器は自国の安全のために必要だ」と言うでしよう。核兵器は安全のためにあるということを前提にすると、北朝鮮は核の傘に入るか、安全を犠牲にするか、どちらかしかない。それは要求できないと思います。日本の安全のためには核兵器が必要だということを前提にしながら、核兵器の放棄を他国に求めても、意味をなさない。
 大江 その通りです。それはアメリカの核の傘から出てからいうことです。」(「私はなぜ憲法を守りたいのか」『世界』2003年1月号・加藤周一対話集「歴史の分岐点に立って」収載)

「本当に日本が核兵器反対ということを、特に東北アジアの中国や北朝鮮に対して表明しようとすれば、アメリカの核の傘の中にいるのは、やめなければいけない。」という大江健三郎の発言はまったくの正論だと思う。現状で、いくら北朝鮮の核実験非難を繰り返しても、相手が聞く耳を持つはずがない。客観的に見ても無意味で耳障りな雑音にしかならないことは明白だ。 また「核拡散防止体制が限界に来るのは時間の問題だと思」うと語っている加藤周一の言葉はこのときから10年後の現在現実のものになりつつあるのではないか。これは初めて知って驚いたのだが、こちらのブログによると、キューバのフィデル・カストロは、2010年9月24日、カストロを訪ねて会談した北朝鮮の政治家に対して、北朝鮮の核開発を支持すると述べたそうである。

「 気になるニュースがある。9月27日付の朝鮮中央通信(KCNA)によると、キューバ訪問中の北朝鮮のキム・ヒョン・ジュン外務次官が、24日フィデルと会談し、その席上、フィデルが次にように述べたと報道されていることである。
「キューバは、キム・ジョン・イルの先軍政治を、米国の核脅迫から国家主権と社会主義を守るために核兵器を含む強力な戦争抑止力を持つにいたったことを、全面的に支持すると、フィデル・カストロ、キューバ共産党第一書記は述べた」
なお、奇妙なことに、9月22日の朝鮮代表団のキューバ訪問については、キューバ国内で報道されているが、この件については、会談の事実さえ報道されていない。もちろん、朝鮮中央通信の虚偽の報道と考えることはできない。」

上記カストロ発言が事実ならば、カストロ発言の真意として考えられるのは、北朝鮮に対する米国の脅迫が言葉だけでは終わらない可能性が高いと見ていること以外にはないのではないだろうか。同じ年、カストロには韓国の哨戒艦沈没事件に関するこういう発言もあった。

それでは、以前途中まで引用した李泳禧氏の講演の最終部分を以下に引用しておきたい。

「 まず、北朝鮮に対する国家承認をしてほしいとのことでした。米国のキッシンジャー国務長官が1976年に国連安保理で、朝鮮半島の軍事危機は停戦協定体制であるから、これを政治的に解決すれば軍事的脅威が解消できる。ソ連と中国が大韓民国を国家承認すれば、米国が日本と共に朝鮮民主主義共和国を承認し、それと同時に南北朝鮮を共に国連に加入させると公式提案をしたことがあります。
 そうなれば朝鮮半島から軍事的な威嚇が去り、平和が定着するはずだということでした。その政策が即ち「クロス承認・国連同時加入」であります。そうすれば軍事的な要素は消え、政治的な平和構造が定着するとみて世界の国家がみな同意しました。ところがこの1976年に米国が公式的に世界の政治の場である国連総会で提案した南北朝鮮クロス承認が、今はどうなりました? ソ連と中国は韓国を国家承認してすでに数年になります。それどころかソ連は、北朝鮮と締結した軍事防衛同盟を廃棄し、1991年に韓国と国交正常化をしました。中国も同様に大韓民国との友好関係・国家承認・外交関係樹立・国連加入支持などの公約を守りました。ならばクロス承認を提議した米国と日本はどうでしょう? 25年が過ぎた今でも色々な口実、すなわち「核問題がある」、「金倉里地下施設が疑わしいので現場検証をさせろ」、「ミサイル問題がある」などのあらゆる口実を付け、北朝鮮に対する国家承認を拒否しています。ですから北朝鮮が国家承認をしてくれ、ソ連(ロシア)と中共(中国)は韓国を承認したではないかと要求することは、実際問題としても論理的にも正当な要求だといえるでしょう。
 次に、米国の核戦略から北朝鮮に対する核先制攻撃原則を廃棄してほしいという要求です。何の話かよく分からないでしょう? 米国は地球上で40ヵ国以上と軍事同盟を締結しています。日本、韓国、タイ、中南米国家……現在はNATO国家がさらに増えて45ヵ国になりました。その米国が保護しようとする下位同盟国家を攻撃しうる過去のソ連や東欧共産国家に対して、米国がどんな核戦略を維持していたのかというと、相手の在来式軍事力の攻撃に対しては在来式軍事力で対し、核兵器に対しては核兵器で対応するという、いわゆる相互原則でした。ソ連やワルシャワ同盟国家に対しては、在来式武器で軍事行動をしてくる時に米国は核兵器で攻撃するという戦略原則はなかったのです。すなわちソ連と東欧国家には「核先制攻撃」をしないという原則でした。それはみな白人国家を相手にしたものであります。相手が共産主義者であれ何であれ、白色人種国家に対しては厳格に相応して対応する核戦争原理でした。ところが米国は唯一北朝鮮に対してだけは、「核先制攻撃」原則を極めて公開的に宣言していました。すなわち北朝鮮が在来式武器で軍事行動を行っても、米国は即、核で攻撃するという戦略原則を堅持しているのです。これが米国の韓国駐屯軍とその核兵器の用途だったのです。北朝鮮は、常時的な米国の核攻撃脅威を感じている模様です。北朝鮮は米国との核協定に同意する交換条件の一つとして、米国の北朝鮮に対するこの「核先制攻撃」戦略原則の修正を要求しました。
 三つ目は、北朝鮮の社会体制を認めてほしいという要請です。これは、北朝鮮が社会主義国家として生きていく権利を認めてほしいという要求なのです。一国家の体制とは、その国民と政府が選択する権利を持っているのです。にもかかわらず米国がその主権的選択権まで脅かすので、そんなふうに「哀願」したのです。
 四つ目は、米国がこれまで50年間堅持している、北朝鮮に対するあらゆる経済・金融・通商などの禁輸・禁止・包囲政策を解いてほしいというものです。貿易もしなければならず、また北朝鮮に投資したり工場を建てたりするといっているドイツ、英国、フランス……などの国家の企業が、米国が強要している禁止制度と条約のため全く身動きできずにいるため、これを解いてほしいというものです。
 朝米核交渉において北朝鮮が米国に要求したこの四つの条件を見ると、それらは少しも攻撃的な性格ではなく、むしろ生き残るために米国の北朝鮮圧殺政策を解いてほしいと「哀願」するものでありました。北朝鮮と米国間の核交渉は、ざっとこのように進行してきました。結局、北朝鮮の基本的な核凍結受諾の代価として米国が北朝鮮の要求をおおむね承認したものが、1994年10月に締結された「朝米核(ジュネーブ)協定」です。
 ところがこの核協定の内容を、どちらが守り遵守していて、どちらが守らず違反しているかという問題があります。それより前に、皆さんも思い出してみて下さい。米国が途方もない攻撃艦隊を北朝鮮周辺に配置し、われわれに対して、アパッチヘリコプターを買え、地対空ミサイルを買え、このように強要したことがありましたね。それは全て北朝鮮に対する戦争のための準備であり、日本の軍隊にも出動を命じた計画書がありました。朝鮮半島の周辺状況を予想する米国と日本の軍事共同作戦・戦略という「ガイドライン」が、実際には1994年のその時、全て成立したのです。米国が戦争威嚇で核協定条件の受諾を強要するや、北朝鮮は国家的危機を甘受せよという圧力に対しては屈服できないと、核拡散禁止条約脱退意志を表明しました。皆さんが聞かれたのは、核拡散禁止条約から「脱退した」ということでしたね? その度ごとに米国と韓国の報道機関は、アカどもには条約も信義もなく、無条件に全部廃棄してしまうやつらだ、という非難をしました。しかし事実は、脱退したのではありませんでしたね。脱退したのではなく、「脱退する」「脱退する用意がある」と宣言したのです。韓国国民は、その言葉の違いを知らずに米国が主張するまま、北朝鮮が核拡散禁止条約から脱退した、悪い奴だ、条約違反だ、核兵器を勝手に作るという意味だ、このように論理を飛躍させ、途方もない恐怖の雰囲気を作ったのです。
 核拡散禁止条約第10条は、このように明らかに規定しています。「この条約の会員国として、この条約と関連した状況の進展が自国の国家的存立に致命的な危害となる状態であると認定される時には、この条約から脱退しうる権利を持つ。ただし脱退しようとする時には、3ヵ月前に条約当局に事前通告をしなければならない」というものです。北朝鮮は先ほど申し上げたように、1991年末に朝鮮半島で米国の地上核兵器が撤収されたと公式発表があった(12月18日)直後(12月22日)に、即刻国際原子力機構(IAEA)の核査察を受諾すると署名しました。それでIAEAに加入したのですが、米国がイラクに対して行ったように北朝鮮を攻撃する事態になったため、それを「自国の国家的存立に対する致命的な危害」とみなして、核拡散禁止条約第10条の権利により脱退すると、3ヵ月前に公開的に意志表示をしたのです。言い換えれば、北朝鮮はその10条に基づいて3ヵ月後に脱退すると通告したに過ぎないのです。その時米国が行おうとした対北朝鮮軍事攻撃が、その10条に該当する程度であったか否か、これについての解釈は、北朝鮮と米国が互いに異なることは考えられます。しかしながらその判断の主体は北朝鮮であり、米国ではありません。
 このように、戦争の一歩手前まで行った迂余曲折の末、1994年11月に北朝鮮と米国が締結した核協約においては、6ヵ月ごとに双方が守らなければならない具体的措置が規定されています。北朝鮮が一年間、原子炉2基を閉鎖し、そうすると電力がなくなるので、電力を生産しうる油が欲しいと言って、年間50万トンの油を米国が提供することになっているのは、皆さんご存知のはずです。ところが実際は、初年度に50万トン欲しいといったのに一年半、二年近くなっても渡さないので、北朝鮮がこのままでは原子炉を再稼働すると言ったのです。われわれは、このことについて「あいつらアカどもは、あんなふうだ」と言っていましたが、実際は米国が油を2年近く与えていなかったものでした。約束違反を指摘して米国を非難する声は、韓国では一度も聞くことはできませんでした。どちらが協定違反をしているのでしょうか? わが国では、極右反共・反統一・反平和的勢力が前に立ち、『朝鮮日報』をはじめとして、50万トンの油が人民軍戦車、戦闘機燃料として入っていくと反対の声を上げました。事実はそのようなことが可能な状態ではないでしょう。ロシアは北朝鮮に対し、それまでソ連時代に年間100万トンずつ、非常に安価で提供していた油類を、5万トンに減らしました。中国も20万トン程度を、金を受け取って提供していました。戦闘機用燃料は、オクタン98以上の精油でなければなりません。極端に言うと、自動車を動かすガソリンでもオクタン90程度は必要です。協定により北朝鮮に提供する油は、そのようなものではなくナフタです。言わば、どろどろの油です。北朝鮮はこれを燃料の代わりにして、火力発電所を稼動し、電力を生産しようとしているのです。もちろんこれを発電所に使えば、発電所で使われていた別の油を戦車に使うことができるのではないかと言われる方もおられるでしょうが、とにかくそのような供給基準では全くないことを、知る必要があります。
 朝米核協定調印後4年が過ぎて5年目に入ろうとしている今、1999年6月から7月になって協定上の合意通り履行されたとするなら、どの程度にならなければならないか? 北朝鮮は原子炉二基を完全に閉じて、その代わりに米国の代替エネルギーが完全に稼動し、また国際原子力機構の査察が進んであらゆる危険なウラニウムなどは全部なくなり、容れ物だけ残るようになる状態です。これに対応して米国がどのような措置をとるべきであったかというと、前に北朝鮮が要求して米国が同意した経済封鎖、金融・技術封鎖を、既に解いていなければならないのです。また北朝鮮が海外に持っている資産に対しても(米国にあるものはおおむね2200万ドルと把握しているのですが)、封鎖、または禁止を解除しなければなりません。
 協定を締結した3ヵ月後の1995年初めには、大使館の初歩的形態である「連絡事務所」を、それぞれワシントンと平壌に設置することに合意しました。つまり1994年10月に合意をしたのですから、1995年1月には、米国の代表部が即平壌に行っているべきでしょう。そして今頃には、代表部が格上げされて大使関係に移れる政治交渉となっていなければなりません。ところが不幸にも米国では、交渉に調印したところの翌年の総選挙において、共和党が議会を支配するようになりました。行政府はクリントン民主党行政府なのですが、議会は反共・反北朝鮮・反ロシア的な共和党が支配するようになりました。その議会が朝米核協定で決定された合意項目全部に対して、共和党支配の上院の同意を得てはじめて執行できるという付帯条件をつけた決議案を通過させてしまいました。
 そのように米国側の様々な義務は、ほとんど執行されないでいる状況です。昨日新聞を注意深く読まれた方がおられましたら、米国議会で北朝鮮に対するこのような条件を緩和しようという兆しが見られるという小さな記事があったことを見られたでしょう。北朝鮮との核条約執行のための行政府の手が、北朝鮮との関係正常化を絶対に願わない共和党支配の議会によって、がんじがらめにされてしまいました。米国の国務省は北朝鮮側の朝米核協定を「履行している」と言っていますが、議会は頑として北朝鮮の息の根を止めようとする政策を改めようとはしません。日本・韓国・英国が北朝鮮市場に入っていく前に、米国の企業と財閥が入っていかなければならないのに、議会がそのようにすれば米国の損害が大きいとするクリントン政府の説得工作も効果がありません。結局、核心的な問題は北朝鮮側にだけあるのではないという事実、北朝鮮の核問題において、協定締結6年が近づいてもいまだに紛糾が絶えない大きな原因が、米国側にあるという事実です。この事実だけ知っていればいいのです。」(「朝鮮半島の新ミレニアム 分断時代の神話を超えて」社会評論社・2000年)

なお書き遅れましたが、この本の監訳は徐勝氏、訳は南裕忠・広瀬貴子氏のお二人です。
2013.03.20 Wed l 社会・政治一般 l コメント (2) トラックバック (0) l top
文末に追加があります。(3月10日)

ベネズエラのウゴ・チャベス大統領の早過ぎる死を残念とも悲しいとも感じた。訃報を知った多くのベネズエラ市民の心のうちは、このサイトに「チャベス大統領死去 ベネズエラ首都で市民が哀悼」と題して掲載されている7枚の写真にもよく現れているように思った。敬愛してやまない人物を突然奪われた事態への深い悲しみ、嘆き、苦痛が表れていない顔は一つもないように感じる。チリのピネラ大統領は、「 病状が悪化し、彼が治療のためキューバに戻った時、私は彼に電話した。思い出すのはその時に、死が避けられないのなら、愛してやまないベネズエラで迎えたいと彼が語っていたことだ。」(朝日新聞デジタル)と述べているので、チャベス大統領は大分前から自分の死期を覚っていたようでその無念さを思うと胸が痛む。エルサルバドルのフネス大統領は、強力なリーダーシップをもったチャベスの死は中南米に政治的空白を生むだろうと述べつつ、「しかし何よりも、ベネズエラ国民の心にむなしさをもたらすに違いない。」と述べているが、この発言は米国の今後の動向を想像すると気がかりにはなる。

ところで、米国のオバマ大統領はこの度の訃報について、「チャベス大統領死去というこの厳しい時期にあって、米国はベネズエラ国民を支援するとともに、同国政府との建設的な関係の構築に関心があるということを再確認する。ベネズエラが新たな時代に入るに当たり、米国は、民主主義、法による統治、人権尊重を促進する政策に引き続き取り組んでいく」(ロイター・3月6日)と述べている。哀悼の意を表するどころか、邪魔者が死んでくれてやれやれ一安心と言わんばかりに聞える発言だが、それにしても「米国は、民主主義、法による統治、人権尊重を促進する」という言葉が今では何と虚しくひびくことだろう。いったい現在米国のどこに、どの政策にそういうものが欠片でも存在するというのだろう? こういうツッコミやつぶやきはおそらくオバマの発言を耳にするやいなや世界のあちこちで即何万、何十万回もなされたことだろう。

さらに毒々しく底意地の悪い言葉をこれでもかと言わんばかりに並べ立てていたのは、「ウォール・ストリート・ジャーナル」(3月7日)の「【社説】チャベス氏が残した教訓―カリスマ扇動政治家には要注意」(3月 07日)という記事であった。いわく、「同氏の死により、チャベス時代がようやく終わるが、ベネズエラ国民の生活はこれまで悪くなる一方だった。」「1998年時点で、ソビエト連邦はとっくに崩壊し、メキシコからチリまでさまざまな南米諸国は自由市場政策の導入に成功し、チャベス氏が手本としていた友人――キューバのフィデル・カストロ議長――はすっかり信用を落とした時代遅れの人物となっていた。」「ベネズエラ国民、特に貧しい人々の生活は悪くなる一方だった。裕福な国民は海外へ逃げることもできるが、より恵まれない立場にある人々は今、物価統制と資本統制のおかげで日常的に食料・医薬品不足に苦しんでいる。」「首都カラカスの殺人発生率は世界有数となっている。橋や道路は修理が必要な状態にあり、停電も多く、未処理の下水が飲料水を汚染している。」「 チャベス氏は、シリアのアサド大統領やイランのアフマディネジャド大統領と同盟を結んだり、麻薬テロ組織コロンビア革命軍をかくまったり、キューバのカストロ政権に石油を無償供与したり、米国を大声でののしることで国際的に名を上げた。エクアドルやボリビアで政治的な模倣者を生み出すことにも成功した。」等々。

死者を足蹴にするこれらの特異な言葉の羅列のなかでもとりわけ目を引くのは、「ベネズエラ国民、特に貧しい人々の生活は悪くなる一方だった。…より恵まれない立場にある人々は今、物価統制と資本統制のおかげで日常的に食料・医薬品不足に苦しんでいる。」という言葉だろう。悪質な嘘がシャーシャーと発せられているが、これは嘘も百ぺん繰り返せば本当のことになる、という過去のサンプルを忠実に実践しているのだろうか? 大統領の死に際してベネズエラのある市民は「貧しい私たちのために尽くしてくれた大統領に感謝の気持ちでいっぱいです」(NHK7日)と声を詰まらせた。「同国北東部プエルトラクルス(Puerto La Cruz)から駆け付けた女性(62)は、大統領が石油収入を元手に制定した低所得者向け社会福祉制度の1つに触れ、「大統領がキューバから連れてきてくれた医者のおかげで、自分は元気でいられている」と語った」(AFPBB News・2013年 03月07日)。貧しい人たちこそが誰にもまして深くチャベスの死を悼み、悲しんだことは誰でもが感じとっていることだ。

社説記事はまた1998年チャベス大統領が誕生した当時、自由市場政策の導入に成功した南米諸国のなかで、キューバのフィデル・カストロは「すっかり信用を落とした時代遅れの人物となっていた。」とも述べているが、それならば2002年オリバー・ストーン監督がカストロにインタビュー取材したドキュメンタリー映画『コマンデント』を米国はなぜ国内非公開にしたのだろう? 信用を失った時代遅れの人物の映画などあえて公開禁止にする必要などないのではないか? 何より過去数十年にわたり「六百余回の暗殺」という卑劣な試みをつづけたのはいったいどこの国だったのだろう。米国は現在も過酷な経済制裁によって貧しい小国キューバを苦しめつづけているが、その理由も教えてもらいたいものである。第一、「自由市場政策」の残忍な本質を指摘しつづけてきたカストロの洞察、立場が「時代遅れ」などではなかったことは厳然たる事実として今や世界中で確実に証明されつつあるというのが紛れもない現実ではないかと思うのだが?

上記社説はまた「3月5日、ベネズエラ政府は2人の米大使館付空軍武官を強制退去させた。」と非難しているが、2002年のクーデター騒擾時や2004年の選挙時における米国の悪辣な関与を考えれば(こちらの記事参照)、ベネズエラには米国の武官を退去させるに十分な理由があっての措置だったのだろうと見るのは常識の範囲内のことだろう。「後継者と目されているニコラス・マドゥロ副大統領はがんになる毒をチャベス氏に盛ったとして米国を非難している」。確かに荒唐無稽な説のように聞えるが、何しろ無人飛行機を飛ばして敵とみなす数多くの人物を市民もろとも殺害して恥じない米国のこと、その卑劣さこそがこのような憶測を生むのだ。まずは自らを顧みることから始めたらどうかと言いたい。

それからベネズエラの「首都カラカスの殺人発生率は世界有数となっている。橋や道路は修理が必要な状態にあ」るとのことだが、これはおそらく事実だろう。しかし、ベネズエラにおいて50年前、100年前から継続してきた危険な治安や環境を98年以後のたった10数年間を統治したに過ぎない一人の大統領の責に帰することなど不可能であることはあまりに明白で、チャベスへのこの非難は記事執筆者の歪んだ意識の反映以外の何ものでもないだろう。(94年~99年までベネズエラに住んでいたという人のサイト参照。)

日本経済新聞が「時代の終わりを象徴するチャベス氏の死」という題の記事を掲載しているのでクリックしてみたところ、これは「英フィナンシャル・タイムズ紙」のものだった。私はこの言葉をあまりにも的外れ(つまり「時代遅れ」)のように感じて思わずクリックしたのだが、内容は、上記ウォールストリートジャーナルのものとほとんど瓜二つといっていいものであった。こちらがチャベスの死を「時代の終りを象徴する」出来事としている点は、カストロを「時代遅れの人物」とした「ウォール…」の見方に相通じるし、末尾を飾る「 彼は貧しい人たちのことを思い、テレビ伝道師のような華々しさで彼らへの愛を見せ付けた。感動的ではある。だが、彼の死はこの地域にとってよかったとしかいいようがない。」とチャベスの死を言祝ぐ言葉も「ウォール…」の記事にそっくりである。しかし彼らはこういう記事を書くことによって自分たちが「特に貧しい人々」、「より恵まれない立場にある人々」、「この地域」の人たちに対して侮辱の限りをつくしていることに気づいていないのだろうか。それともすべてを計算し尽くした上でこういう非人間的文句を吐き散らかしているのだろうか。それにしても、2001年の9.11以後の米国の度重なる侵略戦争とそれに伴う破壊と大量殺戮、そして米国先導の市場主義経済の拡大により、この国の冷酷な本性が普通の一般市民にも確実に察知されてしまっていることは、今回のウゴ・チャベス大統領の死去に際しても折りにふれてかいま見られたように思える。


追記
藤永茂氏のブログ「私の闇の奥」に「驚くべき映像の数々を見つけましたのでお知らせします。」との言葉とともに下記のサイトが紹介されている。

libia360

藤永氏は「 とにかくチャベスの柩とともに流れる人間たちの巨大な大河をご覧下さい。」と書かれている。皆様ぜひご覧になってみて下さい。

2013.03.09 Sat l 社会・政治一般 l コメント (4) トラックバック (0) l top
先程NHKテレビで次のニュースが流されているのを見た。

「 北朝鮮軍の最高司令部は5日夜、アメリカ軍と韓国軍の合同軍事演習に反発して、「今月11日以降、朝鮮戦争の休戦協定を白紙とする」と一方的に宣言するとともに、「追加の対抗措置を連続して取る」と警告し、再び核実験などに踏み切る構えを示しました。

 これは、北朝鮮軍の最高司令部の幹部が、5日午後8時から国営テレビを通じて声明を読み上げたものです。
 声明は、アメリカ軍と韓国軍が今月1日から2か月間の日程で行っている定例の大規模な合同軍事演習について、「最も露骨な軍事的挑発だ」などと厳しく非難したうえで、「より強力で実質的な対抗措置を連続して取ることになる」と警告し、先月に続いて、再び核実験などに踏み切る構えを示しました。
 さらに北朝鮮軍は声明で、朝鮮戦争の休戦協定を、米韓の合同演習が本格化する今月11日以降、完全に白紙とし、軍事境界線にあるパンムンジョムの北朝鮮側代表部の活動を全面的に中止するとしています。
 北朝鮮軍は先月も、韓国に駐留するアメリカ軍の司令官に対して、「演習を強行して戦争の導火線に火をつけるなら、その瞬間からあなたたちにとって最もつらい時間が流れることになる」とけん制しています。


先日、毎年行なわれる米韓の強力な共同軍事演習が長年北朝鮮にどれほど深い脅威をあたえてきたかについての李泳禧氏による韓国国内での講演(1998年)の内容を「北朝鮮の核と米国」で一部紹介した。このような実態について日本国内ではほとんど知られていないと思われるが、「ロシアの声」によると、昨年8月米韓は、「北朝鮮に対する侵略・占領・治安維持を想定した」軍事演習を敢行したという。この記事には、 「先例のない挑発」という題が付けられていた。

「「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、韓国を占領することを想定した軍事演習を行う」もしも平壌がそうした発表を行えば、世界に一大センセーションが巻き起こるだろう。国連安保理の紛糾も避けられまいし、侵略を説得する怒号にも似た依願が寄せられるだろう。さてここで、韓国紙「ドナ・イリボ」を覗いてみよう。ここに、最近行われた韓米共同軍事演習についての記事がある。演習は、韓国軍による北朝鮮の占領を想定したものだったという。しか しこの記事は、ほとんど耳目を引くことなく看過されてしまった。
 朝鮮半島情勢に関するダブルスタンダードは全く露骨だと、ロシア科学アカデミー極東研究所のコンスタンチン・アスモロフ研究員は考えている。
 ― 北朝鮮が人工衛星を打ち上げると、あたかもミサイルが発射されたかのように騒ぎが持ち上がり、紙面に「標的はソウル」「東京に向けたもの」といった大きな活字が並ぶ。しかし韓国が、北朝鮮占領という具体的目的に基づく具体的な軍事演習をしても、世界は何の反応も示さないのだ。
 韓米共同軍事演習が行われたのは8月のことだったが、演習が北朝鮮占領およびそれに続く治安維持を想定したものであったと明らかになったのは最近のことだ。このような課題をもった軍事演習は始めてのものだとコンスタンチン・アスモロフは指摘し、さらに次のように続けている。
 ― これまで演習では、北朝鮮から攻撃が加えられた場合の行動が訓練されていた。韓国はこれら軍事演習を、外国の侵略に対する防衛的意味のものだと正当化することが出来た。翻って今度の演習は、本質においてほとんど挑発である。韓国と米国は、北朝鮮の神経を逆なでしただけではない。本質において演習は、アジア太平洋地域全体の利益を損ねかねない侵略的傾向のデモンストレーションだったのだ。(略) 」

軍事衝突は一度始まってしまえば、もう誰の手にも負えなくなってしまうことがこれまでの歴史的経験から明らかだろう。そんなことには決してならないと思ってはいるが、ただもうこれまでのように北朝鮮に対して一方的に轟々たる非難を浴びせてそれで済む問題ではなくなっているだろうと思う。北朝鮮に対する米(韓日)の行動と姿勢はここまではたして北朝鮮側よりもいくらかでもマシだったといえるのか、ほんの少しでも相手より道義に優り、いくらかでも誠実に行動したと判断されるのかが問われなければならないように思う。問題の考察のために前回につづいて李泳禧氏の講演の後半部分を以下に紹介する。


 朝鮮半島の核危機――北朝鮮よりさらに大きな米国の責任
 北朝鮮の核と米国の核問題については長々と説明する余裕はないのですが、概して北朝鮮の責任が三分の一、韓国の責任三分の一、米国の責任三分一と、これほど責任の分布が複雑です。むしろ事実は米国の責任が圧倒的と言うのが真実に近いのです。われわれは北朝鮮だけの責任と犯罪行為であると言っていますが、実際は違うのです。1989年度末から北朝鮮が核原子炉を建設し始めた時期の北朝鮮の経済力、GNPは、韓国の15分の1、20分の1です。駐韓米軍を除外しても韓国の軍事力がすでに北朝鮮軍事力を圧倒する状態でした。駐韓米軍と核兵器を併せた韓米共同軍事力は、北朝鮮にとっては常に脅威的な存在でした。戦争の能力がこのように偏ることになります。だから北朝鮮としては、そのような論理から始まったのだと見ることができます。
 なぜ米国がそのように北朝鮮に対してだけ執拗に戦争を強要するのか、これを考える必要があります。おもしろい事実は、1991年、1992年現在、核拡散禁止条約に加入しなかっただけでなく、国際原子力機構の原子炉査察を拒否している国が世界に28ヵ国あったということです。核施設を作っている国は10余ヵ国もありました。この28ヵ国に対して、米国が北朝鮮に対して行っているように、戦争で屈服させると脅迫しているのを見たことがありますか? もちろんないでしょう。事実、ありませんでした。ご存知のように、一昨年末にパキスタンとインドがついに最終的な実験をしましたが、特に重要なのはイスラエルと南アフリカ共和国です。イスラエルは1980年代半ばに既に核弾頭約100個、そしてそれを装着してソ連のウラル山脈まで飛ばすことができるミサイル約200基を保有していました。ところでどうしてイスラエルがこのように恐るべき核軍事力を作ったのでしょうか? 皆さんは米国がアラブ国家に、核兵器や化学・生物兵器、大量殺傷武器を持てないよう圧力を加えていることはよくご存知ですね? ところがイスラエルは、既に核兵器保有国家になったということなのです。だからアラブ国家は米国に対して、「米国はわれわれには圧力を加えるのに、なぜイスラエルに対しては言わないのか、米国はイスラエルが核兵器国家であることを充分承知しているではないか?」こう反駁してきました。それで1991年、米国のイラク攻撃戦争後に、アラブ国家が米国に対してこのような問題を強力に提起したのです。「われわれが持っている情報によれば、イスラエルの核弾頭に使われたウラニウム原料は、米国政府が管理している倉庫から出てきたことは確かである。われわれはその証拠を提示することもできる。イスラエルの核武装は米国が支援していると理解する。証拠もある」と、このように言ってきました。ウラニウム、プルトニウムなどの購入、貯蔵、開発などの責任機構は米国政府の子不ルギー省ですが、何日か後にエネルギー省のスポークスマンが公式的に釈明をしました。「アラブ国家が提示している問題のため調査を行ったところ、エネルギー省のウラニウム倉庫からウラニウムがわれわれも知らない間に盗難にあった事実を確認した」ということでした。なんと見え透いた弁解でしょうか? 中東アラブ地域においてイスラエルは、米国の事実上の代理人でありますからね。
 南アフリカ共和国(過去は連邦)は、少数白色人種による多数黒人種隔離政策で悪名高い国家・体制でした。人類史上その残忍性は、ナチのヒトラーのユダヤ人・共産主義者・社会主義者・ジプシー・労働運動家・知識人600万人の大虐殺に次ぐ反人類的政権でした。その南ア共和国で1992年8月に、米国の核技術者とCIA要員が南ア共和国に協力して、南ア共和国が生産した核爆弾6個半を解体しました。
 なぜそんなことをしたのでしょうか? 皆さんご存知の通り、米国は南部アフリカの20余ヵ国家を制圧する南ア共和国を強化するため、南ア共和国の核武装を支援したのです。ところがその2年後には、黒人指導者マンデラが率いる黒人多数勢力政権が執権するようになりました。マンデラは、米国が煙たがる社会主義的思想傾向の指導者でした。米国は、南アフリカの国家に対する覇権確立のために、人類史上ヒトラーに次ぐ極悪な政権と国家と体制の核武装化に協力したのですが、米国の覇権主義に反対する黒人政権にその核兵器を引継がせるわけにはいかなかったのです。イスラエルと南ア共和国に対する米国の核政策は、世界における米国の核政策の偽善性と欺瞞性を立証する代表的な事例です。北朝鮮と米国の核対決の真意を理解するのに、役に立つことでしょう。

 朝鮮半島核危機の本質とその責任の分布
 1990年代初め、核拡散禁止条約にも加入せず、核査察も拒否する国家が28ヵ国もあったのに、なぜ唯一北朝鮮に対してだけ、そのように意地悪くしたのかを考えてみるべきです。ソ連が崩壊した後、米国が唱えた「世界新秩序」というものが、米国だけで全世界を支配する秩序であることは皆さんもご存知のはずです。すなわちそれまでのソ連と米国の「両国支配秩序」を、米国の単独支配秩序にするという決意の表示でした。その見本として、圧倒的軍事力でいくつかの国の軍隊を無理矢理引き込み、あたかも国際的合意であるようにイラクを叩き潰しました。米国の「世界新秩序」とは、「(一)米国は、今後旧ソ連の領土に、過去のソ連のように米国に対して競争者的な力を持つ国家や軍事力が生まれることを絶対に容認しない、(二)地球上どこにおいても、米国の指示に従わない国家や政権は容認しない、(三)そのような群小国家は早急に低廉な費用で打倒してしまう、(四)その目的のために可能ならば国連を利用するが、国連が軍事行動に反対するときには米国単独で処理する、(五)そのために米国は、全世界国家の軍事力を合わせたものより強大な軍事力を常時維持する」というものでした。ロシアは既に米国の核の敵ではありません。二等国家程度にもなりません。実際にソ連の核ミサイルは、今、米国が金を与えて解体しています。ただ、今解体しているものを全部解体しても、二国合わせて一万個は残るでしょうが。ロシアは、米国が現在さかんに行っている最中のユーゴスラビア連邦コソボに対する戦争が気に喰わないので、ロシア艦隊を送るだとか何だとか言っていますが、ロシアにそのようなことができる力はありません。経済や金融や軍事力全て、米国に依存していますから。そうなると、それ以外の二等国家、三等国家は米国の要求や米国の利益に挑戦することは想像すらできません。世界は米国単一支配の下に置かれる、これが米国の構想したいわゆる「世界新秩序」の内容であり、目標です。
 米国は力の行使に国連の力を借りたり国連の権威を利用しようとするものの、国連が協力してくれなければ国連を度外視し、単独行動し、国連であれ何であれ米国独断で世界秩序、すなわち米国の覇権を確立し進むというものです。これが1991年のソ連崩壊後に、米国のブッシュ大統領政権が世界に公表した「世界新秩序」という国家目標と理念の中身です。それでイラクを攻撃した1991年から常にそのようにしてきました。米国の国防長官と連合参謀部長が、それぞれその年の米国軍隊の軍事力の用途、そして米国軍隊が今年何を目標として動くかという計画書を、議会の上院軍事委員会に提出します。1992年の計画書を見ると、米国が今後「攻撃する」国として5力国を列挙しているのですが、イラン、イラク、リビア、キューバ、そして北朝鮮の5力国です。ところが1993年度にはイランが抜けます。それで4力国が、イラクは現在も続けている状態なので別個にすれば、3ヵ国(政権)だけが残ることになります。リビアのカダフィ大統領、キューバのカストロ、北朝鮮の全日成主席、ところが1994年になり、リビアも抜け、キューバも抜けて北朝鮮一つだけが残ります。そして何と言っているかというと、今年(1998年)、米国の軍事力は北朝鮮を一気にぶっつぶしてしまうというのです。それで先ほど申し上げたように、1994年夏には3年前イラクを攻撃したような規模と最先端の軍事力が北朝鮮を包囲して、ただ攻撃日と時間だけを検討していました。
 ところが米国大統領や軍部強硬派にとってツイていなかったのは、カーターという前大統領が平壌に行ったことです。カーターが行って金日成主席と協議をしたのですが、金日成は核協定に同意すると言い、南北首脳会談もする用意がある、国際原子力機構の査察も受けると言ったのです。核原子炉を除去はするが、ならば米国がなすべき義務事項があると言って次のように提議しました。 」

つづく
2013.03.06 Wed l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
浅井基文氏はご自身の運営サイトのコラム欄でよく「他者感覚」の必要性を強調され、われわれ日本人には一般的にこの性質が著しく欠けているのではないかと問題提起をされているが、最新の「客観的基準に基づいて朝鮮を見よう -世論の力で日本の対朝鮮政策の変化を促すために-」という記事も同様のことを少し角度を変えて言っておられるように思う。何かの事件や問題事が発生すると一方的に徹底的に相手を非難・罵倒して終りにするのではなく、一度自分を相手の立場に置いてみて、そのとき自分(たち)だったらはたしてどのように行動していただろうか、と想像力を働かせて丁寧に深く考えてみることの大切さを言っておられるわけである。そして正確な解答を求めて存分に考えるためには、事実をよく知り、その事実を「客観的基準に基づい」た上で判断しようと努めなければ話にならないだろう。こういう欠如の傾向は特に北朝鮮に関して甚だしい程度で指摘できることは誰でも認めないわけにはいかないだろうと思う。

そもそもなぜ北朝鮮が核兵器の開発に乗り出す途を選択したのかということについて日本政府関係者はもちろんだが、日本のマスメディアにしても真剣な態度で追及に乗り出している姿を私は見たことがないように思う。と、他人事のようにそういう私にしても、北朝鮮が長年そんなにまで米国の核攻撃の脅威に曝されていたとはほんの10年前までまったく知らなかった。知ろうという気を起こしたこともなかったように思う。ではどのように見ていたのかというと、漠然とながら、とんでもなくヘンな国の独裁的指導者が他国の不安も顧みず好き勝手なことをやっている、とでも思っていたのかも知れない。そもそも私は、2000年にピョンヤンで南北朝鮮の金大中・金正日首脳会談が行われてその肉声を聞くまで金正日という人物は少し頭の弱い人であり、父親の金日成主席が親馬鹿心理で息子を最高指導者の地位に就けたのだくらいに思っていた。なぜそう思っていたかというと、そういう声がどこからともなくいくつもいくつも聞えてきていたからである。朝鮮戦争の過程で米国が核兵器の使用を検討したことを知らなかったというわけでもなかったのだから、今思うと完全な思考停止状態だったことが明らかで恥ずかしいことだと思う。

上記の浅井氏の指摘と同様のことを北朝鮮の問題(特に核開発問題)に関して唱える人は少なくない。数年前に亡くなられた韓国の李泳禧氏もその一人である。何年か前に「朝鮮半島の新ミレニアム 分断時代の神話を超えて」(社会評論社2000年)という本を読んで大変説得的だと思ったが、その主な理由は具体的な事実を挙げ、それに沿って議論を展開しているからにちがいないと思われる。この本から北朝鮮の核問題について考えたり論じたりするに際してどうしても知っておくべきだと思われる箇所を選んで下記に引用しておきたい。


 ダブルスタンダードを排し、相手の立場になって考える精神をもとう
 例えば、過去何十年もの間、韓国は米国とチームスピリット訓練をしてきました。その度に北朝鮮では、農民や労働者たちに銃を持たせ、その銃を持って防空壕に入り、海岸歩哨に立ち、工場生産を中断し、農村・漁村・鉱山における作業を中断して全国民が戦闘態勢に入ったのです。国家機能が一時停止する重大事態が繰り広げられました。にもかかわらず米国とわが国は常に、チームスピリット訓練とは攻撃訓練でなく「防衛演習」だ、訓練にすぎない、防衛的訓練なのにお前たちは何をそんなに大騒ぎして、われわれのチームスピリット訓練を罵倒し非難するのかと、むしろ北朝鮮側を罵倒してきました。
 ところでわれわれは、チームスピリット訓練というものが、いかなる性格と目的の訓練であるかについて知る必要があります。少なくとも1972年以降は、またそれ以前であっても、世界で最も大きな軍事ブロックである、米国が主導する北大西洋同盟(NATO)集団と、ソ連を筆頭とする共産国家集団(すなわちワルシャワ条約)間ですらも、朝鮮半島でしているような、すなわちチームスピリット訓練のような超大型・高強度軍事訓練はほとんどありません。ましてや1975年以降は、全くありません。1972年に、ワルシャワ同盟とNATO西側諸国との間に「ヘルシンキ協定」という東西和解・平和体制が推進されました。(略)それ以前からチームスピリットのような途方もない訓練はありませんでしたが、特に1972年以後には、世界地球上のどこにも、チームスピリットのような超大型規模の核攻撃型軍事訓練はありません。
これがどれほど大きな規模かというと、毎年米国の核攻撃空母2隻と、その2隻を中心とした多方向探知・発射核武装艦艇が、大体20隻から25隻動員されます。核兵器を供えた核爆撃機も加わって、北朝鮮の東西海岸周辺と停戦ライン上空を、絶えず飛行します。そして地上で20万、多い時には27万の韓・米両国軍が模擬核戦争を展開します。これが一日二日ではなくて何日も何昼夜も「防御訓練」という名目の下に、核爆撃機が北朝鮮の停戦ライン上を飛び回り、20余万名の兵力が20余隻の強力な海軍の掩護の下、停戦ラインの間近で上陸作戦訓練を続けます。北朝鮮の立場で見れば、20万の大兵力が自分たちの鼻先で上陸作戦を展開し、射撃し、急降下を行い、模擬核爆弾投下演習をするということなのです。途方もない訓練です。米国と韓国はこのような超大型規模の恐るべき核武装軍事訓練を「防禦訓練」だとか「演習」だとか言ってきたのです。
(略)武器には、戦車であれ戦闘機であれ、攻撃用と防御用を別に設計して別に作るというような方式はないのです。命令が変われば、攻撃用になったり防御用になったりするのです。また本当のところは、攻撃をするために防禦式の演習をするだけであって、実際の目的は北朝鮮に対する攻撃のためのものですね。だからこそ北朝鮮が、世界最強のこの軍事訓練が始まると蒼くなって国家機能までをも一時停止したのですが、すると、「われわれは防禦演習をしているだけなのに、お前たちは何でそんなに騒ぐのだ?」と、北朝鮮を非難してきたのです。
 北朝鮮側の反応の意味を理解するためには、相手の立場に立ってみる知恵と理性的な姿勢が必要です。もしソ連の極東軍事基地ウラジオストクにある強大な極東艦隊と東シペリアの陸軍が、北朝鮮人民軍20万と協力して、ソ連の核空母を停戦ラインのすぐ北側の東・西海沖合いに並べ、25隻の各種艦艇に核兵器を積載して、核爆撃用のベアー爆撃機編隊が停戦ライン上空と東・西海上空を行ったり来たりすると想像してみましょう。強大な東シペリアのソ連陸軍と北朝鮮人民軍、そして中共軍まで合わせた25万が、「防禦演習」と称して停戦ラインのすぐ北側で一ヵ月間上陸作戦訓練をし、核爆撃演習をすると考えてみてください。一日二日ではなく何週間もすることを想像してみてください。
 そうなれば、われわれは果してどう考え、どう反応するでしょうか? 韓国政府と軍部は、果して「ああ! ソ連と北朝鮮は防禦演習をしているのだなあ……。『防禦演習』だと言っているのだから、構わないだろう」と言うでしょうか? 宣伝手段を総動員して「北朝鮮の侵略者たち、またしても侵略準備!」だとか「国家総非常事態」だとか、北朝鮮糾弾国民決起大会開催だとか……そんな騒ぎになるでしょう。そんなことはないと言えるだけの分別がわれわれにあるでしょうか? 言い換えると、相手の行動を非難しようとするとき、自分がそう行動したら相手はどう考えるかを考えてみる「自分の客体化」の理性的思考力と知恵がなければなりません。そうすれば問題の原因はわれわれ白身(米国と韓国)にあるという事実に気づくはずであり、北朝鮮の行動の大部分が異なって見えるはずです。韓国の行動を非難する北朝鮮の理由も納得できるでしょう。」(初出:「全教組教師のための講演」1998年)

毎年毎年、こんな強力な軍事演習をすぐ目の前でやられていたのなら、この件だけでも北朝鮮が国を挙げて疑心暗鬼を超えた核攻撃恐怖症に罹らなかったとしたらそのほうが不思議なことのように私には思える。この「チームスピリット」という名の演習は今年もまたすぐ始まるのではないのだろうか?
2013.02.27 Wed l 社会・政治一般 l コメント (4) トラックバック (0) l top
ブログ「kojitakenの日記」の「北朝鮮が核実験を断行」という記事はコメント欄もふくめて「いくら何んでもこれはひどすぎるだろう。」とちょっと唖然とさせられるものであった。どういうつもりでこういうものを書かれたのだろうか。内容は「北朝鮮が核実験を断行した。これには弁護の余地は全くない。」「ただ、この件はますます安倍晋三を勢いづけるだろうなとは思う。」ということにつきるといえばいえるのだろうが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が断行した核実験の原因や思惑、1月22日に採択された安保理決議2087の是非、今回の核実験が今後北東アジアの平和と安定におよぼす影響などについての考察や憂慮などの諸問題とはまるで無縁としか感じられなかった。このように感じたのは、この前に私が浅井基文氏のコラム「朝鮮の第3回核実験問題と中朝関係」、「朝鮮の核問題:まだ失われていない可能性」などを読んで事態の深刻さと複雑さをつよく感じていたせいもあるかと思うのだが、それはともかくこの記事の性質を象徴するのは次の文章だろう。

「そういえばふと思ったのだけれど、ネトウヨ諸賢の言ういわゆる「特亜三国」のうち、諸賢の悪口の声が最も小さいのは北朝鮮に対してではなかろうか。最近はターゲットの中心は中国だが、少し前までは韓国だった。日本の右翼をせっせと助けてくれる北朝鮮に対しては、彼らもどことなく親近感(笑)を抱いているのではないかと邪推する今日この頃である。」

この箇所にはコメント欄がかなり盛り上がっていたが、読んでいるうち正直にいってこのエントリーの場もブログ主が蔑んでいう「ネトウヨ諸賢」のうちの一集団ではないのかと錯覚しそうになった。「ネトウヨ諸賢」のうち、「いわゆる「特亜三国」」のなかで北朝鮮に対して特に強烈な嫌悪感をもった人々が集まって好き放題にしゃべっているといった印象をうけたのである。これを見て、南北朝鮮の軍事的衝突(というより、日米韓による北朝鮮への軍事攻撃といったほうが正確だろうと思う)を常日頃から警戒しつづけていることがそのブログ記事によって明らかなZED氏が「蔑視・差別感情を丸出しにして悦に入」っているときびしく批判するのは無理からぬことだろう。

「北朝鮮が核実験を断行」の記事は13日付だったが、翌14日はその続編といってもよさそうな「"kokuminshudou"よ、中国に行け(笑)」がアップされていた。「「ネトウヨに愛される北朝鮮」と「ネオリベに愛される(かもしれない)中国」は好一対かもしれない。」という末尾の言葉はこれもまた「「蔑視・差別感情を丸出しにし」た何ともいえずひどいものだと思うが、注目すべきは、その翌日の15日(つまり今日)の記事である。これは「辻元清美曰く「小沢一郎に政策の理念があったかどうか疑問」」というタイトルの、内容も上記2つの記事とはうってかわってごく普通の論調で書かれている。あるいはZED氏の批判記事を読んで、特に、これは私もまったく知らなかったのだが、米国も北朝鮮と同時期に核実験をやったということを知らされて態度を変えたものか、それとも、北朝鮮や中国のようなもともと異様な国の問題を扱うのとちがって本来は健全であるはずのわが日本の政治状況を扱うのだから厳粛(?)な態度で、とでも思ったものか、はたまた全然別の理由によるものかは分からないが、ごく当たり前のこの記事を読んだことによって13-14、両日の文章の特異さがますます際立ってくるように感じられたことは否めない。

2013.02.15 Fri l 社会・政治一般 l コメント (2) トラックバック (0) l top
2月3日の予約投稿にしていたことをすっかり忘れてしまっていました。自分で設定していながら2月10日ころのはずと勝手に思い込んでいて、さて続きを書かなければとつい今しがた管理画面を開いたところ、すでに「公開」になっているのにビックリ仰天。 そういえば、以前にも同じことがあったような記憶が…。アァ…。大急ぎでタイトルを付け、文章も大慌てでしどろもどろながらなんとかかんとか恰好を整えましたが、ともかくすでに読んでくださった方にはまったく申しわけないことをしてしまいました。何卒ご容赦ください。(2月4日17時)

   …………………………………………………………………………

このところシリアにつづいてマリ、アルジェリアなど、アフリカの事件情報に触れることが多いわけだが、その際いわばこれらの事件の原点として2011年のリビアの出来事(カダフィ惨殺もふくむ)に言及されることが多い。しかしそれもごく断片的なもので、本当にこちらが知りたいと思うことは一体どうなっているのか一切分からない。切に知りたいのは、NATO空軍の2万回越という出動、3000回に近かったという爆弾投下により破壊されたリビアの街々や村々が現在どういう状態になっているのか、また650万人というリビアの一般の人々は現在どんな生活を営んでいるのか、経済状態や子どもたちの学校生活はどうなっているのか、カダフィ時代と比べて現在のほうが暮らしやすいのか、それともそうではないのか、ということなのだが、それらについての情報はまったく耳にも目にも入ってこない。数日前、あらためてリビアについてネット検索してみたところ、2004年11月8日から24日までの17日間にわたってリビアにパック旅行(参加者10数人)をしたという人のブログに行き当たった。一般の日本人による「リビア体験記」ともいうべきこういう記事はじつは大変珍しいのではないだろうか。しかも内容豊富、とても興味深く読むことができた。取り上げて紹介しておきたい。

リビア旅日記一覧

日付を見れば分かるように、計12本の記事のうち、8本は2008年にアップされていて、こちらは純然たるリビア旅行記である。リビアという国について私は2011年までほとんど何も知らなかったのだが、また今もそのころとさほど変わりはないかも知れないのだが、この旅行記を読んでみると、リビアは国土の8割が砂漠だというが、それにしてはカダフィ時代のリビアは見事なローマ遺跡の景観もふくめて観光地としてもなかなかに魅力的な国だったことが感じられる。この側面についてはいろんな種類の写真が豊富に掲載された当該ブログを実際に見ていただくとして、今日ここで取り上げたいのは、2011年リビアがNATO軍の猛攻撃によって一挙に世界の注目の的にさせられた際にアップされた4本の記事についてである。最初のものは2011年2月22日の「砂漠の狂犬・・・なのか。」と題された記事だが、「リビアが大変なことになっている。」という書き出しからして、騒乱のリビア情報に突然接したブログ主の、予想外のニュース、思いがけない情報に接したという驚きが感じられる。


「リビアが大変なことになっている。あのカダフィ政権が倒されるのも時間の問題だが、それまでにはたくさんの血が流されそうだ。(略)何時の頃からか観光事業にも力を注いでいるようで、今ではパックツアーなら簡単に行ける様になった。」/「あまり知られていないが、リビアは観光的には非常に魅力的な国だ。地中海に面した風光明媚な海岸線には、巨大なローマ遺跡が非常に良い保存状態で点在する。その規模は対岸のヨーロッパの比ではない。国土の大半を占めるサハラ砂漠は人類の文化を寄せ付けないが、それとて観光となれば魅力的だ。ガダメスなど、古くて美しい町もある。」/「テロ支援国家の汚名を返上した直後のリビアだったので「悪の枢軸」的イメージのまま、リビアに行ったことは確かだった。ところが、その「中東の狂犬」カダフィが仕切るリビアは意外なほど・・・ていうか日本より治安が良い。国民は裕福とは言えないが、餓死しそうなヒトとか乞食は見当たらない。インフラはよく整備されていて、17日間の旅行の間、不愉快なことは無かった・・・・妙に「カダフィ万歳」的なスルーガイド以外は。」/「いろんな国を団体や個人で旅行したが、リビアほど不満が無かった国はないかも。それはホテルの設備とか食事の質とかいう低俗なモノではなく、観光客に対するホスピタリティというか「本根」というか。もちろん、観光に携わるスタッフの経験度は低いので、一般的には「なってないサービス」と感じる方がほとんどだと思うのだが、私には不器用な中に「砂漠の民の粋」を感じた。」/「当然、リビアがカダフィによる独裁政権下に置かれていることは知っていたが「皆、幸せそうだし、これでいいんじゃない」って思ったまま帰国した。その後、こんな事態になるまで「カダフィって悪いヤツじゃないじゃん。偉い独裁者かもね」なんて本気で思っていたのだが、やっぱり国民の不満は当時から燻り続けていたってことか。」

思わず記事のほとんど全部を引用させてもらうことになってしまったが、末尾の「やっぱり国民の不満は当時から燻り続けていたってことか。」という一節をみると、2011年2月というこの時点では、「一般市民の平和的なデモ隊に向かって政権側が銃を向けてやみくもに弾圧し、殺戮している」という一方的な報道記事の氾濫のなかで、ブログ主もリビア社会では一般市民のカダフィ独裁体制への不満がうず高く蓄積していたのか、そしてそれが今回一気に爆発したのかと半信半疑ながらも考えていたことが分かる。

このときから8ケ月後の10月末、血まみれにされたカダフィが見るも無惨に殺害された後、こちらのブログでは、「カダフィのリビア」「カダフィのリビア 2」「カダフィのリビア 3」の3本の記事が書かれているが、「リビアとカダフィについて、ちょっと語りたい。」という気軽い書き出しで始まるこの3本の記事は2008年掲載の「旅行記」のあらためての確認作業のような内容になっている。いったいリビアはどんな国なのか? そして独裁者カダフィとはどういう人間なのか? というブログ主の問題意識と無惨なリビア破壊への抗議の意図がこめられているように思われる。ガイドの男性は大変なカダフィ心酔者だったらしく、ブログ主はこんなふうに書いている。

「ヤツの話だと、リビアでは教育・医療はタダ同然。住居も超格安で提供され、食費も安い。最低限の生活が保障されているから乞食はいないにし治安も良い。50歳で定年となるが、その後もそれまでの給与の70%だったかな?が保障される・・・などなど。もう理想的国家を実現しているかのようだった。/私など、最初の半日で「なんだ、カダフィの宣伝マンかよ」と見抜いた気分になったが、実際に治安は日本並み?それ以上?? 乞食(ものもらい)には1回も遭遇しなかった。都会では交通マナーも良い。旅の後半では「ガイドが言うことは半分本当かも・・・」と思う様になった。」

また、カダフィの有名な「サハラ大河川計画」についても触れられている。

「サハラの地下にある大量の水を直径4mものパイプラインで各地に運び、砂漠を緑地化し、かつ湾岸地域の水不足を解消しようという壮大な「サハラ人工河川計画」。将来、石油が枯渇した場合に備え、農作物を完全自給出来る様に考えた・・・という。2004年の時点で70%が完成し、3年後には完成予定ということだったが、現在はどうなっているのだろうか? /この工事には天文学的な金が掛かり、完成してもそれに見合う効果が疑われている。しかし、現実にはトリポリやベンガジ等の大都市には、既に人工河川の水が導かれ、市内は緑豊かな美しい景観が保たれているし、農地化された砂漠で収穫された野菜のお陰で、食事には黙っていても新鮮な野菜がたくさん提供される。/有限な地下水を汲み上げているのだから、将来性には?も付くが、それでも「極悪独裁者」が石油の富を投入して「国民の野菜の心配」をしてくれるのは不思議な話ではある。」


10月のカダフィ死去後の2011年10月26日、ブログ主のほいみさんはコメント欄で、「今回の民主化運動による「カダフィ殺人」は仕組まれています。」「暫定政府のボスには欧米にとって都合の良い人物がなるはず。」「リビアはリビア人が望んでいる方向には行かない。」「恐らく当分、リビア旅行は出来ませんね。」と書かれている。「リビア旅行は出来ませんね」といえば、どこかの記事で読んだのだが、フランスとともにリビア壊滅の主導国である米国と英国は、その後自国民に対してともに、よほどのことがないかぎりリビア観光は控えたほうがいい、治安に不安がある、と警告していたようである。こちらのブログ記事を読んでいる間、私の頭のなかでは藤永茂氏のブログ記事「リビア挽歌」の内容が二重写しのようになって甦っていた。双方が核心として感じとっていることに共通点が多いように思うのである。(リビア挽歌(1)リビア挽歌(2))両ブログともにお薦めしたい。
2013.02.04 Mon l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
いつのころからか私は現存作家の本はあまり読まなくなってしまったのだが、辺見庸さんの本は(本だけではないが)、わりあいによく読んでいる。このことは以前にも書いたことがある。読んで教えられたり、共感したりするところがあるからこそ買って読むわけだが、それでも作者と別の人間である以上、内容に違和感を持つこともある。たとえば、「永遠の不服従のために」(講談社文庫2005年、初出・毎日新聞社2002年)に収められている「不敬」という文章のなかの一節に対してがそうであった。この文章は、「不敬」という題が示すように、天皇制について述べられたものだが、まず中野重治の小説『五勺の酒』から、中学校長である主人公が天皇個人(特に裕仁天皇をイメージしてのことだと思われる)に対する感慨を綴った文章が引かれている。それは「……どこまで行っても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんとうに気の毒だ。/羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これが彼らの最大のかなしみだ。/個人が絶対に個人としてありえぬ。/つまり全体主義が個を純粋に犠牲にした最も純粋な場合だ。」(/は改行部分)というもので、次に作者が現在の天皇である昭仁天皇と街中で偶然遭遇したときのことが下記のように叙述されている。

「 たった一回だけれども、その人を、じかに見たことがある。何年も前に、横浜駅の西口近くで。銀行をでた私の前に、黒山の人だかりがあった。背中をぐいぐい押されて、私は結局、車道に面したコンクリートの大きな植栽ボックスの上に立つかっこうになった。眼の前に、黒塗りのリムジンの長い車列が、ゆっくりとやってきた。何台目かの車の後部座席の窓が開いていて、やや猫背ぎみの小柄の人物が、群衆に向かい、小刻みに手を振り、そうまでしなくてもと思われるほど丁寧に、首を上げ下げしている。政治家や芸能タレントたちの、いかにも悪ずれした愛想とはまったく異質の、こちらがたじろいでしまうほどの、痛々しい、剥きだしの善意のようなものを、彼の表情と所作は感じさせた。
 色浅黒いその横顔に見覚えがある、と思ったとき、彼と眼が合った。険、荒み、不逞、倣岸、倦怠、狡猾、強欲、猜疑、敵意、威圧、卑屈、皮肉、冷酷、癇癖、歓喜、暴力、磊落、邪曲……の、いずれも、かけらもなさそうな、これまでに見たことのない種類の、不思議な眼であった。ただ、孤独と虚無の陰りのいかんについては、なにしろ瞬時であったので、読むことはできなかった。天皇は、私から視線を移さずに、片手を軽くうち振り、「あっ、どうも」という調子で、首をこくりと小さく下げた。私も、つられて、こくりと会釈した。同時に、右手をズボンのポケットからそろりとだして、ベルトのあたりまでもちあげ、行きすぎる天皇の方向に、汗ばんだたなごころを開いて、ためらいつつ、一、二回左右に動かしてみたのであった。わざと曖昧に、お返しの挨拶を私はしようとしたようだ。だが、それに気づいて驚いて、右手を、まるで他人の手みたいに、こっそりとポケットに戻してしまった。なんにもなかったかのように。」
 と、たったこれだけのことを書くのに、いく度、胆嚢のあたりがヒリヒリしたことか。そう、これは、この国でこの種のことを描くときに避けられない、名状の難しいヒリヒリ感なのである。」

この後も文章はまだつづくのだが、私がちょっと違和感を持ったのは、「険、荒み、不逞、倣岸、倦怠、狡猾、強欲、猜疑、敵意、威圧、卑屈、皮肉、冷酷、癇癖、歓喜、暴力、磊落、邪曲……の、いずれも、かけらもなさそうな、これまでに見たことのない種類の、不思議な眼であった。」という箇所であった。険、荒み、不逞、倣岸、倦怠、狡猾、強欲――などの、どちらかといえば人間性にとってマイナスのものが現天皇にまったく備わっていない、もしくは欠けているかのように述べられている箇所は、類まれな無垢な人間を思わせるようでもあり、また人間離れした一種の怪物(?)のような人物像のようにも思われたが、ただそれは私にはいくら想像をめぐらしてみても現実的にはどうしてもピンとこないものだった。そのためだと思うが、こういう文章は日本国内のかなりの範囲に根強く存在しているように思える現天皇に対するある種の幻想を増幅させるだけのような気がしないでもなかった。

辺見さんの文章で違和感をもった例では上記のものが一番印象に残っているのだが、最近あるブログで偶然読んだ辺見さんの発言にもちょっと違和感をおぼえるところ、気になるところがあった。これは辺見さんのロング・インタビュー、「国策を問う ――沖縄と東北の40年」という題で2012年5月10日と11日に沖縄タイムスに掲載されたもののようだが、全体としては辺見さん特有の力のこもったインタビュー内容で、読みごたえのある文章であることは間違いないと思うのだが、気になったのは次の一節であった。

「僕には長かった近代の思想というのはもう終わりに来ているんだという自覚がある。主権国家体制、市民革命による市民社会の成立、産業革命による資本主義の発展とテクノロジー万能主義、国民国家の形成など、16世紀以降の欧州で誕生し、現代世界を価値づけてきた社会のあり方、枠組み、準則が崩れてきている。で、従来の帝国主義の実行主体の足場を奪う、新たな列強の覇権争奪が始まっている。何よりも中国。中国は革命の理想を完全にうち捨てた異様な軍事大国になった。途方もない貧富の格差、堕落した共産党の一党支配、公安警察の跋扈(ばっこ)と死刑の連発、人権弾圧…。一方でロシアの覇権主義、言論弾圧もますます露骨になった。チェチェンにはやりたい放題。そうした中で相対的に、米国の株が上がっていく。それと同時に、沖縄から発進して朝鮮、ベトナムであれほど人を殺した、あの米軍と今は違うんだみたいな錯覚がある。同じです。米軍は依然、世界最大の戦争マシーンです。アフガンでもイラクでも罪のない人をいっぱい殺している。 」

上のインタビューの内容に明確に指摘できる誤りがあると思ったわけではない。ここで指摘されていることはおそらく事実そのとおり存在することなのだろう。しかしそれでも、「現代世界を価値づけてきた社会のあり方、枠組み、準則が崩れてきている」なかで、「従来の帝国主義の実行主体の足場を奪う、新たな列強の覇権争奪が始まっている。何よりも中国。中国は革命の理想を完全にうち捨てた異様な軍事大国になった。」、その上「ロシアの覇権主義、言論弾圧」が拡大していくなかで、「相対的に、米国の株が上がっていく。それと同時に、沖縄から発進して朝鮮、ベトナムであれほど人を殺した、あの米軍と今は違うんだみたいな錯覚がある。同じです。米軍は依然、世界最大の戦争マシーンです。アフガンでもイラクでも罪のない人をいっぱい殺している。」という発言にはニュアンスもふくめてそのまま受けいれるのには躊躇をおぼえた。

辺見さんは中国、ソ連の堕落頽廃のなかで、「相対的に、米国の株が上がっていく」と述べているが、本当にそうなのだろうか。これでは、中国やロシアの内政・外交戦略があまりに酷いので、それに比べると米国はまだましだといろいろな国や個人がそのように考え、述べているかのように聞こえなくもないのだが、中国やロシアに比べるとアメリカという国はまだましであるという声がはたして現実にあるのだろうか? どうも私にはそうとは思えないのだが…。「米国の株が上がっていく」のではなく、日本や韓国を見れば分かると思うのだが、自分たちの思うがままに、あちこちに戦争をしかけて、あっさり一国を破滅させることのできるほどの超大国である米国と組み、その米国にしたがってさえいればまず安心だという幻想をもつ国や個人が数多く存在するということではないのだろうか。

「米軍は依然、世界最大の戦争マシーンです。アフガンでもイラクでも罪のない人をいっぱい殺している。」という発言にしても、その拠ってきたる発想のあり方のようなものに対して少し疑問がある。米国が「罪のない人をいっぱい殺している」のは、アフガンやイラクだけではない。そこで終わってはいない。昨年、リビア中を目茶苦茶に破壊した大規模な空爆は米国の単独行動ではなくNATO軍の仕業だったが、米国が加担しなければあんなことはできなかったのではないだろうか。見せしめのごときカダフィ惨殺ははたして米国の意思と無関係だったのだろうか? 現在の凄惨なシリア情勢にしても米国の息がかかっていることは間違いないことだ。これらの攻撃は私にはアフガンやイラクの延長線上の出来事のように思えるのだが、インタビューにはリビアの名もシリアの名も出てこないところをみると、辺見さんはそうは思っていないようでもある。国連安保理で中国とロシアはリビアへの介入に対して拒否権こそ行使しなかったが採決を棄権した。両国はシリアへの軍事介入に対しては明確に拒否権を行使している。このことについて辺見さんはどう思っているのだろう。また何にもまして不気味に恐ろしいのが、繰り返される米軍の無人爆撃機による暗殺であろう。これは卑劣、卑怯というのもすでに通り越しているだろう。

「中国は革命の理想を完全にうち捨てた異様な軍事大国になった。」という発言からは、中国はさしたる理由も原因もないのに、自発的に覇権国家を目指して軍事力増強に乗り出したかのようなニュアンスが感じられる。しかし、本当にそうなのかどうか疑問がある。80年代に外務省で中国課長を務めていた浅井基文氏は、「尖閣「国有化」後の中国の対日観(7)」という記事のなかで中国の軍事力増強について、次のように述べている。(以下、強調はすべて引用者による)

「最近、小さな集会でお話ししたときにつくづく感じたのですが、多くのマス・メディアの報道・論調によって対中イメージを膨らませるしかない国民のなかにも、中国に対してはマイナス・イメージしか抱けず、中国の増大する軍事力を前にしては、日本の安全をアメリカとの同盟関係に依拠ずる以外にない、と信じ込まされている人は決して少なくないのです。そのことが、数々の世論調査の結果で示されているように、憲法も日米安保もという考えの人が国民の2/3を占めるという現実を生んでいるのでしょう。しかし、私たちが忘れてはならない事実は、中国の軍事力強化努力は、優れて変質強化が進み、中国を狙い撃ちする性格をますます強めている日米軍事同盟に対抗するための防衛的な性格のものであるということです。中国の軍事的脅威を言う前に、まずは強者である日米軍事力の削減、軍事同盟の解消を私たちは考えるべきなのです。」

「中国の軍事力強化は、…日米軍事同盟に対抗するための防衛的な性格のものである」という浅井氏の上記の発言が緻密な分析の上になされたものであることは、米国のブッシュ政権時のブッシュ演説やシンクタンク・ランド研究所の報告、またアーミテージ報告などを丁寧に読み解いて記述されている「集団的自衛権と日本国憲法」(集英社2001年12月)を読むとよく理解できると思う。このような経緯をたどって浅井氏は中国の軍事力増強は防御的なものであると述べているわけだが、ノーム・チョムスキーの「破綻するアメリカ 壊れゆく世界」(集英社2008年)には、米国の戦略アナリストのジョン・スタインブルナーとナンシー・ギャラガーによる、国連安保理の核保有国のなかでもっとも抑制的に軍事力を展開しているのは中国である、との発言が出ている。

この本の冒頭では、1955年7月、パートランド・ラッセルやアルバート・アインシュタインたちが世界の人々に向けて行なった「核兵器による世界の破滅の危険」についてのアピール文が掲げられている。「私たち人類が抱えるさまざまな問題にたいして、もっともな意見はあるだろうが、いまはそれを、「いったん脇において、すばらしい歴史をもつ生物学上の種の一員であることだけ」を自覚するよう」にとの呼びかけの言葉である。そしてジョン・スタインブルナーとナンシー・ギャラガーという米国のアナリストが米国学士院の機関誌のなかで行なった「ブッシュ政権の軍事計画とその侵略的な姿勢は「最終的な破滅の危険をかなりともなう」」、「アメリカの政治システムがその危険を認識できず、その意味するところに対処できない」ならば、「アメリカの存続の可能性はきわめて疑わしくなるだろう」という警告が出てくる。

そのような警告につづいて、「アメリカ政府がみずからの国民と世界に脅しをかけても、平和を愛する諸国の連合がその脅しに対抗するだろう、とスタインブルナーとギャラガーは希望を表明する。その連合を率いるのは、なんと中国だ! 支配層の中枢がこのような考えを表明するのは、大変な事態である。」、「スタインブルナーとギャラガーが中国の名を挙げたのは、すべての核保有国のなかで、中国が「明らかに最も抑制のきいたやり方で軍事力を展開している」からだ。さらに、中国は宇宙の利用を平和目的に限定しようとする取り組みを、国連で率先して進めているから。この点で中国はアメリカと相いれない。アメリカは、イスラエルとともに、宇宙における軍拡競争を防ごうとする動きをことごとく邪魔をしているのだから。」とチョムスキーは記述している。

辺見さんのインタビュー記事が「沖縄タイムス」に載ったのは石原慎太郎東京都知事の尖閣諸島(釣魚島)購入事件の後である。そういう微妙なときに中国について「従来の帝国主義の実行主体の足場を奪う、新たな列強の覇権争奪が始まっている。何よりも中国。中国は革命の理想を完全にうち捨てた異様な軍事大国になった。」というような明白に否定的発言をする場合は、上述したようなまったく異なる中国についての見方も現実に存在するのだから(中国自身も、中国は決して覇権国家にはならない、宇宙の軍事利用には徹底して反対する、と明言している)、「異様な軍事大国になった」ことの背景についてもきちんと言及した上での発言であってほしかったと思う。辺見さんの講演(死刑の問題など)には、大勢の聴衆が集まることでも分かるように、発言に影響力があるのだから、いっそうそう思う。中国が発信する記事や学術論文を読むと(翻訳でではあるが)、無知・無学な私でも中国の人々の間に蓄積されている知性は相当なものだとしばしば感じずにいられないし、こういう人々に対しては、とりわけ相手の主張をよく聞き、こちらも必ず根拠をともなった発言をすることが個人の姿勢としても大切であり、また実際にあらゆる面で有効な働きをするとも思う。浅井基文氏が4月以来ずっと中国発表の文章を折にふれ翻訳して読者に披露されているのは、そのようなことを願ってのことでもあるのではないだろうか。
2012.11.10 Sat l 社会・政治一般 l コメント (2) トラックバック (0) l top
10月22日、国連総会で核兵器の非合法化を促進するための合同声明が発表されたが、日本政府は求められた賛同の署名を拒否したとのことである。

「 日本、「核非合法化」賛同せず 30カ国以上が国連で合同声明
 【ニューヨーク共同】核兵器使用の非人道性を訴え、国際法上非合法とする努力を各国に求めたスイスやノルウェーなど30カ国以上の合同声明が22日、国連総会第1委員会 (軍縮)で発表された。日本は加わらなかった。
 声明は「全ての国は、核兵器を非合法化し、核兵器のない世界に到達する努力を強めねばならない」と訴えた。当初16カ国が準備していたが、参加国が増えた。
 今回の対応について、外務省は「核廃絶を目指す日本政府の立場と矛盾しない」と説明するが、反核団体や被爆者団体からの批判も予想される。」(河北新報10月23日)

「 核非合法化拒否 被爆国として矛盾だ(琉球新報2012年10月22日)
 相矛盾する態度を続けていれば、いずれ国際社会から相手にされなくなる。16カ国が国連に提出した核兵器の非合法化を促す声明案に対し、日本政府が署名を拒否したことが分かった。
 声明案は核兵器の非人道性を強調する内容だ。日本は19年連続で核兵器廃絶決議案を国連に提出している。それなのに、核兵器の非合法化は認められないというのは明らかに矛盾だ。今からでも遅くない。むしろ率先して署名し、非合法化の波を強力に広げる努力をしてほしい。
 日本政府が署名を拒否したのは、「米国の『核の傘』の下にいるという政策と整合性が取れないから」だという。
 罪のない市民を多数、無差別に殺りくし、自然環境にも甚大な影響を与える核兵器が非人道的だというのは論をまたない。 今回の声明案は、北大西洋条約機構(NATO)加盟国で、日本と同様に米国の「核の傘」の下にいるノルウェーとデンマークも署名した。それだけでなく、両国は声明案作成に関与さえしている。
 日本は唯一の被爆国として最も説得力を持って核の非人道性を主張できる立場にあるのに、米国への遠慮に終始して非合法化に同意しないというのは、あまりにふがいない。主体性を欠いた「従属外交」と批判せざるを得ない。
 そもそも米ロ英仏中など、既に核を持つ国々が「自国は持っていてもよいが、新たに別の国が保有し始めるのは許さない」と主張するのは論理的に破綻している。
 現に核を保有する国がある以上、新たに自らも核を持とうとする国が登場するのは避けがたい。核保有を非合法化しなければ、究極的には核の拡散防止は不可能なはずだ。核廃絶を決議しようというのならなおさらだ。
 声明に背を向ける米国の姿勢もおかしい。オバマ大統領は「核なき世界」を提唱したのではなかったか。「具体的な措置を取る」という自らの発言にほおかむりを続けるのは無責任すぎる。
 言うまでもなく米国は最初の核開発国で、実際に兵器として使った唯一の国だ。特別の責任があるはずだが、国際的に高まる核軍縮の機運に同調するどころか、むしろ「抵抗勢力」になっているようにすら見える。一刻も早く今の姿勢を転換し、「核なき世界」の提唱を有言実行してほしい。」

以上、関連記事を2本引用したが、今回のように核兵器使用を国際法上「非合法とする」「禁止する」などの、核兵器廃絶のための法的な枠組みの制定によって具体的な実践を促す声明や提案に対して、日本が反対・敵対の側に回るのは珍しいことではなく、これまで一貫してそういう姿勢をとってきたようである。河辺一郎氏の「日本外交と外務省」(高文研2003年)によると、かつて国連の場で日本が核兵器使用禁止関連法案に賛成したのは、61年、池田勇人政権下の1回だけだという。河辺氏の上記著書の文章は一部ネット公開されているので該当部分を以下に引用させていただく。

「 1957年、A級戦犯だった岸信介を首相とする内閣が誕生する。岸は、軍事力を持たない日本が安保上の役割を担えるよう、日米安保条約の内容の改訂に力を注ぎ、アイゼンハワー大統領と合意した。これに対して世論は、米国の戦争に巻き込まれると強く反対し、結局岸は新条約批准後の60年に辞任した。彼は、自衛権の範囲内であれば核保有も可能で、防衛用小型核兵器は合憲などの答弁も繰り返していた。

岸の後を受けたのは重商主義者の池田勇人だったが、彼は外交においても岸路線からの転換を試みた。日本では首相が直接大使を指名することはほとんどないが、池田は独自外交の展開を唱え、岡崎勝男・元外務大臣を国連大使に任命したのである。そんな中、1961年11月の国連総会で核兵器使用禁止宣言決議が採択され、国連機関として、核兵器の使用が国連憲章に反することを初めて宣言した。この時岡崎は、西側諸国として唯一賛成票を投じた。

これに対して外務省は素早く反応した。翌1962年には次席国連大使を設置し、後に軍縮問題の専門家として活躍する松井明を任命し、岡崎の監視役としたのである。その後、日本が核兵器使用禁止問題を支持することはなくなり、61年の決議は、これまでのところ日本政府が投じた唯一の賛成票となった。 」 (日本にとっての核軍縮)


池田勇人は相応の軍事力が外交においてもモノをいうと考えていた人であり、岡崎勝男は吉田政権下の外相時代、1954年4月、第5福竜丸の惨劇の直後にある会合で「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」とスピーチして世の轟々たる非難を浴びた人物である。したがって日本による61年の核兵器使用禁止の支持がどのような背景と覚悟をもって行なわれたものか今ひとつ解らない気もするのだが、ただこのとき岡崎大使は総会議場で自ら決議案への支持表明演説を行ない、「核戦争の惨禍を防ぐあらゆる措置が常に強調されなければならない」「核戦争の惨禍が再び人類に降りかかることを何としても防がなければならないと信じている」と断言したそうである。問題は、このときの行動が、日本が国家として核兵器の使用禁止に賛成票を投じた唯一の記録だということであり、これには私も2、3年前に河辺氏の本で初めて知って「えッ」と驚いたものだ。政治家が機会あるごとに口にしてきた「非核3原則」とは何だったのかということである。

岡崎勝男は上述のように吉田首相の下で外相を務めており、国連大使就任も池田首相にぜひにと請われてのことだったという。外務省出身の政治家としては有数の大物の部類に入るわけだが、河辺氏によると、現在外務省関係者の口からその業績が語られることはほとんどなく、稀に語られるとなると、きびしい批判の文脈においてであるそうだ。河辺氏は断定しているわけではないが、そういう扱いの背後に厳然とあるのは61年の国連における核兵器使用禁止の支持の件ではないかという推測も可能のようである。上記琉球新報の「日本は19年連続で核兵器廃絶決議案を国連に提出している。それなのに、核兵器の非合法化は認められないというのは明らかに矛盾だ。」という指摘は正論だが、日本政府と外務省は半世紀もの間ずっとその矛盾した行動ーーはっきり言えば二枚舌の外交を行なってきているのだ。広島、長崎の原爆被害に加えて、昨年は福島第1原発事故で放射能被害の恐怖を体験したというのに、日本政府は微塵も変わっていないし、変える気も皆無のようである。 「日本は19年連続で核兵器廃絶決議案を国連に提出している。」ことの内容と意味も次の記事を読めば理解できるように思う。

「 日本が核廃絶決議案=共同提案、最多の69カ国−国連
 【ニューヨーク時事】日本政府は18日、核兵器の廃絶に向けて国連加盟国が共同行動を取る決意を確認する決議案を国連総会第1委員会(軍縮) に提出した。日本による決議案の提出は19年連続。米国を含む69カ国が共同提案国に加わり、提出段階としては過去最多。
 決議案は、北朝鮮に核計画の放棄を求めた安保理決議履行の重要性を指摘した上で、 同国のウラン濃縮計画や軽水炉建設、今年4月に行った事実上のミサイル発射に懸念を示した。
 決議案は早ければ10月末に委員会で採択される見通しで、 12月初旬にも総会本会議で採決に付される。」(2012/10/19)

「核の廃絶」に賛成するか反対するかと問われて「賛成する」と答えない国や個人は世界のどこにも存在しないだろう。日本がこの核廃絶決議に賛成するのはそういう意味の当たり前の一般論を口にしているに過ぎない。またこの決議案に米国も賛成し、北朝鮮への非難が表に出ているところをみると、5大国の核保有は初めから肯定されていて、議論の対象にもされていないようである。しかし、これら大国の核に対する管理や抑止という利用方法には年々危険が増しているように思える。そもそも朝鮮は米国が自国への敵対政策を止めれば明日にでも核開発を中止すると昔から繰り返し言ってきたはずだ。米国のほうにこそその気もなく誠意もなかったようにみえる。インドが核開発を最終的に決断したのも、90年代末のNATOによるユーゴ空爆を目の当たりにしたときからだとも聞く。これも事実かどうかは判らないが、ロシアは防御のために核の保管場所を始終移動させていて、移動の運搬過程に危険が付きまとっているという説を聞いたこともある。米国は絶えず世界中のあらゆる地域で戦争を仕掛けては人々を苦しめ、反感と憎悪を買いつづけている。こうしてみていくと、50年後にはまだ世界はあるだろうが、500年後には消滅しているだろう、という加藤周一の晩年の言葉は切実な実感だったのだろうと思う。

最近とみに「中国の脅威」という言葉を耳にすることが増えているが、本当のところ、この実体はどうなのだろう。浅井基文氏は、この問題について「中国の軍事力強化努力は、優れて変質強化が進み、中国を狙い撃ちする性格をますます強めている日米軍事同盟に対抗するための防衛的な性格のものである」と書かれていて、この見解に私は説得力を感じた。

「 自らは軍事大国への道をひた走りながら、日本に対して日米軍事同盟路線から決別しろ、と要求するのは、中国の手前勝手なもので一顧だにする価値はないと切り捨てるのは、 保守政治家及びその支持者ばかりでないことを、私は理解しています。最近、小さな集会でお話ししたときにつくづく感じたのですが、多くのマス・メディアの報道・論調によって対中イメージを膨らませるしかない国民のなかにも、中国に対してはマイナス・イメージしか抱けず、中国の増大する軍事力を前にしては、日本の安全をアメリカとの同盟関係に依拠ずる以外にない、と信じ込まされている人は決して少なくないのです。そのことが、数々の世論調査の結果で示されているように、憲法も日米安保もという考えの人が国民の2/3を占めるという現実を生んでいるのでしょう。しかし、私たちが忘れてはならない事実は、中国の軍事力強化努力は、優れて変質強化が進み、中国を狙い撃ちする性格をますます強めている日米軍事同盟に対抗するための防衛的な性格のものであるということです。中国の軍事的脅威を言う前に、まずは強者である日米軍事力の削減、軍事同盟の解消を私たちは考えるべきなのです。 もっと基本的に言えば、国際的相互依存の不可逆的進行という21世紀国際社会を規定する要素一つだけを取っても、 日中軍事衝突という選択はあり得ないし、あってはならない(それと同じ意味で朝鮮半島有事はあり得ないし、あってはならない)以上、私は、日本が軍事力に依拠しない平和大国として立国する現実の条件が存在していることを確信しています。そういう私の立場(中国の軍事力増大は日米軍事同盟に対抗するための防衛的性格のものであり、かつ、日本の将来展望は平和大国以外にない)からしますと、中国の問いかけは決して手前勝手なものとして片づけることのできない内容が込められているし、私たちとしては謙虚に読んでみることが必要だと確信するわけです。 」
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2012/487.html

また、思わぬところで、「核保有国のなかでは」という条件つきながら、核や軍事に関する中国の姿勢を高く評価する声も聞かれるのである。次の文章を紹介してこの記事を終ることにするが、中国メディア(たとえばこちら)が発信する記事や論文などにみられる主張内容とこの評価内容には基本的、根本的な矛盾はおおむねみられないように思う。

「 (米国の)戦略アナリストのジョン・スタインブルナーとナンシー・ギャラガーは、米国学士院の機関誌のなかで、誇張ではなく警告している。ブッシュ政権の軍事計画とその侵略的な姿勢は「最終的な破滅の危険をかなりともなう」と。その理由は簡単だ。一つの国家が絶対的な安全を追求し、意のままに戦争し「核の歯止めを取り除く」(ペダツールの言葉)権利を確保しようとすれば、他の国々の安全が脅かされ、それらの国は対応策をとると考えられるのだから。ラムズフェルド国防長官の米軍再編で開発されつつある恐ろしいテクノロジーは、「間違いなく世界中に広まるだろう」。「競って威圧しあう」状況では、行動とそれにたいする反応の繰り返しによって「危険が増し、制御不可能になるおそれがある」。「アメリカの政治システムがその危険を認識できず、その意味するところに対処できない」ならば、「アメリカの存続の可能性はきわめて疑わしくなるだろう」と、スタインブルナーらは警告する。
 アメリカ政府がみずからの国民と世界に脅しをかけても、平和を愛する諸国の連合がその脅しに対抗するだろう、とスタインブルナーとギャラガーは希望を表明する。その連合を率いるのは、なんと中国だ! 支配層の中枢がこのような考えを表明するのは、大変な事態である。そして、ここにしめされるアメリカの民主主義の実体――は、まさに衝撃的かつ危機的である。冒頭の「はじめに」で言及した「民主主義の劣化」の実例だ。スタインブルナーとギャラガーが中国の名を挙げたのは、すべての核保有国のなかで、中国が「明らかに最も抑制のきいたやり方で軍事力を展開している」からだ。さらに、中国は宇宙の利用を平和目的に限定しようとする取り組みを、国連で率先して進めているから。この点で中国はアメリカと相いれない。アメリカは、イスラエルとともに、宇宙における軍拡競争を防ごうとする動きをことごとく邪魔をしているのだから。」 「破綻するアメリカ 壊れゆく世界」ノーム・チョムスキー著・鈴木主税・浅岡政子訳(集英社2008年)

2012.10.27 Sat l 社会・政治一般 l コメント (5) トラックバック (0) l top
尖角諸島(釣魚島)をめぐる日中間の紛争に対して、韓国の「朝鮮日報」(2012/09/20)に「「野田首相の歴史認識の甘さが日中関係を危機に」との記事が出ていた。

「 尖閣諸島(中国名:釣魚島)をめぐる日中の対立が深まっている中、野田佳彦首相(写真)の歴史に対する認識の甘さ、現実に対する判断ミスが、日中関係を最悪の危機に追い込んだとの分析が出ている。野田首相は「日本には戦犯はいない」として日本の侵略戦争が周辺国に与えた苦痛を否定し、そうした極右的な姿勢で周辺国と絶えず摩擦を引き起こしてきた。野田首相は、選挙を意識して尖閣諸島の国有化を急いだ揚げ句、中国国内の反日デモに火を付けただけでなく、尖閣の実効支配さえも危うくしている。
■歴史に対する認識の甘さ
 NHKは、野田首相がまるで意図したかのように「反日記念日」を選んで中国を刺激した、と報じた。尖閣の国有化方針を発表した7月7日は、日中戦争の発端となった両国軍の衝突事件、盧溝橋事件(1937年)が起こった日だ。また、国有化を正式決定した今月10日は、中国で「国恥の日」とされる柳条湖事件(1931年9月18日)が起きた日に近い。柳条湖事件は、日本が南満州鉄道の線路を爆破し、中国軍による犯行と発表した謀略事件で、満州事変の発端となった。
■胡錦濤主席の警告をあからさまに無視
 中国の胡錦濤国家主席は9日、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議での野田首相との立ち話で「領土主権を守るため、中国政府は決然とした態度で臨む」と警告した。だが、野田首相は翌日の関係閣僚会合で尖閣の国有化を決定した。東京福祉大学の遠藤誉教授は「野田首相に露骨に無視されたことが、中国を強硬策に向かわせた」と分析している。
■中国の内部崩壊論に執着
 日本政府は防衛白書などで「中国が貧富の差や民族対立などで内部崩壊する可能性がある」と主張してきた。そのため、反日デモは社会への不満を発散する事実上の反政府デモであり、中国当局は反日デモを認めないと誤った判断をしてしまった。
■中国も韓国のような国だと錯覚
 李明博(イ・ミョンバク)大統領の独島(日本名:竹島)訪問と関連し、韓日通貨スワップの見直しを示唆するといった超強硬姿勢で支持率が上がると、野田首相は中国に対しても強硬発言を繰り返した。ある専門家は「野田首相は中国も、声明で争うなど外交戦で対応した民主主義国の韓国と同じだと思い込んだようだ」と話している。だが中国は違った。軍部が戦争も辞さないと叫ぶ中、反日デモが暴徒化した。中国が「力」で 押してくるや、野田首相らは糾弾声明さえ出せないほどの低姿勢に転じた。
■日米同盟に頼った日本
 野田首相は、日米同盟を根拠に米国が日本を守ってくれるものと期待した。日本政府はことあるごとに、尖閣が日米安保条約の適用対象だということを確約するよう、米国側に要求した。しかし、米国は原則的に他国の領土紛争には介入しない姿勢を取っている。」(東京= 車学峰(チャ・ハクポン)特派員)

野田首相の判断の過ちを指摘した上の記事には賛同できるものもあればできないものもあるのだが、それでも私たちが日々接している日本のメディアの尖閣報道ではこの程度の分析もなされることはない。そもそも私たちが尖閣諸問題について正確な知識を数多く蓄積した上で事態に対する的確な判断をしようと思っても、その参考になる情報の提示さえ日本のメディアには望めないように感じる。中国のメディアが、釣魚島が中国の領土であるゆえんを繰り返し説得的に語っている実態とはまるで正反対である。メディアもそうだが、日本政府の野田・前原氏らの態度がそもそもおかしい。中国の論説にも言及があるし、井上清氏の論文にも出てくることだが、この島を日本の領有地と宣言する標識を設置するか否かをめぐって1985年(明治18年)、沖縄県令 西村捨三、内務卿 山県有朋、外務卿 井上馨という3人の人物が書簡を交わしている。山県有朋、井上馨の2人は誰もが知るように明治政府の中枢に位置した人たちである。山県有朋に宛てた井上馨の書簡は特に重要だと思われる。

「 沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島、久米赤島外二島、沖縄県ニ於テ実地踏査ノ上国標建設ノ儀、本月九日付甲第八十三号ヲ以テ御協議ノ趣、熟考致シ候処、右島嶼ノ儀ハ清国国境ニモ接近致候。サキニ踏査ヲ遂ゲ候大東島ニ比スレバ、周回モ小サキ趣ニ相見ヘ、殊ニ清国ニハ其島名モ附シコレ有リ候ニ就テハ、近時、清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ候モノコレ有ル際ニ付、此際ニワカニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置コレ有リ候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間、サシムキ実地ヲ踏査セシメ、港湾ノ形状并ニ土地物産開拓見込ノ有無ヲ詳細報告セシムルノミニ止メ、国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候。
 且ツサキニ踏査セシ大東島ノ事并ニ今回踏査ノ事トモ、官報并ニ新聞紙ニ掲載相成ラザル方、然ルベシト存ジ候間、ソレゾレ御注意相成リ置キ候様致シタク候。
 右回答カタガタ拙官意見申進ゼ候也。」(井上清「釣魚諸島の史的解明」

日本政府も日本のメディアも、当時の日本政府は85年から10年近くかけて現地調査して尖閣諸島が無主地であることを確認したというのだが、確認過程の実体、つまり西村ー山県ー井上の書簡の具体的なやりとりには一切ふれないのである。こういう見え透いた態度では広い世界に向かって日本の領土主権を主張したとして誰に納得してもらえるだろうか。中国の民衆の反日デモにかりに一色ではない他のいろいろな理由があるにしても、彼らは日頃から自国メディアの領土問題に関する具体的な説明や主張にふれてその歴史的経緯についてよく知っているということを忘れては話にならないだろう。ところで朝鮮日報の上記5点の指摘のうち、「■歴史に対する認識の甘さ」「■胡錦濤主席の警告をあからさまに無視」「■日米同盟に頼った日本」、この3点はまったく的確な指摘と言えるのではないだろうか。 しかし、「■中国の内部崩壊論に執着」との説はどうだろうか。いくら外交政治センスに乏しい日本政府でも現在の中国が内部から崩壊する芽があるなどと本気で考えていたとは思えないのだが。それから野田首相が「■中国も韓国のような国だと錯覚」したという指摘もヘンだろう。この記事を書いた記者は、ある専門家の話として、「野田首相は中国も、声明で争うなど外交戦で対応した民主主義国の韓国と同じだと思い込んだようだ」と述べるが、先に「自衛隊導入も考える」と2度も発言して挑発したのは野田首相であった。また「民主主義国の韓国」という表現は興味深い。「ロシアの声」によると、8月韓国は米軍と組んで北朝鮮に対する侵略・占領・治安維持を想定した軍事演習を行なったという。

「 「先例のない挑発」( 12.09.2012 )
 「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、韓国を占領することを想定した軍事演習を行う」もしも平壌がそうした発表を行えば、世界に一大センセーションが巻き起こるだろう。国連安保理の紛糾も避けられまいし、侵略を説得する怒号にも似た依願が寄せられるだろう。さてここで、韓国紙「ドナ・イリボ」を覗いてみよう。ここに、最近行われた韓米共同軍事演習についての記事がある。演習は、韓国軍による北朝鮮の占領を想定したものだったという。しか しこの記事は、ほとんど耳目を引くことなく看過されてしまった。
 朝鮮半島情勢に関するダブルスタンダードは全く露骨だと、ロシア科学アカデミー極東研究所のコンスタンチン・アスモロフ研究員は考えている。
 ― 北朝鮮が人工衛星を打ち上げると、あたかもミサイルが発射されたかのように騒ぎが持ち上がり、紙面に「標的はソウル」「東京に向けたもの」といった大きな活字が並ぶ。しかし韓国が、北朝鮮占領という具体的目的に基づく具体的な軍事演習をしても、世界は何の反応も示さないのだ。
 韓米共同軍事演習が行われたのは8月のことだったが、演習が北朝鮮占領およびそれに続く治安維持を想定したものであったと明らかになったのは最近のことだ。このような課題をもった軍事演習は始めてのものだとコンスタンチン・アスモロフは指摘し、さらに次のように続けている。
 ― これまで演習では、北朝鮮から攻撃が加えられた場合の行動が訓練されていた。韓国はこれら軍事演習を、外国の侵略に対する防衛的意味のものだと正当化することが出来た。翻って今度の演習は、本質においてほとんど挑発である。韓国と米国は、北朝鮮の神経を逆なでしただけではない。本質において演習は、アジア太平洋地域全体の利益を損ねかねない侵略的傾向のデモンストレーションだったのだ。
 韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領は、南北両朝鮮の統一を南による北の吸収という形でしか考えていない。平壌にとって、これは宣戦布告と同義である。ソウルが南北両朝鮮統一基金に増資すると決定した直後、北朝鮮の金正恩第一書記が軍備の増強を指示したことは偶然ではない。金第一書記はまた、韓米サイドから挑発行為があった際、応分の報復攻撃を行う計画へも署名した。
 韓米共同軍事演習は、米国および韓国が地域の緊張緩和に関心を持っていないということを示した。戦争ゲームは明らかに、朝鮮半島における軍事的な衝突の蓋然性を高めた。あらゆることから判断して、対抗の意味で平壌の軍事ドクトリンは修正を余儀なくされ、 北朝鮮プロパガンダはおそらく、南に陣取る民族の敵に対する新たなキャンペーンを喧伝するだろう。
 北京も同様に、ソウルとワシントンが公然と隣国吸収を念頭においた演習を行っていることを、黙って見ていることは出来ない。朝鮮半島の北部は、伝統的に中国の影響圏である。北京は、国益を損ねないために、すべてのことをするだろう。最悪の場合には、従順な北朝鮮に代わって米軍基地もろとも、中国自身が半島を自国国境のうちに収めてしまうかもしれない。 」

8月に実施された韓米共同軍事演習が「 北朝鮮占領およびそれに続く治安維持を想定したもの 」だったというこの記事の内容は事実そのままなのだろうか? もし事実なら(おそらくそうにちがいないように思えるのだが)、「 これまで演習では、北朝鮮から攻撃が加えられた場合の行動が訓練されていた。韓国はこれら軍事演習を、外国の侵略に対する防衛的意味のものだと正当化することが出来た。翻って今度の演習は、本質においてほとんど挑発であ」り、「アジア太平洋地域全体の利益を損ねかねない侵略的傾向のデモンストレーションだったのだ。 」「 韓米共同軍事演習は、米国および韓国が地域の緊張緩和に関心を持っていないということを示した。戦争ゲームは明らかに、朝鮮半島における軍事的な衝突の蓋然性を高めた。 」ことも事実だろう。今年の国際原子力機関(IAEA)の年次総会は最終日の9月21日、「北朝鮮による軽水炉の建設を「非常に厄介な問題だ」と非難し、核計画の全面的な放棄を求める北朝鮮核問題の決議案を全会一致で採択した」とのことだが、今回の決議案は「日本や韓国、米国などが共同で提出した」そうである。これでは、武器をちらつかせて(しかも集団で)人を散々殺してやるぞ、破滅させてやるぞと脅迫しておいて、震え上がった相手が防御のために大急ぎで武装に励んでいるのを見ると、今度は警察に行って「アイツは拳銃を持ってますよ、刀も持ってます。違法行為なんだから逮捕して処罰するべきです。」と訴えて出るようなもので、あまりといえばあまりの行動に何ともかとも言いようのない思いがする。
2012.09.23 Sun l 社会・政治一般 l コメント (1) トラックバック (0) l top
石原慎太郎東京都知事は4月米国で尖角諸島(釣魚島)を東京都が買い上げると宣言し、その後一般から寄付を募って寄付金額がやれ10億円を超した、13億円になった、日本人もまだまだ捨てたものではない、などと勇ましかったが、その後中国側がこれではだめだと本気で怒って両国間に緊張と危険性が増し、また自分に対しても中国各紙が「石原」と呼び捨てにするかたちで論理的で実証的な、かつ徹底的な個人批判をするようになったら、すっかりおとなしくなってしまった。重大な騒ぎを引き起こした張本人であり、しかも当人自身文筆業者を名乗るのなら、このようなときこそ本領発揮、中国側の批判(こちらこちらなど多数)に堂々と反論し、外部に向かって自分の計画の正当性を訴えるのが公人であり一人前の確かな人間である者のとるべき態度だろう。しかし当初からおそらく多くの人が薄々想像したことと思うが、この人は安全地帯にいて(右翼や産経新聞などの仲間に囲まれたなかで)、後先深くは考えずに調子に乗って一方的な悪態をつく以上のことはできないのだ。

14日、尖閣諸島周辺に中国の海洋監視船6隻がやって来ると、「人の家にずかずかと土足で踏み込んできた。追っ払えばいい。まさに気がくるっているのではないかと思う」とか、「かつてはいろんな教養や文化を持ち、孔子や孟子など日本に価値体系を教えるような先人がいた」が、「それをまったく喪失し、中国共産党の教導の下にああいうことを起こして平然としている国家は信じられないし、軽蔑する」と強い言葉で非難したそうだが、もはや精一杯はった虚勢、強がりにしか聞こえない。特に「軽蔑する」という発言は、相手側からの反響をそのまま口にしているだけのように聞こえる。「 かつてはいろんな教養や文化を持ち、孔子や孟子など日本に価値体系を教えるような先人がいたが、うんぬん」との発言にしても、中国側にしてみれば、「アンタにだけは言われたくない」で終るだろう。実際、言っちゃあ何だが、領土問題に関して石原氏(日本政府と日本のメディアも同様)の発言と中国側が繰り出す発言内容とでは、歴史認識の深さといい論理の確かさといい視野の広さといい、 双方の見識には目がくらむほどの差異があるように思う。もちろん中国側にもなかには感心できない論述もあるが、そんなことは当たり前のことであって、いつか浅井基文氏は自身のコラムで中国の論者には弁証法的思考法が身に沁みついていると評されていた。また別のところでは彼らには古典の素養が身に備わっているとも述べていたと記憶するが、確かに領土問題、日中関係を論評、分析した中国各紙の文章を読んでいると、その評価は適切だと思わないわけにはいかない。

それから民主党の前原誠司氏はTBS( 9月13日)によると、12日、アメリカ・ワシントンで講演し、南シナ海において東南アジア諸国と領有権をめぐり対立している中国について、「理解しがたい論理や主張に基づき行動している」「国際秩序への挑戦を恐れなくなってきている」と述べたそうだ。私は最初これを読んだとき、日本の与党政治家が中国の領土問題について発言したというのだから、当然日中間の紛争の種である尖角諸島について語ったのだと思い、 これまでに積み重ねられてきた中国側の尖角諸島に関する発言に対して前原氏は「理解しがたい論理や主張」と述べているのかと、私はそう受けとめてびっくりした。虚心に耳を傾けさえすれば、誰にとっても尖角諸島に関する中国側の論理や主張が「理解しがたい」なんてことはないはずと思うからである。そう思ってもう一度読んでみると、前原氏は尖角諸島についてではなく、中国がフィリピンやベトナムとの間に抱えている領土問題について語り、その件で中国を非難しているのだ。しかし私もその一人だが、日本人の大多数はよその国の領土紛争について事情を何にも知らない。そういうところにいきなり「理解しがたい論理や主調」「国際秩序への挑戦」などと中国に対する最大限の非難の言葉を投げかける前原氏の行動は浅薄であり品位に欠けるものだろう。もし中国のイメージを悪化させたいというような思惑があったのだとしたら、みみっちい卑怯な行動とさえ言えるだろう。領土問題は日本の例を見て解るように理解するになかなか厄介な事柄を数多く含みもつことが明らかだが、そもそも前原氏は他国の領土問題に対してそのように一刀両断するに足るどの程度の豊富かつ正確な知識を持っているのだろう。


2008年暮れに死去した文芸評論家の加藤周一は、文学者のなかで戦後の早い時期から中国との友好関係の重要性を指摘してきたうちの一人だったが、1972年に日中国交正常化が成るその10年以上も前の1959年に「中立と安保条約と中国承認」という題の文章において次の一節を書いていた。

「 私はアジア・アフリカ作家会議準備委員会で、中国の作家と同じ屋根の下に暮していたとき、もし私が中国を訪ねたら、中国の町や村の人々は私に対してどういう態度をとるだろうか、ときいたことがある。われわれは歓迎するだろう、と私の話相手の作家はいった。いやそういう意味じゃない。君たち作家は歓迎してくれるかもしれないが、大衆のなかには日本人に敵意をもっている人も多いだろう、と私はいった。相手は笑いながら――その笑いが何とあたたかく、人間的で、しかも誇りにみちていたことか!――中国のどんなところを旅行しても、どんな町、どんな村でも、君が敵意のある態度に出会うことは決してないだろう、と答えた。私はそういう保証を俄に信じる気にはなれなかった。町にも村にも、日本人に親や兄弟を殺された人々は少くないはずだが、その人々はわれわれに石を投じないのだろうか。投じたとしても、抗議する資格がわれわれにないという考えが私にあった。しかし中国の作家は、そんなことは決してないだろう、と繰り返し、中国の大衆は日本帝国主義と日本の人民とを区別することを知っているといったのである。事実戦後中国を訪ねた日本人から私のきいた話は、すべて彼のいうところに一致していた。日本の天皇の軍隊は――それはそう呼ばれていた、「皇軍」という言葉もあった――中国に侵入して、中国人大衆を掠奪し、拷問し、凌辱し、虐殺した。そのあとで、つまり大がかりな犯罪のあとで、日本人がその中国へ行って、石を投じられぬとすれば、それは人間の歴史に例の少いおどろくべき事態ではないだろうか。もし中国革命が六億の大衆の民族的自覚と共に倫理的自覚を意味していないとすれば、どうしてそういうことが可能であろうか。われわれは史上にいくつかの革命の過程を知っているし、また旧植民地または半植民地の独立と国民的統一の多くの例を知っている。しかしその倫理的きびしさにおいて、これほどの例は知らない。アグネス・スメドレー Agnes Smedley が中国革命軍の倫理的高さについて語ったときに、彼女はまちがってはいなかったのである。中国の作家と話しながら、私は一種の衝撃をうけた。衝撃は直接には、われわれ日本国民に対する中国側の態度から来ていた。しかしそれはただちに、中国に対する日本側の態度にもつながらざるをえない性質のものであった。日本人から被害をうけたにも拘らず、日本人に石を投じない六億の国民がある。その国民を代表する政府をわれわれの政府が正式に認めないという事態に、われわれが倫理的な抵抗を感じないわけにはゆかないだろう。中国の承認は、政治問題であり、損得利害の問題であるよりまえに、われわれにとっては倫理の問題であり、国民としての品位の問題である。
 しかし損得利害の問題もないことはない。経済的観点からみれば、……中国市場は、現在はもとより将来も、アメリカにとって致命的に大切なものではないかもしれない。また経済的にみてアメリカよりもはるかに小さな資本主義国であるイギリスや西ドイツにおくれて中国市場に乗り出しても、アメリカにとっておくれをとり返すことは困難ではないかもしれない。しかしイギリスや西ドイツよりももっと小さい日本にとっては、当然困難であろう。しかも将来の中国市場は、おそらく日本にとって致命的に大切なものになるにちがいないのである。要するにアメリカの実業家が中国との経済的関係の緊密化に不熱心なのは少しも不思議ではないが、日本の実業家が不熱心で、中国承認を躊躇う政府をだまってみすごしているのは、全く不思議である! もちろんすべての資本家は共産主義を嫌うだろう。それほどあたりまえのことはない。しかし中国承認の故に共産主義化した国はどこにもなく、将来共産主義化しそうな国さえどこにもない。そのことは中立主義政策に関連して先にも触れたとおりである。」(「世界」1959年4月号・著作集第8巻)
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「 中国のどんなところを旅行しても、どんな町、どんな村でも、君が敵意のある態度に出会うことは決してないだろう」、なぜなら「中国の大衆は日本帝国主義と日本の人民とを区別することを知っている」から、と中国人作家は笑いながら言ったそうだが、その笑いについて、加藤周一は「何とあたたかく、人間的で、しかも誇りにみちていたことか! 」と書いているが、確かに当時中国人が日本人に対してそのような見解を自信をもって言えたのなら、そのときその人の表情が誇りある美しさにかがやきわたるのは当然のことだったろう。加藤周一は「事実戦後中国を訪ねた日本人から私のきいた話は、すべて彼のいうところに一致していた。」とも述べているが、これもものすごいことだ。

少し前のことになるが、8月19日付東京新聞に日中国交回復が成立した72年当時の日中の政治家の言動に関する記事が「日中正常化の原風景」という題名で掲載されていた。「正常化前後の中国を取材して印象に残ったエピソードを紹介しておきます。」との記者の前置きで中国の毛沢東、周恩来、日本の田中角栄、大平正芳などの各政治家が叙述されていたが、そのなかで私には周恩来の言動がとりわけ印象深く、感銘を受けた。記事の内容は下記のとおりであった。

「1972年9月、田中訪中に先立ち自民党訪中団と会見した周恩来首相は、随員の中に外務省の橋本恕中国課長(後の中国大使)がいるのを見て「田中訪中の準備は順調に進んでいますか」とたずねました。同課長は「中国側の配慮で順調です」と感謝しました。ところが周首相は即座にこう返しました。「配慮しているからといって、行き届いているかは別問題です。行き届かない点があれば遠慮なくいってください」」

周恩来のこういう態度は中国の一人の作家から加藤周一が聞かされた「中国の大衆は日本帝国主義と日本の人民とを区別することを知っている」という言葉の、その中国の大衆の姿勢と同じ根から出ているもののように思える。あるいは周恩来は自国民に向って折にふれそのようなものの見方を説くことがあったのかも知れない。中野重治は1957年に「第2回中国訪問日本文学代表団」の一員として中国に招かれ、山本健吉、本多秋五、堀田善衛などとともに総勢7人で40日間の旅をし、帰国後「中国の旅」という一冊の本を刊行している。この本はとてもおもしろく興味深い内容で他の人にも一読をお薦めしたいほどなのだが、ここには周恩来のことなど出てこない。いや正確に言えば、一ヵ所出てくることは出てくるのだが、それは中国旅行の「中国の旅」執筆の前年に読んだという日本の新聞記事における周恩来の発言の引用なのだった。

「……けれども、去年夏の周恩来の言葉がある。アジアをまわつてアメリカヘ行ったときの日本の岸の言動について、周恩来は三項目をあげ、特に第三項については六つの点をあげて具体的に目本民間放送使節団に語つている。それは日本のすべての新聞が書いていた。そこにはこうあつた。
「吉田内閣は中国を敵視していた。鳩山内閣と石橋内閣とは中国と仲よくしようとする希望を持っていた。ところが、岸内閣は前進するよりも後退している。アジア諸国はみなバンドン会議の一員だから、岸首相がアジア諸国を訪問したのはよい。また日本の首相が当分のあいだ中国にこられない事情もわかる。しかし岸首相がわざわざ、鳩山も石橋も、そして吉田さえ行かなかつた台湾に行き、中国人民の反感を買っていることは私のとくに遺憾とするところである。つぎに岸首相が台湾で発表した談話である。岸首相は、『もし蒋介石政権が大陸反攻を実行できれば私にとってまことに結構なことだ』と言つている。これは中国人民を敵視している言葉である。」「第三に、岸首相がインドを訪問したとき、新聞記者に『日本は中国を承認しない。なぜなら中国は侵略国家であるからだ』と語つたことである。インドは中国を承認し、中国の国連加盟を支持している。そのインドに対してこのようなことを言うのは挑発的態度としか思えない。私は東南アジアの八つの国を回ったが、日本の悪口なんかは少しも言つていない。毛沢東主席も、日本をふくめたアジア諸国と仲よくしたいと希望している。日本の首相が外国に行って、中国をののしる必要がどこにあるか。」
 中国の人民が、あげて台湾解放を問題にしているのは伊達でも酔狂でもない。(略)」(「中国の旅」全集第23巻)

ところが、1978年刊行の同書の「著者うしろ書」によると、中野らは旅行中偶然のことながら周恩来に会って挨拶を交わしていたのだという。

「……私は、山本健吉、井上靖、十返肇、堀田善衛、多田裕計、本多秋五といつしょに中国へ行った。第二回中国訪問日本文学代表団というので、北京では中島健蔵とも一緒になつた。私たちはかなりの距離を動いた。私たちはいろいろのものを見、いろいろの話を聞き、いろいろの場面に出くわし、またいろいろのものを飲み食いした。帰り、重慶から船でくだろうとするとき、送りに来てくれた中国の作家とのあいだで、私でも知っている名高い孔子の言葉について、私などが通俗にいつてペシミスティックに取つているところを、相手がオプティミスティックに取つているらしいのに不思議なような、あるいはそれが正しいのかなと迷うような思いをしたりなどもした。この旅行で、偶然私は周恩来を見た。そこに人が集まつている。いろんな外国人たちがまじつていて、踊つているものもいる。そこを縫つて、周恩来がいろいろの人と挨拶しながらこつちへやって来る。堀田(善衛)が私を押しだすようにして私たちは挨拶することになつた。何とか言えと堀田が私に言う。私は何ひとこと言うことができなかつた。その印象は今に続いている。いまにつづいているこの印象について、私はいつかは一人の人間として書きたいと思つている。」(「全集第23巻「著者うしろ書」」1978年2月27日)

中野重治が周恩来から異様なほどに深い印象を受けていたことがありありと分かる文章である。しかし中野重治はこの翌年に死去し、「いつかは一人の人間として書きたいと思っている」と言った周恩来の印象について書く機会は残念ながらとうとうなかったわけである。

現在の中国は貧富の差の拡大や軍事力の急速な膨張など懸念材料が多いことも事実と思うが、しかし私は4月の尖角諸島購入問題発生後、中国の新聞の日本語版サイトをのぞいたり、浅井基文氏のサイトで浅井氏が翻訳されている中国の論文や新聞記事などを読ませてもらったりしているうちに、中国の人々には今も50・60年代のころの品位高い感情や姿勢が未だに残っているのではないかと思うようになった。中国各紙では「中日両国は和すれば共に利し、闘えば共に傷つく。」というような言葉も繰り返しつかわれている。現在の中国の日本に対する反感はほぼすべて私たち日本人の側に原因があるのではないかと今さらのことではあるがそう思わないわけにはいかない。加藤周一の死が2008年だったことは先に述べたが、その2、3年前に加藤周一は澤地久枝さんとの対談で、澤地さんに中国との関係改善の大切さを言われると、その大切さをもちろん重々認めた上で、「でももう無理でしょう」と言った。加藤周一が言外にその原因をほぼ全面的に日本のこれまでの中国・アジアに対する態度においていることは聞くまでもなく明瞭だったと思う。
2012.09.20 Thu l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
2003年、米英によるイラク侵攻が始まったときからブッシュとブレアを国際刑事裁判所で裁こうという呼びかけは一部に聞かれたが、米国が国際刑事裁判所規程を批准していないという事情のせいだろう、そういう声はいつしか立ち消えになっていたと思うが、先日、思いがけなく下記のニュースに接した。

「 ツツ元大主教 英元首相との同席拒否
 南アフリカのノーベル平和賞受賞者のツツ元大主教は、アメリカのブッシュ前大統領やイギリスのブレア元首相がイラク戦争を引き起こしたことで、現在の中東の混乱の原因をつくったと批判し、ブレア元首相と共に出席する予定だった国際会議を欠席しました。
 南アフリカのツツ元大主教は、かつて人種隔離政策=アパルトヘイトの撤廃に取り組み、1984年にノーベル平和賞を受賞した平和運動家です。 ツツ元大主教は、先月30日、ヨハネスブルクで世界の各界のリーダーを集めた会議に出席する予定でしたが、イギリスのブレア元首相との同席を拒否して欠席しました。 ツツ元大主教は、2日付けのイギリスの新聞「オブザーバー」に寄稿し、「イラクが大量破壊兵器を保有するといううそに基づいたイラクへの侵攻が、世界を不安定にし分裂させた」と指摘し、アメリカのブッシュ前大統領やイギリスのブレア元首相がイラク戦争を引き起こしたことで現在の中東の混乱の原因をつくり、結果としてシリアやイランを巡る緊張も招いたと批判しました。 これを受けて、ブレア元首相は声明を出し、ツツ元大主教の姿勢を「残念だ」としたうえで、イラク戦争に踏み切った経緯について、「道徳的にも政治的にも容易でない決断だった」と改めて釈明しました。」 (「NHK」9月2日 23時14分)

「 米英両元首脳の訴追求める=イラク開戦の罪で国際刑事裁へ −ツツ元大主教
 1984年にノーベル平和賞を受賞した南アフリカのツツ元大主教は2日付の英紙オブザーバー(電子版)に寄稿し、2003年のイラク戦争開戦の責任を問い、ブレア元英首相とブッシュ前米大統領をオランダ・ハーグの国際刑事裁判所(ICC)に訴追するよう呼び掛けた。「イラクで失われた人命への責任を負う者は、ハーグで現在、責任を問われているアフリカやアジアの指導者らと同じ道を歩むべきだ」と訴えている。 ツツ元大主教は、ブレア、ブッシュ両氏が「大量破壊兵器が存在する」と世界を欺いて開始したイラク戦争が現在の中東不安定化の遠因だと主張。「シリアもイランも今の窮地に世界を追い込んだのはこの二人だ」と批判した。 」(「時事通信」2012/09/03)


「ツツ元大司教」については、藤永茂氏のブログ「私の闇の奥」の『 AK-47 as WMD 』( 2007/02/07 )という記事にも「 南アフリカの大司教デスモンド・トゥトゥ 」との名でその発言が記述されている。アフリカ大陸には1億以上もの小型銃火器が分布し、とりわけコンゴにはそれが溢れていて、その中で数的にダントツなのがAK-47という小銃だそうで、この小銃は「 砂や泥水にまみれても簡単な手入れで直ぐに使え、少年少女にも容易に取り扱えるのだそうです。その「長所」がアフリカの少年少女に大きな悲劇をもたらしています。アフリカでは30万以上の少年少女たちがいたいけな「兵士」に仕立てられて内戦に狩り出され、その結果、4百万人の子供たちが殺され、8百万人が不具者となり、千五百万人が家を失ったというユニセフの報告があります。 」、「 アフリカから何が持ち出され、何がアフリカに持ち込まれているか。このトータルなマクロな収支構造にこそ私たちの視線が凝集されなければなりません。アフリカに関する世界の列強諸国のソロバン勘定は、この200年間、構造的には何も変わってはいないのです。2006年10月のロンドンのタイムズ紙に、南アフリカの大司教デスモンド・トゥトゥ(ノーベル平和賞受賞者)は、アフィリカでの小型銃火器交易の現状を“the modern day slave trade which is out of control”と書いています。彼にすれば、200年ではなく、過去500年間同じことが続いていると言いたいのでしょう。 」

NHKの記事には、ツツ氏がブッシュとブレアを国際司法裁判所に訴追する呼びかけを行なったとは出ていないが、「ロシアの声」にも「 デズモンド・ムピロ・ツツ元大主教は、 英国のブレア元首相と米国のブッシュ前大統領をイラク戦争に対する責任で法廷で裁くことを支持する意向を示唆した」とあるので、「 国際司法裁判所に訴追するよう呼び掛けた 」との時事通信の記事内容に誤りはないと思われる。実際、イラク侵攻の唯一の理由であったはずの「イラクの大量破壊兵器保有」が嘘であったにもかかわらず、攻撃の首謀者たちがその後公的に何の責任も負わず、問われず、平気で平穏な日常生活を送っていられるという法はない。イラクでは彼らの無法な決断によって何万、何十万もの人々がいわれもなく殺され、死んでいかなければならなかった 。現在イラクの街々は上下水道を始めとした各種インフラが破壊され尽くし、清潔な水を手に入れることのできる人は限られているという。その「失われた人命」や平和の破壊に対してブッシュやラムズフェルドやブレアらが実質的に具体的に罪を問われなかったことは、昨年来のリビアやシリア攻撃を見ていると感じずにいられないのだが、米英に一片の反省を促すどころか、「これで通る」という、味を占めさせる結果になっているように思える。リビア、シリアときて、その後にはイラン攻撃が米国の既定路線だという声も聞こえてくる。ツツ氏の「「大量破壊兵器が存在する」と世界を欺いて開始したイラク戦争が現在の中東不安定化の遠因」「シリアもイランも今の窮地に世界を追い込んだのはこの二人」であり、したがって「 ブレア元英首相とブッシュ前米大統領をオランダ・ハーグの国際刑事裁判所(ICC)に訴追する」べきとの今回の主張は時宜にも道理にも叶っているように思う。

米国が国際刑事裁判所規程を批准しなかった理由は、イラク攻撃に至る経緯とその結果を見れば一目瞭然だ。国連憲章などの国際法の規程は米国にとって軍事行動の基準にはならず、たまたまある法が自国の行動を正当化できる場合はその権威を利用するというに過ぎないのだ。イラク攻撃は一方的な言いがかりによる完全に不法、不公正な侵略行為で、その結果、イラクの普通の人々が無惨に殺戮され、国中の何もかもが取り返しのつかないほどに痛めつけられた。そもそも2003年当時、湾岸戦争以降の米国の経済制裁によって、イラクの乳幼児死亡者数は百万人を超え、軍事力はイラクよりはるかに小国であるカタールの十分の一にまで落ちていたという。マデレーン・オルブライトがテレビ出演で、イラク経済制裁ではこれまでに50万人の子どもが死んだと聞いている。それだけの犠牲を払う価値がある行為なのか、と問われて「思うに、それだけの価値はあるのです」と答えたのは、この間の2006年であった。こういう発言をするオルブライトという女性には子どもがいないのかと思ったら、3人の子持ちなのだという。こういう有り様では、英米のイラク攻撃が絶望的な憎悪による新たな多数のテロリストをつくり出し、テロ攻撃をそれ以前の十倍に増やしたという結果に不思議はないだろう。 もっともこのことは開戦前から多くの人が予測、懸命に警告を発していたことだったと記憶するが…。

昨年米欧の空軍はリビアで一万回近く出動し、国内のすべてのインフラを滅茶苦茶に破壊することでカダフィ政権を倒したが、その中核を担った米国と英国はそれぞれ現在自国民に対してリビア訪問を止めるように通達を出しているのだという。「リビヤのカダフィ政権が転覆させられて以来、リビヤは「民主国家」になるどころか、無秩序と暴力が蔓延する国になりつつある。このカダフィ政権転覆を主導した当のアメリカでさえ、国務省がアメリカ人の旅行者に、「リビヤには行くな」と警告を発するほどになっている。」(米国のこの警告はリビア駐在の米国大使および職員が殺害された9月11日の事件の大分前のものである。)、 「英国の外務省の公式な旅行アドバイスを見ても「余程の必要がない限り、リビアは危険だから行くな」と書いてあります。」。リビアをそういう危険きわまりない国にしたのは、一体どこの誰なのだろう?

イラク攻撃の理由、攻撃に至る経緯、攻撃の実態、結果、等々を詳細に徹底的に掘り下げて米国の戦略の実態、その本質を明らかにすることは人類の今後の健全な生存のために不可欠なことではないかと思う。これは米国に理不尽な言いがかりを付けられて攻撃の対象とされる国と人々の救いとなるだけではないと思う。米国と同盟関係を持つ国の政府は米国の思惑に沿うことが何より優先、日本政府などは米国の機嫌を損ねることを怖れて自国民を犠牲の山羊として米国に差し出して恬として恥じないことは沖縄の現状を見れば分かる。その結果、政治家の責任感と良心の磨滅はもとより、思考力、判断力、交渉力、何をとっても時とともにいよいよ低下し、稚拙・低劣になっていく。韓国にも同じことがいえるように思える。ブッシュとブレアを国際刑事裁判所で裁くべきというツツ元大司教の提言がもし国際刑事裁判所の一世一代の英断によって受け容れられるようなことになれば、おそらく世界中のあちらこちらで希望が生まれでるように思う。
2012.09.14 Fri l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
シリアの紛争について気にかかることをトボトボとでも書こうかと思うのだが、まず初めに先日の20日シリアのアレッポで取材中紛争に捲き込まれて亡くなった山本美香さんに哀悼の意を表し、また周囲の人々にもお悔やみを申し上げたい。

しかしながら、この事件の実体もじつはよく分からない。現場で突然遭遇した相手側から山本さんについて、日本人だ、という声が上がったと伝えられているが、山本さんにしろ同行の佐藤和孝氏にしろ外見によって東洋人との判別はできたとしても、いきなり日本人と断定するのは普通なかなか困難、むしろ無理ではないかと思うのだが…。それとも日本人と言ったのは反政府側の人物だったのだろうか。いずれにせよ、まだ本当のことは表面に現れてはいないのだろう。

それなのに、日本のマスコミは例によって例のごとく、山本さんたちと行動を共にしていた反体制派側の言い分をほぼ100%鵜呑みにして、「政府軍は外国人ジャーナリストを狙い撃ちにしているふしがある」などといった報道を繰り返してはばからないのだ。その証拠を出せ、と言いたいが、矛盾を見ようとはせず、疑問もいだかず。昨日や今日始まったことではないが、日夜まったく同じことの繰り返しで、もうほとほとうんざり、ゲッソリである。日本のマスコミは、取材でシリアを訪れていた英国の「ニュース4」というメディアのスタッフが「案内してくれていた反体制派の人間によって政府軍側の拠点地域に連れて行かれ、そこで置き去りにされた」「政府軍側に殺害されるように反体制派側に謀られた」と証言していることを知らないのだろうか? 知らないなんてことはないだろうと思うのだが…。次の記事は26日付けの日本テレビとテレビ朝日のものである。

「 シリア首都近郊で200人超の遺体 虐殺か(日テレ< 2012年8月26日 19:36 >)
 激しい戦闘が続くシリアの首都のダマスカス南西部で25日、女性や子供を含む200人以上の遺体が見つかったと人権団体が明らかにした。政権側による虐殺の可能性があると伝えている。
 イギリスに拠点を置くシリアの人権団体によると、遺体が発見され たのはダマスカス南西部のダラヤで、インターネット上には、現場で撮影されたとされる映像が投稿されている。200人以上の遺体の中には女性や子供も含まれているということで、人権団体は政権側による虐殺が行われた可能性があると伝えている。
 ダラヤでは3日にわたって激しい戦闘が行われた後、25日までに政府軍が一帯を制圧したという。」

「 シリア首都で200人以上の遺体…政府軍が処刑か(テレ朝・8月26日)
 シリアの首都ダマスカスの郊外で、200人以上の遺体が発見されました。政府軍に処刑された可能性があります。
 戦闘が激しさを増しているダマスカスの攻防戦で郊外の町ダルアーを取り返した反体制派が、200人以上の遺体を発見したと発表しました。遺体の多くは政府軍が押し入った家の中や地下室で発見され、犠牲者には女性も含まれているということです。また、遺体は頭や胸を撃たれていて、反体制派は政府軍による大量処刑だと主張しています。ダルアーは労働者階級が多く住む町で、反体制派による首都へのゲリラ攻撃の拠点になっていて、政府軍が大規模な掃討作戦を仕掛けていました。ダルアーの反体制派は、この作戦で合わせて270人が犠牲になったと主張しています。」

日テレ、テレ朝とも記事の内容はほぼ同一だが、この情報源について日テレは「 イギリスに拠点を置くシリアの人権団体 」と言い、テレ朝は「 反体制派が、…発表しました 」と述べている。日テレの言う「 イギリスに拠点を置くシリアの人権団体 」とは何ものなんだろうか。人権団体がなぜ遺体発見当日に発見当事者の反体制派とそっくり同じ内容の発言ができるのだろうか。それにしても、ダマスカスで発見されたという200人以上の遺体。犠牲者には女性や子どもも含まれている。遺体は頭や胸を撃たれていて、反体制派は政府軍による大量処刑だと主張している。これらの説明は、今から3か月ほど前の5月末に発生したホウラ事件のとき聞かされた説明と何とよく似ていることだろう。まるであのときの話をそのまま聞いているようである。

あの事件をよく思い出してみよう。ホウラで発生したあの残忍冷酷な事件は政府軍側が引き起こしたのではなく、あのときこれは政府軍の仕業だと言って騒ぎ立てていた反政府軍側の犯行であることは今となっては誰の目にも明白であろう。丁度あの時期、米国のクリントン国務長官やスーザン・ライス国連大使を中心に米欧と反体制派はアサド政権の残虐性を口をきわめて非難し、そういう人道的危機情勢であるにもかかわらず安保理で拒否権を行使してガンとしてシリアへの介入を許容しない中露をも責め立てていたのだ。まさにその只中でホウラ事件は起きた。これがアサド政権の仕業なら、政権自ら自国への米欧の軍事的介入を呼び込んでいることになる。それともひょっとしてそういう国際社会の動向を渦中のアサド政権は知らなかったとでもいうのだろうか。あるいは政府側はみんなすでに頭がおかしくなっていたのだろうか。しかし、アサド大統領はその約1週間後に行った演説のなかで「怪物でもあんな残忍なことはできない」と述べたそうである。しかも、犠牲者の多くがアサド政権の関係者や支持者、そしてその家族だったことは今では多くの人によく知られているはずだ。

あらゆる不審、疑問に蓋がされてしまい、英国のBBC放送のウェブサイトなどは何とホウラ虐殺の現場写真としてネットに掲載されていたイラク戦争時の遺体が並んだ他人の写真を勝手に使用していたのだという。BBCにイラクで撮った自分の写真が使われているのを見た撮影者は「椅子から飛び上がるほど驚いた」そうである。これほど無責任で卑怯なことをやるまでになぜ記者の精神が退廃してしまっているのかといえば、リビア、シリアと昨年から連続している米欧の悪どい戦略にこういうメディアが完全に組み込まれていることに主因があるのだろう。

日本のメディアも欧米に右へならえで、ホウラ事件をアサド政権の仕業と決めつけて書き立てた。そこで知りたいのだが、彼らは現在も当時と同じくあの事件をシリア政府軍側が引き起こしたと考えているのだろうか? そのように考えているからこそ、今回のダマスカス郊外の事件も「 政府軍に処刑された可能性があります 」などといとも軽々に言えるのだろうか。あるいはつよい米国に逆らうことなどできないという奴隷根性にドップリ浸かりきっているのだろうか。本当のところは分からないが、ここまで来るともうそろそろ自分たちも侵略者・テロリストの側面援助者であり、日々視聴者・読者を騙しつづけているという自覚を持つべきだろう。少なくともホウラ事件があの報道で間違いなかったのかどうか今からでも調査・検証して結果を視聴者・読者に知らせるべきだろう。この報道は明らかにおかしい、まったくの嘘もしくは根拠のない一方的な話ではないかと視聴者・読者が感じとらずにいられない内容を日々ニュースとして垂れ流しつづけるのはもはや記者や報道機関とは名ばかり、戦争犯罪の共犯者ではないかと思う。

一説では、建国以来米国が他国に軍事力を行使して介入を行なった回数はゆうに百数十回を数えるのだという。その都度、独裁政権が民衆を無慈悲に扱っているのを止めさせるための人道的見地からの介入だとか、民主主義と自由を導入し根付かせるための援助などと立派な理由を挙げているが、それが成功した事例が過去に一つでもあるのだろうか。 あるとしたらそれはどの国、どの地域の例なのだろうか。耳にするのは当該国の民衆による米国への怨嗟の声ばかりのような気がするのだが? そもそも「独裁」が悪いから体制の転覆をはかるのだと言ったって、米国は自分たちのお気に入りの独裁者なら、自国民や周辺諸国にどんな残虐なことをやる独裁者に対しても何の痛痒も感じるふうもなく支持をつづけてきたではないか。コンゴのモブツ、インドネシアのスハルト、チリのピノチェト、ルワンダのカガメ、等々、いくらでも名が挙がるだろう。これらの場合と、イラク、リビア、シリアとの違いは何だろう。米欧の言いなりになるかならないか、国家として独立独歩の途を歩もうとするかどうかの違いであるように見える。

目に映り、耳に入ってくるシリアに関する情報を考え合わせて判断すると、昨年のリビアのカダフィ体制が倒されたときも同じように感じたが、シリアの人々に圧倒的に支持されているのは、国民評議会や自由シリア軍などと名乗っている反政府軍側(ここには武装集団アルカイダも相当数混じっているという説が根強い)ではなく、アサド政権側であるらしいということである。民衆の支持あればこそ、いまだ政権は持ちこたえているのだという説明や証言はあちこちで数多く見ることができる。2006~2010年までシリア大使を務めていたという国枝昌樹氏も著書「シリア」(平凡社2012年)のなかで、シリア政府の国内における人権弾圧などのさまざまな問題点を挙げながらも、少数民族、少数宗教宗派の人々などを中心にシリア国民のアサド大統領への支持率が高いことを明言されている。本のなかで印象に残った箇所を一つ挙げておく。2011年の12月から先遣隊160人規模で始まったアラブ連盟の監視活動についての叙述である。

「 シリアを非難する諸国の期待を背負って始まった監視団の活動だったが、事態は意外な方向に進む。
 外国メディアからの性急な問い合わせに対して、監視団の団長はシリアの情勢に特に問題視するべきものはないと反応すると、欧米と一部のアラブ諸国の神経は逆なでされた。
 その後も団長が監視団の業務を慎重に進める考えであると述べると反体制派はいきり立ち、スーダンの軍人である団長は市民を弾圧した軍歴を持っているなどとして団長への個人攻撃も始めて、監視団が活動する間も死者は増え続けていると神経質に叫ぶ。1月15日になるとカタールのハマド首長はアラブ軍の派遣を検討する可能性に言及する。」

私たちがマスコミ報道で知らされていた事実とはかなり異なる内容である。先日は「ロシアの声」で次の記事を見た。

シリア大統領は退かず、民衆の支持のため
  シリア大統領のバシール・アサドは「退任しない。なぜなら大多数の民衆の支持があるからだ」。日曜、米ラジオ局のSAWAによるインタビューの中で、シリア情報相のオムラン・アズ=ズアビ氏が表明した。
 情報相によれば、アサドの退任はただ一つの道、選挙を通じてのみ行われる。その場合、シリア民衆自身の手によって選挙が実施され、大統領の運命が決定されるのでなければならない。
 この表明は、新しく国連・アラブ連合同特別代表の任に就いたラクダール・ブラヒミ氏が、シリア危機の正常化に関する独自のプランを推進する準備を進めているとの報を受けて打ち出された。テレビ放送局「アル=アラビーヤ」の伝えるところによれば、合同特別代表の要点の一つは、アサドに退任を促し、移行政権に全権を委譲することを勧めることにあるようだ。」

米欧はサウジアラビアやカタールやトルコとともに反体制派側に武器や資金の援助をすることで他国の体制転覆をはかるという暴挙を直ちに止めるべきだろう。シリアという国はシリアで暮らし、シリアで生きている人々のものであり、米欧には何の権利もないはずだ。
2012.08.29 Wed l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (1) l top
前回の記事では、目取真俊氏のブログ「海鳴りの島」の「NOと言えない政治家たち」からオスプレイ配備に対する野田首相の姿勢を批判した箇所を引用させてもらったが、目取真氏の記事ではこの他に、タイトルから薄々察知できるかと思うが、石原慎太郎東京都知事に対する批判もなされていた。

「…かつて『NOと小さい文字言える日本』を共著で出した政治家がいる。石原慎太郎東京都知事だが、4月に米国ワシントンのヘリテージ財団で、東京都が尖閣諸島を購入する意向であることを発表した。わざわざワシントンで発表する姿には、俺の後ろには米国があるんだぞ、という虎の威を借る狐ぶりが見え見えだった。」

「虎の威を借る狐ぶり」…。たしかにそのとおりだと思う。この現東京都知事も『NOと言える日本』を刊行したころは日本政府や財界の「従米一辺倒」に反発するという一点に本人なりの矜恃があるのだろう、まぁそれが救いといえば救いなのだろうと思えないこともなかったが、ここまであからさまにアメリカの「虎の威を借る狐」と化してしまってはもうどうしようもないと感じる。米国から帰国後の4月27日の定例会見においては、「日本はアメリカとも協力して、 しっかりと守りを、場合によっては安保発動を踏まえて、ものを言ったらいい。」とまで述べていた。そんなことになった場合、沖縄が被ることになる被害のことなどはこの人の念頭には露ほども浮かばないらしい。

この日の会見での石原都知事の口はいつにもましてブレーキ踏まずで、言いたい放題。都民から尖閣諸島(釣魚島)購入のための寄付の申し出が多数あるというので、「 こうした志を受け止めるための口座を開設する」、また「 中国が持っている航空母艦、あんなちゃちなものは世界中の笑いものだ。(略)あいつらがあれを持っている目的は、東南アジアに行って、フィリピンやタイやインドネシアとか、比較的軍事力の弱いところで威嚇になるかもしれないけど、そんなもの通用しませんな。私は、彼らが日本の実効支配をぶっ壊すためにどういう行動取るか分からないが、それに備えるために、国が頼りにならないから東京がイニシアチブとってあそこを領有しようと思っている。 これ間違ってると思っている日本人が居たらお目にかかりたいね」、「これだけ多くの国民が共感してくださるというのは、東日本大震災で国土がああやって荒廃した。私たちが住んでいる国の国土がいかに大切かということを、 潜在意識が呼び起こされて、国民がこの問題に強い関心持ってきたんじゃないか」、「たとえば、自分の家族を犯そうと思って強盗が入ってきたら、素手でもそこの主人は戦わないといけないんじゃないですか。甘んじて、奥さんや娘が強姦されて、ものを盗られて、暴力沙汰に及ぶからと、あえてすべてを譲ったところで済むんですか」、等々。(強調の下線は引用者による。)

凄まじい発言の数々に改めて唖然とさせられる。まず一存で勝手に募った尖閣諸島購入のための寄付金の件だが、7月20日現在集まった金高は13億円を優に超えているという。いったいこれに対する始末をこの都知事は今後どうつけるつもりなのだろう! 中国に対する「あいつらがあれを持っている目的は 」うんぬんの発言だが、一主権国家、その政府に対するこの汚ない口のききかたと、一片の礼儀も備えていない発言内容を見ただけで、とても安心して外交の場に出すことのできる一人前の政治家でもなければ、確固とした信頼を寄せるに相応しい人物でないことも明瞭だろう。東京都が尖閣諸島を購入することを「間違ってると思っている日本人が居たらお目にかかりたいね」という発言については、「間違ってると思っている日本人」はいくらでもいる、と断言できる。現に私はこの人物の行動にも、またこの「お目にかかりたいね」発言にも驚きあきれ、かぎりない不快感をおぼえている。そもそも、日本の全メディアは口を揃えて尖閣諸島を「日本の固有の領土」と言っているようであり、また読売新聞の世論調査によると、65%の人が政府の目指す国有化に賛成しているのだというが、私はこれらの人々が心底尖閣諸島は日本の領土であると思っているのか疑問に感じる。日本の言い分、中国の言い分を聞き、また学者の研究調査などをごく大雑把に眺めた程度では、尖閣諸島は日本の固有の領土である、と言い切れる根拠を見つけ出すのはなかなかに困難のように思えるからである。私は領土問題に深い関心があるわけではないのでさして各種の文献などを調べたり追求したりしているわけではないが、管見の範囲では、中国の領土であるとする主張、たとえば井上清氏の主張のほうに、日本外務省や産経新聞の「尖閣は日本の領土」という主張よりは格段に客観性と説得力があるように感じる。日本のメディアが言う「尖閣諸島は日本の固有の領土」発言や、読売新聞の世論調査結果に対し、「どのような根拠の下での意見?」との疑問をおぼえるのは、そのためである。まして、都の尖閣諸島購入を「間違ってると思っている日本人が居たらお目にかかりたいね」などという石原発言は、デマの拡散を意図したものか、そうでなければ、国民への恫喝以外の何ものでもないだろう。実際私などは強引な姿勢とは裏腹に根拠の曖昧な石原氏その他の尖閣諸島発言に恫喝されているように感じて、うっとうしいことこの上ない。

この他、石原氏は「東日本大震災で国土がああやって荒廃した」 ために、「潜在意識が呼び起こされて、国民がこの問題に強い関心持ってきたんじゃない 」とも述べている。しかし、昨年、震災直後、苦しむ被災者をよそ目に、まるで他人事のように、「天罰だ」と言い放ったのは誰だったっけ? 一昔前だったら、ああいう発言をしたこの人は今ごろこのように偉そうに振る舞ってはいられなかっただろうと思う。

しかし、この会見で目を覆うばかりに非道かつ支離滅裂なのは、何といっても「自分の家族を犯そうと思って強盗が入ってきたら、素手でもそこの主人は戦わないといけないんじゃないですか。 甘んじて、奥さんや娘が強姦されて、ものを盗られて、暴力沙汰に及ぶからと、あえてすべてを譲ったところで済むんですか 」という発言だろう。これは、「強盗」というのは当然日本であり、「奥さんや娘が強姦されて、ものを盗られて、暴力沙汰に及 」ばれるのは、中国である、と理解して初めて意味が通る。もちろん、これで初めて世界の常識にも歴史的事実にも叶うことになる。

この「強盗」うんぬん説は、工藤美代子著「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」と、内容のデマゴギー性において、好一対ではないだろうか。岩波書店の口ぐせを真似れば (笑)、2人とも「さすがに産経新聞の著者!」とでもいうところだろうか。このように見てくると、中国政府が石原都知事の一連の言動に対する以上に、これを批判もたしなめもしないで黙認し、そればかりか、都知事発言に乗ずるかたちで尖閣諸島の国有化を口にしはじめた日本政府に対してはるかに強い不満ないしは怒りを見せたのは当然のことだったのだろう。中国には、ほとんど「ゴロツキ」並みの精神性しか持たない一地方政治家を相手にまともに怒っても仕方がない、徒労であるとの判断があっただろうから。石原都知事に関連して中国のある記事は次のように述べている。

「 1945年に調印した「無条件降伏文書」および文書中で承認した「カイロ宣言」「ポツダム宣言」などの国際文書について学び直すことを日本の政治家達に提案する。まさか無条件降伏を無効とみなすことにしたわけではあるまい。まさかあの軍国主義の時代にまた戻りたいわけではあるまい。

 もし中国が当時の戦争賠償を改めて請求すれば、日本は優に数十年間苦しむことになる。1945年の民国政府の概算統計によると、日本の中国侵略戦争は少なくとも1兆 8400億ドルの損害を中国にもたらした。これは508億オンスの金に相当する。67年間の利息を加えれば約137兆4300億ドルになると筆者は推定する。これには日本が直接奪い去った金、銀、賠償金は含まれていない。日本が平和友好を重んじている間は、 賠償は請求せずともいい。だが中国の金でー中国の領土を「購入」し、武器・装備を開発して戦争を再び発動する準備をしているのに、賠償を請求しないわけがあるまい。 島を購入する金はあるのに、なぜ賠償する金はないのだ?計算のできる日本国民は考えてみるべきだ。石原の狂犬が中国に咬みつく代償に137兆ドルを支払う価値があるのか?中日間に再び戦争を起こすというのか?

 石原をしっかりとしつけるよう日本政府と日本人民に勧める。石原をしっかりと監視し、好き勝手に人を咬むのを放置しないこと。ましてや故意にけしかけて人を咬ませてはならない。現在の中国人はみな、石原が正真正銘の狂った輩であることを知っている。だが日本側が狂った輩が無闇に咬み続けるのを傍観するだけで、力強い制止の声に耳を傾けないのなら、中日間の感情の冷え込みは避けられない。そしてその結果損害を被るのは、民主党政権と日本の民衆全体なのだ。」(「人民網日本語版」2012年6月18日 」

4月27日の石原都知事発言を見れば、中国側の見解のこのくらいのきびしさは当然のもの、むしろこれはまだ相当に抑制的な態度であり発言内容だろうと思う。

参考になるブログー 「コラム|21世紀の日本と国際社会」
2012.07.26 Thu l 社会・政治一般 l コメント (2) トラックバック (0) l top
昨日、23日、とうとうアメリカ軍の新型輸送機オスプレイ12機が山口県の岩国基地に搬入されたとのこと。何とも恐ろしいことで、この出来事をどう言えばいいのかちょっと言葉が出てこない思いがする。 野田佳彦首相はこの日、首相官邸で「きちんと安全性が確認されるまで、日本での飛行は行わないという方針で臨む」と記者団に語ったそうだが、先月の6月にも墜落事故を起こした機体の「安全性」がどうやって「きちんと確認」できるというのだろう。一方で、米国は10月からのオスプレイの運航計画に変更はないと宣言しているのだから、野田氏ら日本政府も米軍も沖縄に対する一時凌ぎのごまかしのために言葉をもてあそんでいるにすぎない。何と不誠実なことだろう。

これは少し前の話になるが、野田首相はテレビに出演して沖縄普天間基地へのオスプレイ配備について、「配備自体は米政府の方針で、どうしろ、こうしろという話ではない」と述べ、日本政府として配備を拒否できないとの認識を示したそうである。これに対しては多くの反論や批判がなされたようだが、ブログ「海鳴りの島」の目取真俊氏は「NOと言えない政治家たち」と題された一文で、「一国の首相が情けない発言をよくもやったものだ」ときびしい批判をされていた。「沖縄県民の声に耳を傾ける姿勢があれば、そういう形式論では片付けられないはずだ」「沖縄ではオスプレイ配備反対の県民大会にむけて準備が進んでいる。野田首相の発言はそれを最初から切って捨てるものだ」「テレビで「拒否できない」と公言するのは、日本は米国の属国でございます、と世界に自己暴露したに等しい」「しょせん野田首相にとっては、オスプレイ配備も原発再稼働と同じく、米国や財界の意向がすべてであり、地域住民の安全など二の次というわけだ」、等々。これらの指摘は私たち大多数の国民が日頃から野田首相およびその政権について内心で感じとっていることをどんぴしゃり適切な言葉で表現されたものだと思う。野田発言にはオスプレイが引き起こしてきたたび重なる墜落事故を見てきた沖縄住民がそれを押し付けられる事態にどれほど深い懸念や恐怖などの苦痛をおぼえているかについて感情や考えを集めることのできる人物ではないことがはっきり出ている。現防衛相と瓜二つで、そういう問題は心の表皮をつるつるすべっていってしまうのだろう。オスプレイのみならず基地問題に悩まされる沖縄住民に向けた人間性の感じられる言葉がこの人の口から出るのを聞いた記憶は一度もない。東日本大震災と福島第一原発事故の被災者に対する態度、姿勢についてもまったく同じ印象がある。

思えば、何事においてもたしかに野田氏は首相就任以来今日まで一貫して上記のような姿勢でやってきたように思う。昨年10月の首相就任所信表明演説では消費税増税についてただの一言も触れずにおきながら、 その直後の財界人の集まりで挨拶に立った野田氏は、唐突に、私は消費増税をやります、と述べた。その次に野田氏が消費税に触れたのは、なんとカンヌで開かれたG20の場であった。「2010年代半ばまでに段階的に消費税率を10%まで引き上げる」と宣言し、関連法案を「11年度内に提出する」とまで国際公約したのだった。その後の原発再稼働についても、またTPPについても同様の行動経緯を辿っているという印象がつよい。22日、野田首相は母校の早稲田大学で講演をしたそうだが、そこでは当たり前のようにTPPの必要性を語っていたそうだ。野田首相という人は外国人や財界や母校の大学など、要するに自分の意見を歓迎してくれる、もしくは決して文句を言わずに黙って聞いてくれることが確実な相手にだけ言いたいことや本心を語ることができる政治家のようである。そして言いたいことを語っていると思われるその発言内容はあきれるほどに貧しく興ざめのすることばかりのように思われる。

早稲田大学の講演では、消費増税もTPPもやる気満々、「経済再生も政治改革も行政改革もやる。決める政治を果敢にやり遂げていく決意だ。」(時事通信)と学生らを前に話したそうである。「決める政治を果敢にやり遂げていく」などという発言は、自分がやろうとする政策ーー「決める政治」というものの中身ーーに本質的に自信がない者、むしろ後ろめたさを持つ者が行なう有権者に対する居直り発言以外の何ものでもないだろう。実際、政治家が「決める政治」などという愚昧な発言を堂々と行ない、それが一定程度の賛同を得るかたちで論議の対象になっているという事態こそ低次元な日本の政治と政治家のありのままの姿を、またそれにとどまらない日本の文化の劣化を雄弁に語っているものに他ならないだろう。詭弁は詭弁でも、さすがに、これほど子どもっぽいレベルの詭弁が政治家によって(「決める政治」という文句を最初に口にしたのは橋下大阪市長ではなかったか?)大真面目に口にされ、通用している国がそうそうあるとは思えないし、また現実に見聞きしたこともない。

このように思いをめぐらせていくと、「 日本は米国の属国でございます、と世界に自己暴露したに等しい」事実も、それへの指摘も、野田首相や森本防衛相にとっては別段恥ずかしいことではないのかもしれない。以前、野田氏と出身高校が同じで、その街頭演説を何度も聞き、選挙ではいつも野田氏に投票してきたという人が野田氏の首相就任に際して書いていたブログ記事を当ブログで紹介したことがあるが、その内容が思い出される。

「 ずっと野田に投票してきた私だが、実は野田の政策はほとんど知らない。 野田は政策は全く語らないからである。/野田の駅頭挨拶の特徴はまったく演説をしないことにある。/「いってらっしゃいませ。野田佳彦です。よろしくお願いします」/支持者が 言うのはそれだけであり、 野田はそれすらも言わない。微笑みながら何度も何度もお辞儀をするだけである。」「早大の政経を出て、松下政経塾を出た彼に政策や見解がないわけではないと思う。ただ、主張は必ず敵を作る。選挙活動家としての野田は、「 とにかく船橋市は野田」というイメージを市民に与えることのみを留意して、政策はまったく語らなかった。」

やはり野田氏の姿勢は当時から今にいたるまで何も変わっていないようである。
2012.07.24 Tue l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
オスプレイは9日にも機体に不具合があり、 米ノースカロライナ州で緊急着陸したとのこと。しかし、野田政権は問題視せず米国のオスプレイ配備計画をこのまま容認する方針だそうである。これだけあからさまに国が自国民の安全に対して負っている責任を放擲する姿勢をとって恥じない無責任な政府も世に珍しいだろう。これで主権国家と言えるのだろうか。受け入れ先の自治体が反対姿勢を強めているのは当たり前のことである。これでおとなしくオスプレイを受け容れる自虐的な自治体など世界中捜したっているわけがない。
http://www.asahi.com/politics/update/0711/TKY201207110614.html

さて沖縄・普天間基地へのオスプレイ配備をめぐるニュース報道では、とりわけ森本敏防衛相が訪沖した6月30日前後の時期には、あちこちで「理解」という言葉が多用されていて、これにはそれを見たり聞いたりするたびに多大な違和感と怒りを感じずにいられなかった。それらは今さらながら例外なく沖縄県民に対して一方的に「理解」を要求するものだったからだ。

「 森本防衛相、宜野湾市長にオスプレイ配備への理解求める(産経新聞 6月30日)
 森本敏防衛相は30日、米政府が垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)への配備を正式通告したのを受け沖縄県を訪問。宜野湾市の佐喜真淳市長と会談し「トータルで米海兵隊の能力を向上しようとするものだ」と理解を求めたが、佐喜真氏は「誠に遺憾で許し難い。阻止してもらいたい」と配備に強く反対した。」

「 沖縄県知事 オスプレイ配備“拒否”(NHK 7月1日)
 森本防衛大臣は、沖縄説明県を訪れて仲井真知事と会談し、 アメリカ軍の最新型輸送機「オスプレイ」を、予定どおり普天間基地に配備することに理解を求めましたが、仲井真知事は「安全性に疑問があり、拒否するしかない」と述べ、配備の中止も含め日米両政府で再検討するよう求めました。」

「 官房長官「地元理解へ努力」 オスプレイ配備(朝日新聞7月2日)
 藤村修官房長官は2日の記者会見で、米軍の新型輸送機オスプレイの沖縄配備計画に対し、沖縄県の仲井真弘多(ひろかず)知事が「事件事故が起きたら(基地の)即時閉鎖撤去」と強く反発していることについて、「日米間で調整し、安全性が確認されるまでは日本における飛行訓練を控える。米側からさらなる事故調査の結果の情報が得られ次第、説明させていただき、配備への理解が得られるように努力する」と述べた。」

「デジタル大辞泉」によると、「理解」の意味は、「 1 物事の道理や筋道が正しくわかること。意味・内容をのみこむこと。2 他人の気持ちや立場を察すること。」である。次にウキィペディアを見てみると、「物事の理由、原因、意味を正しく知ること」とある。ここにはさらに、「(認知心理学においては)理解は独立した現象ではなく、記憶や学習と密接な関係にあると考えられる。 」との記述もあり、沖縄の歴史を顧みればこれは実に正確な「理解」という言葉の説明であるように思う。官房長官の藤村氏、防衛相の森本氏、そしてメディアは、どのような考えのもとで沖縄に対して「理解」「理解」と口にしているのだろう。オスプレイが開発当初にとどまらず、この3カ月の間にも2度の墜落事故を起していることは誰知らぬ者はない。一方、森本防衛相が「理解」を求めて沖縄を訪問した6月30日は、1959年に米軍機が沖縄の小学校校庭に墜落し、17人(その後事故の後遺症によりもう1人が亡くなったという。)の生命が無惨に奪われた日で、森本防衛相訪沖のちょうどその日その時間には、事故発生時に当該小学校の教員だった人や遺族たちによる被害者追悼の儀式が予定どおりしめやかに営まれていたという。こういう歴史的現実を前にして、「アメリカ軍の最新型輸送機「オスプレイ」を、予定どおり普天間基地に配備することに理解を求めました」とはいったいどういうことだろう。普通に口にできる言葉ではないと思うのだが?

日本政府と日本のメディア(特に産経新聞や読売新聞など)は、 米国の機嫌を損なうことに比べたら、一部日本国民の生命、身の安全を犠牲にしてもかまわない、仕方がないとでも考えているのではないか。沖縄にオスプレイ配備の「理解」を一直線に求めて恥じない姿勢をみてそう疑いたくなるのは、たとえば、次のような事実が厳然とあるからだ。

これは2007年にアップされた記事のようだが、「驚異の兵器か未亡人製造機か」という記事がウェブ上に出ている。あるいはすでに多くの人が目にしているのではないかと思われるが、これは米国の世界安全保障研究所の国防情報センターというNPO法人が同年(2007年)に出したオスプレイについての報告書の紹介文(それも全50頁のうちの冒頭3頁分のみの邦訳だという。)である。その一部を以下に引用する。

「(オスプレイは)開発段階で4回もの事故を起こし、30人の関係者を死亡させ、いったんは開発中止になった。にもかかわら ず、いつの間にかよみがえり、設計上、運用上の多くの欠陥をかかえながら実用化されようとしている。 」「オスプレイは2007年イラク戦線への派遣が想定されている。しかし、この航空機が正常で、 こんなに手間取ることもなく完成していれば、1995年のボスニア紛争、2001年のアフガニスタン戦争、2003年のイラク戦争にも参加できたはずだ。なにしろ初飛行は1989年3月19日だったのだから。」「 V-22は2000年12月に死亡事故を起こしたが、それに先だって油圧系統の故障を170回も起こしていた。事故のあとは飛行停止となったが、やがて再開されたときはプロペラの部品数が減っていた。また2006年3月、V-22はアイドル運転中に勝手に飛び上がり、尻餅をつくような恰好で地面に叩きつけられた。」「こんな航空機が1機7,000万ドルというのだから、オスプレイは税金を無限に呑みこんでゆく空井戸のようなものである。それというのもアメリカ議会の議員276人の地元で、オスプレイのさまざまな部品を製造しているからだ。軍と議会と産業界の3者癒着の構造であり、その強力なることはオスプレイに如何なる問題があろうと、とにかく予定通りに計画を進めて、中止などは全く考えられない。」「オスプレイは試験飛行も不十分である。たとえばVRSによる事故のあと、その試験をすることになっていたが、やがてこれはキャンセルされた。また恐らくV-22は1発停止しても垂直離着陸が可能のはずだが、過去17年間一度も試みたことがないという。」「また夜間飛行は29回のテストが行なわれたが、最後まで完了したのはわずか12回だけであった。またダウンウォッシュが強いにもかかわらず、土ぼこりを舞い上げるブラウンアウトのテストもしたことがない。 」

オスプレイについてのこの報告書を読んでそら恐ろしくならない人はいないだろうと思われる内容の連続だが、このように恐怖をかき立てられる話がこの他にもまだ延々とつづいているのである。 この「驚異の兵器か未亡人製造機か」という報告書の存在については、この内容からして、米国はもちろんだが、日本政府も大手メディアも当然ちゃんと知っているだろう。ここに書かれていることは事実なのか、それとも誤っているのか、指摘されていることの全項目について一つひとつ詳しく知りたいと一読後は当然そう思うのだが、日本政府はこのことについて米国政府に問い質さなかったのだろうか? それをやるのは一つの国の政府として最低限の義務にちがいないと思うのだが、どうなっているのだろう。また沖縄のメディアを除いて、日本の大手メディアがこのオスプレイの危険性、上記の報告書に記述されている性質の問題点について独自に取材し、具体的に調査・検証をしたという話も聞かないのだが、これはどうしてなのか。本当に不可解きわまりないことである。

2003年のイラク侵攻の最中だったと思うが、当時のラムズフェルド米国防長官が、最新鋭の兵器を前にしてそれがどんなに優れた兵器であるかを自慢気に語っている場面をテレビで見て、その臆面のなさに呆気にとられ、異様な気持ちになったことがあった。米国は絶えまなく他国に侵略を仕掛けているうちに、いつしか殺戮兵器の有能さを誇ることの異様さについての自覚も失ってしまっているのだろう。しかしながらそのラムズフェルド元国防相にして、空から普天間基地を見てその危険度の高さに驚きの声を洩らしていたというのだから、後は推して知るべし。最近になって、オスプレイは沖縄だけではなく、東北、関東、四国、九州などの日本全域で飛行訓練を行なうという話も出てきている。これについては別の機会に書きたいと思うが、ここでは、前述した「理解は独立した現象ではなく、記憶や学習と密接な関係にあると考えられる。 」とのウィキペディアの解釈を参考にして「理解」についてもう少し述べておきたい。簡単明瞭なことで、オスプレイ配備について事を「理解」すべきなのは米国と日本政府であって、決して沖縄の人々ではないということである。沖縄戦では沖縄住民の4人に1人が亡くなったという。その現実からすると戦後日本国内で最も労られてよいはずの沖縄がひきつづき米軍の基地として日本から棄てられたに等しく過酷に扱われてきたこと、67年にわたる米軍駐留による航空機事故、犯罪、騒音被害、等々によって沖縄人々の忍耐はもう限界を超えつつあること。オスプレイ配備はそのような現状のなかにさらに降ってわいた災厄のような話だったと思う。最近の仲井真知事の発言にもそのことが滲み出ているように思われる。政府は沖縄へのオスプレイ配備を中止すべく早速米国と交渉を始めるべきである。
2012.07.12 Thu l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
去る7月1日、産経新聞は、「オスプレイ、平均より低い事故率(産経ニュース2012.7.1)」という記事を配信していた。産経は、沖縄県民の深刻な不安や懸念や怒りはどこ吹く風、一心不乱に米国および日本政府の提灯持ちを務めるべく、それら当事者よりさらに一歩前面に出てきて、沖縄へのオスプレイ配備を現実のものにしようと躍起になっている。いわく、「 普天間飛行場への配備通告目前にはモロッコと米フロリダ州でも事故を起こした。ただ、モロッコで墜落したのはMV22だが、フロリダ州の事故は空軍仕様のCV22。両機の機体は9割方は同じだが、運用はMV22が人員・物資輸送、CV22は特殊作戦という大きな違いがある。フロリダ州での事故後にまとめた10万飛行時間あたりの事故件数を示す「事故率」はCV22で13・47。一方、MV22は1・93にとどまり、海兵隊所属のヘリを含む航空機の平均事故率2・45より低い」。

このように産経はMV22とCV22を比べて「両機の機体は9割方は同じ」との認識を示した上で、CV22の事故率は13・47にものぼると述べている。それでいながら、MV22の事故率は「1・93にとどま」るのだからMV22を安心して沖縄に配備せよ、と迫っているわけで、ここにみられる論理の支離滅裂さにはちょっと言葉を失う。過去3ケ月の間に、「両機の機体は9割方は同じ」であるオスプレイMV22とCV22はモロッコとフロリダで双方ともに墜落事故を起しているのだ。そして、この相次いだ事故は沖縄の人々にとってのみではなく、日本中の誰にとっても決して予想外の出来事ではなかった。この機体が開発当初から死傷事故を多発して米国内でも「未亡人製造機」と言われるほど危険視されてきたことを皆知っていたからだ。だからこそ、昨年、米国と日本政府からオスプレイ配備を正式に通達されて以後、沖縄では強烈な拒絶反応が渦巻いていたのであり、これは人間が人間であるかぎり古今東西100%共通するであろう当たり前の反応である。それとも日本の政権担当者や防衛省官僚や産経・読売新聞などのメディアに属する人々は、このオスプレイが空を飛び回る下で自分たちならば悠然と仕事に従事することができるし、家庭生活にあっては何の心配もなく子どもを学校に送り出したり外で遊ばせたりの安心・安全な日常生活を送ることができると自信満々なのだろうか? 私には分からない。モロッコ、フロリダの事故の報せは、危険な機体をまたもや沖縄に押し込もうとする米国とその米国の言うがままに追従する以外に方策を持たない自国政府に対して沖縄県民が一丸となって抗議・反対の声を上げていたちょうどそのただなかに届いたのであった。産経はこの事実を熟知した上で上記のごとき主張をしているのだから、もはや奴隷根性とそれへの居直りもきわまれりということではないだろうか。

産経はまた「(一般論として、機体は)配備当初は事故が多発するが、その後低下し、老朽化して再び多発するU字となるというもの。要するにMV22の事故率は今後低下する見通しだが、逆に普天間飛行場に配備中のCH46には老朽化による事故が多発しかねない危険もあるのだ。」とも述べている。これもまた凄まじい発言である。つい先般の連続重大事故を知っていながら「 MV22の事故率は今後低下する見通し」と述べているわけだが、この「見通し」はどのような根拠のもとでの主張なのだろうか? まともな論拠も示さず、自国の一般住民の生死に直結しかねない重大な事柄に関して一方的に完全に外国の軍隊の側に立ち、その安全説に太鼓判をおすような主張を、一応は日本の新聞社を名乗る団体の人物が述べるとは! 沖縄与世田兼稔副知事は、「ニューメキシコ州のキャノン空軍基地ではオスプレイの低空飛行訓練が地元住民の反対で中断された。キャノン基地は非常に広大で、普天間とは比べものにならないほど住民との関係では危険性が少ない場所だ。世界一危険とされる飛行場に(オスプレイ配備は)最もふさわしくない。」(「沖縄タイムス」7月1日)と述べている。すると米国は自国民のオスプレイに対する嫌厭の声や訴えは寛容に聞き容れて、日本(人)に対しては聞く耳持たずと強引に押し付けていることになる。これに対する産経の見解や如何に?

「逆に普天間飛行場に配備中のCH46には老朽化による事故が多発しかねない」という発言も聞くに耐えないものだ。 産経が現存のCH46を危険だと認識しているのなら、オスプレイと無関係に米国と日本政府に対してその旨の助言なり主張なりをするべきだ。それが普通一般の行動だし、メディアにとっては特にそれが要求されているだろう。ところが、この記事の書き手はそうはしないのだ。CH46はここではオスプレイ導入のための取引(交換)材料に使われているだけなのだ。親切を装った猫なで声で、その実、沖縄県民にオスプレイとCH46のうちのどちら(の危険)を選ぶのかと厚顔にも究極の選択を迫っている、つまりは一般市民を恫喝している、と言っても過言ではないように思う。
2012.07.05 Thu l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
厚生労働省が去る3月1日に「社会・援護局関係主管課長会議」の場で、警察官OB等を福祉事務所内に積極的に配置するよう要請したというショッキングな報道があった。すでに多くの団体や人々が厚生労働省に抗議や撤回の要請をしているようであるが、これは国が率先して、生活困窮のために仕方なく福祉事務所を訪れた国民・市民を威嚇・恫喝しようとしているとしか受けとれず、よくもまあこんな恐るべき発想・動きをしたものだと思う。厚労省は、昨年新聞に載った次の事実を知らなかったのだろうか。


 生活保護相談の市民に「虫けら」 大阪・豊中市嘱託職員(朝日新聞2011/11/02)
 大阪府豊中市役所の嘱託職員が市民に暴言を浴びせたとして、大阪弁護士会は1日、市に再発防止を求める勧告書を送ったと発表した。
 弁護士会は先月31日付の勧告書で、職員が2009年10月、「生活保護の支給が遅れている」と訴えた50代の男性に出張所の個室で応対した際、「虫けら」などと大声で暴言を浴びせたと指摘。男性の自尊心や名誉を傷つけ、人格権を侵害したとしている。
 職員は府警OBで、本来の担当職員に同行する形で個室にいた。男性へのこうした対応について、勧告書は「市は(府警OBに)ボディーガード的な役割を期待しており、人権侵害を市も黙認した側面がある」と指摘している。
 これに対し、市生活福祉課は朝日新聞などの取材に虫けらという発言は確認できていないとしたうえで、 「大声を出すなどの不適切な対応はあった。指導を徹底したい」と説明した。(平賀拓哉) 」

おそらく厚労省はこの事実をよく知っていたのではないか。そして自分たちもこれに倣おうとしたのではないか。そう思うと、やりきれなさにただ暗澹とした気持ちになる。なぜ福祉の専門家ではない「警官OB」を福祉事務所に配置するのかといえば、「元警官」という肩書をもつ人物の存在によって生活保護受給者および受給希望者を威嚇・恫喝しようとする以外の目的はありえないだろう。

大阪府の福祉事務所で生活保護受給者に府警OBである職員が「虫けら」と言ったという2009年10月は、橋下府政2年目である。橋下氏就任以前に、大阪府の福祉事務所に府警OBが雇用されるというようなことがあったのだろうか? あったのか、なかったのか、その事実が知りたい。なぜかといえば、福祉事務所に府警OBを雇って訪問者を威嚇する役割を担わせようとするような発想は橋下氏の日頃の言動にあまりにもぴったりマッチしている。他にこのような発想をする人物はそうそうはいないのではないか(いたら大変だ!)と思うからである。

生活保護と橋下氏(大阪維新の会)との関連では、先日下記のような報道もなされた。


 生活保護に「現物支給」…大阪維新の会、政策集に明記へ(朝日新聞2012年6月17日)
 大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)が、次の衆院選に向けた政策集「船中八策」(維新八策)に、生活保護制度の現金給付を改め、クーポン券の利用や生活用品を渡す現物支給を基本にする考えを盛り込むことがわかった。セーフティーネットのあり方にかかわるだけに、議論を呼びそうだ。
 関係者によると、橋下代表ら幹部が生活保護制度の見直しを検討。不正受給問題を解消し、保護費の増大を抑えるため、現物支給を軸にすることで一致した。
 食料品や衣服、生活用品は対象者に配布するクーポンと引き換えてもらったり、指定店で入手できるようにしたりする一方で、現金給付をほとんどなくす方向という。医療費についても一定の自己負担を求めるほか、受給資格は期間限定とし、受給を続ける場合は再審査する制度も盛り込む。(池尻和生) 」

何のための「現物支給」かといえば、これも生活保護受給者に対する「不信」による「監視」目的の、いわば「いやがらせ」「いじめ」の類になるだろう。「現物支給」のためには行政側に多くの人手が要る。お金もかかる。どういう道理でこれが「不正受給」や「保護費の増大」の解消になるというのだろう。「受給資格は期間限定」というのも、受給者の多くが高齢者や病人であることを考えると、大いに問題があるだろう。また、受給者のなかには受給していることを他人に知られたくないと思う人も多いだろう。プライヴァシー保護の見地からいってもその意思はきちんと尊重されなければならない。その側面からも「現物支給」や「クーポン配布」は疑問である。生活保護受給者にかぎっての「現物支給」に肯定的評価ができる点は何ら見られないように思う。

橋下氏や維新の会の発言を真に受けると、何事によらずろくなことにはならない。橋下氏にしろ、大阪・ミナミの通り魔事件の容疑者に対して、「『死にたい』と言うんだったら自分で死ね」という趣旨のことを言い放った知事の松井氏にしろ、その言動からみえる精神構造はどうみたってほとんど街のチンピラまがいである。本来なら厚生省は2009年に発生したという大阪府内福祉事務所の「府警OB」職員による暴言事件に対して注意・勧告をなすべき立場にあるはずだ。それなのに、かえって自らそれを見習って行こうというのだから、まったくどこにも救いようがない。当ブログで何かとその発言を引用することの多い中野重治は生活保護に関しても触れて書いているので次に記す。

「生活保護基準関係の例の朝日茂氏の行政訴訟問題で、早稲田大学の末高信(すえたかまこと)教授が憲法調査会公述人として述べているのなんかを聞くと震えがくる。ただくるのでなくておかしいのと同時に震えがくるのだつたが、ただ震えがくるのよりも恐しい。問題の基礎は基本的人権のことにあつたが、その基本的人権のことでこう末高がいっている。
「生存権的基本権といえども絶対ではない。例えば警官が泥棒をとらえるとき、生命の危険があつてもあえて犯人を捕えなければならない。したがって警官の生命の尊重は絶対でなく相対的である。」
 とても、脆弁だの何だのといつている関ではない。むちやくちやも通りこしてしまつている。居直り強盗は居直るのだから巡査の生命の尊重は制限されている。船はぼろで、医者は一人も乗り組ませていないのだから漁夫の命の尊重は制限されている。たまつたものではない。泥棒に居直るなということがてんで初めから成り立たない。船をちやんとしろ、一船団せめて一人はほんものの医者を乗せろということがはじめから成り立たない。私は、こんな具合の言葉は普通の言葉に言いなおすのがいいと思う。普通の言葉にして、普通の人間の感じ方、考え方にして読みなおせばおかしさと震えとの関係がわかつてくる。緻密なように見えているものの非人間的ながさつさ、一分の隙もないように見えているものの非人間的ながらん洞が誰にも見えてきて決着がつく。ひとめぐりであつてもなくつてもかまわない。人間的とか理性的とかいう言葉の生まれる前のところで木訥(ぼくとつ)に決着がつくだろうと思う。」(中野重治「ひとめぐりか、ふためぐりか」『新潮』1961年)

これは相当に長い(400字詰め原稿用紙25枚分ほどの)文章のほんの一節なのだが、タイトルの「ひとめぐりか、ふためぐりか」の由来は、敗戦から15年たったその時期に、ある人物が「15年ひとめぐり」といつたことを書いたそうで、そこから採っている。その「15年ひとめぐり」の内容は、

「「ひとめぐり」でなくて「一サイクル」というのだつたかも知れない。なにせ、それは、戦後いろいろとあつて15年すぎてしまつたが、15年すぎてみると、何もかも逆もどりしてしまつている、振出しへ戻つてしまつている。元の木阿弥といつた姿ではないかといつたような話」

というようなものだったらしい。それについて、中野重治は、「けれども、ほんとにひとめぐりか、それともふためぐりではないのかといったことも私の頭にはうかんでくる。」「大いにふためぐり風でありはしないか、ひとめぐり説そのものさえどうやらふためぐりじみていはしないかといったことも私には思いうかんでくる。」「そこで、ひとめぐりでもふためぐりでもなくて何かとんでもないめぐりではないかと思えることも私の足もとにはある。たとえば、処女詩集を著者の写真肖像入りで出す風潮というものなんかもその一つにはいる。これなんかは全く事情がわからない。私には呑みこめない。」などと、苦い嘆きの種はつきることなく次から次へとつづくのだが、この60~61年という時期を基点として「ふためぐり」ということになると、昭和の初年にさかのぼるということになるわけである。上の朝日訴訟問題における末高発言が、「ひとめぐり」か「ふためぐり」か「新しい何かとんでもないめぐり」のどれに入るのかというと、中野重治は明言していないが、「何かとんでもないめぐり」のうちに入るのかも知れない。それでもこのとき末高発言はまったく世に受け入れられなかったのだ。朝日訴訟によって生活保護の給付額、その他の福祉が明確に向上したのは、朝日茂氏の主張に世の多くの人が納得、共感、賛同したからだろう。

日本社会における普通あるいはそれ以下の生活レベルの人間にとって、生活保護は決して他人事の話ではない。現状の就職難、リストラ解雇、それに思いがけない病気や事故などの災難は、いつ誰の身に降りかかるか知れたものではない。そういう可能性を考えれば、生活保護は、自分自身の問題なのだ。厚生省が進める「福祉事務所への警察官OB配置」、「現物支給」「期間限定」などという維新の会の主張、ともに餓死者や自殺者をさらに増やすことになるのが目に見えているきわめつきの悪政であり、とうてい見逃せない。両者ともにただちに謝罪して撤回すべきである。
2012.06.24 Sun l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
「米フロリダで14日、オスプレイが墜落したことを聞き、身震いするほど恐ろしかった。森本敏防衛相が配備計画を「日程通り進める」とし、沖縄を一顧だにしない態度に身震いした。「まったく痛みを分かろうとしない。そのことが一番悔しい」と言葉を強める。」

上記は、昨日(6月17日)の『沖縄タイムス」に載っていた宜野湾市在住の女性の声である。本当にそのとおりの心境であろうと肯くしかない。8月にもオスプレイ配備との通知を受けて機体の危険性に対する尽きない危惧と恐怖、米軍と日本政府に対する怒りや不信が募る最中でのフロリダにおける新たな墜落事故の報せである。新外相の森本敏氏が米国追従一辺倒の考え方をする人であることは、2001年の9.11以後のテレビ出演における折々の発言でよく知っていたが、それにしても、非人間的というべきか、無責任というべきか、このような事態を受けてなお配備計画を「日程通り進める」と述べるとは。森本氏はもし日本国内でオスプレイによる事故が発生したら、自らいったいどんな責任がとれると考えているのだろう。野田首相は福井の大飯原発3、4号機の再稼働について「国論を二分している状況で、ひとつの結論を出す。これはまさに私の責任であります」と述べていたが、こちらもいったん大事故が発生したらもはや手遅れ。そんなことになったらどんなに青冷めようと地団駄踏もうと、もう個人であれ組織であれ責任をとることも不可能な次元の事柄なのだ。それなのに、一人は「私の責任で」とできもしないことを言い、もう一人は自己の責任には触れもせず虚しくも「日程通り進める」と言う。発言の中身は双方ともに無責任きわまりないものだ。日本という国、政府は、かつての中国侵略、太平洋戦争がそうであったように、今も決定的な破滅に至るまで、過ちを認めて方針転換をするという知惠を持てない国なのだろうか。

下記の記事はオスプレイ配備についての読売新聞の社説である。これをたまたま私が読んだのは今回の米フロリダ墜落事故の発生後であるが、掲載されたのは事故の前日である6月12日だったようだ。内容があまりにひどいのでちょっと取り上げてみたい。

「 オスプレイ配備 着目すべき米軍の即応力強化(6月12日付社説)
 安全性だけでなく、在日米軍の即応力の強化にも注目し、冷静に議論することが重要である。
 米軍の新型輸送機「MV22オスプレイ」が沖縄県の普天間飛行場に配備されることについて、沖縄県など関係自治体が反対している。
 (略)
 自治体は主に、安全性を懸念しているが、誤解も少なくない。
 1990年代の開発段階で事故が相次いだ。今年4月にもモロッコで墜落し、2人が死亡した。
 だが、開発段階の機体の不具合は解消し、米軍の安全基準を満たしており、現在、海兵隊だけで130機以上が世界に配備されている。モロッコの事故も、機体の安全性には問題がないとされる。
 こうした事実関係をしっかり踏まえることが大切だろう。
 そもそも米兵の生命に直結する航空機の安全性に最も注意しているのは、米軍自身のはずだ。
 オスプレイの性能も考慮すべきだ。CH46と比べて、最大速度は約2倍、搭載量は約3倍、行動半径は約4倍となる。航続距離は約3900キロで、朝鮮半島まで飛べるうえ、空中給油も可能だ。
 厳しい北東アジアの安全保障環境において、有事の邦人救出や離島防衛で重要な役割を担おう。
 沖縄配備には自治体の許可や同意は不要だが、安定した運用を続けるには、粘り強く地元の理解を得る政府の努力が欠かせない。
 その意味で、政府が沖縄配備前に山口県の米海兵隊岩国基地に一時駐機し、試験飛行を行う方向で調整しているのは評価できる。岩国市長は態度を保留しているが、政府は説得を続けてほしい。
 疑問なのは、オスプレイの早期配備を容認する森本防衛相に対して、民主党沖縄県連が辞任を求めたことだ。民主党本部は、政権党として、政府任せにせず、県連に翻意を求めるのが筋だろう。(略)  」

読売新聞とは、日本の民間の新聞社というのは名ばかりで、実体は米軍の軍属(?)機関紙ではないのだろうか? この記事はそういう疑いを持ちたくなるほど異様な内容の連続である。「安全性だけ」に目を向けるのではなく、「在日米軍の即応力の強化にも注目し」なければならないと主張しているが、これは私には意味が解らない。オスプレイは4月につづいて6月にも事故を起したわけだが、ここで読売は「在日米軍の即応力の強化」により沖縄では事故は起りえないと言っているのだろうか? もしそうならば、それはどんな根拠で? 「モロッコの事故も、機体の安全性には問題がないとされる」そうだが、誰によって「問題がないとされた」のだ? 「問題がない」と言っているのは米国だけ(日本政府はそれに追従するだけ)だと思うが、読売がその米国の言い分を一方的に支持し、沖縄県民の恐怖や怒りに一瞥もくれないのはどんな理由に依るのだろうか。もし本当に機体に問題がないのなら、米国は(読売も)オスプレイの危険性を憂いている沖縄県民になぜそのことを直ちに具体的に説明しない? 何よりも、「機体の安全性には問題がない」のなら、なぜこんなに事故がつづくというのだろう。事故原因は操作ミスだという声も聞こえてくるが、操作ミスが連続して発生しているというのならそれも機体に問題があるからこそではないかと素人考えでは思うのだが? 

「朝鮮半島まで飛べる」「厳しい北東アジアの安全保障環境において有事の邦人救出や離島防衛で重要な役割を担おう。」との主張も不気味である。これでは読売は、自分の手はいっさい汚さず、沖縄の犠牲の上に立って、中国や北朝鮮を刺激し挑発して北東アジアに争いを引き起こそうとでもいうような妙な下心を持っているのではないかと疑いたくなる。

オスプレイ配備をとおして沖縄の米軍基地について論じた読売のこの社説には、沖縄県民の命と健康、また日常の暮らしに苦痛として侵入してくるさまざまな基地被害に対する視点や配慮がすっぽり抜け落ちていることは、これを読んだ誰しもが感じないわけにはいかないだろう。

しかし事と次第によっては、読売は他の新聞よりもはるかに被害者の立場に重きを置いた記事を書く新聞社である。たとえば、死刑制度を論じた場合がその典型である。死刑を求める被害者遺族の存在を強力な盾に死刑制度の存続を求め主張するという紙面の構成展開では読売は産経と双璧ではないだろうか。沖縄普天間飛行場のオスプレイの配備や基地の存続については、被害に関する住民の切実な訴えに対して歯牙にもかけずに黙殺、一方死刑制度については死刑存続を望む被害者遺族の声を強力に前面に押し立てる。この二つの行動は同じ根から出てきたものであり、読売にとっては何の矛盾もないことだろう。すなわち、権力と距離をとる術を知らず、その意思も持たずに権力と一体化し、結果的により強硬な権力の行使を促すというもの。死刑を言い渡されるような事件を起した人物はかりに死刑にならなくても現状では再び獄から出られる可能性はほとんどない。犯した犯罪の罰は身を以て受けざるをえないし、実際受けているのだ。それに比べて大惨事を引き起こした原発推進当事者や多くの事故を惹起しているオスプレイを平然と沖縄に配備しようという側はどうだろう。彼らに犯罪の自覚がないことは確実だが、現実に犯罪性がないと言えるだろうか。読売や産経がそういう事実に一切頬被りし、死刑について「自分の身内が殺された場合、自分が被害に遭った場合のことを考えてみろ」という世論の声ばかりを取り上げて死刑存続に執心するのは、読売のこの社説が沖縄住民の苦痛について一顧だに払わずに、オスプレイ配備に都合のいい米国発の怪しげな説を並べていることと決して無関係ではないように思える。沖縄がこぞってオスプレイ配備を拒否しているにも拘わらず、読売がそんなにオスプレイ配備が日本にとって重要だというのなら、読売はまず読売本社の近くへの配備を真剣に考えたらいい、考えるべきなのではないだろうか。こういう場合以上に「自分が被害に遭った場合のことを考えてみろ」という言葉が切実に受けとめられ、考えられるべきときはないように思うのだが。
2012.06.18 Mon l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
数日前のことだが、リビアとNATOに関する下記の記事が目にとまった。(強調の下線はすべて引用者による。)

「 NATO空爆のリビア民間人犠牲者は72人、調査必要=人権団体
 国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)」は14日、リビアのカダフィ政権に対する軍事介入を昨年実施した北大西洋条約機構(NATO)について報告書を発表し、NATO軍の空爆による民間人の犠牲者が少なくとも72人に上ると指摘した。
 HRWは報告書で、犠牲者には女性20人と子ども24人が含まれるとし、犠牲者に対する補償のほか、違法だった可能性のある攻撃についてNATOが調査を行うべきだと強調した。
 人権団体「アムネスティ・インターナショナル」が3月に発表した推計では、NATO軍の攻撃によるリビアの民間人犠牲者は55人とされていた。
 HRWはNATOが民間人犠牲者を最小限に抑える努力をしたと指摘した上で、同機構は数十人の犠牲者を出した攻撃に関する調査を拒否している、と批判した。 NATOは、昨年10月末に終了したリビアでの軍事作戦について、大きな成功を収めたとの見方を示し、「これまでにないほどの慎重さと正確性を保ち、国際人道法の基準を上回る」作戦を実施したとしている。」(ロイター 12年05月14日18:36JST)

NATOはいまもリビア空爆による民間人犠牲者は「0人」と言い張っているのだという。このような言い分が世界に通用するとご本人たちが高を括っていること、また今のところはそれで通用させてしまっていること自体、何とも言葉がないような気がするのだが、これに対して人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)」は民間人犠牲者は少なくとも72人に上ると指摘し、犠牲者に対する補償と違法の可能性のある攻撃についてNATO自ら調査を行うべき、と主張している。また「ヒューマン・ ライツ・ウォッチ」と同じく人権団体の「アムネスティ・インターナショナル」は、3月にNATO軍の攻撃によるリビアの民間人犠牲者は推計55人と発表したようである。

何というか、NATOに対してだけではなく、ヒューマン・ライツ・ウォッチにも、アムネスティ・インターナショナルにも不可解さや疑念を感じずにいられない。あらかじめ三者の役割分担を定めた上での一場の芝居を見ているような気がしないでもない。NATOがリビア空爆において「民間人の犠牲はない」と主張していることについては、昨年下記の記事を読んでいたので知ってはいた。

「 露国連大使 リビア空爆犠牲者 NATOの責任追及 (20.12.2011, 10:11)
 ロシアのヴィタリー・チュルキン国連大使は、NATO軍のリビア空爆によって民間人が死亡したことについて、調査を行うよう要求した。ニューヨークで発言したチュルキン大使は、NATOは民間人の犠牲はないという「完全にプロパガンダ的な姿勢」をとった、と指摘している。
 ロイター通信がチュルキン大使の言葉として伝えたところによれば、「第一にそれは絶対にあり得ないことであり、第二にそれは嘘である。」と発言した。」

「 ロシア NATO空爆によるリビア民間人犠牲者の調査を呼びかける (23.12.2011, 17:16)
 ロシアは国連安全保障理事会のリビアに関するブリーフィングで、 北大西洋条約機構(NATO)の空爆で民間人が死亡したことに関する特別調査を国連の後援で実施する必要があると述べた。
 チュルキン大使は、調査は国連あるいは国連の後援で出来るだけ早く実施されるべきだとの考えを表し、発生した事件を分析する必要があり、今後このようなことが繰り返されてはならないと強調した。
 ロシアは、NATOがリビアに関する国連安保理決議の委任から逸脱したと考えている。
 チュルキン大使は、NATOがリビアで行われた作戦を「成功」と考え、今後も同様の作戦の使用を提案していることにロシアは懸念していると伝えた。

このようにロシアは、昨年末時点で、「民間人の犠牲はない」というNATOの主張を「完全にプロパガンダ的な姿勢」「嘘」と断じ、「国連あるいは国連の後援」でリビア民間人犠牲者の調査をするよう要求していた。また、「NATOがリビアで行われた作戦を「成功」と考え、今後も同様の作戦の使用を提案していること」に対する懸念もちゃんと表明していたのだ。また、これと時期を同じくして、国際刑事裁判所も、カダフィ大佐の殺害が戦争犯罪の可能性があることを指摘していた。

「 国際刑事裁判所 カダフィ大佐の殺害は戦争犯罪の可能性もある (16.12.2011, 12:31)
 国際刑事裁判所(ICC)は、リビアの元最高指導者カダフィ氏の殺害について、戦争犯罪だとする「深刻な疑い」がもたれているため、同氏の殺害を戦争犯罪と判断する可能性がある。AP通信がICCのモレノオカンポ主任検察官の言葉を引用して伝えた。
 主任検察官は、リビアの国民暫定評議会に書簡を送り、考えられる全ての戦争犯罪について調査するよう依頼したと伝えた。そこには、国民暫定評議会の支持者らが行った可能性のあるものも含まれる。」

このようなロシアや国際刑事裁判所のしごく当然の指摘・忠告に対し、国連もNATOも(もちろん国民暫定評議会も)誰ひとり誠実な姿勢を見せた者はいなかった。ヒューマン・ ライツ・ウォッチやアムネスティ・インターナショナルは人権擁護のための団体だというのに、軍事攻撃による民間犠牲者の問題について昨年はなぜ黙っていたのだろう。なぜ今頃になってこのような提起をするのだろう。しかも、民間犠牲者の数を「少なくとも72人」とか「55人」などと述べている。昨年10月、民間犠牲者の数についてリビア国民暫定評議会自ら「3万人」という数字を挙げていたはずだ。

「「 NATOのリビア攻撃で、3万人が死亡 - IRIBラジオ日本語 ( 2011年 10月 28日(金曜日) 16:07 )
 リビアの新保健大臣が、この7ヶ月のNATO北大西洋条約機構の爆撃で、少なくとも民間人3万人が死亡したことを明らかにしました。
 フランス通信によりますと、リビアの情報筋は、28日金曜、この死者の数を、アラブ諸国で起きた革命の際の死者の数よりも多いとしています。 」

報道写真家の中司達也氏は、「NATO軍の出撃は通算26500回を数え、そのうち約9700回の空爆が行われ、およそ6000の標的が破壊された。/空爆と砲撃により、諸都市の基幹インフラは壊滅し、多くの住居が破壊され、医療機関も機能しなくなった。死者は3万人とも見積もられている。15万人という記載もある。」と述べているが、朝日新聞には、「リビア空爆は米軍主導で3月19日に開始。NATOが指揮権を握った3月31日以降、英仏軍を中心に10月20日までに爆撃機が出動した回数は9634」とあり、中司氏の報告とは出動回数において雲泥の差がある。どちらの報告が正しいのかといえば、普通に考えると、中司氏のほうである。なぜなら、8月21日の時点で、NATO自ら「3月31日以来、NATOによるリビアへの出撃回数は19877回に達し、うち7505回が空爆のための出動となっている。破壊した軍事目標は4490カ所に上り、レーダーシステムや倉庫500カ所、指令拠点275カ所、飛行機10機、船10隻、戦車や装甲車両500台以上を破壊した。」と述べているからである。朝日新聞のいう「出動」とはもしかすると「爆撃」のことなのだろうか。このような重大な問題の事実関係については、読者に疑問や誤解の余地をあたえない明晰な書き方をしてもらいたいものである。

リビア国内は7ケ月間という長期にわたって9,000回を超える空からの爆撃を受けているのだ。重要なインフラは壊滅状態にされており、国内が元どおりに復旧し、立ち直るには10年はかかるだろうという指摘がなされているなか、民間人犠牲者が50人とか70人などということがありえるのだろうか。にわかには信じられないのだが、ヒューマン・ライツ・ウォッチは空爆さなかに、そして終息後にも、リビア国内で民間人犠牲者の調査を行なったと述べている。あのような惨状と混乱のなかで、一民間団体がいったいどのような計画を立ててどのような手段を用いれば、「民間人犠牲者は少なくとも72人」という答が出せるだけの調査が可能だったのだろう。何とも不可解な話のように感じられる。

ヒューマン・ライツ・ウォッチにしろ、アムネスティ・インターナショナルにしろ、人権団体を名乗る以上、もっとリビアの一般市民の立場・観点に立って空爆の実態を追求してほしいと思う。リビア市民よりもNATO側にばかり視線が向いているように感じられるのは、爆撃による民間人犠牲者の規模に関する発言を行なうに際し、一般常識的思考も、また「リビアの新保健大臣が、この7ヶ月のNATO北大西洋条約機構の爆撃で、少なくとも民間人3万人が死亡したことを明らかにしました。」という、他ならぬリビア当局の発表さえ無視した内容の発言を行なっているからである。また、カダフィ殺害が戦争犯罪だという指摘について私などはまったくそのとおりだと考えるのだが、ヒューマン・ライツ・ウォッチやアムネスティ・インターナショナルはどのような見解をもっているのだろうか。HRWは「NATOが民間人犠牲者を最小限に抑える努力をした」とも述べているようであるが、どのような根拠をもってのこの発言なのか、その意図を不審に思う。
2012.06.08 Fri l 社会・政治一般 l コメント (1) トラックバック (0) l top
   1
米国と、フランス・イギリスなどのヨーロッパ諸国はシリアに対して今にも軍事攻撃を仕掛けようと中腰になっているように見える。だが、そのようにしなければならない理由が何なのか、いくらニュース報道を見ても私などには皆目事情が分からない。分かる人がいたら、詳しく説明してほしい。日本政府はシリアの外交官に対して国外追放の措置をしたそうだが、その理由は何なのだろうか? 5月25日夜間にシリア西部ホムス近郊の町ホウラで子どもを含む100人以上の市民が死亡するという大規模な砲撃を受けての措置だというが、しかし、アサド政権側はこれを否定し、「テロリストら」の仕業と主張している。

報道によると、 「現地で活動する国連のシリア監視団は、政府軍のみが保有する重火器が使用されたことを確認」というが、こんなものがホウラの攻撃をシリア政権の仕業であると断定することの証拠になどなるはずがない。もしも砲撃が反乱側によるものであったとしたら、被害者はシリア国民であり、政権側の軍隊・兵士はそれを傍観していることはできない。この場合「政府軍のみが保有する重火器が使用された」ことは当然の処置をとったまでということになるだろう。

この2年近く耳目にしてきたシリアに関する報道を振り返ってみると、そこにははっきり2つの潮流があったように思う。一つは、平和的なデモをおこなっていたシリア国内の反体制派市民に対し、アサド政権が殺人も厭わない残虐な弾圧を行ない、引き続き今も行なっているというもの。これが米国とヨーロッパおよびその追従国である日本などの報道機関が一貫して伝えてきたことであった。もう一つは、主にシリア在住の市民の証言であり、こちらは西側世界の報道内容とは逆に、反乱軍が一般市民に略奪、強姦、テロ行為を行なっており、自分たちは政府側の軍隊に守ってもらわなければ買物のための外出もできず、生活が営めなくなるというもの。どちらの言い分が事実を正確に語っているだろうか? 主張の論理的整合性やリアリティからいって、私には圧倒的にシリア市民の主張のほうに真実性があるように見える。実際、昨年から今年にかけてリビア国内や世界各地で反乱側糾弾、アサド政権支持の大規模なデモ行進が何度も繰り返されている。

「 ロシア 依然として対シリア制裁には反対
 ロシアはシリアでの監視団拡大については検討する用意があるものの、制裁導入には以前と同様反対の立場をとっている。30日、ロシアのヴィタリー・チュルキン国連大使が安保理協議の後、ニューヨークで明らかにした。

 チュルキン国連大使はまた、コフィ・アナン特使によるシリア仲介案は誰によっても履行されておらず、シリア政府およびその反対派勢力双方に重大な落ち度があるとしている。またホウラの事件においても、「100人以上が殺されたということ以外、何も明らかになっていない」と指摘した。

 一方、シリアの武装反対勢力はバシャル・アサド大統領に対して最後通牒を突きつけたことが明らかになった。それによれば、48時間以内に国内における仲介プランを実行するよう要求されている。 最後通牒の期限は6月1日正午で、その後反対派は停戦の義務から解放されると主張している。

 シリアのバシャル・ジャファリ国連大使は記者団に対して声明を発表し、シリア国外の勢力が反対派に対して、対話に応じないよう圧力を加えていると指摘した。またホウラでの民間人大量殺害事件の国家捜査委員会は、今日もしくは明日にも作業を終えるとしている。」(強調のための下線はすべて引用者による。)

ホウラの事件については、ロシア国連大使が指摘するように「100人以上が殺されたということ以外、何も明らかになっていない」というのは客観的事実だと思われるが、米欧がこの事件を契機にシリアに軍事的な制裁を加えようというのであれば、完全に物事のつじつまが合わないではないか。米欧の軍事行動が始まればオウラ事件の何百倍、何千倍ものシリア市民が犠牲になることは明らかだからである。オウラ地域での不幸な事件をこれ幸いとばかりに軍事行動を起こそうという米欧の魂胆は何なのだろうか? 米国のライス国連大使は、政権側と反体制派の政治的対話や安保理の制裁強化が実現しなかった場合は「たった一つの最悪な選択肢が残る。国際社会は安保理外での行動を取らざるを得なくなってしまうだろう」と述べたそうだ。衣の下の本心はあまりにもあからさまに見えている。昨年のリビアのケースを思い出さずにいられないのだが、ベネズエラのチャベス大統領は4月に下記のように語っている。

「 チャベスがシリア大統領と電話会談 ( 2012年4月7日土曜日 )
▼▽▼ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は4月6日、シリアのバッシャール・アサド大統領と電話で30分会談した。会談後チャベスは、「このところずっと通話を試みていたが、やっとつながった」と述べた。
▽アサドは、「シリアでの暴動やテロ活動で軍人2000人が犠牲になった」と語ったという。
▼チャベスは、「米国と、その同盟国がシリアにテロリストを送り込み暴動を起こさせている。 カダフィ大佐虐殺に至ったリビア方式だ」と、NATO諸国を非難した。
▽チャベスはまた、「バッシャールは、政治改革を継続中で、事態は近く収拾に向かうと言ったが、そうあってほしい」と述べた。」


その他の参考になると思われるサイトを下記に紹介しておく。

「アサド・シリアのために世界中で行進」

「大多数の国民がバシャール・アル=アサドを支持しています」

証言——「反乱側が私たちを殺す。軍に残っていてもらわねば」


   2
新しい世紀に入ってから、世界各地で多くの紛争が起きているが、いつも平和と和解への解決策を遠ざけ、事態を悪化させる方向に舵をきることで世界の民衆の災厄になっているのは、米国とNATO、そしてその追従国に他ならないように感じられてしかたがない。アジアでは北朝鮮の問題がある。米国が何を考えているのか、こちらも懸念材料が多くいろいろと憂慮される。日本における北朝鮮報道で顕著なのは、各メディア(朝日も毎日も産経も読売も東京新聞も日経も)が揃いも揃って、完全なワンパターン報道に終始しているということである。読む前から読者にどんな内容の記事であるかが察知され、しかもそれが決して裏切られないということでは、レベルとしては小学校の下級生以下ではないのだろうか。5年も10年もその調子をつづけてよく飽きもせず、自己嫌悪にもおちいらないものだと感心するのだが、北朝鮮という国はすべてのものの悪の巣窟、悪の権化であり、そこに良い側面はただの一つもない。新指導者の金正恩氏がたとえば食料問題や公園の整備のことなどで住民を思う発言をすれば、それは住民に対して住民思いの指導者であることを印象づけるための操作に他ならない、という具合(全紙一致)で、一事が万事すべてこれである。

(例)
 ↓
「 正恩氏が「絶叫マシン」チェック 子ども施設を次々視察
 北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)第1書記が最近、児童施設や動物園、 遊園地などを現地指導した様子を国営メディアが伝えた。以前は軍関係の視察が目立ったが、市民生活や娯楽にも気を配る姿を見せることで、民心を引きつける狙いがありそうだ。」 (朝日新聞2012年6月1日10時4分)

まったく、日本の記者たちがこれほどまでに思考力も想像力も個性も欠いているのは何故なのだろうか? それとも彼らには北朝鮮報道はこのようなものでなければならないというその筋(それがどこかは知らないが)からの達しでもきており、そのためになくなくこんな愚にもつかない推測記事( 戯言 )を明けても暮れても毎日毎日書きつづけているのだろうか? おそらく新聞の購読者は今後さらに減るだろう。

また日本では新聞にかぎらず北朝鮮の食料(飢餓)問題について口にする人が多いが、そのなかでほんの一部の人(たとえば吉田康彦氏)を除けば、「飢餓」という言葉は単に北朝鮮を嘲笑したり責め立てるための恰好の材料としてしかとり扱われていないように感じる。日本政府における北朝鮮への経済制裁は第一に北朝鮮の一般住民を苦しめる機能・役割を果たしていることは明らかであるのに、制裁に賛成しておいて、飢餓問題を口にするなんぞ本来矛盾していると思うのだが、むしろ制裁強化を言い立てる人にかぎって、北朝鮮の飢餓問題についてアレコレ言いたがるようである。こういう人は北朝鮮の飢餓についての心配など何もしていないのだというのが言い過ぎなら、少なくともこういう人たちよりは北朝鮮の指導者層のほうが問題を何万倍、何百万倍も気にかけ、苦悩し、対策に骨を折っていることは間違いない、と断言してもあながち間違ってはいないだろうと思う。


追加-この記事をアップした後で、シリアに関する次のようなコメントを見かけた。私はこの発言は事実を見誤った上でのものだと思うが、現在の報道のあり方ではこのように思う人が多いのも仕方がないのかも知れない。

「シリアでアサドが民衆を殺しまくっているが、それで抵抗がやむどころかますます激しくなっている。」([No.20268] 2012/06/01(Fri) 12:02:32)

2012.06.02 Sat l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (6) l top
(2月15日23時:一番後ろに文章を追加しています。)

今回岩波書店が行なった社員募集の方法の件につき東京労働局の「東京労働局へのご意見」係に自分の意見を書いたメールを送信しました。文面は以下のとおりです。

*********************************

 東京労働局 様

いつもお疲れ様でございます。 先日から新聞やネットなどで話題になっております岩波書店の社員募集の件ーー岩波書店が社員の公募に際し「※岩波書店著者の紹介状あるいは 岩波書店社員の紹介があること 」という条件を付けた問題でメールを送らせていただきます。

今月3日に小宮山洋子厚労大臣は「こうした募集方法は聞いたことがない」と述べられていましたが、私なども同様で、大変驚きました。岩波書店は厚労大臣が「早急に事実関係を把握したい。調査してみます。」と発言したことやネット上で広く人々の話題になり議論を呼んでいることに対して、この募集方法の意図を「不況の折りからの経費と時間 の削減のため」とか「意欲のある学生に出会いたかった」などのやや混乱した説明をされていました。岩波書店にとっては外野のこのような反応はどうも予想外のことだったのかと思われます。

就職希望者の立場から眺めますと、岩波書店の著者や社員に対して就職のための紹介状を書いてほしいと頼めるほどに彼ら・彼女らと親しい関係の学生や社会人の数はごくごく一部にかぎられていると思われますし、そもそも岩波書店の著者の定義にしてもそれが具体的に誰を、どんな人物を指すのか一般社会には周知されていないと思われます。私などもせいぜい数人の学者や作家の名前や顔がぼんやり思い浮かぶくらいです。厚労大臣が「調査をしてみます」と述べたり、その他「岩波書店がコネ採用を堂々宣言した」、「紹介状取得という条件は一般学生にはきびし過ぎる」などという批判が出ますと、岩波書店は「小社に入社を希望なさる方は、 岩波書店著者にご相談いただくか、お知り合いの岩波書店の社員に直接ご連絡をください。」と、募集広告に明記されていた異様な文句をそのまま繰り返し(まるで岩波書店の入社希望者は岩波書店の著者や社員と知り合いであることが普通であるかのような言い方に聞こえて実際驚きます。)、そのあと「いずれの方法もとれない場合は、小社総務部の採用担当者(03-5210-4145)に電話でご相談ください。」と述べています。しかし「電話でご相談」といっても、岩波書店自身、自社の採用試験には多い年には1000人近い応募者がいると述べていますので、現実にそういう相談の電話が総務採用担当者に掛かってくるという事態になりますと、当初「経費と時間の削減」のために紹介状制を採ったと述べていた岩波書店は、どのような電話対応をするつもりか知りませんが、いずれにせよかえって膨大な時間と手間を要するようになること必須と思われ、これでは全入社希望者に要求した紹介状はいったい何のためのものだったのか訳が分からなくなります。

以上の経過を見聞きしていますと、岩波書店の社員採用の方法には企業が憲法上、そして社会規範上からも公正・公平な採用選考の手続きをとり、自社への就職希望者に均等な機会をあたえるという実践的責任が求められ科されているということ、企業の選考の自由はそれらの責任を全うした上での自由であり、雇用主だからといって何でもかんでも好き勝手に振る舞えるわけではないという認識が根本的に欠けているように思われます。出版社としての岩波書店は古くから労働問題でも良書を出しているとの社会的評価を得ていますが、そういう出版社であればあるほどこういう背任の責任はいっそう重いはずです。この問題では、岩波書店のどこが悪いんだ、 とか、自分の会社の社員を選ぶのだから好きな方法で選んでいいはずだ、というような意見も見られますが、このまま岩波書店の行為を是と認める「世論」が拡大してはびこるようなことになりますと、日本社会は江戸時代かそれ以前の時代に逆戻りではないかという恐れを感じたりします。

じつは岩波書店の現役社員の方のブログ記事 「 メディア報道における岩波書店の弁明への疑問と批判 」 によりますと、 事の真相は岩波書店が現在自ら説明している内容とは相当異なっているようです。ぜひこの記事もご一読いただき、実態を精査していただきたく思います。

なお、就職試験における「縁故」の問題で行政の改善指導を受けた事例には沖縄振興開発金融公庫の場合があるようです。この公庫は民間企業ではなく特殊法人ですが、行為は岩波が今回行なったことに似ているかも知れません。「職員採用試験の指定履歴書で、 採用の判断に必要のない縁故者の存在の有無と氏名を記入させる項目を設けていた」とのことです。 (琉球新報2002年10月15日

 2月12日

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追記ーー岩波書店の社員選考の方法について、世の中では「岩波にはまったく問題はない」「合理的な選考方法だ」という意見も数多く見られるようである。なかには、「岩波書店より、話を大きくした厚労省のほうが問題だ」という意見・主張まである。次の「岩波書店コネ入社 むしろ「当然」で厚労省介入は「不当」の声」( 2012.02.08)という記事がその代表例ではないかと思う。

「岩波書店の“コネ”入社が騒ぎになっている。入社試験のエントリーに「岩波書店著者の紹介状あるいは岩波書店社員の紹介があること」と注釈をつけたからだ。これについて 厚生労働省は「コネを条件にした募集方法は聞いたことがない」として、問題が無いか調べるという。

しかし私が大学を出た25年前でも岩波は「常連筆者の紹介状」をエントリーの条件にしていたように思う。なにを今更だと思うし、年に数人程度しか取らない社員200人の中小企業の採用試験にわざわざ厚労省が乗り出すというのは、岩波のリベラリズムに対する政府の牽制かと勘ぐってしまう。

「就職の機会平等が失われる」という意見があるが、そもそも岩波は高度に専門的な本をメインに出している出版社であり、要求される専門スキルは高く、あらかじめハードルを高く設定するのも理由がある。理系の大学院生が研究室の教授の推薦状をもって企業の面接にいくのに近い。

それに「社員の紹介」とも書いている。受験したい学生は普通にOB訪問して紹介状を書いてもらえばいいだけだ。他企業のリクルーター式就職と変わらない。OBがいない大学生は編集部に手紙を書くなりしてアプローチすればよい。何のツテもない筆者に手紙を書いてアプローチするのはどんな編集者でも毎月のようにやっている作業である。」(ノ ンフィクション・ライターの神田憲行氏)

この意見は、岩波の立場、入社希望者の立場、世の中にあたえる影響など諸々の問題点を丁寧に見ていくというより、はじめから岩波書店の立場にたって発言している人のもののように思える。「 25年前でも岩波は「常連筆者の紹介状」をエントリーの条件にしていた 」ことを神田氏は岩波擁護の根拠にしているが、私などはこれが事実なら岩波書店は当時から大きな問題を孕んだ出版社だったのではないかと思う。神田氏は「 岩波は高度に専門的な本をメインに出している出版社であり、要求される専門スキルは高く、あらかじめハードルを高く設定する 」とも述べているが、仮に岩波書店が「要求される専門スキル」が高く、採用に際して高いハードルの設定が必要な会社だとしても、その設定内容が著者の紹介状の提出というのでは、これが公募である以上まったく不適切だろう。なぜなら知り合いでもない著者に就職のための紹介状をもらいたいとは相手の負担や迷惑を考えてなかなか言えないというのが人の、特に若い人の一般的な心理だろう。また著者のほうでも実際よほどのことがなければ見ず知らずの人間に紹介状は書かないだろうと思う。だからこの紹介状の問題についての岩波書店の説明は最初から妙なのであるが、岩波社員の紹介状についての「 受験したい学生は普通にOB訪問して紹介状を書いてもらえばいいだけだ」という神田氏の言い分もあんまりだ。今回の募集に当たって岩波書店は社員の出身校のことなどには何も触れていない。就職希望者は岩波に自分のOBが在籍しているかどうかも分からないのに訪問などしようがない。それから「…わざわざ厚労省が乗り出すというのは、岩波のリベラリズムに対する政府の牽制かと勘ぐってしまう。」という言い分には正直あきれる。これは私も今回東京労働局のホームページを見てはじめて知ったのだが、東京労働局の事業のなかには「公正な採用選考」という部門があるのだ。これを見ると、厚労相が岩波書店の採用選考問題に敏感に反応したのは当然だったのだろう。神田氏が岩波書店をリベラリズム、すなわち、自由や平等や社会的公正を指向している出版社だと思うのなら、厚労省に妙な勘ぐりをするより、岩波書店の言行不一致ぶりを指摘するのが自然だったように思う。
2012.02.15 Wed l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 岩波書店の社員募集の問題点と金光翔さんの考察

2月2日、岩波書店のホームページに2013年度の定期採用の要項が掲載され、その応募資格の項目に「 ※岩波書店著者の紹介状あるいは岩波書店社員の紹介があること 」と明記されていたことが波紋を呼んでいる。多くの人は当然のことながらこの募集要項を見て、岩波書店が今年は自社の著者および社員のコネ、縁故がある者のなかから社員を採用すると宣言したものと受けとめて話題にしたり、是非を論評したりしたわけだが、岩波書店はこの騒ぎに珍しく(?)素早い反応を示し、こちらの取材によると「 岩波書店「縁故採用ではない」と主張、意欲ある学生求める」と下記のように述べたとのことである。

「 岩波書店総務部の採用担当者は、オルタナの取材に対して「今回このような制度を取り入れたのは、数人のわずかな採用人数に対して毎年1000人近い学生が応募をしてくる。採用にかけるコスト削減ではなく、単純に興味本位だけで受けにくる学生の数を減らし、意欲のある学生に出会いたいとの意図からこの制度を取った」と答えた。/企業が雇用する際に、その企業と何らかの関わりがあることを採用の条件とする縁故採用と騒がれている件については「紹介文はあくまで応募条件であり、採用条件とは別のものである。例年通り筆記試験や面接の上、採用を判断するので、紹介文の中身はその後の採用試験の合否に影響しない」と、縁故採用ではないと強く主張した。/しかし、課題もある。岩波書店はOB/OG訪問を受け入れていない。岩波書店とのつてがない学生には厳しい対応だ。」( オルタナ 2月3日20時50分)(/は改行箇所)

岩波書店は「岩波書店著者の紹介状あるいは岩波書店社員の紹介があること」という応募条件を設けた理由につき、上記のように「採用にかけるコスト削減ではなく、単純に興味本位だけで受けにくる学生の数を減らし、意欲のある学生に出会いたいとの意図からこの制度を取った」と述べているが、その前日の別の取材では、その理由を「出版不況もあり、採用にかける時間や費用を削減するため」(共同通信2月2日 18時19分) としている。上の2つの報道が岩波書店の発言を正確に反映しているとの前提に立てば、今回の募集方法の意図について岩波書店は2月2日には「コスト削減のため」と言い、翌日の3日にはそれを「コスト削減ではなく」と明確に否定し、「意欲のある学生に出会いたいとの意図からこの制度を取った」と述べている。自分たちの意図についての外部への説明がたった一日でまるっきり変わってしまっている。

「意欲のある学生に出会いたい」という岩波書店の説明についても疑問がある。岩波書店の著者や社員に知人はいないが、何とかそういう人を探しだして紹介状をもらおうと努力することは確かに「意欲」を要するだろうが、ただこの「意欲」は志の高さや編集業務との適性などとはあまり関係はなさそうだ。採用試験は結果がどうなろうと自分の力量だけで勝負したい、そうすべきだという考えの持ち主のほうに精神的自立心や健全さが感じられると思うし、またそれが普通の良識ある考え方ではないだろうか。岩波書店が応募希望者に要求している条件は対象にとってあまりに負担の大きい無茶なことのように思う。岩波書店は、この度の募集方法について「応募条件であり、採用条件ではない」との発言もしているようだが、著者および社員の紹介がなければそもそも受験できないのであれば、採用されるのは必然的に紹介状をもらうことができた人にかぎられるのだから、岩波書店のこの言い分もまたヘンではないだろうか。第一、「岩波書店の著者」と聞いて、その意味するものを正確に理解できる人など世の中に何人いるだろうか。

この問題について、小宮山洋子厚生労働相は3日、閣議後の記者会見で「こうした募集方法は聞いたことがない」 「早急に事実関係を把握したい」と述べ、調査に乗り出す考えを明らかにしたそうだが、この発言には、良い意味でちょっと驚いた。電通やテレビ局などはコネ入社の社員で一杯、などという話をよく聞くのでこういう話題には厚労相といえども当たらず障らずの対応をするのではないかという先入観があったのだ。女性差別のなかでも就職問題では特に差別され、苦境に立たされることの多い女性だが、その女性大臣ならではの敏感な反応だったのかも知れない。

それにしても、問題なのは、岩波書店が労働問題に関してどのような本を出版しているか、自社のその出版物と岩波書店役員・社員の現実の行動が、まるで逆走を意図しているのかと思うほどに、いかに遠く隔たっているかということである。そのことを考えれば、他所もやっているから、などと見過ごすことは今後の社会にあたえる悪影響という側面からもよくないだろう。じつは私もこういう条件のついた社員募集広告を見たのは小宮山氏同様今回が初めてだった。

ところが、サイト「首都圏労働組合」で、今回の問題を取り上げた金光翔さんの「 メディア報道における岩波書店の弁明への疑問と批判 」という記事を読むと、問題の根は今私たちが知っているよりもっと奥深いところにある、むしろこの件は世間が認識していることとは全然別のストーリーを持った出来事のようなのである。具体的な詳細についてはぜひ金さんの記事を読んでいただくとして、そのなかの以下の見解にはつくづく同意させられる。

「 ネット上では、「縁故ならばなぜホームページ上で公開するのか分からない」とか「岩波書店は、何か意図があってホームページ上で、議論を呼ぶこと必至であるこの応募条件を公開したのだろう」といった趣旨の発言が散見されるが、私は、これは極めてシンプルな理由に過ぎないと思う。すなわち、会社上層部も採用担当者も、このような応募条件が、 社会的に大きな注目を浴びるという可能性を全く想定していなかった、 のではないか。私は、岩波書店は、自分たちがやろうとしていることが社会規範・社会常識から著しくズレているとは夢にも思わず、自分たちの行為が社会でどのように受け取られるか、という点への認識を全く欠いたままで、昔からやってきたという、このような条件を大っぴらにしてしまったのではないかと思う。私がこの首都圏労働組合特設ブログで繰り返し書いてきた光景である。 」

未読の方は、ぜひ上記記事全文のご一読を!
2012.02.07 Tue l 社会・政治一般 l コメント (2) トラックバック (0) l top
昨年3月から10月までの7カ月間にわたりリビア国内に空から猛爆撃を繰り返したNATO軍が、空爆による民間人の犠牲者はいない、と言い、西側メディアは、空爆によって40名から70名の民間人が犠牲になった、と発表していることを下記の報道で知った。

「 露国連大使 リビア空爆犠牲者NATOの責任追及(「ロシアの声」 20.12.2011)
 ロシアのヴィタリー・チュルキン国連大使は、NATO軍のリビア空爆によって民間人が死亡したことについて、調査を行うよう要求した。ニューヨークで発言したチュルキン大使は、NATOは民間人の犠牲はないという「完全にプロパガンダ的な姿勢」をとった、と指摘している。
 ロイター通信がチュルキン大使の言葉として伝えたところによれば、「第一にそれは絶対にあり得ないことであり、第二にそれは嘘である。」と発言した。
 NATO軍は今年3月から10月にかけて、リビア上空の飛行禁止空域を認めた国連安全保障理事会決議に基づいて、リビアでの軍事作戦を行い、西側メディアの発表では、空爆によって40名から70名のリビア民間人が犠牲になったとされている。
 またチュルキン大使は、国連のパン・ギムン事務総長が14日、NATO軍のリビア作戦を擁護する発言をしたことについて非難している。国連事務総長は、NATO軍の行動は、3月17日の国連安保理決議に基づいたものだったと述べているが、ロシアは、国連事務局が、安保理の重要問題に関してより注意深い判断を下すことを期待している。 」

「 ロシア NATO空爆によるリビア民間人犠牲者の調査を呼びかける(「ロシアの声」23.12.2011)
 ロシアは国連安全保障理事会のリビアに関するブリーフィングで、 北大西洋条約機構(NATO)の空爆で民間人が死亡したことに関する特別調査を国連の後援で実施する必要があると述べた。
 チュルキン大使は、調査は国連あるいは国連の後援で出来るだけ早く実施されるべきだとの考えを表し、発生した事件を分析する必要があり、今後このようなことが繰り返されてはならないと強調した。
 ロシアは、NATOがリビアに関する国連安保理決議の委任から逸脱したと考えている。
 チュルキン大使は、NATOがリビアで行われた作戦を「成功」と考え、今後も同様の作戦の使用を提案していることにロシアは懸念していると伝えた。 」

しかし、昨年の10月20日にカダフィが無惨な殺され方をしたその8日後に、リビアの反乱軍側は、NATOの爆撃により「少なくとも民間人3万人が死亡した 」と発表している。

「 NATOのリビア攻撃で、3万人が死亡 -(「 IRIBラジオ日本語」 2011年10月28日 )
 リビアの新保健大臣が、この7ヶ月のNATO北大西洋条約機構の爆撃で、少なくとも民間人3万人が死亡したことを明らかにしました。
 フランス通信によりますと、リビアの情報筋は、28日金曜、 この死者の数を、アラブ諸国で起きた革命の際の死者の数よりも多いとしています。 国連安全保障理事会は、27日木曜、リビアでの武力行使を許可する任務を終了する決議を全会一致で採択しました。 リビア国民評議会は、26日水曜、少なくとも今年末までのNATOのリビア駐留を要請し、 カダフィ死後も、最後のカダフィ支持派の存在が、国にとっての脅威であるとしました。 」

ブログ「 報道写真家から(2) 」のこちらの記事にNATOによるリビア爆撃の実情が記されている。

「NATO軍の出撃は通算26500回を数え、そのうち約9700回の空爆が行われ、およそ6000の標的が破壊された。NATO軍の空爆には精密誘導爆弾が使用されたと言うが、こうした兵器には十分な誤差があり、「誤爆」もそれほどめずらしいことではない。また、通常爆弾が使用されなかったわけではない。地上では、豊富な武器弾薬を供給された反乱軍が、空爆の支援を受けながら、市街地に徹底的した砲撃を加えた。

空爆と砲撃により、諸都市の基幹インフラは壊滅し、多くの住居が破壊され、医療機関も機能しなくなった。死者は3万人とも見積もられている。15万人という記載もある。NATO軍と反乱軍が引き起こしたこれらの事態こそ、正真正銘の人道危機ではないのか。」

出撃回数26500、空爆回数9700、標的破壊回数6000。これで民間人の犠牲者無し、とか、民間人犠牲者数40~70人などという言説をいったい誰が信じるだろう。こういう白々しい嘘をよくつけるものである。国連は犠牲者の把握にまだ手を付けていないのであれば、ロシアのヴィタリー・チュルキン国連大使の主張どおり、死者数、負傷者数を徹底的に調査し、世界中に発表しなければならない。他国の国内問題に一方の味方として率先して介入し攻撃を加えたのだから、それがどのような結果を生んだのか最後の最後まで責任を持つのは当たり前で、このままでは無法者ーー彼らのいうテロリストの所業そのままだろう。国連の事務総長は特にこういう調査のような任務には職務上の責任を持つべきなのではないかと思うが、現在の事務総長は何事においても欧米の言いなりに動く人物のようで、そのおかげか先日米国から絶賛されていたが、一方、 訪問先のガザではデモ隊から靴を投げられたそうである。

ロシアのチュルキン国連大使の発言で最も気になるのは、「NATOがリビアで行われた作戦を「成功」と考え、今後も同様の作戦の使用を提案している」という箇所である。4日、国連安保理でシリアに対する制裁決議案はロシアと中国が拒否権を行使して否決されたが、日本のメディアも欧米と同様ひどく不満そうである。下記の毎日新聞の記者は「 住民の犠牲が拡大する中、安保理が機能不全ぶりを露呈する結果、となった 」と述べている。

「  シリア:国連安保理での決議案否決 機能不全ぶりを露呈
【ニューヨーク山科武司】国連安全保障理事会(15カ国)は4日、反体制派への武力弾圧を続けるシリアのアサド政権に対し人権侵害・暴力の即時停止などを求める決議案を採決した。13カ国が賛成したが常任理事国のロシアと中国が拒否権を行使し決議案は否決された。シリアについては昨年10月にも安保理の非難決議案が中露の拒否権行使で否決されている。住民の犠牲が拡大する中、安保理が機能不全ぶりを露呈する結果、となった。
 決議案は欧米とアラブ諸国が共同提出した。採決後、ライス米国連大使は中露の拒否権行使を「うんざりだ」と断じ、「シリア人民を裏切り、臆病な独裁者を擁護する行 為」と非難した。グラント英、大使も「シリアの殺人機械(アサド政権)による300日の抑圧の中でも、最も恥ずべき日だ」と厳しく批判した。
 一方、ロシアのチュルキン大使は「決議案は一方の勢力に肩入れし、政権交代を狙ったもの」で内政干渉だと説明。中国の李保東大使も「まだ協議の余地がある。今、採決の必要はない」と述べた。
 決議案は、アサド政権に大統領から副大統領への権限移譲などを求めたアラブ連盟の行程表(1月22日決定)を「全面的に支持」し、暴力と人権侵害の停止や都市部からの軍撤退などを要求。従わない場合、「さらなる措置を検討する」とした。
 最終案が2日、まとまったが、ロシアは4日、改めて「全面的な支持」をさらに弱めるよう要求し協議続行を主張。常任理事国5カ国が採決前、最後の交渉を続けたが、 溝は埋まらなかった。 」(毎日新聞 2012年02月05日)

3日から4日にかけてのリビア国内の武力攻撃を伝えるNHKの記事は次のとおり。

「 シリア “弾圧続き死傷者多数”
 シリアの人権活動家によりますと、中部の都市ホムスでは、3日深夜からシリア軍による激しい攻撃が行われ、去年3月に反政府デモが始まって以降、最悪となる300人が死亡したということです。これについてサウジアラビアで反 政府デモを支援している活動家はNHKの取材に対して、「政府軍は迫撃砲や ヘリコプターで無差別攻撃を行った。建物のがれきに埋もれた人々の捜索が続いているが、狙撃兵が配置されている場所もあり作業は難航している」と話しています。一方、シリア国営テレビはホムスへの攻撃について、「シリア軍ではなくテロリストの仕業だ」と伝えています。ホムスでは、大勢の市民が参列して犠牲者の葬儀が行われましたが、市内での軍による武力弾圧は4日も続き、 多くの死傷者が出ている模様です。今回のホムスでの弾圧を受けて、チュニジア政府は、シリア大使を召還する手続きに入ったことを明らかにし、シリアに対する周辺のアラブ諸国からの圧力がさらに強まることも予想されます。
 アメリカのオバマ大統領は声明を出し、「アサド大統領が人命をどれほど軽視しているかを示す行いだ」と非難しました。そのうえで、「市民を虐殺する政府に国を統治する資 格はない。アサド大統領は国民を殺害し続けるのをやめ、 民主化への移行が直ちに行われるよう退かねばならない」として、アサド大統領の退陣を求めました。 ( NHK 2月5日)

NHKの場合は一応「一方、シリア国営テレビはホムスへの攻撃について、「シリア軍ではなくテロリストの仕業だ」と伝えています。」と政府側の主張も報じてはいるが、その直後に「 ホムスでは、大勢の市民が参列して犠牲者の葬儀が行われましたが、市内での軍による武力弾圧は4日も続き、 多くの死傷者が出ている模様です。 」と述べているので、これでは、シリア政府の主張は嘘ですよ、と言わんばかりだ。しかし、リビアでは政府を支持する市民のデモも多数回行なわれている事実を日本のメディアはまったく知らないなんてことがありえるのだろうか?ブログ「media debugger」には「シリア人の圧倒的大多数は、イスラエルや日本、ペルシア湾岸の 親米独裁国家を含むNATO側諸国による「人道的介入」/「保護する責任」の履行を正当に拒否して、過去数カ月にわたって自決権を掲げる大規模なデモを繰り広げている。」と記述され、大規模な自決権デモの様子を伝えているサイト「グローバル・リサーチ」が紹介されている。 それからこちらの動画も参考になる。さて、NHKの報道内容と同じ事実について「ロシアの声」は次のように報道している。

「 シリア ホムスの目撃者が糾弾「反体制派、アル・ジャジーラは虚言」
 シリアのホムス市で政府軍による大量虐殺があったとされる報道を受けて、ロシアの声は同市の市民カマリ氏と電話インタビューを 行った。これについてカマリ氏は「シリア軍はホムスを砲撃していない。これは反体制派の武装集団が行った」と証言している。

 マスメディアはホムス市で大量虐殺があったとしているが、何があったのか?

 昨夜(3日)テレビで恐ろしい映像を見た。私の住む地区の人たちの死体が映し出されていたが、彼らは誘拐され、殺されていたの だ。

 誰が誰を殺したのか? シリア軍か、それとも別の誰かが殺したのか?

 これは武装集団、自称「自由軍」のならず者たちだ。

 死者らの中に知り合いはいたのか?

 もちろんだ。その多くが私の友人で親戚もいた。兄弟、従兄弟たちの姿も…。彼らは死体となっていた。この人たちはみんな武装集団によって誘拐されたもので、殺され、今、死体となって映し出されたのだ。私はアル・ジャジーラ、アル・アラビアを糾弾する。彼らはこのおぞましい殺戮に加担したのだ。彼らは2度の殺戮を行ったことになる。最初は命を奪い、2度目はその名誉と人間の尊厳を奪った。その死体を公開し、嘲笑することで。

 それでは軍はどこにいるのか?

 軍はここにはこなかったし、今もいない。昨日テレビは軍隊とならず者の衝突があり、撃ち合い、破壊行為があったと報じたが、とんでもない! これはすべて武装集団の手によるもので、彼ら自身が町を攻撃し、40発を超えるロケット弾が発射された。町の各所で200発ほどの対戦車ロケット弾の炸裂する音が響いている。シリア軍の関係者らは私たちと同じように射撃、爆撃から身を隠していた。火の雨が降ったようだった。テレビが伝えていることは全て嘘だ。 」(「ロシアの声」2月5日)


「 シリア ホムス市民の目撃証言 政府軍の砲撃報道を否定
 国連安保理で対シリア新決議案が検討を開始される数時間前に、世界のマスコミにはシリアで軍の戦車隊がホムス市を砲撃したニュースが伝わった。砲撃による犠牲者の数は200人を超えている。ロンドンを拠点とするシリアの人権団体「シリア人権監視団」はこの事態を「大量虐殺そのもの」と非難し、アラブ連盟の即刻介入を求めた。
 これに対しシリア政府はホムス砲撃の報道を否定している。アルジャジーラ、アル・アラビアのテレビ報道では街頭に並ぶ数百人の死体の映像が流されたものの、政府はこれを「武装戦闘員によって誘拐、殺戮された市民」だとコメントしている。
 ロシアの声の記者がホムスにいる市民と電話連絡を行ったところ、反政府派の武装戦闘員らが深夜、アメリカ軍部隊、治安部隊の配属場所を銃撃したという目撃証言が得られた。最も激しい攻撃が行われたのはホムス市のザハラ・アルマン・カルムロス地区で、目撃者らは、テレビ映像の死体のうち、少なくとも数体は前もって誘拐された市民のものだと語っている。 」 ( 同 上 )

国連安保理でシリア制裁についての採決が行われる直前にシリア国内の蛮行が猛威を振るう結果になったのは偶然だろうか? シリア政府が仕掛けたとしたら、政府は国連安保理に対して絶好の介入の機会を提供することになるのだから、これは常識的に考えてまずありえないことではないかと思う。それにしてもNATOの先行きが不気味に感じられる。

2012.02.05 Sun l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
新年初の更新です。今ごろご挨拶というのもひどく間が抜けていますが、一言、皆さん本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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明日13日に野田政権の内閣改造が行なわれるとのことだが、交代がとり沙汰されているのは昨年の臨時国会で問責決議が可決された山岡消費者担当相、一川保夫防衛相だけではなく、平岡秀夫法相もその一人だという。「死刑執行を拒んでいる平岡氏は野党から批判されているし……」(日刊ゲンダイ)。もし平岡氏が死刑執行の命令をしなかったがために更迭されるという噂が事実だとしたら、これはとんでもないことであり、強く反対し、抗議する。野党が就任以来死刑を執行していない平岡氏を批判しているというが、その「野党」とは具体的にどの政党の、誰々なのだろう。

日本の政治家たちは、これまでにどれだけの数の冤罪事件が明らかになったことか、今も冤罪が強く疑われる事件が次から次へと浮かび上がっているかなどについて、特に自民党の政治家はどの程度深く理解・自覚しているのだろうか。これらはすべて自民党政権(もしくは自民党と他党との連立政権)の法相下で発生したことである。とりわけ、2008年に当時から冤罪の疑い濃厚と一部で言われていた久間三千年さんが自民党森法相の命令で死刑執行されたことは取り返しのつかない司法殺人、国家犯罪である。これがどれだけ重大な出来事であるか、自覚をもっている政治家がはたして何人いるだろう。この場合、「いや、冤罪でない可能性もあるのだから、この時点で国家犯罪、司法殺人などと言い切るのは間違いだ」という反論は成立しない。人間が神でも天使でもない以上、冤罪が疑われる人物を処刑することはそれ自体明確な国家犯罪であるというしかないはずだ。 久間三千年さんの死刑執行に対していったいその後司法関係者のうち誰か一人でも何らかの責任をとったのだろうか。また、もし冤罪で処刑したのだとしたら大変なことだというので、その後改めて事件の洗い直しをやった法務関係者はいるのだろうか? おそらくそんな動きをした人は久間三千年さんの支援の人たちを除いていなかったのではないかと私は推測するのだが、実際はどうだったのだろう。

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上記のごとき疑問をおぼえる相手は決して歴代の法相や司法関係者にかぎらない。マスコミも同様で、とりわけ産経新聞と読売新聞に対して私ははなはだ強い疑問と不信を感じずにいられない。この両紙は今に始まったことではなくもうずいぶん前からそうなのだが、少しでも死刑執行が滞るとあの手この手で盛んに執行を煽る。私はこの両紙を「死刑大好き新聞」「死刑執行煽動メディア」などと胸の裡で呼んでいるのだが、そのくらい産経と読売はメディアのなかで死刑執行への執着が際立って見える。主な手口は、まず「死刑が執行されないといつまでも事件に区切りがつかない」などの理由で死刑執行を望む被害者遺族の声を紙面に登場させることだ。その記事の調子には被害者遺族の声をメディアが冷静な立場から一つの意見として読者に届けるというより、むしろ自分たちの主張を被害者遺族に代弁させたいというような意思が感じられる。最近は特に声高に死刑執行を主張する遺族の登場が目立つようである。紙面からは、産経や読売の記者の意識は被害者や被害者遺族と一体化しているのかと疑いたくなるような「処罰欲」が立ち上がるようであ る。

そしてもう一つ、この件に関する産経や読売の決まりきった態度・対応は、刑事訴訟法が定めている「法相による死刑執行の命令は判決確定の日から6か月以内にしなければならない」という条文を何とかの一つ覚えのように飽きもせず繰り返すことである。以下に両紙の主張を引用しておこう。

 増え続ける死刑囚 「執行なければ、事件は終わらな い」と遺族
 民主党政権になって法相は次々と交代した。法相個人の意思で執行が止まっている現状に犯罪被害者や遺族からは、刑事訴訟法の改正を求める声も出始めた。

■平岡氏の真意不明
 今月19日、法務省内で開かれた「死刑の在り方についての勉強会」。死刑廃止国のイギリス、フランスの専門家が、廃止の経緯や現状などの説明を行い、平岡氏らが熱心に聞 き入った。
 死刑執行がストップしている間、法務省内で続けられてきたのが、この勉強会だ。昨年8月、当時の千葉景子法相が「国民的議論の契機としたい」と設置し、計10回開かれたが、進展はない。法曹関係者からは「勉強会は執行しないための時間稼ぎにすぎないのでは」との声も上がる。
 平岡氏は27日の閣議後会見で、「勉強会が何らかの結論を出す性格のものではない以上、個々の問題をしっかり考えていかなければならない」と述べ、勉強会を開く間も執行に含みを残したが、真意は不明だ。

■「どちらが残酷か」
 法相の姿勢に、いらだちを隠せないのが遺族だ。
「死刑が執行されない限り事件は終わらない」と語るのは、平成11年の池袋通り魔事件で長女を殺害された宮園誠也さん(77)。加害者は19年に死刑が確定したが、現在も執行されていない。(略)
 全国犯罪被害者の会(あすの会)顧問の岡村勲弁護士は「法相は法を守るべき国の最高責任者であり、法を守らないことは許されない。これ以上、執行しない状態が続くならば、法相から死刑執行命令権を取り上げ、検事総長に移す方向で、刑事訴訟法を改正すべきだ」と指摘している。( 2011.12.27 産経新聞 )

 死刑執行、19年ぶりゼロ…未執行最多129人
 死刑執行が今年は1度も行われないことが28日、確定した。
 執行ゼロの年は1992年以来、19年ぶり。法務省は、後藤田正晴氏が法相だった93年に約3年4か月ぶりに執行を再開して以来、年に1度以上の執行を継続してきたが、民主党政権下で執行に慎重な法相の就任が相次いだことなどにより、その運用が途絶えた。
 刑事収容施設法は、12月29日~1月3日は死刑を執行できないと定めており、28日も執行の動きがないことで、年内の執行はできなくなった。27日現在、未執行の確定死刑囚は戦後最多の129人で、昨年末の111人より18人増えた。
 刑事訴訟法は「法相による死刑執行の命令は判決確定の日から6か月以内にしなければならない」と定めているが、実際には執行の時期や対象者は法相の判断に委ねられている。(2011年12月28日読売)

 法相、死刑執行ゼロ説明避ける…遺族は憤りの声
 19年ぶりの「死刑執行ゼロ」が確定した28日、平岡法相は記者会見で、年内に執行しなかった理由について明言を避けた。
 法務省の勉強会で議論が続く中、裁判員裁判では今年も死刑判決が相次ぎ、確定死刑囚の数は戦後最多の129人 にまで膨らんだ。被害者遺族からは「執行を進めないのは責任放棄だ」と憤りの声が上がっている。
 「私から申し上げるわけにはいかない」。平岡法相は28日午前の記者会見で、年内の執行を命じなかった理由を繰り返し問われたが、「様々な要因がある」などと、具体的な説明を避けた。
 省内では平岡法相について「死刑廃止論者ではなく、執行に踏み切る可能性はある」との見方がある。それでも年内の執行に踏み切らなかった理由に挙げられるのは、死刑制度の存廃を巡る省内の勉強会の存在だ。(2011年12月29日 読売新聞)

上述したように産経新聞と読売新聞の死刑執行への煽りは今に始まったことではない。そこでぜひ両紙に訊きたいのだが、たとえば2008年の久間三千年さんは無実の身で処刑された可能性が濃厚と言われているが、読売と産経の記者たちはこの処刑に対して自分たちの法相に対する常日頃の執行煽動はどのような意味と関わりを持っていると考えている
だろうか? 法の世界では紀元前から「10人の真犯人を逃そうとも、一人の冤罪者を出すべからず」という教訓があるけれども、産経・読売の人々は死刑に関する報道記事や論説を読むかぎり、そんな問題より死刑執行を粛々と行うことのほうが大事という価値観を持っているようにみえるのである。もし、「いや、そんなことはない」と言うのならば、ぜひ上述した久間さんの死刑執行についての思いや考えを教えてほしいものだ。あのようなことが起きた以上、死刑を煽動した者のほうがそうはしなかった者より責任も課題も大きかったはずである。司法の現状について、また個々の裁判についても私たちのような一般大衆よりマスコミの人々は詳しいはずである。ここ10年余りなぜか急速に増えつづける死刑判決、冤罪が疑われている多くの刑事裁判。印象では読売および産経系のメディアは死刑執行に対して他メディアよりはるかに熱意があり、逆に冤罪や、たとえ過去に残忍な殺人を犯した者であってもまだまだ生きられる、現に生きている生き物である人間を殺害するという死刑の問題点など、基本的人権に関わる問題には他メディアよりはるかに無関心のように見えるのだが、どうだろうか?

被害者遺族の思いにしても産経・読売の主張より実際はもっと多様で複雑なのではないだろうか。あるドキュメンタリーTV番組で、少年にバスのなかで親族を殺害された男性が「マスコミは我々被害者遺族を食い物にしている。」と憔悴しきった表情で 呟く姿を見たこともある。サリン事件の河野さんのような人も存在する。それから加害者への感情を死刑の要求という形で表現しないとマスコミは満足せず、死刑を口にしないことがあたかも死んだ者への愛情の欠如であるかのように受けとめられてひどく心を傷つけられたという被害者遺族の話を聞いたこともある。産経や読売は、遺族が加害者を死刑にして欲しいという言い方さえすればそれで満足なのだろうか。

しかし、仮に肉親を殺された遺族のすべてが加害者を死刑にしてほしいと望んだとしても、それが叶えられるのは、これほど死刑が乱発されている現在であっても、せいぜい十分の一程度の遺族のみである。「死刑、死刑」と騒ぐ産経・読売は死刑の願いが叶わなかった遺族に対してはどんな思いを持つのだろうか? それから世田谷一家殺人事件のように稀にみる残忍な殺人事件でも犯人が捕まらない場合がある。誰に、どのような理由で殺されたのか、何も分からない。遺族にとってこれほど苦しいことはないだろうと思う。このような事情と、確定した死刑判決が執行されることとどんな関わりがあるのかと言われればちょっと言葉に窮するけれども、マスコミのような第三者はこのような場合もふくめた視野で考える必要もあるのではないか。まるで死刑が執行されないと法相が責任を果たさないかのように思い詰めるのは止めてほしいものだ。平岡氏はおそらく頻発する冤罪の問題もふくめた広い視野で死刑を考えているのではないかと思う。そうでなければ、これほど死刑執行圧力の強いなかで踏みとどまることは難しかっただろう。

死刑を執行しない法相=法を守らない法相と決めつけ、だからその法相を辞めさせるべきという産経や読売の主張は事の重大性に比して思考があまりにも単純であり短絡的だと思う。死刑執行について法相はどこまでも慎重であるべき、深く考えるべきと私は思うが、見ておくべきことは他にもあると思う。死刑が停止あるいは廃止された国のプロセスをみると、ほとんどの国は死刑判決が減少し、また死刑執行が滞るなかでそれがやがて停止や廃止に至っている。現状の韓国もそうである。では長期間執行を命じなかった各国の死刑執行責任者はすべて法の違反者として責めらるべきであり、実際に責められたのだろうか。そんなことはないだろうと思う。平岡法相の更迭に強く反対する。
2012.01.12 Thu l 社会・政治一般 l コメント (1) トラックバック (0) l top
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