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砂川事件の第一審判決(伊達判決)を破棄して地裁に差戻した最高裁判決が出たのは1959年12月16日であった。この判決に関連して、先日(4月8日)、当時の最高裁長官・田中耕太郎氏が判決前に駐日米公使ウィリアム・レンハート公使らと密談し、「判決はおそらく12月」「判決を急ぐため争点を法的問題に閉じ込める」「判決は世論を揺さぶる原因になる少数意見を回避できるよう願っている」などと述べていたことが米公文書で明らかになったと報じられた。朝日新聞によると、この公文書は「1959年8月3日、11月5日、12月17日付の計3通。日米安保条約の改定を控え、両国政府が反対世論の動向を注視していた時期で、すべて駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世が、本国の国務長官へ宛てた公電だった。」という。8月3日付の公電は、「上告審の公判日程が決まる3日前の7月31日に、田中長官が当時の米首席公使と「共通の友人宅」でかわしたやりとりとされる。」とのことである。

米公使との密会が7月31日だったとすると、これはどこかの新聞が指摘していたことだが、公判日程が発表されたのは8月3日だったのだから、田中長官は肝心の被告・弁護側に通達するより先にこっそり米国に公判日程を教えていたことになり、これは司法の長である田中氏が一方ではどんな米国追従一辺倒の保守政治家も顔負けの一反動政治家であったことを意味しているだろう。多分、司法の独立なんてことは場合による、程度にしか考えていなかったのだ。

田中氏が最高裁長官に任命されたのは1950年3月だが、石母田正氏によると、このとき朝日新聞は当時としても異例の号外を出したということである。田中氏は1946年5月から 1947年1月までは貴族院議員で文部大臣、1947年4月から最高裁長官に就任するまでの3年間は参議院議員を務めている。長官職を退いたのは61年10月なので、約11年という長きにわたる最高裁長官生活だったことになる。この経歴を見てもおおよそ分かることだが、おそらく戦後の最高裁判事でこの人ほど著名な人物は他にいないのではないだろうか。

伊達判決を却下する意図のもとで田中氏が米公使と密談したのは上記のように1959年7月31日ということのようだが、松川事件の最高裁判決が言い渡されたのは、その日から一週間後の8月7日であった。この事件については周知のように最高裁は原判決を破棄して仙台高裁に差戻し、事件発生以来10年を経てようやく20人の被告人に無罪判決への道が開かれたたわけだが、このときの採決は7対5のかろうじての差戻し判決であった。田中氏はもちろん被告側の上告を棄却し、4人の死刑を含む17名(原判決において20名の被告人のうち3名については列車転覆の謀議が開かれたという時日のアリバイが証明されて無罪判決が言い渡されていた)の被告人全員の有罪判決を確定する少数派に与した。

田中氏は55年最高裁長官に就任した年の長官訓示のなかで廣津和郎が月刊誌『中央公論』で展開していた松川裁判批判を「雑音」の一言で片付けた人物であり、判決前からこの人が上告棄却を主張することは目に見えていたといってよいだろう。「雑音」訓示が行なわれた当時、それを受けて廣津和郎が述べたところによると、戦後間もなく岩波書店の『世界』創刊にあたって作家や批評家を含めた識者の会合が開かれ、廣津和郎も招ばれた。その席で廣津が「これからは政治についても気づいたことがあったら発言していきたい」旨の発言をしたところ、同席していた田中耕太郎は「あなたが政治を? 政治は私たちがやりますよ。」と言ったそうである。田中長官の「雑音」訓示について聞かされたとき、廣津和郎はとっさに『世界』会合における田中氏のその言葉が思い出されたと述べていたが、松川事件の最高裁判決において田中氏が書いた少数意見は案の定多数意見を痛烈に批判し、原判決の確定を強硬に主張するものであった。

いわく「多数意見は、法技術にとらわれ、事案の全貌と真相を見失っている。」「多数意見は木を見て森を見ていない」「事件の全貌と真相は「雲の下」に深く隠されていて、多数意見の主が見ているものは、事案全体から見れば巨大な山脈の雲表に現れた嶺にすぎない。それらを連絡する他の部分は雲下に隠されているのだから、単なる嶺である「諏訪メモ」の出現など問題にする必要はない」などというものであった。あげくの果てには、「もし多数意見者が、被告たちをこの犯罪の実行者でないと考えているのなら、原判決を破棄して、無罪の判決をくだすべきであり、「差し戻し」などという中立を装った中途半端な判定をくだすのは誤りである」などとも主張している。「諏訪メモ」は一・二審ともに死刑を言い渡された一被告人のアリバイを証明する重要な証拠であった。これを取るに足らぬ「問題にする必要はない」些細なことだというのであれば、裁判は権力者があらかじめ決定した結論に到達するための単なる儀式でよいのだと宣言したも同然であり、この発言が許されるようなことになったら、裁判は裁かれる側にとっては何の救いもない暗黒裁判そのものであるとしかいいようがない。

このように、1959年は砂川事件、松川事件という重大事件の判決において田中長官が反動勢力の最前線に立って獅子奮迅の活躍をした年ということになるだろう。砂川事件で駐日米公使らと密会したこと、そしてその折りの発言内容を知らされると、あるいは松川事件においても田中長官は同様の動きをしたのではないかと疑ってみないではいられない。松川事件はいまだ誰が何の目的で列車を転覆させて三名の乗務員を死に至らしめたのか、また誰でも自分の目で事実に即して常識的に事件を追ってみさえすれば被告人たちの無実を認めないわけにはいかないであろう20人の人々を列車転覆の犯人に仕立て上げようとした画策した理由は何なのか、一切明らかになっていないのである。

松川裁判における田中耕太郎氏の少数意見に対しては、こちらのエントリーで、廣津和郎、大岡昇平、石母田正という三人の人物による反論・批判を載せている。いずれも示唆するところの大変多い文章だと思うので、関心のある方はぜひ一読していただければと思う。
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2013.04.14 Sun l 裁判 l コメント (2) トラックバック (0) l top
元少年は差戻し控訴審において、これまでのすべての裁判所ーー 一審の山口地裁、第一次控訴審の広島高裁、第一次最高裁ーーで事実として認定されてきた「背後から被害者に抱き付き、仰向けに引き倒し、馬乗りになった上、殺意をもって、被害者の喉仏を両手の親指で思い切り押さえつけるようにして首を絞めたところ、更に激しく抵抗されたた め、被害者の頚部を両手で全体重をかけて首を絞め続けて窒息死させて殺害した」、「被害児を頭の上の高さに持ち上げ、その後頭部から居間の床に思い切り叩き付けたところ、一瞬泣き声がやんだものの、絶命せず、かえって激しく泣き出したため、首を締め付けて殺害しようと考え、両手で被害児の頚部をつかむようにして締め付けたが、首尾よく締め付けることができなかったことから、ズボンのポケットに入れていた紐を同児の頚部に巻き付け、その両端を力一杯引っ張って絞殺した 」(第一審判決)という判決の基である捜査段階の自白調書は、 取調べた検察官が作成し、それを自分が認めたところの「虚偽が語られている調書」であると供述しているが、こうして少し長めに読んでみると、確かにこの供述にはおかしなところがあると判る。この疑問は差し戻し控訴審の弁論要旨にも記述されていたが、「被害児を頭の上の高さに持ち上げ、その後頭部から居間の床に思い切り叩き付けた」というのに、赤ちゃんは頭がグシャリとなって致命傷を負うどころか、まったく平気な様子なのである。1歳未満の乳児の世話をしたり、身近に暮らしたことのある人は誰でも判っていることと思うが、その時期の子どもの頭は大変柔らかい。だからこそ少年の「頭上から思い切り床に叩き付けた」という行為が耐えがたく残忍に感じられたのだ。私などは以前は少年のこの行為で赤ちゃんは死に至ったものと疑いもなく思い込んでいたのだが、ところがそうではなかったのだ。これほどの行為があったというのに、どうやら赤ちゃんはピンピンしている様子でなのである。そればかりか、この後「両手で被害児の頚部をつかむようにして締め付けたが、首尾よく締め付けることができなかったので」とつづいている。この供述もどう考えてもおかしい。乳児の頚を18歳の男性の力をもって両手で締め付ければ、その際彼が自分の手のどの指を用いていようと、その時点で赤ちゃんは供述調書のように無事でいられるはずがないのは自明と思う。

差戻し控訴審判決が、元少年の供述の変化について、また新供述の信用性について、どのような判断を示しているか見てみよう。少し長くなるが次に引用する。


 (1)  …被告人は,逮捕の2日後に本件公訴事実を認める内容の供述をしてから,実に7年近くが経過して初めて,旧供述が真実ではないという供述をするに至ったのであり, 特に 第一審においては殺人および強姦の計画性を争いつつも,本件公訴事実を全面的に認め, 本件を自白した経緯や心境等についても,上記検察官調書(乙15)および警察官調書(乙 3)と同趣旨の内容を公判廷で任意に供述していたものである。そして,被告人は,差戻前控訴審においても,強姦の計画性の点を除き,第一審判決が認定した罪となるべき事実を争わなかったところ,旧供述を翻し,弁護人に対し新供述と同旨の供述を始めたのは,上告審が公判期日を指定した後のことである。

 (2) 被告人は,当審公判において,旧供述が記載された供述調書の作成に応じた理由,第一審略公判で真実を供述できなかった理由,旧供述を翻して新供述をするに至った理由等について,詳細に供述しているところ,その核心部分は,以下のとおり要約することができる。

 ア 平成11年4月19日の<O>検察官による取調べにおいて,被害者とセックスしたことを,自分はレイプと表現せず,エッチな行為をしたと話していたところ,同検察官から,被害者が,抱きつかれて抵抗したということは,被告人とセックスをしたくなかったわけだから,死後にセックスしているのはレイプであると決めつけられ言い合いになったが, レイプ目的がなかったと余りにも言い張るようであれば,自分にはそのつもりはないけれども,上と協議した結果,死刑という公算が高まってしまう,生きて償いなさいと言われて涙を流し,同検察官が作成した供述調書に署名した(当審第8回被告人21ないし23,151ないし157項)。<O>検察官から,本当のことを話すことが被害者らへの報いになると言われ,本当のことを話すというのは,検察官の言い分を認めることだと認識していた(同第8回被告人59ないし61,161ないし163項)。

 イ 第一審で真実を話すことができなかったのは,自分自身が事件を受け止めるだけのものができ上がっていなかったし,裁判は自分を素直に表現しにくい場であり,言い足りない部分もあったと思うし,自分自身をどこまで言い表していいかも分かっていなかったからである(当審第8回被告人 295,297,320項)。結果的に人を殺めてしまっている事実や,姦淫している事実は,自分自身がしたことであり揺るぎがないので,公訴事実を認めているところもあり,殺害や強姦の態様等が裁判の結果に影響するという認識は全くなく,それらの事実の重要性にまで考えが及ばなかった(同第8回被告人259,260項)。また,初めて裁判所というものに臨むに当たって,緊張状態が大変高まっており,すごく不安な状態であったし,弁護人との事前の打合せが十分になされておらず,被告人質問で具体的に何を聞き何を答えるかについての打合せはなかった(同,第8回被告人220 ないし 223,257,258項)。弁護人に対し強姦するつもりはなかったと話したが,結果的にセックスしているわけだから,争うと逆に不利になるなどと言われしっかりとは争ってもらえなかった (同,第9 回被告人191ないし196項)。弁護人から,通常この事件は無期懲役だから,死刑になるようなリスクがある争い方はしない方がいいと言われた(同第8回被告人 245,246項)。罪状認否については,その意味合いを全く聞いていなかったし説明が不十分であった(同第8回被告人236,237項)。 結果的に2人を殺めてしまっていることに変わりがないという認識を持っていたので,言い逃れのような気がして,弁護人に対し,殺すつもりがなかったという言葉を用いることができなかった。法律的な知識がなく殺すつもりがあったかどうかが大切なことだということは全く分かっていなかった(同第9回被告人186ないし190項)。姦淫した理由が性欲を満たすためと述べたのは,生き返らせよう と思って姦淫したと言うと,ばかにされると思ったからである(同第8回被告人310ないし 313項,同第9回被告人565ないし570項)。

 ウ 差戻前控訴審の弁護人に対し事実関係特に犯行態様や計画性等が第一審判決で書かれている事実とは違うことを伝えた(当審第8回被告人344項)。その中身全体ではなく,強姦するつもりはなかったというところを,どうにかしてもらえないかということを伝えた。同弁護人に対し,被害者方に入った後や被害者を殺害した後の時点でも,当初から一貫して強姦するつもりはなかったことを伝えた(同第9回被告人946ないし949項)。 

 エ 平成16年2月から教誨を受けるようになり,教誨師に対し事件の真相を話した。そして, 平成18年2月に安田弁護士および足立弁護士と初めて接見した際,安田弁護士から,事件のことをもう一度自分の口から教えて欲しいと言われ,被害者に甘えたいという衝動が出て抱きついてしまったこと,殺すつもりも強姦するつもりもなかったこと,右片手で押さえたこと,被害者にスリーパーホールドをしたことなどを話し,被害児に紐を巻いたことは覚えていないことなどを話した (当審第8回被告人395ないし428項)。安田弁護士から自分の供述調書を差し入れてもらい,事件記録を初めて読んで,余りにも自分を見てもらえていないことに憤りを覚えた(同第9回被告人443項)。 そして,同年3月ころから,事実と向き合い,細かい経過を思い出して紙に書き表し,勘違いや見落としをその都度修正するという作業をし,同年6月から,本件上申書の作成を始めた(同第8回 被告人435ないし446項)。」

 (3)  しかし,旧供述を翻して新供述をするに至った理由等に関する被告人の当審公判供述は,以下に説示するとおり,不自然不合理である。

 ア 被告人の新供述と旧供述とは,事実の経過が著しく異なっており,被害者および被害児の各殺害行為の態様,殺意,強姦の犯意の有無等についても全く異なっている。したがって,本件各犯行についての被告人の新供述が真実であるとすれば,被告人は,自分の供述調書に記載された内容が,真に自分の体験したこととは似ても似つかぬものになっ ていることを熟知していたはずであり自分の供述調書を差し入れてもらって初めて,その記載された内容が自分の経験と違っていることに気付くというようなことはあり得ない。しかるに,本件公訴が提起されてから安田弁護士らが上告審弁護人に選任されるまでの6年半以上もの間,第一審弁護人,差戻前控訴審弁護人および上告審弁護人に対し, 強姦するつもりがなかったということを除いて,新供述のような内容の話を1回もしたことがないというのは,余りにも不自然である。被告人は,第一審弁護人と接見した際, 供述調書を見せられ,ここが違う,ここが正しいという確認をされた旨供述しており(当審第8回被告人251項),しかも,検察官から,供述調書の不服な部分等について,後で供 述調書を作成すると約束されたというのであるから,上記のように供述調書の内容を確認された機会に,旧供述が記載された供述調書の誤りを指摘し,新供述で述べているような内容の話をしなかったということは考えられない。 この点について,被告人は,教誨師と接触するまで人間不信のような状態であった,弁護人に真相を話して良いという権利 の存在自体を知らなかった,上告審段階まで弁護人が非常に頼りない存在であると認識しており,相談したいことがあっても相談できない状態であったなどと供述している(当 審第8回被告人430項,同第9回被告人943,945項)。 しかし,被告人は,第一審判決および差戻前控訴審判決の言渡しを受けた際,朗読される判決書の内容を聞いているほか,これらの判決書ならびに検察官作成の控訴趣意書および上告趣意書を読んで,犯行態様や動機について全く違うことが書かれているのは分かった旨供述している (当審第9回被告人939ないし942項)ことに照らすと,弁護人に対し,上記各判決で認定された事実が真実とは異なるなどとして,その心情を伝えたり,新供述で述べるような内容を話したりすることもなく,死刑を免れたとはいえ,無期懲役という極めて重い刑罰を甘受するということは到底考え難い。特に,定者弁護士は平成12年5月26日に,山口弁護士 は同年9月18日に,それぞれ差戻前控訴審の国選弁護人に選任され,さらに上告審においては,定者弁護士が平成14年4 月8日,山口弁護士が同月22日,井上弁護士が同年11月27日に,それぞれ私選弁護人に選任されているところ,差戻前控訴審において国選弁護人であった弁護士2名が,いずれも上告審に おいて被告人により私選弁護人として選任されていることに照らすと,被告人は,差戻前控訴審における定者弁護士および山口弁護士の弁護活動を通じて両弁護士を信頼したからこそ,上告審においても私選弁護人として選任したものと解される。そして広島拘置所長作成の捜査関係事項照会書に係る回答についてと題する書面(当審検7)によれば,定者弁護士が差戻前控訴審の国選弁護人に選任された後の平成12年6月30日から平成17年12月6日に上告審で公判期日が指定されてその旨弁護人に通知された翌7日までの間,弁護人であった定者弁護士,山口弁護士または井上弁護士は,被告人と296回もの接見をしていることが認められる。しかも,被告人は,当審公判で,父親との文通が途絶え,差戻前控訴審および上告審の弁護人であった定者弁護士が,衣服,現金,生活必需品の差入れをしてくれるなど,親代わりになったような感覚であった旨供述しており(同第9回被告人222項),多数回の接見を重ねた同弁護士に対し,強姦するつもりはなかったという点を除いて,新供述で述べるような内容の話をしなかったというのは,まことに不自然である。また,被告人は,差戻前控訴審の弁護人に対し,被害者を殺害した後の時点も含めて,当初から一貫して強姦するつもりがなかったことを伝えたというのであるが,そのような説明を受けた弁護人が,死刑の可否が争われている重大事件において,強姦の犯意を争わないということは,通常考えにくいことである。同弁護人作成の答弁書および弁論要旨をみても,強姦の計画性を争うのみであり,むしろ,強姦の犯意を生じたのは犯行現場においてであるという趣旨の主張が記載されているところ,そのような記載がされた理由について,被告人は,分からないと述べるにとどまっている(同第9回被告人950項)。 なお,被告人は,差戻前控訴審において,定者弁護人に対し,強姦するつもりはなかったと言ってはいないとも供述している(当審第9回被告人200,201項)ところ,このように供述が変遷すること自体不自然である。 さらに,被告人が,公訴提起後6年半以上もの間,多数回にわたる接見にもかかわらず, 弁護人に対し,新供述で述べるような内容の話をしたことがなかったのに,初めて接見した安田弁護士らから,事件のことを話すように言われるや新供述を話し始めたというの も不自然である。この点について,被告人は,当審公判で,法律的な知識に乏しかったがために,これまで真相を語ることができなかったかのような供述もしている。 しかし, いかに法律的な知識に乏しかったとしても,第一審および差戻前控訴審の各判決書,控訴趣意書等に記載された事実は,被告人が当審で真実であるとして供述する内容と余りにも異なっていることに照らすと,公訴提起後6年半以上の長期にわたり, 1回も弁護人に相談しなかった理由として,納得できるものとはいえない。 このような被告人の供述経過および弁護人との接見状況等にかんがみると,被告人が,上告審の公判期日が指定されるまで維持していた旧供述を翻したのは,まことに不自然である。

 イ 被告人は,生きて償いなさいと言ってくれた検察官がいたのに,第一審で検察官が死刑を求刑するのを聞いて,大変裏切られた感が否めず,ショックを受けた旨当審公判で供 述している (当審第8回被告人334ないし336項)。 被告人が,検察官から,生きて償うように言われて,事実とは異なる内容の供述調書の作成に応じたというのが真実であれば, 死刑求刑は検察官の重大な裏切り行為であり,被告人が,事実とは異なる内容の旧供述を維持する必要は全くない上,弁護人に対し,検察官に裏切られたとして,事案の真相を告げ,その後の対応策等について相談するはずである。しかるに,弁護人は,弁論において,本件公訴事実を争わなかったし,被告人も,最終陳述において,本件公訴事実を認めて,遺族に対する謝罪の気持ちを述べたのであり,検察官に対する不満も何ら述べていな い。しかも,被告人は,供述調書の内容について,不服や言い足りない部分については,後で訂正してもらえるという約束があったというのであるから,旧供述を撤回して新供述に訂正する供述調書の作成を求めたり,その旨弁護人に相談したりするなどの行動を取ってもよさそうであるのに,そのような行動に出た形跡もない。生きて償うように言われて,事実とは異なる内容の供述調書の作成に応じた旨の被告人の上記供述は,たやすく信用することができない。

 ウ 被告人は,安田弁護人から事件記録の差入れを受け, 初めて自分のした行為に直面し,自分というものを見てもらえていないことが分かって憤りを覚え,その後事実と向き合 うようになった旨供述する(当審第8回被告人380ないし387項,同第9回被告人439ないし451項)が,自分の記憶に照らし,検察官の主張ならびに第一審判決および差戻前控訴審 判決の各認定事実が自分が真実と思っている事実と異なっていることは容易に分かるはずであり,事件記録を精査して初めて分かるという性質のものではない。

 エ 以上のとおり,被告人の当審公判供述は,旧供述を維持してきた理由としても,旧供述を翻して新供述をするに至った理由としても,不自然不合理なものである。」(差戻し控訴審判決「主文」


この事件は、2人の被害者に対する殺害の実態が報道されるとその残忍さが人々に衝撃をあたえたことや、妻子を奪われ一人遺された被害者遺族男性が当初から被告人に死刑判決を望んでいるとつよく訴えていたことなどによって、裁判は早い段階から元少年に果たして死刑判決が言い渡されるかどうかに最大の注目が集まることになった。その上、二審に入るとあの不埒な被告人の手紙が検察側から法廷に持ち出され、その傾向にますます拍車がかかった。私たちがそもそも捜査段階の被告人の供述調書に誤りがあるかも知れないことに初めて思いを致したのは最高裁段階に入って元少年が「これまでの裁判では本当のことを言うことができなかった」としてそれまでの供述をことごとく否定し、「新供述」を述べ始めたことからであった。

これに対して判決は上記のように「いかに法律的な知識に乏しかったとしても,第一審および差戻前控訴審の各判決書, 控訴趣意書等に記載された事実は,被告人が当審で真実であるとして供述する内容と余りにも異なっていることに照らすと,(略)被告人が,上告審の公判期日が指定されるまで維持していた旧供述を翻したのは,まことに不自然である。」と判示しているわけだが、しかし元少年が一・二審とは「余りにも異なっている」その新供述を初めて話したのは「上告審の公判期日が指定され」てからではなく、その大分前に拘置所の教戒師にすでに新供述を打ち明けていたと被告・弁護側は法廷で説明し、だから教戒師を証人尋問してほしいと要請していたことについては、このブログはこれまで何度も言及した。裁判所はその要請を拒んでおきながら、「上告審の公判期日が指定される」と、突如元少年が供述を翻したかのように述べるのは矛盾もはなはだしい。前回、被告人質問の場で弁護人から新供述をすることになった経緯について尋ねられた元少年が、「自分の方から話した。ただ、安田先生に言う前に教戒師の先生にも同じことを話している」「教戒師に会うまでは人間不信のような感じだった。そうでなければ、安田先生にも話すことができたか分からない」 と答えている発言を引用したが、そのように彼が一・二審の頃、自分の方からは(弁護人なり裁判官なり、誰かが丁寧に彼の話を引き出そうと努めていれば話は別だったろうが…。)真実を話せなかったと述懐していることはおそらく本心ではないだろうか。司法になぜ少年の保護を規定した少年法が必要不可欠とされているか、これはその根拠、理由を如実に示している好例ではないかと思う。

差戻し控訴審の被告人質問で元少年は、一審の弁護人に「強姦するつもりはなかった」と話してみたが、「無期懲役だろうから、変に争うよりも情状面で主張していくと言われ た」、「(弁護人は)頭を抱えていた。引っ繰り返すのは難しい、と」 と述べている。この部分は判決文から先ほど引用した箇所と直に関連する部分でもあり、またここにはこれから取り上げるつもりの「検察官の取り調べ」についての元少年の説明も出てくるので、以下に引用しておく。


 弁護人 「逮捕翌日の検察官からの取り調べでレイプ目的の犯行だとする調書が作成されているが、このとき償いについて何か言われたか」
 被告 「『生きて償いなさい』ということを言われた。『亡くなった奥さんとエッチした』と話したのだが、検事さんは『だんなさんがいるんだから、死後でもレイプじゃないか』という風に話を持っていかれた」
 弁護人 「レイプ目的を認めなくて、何を言われたか」
 被告 「『このまま言い張るようだったら、死刑の公算が高まる。でも、ぼくは『生きて償ってほしい』 と言われたので、調書にサインした」
 弁護人 「調書についてはどう説明されたか」
 被告 「調書というものはしゃべったことがそのまま載るのではなく、取り調べた人の印象や感想が載るものだと言われた」
 弁護人 「言いたくないことは言わなくていいという説明はあったか」
 被告 「受けていない」
 弁護人 「当番弁護士は頼んだか」
 被告 「頼んでいない」
 弁護人 「だれかが頼んでくれたのか」 (引用者注:一審の弁護人は元少年の父親が依頼したとのことである。)
 被告 「はい」
 弁護人 「弁護士について検察官は何か言っていたか」
 被告 「弁護士はうそをつくし、費用も莫大にかかるけえ、親に迷惑をかけることになる、と」
 弁護人 「それを聞いてどう思ったか」
 被告 「頼る人はいなくて、取り調べ官に頼るしかないという感覚になった」
 弁護人 「『生きて償いなさい』と言われて信用したのか」
 被告 「はい」
 弁護人 「結局、捜査段階では弁護人はつかなかったのか」
 被告 「はい」
 弁護人 「当時、『強姦』や『レイプ』をどう理解していたのか」
 被告 「別の意味と理解していた。レイプは押しの強いエッチのこと、強姦は女性を襲うことと認識していた」
 弁護人 「では平成11年4月18日に警察に連れていかれる経過を。警察官が家に来た理由はすぐ分かったか」
 被告 「はい。ぼくが人を殺してしまったから」
 弁護人 「傷害致死と殺人の区別はついていなかったのか」
 被告 「はい。そもそも傷害致死という言葉を知らなかった」
 弁護人 「逮捕当日に警察で作成された調書には、弥生さんを死なせたことについて『右手で首を絞め続けた』とあるが」
 被告 「ぼく自身は弥生さんの首にぼくの手があったことを言っているのだが、『押さえた』というのはどうしても理解してもらえず、『絞めた』ということに、調書ではなったのだと思う。無我夢中だったため押さえたか絞めたか断定できないので、違和感はあったけど否定しきれなかった」

《これまでの判決は「被告が弥生さんに馬乗りになり両手で首を絞めて殺害した」と認定。 しかし、差し戻し控訴審で被告は「無我夢中で弥生さんを押さえつけていた」と供述している》

 弁護人 「『夕夏ちゃんの首をひもで絞めて結んだ』という記載は」
 被告 「死因はぼくが(抱き上げようとして)床に落としてしまったせいと思っていたので、ひもは警察官の方から言ってきたと思う」
 弁護人 「『ひもで絞めた』とは言っていないのか」
 被告 「はい」
 弁護人 「弥生さんを姦淫したことは認めたのか」
 被告 「性行為があったことは認めた」
 弁護人 「翌日の検察官の取り調べでは」
 被告 「姦淫という言葉を知らなかったので、『裸にしてエッチな行為をした』と話したら、それをレイプと決めつけられた」
 弁護人 「この日の取り調べで、自分の言ったことがそのまま調書にとられていないという意識はもったか」
 被告 「はい。でも『生きて償いなさい』と言ってくれたことが嬉しくて、これだけ自分のことを考えてくれるのだから、と調書にサインした」

《休廷をはさみ、弁護人が交代》

 弁護人 「次は逆送後と1審の被告人質問での供述について。弁護人は選任していたが、逆送について説明はなかったのか」
 被告 「なかった」
 弁護人 「逆送後の調書には『強姦した』とあるが」
 被告 「調書の読み聞かせのときには『エッチした』と読まれているはず」
 弁護人 「弁護人に相談しなかった理由は」
 被告 「取り調べの人がいい加減なので、弁護人もいい加減と決め付けていた」
 弁護人 「1審の際に弁護人と打ち合わせは」
 被告 「なかった」
 弁護人 「父親は面会に来たか」
 被告 「2、3回来たが、『死ね』と言われた」
 弁護人 「罪状認否で『間違いない』と起訴事実を認めているが、そう答えることの意味は弁護人から聞いていたか」
 被告 「聞いていない」
 弁護人 「検察側の冒頭陳述を聞いていて、それが自分の記憶と違うとは思わなかったか」
 被告 「違和感はあったが、異議申し立てができる権利があることを知らなかったので、 していない」
 弁護人 「弁護方針について、弁護人から説明はあったか」
 被告 「無期懲役だろうから、変に争うよりも情状面で主張していくと言われた」
 弁護人 「調書の内容が違うと話したときの弁護人の反応は」
 被告 「頭を抱えていた。引っ繰り返すのは難しい、と」
 弁護人 「被告人質問についての打ち合わせは」
 被告 「なかった」
 弁護人 「弥生さんを死なせた経緯について、現在は『最初にスリーパーホールドをした後、 弥生さんから反撃されて2度目に押さえつけた』としているが、1審ではなぜそう供述して いないのか」
 被告 「弥生さんを死なせるまでに長い間かかっているのは残虐な感じがしたので、身勝手ながら途中の経緯をカットした」
 弁護人 「弥生さんを姦淫した理由を、生き返らせようとしたのではなく、性欲のためとしたのは」
 被告 「生き返らせようとしたと話せば、馬鹿にされると思ったから。人として扱われていなかったので、人として扱ってほしくて、人と共通する性欲だと説明した」
 弁護人 「人は生き返ると1審当時も信じていたのか」
 被告 「はい」
 弁護人 「遺体を押し入れに入れたことを『発覚を遅らせるため』としている。今は『ドラえもんが何とかしてくれると思った』と話しているが」
 被告 「ドラえもんの話は捜査段階でもしたのだが、馬鹿にされた。だから、裁判官の前では話をしかねた」
 弁護人 「求刑が死刑だったときはどう思った」
 被告 「『生きて償いなさい』と言ってくれた検事さんだったので、ショックだった」
 弁護人 「判決が無期懲役だったことは」
 被告 「人を死なせて無期でいいのかな、と思った」
 弁護人 「2審で問題になった不謹慎な手紙のことだが、相手は被告から受け取った手紙を捜査機関に提出しながら、9カ月も文通を続けていたことを知っていたか」
 被告 「知らなかった」 」( 9月18日22時19分配信 産経新聞


差戻し控訴審判決は、一・二審の裁判において新供述の内容とはまったく異なる事実認定がなされて進行していっているのに、元少年がそれを黙認・追認したことはあまりにも不合理・不自然だと繰り返し断じている。

もし自分が原因で2人の人物が死に至ったという事実がなかったならば、彼もいかに18歳とはいえ、目の前で進行している事態を黙って見ているというようなことはせず、必ず異議を述べただろう。彼は差戻し控訴審の被告人質問で「結果的に2人を殺めてしまっていることに変わりがないという認識を持っていたので,言い逃れのような気がして,弁護人に対し,殺すつもりがなかったという言葉を用いることができなかった」(第8回)、「罪状認否については,その意味合いを全く聞いていなかった」(同上)、「殺すつもりがあったかどうかが大切なことだということは全く分かっていなかった」(第9回)と述べている。この事件を起こすまでいわゆる非行少年ではなく警察沙汰を引き起こした経験もない彼にはそれまで取調べや裁判について知識を得る機会もなかっただろうし、彼のこの供述は事実をありのままに語っていると見て間違いはないように私には思われる。

差戻し控訴審判決は元少年の一・二審当時の態度について、「弁護人に対し,上記各判決で認定された事実が真実とは異なるなどとして,その心情を伝えたり,新供述で述べるような内容を話したりすることもなく,死刑を免れたとはいえ,無期懲役という極めて重い刑罰を甘受するということは到底考え難い。」とも断じているが、これは未成年であった元少年が当時置かれていた不穏な環境や不安な心理に対してあまりに理解と洞察を欠き、冷酷に過ぎる見方ではないだろうか。少年は当時から「死刑」という言葉が飛び交う環境のなかにいたのだ。弁護人は「無期懲役だろうから、変に争うよりも情状面で主張していく」と死刑判決回避を主眼とする方針を述べ、その上、父親からも「『死ね』と言われた」という元少年が孤立感のなかで、裁判の進行に不満と不信は持ちながらも、自分が2人の人物を死亡させたことが事実である以上、弁護人が暗に述べているごとくに彼自身も無期判決ならばよしとせねばならない、という心境になっていったとしても不思議ではないだろう。

著書に元少年の本名が明記されていることなどをめぐって被告・弁護側から提訴され、現在も裁判がつづいているという増田美智子氏のその著書には、差戻し控訴審で死刑判決を受けた後の元少年が面会に訪れた増田氏に対し一審当時を振り返って死刑を怖れる気持ちがあったと述べたことが記されている。また裁判が辛かった、傍聴人の視線が辛くて、一審でも二審でも弁護人に早く裁判を終わらせて欲しいと自分のほうから頼んだということも。彼は自分のほうからそのように頼んだのだから、裁判で事実関係を争わなかったのは必ずしも弁護人だけの責任ではないのだとも述べている。ーー当時の彼のうちにはあるいは法廷で記憶のとおりに話しても四方八方から直ぐに「嘘をついている」「反省がない」と決めつけられてその結果かえって重い判決が出たり、自分に対する世の中の指弾がさらにきびしくなる事態を予感し、それを恐れる気持ちがなかっただろうか。

何れにせよ、被害者遺族だけではなく傍聴人のきびしい視線を浴びつづけている法廷で、検察官が作成した調書には誤りがある、自分が行なったことは本当はそこに書かれていることとはちがう、と主張することは少年にとって容易いことではなかっただろう。私自身、18、19歳当時の自分をあえてこの少年の立場に置き換えて考えてみると、果たして記憶のとおりの事実をきちんと口にすることができたかどうか自信が持てない。まして当時の少年には頼りにできる肉親もいなかった。彼は上記のとおり面会に来た父親から死ねと言われたと述べているが、母親は彼が中学生のときに自殺してすでにいなかった。弁護人の考え・方針について触れると、一審の弁護人だけではなく、二審の弁護人も死刑判決回避が第一と考えていたようである。一・二審とも被告・弁護側は無期判決に対して控訴、上告をしていない。それをしたのは周知のように無期判決を不服とした検察だった。

一・二審の弁護人は少年からもっと具体的事実を引き出す姿勢を持つべきであった。これは明らかだと思うが、ただ当時の状況を思い起こすとそれはなかなか難しかっただろうとは思う。実際、一・二審で元少年に無期判決が言い渡されると、その都度世の中は被害者遺族にいたく同情的で、世論のごうごうたる非難は元少年と弁護人のみならず、無期 判決を言い渡した裁判官にまでおよんだ。このような事情・背景のすべてを差戻し控訴審の裁判官は黙殺し、元少年の供述の変化をただただ「不合理、不自然」として非難・一蹴しているが、裁判官のこの姿勢を見ると、未成年者を裁く裁判官としての見識・包容力の欠如を感じざるをえない。上記では「上告審の公判期日が指定されるまで維持してい た旧供述を翻したのは,まことに不自然である 」と述べ、別の箇所ではもっと直接に「元少年は (略) 死刑を免れたいと虚偽の弁解をろうしている 」と、元少年に対して「上告審の公判期日が指定される」ことがなければ、供述を翻すことはなかっただろう、上告審の公判期日を告げられたことで無期判決が覆る恐れを感じ、慌てて嘘の新供述を作り出 したのだろう、と言わんばかりの判示は、ここから死刑判決が導き出されたことを考えるとあまりに重大で見過ごせない。「上告審の公判期日が指定され」ることがなければ、 この時期に元少年が公に供述を一変させることがなかっただろうことは、確かに判示のとおりだ。それがなければ公の場で陳述する機会は元少年にはもうなかっただろうから。しかし「上告審の公判期日が指定され 」たことは、このために「虚偽の弁解をろう」することになったという裁判官の判断とまったく逆に、元少年のあらゆる迷いや気後れを吹っ切り、公然と真実を述べる契機になったということも当然考えられる。元少年が新供述を語り始めたのは二審の無期判決 (2002年3月14日 、広島高裁は検察の控訴を棄却) 後のようであるが、その辺りの経緯をはなはだ簡単ながら時系列で記しておきたい。

「 1. 2004年(平成16年) 元少年は広島拘置所で教戒師に出会う。元少年によると、この人物に彼は一・二審判決における事実認定の誤りと事件の真相を初めて打ち明ける。

2. 2006年(平成18年) 最高裁第三小法廷は検察の上告に対し、3月14日に口頭弁論を開くことを決定。2月27日、安田・安達両弁護士が元少年に初めて面会。元少年は事件に ついて教戒師に話した内容を両弁護士に告げる。両弁護士、弁護人に就任。 最高裁に口頭弁論の準備が整っていないことを理由に口頭弁論の期日延期を申し出たが、最高裁はこ れを一蹴。弁護人は3月14日の弁論を欠席。巷でははげしい弁護人非難が沸き起こるが、口頭弁論は日を改めて4月18日に開かれた。この弁論で最も重要だったことは、弁護人が 裁判記録を読み、専門家(上野正彦氏)にも意見を聞き、教えを受けながら事件を検証していった結果、これはまだ端緒についたばかりの検証だと断りながらも、2月27日に元 少年が語った新供述は裁きり判記録のなかの死体の傷と一致していることを確認したと述べたことだろう。上野正彦氏も元少年の新供述を真実と認めたことは差戻し審での上野 氏の証言を見れば分かる。6月、最高裁は広島高裁の判決を破棄し、同高裁に審理を差し戻す。

3. 2007年(平成19年) 5月、広島高裁で差戻し控訴審開始。被告人と20数名に膨らんだ弁護人は、これまで裁判所に事実として認められてきた排水検査員を装っての強姦計画 を否定。被害者母子に対する殺害の意思を否定。両手で力いっぱい被害者の頸を絞めたことや、赤ちゃんの身体を床に叩き付けたことなどの殺害態様を否定した。「 7月25日、 法医鑑定をした二人の専門家が法廷に立ち、一人目の大野曜吉教授(日本医科大大学院)によると、「捜査段階で男性被告が自白した殺害方法は遺体に残された損傷と整合しな い」などと証言、差戻し審での被告の証言と一致するとの判断を示した。 上野正彦元東京都監察医務院長は、右手を逆手にして弥生さんの首を押さえたなどとする差戻し審での 被告の供述は「(遺体の状況と)一致する」」(中国新聞)と指摘した。「7月26日、 元少年の精神鑑定を行なった精神科医の野田正彰関西学院大教授が法廷に立ち、「元少年の人格発達は極めて遅れており、他の18歳の少年と同じ責任を問うのは難しい。」「元少年の父親が妻と元少年に繰り返し暴力を振るっていたことが、元少年の内面に大きな影響を与えた」と指摘。その上で「事件当時までの人格発達は極めて遅れており、 更に母親の自殺で停滞した」と述べた。 」(毎日新聞7月26日)。

4. 2008年(平成20年) 4月22日、差戻し控訴審死刑判決

5. 2012年(平成24年) 3月22日、上告棄却。死刑確定 」

事件を正確に見る上では、上記 1. から 3.に至る出来事の順序を時間に沿ってきちんと把握することはきわめて重要だ。元少年の供述の変遷を見ると、ここには成人に較べて知恵や 分別に欠ける未熟な少年を密室でたった一人捜査陣が相対して取り調べることや、公開の場で少年を裁くことの危険と弊害が明瞭に顕れているように思われる。このことの問題 性は、元少年の新供述をどのように受け止めるかは別において、誰の目にも明らかではないだろうか。強姦の計画、被害者に対する殺意、残忍な殺害態様などの現在事実と認定 されているものの証拠はほぼすべて少年の捜査段階の供述調書であり、法廷では少年がまともに口を開いて事件について具体的に発言した場面はほとんどなかったのだ。こうし て元少年が新供述を話し始めた事実経過およびその供述内容を見ると、繰り返しになるが、先に引用した差戻し審の判決はまったく不合理であり、改めて首を傾げざるをえな い。初対面の元少年が事件の真実として話した内容を聞いて帰った弁護人が記録と照合してみると、被害者の死体所見は取調べ段階での元少年の自白調書、すなわち裁判所もこ れまでずっと疑いのない事実として認めてきた内容と整合しているのではなく、元少年が初面会で真実として話した内容と整合しているように見えたこと、この見解は専門家か らの賛同も得たこと、そして法廷ではこの専門家もふくめた2人の法医学者が揃って死体所見は元少年の自白調書と整合しているのではなく、差戻し審における新供述と整合し ていると傍目にも確信的な言葉遣いで証言したこと。これらの事実はたとえようもなく重要だろう。刑事裁判ではしばしばある事実が秘密の暴露であるかどうか、つまりその 「ある事実」は本当に「犯人でしか知りえない事実」であるかどうかが問題になるが、この事件における元少年の場合、新旧の供述内容、旧供述から新供述への転換の経緯、転 換に際しての説明内容などを見ると、彼の新供述は一種の秘密の暴露たりえているように思う。元少年が話した新供述は、弁護人だけでなく(20数人の弁護人が結集したのも元少年の新供述に真実性を感じた、見いだしたという点を抜きには語れないだろう。)、2人の法医学者からも死体の所見と整合していると太鼓判を押されたのである。

「  認定事実への疑問証言=弁護側の法医学者、光市母子殺害-広島高裁
 山口県光市の母子殺害事件で、殺人などの罪に問われ、最高裁が一、二審の無期懲役判決を破棄した当時18歳少年で元会社員の被告(26)の差し戻し控訴審第6回公判が2 5日、広島高裁(楢崎康英裁判長)で開かれた。弁護側証人の法医学者2人が、被告の捜査段階の自白は遺体の鑑定結果と整合しないとして、最高裁が認定した犯罪事実を否定 する証言をした。 大野曜吉日本医科大教授(法医学)は、殺害されたYさんについて「首に両手で絞められた形跡は見られない」と説明。あごに残る円形の傷は、 被告が背後か ら腕で首を絞めた際、作業着袖の金属製ボタンが当たったと考えられるとした。 長女(11カ月)=を床にたたき付けたとする点には「(事実なら)脳に損傷があるはずだ」と 否定。「首の後部でひもを強く絞めた跡はない」とも述べた。 上野正彦元東京都監察医務院長(同)は、右手を逆手にしてYさんの首を押さえたなどとする差し戻し審での被告の供述は「(遺体の状況と)一致する」と証言した。(時事通信社 2007/07/25/21:08 )

 「首の傷自白と合わず」 光母子殺害事件で法医学者証言
 光市母子殺害事件で殺人などの罪に問われ、最高裁で無期懲役の判決を破棄、審理を広島高裁に差し戻された犯行時18歳の男性被告(26)の差し戻し審の公判が25日、広島高 裁であった。弁護側が法医鑑定を依頼した専門家二人が証人として「(被告が捜査段階で自白した) 殺害方法は遺体の状況とは合致しない」との見方を示し、いずれも差戻し審 での弁護側の主張に沿う証言をした。 日本医科大大学院の大野曜吉教授(法医学)と法医学者で東京都監察医務院の上野正彦元院長。 弁護側の尋問で、二人は遺体の状況や司法 解剖の鑑定資料に基づく自身の鑑定結果を踏まえ、Yさんの首に残された傷に「不自然な点がある」などと説明。傷の位置や形状が「馬乗りになり、全体重をかけ両手で首を絞 め続けた」とする捜査段階の被告の自白と合わないと述べた。 上野元院長は「右の逆手で押さえたと推測できる」などと主張。大野教授も、押さえたのは片手だったとの見方を 示し、「大声を出されて右の逆手で口をふさごうとした際、首にずれて誤って死なせた」とする弁護側の主張に沿う発言をした。 二人は長女=当時11カ月=殺害に関する被告 の捜査段階の自白にも矛盾点があると説明。「頭上から床にたたき落とした」との自白は「脳に重い症状が出ていない」 などとして疑念を呈した。 大野教授は「Yちゃんの首に 巻いたひもを力いっぱい引っぱって絞めた」との自白も「強く引っ張ったような所見はない」などと説明した。 公判は26日も続き、弁護側が申請した精神鑑定の証人尋問などが あった。 (中国新聞 2007/07/26) 」

上野氏は差戻し審で証言台に立たれた数日後、テレビのインタビューを受けておられたが、そのとき「死体検案書と供述調書とは、本来、印鑑と押印した刻印の関係のように両 者はピッタリ一致していなければならない。しかしあの事件の場合、被告人の自白調書は遺体の傷と一致していないんです。差戻し審での供述は一致しています。」と、遺体に 残された傷を指し示しながら説明されていた。素人の私などには正確に理解するのが難しい内容には違いなかったが、しかし、指先が白くなるまで両手で被害者女性の頸を絞め つづけた痕跡、頭上から被害児の頭部を下にして思い切り床に叩き付けた痕跡は死体検案書にないことを具体的に指摘されると、全然理解できないということではなかったよう に思う。これは経験豊かな法医学者にとっては特に難しい事案でもない、専門家なら基礎的な能力で判断が可能な範疇のことではなかったのだろうか。その後、私たちは元少年 の供述の変化・新供述の内容について不合理・不自然・虚偽の供述と断定した差戻し控訴審の死刑判決を見たわけだが、私には今になっても依然として、いや今になるとなおさ ら、この経過自体が改めて摩訶不思議なことに思えてくる。「元少年の旧供述は遺体の傷に一致せず、新供述は一致している」と断言する上野氏も、また大野教授も、そして弁護人も、元少年が供述を一変させ、これが真実だと一つ一つについて述べるところの話を聞いた後に、初めて元少年のその供述が果たして事実であるかどうかを検証する目的で死体検案書を見たのだ。その結果、元少年が現在真実として語っているその新供述が死体検案書とピッタリ一致していること、逆に捜査段階に録取された自白調書は一致していないことを確認した、あるいはそのような判断を持った。

これが実際に起きた出来事の事実経過である。差戻し控訴審判決が述べているとおりにもし元少年が死刑逃れのために虚偽の供述を始めたのだとしたら、初対面の弁護士から「事件についてもう一度自分の口で一から話して欲しい」と言われた元少年がその場で語った具体的・詳細な供述がなぜその弁護士のみならず、実績と定評のある法医学者2人もの人物から「遺体の傷は自白調書とではなく、新供述と一致している」という確言を得ることができたのだろう。何もかも偶然の一致? 付け加えておくと、元少年のこの供述の変化は誰にとってもまったく思いがけなく起きたものだったはずだ。経緯を見れば、このことに疑いの余地はないだろう。

ところがこれに関連して差戻し控訴審判決は何やら新弁護人が元少年を唆してストーリーを捏造したかのような仄めかしをしている。裁判官はいったいどのような根拠を持ってそのような不合理きわまりない奇説を述べているのだろう。これまでこの裁判と無縁であった弁護人がなぜ就任するかしないかのうちに重大事件のストーリーを捏造するなどという世にも愚かかつ危険な行為を行なう必要があるのかという基礎的疑問もさることながら、法医学者から「遺体の傷と元少年の新供述は印鑑と印形のように一致している」と太鼓判をおされるほどの架空のストーリーを、事件を体験していない弁護人がなぜ創れるのだろう。これも偶然の一致なのだろうか? だとしたら元少年の新供述をめぐる一連の経緯は万に一つの偶然の一致どころの話ではない。億に一つ、京に一つの偶然が一斉に10も20もずらずらと生じ積み重なった末の偶然の一致ということになりそうだ。そのことを承知している裁判官は、判決を書く上で、「死刑廃止のために弁護団が事件を利用している」という一部世論の無根拠・無責任な声を素知らぬ風で利用したように思える。
2012.04.10 Tue l 裁判 l コメント (0) トラックバック (1) l top
最高裁判決は元少年について「差戻し控訴審で、故意や殺害態様について不合理な弁解をして」いると断定しているが、この断定に私はいくつかの疑問をもっている。そのうち前回は元少年が排水検査員を装い、社宅アパートを回って歩いた行為について、そのときの彼には強姦の計画も意思もまるでなかったのではないか、差戻し控訴審で彼が述べたとおり、それは友達と待ち合わせの約束をした3時までの時間潰しや寂しさをまぎらわすための、ふとした思い付きの行為に間違いないのではないか、つまり彼のこの行為のなかに強姦に関する故意(計画・意思)の存在を見るのはどうやっても無理・不自然・不合理にみえると述べた。「故意」の範疇にはこの件の他に元少年が被害者宅を訪れた後の出来事が入ることは間違いないと思われるので、今日はそちらに移りたい。

元少年の行為によって2人の人物が死に至らしめられたこと自体は残念ながら紛れもない事実なのだが、彼のその行為ははたして故意であったか、あるいはそうではなかったかということの判断において、最高裁を初めとして5回の審理を数えた裁判所の判決はすべて「故意」ということであった。一審の山口地裁では取り調べ段階における元少年の自白調書を基にして「故意」の事実認定がなされた。それに対して被告・弁護側は一・二審ともほとんど争わなかったので、差戻し控訴審の判決要旨は項目「新供述の信用性」のなかで、

「 元少年はほぼ一貫して起訴事実を認めていたが(最高裁が差し戻して以降)供述を一変させた。当裁判所は、新供述の信用性を判断するため証人尋問も行った。/ 旧供述を翻して新供述をした理由に関する元少年の供述は不自然、不合理である。新供述と旧供述とは、事実経過や殺害行為の態様、殺意や乱暴の犯意の有無などが全く異なっている。 /公訴提起されてから(最高裁判決前に選任された)安田好弘弁護士らが弁護人に選任されるまでの6年半以上もの間、それまでの弁護人に対し、新供述のような話を一回もしたことがないというのは、あまりにも不自然。初めて接見した安田弁護士らから事件のことを話すよう言われて、新供述を始めたのも不自然だが、元少年は納得できる説明をしていない。 」(/は改行箇所)

との判示をしているのだが、しかし元少年は争いこそしなかったが、一審では2回行なわれた被告人質問で、被害者女性殺害について「最初は考える力がありましたが、やっぱりすごく抵抗されるし、大声を出されるので頭の中が真っ白になるというか、何も考えないというか、とにかく声だけをとめようというふうなことしか考えられなくなって、声をとめるにはどうしようかなという感じも、その時には冷静に判断できなくて、首を絞めるはめになりました」、被害児については「押し入れの中とか、お風呂場のところとか試してみたけど、お風呂場はすごく響いて、押し入れの中も大して変わらなかったので、どんどん、どんどん、腹が立ってきて、殺してしまうようなはめになってしまいました」と供述しており、「冷静に判断できなくて、首を絞めるはめになりました」「腹が立ってきて、殺してしまうようなはめになってしまいました」という言い方はすでに何人もの人から指摘されているように、見方によっては自白調書ーすなわち裁判所の事実認定よりも、差戻し控訴審で元少年がそれまでの供述を翻して新たに主張を始めた供述内容に近似しているように思える。指先が真っ白になるまで被害者の頸を両手で絞め続けた、とか、頭上から被害児を床に叩き付けた、といった明確に殺意の存在を表わしている自白調書とはずいぶん様相が異なっている。しかしこの証言が法廷で真剣に受け止められることも注目されることもなく、 元少年は公訴事実をそのまま認めたことになっている。一審の無期判決を不服として広島高裁に控訴したのは検察だけであり、その広島高裁では元少年が友人に出した罰当たりと言うべき不謹慎な手紙が注目を浴びる結果になったことも影響したのか、元少年の犯罪態様が改めて審理の対象になることは一切なかったようである。

しかし差戻し控訴審においては周知のように集中審理が十分な時間をかけて行なわれ、元少年も主張したいことはかなりの程度主張することができたように思える。法廷で明らかになった事実を基に「殺害についての故意」ーー殺意について考えていくことにするが、ただ殺意の有無という問題は、彼がどのようにして2人の被害者を死に至らしめたかという態様の問題と切り離して考えることはできない。よってこの問題は、殺害態様の問題と一緒にして取り上げる。最高裁判決は(差戻し控訴審判決も同じだが)元少年について「差戻し控訴審で、故意や殺害態様について不合理な弁解をして」いると断定し、それが元少年の死刑判決の主な理由にされているので、この件はよくよく検討される必要があると思うのだが、そうは言っても、この事件には関係者も目撃者もいない。その上、殺意という問題は結局は個人の内面に属する分野のことであり、場合によってはその有無は当の本人にだって完全には捉え切れない場合だってあるだろう。本当に難しい問題なのだが、しかしこうして元少年に確実に殺意が有ったと認定され、その結果元少年に死刑確定判決が出たとなると、それに対して持っている疑問をしまいこんでおくという気にはなれない。それ故あえて取りあげるしだいである。

若い母親である女性と赤ちゃんへの殺意が少年に存在したかどうか。この事件の内容が詳しく報じられたとき、あるいは同様に感じた人も多かったかと思うが、私が最もショックを感じたのは少年が赤ちゃんを頭上から床に思いきり叩き付けたということに対してであった。第一審山口地裁の判決文には「被告人は、泣き止まない被害児に激昂して、同児の殺害を決意し、同児を頭上から頭部を下にして床に思い切り叩き付け、両手で同児の首を絞め、遂には、持参した紐を同児の頸部に二重に巻き付け、その両端を力一杯引っ張って絞殺した」とある。「(被害児の)頭部を下にして」とあるのが特に異様である。最初は新聞で読んだのだったかと思うが、赤ちゃんを自分の頭上高く持ち上げて今にも床めがけて叩き付けようとしている血走った目をした若い男性の姿が目に浮かんだ。わずか18歳の少年の内面がどうすればそこまで荒むことができたのだろうと思った。戦場で敵側の人間を自分と同じ人間とは感じられなくなって残虐行為を平然と為す兵士の話を聞くことがあるが、ちょうどそういう出来事を聞くようであった。もちろん、育児に疲れきった親のなかには赤ちゃんを乱暴に扱って死なせるような事件が時々報道されるけれども、それはおそらくは親が育児の悩みなどで神経をギリギリまで疲労させ、追い詰められる経過をたどった末の錯乱・混乱状態がさせることで、この場合とは事情が本質的に異なるし、行動もこんなふうにはならない。赤ちゃんの柔らかな身体やその無防備さを前にして、いくら泣いたとはいえ、伝えられる少年の振る舞いからは、抑制不能のそら恐ろしいばかりの激情・激怒、極度の捨て鉢、パサパサに乾き切った殺伐とした内面を感じさせられて、何とも言いようのない気がした。これまで青少年による犯罪報道でこのような行為が報告されたことがあったのだろうか。私は聞いた記憶がないのだが…。

差戻し控訴審に入って以後、元少年は社宅アパートを訪れた動機についてそれまで認めていた強姦目的の訪問という供述を否認し、また被害者宅に招じ入れてもらった後も強姦の意思はなかった、同様に被害者2人に対する殺意についても、一転殺意はなかったと否認した。また、被害者女性の頸を絞めてもいない、赤ちゃんを床に叩き付けてもいない、とこれも過去の自分の供述を明確に否定した。こうした被告人の供述の一変という出来事を知らされたとき、私たちはこれを青天の霹靂であるかのように驚きを持って聞いたのだが、それは裁判所も同様だったようだ。ただ裁判所は差し戻し控訴審判決も最高裁判決も揃って元少年のこの新供述は著しく不自然・不合理であり、これは死刑を免れるための嘘だと断じていて、前述したように私などはこの判示に疑問をおぼえるのだが、以下に殺意と殺害態様に関しての疑問を2点挙げておきたい。1つ目は広島拘置所の教戒師に関すること、2点目は検察官のことである。

 ① 差戻し控訴審判決は、上記の判決要旨の「新供述の信用性」で引用したとおり、「安田好弘弁護士らが弁護人に選任されるまでの6年半以上もの間、それまでの弁護人に対 し、新供述のような話を一回もしたことがないというのは、あまりにも不自然。初めて接見した安田弁護士らから事件のことを話すよう言われて、新供述を始めたのも不自然だが、元少年は納得できる説明をしていない。 」と判示しているが、元少年は差戻し控訴審の被告人質問で、一審の弁護人に被害者宅を訪問したのは強姦目的ではなかったと話してみたが、「無期懲役だろうから、変に争うよりも情状面で主張していくと言われた」と答えている。一審の弁護人について私は何も知らないのだが、ただ日本の裁判は被告人が公訴事実に異議を唱えて争う姿勢を見せると、裁判所から「被告人には反省がない」と判示されてかえって重刑が言い渡される、という話は一般社会でもよく耳にすることで ある。実際この事件でも差し戻し控訴審、最高裁と元少年にはまったく反省がないとの判示がなされている。弁護人が被告人の言い分をよく聞こうとせず、「変に争うよりも…」という考えで被告人の言い分を抑えることは本来なら確かに酷いことと思うが、しかし「おとなしく検察と裁判所に従っていれば無期刑で済んだかも知れないのになまじ本当のことを言って争ったがために被告人に死刑判決が出てしまった」というのが司法の現状ならば、一概に弁護人ばかりを弱腰とか無責任と言って責めるのも酷なのではないだろうか。そしてこの事件の場合、二審の弁護人の心境も一審の弁護人の「変に争うよりも…」という心境と大同小異だったのではないだろうか。私は被害者遺族が被告人を極刑に処してほしいという意思を述べるのは遺族として無理のないことだとも思うが、ただ裁判は第一に被告人を公正・適正に裁くための場なのだから、ただでさえ萎縮し法廷という場が苦痛であるに違いない被告・弁護側が萎縮し切って審理に異議も述べられないような状態は本当にまずいと思う。元少年は裁判が苦痛だったので、一審・二審とも弁護人に「早く裁判を終わらせて欲しい」と頼んだとも述べているが、これは偽らざる本心だったろう。

差戻し控訴審の判決文を読んでいると、裁判官にはこの事件を引き起こしたのは18歳になったばかりの、それも家裁の調査員から精神年齢の驚くべき低さを指摘された少年だということがほとんど眼中にないように思える。相手が40歳、50歳の人間なら求めてもいいかも知れない分別を元少年にごく当然のごとくに要求し、それが得られないと言って少年を責めているように見える。たとえば、裁判官は「元少年は納得できる説明をしていない」と述べている。私にはこの意味がよく分からない。また、納得できる、できない、の主体は誰なのだろう。裁判官なのか、被害者遺族なのか、それとも一般市民をもふくめた「社会全体」のことなのだろうか。それも判然としないのだが、私などは、たとえば赤ちゃんを「頭上から床に思い切り叩き付けるようなことはしていない」との元少年の新供述には直感もふくめてのことだが、相当深く納得させられるものがあった。前述したことだが、一歳未満の乳児を自分の頭上から、しかも乳児の頭部を下にして、思い切り床に叩き付ける、という暴力の振るい方には、精神の荒廃が極限に達している、救いようがないほど捨て鉢になってしまった果ての心象を想像させられて戦慄したのだが、その後元少年のそれまでの生活状態を伝え聞いたり、法廷での言動を報道で見ると、自白に見られるような尖鋭な暴力の振るい方をする性格とは異質の少年のように感じられた。有名なあの不埒・不謹慎な手紙のことだが、あの手紙が死者を冒涜し、遺族の癒えない傷口にさらに塩をもみこむような行為であったことは明らかで、あれでは遺族がさらにきびしい刑罰を望むようになるのも当然かも知れないと思う。第三者から見てもあの手紙は読むに堪えない文面だったのだが、ただその不埒さは罪の意識や責任感の欠如を窺わせる軽薄さや幼稚さや迎合心の横溢などに起因するものであって、判決に叙述されている2人の被害者に対する殺害態様とは結びつきにくいものがあった。殺害態様にみえる鋭角に尖った執拗・凄惨な暴力の雰囲気・気配があの手紙にはほとんど感じられず、その点はちょっと拍子抜けと言うべきか、意外な印象を受けたのであった。

差戻し控訴審の裁判官は元少年の新供述および彼がそれを口にしたタイミング・経緯について判決の主文でも言及し、その不自然・不合理性を難じているが、けれども裁判官がそれほどまでに元少年の新供述に不審を感じていたのなら、元少年は安田弁護士らに話すより一年も早く新供述をその人にすでに打ち明けていたという広島拘置所の教戒師を証人として法廷に招んだら良かったのにと思わずにいられない。なぜ、招ばなかったのだろう。被告・弁護側は裁判所にこの人物の証人尋問の要請を出したのに裁判所は必要なしと退けている。もしこの証人尋問が実行されていれば、元少年についても、事件についてもいろいろなことが明瞭になったかも知れないと惜しまれる。 判決要旨の 【酌量すべき事情】 のなかには、「上告審で公判期日が指定された後、元少年は旧供述を一変させた。死刑を免れたいと虚偽の弁解をろうしているというほかない 」との文言があるが、もし教戒師が証言台に立っていたなら、この場合元少年が嘘を述べているとは考えにくいので、おそらく裁判官はこういう文言を判決に書き込むことはなかっただろう。裁判官のこのような矛盾した言動を見ると、被告・弁護側が要請した2人の法医学者による殺害態様についての証言、元少年の精神鑑定と 犯罪心理鑑定を行なった2人の精神科医の証言など、専門家による元少年にきわめて有利な証言が相次いだことで、裁判所はあるいはもうこれ以上元少年に有利な証言はさせられないと考えて教戒師の証言を許可しなかったのではないかと疑いたくなる。差戻し控訴審の被告人質問(第8回)から教戒師に関する元少年の応答を下に引用しておく。

弁護人  「上告審の段階で、(現在の主任弁護人の)安田弁護士らと初めて会ったのは平成18年2月か」
被告  「はい」
弁護人  「事件の事実関係について聞かれたか」
被告  「ぼくの方から話した。ただ、安田先生に言う前に教戒師の先生にも同じことを話している」
弁護人  「教戒師に話せたので、安田弁護士にも話せた面があるのか」
被告  「はい。教戒師に会うまでは人間不信のような感じだった。そうでなければ、安田先生にも話すことができたか分からない」

②の検察官の件は次回に廻したい。

2012.03.19 Mon l 裁判 l コメント (7) トラックバック (0) l top
光市母子殺害事件の最高裁判決は元少年の上告を棄却する理由の第一番目に、彼が「差戻し控訴審で、故意や殺害態様について不合理な弁解をしており、真摯(しんし)な反省の情をうかがうことはできない。」点を挙げている。判決が指摘する「不合理な弁解」のうちの「故意」の問題については前回すこし取り上げた。被害者方を訪れる前にアパートの呼び鈴を押して回った行動について、元少年は差戻し控訴審に入ってからそれまで認めていた「美人な奥さんと無理矢理にでもセックスをしたいと思って」との自白を否定し、「戸別訪問をしたのは人との会話を通じて寂しさを紛らわせるなどのためであり,強姦を目的とした女性物色行為ではなかった」と新たな供述を行なった。最高裁がいう 「故意」についての「不合理な弁解」とはおそらくまず第一にこの供述の変化および新たな供述内容を指しているのだと思われるが、この件について私は前回元少年のそれまでの供述より新供述のほうがはるかに自然で合理的であるように思えると述べた。

その理由は、少年にはこれまで一度も女性との交際・交渉の経験がないこと、 彼は普段少数の友達とゲームをして遊ぶことが多かったらしいが、家庭や学校の内外で女性を襲ったり追跡するなどの性に関する問題行動はまったく報告されていないこと、小学生や中学下級生くらいまでの少年のなかには悪戯や退屈凌ぎのために余所の家のチャイムを鳴らし、家人が玄関に出て行くと隠れたり逃げたりするような行動をする子が時々いるが、 家庭裁判所の「少年記録」に「IQは正常範囲だが、精神年齢は4,5歳」 と書かれていたことが示すように実年齢より精神が幼かったことは明白と思われる彼には友達と待ち合わせの約束をした3時までの時間潰しのためにこのような着想をしたとしてもさしてギャップは感じられないこと、当時の彼が家族には会社に行っていると思わせながら入社したての会社を休みつづけていたことはたとえ無意識にせよ相当な疎外感や罪悪感などの不安が彼の内部を占領していたにちがいなく、これらを考え合わせると、時間潰しの他に気分転換や漠然とした人恋しさのためにアパートの呼び鈴を押し、声を掛けて歩いたという説明のほうが、たとえ彼のなかに女性や性への関心・欲求があったとしても、強姦目的の行動と説かれるよりははるかにリアリティと自然さを感じる。

今回の最高裁の上告棄却は3対1の多数決で決定されたそうだ。上告棄却に反対して再度の審理差戻しを主張した宮川光治裁判官の反対意見、 多数派の金築誠志裁判官の補足意見については後で言及したいと思うが、ここでは最高裁が支持した差戻し控訴審は少年のアパート訪問の動機についてどのような判断をしたかをもう少し細かく見てみたい。数字の①、 ②は引用者加筆。

 ① 「 野田教授は、強姦という極めて暴力的な性交は一般的に性経験のある者の行為であり、性体験がなく、性体験を強く望んで行動していたこともない少年が突然、計画的な強姦に駆り立てられるとは考えにくいなどとして、強姦目的の犯行であることに疑問を呈している。 しかし一般論として、性体験のない者が計画的な強姦に及ぶことは、およそあり得ないなど言えない。」(差戻し控訴審判決)

 ② 「 犯行計画というものは、その程度がさまざまである。本件のように、襲う相手も特定されておらず、相手を襲う場所となるはずの相手の住居も、その中の様子も分からないという場合、 犯行計画といっても、それは一応のものであって、実際には、その場の状況や相手の抵抗の度合いによって臨機応変に実行行為がなされるもので、あらかじめ決めたとおりに実行するというようなことが希であることは多言を要しない。」( 同 上 )

① について。元少年の精神鑑定を行なった精神科医の野田氏は法廷で、性経験を持たない少年が白昼近所のアパートを訪問して女性を探し、強姦してでも性行したいという衝動に駆り立てられることは考えにくい、と元少年の日常やその時・その場の状況を前提に置いて証言しているのに対し、判決は「しかし一般論として、性体験のない者が計画的な強姦に及ぶことは、およそあり得ないなど言えない。」と反論している。しかしこれは反論にもならない無意味な発言ではないだろうか。野田氏の見解は経験則・論理則の見地からみてごく常識的な内容のものだろう。これに反論し、その証言を退けるのに「およそあり得ないなど言えない。」の一言で済むのなら、裁判官の仕事は誰にでもできると思われる。そりゃあ確かに「性体験のない者が計画的な強姦に及ぶこと」がないとは言えないので、それ自体は誤りではないだろう。けれどもそのとき元少年にはいかなる意味でも具体的な対象・目当ての女性が皆無なのだ。相手が知人や顔見知りの間柄の場合は何かの機会に偶然二人だけになったのを利用して乱暴したり、赤の他人の場合は、たとえば夜道で偶然すれちがった初対面の女性を人通りが絶えているのをいいことに暴力的に暗がりに引きずり込む、など(イヤな話ばかりで恐縮だが)、ともかく相手の意思を一切無視し蔑ろにすれば自分の欲望のままに暴行が可能と思える状況ーー別の面からいうと、具体的に相手の顔・姿を確認している(もしくは、確認した)状態ーーがあってはじめて強姦の意思は形成されるのではないかと思う。しかし今少年の目の前にあるのは昼間の社宅アパートの建物であり、彼に女性との性経験がないのであればなおさら、この場で強姦も辞さないほどの強烈な欲望に駆られ、即、その実現のために排水検査員を装うという計画を立て(朝から会社の作業服を着ていることも暴行計画に利用できるとただちに思い付き)、すかさず行動に移したというこの判決はちょっと納得しがたい。被害者女性が23歳の若い母親だったために、私たちは実際にそのアパートにそういう女性が住んでいることを知っているが、おばさんやおばあさんばかりが住んでいることもありえる。少年がこのとき何の具体的手がかりもないのに抽象的な「美人な奥さん」が住んでいると妄想し、その妄想を「襲う」というところまで膨らませていったというのは現実問題としてひどく無理があると思う。それにもし彼が呼び鈴を押して回って女性を物色し、強姦してでも目的を遂げようとしたというのなら、むしろこれまでの彼が何らその種の問題行動を起こしていないことの説明がつかないと思う。

②については、この部分の判決文を書きながら裁判官は不審を感じなかったのかと私は読みながら大変不審に思った。「本件のように、襲う相手も特定されておらず、相手を襲う場所となるはずの相手の住居も、その中の様子も分からないという場合、 犯行計画といっても、それは一応のものであって、 」という判決文には今も不思議の感に耐えない。 判決文中の「襲う」を「強盗する」に置き換えて考えてみれば、この判示の奇妙さがよく判ると思う。「襲う相手も」「場所となるはずの相手の住居も」「その中の様子も分からない 」 強盗計画がもしありえないのであれば、同様の強姦計画もありえないのではないだろうか。少年はアパートの各戸住人に対し、「玄関で「排水検査に来ました。トイレの水を流してください。」などと言うのみで、その住民が水を流して玄関に戻っても、会話しようという素振りもなく立ち去ったり、住民がトイレの水を流している間に玄関に戻って来るのを待つことなく立ち去っている。」という態度だったそうで、その素っ気なさを捉えて裁判所は「寂しさをまぎらわせるためなどの訪問だった」との供述と合致していないことを指摘し、新供述の信憑性を否定しているが、人とのコミュニケーションがそんなに自分の計画どおり、思いどおりに行くのなら、少年は昼間からこんなところでぶらぶらしておらず、入社した会社にちゃんと通勤していただろうし、このような事件を起こすこともなかっただろう。アパートでの彼の態度は、もしも彼が強姦計画を持っていたと仮定すると、私は裁判官とは逆に少年の態度の大っぴらさにむしろ驚く。多くの住人に対して会社の作業服を着て、顔をさらし、なりすました排水検査員としての言葉も発している。ここでちょっとでも騒ぎなどを起こせばたとえ逃げても自宅はすぐ近くなのだから身元が割れると考えなかったとしたら、そのほうがどうかしているだろう。アパートを回って歩く少年には強姦の計画も意思もなかったように私には思える。
2012.02.29 Wed l 裁判 l コメント (2) トラックバック (0) l top
周知のように、去る2月20日、最高裁は1999年に発生した光市母子殺害事件の元少年の上告を棄却した。最高裁が一・二審の無期判決を広島高裁に差し戻したのは2006年、広島高裁は2008年元少年に今度は死刑を宣告した。そして迎えた2度目の最高裁、通算5度目の判決は彼の死刑を確定するものとなった。事件が若い母親と1歳に満たない女児が白昼自宅で殺されるという痛ましいものだったこと、事件の数日後に容疑者として逮捕された人物が近くに住む18歳になったばかりの少年だったこと、一人遺された夫であり父親である男性が終始被告人への極刑を求めつづけたことなどにより、この裁判は世の大きな関心と反響を呼んできた。

今回の死刑確定判決に対して新聞(テレビは見ていないので不明)はおおむね「やむなし」の論調のようではあったが、予想したよりは多くの新聞(特に地方紙)で「これでいいのだろうか?」 という自問自答や懐疑の感じられる記事が書かれているように思った。ある地方紙は「光市事件」と題した短文のなかでカミュの「ギロチン」中の印象的なエピソードを引用して死刑の本質に光をあて、記事の終りを「鉛をのんだように胸が苦しい。」との文字で結んでいた。ほぼ全紙が共通して挙げている指摘もあった。この判決は今後の少年事件の判決に多大な影響をおよぼすだろう、少年犯罪に対して更なる厳罰化が推進されることになるだろう、という予測である。これまで少年事件における死刑判決は4人の死者を出した68年の永山事件を基準として判断されてきたが、これからは永山事件に替わってこの事件が少年犯罪の死刑基準になるだろうというわけである。この事件の死者は前述したように2人であった。

ここ10年ほど成人の死刑確定判決がおそろしい勢いで増えつづけている。少年事件も同じ道をたどるのだろうか。しかしこれは青少年および社会にとって有害無益な、決してあってはならないことだと思う。徹底して寛大さを欠いた厳罰一本槍の判決によって甚大な悪影響を受けるのは当事者少年だけではないだろう。人を残酷で卑怯な人間にすることは困難ではない。最も有効な方法は相手に卑怯な仕打ちを数多くあたえ、残酷な振る舞いを始終見せつけることである、と聞いたことがある。誰が言ったことかは知らないのだが、この言明はまったくの真理ではないだろうか。環境の影響を心身に直に受け入れざるをえない少年・少女への寛大さの欠如が何であれ良い成果を生み出すことはないだろう。じつは日本社会では殺人などの凶悪事件は年々減少をつづけているのだが、刑罰はこれに反比例して重くなりつづけている。ここ10年ほど無期もそうだが死刑は想像を絶する増え方である。日本社会ではもう一つ同じように増えつづけてこちらはただ今高留まり状態だが、きわめて深刻な実態と思われるのが毎年その数3万人を超える自殺者の問題である。日本社会における死刑と自殺者の増大にもおそらく関連があるのではないか。現在、自分のものもふくめて人の命がかけがえのないものという意識が私たちの内部からこれまでのどんな時代よりも希薄になってしまっている気がしてならない。

さてこの事件と判決についてとつとつ考えながら書いてみたいのだが、その前に元少年の実名報道について感想を述べると、これまで少年法の精神に照らしてメディア上では元少年の実名は伏せられていたが、今度の最高裁判決によって死刑が確定すると同時に朝日新聞をはじめ、読売、産経、日経、共同通信、NHK、テレビ朝日などの多くのメディアは実名報道に切り替えた。理由について、「死刑確定で社会復帰の可能性がほぼなくなった」「国家によって生命を奪われる死刑の対象者は実名が明らかにされているべき」などの弁明が目についたが、なかには「元少年の更生に留意する必要がなくなった」という主旨のものもあった。毎日新聞や中日新聞や多くの地方紙はこれまでどおりの匿名報道を継続。その理由は「毎日新聞は元少年の匿名報道を継続します。母子の尊い命が奪われた非道極まりない事件ですが、少年法の理念を尊重し匿名で報道するという原則を変更すべきではないと判断しました。/少年法は少年の更生を目的とし、死刑確定でその可能性がなくなるとの見方もありますが、 更生とは「反省・信仰などによって心持が根本的に変化すること」(広辞苑)をいい、元少年には今後も更生に向け事件を悔い、被害者・遺族に心から謝罪する姿勢が求められます。また今後、再審や恩赦が認められる可能性が全くないとは言い切れません。(毎日新聞 2012/02/20)」。毎日新聞のこの説明は朝日や読売の実名表記のための言い分とちがって筋がとおっている。一貫性と統一性が感じられる。願わくばいつもこのようであってほしいものだ (笑) 。読者の立場からこの問題を見ると、私たちが被告人の実名を知ったからといって益するものは別段何もないように思う。たとえば事件について考えたり人と議論する場合でも事件名や事件の内容に触れることで用はすべて足りるはずだ。実名表記についての朝日新聞などの言い分は表層的なもの、弁解じみたもので、とても人を得心させるものではないと感じた。では、次に20日の最高裁判決要旨を中日新聞から引用する。(/は改行部分)

 「 光市母子殺害事件の最高裁判決要旨
 20日に言い渡された光市母子殺害事件の最高裁判決の要旨は次の通り。
 犯行時18歳だった被告は暴行目的で被害者を窒息死させて殺害し、発覚を免れるために激しく泣き続けた生後11カ月の長女も床にたたきつけるなどした上で殺害した。甚だ悪質で、動機や経緯に酌量すべき点は全く認められない。何ら落ち度のない被害者らの尊厳を踏みにじり、生命を奪い去った犯行は、冷酷、残虐で非人間的。結果も極めて重大だ。 殺害後に遺体を押し入れに隠して発覚を遅らせようとしたばかりか、被害者の財布を盗むなど犯行後の情状も悪い。遺族の被害感情はしゅん烈を極めている。 差し戻し控訴審で、故意や殺害態様について不合理な弁解をしており、真摯(しんし)な反省の情をうかがうことはできない。平穏で幸せな生活を送っていた家庭の母子が白昼、自宅で 惨殺された事件として社会に大きな衝撃を与えた点も軽視できない。 以上の事情に照らすと、犯行時少年であったこと、被害者らの殺害を当初から計画していたものではないこと、前科がなく、更生の可能性もないとはいえないこと、遺族に対し謝罪文などを送付したことなどの酌むべき事情を十分考慮しても、刑事責任はあまりにも重大で、差し戻し控訴審判決の死刑の量刑は、是認せざるを得ない。

 【宮川光治裁判官の反対意見】 被告は犯行時18歳に達していたが、その年齢の少年に比べて、精神的・道徳的成熟度が相当程度に低く、幼い状態だったことをうかがわせる証拠が存在する。 精神的成熟度が18歳に達した少年としては相当程度に低いという事実が認定できるのであれば「死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情」に該当しうる。 被告の人格形成や精神の発達に何がどう影響を与えたのか、犯行時の精神的成熟度のレベルはどうだったかについて、少年調査記録などを的確に評価し、必要に応じて専門的知識を得るなどの審理を尽くし、再度、量刑判断を行う必要がある。審理を差し戻すのが相当だ。

 【金築誠志裁判官の補足意見】 人の精神的能力、作用は多方面にわたり、発達度は個人で偏りが避けられないのに、精神的成熟度の判断を可能にする客観的基準はあるだろうか。 少年法が死刑適用の可否について定めているのは18歳未満か以上かという形式的基準で、精神的成熟度の要件は求めていない。実質的な精神的成熟度を問題にした規定は存在せず、永山事件の最高裁判決も求めているとは解されない。 精神的成熟度は量刑判断の際、一般情状に属する要素として位置付けられるべきで、そうした観点から量刑判断をした差し戻し控訴審判決に、審理不尽の違法はない。」(中日新聞 2月 21日)

最高裁は08年の差し戻し高裁判決を全面的に支持し、「被告は暴行目的で女性を窒息させて殺害し、発覚を免れるために激しく泣き続けた生後11カ月の長女も床にたたきつけるなどした上で殺害した。」と断定していて、一審以来の裁判所の事実認定が今日まで一切変わっていないことが確認できる。けれどもこの事実認定が証拠に則した正確なものであるかというととてもそうは言えないように私には思えるのだが…。そもそも、最高裁段階で弁護人を依頼された2人の弁護士がともかく会ってみようと元少年にはじめて面会に行った際、彼に事実はどうだったのかをもう一度自分の口で最初から話してほしいと言うと、彼は裁判記録とまったく異なることを話し始めた。自分には殺意もなかったし、女の人を絞殺もしていない、赤ちゃんを床にたたきつけてもいない、などを述べたとのことである。その前後の経過についてのテレビ出演や弁論要旨などにおける弁護人の説明によると、面会後、元少年の話と裁判記録を照合し、専門家に相談もして検証を進めていくと、面会時に元少年が述べた内容はほぼぴったり記録と合致していた。これまで事実として裁判所に認定されて世の中に広く流布・喧伝され、それによって人々を震撼させたり憤怒をかき立ててきた彼の行為ーー女性に対し「親指を立て両手で全体重をかけて力いっぱい絞めたが死ななかったので、今度は両手を重ねて絞め、死に至らしめた。」、また子どもが泣き止まないので「激高して子どもを自分の頭上に持ち上げて床に叩きつけた。」などという取り調べ段階での被告人自身の供述調書とは別の事実が表に出てきたということであった。

上の「判決要旨」に見られるとおり 、最高裁は被告人について「差し戻し控訴審で、故意や殺害態様について不合理な弁解をしており、真摯な反省の情をうかがうことはできない。」と判示している。しかし、事件の「故意性」ということでいえば、経験則、論理則のどちらからいっても私には「18歳の少年が起こした事件は故意であった」という判断のほうがはるかに不合理・不自然に思えるのだが? その春高校を卒業して排水工事会社に勤め始めた少年は周囲に馴染めず、10日ほど通っただけでその後は朝家は出るものの通勤を止めてしまった。その日も会社に行くと言って作業服を着て家を出たものの、午前中を友達の家で遊んでいた。昼頃友達は用事があると言って家を出たが、その場所が少年の会社の近くだったため彼は会社の人に会ったり見られたりすることを恐れて同行せず、その友達とまた午後3時にゲームセンターで待ち合わせる約束をして昼食のために家に戻った。昼食を終えて家を出たのは1時40分頃だったが、3時まではまだ時間がある。彼は近くの社宅の玄関のチャイムを端から順番に押して行った。判決は取り調べ時の供述調書にあるとおり彼が強姦目的で排水工事業者を装って女性を物色して回ったのだと判示しているが、差し戻し審で彼は3時の約束の時間までの空隙を埋めるために思いついた行動だったと述べている。

この事件に関心のある人にはこれはある程度知られていることかと思うが、元少年について「家庭裁判所の調査官(3名)による詳細な「少年記録」には「A(引用者注:元少年のこと)のIQは正常範囲だが、精神年齢は4、5歳」と書かれていました。」と差し戻し審で弁護人の申請によって元少年の精神鑑定を行なった野田正彰氏は雑誌のインタビューで話している。元少年はそれまで女性と交際・交渉を持ったことは一度もなかったという。そういう少年が友達との待ち合わせ時間までの一時間余の間にいきなり強姦相手の女性を物色するために近所の住宅のチャイムを片端から鳴らして歩いたというのはあまりに不自然・不合理であろう。たまたま彼が水道工事の服装をしていたために被害者宅で「ご苦労さま」と迎え入れられ、このことを彼自身意外だったと述べている経緯には私は自然さとそれ故の信憑性を感じる。そこでこのような大事件を引き起こしてしまうわけだが、これは元少年がせっかく入社し、その会社は和気曖々とした温かな雰囲気の職場だったにもかかわらずいたたまれなくなって休むようになったという事情と通底していて、彼のコミュニケーション能力の未熟ないしは不全が最悪の結果を招き寄せてしまったのではないだろうか。前述した野田正彰氏は2007年7月25日差し戻し審の証人尋問で精神鑑定の結果について「人格発達は極めて遅れており、他の18歳と同様の責任を問うのは難しい」「元少年の父親が妻と元少年に繰り返し暴力を振るっていたことが、元少年の内面に大きな影響を与えた」「事件当時までの人格発達は極めて遅れており、 更に母親の自殺で停滞した」 (毎日新聞 2007年7月26日) と述べている。
(つづく)
2012.02.24 Fri l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
何度も引用させていただき恐縮だが、上脇博之氏のブログのコメント欄に下記のごとき書き込みがあるのを見た。大変気になる内容なので取り上げて検討してみたい。

1、( http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/lite/archives/51618710.html )
「 今回の水谷建設社長の証言は信用できるとお考えですか? 
自白調書は破棄しても公判で偽証すれば同じ事です。 検察側証人は検察官によって法廷での証言を厳しく指導されています。 これも冤罪の温床になっています。
偽証を信じて誤判をすれば冤罪は完成です。 過去この手法によって多くの無実の国民が罪に問われました。弁護側証人は偽証で立件しても検察側証人は不起訴になります。
ここにも冤罪の大きな原因が隠れている事を見逃してはいけません。 2011年10月02日 」

2、( http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/lite/archives/51620588.html )
「あなたの場合、憲法は、権力者(資本主義、共産主義共通)が民衆を規制する最高法規として認識しておられるように思います。 そう言う視点から見れば、検察権力の恣意的な法律運用も、登石裁判官による客観的証拠抜きの推認による有罪判決も全てOKと言うことなのでしょう。 あなたには、市民を名乗ってほしくありません。 2011年10月 09日 」

上記1、2のコメントはそれぞれ別の人物のもので、書き込みされたエントリー自体も異なるのだが、両方とも、上脇氏が小沢一郎氏の秘書たちの行動と政治資金規制法とを照合、検証して、9月26日に東京地裁より秘書3人に言い渡された有罪判決を妥当と判断していることに対する異論を述べているのだと思われる。

1、は、一般論でいうと、必ずしも誤ったことを述べているとは思わない。「 検察側証人は検察官に よって法廷での証言を厳しく指導されています」ということだが、すべての事件がそうとは言えないと思うが (というのは、検察官の意図、思惑とは逆と思われる、被告側に有利となる検察側証言がなされている尋問調書を新聞や本などで私はずいぶん沢山見ている)、一般論としては、検察は証言をそのように導こうとするに違いない。また、「 偽証を信じて誤判をすれば冤罪は完成です」というのは当たり前の話だが、古くは八海事件でそういうことがあった。松川事件でも、自分たちの言い分に従わなければ、ある喧嘩の件でおまえたち二人を逮捕するとか、偽証罪で逮捕するなどと検察官に脅かされたために前回は仕方なく嘘の証言をしたのだと法廷で告白した検察側証人もいた。甲山事件でも、保母のアリバイを証言した保育園関係者2人が偽証罪で逮捕されるというとんでもない出来事があった。そのような過去の違法かつ不名誉な検察の捜査、取り調べの手法、その積み重なりが 1、のコメントに見られるような疑念や不信を招く最大要因になっているのだと思う。

検察審査会についても、私にはあまりよいイメージがない。それは上で少し触れたが、70年代半ばに起きた甲山事件に起因するもので、検察の不起訴決議に対して被害児の遺族から検察審査会に不服申立てがなされるという出来事があり、これに対して検察審査会は不起訴不相当としたのだ。このときの苦い過ちの教訓を踏まえると、起訴にはそれに足るたしかな証拠がぜひとも必要だと思うが、今回の小沢氏の強制起訴についても外部から見ているかぎりそれが明瞭であるようには感じられない。秘書に対し、コピー用紙には使い古しの用紙の裏を再使用するようにという小沢氏の指示があったということだが、それが即小沢氏と秘書との共謀に結び付くという考え方で起訴相当としたのだとしたら、それは乱暴な話ではないだろうか。コピー用紙の使用方法についての秘書への注意、指示の件は、モノを無駄にすることや粗末に扱うのを嫌うという個人の性格とか気性の問題、身に付いた日常的慣習の問題である可能性もあると思う。裁判の進行を見守りたいと思うが、ただ、土地購入や政治資金報告書記載に関する秘書3人の行動の異様さが法廷であれだけ明らかにされている以上、小沢氏の判決が有罪、無罪のどちらの結果であっても、判決が小沢氏の不名誉払拭に結び付くとは思えないが。

元に戻って、水谷建設元社長の証言が偽証であるかどうかだが、コメント主は、自分がこの件につきどう考えているのかについては何も述べていない。元社長の証言には現金を運んだ際の運転手であった元社員の証言との間に食い違い、矛盾があるようである。ただし、当時水谷建設の会長だった人物の証言も考慮にいれると、水谷建設が陸山会に1億円 を渡すための準備を完了していたことはたしかと認めて差し支えないのではないだろうか。これは 1、のコメントに関連しての私の意見だが、上脇氏の判断は、この水谷建設元社長の証言の件もふくめた他の疑惑はすべて脇に置いたとしても、秘書の政治資金報告書における誤記載、不記載はきわめて悪質であり(政治団体ごとにまとめると、第4区 総支部の虚偽記入の総額は1400万円、陸山会の虚偽記入・不記載の総額(本年の収入額や支出総額を除く)は18億3861万6788円、合計は18億5261万6788円 ) 、有罪判決は導かれるべくして導かれた合理的なものというものだ。秘書たちへの判決については私も同様に妥当と言わざるをえないと感じている。

上述のコメント主は、ここでまずエントリーが詳細に指摘している報告書の誤記載と不記載に対しての自分の意見を述べるのが普通なのに、肝心要のこの件はすっ飛ばして、唐突に偽証の問題を持ち出している。それも、偽証の有無に対する検証は一切抜きで、「過去この手法によって多くの無実の国民が罪に問われました 」とか「 ここにも冤罪の大きな原因が隠れて いる事を見逃してはいけません」とまるで過去のそういう事実にブログ主の上脇氏がまるっきり無知であるかのような言い方をしている。「 過去この手法によって」「罪に問われ」た「多くの無実の国民」の場合と、上述したようなこの事件の場合とをどうして同じ次元で語ることができるのだ? とりわけ、小沢氏が用立てた4億円を石川氏が多くの銀行を走り回って分散預金し、それをすぐまた下ろして一ヵ所に集めて、とした工作活動には一種涙ぐましいほどの必死さが感じられる。誰にしろ、この行動の背景にあるのが4億円の出所を表に出したくないという意思以外に何か考えつくことができるだろうか? このような世界は、 ほぼすべての国民の生活とは想像を絶して無縁なものである。一般の冤罪被害者と、小沢氏やその秘書たちとを一緒くたにして双方をともに「無実の国民」のごとく論じることは、事実に反するし、冤罪被害者の苦しみに対して失礼だろう。これでは、冤罪とはそれを主張するもしないも人の勝手次第ということになるように思う。

次に 2、のコメントだが、こちらはさらにひどい。「 あなたの場合、憲法は、権力者(資本主義、共産主義共通)が民衆を規制する最高法規として認識しておられるように思います。」だって。コメント主は小沢氏を「権力者」ではないとでも思っているのだろうか。このコメント内容からすると、ひょっとして小沢氏を私たちと同じ一介の「民衆」とでも言いたいのだろうか? 90年代初めから常に権力の中枢にいて、辣腕をふるい、財界をはじめ各界に多大な影響力を及ぼしてきたと評されているこの政治家に対するそのような認識には驚嘆するしかない。秘書たちが裁きを受けた事件にしろ、小沢氏自身の事件にしろ、小沢一郎という政治家が、ゼネコンなどの各企業が決して無視しえない大物政治家であればこそ起きた事件であることは明白だろうに。

「そう言う視点から見れば、検察権力の恣意的な法律運用も、登石裁判官による客観的証拠抜きの推認による有罪判決も全てOKと言うことなのでしょう。」については、「 客観的証拠抜きの推認による有罪判決」という理解は誤りだと思うので、判決文の読みなおしをして、それと事件の経過との照合、検討をされることをお勧めする。

どうもこのような声を聞いていると、この人たちはどんな珍妙な理屈をこねまわしても小沢氏を擁護したいという一念に凝りかたまっているのではないかと思う。よりによっ て、小沢一郎氏を暗に「(無実の) 国民」「(権力に規制される) 民衆」呼ばわりするとは! この倒錯は意識的なものなのか、それとも無意識のなせる技なのかは分からないが、そら恐ろしくもあり、薄気味悪くもある。ひょっとしてコメント主たちは、一方で紛れもない有力政治家・権力者である小沢氏、もう一方で検察とマスコミによって無実の罪を着せられている悲劇の王様である小沢氏、この二つの像を思い描き、そういう小沢氏を熱烈に支持することで、権力者と悲劇の主人公の両面を自分の内に見ているというようなことはないだろうか?

今日取り上げたのはコメント2件だけだが、小沢氏の支持者のなかで、小沢氏のこれまでの政治的発言や活動を丁寧にかつ幅広く拾い上げ、それを広い現実世界のなかに据え置いてその良し悪しやもっている意味などについて厳密に分析している人は、有名・無名を問わず皆無のように思えるのだが、どうなのだろう? たとえば、集団的自衛権の行使について小沢氏はかつて安倍晋三元首相と同趣旨の主張を安倍氏より十年も早く述べていたのだが、小沢氏を支持する人々はそのようなことを知っていながら、小沢氏を称賛しているのだろうか。もしかすると、この人たちは世間に向かって壮大なデマを振り撒いているのではないのだろうか。それから、これは単なる印象に過ぎないのだが、東日本大震災以降、信仰のごとく小沢、小沢と言いまわる人のなかに東北地方在住の人はあまり見ない気がする。

コメントのなかには他に「 あなたは、誰にご飯を食べさせてもらっているんですか? 」という訳の分からないものまであった。まさかとは思うが、ここには、国民は皆、 政治家=小沢氏にご飯を食べさせてもらっているのだという含意もあるのだろうか? まったく、何が何やら分からんちゃ。
2011.10.16 Sun l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
とあるブログで「「小沢事件」と「ドレフュス事件」の類似性」という題の記事を見た。ブログ主は一応「文藝評論家」だとのこと。本当に頭が痛くなる。非礼を省みずに言わせていただくと、裁判について書くのであれば、事件の詳細について最低限の理解をした上で書いてほしいと思う。いったい小沢事件のどこに「 ドレフュス事件 」との類似性があるというのだろう。裁判資料を集めるのが大変だというのなら、たとえば上脇博之氏のブログを少し丁寧に読めば、秘書3人が関わる「陸山会事件」についても、その秘書たちとの共謀の有無が問われている小沢氏自身の事件についても、事件の流れ、および裁判で彼らの行動の何が具体的に問題とされ、どの点が疑わしいとされているのか、詳細に知り得るだろう。事件の全体像も把握できると思う (私もそのようにして事件に関する基礎的知識を得た)。そうすれば、判決が有罪、無罪のどちらであった(ある)にせよ、一連のこの事件に対し、「ドレフュス事件」( 事件の概略は、このウキペディアの記述でも大体分かる。) と類似している、などというデタラメ発言は出てこないはずだ。

小沢支持者という人々は不思議な人たちで、私の知る範囲では、この人だけではなく、ほぼ全員が「 小沢一郎は無実だ、冤罪だ」「事件は検察とマスコミのでっちあげだ」「陰謀だ」と叫び立てたり、集まってデモをやったりするものの、その前に自分たちで裁判資料を精読して一から事件を検証し、被告人の無実を具体的に明らかにするという、普通の裁判批判の手続きはとらないようだ。そういう例を私は見たことがない。それとも裏できちんと検証作業を行なっていながら、表面に出さないだけなのだろうか? だとしたら、それはそれでなぜ?という疑問が浮かぶ。いずれにせよ、1年も2年も同じ内容、同じ形式の抽象的小沢擁護発言を声高に繰り返してよく飽きないものだが、そうやってキャンキャン騒いでいるうちに、発想も表現もどんどん大袈裟に誇大妄想気味になっていく。「小沢一郎暗黒裁判」 は「ドレフュス事件 」を彷彿させる、などと言いだすのは、その最たるものだろう。ここまでくると、もう裁判批判自体がデマゴギー化してみえる。

一般市民がある裁判について腑に落ちないとか、モノ申したい、批判があるという場合、誰にとっても可能かつ適切な行動はまずコツコツと事件の検証を行なうことだろう。広津和郎が松川事件の膨大な裁判資料と格闘し、判決の矛盾と不当性を丁寧かつ詳細、的確に指摘し、世論を喚起したのは、もう半世紀以上も前の1950年代だが、広津のこの裁判批判の態度こそは現行の司法制度がつづくかぎり、裁判批判における永遠不変の原則的態度といえると思う。そして基本となるのはいつでも法廷のテーブルの上の証拠である点も変わらないだろう。

小沢氏の支持者 (小沢氏自身も) は、秘書3人に下りた有罪判決について、裁判官が証拠を無視して勝手な推測と想像によって導き出した判決であるかのように述べている。しかし、ことこの裁判に関しては、判決の内容を被告人石川氏および池田氏の法廷における陳述と照合してみただけでも、小沢支持者のその言い分こそ証拠を無視した主張であることは明白のように思われる。

たとえば、石川氏の法廷証言によると、政治資金収支報告書の2004年10月収入欄に記入されている4億円は「小沢氏からの借入金」と説明される。4億円にはこの小沢氏の4億円と、もう一つ、 小沢氏を介して同時期に銀行から借りだした4億円 (計8億円) がある。石川氏はこの二つの4億円のうち一つしか報告書に記入せず、記入したのは小沢氏の4億円だと言う。だが、4億円の返済は2005年と2006年に2億円ずつ、石川氏の証言によると借入金として報告書に記載されていないはずの銀行に対してなされ、小沢氏へはなされていない。これは証拠上明らかである。このあたりの経緯について石川氏は本年3月2日 第6回 公判の被告人質問の場で説明を求められたようだ。

「 登石郁朗裁判長ら裁判官が、同会が土地を購入した際、石川被告が行った複雑な資金移動の理由について説明を求めたが、石川被告は「うまく説明できない」と述べた。

同会は2004年10月に東京都世田谷区の土地を購入。その際、小沢元代表から4億円を借り入れた上で、定期預金を担保に銀行から同額の融資を受けたが、融資の利子として年間約450万円を払っていた。

石川被告はその理由について、「小沢議員から借りたことを明確にしようとした」と説明。登石裁判長が「借用書は作っていますね」「借金とはっきりさせていればいいのでは」などと尋ねると、石川被告は口ごもり、「すべてを合理的に説明できない」と話した。」(2011年3月3日読売新聞

ところが、この石川証言に対し、石川氏の後を継いで陸山会の経理責任者となった池田氏は、報告書記載の4億円は銀行からの借入金であり、小沢氏の4億円ではないと主張する。報告書には銀行への返済金が記入されているのだから、こちらの証言のほうが石川証言よりはるかに自然かつ合理的だが、では、小沢氏から陸山会に渡された4億円は陸山会にとってどのような意味をもつ金銭なのかと問われると、池田氏は単に「預り金」だという。上脇氏のブログでは、小沢一郎元民主党代表の元秘書ら3名に有罪の判決が下されたことは「ほぼ予想通り」であり、 「そもそも元秘書ら3名の有罪は客観的な証拠に基づいて帰結できるものでした。」という判断が示されているが、そのなかで、石川氏と池田氏の間の証言の矛盾についての分析もなされている。以下に引用させていただく。

「 (4)では、どちらの主張が妥当なのでしょうか?

まず、被告人石川氏の弁明は通用するのでしょうか?

その弁明は他の事実に矛盾します。

というのは、被告人石川氏は転借りした「4億円」を記載していないことを認めていますが、にもかかわらず、転借りした「4億円」は、検察の冒頭陳述で説明されているように2005 年と2006年に2億円ずつ小沢氏を介して銀行に返還されており、2005年分と2006年分の政治資金収支報告書に返還の記載がなされているからです(当初の小沢氏から借入れた 「4億円」が返還されたのは2007年です)。

借り入れのとき記載しなかった「4億円」について、返還では報告するのは、矛盾しています。

そうすると、2004年分の政治資金収支報告書に記載されている小沢氏からの4億円の借入は、検察側の主張するように銀行からの転借り分の「4億円」だという方が辻褄があいますので、当初 小沢氏から借入れた「4億円」は記載されていないというのが、真実でしょう。

すでに紹介した被告人池田氏の陳述が被告人石川氏の弁明の嘘を暴いていることになります。

被告人石川氏は、小沢氏からの4億円の借入を報告していないことを自覚していたから、当初は罪を認めていたのでしょう。

(5)では、被告人池田氏の「預り金」の主張は通用するのでしょうか?

2004年10月に、小沢氏を介して銀行から「4億円」借り入れできたので、当初の小沢氏から借入れた「4億円」をすぐに返済したというのであれば、「預り金」の主張は理解できないわけではありません。

しかし、2004年に借入れた「4億円」もの大金を2007年に返還して、それでも「預り金」だと主張するのは、通用しませんし、通用させてはいけません 。 すぐに返済しなかったのは、本件4億円がなければ陸山会の資金運営に支障が生じたからでしょう。 それなのに「預り金」という弁明が許されるのであれば、政治資金規正法は遵守しなくてもいい法律だ、ということになってしまいます。

同法は真実の収支を報告させ、それを国民の不断の監視と批判に委ねているからです。 記載されなければ国民は適正な判断ができません。

(目的) 第1条 この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し 、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。

(基本理念) 第2条 この法律は、政治資金が民主政治の健全な発達を希求して拠出される国民の浄財であることにかんがみ、その収支の状況を明らかにすることを旨とし、これに対する判断は国民にゆだね、いやしくも政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制することのないように、適切に運用されなければならない。 2 政治団体は、その責任を自覚し、その政治資金の収受に当たつては、いやしくも国民の疑惑を招くことのないように、この法律に基づいて公明正大に行わなければならない 。

(6)この「4億円」という高額な借入の不記載、返済の不記載だけで、小沢氏の元秘書らは「有罪」でしょう。「無罪」だと結論づける方が難しいでしょう。」
  http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/lite/archives/51612036.html


以上、長文 (裁判の検証に関連する文章は丁寧さが必要とされるので長くなるのが当然だと思う) のうちのほんの一部の引用だが、裁判批評というものは常に、それがどのような内容のものであれ、このように起訴事実に対して証言をふくめた証拠を具体的に照らし合わせ、 実証的に論じられる必要があるだろう。上脇氏のtwitterをちょっとのぞいてみたら、「小沢一郎元民主党代表の初公判での意見と記者会見での発言等について」の項目(?)で、 「先生の文章、とても鋭い。なんというか、こういう緻密かつ大胆で分かりやすいブログを読めることに幸せを感じる。 7 Oct」「有難う。 @ 7 Oc」との会話がかわされていた。「幸せを感じる」という人の気持ちは分かるような気がする。ブログを読み進めることでその裁判に対する、また物事の見方に関する理解の深まりや視野の拡がりを自分の内部にたしかに実感するから 「幸せを感じる」のだろう。この「幸せ」は「充足感」と言いかえられるかも知れない。もしかすると基礎的な「学問の喜び」の一種と言えるかとも思う。昔、広津和郎の『松川裁判』を読みながら私もそのようなことを感じたことがあるのだ。

上記の石川、池田両被告人の証言を検討した上脇氏の文章を読んだだけでも、小沢氏やその秘書たちの事件と完全な冤罪事件である「ドレフュス事件」を並べて論じることのいかがわしさ、不適切、不当性が理解できるのではないかと思う

長くなるので、つづきは次回に。
2011.10.13 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
去る5月24日に水戸地裁土浦支部が言い渡した布川事件の桜井昌司さんと杉山卓男さんの再審無罪判決が本日(6月8日)午前0時に確定した。検察側の控訴断念によるものである。事件当時二十歳だった桜井さんと杉山さんはともに捜査段階での自白を証拠とされて無期懲役の判決を受け、96年の仮釈放まで29年もの間獄に繋がれていた。仮釈放から15年目、事件発生から数えると44年目にしてようやくの無罪確定である。布川事件の無罪確定に関する記事を読売新聞から一部引用する。

「 戦後の事件で無期懲役または死刑が確定後、再審での無罪が確定したのは昨年3月の「足利事件」に続き7件目。
 これに先立ち、水戸地検の猪俣尚人次席検事は7日夕、「新たな立証は困難で、無罪判決を覆す見込みが立たない」として控訴の断念を表明。無罪判決の確定については「厳粛に受け止めている」と述べた。
 検察側の控訴断念を受けて記者会見した桜井さんは「43年余りかかって無罪になった。支援者の皆さんのおかげ。素直にうれしい」と喜ぶ一方で、「冤罪の原因は警察、検察、裁判官にあるのに、判決は触れず、激しい怒りを感じる」とも語った。杉山さんは「これで普通の人間に戻れる。一区切りつけて休みたい」と安堵の表情を浮かべた。」(2011年6月8日00時24分 読売新聞)

無罪確定に際し、検察は、「厳粛に受け止めている」とは述べているものの、反省や呵責の念、二人への謝罪の言葉はなく、具体的な改善策についても言及していない。冤罪阻止のための方策を自ら率先して探索し、実践しなければ許されないという真摯かつ積極的な姿勢は感じられないのだ。でももうこれ以上、「一件落着」とばかりにこれで済ませてはならないことは明白だ。桜井さん、杉山さんがいみじくも口をそろえて要求されているように、「取調べの全面可視化」と「検察の手持ち証拠全面開示義務」は一日も早く法律として制定されなければならないと思う。

司法が無実の人に有罪を宣告し、監獄に閉じ込めておくということは、実質として国家が一般市民に対し「誘拐・監禁」という重犯罪をおかしているということ。29年間もの長期に亘って囚われの身となっていた桜井さん、杉山さんは、29年間、国家によって誘拐監禁されていたことになるし、捜査における自白強要は恐喝という犯罪であり、たとえ直接的な暴力がなかったとしても、これが耐え難い精神的・肉体的拷問であることに違いはない。市民としてのあらゆる権利剥奪や名誉毀損もふくめ、罪状を列挙していったら、いったいどれだけの質量の司法犯罪が立証されることになるだろうか。仮釈放後の桜井さんと杉山さんを追ったドキュメンタリー映画「ショージとタカオ」の監督である井手洋子さんが雑誌『創』で桜井さんと杉山さんが体験させられた過酷な取調べについてのインタビューをされているので、そのなかから一部を引用させていただく。
http://www.tsukuru.co.jp/tsukuru_blog/2011/05/4020114.html


【桜井】杉山が突き付けられたのは俺の調書だよな。俺の署名が入った自白調書を目の前で見せられて、それでもうダメだと思ったって。

【杉山】そう。それに刑事から「やったと認めれば4~5年で出てこられるが、認めなければ死刑になる」と言われました。「認めなければいつまでも調べる」というのも、非常に堪えましたね。このままずーっと取り調べが続くのか、と。

◆やってない自白調書がどうやって作られるのか◆

【桜井】「やってないなら言えない」という認識が、そもそも間違ってるんですよ。いったん「やった」と言わされてしまえば、その後は誰でも言えてしまうものなんです。事実は捜査官が知っているわけですから。捜査官の納得する答えが出るまで、何度でも質問が繰り返される。イエス・ノーで答えさせられ、答えが合えばそれをノートに書いていく。そして最後に、捜査官がスラスラとまとめるのが自白調書です。誰でも言えるものなんだということが、なかなかわかってもらえないんですよね。
 逮捕されて留置場に入れられて、外の世界と断絶されたところで取り調べを受けるというのは、やはり異質というか、想像を超えたものがあるんですよ。

【杉山】私は「現場の図面を書け」と言われたんです。やってないから書けるわけがない。そうしたら「まずは鉛筆で書け」という。ボールペンで書くと間違えたら消せないから、と。それでも書けないでボーっとしてたら、「普通の家はどういう形をしている?」と訊くんです。丸や三角の家は田舎にはないなと思って「四角だ」と答えたら、「じゃあ四角を書け」と。四角を書いたら「家の中には何がある?」と訊かれる。たいてい箪笥はあるだろうと思って「箪笥」と答えると、「そうだ、箪笥だ」「で、箪笥はどこにある?」と。家の真ん中に箪笥があるわけないと思って端のほうを指差したら「そうだ、そこに箪笥を書け」と言われ、「もうこれ以上は書けません」と言ったら、刑事が引き出しから現場の図面を出して、自分が見るふりをしながら、私にも見えるようにしてくる。そうすると私はそれを見て死体があった場所などを書くことができた。それが取り調べなんですよ。」

二人の犯罪の証拠とされたものは、自白であった。やってもいないことをなぜ自白できるのだろう、とはたいていの人が一応は考えることだろうが、上述の桜井さん、杉山さんが語っているように、そのような環境下に孤立して置かれた場合、人はやってもいないことでもやったと嘘の自白をするほうがむしろ普通だと考えたほうがいいかも知れない。戦前の冤罪事件として名高い帝人事件では大蔵省の役員など18名が逮捕起訴されているが、そのうち最後まで否認し通したのはたった4名に過ぎなかった。また戦後の松川事件では20名の被告人のうち8名が実に詳細な自白調書をとられている。両事件とも、被告人たちは後の八海事件のように肉体に激しい暴力を振るわれたわけではなく、人としての誇りをズタズタに引き裂くような言葉の暴力、長時間の取調べによる睡眠不足や疲労困憊、人間の弱みにつけこんだ脅したりすかしたりの取り扱いなど、まさしく精神的拷問というべき残酷な取調べだったようである。

布川事件の証拠には自白以外にもう一つ通行人の目撃証言というものがあった。しかし、その証言者は公判に入って二人が自白を翻した後に突如現れた人物だったそうである。これは傍目にもいい加減な証言であることがあまりにも明白だったため、二人は一審の法廷審理において自分たちの無実は確実に証明されたと信じ、有罪判決が出るとは夢にも思っていなかったそうである。

「【桜井】何の物証もないし、証言だってすぐに嘘だとわかるようなものでしたからね。だって目撃証言だっていい加減なもので、50㏄のバイクで道を走っていて、100メートル以上も離れたところから二人の顔が見えたなんて言っているけど、見えっこない。このあやふやな証言以外、何の証拠もないわけですから、有罪になるわけがないと思っていました。判決を法廷で聞いているときはぼう然として、心臓がまるで耳元についているかのように「ドックン、ドックン」と脈打つのが聞こえました。」

再審公判で初めて明らかになったことだが、殺害された被害者男性の家の前で見た人物は杉山さんではなかったという近所の女性の証言を捜査当局はそれまでひた隠しにしていたのだ。この目撃証言が初めから法廷に出されていれば、おそらく二人の有罪はありえなかっただろう。それより以前に検察は二人を起訴することはできなかっただろう。これこそが問題の本質ではないだろうか。公正な裁判のためには取調べの全面可視化とともに、捜査側の手持ち証拠全面開示義務が法として必要不可欠であることをこの証拠隠匿は物語っていると思われる。松川裁判でも布川事件と同様の重大な証拠隠しが行なわれていた。松川労組と東芝労組が列車転覆のための謀議をしていたという時刻に、その謀議出席者の中心人物の一人であるとして死刑を宣告された東芝労組の佐藤一被告は実は会社にいて会社側と労働争議について団交をし、そこで多くの発言をしていたことが諏訪氏(会社側)のノートに記されていたのだが、そのノートを検察は押収したまま隠し続けていたのだった。松川事件が最高裁で差戻し判決を得ることができた決め手は、このいわゆる「諏訪メモ」の存在が明らかになったことである。この点、布川事件の経緯とそっくりである。時代は変わっても捜査側の手法はまったく変わっていないのであった。松川裁判の教訓は生かされていなかった。

この場合の捜査陣営の本心を推し量ると、「やつらが犯人であることは間違いないのだから、やつらに有利な証拠を隠したからといって、責められるいわれはない。結果的に事件が解決すればそれでいいではないか。」というようなところではないかという気がする。延々と同じことが繰り返されるのは、取調べる相手を犯人だと固く思い込む、または決めつけてしまう、そのような心理のせいではないだろうか。しかし、それは、自分を正当化するのに都合のいい弁解を捏造しているだけの、自分勝手な居直りに過ぎない。その実態はきびしく処罰される必要のある犯罪であるだろう。

5月18日には、江田五月法相が録音・録画の法制化を含む刑事司法制度の見直しを法制審議会に諮問しているが、審議会には録音・録画の法制化とともに証拠全面開示義務の法制化をもぜひともお願いしたい。


最後に、桜井昌司さん、杉山卓男さん、長い間、本当にお疲れ様でございました。お二人のこれまでのご奮闘に心からの敬意を表し、今後のご健康とご活躍をお祈り申しあげます。
2011.06.08 Wed l 裁判 l コメント (1) トラックバック (0) l top
昨日、5月17日はとても腹立たしくショックなニュースに二件もであった。両方とも大阪発で、一件は橋下徹大阪府知事の「君が代斉唱」に関するいつもながらの横暴・傲慢発言。日経新聞のウェブ刊によると「地域政党「大阪維新の会」の府議団が5月議会に提出を目指す君が代斉唱時に教員の起立を義務付ける条例案について、大阪府の橋下徹知事は16日、「(起立しない教員は)絶対に辞めさせる」として、強い姿勢で臨む考えを示した。府庁で記者団に語った。」というニュースであった。もう一件は、昨年4月最高裁が「十分な審理が尽くされたとは言い難い」として審理を差し戻した「大阪母子殺害・放火事件」に関するニュース。大阪地裁の差戻し審において最重要証拠になることが確実であった「未検査の吸い殻71本」をなんと大阪府警がとうの昔に紛失していたことが17日に分かった(毎日新聞)というのだ。

いったい何様のつもりだか、国歌斉唱時に起立しない教諭は免職させると言い放った橋下府知事の言行についての感想・意見は別の機会に譲るとして、今日はこの「大阪母子殺害・放火事件」の「タバコの吸い殻紛失」の件を取り上げる。

この事件については最高裁が差戻しを決定した後、読者の方に教えられ、判決文を読んでみたところ、稀にみる公正なよい判決だと思い、当ブログも記事にしたことがある。「「大阪母子殺害・放火事件」大阪地裁に差戻し-最高裁第3小法廷」。その後も差戻し裁判の開始がいつになるのかなどいろいろ気になってはいたのだが、まさか証拠品紛失という事態が起きるとは……。事件の全体像についてご存知ない方もいられるかも知れないので、5月17日の毎日新聞ウェブ版から、事件の概要および今回判明した吸い殻紛失の記事を引用しておく。まず、事件の概要から。


「 ◇大阪市母子殺害事件

 02年4月14日夜、大阪市平野区のマンションの一室から出火、焼け跡から主婦の森まゆみさん(当時28歳)と長男瞳真(とうま)ちゃん(同1歳)の他殺体が見つかった。まゆみさんは森健充被告の妻の連れ子の嫁。検察側は、まゆみさんへの恋愛感情を募らせた森被告が、拒絶されたことなどを憤って絞殺し、瞳真ちゃんを浴槽で水死させて放火したとして殺人と現住建造物等放火の罪で起訴した。最高裁が無罪の余地があるとして死刑を破棄した判決は過去6件しかなく、後に全て無罪が確定している。 」


次に、「未検査の吸い殻71本 府警が紛失」というタイトルの記事。

「 大阪市平野区で9年前に起きた母子殺害放火事件で殺人などの罪に問われた大阪刑務所刑務官(休職中)の森健充(たけみつ)被告(53)の裁判で、大阪府警が被告の足取りに関わる重要証拠のたばこの吸い殻72本のうち71本を紛失していたことが17日分かった。誤って廃棄したとみられる。最高裁は昨年4月の差し戻し判決で吸い殻を鑑定する必要性を指摘しており、差し戻し審での審理に大きな影響が出そうだ。

 事件では、森被告の関与を示す直接的な証拠はなく、検察側は状況証拠の積み重ねで立証を進めた。府警は現場マンションの階段踊り場の灰皿から吸い殻72本を採取し、森被告が吸っていたものと同じ銘柄の吸い殻1本を発見。DNA型鑑定で森被告のものと断定した。

 関係者によると、紛失したのはこの1本を除いた全て。府警はこれら71本を段ボール箱に入れて平野署4階にあった捜査本部の整理棚に置いていたが、起訴から間もない02年12月下旬に紛失が判明。捜査員が24時間常駐する捜査本部から第三者が持ち出した可能性はないとして、誤って廃棄したと結論付けた。

 府警は、公判で弁護側が吸い殻に関する証拠を開示するよう請求した後の04年1月ごろまで検察側に紛失を伝えていなかった。

 検察側は一貫して、森被告のものとされる吸い殻について「被告が事件当日に捨てたもので犯人性を強く示す」と主張。弁護側は「森被告が被害者夫婦に自分の携帯灰皿を渡したことがあり、その中の吸い殻を事件以前に捨てた可能性がある」と反論した。1審の大阪地裁は検察側主張を認めて無期懲役、2審の大阪高裁は死刑を言い渡した。

 しかし、最高裁は昨年4月、「十分な審理が尽くされたとは言い難い」として審理を差し戻した。その際、71本の中に被害女性が吸っていた銘柄が4本あることに注目。差し戻し審で71本を鑑定するよう促し、「被害女性のDNA型に一致するものが検出されれば、携帯灰皿の中身を(踊り場の)灰皿に捨てた可能性が極めて高くなる」と指摘した。裁判官1人は「一致すれば無罪を言い渡すべきだ」との補足意見を付けた。

 検察側が地裁や弁護側に初めて紛失の事実を明らかにしたのは、昨年7月に大阪地裁で行われた差し戻し審の打ち合わせ。弁護側から1審段階で吸い殻に関する証拠の開示を何度も求められた際、検察側は「開示に応じる理由がない」などと拒否していた。【苅田伸宏】 」


最後に、同新聞に掲載されている事件発生から今日までのおおよその経過も引用しておく。

「 ◆大阪・母子殺害事件の経緯◆

02年4月14日 事件発生
   ↓
    中旬   府警が階段踊り場灰皿から吸い殻採取
   ↓
  11月16日 府警が森被告を逮捕
   ↓
  12月7日  検察が殺人罪で森被告を起訴
   ↓
    下旬   吸い殻を入れた箱の紛失が発覚
   ↓
03年3月31日 大阪地裁で初公判
   ↓
  12月    弁護側が吸い殻関連の証拠開示を依頼
   ↓
04年1月    府警が大阪地検に紛失を報告
   ↓
         検察が「開示しない」と回答
   ↓
05年8月3日  大阪地裁が無期懲役判決
   ↓
06年12月15日 大阪高裁が死刑判決
   ↓
10年4月27日 最高裁判決(地裁に審理差し戻し)
   ↓
10年7月    地検が地裁と弁護人に紛失を説明 」


被告人は取り調べ段階から、使いかけの携帯用灰皿を被害者および被害者の夫(被告人の義理の息子)にいくつか渡したことがあり、被害者がその中身を自宅マンションの階段踊り場の灰皿に移したに違いないと訴えていたそうである。警察はそのことを知り、また踊り場の灰皿に在中していた72本の吸い殻のなかに被害者が吸っていたタバコと同銘柄の吸い殻が4本在中していることももちろん知っていたはずなのに、その時点でなぜその4本の吸い殻が被害者のDNAと一致するかどうかを調べようとしなかったのだろう。一致したからといって即被告人の主張が正しいことにはならないが、最高裁の何人かの裁判官によると、写真ではどちらの吸い殻も非常に古びて見えるそうである。特に被告人の吸い殻はもしその階段踊り場で吸ったのだとしたら犯罪当日に吸ったことになるのだから、その一、二日後にそうそう古びて見えるのは確かにおかしいし、また被告人の発言の信憑性を測る上で被害者が愛用していたタバコと同銘柄の4本の吸い殻のDNA鑑定および吸った時期の確定はこの上なく重要だったはずである。

毎日新聞の上記記事によると「府警はこれら71本を段ボール箱に入れて平野署4階にあった捜査本部の整理棚に置いていたが、起訴から間もない02年12月下旬に紛失が判明。捜査員が24時間常駐する捜査本部から第三者が持ち出した可能性はないとして、誤って廃棄したと結論付けた。」ということだが、この府警の説明も不可解である。いとも簡単に「誤って廃棄したと結論付けた。」と述べているが、誰が、いつ、どのような経過で「誤って廃棄した」のか捜査しなかったのだろうか? 被告人が「使いかけの携帯用灰皿を被害者に渡したことがあるので、被害者がその中身を階段踊り場の灰皿に捨てたに違いない」と供述し、被害者の吸っていたタバコと同銘柄の吸い殻も見つかっている以上、71本の吸い殻の行方も法廷で問題になることが分かりきっていたと思えるのに、紛失を一年以上も検察官に隠していたのだろうか? そしてその間、検察も4本の問題の吸い殻について気にも留めなかったのだろうか? 警察に紛失を打ち明けられた時、検察はどのような対処をしたのだろうか? 紛失により処分を受けた警察官はいるのだろうか? 検察は、法廷でなぜ正直に紛失したことを述べなかったのだろうか? 紛失を隠しておいて死刑を求刑する心境はどういうものだったのだろうか? また、これまでの三回の判決――無期懲役、死刑、審理差戻しの判決をそれぞれどのような気持ちで聞いたのだろうか? 

一・二審の裁判官に関しても大きな疑問がある。携帯用灰皿についての被告人の一貫した訴え、被告人の吸い殻が水に濡れたわけでもないのに古びて褐色に変色していたこと、などを総合して勘案すると、4本のタバコが被害者の吸ったものかどうか、もし被害者の吸ったものだったとしたら、時期はいつごろのものか、それを調べることこそ真相究明のための裁判所の主要役割だったと思うのだが、なぜ検察官に4本の吸い殻の提出を命じなかったのだろう。もしそうしていれば、「紛失」の件も法廷の場でとうに明らかになり、事件を見る人々の視線も裁判への関心の度合いも全然違っていたはずなのだが…。一・二審の裁判官の失態もまた重大だと思う。
2011.05.18 Wed l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
先ほど知ったのだが、片山貴夫さんのブログに、昨日(2月2日)の日付で以下の速報が出ている。

金光翔さん裁判に不当判決
 http://katayamatakao.blog100.fc2.com/blog-entry-99.html

内容を全文引用させていただく。

「 本日2月2日(木曜)東京地方裁判所で、金光翔さんの裁判に不当判決が出されました。
 しかも判決文は、(佐藤優の責任を問わないばかりか)週刊新潮側を完全に擁護する内容です。
 裁判官を教育することが必要です。
 これまで以上に本腰を入れて金さんを支えていきましょう! 」

道理からいけば、金光翔さんの圧勝を疑えないと思っていたが、気になってならなかったのは、裁判官がどのような人物であるかということだった。洞察力と良心を備えた良識ある裁判官であるかどうかに結果はかかっていると思っていた(このような現状自体、暗澹とした思いになることなのだが)。本当に残念でならない。金光翔さんのお気持ちは察するに余りあるが、けれども金さんのブログの各記事や「対『週刊新潮』・佐藤優裁判まとめ」を読めば、どちらに理があるかは歴然としていると私は思う。記録は内容とともに消えずに残るのだ。

ところで、佐藤優氏の言論活動の実態・本質がどのようなものであるかは、media debugger氏のこのエントリーと、こちらで紹介されている動画(湯浅誠氏とのトークセッション)にも如実に出ている。前々から十分わかっていたことだが、佐藤優氏の得意技の一つに「自分を守るための(本質に迫る考察・発言をさせないための)徹底した弱い者いじめ」があり、この点ではほぼ名人の域に達しているのではないだろうか。この動画の「対話集会」でも、佐藤氏がどんなに狡猾に自分の気に入らない発言をした参加者をいたぶっていることか。このような人物を周辺のあれこれの人間、集団(それも世間では善なる人間、善なる集団・組織として通っている)がひとかどの言論人のごとくおだて、おもねり、支持・支援している現実に恐怖をおぼえずにいられない。

判決の詳細が判ったら、また感じたことを書きたいと思う。

何よりも今は金さんのこれまでの奮闘に心からの敬意を表したい。


2月5日追加 
 金光翔さんのブログ「私にも話させて」に、今回の裁判結果に対する金さんの控訴の意志が述べられています。
 4日付の下記のエントリーです。未読の方はぜひご一読を!
   「第一審判決」
2011.02.03 Thu l 裁判 l コメント (1) トラックバック (0) l top
松川事件の第一次最高裁判決における「少数意見」を取り上げたこの記事を読んでくださった方から、11月2日付けで下記のコメントをいただいた。

「差戻し後上告審判決の少数意見もなかなか面白いですよ。結論は逆ですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%A3%AF%E5%9D%82%E6%BD%A4%E5%A4%ABでハイライトを読むことができます。」

アクセスしてみると、ウィキメディアの、なんと「下飯坂潤夫」の項目であった。1、2ケ月前に、松川事件の主任弁護人であった大塚一男氏の「回想の松川弁護」(日本評論社2009年)を読み、下飯坂氏のユニークな人物像(裁判官像)に触れて改めてつよい印象を受けていたところだったので、思わず笑い出してしまったのだが、この方の「なかなか面白い」という表現は言い得て妙であり(このようにしか言いようがなかったのかも知れない。というのも、このサイトに出ているように、下飯坂氏は松川事件で無罪判決を下した差戻審の門田判決に対し「その浅薄さ、その短見さ極言するとその卑劣さ、云うべき言葉を知らない。しかも大言壮語する。弱い犬程大いに吠えるのたぐいである。」などと述べているのだ。)、判決に対する裁判官によるこれほどユニークな意見にはそうそうお目にかかれないことは確かであろう。

下飯坂氏はかつて最高裁判事だった人で、松川事件でも二度の最高裁判決(大法廷と第一小法廷)に加わり、二度とも有罪判決に加担した人だが、そのたびに驚くべき少数意見を書いたことで有名であった。1959年8月、松川事件の第一次最高裁判決は7対5という僅少差によって「仙台高裁差戻し」が決定したのだが、被告人たちの無実があまりにもはっきりしている事件なので(そのように私には見える)、この7対5という評決には「どうして?」「なぜ?」という割り切れない気持ちは今でも纏わりついている。

この時には、田中耕太郎最高裁長官の少数意見が世上の話題を一身に集めることになった。その陰に隠れてあまり目立たなかったかも知れないが、下飯坂氏の少数意見もひどく変わったものだった(どんなふうに変わっていたかは、後ほど引用する大塚弁護士の話に出てくるのでそれで判断できると思う)。その後、周知のように仙台の差戻審で全員無罪判決(1961年)が出たわけだが、検察はまたも上告した。そして1963年、最高裁第一小法廷の4人の裁判官によって審議が行なわれ、3対1の評決で検察上告は棄却された。これで14年間にわたる松川裁判はようやく終結したが、この時ただ一人、高裁差戻しを主張し、少数意見を書いた裁判官が下飯坂氏なのであった。

この時の判決文は、全文の長さ415丁で、本文42丁、斎藤朔郎裁判長による補充意見5丁、残余の368丁は、すべて下飯坂裁判官による少数意見だったそうである。その少数意見は、上のサイトにあるハイライト部分の「弱い犬程大いに吠える、云々」などという言葉・表現から推測できると思うが、被告人の訴えについては「空々しい」「図々しい」、差戻審の門田無罪判決に対しては「欺まん」「ごまかし」「浅薄」「短見」「卑劣」、同僚裁判官に対しても「拙速主義」「観念主義」という言葉を浴びせ、無罪判決を徹底的に非難する内容だったそうである。(「松川運動全史」(労働旬報社1965年))

これに対し、斎藤裁判長は「たとえ少数意見が千万言を費やそうとも、この最終判決の真実性については、いささかの自信も揺るがない」と記者会見で述べたそうであるが、私がこの斎藤裁判官に感銘を受けたのは、斎藤氏が述べる裁判官の「自由心証」という重要な問題についての見解であった。判決の補足意見でも「自由心証は、ある程度の直感力に基づくものとはいえ、その確信は、われわれの社会通念による論証に十分たえるものでなければならない。確信するが故に真実であるということは、成り立たない議論である」「捜査の欠陥を、裁判所の専権として有する、自由心証の自由をもって補充し、真実性を容易に承認するが如きことがあっては裁判の中立性を放棄するものであろう」と述べているが、「回想の松川弁護」によると、斎藤裁判官はこの判決から1年後の1964年、再び「自由心証」の問題を取り上げ、これについての論文を書かれたそうである。

「自由心証」について誰がどのようなことを述べているのか私はよく知らないのだが(広津和郎は、松川事件の二審判決を批判する過程において「自由心証」について、裁判官に「自由心証」が委ねられているということは、裁判官が自由に対して最大の責任を負わされているということである、という趣旨のことをどこかに書いていた。広津和郎のその批判の眼目は、松川事件を担当した裁判官による「自由心証」の恣意的な運用についてであることは誰の目にも明らかだったと思う。斎藤裁判官はあるいは広津和郎のその発言を知って(読んで)いたかも知れない。広津和郎が「自由心証」について述べた意見に法曹界の人間の一人として正面から応えたのだという見方もできるかも知れない。)、知っている範囲では、下記の「回想の松川弁護」に記されている斎藤氏の見解(論文)に最も納得がいく。それでは、大塚一男弁護士の「回想の松川弁護」から印象に残った箇所を引用するが、最初に、「弁護士をやっておりますと、いろいろな裁判官に行き当たります。」ということで、有名な(?)鬼頭判事補のことが述べられている。「離婚事件」の依頼を受けて、鬼頭判事補と関わり合い、思いもかけないような厄介な目に遭ったそうであるが、そのあたりは通過して、下飯坂氏のところから――。(下線、太字による強調は引用者による)


 鬼頭は判事補ですから任官してから10年以内の人でありますが、では鬼頭は特別かというと、実はそうも言えない。今度は非常にべテランの裁判官に行き当たったときのことを少しお話をしたいと思います。今日お集まりのみなさんは戦後生まれのかたもだいぶおられるようでありますので、松川事件といってもちょっとおわかりにならないかもしれませんが、日弁連が出した『弁護士百年』というアルバムがございます。その中に「松川事件と裁判批判」ということで、こういう説明がしてあります。これで、松川裁判とはどういうものかということを一口で説明できようかと思います。

「昭和24年8月17日、東北本線松川駅近くで旅客列車が脱線転覆し、乗務員3名が死亡する人為的事故がおきた。捜査当局は事故直後の内閣官房長官の発言を裏付けるかのように福島の国鉄、東芝両労組貝を10名ずつ逮捕し、訴追した。一、二審は死刑、無期等の重刑を言い渡した。この裁判に疑いの目を向ける者は時と共に多くなった。文学者廣津和郎の4年半に及ぶ二審判決批判(『中央公論』連載)は広範な国民の心を動かし、関心と理解を深めた。無実の証拠を押収しながら、10年ちかく公開を拒む検察側の行動に国民はいきどおり、不安と恐怖をおぼえた。階層、思想、組織をこえて無実の者を殺すな! の声がたかまった。数名ではじめられた弁護活動も、逐次全国各地から参加をえて300名近い大弁護団になった。仙台弁護士会は二審から会として弁護を引きうけ、袴田重司、大川修造らを先頭に参加した。昭和38年9月、五度目の判決で無罪が確定」(日弁連のアルバム『弁護士百年』より)

 最初は8名、二度日は全員
 松川事件とその裁判、その運動を語れば、斎藤裁判官の下飯坂批判に書いてあるこういう説明がほぼ要点を尽くしていると思うのですが、この三度目の裁判が最高裁の大法廷にかかりました。そして五度目の裁判が最高裁の第一小法廷にかかりました。
 三度目の裁判というのは、4名の死刑をふくむ有罪判決を取り消してほしいという弁護側の上告にもとづいて開かれたのでありますが、この二度の最高裁の審理には下飯坂さんというキャリアの長い裁判官で、たしか大阪高裁長官から最高裁に入った人が関与しております。最初の大法廷のときは12人の裁判官が関与したのですが、7人の人は、この有罪判決は重大な事実誤認の疑いがあるから、仙台でもう一度やり直せ、という意見でした。4人の裁判官――田中耕太郎、池田克、垂水克己、高橋潔らは、17人全員に対する死刑判決等の裁判は真実であるから上告を棄却しろといい、下飯坂さんだけが「この17人のうち少なくとも8名は間違いないから、最高裁で8名についてだけ有罪にしろ」という主張をしたのです。結局、多数の7名の裁判官の意見が判決となって松川事件は差し戻され、仙台高裁で(昭和)36年の8月に無罪になりました。
 そうしますと、今度は検事が上告しました。検事の上告に対して最後に開かれたのが五度目の最高裁第一小法廷の裁判です。このときには下飯坂さんはどういうことをいったか。「検事の上告は理由があるから、17名全員についてもう一度裁判をやり直せ」といっています。最初のときは8名を有罪にしろといい、二度日のときには17名を有罪にしろといっているわけです。
 松川事件はもともと国鉄と東芝10名ずつの労働者をつかまえて裁判にかけているものですから、もし下飯坂さんが三度目の裁判をやれば、「いや、17名じゃなくて20名を有罪にしろ」と主張したのではないかと思われるぐらいに、裁判のたびに意見が変わった人です。それにしても、有罪であるということだけは間違いないという意見になるのです。
 きょうは将来裁判官になる人もお見えになっていると思うのですが、この下飯坂意見は、裁判官になる人が下飯坂意見のように考える裁判官になってはいけないということを教えてくれる意味では、大変役にたつ意見だと思います。(笑)間違ってもこういう意見と同じような考え方になっては裁判公害が増えて、国民がますます冤罪に苦しむことになりますので、十分にご注意をいただきたいと思いますが、下飯坂さんの最後の意見ではこういうことを言っているのです。

「さもあれ私は合議で3対1で敗れた。しかし、私は本当に敗れたと思っていないのである」(略)
「要は裁判に対する態度の違いであり、極言すると人生への生き方の相違でもあろう。私は、失礼ながら斎藤裁判官の補足意見を拝見してその感を深うした次第である」

 こういうことを言って、あくまでも有罪を主張いたしました。これに対して斎藤朔郎という主任裁判官は、「たとえ少数意見が千万言を費やそうとも、この最終判決の真実性については、いささかの自信も揺るがない」と、記者会見で手短に述べておられます。

 斎藤裁判官の下飯坂批判
 実はこれには後日談がございまして、この斎藤さんがその後にこういうことを書いている。これをここでご紹介したかったのです。「自由心証――すなわち、証拠の支配――」という論文です。

刑訴318条が証拠の証明力は裁判官の自由な判断に委ねる、といっている趣旨は、裁判官が証拠に対し主たる地位に立つということをいっているわけでなく、その一つ前の刑訴317条は、事実の認定は証拠による、といって、証拠が主たる地位にあることを示している。裁判官は証拠の忠実な従僕としてその証拠のそなえている支配力に従順に服さなければならない。それはその証拠のあるがままの姿、その証拠が現にそなえている証明力のそのままの程度を裁判官の心証に写しとるということであって、これが裁判官の証拠に接する基本的な態度でなければならない。われわれは法律に対しては比較的よくその支配に服しているといえようが、証拠に対しては、その支配に服するどころか、それを支配するような僣越をおかしているようなことはないであろうか

これから述べるところが斎藤さんの下飯坂さんに対する批判です。

波立つ池水、にごれる泉水は、事物の姿をありのままに写すことはできない。証拠に接するわれわれの心境は平静にして清明な水面にたとえることができるものでなければならない。事件に対してなんらかの理由で異常な執念を燃やし、義憤をぶちまけていて、証拠の冷静な評価ができるものであろうか。そのような態度で事件に接して行くならば、自己の思うままに証拠を駆使して、証拠の王様になりあがったような尊大、不遜な裁判官になってしまう。同じ時代に同僚としてひとしく裁判所に職を奉じて合議部を構成している裁判官のうちで、人生観を異にするがために証拠の評価の結論を異にするような事例があろうとは思われない。その差異の生じる原因は、先に述べたように、証拠に接する当初における裁判官の基本的な態度、心理的状態の差異によるものと考える」

 これが斎藤朔郎裁判官の下飯坂意見に対する手厳しい反論です。斎藤さんはこの論文を(昭和)39年の6月1日に善かれて、その年の8月上旬に亡くなられましたので、これが斎藤さんの最後の意見みたいなものだと思うのですが、「裁判官が証拠を離れて、何か執念を燃やして王様らしく勝手に振舞うということは、とんでもない事実の誤認をおかす」ということを、斎藤さんはここで冷静に、かつ強く、下飯坂意見に反論をしているのです。

 力みかえった裁判官の危険性
 下飯坂さんは、実は二度目の最高裁の八海事件のときに裁判長をやり、広島高裁の無罪の判決を破棄いたしました。「吉岡の述べている上申書や供述の行間には真実がおどっている」といって無罪判決を破棄し、広島高裁に差戻しました。その差戻しを受けた広島高裁の河相裁判長が死刑の判決を言い渡します。その死刑の判決のあった翌日の『朝日新聞』の紙面に、こういうことが下飯坂さんの談話として載っておりました。

「長い裁判官生活で覚えているのはこの八海事件と松川事件だ。私が死んだらこの二つの事件の判決文を棺の中へ入れてもらうつもりだ」

 私はこの記事を読んでまことにりつ然としました。つまり斎藤朔郎さんがいっておりますように、裁判官が力みかえって、あらかじめ執念を燃やして事件に取り組むと、こういうことになります。これは恐ろしいことです。人を死刑にすることもできる人間が、自分の松川事件と八海事件の判決文を棺の中へ入れてもらいたいといっている。その後、下飯坂さんは亡くなられたから、いまごろはおそらくあっちのほうで自分の書いた意見をまた繰り返し読んでいるかもしれません。(笑)これは恐ろしいと思うんです。こういう態度で事件に接したならば、結局、犯罪のなきところに犯罪を認め、無実の者に対して死刑を言い渡すという精神構造になるのです。

 私は、鬼頭判事補の場合と、この道何十年というキャリアの下飯坂判事の過ちを、みなさんにご紹介したのですが、鬼頭判事補あるいは下飯坂判事のお二人だけが例外であるという証拠は、実はまったくないのです。むしろ官僚裁判官の世界にはこういう資質というものが傾向的、体質的にあるのではないかということをみなさんにお考えいただきたいのです。
 そういいますと、裁判官にも大勢の中には変なのもいるけれども、弁護士の中にもいるではないかというお詰も出てきます。弁護士は一万人以上おりますから、変な人もいると思います。しかし、弁護士はどんなに変なのがおっても、人に死刑を言い渡すことはない。弁護士が力みかえってみたところで、決してそういう権力公害ということになるはずはないのでありまして、これは同日の談ではございません。また、弁護士の場合は選ぶこともできるし断ることもできます。ただし、さんざんに仕事をさせておいて報酬を払う段になって断るということはできないのであります。(笑)
 そういうことで弁護士はポンと一つ解任届を出せばいつでも断ることはできます。しかし裁判官は、忌避の申したてを何べんやっても、忌避が通るということはないんです。
 私の知るかぎりにおいては、松川事件の石坂修一という最高裁の裁判官が、弁護団からの忌避の申したてに対して自ら手を引き回避しました。これがおそらく明治以来の裁判制度の中でただひとつ実質的に忌避が通った例ではないかと思います。 」(「回想の松川弁護」より)


以上長くなったが、大塚弁護士の談話を引用した。このなかにあるように、そしてウィキペディアにも記されているように、下飯坂裁判官は「八海事件」でも広島高裁の3人全員に対する無罪判決を破棄してもう一度高裁に差戻しをしている。1962年のことだから、五度目の松川裁判の判決が出る1年前のことである。八海事件の差戻審は再び有罪判決を出した。最終的に3人の被告人の無罪が確定したのは1968年の三度目になる最高裁判決(八海事件は七回の裁判を強いられた)によってであった。斎藤裁判官が述べている「自由心証」についての見解は、まさに下飯坂裁判官のような裁判官のあり方への批判だと思うのだが、この考え方はすべての裁判官が備えているべき必須の条件ではないだろうか。

裁判官は証拠の忠実な従僕としてその証拠のそなえている支配力に従順に服さなければならない。それはその証拠のあるがままの姿、その証拠が現にそなえている証明力のそのままの程度を裁判官の心証に写しとるということであって、これが裁判官の証拠に接する基本的な態度でなければならない。

現在では田中耕太郎氏や下飯坂潤夫氏のように極端に強烈なパーソナリティを持ち、誰の目にもその特異な個性・思想が判別できるような裁判官はあまりいないかも知れない。しかし実際に法廷の場に表われる裁判に対する個々の裁判官の姿勢はどうなのだろうか。ここ十年ほどの極端な重罰化傾向(このこと自体がゆるがせにできない大問題だと思う。)をみると、裁判には実は当時と同じく、あるいはよりいっそう深刻な多くの問題が伏在しているのではないだろうか。実際、私が風間博子さんに対する一・二審の判決文を読んだところでは、松川事件の一・二審に見られる「証拠の曲解・捏造」は事件の内容、時、場所の違いを超えてそのまま再現されている、少なくとも大変よく似ている感じを受けた。
2010.11.06 Sat l 裁判 l コメント (4) トラックバック (0) l top
「松川事件のうちそと」には、第二審判決の日(1953(昭和28)年12月22日(一審判決はこれより3年前の12月6日、福島地方裁判所で行われた)の法廷の模様の録音が掲載されている。これは短い記録映画として今も残っていて、私はこのビデオを昔知人に頂戴して今も持っているのだが、法廷の場面はほとんどカット写真のみで構成されているが、被告人たちの怒りのみなぎった顔つき、それから裁判長との激しいやり取りの声音から、その場の緊迫した光景が目に見えるようである。着席した裁判長はまず主文「原判決を破棄する」として3人を無罪とした。法廷にホッとした気配が漂ったかにみえた瞬間、裁判長は、「被告人鈴木信、同本田昇、同杉浦三郎、同佐藤一を各死刑に処する。被告人二宮豊、同阿部市治を無期懲役に処する……」と、残り17人に一審とほぼ同様の重判決を読み上げていった。松川事件のある裁判長が、被告たちの鋭い追求をうけて「やっているかやってないかは神様しかわかりません。」と述べたことは有名だが、その発言が飛び出したのは、この日、この仙台高裁の裁判長によるものであった。だが、松川裁判の最初から最後まで岡林弁護士と共に終始一貫主任弁護人として力を尽くした大塚一男弁護士は「回想の松川弁護」(日本評論社2009年)のなかで、この日の判決言い渡しは裁判長の「本日の判決は確信をもって言い渡す」という自信満々の前口上で始まったと述べている。それでは、広津和郎の短くも印象的な紹介文につづいて「第二審判決の日の法廷」を掲載する。(太字、下線による強調はすべて引用者による)


 次に掲げるのは、控訴審判決期日における公判廷の模様を、速記並びに録音によって整理したものであるが、この松川裁判の性質を端的に示すものとして、われわれに多大の感動を与える。」(広津和郎)

  第二審判決の日の法廷
    ○
 午前10時開廷、裁判長は判決文構成の項目を説明して後、判決要旨の朗読を始め、主文を告げ、判示事実の朗読を続けていった。
 判決要旨の朗読にはいってから18分後、
佐藤一被告 裁判長、それは何です、読んでいるのは、
裁判長 発言を禁止します。
佐藤一被告 第一審の判決をいい加減にして、また、まるででたらめを言ってるんじゃないですか。
裁判長 最後まで聞いて下さい、発言を禁止します。
佐藤一被告 そういう判決は、我々は承服できないのです。
裁判長 発言を禁止します、それに承服できなければあとで方法があります。
鈴木信被告 裁判長、聞くのは結構ですが、私達の聞きたいのは事実関係についてどうのこうのという解釈論でなく、何故真実とあなたの判断がくい違いがおきたか、その根本的理由を聞きたい。
裁判長 後で説明します。
鈴木信被告 スパナーで抜けるかどうか、バールが線路班のものかどうかが問題でなくて、もっと根本的なもので、裁判長のそういう解釈論というのか何か有罪だという考えがあって出てくると思います。だから、それでそこまで到達した過程を聞きたい。
裁判長 あとでそれは説明します、とにかく続けます。
鈴木信被告 いや、例えば電話連絡について事実関係をどう解釈するという小さな問題でなくて、あなたは何故我々とまるで違った判断をなすにいたったか……
裁判長 私共としては被告達のおっしゃることも充分検討して、詳細に検討したつもりですけれどもね。
鈴木信被告 冗談じゃないですよ。
裁判長 とにかく発言を禁じます、今まであなた方のいう事は充分聞いたのです、今日は聞きなさい。
鈴木信被告 聞きますけれどもね、結局11日に電話連絡があったとか、なかったとか、あの自在スパナではずせるかどうかという問題でなくて、一体何故事実とかけはなれた……
裁判長 とにかく説明を先に聞きなさい、不服申立ての方法がありますから、途中でそういう事を言われても困ります。
鈴木信被告 聞かないとは言いませんよ。
佐藤一被告 あまりにも事実と違いすぎるですよ。
裁判長 違う違わないはない……
佐藤一被告 今までは黙ってききました。しかしこういう判決を聞かせられては黙っていられません、どうして真実を曲げたかその根拠を示してもらいたい。
裁判長 それは見解の相違ですよ、我々はこの事実を認めたのですから。
佐藤一被告 そんな簡単なものでないですよ
裁判長 あんまり聞かないなら退廷してもらいます。
鈴木信被告 聞きますよ、聞きますけれども、あなたはここで不服なら上告しろとおっしゃるけれども、なるほどあなた方としてはそれは流れ作業でよいでしよう。それは責任のがれです。例えば第一審ではこうだった、不服なら二審へもっていけ。これをやるのに確信があるなら……
裁判長 いや無論我々は確信があってやっているんです、しかしながら不服があれば仕方がない、我々は決して流れ作業でその場の責任逃れをやっているのでない。
武田久被告 何の為に2年間やったか問題ですよ、事実とかけ離れた判断をしている。
裁判長 発言を禁じます、これ以上発言するなら退廷を命じます、被告達に無論聞いてもらわなければならないけれども、傍聴人、弁護人にも全部に聞いてもらう。
鈴木信被告 それではあとで発言の機会をいただけますか。
裁判長 あなた方には最終陳述でも充分述べる機会を与えたつもりです、今日は被告達の発言する必要はないです、検察官も弁護人も発言する必要はない。
佐藤一被告 我々はその必要ないような裁判を願ってきたのですよ。
岡田十郎松被告 裁判長、我々は4人も殺されたらどうするんです、我々は何もやっていないのだよ。
裁判長 言うなら静かに言って下さい。
蓬田弁護人 裁判長、被告の云うことを聞いてやって下さい。
裁判長 では代表で鈴木被告に10分間発言を許します。
鈴木信被告 とにかくですね、問題はあなたが言われるような、ささいな枝葉末節の解釈の事でなく、裁判長が如何なる判断をなされようとも真実は唯一つであり、絶対に動くものでありません、不滅です。問題にするのは、あなたはなんとおっしゃっても我々は実際やっていない。全くやっていない……
山本弁護人(高橋陪席裁判官を指し)、にやにや笑っている! にやにや笑ってよくないよ。
裁判長 静かに静かに(廷内騒然)
二宮豊被告 まだ笑っている。
高橋裁判官 それは……
岡田十良松被告 人を殺すときに笑っている。
高橋裁判官 おかしくないですけれど、笑うのは僕のくせでね。
杉浦被告 我々は真剣だ、高橋裁判官は笑っているとは何事です。
岡林弁護人 裁判長は直接死刑に手を下すのではないでしょう、しかしいやしくも人を死刑の宣告をなすときにニタニタ笑うような裁判官に我々は断固として抗議せざるをえない。顔を洗って出直していただきたい。言渡しをやるなら顔を洗って真剣な気持で判決がされることを要望します。我々は裁判官の笑いながらの判決を聞く事はできない。人道上の犯罪ですよ。
梨本弁護人 今朝の新聞を見ますと一部有罪一部無罪という様な報道がなされている。このことに非常な疑問を持たざるを得ない。この点について裁判所の釈明を求めます。
裁判長 とにかくやります。
蓬田弁護人 裁判長、延丁に命じて鏡を法廷に持って来て下さい。高橋陪席裁判官の前に持って来て笑い顔を反省させて下さい。裁判の権威を失墜させるものです。
岡林弁護人 裁判長は法廷指揮権を持っていられる、裁判長、同じ構成裁判官の一人が死刑の刑を4人に言い渡す最中において、ニタニタ笑っていられる、そして笑うくせがあると言っていられる、この様なことをいやしくも人間性のあるものが黙っていられますか、いやしくも人の魂をもっているものが。けだものの行為です、野獣の行為ですぞ。笑う様な顔を洗ってかかって下さい。(騒然)
高橋被告 今までいつも居眠りばかりしてきたんだ(註 高橋裁判官は公判審理中によく居眠りするので弁護人より注意された)
本田被告 無実で殺される私達の身になってごらんなさい。
岡林弁護人 一寸待って下さい。私がけだものの行為と言った時に瞬間的にまじめになられた。それ以前も以後もにたにた笑っていられる。私は真剣な評議が行われたとは考えられない。この法廷においてニタニタ笑っていられる様な態度では私は裁判所が真剣に反省されて評議し直されんことを求めます。
裁判長 高橋裁判官に注意します。
岡林弁護人 どういう注意をされるのですか、我々が今言ったようなことを。
裁判長 とにかく緊張してまじめにやって、心ではまじめにやっておられるでしょうが外観においても。
太田被告 今まで居眠りして来たんだから。
鈴木被告 とにかくどんな判断をされようとも私達は実際やっていないのだ。実際関係はない。このことは私は裁判の法廷で再三述べましたが、全く真実と離れた判断をされるか、その点が非常に心配だったんです、それは一番危険なのは新聞に出ているいわゆる心証というやつです、心証程危険なことはありません、これは判断の誤りを起す一番大きな原因です、それで我々は常に客観的な事実だけはいかなる偏見にも迷わされず、主観も入りません、だから客観的事実のみによって判断して下さいということを、繰返しくりかえし述べて来たんです。所が第二審法廷で2年間のあの調べで少くとも我々に不利な証拠というものは何一つ出なかった。事実審理の過程において我々に有利なもののみが出たということは、裁判官も御存じの事と思います、だからもっともっと調べれば必ずもっと有利なものがどんどん出て来ると思います、だから私達が問題にしたいのは実際やってない我々に対して有罪という判断が成立するかという事です、その過程においてなぜ誤ったものが出てくるか、その原因を我々が分析をしなければならない、そこに問題がある、その点を明確にしてもらわなければならない、そこで我々が一体実際やっていないのに、その様な死刑の判決を我々に聞けというのは、一体無理な話じゃないでしょぅか。
裁判長 裁判は裁判所の認定した事実と法律の適用によって宣告しなければならない、宣告した以上は終りまできかなければいかん、そして後でそれでこういう風に認めたという根拠を控訴理由の判断の中に折り込んで説明しますから。被告は絶体やらないと主張しておるが……
(被告はこもごもに) いや主張でなく真実です。
 証拠は我々の無罪を証明しているじゃないか。
裁判長 それは後で説明します、それで不服であれば仕方がない、裁判所の事実の認定は証拠によるんです、それで不服があればしょうがないです。
鈴木被告 やらなくとも死ねというんですか。
裁判長 それ以上聞いたって仕方がない、あなた方の言うことは皆聞いた筈です、あなた方の言い分はのみこんだつもりです。
被告 つもりだったら無罪だ!
裁判長 暴言をはくな!
被告 暴言ではない。(廷内騒然)
岡林弁護人 裁判長、被告諸君はこういう事を言っているんです、被告達は目の前で自分が殺され、あるいは同僚が殺されようとするのに対してだまっていることは出来ない、それは人間の普通の感情ではないですか、これはすなわち裁判所が裁判所としては目の前で殺すという実感を持たないで判決されるということが示されている、それは高橋裁判官がニタニタと笑っていた態度にもあらわれている、裁判所はまだあとがあるので今自分が刃を持ってするのとは違うという意識を明かにもっている……
裁判長 そんなつもりはありません。
岡林弁護人 しかし被告達は目の前で自分達が殺される、自分達を殺す手をひしひしと感じておるのです、人間が目の前に刃がかかってくるならば防ぐ本能を持っておる、そういう意味で自分達はただだまってはいられない、また一方裁判官の一部に判決の途中でニタニタ笑い容易にこれを反省されず、被告および弁護団の抗議に会い、裁判長から注意を受けてはじめて普通の顔にかえっている、こういう状態では一応裁判所もそういう気持を警告されるだけでなく、その警告は目の前で一寸つくろったにすぎない、裁判所が全体として厳粛なる気特を持って出直して判決されることを要望します、裁判所にその様な厳格な気持のなかったことを反省され、裁判所として厳格な気持を持直して宣告にのぞまれることを希望する次第であります、私はそれが正しい裁判のやり方であると考えます、裁判長は新聞紙上で拝見したことによるとすべての人々を納得させるつもりで裁判は行うと言っておられる様であります、それならば裁判官が宣告の最中、ニタニタわらうようなのでは、一体すべての人々を納得させると言っても納得するものは一人もいないであろうと私は考える、それ故に裁判所の猛反省を望む次第です。以上。
裁判長 とにかく続けます。
佐藤一被告 裁判長、私は裁判長の宣告によって生命をうばわれるものであります、しかしながら、裁判長、私はまた私以外の全部のものはこの事件には全然関係はないのです。あなたは先程我々の発言は聞いて来たと言っておられる、しかし今になって考えればそれはとんでもない。我々の発言を真に聞いてそして法廷に出された証拠を見るならば必ず無罪の判決がある筈だ、我々の発言を本当に聞いたならば必ず今日この法廷では無罪の判決がある筈です、それがない。我々を有罪にする証拠はない。何がある、証拠はないが、拷問によってデッチあげた白自調書以外はないではないか。
裁判長 後で説明します。
佐藤一被告 デッチあげた自白調書以外ないではないか、そこに我々に対する偏見があり、公正をよそおって検察官と同じ立場に立って、我々をただ死地に追いやろうとする態度ではありませんか、私達はこういう裁判には絶対承服出来ません、裁判官も記憶しておられるであろう、私は7月23日の公判廷で言った、この裁判が単にこの法廷だけで闘われてきたのではない、全日本、全世界からあらゆる関心が寄せられ、あらゆる支援がよせられて闘われて来た法廷なんです。だから法廷だけを納得させるだけでなく、全世界の人々、全日本の国民を納得させる様な裁判を要求した。裁判長もその時うなづいたではないか。
裁判長 そのつもりで判決しています。
佐藤一被告 そういう判決では絶対ない。
裁判長 それは見解の相異です。もうこれ以上聞いてもしようがない。分りました。
鈴木被告 見解の相異と言いますがね、そうじやないですよ。あなた達はそう思うと言っても実際やっていないんですから。
裁判長 やっているかやってないかは神様しかわかりません。
被告 我々は知ってるんだ。
裁判長 黙らないならあなたがたに退廷してもらうより外ない。まだまだ我々が聞いてもらいたいことは用意してあるんです。それをみな聞いて下さい。
鈴木被告 やっていないものを殺すというのか。
裁判長 とにかく続けますから。
杉浦被告 裁判長、そんなことを長々しく聞く必要はないですよ。我々の無罪だということは、証拠関係でもってはっきりしている。何故有罪にしたかということについて誰の命令を受けているかということだ。一体誰の命令で無罪を有罪にするのか。
裁判長 誰の命令も得ません。裁判に誰の命令もいりません。
杉浦被告 あらゆるものは無実の証明をしている。それを、その証拠を全部けとばして……だれかの命令でなければ出来ない。
裁判長 命令は誰にも受けていません。
被告 うけている。
裁判長 これ以上発言するならば退廷を命じます。黙って聞いてる人はいいが。
本田被告 裁判長、これは自分の良心に従った判決ですか。
裁判長 勿論。
(裁判長は判示事実の朗読を続けること4分)
佐藤一被告 裁判長! 私は裁判長が我々を納得させるような態度をとらないで、この判決を続けられる。異議がある。こういう判決はやめてもらいたい。そして出直してもらいたい。正しい判決をしていただきたい。
裁判長 やめません。そんなら佐藤一に退廷を命じます。
鈴木被告 どうして退廷を命じるのですか、私は正しいことを言っている。
裁判長 退廷しなさい。裁判所は双方の言うことを聞いてこう言うのですから。
佐藤一被告 裁判長は如何なることを言おうと真実は一つあるのです。とにかく最後まで闘いますからいいですか。我々は全世界の支持があるのです。
裁判長 退廷を命じます。
 (被告全員起立。佐藤一被告を退廷させようとする廷丁も看守もいない。)
裁判長 腰かけなさい。
佐藤一被告 必ず最後に歴史が真実を明らかにすると言った。しかし歴史をまつまでもなく私達は裁判長が国民の声に耳を傾けて真実を明らかにすることを確信しておった。しかし確信をうら切られたのだ。だから私はこの法廷において真実を追求する為に国民の皆さんの支持をお願いして最後まで必ず闘います。いいですか。はっきりと今日のことを肝に銘じてもらいたい。いいですか、私はもう言うことはない。
裁判長 それならばこれから黙って聞くか、きくならば退廷を取り消す。
杉浦被告 裁判長は何人の……
裁判長 とにかくやります。
高橋被告 ウソの判決を撤回しなさい。
裁判長 判決の撤回ということはありませんから、そんなことを言うなら高橋被告は駄目です。 退廷を命ずる。そういうことはありますか。あなた方は聞かないですか。
被告 聞きます。
裁判長 だまって聞いたらいいじゃないか。納得できないならば今言い渡したその理由を言う訳なんだ。最後まで聞いて下さい。君達は無罪以外納得出来ないなら退廷を命じます。とにかく静かに聞かないなら退廷を命じます。
被告 退廷々々と脅迫だ。
裁判長 脅迫なんかしません、警告しただけだ。
佐藤一被告 我々は納得できる判決を聞きにきたんです。それに退廷しろとは何事ですか。
裁判長 裁判の宣告をさまたげることになる。
佐藤一被告 我々は真に正しい裁判が行われるならばさまたげない、だから納得行く様なことを…
裁判長 有罪判決を聞こうとしない人は退廷してもらうより外はない。
弁護人 先程岡林弁護人からも言いました様に、あなたが今判決を言渡しているわけです、それに対して被告の発言を何時までも聞く訳にはいかないと言っておられた。しかし被告は何時までも聞いてほしいと言っているんでないです。
裁判長 だから先刻鈴木被告に10分間許しました。
鈴木被告 10分間しませんよ。
裁判長 一体言渡しの時に被告の発言をいつまでも聞くことが出来ますか。
弁謙人 裁判長は事務的に考えている。
裁判長 考えてません。
弁護人 それでは裁判にはならない。退廷を命じて死刑を宣告する、それは国民の納得する様な裁判になりますか。
裁判長 今になってはしようがないです。
被告 しようがないではすまないよ。
裁判長 そんなら立ってる被告全部退廷を命じます。
被告 私達の証拠は無罪です。
 裁判長! ききます。
裁判長 だめです、聞かないと同じです、退廷を命じます。
 (金員起立の被告着席)
袴田弁護人 休廷してもらって気分を新たにしたらどうですか。
裁判長 休憩はしません。円満にやりたいと思う。
蓬田弁護人 円満にやりたいと思います、その方法としてはこの情勢に政治性を発揮したらどうですか、この空気は裁判所側が挑発している、厳格な気持を回復して裁判長自身も気持をひきしめて気分を新たにして出直してやったらどうかと思います。このままでは徒に混乱する。
裁判長 どうすればいいんです、休んでも立ったり入ったりで相当時間がくうんです。
蓬田弁護人 今日は夜の12時まで時間があるのですから、人殺しをする重大な時に12時まで時間があるんですから、徹底した人間性がなければ公正な判決は下せない。
裁判長 被告が退廷すれば事務的になされることでしょう。
弁護人 このままではいけない、休廷を。
岡林弁護人 休廷の前に一言、裁判は事務的な処理で出来るものじゃありません……
裁判長 結構でないことは知っています。
岡林弁護人 私は実におだやかでない気持を持っている、裁判官がニタニタ笑うということは未曾有のことです、この事件ではじめて行われたものである、私自身も落ち着きたいと思います。裁判官もやはり人間である以上は神様でないということをよく言われましたが、おだやかでない感情を持たれたにちがいありません。これはやはりお互いが人間同志であるならば一寸空気をぬくべきではないでしょうか。
鈴木被告 無実の罪で死刑の判決をされて、あなただったらどうしますか。
裁判長 法律に従って責任をおいます。30分休憩します。(午前11時5分)
岡田被告 なにもしないのに殺されてたまるか。
本田裁告 私は裸にでもなににでもなります、何にもしないのにたまったものか。
裁判長 傍聴人退廷して下さい、30分後に初めます。

 (午前は結局11時15分休廷となり、午後1時から開廷された)
 (午前とひきかえ午後は裁判所の一階から三階の法廷まで、仝廊下を蟻の出る余地もない様に警官と看守は一列にならんで警戒した)

岡林弁護人 裁判長、あの警戒は何です、威圧しているんです、階段の下から上までずっと列を作って今にもとびかからんとしております。
鈴木被告 一体無実の我々を殺す裁判をするのにこの警戒は何だ。そんなことしなければ裁判はやれないのか。我々は真実をもっているから逃げもかくれもせん、誰が警官を動員した。
裁判長 そんなつもりでやったんでないです、あれは私だけでないです、私は法廷検察権しかもっておりません、それぞれの責任者がやっております。
鈴木被告 このざまは何だ。裁判長、今までの我々の審理に対する態度はみたでしょう、極めて紳士的にやってきたのだ。
佐藤一被告 我々は午前の裁判によって裁判長の正体を見破った。公正をよそおって人間性と良心を失った裁判に憤激した。憤激したために我々は抗議した。それを裁判長はにべもなく却下し退廷をもっておどかした。しかし我々は弁護人のなだめによって一応聞こうという方針を出した。聞いて裁判官が如何にデタラメの裁判をなすか聞こうと、全世界の人に知ってもらおうという気持になった。しかしながらこのものものしく警戒する態度を見ていると、どうしてもこれ以上聞くに耐えない。我々は裁くものは裁判官でなく本当は大衆である、国民であるということをまざまざとこの法廷でみせつけられた。これ以上法廷にいる事はできない。そして真実を守って国民大衆の判断によって、国民大衆に訴えることによって、国民大衆の支持のもとに我々は明らかにして堂々と争う。勿論我々はにげかくれしません。私は裁判長の不正な態度、良心を失った態度に満腔のいかりを以て抗議する。私達は退廷する。
(被告こもごもに)我々の顔をよくみておけ。
 我々は最後までたたかう。
 貴様らに殺されてたまるか。
 俺の顔をよくみろ。
 真実の強さを見ておけ。
 あれは売国奴だ。
佐藤一被告 弁護士諸先生に申し上げます。私達は先生方の真面目な態度にあくまでも真相を究明された事に深く感謝しております。この法廷で私達の無実が明らかになり無罪の判決がきまるものと期待して来ました。しかし判決の結果はこうであります。そして午前中判決を聞いた結果どうしても怒りを押える事ができなかったのであります。その為に裁判長に抗議しました。我々は裁判長に釈明を求めました。しかし納得いくものではありません、そのため休廷になり、一応もう少し聞いて如何に裁判官が事実に反した辻つまの合わない裁判をするか聞いて、その結果を日本の良心をもった人々に訴えてゆこうというようにきまったのでありますが、しかし、私達は食事をしながら考えますに怒りを禁じえませんでした。ほんとうに禁じえませんでした、このものものしい警戒をみた時更に怒りが爆発したのであります。どうしても法廷にとどまって、判決の朗読を聞く事はできないのであります。私達は勿論逃げ隠れもしません。あくまで真実を守って真相を明らかにする為に堂々と闘います。今後とも諸先生方の絶大なる援助をお願い致します。
岡林弁蕃人 全力をあげて我々はやります。
弁護人 決意にそむかないように闘います。
佐藤一 全力をあげて闘うと言うことをおききしまして、またみんな闘うという事についてせつにお願いします。

 (被告全員退廷)

岡林弁韓人 弁護人も退廷せよという意見がありますが如何いたしますか。
袴田弁韓人 私は弁護人として最後まで退廷しないつもりです。
上村弁護人 一点言申し上げます、被告諸君はこういう判決をきく必要はないからというので我々は午前中協議致しまして、聞く方がいいという意見だったのでありますが、午後になって被告が帰った故のものは、警官の板締りの態度に憤激したもので、私も実に少なからず憤激したのであります。こういう無理な判決を無理な形でおしつける事は被告にとって耐えられないものであったと思います。我々は法廷指揮を守らなければならないけれども、被告が退廷したところで弁護人だけおめおめとして言渡しをきく必要はないと思う。弁護人は居る必要はないと思う。ですから私は全員退廷する事を弁護人諸君にすすめたいと思う。被告が一生懸命聞くなら我々も聞かなければならないが、被告が聞くに耐えない判決とこの法廷指揮に対して、被告がいないところで聞く事はむしろ弁護権の行使でないと確信するのでありますから、全員退廷することをおゆるしねがいたい。
袴田弁薄人 判決文をみればわかりますが、できるだけ早く判決を頭の中に入れる必要があると思う。団体行動に反することになるかもしれませんが私は最後までのこります。
岡林弁護人 我々は判決がデマ宣伝に使われるということが予想されるので、世上に流されるそれに対しては反撃しなければならない。それは被告に対する義務であると思う。そのために判決文ができて吾々の手元に渡されていれば退廷してもいいけれども出来ておらない以上は要旨だけでも一応聞いて、できる限り、如何に判決が誤っており、許すべからざるものであるかを反撃した方がいいのでないでしょうか。私達も非常な憤激をもっております。御承知のように私は気が短いけれども、これは被告諸君が聞くに耐えなくとも、その点は被告諸君ほどには直接でないだけにいくらかは聞きうる余裕をもっております。そして世間に訴える余裕をもっている。あくまで聞いて訴えるという趣旨の方がいいではないでしょうか。
上村弁護人 聞くのは一応義務と考えますが、この世紀の判決に対して被告がどうしてもここにとどまる事ができないと言って弁護人の静止を聞かず、協定を破って出ていった。しかし我々はどこまでも弁護人なんです。被告の利益を擁護する弁護人であり、それ以外の何ものでもない。かくのごとき事態を出現させたのは、すべからく裁判所の責任であろうと思う、そこで被告なしに我々はきいたところでどうにもならない。しかしきかないと言っても、これは判決があればあとで書面でわかる事である。我々は弁護の熱誠にあふれているから、こういうところで聞くのは辞すべきであろうと思う。
岡林弁護人 我々は退廷するのに控訴審だから了解は必要ないんです。
梨本弁護人 私は御前中裁判長に釈明を求めました。新聞紙上で、本判決が一部有罪、一部無罪という事が報道されている。しかも裁判長が判決を書いているその場面が新聞紙に写真としてのっている。これらの事実を綜合するならば、この判決が事前に外部にもれた事を想像せざるをえない。そのような想定のもとに本日のような戒厳令下にある様な事をしたと考えざるをえない。弁護人が出入するところまで人垣の警官によって警戒するという事は、私は裁判史上このような経験をもっていない。これはこの判決は、国民を納得させる判決でなくして、国民の納得しない判決を押しつけようと権力と武力、ピストルによって押しつけようとしたものと判断する。それ故にこの疑いが私個人の疑いなら私は考え直しますが、しかし客観的にこのような事実が我々の眼前にある新聞紙上に判決を書いている写真がのっている。この点について裁判長の釈明を求めます。
裁判長 新聞の点は絶対洩らした事はありません。写真はとらせましたけれども、しかしこの場合は用意周到に我々が書いているものは全部うつらないようにしたつもりです。記録はいやしくもその様な事のないように注意しました。
梨本弁護人 判決を書いている現場に報道者を入れていること自体は判決が外部にもれることをおそれるものである。
裁判長 役所で判決を書いている場面でしょう。あの部屋しかないですよ。そこで新聞記者に会うので、あそこしかない。別に判決をもらすようなことはありません。それ以上はあなた方が勝手に想像されても答えようありません。
岡林弁護人 私が非常に新聞の点について疑問に思っておりますが、これは大変失礼かと思って、だまっていたが、11月下旬、裁判長は最高裁判所の真野(マノ)さんに東北のどこかの温泉でお会いになったことはありませんか。
裁判長 そんな事は絶対にありません(苦笑)真野裁判官の名誉のためにも。但し視察にこられた事はあります。その際庁員一同と外に弁護士会の代表者が来られたと思います。そのとき以外にはありません。
岡林弁護人 そうですか、別に疑っているわけではないんですが、ただ新聞にもれている疑いがあるので失礼ですがお聞きしたわけです。
裁判長 ただ最高裁の方が来る事はあります。最高裁の人が来た時はその様な所にご案内する事はありますが、11月下旬は私は判決文を書くためにいそがしかったのですから絶対に行っては居りません。
能勢弁護人 法廷指揮権の問題について一寸おたずねしますが、東京その他では法廷外も構内も裁判官の指揮権内にあるような説がある様ききますが、裁判長は法廷指揮権は法廷内のみに限ると先刻来おっしゃっておられるが…
裁判長 法廷内のみとは言っておりません、法廷内は勿論、それに接着する廊下などには及ぶと考えている。
能勢弁護人 私は廊下の只今の状態はあまりひどいと思います。被告はそれに憤激致しまして午後からの裁判はうかがうことは出来ないと言う様な興奮状態に達しておりますので、そのことによって被告のいない空白の法廷を持たなければならない。上村先生の言われる様に私達は弁護人なのでありますから、被告人なしにこれをきくことは堪えないのでありますが、そういうことはやはり裁判長の拒揮権の下に行われたということを私共は見てよろしいでしょうか。
裁判長 私はそういうつもりでやっておったのでないですから、そう言う風にお考えになられたんでは……廊下はせまいもんですし、カメラマンの出入等もありまして、そういうことになったのでないかと思いますが実際私はその場面を拝見していません。
能勢弁護人 カメラマンはずっと端の方にいましたが、私共がズーッと通過して来るところは全く人垣の中と棍棒の中を通って来なければならない。弁護人が午後からの発言につきましても威嚇をうける様な状態でここに入る様になりました。そういうことがやはり裁判官の指揮権の中だと言うことを確認してよろしいですね。
裁判長 そういう事になるでしょう。ただ庁舎管理権と競合する場面もあると思います。
蓬田弁護人 午前におけるこの法廷を中心とする警戒ぶりと午後における極端な警戒ぶりとは法廷は非常な差がある。しかも裁判長は平穏の中に判決を言い渡して職責を全とうされるという考えのもとにこの法廷にのぞまれたと思います。その時に法廷を中心とする廊下、接着する場所について、この程度の警戒なら判決は最も効果的になされるというお考えのもとで入廷されたと思います。ところが午後は午前と異なり警官の人垣の中をずうっと通ってこなければならん。あえて私はかくのごとき武装警官が何十万押寄せようとびくとも致しませんが、何の必要があって午後に更に動員されたか。その具体的理由、しかも開廷以前に岡林弁護人から法廷外の警戒を解いていただきたいと言った。それを依然としてとらない。さような事をしなければ言渡しができない様な具体的危険が発生しているか。その点をはっきりごまかさないで我々の納得いくような釈明を願いたい。しかも今、被告は退廷している……尚且つ警戒をつづけられるか、御答弁顕いたい。
裁判長 午前も午後の警戒も、私は無論法廷に警察官がいるという考えはもっておりません。どっかの部屋に待機しているという事は知っております。しかしこの法廷を警戒してくれとかいう指図は一切しておりません。
岡林弁護人 その様な問題に就て我々が不当と思う点はまた後で述べる様にしますが、我々自身が如何なる武力によって脅かされ様とも屈するものではありません。しかしこの場合私はやはり上村先生の御意見もありましたけれども、弁護人と致しましては裁判長が読み上げられ様としている判決が如何に不当であるかということも大体今まで現われたところでも感じ、また一部分判っても居ります。しかしそういう点を更に直に、本日我々がある程度の結論を出し得る様にするために、早くききたいと思います。そしてどうかいそいで朗読していただきたいと思います。それは上村先生に対しては私はまことに言いにくいのでありますが、やはり弁護人といたしましては被告諸君は単に感情のみで動くのではなくして、その感情には寄りどころがあると言うことをあきらかに示したい。被告諸君が何故に憤激するかと言うことを判決の事実について示したいが故に、しのぶべからざるをしのんで、此処に聞こうとするのであります、早く読んでいただきたい。尚、只今、裁判所の前で松川事件公正判決要請大会が行われており、そこから大会において三つの項目すなわち、
一、裁判の即時打切り、裁判の公正を期するため裁判のやり直しをせよ
二、三裁判官の即時罷免
三、二〇名の被告即時釈放
こういうことを裁判長に申入れたいから弁護団から斡旋を願いますというのがきています。けれども現在は私はやはり言われかけたことはききたいと思います。後でこれらの人達とあるいはうかがう様になるか判りませんがおききをねがいたいと思います、私達は早くききかけたことはききたいと思います。
――以後判決理由の要旨を裁判長朗読、午後3時15分閉廷――。 」


判決に憤激した被告たち

   佐藤一の声明書朗読

 第二審の判決で第一審同様死刑の宣告をされた佐藤一君は、前から病気で執行停止になっているため、直ぐ拘置所に戻る必要はなかった。そこで判決が終ると、裁判所前に降りしきる雪をおかして集まって、この日の判決を待っていた群集の前に立って、音吐朗々と左の被告団声明書を朗読した。

  「真実を踏みにじって本日、鈴木裁判長は有罪の判決を下した。これは裁判長が良心をすて、独立を失い、人間性を投げ捨てたためである。二十名が無実であり、無罪であることは一切の証拠からまったく明かである。裁判官がどう判決しようとも真実は唯一つであり、決してうばい去ることはできません。我々はこの真実を守ってあくまでも闘い、必ず松川事件の真相を明かにし、国民の皆様とともに、正義と自由のために闘うものであります。国民の皆様、全世界の皆様、どうか絶大の御援助をお願いします。
  一九五三年十二月二十二日正午        松川被告団 」

 この佐藤一君の声明書朗読は、録音で聞いても堂々として気塊に溢れたものであった。法廷における発言やこの声明書朗読が、余りに元気に溢れていたので、それをラジオで聞いた東京の官憲では、あのような元気横溢した発言をする人間を、病人として執行停止にして置く必要はないといって、直ちに仙台の警察に、執行停止を取止めて収檻するようにとの命令を下したが、それを知った袴田弁護人が裁判長に交渉して、やっと事なきを得たというようなエピソードもある。」(「松川事件のうちそと」広津和郎)

上述のように広津和郎は、病気(肺の病)で入院中の佐藤一被告が仙台裁判所前で被告団声明書を驚くべく元気に読み上げたことを書いている。私もビデオでこの場面を見ているが、本当に佐藤被告は病人どころか、気力横溢の健康体の人のように見える。おそらく、憤激、怒りがあまりにも大きく、メラメラと反骨心が燃え上がっていて、意気消沈どころではなかったのだろうと思う。

それにしても、自ら17人の被告人に対し、死刑4名、無期3名をふくむ重罪を課した裁判長が、当の被告人にその判決の根拠を追求されると「やっているかやってないかは神様しかわかりません。」とか「見解の相違です」という返答をしようとは…。前代未聞であるだろうが、この事実こそ松川裁判の性質をよく物語っているように感じられる。なお20人の被告人のうち、3名の人(斎藤、武田、岡田)はこの日無罪となった。その理由は二回行なわれたという国鉄と東芝間の列車転覆のための謀議のうち、一回目の謀議に首謀者として出ていたはずの一人の被告人に隠しようのない明白なアリバイがあることが判明したため、その謀議自体がなかったことにされたためだった。これは、最高裁における「諏訪メモ」の出現と同じケースということになる。
2010.10.08 Fri l 裁判 l コメント (6) トラックバック (0) l top
広津和郎編・著の「松川事件のうちそと」という小型本(新書サイズ)は、1959年8月10日の最高裁判決を前にした同年3月に光書房から出版されている。

控訴審の有罪判決直後から『中央公論』誌に4年半連載された「松川裁判」について、広津和郎は、自分はこの裁判を巷でよく言われている政治事件として見るのではなく、普通の刑事事件と見て真相がどうであるかを検討する、と何度か述べている。実際、「松川裁判」では具体的な諸事実と判決文とを一つひとつ丁寧に照合し、詳細な検討を重ねていき、そうすることによって判決文がいかに不合理な判断をしているか、裁判官がいかに意識的な証拠の歪曲と捏造をつらねていって被告人たちに故意に罪を負わせているかということが浮き彫りになっているように思う。

「松川事件のうちそと」において、広津和郎は、「一つの捏造は次の捏造を作り出す」と述べている。一つ証拠の捏造をすると、それにツジツマを合わせるために、さらに新たな捏造を作り出さないわけにはいかなくなるというのである。そのことは、私たちが松川事件だけではなく、他の冤罪事件を見ていく場合、まったくそのとおりであるとふかく実感することである。不合理を押し通せば必ず別の不合理を呼ぶのだ。そうなると物事の当たり前の論理はそっちのけになり、自然に反した奇妙奇天烈な結論が導き出されることになる。論理性、合理性は本当に大事。とりわけ裁判には必要不可欠であり、これなくして裁判の公正は保たれないとつくづく感じる。

その点で、最近落胆したのは、かねてから信頼感をもっていた保坂展人氏のブログ「どこどこ日記」9月9日付の「鈴木宗男氏「失職・収監」で国策捜査の検証を」という記事であった。保坂氏は次のように書いている。

「2002年当時、私は鈴木氏を「疑惑の人」と見て追及してきた立場だったが、その後の『国家の罠』(佐藤優著)に出てくる「国策捜査」をめぐる構図を見て、私たちの追及も、メディアスクラムと呼応した「予断と偏見」を前提にしていたことを強く感じるようになった。」

保坂氏は、「『国家の罠』(佐藤優著)に出てくる「国策捜査」をめぐる構図を見て、私たちの追及も、メディアスクラムと呼応した「予断と偏見」を前提にしていた」と、佐藤氏の言い分を全面的に信用し、佐藤氏も鈴木氏も「国策捜査」の犠牲者のように描いているが、その根拠は一つも示されていない。このような重大なことを述べる時に根拠を提示しないことには疑問を感じる。まして保坂氏はこの間まで国会議員だったのだから。

『国家の罠』が出版されてからもう5年は経ったと思うが、その間、佐藤氏は自分と鈴木宗男氏が「国策捜査」の罠にかかったと言って、「国策捜査」「国策捜査」と繰り返しているが、自分たちが潔白であるか否かを第三者(読者・市民)が公平に判断できるような情報の提示を一切していないように思う。私は、ウェブ上で随分検索してみたが、法廷で誰がどのような具体的証言をしたのかなど、裁判の実際的な経過を知ることはできなかった。あれだけ本を書いていながら、佐藤氏にこの点に関する本はないようである。これは裁判をめぐる話題では珍しいことで、私たちがあの事件はおかしい、とか、冤罪ではないか、と感じるようになるのは、主体の側から、その事件の最も肝心な点、不審な点について、客観的な判断材料をあれこれ提示されるからなのだ。保坂氏が鈴木氏を「国策捜査の被害者」だというのなら、当然その根拠を示すことが必要とされている。こちらのブログでは、鈴木氏に対する最高裁の決定について、

「…話を鈴木宗男氏の刑事事件に対する最高裁決定に戻しますと、私はこの決定は極めて妥当であり、決定理由も丁寧に示され、的確なものであると考えています」

という前書きの下、執筆者の見解が明確に述べられている。私などは鈴木氏の裁判の経過の詳細を知らないのだから、判決文について正確な判断はできないが(ただし、佐藤氏ともどもイスラエルとの関係など不審に感じる点はある)、保坂氏が鈴木氏を国策捜査の被害者と考えているのなら、タイトルのように「鈴木宗男氏「失職・収監」で国策捜査の検証を」などと人ごとのようにも感じられる主張をするのではなく、まず最高裁判決を妥当としている上記のブログの主張に反論するなりして、鈴木宗男氏が「国策捜査」の被害者である根拠を示してほしい。これでは本末転倒ではないかと思うし、このような没論理(少し言い過ぎかも知れないが)の現状は、根拠を示してせつせつと冤罪を訴えている他の人たちのためにも、また今後の司法のためにも、かなり深刻に不安な要因、傾向ではないかと思う。


話が脱線してしまったが、広津和郎はこのように20人の被告人が列車を顛覆させたのではないということの立証に全精力を注ぎこんでいて、では真犯人は誰なのか、というような話題にはほとんど言及していない。以前引用した講演で、その点に少し立ち入って占領軍の「シャグノン」という人物の名前を出しているが、この「松川事件のうちそと」でもやはり「シャグノン」という軍人の名が出ている。「シャグノン」の名は、松川事件の前に起きた国鉄の下山総裁事件で必ず引用される有名な名前だが、この名は実は松川事件が発生する直前に福島で起きた「福管事件」でも出てくるのだ。朝鮮戦争が始まる前年のその当時、国鉄を牛耳って95,000人もの国鉄労働者の馘首を目論んでいたシャグノンの名は、鉄道関係では東京のみならず、福島にまで轟いていたというのである。当時の世相や事件の背景を知る上では参考になるかも知れないので、広津和郎の発言を一部引用しておくが、その前に、同時期に発生した他の不思議な事件、下山事件、三鷹事件の時系列も簡単に記しておく。

7月5日  国鉄の下山総裁が行方不明になる。翌6日、0時25分ころ、遺体が国鉄常磐線北千住・綾瀬間で発見される。
7月15日 国鉄中央線三鷹駅で無人電車が暴走、死者6名、負傷者20名。
8月17日 国鉄東北本線松川・金谷間でレールが外され列車が転覆。機関士など3人が死亡。


  巻頭に (広津和郎)

「われわれはあの松川被告諸君が真犯人ではないと言うと、「それでは真犯人は誰なのだ?」という質問をよく受ける。
われわれとしては、松川被告の諸君が真犯人でないという事を証明できれば、それで充分なのだと考える。併し「それなは真犯人は誰なのだ?」という質問をする人達の気持も分からないことはない。
あの被告諸君が列車顛覆の真犯人でないということの証拠を示すよりも、若し出来るならば「真犯人を探し出して見せる方が松川被告諸告が真犯人でないと言うことを一層手っ取り早く質問者に理解させるには違いないと思う。
併し残念ながら、「それでは誰が真犯人だ」と確言する程のキメ手を、われわれはまだ持合わしていないのである。私達は此処で松川第一審、第二審の裁判官のような、キメ手のないものを、推察によって認定すると言う態度は、極力排撃しなければならない。
 併し参考にすべき資料が全然ないわけでもない。
 あの事件はアメリカの占領軍の指示によって、吉田内閣が人員整理のためにあの年(引用者注:1949(昭和24)年)6月に定員法を制定して間もなく起ったものである。その定員法によって、国鉄が大量クビキリをしたことは、本文の「歪曲と捏造による第二審判決」の中でも少し触れているが、その大量クビキリについて三つの事件が起った。下山事件、三鷹事件、松川事件がそれである。国鉄が第一回のクビキリを発表する二日前の夜中に当時国鉄を牛耳っていたアメリカのシャグノン中佐が、下山総裁の家に自動車を乗りつけて、テーブルの上にピストルを置いてクビキリ断行を迫ったという事実のあったことも、「歪曲と捏造による第二審判決」の中に述べて置いた。
 そのシャグノン中佐の名は、東京ばかりでなく福島にも現れているのである。
 松川事件の前に、福島には福管事件というのがあった。それはクビキリ反対に立上った国鉄労組福島支部の幹部連中(この中には松川被告も数人いる)が、管理部長と団体交渉をしていた。その途中、管理部長が団体交渉を一方的に打切って労組幹部達に面会を拒絶したので、それを憤った組合の人達が管理部に押しかけて行った。管理部ではそれを警察に通知したので、警官隊がやって来て組合員に解散を命じた。その解散を命ずる時、「シャグノンの命令だ」と警管隊は言ったのである。
 これがいわゆる「福管事件」と称せられるものである。
 シャグノン中佐が、国鉄総裁をピストルで威嚇してクビキリを迫ったばかりでなく、福島でまでシャグノン中佐の名が如何に大きな響を持っていたかが、これで分るであろう。
 それから間もなく松川事件が起り、福管事件の中心的幹部が、松川の被告として逮捕されたのである。
 無論シャグノン中佐と松川事件とを関連させて考えるべき証拠はない。併し松川事件が起った当時の時代的背景を考える上では、これは一資料たるを失わない。」(広津和郎「松川事件のうちそと」)

上記のように語った後、広津和郎は、「消えた人」という題の熊谷達雄氏という人が書いた文章を紹介し、これを収載している。政治的大事件、大陰謀事件では、その周辺の脇役のような位置の人が不審な死を遂げるというような不可解なことが起こりがちだが、この本も松川事件におけるそのような不審な出来事を描いたものである。8月17日早朝、東北の一鉄道で列車が顛覆したことは事実であり、20人の被告人たちがそれを実行していなければ、他の何者かが実行したことになるので、松川関係者は当然のことながら広津和郎も含めてこのようなことにも関心を向けたようである。「消えた人」というのは、実は松川在住の斎藤金作という人物のことで、事件を詳しく紹介している「松川事件」というサイトに【トピックス 斎藤金作怪死事件】としてその詳細が載っている。

(上記で付した太線はすべて引用者によるもの)

10月15日 タイトルに追加を入れました。
2010.10.07 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
今年(2010年)の4月27日、もう4ケ月も前のことになるが、最高裁第3小法廷(藤田宙靖裁判長)は、2002年(平成14)年に大阪で発生した「母子殺害・放火事件」の第1審判決の無期懲役(求刑は死刑)、第2審の死刑判決を破棄し、大阪地方裁判所に差戻した。この事件は、マンションの自室で28歳になる女性(主婦)が絞殺され、1歳10ヶ月の長男が浴室に沈められて殺害された上、部屋は放火されて全焼という陰惨なもので、逮捕されたのは、被害者女性の夫の養父にあたる人物であった。差戻し判決を伝えるニュースや新聞の論説などはたくさん出ているが、こちらのサイト(最高裁第3小法廷;大阪の母子殺人事件 が死刑を破棄、差し戻し(10年4月27日)=判決全文/関連社説)に判決全文および各新聞社の社説などまとめて載っていて、事件の詳細を知るには参考になると思われるのでリンクしておく。


「     最高裁第3小法廷が言い渡した判決理由の要旨

  刑事裁判での有罪の認定にあたっては、合理的な疑いを差し挟(はさ)む余地のない程度の立証が必要であるところ、状況証拠によって事実認定をすべき場合であっても、直接証拠によって事実認定をする場合と比べて立証の程度に差があるわけではないが、直接証拠がないのだから、状況証拠によって認められる間接事実中に、被告が犯人でなければ合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることを要する。ところが、本件で認定された間接事実はこの点を満たすとは認められず、1、2審で十分な審理が尽くされたとは言い難い。
 1審判決による間接事実からの推認は、被告が事件当日に現場マンションに赴いたという事実を最も大きな根拠とする。その事実が認定できるとする理由の中心は、マンション階段踊り場の灰皿に残されていたたばこの吸い殻に付着した唾液(だえき)中のDNA型が、被告の血液のそれと一致したという事実からの推認である。
 この点について、被告は1審から、息子夫婦に自分が使った携帯灰皿を渡したことがあり、息子の妻が携帯灰皿の吸い殻を踊り場の灰皿に捨てた可能性があると主張していた。
 吸い殻はフィルター全体が茶色く変色しており、水にぬれるなどの状況がなければ短期間でこのような変色は生じないと考えられる。吸い殻が捨てられた時期が、事件当日よりもかなり以前のことであった可能性を示すものとさえいえる。吸い殻の変色を合理的に説明できる根拠は、記録上見当たらない。 」


この判決理由要旨によると…。刑事裁判の鉄則は「合理的な疑いを差し挟(はさ)む余地のない程度の立証が必要である」ことだが、まして直接証拠がなく状況証拠(間接証拠)によって事実認定をするしかない場合には、さらに厳しい条件が付与され、その条件をクリアーしなければ証拠として認定してはならないという判断が示されたことになる。その条件が、間接証拠の中に「被告が犯人でなければ合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていること」である。これは裁判所によって示された新しい基準であると思われる。

この事件と判決の内容について私は詳細をほとんど知らなくて、拙ブログを読んでくださった無空氏とコメントのやりとりをしているなかで教えていただき、そのおかげで判決全文を読むことができたのだった(無空様、改めてありがとうございます)。そしてこの事件を取り扱った最高裁裁判官諸氏の事実認定に対するきわめて慎重で厳正な姿勢に接し、大変に嬉しかった。差戻しに賛成した多数意見の4名の裁判官のうち3名は丁寧な補足意見を書き、もう一人の多数意見の裁判官と少数意見の裁判官の二人はそれぞれに意見、反対意見を書いている。

「疑わしきは被告人の利益に」、「たとえ10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜を処罰するなかれ」、あるいは上の判決要旨に見られる「事実認定には合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要とされる」などの刑事裁判における大原則は承知していても、現実の日本の裁判においてはこれらの原則はほとんど無視されてしまっているように感じることが多かった昨今、なんだか久しぶりに判決文らしい判決文を読んだ気がしたのであった。

被害者の部屋はマンションの三階にあり、被告人の吸殻が見つかった灰皿は、マンションの1階と2階の踊り場に備え付けられていたそうである。事件翌日押収されたこの灰皿には被告人の唾液が付いた吸殻(ラークスーパーライト)が1本あることがDNA鑑定で分かったわけだが、これについて、被告人は一審段階から一貫して、息子夫婦に自分が使っていた携帯用灰皿を譲り渡したことがあり、その中にあった吸殻を被害者がマンションのその灰皿に捨てた可能性があると主張していたことは、上述の判決理由要旨にあるとおりである。写真でみると、この吸殻はフィルターが茶色く変色しており、最高裁はこれについて、「事件当日よりかなり以前に捨てられた可能性がある」と見たわけである。また被害者宅からは、別の金属製の黒色の携帯用灰皿も見つかっており、この灰皿の中の吸殻からは被害者の義母(被害者の夫の母親)のDNAが検出されているが、この灰皿も元は被告人宅にあったものだそうである。その上、また別の箱型の白と青のツートーンの携帯灰皿もマンション自室から発見されているそうだから、被告人宅から被害者宅に持ち込まれた灰皿は都合3個にもなるわけだが、被告人側はこの箱型の携帯灰皿から捨てられた可能性が高いと主張しているそうである。

判決文を読むと分かるのだが、最高裁は、被告人の吸殻のDNA鑑定をした際、なぜ同時に被害者のDNA鑑定をしなかったのかということを問題にしている。というのも、72本の吸殻の中には、被害者が通常吸っていた銘柄(マルボロライト〔金色文字〕)の吸殻が4本あったそうなのである。これには私なども「なぜ?」と不思議に感じる。もしこのマルボロライトの吸殻がDNA鑑定の結果被害者のものと一致したならば、被害者が被告人から譲り受けた携帯灰皿の吸殻をそのまま踊り場の灰皿に捨てたのであろうというつよい推認ができるからである。もっとも検察側は明確に「鑑定をしなかった」と明確に述べているわけではないようである。ただ「鑑定をした」という証拠・記録がないということである。

それから最高裁判所の5人の裁判運のうち4人までもが、写真を見て「事件当日に吸った煙草にしてはあまりにも変色が甚だしすぎる」と感じとるくらいだから、この吸殻がいつ頃吸われたものなのか、捜査陣がその時点でなぜ問題にしなかったのかということも不審である。吸殻の1本に付着していた唾液が被告人のものと一致したことで「事足れり」、これが動かぬ証拠になる、と思ったのだとしたら、あまりにも軽率すぎる、捜査が杜撰にすぎると思う。

というのは、私も喫煙者であり、一時期、ビニール製の携帯灰皿をバッグに入れて持ち歩いていたことがあるが、吸殻がたとえ3、4本の少量であっても、それをバッグ(ハンドバックならなおさら)に入れておくと妙に気になるものなのである。そんなことは現実には滅多にないのだが、バッグの中が灰で汚れるのではないかというような落ち着きなさをおぼえ、どこか気軽に捨てられるところがあれば捨ててしまいたいという気分になるものなのだ(実はそれが原因で私は携帯灰皿をバッグに入れるのをやめてしまった。現在は3㎥位の大きさの携帯灰皿を時々用いることがある)。ここ数年は禁煙場所が多くなってそういう場面はあまり見なくなったが、以前は公園やスーパーの休憩所などに備えつけられた大きな灰皿に携帯灰皿から吸殻を移している、というか、振り捨てている場面を見た記憶もある。最高裁の五人の裁判官の方々は全員男性のようだが、女性の場合は特にこういう心理をおぼえる可能性は高いのではないかと経験上感じる。小さな携帯用灰皿から大きな灰皿に吸殻を捨てるという行為は、案外、そこかしこで日常よくあることではないかと思う。

したがって、5人の裁判官のうちの少数意見である堀籠幸男裁判官が述べているような「被告が犯行に関与したことは合理的疑いを差し挟まない程度に立証されている」との反対意見にはとても賛同できないし、これでは誤審が発生する危惧、危険性をつよく感じる。生活していれば、まして人を訪ねたりする場合には、思いもかけないことは往々にして起きるものなのだ。気軽に立ち寄ったつもりでいたのが先方で何か大事が起きていてびっくりしたり、思いもかけず数十年ぶりに珍しい人に会ったり、何かしらの驚くべき経験のない人は滅多にいないはずである。ただそれ以上の大事に至らないから、自然に忘れてしまうだけなのだ。人生何が起きるか分からないというのは紛れもない事実だと思う。だからこそ、捜査や裁判のような重大事にあたっては、取り返しのつかないことにならないように決してあらかじめ何かを決めてかかってはいけない、必ず失敗が発生すると思う。

差戻しに賛成した4人の裁判官の中でも、次の問題については意見が分かれているようである。それは、差戻しの審理の結果、被害者が好んで吸っていた灰皿の中の4本の銘柄(マルボロライト)の吸殻が被害者のDNAと一致しなかった場合、また被告人の吸殻が確実に事件当日にその場で吸ったという新たな事実が判明した場合、被告人の犯人性をどう見るかという問題である。

多数意見に加わり、差戻しに賛成した那須弘平裁判官の意見は,次のとおりである。

「……多数意見が「仮に,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いた事実が認められたとしても,認定されている他の間接事実(注1)を加えることによって,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明できない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が存在するとまでいえるかどうかにも疑問がある」とする点については,私は見解を異にする。
そもそも,被告人には犯行に至ってもおかしくない人間関係が存在することは否定しがたく,これに妻Eとの間での携帯電話のやりとりをめぐる被告人の不自然な行動,及び事件当日の被告人の行動につき被告人自らによる合理的説明がなされていないこと,犯行現場の状況や犯行の手口等からみて犯行が被害者と近しい関係にある者によって敢行された可能性を否定できないこと等の間接事実が存在することを踏まえると,被告人が犯人ではないかとの疑いは拭いがたいものがある。
そのような証拠状況に加えて,さらに,本件吸い殻に関する差戻し後の審理の結果として,被告人が当日本件マンションに赴いた事実が証拠から認定できる状況が生じた場合を想定すれば,被告人が犯人ではないかとの疑惑は極めて強いものになるはずである。そして,この場合には,被告人が第1審及び原審を通じ,本件マンションへの立入りを強く否定し続けてきたことと両立しがたい客観的事実(立入りの事実)の存在が明らかになったことになるのであるから,そこに「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係」が存在すると認めざるを得なくなる。
したがって,なぜ被告人が事実に反して立入りを否定し続けたのかについての説得力を持った特別な理由が被告人から示されない限り,被告人が犯人であることにつき「合理的疑いを差し挟む余地のない程度の証明」がなされたものと認めて差し支えないと考える。」


那須裁判官が上で述べているように、被告人は一貫して自分は被害者の住んでいるマンション内には事件の前にも後にも一度も足を踏み入れたことはないと述べているのだ。しかし、もし差戻しの審理の結果、それが偽りであった場合、つまり被告人が事件当日マンションに足を踏み入れたことが判明し、なおかつその虚偽について当人が説得的な説明ができなかった場合には、被告人の犯人性の証明はなされたとみて差し支えないと那須裁判官は述べている。

それに対して、他の三人の裁判官、藤田宙靖、田原睦夫、近藤崇晴の三氏の見解は異なる。たとえば、原田裁判官の補足意見は次のとおりである。

「本件吸い殻の状況からして,それが本件当日に本件灰皿に投棄されたものと認定するには重大な疑問が残る上,仮に,同吸い殻が本件当日に本件灰皿に投棄されたと推認できるとしても,当該事実は,即,被告人の犯人性に結びつくものではなく,同事実とは別に,被告人と本件犯行を結びつけるに足る他の間接事実が存する場合に,それを補強する有力な証拠となるにすぎない。
(略)
本件吸い殻が本件灰皿から発見された事実は,本件吸い殻が第三者によって本件灰皿に投棄された可能性(その可能性があることについては,弁護人らは第1審以来,亡Cにおいて,被告人が所持していた携帯灰皿を持ち帰り,その中味を本件灰皿に捨てた可能性があると主張している。)が認められない限り,被告人が本件マンションを訪れた事実を証明するものではある。
しかし,(略),その事実は,即,被告人が本件マンションのB方を訪れた事実の推認に結びつくものではなく,いわんや本件の犯人性に結びつくものではない。」


事件名が2名の殺人と現住建造物等放火による犯罪である以上、被告人がマンション内に入ったことのみで即犯人ということになるわけでないことは自明のことなのだが、現在ではこのような厳密な事実認定のあり方を私たちは次第に忘れてきているようで、このような判決文に接すると何か大変新鮮な、また厳粛な心持ちをおぼえる。

前述したように、また多くの人がすでに数多く述べていることでもあるが、この判決文で最も重大なことは、間接事実を総合して被告人を有罪と認定する場合には、「認定された間接事実に被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることが必要」との判断を示したことであることは間違いないだろう。この概念については他ならぬ少数意見の那須裁判官から、判決文の補足意見において「「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係」という概念は必ずしも明確ではない。」という意見が述べられている。私なども具体的な事例を取り上げ、それに当てはめて検証してみるなど、じっくり考えてみる必要があると感じている(注2)。捜査においても、裁判においても、先入観と偏見を排し、四方八方から真相を追求する心構えと手法、いわば弁証法のような取り組み、姿勢が求められているということではないだろうか。この問題に関する議論が広まり、深まってゆくことを期待する。


    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 


(注1) 事件当日本件マンション付近で被告人が使用していた自動車と同種・同色の自動車が付近に駐車していたという目撃情報があること。被告人が被害者の夫の養父ないし保証人として借金の対応に終われていたが、息子が無責任かつ不誠実な態度をとることに対して息子夫婦に怒りをだいていたこと。事件当日、妻を職場に迎えに行く約束をしていたが、メールで「行けない」旨を伝えただけで、夕方のある時間(殺人事件が起きた可能性が高いと思われる時刻)に携帯電話のスイッチを切り、出火時刻の20分後くらいまでそのまま切られていたこと、などを指すのではないかと思われる。


(注2) 「埼玉愛犬家殺人事件」における風間博子さんに対する判決文を読むと、これは被告人を犯人とするためには「合理的な疑いを挟む余地のない立証が必要である」という本件裁判所も明示する刑事裁判における原則的定義にまったく該当していないと思われる。むしろそこから大きく逸脱していると感じずにいられない。判決文は一審、二審ともに、別の人の表現を借りて言うと、「ほとんど逐語的に「合理的な疑い」を感じさせられ、直ちに反論が浮かぶほどのものである。

風間さんの場合も本件と同じように間接証拠しかない。それも共犯といわれる二人(主犯の元夫とその仲間であったS氏)の供述・証言しかない。そしてそれは裁判の経過につれ完全に破綻していることが明白であると思われる。実刑3年で出所した共犯のS氏はその後証人として法廷に現れ、殺害に関する風間さんの無実を明確に証言した。一方、元夫の証言に対して裁判所はまったく信を置いていない。ところが風間さんの有罪に関する元夫の証言に対しては、それがどんなに不合理なものであろうと、「…この限りにおいて信用できる」として証拠採用した。それで死刑確定である。一・二審とも裁判所は主犯の元夫を上述のようにまるで信用できない人物、大法螺吹きと見なしていながら、こと風間さんに関してだけは、彼女に有利な他の多くの証拠を全て退け、この人物の特に根拠ももたない証言のみを「証拠の王」としている。

「直接証拠がないのだから、状況証拠によって認められる間接事実中に、被告が犯人でなければ合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることを要する」という本件における裁判所の定義を「埼玉愛犬家殺人事件」における風間さんの場合に当てはめて考えてみても、そのような事実関係は今のところ見当たらない。「埼玉愛犬家殺人事件」は本件と異なり複数犯によるものだから、一概に同一視できない点があるかと思われるが、まず「被告が犯人でなければ合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていること」は、私には皆無のように思われるのである。
2010.09.30 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
鈴木宗男氏の上告が棄却され、実刑が確定したことに関して、昨日(9月8日)、とあるブログで「今日は、国民の憎悪が検察に向けられる記念日です。祝日にしましょう。」というタイトルの記事(http://richardkoshimizu.at.webry.info/201009/article_22.html)を見て、目を疑った。そこには、

「NYのユダヤ人が、日本で飼っている検察のゴロツキどもを使って冤罪で陥れた日露フィクサー、鈴木宗男先生が収監されます。

いつまでも日本を支配下に置き、日本から生き血を吸いたいNYの金融ユダヤ人たちは、下品な検察のゴロツキ役人を使って、鈴木氏を排除することで「二島先行返還」による日ロ関係改善を阻止したのです。そして、今日、鈴木氏の冤罪は、ついに実刑として確定してしまいました。今日は、その意味で日本検察が金融ユダヤ人に飼われたゴロツキ・人間の屑であると確定した記念日でもあります。鈴木先生、どこにあっても戦うことは可能です。逆境での奮闘の仕方を我々に見せてください。」

と書かれていたのだ。鈴木宗男氏がユダヤの手先である検察によって事件をでっち上げられ、実刑を押しつけられたの? 私はこれまでずっと、鈴木宗男氏はイスラエルと大変深い友好関係を持っている政治家だとばかり思ってきたのだけど。現に、鈴木氏の盟友と思われる佐藤優氏は次のように述べている。

「日本の政治家、外交官で、対米配慮からイスラエルに対する友好関係を口にする人たちは時折います。しかし、日本の国益のために政治的リスクを冒して日本とイスラエルの関係を勧めようとした政治家は、私が知る中では鈴木宗男さんだけです。」(『国家の罠』岩波書店2006年12月)

また、昨年の初頭、イスラエルによるパレスチナ自治区・ガザへの見境のない猛攻撃が行なわれていた最中、週刊誌などで、イスラエルの攻撃は正当である、悪いのはハマスだ、パレスチナだ、というようにイスラエル全面擁護論を展開した佐藤氏に加えて、鈴木宗男氏も、こちらのサイトで次のような指摘を受けていた。

「イスラエルがガザ地区に対して攻撃を加える最中、新党大地の鈴木宗男衆議院議員が、「ハマスがテロリストである事を政府に対して確認する質問主意書」を繰り返し提出している事が判明しました。
内容的には、「ハマスがテロリストである」とすることで、イスラエルによる虐殺を正当化するものであるのみならず、それをファタハのパレスチナ自治政府、パレスチナ民衆全体をも「テロリスト」だとして描き出そうとする、恐るべきものでした。」

このサイトには、鈴木氏からの日本政府に対する幾つもの質問書が掲載されているが、これによると、鈴木氏は、イスラエルのガザ攻撃に対して日本政府が、「イスラエル、パレスチナ自治政府、エジプト、イラン等の政府関係者」と電話協議をしたり、「一千万ドル規模の緊急人道支援、有馬龍夫外務省参与(中東和平問題担当特使)の現地派遣による現地政府要人に対する停戦に向けた働きかけといった関与を行ってきた。」ことについて執拗な質問を行ない、暗に政府のパレスチナへの支援行為を批判している。この質問書を読むかぎりでは、鈴木氏も、佐藤氏同様、日本政府は全面的にイスラエル寄りの位置に立つよう働きかけているとしか思えない。

佐藤氏といい、鈴木氏といい、イスラエルにすればこんな有り難い人物は日本国中探してもそうそう見つからないはずだ。こういう貴重な人材(しかも大物政治家)を「NYのユダヤ人」の命を受けた検察が陥れるというようなストーリーが成り立つの? どうして? 何の目的で? 荒唐無稽すぎて私には想像もおよばない。

このブログだけではない。鈴木氏の上告棄却を受けて佐藤優氏も早速、「佐藤優の眼光紙背:第79回」において、「なぜ最高裁はこのタイミングで鈴木宗男衆議院議員 の上告を棄却したか?」というタイトルの下、超主観的というか、陰謀論的というか、いつもながらの佐藤氏特有の論説を披露している。

 「 このタイミングで最高裁判所の司法官僚が鈴木氏の上告棄却を決定したことは、きわめて合理的だ。それには2つの理由がある。

 第1の理由は、9月10日に大阪地方裁判所で行われる村木厚子元厚生労働省局長の裁刑事判で、無罪判決が予想されているからだ。そうなれば特捜検察は正義の味方であるという神話が裁判所によって覆される。当然、世論の特捜検察の取り調べに対する疑念と批判がかつてなく強まる。そうなると、「国策捜査」によって事件が作られたという鈴木氏の主張を完全に無視することができなくなる。

 第2の理由は9月14日の民主党代表選挙で小沢一郎前幹事長が当選する可能性があるからだ。最高裁判所の司法官僚にとっては、これも頭痛の種だ。小沢氏は鈴木氏の政治的能力を高く評価している。そもそも鈴木氏を衆議院外務委員長に抜擢したのは小沢氏だ。小沢政権になれば鈴木氏が政府の要職に就くなど、政治的影響力が高まるのは必至だ。そうすれば排除が困難になる。」

上の文章のうち、「村木厚子元厚生労働省局長の裁刑事判で、無罪判決が予想されている」ことについてはそのとおりなのだろうが、これは何ら驚くべきことでも意外なことでもない。私たち大衆は、冤罪が多発していることもよく知っているし、またその中には単なる過誤ばかりではなく、でっち上げもかなり入っているのではないかという疑いも常々持っている。しかし、村木さんが無罪判決を受けたら、検察は、「「国策捜査」によって事件が作られたという鈴木氏の主張を完全に無視することができなくなる」という佐藤氏の主張はどうだろうか。裁判所は、村木さんが事件への関与を認めた供述調書の大半を採用しなかったというではないか。鈴木氏や佐藤氏の場合とは全然事情が異なっているらしいこともさることながら、そもそも「特捜検察は正義の味方であるという神話」など今さら無邪気に信じている人はそういないだろう。佐藤氏も鈴木氏も、自分たちを「国策捜査」の犠牲者だというのならば、その訴えを真に理解してもらうためになすべきことは、裁判の経過を公にすることだったのではないだろうか。特に事件の核心部分については欠かせなかったはずである。

私は、4、5年前から佐藤氏らがあれほど「国策捜査」を訴えているのだから、その訴えを証明しえる(読者の立場からすれば検証可能な)具体的かつ詳細な裁判記録が雑誌やネット上に公開されるのではないかと思ってきたが、いまだにそれはなされていないようなのだが? 無実を主張する以上、その根拠、証拠をきちんと表示するのは当人の当然の責任であり、これまで無実(「国策捜査」の場合も同様のはず)を訴える一般市民は誰でもそのようにしてきたはずである。鈴木氏、佐藤氏が忙しくてそれができないのならば、『岩波書店』、『週刊金曜日』、『講談社』など、佐藤氏が連載を持っている雑誌社、あるいは魚住昭氏、青木理氏などの親しいライターなど人材には事欠かないのだから、依頼すればよかったのではないだろうか。私はその欠如をかねがね不審に感じてきた。青木氏などは、佐藤氏の有罪が確定したとき、『週刊金曜日』に「「国策捜査」追認する最高裁佐藤優氏上告棄却で有罪に」というタイトルで、次のように書いている。

「多くの人が既に周知の事実として認識しているように、これらはいずれも、政界やメディアなどを覆い尽くした鈴木宗男氏バッシングの中で「ムネオ逮捕ありき」の捜査に突き進んだ検察が無理矢理に描き出した「虚構の絵図」に過ぎない。いまさら語るまでもないが、佐藤氏は二〇〇五年に『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を著し、「国策捜査」という言葉を人口に膾炙させるきっかけをつくった。その後の活発な言論活動を含め、佐藤氏の言説が広く受け入れられているのは、検察捜査の歪みを何よりも雄弁に物語る。」(「金曜アンテナ」2009.07.10)

お分かりのように、「虚構の絵図」である根拠は示されていない。また、「「国策捜査」という言葉を人口に膾炙させるきっかけをつくった」ことや「佐藤氏の言説が広く受け入れられている」ことが、「検察捜査の歪みを何よりも雄弁に物語る」という青木氏の主張はあまりにも無責任である。裁判は一にも二にも証拠、根拠である。根拠なしの無実の主張などあり得ないことは誰でも分かること。まして青木氏は物書きではないか。これは上述した雑誌社にも言えることだが、私は今では「国策捜査」であることの根拠を明示しようにも明示できないので、こういう詭弁を用いてすましているのではないかという疑いさえおぼえる。

さて、このタイミングで最高裁が鈴木氏の上告棄却を決定したことのもう一つの理由として、佐藤氏は、下記の点を挙げている。

「小沢氏は鈴木氏の政治的能力を高く評価している。そもそも鈴木氏を衆議院外務委員長に抜擢したのは小沢氏だ。小沢政権になれば鈴木氏が政府の要職に就くなど、政治的影響力が高まるのは必至だ。そうすれば排除が困難になる。」

鈴木氏を衆議院外務委員長に抜擢したのは小沢氏だということを佐藤氏のこの証言で私ははじめて知ったが、鈴木氏の有罪の可能性がきわめて高いということは小沢氏も重々承知していたはずである。それにもかかわらず、鈴木氏を重要な役職に任命したというのは、小沢氏の政治的失点であろう。それ以外に感想は浮かんでこない。

鈴木氏は記者会見で、検察のなかに青年将校がいて、その人たちが自分に対する「国策捜査」をでっち上げたというような趣旨の話をしていた。これは佐藤氏の持論でもあるようで、私は佐藤氏がそのように述べるのを昨年から今年にかけて何度か聞いた覚えがある。民主党政権になったら検察には都合が悪いことがあるというような話だったと思うが、しかし、佐藤氏は、たしか2005~2006年頃にも同じことを言っていた。魚住昭氏との対談か座談会でそのような話をしきりにしていたのを私は週刊誌で読んだ記憶があるのだが、もちろん当時は自民党政権下であった。

そもそも現在の検察が青年将校化しているというのはどういう意味なのだろうか? 「青年将校」と聞いて私たちがとっさに思い浮かべるのは、戦前の海軍および陸軍の若い将校たちによって引き起こされた「5・15事件」とか「2・26事件」のようなテロを含んだ国家革新運動であるが、両者の間に一体どのような類似性、共通性があるのか、私などにはさっぱり分からない。具体的な説明や指摘もなくこのような特異かつ意味不明の言辞が飛び交う現状に私は不審と危険を感じる。
2010.09.09 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (1) l top
金光翔さんの裁判の争点の一つは、論文「<佐藤優現象>批判」に佐藤優氏が言ってもいないことが書かれているかどうかという点だと思われる。この点につき、被告側の主張は、論文に言ってもいないことが書かれているのは事実である。それは何かというと、「人民戦線」という言葉である。この言葉を被告自身はこれまで一度も使ったことはなく、また「人民戦線」に該当する内容の主張をしたこともない、ということのようであるが、この他にも、被告側は、九項目の「曲解していること」という争点を出している。この「曲解していること」という主張は、「被告準備書面(4)」に、「(論文には)被告佐藤が言っていないこと、あるいは曲解された事実が多数記載されている……云々」とあるように、「曲解」は「言ってもいないこと」と並んだ形で出されているので、これは「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です」のなかの「など」に相当するということになるのだろう。佐藤氏は、「目茶苦茶な内容です」の発言の後、「絶対に許せません」とも発言しているが、「曲解していること」も、「言ってもいないこと」同様、「目茶苦茶な内容であり、絶対に許せない」ということになるのだろうか。

けれども、『週刊新潮』の記事中に「曲解」云々はまったく出ていないのだから、金さんがブログで述べているように、唐突の感は拭えないし、実際に書面の「曲解していること」を読んでみると、説得力はほとんど感じられないようである。「人民戦線」云々の主張だけでは自らの正当性の主張として如何にも弱いので、一応言ってみようということで裁判用に急遽付け足したのではないかという推測も案外当たっているのかも知れない。被告側は、「曲解していること」の実例として九項目をあげているが、このなかで私が驚きもし呆れもしたのは、七項目目の例とその主張であった。この部分を被告側の書面から以下に引用する。

「(7)「論文」149頁上段5行目~12行目

 《ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。

 日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の防衛、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。》との記述がある。

 しかしながら、これも曲解である。

 被告佐藤は、フジサンケイビジネスアイ「地球を斬る」2007年7月4日「愛国心について」(乙7号証)において、 「日本の現状に対して、怒りや嘆きは当然ある。しかし、愛国心とはそれの別の位相から出てくる感情である。かつてイギリスの作家ジョージ・オーウェルが「右であれ左であれわが祖国」と言ったが(注1)、筆者もそう思う。 一部の有識者からおしかりを受けることを覚悟した上で書くが、仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べており、右派・左派を問わない、愛国心という感情についで述べた箇所であって、自らの政治信条について述べている訳ではない。」(「被告準備書面(2)」)(下線は被告側によるもの、(注1)は管理人によるもの。)

被告側は、あえてこの主張をすることによって自ら墓穴を掘っているのではないだろうか。「曲解していること」のなかにこの箇所があがっているのを見て、私はこれをはじめて読んだ際の不快な印象を思い出し、あらためてイヤ~な気分になった。上の文章を読んで、これを「右派・左派を問わない、愛国心という感情について述べた箇所であって、自らの政治信条について述べている訳ではない。」という被告側の言い分を素直に得心できる人が何人いるだろうか。だいたい、「右派・左派を問わない、愛国心という感情」とはどんな感情なのか、丁寧に具体的に説明してみよ、と言いたいところだが、

「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」(「地球を斬る」2007年7月4日)

という佐藤氏の発言についての論文の分析は、被告側の引用にもあるように、

「佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の防衛、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。」

というものである。これは、論文のなかで秀逸な分析の一つだと私は思っている。金さんは「原告陳述書」のなかで<佐藤優原書>成立の事情について次のように述べている。

「 ……過去数年間のリベラル・左派の論調や、同時代の、当時の『世界』編集部内部でのやりとり、知人とのやりとり、市民運動やリベラル・左派系の雑誌の論調、各種団体や言論人の主張等を見るにつけて、被告佐藤の主張がリベラル・左派の一部に強く好まれ、また、起用が表立っては批判されないことは、単なる一過性のものではなく、極めて根が深いものであると考えるようになりました。そして、その背景には、リベラル・左派による、改憲(解釈改憲も含む)後に備えて「現実的」な勢力となっておきたいという動機が強く存在し、そのために、リベラル・左派の一種の「改変」という現象が、なし崩しの形で進展していると考えるに至りました。」(原告陳述書)

おそらく論文の主題だと思われる、<佐藤優現象>の背景に、「リベラル・左派による、改憲(解釈改憲も含む)後に備えて「現実的」な勢力となっておきたいという動機」が存在している、という判断については、今と違って、当時私はあまりピンとこなかった。雑誌の傾向や市民運動や言論人の主張などを含めた全体の流れやその変化が見えていなかったのだろう。しかし、佐藤氏の「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」という言葉については、私も金さんと似た受け取り方をしていた。

私は1930年代から敗戦までの十数年間の日本の状況に佐藤氏の発言を置いて考えていた。アジアに対する侵略戦争や、米国に対する悲惨な結末が最初から見えているような無茶な先制攻撃に対し、大衆が喜んで参戦しているのなら、かりに自分にはその行き着く先が見えていたとしても、止めたりはしない、皆と一緒に誤った道を歩むと述べているのだが(信じがたいことだが、どう考えてみてもこの発言にその他の読みとりをさせるものはないだろう)、これは良識の通じるまともな神経をもった人から出る言葉ではないだろう。

「日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっ」た時、その正しくなさを指摘しないで、「自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩」みだしてしまったら、その後どうやって「自分が「正しい」と考える事柄の実現を図」ることができるというのだろう。佐藤氏はそのような行為が「愛国心」だと述べ、「正しい」道を指摘しないことに対する良心の呵責について述べるどころか、なにやら得々としているのである。これは単に虚偽であり、愚劣で浅薄な言葉の羅列に過ぎない。戦争に反対して、あるいはそのように見なされて、拷問されたり、獄死させられたり、官憲に付け狙われて苦しめられた人のことなどは頭の片隅にもないようである。危険なのは、この人のこういう明白な詐術、それによる煽動が見過ごされ、なんだかわけも分からないままに褒めそやされ、その言説が人心に浸透していっているように見えることである。もしかすると、このような性質のレトリックも人を惹きつける要因の一つになっているのかも知れないとさえ思えるのだが、被告・弁護側がこのようなタチの悪い例をもちだして「曲解」と主張するのは、鈍感過ぎるとしか言いようがないと思う。

この発言は、こちらこちらで書いたことだが、高橋哲哉氏の「靖国問題」を批判して『正論』誌に記されていた

「「悲しいのに嬉しいと言わない」、「十分に悲しむこと」、この倫理基準を守ることができるのは真に意志強固な人間だけだ。悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰は生まれるのであるし、文学も生まれるのだと思う」

という発言と、発想の根が同じではないかと思う(同一人物のものだから、当たり前か)。戦争や靖国の肯定の主張を持って回った小利口な(あるいは深遠な考えのありげな)言い方で述べ、本人がさも得意然としているところがよく似ているように感じる。

上述の件は佐藤優氏の言説に関する問題点のほんの一例、氷山の一角(注2)に過ぎない。私は金さんが『世界』編集部で佐藤氏の起用について問題提起をしたのは、真面目に現実的にものを考える編集者として、当然のことだと思う。そうしなければ後々までずっと現在とは別の苦しい事情をかかえることになっていたのではないだろうか。たとえば、読者の存在にしてもそうである。岩波書店は、佐藤氏が書いている文章の内容、また雑誌によって主張を微妙にあるいは露骨に操作し、使い分けている姿勢などを恐るべきことだとは思っていないらしいが、佐藤氏自身だけではなく、これを許容する出版社の姿勢も読者を欺く恐るべきことだと考える人間もいるのだ(注3)。金さんが編集部で問題を提起したとき、編集部の人たちにそういう読者の存在(私もその一人なのだが)は頭になかったのだろうか。読者からもし質問や強硬な批判が出てきたらどう対処するつもりだったのだろうか。これは、編集長だけではなく、編集者一人一人も問われることになる問題だろうと思うのだが、完全に無視・黙殺するつもりだったのだろうか。読者から自発的にそういう声が起こるとは考えなかったのかも知れないが、これは今も大きな疑問である。
 
     ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

(注1)ジョージ・オーウェルは「右であれ左であれわが祖国」と言ったことがあるそうである。この言葉がどこに書かれているのか私は知らないのだが、佐藤氏はこの言葉を自分の主張の補強として用いている。が、肝心なのはそれがどんな文脈で言われたかであろう。佐藤氏のこの文章を見るかぎり、ジョージ・オーウェルだろうと他の作家だろうと、一定の敬意を評すべき作家のうちいったい誰が佐藤氏のこのような主張を肯ったり、評価したりするだろうか。2003年に、イラク派兵を前に小泉首相が、日本国憲法の前文の一部を読み上げ、これによって派兵の正当性を主張するという呆れた行動をとったが、私は佐藤氏のこの引用もあの場合と同類のことではないかと疑う。何しろ、佐藤氏は、亀山郁夫氏の翻訳(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)を褒めあげるために、いくつもの先行訳にありもしない誤訳を押しつけているのだ(これは出版社・編集者の責任のほうがより大きいと思うが)。畏れを知らないというべきで、世の中にこういうことができる人はそうはいないと思う。ここからして、佐藤氏の倫理観は普通一般とは大きく異なっていると判断しないわけにはいかない。

(注2)佐藤氏が媒体によって、主張の使い分けをしているという例には、たとえば次のようなことがある。拉致問題や北朝鮮などについて佐藤氏は下記のように大変抑制的な態度をとっている場合もある。

「拉致問題で日本ナショナリズムという「パンドラの箱」が開いたのではないか。ナショナズムの世界では、より過激な見解がより正しいことになる。日本ナショナリズムが刺戟されれば、日露平和条約(北方領土)交渉も一層困難になる。ナショナリズムは経済が停滞した状況では昂揚しやすい。」(「国家の罠」2005年)

「既存のメディアが、インターネットの言説に引っ張られているということの象徴でしょう。メディアを覆う一連の反中国、反北朝鮮の排外的な言説なんかまさにそうではないかと思いますよ。」(「ナショナリズムという迷宮」2006年)

上記で特に何らかの具体的な意見が述べられているわけではないが、態度は見るからに冷静である。この態度が次のような文脈に飛躍するとは誰しもなかなか考えつかないのではないだろうか。

「なぜわれわれが北朝鮮と取り組まなくてはならないかというと、朝鮮半島に平和をもたらす必要があるからではなく、拉致問題が存在するからでしょう。拉致事件は日本人の人権が侵害されたのみならず、日本国家の領域内で平和に暮していた日本人が北朝鮮の国家機関によって拉致されたという、日本国の国権が侵害された事件です。日本人の人権侵害と日本国家の国権侵害を原状回復できない国家というのは、国家として存在する意味がない。」(「インテリジェンス武器なき戦争」2006年)

「国家の自縛」(2005年)では、版元が産経新聞社であることを意識し、またインタビュアーの期待にこたえようとするせいか、下記のごとき発言までしている。

斎藤 その韓国ですが、歴史・教科書問題での執拗さ、謝罪要求のしつこさには本当に閉口させられますね。

佐藤 そう思いますよね。ですから「斎藤さん、確かに斎藤さんと手切れの約束をしてあのとき百万円いただきました。しかし、斎藤さんとの子供が今度中学に入るんです。私立にも入れたいんであと二百万円ください」そんなふうに言ってくるような女性と一緒ですよね。(略)これは国際社会のゲームのルールと合致しません。だから実はそんなに怖くない。
 理不尽なことやったらそれは国際社会の中で受けいれられないから、そこは淡々と「いろいろとおっしゃられるんですけども、賠償の問題についてはすでにけりがついております。日韓基本条約に即した形で私たちやっておりますので。何かあります?」こういうふうに言えばいいと思うんですよね。日韓共通の教科書で歴史認識の問題を片付けようというのであれば、「まず北朝鮮と韓国の間で共通の歴史認識を作ってから日本に持ってきてください」と、こう対応をした方がいいんですよ。」

これらの発言はみな2005年、2006年頃、同時期のものである。

(注3)「だから文章はたいへん下手でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。」と太宰治も言っている(「十二月八日」)。が、実は太宰治に限らず、私の知るかぎりこのように虚偽・ごまかしを忌避する内容のことを述べたり示唆したりしていない文学者も思想家も存在しないように思う。佐藤優氏は、よくマルクスについて書いたり話したりしているが、友人のリープクネヒトという人によると、マルクスは「彼は自分の思想と感情を完全に腹蔵なく語り」「マルクスほど正直な人間はいなかった-彼は真実の権化であった」「けっしていつわったことはなかった」(「世界の名著」中央公論社)というようにまっ正直な人物だったようである。マルクスをあまり読んだことのない私のようなものでも、これはまったく「そうであろう」とふかく納得のいく証言である。

また、岩波書店の創業者の岩波茂雄氏も、岩波文庫発刊にあたって、「読書子に寄す」として、「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。」と述べている。こういう文言は読者の胸にうっすらとではあってもイメージとしていつまでも残っているものである。中野重治も、戦後、どこかでこの文章について、いいことを言っている、と述べたあと、岩波書店は大体この言葉どおりにやってきたと思う、との評価をしていた。「大体この言葉どおりにやってきた」という部分こそが貴重だと思う。もちろん、誰もそんなに立派なことばかりできないのだし、望みもしないのだが、ただ最低限どうしてもやってはいけないということがあると思うのである。
2010.06.13 Sun l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
2007年12月5日、金光翔さんは、論文「<佐藤優現象>批判」を雑誌に発表したことにつき岩波書店(社長)から、

「社員でありながら、あの論文を公表したことは、岩波書店の社会的な信用を傷つけた。今後はこのような行為は慎んでほしい」

という理由で「口頭による厳重注意」を受けたとのことである。また、この処分に先立つ11月28日には、下記の見解をも伝えられていたそうである。

「著者・読者・職場の信頼関係を損なうものであり、岩波書店を成り立たせる存立基盤を掘り崩すものだと考える」

「厳重注意」には、「社員でありながら」という一言が入っている。岩波書店も著者や読者に対しては、佐藤優氏の言説の問題点を指摘したり、そういう佐藤氏を重用するリベラル・左派系メディアの姿勢を批判することは許されない、などとはまさか言えないわけで、その自覚が「社員でありながら」という表現をとらせたのだろう。しかし「社員でありながら」あの論文を発表したことが「著者・読者・職場の信頼関係を損なう」ことになったのかどうかについてはよくよく検討する必要がある。たとえば、もし論文に記載されている事実関係に虚偽があったり、根拠のない非難や攻撃が見られたり、あるいは的外れの分析・批判がなされているなど、論文が一般常識上の品位を欠いたものだったのなら、岩波書店も論文公表のせいで「著者・読者・職場の信頼関係」が損なわれたと言っていいかも知れない。しかしあの論文がそのような性質のものとは私には思えない。また、岩波書店も「厳重注意」のなかでそのような指摘はしていない。それから、金さんは論文発表に際して自分が岩波書店の社員であることを公表していなかった。論文発表は個人としての行為であり、また読者には論文の内容にだけ注視して読んでほしいという願望の下でそのようにしたのだと述べている。論文の著者が岩波書店の社員であることが公になったきっかけは、裁判の被告側書面によると、「岩波関係者」の『週刊新潮』への働きかけだった。

岩波書店のいう「著者・読者・職場」のうち、「著者」とは具体的に誰を指すのだろう。論文で批判されている佐藤優氏やその周辺の人たちのことだろうか。それとも岩波書店から本を出したり、岩波書店発行の雑誌に文章を寄稿したりする執筆者全体のことを指しているのだろうか。この点も曖昧だが、この問題に無関係の執筆者も「著者」のうちに含まれるとしたら、その人たちに対し、論文がそれ自体で「著者・読者・職場の信頼関係」を損なうことなどありえないし、またできるはずもないと思う。物書きは誰でも文章を読めば、善悪美醜などについて各自がもっている価値観に基づいて独自の評価・判断をくだすはずである。この場合も同じであろう。岩波書店のこのような言い分はそれこそ執筆者に対して礼を失しているのではないだろうか。

これを見ても、どうも近頃の岩波書店は執筆者に対してもさほど敬意を払っていないのではないかと感じられるのだが、これは私の錯覚だろうか。戦前・戦中から戦後にかけて抵抗精神や批判精神をもって書きつづけ、文壇や論壇をリードしてきた作家・知識人はもう大方姿を消した。その視線や発言を恐れなければならないような人物はもういない。自分たちには好き勝手な振る舞いが許されている。岩波書店の役員の人々は、無意識にせよ、そんなふうに思っているのではないだろうか。そんな邪推をしたくなるほど言動がなんだかあまりにも場当たり的、無節操、無軌道に見える。

これらのことは著者に関してだけではなく、読者に関しても同様のことが言えるように思う。多くは文庫本ではあるが、私もある程度岩波書店刊行の本を読んできている。一応、読者と称してもいいのではないかと思うのだが、そういう読者としての私は、「<佐藤優現象>批判」が、「著者・読者・職場の信頼関係を損な」った、などという判断が岩波書店によってなされているのはまったく納得できないばかりか、迷惑でもあり心外でもある。

その理由は、①論文「<佐藤優現象>批判」が事態の核心をついている、少なくとも真実の一端を明らかにしていると思えること、②もう一つは佐藤優氏を『世界』が起用することに異を唱えたり、雑誌に論文を発表した金さんの行動に対する岩波書店の態度・姿勢にはきわめて大きな問題があると思えること。大まかに言うと、この二つによってである。

今回は②に関連して、文章を一つ引用したいと思う。藤田省三が1990年に『世界』のインタビューで述べたもので、この問題について考えるとき、下記のこの文章がよく私の頭に浮かんでくるのである。(強調は引用者による。)

「 先年亡くなった西ドイツのカール・レービットは戦争中日本にいて軟禁状態におかれていた。かれは戦後間もなくこう書いています。日本人の精神的特徴は自己批判を知らないということである。あるのは自己愛、つまりナルシシズムだけである、と。その指摘はいまいよいよ実証されてきたと思います。

〇個人としての自己愛であればエゴイズムになり、したがって自覚がありますが、日本社会の特徴は、自分の自己愛を自分が所属する集団への献身という形で表す。だから本人の自覚されたレベルでは、自分は自己犠牲をはらって献身していると思っている。その献身の対象が国家であれば国家主義が生まれ、会社であれば会社人間が生まれて、それがものすごいエネルギーを発揮する。しかしこれはほんとうはナルシシズムであって、自己批判の正反対のものなのです。錯覚された自己愛、ナルシシズムの集団的形態であって、所属集団なしに自己愛を人の前に出すほどの倫理的度胸はない。ほんとうに奇妙な状態です。

〇よく外国の批評家が、日本人は集団主義だというけれども、それは一応はあたっている。ただし、日本人の集団主義は、相互関係体としての集団、つまり社会を愛するというのではなくて、自分が所属している集団を極度に愛し、過剰に愛することによって自己愛を満足させているのですから、そこに根本的な自己欺瞞がある。

〇自分では自己犠牲をはらっている、自分は献身的であると思っていて、人にもそういって自分を正当化しながら、実は国家主義であり、会社主義なのです。」(「現代日本の精神」初出は『世界』1990年。現在、みすず書房「全体主義の時代経験」収載)

以上であるが、この文のインタビュアーは、実は『世界』現編集長の岡本厚氏である。もう十年ほど前に、私はこのインタビューを日本人論として実に的を射た見方だと思って自分自身痛痒いような気持ちで読んだ記憶があるのだが、金さんの論文が発表されて後の岩波書店や岩波書店労働組合の動向を見ていると、この人たちは藤田省三のこの文章を意識し、ここで批判されている日本人をあえて真似てみせているのではないかとすら思えたりする。あまりにもそのままではないだろうか。岡本氏はそう思われないだろうか。ひょっとすると岡本氏には藤田省三に何か含むところでもあるのではないだろうか? 裁判所に提出されている被告側書面における「岩波関係者」や「岩波書店組合関係者」の発言や行動といい、先日「私にも話させて」で金さんが述べていた

「組合費を払わず、組合に敵対する行動をしている人は、除名すべきです。そのような人に、春闘・秋年闘の果実である一時金を与えるのは、公平を欠きます。」

という組合員の投書といい、またこれを文書に掲載して全社に配布した労働組合の行動といい、本当に凄いものである。これほど底意地の悪い卑劣な仕打ちは、会社の暗黙の容認がなければできないのではないだろうか。私にはそう思える。まさに、藤田省三が述べているところの

「その献身の対象が国家であれば国家主義が生まれ、会社であれば会社人間が生まれて、それがものすごいエネルギーを発揮する。しかしこれはほんとうはナルシシズムであって、自己批判の正反対のものなのです。錯覚された自己愛、ナルシシズムの集団的形態であって、所属集団なしに自己愛を人の前に出すほどの倫理的度胸はない。」

を絵に描いたような、いやむしろその究極の姿ではないだろうか。金さんは会社に異動願を提出した理由について、次のように述べている。

「 私は、被告佐藤を起用することや、今後、川人を起用することによって、人権や平和に対する大きな脅威を与えることに、強い精神的苦痛を感じていました。これは、そのような書き手を起用する編集方針に従事することへの苦痛と、そのような書き手を起用すること、また、私の名前が誌面に出る以上、在日朝鮮人である私が『世界』編集部員として、そのような編集方針を容認しているかのような印象を読者に対して与えることが、社会に悪影響を与えることへの苦痛です。」(「原告陳述書」より)

「異動願」の提出理由についての上述の金さんの発言に誤解の余地はないと思う。他に推定できる理由は考えられそうもないからである。このような編集社員の複雑な心情や思考や判断に対して、編集長が当然なすべきことは熟考であろう。「被告準備書面(4)」によると、岡本編集長は金さんの異動に際して「これからの職場もね、やっぱり人間関係ってさ、どこの職場でもあるから。」と述べているが、現在の「編集方針を容認しているかのような印象を読者に対して与えることが、社会に悪影響を与えることへの苦痛」を感じている在日朝鮮人社員の心情についていくらかでも思いを巡らせたのであれば、このような説教はできないだろう。同僚社員の差別発言を注意したことについての『世界』編集部の反応も、同じ実態の別の表われに過ぎないと思う。同じ在日朝鮮人や社会全体へのふかい視野を含んだこのような判断、理由をもっていたからこそ、金さんはあれだけの嫌がらせやいじめにも対抗できたのだと思う。そうでなければ決してできることではない。その点に私はかねがね敬意をもっている。自分だったらとてもこのような粘り、堪え性はもてないのではないかと思うのである。しかし一昔前にはいくらでも見聞きすることができたこのような視点や心情や価値観は今や希有なことのようになってしまっている。中野重治なら、これは文学の問題だと間違いなく言うと思うのだが…。若い人にはそのような試みも望みたい気もする。それにしても岩波書店のこのような現実のなかから、はたして読者の心に活き活きと訴える力をもった書籍、時代を正確に力づよく映しだす雑誌が生まれでる可能性や希望の余地があるのだろうか?
2010.06.10 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回、『週刊新潮』に電話をかけて金光翔さんに関する情報を告げたという「岩波関係者」が、自分だけの判断と意志でそのような行動をとったとは思えないという趣旨のことを書いた。言いにくいことだが、はっきり言うと、これは「「佐藤優」批判論文の筆者は「岩波書店」社員だった」と題された『週刊新潮』の記事作りに岩波書店上層部が関与しているのではないかということである。実のところ、だいぶ前のことだが、金光翔さんが一度自分自身のそのような疑いについて書いているのを読んで、私は驚くとともに、かなりのショックを受けたことがあった(自分では意識していなかったが、岩波書店の伝統に対する相応の信頼感が心のどこかにあったのだろう)。それ以降、その疑いをそのままもっていたのだが、今回、被告の準備書面を読んで、岩波書店の上層部の関与の事実について確信めいた感触をもった。

理由は前回書いたことにとどまらない。あの「岩波関係者」は、『週刊新潮』に自分のほうから電話をかけて第一報を伝えたかどうかの事実関係の真偽はさておくとしても、『週刊新潮』記者の取材を受けて徹底的に金さんに不利な、名誉を傷つける証言をしているが、その上、その記者に対し、取材対象として「岩波書店組合関係者」を紹介している。これが異様である。「岩波関係者」の『週刊新潮』への対応は自分一人の、内密な行動ではなかったということである。そして紹介されたこの「岩波書店組合関係者」も『週刊新潮』の取材に対し何ら不審や警戒心を見せる様子もなく、「岩波関係者」と同一傾向の発言をしている。これは二人が『週刊新潮』の記事作りに全面的協力をしているという理解をされて当然の行動であり、到底、一社員および一組合員が自分たちの判断でなせる行動と考えることはできがたい。前述の「被告準備書面(4)」には、

「11月25日(日)の午後1時からの全体会議で、上記取材に基づく内容が、ワイド特集記事の1本として掲載の方向性で取材を進めることが確認された。/ 荻原記者は、その後、上記の岩波関係者から紹介された岩波書店組合関係者に対し、30分前後電話で取材を行った。/ この取材により、①原告の「IMPACTION」への組合報の無断引用が、組合の中で大問題になっていること、②岩波労組では、組合報である「壁新聞」は、内部文書で外部への公表を前提としていない「社外秘」扱いになっていること等を取材できた(乙13号証)。」

と記述されていて、「岩波書店組合関係者」への取材も「岩波関係者」に対すると同様、何の障害もなく、きわめてスムーズに進行した様子がうかがえる。発言内容の重大さに比して、二人の警戒心のなさは驚くべきものに思える。直接の指示によるものか、それとも暗黙の了解や容認によるものなのかは分からないが、岩波書店上層部と「岩波関係者」・「岩波書店組合関係者」との間には、了解事項があっただろうと思う。というより、今のところ私には他の可能性が何も浮かんでこないのである。

戦前、「治安維持法」が猛威をふるっていたころには、雑誌や新聞業界に密告のようなことも皆無ではなかったとは聞く。「横浜事件」にも背景にその種の暗い影が存在しているという話を聞いたこともある。残念ながら、この出来事は戦前の日本のその種の歴史を思い起こさせるものがあるのだ。宮部信明常務取締役は、『週刊新潮』に載った「岩波関係者」の虚偽的発言や個人情報漏洩の事実に対し会社はどういう対応をとるのかという金光翔さんの質問に対して、

「仮に岩波書店社員であったとしても、社員が取材に応じるのは自由である。」

とも述べたとのことだが、金さんの論文発表に対する対応とのこの極端な落差、不公平を宮部氏自身はどのように理解しているのだろうか。

岩波書店は、金光翔さんが今年3月25日に会社に対して求めた、

「 私は株式会社岩波書店に対し、以下の措置を執ることを求めます。
一、上記証言者二名は誰か、調査し、その結果を私に伝えること。
一、岩波書店社員二名が、金の名誉を毀損する発言および個人情報を漏らす発言を『週刊新潮』編集部に対して行っている事実、およびそうした事実に対して会社が遺憾の意を持っていることを岩波書店社内に周知徹底させること。
一、社員が、別の社員の名誉を毀損する発言および個人情報を暴露する発言を、週刊誌等の外部のメディアに行うことへの具体的な再発防止措置を執ること。」

この問いかけに早急に応答する義務と責任があると思う。実はこの問題において負うべき責任の重さは、岩波書店と『週刊新潮』を較べると、私は社会的信頼を得ている分だけ岩波書店のほうにあると思っている。これが偽らざる実感である。
2010.06.01 Tue l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
1959年(昭和34年)8月10日、松川事件に対し最高裁は「仙台差戻し」の判決を出した。事件発生からちょうどまる10年を経てのときであった。この2年後、1961年8月8日に仙台高等裁判所で被告人全員はようやくにして無罪判決を得ることになるが、この判決に対して検察は上告したので、被告たちが完全に無罪放免となったのは、1963年の9月12日の第二次最高裁判決によってであった。この裁判をふくめて松川事件は計5回もの長い裁判を闘わざるをえなかったことになるが、このうち裁判の流れの転回点となったという意味で最も重大だったのは何といっても1959年の第一次最高裁大法廷における「仙台差戻し判決」ではなかったかと思われる。

この判決における多数派の意見は、検察官によって隠匿されていた「諏訪メモ」(列車転覆のための国鉄労組と東芝労組の共同謀議に出席していたと認定され、死刑判決をうけた佐藤一被告が、実は謀議と同時刻に開かれていた東芝松川工場の労使交渉の場にいて発言をしていた。そのことが記されている会社側出席者の諏訪氏のメモ)の出現を重く見て、列車転覆のための謀議およびその実行行為に関する事実認定に重大な疑惑があるとして差戻しを主張するものであったが、判決終了後、少数意見、特に田中耕太郎最高裁長官の意見があちこちで議論の的となった。田中裁判官の反対意見は、差戻しに票を入れた多数意見者をつよく攻撃するものだったのだ。田中長官の意見は、

「 多数意見は、法技術にとらわれ、事案の全貌と真相を見失っている。しかもその法技術自体が、証拠の評価と刑訴411条の適用において重大なる過誤を犯している。従って私として到底承服することができない。」

という文言から始まり、事案の「全貌と真相」とは「雲の下」に深く隠されている。多数意見者が見ているものは、事案全体から見れば巨大な山脈の雲表に現れた嶺にすぎない。それらを連絡する他の部分は雲下に隠されているのだから、単なる嶺である「諏訪メモ」の出現など問題視する必要はないのだという。また、田中氏は、多数意見は「木を見て森を見」ていないとの非難もしている。そして、もし多数意見者が、被告たちをこの犯罪の実行者でないと考えているのなら、原判決を破棄して、無罪の判決をくだすべきであり、「差し戻し」などという中立を装った中途半端な判定をくだすのは誤りだと攻撃している。

この極端な少数意見に対して、当然さまざまな反論がなされているが、そのなかから、今日は広津和郎に加え、小説家の大岡昇平、歴史家の石母田正の文章を抜粋して掲載する。これらの文章を読むと、田中長官たち五人の少数意見がどのような性質のものであるかが明瞭に分かると思う。まず広津和郎の「少数意見について」だが、これは、「証言としての文学」(學藝書林1968年。初出は1964年)からの抜粋である。大岡昇平の「田中長官を弾劾する」は、「週刊新潮」に載ったもの。この頃、この週刊誌は現在と違ってまともな記事も掲載していたようである。大岡昇平は、「事件」という推理小説(裁判小説?)を書いている(松坂慶子主演のテレビドラマにもなっている)が、大野正男氏との対談「フィクションとしての裁判」によると、この作品を書くことになるそもそもの契機は、実は広津和郎の松川裁判批判に刺戟や影響を受けたことが大きかったのだという。また1955年(昭和30年)には、松川事件についてすでに下記の文章を書いていた。

「 一昨年(注:昭和28年)の秋、アメリカへ発った時、僕の関心の残っていたのは、松川事件だった。高橋被告の身体障害について、一般に公表されたところによって、前判決(注:一審判決)が支持されないのは決定的に見えた。裁判官がどこまで折れるかが問題だと思えた。
 しかしニューヨークで日本の新聞を読み、(二審)判決に殆んど変更なく、さらに或るジャーナリストが裁判所の決定に従うべきだと主張しているのを見て、大袈裟にいえば、僕は祖国のことに興味を失った。それからヨーロッパへ渡って、便宜のないままに、以来八カ月、内地の新聞社誌は全く読まなかった。
 帰って広津さんが依然として、判決文を検討し続けているのを知ったのは、意外でもあり、うれしかった。」(「風報」昭和30年5月号)

石母田正の文章には、田中耕太郎長官の特異な個性がよくとらえられ表現されているように思う。事件からもう10年が経過し、今後新しい証拠が見つかる可能性も期待できないのだから、下級審に余計な負担をかけることになる裁判はもう止めたほうがいい、などと露骨に述べていることには、死刑判決を受けている何人もの被告人がいることを思い合わせて慄然とするが、最高裁長官に就任したとき(管理人注:この就任は吉田茂首相の推薦によるものではないかと田中長官自身が述べている。)、号外がでたとはこれも驚きである。松川裁判の無罪判決は被告たち自身にとってのみならず、後々のためにも本当によかったと思う。これがもし有罪のまま決着したとしたら、一体どうなっていただろう。ただ、その後日本の裁判はこれを糧とすることができたのだろうか。当面はあるいは司法への松川無罪判決の影響はあったのかも知れないとは思うが、現在は誰も田中長官のような本心を口にしないだけで、当時よりさらにひどい状態になっているのではないかという不安がある。
  
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 少数意見について 広津和郎

 田中長官の「雲の下」とは何であろう。雲表に出ていないものを、何によって知ることができるのであろう。田中長官は「もしその隠れた部分を証拠によって推認することができるならば、<謀議>の存在を肯定できるのである」というからには、雲の下を推認できる証拠を、見つけているのであろう。――そう思って長官の文章を読んで行くと、次ぎの一節にぶつかった。

 かりに二個の連絡謀議が否定された場合に、国鉄側と東芝側との連絡の事実は、当然否定されなければならないか。ところが原判決の挙示する各証拠申連絡の事実を肯定するに足るものが実に多数存在する。これらは被告人赤間の供述(101山本調書)中の阿部、本田の各発言と赤間自身の供述、赤間の供述(102唐松調書)、浜崎の供述(105唐松調書)、大内の供述(107唐松調書、1011笛吹調書)中の杉浦の発言と菊地の供述(1018辻調書)中の太田の発言である。

「雲の下」はこれらの被告らの自白調書によって推認できるというわけである。
 ここで思い出すのは、田中長官をはじめ少数意見に名をつらねている最高裁裁判官たちは、前から「自白尊重」の裁判官であったということである。この少数意見の裁判官たちは、松川裁判の前に、練馬事件に対して、われわれを驚かしたような判例を出している。
 それは被告人の自白は共同被告人に対して、被害者をふくむ証人の証言と同じく、裁判官の自由心証にまかせて差支えない、すなわち証拠として差支えない、というのである。
 そしてその事件では一人の捜査段階の自白によって、数人を罪にしてしまったのである。
 私はこの判例が出た時には戦慄した。これは例の松川の場合に検察官の取った「分離証人」などという面倒な手段を取る必要はなく、被告の自白調書は、そのまま共同被告の証拠として差支えない、というわけであるからである。
 松川裁判の大法廷判決で少数意見にまわった裁判官たちが、この練馬事件では多数意見となって右の判例を出したのであるが、それに対しては当時としての少数意見の烈しい反対があった。その少数意見の一人であった真野毅裁判官がその反対意見の筆を執ったと聞いているが、それは、被告の自白調書が共同被告に対して証拠となったら、共同被告は防禦のしょうがないではないか、これは人権上から見て法の著しい後退である、という意味のものであった。
 実際その通りで、これは他人の自白で人を罪にしても差支えないということを端的に認めた判例なのであるから、こんな法解釈が通用したら、国民は安心して生きてはいられない。おまけにこの裁判官たちは、意思の合致は互に名を知らない人間同士の間にも認め得るから、それを共謀共同正犯と見て差支えないという見解を持っているのであるから、誰かわれわれの知らない人間が、われわれと一緒に何かをやったと自白すれば、それによってわれわれはその人間と共謀共同正犯とされ、その知らない人間の自白によって、逮捕され、その知らない人間の自白が証拠となってわれわれが罪にされても仕方がないということになるわけである。こんな不合理なことはあるまい。現に松川の場合でも、佐藤一は赤間を知らないし、会ったこともない。又高橋晴雄も赤間とは会ったことがない。それだのに赤間自白に佐藤一や高橋晴雄の名が出るので、赤間自白を佐藤一や高橋の証拠としてもさしつかえない、というわけである。実際第一審、第二審では、そういう解釈によって、佐藤一も高橋も死刑だの無期だのの判決を受けて来たのである。その不合理が松川裁判批判を惹き起したのであるが、練馬事件の判例は、真向からその不合理を是認しているのである。
 この練馬事件の判例が出た時には、雑誌『世界』がそれについての座談会を開いた。法律家諸氏にまじって私も出席したが、その席上で当時最高検の検事であった某氏が、「こういう判例が出ると、裁判官が余程しっかりしていないと、被告に取っては危険ですな」
 と呟いたものであった。検察官でさえその判例に驚いたのである。
 この練馬事件の判例を出した裁判官たちが、松川の場合の最高裁大法廷の少数意見の裁判官たちだったのである。田中氏もその仲間なのである。
 昔は自白が証拠の王とされていたが、それが如何に危険であるかが反省され、今日は自白を証拠とすることを禁ずるのが世界的通念となって来た。それだからわが国の憲法も、「何人も、自己に不利益な唯二の証拠が本人の自白でぁる場合には、有罪にされ、又は刑罰を科せられない」と規定している。ところが自白者本人を有罪にすることはできなくても、その自白で共同被告を有罪にすることはできるという解釈が、一部の法律実務家の間には流通し始めた。共同被告にとっては、他人の自白で罪にされてもいいということになるのであるから、こんな恐るべき解釈はない。併しこういう解釈の最も端的な現われがつまり練馬事件の最高裁の判例なのであり、そしてその判例を出した裁判官たちが、松川裁判では多数意見に反対し、少数意見となって、相変らずあくまで自白が証拠になると主張しているのである。この人達は「他人の自白を証拠の王」にしようとしているのである。
 それであるから田中長官が「雲の下」を推認できると称する証拠類が、みな捜査段階の他人の自白詞書であったからといって、別に意外と思うには当らない。
 しかし自白者自身のことは暫く措き、自白者の自白詞書の中に、発言者として名を出されている本田や阿部や杉浦が、その調書の中にあるような発言をしたということが、そのまま証拠とされていいものかどうか。
 この本田や阿部や杉浦は、みな自白者らの自白の中に名を出されて逮捕された人たちであるが、この人達が捜査段階で具体的容疑事項を調べられずに、自白者らの自白によって起訴されて法廷に立ったことは、前に度々述べたことであるから、読者は記憶されていることと思う。捜査段階で具体的に容疑事項を調べられないこの人たちの、他人の捜査段階の自白調書の中にある発言が、反対尋問も経ずに、この人たちの発言としてそのまま証拠とされていいものか。それを証拠として「雲の下」が推認されていいものか。無論そんな不合理が許されてなるものではない。(略)


 田中長官を弾劾する 大岡昇平 (『週刊新潮』昭和34年8月24日号)

 筆者は文章を綴るに足る教育を受け、幸いそれを公表する機会を持つ一国民にすぎない。松川裁判の成行きに興味を持っていたが、これを政治的裁判と呼び、大衆行動によって、裁判の結果を左右出来ると信じ、或いはそのように信じるふりをする指導者に反感を持っていた。
 広津和郎氏の著作の愛読者であったが、松川大行進は最も愚かしき行動と憂慮していた。
 従って今度の仙台高裁差戻しの判決について「人民の勝利」の如き感想を洩らすのはもってのほかと考えている。
 裁判は「雑音」にわずらわされることがなく、公正に行われたと信じている。しかし新聞紙に発表された田中最高裁長官の反対意見要旨を読むに到って、著しく不満を抱くに到った。その理由を列挙する。

  怖るべき少数意見

 少数意見は多数決主義の合議体にあって、廃棄された意見であるが、最高裁の判決文に記載されるのは、判決の性質をよりよく示すためと了解している。
 最高裁の判決は、いわゆる判例として、こん後の裁判を拘束するから、多数意見たる判決と共に、少数意見も載せて、その判決の性質を知らしめ、後日の参考に供するためと了解している。
 それはまた、十年毎にわれわれに与えられる、最高裁の判事の罷免を投票する機会、つまり国民審査に当って、裁判官の資格の適否を判断する資料として、表示されるものと了解している。無論多数意見を批判するのは自由である。しかし批判は審議の対象となった事案に限るのを適当とし、多数意見を書いた裁判官について、批判を行うは逸脱であると考える。周知のように多数意見は事実誤認の疑いありとして、高裁に差戻している。この判決に反対する田中長官の少数意見に言う。
「かりにいわゆる『諏訪メモ』により、佐藤のアリバイが立証されても、事件全体には影響がない。佐藤は実行行為に参加しているから、責任を免れないのである。上告人側はかような点をクローズ・アップして力説し、多数意見者にこの点が事件全体に決定的な意義をもつかのような錯覚をおこさせるのに成功した」
 これは驚くべき暴言である。反対意見の誤りを指摘することは自由であるが、何を根拠に、多数意見者が上告人の力説によって「錯覚」に陥ったと、推理するのであるか。
 裁判官も人間であるから、判断を誤ることは、あると考えるぺきである。しかし錯覚は判断以前の感覚的錯誤であり、判断力の全面的喪失を意味する。最高裁判所判事に、かかる侮辱を加えることが、田中裁判官がその長であるゆえに、許されるのであるか。
 最高裁は内閣が任命し、われわれ国民もそれに同意した、判事をもって構成されていると了解している。その信頼すべき判事について、上告人が「クローズ・アップ」によって「錯覚」をおこさせるのに「成功した」というごとき推測を物語ることは法廷を侮辱するものではないかと考える。われわれ国民を侮辱するものではないかと考える。
 田中長官は職制において、最高裁の長であるが、討議においては、議長として長であるにすぎないと了解する。そして彼自身も判事の一人として評決に参加し、その結果少数意見を書いているのであって、「雑音にまどわされるな」の如き無用の訓示を垂れている時とは、別の人格として、行動しているものと了解する。
 その信頼すべき少数意見に、かかる暴言をまじえること、これが、筆者の不満の第一である。

  たとえ語は伝染する

 第二の不満は、要旨末尾にある。
「法技術の末に拘泥して大局的総合的判断を誤ることのないこと、つまり木を見て森を見失わないこと、これ裁判所法が最高裁判所裁判官に法律の素養とともに高い識見を要求しているゆえんである。われわれとして最高裁判所の在り方について深く思いをいたさざるを得ないのである」
 われわれの語法によれば、ここには多数意見者について、「いや味」と「脅迫」の如きものが感じられるが、これは田中長官とわれわれとでは、用語も語法もちがうかもしれないから、深くは考えないことにする。
 ただたしかなのは「木を見て森を見失う」のような「たとえ話」を、裁判に持ち込むことの害である。
 多数意見者が大局的総合的判断を誤ったと判断したことは、その通り書いてあるのだから最早十分である。「木を見て森を見失う」の如き「たとえ話」で補強するのは無用である。「たとえ話」は俗耳に入り易いが、常に両刃の剣であると知るべきである。もし意地悪な論者がいて、森にばかり気を取られて、木を見ないでもよいのか。事件全体の輪郭を見惚れて、重大な細目を見逃してならぬと反論されたらどうするか。
 事実「松川裁判」は、「諏訪メモ」という「木」によって、今回差戻しの判決が出たのである。それが事件の全面から見て取るに足らぬと、事実に基いて論証するのは、裁判官として正しいやり方である。しかし「木を見て云々」の如き「ことわざ」を援用するのは有害無益である。
 このような「たとえ話」は田中長官と同調した高橋裁判官の少数意見にも伝染している。
「多数意見は、『シカを逐う者山を見ず』のたとえの如く、原裁決の判文の表面にとらわれて、その全趣旨を没却したものであって云々」
 かかる鼻歌の如き「たとえ」以て、同僚を嘲笑する風潮に自ら範を垂れたことについて、田中長官を弾劾する。
 少数意見は、敗者の意見であるから、もっと厳粛であるべきである。われわれがこれまでに見て来た、少数意見はみなそのようなものであった。
 昭和三十年の三鷹事件最高裁判決の少数意見の一は、竹内被告を過失致死罪の刑をもって処断すべしとしたものであり、二は二審が書面審理をもって、一審を破棄自判して、被告に不利な刑を課したことは違法としたものであり、三は被告人に防禦の機会を与えず死刑という極刑に処したことを違法としたものであった。
 そこにはなんの「たとえ話」もなく、淡々と意見が述べられているだけである。それは国民が国家権力によって生命を奪われるに当って、審議で慎重であること、法律自身もそのように整備されていることを、われわれに教えてくれたものである。
 田中長官や高橋裁判官の意見が通っていれば、松川被告中四人が生命を奪われているのである。少数意見は一見厳粛の外観を呈しているが、実は「木を見て云々」「シカを逐う者云々」の如き鼻歌を含んだ、驚くべき思い上がった少数意見なのである。
 筆者はこのような少数意見を書く裁判官に対し、不信の念を抱かざるを得ない。「本意見は多数意見に対する自己の見解を明らかにすることに限局した」と田中長官は書いているが、その言葉は守られていないのである。
 たしかなのは、多数意見が「二つの連絡謀議」に「事実誤認」の疑いがあるとしたことによって、被告の一部を死刑とすることを避けたことである。まるで多数意見のような威丈高の少数意見があり、少数意見のように低姿勢な多数意見があったのが、こんどの判決の特徴である。

  新しい証拠評価法則がなぜいけないか

 以上は田中長官の少数意見の、一般的局面についての不満である。直接「事案」の細目に関する点について、私見がないでもないが、それをここに書くのは差控える。筆者は裁判外の一国民にすぎず、有能なる専門家が五年の歳月を費して調査し、討議した結果達した結論を、その結論の表面に現われたところを以て論ずるのは誤りと考えるからである。
 ただ次のような一般的論拠については、私見を述べることは、許されるであろう。
「多数意見は供述中に矛盾、変化がある場合に反証のない限り、一応信憑性のないものと推定する、われわれとして到底採用できない全く耳新しい証拠評価法則を提唱しているのである。この論理を裏がえせば、供述が一貫していれば、一応信憑性があるものと認むぺきことになる」
 裏がえした論理とは、まったくの書生論理であって、われわれ国民の間にも、そんな議論は行われていない。まして事案に則すぺき裁判においては無用な議論である。
「われわれとして到底採用出来ない」とか「全く耳新しい」とか、またもや多数意見者を素人扱いにした言い分である。この種のいい分は、このほか数多く存在し、多数意見を反対するよりは、読む者に多数意見者に対する不信感を植えつけようとするかの如き印象を与えるのが、田中長官の少数意見の特徴であるが、その点は田中長官の趣味の問題として問わないとしても、「耳新しい」証拠評価法則を採用して悪い理由は、全くないと考える。
 多数意見が矛盾、変化のある供述が信頼出来ないとするのは、「太田自白はその内容を精査すれば」と判決理由書にある通り、現に問題の太田自白について言っているのである。そして同じように変化の多い大内自白が本裁判中に存在すること、それらすべてを含んだ事案の全体について、矛盾、変化のある供述は信憑性のないものと推定したと了解する。
 われわれは裁判とはそのようなものと考えている。新しい事件には「耳新しい」法則が提唱されても、少しも不思議はない。松川事件は審理に十年を要したという事実を取ってみても、日本裁判史上極めて稀な裁判である。珍しい事件に「耳新しい」法則が提唱され、それが判例となって、次の裁判を導いて行く。
 われわれは時代と共に裁判が変ることを期待し、新しい事態には新しい判決があるのを望んでいる。そのようなことの出来る機関として、最高裁判所を持っているのだと了解しているのである。
「もし多数意見者にして心証として犯罪事実を肯認しているとすれば、同条(刑訴四一一条)の裁量権の行使による破棄ははなはだしく不当である。またもし犯罪事実を架空なものと認めるならば、多数意見者は原判決を破棄し無罪の判決をなすぺきである」
 これもまた書生論理であるとまでは言わないが、われわれの間では、こういう言い方を「言いがかり」と呼んでいる。
 多数意見は疑わしいと一言っているだけである。

 裁判所の負担と人命とどっちが重いか 

「付言する。事件発生後ほとんど十年を経過した今日、本件を仙台高等裁判所に差戻しても、新たな証拠は到底期待できない。また証拠はすでに十分でその必要もない。かような措置はいたずらに下級審に負担をかけるだけで有害無益である。差戻し後は審理のためさらに数年を要するかもしれない。これでは裁判の威信は地を払ってしまう」
 これも暴言である。証拠はすでに十分でその必要はないとは、田中裁判官の意見にすぎない。証拠が十分でないと多数意見は判断したから「差戻し」の判決が決定したのである。
 判決の結果は、少数意見の直接関係するところではないはずである。ことが人命に関するものである以上、何年かかろうと、審議を尽すのが裁判ではないのか。
 十年たっているから新しい証拠はどうせ見つからないから、死刑を確定して、手数を省けというのは、国民を侮辱するものである。田中長官には人民の生命より、下級審の手間の方が大事なのか。
 少数意見は判決の性格を明らかにするために、特に表示しなければならないとしてあるものである。それは判決同様、下級裁判所の審理に影響すると考えるべきである。その重大な少数意見の中で、下級裁判所を意気阻喪せしめ(或いは勇気づけ)るごとき、軽率な言辞をさしはさむ最高裁判所長官は、その職務を心得ているのか。



 「廻り道」はおそれない 石母田正(『中央公論』1959年)

 外部的な兆候からみれば楽観してよい材料が多かったにかかわらず、さすがに判決の下る前日は心配で仕事が手につかなかった。判決の結果を放送できき、その夕方から日比谷の野外音楽堂でひらかれた大集会にでかけたが、戦後のこうした集会のなかでもっとも感動的な集まりの一つであったとおもう。七名の多数意見にたいして五名の少数意見が存在したことの重大な意味については、その席上でも強調されたが、そのなかに田中裁判長もふくまれていたことは、予想のとおりではあった。そのときは新聞に報道された田中意見の要点しかわからなかったので、その正文をぜひ読みたいと思った。私はこの田中耕太郎という人物と思想に特別の興味をもっている。戦後の日本の来るべき反動が、もう戦前の国家主義者のような泥くさい形であらわれてくることができないとすれば、田中耕太郎のような人物と思想が、これからの反動の典型としてあらわれてくるのではないかという予感が、彼の最高裁長官に就任したときからしていた。その就任にさいして、朝日新聞が当時としても異例な号外をわざわざ発行したことも、強く印象にのこっている。商法の専門家で、『世界法の理論』の著者で、カソリックとして、コスモポリティズムの思想の信奉者たるこの人物は、戦後の新しい日本の反動のチャンピオンの一人となるのにもっともふさわしい人物なのである。戦後の反動も全体としてみれば、戦前と同じような泥くさいものにみえるが、それを指導している核心的部分はもっとハイカラなものに変わっているとおもう。国民は田中耕太郎の著作集の全部を読むくらいに、この人物と思想について勉強する必要があるかもしれない。(略)
 今度の多数意見は、事件を第二審裁判所に差しもどすことによって、有罪か無罪かという問題については、いわば中立的で、「公正な」立場をとったといえる。田中意見がこの中立性を攻撃の主要な目標としていることは興味がある。田中意見によると、このような重大問題について、多数意見が何らかの心証をもたずに判決を下すことは理論的にも誤っている。多数意見者が心証として犯罪事実を「肯認」しているとすれば、今度の判決は不当であるし、反対に被告による犯罪事実を架空のものと認めているなら、元判決を破棄して、無罪の判決を下すべきだというのである。田中裁判官自身の「心証」はどうかといえば、その「大局的、全体的判断」からみても、また裁判「記録」からだけでも、列車転覆の陰謀はこの被告たちの所業に相異ないという。第二審に差しもどすというような多数意見の中立的な立場、田中裁判官の言葉をかりれば、「一見理論的、良心的かのように思われる」立場は、この判決では許しがたいとして、二者択一をせまっている。われわれも被告の人たちと同じように多数意見が無罪の判決を下さなかったことを残念に思っているが、それとはまったく反対の立場から、多数意見の中立的で、「良心的に思われる」立場を攻撃している裁判長以下五名の少数意見が存在していること、裁判官あるいは官僚層の内部において、「一見理論的、良心的のように思われる」立場を維持することが、この攻撃のために、ますます困難になるかもしれないということをかんがえると、私は第一審以来この裁判の性質を階級的、政治的裁判だと信じているにかかわらず、今後も公正な、政治から独立した裁判をますます要求してゆかねばならないとおもっている。
 田中意見はこうものべている。「多数意見者は、事件発生以来十年を経過しようとしている今日でも、本件を第二審裁判所に差し戻すことによって、なんらかの新しい証拠資料が見出され、真実の発見に資するものと思って差し戻したものであろうか」。検察当局が十年にもわたって諏訪メモを裁判と国民の眼からかくしてきた事実、そのようなことは権力をにぎっているものにはきわめて容易である事実には、まったく目もくれないで、被告たちを獄舎につないだこの十年の経過というものを自己弁護につかっている。自然にこの「十年」が過ぎ去ったのではない。一体だれが「十年」を経過させたのか。「新たな証拠は期待できず、またその必要もない」とものべている。どのような根拠にもとづいて、新しい証拠は期待できないというのか。「その必要もない」というのは何故か。多数意見は、判決文に示されているような十分の根拠があったから、差しもどしを命じた。その結果、田中意見がのべているように、「数年という年月」を要することになりそうであっても、それは人間の生命にかえることはできないからそうしたのである。しかし、田中意見によれば、それは「廻り道」であり、「いたずらに下級審に負担を課するだけ」である。「これでは裁判の威信は地を払ってしまう」。「裁判の威信」が地におちても、無実の人間の生命の一つもうばわれてはならないという国民の立場からすれば、裁判所が新しい証拠を探し出すために全力をあげ、裁判記録を徹底的に検証することを要求する権利がある。被告の人たちには大変なことだが、国民は今度の「廻り道」を少しもおそれてはいない。おそれているものはほかにいるのではないか。
2010.05.27 Thu l 裁判 l コメント (2) トラックバック (0) l top
文集「真実は壁を透して」は、1951年12月、松川事件の被告人20名が福島地方裁判所により5名の死刑(杉浦三郎・佐藤一(以上、東芝労組)、鈴木信・本田昇・阿部市次(以上、国鉄労組)、5名の無期刑を含む全員有罪判決を受けた後、月曜書房という出版社から刊行されたという。詩や手記や自分たちの無実を訴え救援を呼びかける文など形式はさまざまだが、20名全員の寄稿文によって構成されている。そのなかから今日は4つの文章を掲載する。筆者は二階堂武夫(事件当時24歳)、赤間勝美(同19歳)、菊地武(同18歳)、杉浦三郎(同47歳)という人たちで、赤間被告は国鉄労組側の人、残り3名は東芝労組側の人である。杉浦氏は全被告のなかで最年長、長い裁判を通して終始一貫、被告団長を務められた。赤間被告の場合は、「赤間自白なくして松川事件なし」とまで言われたほど、警察・検察から膨大な分量の自白調書をとられている(死刑を宣告された人たちは全員取調べ段階から一貫して犯行を否認しているので、彼らが言い渡された死刑判決の根拠はほぼすべて矛盾に満ちた赤間被告の調書のみに拠っている。取調べの捜査陣も若い人のほうが与しやすしと見て赤間被告らに徹底攻撃をかけたのは間違いなかったようである)。杉浦被告の文章は面会に訪れた支援者に宛てた手紙の写しだが、二階堂、赤間、菊地被告ら3人の文章は「被告人控訴趣意書」の写しである。

自宅に送られてきたこの文集を偶然読んだ広津和郎が「嘘では書けない文章だと感じた。特に赤間君の文章に対してそう感じた。」と述べたのは有名だが、実は小説家の武田泰淳もこの文集の感想として「被告たちは本当のことを言っていると思う。」(「真実は壁を透して」改訂版) と述べている。特に、二階堂被告の「ビラ書きの夜」のリアリティについて、「もしこれが創作、作り話だとしたら、二階堂被告は異常な才能をもつ小説家ということになる」というおもしろい読後感を寄せている。経験をありのままに平静に正確に叙述した文章の説得力にまさるものはないということなのだろう。

事件の起訴事実だが、「器具窃取罪」が若い被告3名(東芝側の小林・菊地・大内の3被告が線路破壊に使用されたスパナとバールを松川駅倉庫から盗み出したというもの。事件発生の同時刻における自分たちの行動を綴った「ビラ書きの夜」という二階堂被告の手記にこの件が出ている。)に認定されている他、すべての被告に対して付きつけられたのが「共同謀議」、あるいは「共同謀議実行」という罪名であった。

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 ビラ書きの夜  二階堂武夫

 事件のおきる前の晩、八月十六日、私と二階堂ソノさん、小林、大内、浜崎、菊地の六名は宣伝ビラ作製のため、組合事務所(東芝松川)において深夜までの仕事を続け、そしてその夜は事務所に泊ったのであるが、このことが本件と結びつけられ、今日のごとく極刑をうける対象となっている。判決文によれば、この夜十時半頃、小林、大内、菊地の三君が、松川駅線路班よりバールとスパナを盗み出し、この盗み出し成功を祝して六名で労働歌を合唱し、志気を鼓舞し、その後(十七日)午前零時半頃、組合事務所に佐藤一氏が単身やってきて我々と雑談をなし、一時半頃浜崎君をともなってバールとスパナで脱線作業に向かった。その時残余の五名は「しっかりやってこい」「見つからぬようにやってこい」と声援を発して送り出したとされており、私とソノさんは、この人達が当夜どこにも出なかったという擬装アリバイを作るために泊ったとされているのである。
 だが真実はどうか。

 十六日夜八時半頃組合大会が終って、組合事務所にのこっていたのは、私と二階堂ソノ、小林源三郎の三人だった。
 事務所内は静かで、電燈を真上にしながら、机にかぶさるようにして、ソノさんは事務をとっており、紙上を走るペンの音と、振子時計の音が入りまじってきこえる。小林君はよほど疲れたらしく、会議用の長椅子に体を投げ出して長くのびている。
 そこへ、外の方で人の話し声がし、足音と共に近くなり、プラカードの打ちつけてある入口の戸をガタガタさせてあけ、浜崎、大内、菊地の三君が入って来た。「なんだコサビシ(小林君のこの名を拝名するに及んだのは、いつだったか組合事務所に来た大内君が、小林君にこれを渡してくれと手紙をおいて行ったが、その表面に小淋原三郎と書いてあった。源の三ズイが一段上に籍をうつし、コサビシ・ハラサブロウなる奇怪な名が現出して、通用されるに至ったのである)、まだ居たのか。こんなところにのびてやがる」「イスをもちあげて落してしまえ」と、大内、菊地の両君がふざけはじめた。
「しでー奴らだ、おめいらは、やめろよ」と兄さん株の浜崎君がとめる。もちろん、二人は本気でないが、小林君の腹を小づいて起してしまう。「チェッ、うるせいな。俺は頭が痛いんだぞ、馬鹿野郎」と小林君は少しきげんがわるいが、二人はさんざんふざけて仲なおりをしてしまう。「懇談会終ったの?」と私がきくと、浜崎君が「うん終ったよ。外部の人が帰ったので止めたんだ。」「そうか。ところで大内君、君の宿泊の件は、木村のバアさん(八坂寮の管理人)にたのんでおいたから、菊地君の部屋にでも泊れや」と話すと、大内君は「んじゃ武夫さん、どうするんだい。汽車行っちまったぞ、泊るとこあんのかい」ときく。「いやない、それで今考えていたんだ。明日の宣伝用のビラが足りないんでね、今晩ここに泊って、仕事をしようかとも考えてるんだ」「そうか、こまったなや」「なんで寮に泊めねんだっぺ」「馘首者の入門拒否というわけだろうよ」「おもしゃくねえな、畜生ヤロ」
 私が泊れぬということに皆不満の様子でどの顔も渋い顔だ。そのうちソノさんが、「事務所に泊まるのはいいけど、武夫さん、体は大丈夫なのですか。又無理をして、この前のようなことがあると困りますからね」と心配気に話しかける。
 私は夏になると極端に体力が落ち、衰弱するのであり、その上半月ほど前、過労のため組合運動中倒れ、二、三日注射を打ちながら床についたこともある。
 みんなは、がやがやと言いはじめたが、けっきょく、
「んじゃ、ビラ書き、俺たちにやらせてくれ、いいべ。あんた一人にやらせることも出来ね」
「みんながやるなら、私も手伝いますよ」とソノさんまでが言う。
 こうなれば、とめてもきかぬ人たちなので、感謝してやってもらうことにする。
 早速道具が持ち出され、古新聞紙を出して半分に切り、ポスターカラーを皿の上にしぼり出し思い思いに筆をとった。
「なんて書くんだ」「まず首切反対だべ」「吉田内閣打倒もいるな」「もっとあるぞ」「なんだ」「んだな。不当馘首反対だ」「なんだ首切反対と同じだべ」「ちがうべ」「おんなじだ」「ちがう」「おんなじだでば」「チェッ、又はじめやがった、すぐこれだからな。黙って書け」「アハハハ」とにかく、ゆかいな連中なのだ。
 疲れをなおすには、元気で冗談を言い合うにかぎる。そのうち空腹をうったえてきた。夕食を食べてないのだ。
「腹へったな」「んだ、おれもへった」「なにかねいか」「なんにもねえな」「トミニかカンパ芋ねえかな」(トミニとはトウモロコシ、カンパ芋とはジャガイモのこと、組合隠語)「ねえな」「ああ、カンパ芋くいて」「ねえがな」「菊地、寮から持ってこ」「イヤだ」「このやろ、薄情だな、寮にいっぱいあっぺ。それ持ってこ」「ダメだ、ハアねてっぺ」「かまいねいがら、起して借りてこ」「いやだでば」「このやろ、おもしゃくねいやろうだ」
 組合にはなにもない。八坂寮に宿泊している菊地君を、さんざん責めている。実際のところ私も非常に空腹であった。何かないかと思ったが、何もない。
「ソノちゃん、組合にはないかな」「あるけど、カギがないからあかないわ」「ぶっこわせ」さっそく横ヤリが入る。「こわすわけにはゆきませんよ。しかられちゃう」「なおせばいいべ」「ダメよ」
「八坂寮から何か借りるか。ソノちゃん、わるいが借りてきてくれないかな」「ハイいいわ。行って来ます」と立上りかけたところを小林君が「ああ、俺、米もってんだっけ、これ食うべや」「どうしたんだ、その米は」「昨日ない、俺八坂寮に泊まったばい、寮のメシ食ったんで、その分返そうと思ってない、もってきたんだ」「そうかい、それ借りよう、どの位あるの」「あんまりねえな、四合か五合だべな」「一人一合ないわけだな」「ぜいたくゆわねで、がまんすっぺ」「それじゃあ、小林君に炊事の方はまかせるか」「ヨシ、やっぺ、ナベはどうすっぺな」「寮から借りてくんだな」
 小林君はナベを借りに出てゆき、やがてかえってくる。
「ナンダ、そのナベは、イカレテやがらあ」「しょうがあんめ、これしかねいってゆんだからな。これでもたけっぺ」「まかせるわ」
 借りてきたのはよいが、大分くたびれている品物である。原形をようやく保っているニュームの鍋であった。そのナベで米をとぎ、電気コンロにかけたが、今度は適当なフタがない。
「ええ、面倒くさいや、これにしちまえ」と小林君、事務所のバケツをスッポリかぶせてしまう「きたねえやつだ、めし食えねえや」「食えねえやつは食わねんだな、アハハハ」
 その間に我々はビラを書きつづけた、大分書けた。手は色で変色し、顔も各自数カ所のハン点がついている。筆を洗う洗面器の水は底が見えず、雑多な色でそまっている。丁度電気の下にあるので、小さな虫が数匹水面に浮んでいる。御飯の方もフタがフタなので、なかなか出来ぬらしく、つきそいの小林君がときおりバケツをとっては、中をのぞいている。
 そのうち御飯もできたので、食事をとおもったが副食がない。それでソノさんと菊地君に寮に行ってもらい、味噌、茶わん、皿、ハシ等を借りて、御飯を一人一杯ずつ盛り、カビの生えた味噌をなめながら食事をすませた。
 食事がすむと各自やはり疲れが出て、今までの張り合いもぬけた。
 そのうちに、各人が歌をうたいはじめた。「若者よ体を鍛えておけ」「黒きひとみいずこ」
「晴れた青空」「起て飢えたる者よ」
「畜生、じゃましやがる。一しょにうたえ」「ヘーイ、この若者よ」「うるせいったら」
「さあ、みんな前へ進め!」「この野郎、ぶんなぐっぞ」菊地君のいたずらはますますつのり、相手の歌を妨害しようとして、いろいろな歌がとび出してくる。歌合戦だ。
 疲れた小林君がまずビラ書きをやめ、会議室のコの字形の机の上にねてしまう。」「俺もねっぺ」と浜崎君が小林君とは反対の机の上に、新聞紙を敷いて横になり、福島県下最大の東芝連合会マーク入りの組合旗をかぶり横になる。「畜生、蚊がいんな」「よし俺が蚊いぶしをしてやる。葉っぱ取ってくんかな」と言って菊地君が出てゆく。菊の葉をとってきた。ヨモギの葉とまちがえたらしい。
 アレスター(避雷器)のフタの中に使い古しの原紙と新聞を入れ、その上に菊の葉をのせて、電熱器から火をつけてあおぐ。煙がでて、室内に充満する。茶目気の多い菊地君なので、これが又おもしろいらしく、むやみにあおり立てるので、我々はむせかえるようになる。
「おい、いいかげんにしてくれよ」「もうたくさんだ、蚊はいねえよ」
 やがて大内君は浜崎君のとなりに、菊地君は小林君のとなりに横になる。
 しばらくして私は、物置の中から幻燈用の幕を取り、小林・菊地君の上にかけてやった。すでにかるい寝息がもれている。
 ソノさんも、机に両手をあげ、手を重ね、その上に頭をのせてねむりについた。
 時間は二時を過ぎている。私はまだ起きたまま、連合会の指令・通報・速報・経過報告などのプリントに目を通す。
 そのうち、遠く松川町の方向で、半鐘の音が夜の静けさをやぶってきこえて来た。瞬間自分の耳をうたがったが、やがてハッキリしてきた。火事だなと思って、うしろで寝ている二人をよび起した。
「おい小林君、菊地君、起きろ、火事だぞ」
 二人は目をこすりながら、
「本当かい何も聞えねや、うそだっぺ」「うそじゃない、よく聞いてみな」「なるほどきこえる。町のカネだな。どこもえてんだべな、コサビシの家でねえか」「冗談いうな」
 それからみんな起して、浜崎君と大内君が外へ見に行った。五分ほどで帰ってきた
「どこだかわかんね」「どこも明るくなってねえから、火事でねえんでねえかな」「それ見ろ何でもねえべ、すぐさわぐんだから困ったもんだ」「何言ってんだ。馬鹿野郎」「こいつすぐ人を馬鹿ていう、馬鹿々々ていうな、馬鹿」「ねっぺ、ねっぺ」「んだ、んだ、又ねっぺ」みんなふたたび眠りについた。
 しかし、もう朝だ。六時にはみんな起きた。
「ねだ、ねだ、体がいでえな」「わいの顔黒いぞ」「わがの顔も黒いべ」「きたねえ顔だ」「もどもどだべ」「このヤロウ!」
 汗ばんだ顔にほこりがついてたのだろう、どの顔も黒くよごれている。
 寝場所を片づけて掃除をはじめる。
「ソノちゃんはよくねたな。半鐘鳴ったの、わかんねべ」「なに半鐘て?」「やっぱりわかん
ね。今朝半鐘なったんだ」「何時頃」「五時頃」「何の半鐘なの、火事?」「それがわかんねん
だ」「変ね」「何かあったんだと思うね。その内にわかるだろう」
 八時からビラ貼りに出ることになっているので、ノリにするうどん粉を買いに大内君が出て行った。
 各班別にビラをそろえて分けたのち、どうも外の様子が少し変なので、私はソノさんを残して組合事務所を出て、会社の警備所の前まで来ると前方からウドン粉をもった大内君と逢った。
「武夫さん、汽車が脱線してない、人が死んだというぞ」「どこで!」「よくわかんねが、すぐそこだというよ」「何人位死んだの」「三百人位と聞いたな」「そいつはしでえな」「俺見てくるわ」と大内君は又出かけて行った。
 私は八坂寮の二階にいる佐藤一さんの部屋にとんで行った。ちょうど彼は起きたところらしく廊下に出ていた。
「一さん、汽車の脱線で三百人死んだというよ」「三百人?」彼も私の話におどろきの目を向けた。「君はどこに居たんだ」「ぼくですか、夕べはビラが足りないんで、組合事務所で小林君らと徹夜で書きましたよ」「そうか、そんなら俺に知らせてくれればよかったのにな、手伝うんだった」「いやあ、あんたも疲れていると思いましてね、我々でやりました」「御苦労様だったね」「それにしても一さん、これは何かあるぞ、三鷹の例もありますからね」「うんそうだね、気をつけなければなるまい」
 そのまま、私は二階から下り、ビラ貼りの準備のため組合事務所に向った。
 以上が問題の十六日夜から朝にかけての我々の行動であった。


 私の調書はどのようにして作られたか  赤間 勝美

 ――原判決で証拠にして居る赤間調書がどう云う取調べの中で出来たかは次の通りです。
 私は九月十日午前六時頃働いていた福島市太田町の村山パン屋から金間刑事に福島地区警察署に任意出頭と云うことで連れて行かれたのです。そしてその日の夜午後十一時頃まで調べられて暴力行為と云う逮捕状が出されました。
 しかしその日から私の調べられたことは暴力行為と云う去年の「ケンカ」のことでなく身におぼえもない列車転覆のことでした。そして一日毎にその取調べは「ヒドク」なって行きました。そして暴力行為が釈放になる九月二十一日の夜まで脅迫と誘導と拷問で身におぼえのない列車転覆という恐ろしいことを無理々々に押しつけられて行く毎日だったのです
 私は九月十日任意出頭で福島地区署に連れて行かれて最初の取調べは金間刑事に伊達駅事件で保釈になった以後の行動や退職金を貰ってどうしたかという事を調べられました。そしてその調べは直ぐ終ったので看守巡査の休んで居る室で休ませられ、休んでいるうち今度は武田部長に呼び出されました。最初は退職金の事や自分の財産の事を調べられたのです。そしてその調べが終ると今度は全然身に憶えのない八月十六日の晩安藤や飯島に今晩列車の転覆があると云ったろうと私に恐ろしい目をして云ってきたのです。私は全然云ったことはないので、有りませんと答えました。すると武田長は「なに云わない……嘘を云うな安藤や飯島がお前が今晩列車転覆があると云ったのを聞いているのだ」と声が大きくなって「誰にその話を聞いた」といじめられるので、私は誰にも聞かないし又その様な事は全く云った憶えがないので本当にその様な事は云いませんと云うと、武田部長は「お前が云わないと云うのは嘘だ。安藤や飯島が云っているから嘘だ」と云って、今度は安藤や飯島を私の前に連れて来て、私が云った事がないのに、八月十六日の晩列車転覆があると云ったと云わせるのです。そして武田部長は「安藤や飯島が、この通り云っているから云わないと云うのは嘘だ」と云っていじめられるので私は困ってしまいました。そして今度は安藤や飯島が、私が虚空蔵様の辺りで黒い服をきた者と一緒に歩いていたなどと云ったので、武田部長はその黒い服をきた者から聞いたのだろう、その者は誰だか云え云えと有りもしない事迄云っていじめるので、本当に困ってしまったのです。それでも私はその様な者と歩いていないからそんな者と歩いた事はないと云うと武田部長は、「お前が歩かないと云うのは嘘だ嘘だ」と云っていじめるので、私は本当に嘘ではありませんと云うと武田部長は、「それじゃ誰に聞いたか早く云え」とせめるのです。それでも私は全然知らないので知りませんと云うと武田部長は、「お前が列車をひっくりかえしたから云われないんだろう」と云うので、私はそんな事はないと云うと、武田部長は「それじゃ誰に聞いたか云え云え」とさんざんいじめるので私はほんとうによわってしまいました。もう私が何を云っても駄目なのです。そして同じ事を何回も何回も云っていじめられるので、警察に対する恐怖心が益々つよまってくるのです。そしてその日の午後十一時半頃暴力行為で逮捕状を出されたのです。
 しかし其の日暴力行為に関する取調べはほんの一時間位だけでした。そして次の日は取調室に出されると直ぐ武田部長に「黒い服をきた者は誰だ、誰にその話を聞いた、それを云え」とさんざんせめられるので、私は益々よわってしまったのです。それでも私は誰にも聞いた事はないと云うと武田部長は「お前がやったから云われないんだ」とか「南や国分達と一緒に列車をひっくり返したんだろう。だいいち赤間らが斎藤魚店の前を通ったのを伏拝の自転車預所に居った青年団の者等が見ていないから、お前等がひっくり返したんだろう」と云ってせめてくるので私はほんとうに困ってしまいました。弁解すると怒鳴るのです。そして誰から聞いたか云え、云えと云っていじめられるので私は益々くるしくなり、このくるしさにたえきれなくなって松川の者に聞いたと嘘を云ってしまいました。すると松川の何と云う者から話を聞いたかとせめるので、私は野地とか丹野とかは松川の方にそう云う名前の者が多いのを知っていたので、私は野地とか丹野とか云う者に聞いたとあやふやな事を云ったので、直ぐバレてしまったので、武田部長に嘘を云った為にさんざんいじめられ、そして武田部長に「お前が話を聞いた黒い服をきた者は、国鉄の組合の者だろう、国鉄の何という者だ」と私の全然知らない事を云ってせめるし、私は又あやふやな事を云うといじめられるので、私は誰にも聞いていないから知りませんと云うと武田部長は「お前が知らないと云うのは嘘だ、お前は知っているから云え」と云ってせめるので、私は益々困ってしまったのです。私が苦しくなってよわねをはいたことが益々自分を苦しめて行ったのです。
 そしてこの日はこう云う取調べを何度もくりかえしくりかえし続けられたのです。そして次の日も取調室に入ると玉川警視と武田部長がいました。「今日は誰に聞いたか云え」と云ってせめはじめたのです。私は全く知らない事をせめられ何を云っても怒鳴られるのでどうしてよいか困ってしまったのです。そして午前十時頃から今度は玉川警視に「お前は女に強姦して居るから強姦罪や其の外の罪名で重い罪にしてやる」と六法全書を見て云われ、それに皆の前で実演させると云われるので、私は強姦なんかしていないけれども実演させると云われたので本当におそろしくなって、それはやめて下さいと云うと玉川警視は「それでは誰に聞いたか早く云え」と云ってせめるのです。それでも本当に誰にも聞いていないから云った事はありませんと云うと玉川警視は「お前が聞かないと云うのは嘘だ、嘘をつくな」と云っていじめられ、そしてお前が云わないならば、実演させてやる。女もお前に強姦されたと云って居ると云ってその女の強姦されたと云う部分の調書を見せられたので、私は益々おそろしくなってどうかやめて下さいと云うと、玉川警視は「それじゃ取消しにしてやるから早く云え」とせめるので、私は本当に聞いていないと云うと、警視は「嘘を云うな。お前が嘘を云ってばかり居ると一生刑務所にぶち込んでやる」とか、「伊達駅事件の保釈も取り消してやる。お前はこう云う事やこう云うことをやって居るから一生刑務所から出られなくしてやる」とか「零下三十度もある網走刑務所にやって一生出られなくしてやる」とか六法全書を見せて云われるので私は云いようのない本当におそろしい気持になってしまいました。そして次から次に誰から聞いたとか、お前がやったから云われないんだろうと云うので益々苦しくなるばかりだったのです。そして玉川警視には「お前がやった事は大した事はないんだ。一番は大物だから早く云え早く云え」とせめるので私は益々くるしむし、私が本当の事を云うと玉川警視等は「チンピラ共産党嘘を云うな」と云っていじめられるし、私は本当に答えようがなくなってしまったのです。それに玉川警視等は「皆んな赤間が転覆させたと云って居るんだぞ、三鷹事件も共産党がしたのだ、松川事件も共産党がさせたのだ。それに関らず赤間が列車をひっくり返したと云っているんだ。本田は赤間がさせたと云って居る。大したこともないお前が自白しないで情にからまれ皆んなと同じ重い罪にされてもよいのか。だから早く云えと云うんだ」とせめるし、玉川警視は「国鉄の労組で聞いたんだろう」と云うので私はくるしまぎれにそれに合せて国鉄労組事務所に水をのみに寄った時、その列車転覆の話を聞いたと云ったのです。すると玉川等に其の様な重大な秘密会議をして居るのに知らない者がいっても出来るはずはない、嘘を云うなといじめられ、お前も転覆の相談をしたんだろうとせめられるので私は相談なんかしませんと云うと玉川警視等は、「それじゃ誰がやったか早く云え」と又目茶ク茶になって無理にせめてくるので私は全く困ってしまいどうしてよいかわからなくなってしまったのです。
「お前がやったから云われないのだ。お前は、列車転覆の容疑者として一番重くしてやれば死刑か無期だ」と云われるので本当に死刑にされてしまうのかと思うようになってしまいました。それに武田部長から「早く云って玉川警視に寛大な処置を取って貰え」と云われ、私は玉川警視に「御寛大な処置を取って下さい」と頼むと、玉川警視に「嘘ばかり云って御寛大な処置があるか」とさんざんいじめられ、私はどうしたらよいか本当に泣き出したい気持になってしまいました。しかし其の晩私が十二時から一時までに帰っている事を婆ちゃんは知っていましたので、私は婆ちゃんに聞いて下さい、婆ちゃんは私が寝ていることを知っているのですと頼みました。ところが武田部長は「お前のお婆さんは二時頃迄目をさまして居ったがまだお前が帰って来ない。四時頃小便に起きた時もまだ帰って来ない。お前がいつ帰って来たか判らないと云って居る」と云われ、そして私が何時帰ったか判らないと云う調書を読んで聞かされ、婆ちゃんの名前を見せられた時、私は俺の無実を証明してくれる人がいなくなったと思ったので目の前が暗くなってしまうようでした。私はもう一度お願いしました。そして「婆ちゃんはきっと知っているんです。もう一度聞いて下さい」と頼んだのです。すると玉川警視や武田部長に「いつまでもそんなことを云っていると、おまえの親兄弟全部を監房にぶちこむぞ」と怒鳴られてしまいました。私は本当に親兄弟全部が警察にぶちこまれるかも知れないと思って益々おそろしくなって、もうどうにもならないと云う気持ちになってしまったのです。そしてこのように一週間以上の脅迫誘導拷問が朝の九時から夜の十二時一時頃迄もされ、夢中に眠く、すっかり疲れて死の恐怖の取調べはもうたえられなく苦しくなっていました。そして頭が痛いから休ませて下さいと頼みましたが、武田部長からは夜通しで調べると云われるのです。
 私は死ぬよりもつらいことでした。この脅迫や拷問の取調べから救われたい為に明日云うから寝せて下さいと頼んでしまったのです。
 そして翌日取調室に入ると直ぐ玉川警視から「明日云うと云ったから早く云え、早く云え」とせめられてもう弁解することは出来ませんでした。そしてとうとう最後迄真実を守り抜く事が出来ずついにその日の午後虚偽の自供をさせられたのです。そして虚偽の最初に出来た調書では汽車転覆の話は玉川警視等に云われる通り、八月十五日国鉄労組の人達と相談して聞いた事にしてしまったのです。私は玉川警視等に国鉄労組で列車転覆の話を聞いたんだろうなどといじめられ、そして信用させられていたので、私は国鉄の労組の人達が本当にやったものと思い、私はこれらの人達の為にいじめられると考えると憎らしくなっていたのです。又鈴木信さん、二宮豊さん、阿部市次さん、本田昇さん、高橋晴雄さん、蜷川さん達をどうしてこの謀議に出席したとデッチ上げたかと云うと、鈴木さんや二宮さんの場合は、八月十七日から十八日の新聞に二宮さんと武田さんがこの事件のことで出ていたのでこの人がやってると思ってデッチ上げたのです。そして武田さんが新聞に出ていたのを鈴木さんとばかり思って鈴木さんを謀議に出席したとデッチ上げたのです。阿部市次さんの場合は組合の人達がやっているならば阿部さんもやって居ると思い、憎らしくなってデッチ上げたのです。本田昇さんの場合は国鉄の幹部で労働組合の事務所に居る者でつまり党員だと云っておられたし、又本田と云う者は自分がやったのに赤間が転覆させたと云って居ると云われたので本田さんを憎んでいたので謀議にデッチ上げたのです。高橋晴雄さんの場合は警察から高橋と云う者はアリバイがくずれて居ると云われた事があったので高橋さんは関係して居るなと思ってデッチ上げたのです。蜷川さんの場合は警察から相談の席に誰々が居ったろう、誰々が居ったろうと云われたのでそれを利用して蜷川と云う者がいたかも知れないと云ったのです。私は本田さんも高橋さんも蜷川さんも知りませんでしたがもうどうでもよいと云う気持で警察の云う通り合せて行ったのです。そしてこの様にして八月十五日の謀議や人の名前が出来たのです。
 そして玉川警視からいつ相談するから来いといわれたのかと聞かれたので、私は伊達駅事件の打合せに行ったとき聞いたと云って十一日を間違えて十三日と云ったのです。そして阿部市次さんに云われたなどと有りもしない様な事をデッチ上げたのです。それから八月十六日の晩については十二時過ぎに待合せた場所は永井川信号所の踏切詰所の南の道の処でそこから真直ぐ行って信号所の東側を通って南の踏切を出たと最初供述させられたのです。それが後で武田部長が歩いて来て本田清作がお前等三人を見たと云うからお前等三人の通った道は信号所の処でなく本田清作の家の前を通ったんだろうと云われて私は実際歩いていないから武田部長の云う事と合せて返事したのです。それから最初に云わせられた帰りの道順は金谷川のトンネルの処から山の山道を通って線路の東側の田圃に出たと供述したら、後で武田部長が、私の云った通りの処を歩いて来て、山に道がないのでどうしても歩かれないので帰って来てから私に「山に道がないから割山の線路を通って来たんだろう」と云われたので、私は歩いていないから武田部長の云う事に合せて云ったのがそうなったのです。又赤間調書の道順がくわしく書かれている訳は、私が前に線路工手をして居ったので、松川や金谷川方面を何回も歩いた事があるので道順を知っていたのです。それから又最初から道順がくわしく書かれて居るのは、調書を書く前に私から云わせた事を「メモ」を取ってそうして武田部長が歩いて来てから調書が完了したから道順がくわしく書かれて居るのです。
 それから赤間調書の帰り道で浅川踏切附近の神社の前を通った事になったのは玉川警視に「お前等三人が帰り道に浅川踏切付近の神社の処で『ホイド』(乞食)が見ていたと云うから神社の前を通ったろう」と云われたので私はそれに合せて通りましたと云ったのです。それで神社の前を通った事になったのです。それから現在ある赤間調書の列車番号と列車と出合った場所及び手袋等や森永橋の処で肥料汲の車等に会ったと云うのはどうして調書に出来たかは次の通りです。
 最初に列車関係を云うと、一番先に出来た調書一五二列車と一一二列車しか書かれませんでした。
 一五二列車の列車番号は警察の取調べに玉川警視からおしえられ、そしてこの列車と浅川踏切の手前あたりで会ったろうと云われたので私はそれに合せていい位な事を云ったのです。一一二列車は取調べに玉川警視から一一二列車の大西機関士がお前等五人の者をここらで見たと云うから一一二列車と会ったろうと云われるので、私は知らないけれどもここらで会いましたと合せて云ったのです。そして検事調書には「大西機関士に顔を見られたことは検事さんに初めて知らされた」と書いてあるが大西機関士が見ていたと云う事はこの時聞いたのです。それから一一五列車と六八一列車は九月二十九日頃保原で山本検事に私が図面を書き終って山本検事に見せたら山本検事はその図面に一一五列車と六八一列車がないので私に一一五列車と六八一列車番号をおしえて其の列車とどの辺で会ったかと云うので、私は一五二列車の直ぐ後の列車だとおしえられたので、それに合せて自分でいい位な距離を作って云ったのです。


 おとし穴  菊地 武
   
 私は昭和六年に福島県安達郡大山村に生れ、終戦の次の年である昭和二十一年六月に東京芝浦電気松川工場に入社し、わずか三年数カ月憲法により保障された権利に基づき、労働組合員と共に、ひたすら歩んで来た。そして昭和二十四年八月十五日終戦記念日と同時に、同工場を首切られた。組合大会の決定により執行部の指導のもとにニカ月首切反対闘争を続けて来たが故に。
 十月八日未明、突然私の家の前に自動車が止ったと思うと同時に、どやどやと警官が私服、或は制服で私の家に入り込み、寝て居た私の枕もとに来て任意出頭を求めるので、私は盲腸を切ってまだ十四日しかたってないのであまり歩けないから行けないが、どんな理由で出頭を求めるのか聞いて見ました。すると、刑事が、いや休が悪いなら行かなくとも良いが、君が行って話をすれば前に逮捕になった杉浦や浜崎や大内、小林その他東芝の者が全部帰れるのだ。お前が行って話をして呉れないか。警察では可哀そうで一日も多く泊めて置きたくないのだが、どうだ行って十六日泊ったという証明をして呉れないかと言うので、私は、私が十六日夜泊った事を証明して呉れるとみんなが帰れると言うなら、私は休の悪い身でありながら行く事に決め、そして一日も一分も早く組合の人々に帰って貰うようにと考え、朝飯を食べて着物を着て(盲腸を切ったばかりで、ズボンのバンドが出来なかった為)居りますと、お母ちゃんが休が悪いのだから後にしたらどうだ、歩いては駄目だ。と何回も何回も言われましたが、私としては前に逮捕になって居った東芝の人連を早く釈放させたいが為に、刑事と共に自動車に乗り福島に向いました。この時自動車の窓から見た両親の姿は今でも忘れる事は出来ませんでした。
朝やけの空をながめながら、右に左にゆれ、福島地区警察本部についたのは、もうすでに十一時は廻って居りました。それからすぐに三階の取調室に上げられましたが、私は何にもやって居らないから、自分の木当の行動をそのまま話をすれば、みんなと一緒に帰れるものと落着いた気持で取調官の来るのを待って居りました。だが前に逮捕になっていた大内さんや小林、浜崎さんと一緒に組介事務所に泊ったから疑いを受けてでもいるのか、それでも木当の事を言えば、みんなと帰れるものと思い取調官の来るのを待って居りました。すると間もなく、武田刑事部長と玉川警視(氏名は後で判った)が人って来たのです。そして二人は、私に組合経歴や共産党に入党云々――と聞かれるので、私はこばむ事なく全部答えて居り、これを終ると、今度は、八月十六日の行動を聞くので、私はビラ書きをして居った事やら、その晩一緒に寝た様子など、記憶のまま述べて居りますと、玉川と武田は笑いながら、菊地よ、ここに来てもそのようなことを言って居るのでは助からないぞ、それは君遠の作ったアリバイだと小林や大内はちゃんと言って居るのだ、お前達の犯した罪は死刑か無期なのだと、言うので、私は驚いてしまいました。亦犯人として取扱われて居ろとは夢にも思わなかったのです。一体私が何をしたと言うのだろうか、どうして組合事務所に泊った私達が死刑や無期になるのでしょうか。
私は今迄話をした以外の事は知らないから早く帰して下さいとお願いすると、武田は、そういそがなくとも良いだろう。これからここに毎日泊めてやるから心配するなと言うのです。しかし今日どうしても帰りたい、家の人達が心配して居るから帰りたいと思い、そのためには何を言うと帰れるのかも考えました。これから組合運動は絶対にやりませんと言うと良いのか、それとも大内君、小林君、浜崎君と一緒に泊らなかったと言えば良いのか、何んでも良いから取調官の言う通り答えて早く帰ろうかという考えにもなりました。そして私は取調官の武田刑事部長に、私は一体何をしたというのですかと聞いてみました。すると武田刑事は脇の数百枚の罫紙に何か書いてあるのを見ながら、何時、何処で誰々が集まって列車を転覆させる話をして……その次の日は、大会が終って、誰と誰とが集まって……話し、それにもとづいて、小林と大内、お前が夜中に組合事務所を出て、八坂神社の方に行き、松川保線区に行ったろう。この時にお前達三人が歩いてゆくのを見たという証人も居るのだし大内や小林も菊地と一緒にバールとスパナを取りに行ったと言っているのだから、お前がなんと頑張っても駄目だ。当ったろう。この通りだろう。お前が行かないなどといって自白をしないで居れば、今のうちは保線区倉庫まで行っただけであるが、後になれば、現場に行ったようにされるかもしれない。そうなれば一生監獄で暮すか、或は悪くすれば絞首台に立たされるかも知れない。お前は自分の罪の大きさに驚いたのだろう。小川に流れる木の葉も、やはり流れて行くところは大きな海に行くのだ。君も木の葉と同じ、行く道は只一つしかないのだから早く自白したらどうかというので、私はなんとなく夢のような気がするのです。
 当時は列車転覆の話を聞いたこともなし、叉、あの夜は松川保線区迄行ったと言われるので、頭はもうもうとなり、腹は痛み出すので、横にさせて下さいとお願いすると、自白をしないものを横にすることが出来るものか、ガマンしろと怒鳴るのです。
 こうした取調べが夜九時半迄続けられ、苦しみと痛みをこらえながら来たが、つい倒れそうに机にうつ伏せになってしまいました。すると玉川警視は、野郎まいりそうだから令状でも示して休ましてやれといって、夜の十時に恐るべき列車転覆罪の逮捕状が示され、監房に入れられてしまったのであります。そして、あの薄い白壁に囲まれて一人淋しく泣きながら、どうすれば調べをせずにすむのか、あの調べの苦痛をどうしたら逃れられるのか、早く家へ帰りたいと、起き伏せしながら考え通しました。そうして初めて監房の一夜を明かしたのであります。
 翌九日、朝七時頃、再びドアーの錠が開かれ私を二階の取調べに上げようとするので、私は断りました。今日は休が悪く動けないから、もう少し取調べを休まして下さいとお願いすると、私を連れに来た刑事は、私を監房から引き出すようにして引張り、休が悪いなど、ぜいたくな事を言って居るのではない。ここは何処だと思って居るのだと言って私を二階へ上げ、昨日と同じ部屋に入れますと、やはり取調官は武田刑事部長に玉川警視でありました。
 室に入るより早いか、高圧的に、貴様は自白をしないで死にたいのか、それとも生きたいのかどちらだと、大声をあげて怒鳴るのです。私は死にたくはありません。生きたいのです。と言うと、生きたいなら自白をしろと怒るので、私は死にたくないし、生きたいし、自白をしろと言われても、何にもやらない者が、何の自白をしたら艮いのか判らず、黙ってしまいました。
 すると、黙って居れば武田刑事部長は、私の耳に口を寄せ、大声をあげ、ツンボになったのか、返事が出来ないのか、警察では黙って居ればその者は事件を認めた事にして厳重処分とし、検察庁に送れば死刑か無期はまぬがれないぞ、それでも良いのか、と言うので私は黙って居れば事件を認めた事になるのでは大変だと思い、又自分の行動を述べ始めました。すると、そんな事は聞いて居らない、それは君達の作ったアリバイだと小林や大内も口をそろえて言って居るのだから本当だろう。そして又、大内、小林はちゃんと菊地と一緒に、松川保線区倉庫に行って来たと言って居るのだから、組合事務所から出たと言え言えと、机を叩き、本を叩き、口からアワを出してどなるのです。そして、事務所からも出たのを答えられないならば、貴様はあの列車の下になって死んだ三人に何と言ってお詫びするのだ。貴様のような悪人はこの世に生かして置けば人民の害毒だから、一生監獄にぶち込むか、それとも親にも会わせず検事さんにお願いして、殺してやると何回も何回も言われるので、私は本当に殺されてしまうのか、殺される前に、一遍でも良いから親に会いたいという事を考えるようになり、私は二人の取調官の居る前で、おそれと苦しみに大声をあげて泣き出してしまいました。
 すると、玉川は、そうらそうら良心が出て来た。もう少しだ。こしかけて居っては駄目だ。立って、悪かったとあの三人に手を合わせておがめ、といって私を立たせ、手を合わせて三十分も四十分も立たせたままにして、その間に、死体のことやら、蒸気の中で呼ぶ声のまねをしたり、そうら後に亡霊が立って居る、と、全くおそろしい、本当にうしろに誰れかが立って居るような気がする位にまで亡霊の話をするのです。
 或日は叉、夜中に起して、こうした話を聞かせたり、或日は絞首台の図面まで書いて教えるのでありました。こうした取調べの日が一日、二日、三日……行われ、私は一週間、真実と正義を守り通しました。
 十月十五日、この日は、名前の知らない刑事五人が私を取調べに掛ったのであります。そして休が痛く、つかれた私に自白をしろ、自白をしろと言って休をゆすったり、或は「ナズキ」(額)をぐんぐんと後に押して部屋中廻ったりした事もありました。
 こうして、この日午前中は、五人の刑事によって、人間対人間の取調べではなく、暴力的な拷問が開始されたのであります。
 そして午後からは、今迄に見た事もない刑事が一人で来て、私に六法全書を見せながら、列車を転覆させれば死刑か無期よりしかないのだ、もしも自白をしないで罪にされれば、お前の命はわずか十七才にして終るのだ、大切にして使えば後三、四十年は完全に生きられるのだが、人に義理をたてて命をちぢめ死刑か或は一生監獄に人ったりしては、家族に何んとお詫びするのだ。君の継母は、きっと殺人の家には居れないと言って、この寒い冬を前にして君の家を出て行くであろう。そうしたらお前はどうするのだ……それよりお前が早く警察の言う通り答えて、一日も早く帰えり、親に安心させたらどうだ。警察では、お前が自分で何をしたかも言わずして、人の言うことばかりで一番重い罪にされたら、お前が可哀そうだと思うから、こうして情をかけて呉れるのだ。普通の人ならかまわないでそのまま検察庁に送ってやるのだ、と言うので、警察を疑う事のない私はほうほうと泣き出してしまいました。
 そして私が机に、うつ伏せになり、生きる事を考えはじめると、刑事は更に続けて聞かせるのです。お前や小林、大内は、杉浦や共産党の人達にだまされてやったのだ。それは警察では知って居るのだが、お前が話をしないからどうする事も出来ないのだ。大内や小林とお前は面白半分にやったのだから、大した罪にはならない。悪くしても証人位、よくすれば証人にもならなくともすむかもしれない。俺は悪い事は教えない。よく考えて見ろ。大内だって小林だって、お前と一緒に組合事務所を出て、松川保線区に行ったと言って居るし、その間、三人が並んで歩いて行くのを見たと言う証人もちゃんと居るのだ。お前は組合事務所から出ないと言うが、もしも出ないなら出ないという証明をさせる証人を出して見ろと言われたので、私は組合事務所に一緒に泊った小林君、大内君、浜崎君それから二階堂武夫さんと園子さんが証明して呉れると思います、と言うと、この人達がお前と一緒にバールとスパナをとりに行ったと言って居るのだから、証明にはならない。その外に居るかと言うので、私は夜で組合事務所には誰も来なかったから、その外には証明を出来る者はないと言うと、証明が出来ない事はやったのだと言うので、私はこの証明が出来ないと本当に死刑にされて仕舞うのか、そして叉、大内君も小林君も嘘を言って、私と三人で組合事務所を出たなどと言って居るのか、だが私はどうしても生きたい、又もう一遍だけでも外に出たいという心細い気持になって居る処に、名前を知らない署員が来て、刑事さん、今度菊地を検事さんが調べるそうですと言って、その人はドアを閉め、帰ったのです。すると刑事が今度検事さんが調べるそうだから、検事さんというのは裁判する時に立合い、罪を重くするも、軽くするも決めるのだから、助かりたいと思ったら今迄のような事言って頑張っては駄目だぞ、判ったなあ、さアー行こうと言うので、私はその席を立とうとすると、長い間坐らせられて居る為と恐怖の為に歩くことが出来ず、目からはいろいろな色をしたボールのような、美しい玉がすうーすうーと飛び、目まいがするので、私は一人で歩く事が出来ず、刑事の肩を借り、左手を肩に掛け、右手で盲腸の痛みをさすりながら、そろりそろりとあるいて、検事の調べ室に人りました。
そこには叉、誰も居らず、私は椅子に腰をおろして、机にもたれて考えました。
こんなに苦しむなら死んだ方が良い、それともこの苦しみをどうにかして逃れる事が出来ないのか、――すると検事が、一本のタバコをくわえて室に入って来たのです。そして、私にどうして泣いて居るのだ、泣いただけではすまないのだ。もうお前達のやった事は全部知って居るのだから、自白したらどうだと、高圧的に調べを始めたのです。そして小林を今調べて来たが、彼はすっかり話をして、悪かった申訳けなかったと涙を流してお詫びして居るのだ。お前も小林達のような気になれないのか、それとも死にたいのか、一生監獄で暮したいと言うのかと、怒鳴るのです。
 私は生れて始めて警察に来て、刑事や検事は、こんなにまで嘘を言わせる処だとは思いませんでした。そして私が考えた事は、あの晩確かに組合事務所でビラ書きをし、そして小林君と共に赤旗をかぶって寝たのだから、小林君も私も組合事務所から出なかったはずだ、それでも私達の組合事務所に泊ったという証人は、一緒に泊った人以外には居らないのです。それに外の証人を出せと言われても出しようがないのでした。叉検事も私達三人が、松川構内を歩いて居たと言う証人が居るというので、これではとても、無実であることを頑張っても殺されてしまうか、一生監獄で暮す以外に道は無いのかと考え、それよりもみんなと同じく、話をして、この苦しい取調べを止めて貰おうと思いました。
 そして、話をすれば直ぐ帰れると言うし、話をしないと殺される。それよりも、自分だけでも良いから早く帰りたいと言う勝手な気持になり、苦しみと痛みをたえながら、真実を守り技いた一週間目である十月十五日、夜十二時過ぎ頃、とうとう検事の言われるままに返事をさせられてしまったのであります。
 すると検事は、改心の情が現われて来たのだ、それで良いのだ、人問はそれで良いのだ。まして君は若いのだから、全部を話して、早く帰るようにしろ――これから嘘を言わず、ありのまま話をしてくれと言うのでありますが、私は行った事も歩いた事もない道であるから、何と答えて良いのか判らず、歩いた道は、わすれましたと言うと、検事は、大内や小林も、こう言ってるのだから、君もこうだろうと言うので、そうですと返事だけし、謀議もこのようにして作られ、ただ、調べ室で教えられ、行為も、行った事もないまぼろしの行為を作りあげられたのであります。
 その後の調べは楽になり、家へ帰れる日ばかり楽しみに待ちました。だがいくら待っても帰されず、そのデッチ上げ調書にもとづいて私達は、無実の罪で有罪の宣告を受け、そして嘘を言わされたが故に殺されようとしているのです。
 私はこのようになるとは少しも思わなかったし、又このような大きな陰謀事件であることは、考えた事はありませんでした。
 私は悪かった。真実を曲げた事は悪かった。生れて初めての警察や検事の調べだったし、そして私は警察や検事と言うのは、もっとも真実を求める処であると思っていたのが、全く私の間違いであったのです。これが、私の嘘を言わされた一番大きな原因になったのです。(略)


 折れた線香  杉浦 三郎   

寒むい寒むい朝だった
木戸を開けると     ・
見覚えある
土屋刑事外十数名
今日は嫌でも一緒に行ってもらわねばと出されたものは逮捕状
チェツとうとう来やがった
これで首切り反対闘争おしまいだ
十日か二十日は
この室ともお別れだ
早く早くとホエル犬
とうとう来たか
首切り反対闘争おしまいだ
首切り反対闘争おわったら
サーお帰りと言うだろう

何組合長だ
可哀相に知らないな
組合なんか
お前が来るとすぐ変ったぞ
共産党もつぶれるぞ
それでは帰ってよいでしょう
駄目だ駄目だ話はまだまだこれからだ

何……腹が痛い……そうだろう そうだろう
腹も胸も頭も痛くなるだろう
若い奴等はみなシャベッたぞ
シャベレば病気は直ぐ治る
強盗、強姦、殺人事件
お前首つり見たことあるか
鼻をだらりとブーラブラ
死ぬ程恐い事はないぞ
話はそれで終わりかね
いやいやまだまだウンとある

ネズミヲネズミ捕に捕えたなら
水に入れよと火で焼こうと
人間様の御自由だ
頭に△紙はりつけて
紙の着物で六文銭
三途の川まで送ってやろう
ナムアミダブ ナムアミダブ

折れた線香の一本(歌入り観音経を唄う繰り返し)
それはそれは御苦労様
でも今頃六文銭はないでしょう。
ウウンおれは探すのが商売だ
女房はきっと泣くだろう
娘はパンパン娘になるだろう
バイ毒ショッて泣くだろう
話はそれで終りかね
まだまだまだまだうんとある

平の奴らはおこってた
共産党の幹部の野郎
俺達だまして逃げちゃった
今度来たらば殺してやる
そこで幹部は警察へ
お助け下さいと逃げて来た
どうだ最後は警察さまだ
おれがお前を助けてやろう
それはそれはありがとう
話はそれで終りかね
明日は十五日 明日は帰して貰いましょう
こんな野郎身体に物を言わせたら
三日もあれば音をあげさせる
何……身体に物を言わせると
今一度言ってみろ
いやいや今のは独言
まだまだ話がうんとある
東芝係の青年は毎日々々位いている
お前が言わないばっかりに
重い刑になるのだと
園子もスイ子も女だなあ――
来ると直ぐ綿の差入れ頼んでた
お前が話せば園子もスイ子も帰れるんだ
不人情義理知らず
西山老人占領政策違反でたたき込むぞ
こんな悪党容赦はいらぬ
死刑だ……医学校で解剖だ
サー何とか言え言え言え言え
ツンボかオシかこの野郎
何……便所へ行きたいと
この野郎オシかと思うたら口きいた
口がきけるならサーシャベレ
こっちの返事をするまでは
便所へなんかやらないぞ

外の者はみんなやったと言ってるぞ
やらぬと言うのはお前が唯一人
九人の言うこと本当か
お前一人の言うこと本当か
お前は民主主義者で……多数決
サーどっちが本当か考えろ
何……何……何だと
一人でも本当は本当だと
この馬鹿野郎
日本の算術忘れたな
民主主義を忘れたか
どうだどうださあーどうだ
何だ何だこの野郎 その笑は何だ
貴様の笑は鬼笑だ 悪魔の笑だ
薄気味悪いやめろやめろ
何……何だと
自白した奴は気が狂うたと
エエイこの馬鹿野郎
とうとう気が狂うたな
何……何……誰が狂人か
公判廷精神カン定を要求すると
エエイ
コノ狂人野郎タタキ込んでおけ 
(1951年9月21日)  

 わざわざ御見舞有難う御座いました。本日突然御目にかかり東京からわざわざおいで下されるとは思って居りませんでした。その上松田様は二十才代の若い方とばかり思って居りましたので外の方かと思ってしまいました。
 御手紙は何回もいただきまして、是非一度はと思いながら今まで一度も御便り致しませんでした。松川の外の者がよく出すようですから、私の下手な手紙はいらないというような気分もありまして、叉よく御通信下される方より通信のない方へと思って書きませんでした。
 これは、詩の形になっているかいないか私は詩というものは書いたことがありませんのでわかりません。
 八月十二日以後、団体交渉その他の会合は、工場周囲を警察の包囲の中で行われ、私の身辺も常に警戒されており、十三日にはアカハタデモ事件の容疑者として執行委員が逮捕されたのを手初めにその後毎日五、六名から十五名位の組合員が参考人という名目で朝早くトラックで大勢の警察官が乗りこむというような形で連行されました。十六日は組合大会。警官は傍聴を申込んで来ましたが断りました為、工場附近及び工場警備所で警備されその上、十六日夜、松川町に土蔵破りの強盗が入ったといって非常線が張られました。この中でこの事件は起されました。この事件が起るとすぐ私がこの事件に関係あるように新聞で報道されますので、私も首切り闘争弾圧の為にこの事件に名をかりて逮捕されるなと思いました。しかしあまりにも私の行動が明らかで、警察でも手が出ないで困っているだろうと思っていました。
 従って逮捕された時も別に驚きもしません。十日か二十日位拘留されて組合の闘争がつぶれたら帰されるだろう。これも運命だとあっさり考えて出かけました。逮捕三日目唐松判事の拘留尋問の終った時、唐松判事がこう言って来ました。「杉浦様、あなた紳士ですね。外の者は何で俺を引張って来た、すぐ帰せのなんのと大きな声を出したり、いろいろしますがね、あなたはおちついておこりも何もしない、偉いですね」と私はほめられたのやら、いや味を言われたのやら変な気分になりましたが、まあ落ちついて唐松判事の煙草が机の上にあったので、それをもらってゆうゆうと吸って居りました。
 そうして、次の日から取調べに唐松判事が十四日といっていたからね 十四日迄ゆっくり話をしましょうという調子で、毎日々々強盗、強姦、人殺し、死刑、首つり、そんな話をして、詩に書きましたように三途の川まで送ってやるといって、歌人観音経の「折れた線香の一本も」という処をよく歌いますので私は、君々、折れた線香のところだけでなく後を歌うようにとさいそくしましたら忘れたから帰ってレゴードでおぼえて来て歌ってやると言って次の日、又折れた線香をやる、レコードで習って来るのを忘れたという。最後にはレコードを探したけれどなかったなどと言ってました。ちょっと他人とは風変りな取調べでした。私も三、四日後には始めに考えたようなものでなく重大な事になりそうだと気がつきました。
 初めは、彼らが日本中の弁護士が全部かかったって、この事件だけは駄目だ、証拠がギッシリあるのだからというような事を言われましてもピンと来ませんでしたが、差入れをしてくれた人の氏名さえ文書であると言って知らせない、ものすごく厳重な取扱いで、これはと感じた時には早く帰ろうと思って行動の一通りを述べた後でした。後で後悔しました、本当の行動というものは取調官には絶対話すべきでないこと、しかし相当の部分を話していない事をとてもよかったと思いました。彼らは本当のことを言うと、それをシラミつぶしにつぶしてゆく、もしも私の事を白であると証明する人があればその入も逮捕し、共犯とする。その人が脅迫されて私の事を黒のような証明をすれば逮捕せずに証人として、私を犯人にしようとしていることが、取調を十日程受けてる中によくわかりました。それで恐ろしい事だ、ことによるとこのまま殺される……人生五十年という、よしきた、あきらめて最後まで闘うと覚悟し、取調の初めに取調官に対し黙秘権など使わない、大いに話し、また議論もしましょうと言ってあるので、中途から黙秘権を使うなどという事もいやだと思いまして、私は最後まで黙秘権は使わない、何度話しても初めと同じだという態度で通しました。
 十月二十日前後には、朝から夜まで自白をしないで公判に出ると損なことになる、特に国鉄関係の者は、このような取調には前にも経験があってよく知っているので、皆自白して自分の方に都合のよい事を言ってる。お前がそうやって頑張っていると一番重くなる、お前だけならお前の勝手だが、東芝の親方のお前が重くなることは東芝の若者全部が重くなる事だ、又お前が西山の家に十一時頃行ったというので西山の老人は、あの野郎ウソを言いやがって人の家に迷惑をかけると言って、狂人のようになってさわいでいる。娘のスイ子は逮捕した。園子も逮捕だ。お前が話せば直ぐこのような者は帰してやる。お前が話さなければ、西山の老人も占領政策違反でタタキ込む。お前が話をすれば、自分の取扱ってる被疑者は可愛いいものなのだ、きっと軽くなるようにしてやる、どうだという、これにはまったく心の中で泣かされました。俺は死ぬ覚悟をしたが、西山の老人までタタキ込むとは何という悪党共だろうと思い、心の中で西山様その他の方々許して下さいと心に祈りながら答えたものです。「お話はようくわかりました………だが、私は前にお話しした涌りです」すると「この野郎少しもわかっていないじゃないか」と言って又々繰返します。そうして何回も繰返して、先方からして、「お話はようくわかりました……だが」ではいかんぞと断って来ました。そこで私は言う事がなくなり黙っていることになりました。
 このようにして鈴木信や佐藤一も初めは頑張っていたが、とうとう終りには悪るうございました、と涙を流してあやまったと聞かされ、私はおどろきました。彼等がまいってしまうようではもう駄目だ。
 弁護士に逢いたい、弁護士に、そうして党の本部へ連絡してもらいたい。「この事件は福島でやっていたら殺される。本部で全国的の問題として闘ってくれなければ殺される。弱っている者に弁護士から又は差入の形式でも何でもよい応援してやってくれ」とこう思いながらここで負けては一大事、何のこの悪党共と、最後の反ゲキとして、詩にある、誰が狂人か公判廷でカン定を受けるというので終り、取調官はあきらめてその後取調なし。
 次の日三笠検事は、昨日は悪かった今日は検事としてでなく人間としてお話をしましょう、さあどうぞ煙草を吸って下さいと言ってオセジを言った後、前と同じ事でもよいですから調書を取らせて下さいといって、前と同じ調書を取って行きました。
 この三笠検事には全くあきれてます。初めに見た時、これはこれは一流の役者だわい、肩をそらして「ウウン、どうだ、汐時だぞ、汐時だぞ、人間は汐時がカンジンだ」などという時の声に力が入り、室中ヒビキ渡り、実にたいしたものだ、検事という者を初めて見たが判事とは違う。判事連中もなかなかよい声を出すが、さすがは検事だ、判事達からくらべると、一段と役者が上だと思い、口の中でこの態度とセリフを聞きながら「ハリマヤ、ナリタヤ」と手をたたきたい気分で眺めてました。初めのうちは「ハリマヤ、ナリタヤ」と芝居でも見るように感心して見て居りましたが、刑事が六、七名周囲に居って交代でどなられ、その上ノドがかわいた時、お茶を要求したら、駄目だという。「君も呑んでるでないか、俺は罪人でないのだ、同等だ呑ませろ」といったら「同等に俺も呑まない」といって彼はやめてしまった。そしてしまいには便所へもやらないといい出す。私はいまいましいから、室の中で腰かけたままジャージャーやってやろうかと思ったけれど、まあ三度いってみようと思い、三度目をいったら室から出て行ってしまうという実にあきれた男で、私はお茶を断られてからは、その儀ならこちらも考えがあると、その次からは薬ビンに水を入れてそれをポケットに入れて行き、お茶の要求をしないで、彼等が何も呑まずオシャベリしてる時に、その水を呑んで済ましました。何かもんくをいうかと見てましたら、嫌な顔だけしていました。
 このように書きますと、あまり苦しめられないように思われるかも知れませんが、決して、決してお話出来ない苦しい闘争でした。
 唯いつも先手を取るようにと心掛けました。そして、いつも負けずにいられたのは、俺は罪人でないのだという事です。彼らが私が犯人であるような事を一言でもいったら、私は「俺が犯人であるというのか」と強く反駁しますと、必ずいいます。「犯人とはいわない、被疑者だというのだ」と。それから又私が何かやったような話をしますと、私は「俺がやったというのか」と強く反駁します。すると「いや君がやったというのではないよ、これは話だよ、話をしていると身におぼえのあるものは気になるのでね、杉浦様どうだね」とこうくるのです。そうして私がやったといってさんざんどなっておきながら、こちらが強く出ると、話だよという、まったくしまつの悪い悪党でした。
 こちらが少し弱味を見せたら最後です。立派な犯人に仕上げられます。
 簡単に詩に対する説明を書こうと思いまして長くなりました。どうかよろしく。(1951年10月)  

2010.05.21 Fri l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
松川事件が起きたのは1949年だったから、昨年(2009年)は発生から60周年の年であった。このことについてブログですこし触れたところ、その後、週に一、二度だが、検索によるアクセスが切れ目なくある。松川事件への関心は細いながらも今も依然として続いているようである。事件の重大さ、いまだ解明されない真相への興味関心によると思われるが、それだけではなく、松川事件にはこれについて読んだり調べたりしていると、不思議と元気づけられる要素がいろいろあるのだ。たとえば、20人の被告人のうち、自白をとられてでっち上げ調書を作られた人が赤間被告をはじめ半数近くもいたのに、最後まで誰一人として闘争から脱落しなかったことにも心を打たれる。

裁判員制度が始まったが、これには私は賛成できない。常識や市民感覚を裁判に取り入れるなぞ、何のことだか分からない。専門の裁判官には常識や普通の市民感覚が備わっていないというのだろうか。刑事裁判に望むことは何よりも誤りのない判決であり、そのための丁寧な証拠調べである。被告人の防御権が守られていないという話をよく聞くが、これが一番恐ろしい。自分には関係ないと思っていても、やがては自分たちに返ってくるのだ。個人の思想・信条による辞退・拒否が許されないという点では憲法違反でもあると思う。

松川事件に学ぶことは裁判一般についても具体的な個々の裁判についても、今でも数多くあると思う。ここ数年新しい現象として気になるのは、裁判の審理の問題とは別に、ある事件の冤罪(国策捜査と呼称される事件も含む)を主張するに際して、その理由・根拠を実証的に明らかにしようとする姿勢を一切抜きにして、あたかも冤罪が自明のことであるかのように話したり書いたりしている人たちが相当目につくことである。これは冤罪の重大な犯罪性を希薄にする結果をもたらしかねず、非常に危険な傾向だと思う。今日は、二審の有罪判決後、徹底的に判決を検討し、月刊雑誌『中央公論』によって批判文を書き続けた広津和郎が、その最中の1957年に名古屋で行なった講演を「証言としての文学」(學藝書林1968年)から抜粋して掲載する。また、広津和郎がそもそも松川事件に関心をもつ契機となった20人の被告たちの文集「真実は壁を透して」からいくつかの文章を後日掲載したいと思っている。

この講演でも、広津和郎は、被告たちから送られてきた文集を読んで、「これはうそでは書けない文章だと感じた」と述べているが、そのことについて別の場所で、「特に赤間くんの文章に対してそのように感じた」と述べているのを読んだことがある。広津和郎のこの発言内容はよく知られていることだが、ただ、今でも往々にして真意は不正確な伝わり方をしているのではないかと思う。「真実は壁を透して」を実際に読んでみると、たいていの人は広津和郎と同じように「被告たちの言うことのほうが本当ではないか」とか「どうもこの事件はおかしいぞ。」などと感じるのではないかと思うのだが(私もそう感じた)、ただそれだからといって、広津和郎はその時点で「被告は無実だ」と決めつけているわけではまったくない。「うそでは書けない文章だと感じた」から、このまま放っておくわけにはいかない、これから丁寧に、徹底的に裁判記録を調べてみようと考えたと解するべきではないかと思う。「被告の目が澄んでいるので無罪だ」と広津和郎と宇野浩二の二人が言ったという伝説についても同じことが言えると思う。

最高裁において辛うじて(採決の結果は7対5の僅差であった!)仙台高裁差戻しが決定されたのは、1959年(昭和34年)8月10日だったから、この講演が行なわれたのはその2年前だったわけである。それでは、だいぶ長くなるが、広津和郎の講演である。(強調はすべて引用者による。単なる可能性の問題が実行済みの行為にされたり、出廷した証人の否定の言葉を肯定にすり替えたりなど、裁判官の恣意的な判断・行動が広津和郎によって指摘されているが、実は「埼玉愛犬家殺人事件」の風間博子さんの裁判でもこれとそっくり同じ事態が数多く見られる。)

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 「松川裁判について」 広津和郎講演

 わたしは講演が苦手なので、文芸講演というようなものだと、此処に立つ気はないのですが、裁判について語れということでしたので承諾した次第であります。裁判といっても日本の裁判全体を調べているわけではなく、この約四年ほど松川事件について調べつつあるので、それについてならば私にも話す材料がありますし、それにこの裁判については、是非皆さんに聞いていただきたい気持もあるのです。それでこの機会に松川事件について少ししゃべらしていただこうと思います。わたしは今『中央公論』、に、松川裁判に対する批判を連載しつつありますが、既に三年半たちますのに、まだなかなか終らないような複雑なものですから、わずかな時間にその全貌を語るということは到底不可能です。ですからそのほんの一部しか語れないと思います。
 大分若い方もいられるようですから、松川事件がどういうものか或は御存じないかと思われるので、大体の輪郭を初めにお話しいたそうと思います。これは今からちょうど八年前の昭和二十四年八月十七日に、東北線の松川駅と金谷川駅との間のカーヴで起った列車転覆事件で、幸い乗客にはけが人はなかったのですが、機関士が三人死にました。そしてそれは自然事故ではなく、明かに誰かが故意に線路を破壊して計画的に列車を転覆させたということは明瞭でした。そこで捜査陣は動き出しましたが、当時の国鉄の首切りに対する反対闘争を行っていた福島の国鉄の労組が、同じく首切り反対闘争中の東芝の松川工場の労組を引き入れて、協力してこの事件を惹起したという想定のもとに、国鉄福島労組から十名、松川労組から十名、都合二十名の被疑者を検挙しました。この二十名はやがて起訴されて被告人となり、第一審、第二審とも有罪と認定され、死刑、無期を始め、十五年、十三年等の重罪の判決を受けましたので、今最高裁に上告中であります。これが松川事件の輪郭であります。
 昭和二十四年といいますと、日本はまだアメリカの占領下にありました。名義は連合国の占領下というわけですが、実質的にはアメリカの占領下と見る方がほんとうだと思います。その年国鉄に大量首切りがありました。実に九万七千人という大量首切りでしたが、それは占領軍の指令によったものでした。シャグノンというアメリカの中佐が当時国鉄を牛耳っていましたが、そのシャグノン中佐の指令でこの大量馘首が強行されたということになって居ります。七月四日の第一次の首切りで、三万七千人が馘首されましたが、非常にお若い方でない方は覚えていらっしゃることと思いますが、その馘首に続いて下山事件というのが起りました。つまりその馘首発表後間もなく、国鉄の下山総裁が行方不明になって、やがて鉄道線路の上に死体となって発見されたのです。その死体は二つの大学で検べましたが、一つの大学では死後轢断、他の大学では、生体轢断と鑑定されました。前者ならば明かに他殺であり、後者ならば、生きている総裁を線路に投げ込んだ他殺とも取れれば、又総裁みずから線路にとびこんだ自殺とも取れるわけです。自殺か他殺かで当時の新聞は沸き立ちましたが、いつかそれは有耶無耶の中に捜査が打ち切られて、今日では謎の事件となって居ります。この事件については、昨年のサンデー毎日に警視庁の捜査課の人たちの座談会が出ていましたが、それによると、第一次首切りの二日前に、夜中にシャグノン中佐が下山邸に自動車を乗りつけ、ビストルをテーブルに置いて、下山総裁に馘首断行を迫ったという事実があるそうです。警視庁の捜査課の人たちの座談会ですからこの事は信用してもよいかと思います。下山総裁の轢死と関係があるかどうかは俄かに断じ得ませんが、併し重要な参考資料の一つにはなると思います。
 この年は妙な年で、列車事故というものがその前から無暗に新聞やラジオで報道されました。殊に六月ぐらいから非常に多くなりました。それがみんな左翼系の人たちのやった仕業であるというように新聞やラジオで宣伝されたのであります。そこに下山総裁が轢死体となって現われたので、それも亦国鉄労組の左翼系の者のしわざであるとか、或は丁度その頃北朝鮮系の朝鮮人が問題になっていましたが、その朝連の人達のしわざであるとか、新聞やラジオで宣伝されたわけであります。そのために三万七千という大量馘首に立上った国鉄労組の反対闘争の出端が挫かれてしまいました。
 それから十日後の十三日に更に六万という大量馘首が発表されました。それに続いて起ったのが皆さん御存じの三鷹事件であります。無人電車が暴走して人を殺し、人家を破壊したのです。これも亦左翼系の労組のしわざであると宣伝されました。そのために国鉄労組の首切り反対闘争の立上りが又しても押えつけられてしまいました。かくして二回合せて九万七千人という驚くべき大量馘首が、スムースに実現された次第です。併し下山事件、三鷹事件によって馘首反対闘争の出端を挫かれた国鉄労組は、その翌月になると再び立上り、全国的に気勢を揚げ始めました。中でも福島の労組支部は最も尖鋭だといわれていましたが、そこに起ったのが松川事件で、この列車転覆事件も、左翼系のしわざであると宣伝されたために、また立上ろうとしていた労組の反対闘争は再びそれによって押えつけられてしまいました。結局九万七千人という大量首切りは、下山事件、三鷹事件、松川事件という三つの稀有な事件が引続き起ったことによって労組の抵抗を受けずに完成してしまったわけであります。この事についてはいろいろいう者があり、かかる幾つかの事件の裏側には何か政治的な陰謀が隠されているという噂が一部に起りましたのも、無理のないことかと思います。というのは、三鷹事件の直後には時の総理大臣の吉田さんがこれは左翼系の者がやったものだという声明をしていますし、また松川事件が起ると、まだ現地で捜査も全然進まないその翌日、官房長官の増田甲子七氏が、「今回の事件は今までにない兇悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各事件と思想的底流に於いては同じものである」と声明しているのですから。まだ捜査陣にも何もわからない筈の頃に、時の政治の責任者たちが、こんな声明をしたのですから、左翼弾圧のための政治的工作ではないかという噂が立ったのも止むを得ないことかと思います。しかし、それだからといって、これ等の事件の裏側に政治工作が果してあったという証拠を掴むことは、今のわれわれには出来ません。従って、左翼弾圧のための保守系の計画的な政治工作だなどとわれわれはいうことはできません。証拠がない事についてはわれわれは想像で物を言うことは避けなければならないからであります。私達は証拠による事実だけを述べるに止めなければなりません。 
 以上が松川事件が起った当時の社会的政治的情勢のほんの輪郭であります。さて、わたしがなぜ松川事件に関心をもったかということを少しばかり申しますが、実は最初は何の関心ももっていなかったのであります。というのは新聞、ラジオその他でもって、その年に引続き起った鉄道事故がみんな左翼系のやったことであると聞かされていたので、松川事件もほんとうにそういう思想的傾向の人たちがやったものであると、わたしは簡単に思い込まされていたわけであります。それですから第一審の松川事件の公判が始まったということにも殆んど関心をもちませんでしたし、有罪の判決があってもなんとも思いませんでした。第一審の判決後、被告諸君は刑務所から、無実を訴える手紙を各方面に送っていました。それは随分沢山送られたものと思われます。というのは、その当時ばかりでなく、四年半程の間の統計ですが、刑務所から訴えた手紙や葉書等の郵便代だけで八十万円に達したというのですから、それを見ても想像されます。それ程多方面に送ったのですから、無論わたしのところなんかにも来ていたに違いないと思うのですが、最初わたしは関心をもっていなかったものですから、殆んどそれに気がつきませんでした。恐らく開封しても見なかったのではなかろうかと思います。ところが、そのうちに、被告諸君の文章を集めた「真実は壁を透して」というパンフレット風の小冊子が送られて来ると、私は不図封を切ってページをめくって見たのです。そして読むともなく眼をやっている中に、その文章に惹きつけられ始めました。これは後に世間でわたしたちが甘いといわれた点なんですが――私はこれはうそでは書けない文章だと感じたわけなのです。そこで引き入れられて全部読み通してみると、どうもこの被告諸君は無実だ、としか考えられなくなって来ました。わたしは宇野浩二にその話をすると、宇野は既に読んでいて、自分もあれはひどい事件だ、被告たちの訴えることが真実ではないかと思っているというのです。そこで会う度に二人は松川事件について語り合いましたが、それでは二人で――ちょうどそのころ第二審の裁判が仙台で行われていましたので――傍聴に行ってみようではないかということになり、宇野と一緒に仙台に出かけて行きました。そこで傍聴したり、被告諸君に会ったり、又第一審の法廷記録をできるだけ集めて、第一審の判決文と対照してみたりしました。どうも納得がいかない、被告諸君の主張がほんとうのことに思われる。そういうようにしてだんだんこの事件に関心を深めていった次第であります。
 前に申しました通り、「被告諸君の文章はうそでは書けない」と私たちのいったことは、当時世の中の物笑いになりまして、四十年も文学に携わっているリアリズムの作家たちが、文章がうそでは書けないなんていう言い方で、人間が無実であるか、無実でないかをきめるのは甘過ぎる、というので非難攻撃を受けたわけです。それからこれは宇野が書いたのだったと思いますが、被告諸君の目が澄んでいたと書いたことも、またわれわれの甘さだと言って嘲笑されました。殊に第二審の判決があった時には、それ見ろ、法治国であるから裁判所のやることを信じれば好いのに素人のくせに余計なことを言うから、そんなどじを踏むのだといった調子で、暫く宇野や私は四面楚歌の声でした。

 そんな余談は切り上げて、これから松川の事件について話しますが、八月十七日に松川の列車転覆事件が起りますと、捜査陣は非常にたくさんの町のチンピラたちを洗いましたが、九月十日に至って赤間勝美君というやはり七月四日に首を切られた一人で、永井川信号所の線路工手をしていた当時十九歳の少年を逮捕しました。これも町のチンピラ風の、けんかなどを事としていた少年ですが、逮捕の理由は傷害容疑というのでした。それは前に友達の頭をなぐったとかいうような他愛ないことでしたが、それを翌年の九月の十日に至って逮捕するなどということは、考えただけでもおかしなことです。無論友達の頭をなぐったという問題はただの逮捕の口実であって、目的は松川事件を調べることでした。警察では、事件の起った八月十七日の前の晩は、虚空蔵さんのお祭りの晩でしたが、その虚空蔵の境内で、その晩赤間君が今晩列車転覆があると友達たちに向って予言したろうと言って責めたてたわけです。赤間君がそれを否定すると、赤間君の友達を二人つれて来て、その友達に赤間君が確かに「今晩汽車が転覆するといった」と赤間君の面前でいわせたわけです。二人とも赤間君と同年配で、同じく町のチンピラ少年たちでした。赤間君は如何に否定しても友達二人が警察官の前でそういうので窮地に追い込まれました。それで結局予言したことにされてしまったのです。
 この二人の少年は後に第一審法廷に検察側から、証人として呼び出されています。それは検察側に有利な証言をさせるために検事が召喚したのですが、併し法廷に立った二人の少年は、赤間君が予言したなどという事は嘘であること、それは、自分たちが朝の五時から夜の十一時までその問題で警察で調べられて、赤間が予言したといわないと「今晩泊めるぞ」とおどかされるので、止むなく赤間が予言したなど言ったのだという事を暴露して、召喚した検事をあわてさせました。けれども、第一審の裁判官も第二審の裁判官も、この二人の少年の法廷での証言を斥けて、警察での前の供述を取上げ、赤間君が予言したと認定したのです。そしてこの予言を、被告諸君有罪の緒としたのです。
 また警察では、松川事件について赤間君に自白させるために、赤間君が婦女凌辱をやっているといって、責め立てました。赤間君が否定すると、被害を受けたという娘さんの調書を持ち出して赤間君に突きつけ、この通りお前から被害を受けたと本人が言っているのだ。これでお前は網走行きだ。それがイヤなら松川の事を話せ、そうすればそっちの事は許してやるから。松川の事を話さなければ、お前と娘と俺たちの前で実演させる。それがイヤなら松川事件のことを話せ。これは一種の精神的拷問というべきですが、そんな風にして自白を強制したのです。
 その娘さんも証人として第一審の法廷に立たされましたが、次のように証言しています。「警察官が自分を呼びに来て、赤間からそういうことをされたろうと言って尋ねました。わたしはそういうことをされた事はないので、そういう事はないといいましたのに、わたしの目の前で、警察官が、そういう事をされたと調書に書き、無理にわたしに署名させました」と。つまり警察で嘘の調書を無理に作成して、その娘さんに署名させ、それを突きつけて赤間君を脅迫したわけです。赤間被告を精神的に拷問するためには、手段を選ばずにそういうことを警察でやっているのです。それから更に赤間君を苦しめたのは、赤間君のおばあさんの調書を捏造したことです。そのおばあさんは赤間君と毎晩一緒に同じ部屋で寝ていました。赤間君は両親たちが満州の方に長く行っていたために、おばあさんに育てられたいわゆる「お婆さん子」でした。そのお婆さんが「勝美は一時になっても、二時になっても、三時になっても帰って来なかった」と言っているという調書を赤間君に突きつけて、「お前のおばあさんもこう言っているぞ」と言って赤間君を責めたのです。これが「おばあさんがそんな事を言っているとすれば、もう自分のアリバイを証明してくれるものはない」という絶望にどんなに赤間君をかり立てたか知れません。おばあさんは字が読めません。そのおばあさんの調書をそんな風に捏造して押印させたのです。そのおばあさんも第一審の法廷に証人として立っていますが、自分は勝美がちゃんと一時ごろ帰ったと警察で述べたと証言しています。そういうやり方で警察では赤間君を精神的に拷問したわけです。一人の警察官が短刀を一ぺん突きつけたということはありますけれども、大体は肉体的の拷問よりは以上述べたように精神的に赤間君を拷問して、次第に窮地に陥れて行ったわけです。それと長時間に亘る取調べと睡眠不足と……こうして十日ばかりで疲れ切った赤間君はついに屈服して、嘘の自白をヂッチ上げられることになってしまいました。予言についての二少年の証言も、婦女凌辱についての当の娘さんの証言も、又十六日の晩のアリバイについてのおばあさんの証言も、裁判所によって全部取り上げられていません。そして赤間君は列車転覆の謀議をやったり、線路破壊の実行に行ったりしたことに認定されてしまったのです。

国鉄側の赤間白白と照応するように、東芝側でデッチ上げられたのは太田自白であります。初めは東芝側からも赤間君より一つ年下の菊地君という十八歳の少年を窃盗容疑名目でつかまえました。赤間君の傷害容疑と同じやり方で、その窃盗容疑というのは、工場の配給のタバコを菊地君が盗んだという他愛のない話です。それは工場内の問題で、普通なら警察の干渉するほどの事ではないのですが、そういう名義で菊地君を逮捕したのです。而もそれは事実が相違する問題であって、菊地君が「そんな事はない、それは配給のタバコを配る者がテーブルの上に置き忘れたものだから、自分が戸だなにしまっておいたのだ、工場に問合せてくれれば判る」といいますと、警察官は出て行きましたが、やがて戻って来て、「なるほど、工場に問合せたら、確かにお前のいう通りだった」というので、それでは直ぐ帰して貰えるのかと思うと、そうではなく留置場に入れられて、翌日松川事件の事を調べられ始めたのです。つまり警察では労組の幹部を狙いながら、国鉄側からは幹部でもなければ共産党員でもない赤間少年を傷害容疑で、又東芝松川工場側からは、これも労組の幹部でもなく共産党員でもない菊地少年を窃盗容疑で、それぞれ逮捕し、事件をデッチ上げようとしたわけであります。併し菊地君の方は取調べ中に盲腸炎を起したので、止むなく釈放しなければならなくなりました。その代りにデッチ上げられたのが太田君でした。太田君は、東芝松川労組の副組長でもあり、又年も相当の年配でしたが、当時精神的に非常に動揺していました。組合の副組長になったり、入党したりしながら、思想的にはっきりした自信がなく、それらのことを後悔している上に、細君からも組合運動から手を引くように始終責め立てられていました。そういう風で動揺していたので、会社側からも、労組の切崩しに太田君に目をつけていました。そんなところを警察から狙われたわけです。それで逮捕されると、赤間君同様あの手この手で警察官に強制されて到頭嘘の自白をデッチ上げられるに至ったのです。このようにして、国鉄側の赤間自白、東芝松川側の太田白白というものができ上り、それを裏付ける具体的証拠というものがなんにもないのに、この二人の自白を証拠として、福島の国鉄労組と松川の東芝工場労組とが共謀して、列車転覆を実行したということに認定してしまったのであります。
 以上はほんの粗筋ではありますが、何しろこの事件の法廷記録は非常な厖大なもので、その一部について語っても、長い時間を要しますから、以上で大体を想像して頂くことにして、以下皆さんに興味がありそうな具体的な点を二、三拾って申すことにします。

 赤間自白は以上のようにして出来上ったものですが、それが実際上の事実とどう食違っているかというと、何処も此処も食違っているところだらけなのです。赤間自白によると、十五日に国鉄労組の事務所で列車転覆の謀議を行い、その結果として、赤間、本田、高橋の三君が国鉄側から線路破壊のために出かけることに決定し、翌十六日の晩十二時頃、右三君が永井川信号所附近で落合って、線路伝いに松川・金谷川間の現場に行き、松川から来た佐藤一、浜崎の両君と落合い、この五人で線路破壊を実行したという事になっているのですが、最初に赤間君が本田、高橋の二君と出遭ったという永井川附近の出発点そのものが、途中で変更されたりして、既におかしいのです。初めは永井川信号所の北の踏切に近い路上となっていたのが、約一丁半程離れた鈴木材木店の裏という事に訂正されます。出発した集合点が記憶違いだといって訂正されるなどは、経験則上あり得ないことですが、それはまあ大日に見るとして、次ぎに、その出発集合から間もなくのところで、永井川南部の踏切を通ったということになっています。その踏切を通って、一旦線路の向う側に出、少し行って橋のある横から、線路の堤の上に登り、線路伝いに現場へ出かけたというのですが、この永井川信号所には北側と南側と二つの踏切があります。北の踏切には踏切番人がいますが、南の踏切は普段は番人が居りません。それで最初に出来上った赤間自白では、「永井川信号所の人に見られるといけないから、わざと番人のいない南の踏切を通った」ということになっていたのです。ところがその晩は虚空蔵の祭の晩で、特に人通りが多いからというので、その南の踏切にも臨時踏切番のテントが張られ、そこに踏切番人がいたという事実を警察が後に気がつくのです。
 それでその最初の赤間自白ができ上って、二十日程経ってから、警察官が永井川信号所の線路班を訪ね、その晩に臨時踏切番をやった四人の番人を調べ、そこに臨時踏切番の出来ていた事を確かめ、且つ赤間たち三人が通ったかどうかを尋ねました。(このことは法廷記録に出ています)番人たちは三人の通ったのを見なかったと答えました。
 それから十日程して、今度は検察官が訪ねて行って、同じ質問をしました。番人たちはやはり赤間君等を見なかったと答えました。こういう事実があった後に、次ぎの調書で赤間自白は訂正され、その晩は南の踏切に臨時踏切番が出来ていたという供述が入って来たのです。それは捜査陣が事実に合わせようとして訂正させたということが記録上明瞭です。その訂正された赤間供述によると、「私は永井川線路班に四年三カ月も勤めていたので、正月と虚空蔵のお祭の晩には南の踏切に臨時踏切番のできることを知っていましたし、自分もその番をしたことがありました。併しその晩はそのことを忘れていたのです。そして夜が暗かったので、踏切に近づき、テントにぶつかってハッとしました。しかし幸い踏切に人が出ていなかったので、急いで通り越しました」という事になって来たのです。ところが、この訂正された赤間自白は、その晩の南踏切の情況と甚だしく相違しているのであります。第一審の判決では、その訂正された赤間自白通りに認定されたのですが、第二審になって、鈴木裁判長が、証人として出廷した線路班の人に、迂闊にこれは裁判長として迂闊だったに違いない――その晩の踏切附近の燈火のことを訊ねてしまったのです。すると証人は、その晩張ったテントは、別の場所で半分使っていたので、その踏切に使われていたのは半分で、天井はあるが、三方に幕が垂れていなかったこと――つまり赤間たちがテントに近づいたということになっている方の側にだけ幕が垂れていて、他の三方には幕が垂れていなかったこと。――三方はテントの中から見通しだったわけです――そして天井に合図燈を二つ下げたこと――その光で将棋が指せたというのです――その上更にその晩は特に永井川の駅長から六〇ワットの電球を借りて来て、これをテントの横の電柱につけて、テントの上や踏切や道路を照らし、道を通る人の顔も明瞭にわかったこと等を答えました。これは赤間自白では夜が暗かったので、踏切まで来てテントにぶっつかってハッとしたというのですが、夜は暗かったけれども、踏切の附近は暗くはなかったわけです。法廷記録には踏切までの道がどういう道であるか書いてないので、念のため私はそこに行って見ましたが、それは田圃の中の一間幅の道でした。横幅が私の足で三歩ですから一間幅ということになるでしょう。人の踏むところが一間幅で両端に草が生えてそのまま田圃の中に落ち込んでいる道――よく田舎にあるあの道です。それが田圃の中を通って、汽車の線路と交叉する。線路は田圃より小高い。道がだらだらと昇りになって行って、線路に近づくと、線路の手前が砂利場になっている。その砂利場の左側にテントが張られて、臨時踏切番が出来て、四人の番人が番をしていたわけであります。そこにさしかかる道は今申したように一間幅で、無論木立はないし、隠れるところはありません。そして赤間君たちが近づいて行った方角だけ幕が垂れているが、他の三方は幕がないのですから、そのそばを通る時には、テントの中から見通しのわけです。直ぐ目の前の六十ワットの電燈に照らされたところを、三人の男が通ったというのです。テントと道との間は一間そこそこです。それだのに四人の番人は三人が通ったのを見ないと言うのです。これは三人が通らないと見なければなりません。それも他に人通りの多い時刻なら見紛うということもありますが、十二時前に小雨が降ったので、道行く人が絶えてしまったことが記録上明らかなのです。大体二時まで番をしている予定のところが、通る人がなくなったので、十二時十五分にはテントを片づけてしまったというのですから、赤間君等三人が通ったことになっている十二時五、六分過ぎた頃には、もう人通りが絶えていたということが確かであります。そういう時もし足音が聞えてくれば、番人が四人いたのですから、たとえ四人が四人とも道と反対の方を向いていたとしても、だれか一人位は足音のする方を振り向かなければなりません。赤間自白によれば、暗かったのでテントにぶつかってハッとした、というんですから、そこまで来るのに警戒して足音を忍ぶなどということはあり得ない。自分はズック靴をはいていたけれども、他の二人は皮の靴をはいていたというのですから、どうしても足音はするはずです。ところが、テントの中の四人は三人の足音も聞かなければ通ったのも見ないと証言しているのです。それに赤間君は虚空蔵のお祭の晩と正月とには、ここに臨時踏切番の出来ることを知っていたし、自分もまた番をしたこともあるが、その晩はその事を忘れていたといっても、真暗の中に踏切のところだけ六十ワットの電燈がついていれば、そこだけ明るく浮き上っているわけです。晴ければ暗いほど、そこだけ際立って明るいわけです。田圃の中から二町も三町も先から電燈に気がついて、そうだ、今夜は臨時踏切番ができている晩だ、と考えない筈はないのです。「暗かったので、テントに近づいてはっとした」という赤間自白は、その晩のその踏切の情況とは全然異った情況です。
 これを見ても赤間自白が事実と食違った虚偽であることが明瞭なのですが、第二審の判決文を見ると、裁判長自身燈のことを尋ねながら、その事は素知らぬ顔をして、燈について一言も述べていません。そして踏切のところに人が出ていなかったという赤間自白は、証人の言うことと符合するなどと言っているのです。そして「右テント内にいた工手達(番人)が赤間被告等の通行を気がつかなかったとしても、赤間被告等が通行しなかったとは断定できない」という「可能性」によって赤間君ら三人が通ったことにしてしまっているのです。若し皆さんがその踏切を実際に御覧になれば、そんな可能性で、通ったことにしてしまえるような場所でないことがお解りになると思います。この踏切を通っていなければ、その晩赤間君らが、線路伝いに線路破壊になど行く筈がないのですから、此処一つ見ても、赤間自白が虚偽であることは明瞭です。それを裁判官は強引に可能性で赤間君らを通ったことにしてしまい、被告全員を「黒」に追いやろうとしたのです。実際、言葉の可能性だけならばどんなことでも言えます。ラクダが針のめどを通れないとは限らないとでも言えます。併し事実上、ラクダは針のめどを通れはしない。それと同じように、目の前の燈に照らされた一問幅の道を三人の男が通って行くのを、四人の番人が気がつかなかったとしても、三人が通らなかったとは限らないと、言葉だけなら言えないことはない。併し実際上ではラクダが針のめどを通れないように、四人の番人に気がつかれずに、この踏切道を三人が通ることなど絶対にでき得る筈はない。
 以上は一例に過ぎませんが、肝心かなめのところを、確実な証拠によらずに、可能性で押しきり、それを事実にすりかえて行くのが、この判決文のやり方なのです。この踏切を「可能性」で通してしまったばかりでなく、そこから破壊現場まで行くのに、赤間自白は事実と食い違ってばかりいるのに、それを判決文はすべて「可能性」で通ったことに判定してしまっているのです。こんな事をしゃべっている中に、予定の時間が来てしまったけれども、(時計を見て、主催者にむかって)時間はどうなんです。まだいいんですか――(拍手)それではまだ構わないそうですから、「可能性」の例を二つ三つ。お聞きぐるしいでしょうが、もう少し聞いてください。(拍手)なにしろ私自身が三年半も判決の批評文を書きつづけながら、まだまだなかなか終らないんですから、どこをお話ししていいかわからなくなりますが、今の「可能性」についてだけもう少しお話ししましょう。
 赤間君、高橋君、本田君の三人が国鉄側から線路破壊の実行に行ったということになっている事は前に話しました。その高橋君について少し話しますが、高橋君は前に庭坂駅で転轍夫をやっていたのですが、雪の日にプラットホームと線路の間にすべって恥骨から尿道にかけて大けがをしました。二年も病院に入ったり、病院通いをしたりしても、全治しないので、とうとう廃療ということで病院通いをやめましたが、前のように烈しい労働はできないので切符切りになりました。こういう人ですから、線路の上を往復五里、その上に赤間君や本間君と出会ったところまで、高橋君の家から一里以上あるのですから、高橋君がその晩歩いたとされているのは総計七里十町近いという事になります。それだけの道を歩いて、線路被壊の実行が出来るような身体であるかどうかということも、法廷で論争の的となったところですが、その問題は今は別としても、高橋君は八月九日から細君と生れて半年程の赤ん坊をつれて、郷里に墓参に行ったり、細君の実家に墓参に行ったりしていて、十六日の夕方福島に帰って来たのですから、十五日の謀議などに出席できる筈がない。それであるから、十六日の夜の十二時頃に赤間君や本田君と線路破壊に出かけるなどという約束はしない。それを判決文は、何の証拠も示さずに、「誰かが高橋に連絡した」というのです。誰かが連絡したということは、法廷記録のどこにもないのに、勝手に判決文は「誰かが連絡したので、高橋が鈴木材木店の横の集合地点に集まった」と判定するのですから、目茶苦茶な話です。尚高橋君は最初は赤間自白の中で十五日謀議の列席者の一人にされているのですが、福島にいなかったというアリバイが余り明瞭なために、後に訂正されるのです。それも亦おかしな話で、此処にも捜査陣のデッチ上げのカラクリがあるのですが、そういうことを詳しく喋っている暇がありませんから、一切省くことにします。とにかく高橋君は自分の実家に行ったり、細君の実家に行ったりして、十六日の夕方福島に帰って来ました。帰って来るとその足でミシン屋に寄って、細君のためミシンを買っているのです。高橋君はやはり七月に馘首された人ですが国鉄に勤めていたのが長かったので、退職手当も多く、又次ぎに就職もきまっていましたので、生活には困ってはいなかったのです。一万四千円を一時払いして細君にミシンを買ってやったということを考えても、国鉄の労働者としては生活に余裕があったと見るべきでしょう。それに国鉄は馘になっても、次ぎの仕事は既にきまっているし、生活にさしずめ不安はなし、愛妻との間に生れて半年程の赤ん坊がいるし、線路破壊などというヤケのヤンパチのテロ行為にかりたてられる理由は凡そないのです。こういう点も人を裁判する者はよく考慮すべきであると思います。
実家に帰ったり、細君の郷里に行ったりして、とにかく十六日の夕方に高橋君は、妻子をつれて福島に帰って来て、その足でミシン屋に行って、一万四千円を一時払いして、細君のためにミシンを買い、ミシン屋がリヤカーに積んで、ミシンを運ぶのを後から押しながら、家に帰って行ったのです。家といっても二階借りですが、その二階に帰るとそれから夕御飯を食べ、そして細君と赤ん坊と、その二階を貸して呉れている家主の鈴木セツさんというお婆さんの十歳になる孫とを連れて、盆踊を見に行っています。そして九時半か十時ごろに二階に帰って来ると、細君はミシンを買った嬉しさにガチャガチャやり始めましたが、十一時になったので、高橋君は、ほかの部屋の人に悪いからもうやめろといってそれを止めさせ、そして夫婦は寝たわけなのです。それは生れて半年目の赤ん坊を持った若い夫婦の平和な生活図です。ところが赤間自白によると、この高橋君が十二時頃突如として永井川の近くの鈴木材木店の横に現れて、本田君や赤間君と落合ったということになるのですが、高橋君が鈴木セツ方の二階から下りて行ったのを見た者もないし、高橋君が出て行ったという証拠は何一つありません。それだのに判決文は此処でも亦「可能性」によって、高橋君が二階から下りて、永井川の近くで赤間、本田の両君と落合って、線路破壊に出かけたことにしてしまっているのです。
 その二階の梯子段は検証の結果、ギシギシ音を立てるということが解っています。そしてその梯子を下りて玄関に出て行くのには、家主の鈴木セツというお婆さんが蚊帳を吊って寝ている部屋を通らなければならない。そこを通らないで台所から出ようとすると、台所のガラス戸の敷居は又レールが曲っていて高音を立てる。検証の結果そういうことが解っているのです。鈴木セツは警察に調べられたり、証人として法廷に立ったりしていますが、高橋君が出て行ったのを知らない、と述べています。
 ところが判決文はこういうのです。「夜のことで鈴木セツは寝ていたし、夜遅くお客さんが帰って来ることに気がつかないこともあるということであるから、たとえ鈴木セツが高橋被告が二階から下りて外に出て行くのに気がつかなかったとしても、高橋被告が出て行かなかったとは限らない」と。こういう「可能性」でもって高橋君が二階から下りて外に出て行き、永井川附近で赤間、本田の両君と落合ったと認定しているのです。 出て行ったならば又帰って来なければならない。ところが鈴木セツはその翌朝は夏時間の五時というのですから、普通時間の四時ですが、その頃から起きて働いた、併し高橋君が帰って来たのを見ないと証言しているのです。それを又判決文は、「鈴木セツは夏時間の五時から起きていたのであるから、もし高橋が帰って来れば、当然気がつくはずだという弁護人らの論旨は一応もっともではあるが、併し、朝のことではあり、鈴木セツは働いていたに違いないから、鈴木セツの行動、および高橋被告の行動いかんによっては、高橋が鈴木セツに知られずに家に入り、二階に上らなかったとは限らない」といって、高橋被告が帰って来たことにしてしまっているのです。出て行ったのも可能性、帰って来たのも可能性、その可能性を事実とすりかえて、犯行を認定してしまっているのです。
 その晩高橋君と同じ二階に寝ていた奥さんは、高橋君が一晩中自分の側に寝ていた事、夜中に赤ん坊のおしめを取換えるために何度も目をさましたが、いつでも良人は側に寝ていたことを証言していますが、それは妻の証言であるというために、一顧をも与えられません。それを憤慨した武田久被告(この人は第二審では無罪になった)が、「良人の夜の行動について妻の証言が信用されないというのであれば、われわれは身のアカシを立てるために、夫婦の寝室にいつでも警察官でも寝かしておかなければならないではないか、」と怒鳴ったのももっともであると思います。
 次ぎに本田君の事を述べましょう。本田君は十六日の晩はお盆のことで、武田君の家に先祖の法事があったので、鈴木、阿部、岡田(いずれも被告人)の諸君と一緒にそこに招ばれて行ったことが記録上明らかで、その事は判決文も認めています。武田君の弟さんが田舎から友達と一緒に焼酎一升を持って出て来ました。又他の親類から清酒五合を届けてくれました。その外に合成酒を三合(又五合ともいいます)を後から買い足しました。それを六人(阿部君は飲まない質なので)で飲んだわけです。本田君は元来酒の弱い質でしたが、その時恋愛問題で煩悶していました。それは労組事務所の書記をしている娘さんですが、その好きな娘さんが二、三日前にほかの男と夕方歩いていた後姿を見たということで煩悶していたわけです。そのためにその晩は無暗に飲みました。飲んでその娘さんの事をいい出したので、岡田君がセンチだといってからかったのです。そのために本田君と岡田君は恋愛論を闘わしながら、二人ともむやみに飲んだのです。如何に酔ったかというと、岡田君はそこに酔潰れてしまったので、鈴木君と阿部君とで鈴木君のところまでかついで行かなければならなかった程でした。本田君も酔払って嘔吐したりしたけれども、みんなが帰って行った後、尚武田君の妹さんの久子さんを相手に縁側のところで愛情問題を論じていました。それはその好きな娘さんと久子さんとが学校の同級生だったので、久子さんに向って余計訴えたかったわけなのです。武田家ではあまり酔払っているから泊って行ったらどうかと本田君にいいましたが、どうしても帰るというので、心配した久子さんが途中まで送って行きました。二人は尚も変愛論を続けながら歩いて行き、これから二人でその娘さんのところに行って見ようかという話になり、その方へ向って足を向けましたが、本田君がこんなに酔払っていては失礼になるから止そうというので、止めることにしました。そんな風にして駅に近い辰巳屋という旅館の前まで送って行って、久子さんは「お大事に」といって本田君と別れて帰って来ました。
 以上は武田久子さんの法廷における証言ですが、久子さんの外にも本田君がその晩非常に酔払ったということについては沢山の人の証言があります。併し判決文は、その晩は本田君が赤間君や高橋君と線路破壊の実行に行ったことになっている晩ですから、酔払ったことにするわけに行かないので、珍妙な理屈を並べ立てて、本田君を酔払わないことにしようとしています。此処の判決文は実に面白いのです。先ず判決文は酒の量を計算して次ぎのようにいっています。――各人酒の量を異にするものであるから一概にはいえないが、併し焼酎一升、清酒五合、合成酒三合は、六人の男が会食の時に飲む量としては決して多い量とはいえない、従って泥酔又はそれに近い程酩酊するとは考えられない、とこういうのです。
 如何ですか。焼酎一升、日本酒八合というのは、六人で飲むのに大した量ではないですか。僕は酒の飲めない質なのでよく解りませんが、皆さん、考えて見て下さい。
併し右のような論法は判決文などに使うべき正しい論理ではないと思います。今の論法を逆にすれば、結果はあべこべになってしまうからです。焼酎一升、清酒五合、合成酒三合は、六人が会食の時に飲む酒としては大した量とは思われないが、併し各人酒の量を異にするものであるから、泥酔しないとも限らない、とこういえば泥酔したことになってしまうではありませんか。
 こんな論理の遊戯で、酔ったものを酔わないことにするなどということは、厳正なるべき判決文に用いるべき論法ではありません。更に判決文は本田君を酔わないことにするために、世にもとぼけた三段論法を案出しています。それは武田久子さんが本田君を送って行った情況についてこういっているのです。
 武田宅にいた頃から嘔吐をする程酔っていたとすれば、本田は苦しくて口を利く気力などなかったに違いない。たとえ愛情の問題であっても、議論などするとは考えられない。もし議論したとすれば、それはクダをまいたに違いない。クダをまいたとすれば、水商売でもない武田久子が、盆踊りなどで賑わっている福島の町を、一緒に並んで歩いて行くなどとは考えられない。(逃げ出した筈だというのです。)しかるに武田久子は本田と二人で肩を並べて歩いて行ったというのであるから、本田は一応しゃんとしていたと見るべきである。つまり泥酔してなどいなかった筈だというのです。こんな目茶苦茶な三段論法、四段論法があるでしょうか。何か心にあって酔払った時と、何もなくて酔払った時と、その酔い方が違うものであるなどという事は今更説明するまでもないことです。愛情の煩悶があって酔払えば、他の事は一切解らなくなってもその事だけが頭に冴えて来るものです。――とにかく右の論法によって、本田君が酔わないという証拠は一つもないのに酔わないことにし、「本田が酔払っていたという各証人の証言は措信するに足らず」というのですから、その乱暴さは、驚くべきではありませんか。これが判決文の論法なのです。
 何故こうまでして本田君を酔払わないことにしなければならないかというと、赤間自白によると、その晩本田君は線路破壊の実行に行ったということになっているので、その赤間自白を被告人全体の有罪の証拠とするためには此処で本田君が酔わないことにしなければならないからです。酔えば線路の破壊になど出かけられないからです。かくして本田君は酔わないことにされ、死刑の宣告を受けているのです。
 武田久子さんと別れてから、本田君は家に帰ろうと思ったが、それからまだ三十分も歩かなければならない。酔は益々苦しくなって来た。そして国鉄労組の事務所に行って、そこの宿直室の畳の上にぶっ倒れて寝てしまいました。本田君が労組事務所の畳の部屋にその晩泊ったということを証言している人は九人もいます。その晩その事務所の畳の間には、四人の人が泊っていました。中でも木村泰司という男は、酔払って転がり込んだ本田君に毛布などかけてやったりしました。そして本田君が逮捕されて後、そのことを皆に吹聴していたのです。それが警察に四度喚ばれるに及んで、その頃本田君が酔って転がり込んで来たことはあったが、それが八月十六日の晩ではなかったと、今までいっていたことと違ったことをいい始めたのです。この木村という人物の変更した供述一つによって、本田君は泊らなかったと認定されてしまったのです。木村が警察に喚ばれない前に、大塚弁護人が木村の供述録取書を取って置きましたが、それによると、本田君が酔って来たので、自分が介抱して寝かしつけてやったと述べていますし、警察に喚ばれても、最初は大塚弁護人に述べたのと同じことを述べているのですが? 四度喚ばれるに及んで、それを変更したということを考えて下さい。この人物は警察でご馳走になったという事を友達に得意気に吹聴したり、第一審の法廷で本田君や高橋君に不利な証言をした後では、主任検事から飯坂温泉に匿まって貰ったりしているような奇怪な人物なのです。併しその法廷での証言は、被告人諸君から反対尋問を受ける度に、そのいう事が変って来て、支離滅裂なものになっています。そのために、裁判官は本田君が泊らなかったという根拠を木村証言に置きながら、それを証拠として判決文に書くことはできないのです。それ程それは矛盾だらけなのです。そこで木村証言を蔭に隠してしまって、本田君が泊ったといってそのアリバイを肯定している他の証人たちの証言を、本田君が泊らなかったことの証拠にすりかえようとして、苦心惨憺しています。その例を二つ三つ挙げますと、その晩は事務所の畳の間に、木村の外に、松崎、村瀬、小尾という三人が泊っていましたが、三人とも本田君が泊ったということを証言しているのです。松崎は本田君が酔払ってころがり込んで来たことは眠っていて知らなかったけれども、夜中の一時か二時頃便所に起きると、誰かが毛布をかぶって寝ていたので、便所から帰って毛布をめくって見たら、それが本田君だったので、毛布をかけ直してやって、自分は寝たと証言し、村瀬は夜中に何処からか電話がかかって来て、木村が本田の名を呼んで起していたので、本田君の泊ったことを知ったと証言しています。また小尾は国鉄労組事務所内に同居している地区労に属する娘さんで、前日東京から来たばかりで人々の名は知らないのですが、黒いズボン(本田の服装に符合)を穿いた国鉄の人が、夜中に電話に出ていたと証言しています。これ等の証言は本田君のアリバイを明らかにしている証言です。
 ところが、判決文はこれ等の証言の中から、証人達が寝ていて本田君が来た時を知らなかったという部分を取り、「若し本田が酔って来て、木村に介抱されて寝たような場面があったとしたら、如何に寝入りばなとはいえ、松崎や村瀬が限をさましてそれに気がつくのが自然であり、気がつかないことこそ寧ろ不自然である。然るに松崎、村瀬は本田が酔って来て木村に介抱されて寝た場面を知らないというのであるから、その事はそういう場面がなかったことを示すものである」という理屈を生み出すのです。つまり本田が来た時の事を、松崎や村瀬が知らないということは、本田が来なかったことを意味するものだ、というわけであります。それなら、松崎の、「夜中に便所に起きると、誰かが毛布をかぶって寝ていたので、便所から帰って毛布をめくって見たら本田君だったので、又毛布をかけ直してやり、自分は寝た」という証言をどう見るのであろうか、というと、これには驚くべき強引な否定の仕方をしています。それは「松崎は夜中の一時か二時頃、本田が寝ているのを見たというだけで、その後朝までの本田の行動について述べていないのであるから、その証言は措信するに足らない」というのです。一体法廷に立った証人というものは、自分勝手にただ喋るのではなく、裁判官なり、検察官なり、弁護人なり、被告人なりから質問されたことについてだけ答えるものなのです。それが証人の役目なのです。それであるから質問されないことには、何も答えないのが証人としてはあたりまえであります。その事を誰よりも一番よく知っているのは裁判長の筈です。私はその時の法廷記録を仔細に調べてみましたが、松崎証人に向って、「便所から帰ってきて、本田に毛布掛けて寝かしてやった後、本田は朝までどうしたか」と尋ねているものは誰もありません。検察官も弁護人も被告人も裁判官も誰もそんなことは尋ねていません。尋ねていないのですから、松崎証人が何も語っていないのは当然のことです。そればかりでなく、寝ている本田君に毛布をかけてやって自分も寝たのです。眠らずに朝まで本田君の行動を見守っていたのではないのです。自分も寝てしまったのですから、朝までの本田君のことを知らないのはあたりまえでしょう。
 この松崎の証言は第二審の法廷における証言ですから、若し第二審の裁判長が「朝までの本田の行動について述べていないから松崎証言は措信するに足らず」と判決文に書くならば、自分でそのことを松崎証人に向って尋ねて見るべきでしょう。松崎証人は裁判長の直ぐ眼の下の証人台に立って証言していたのです。尋ねて見て松崎証人の答がアイマイで疑わしいというなら何といってもいいでしょう。併し法廷記録によると裁判長は尋ねていません。尋ねもしないでいて、その証人が何も述べていないから、その証言は措信するに足らずというに至っては言語道断です。
 この松崎証言は何処から見ても本田君のアリバイを証明しているものです。それをこのように歪曲して、本田君のアリバイ否定に裁判官は逆用しようとするのです。
 又松崎証言には、夜中に電話がかかって来て、木村が出たが、本田君は寝ていて電話には出なかったようだということがありますが、それを判決文は又、本田が電話に出なかったということは、本田がそこにいなかった証拠だというように持って行くのです。総てこういう論法なのです。前に話しましたように、本田君がその晩国鉄労組に泊ったことを証言しているのは、九人もいるのですが、それ等の人達の証言を、裁判官はみんな右の筆法で否定してしまうのです。今それを此処で詳しく述べている時間はありませんが、そういうやり方で本田君がそこに泊ったという総ての証拠を否定し、赤間、高橋君らと線路破壊に行ったことにし、第二審の裁判官(第一審の裁判官も)は本田君を死刑と判決しているのであります。
 以上はこの裁判において裁判官が事実を歪曲した例でありますが、単に事実を歪曲するばかりではなく、時によると重大な証拠の捏造さえもやるのであります。
 国鉄労組と東芝松川労組とが共同謀議して、協力してこの列車転覆を行なったというのが、検察側の主張するところであり、裁判所側の認定するところでありますが、その国鉄側と東芝側とが共同謀議をしたということは、太田自白の外には証拠が一つもありません。その太田自白によると、八月十二日に国鉄側から東芝側の杉浦組合長に電話がかかり、翌十三日に相談したい事があるから来てくれと言って来たので、杉浦君が自分が行かれないから太田君と佐藤一君に行ってくれと言ったために、太田君と佐藤一君とが十三日に福島に出かけて行って、国鉄労組の者たちと列車転覆の謀議をした。――これが十三日謀議、つまり第一回の国鉄・東芝共同謀議です。その第一回の謀議が終った時、その謀議の座長を勤めていた武田久君(国鉄労組福島支部委員長)が「もっと具体的なことを相談したいから、十五日にもう一度集まって貰いたい」と言ったので、十五日に集まってまた謀議をした。――これが十五日謀議、つまり第二回の国鉄・東芝共同謀議です。太田自白によるとこの十三日、十五日との二回、国鉄・東芝の共同謀議があったということになっているのです。第一審ではそれがそのまま認定されましたが、第二審では、太田自白が余りに矛盾だらけなので、十二日の電話連絡及び十三日謀議というものはなかったものと認定されました。この十三日謀議が不存在になったので、座長を勤めた武田久君は第二審判決では無罪(第一審判決は無期)になったわけであります。十三日謀議がなかったものとされ、武田君が無罪になったのですから、従って武田君が十五日謀議を召集する筈はありません。即ち十五日謀議なるものの成立の動機がなくなったのであります。従って十五日謀議も存在しなかったものと認定されるのが当然なのでありますが、併し十五日謀議もなかったことになれば、国鉄側と東芝側とが協力して列車転覆をしたということは、空中楼閣に過ぎないことになり、全員無罪ということにならなければなりません。本来ならばそうなるべき道理であります。ところが被告人達を有罪にするためには、どうしても十五日謀議だけでも成り立たせなければならないと、第二審の裁判官は考えたのではないかと思います。何故かというと甚だしい証拠の捏造をやって、あくまで十五日謀議は存在したと認定しているからであります。その事をお話ししましょう。
 検察側の主張でも、又検察側がそれの証拠としている太田自白でも、十五日謀議は十三日謀議の終った時に、武田君が召集したことになっています。ところが十三日謀議は存在しなかったことになり、武田君は無罪になりました。それでは十五日謀議の成立つ動機もなくなるので、何とかしてその動機を案出しなければならないと裁判官は考えたらしいのです。
 十三日謀議はなくなりましたが、太田君が十三日に他の用事で福島に出て行ったことは確かであり、その際国鉄労組に立寄ったことも確かであります。判決文はそこを掴まえて、何とかして十五日謀議成立の動機を見つけようとしたのであります。そしてこういうことを案出しました。
「太田自白は矛盾や食違いが多くて、それによって十三日謀議の存在を認めることはできないが、併し十三日に太田被告が国鉄労組事務所に立寄った際、国鉄側被告の誰かが、十五日に列車転覆の相談をしたいから、東芝側からも参加して貰いたいと太田被告に申入れたという程度においては、太田自白は信用できる」というのであります。これは実に珍妙な言葉であります。これを言い直して見ると、「太田自白は矛盾が多くて、その言ってることは信用できないが、言っていないことでそれは信用できる」ということになるのであります。何故かというと、「国鉄側の被告の誰かが十五日謀議を連絡した」などという事は太田自白には全然ありません。太田自白にあるのは十三日の謀議の終る時、「武田がもっと具体的に相談したいから十五日に再び集まってくれと言った」ということであります。その太田の供述が信用できないので、十三日謀議もないことになり、従って武田君は無罪になったのですが、太田君が言っていない「国鉄側の被告の誰かが十五日謀議を連絡した」という程度には(程度というのはおかしな言葉です)太田自白が信用できるというのですから、これは言葉としても体をなしていません。併し言葉として体をなしていないというだけなら笑って済ましても好いのですが、笑って済まされないのは検察側の起訴理由にもなければ、その証拠とされている太田自白にもなく、又あらゆる法廷記録にもない「国鉄側被告の誰か」というものが、武田君に代って、十五日謀議の連絡者になっている事であります。これは第二審の裁判官が勝手に証拠を控造したものであります。これは一体どういうことになるでしょう。武田君が十五日謀議を召集したという検察側の主張は、法廷で被告人側弁護人側によって十分論駁し尽されたのです。その結果、裁判官もそれを認めることができなくなって、十三日謀議はなかったものとして、座長武田君を無罪にしたのであります。ところが、公判廷での取調はすっかり終ってしまった後になって、判決文の中でいきなり裁判官が「国鉄被告側の誰かが」というものを持出したのでは、被告人も弁護人も、それを反駁することはできない。それは被告人の防禦というものを全然無視揉欄した裁判官の不法措置であります。若し裁判官が「国鉄側の被告の誰か」が連絡したと認める理由を発見したならば、検察側の起訴理由を変更させ、それを法廷に出して、被告人側の検討にまかすべきであります。それを公判が終った後、被告人の防禦権を行使できない判決文の上で、裁判官がかかる証拠の捏造をするということは、憲法の精神を無視した違法行為であります。
 このように驚くべき違法を犯してまでも、証拠のない十五日謀議を成立たして、それによって被告人諸君を有罪にしようというのが、松川裁判の裁判官の魂胆なのであります。
 さて判決文の中に現れたわざとらしい事実の誤認や、意識的な証拠の歪曲、捏造等を挙げているとキリがありません。以上はほんの一部分の例でありますが、裁判官のこの裁決に対する意向はほぼお解りになったことと思います。併しそれは事実の誤認や証拠の歪曲、捏造にとどまらず被告人諸君を不利にするためには、検察側も裁判所も、意識的に法律の意味を曲解しているのであります。私は自分が法律には素人であるという意識から、この裁判を批判するにも努めて法律問題に触れず、事実や証拠の解釈の上で、納得の行かない点を指摘するに止めて来た。私は『中央公論』に批判文を連載するのに、約三年間はこの心構えでやって来ました。併し判決文や法廷記録を調べれば調べる程、やはり法律問題に触れなければならなくなって来たのであります。
 法律というと、皆さんの多くは、甚だ難解で無味乾燥で退屈なものとお考えになるかも知れませんから、憲法何条とか、刑法何条とか、刑訴法何条とか、そういう法律の条文については語らないことにします。併し法律はわれわれの常識で理解できないものではないのであります。先ず松川裁判でおかしいのは、この裁判で最も重要視されている被告人太田や、その他いわゆる自白組の被告人達の公判以前の検事調書や判事調書が被告人以外の者の調書として法廷に出ていることであります。これは松川裁判ばかりでなく、他の裁判でも、こういう手続きが当然のこととして認められているようでありますが、被告人の調書が被告人以外の者の調書として、法廷に証拠として持出されるということは、何としても奇異なことであります。
 それに被告人の供述調書として出されたのでは、自己に不利益なことを述べた場合にのみ、そしてその供述が真実であると認められる場合の外は証拠になりません。そしてそれは被告人自身についての証拠になるだけで、他の被告人たちの証拠にはなりません。そこで被告人の供述調書を、他の被告人らに対しては、被告人以外の者、即ち第三者の供述調書として出して、他の被告人等に対する証拠等に対する証拠たらしめようとするのであります。
 それをどういう手続きでやっているかという事は、私は十月号(三十二年)の『中央公論』の「田中最高裁判所長官に訊ねる」の中に詳しく書いて置きましたから、興味を持たれる方は、それをお読み願いたいと思います。それは担当検察官と担当裁判官との協議の上で、自白した被告人を法廷で他の被告人から分離して、被告人以外の者として証人尋問をし、それが公判以前に検事や判事の前で語ったのと異った事を述べた場合、「被告人以外の者が、公判廷で公判以前に検事や判事の前で述べた事と違った事を述べた場合には、前の検事調書や判事調書を、証拠として出せる」という法律で(刑事訴訟法にそれがあるのです。)被告人以外の者の供述調書として、被告人のものを法廷に証拠として検察側から出して来るのです。併しこれは担当検察官と担当裁判官とが協議の上、手続き上被告人以外の者(証人)として取扱ったというだけで、前に挙げた刑事訴訟法に於ける「被告人以外の者」ではありません。それですから、右の被告人の公判以前の公判調書を、「被告人以外の者」の調書として出す事は、違法なのであります。併しこういう違法を、検察官も裁判官も、無反省に犯しているのであります。こういう事については、国民は法律が正しく運用されているかどうかを、注意深く見守って、それが、裁判官や検察官によって正しく運用されることを要求しなければなりません。
 この検察側が被告人を被告人以外の者として公判廷で証人調べを裁判官に請求し、裁判官がそれを職権で許可するという違法(新しい刑事訴訟法では、訴訟当事者たる被告人を、裁判官が法廷で尋問することはできないのであります。それを証人とすれば尋問できるという勝手な解釈をして、その刑事訴訟法の精神を蹂躙しているのであります)は、法廷ばかりではなく、捜査段階から既に行なわれているのであります。それはこういうことであります。被疑者として逮捕された赤間なり、太田なりが捜査官に自白をすると、その自白調書を検察官が裁判所に送って、裁判官に証人尋問を請求し、裁判所がそれに応じて、赤間、太田を証人として尋問して、その証人尋問調書を作成していることでありますが、予審制度の廃止された今日では、裁判官が被疑者を調べることは許されていないのであります。それを検察側では被疑者以外の者という名義で太田や赤間の証人尋問を裁判所に請求し、裁判官は被疑者以外の者として太田、赤間を証人尋問しているのであります。裁判官は被疑者を尋問はできないが、被疑者以外の者なら尋問できる。そこで被疑者を被疑者以外の者として尋問しているのであります。これも違法であります。――今は詳しく説明している時間がありませんから、興味を持たれる方は『中央公論』十月号に私が書いている文章をお読み願いたいと思います。
 何故こんな違法を犯すかというと、自白以外に証拠がないこの事件で、自白を証拠能力あるものにしたいためであります。検察側と裁判所側とが、協力して、違法を犯してまでも、赤間や太田の自白調書が証拠能力があるということにしようとしているのであります。
 ところがそればかりではない。第二審の裁判官は驚くべき独創的な法律論を案出して、検察側が被告人の調書を被告人以外の者の調書として法廷に証拠調べに提出するのに対応しているのであります。それは「被告人以外の者が、被告人がかくかくの事を喋っていたといって検察官に述べると、被告人の反対尋問を受けずに、被告人に対して証拠能力があると見るべきが刑事訴訟法の精神だ」という驚くべき法律論であります。これはとんでもない事で、誰かが検察官にあなたがかくかくの事をいったと告げると、それがあなた方の反対尋問を受けずに、あなた方に対して証拠能力があるというのですから、これは安閑としてはいられません。いつ検察官に対して、あることないこと密告する者がないとは限らない。そしてその密告が密告された者にとっては、そのまま証拠能力があるというのですから、堪ったものではありません。第二審の裁判官は詭弁によって、そういう法律論をやっていますが、刑事訴訟法の何処を調べても、そんな馬鹿な「精神」などはありません。併しそれを刑事訴訟法精神だとして、佐藤一被告が太田に話したと太田が供述している調書は、そのまま佐藤一被告に対して証拠能力があり、鈴木、二宮、阿部、本田などの諸被告が、謀議の席上でかくかくの事をいったと赤間が述べている調書はそのまま鈴木、二宮、阿部、本田に対して証拠能力があるものだ、と第二審の裁判官はその間違った法律論によって認定しているのです。法律はこれ等の検察官によっても裁判官によっても、正しく運用されてはいないのです。
 日本の法律はなかなか好い法律であります。それが正しく運用されていれば、国民の人権はもっと守られるべきなのです。――それが正しく運用されることを国民は要求し、且つ監視すべきであると思います。これは裁判所に対する侮辱ではありません。裁判所に対する国民の協力であります。私が松川裁判を批判していることを、田中最高裁長官なんかは雑音と称して裁判を侮辱するものだというように解釈しているようですが、とんでもない話で、日本の裁判というものの窮極の公正さを信じなければ、三年半も書き続け、訴えつづけられるものではありません。ですから国民が監視するということは裁判所自身もほんとは協力だと思って、身を締めてやって貰いたいのです。日本で裁判だけは信用できるものにしてくれなければ困ると思います。(拍手)
 法律はどんな風にでも解釈できるというものではなく、ほんとうの解釈は一つしかない、という考え方が検察官にも裁判官にも足りない。それで都合の好い理屈をつけて、前に述べたように松川裁判などはやっているのです。そういう点、国民の協力によって、もっと厳にやって貰わなければならないと思います。私の裁判についての話をこれで終ります。(拍手)
                        
2010.05.20 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
書くのが遅くなってしまったが、ようやくにして確定した足利事件の菅家利和さんの再審無罪判決について感じたことを述べておきたい。3月26日、宇都宮地裁において菅家さんの無罪は確定したが、判決の後、佐藤正信裁判長は、菅谷さんにむかって次のように謝罪したという。読売新聞に全文が載っていたので引用する。

「 通常ですと、判決宣告後に適当な訓戒ができることになっていますが、本件では、自戒の意味を込めて謝罪をさせていただきます。
 菅家さんの真実の声に、十分に耳を傾けられず、17年半もの長きにわたり、自由を奪う結果となりましたことを、この事件の公判審理を担当した裁判官として誠に申し訳なく思います。
 このような取り返しのつかない事態を思うにつけ、二度とこのような事を起こしてはならないという思いを強くしています。
 菅家さんの今後の人生に幸多きことを心よりお祈りし、この裁判に込められた菅家さんの思いを深く胸に刻んで、本件再審公判を終えることといたします。」

足利事件において裁判所は一審・二審・最高裁と都合3度も誤判を繰り返し、菅家さんを取り返しのつかない苦しみのなかに閉じ込めてきたのだから、謝罪は当然のことだが、その内容にはいささか疑問を感じる。「菅家さんの真実の声に、十分に耳を傾けられず」という発言に対してである。

菅谷さんが無実を訴えだしたのは、2001年に草思社から出版された小林篤氏の労作「幼稚園バス運転手は幼女を殺したか」(2009年に標題を「足利事件」と変更して再刊行。講談社文庫)によると、一審の最終段階に入ってからだったようである。そのときから菅谷さんは自白とともに有力な証拠とされていたDNA鑑定について、もう一度DNA鑑定をやってもらいたい、自分はあの犯行をやっていないのだから、鑑定をやり直してもらえば自分の無実は明らかになるはずだと一貫して述べていた。これは控訴審以来の弁護人の主張でもあった。そもそもこの鑑定結果が厳密な証拠能力をもっているかどうかについては、「幼稚園バス運転手は……」によると、当時裁判を傍聴し、事件を伝える報道記者たちにさえつよく疑われていたようである。それなのに裁判所は被告人の訴えに頑として耳を貸さなかった。再審の佐藤裁判長が「十分に耳を傾けられ」なかったという「菅谷さんの真実の声」とは再度の鑑定を求める菅谷さんのこの訴えを指しているのかとも思う。それならば、逆転無罪判決という絶好の機会にこそそのことを率直に述べるべきだったのではないだろうか。なぜかといえば、そのようにして具体的に誤りを俎上に乗せて語らないかぎり、この過ちが今後に生かされることにはならないのではないかという危惧や不信を拭えないからである。

上記で書いたように、佐藤裁判長の言う「真実の声」がもしDNA鑑定を求める菅谷さんの声を指していたのだとしても、「真実の声」という言い方にはなお疑問が残る。裁判所の誤りは、無実の人の「真実の声」に十分に耳を傾けなかった、というのではなく、事件の真相解明に十分な誠実さ、熱意、真摯さをもって取り組まなかったことではないかと思うのである。裁判長の「真実の声」という言葉に即していえば、真実の声が何であるかを見極める姿勢において裁判所は欠けていたのではないかということである。

裁判の目的は一にも二にも真相解明にあるはずである。真相が解明されなければ被告人に対して有罪も無罪も判決の宣告はできないわけである。無実を訴える菅家さんの声が真実だったことは今になると明らかだが、被告人と検察の主張が相反した場合、どちらの言い分が真実かは、特に裁判の開始当初は誰にも分からない。場合によっては双方とも真実とかけ離れた偽りの主張をしていることだってありえる。裁判所に常に求められるのは、客観的な証拠を基にした徹底的な真相解明の遂行のはずである。それが誠実になされていなかったことは、控訴審以後の主任弁護人である佐藤弁護士の話を聞き、小林篤氏の事件について伝える文章を読み、またマスコミ報道などで裁判の推移を振り返ってみるかぎり、あまりにも明らかだと思われる。だからこそ、裁判長には、ありきたりの一般論で謝罪するのではなく、具体的な審理上の誤りの指摘やそれに対する自己批判の言葉を述べてほしかったと思う。具体的な論点が裁判官の口から語られてはじめて、取り返しのつかないこの誤判を今後の司法の改善と健全化に教訓として生かすことができるはずである。第一、菅谷さんの取り返しのつかない被害、人権侵害に対して、せめてそのくらいの実のあることをしないと、なんらの謝罪にもならないだろうと思う。

小林篤氏の「幼稚園バス運転手は幼女を殺したか」は、二審が始まった直後から取材がはじめられ、最高裁で無期懲役が確定するまでの経過を追ったもので、菅谷さんの有罪判決につよい疑問を投げかけるものであった。私がこの事件について多少の知識をもったのは、この本によってであった。パチンコ店前からの幼女失踪の経過、翌日河川敷で遺体が発見された際の現場の状況、警察および検察によるしらみ潰しの捜査、後に容疑者として逮捕されることになる菅谷さんの当日の行動、菅谷さん逮捕に至るまでの捜査の動きと流れ、菅谷さんの自白、その後の裁判の推移。この本は事件に関わるそれらすべてを詳細に、また丁寧に追ったもので、些細な点まで実にかゆい所に手が届くというような細やかさで事件のいろいろな側面が描かれていたと思う。小林氏は菅谷さんの有実に疑問を感じながらもその直観に引きずられないように、思い込みによって見方が偏ることのないようにと、抑制的な神経の働かせ方をし、さまざまな角度から精緻な検証をなしていたと思う。だからこそ、なのだろう、読んでいて、菅谷さんを有罪とするための根拠がことごとく崩れ、消えていき、その結果、この有罪判決の納得のゆかなさに焦燥感をおぼえさせられた。

菅谷さんの自白内容は、一つ一つ吟味していくと遺体や死体発見現場やその付近の状況とまったく一致しないのである。「幼稚園バス運転手は幼女を殺したか」によると、控訴審の弁護人は「控訴趣意書」で、次のように自白内容の不合理・不自然な点を挙げ、菅谷さんの無実を確言している。

① 被害者を見つけられたか。パチンコ店の駐車場付近でこのようにして被害者幼女を見つけたという菅谷さんの事情説明が不合理である。同時間帯には、駐車場に車が多数駐車していると推測されるが、もしそうであったならば、菅谷さんの位置からしゃがんでいた幼女を見ることは不可能だったはずである。

② 見知らぬ男の誘いに応じるか。4歳8ケ月の、しかも非常にハキハキと話す、しっかりした性格の女の子が、目の前のパチンコ店内に父親がいるというのに、見知らぬ男に「自転車に乗るかい」とひと声かけられただけで、その誘いに応じるか。

③ なぜ目撃者が現れないのか。菅谷さんは、パチンコ店から渡良瀬公園までの600m程の距離を幼女と二人乗りの自転車で行き、葦の茂みに入ったと供述している。1990年5月12日。時刻は午後7時前頃であり、公園付近には100人くらいの人がいて、そのうち80人が捜査当局に判明しているとの新聞報道がある。しかし、被告人らを見たという目撃者は一人も現れない。犯行の際に公園入口付近に30分程自転車を放置していたのに、これを見たという者もいない。また、菅谷さんが幼女を誘ったとされるパチンコ店から菅谷さんの実家までは1kmの距離であり、菅谷さんもこのパチンコ店に週に二、三回は通っていてよく顔を知られていた。このあたりは菅谷さんの生活圏内なのだ。したがって、当日も同パチンコ店には菅谷さんの知人が何人もいた。しかしこの日に菅谷さんを見たという人間は一人も現れない(自白をひるがえした後、菅谷さんはこの日借りているアパートの部屋からまったく出なかったと述べている)。

④ まもなく5歳になるという女の子が、日没後の暗がりをついていくか。当日の日没時間は午後6時40分。薄暗くなった午後7時前後に、女の子が駐車場から公園までの600メートルもの距離を嫌がることなく荷台に乗り、さらに、自転車を降りた後、被告人に手を引かれるまま、黙って葦の茂みの中に入って行くということがありえるだろうか。

上記の他に、○遺体の傷が自白と合致しない、○自白による殺害行為の不自然さ ○わいせつ行為のおよそ考えられない不自然さ、○「犯行場所」の自白が転々と変遷している、○犯行の核心部分の自白が変遷を重ねている、○被害者の衣服についての被告人の自白の矛盾-客観的状況とかけ離れている、○犯行後の行動として自白した内容が客観的状況と矛盾している、等々が述べられている。

詳しくは、本を読んでいただきたいが、一つ一つの状況を確かめながら文章を追っていって、判決に対する疑問や苛立ちを感じずにいることは難しいことだった。控訴審の裁判所は菅谷さんが被害者幼女に声をかけて公園に連れ込み、犯罪をおかしてその場を立ち去るまでの事実経過に的を絞ってその真偽を検証していくのではなく、DNA鑑定の高い信用性のみを集中的に語っているように思えた。これはあるいは、事実を吟味し検証していけば、その内容があまりにも矛盾にみち、不自然・不合理であり、有罪判決をくだし得ない結果になることを恐れたからではないかという疑いさえおぼえさせられた。DNA型の再鑑定をかたくなに拒否する裁判所の姿勢と合わせて、そのように感じられたのである。それから判決に対してこのように焦燥を感じずにいられない疑念をおぼえさせられるのは、昨年死刑が確定した「埼玉愛犬家殺人事件」の風間博子さんに対する判決文も同様だということを述べておきたい。
2010.04.02 Fri l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
昨年(2009年)は、1949年(昭和24年)に発生した松川事件から60年が経過した年で、10月17日と18日の二日間にわたり福島大学で「松川事件60周年記念全国集会」が開催されたそうである。報告文を読ませていただくと、1200名という多数の参加者があったそうだが、松川国鉄労組10名、東芝松川労組10名の元被告人20名のうち、東芝関係の元被告はすでに全員他界、国労のほうは2名の方が亡くなり、集会には5名が出席されたとのことである。十数年の長い裁判の全過程において東芝労組の杉浦三郎氏とともに被告団の中心的役割を担われた国労側の鈴木信氏は集会で矍鑠として挨拶をされたとのことである。もう89歳になられたとのことだが、気力にあふれた発言内容に驚きと敬意をいだかされる。20世紀が終了する時期だったと思うが、鈴木氏は同じく元被告の阿部市次氏とともに新聞社の取材に応じ、今このような時代になっているけれども、私たちは人々の深部にあるものは変化していないと何の疑いもなく信じている、という趣旨のことを語っているのを読んだことがある。岡林辰夫弁護士とともに事件発生の直後から一貫して弁護人を務めつづけた大塚一男弁護士は、松川裁判の無罪獲得運動について、著書のなかで「60年安保、三池闘争とともに日本の偉大な三大運動の一つ」と述べ、また「偉大な松川の運動」という表現を何度も記されているが、鈴木氏が新聞で語っていた「私たちは人々の深部にあるものは変化していないと信じている」という発言はそのような闘いを経験している人だからこその本心からの言葉だと感じたものであった。「60周年記念全国集会」では、鈴木氏は下記のように語っておられる。

「これだけ無罪を示す証拠がそろっているのだから自分は無罪になるに違いないという甘い考えを持っていた。当時、増田甲子七・官房長官が『この事件は、思想的には下山・三鷹事件と同じ。日本の国を存続させるために多少の犠牲はやむを得ない』と公言していた。私は国民のひとりとしてこの事件の真相を究明しなければならない。自分の一生の問題として今後も闘い抜く」

当時の増田甲子七官房長官が「多少の犠牲はやむを得ない」とまで述べていたとは初めて聞くことである。しかし、この官房長官が遠い松川で列車転覆が起った8月17日の翌日に、記者会見の席で下記のように語ったことは紛れもない事実である。

「今回の事件は今までにない凶悪犯罪であり、三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流に於いては同じものである。」

下山事件が発生したのは同年の7月5日(下山国鉄総裁が行方不明になった日。翌6日朝、常磐線五反野付近の線路上に轢死体となって発見される)、三鷹事件は7月13日、これにつづいて起きたのが8月17日早朝の金谷川・松川間での列車転覆事件であった。当時、定員法による国鉄労働者の大量馘首が始まり、国鉄労組が馘首反対闘争に立ち上がっていたことは事件を見るうえで必ず抑えておかなければならない重要な事実だと思われる。3、4年前から始められたという俳句に鈴木氏が「広津文乾いた喉に滲みわたり」と詠んでいる、松川事件と裁判の実態を広く世に報せ、20人の無罪獲得に大きな貢献をした作家の広津和郎は、「中央公論」連載の『松川裁判』で、上述した3つの大事件が発生する前に、新聞にさりげなくしかし断続して列車妨害の記事が載っていたことを印象ぶかく記している。

「昭和24年(1949年)という年は、この国はまだアメリカの占領下にあった頃であったが、鉄道関係で大小いろいろな事件が起った。6月中旬頃から、全国の諸所方々で、線路に石や材木が載せてあったとか、信号機が破壊されていたとか言ったような列車妨害の報道が、頻々として新聞に掲載され、国民の心に何とも知れない不安を与えていた。」

このような過程があったため、松川事件が発生した翌日の増田官房長官の談話にも、広津和郎は(広津和郎でさえ、というべきか)違和感をいだかなかったそうである。『松川裁判』のなかで次のように述べている。

「後になって考えれば、17日に事故が起った翌日の18日では、特に何かの予断を持たない限り、現場に於いてもまだ五里霧中で何者がかかる犯罪を行ったかその見当さえついていたはずがないし、したがって現場から261粁離れた東京の吉田内閣に、事故の真相が解るはずがないから、内閣の重要な地位にいる官房長官が、そういう談話を発表したという事が、如何に軽率で乱暴であるかという事に思い当たるが、当時に於いては、筆者なども迂闊に官房長官の談話を信じ、それを思想犯罪と思い込まされたものであった。それには6月半ば以来の列車妨害の新聞報道や、下山、三鷹と続いた事件についての宣伝が、いつかわれわれの心に、増田官房長官の談話をそのまま鵜呑みにするような下地を作っていたということが考えられる。

振り返って見ると、一カ月前の三鷹事件の時も、事件の翌日吉田首相が、「定員法による馘首がもたらした社会不安は、主として共産主義者の煽動による」という声明を発したものであった。」

松川事件の被告人が無実であることは裁判で完璧に証明され、20人全員が無罪を勝ち取ることができた。けれどもいまだに事件の真相は闇に隠されたままである。当時最高裁長官であった田中耕太郎は、裁判所内での訓示においてメディア上で健筆をふるう松川裁判の広津和郎や八海事件の正木ひろし弁護士らを指して(名指しはしなかったが、状況からみるとそう考えて間違いないと思われる)、「世間の雑音に耳を貸すな」と雑音呼ばわりしたり、松川事件の最高裁判決においては、高裁への差戻しを主張する多数派の裁判官らを「木を見て森を見ざるもの」と批判し、自らは上告棄却を強力に主張した。これまで田中長官については、資質的に反動的な裁判官だったのだろうと単純に考えていたが、よくよく増田官房長官や吉田首相の言動を見てみると、果たして単にそれだけのことだったのだろうかという気もする。田中耕太郎が最高裁長官に就任したのは昭和25年(1950年)だが、これは吉田茂首相時代のことであり、田中耕太郎自身、最高裁長官への推挙について「おそらく吉田茂氏の意向ではなかったかと思う。」と語っているのを私はどこかで読んだことがある。その時は「二人とも同じ程度に反共主義者だからだろう」と軽く思っただけだった。ところが、最高裁長官を退官後、田中耕太郎は、吉田茂元首相をノーベル平和賞に推挙する運動を小泉信三などとともに展開しているのである。私はこのことを、最近になって、「一体、吉田茂にノーベル平和賞をとは何事であろうか」と語気するどく批判している中野重治の文章を読んで知った。私は昔から松川裁判には関心をもっていて関連する本などは目につく範囲でずいぶん読み、啓発されることが大変多かったのだが、吉田茂と田中耕太郎との関係が直接的に頭に浮かんだのは今回が初めてだった。増田官房長官は吉田内閣の主要閣僚だということの意味は解っているつもりで、増田氏の談話の背後に吉田首相の存在を考えてはいたが、吉田内閣と最高裁長官とを結びつけて考えたことは今回が初めてである。

田中耕太郎が最高裁長官に推挙された理由や経過についてはもっと関心がもたれていいことなのかも知れない。いや、あるいは、事件の周辺の人々にとっては吉田茂と田中耕太郎の間柄に関するこのような関心というか、疑念は共通認識としてずっと存在していたのかも知れないとも思う。事件翌日の増田官房長官の談話についての広津和郎の叙述は上述したように「軽率」「乱暴」と記していて主観を抑えたさりげない書き方だが、事件から十数年を経ての1961年における中野重治の語調は大変厳しい。

「 しかし私は、そもそも列車転覆のあくる日、何で増田があんな発表をしたのだったか、それは今日の話として増田本人から聞きたいと思っていた。ついうっかり、あんなことを言ってしまった。つくづく後悔している。あるいは、あのときああ発表したのは、内閣官房長官として当然だった。今日かえりみて、何らやましいところはない。いずれにしろ、それを聞きたいとほんとに思うが増田はどうだろうか。理由を衆議院に出している、日本一教育程度の高いという長野県人の考えはどうであろうか。」(フィクションと真実)

中野重治とともに私も増田元官房長官に「列車転覆のあくる日、何であんな発表をしたのだったか」、今さらながらではあるがぜひ聞いてみたい。松川裁判闘争が裁判史上空前の盛り上がりをみせ、市民運動における「日本の偉大な三大運動のひとつ」と称せられるほどの闘争が展開されてなおその後の司法のあり方を変えることはできなかった。昨今の裁判の現状を見ていると私などもそのことを痛感させられるのだが、これは松川裁判のような大きな事件でもなお真相が明らかになっていないこと、でっち上げをなした側で責任をとった人間が皆無であることと無関係ではないだろうと思う。

国労側の謀議・実行の首謀者として、鈴木氏と同様、一審・二審ともに死刑判決をうけた本田昇氏は、今年の4月2日、毎日新聞夕刊の「裁判員制度」についてのインタビュー取材で次のように述べておられる。

「私は1949年に福島県で起こった「松川事件」で汽車転覆致死容疑で逮捕・起訴された20人の一人です。東北線金谷川~松川駅間でレールの継目板などが外され、列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡した事件で、当初から捜査当局は国鉄などの労働組合員を狙った見込み捜査を行い、一部の逮捕者に自白を強要しました。私は最後まで無罪を主張しましたが、1、2審は死刑判決。拘置所で近くの房の確定死刑囚に刑が執行され「自分もそうなるのか」と全身が震えました。/その後、作家の広津和郎先生が雑誌上で判決批判を展開したり、被告のアリバイを示す証拠を検察が隠していたことが報道されたことで、審理は差戻しとなり、無罪判決が確定。胸をなで下ろしましたが、拘束された23歳からの10年間は戻ってきません。/事件当時は米軍占領下で、今とは状況が違いますが、03年の鹿児島県議選をめぐって買収などで起訴された12人全員の無罪が確定した志布志事件をみても、捜査当局によるでっち上げのやり方は変わっていない。過去の過ちを総括し、捜査をもっと可視化するなどの対策が必要です。検察が不利な証拠を隠さない仕組みも重要。裁判員になる国民が当局の誤った判断にお墨付きを与える制度にならないよう願っています。」(「カウントダウン裁判員制度」施行まで49日)

上で本田氏が述べておられることを箇条書きにしてみると、

� 捜査当局によるでっち上げのやり方は変わっていない
� 過去の過ちを総括すること
� その上で可視化などの具体的な対策をとること
� 検察が不利な証拠を隠せない仕組みづくりの重要性
� 裁判員になる国民が当局の誤った判断にお墨付きを与える制度になりかねないとの懸念

いずれも重要な指摘ばかりであることは間違いない。�については、松川事件の場合、佐藤一被告のアリバイを証明する「諏訪メモ」が検察によって隠匿されていることが発覚したおかげでかろうじて最高裁による差戻し判決はなされたのだ。もしこれがそのまま隠し通されていたならば、と考えると寒気がする経過である。上述のとおり1・2審で死刑を判決されていた本田氏は、最高裁判決を迎えるにあたって、もし上告棄却の判決がでたならば、世を覆っている高い抗議の声を抑えるためにも自分たち4名(国労側の鈴木・本田、東芝側の杉浦・佐藤一、の各氏)に対しあるいは早期の死刑執行がなされるのではないかという悪夢が日夜脳裏を離れなかったと、後日手記のなかで述べていた。鈴木信氏も「死か生か日日ゼロ点に立つ死刑囚」という死刑を詠んだ俳句に添えて、次のように書かれている。「午前9時が近づくと確定死刑囚のいる獄舎は針を落としてもピリピリするほど静まりかえる。毎日生か死の瞬間を迎え、ある死刑囚は骨と皮だけになり「生ける屍」とはこの姿だと思った」。検察が自分たちに不利な証拠を隠せる仕組みが許されてきたということは、国家が不公正な裁判の温床を認めつづけてきた、今も現にそうしているということに他ならない。「埼玉愛犬家殺人事件」の風間博子さんの裁判経過を見ても、同様のことが平然と行われている。裁判を一歩でも健全なものにするには、誤りをおかしたこれまでの裁判の真相を公的に明らかにし、反省すべきことを深刻に真摯に反省し、それを具体的な対策に活かしていく地道なやり方以外にないだろうと思う。
2010.01.08 Fri l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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