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「ハリケーン長嶋」と称されたダイナミックな走塁

走る
野性味みなぎる長嶋の走り。「私の足は100メートルを11秒2で走り抜けた。陸上用のスパイクを履けば11秒を切る自信があった。」(『ネバーギブアップ』)

滑る
 躍動感とともに研ぎ澄まされた凄みを発散する滑り込み

 「チャンスに凡退してのコメント
前2回の長嶋選手関連の記事は、『月刊 長嶋茂雄』(0・1号の主に写真)に感興をえて書いたのだが、今回もそのつづきを…。『月刊 長嶋茂雄』1号のページを繰りつつ新人の長嶋選手が折にふれて口にしたコメントを読んでいると何やかや感慨にとらえられる。デビュー戦で金田投手に4連続三振を喫したフルスイングの姿もそうなのだが、折おりの言葉もまた、その後の現役17年間を通じて彼が初心を貫くべく日々全力でプレイしつづけたことを再確認させてくれるのである。たとえば、プロの投手と一廻り対戦を済ませた後の7月9日、長嶋選手は「チャンスに必ず打てるバッター、これが私の夢なんです」(この日の国鉄戦で、5回2死1、3塁のチャンスに、キャッチャーフライに倒れた悔しさを滲ませてのコメント)と語っているが、これにはホント驚いた。その現役全盛期に「チャンスに強いバッター」「勝負強いバッター」という形容は長嶋選手の代名詞といってよいほどにプロ野球ファンの間に浸透していたものだが、プロ野球でプレイを始めてまだせいぜい3ヶ月、この時期に自分からそういう発言をしていたのだ。これは打者として退路を断ったとさえいえる内容のものであり、新人の発言としてこれほど大胆不敵なものはそうはないだろう。チャンスに凡退した際のコメントなのだから、自信に基づくものとばかりは言えないだろう。限度をしらないほどの熱烈な意欲に充ちみちていたのだと思えるが、実際長嶋選手は全選手生活を通してこの目標を見失わず、力の及ぶかぎりこれを実現していったことは誰でもが首肯できることと思う。こういう姿をみると、長嶋選手がプロ入りに際して、ベースボール・マガジン社に向けたメッセージで、

「 ルーキー決意を語る
 思えば、僕が佐倉一高から、立教へ入学した当時は右を向いても、左を向いても、上手な人ばかり。この中に交じってやれるかしら、と自信のない気持ちでいた僕を、何かといたわり、励まし、時には傍らから見たら厳しすぎるとまで思われるような指導をして下さった砂押さん(邦信前監督)には、どれだけ感謝してよいか分からない。
 プロ野球の世界――そこは良い意味にも悪い意味にも、野心が渦巻き、実力あるものが勝つ弱肉強食の世界。
 しかし、立教入学当時、手のひらのマメがつぶれ血に染まるほど素振りを繰り返し、また、レギュラーになってからも苦闘の連続。殊に秋のリーグ戦の前半は8号ホーマーという世間の期待が、かえって精神的に負担となり、全然打てず、連続無安打が続く低調さで「いつになったら打つのだ」と先輩、友人から言われ、実際、苦しかった。
こんなことを回想してくると、僕にはプロの厳しい世界も何とか乗り切れそうな気がしてくる。投手は学生野球と違って速い球を投げてくるだろう。しかし僕は、そうした球にぶつかっていけるだけのファイトを、今までの生活から得ているような気もするのだ。
 同僚の杉浦とは袂を分ったわけだが、進む道は同じだ。日本シリーズで逢う日を今から楽しみにしていよう。杉浦よ、頑張れ! 」

といった言葉も、そのまま、プロ入団に向けた断固とした決意の表明だったとして素直に受け取ることができるように思う。また、新人王はもちろん、打点王・本塁打王の二冠を獲得し、リーグ優勝でルーキー・シーズンを終えた後、おそらく日本プロ野球史上「最強チーム」といえるだろうパ・リーグの覇者西鉄ライオンズとシリーズで対決し、健闘及ばず敗れ去った後の次のコメントにも心打つものがある。

「 不気味な威圧感に覆われて…
――日本シリーズを戦ってみて。
長嶋 自分としては、全力を振り絞って頑張っただけです。結果はこうなりましたが、悔しくて、口では言い表せないほどです。
――初めての出場で、緊張は?
長嶋 別に意識はしていなかったから、何ともなかったです。(略)調子は快調だったんですが、中盤からどうも打てなくて。思い出しても、諦められないくらい残念です。
――西鉄に関しては
長嶋 3連勝していたのを逆転したほどですから、その強さはおして知るべしです。底力の凄まじさに、驚嘆させられました。だから、南海に11ゲーム差も引き離されていたのを挽回して優勝できたんでしょうが、チーム全体が気力に満ちあふれているように感じました。
――第2戦以降は、徹底マークされた。
長嶋 稲尾投手には完全にマークされていました。落ちる球に引っかかって、凡打ばかり。まったく翻弄されました。タフネス・ボーイという言葉が、ぴたりと当てはまりますね。とにかくすごい投手です。
――3連勝の時点では覇権奪回なるかと。
長嶋 僕もそう思いました.しかし西鉄と戦っていると、絶えず不気味な威庄感に覆われていました。それが焦りとなって……。
――これからの目票は?
長嶋 二度とこの敗戦のような憂き目を味わわないように、来年こそ「打倒・稲尾」を果たすだけです。稲尾君さえ攻略できれば、選手権奪回がなりますからね。 」

シリーズ第1戦の第1打席、何の気配もなくただ打席につっ立っているように見えた長嶋が稲尾投手の外角スライダーを見事にとらえてライト戦に三塁打を打ったこと、これが稲尾投手に大きなショックを与え、この試合の稲尾4回降板の原因になったこと、その後稲尾投手は長嶋選手の打席をノーサイン投法に切り替え、長嶋の身体の動きに合わせてスライダーとシュートを投げ分けるというやり方で彼を抑えることができたこと、などの稲尾投手による長嶋対策はいまも語り草である。「悔しくて、口では言い表せないほどです。」「思い出しても、諦められないくらい残念です。」という長嶋選手の言葉は偽りでも大袈裟でもなかっただろうと思われる。この敗戦の記憶は長く長嶋選手のうちで尾を引き現役引退後もこの年対戦した西鉄ライオンズというチームについて畏敬の念の込もった口調で「理想のチームの一形態」(『ネバー ギブ アップ-キューバの太陽カリブ海に誓う-』集英社1981年)と語っている。長嶋選手は稲尾投手の底力とともに、中西太選手の打球の物凄さにも驚嘆させられたようである。じつはオープン戦で初めて対したときからそうだったらしく、「グワシッという怪音とともに打球が私の正面に飛んできた、と思った時には球はもう見えない。打球は、グローブにさわりもせず、きれいに股間を突き抜けてしまって」いたと述べている。「あれが下腹部に命中していたらどうなっていただろうか」などとも語っている。もちろん長嶋選手の打球も強烈であり、阪神の二塁手だった鎌田実選手は、長嶋選手の当時の打球のスピードについて「打撃は大きく動きのあるバックスイング。そしてシャープなスイングから弾き出される打球の速さは強烈で前進守備のときなどは怖さを感じた。」と語っているのだが、しかし長嶋選手は、中西選手がかつて平和台のゲームで飛距離160メートルの大本塁打をかっ飛ばしたという逸話も現実にありえないことではない、飛距離といい、底知れぬほどの打球の鋭さといい、そのパワーは確かに自分を上回っているとの感触をもったようである。

長嶋選手は上のコメントで「二度とこの敗戦のような憂き目を味わわないように、来年こそ「打倒・稲尾」を果たすだけです。」とも語っている。この「来年こそ」は、その59年に西鉄が優勝をのがしたために現実のものとならなかったが、5年後の63年にようやく再チャレンジの願いが叶い、長嶋選手はこの西鉄ライオンズとの対戦で稲尾投手を打ち込み、自身初となるシリーズMVPを獲得した。この後、長嶋選手は「シリーズ男」という異名をとるようになるのだが、シリーズMVP獲得回数4回、日本シリーズという大舞台で「完璧!」といいたいような活躍を見せることができた原点は、おそらく58年の西鉄ライオンズとの闘いの経験だったのではないだろうか。

打撃
 力強い腰の回転の打撃フォーム(1958年秋対カージナルス戦)


長嶋選手の打撃技術についてド素人の私は語るべきものを何ももっていないのだが、かつて、内野手の間を猛烈な勢いで抜けていくゴロのヒットこそがもっとも長嶋的な打球だ、と評した人の意見に賛同したい気がする。たとえば、何ヶ月か前にテレビで偶然、南海の杉浦投手の引退式に登場した長嶋選手がバットを振り切って打ち返す場面をみたのだが、三遊間に糸を引いて飛んでいったその打球は息をのむほどに美しかった。最近、長嶋選手の打撃に言及した文章で印象に残ったものが2つあった。一つ目は、1957年(昭和32年)春の東京六大学で東大の一年生投手として立教の4番打者長嶋を間近に観察した経験をもつ岡村甫氏(現高知工科大理事長)が語る打者長嶋評。

「 長嶋選手らの立教に唖然
私が東京六大学野球のすごさを実感したのは、1957年、春季リーグ開幕戦で、1年生ながら初めてベンチ入りしたときだっった。
 相手は当時最強の立教大学。主将は名内野手本屋敷錦吾、投手は杉浦忠、4番打者は長嶋茂雄である。彼の最初のフリー打撃を見て驚かされた。2か所のゲージの内、レフトから遠い方の打席に立つ。それでも彼の打球は、当時の広い神宮球場の柵越え率は実に7割、しかも2割はバウンドして場外に消える。彼の体力のピーク時であり、プロに入ってからは、このときの力強さとしなやかさを超えた彼を見たことはない。
 杉浦投手の球はホームベースの近くでホップする。本屋敷選手はピンチでも何気なく球をさばく。これが六大学の野球か。東大とのあまりの差に唖然(あぜん)とした。(略)
 長嶋選手に対しては誰もストライクゾーンに投げない。もしも、私が対戦しても、おそらくそうしたであろう。東大の吉田治男投手は、彼に対してストライクゾーンからボールになる球だけを投げた。それを打たなければ四球になるので、思い切って振る。打球は柵際まで飛んでは行くが、あらかじめ深く守っている外野手のグラブに収まる。他のチームの投手もそれを見習った。
 もし、長嶋選手がストライクだけを打っていたら、プロ野球でも4割を何度か打てたと思う。プロ野球での彼の記録は、王貞治選手や落合博満選手らと比べて劣っている。しかし、通算200勝以上の投手との対戦成績を比べると、おそらく長嶋選手が最高の記録を残しているのではないかと思う。そのような投手のみが、彼に対して堂々と勝負するからである。
 プロ開幕戦で金田正一投手から4三振をした映像を見る機会があった。3打席目までストライクゾーンには一球も投げていない。絶対に打たれないためには全盛時の金田投手ですらストライク勝負をしなかった。そして、杉浦投手の球は当時の大学レベルでは誰も打ち込めなかった。打てるとすれば、同僚の長嶋選手だけであったろう。この年、立教は春秋連覇を果たした。 」

岡村氏が見たという4三振の映像とはどうやらこの金田対長嶋の対戦の全場面を指しているようである。テレビ局には空振り三振の場面しか残っていないようだが、個人か団体かは分からないが、映像は誰かの手でちゃんと保存されているのだろう。それにしてもこのころの立教大学野球部はききしにまさって強くまた魅力的なチームだったようである。(見てみたかったなァ)。次は、長嶋選手と同時代に西鉄ライオンズの中心打者として活躍した、現在野球評論家の豊田泰光氏の弁。

「 ……私はドーム球場が苦手で、東京ドームでの授与式をテレビでみただけでも息苦しかった。特に長嶋には開けた空と天然芝、土が似合う。そうした球場を、巨人ともあろうものが持ち合わせていないのは球界全体の不幸ではないか。
 野球は文字通り野で遊ぶのが原点だ。長嶋のような野人が、ユニホームを真っ黒くして跳んだりはねたりできる舞台が東京の真ん中にほしい。いや、スポーツがおかみに頼み事をすると、やがて法外な年貢を取られそうな気もするので、寄り過ぎない方がいいかもしれない。
 今回の受賞のずっと前から、私たち野球関係者は長嶋の銅像をそれぞれの胸の中に立ててきた。それだけプロ野球にもたらしたインパクトは大きく、革命的だった。
 長嶋がプロ入りしたとき、我々打者が注目したのは派手なパフォーマンスより、実戦に即したスイングだった。178センチという、当時では十分な大男が、思いのままに振り回しているようにみえながら、しばしばバットを短く持って振っていた。
 そうか、あれもありか――。プロの長距離砲はプライドにかけてもバットを短く持つことなど許されない、というのが「長嶋以前」の世界だった。源平の合戦よろしく、長大な得物を振り回してこそ大打者、とみんな思っていた。
 藤村富美男さん(阪神)の「物干しざお」が時代の価値観を示している。ところが、既成概念と無縁の長嶋は「こうすりゃいいじゃないの」とバットを短く持ち、あっけなくスイングスピードと精度を両立させた。まさにコロンブスの卵だった。(略)」

「もし、長嶋選手がストライクだけを打っていたら、プロ野球でも4割を何度か打てたと思う。」「通算200勝以上の投手との対戦成績を比べると、おそらく長嶋選手が最高の記録を残しているのではないかと思う。そのような投手のみが、彼に対して堂々と勝負するからである。」という岡村氏の批評は、長い間漠然とながら胸のなかにいだきつづけてきた素人ながらの私の印象と合致している。しかし、「ストライクだけを打」つ姿勢を保持しつづけることは長嶋選手には不可能なことだったろう。敬遠責めがつづいたとき彼が打席で露わにみせた「焦燥感でいっぱいの顔つき」は今も目の奥に鮮やかなのである。

豊田氏の文章中の、「私たち野球関係者は長嶋の銅像をそれぞれの胸の中に立ててきた。」ことについては、それが事実かどうかかなり疑わしい気がするが、長嶋の登場が「プロ野球にもたらしたインパクトは大きく、革命的だった。」、「既成概念と無縁の長嶋は「こうすりゃいいじゃないの」とバットを短く持ち、あっけなくスイングスピードと精度を両立させた。」という指摘に間違いはないはずだ。オールスター戦で初めて稲尾投手と対戦した長嶋選手は、1日目は三振を食い、2日目は安打(二塁打)を放っているが、そのとき、「昨日の三振を反省し、バットの握りを少し短くしてみた」(『月刊 長嶋茂雄』)とあっけらかんと語っている。
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2013.07.10 Wed l スポーツ l コメント (0) トラックバック (0) l top
このところ2回にわたってブログに長嶋茂雄選手のことを書いてきたが、例の「統一球」をめぐる問題に進展があったようだ。6月27日、労組・日本プロ野球選手会(楽天・嶋基宏会長)は、NPBと第三者委員会あてに「統一球問題に関する当会の要望と見解」を提出した。選手会は加藤コミッショナーには責任をとって辞めてもらい、「ビジョンと責任を持った強いリーダーシップを発揮できる」人物を新コミッショナーに登用して野球界を具体的に改善すべきだと述べている。

「 選手会は、問題を生み出した大きな要因にNPBの構造を挙げ、さらに、統一球が加藤良三コミッショナー主導で導入されたにもかかわらず、「コミッショナーが知らないうちに(調整が)行われたと説明していること自体が問題点のあらわれ」として、同コミッショナーの姿勢を厳しく追及する見解を示している。
 問題の経緯や事実関係を調査する第三者委は28日に初会合を開くが、「選手、選手会を含む幅広い関係者の意見聴取が行われるべきだ」とし、NPBから第三者委に要望書などが出された場合は公開することも要望した。」

第三者委員会の委員はいずれも弁護士で、元最高裁判事の那須弘平氏(委員長)、元京都地検検事正の佐々木善三氏、元一橋大大学院国際企業戦略研究科講師の米正剛氏。また元巨人の桑田真澄氏が専門的な立場からアドバイスするアドバイザーとして第三者委に加わるそうだ。パ・リーグの村山良雄理事長(オリックス球団本部長)が発表した。
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加藤コミッショナーは恥を知らない人だ。6月11日、NPBの下田邦夫事務局長が統一球を今季から変更していたことを認めた際、「製造しているミズノ社に昨夏に修正を指示し、今季開幕から新球を使用していた。公式球の扱いはNPBに一任されていたため、12球団には報告していなかったが、加藤良三コミッショナーと相談しながら対応を進めていた」とはっきり述べていた。

下田事務局長が「加藤良三コミッショナーと相談しながら対応を進め」たと明言したのは、統一球の使用を決定し、球に名前を刻んでいる加藤コミッショナーが変更問題に関与していないという言い分が選手やプロ野球ファンを初めとした世の中に通用するとは思いもよらなかったからだろう。これは当然のことで、その時点で加藤コミッショナーには辞任の道しかなかったはずだ。ところが、加藤氏は翌日、驚くべきことに「自分は変更を知らなかった」と言いだした。そう言えば辞任しなくてもすむと思ったようだが、これではますますコミッショナー不信を高める結果にしかなりようがない。

そもそもこの人は駐米大使を務めていたときから、外務官僚のなかでも特に悪質といえる人であった。公務員でありながら、憲法に従う意向をもっていないことを新聞で堂々開陳していたのだ。そういう人であればこそ、自分が率先して決定した統一球に対して肝心要の球団・選手・プロ野球ファンに隠れてこっそり新たな変更を加えた上、それを隠しきれなくなると、部下に全責任を負わせて、「自分は知らなかった」などとしらを切ることができるのだろう。ダルビッシュ有選手がツイッターで加藤氏の「知らなかった」発言に対して、「知らない事はないでしょう。てか知らない方が問題でしょ」「名前まで入れて中身知りませんはなぁ」と述べたそうだが、これはすべての選手・プロ野球ファンの一致した認識であろう。選手にとっては自分の成績に具体的に影響することであり、コミッショナーの解任を求めることは当然である。これに対して巨人の渡辺恒雄会長は26日、都内で報道陣の取材に対し、統一球の問題が発覚してから初めて下記のように話したそうだ。

「 渡辺会長 加藤Cは「責任ない」「誰が責任あるか知らん」
 加藤良三コミッショナーの進退を問う声が上がっているが「責任はないでしょ。進退を言う必要は一つもない。大臣が1人不祥事でクビになったら総理大臣辞めろっていうことになるか」と即答。「コミッショナーは関係ない。誰が責任あるか知らん」と繰り返した。統一球の仕様が変わっていたことにも「俺が野球について知っているのは野球協約だけ。知らんことは、知らんのだよ」と話した。NPBの対応が批判を招いているが「事実関係を知らないから」と述べるにとどまった。 」 

「大臣が1人不祥事でクビになったら総理大臣辞めろっていうことになるか」「コミッショナーは関係ない。」なんて何てバカな発言なのだろう。今回の不祥事は、「大臣」がおこしたのではなく、「総理大臣」=現在のコミッショナーがおこしたのだ。このコミッショナー選任にはきっと渡辺氏が関わっていて、それで上のような子どもにも通用しない妙チクリンな理屈を捏ねているのだろう。「俺が野球について知っているのは野球協約だけ」というのもゾッとする話である。この年代の人には珍しいことではないかと思うが、この人はキャッチボールもやったことがないそうだ。野球の楽しさを何も知らないのだろう。それでいてしょっちゅう球場に行っているようだが、よく退屈しないものである。いずれにせよ、今回選手会が加藤コミッショナーの退任を要求したのは選手会として当然やらなければならないことをやったまでのことで、一プロ野球ファン(最近はどうもファン意識が希薄になってしまっているが)として断然支持する。
2013.06.30 Sun l スポーツ l コメント (0) トラックバック (0) l top
『月刊 長嶋茂雄』には「マンスリー長嶋」というコーナーがある。1号では、58年2月の明石キャンプから始まってオープン戦、公式戦、西鉄ライオンズと対決した日本シリーズ、来日したカージナルスとの日米野球(ルーキーながら長嶋は16試合中15試合に出場し、結果、大リーガーたちによって最優秀選手に選出されている。この日米野球には全盛期の中西太選手も参加し3ホーマーを放つなど活躍しているので、その中西選手をさしおいて選出された長嶋選手の最優秀選手賞には価値があると思う)まで、長嶋選手のルーキー年の活躍ぶりが月ごとにかなり詳細に描写されている。驚かされたのは、9月20日の阪神戦(後楽園)、長嶋選手が川上哲治選手の打席でホームスチールを試みていたことだ。惜しくも(?)、川上選手がファールを打ってこの試みは記録に残らないことになったが、写真を見ると、長嶋選手はホームのすぐ手前まで来ている。

ホームスチール
「一塁踏み忘れ事件」の翌日、9月20日の阪神戦では、川上哲治の打席で果敢にもホームスチール。結局ファウルを打った“神様”も驚きの表情?

この本盗について、キャプションが、「無謀にも」とではなく、「果敢にも」と表現していることにホントにホッとする。長嶋選手の表情にご注意あれ。この顔はホームスチールが成功しなかったことをひたすら無念がっていて、打席に入っているのが誰であるか、などにはまるで頓着していないように見える。「打撃の神様」とまで言われていた大打者川上の打席に本盗など敢行したら、その権威やプライドを傷つける由々しきことだなんて考えは長嶋選手の意識には露ほども浮かんでいないのだろう。それにしてもこのときの球場のどよめきはどんなだっただろうか。

ついこんなことを思うのは、もちろん、後に広岡達朗選手の打席に長嶋選手が本盗を敢行して、これが広岡選手と川上巨人との間を決定的に引き裂く事件に発展するという出来事があったからだ。1964年8月6日の国鉄戦。相手投手は金田。スコア0-2と2点リードされて迎えた7回、1死3塁でバッター・ボックスに入った広岡選手、カウント2-0の場面。

「3球目で3塁走者の長嶋茂雄が猛然と本塁へ突っ込んできた。外野フライでも1点入る場面。セオリー無視のホームスチールである。タッチアウトとなった長嶋を、私は呆然と見つめていた。」(日経新聞「私の履歴書・広岡達朗」から)

その後2-2から「見逃しの三振」に倒れた広岡選手は、次のように語る。

「私の怒りはベンチに向かった。『やめた、こんなばかな野球ができるか』とバットを持ってロッカールームに直行、そのまま家に帰ってしまった」

この本盗はベンチのサインによるものだったのか、それとも長嶋の独断だったのか。当時広岡さん自身は「私の怒りはベンチに向かった」と述べているように、川上監督のサインと思っていたようだが、じつは当時から諸説あった。ただ最近では、長嶋独断説が優勢のようである(こちらこちらのサイトを参照)。そして私もこの説に賛成である。1988年、たしか長嶋さんの野球殿堂入りが決定した時だったと思うが、NHKテレビで詩人のねじめ正一さんと長嶋さんとの対談番組が放映された。ねじめさんは長嶋さんに「ホームスチール」について質問した。これはとても珍しいことで、長嶋さんに対して「ホームスチール」を話題にするなんてほとんど最初で最後のことだったのではないだろうか。ねじめさんが、自分は長嶋さんのホームスチールを見ている。失敗も見たが、成功も見ている。最近プロ野球でホームスチールはほとんど見られないが、あれはおもしろいので復活してほしい、というような話をふると、長嶋さんは、即座に次のように答えた。

「観るほうからすると、攻撃で一番きれいなのは、2塁を蹴って果敢に3塁に走る、あの姿なんですが、しかしそれよりももっと人の心を打つものは、ホームスチールでしょうねぇ。」

これに対してねじめさんが、おそらくは過去の広岡選手のケースを念頭に置いてのことだろう、「ただ、ホームスチールというのは、打席に立っている人のプライドを傷つけるという側面がありますね。」と訊いた。これに対しても長嶋さんはキッパリとした口調ですぐにこう応じた。

「ええ、でも、お客さんが喜びますよ。」 そして「ですから、今の選手たちにも機会があれば、ホームスチール、どんどん挑戦してもらいたいですねぇ。」

上の会話は記憶で書いているので、言い回しは必ずしも正確ではないと思うが、話の趣旨に誤りはないと思う。また走ることに対する長嶋選手の異様なまでのつよい意欲については、立教時代のチームメイトで4番長嶋の前で3番を打っていた浅井精(きよし)氏(この浅井選手も長嶋選手ほどではないにしろ、かなり駿足だったようである。)の次のような証言もある。

「 …4年生の頃、浅井が出塁してつぎの〈4番・長島〉がヒットで出ると、2塁の塁上にいる浅井は困ったそうだ。
 長島茂雄はしきりに眼くばせしたり動作で示したりして、スチールをうながしてくる。
「失敗は許されぬから、こちらは慎重になる。ところが、シゲは走りたくて仕方がないんだな。1点差でせっているような試合はべつにして、ほかのときはほとんどダブルスチールのサインを送ってくる。私はあわてて“待て”のサインを返す。それでもまたサインを送ってきて、シゲはぱあっと走る。2塁にいた私は、そうなると否が応でも走らざるを得ない。私は幾度か、3塁で憤死しましたよ。だから私は、シゲとコンビで塁上に出たときは、なるべく視線を合わせないようにした。眼が合うと、シゲは走ってくる。ところが眼をそらしていると、1塁のほうから“キヨシ(精)ッ!”とか、“セカンドランナー!”とか叫んでくる。思わず、はっとしてシゲのほうを見ると、もうおしまいだ。ぱっとダブルスチールのサインを出して、一目散に走ってくる。スタートが遅れながら私も走ってしまう。
 シゲは前へ走りたくてしかたがないのだ。たまらず私が“タイム”をかけて1塁のシゲのところへ駆け寄ると、私の言葉に耳をかすどころか、“ダメだよ、キヨシ、走れ”と興奮してささやく。走る場面ではないのにダブルスチールをやって2、3回成功しています。相手のチームやピッチャーも面くらったことでしょう。シゲには、たえず前の塁へ進もうとする動物的な本能のようなものがある。これは野球選手として、かけがえのない適性だった」
 と、浅井精氏は苦笑しながら賞めたたえている。 」(岩川隆「キミは長嶋を見たか」集英社文庫1982年)

ちなみに、立大時代の長嶋選手の盗塁数は、「月刊 長嶋茂雄」によると、1、2年時はゼロ、3年の春以降4・7・6・5と量産しているそうだ。このなかにホールスチールが含まれているかどうかは判らないが…。

上述のように、ルーキー時代に川上選手の打席で本盗を敢行したことや、本盗に対するそもそもの長嶋さんの考えや、立大時代のチームメイト・浅井精氏の発言などを長々と紹介したのは、64年の広岡選手の打席における長嶋選手の本盗の意図について考えてみたかったからだ。というのも、長嶋のこの本盗については広岡を排斥しようとする川上監督の思惑に沿って行われたものだという意見も稀に散見されるからである。たとえば、1985年、阪神大フィーバーの年になされた大岡昇平の次の発言がそうである。

「 顧れば、大正末にラジオ大学野球の実況放送始まってより、春秋シーズン欠かさず聞く。戦時中の中断をのけて、50年野球と共に生きたり。ラグビー、アイスホッケーを知ってよりは、中断せぬ動きのダイナミズムに魅せられたが、時期冬季に限らる。野球の方が時間的に長い。野球は投手交代があったり、ファウルばかりするバッターいたり、退屈なスポーツだが、50年見たり、聞いたりでつぶした時間の累計は厖大なものに上るべし。
 (略)
 われもともと大鵬、巨人、玉子焼にて、極めて健全なる趣味を有せり。立教時代より長嶋のファンなり。引続き巨人ファンなりしも、川上に媚びて、広岡バッターの時、本盗失敗を演じてより英雄失墜す。同時に巨人という球団自体がいやになってしまった。(このころからひがみっぽくなった)。江川問題あってより、ますますアンチ・巨人となり、一時読売新聞を取るのをやめていたことがある。
却って広岡のファンになりて、ヤクルト-西武と変転して、今日に到る。しかし今年の打の阪神に再び英雄を感じ勝たしてやりたい気がして来た。常になく力入る。逆転勝ち多く、うさ晴し効果あり。放送延長につき合い、解説もよく聞き、テレビ視聴時間3時間を越ゆ(7時から放送始まるから、ニュースは6時30分のTBSから見る)。眼に悪し。睡眠時間ずれて生活のリズム狂う。本も読む時間ますます少なくなる。 」(「成城だより Ⅲ」野球人生)

大岡昇平のいう、「川上に媚びて、広岡バッターの時、本盗失敗を演じてより英雄失墜す。」という長嶋選手に対する見方には、今回川上選手を打席においての本盗の試みを紹介したことで実質的にはちゃんと反駁できたと思うのだが、どうだろうか。ただ大岡昇平がそれまで長嶋選手のプレイにつよく反応し、心惹かれていたことは「作家の日記」(1958年3月19日の項)にもよく出ている。

「 小説は依然として進まない。
 春場所は珍しく上位陣が勝っているし、オープン戦には、長嶋なんて選手が出て来るし、オール・ブラックスは破壊的なラグビーを見せてくれるという有様で、朝から一日テレビの前へ坐っている始末だ。(略)
 朝、寝床の中で真先に開けるのは各紙の運動欄で、長嶋と若乃花の勝利の記録を三度も読み返せば、一時間は軽く経ってしまう。『報知新聞』を隅から隅まで読むなんてことが、日課になろうとは思わなかった。
 それにしても、長嶋なんてテレビで観るだけでも、胸がすくような選手が出て来たとは、意外なことになったものである。僕は職業選手のこづら憎いプレーが嫌いで、原則として六大学野球贔屓なのだが、長嶋が学生野球の空気を職業野球に持ち込んでくれたのはありがたい。ただし時間潰しで困る。
 野球評論家の解説というのが、また困ったものである。浜崎とか南村なんて連中は、批評すればいいと思っている。長嶋が本塁打をうってこっちがいい気持になってるところを、聞えてくるのは、いまの投手の球がいけなかったという批評である。
 彼等が野球はもうあきあきするほど見ていて、目前の変化がさして珍しいものでないことはよくわかる。解説も御苦労様だ。しかし折角お客がよろこんでるところへ、水をぶっかけるようなことを言って、よろこんでるのは、どういうわけだ。
 そこへ行くと中沢とか小西とか苦労人は違う、お客といっしょに野球を楽しんでいるように、少くとも、おもてむきはそう見える。これが同時解説の秘訣じゃないのか。
――と憤憑やる方ない思いのうちに、文学の方にも似たようなことがあるのに気がついた。(略) 」

近年の長嶋さんの振舞いに対する反感や批判によって、選手時代の長嶋さんのプレイが邪念あるもののように受けとられることがあるとしたら、それは間違いであり、グラウンドでの彼の動きは何よりもゲーム展開と自分の野球観とそれに基づいて湧きあがる意欲によって決断されていたというように私には思える。だから、敢行されたホームスチールもすべて支持するし、球場でスリル満点のホームスチールをまた見てみたいとも思う。ちなみに、58年8月20日にも長嶋選手はホームスチールを試みている。残念ながらタッチの差で失敗に終わっているが、このとき打席に立っていたのは藤尾捕手だった。

2013.06.26 Wed l スポーツ l コメント (2) トラックバック (0) l top
 1958年 ゴールデン・ボーイ 鮮烈デビュー
去る6月3日にベースボール・マガジン社からムック本『月刊 長嶋茂雄』が創刊された。1号は、国鉄スワローズの金田正一投手に4連続三振を奪われてプロデビューしたルーキー・イヤーを取り上げている。サブタイトルは「1958年 ゴールデン・ボーイ 鮮烈デビュー」。今後の刊行は、月イチで12号までつづくそうだが、5月半ばにちょっと薄手ながら(その分価格も安い)0号も発行されているので、全13巻になるようだ。0号、1号ともに私は購入したのだが、どちらも写真がすばらしいと思った。スピード感に充ちあふれ、しかも一挙手一投足の動きが空間にくっきり鮮やかだった長嶋選手のプレイの特性がよくとらえられていて、その現役時代に『週刊ベースボール』を見たことがなく初見のものばかりだったせいか、ほとんど陶然としてしまった。白黒の写真の各ショットが、迫力があると同時にえも言われずチャーミングである。キャプションや記事本文も多くは当時のものを忠実に写しとっているのだろう、長嶋選手のプレイの個性がかなり正確に叙述されているように思う。

『週刊ベースボール』は長嶋デビューの58年に創刊されたそうだが、それまで月刊誌『ベースボールマガジン』に掲載された分も合わせてベースボール・マガジン社には立教大学以後の長嶋選手の活躍の記録がすべて保存されていたのだろう。今回のムック刊行もその蓄積の賜物なのだろう。映像のほうは残念ながら残っているフィルムが少ないようで、日テレにしても毎度毎度デビュー戦の金田との対決シーンや天覧ホームランなど同じ場面を繰り返し垂れ流すばかり。私たち視聴者はもうとうから見飽きているというのに。

一塁踏み忘れ
  前代未聞の「ベース踏み忘れ」。 9月19日の広島戦(後楽園)。低い痛烈な打球は遊撃手の頭上を超えて外野を転々とするかのような当たりだった。あわよくば三塁打にしようと無我夢中で走っていたために、ベースを踏んだかどうか長嶋選手自身は覚えていなかったという。広島側からのアピールによって、哀れ、せっかくの本塁打は投手ゴロに。この失敗がなければ、新人にして3割30本30盗塁のトリプルスリーの記録が成ったのだが。

『月刊 長嶋茂雄』の刊行は5月の国民栄誉賞授賞騒ぎに便乗したものかと最初は思ったのだが、中身の充実度をみると、何かのきっかけさえあればいつでも出せるように、相当前から準備を整えてきていたのではないだろうか。とにかく見て感嘆し、なかなか余韻が消え去らないこともありたまにはこういうブログ記事も書いてみようかと思い立ったしだいである。

私が、長嶋選手のプレイを近所の家のテレビで初めて見たのは、彼の巨人入団3、4年目ころだったかと思う。『月刊 長嶋茂雄』1号で「時代の証言者」として本屋敷錦吾氏(立教時代のチームメイト。長嶋、杉浦忠投手とともに「立教三羽烏」と称された)が、長嶋が巨人に入団したことは、長嶋にとってもプロ野球界にとっても良い選択だったと思うと述べたあと、「やっぱり、川上さんの人気と、長嶋の人気では“明るさ”が違うんです。玄人が川上さんのバッティングを見て「うまいなあ」というのと、野球を知らない人でも長嶋の派手な動きを見て「すごい!」と思うのとでは、全然、違うでしょう。プロ野球自体の人気、認知度を高めましたからね。ホント、大したヤツやと、あらためて思いますよ。」と語っているのだが、私の場合はもう完全に、本屋敷氏の言う「野球を知らない人」が、偶然「長嶋の派手な動きを見て「すごい!」と思」った人間(子どもだったが)の一人である。といっても九州の奥の片田舎住まい、毎日テレビでプロ野球中継を見ていられる環境ではなかったので、その後長嶋選手のプレイを見たのは合計しても150~200ゲームくらいではなかっただろうか。それでも初めて見たときからずっと(おそらく今の今まで)、そのプレイは、心を晴れやかにしてくれるもの、無上に楽しくて面白いもの、無垢なもの、美しいものの象徴のごとくにして心のなかに棲みついてしまったことは疑いえない事実だったように思う。だから、本当のことをいうと、長嶋のプレイについてよく言われる(本屋敷氏もそう言っている)「派手」という形容はちょっとミもフタもない気がして違和感があり、「華麗」「輝かしい」のほうがピッタリしていると感じるのだが、まぁ分かりやすいし、たった2文字で言いやすいということもあるので、それでもいいことにしよう。

 「大きなストライドで飛ぶように走る」長嶋の走塁
あるとき、真夏のナイターだったと思うが、長嶋選手が攻守に大活躍してそのゲームは終わった。テレビは中継終了の前に、しばし満天の星空を映していたが、それを眺めていると、長嶋選手がゲームを終えて天に帰っていく幻影を見たような気がした。その印象はいまも心の奥にそのまま残っているのだが、当時多くの子どもが同じような印象をもっていたのではないだろうか。いや、子どもだけではなかっただろう。むしろ、長嶋選手より一廻り、二廻り、三廻り上の当時のおじさんたちこそ、よりつよくそのような印象をもったのではないかという気もする。別にこちらが長嶋選手のことを話さなくても、「長嶋」という単語はどこにいてもある調子をもって日常的に発せられ聞かれたのである。ではなぜ長嶋選手がそのように強烈なイメージを人にいだかせたかというと、攻守走のうちのいずれもが傑出してすばらしかったからということがひとまず言えるだろう。まず長嶋選手のプレイにはもの凄いスピード感があった。高い打撃技術を持った強打者である長嶋選手は当然のことながら一塁へ、また二塁、三塁へとグラウンドを走り回る機会が多い。塁間を大きな歩幅でビュンビュン疾走していた姿が今も記憶に鮮やかなのである。ルーキー時代のオープン戦で対戦した南海の三塁手・蔭山和夫選手は、「月刊 長嶋茂雄」1号をみると次のように語っている。

「長嶋の打球はスピードがあります。スイングは大振りですが、インパクトの時に集中力が加わるので、猛烈(な速さ)になる。大きなストライドで飛ぶように走る姿も目に入ります。捕球して一塁を見て、一生懸命走っているのを見ると、こちらも思わず肩に力が入ります」

脚力は、大学時代から折り紙付きだったようで、立大野球部で1学年下だった片岡宏雄氏も著書で下記のエピソードを紹介している。

「 …長嶋さん、杉浦さん、本屋敷さんらが最上級生になってからの立教は、無敵といっていいほど強かった。長嶋さんのリーグ戦通算8本塁打の新記録、杉浦さんの対早稲田戦完全試合など、輝かしい記録がリーグ戦春秋連続優勝をいっそう価値のあるものにした。
 しかしひと口に春秋連続優勝といっても、そう簡単に達成できるものではない。長嶋さんたちの身体能力がずば抜けていたからできたのだ。
 それを物語るエピソードがあるので、紹介したいと思う。
 当時の立教大体育祭の名物は、各部対抗のスウェーデン競走だった。第一走者が100メートル、第二走者が200メートル、第三走者が300メートル、アンカーが400メートルを走るリレー競走である。
 野球部の代表ランナーは、第一走者が本屋敷さん、第二走者が二塁を守っていた高橋孝夫さん、第三走者が長嶋さんで、アンカーが杉浦さんというそうそうたるメンバー。
 当時の立教大体育会はどこの部もトップレベルだった。野球部はもちろん、アメリカンフットボール部、バスケット部、陸上部など……。その腕自慢、いや足自慢たちが部のプライドをかけて戦う。
 とはいえ、やはり例年優勝するのは陸上部だ。走ることのスペシャリストがそろっているのだから、勝ってあたりまえである。
 しかし、この年に限っては別だった。野球部の豪華カルテットが陸上部を圧倒したのだ。
 長嶋さんは手のひらを開いて歯を食いしばる、プロ現役時代そのままのスタイルで陸上部員を追い抜き、長嶋さんからバトンを受けたアンカーの杉浦さんが、堂々1位でゴールを切ってしまった。
 得意満面、大喜びの野球部員とは逆に、気の毒なのは陸上部員だ。陸上部員は全員頭を丸刈りにするはめになった。
 後で聞いた話だが陸上部の監督が、
「長嶋が陸上をやっていたら、間違いなくオリンピックの選手になれるだろう。それほどの運動能力をもっている」
と話したらしい。」(片岡宏雄著「スカウト物語」健康ジャーナル社 2002年)

「手のひらを開いて歯を食いしばる」走り方は、確かにプロ野球での長嶋選手の姿そのものである。ただ、リレーでバトンをもちながら「手のひらを開いて」走るのでは、バトンを落っことさないかちょっと心配にはなる(笑)。オリンピックといえば、プロ入団後の長嶋の走りを見て、陸上連盟のあるコーチが「長嶋を預けてくれれば、三段跳びか走り幅跳びで金メダルを取らせてみせる」と言ったそうである。これは当時世間にかなり広く知られていた話なのだが、いつだったか、長嶋さん自身がこのコーチの名について「織田幹雄さん」だったと述べているのを何かで読んだことがある。長嶋さんが病に倒れながらもアテネ五輪出場に執拗にこだわったのは、立教時代からいだいていた大リーグ(国際舞台)への憧れももちろんだが、脚力に関する若いころの経験・逸話もオリンピックと結びついた忘れがたい記憶として影響していたのかも知れない。

ルーキーの年の西鉄ライオンズとの日本シリーズで、敗色濃厚な9回長嶋選手は稲尾投手からランニング・ホームランを打った。走りに走ってホームで強烈なスライディングをする映像が残っているので、見た人もいるかと思うが、当時の長嶋選手の脚力は、上述のように陸上の専門家からもピカ一の折り紙がつけられるほどのものだったのだ。それやこれやのさまざまな理由で、私たちが当時釘付けになるほどに彼のプレイに惹かれても不思議はなかったと言えるだろう。
2013.06.24 Mon l スポーツ l コメント (0) トラックバック (0) l top
昨日(5日)、テレビでニュースを見ていたら、安倍晋三首相が東京ドームのグラウンドでユニフォームを着て審判の役目をしていた。背番号は96だった。今回の国民栄誉賞授与式にこの番号を付けるについては、前もって憲法改正の要件を定めた96条改定の意欲を世間にアピールするためではないかという憶測を呼んでいた。安倍氏本人がそれを知らないはずはないのだから、受賞者である長嶋・松井両氏に敬意と配慮を示す意志があるのなら、そんなものを付けて球場に現れることはできなかったはずだ。二人に対してのみならず東京ドームにつめかけたファンに対しても非礼である。本人は後で「第96代の総理大臣だから96番をつけた」と述べていたようだが、そもそも球界では審判に背番号はあたえられていない。そういうことを許す巨人も巨人である。

それにしても安倍という人はつくづく野球場に似合わない人だ。球場でこの人ひとり完全に浮いていた。その上、挨拶の言葉もヘンだ。観客に向かって「(二人は)文句なしの国民栄誉賞、そう思いませんか?」だって。自分(たち)で決めたんだろうに、そんなことをファンに訊いてどうする。しかも、世の中の景気がどうのこうのと野球とはまるで関係ないことや自分はアンチ巨人だとか誰一人知りたいとも思っていないことをペラペラしゃべっていた。今のところ世間の支持率が高いことで有頂天になってそういう余計なことを言うのだろう。聴いていて不愉快この上ない。許しがたいことに授与式後には、「「国民栄誉賞は第4の矢」とも述べたらしい。公明党でさえ「背番号9(9条)でなくて良かったが、国民みんなが祝う国民栄誉賞に関係する行事で、政治的な意図と受け取られかねないことをするのはいかがなものか」と述べている。そうそういつまでもこの人に都合のいい状況がつづきはしないとは思うが、問題は暗転の時期がいつどのような形でやって来るかということだろう。

一年ほど前だったか、安岡章太郎の「野球のごとく」(1960年)という随筆を読んでいたら、安倍首相の祖父である岸信介のことが下記のように出ていた。

「 渡米した岸首相が、あちらで「自分はスポーツ新聞以外に新聞を読まない」と放言して、こちらの新聞でたたかれたことがあった。/ 現職の首相が公式の旅行先で言うこととして、不用意、不謹慎をきわめた言葉にちがいない。それに新聞の政治面がツマらないのは、そういう岸氏自身にも多いに責任のあることだから、なおさら不都合な態度だといえよう。/ しかし岸氏のあの言葉は、皮肉でも冗談でもなく、腹の底をもっとも正直に打ちあけたものにちがいない。岸氏にとって、くつろいだ気持でページを開けられるのは、自分の名前の出てこないスポーツ紙だけにちがいないからだ。いってみれば、それほど不断の岸氏は普通の新聞を怖れ、自分の不評判を気に病んでいることを告白したようなものだ。/ けれども、それはそれとして、読み物としてスポーツ紙が大層おもしろいことは、たしかである。 」(/は改行箇所)

岸首相の渡米というのは、安保改定を前にした1960年1月の渡米を指しているのだろう。当時安保反対闘争に対して、岸が「国会周辺は騒がしくとも、後楽園球場はいつも通りである。私には「声なき声」が聞こえる」と述べたのは有名だが、米国でスポーツ新聞しか読まないなどの発言をしたとはこの随筆を読んで初めて知った。そういえば、この人は野球好きだったのか、1958年の巨人対国鉄スワローズの開幕戦(巨人の長嶋茂雄選手がプロデビューして金田正一投手に4連続三振を喫したゲーム)や同年の巨人対西鉄ライオンズの日本シリーズ第一戦を観戦している姿が映像に残っている(私は子どものときから長嶋選手のプレイが好きだったせいで今も彼の現役時代のビデオテープをいくつか持っているのだ)。もし「不断の岸氏は普通の新聞を怖れ、自分の不評判を気に病んでいることを告白したようなものだ。」という岸首相に対する安岡章太郎の見方が正しいとすれば、現状の安倍首相も本来なら岸と同等かあるいはそれ以上に「不評判を気に病」む状態であってよいはずではないかと思う。憲法に対して最も忠実であるべき首相の地位にいながら、改憲のハードルを下げるために手続きを変えようとシャーシャーとしていることをはじめとして、この人の政治家、首相としての悪質さ、卑劣さはきわだっている。私たちもああいう人があんなにも好き勝手な行動をとるのをいつまでもただ見ていてはいけない。

追記
フジテレビの朝のワイドショーやスポニチの記事によると、始球式では前もってバッターである長嶋さんに、審判役の首相にバットやボールが当たって怪我をさせると困るので「空振りしてください」と頼んでいたという。長嶋さんも「渋々了承したという」のだが、本番では勝手に打ちにいったのだという。それで捕球した原監督があんなに慌てふためいた様子を見せたのだそうだが、さすがは長嶋…かもしれない。
2013.05.06 Mon l スポーツ l コメント (1) トラックバック (0) l top
   

前駐米大使(2001~2008年)だった加藤良三氏が2008年にプロ野球コミッショナーに就任していたことを、今回のセ・リーグ開幕延期問題で初めて知った。プロ野球は球場に通うことも、テレビ中継を観ることも、スポーツ紙を読むことも、ここ7、8年ほとんどやっていないので、各球団の監督・コーチ、ベテラン選手の顔はさすがに判るものの、若い選手や人事移動のことなどにはすっかり疎くなってしまっている。

プロ野球界では巨人の人気が昔に比較すると見るかげもないほど凋落しているにもかかわらず(『菊とバット』などの著者であるロバート・ホワイティング氏によると、昔、南海ホークスや阪神タイガースに選手・指導者として在籍したドン・ブレイザーは「後楽園球場のアルバイト清掃員にユニフォームを着せて夜中の2時に試合を開催しても後楽園は満員になるだろう。巨人とはそういう球団だ。」と語ったという。これはあくまで比喩(皮肉も大分入っているかも。)であり、いくら何でも真夜中のゲームが満員になるとは思わないが、ON全盛時代の巨人がちょっと想像を超えた人気球団だったのは事実であった。)、相変わらず読売ジャイアンツの渡邉恒雄会長が力(顔?)でセ・リーグ各球団のオーナーやコミッショナーまで押さえ込んでいるらしいのには呆れるのを通り越してなんだか感心してしまった。

読売新聞創設者の正力松太郎以来、原発推進キャンペーンに邁進してきた読売新聞だが、今回のような未曾有の原発事故が起きてもナベツネ氏の態度はどこ吹く風、そういう歴史的経緯など眼中にないように見える。ああまで予定通りの開幕に拘るのは、前売り券の払い戻しなどによる経済的損失が惜しいのだと巷間言われているが、このような事態下でそういうしみったれた発想だけはいくらなんでもしないのではないかという気が最初は漠然とながらしていたのだが、でも案外これが真相なのかも知れない。

開幕を延長する必要はないという理由について、ナベツネ氏自身は下記のように述べている。

「開幕戦を延期だとかいう俗説もあったが、戦争で負けてわずか3カ月で選手や監督が野球をしようと立ち上がった。(被災地が)あの時は全国だったが、今度は日本全国じゃない。東京ドームは停電にならない。」

ナベツネ氏は1926年生まれなので敗戦時19歳のはずだが、それ以前も以後も野球をやった経験はなく、プロ野球についても1980年代後半に読売の副社長(?)とかに就任するまで、ほとんど関心も知識もなかったようである。これはスポーツライターの玉木正之氏がどこかで書いていたことだが、前述のロバート・ホワイティング氏は60年代に留学生として来日したアメリカ人で、一時期縁があってナベツネ氏に英語に関する講義(家庭教師?)をしたことがあるそうである。小さい頃から大リーグを観て育ち、日本でもプロ野球のファン、阪神タイガースのファンになったというホワイティング氏は当然野球の話もしたそうだが、ナベツネ氏にはほとんど通じなかったというようなことであった。そうであったろうということは、現在進行中の大災害下におけるプロ野球の開幕日程をめぐる問題を、1945年、敗戦3ヵ月後の、日本プロ野球の復活にむけた野球人たちの、苦労は多かったにしろ解放感と希望を孕んだひたむき・一途な動きと同一視して語っていることにもよく表われているように思う。この二つは決して並べて語れる問題ではないはずで、呆れてしまった。

私も昔、ペナントレースや日本シリーズの開幕を指折り数え、胸をわくわくさせて待った経験が数多くあるので、予定通りに開幕してほしいという野球人やファンの気持ちは十分理解できる。だが、今回は肝心要の選手会が「大震災の被害が拡大している今はまだ野球をやる時ではない」というもっともと思える理由を挙げて延期を切望している。選手のこの心情を無視してまで自分の意志を強引に通そうとするナベツネ氏や、「私は判断する立場にない」などと言ってコミッショナーとしての役割を果たそうとしない加藤氏の態度のほうが問題だろう。背広組は今回もまた大きな判断ミスをしたように思う。


   

脱線気味になってしまったが、今回書いておこうと思ったのは、憲法や集団的自衛権に関して加藤良三氏が外務官僚時代に発言した内容に関連してのことである。

この記事を読んでくださっている方のなかには、2003年イラクへの自衛隊派遣に際して、当時の小泉純一郎首相が派遣の正当性を主張するのに、記者団を前に「憲法をよく読んでいただきたい。」と言い、得々として日本国憲法の前文の一部、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」という箇所を読み上げたことを覚えている人も多いのではないかと思う。この出来事について、辺見庸氏は怒りの籠もった下記の文章を書いた。(下線による強調はすべて引用者による。)

「 首相は記者会見中に憲法前文を記したらしいメモをやおら取りだし「憲法をよく読んでいただきたい。憲法の前文、全部の文章ではありません。最初に述べられた、前の文、前文の一部を再度読み上げます」と前置きして、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と、病んだ羊たちのように弱々しく、飼い主にどこまでも従順な記者団を前に、さも得意気に朗読したのである。この国最悪の憲法違反者が国民に憲法をよく読めと説諭する。靖国をこよなく愛する好戦的デマゴーグがわれわれに憲法をよく読めという。戦後史上もっとも屈辱的な時ではあった。
 ところで、首相が読み上げたのは、憲法前文中の第二段落の最後のセンテンスからであった。奇妙ではないか。憲法前文中、もっとも重要な前段の文章二十行四百数十字を故意に省いてしまったのだから。肯綮に中るのでなく、肯綮をわざと外したのだ。この点に関しては首相はじつに周到だったのである。小泉が作為的に省略した個所には①政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する②そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する③日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した――といった文章がある。首相はすなわち、国民主権、人権尊重、平和主義という憲法の三大ポイントのすべてを捨象し、一部のみを牽強付会していわゆる、「国の理念」「国家としての意思」「日本国民の精神」を捏造し、これらを肯んじない人々を威嚇しつつ、自衛隊派兵を正当化したのである。首相およびそのグループによる、これはまことに計画的な犯行以外のなにものでもない。」(『抵抗論 国家からの自由へ』(講談社文庫2005年))

「靖国をこよなく愛する好戦的デマゴーグがわれわれに憲法をよく読めという。戦後史上もっとも屈辱的な時ではあった。」と辺見氏は書いているが、私もこの記者会見を見て、この夜はいつまでも寝付けなかった。首相発言に辺見氏のいうとおり屈辱を感じ、暗澹とし、悔しかったのだ。でも、もし記者のなかから「憲法前文は首相のいう意味とは全然別のことを言っているのではないか」とか、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない、というのなら、米英の攻撃はどうなのか、イラクという国を無視しているのではないか」など、当たり前の疑問や反論がいくらかでも出ていたならば、こちらの心境もずいぶん違っていただろうと思うが、その場はシーンとしていた。それだけに辺見氏のこの文章は当時身に沁みたのだった。


   

辺見氏はまた首相のこの行為に対し「首相およびそのグループによる、これはまことに計画的な犯行以外のなにものでもない。」と述べているが、この数年後、私はたまたま河辺一郎氏の『日本外交と外務省』(高文研2002年)という本を読み、1992年、大臣官房審議官だった加藤良三氏が上記の小泉発言と実によく似た発言をしていたことを知った。小泉氏は憲法前文を用いてイラクへの自衛隊派遣を正当化しようと試みたわけだが、その11年も前に、加藤氏はやはり憲法前文の一部を引用して集団的自衛権行使の正当化を図ろうとする発言をしていたのであった。『日本外交と外務省』から該当部分を引用する。

「90年代は憲法が大きく揺らいだ時期だった。そして、ソ連が崩壊した後でこの動きを推進したのは、いわゆる脅威論ではなく「国際貢献」論議だった。つまり、脅威へのやむを得ぬ対応としてではなく、積極的に憲法の規定を乗り越える議論として、外交政策が論じられたのである。九条に関する議論は防衛問題に集中しがちだが、そもそも防衛政策は外交政策の上に策定される。防衛を方向づけているのは外交にほかならず、外交政策を論じないで防衛政策を問題にしても議論が歪むだけだが、このことが明確に示されたのが90年代だった。「国際貢献」に積極的だったのも外務官僚で、直接に問題を担当する防衛官僚はむしろ消極的だった。九条を変えることに関して積極的な動きを展開してきたのも外務官僚だった。
 この間、外務官僚の口からはしばしば改憲にもつながる言葉が出ている。倒えば加藤良三・現駐米大使は、大臣官房審議官を務めていた1992年に読売新聞社の憲法問題調査会において「現役の官僚としての限界がありまして、なかなか歯切れのよい説明をなし得るかどうか、自信がありません」と前置きしながらも、「集団的自衛権自体は国際的正義および人類の普遍的価値を各国がよりよく確保し、享受できるための手段として有用かつ前向きの概念であると評価されるべきと思います。いずれにせよ、憲法の改正の要否は別にしまして、憲法体制のもとで日本は重要な外交案件について、適時、的確な対応・決定を行っていく体制を確保していく必要があるし、それは現実の急務であると思います」などと述べている(読売新聞社調査研究本部編『読売新聞憲法問題調査会リポート 憲法を考える 国際協調時代と憲法第九条』 193ページ及び215ページ、読売新聞社、1993年3月2日)。
 官僚が「憲法の改正の要否」に踏み込むことができないのは当然であり、「憲法体制のもとで」と述べていることは大きな意味を持たない。重要なのは、憲法上は行使できないとされる集団的自衛権を積極的に評価した上で、「的確な対応・決定を行っていく体制」の確保を求めていることである。しかも集団的自衛権への支持は「国際的正義および人類の普遍的価値」の文脈、つまり憲法前文に通じる理屈から語られており、前文から九条に挑戦するという、「国際貢献」の理屈がそのまま展開されている。そしてこのような中で発生したのが、一連の外務省不祥事だった。」(『日本外交と外務省』)

1992年といえば阪神・淡路大震災とオウム事件発生の3年前、バブル崩壊の後遺症もあったのか、奇妙な空虚さが日本社会を覆っているかのような感じの一時期だった。周辺事態法などが成立する7年も前である。そういう時に加藤氏は早くも、憲法前文の引用でイラク攻撃を正当化してみせて私たちを驚かせた小泉発言の先取りをする形で、こちらは憲法の文言を織り込みながら集団的自衛権行使を肯定するという言動をしていたのだった。小泉氏の自衛隊派遣に関する発言は、2003年当時加藤氏が駐米大使だったことを考えれば、加藤氏こそ、辺見氏の言う「首相およびそのグループによる、これはまことに計画的な犯行以外のなにものでもない。」という、その「グループ」の当事者だった可能性は高いように思う。

それにしても「集団的自衛権自体は国際的正義および人類の普遍的価値を各国がよりよく確保し、享受できるための手段として有用かつ前向きの概念であると評価されるべきと思います。」という発言内容は日本が米国と結んで何をやるのかと考えると、怖いし、薄気味悪い。特に、集団的自衛権を「人類の普遍的価値を各国がよりよく確保し、享受できるための手段として有用」などとする表現は私には理解を超えている。

こういう発言が読売新聞の憲法問題調査会においてなされたことや、前述したように今回の開幕延期問題に関して「私は判断する立場にはない」などとコミッショナーの地位にある者としては情けないかぎりの発言をしたことを考え合わせると、プロ野球コミッショナー就任はナベツネ氏の一存で決定されたのかも知れないと思ったりもする。 
2011.03.30 Wed l スポーツ l コメント (0) トラックバック (0) l top
横浜ベイスターズが身売りになるかも知れない、新潟に行く可能性も? というニュースが流れている。本当にどなたかの言葉ではないが、「いつまでも あると思うな プロ野球」という気持ちがひしひしとしてくる昨今の野球界である。今、横浜ベイスターズの筆頭株主はTBSだとか。いつの間にやらという感じだが、考えてみると、私自身この3、4年どこの球場にも行っていない。テレビ中継もほとんど見ない。どうもそのような気分になれなかったのだが、ただそう多くはないが(せいぜい二十数回)、横浜球場が一番数多く通った球場でもあり、これは聞いただけで寂しくなる話題であった。熱心なベイスターズファンはどんな心境だろう。さぞ気が気でないことだろう。

天秤打法の近藤和、権藤・権藤・雨・権藤の権藤博投手(注)明治大学からバッテリ-としてそろって入団し、プロでも大活躍した秋山登投手ー土井淳捕手の時代をはるかに経て(ボイヤー、シピンという外国人選手もいたなぁ。)、田代富雄選手や斉藤明夫投手、遠藤一彦投手などが主力として活躍したころの関根潤三監督、近藤貞雄監督の時代。私としてはあの頃の横浜が一番好きだったし、今思い出しても心地よくなつかしい。草野進(蓮實重彦氏のこと。この人は一癖も二癖もある物書きのように感じられ、私も決して好みというわけではない。ただ、「世紀末のプロ野球」(角川文庫)は日本プロ野球に関する文章のなかで3本の指に入る傑作だと思っている。再読、再々読…、読んだ回数はどうも軽く十回は超えていそうだ。長嶋茂雄選手のプレイが好きな私にはなんといっても長嶋評がすばらしく思える。また、(突然話題が変わって恐縮だが)この人が称讃しているというのでその気になって観た映画で幻滅したことは全然ないので、野球にしろ、映画にしろ、鑑賞力における才能・力量については確かなのではなかろうか。)がよく言っていたことだが、この二人の監督は横浜という都会の土地柄、チームカラーによく合った指揮ぶり(よくいえば洗練されている。反面、粘りに欠ける。諦めがよすぎる)を見せてくれたように思う。

「横浜ベイスターズ」はその前身を「大洋ホエールズ」といった。大洋ホエールズは、1960年(昭和35年)、西鉄ライオンズから招いた知将・三原脩の下、最下位から一躍優勝するという離れ業をやってのけた。これはプロ野球史に燦然と輝く伝説の一つだと思うが、今回この売却かも? というニュースを聞いて私が一番最初に思い浮かべたのは、小学生のころの弟が何回も、そのたびに感に耐えぬかのように口にしていた言葉であった。

ある時期、大洋の営業成績が振るわず、ひどい赤字経営であるとか、身売りになるかも知れない、というような話題がしきりにマスコミに出たことがあった。その時、大洋の社長だか会長だかもう忘れてしまったが、そのどちらかが、弟によると、「球団の赤字? そんなもの、鯨を一頭よけいに獲ればすむことだ。なんの問題もない。」と言ったらしい。本当にそのとおり言ったのかどうかは分からないが、弟はそう聞いたのだという。そして、鯨一頭で万事解決! なんと気宇壮大な球団だろう!と、シンから感心し、その話がすっかり気に入ってしまったらしい。その後、何度、弟の口から「大洋ホエールズはすごい!鯨一頭よけいに獲ればそれで球団はつづくんだ。」という言葉が出るのを聞いたか知れない。その口調はいつも断固としていて、信頼と尊敬の念にあふれていた。

ただ、私もそうだが、弟も特にどこかの球団のファンということではないようだった。弟は堀内恒夫投手のファンだったのだ。快速球とボールを投げた後帽子が横っちょに曲がるほどの力投ぶりが、弟にはひどく格好よかったらしい。中学時代野球部に入り投手をやるようになったのは堀内の影響が大いにあったように思う。だからといってそう巨人、巨人というわけではなかったのは私も同じで、どうやら姉弟ともに、選手に惹かれてその所属球団もついでに(?)応援するという感じだったのだが(それがともに巨人だったのは単なる偶然!(笑))、でもその弟が今はもういないので、このようななつかしい話もできないのがとても寂しい。


(注)「権藤・権藤・雨・権藤」と登板過多をファンに同情されたり感嘆されたりした権藤博投手は中日ドラゴンズの選手でしたね。錯覚してしまいました。お詫びして訂正します。
2010.10.05 Tue l スポーツ l コメント (0) トラックバック (0) l top
 「チェッ、勝っちゃったのか。
  負ければよかったのに。
  夜中の三時過ぎに奇声で目が覚めたよ。
  うざいお祭り騒ぎが続くかと思うとウンザリ。
  サッカーなんて世の中からなくなればいいのに。」

ブログ「liber studiorum」の上の文章がちょっとした議論(?)の種になったようなのだが、私はこのエントリー、読んだ瞬間から好きだったなぁ。ブログ主のa-geminiさんの文章には、普段、読んでいて一箇所「わっ」と笑い出したくなるところがよくあるのだけど、この場合は暑いところに(実際ひどく暑かったのだ)、よく冷えた水を振る舞われてちょっと生き返ったような気持ちがした。以前似たようなことを感じたこともあり、ずばり言いきっている潔さが心地よかったのだろう。

最近は大分洗練されて様子が変わってきているようだけど、今から2、3回前のワールド杯のころ、サッカー関係者やサポーターの一部(大部?)には態度がいかにも「我がもの顔」って感じの雰囲気があって、あれはイヤだった。サッカーを観ること自体はキライじゃないのだけど、あのころは、勝つためには日本の試合日に学校を全国的に休みにしたらいいのだが、なんてことを真顔で言い出したOB 評論家(セルジオ越後氏)もいたなぁ。

これは思ったままの勝手な感想なのだが……。サッカーに興味のない者には自分の体調管理のほうが大事なのは当たり前なんだから、夜中に起こされてウンザリ半分、八つ当たり半分「負ければよかったのに」くらいのことは、実際にはだれでも胸のうちで思ったり、口に出したりしていることだ。「サッカーなんて世の中からなくなればいいのに」なんて言うのは、ゼーッタイ、完璧に100%、世の中からなくならないことを承知の上で(むしろ承知しているからこそ)言っていることなのだから、これは冗談にしかならないでしょう。a-geminiさんが述べているとおりだれかを侮辱する発言ではないので、傷つく人も皆無。サッカーファンが不快になるということもはたしてあるかなぁ。ある物事のファンということはそれだけで楽しみをもっているということなんだから、それを他人にそうそういたわってもらう必要はないはずだ。昔、私は熱狂的にプロ野球を観るのが好きで、物好き呼ばわりされることもよくあったが、それで特に不快になったり、傷ついたりした記憶はないなぁ。少なくとも覚えてはいない。そうすると上の発言は、私なんぞのような「W杯ちょっと辟易派」の溜飲が幾分下がるという効果をもつだけ。それにタブーをつくるのは何事でもよくないから、こういう発言が出るのは、ただでさえなにかと同調圧力のつよい日本社会には、風通しをよくする意味で世間的にもいいことではないか。

2002年のワールド杯のとき、ナンシー関は、これに絡む世の中の騒ぎっぷり、調子の乗り方に対して、たしか「気味悪いッス、怖いッス」と書いていた。文章を読むかぎり、本心から不愉快そうだった(この点、a-geminiさんとはずいぶん印象がちがう)。あの年のW杯開催はナンシー関が急死する直前だったように記憶するが、サッカーに関するストレスも多少影響したんじゃあないだろうか。まぁ、これはナンシー関の死を惜しむ者の一種の負け惜しみ、冗談のような感想だけど。
2010.06.30 Wed l スポーツ l コメント (0) トラックバック (0) l top
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