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産経新聞の記事「死刑執行 法相は職責から逃げるな」は、死刑執行が求められている理由として、この前のエントリーで取り上げた説の他に、「最後の執行以降に16人の死刑が確定しており、死刑囚は過去最多の120人に達している」ことをも挙げている。この言い方にはどうも確定死刑囚が100人を超えて120人にまで達していることに対するある種の焦燥感すら漂っているように感じるのだが、これは勘繰り過ぎだろうか。

たしかに、確定死刑囚120人という数は驚くべく多い。「死刑執行・判決推移」(以降に引用する死刑判決および死刑執行に関する数字はすべてこの統計記録に拠る)を参照すると分かるのだが、これは実に戦後最多の死刑確定者数なのだ(ただし、敗戦直後の4年間(1945年~1948年)の死刑確定者数は不明)。そもそも年度末における死刑確定者総数が100人を超えたことは、2007年に107人を記録するまで過去60余年間一度もなかった。

敗戦から1950年代末までの十数年間、日本の年間死刑確定者数は20人台を中心に毎年二桁を数えていた。当時は、死刑執行も判決数とほぼ同数回行なわれており、年間30人もの人が処刑されたという記録も数回みられる。そのため、全国の拘置所または刑務所に収容されている確定死刑囚の総数は60人台を中心に50人~80人という状態で一定していた。しかし、60年代に入ると、死刑判決は徐々に減少し始める。64年は9人、65年は7人というように、年間の死刑確定者数が一桁台におさまる年も現れはじめた。

1970年代に入ると、その傾向はいよいよ顕著となり、新確定者数は年間2人とか3人、時には0人、1人など、一桁の前半を記録する年が多くなる。その結果、1971年から2003年までの33年間の死刑確定者総数は139人、年平均に換算すると、4.2人である。直前の1961年からの10年間、確定死刑囚の総数は131人、年平均13.1人だったことを考えれば、まさに雲泥の差であり、これは裁判所の姿勢が死刑判決に対して抑制的な方向に変化していることを示している。この間の特筆すべき出来事としては、何といっても80年代、免田栄さんを筆頭に4人もの確定死刑囚の人たちに次々と再審無罪判決が言い渡されたことが挙げられるが、その他、1990~92年の3年間、死刑執行が一度もなされなかったことも今なお記憶に新しい。1990年は国連で死刑廃止条約が採択された年であり、3年もの間死刑執行が皆無だったのはおそらくそのことと無関係ではなかっただろう。その前提として、4件4人の再審無罪判決の衝撃の記憶が世の中から、ひいては司法関係者の胸の裡から、消え去ってはいなかったであろうことも推測される。

一方、この間、死刑判決の対象となる殺人事件の発生件数(および事件による死亡者数)はどのような推移を辿ったかを見てみたい。こちらの統計資料によると、殺人の認知件数は70年代に入った頃から減少の一途を辿り始める。それまで年間二千件を下回ることは稀だったのに、1978年(昭和53年)に発生件数1862件を記録して以来、今日まで一度も二千件台に上昇することはなく、逆に1988年に1441件という一千件台の前半を記録して以後、昨年まで緩やかながらも確実に減少を続け、現在も最少記録を更新しつづけている。

このように殺人認知件数と死刑判決、双方の減少により、1971年~2003年までの間、確定死刑囚の総数は常時20人から50人の間を行き来している。90年代に入るとその数は40~50人であり、70、80年代に比べるとやや増加しているように感じられるが、記録をみると、その原因は、死刑執行が死刑判決以上に抑制的・減少傾向にあったせいのようである。

ところが、21世紀に入ると、死刑制度を取り巻く環境・様相は突如として一変する。2004以降、2011年現在までの8年未満の間の死刑確定者総数は118人、年平均14.8人である。2004年の確定者数15人、2005年11人、2006年20人という記録をみると、この動向は2004年に突如発生したものではなく、すでに90年代の後半から地裁、高裁においては死刑判決が激増していたということが分かる。

それにしても、71年から2003年までの33年間にわたって続いていた確定死刑判決4.2人/年から、2004年以後の8年間は、一挙に3倍強の飛躍的増大である。8年間の総計118人、年平均14.8人という数値は、このなかにオウム事件により死刑判決が確定した人々が12人も含まれていることを考慮に入れても、驚くべき数値というしかない。半世紀前の60年代の年平均13.1人をも超えている。この間もしも日本社会における殺人件数や殺人事件による死亡者数が増大していたというのなら、死刑判決の増加を容認するかどうかは別にして、そのゆえんを理解はできる。が、そんな事情は上述のとおり皆目存在しないのである。

それにもかかわらず、なぜわずか十年ほどの間にこれほどまでに死刑判決が急増してしまったのだろう。産経新聞は「刑事訴訟法は死刑確定から6カ月以内に刑を執行することを定めているので、職責を全うできないなら、最初から大臣就任の要請を受けるべきではなかった」という死刑推進派の常套句に加え、上述したように「死刑囚は過去最多の120人に達している」と述べたり、あげくのはてには、死刑判決を下した裁判員の心情を勝手に忖度して、法相が死刑執行を命じないのは「裁判員の努力に対する愚弄だ」とまで述べて(死刑判決を出した裁判員は執行を心待ちにしているとなぜ言えるのだ?)、死刑執行を煽動している。が、ジャーナリズムならば、まずは、死刑判決が、法改訂もなければ有権者に対する何らの説明もなく、このように急増した理由は何かという点に注意なり意識なりを向けてほしいものだ。死刑が例外中の例外である重大な刑罰だという認識をもっているならば、司法記者たるもの当然そのような思考をすると思われるので、この記事は端的に記者の「死刑」という刑罰についての思慮不足、認識不足の証明品ではないか。

現状では、死刑判決の激増と同時に、無期刑も激増している。20年前、10年前には有期刑に相当した犯罪が現在では無期刑に (時には死刑に) すり替えられているのだと思うが、このような恣意的判断がなぜ裁判官に許されているのだろうか。これは実は完全な違法行為ではないのだろうか。これほど重大な問題が摘発もされずに見逃され、許されるのならば、そのうち年間の死刑確定件数がかりに50件、100件、200件と増大を続けていったとしても、論理のいきつくところ、問題ないことになるのではないか? ジャーナリズムはこの現実をこそ率先して分析し、論点を法相の記者会見の場で率直にぶつけてみてはどうだろうか。記者会見の場が闊達になること請け合いである。

司法の厳罰化の原因だが、政治や社会の動きと密接に連動して進んできたことは間違いないと思う。このことは政治に鈍感な私でも7、8年前からひしひしと感じてきた。1999年の周辺事態措置法から始まって、2002年の武力攻撃事態法、自衛隊法等改正、安全保障会議設置法改正など、有事法の成立によって日本社会の右傾化は決定的に進んだ。そこに、経済格差が拡がり、若年層をはじめとした労働者の雇用や貧困の問題が深刻化した。司法の厳罰化はこのような社会環境の下で半ば必然として起こったことだと思う。どんなに過酷に扱っても誰からも文句が来ない、あるいは来てもきわめて少数とおぼしき人間や集団をより一層過酷に取り扱い、見せしめにする必要がある。そうして初めて一般社会における底辺層の不満を抑え込むことができると狡猾にも支配層は考えるのではないだろうか。気がついたらいつの間にか司法の厳罰化が進行していた、というようなことでは決してなく、ちゃんと計画的に施策として進められてきたのだろう。司法の問題だけではなく、授業料無償化の対象から朝鮮学校を除外するという政策に象徴されるように、在日朝鮮人への差別と迫害も年々あからさまに酷くなってきている。社会に起こるいろんな出来事や現象は相互に無関係ではなく、緊密に結びついていることはたしかだろう。福島第一原発事故も、その原因の一つにはもしかすると日本社会の近年のこのような荒廃も深く絡んでいるのではないだろうか。

司法は法的にも社会的にも何ら正当な根拠をもたないまま、そして有権者に対する断りもなく勝手に厳罰化を推進してきた。それなのに産経新聞のごとくその問題を一切不問に付して、「死刑囚は過去最多の120人に達している」から、法務大臣よ、執行を急げ、と叫ぶようでは、産経はもはや報道機関ではなく、権力の走狗機関になってしまっているのではないか。

法務省は「120人」という確定死刑囚の数が国連の人権委員会など国際社会の注意を惹くことを恐れるだろうから、新法相の平岡氏には今後あちらこちらから執行圧力がかかってくることだろう。産経新聞の記事のように。しかしこの状態は第一に近年の異常な厳罰化が招いた結果であることは間違いないく、これでは死刑という深刻な刑罰に対し、より一層の疑問や不審をもつのは、法相がデリケートな神経と良心をもっていればいるほど必然のことだと思う。国連・規約人権委員会は、2008年に発表した「対日審査・最終見解」において、「政府は国民に廃止が望ましいことを知らせるべきである」との意見を述べている。平岡氏には圧力に屈せず、死刑執行を拒否する、というよりむしろ、自身の法相就任を死刑廃止に繋げるのだというくらいの意気と勇気と自信をもって問題に取り組んでいただきたいと思う。
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2011.09.22 Thu l 死刑 l コメント (0) トラックバック (1) l top
   
金光翔さんは8月24日に控訴棄却された訴訟結果に対し、下記のように最高裁に上告されたとのことである。

「対佐藤優・週刊新潮の訴訟だが、最高裁に上告した。一審、二審ともこちらの訴えをまともに検討した形跡が何ら見られない判決だったが、今度こそ公正な判決が下されることを祈る。」

判決前に弁論が開かれるかどうかが鍵だと思われるが、最高裁には公正な判決のために、手間を惜しまず、ぜひとも弁論の手続きをとるようにお願いしたい。

   
野田新政権で法相に就任した平岡秀夫氏は、昨日(9月13日)記者会見を開き、取調べ可視化について「刑事司法制度全体の見直しの中で一番大きな課題は可視化だ。できるだけ早く結論を出して実行していきたい。全事件、全過程(での導入)が一つの理想」と述べ、また死刑制度については次のように言及したとのことである。

「平岡秀夫法相は13日、報道各社のインタビューで死刑制度について「執行するかしないかだけでなく、制度を国民と一緒に考えたい。国民的な問題提起をどう受け止めるかも考えたい」と制度存廃の是非も含めた国民的な議論を進めたいとの意向を示した。一方で「死刑執行を停止する判断に立つことはできない。死刑執行命令が法相の職責であることは十分承知している」との認識を示した。」 (毎日新聞【石川淳一】)

「死刑執行を停止する判断に立つことはできない。」とは微妙な発言のように感じるのだが、どうだろうか。平岡法相は、就任当日の9月2日には死刑について「大変厳しい刑。慎重な態度で臨むのは当然だ」「国際社会の廃止の流れや、必要だという国民感情を検討して考えていく。考えている間は当然判断できないと思う」(東京新聞)と述べ、執行に慎重な姿勢を見せていた。

昨年7月28日に千葉景子法相の命令で二人の死刑が執行された後、柳田稔、仙谷由人、江田五月の三法相は死刑を命じなかった。これで一年余執行がなされていないわけだが、これは私などには本当によかったと思えることである。東日本大震災勃発、いまだに収束のめどのつかない福島第一原発事故、それに加えてリビアに対し英仏米などの「NATO」は半年間にわたり2万回以上の空爆を行ったとのこと(ブログ「私の闇の奥」による)、これはリビアの人々を無慈悲に殺し、きわめて高度に整備されているというリビアのインフラを無法に破壊した典型的侵略行為だったと思う。

このように未曽有のきびしい出来事が重なり続いた間に、もしも死刑執行のニュースを聞かなければならなかったとしたらさらに陰鬱な心境になっていたように思う。新法相・平岡氏も就任会見で執行に慎重な姿勢をみせていることを知って一先ずほっとしたところだった。

ところが産経新聞は、この会見の後、早速「法相は職責から逃げるな」と新法相にプレッシャーをあたえ、執行をけしかける記事を書いていた。以下のとおりである。

「 死刑執行 法相は職責から逃げるな
 野田佳彦内閣の平岡秀夫法相は就任会見で、死刑執行について「国際社会の廃止の流れや、必要だという国民感情を検討して考えていく。考えている間は当然判断できないと思う」と語った。
 当面、執行はしないと述べたに等しい。だが、刑事訴訟法は死刑確定から6カ月以内に刑を執行することを定めており、「死刑の執行は法務大臣の命令による」と明記している。
 法相に就任してから考えるのでは遅い。職責を全うできないなら、最初から大臣就任の要請を受けるべきではなかった。
 民主党政権の法相は2年の間に千葉景子、柳田稔、仙谷由人(兼任)、江田五月の各氏に続き、平岡氏で5人目となる。この間に死刑が執行されたのは、千葉氏が法相当時の2人だけだ。
 最後の執行以降に16人の死刑が確定しており、死刑囚は過去最多の120人に達している。
(略)
 在任中に一度も執行しなかった江田氏は7月、「悩ましい状況に悩みながら勉強している最中だ。悩んでいるときに執行とはならない」と発言した。
 平岡法相の就任会見の言葉と酷似している。平岡法相もまた、死刑の執行を見送り続けるのではないかと危惧する理由だ。
 国民参加の裁判員裁判でも8件の死刑判決が言い渡され、すでに2件で確定している。
 抽選で審理に加わり、死刑判決を決断した裁判員らは、究極の判断に迷いに迷い、眠れぬ夜を過ごした苦しい日々と胸の内を、判決後の会見などで語ってきた。
 国民に重い負担を強いて、その結論に法務の最高責任者が応えられない現状は、どう説明がつくのだろうか。
 法相の勝手で死刑が執行されないことは、法や制度そのものの否定だ。裁判員の努力に対する愚弄だといわれても仕方あるまい。
 刑は粛々と執行されるべきものだ。法相はその職責から逃げてはならない。 」(2011.9.5 02:55)

ここには、近年、死刑執行に慎重な姿勢をとる法相を批判する場合の論理がすべて揃っているようである。「すべて」といっても、要は、刑事訴訟法は死刑確定から6カ月以内に刑を執行することを定めているので、その職責を遂行すべきで、それができないのなら、最初から大臣就任の要請を受けるべきではない、断るべきであった、という論理なのだが。これは数年前、ジャーナリストの江川紹子氏もたしか『サンデー毎日』でまったく同じことを述べていたと思う。裁判員制度が始まってからは、この論理に加えて、死刑を執行しないのは、苦悩しながら死刑判決を下した裁判員を侮辱するものだという主張が付随するようになった。

だがもし刑事訴訟法の定めるとおり、死刑確定から6カ月以内にすべての刑が執行されていたならば、免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件の被告人だった人々は間違いなく無実の罪で殺されていた。その他にも、死刑が確定しながら執行されないまま死ぬまで拘束されつづけた人がいる。有名なところでは帝銀事件の平沢貞通氏がそうである。そして現在も何十年と拘束されつづけている人が何人もいる。名張毒ぶどう酒事件の奥西勝氏、袴田事件の袴田巌氏、等々。これは法務省側に、死刑を確定しながら、たしかに犯人であるという自信がない、あるいは実は犯人でないことが証拠によって判明しているからであろう。また、ある死刑囚が実際に事件に関係があるとしても、事実認定に重大な誤りがあると考えられる場合もありえるだろう。刑事訴訟法に「6カ月以内」の規定があったとしても、それを産経のように杓子定規に捉えたならば、恐ろしい事態が発生するのは間違いない。江川氏は、毒ぶどう酒事件の奥西勝氏の支援をしているようだが、もし江川氏の主張のように「6カ月以内の執行」が実現されていたとしたら、奥西氏はもはやこの世の人ではなかったことは確実なのだが、それについてどう考えるのだろうか。

それから死刑を執行しない法務大臣を「職責を全うできない」人物と捉えることも誤りだと思う。さまざまな理由によりこれだけ死刑廃止が世界の潮流になっているなかで、また国内で死刑事件に関してこれだけ数々の誤判が明白になってきた歴史をもつなかで、法相が死刑制度の善し悪しについて問題意識をもたず、国民に問題提起もできないというのならば、それこそ憂うべき事態だろう。法相だけではなく、首相にだって死刑制度に疑問をもつ人物はいるだろうと思う。産経の論理ならば、そういう人物は首相になるのもよくない? それとも個々の政治家の信条はどうでもいいので、何がなんでも死刑執行が粛々と実行されることだけが重要だというのだろうか? 何のために? 誰のために? 刑事訴訟法には、確かに

「第475条 死刑の執行は、法務大臣の命令による。
2 前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない。」

と明記されているが、つづいて、

「但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。」

と記されている。また、憲法の保証する「生存権」や「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」に死刑が違反しているのではないかという古くて新しい問題もある。だから、この「6カ月」条項は、決して額面どおりに受け取ってよいものではないのだ。思うにこれは、労基法の「解雇」条項と似た面があるかも知れない。労基法には、

「第20条 使用者は、労働者を解雇しようとする場合においては、少くとも30日前にその予告をしなければならない。30日前に予告をしない使用者は、30日分以上の平均賃金を支払わなければならない。但し、天災事変その他やむを得ない事由のために事業の継続が不可能となつた場合又は労働者の責に帰すべき事由に基いて解雇する場合においては、この限りでない。
2 前項の予告の日数は、1日について平均賃金を支払つた場合においては、その日数を短縮することができる。
3 前条第2項の規定は、第1項但書の場合にこれを準用する。 」
 
とあり、これだけを読むと、使用者は、30日前に通告さえすれば、勝手気ままに労働者の解雇ができると錯覚するかもしれない。事実、90年代の半ばに、TBSの「ニュース23」で、当時は確か慶應大学教授だった労働経済学者・島田晴雄氏(現在は千葉商科大学長らしい。こちらを参照)が、

「30日前に通告さえすれば経営者は無条件に社員を解雇できるんですよ。」

という趣旨のことをさも当然だと言わんばかりに話しているのを聞いたことがある。このような法解釈を私は人の口から初めて聞いたので、びっくり仰天。当然スタジオの見解(反論)を聞きたいと思ったが、この時の島田氏はVTR出演であり、その発言の後すぐにCMに入ったので、この件はそのまま終わってしまった。今思うと、島田氏はその後の社会情勢・空気を先取りしていたのかも知れないが、実に恐るべき発言であり、私はしばらく呆然としてしまった。労働契約法16条には「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とされる。」と規定されている。また、憲法はさまざまな形で労働者の働く権利を保証している。ところが、労基法の「使用者は、労働者を解雇しようとする場合においては、少くとも30日前にその予告をしなければならない。」を読んで、島田氏のような独善的解釈をして堂々と(恥ずかし気もなく)、それを口にする人もいるのである。自分の見たいものしか見ていないと言われても仕方ないだろう。私は、島田氏の解雇に関するこの法解釈と産経の死刑に関する法解釈には共通するものがあると思う。
2011.09.14 Wed l 死刑 l コメント (0) トラックバック (0) l top
最近はそうでもないが、2003、4年頃は一日に何度かパソコンのニュース覧(「Yahoo! JAPAN」など)を見ることが多かった。ワープロに変えてパソコンを導入(最初はイヤイヤだった。でも仕事の都合上仕方なく)して2,3年、苦労の甲斐あって(?)少しは使い方を覚えた時期で、この機器がひどくもの珍しく感じられた頃だった。しかしニュース画面をみると、「検察は……容疑者に死刑を求刑」「…死刑が言い渡された」「これで死刑確定」というように、「死刑」という言葉がやたらと目についた。求刑に始まって判決となると一審から最高裁まであるのだから、時にはほとんど毎日死刑宣告報道に接しているような気がしたものだ。

大勢の被告人が出たオウム裁判が進行している時期であり、その影響があったとは思う。しかし具体例を見ると、決してオウムのせいとばかりは言えなかったので、こうまで頻々とに死刑判決が出なければならないほどに治安が悪化し、陰惨な犯罪が発生しているのかと思って記録を見てみると、まったくそんなことはなかった。日本における殺人事件の件数は20数年前から今に至るまで殆ど変動はない。否、むしろ減少傾向にある。たとえば、こちらのサイトによると2007年度の記録は、

「2/1に警察庁が去年の犯罪統計を発表したんですが、殺人の認知件数は1,199件で平成3年の1,215件を下回って戦後最低を記録しました。」

ということである。神奈川県横須賀市が発表している「犯罪発生件数の分布」における2009年度までの「▼ 図3 凶悪犯罪件数と殺人及び強盗件数(全国) 」(この図表はサイトの一番下に掲載されている)を見ても、認知された殺人件数は増加どころか年々減少傾向であることがわかる。

となると、理由を単純に考えれば、これまでは死刑にされず、無期や有期刑になっていた事件に死刑判決がくだされているということになるだろう。死刑について、「死刑執行・判決推移」というサイトを見せていただくと、70年以降、国際的な死刑制度廃止および減少の流れによる影響もあったのだろうか、日本の死刑確定数は毎年単数、それも5名以下という年が多い。ぐんと増えたのは2004年からで、これ以降まるで「死刑ラッシュ」とでもいうしかない死刑確定者の急増である。その結果、ここ数年は死刑確定が常時100名を超えているので、法務省は確定者が100名を超えないように按配して死刑執行を実施しているのではないかと新聞などメディアが書いているのも当然のころであろう。しかし、80年代の確定死刑囚は全国で20数名だった。これはほぼ一貫していた。

ところで、無期刑がどんな状態なのかを見てみると、こちらも異常なばかりの上昇ぶりである。こちらのサイトで上から二番目の表「年末在所無期刑受刑者の推移」を見れば分かるように、1998年の968名(これ以前はもっと少なく、今回はどうしてもその資料を探し出すことができなかったが、数年前に私は無期刑の収容者数400~600名程度という数字を見た記憶がある。おそらく70~80年代の記録だったかと思う)から2008年は1,711名に増えている。十年間で被収容者はほぼ倍になっているのだ。これは仮出所がほとんど皆無である(2008年の仮釈放者は1,711名のうち、3名。よく、無期になると7年で出てくるとか、10年で出てくるとかという話をする人がいるが完全なデマであり、今、無期刑の実情は終身刑の扱いとほとんど同じである。)ことと同時に、以前は有期刑が下されていた犯罪に無期判決が下されるようになっているためであることが、このサイトの冒頭の表グラフ「新規無期懲役刑確定者の推移」によって読み取れると思う。それまで年間40数件だった無期刑が21世紀に入る頃から、二倍、三倍に増えている。

私は内心ではもともと死刑に反対ではあったが、特に死刑廃止運動に関わったこともなく、個人的に死刑関連の本を読んだり、新聞やニュースで死刑に関する報道を見たり聞いたりする程度だったので、それまでは日常的にそうそう死刑について気にかけているわけではなかった。が、国際的潮流からいっても、日本もそろそろ死刑廃止に向かうのではないかと予測される時期であるにもかかわらず、この傾向は完全な逆行状態である。

2004年頃から厳罰傾向が顕著になっていったといっても、前兆というか、あらかじめの準備・計画は当然行なわれていたはずで、1995年のオウム事件も一つの契機・要因になったことには違いないだろう。地下鉄サリン事件以後、オウムやオウム信者に対してならば、どんな違法な取締リも許されるという暗黙の了解(土壌)が社会的にできてしまっていたから。ただそれよりも、この死刑判決の急増は1999年頃からとみに動きが活発になってきた日本政府の軍国化への傾き、有事法制の成立、イラク特措法、テロ対策措置法成立の動きと歩調を合わせていたのではないだろうか。特に2002年に閣議決定され、2003年に成立をみた有事法制関連3法(武力攻撃事態法、自衛隊法改正、安保会議設置法改正)と密接な関係があるように、どちらかというと政治感覚が鈍いと自認している私にもなにか切迫感をもってそのように感じられたのである。また2002年9月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による日本人拉致事件が明るみに出たこと、この事件をめぐるその後の日本国内の動向も影響をおよぼしたかも知れない。その他には腑に落ちるような理由が思い浮かばなかったし、平和を謳った憲法の精神を蹴飛ばして敵を想定し、武装に力を入れていけばいくほど、懲罰精神が高揚していくのは当然のことのように感じる。弱い立場にある者や、粗雑に扱っても誰にも文句は言われない者に対して取り扱いが過酷になるのも必然の成り行きではないだろうか。しかし、裁判所の恣意的な判断によりこの間まで有期刑だった者を無期にし、無期だった者を死刑にするのは不公正なこと、自分勝手なことであり、許されることではないと私は思う。そのような驕り昂ぶりは必然的に誤審を生みやすくするだろうとも思う。

あるいはこの急激な死刑急増をはじめとした厳罰化の潮流には、私たち一般市民には分からないもっと別の確固とした意図が何か隠されているということもありえるのだろうか。

気になるのは、前回も触れたコメント覧における無空氏の発言である。私は80年代に入った頃からそれまでに比べて日本の刑事裁判から緻密さ、丁寧さが失われていると感じることが多いと書いたのだが、すると、無空氏は、この意見を肯定し、次のような返事を書いてくださった。

「……裁判所が捜査・検察側言い分を99.9%鵜呑みにし、弁護人側の言い分を0.1%氏か聞こうとしない結果です。/即ち、捜査側はいい加減な捜査と証拠の提示をしても裁判所が救ってくれるので、いい加減な仕事しかしません。どんどん変な判例がふえて、どんどん捜査能力は落ちていきます。村木局長無罪判決はその0.1%に与することのできる勇気ある裁判官の事例であり、奇跡ですね。 /今回の大阪地検特捜部の証拠偽造などは、「何をしても裁判所は救ってくれるに決まっている」という甘ったれた思い上がりの仕業です。裁判所の捜査側に甘い姿勢が、捜査機関のモラルの低下を引き起こし、それが非常に明確に出てしまったということだと思います。しかし、検察庁は「自分達が全面的に悪い、反省して出直す」という姿勢を打ち出して、ことが裁判所に及ぶことを阻止すると思います。

他方弁護士は、どんなに努力しても0.1%しか報われませんので、ほとんど無駄だと「無意識的」に思い込み、尻込みしている状態です。 /裁判員制度はこのような裁判所のあり方を変えてくれる可能性がありますが、無罪判決が多くなると法務省や裁判所はこれを潰してしまうでしょうね。その時の口実は「国民に負担を掛けすぎる」です。国民の多くはやりたくないと思っていますので、あまり反対なく終止符を打つことが出来るでしょう。 」


上記の文章のうち、裁判員制度については、私は今のところ被告側に不利な状況が出るのではないかと懸念のほうを多く感じているのだが、それ他についてはまったく同感である。特に、「捜査側はいい加減な捜査と証拠の提示をしても裁判所が救ってくれるので、いい加減な仕事しかしません。どんどん変な判例がふえて、どんどん捜査能力は落ちていきます。村木局長無罪判決はその0.1%に与することのできる勇気ある裁判官の事例であり、奇跡ですね。」という発言については、内心薄々疑っていたことをズバリと言い切ってもらったような気がしたものである。知っている範囲で言うと、風間博子さんに死刑を宣告した判決文は、私にはどうしても不合理きわまりない検察の言い分をすべて鵜呑みにして無理に無理を重ねて書いたものとしか思えない。もし被告側と検察側、両者の全言い分、全主張を知った上で、判決の正当性について合理的な説明ができる人がいるならばぜひ教えを乞いたいと思うくらいである。

これは1990年のことだが、藤田省三は「現代日本の精神」という文章のなかで文部省をきびしく批判しているが、そのなかで、司法についても戦後一度解体するべきであった、と次のように述べている。 

「戦後内務省はつぶされたけれども、本来文部省もつぶすべきだったのです。思想統制を暴力的にやったのは内務省警保局特高警察だけれども、思想的に日常的にやっていたのは文部省教学局と司法省の思想課です。司法省もほんとうは一度解体しなければいけなかったのですが、文部省は全廃すべきだった。いまでも全廃すべきです。」(強調のための下線は引用者)

藤田省三のこの発言がなされた1990年と言えば今から15年前のことである。文部省についての発言もそのとおりだとつくづく思うが、法務省も戦後そのままの形式で存続してはならなかった、シンからの責任をとる意味で解体すべきであったことが、発言の時点より今はいっそう「そのとおり」としみじみうなずける思いがする。池田克などという人は戦前治安維持法の立案者の一人であり、思想犯取締りの検事だったそうだが、戦後公職追放されたもののすぐに復活を許されて最高裁判事となり、松川裁判にも参加して被告人たちを有罪とするほうに加担している。幸いにもこの時事件は危うくも高裁に差戻しになったから事なきを得たものの、これを見ても、司法は戦前から本質的・根源的には変わらなかったのだろう。だから刑事裁判においても、事実の認定が厳密な証拠によるのではなく、時代の風潮や官僚間の人間的しがらみに応じて右に左に揺らぐことになるのではないだろうか。厚労省の村木局長の事件で顕在化した大阪地検特捜部の検事による事実の改竄が氷山の一角でなければ幸いだと思う。
2010.10.02 Sat l 死刑 l コメント (0) トラックバック (0) l top
   
玉井策郎氏は、1949(昭和24)年から1955(昭和30)年までの6年間、大阪拘置所の所長を務めた人だが、在職中の1953年に「死と壁―死刑はかくして執行される」(創元社)という本を刊行している。死刑に関してはおびただしい質量の書籍・史料があるが、「死と壁」には、獄中における死刑囚の生活や精神の状態、特に処刑前後の心情が手に触れるように克明に率直に記されていて、私が読んだ死刑関連の本のなかでは最もふかい感銘を受けた一冊であった。玉井氏は大阪拘置所に赴任する前は、長崎の少年刑務所に勤務していられた。少年たちの更生に携わる仕事に誇りと喜びとを感じていて、大阪拘置所への転任通知を受けたときは、一度は鄭重に断ったそうである。理由は、大阪拘置所には死刑囚がいる、所長として死刑執行に中心的に関与しなければならないが、その重荷に耐えられそうもないと思われたからだそうだが、しかし二度目の異動命令にはもう逆らうことは許されなかったということである。

「死と壁」には次のような文章が見られる。

「よく私が人から聞くことですが、死刑囚の取扱いが余り寛大過ぎる。もっと因果応報ということを知らしめて、自分の犯した罪の報いというものの苦しさを味わわすべきだという意見があります。しかし、これは人間としての彼等に接していない人の、誤った考えだと思っています。人は決して肉体の苦しみによって、自分の行為を反省するものではありません。その証拠に、同じ職員の中でも、規則一点張りの、厳格過ぎる職員に、保安上の事故が度々演じられているのが、その一例です。/厳し過ぎず、甘やかさず、彼等の立場を、自ら認識させるには、どうしても彼等を理解する上に立った愛情が必要なのです。すべての死刑囚に対する処遇の根本は、そこに源を発していなければならないということは決して言い過ぎではないでしょう。」

上記のように玉井氏が「死刑囚の取扱いが余り寛大過ぎる」と人から聞くというのは、一つには、当時の死刑囚の処遇が現在とはまったく異なっていて、各刑事施設に任された自由裁量の余地が大きかったことによる。1963年、一片の「法務省通達」によって突如打って変わって自由が厳しく制限されることになったわけだが、それまでは部屋で小鳥を飼ったり、短歌や俳句の会、お茶の会、生け花の会、野球大会など、死刑囚同士の交流も定期的に行なわれていたし、外部との通信や面会もほとんど制限なく許可されていたそうである。玉井氏の運用による大阪拘置所の処遇は特に寛大だったらしい(作家の加賀乙彦の弁。東京拘置所精神医官であった加賀乙彦は玉井氏が去った後の大阪拘置所を訪れて、職員から玉井氏にまつわる敬意のこもったさまざまな話を聞いたという)。著書からもう少し文章の引用を続けたい。

「死刑囚と呼ばれる見捨てられた人達も、決して生れながらの極悪人ではなかったのです。そのことは、私達が毎日彼等に接していて初めて身に滲みて感じられてまいります。/ 人を殺したような人間が何が可哀相だとおっしゃる方もあると思いますが、それは彼が罪を犯し、犯した直後までの話ではないでしょうか。/ 人知れず被害者の霊を慰めながら、自分の運命を達観して、死を通り越した未来に生きようとする修養に懸命になっている死刑囚は、時には私達以上の清浄な世界に呼吸している人間でもあるのです。/ ですから、私達が彼等を取扱うのにも、これが極悪人だという気持ちでは接しておりません。」

「死刑囚は、死というものに異常な神経を働かしております。これがとても一般の人には想像も出来ないほど敏感なのです。一例を申しますと、刑務所に収容されている受刑者で、5年、10年独居生活を続けている人であっても、遠くで聞こえる鍵の開け方で誰が開けているかを的確に当てる人はおりませんが、死刑確定者は、ものの3ヶ月もすれば、足音を聞いただけでどの職員が歩いているか、(略)誰が開けたかを大体知っております。そんな調子でありますので、今日は誰それが執行される日だと知ると、その時間には同囚のその場の光景を自分の身にあてはめて、恐ろしいほど神経が緊張しているのです。/ 希望のない、死を目前に控えたこの人達の苦痛というものは、一般の方々の想像を絶するものがあるのです。もしこの苦悩のあるがままに、生きたい本能から生まれた狂乱のような心のままで死刑を執行するとしたらどうでしょう。人間が同じ人間を裁くとしましても、それはあまりにも残酷な仕打となるのではないでしょうか。」

「現在、死刑という刑罰があるかぎり、これを否定するわけにはまいりません。(略)少しでも残酷でないようないろいろな配慮があってこそ私達の気持も僅かながらも充たされるのでありまして、刑をあえて残酷に執行するようなことがあっては私達矯正職員の名に恥じるのです。いや人間としてそれは許される行為ではないのです。/ 私達は懸命に、この人達を導くことに努力しております。冷ややかな、そして恐怖におののいている死刑囚を、温かい、生命の本当の姿を見出す人間に立ち返らすために、出来るだけの真実と愛情を捧げて努力しているのです。」

「ある死刑囚にこんなのがありました。彼は一切の宗教を否定し、彼に注がれる一切の愛情を彼自ら振り切って、何事によらず曲解し、どうせ死ぬ身だという捨鉢の気分で、死ぬ日まで所内でも凶暴性を発揮していたのです。(略)職員も彼には全く手の施しようがなく本当に困った存在でありました。死刑執行の当日でした。いよいよこれでお別れという最後の時です。私はその男の手を握って、「あなたは決して悪い人ではありません。こうしてお別れしなければならないことを、ここの職員一同どんなに悲しんでいるかわかりません」と、こう申しますと、彼はその場で大声をあげて泣き出し、「これ程の悪人をまだそんなにまで言って下さいますか。ああ、このまま死ぬのが口惜しい。せめて一日でも人間らしい私を見て頂きたかった」そして「自分は執行場でウンと暴れて暴れて暴れ廻して、一人ぐらい傷つけて死ぬ気でおった。それがもう今の一言で出来ません」そういって、実に静かな微笑を浮かべ有難うございましたの声涙を残して去って行きました。/ 最もたちの悪い死刑囚の一例がこれであります。(略)無闇な圧力では駄目なのです。 」(「死と壁」より)

当時、玉井策郎氏は、執行の2日前に当人を部屋に呼んで「残念ですが、お別れしなければならなくなりました…」と自らの口で執行を告げていたそうである。家族、親族、友人と最後の面会をしたり、遺書を書いたり、心の準備をするための時間を与えていたわけである。その2日間の時間について想像をめぐらせると、これもまた残酷なことに違いないと思えるのだが、しかし現在のように、朝食後、いきなり執行のために刑務官に独房を急襲されて連行されるよりはやはり人間的であるとは言えるのだろう。ある時、玉井氏は、執行を明日に控えた死刑囚から面と向かって「死刑執行官は、ある意味から言えば体裁のいい殺人犯だ」ととつとつと言われたことがあるそうである。「死と壁」には、その時「その言葉を打消す勇気が出なかった。」と記述されていた。

   
1956(昭和31)年に高田なほ子、市川房枝、羽仁五郎などの議員によって国会に死刑廃止法案が提出されたことがあるが、この法案提出に弾みをつけ、後押しをしたのは、玉井氏の「死と壁」だったと聞いたことがある。周知のようにこの法案は審議未了で廃案になったのだが、この時「法務委員会公聴会」に玉井氏は論者の一人として出席して死刑廃止の弁を述べている。これは「法務委員会公聴会」記録として今も残っているので、ここから玉井氏の弁論部分を抜粋して以下に掲載する。この時の出席者は、議員として、高田なほ子、一松定吉、宮城タマヨ、赤松常子、羽仁五郎、市川房枝など。また公述人としては、木村亀二(東北大学教授)、正木亮(弁護士)、渡辺道子(Y・W・C・A常任委員)、河野勝斎(日本医科大学事務総長)、古畑種基(東京医科歯科大学教授)、吉益脩夫(東京大学教授)、島田武夫(弁護士)、森戸じん作(弁護士)、等々。(なお、強調のための下線・太文字は引用者による)


第024回国会 法務委員会公聴会 第3号

昭和31年5月11日(金曜日)
   午前10時44分開会
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本日の会議に付した案件
刑法等の一部を改正する法律案(高田なほ子君外6名発議)
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委員長(高田なほ子君) これより法務委員会公聴会を開会いたします。/ 刑法等の一部を改正する法律案を議題に供します。公聴会の問題は、死刑廃止の是非についてであります。

  ―――――――――――――

委員長(高田なほ子君) 次に、奈良少年刑務所長の玉井策郎さんにお願いをいたします。

一松定吉君 ちょっと私、御講演をなさる方にお願いがあります。まず結論を出していただきたい。死刑廃止には賛成、反対と、それから何ゆえに賛成であるか、何ゆえに反対であるかというように、それを説明していただくと、おれわれ非常によくわかりますから、どうかそういうように御講演を願いたい。

公述人(玉井策郎君) 私は、28年間の刑務官生活と、その間に6カ年間の間の死刑確定者のめんどうを見さしていただいた経験から、死刑の廃止に賛成するものであります。
 この理由について、一応しばらく話してみたいと思いますが、これは、あくまでも私個人の考えであるということを御了承願いたいと思います。
 刑務官すなわち矯正職員の任務は、受刑者を矯正して、善良なる国民の一人として、この社会に復帰させることであります。従って私たちは、私たちの職責を遂行するに当ては、常に私たちは教育者であると自負し、誇りを持って私たちの仕事に精励しているのであります。と同時に、受刑者に対しても、その心構えをもって常に接しておるものであります。ところが、この死刑確定者、いわゆる極刑者に対しては、この尊い教育者としての使命は通用いたしません。人の生命を奪って何の教育でありましょう。教育と死刑、この二つの相反する現実に直面する私は、その大きな矛盾に悩んできたものであります。死刑という刑罰が存在する限り、そしてその執行を私たち矯正職員が行わなければならない限り、私は方便的に任務を遂行するのであって、そこに教育としての良心は片鱗をも示すことはできない。人殺しとみずからあざけっておるものであります。この点から考えても、私は当然死刑は廃止してほしい。そして、もし直ちに廃止することができないとするならば、さしずめ死刑の執行は矯正職員にやらせることだけは、せめて直ちにやめさしてもらいたいということを懇望するものであります。(拍手)これは、私が過去6カ年間大阪拘置所長として、数多くの死刑確定者と接し、彼らの死刑執行に立ち会ってきた経験から結論づけられたものであります。
 前にも話したように、私は昭和4年にこの刑務官を拝命しました。昭和24年から昨年まで、まあ6カ年大阪拘置所長として勤務しました。その間に、46人の人の死刑の執行をして参りました。言葉をかえて申しますというと、いかに法律という定めによって、この手続によって執行するとはいえ、46人の人々を私は殺してきたものであります。死刑は人間が人間の生命を剥奪することであって、これほど血なまぐさい残虐な刑罰はありません。憲法にも規定してあるように、公務員によるところの拷問及び残虐な刑罰は絶対に禁じている。でもあるのに、私はこの残虐な刑罰を執行し、目撃せねばならないのであります。個人的には何の恨みもないその人間を人間が殺す、その不法の瞬間を私思い知らされてきたのであります。凶悪な犯罪は、もちろん天人ともに許されるところではありません。ただ、目の前に起った犯罪の事実だけでそれを見て、その人間が生れつき野獣性のある人間だと断定して、絶対に真人間にはなれない極悪非道な悪人だときめてしまっていいのでしょうか。私が6カ年間に接してきた、そうして送った46人の人々は、やはりその性は善でありました。人間としての美点も持っておりました。いな、かえって自分の犯した大きな罪に対して反省ができてからの彼らは、むしろ私たちよりも、その心の持ち方ははるかにすぐれておったのであります。そんな気持になった彼らをも殺さなければならない。何が何でも、人を殺した以上、その人を殺してやるぞというような応報的な考え方、目には目、歯には歯をというようなかたき討ち的な考え方の中に、どこに教育的な要素が見出せましょう。私たちが刑罰執行の場としての刑務所での受刑者に対する考え方、すなわち教育的な行刑理念とは、これは根本的に合致しておりません。最初に申しましたように、私たち矯正職員は、刑の執行と同時に、受刑者を更生させて、社会に復帰させるという大使命、これをもって彼らに彼らの間違った考え方、行為を反省させて、これを善導し、教育して、再び社会のりっぱな一員として世の中に送り出すことに懸命の努力をしているのであります。彼らを矯正して、一日も早く刑務所の門から社会に送り出すことに、ほんとうの生きがいを感じているものであります。この喜び、この感激を踏みにじるものが死刑の存在であります。何としても死刑を廃止しなければなりません。このように苦しみ悩みながら、私は法と義務、人情と道徳のジレンマに陥り、その苦しみ悩みをごまかすために、法律の定める手続によっているのであるからとか、公共の福祉に反する場合はとか、火あぶりやはりつけと異なって、現在の執行方法は普通各国で行われている方法であって、さほど残虐ではないんだなどと自己弁護をして、彼らに接する場合には親切に、そうしてその執行後の死体は丁重に埋葬してやるというようなことによって、みずからを慰める方法を見出し、辛うじて自己満足的な理論の裏付けをしようとして苦しんできたのであります。どんなにしかしごまかしてみても、人間が人間を殺すということは残虐であります。これ以上の残虐はないと思います。もちろん自分は現在死にたくない、死の恐怖におびえている彼らは喜んで死ねる境地、この境地は実際に本物かどうか、あるいは私だけの自慰かもしれません。この境地にまで持っていき、絞首台に立ったとき、安心立命して往生させようと、文字通り懸命の努力はして参りました。しかし、それでもなおかつ死刑の執行が残虐であるという事実は否定できません。私は、死刑執行のつど、このように考えました。日夜多くの職員あるいは教誨師その他の関係の方々の努力によって、こんなにまでりっぱな人間にしてやったのに、もし社会がこの人に何かを求めようとするならば、普通の人以上にその期待に沿える人間にまでなった。この成長した人を、それなのに、何ゆえに今になって彼らを殺さなければならないかという疑問、死刑を存続させるという考え方は応報刑罰にほかなりません。従って、教育刑を信奉する刑務官としての私は、死刑は廃止すべきであると結論し、現在の死刑に該当する犯罪者に対して、もっと合理的な、かつ、もっと効果的な制度があるのではなかろうかと思うのであります。不定期刑制度等もその一つではなかろうかと思います。
 死刑廃止の根拠は種々ありますが、矯正職員である私の立場から以上を論じ、死刑廃止に賛成するものであります。(拍手) 」(「法務委員会公聴会」より)



「第024回国会 法務委員会公聴会 第3号」の全記録は前記のサイトで読むことができる。玉井氏の著書「死と壁」は現在は絶版になっているのではないかと思われるが、92年に「弥生書房」から新たに刊行されているので、公立図書館にはだいたい備わっているのではないかと思う。一読をお奨めしたい。
2010.09.07 Tue l 死刑 l コメント (0) トラックバック (1) l top
 「死刑」の観念は731部隊において生体実験の正当化に利用された

戦時中の731部隊が中国人・ロシア人・朝鮮人などの捕虜や反日抗戦の容疑により拘束された人々に対して行なった生体・人体実験。旧日本軍の数多い犯罪のなかでもこれは最右翼に位置する冷酷、卑劣な悪業であることを否定する人はまずいないと思われるが、この731部隊に関する書籍や史料を読んだことのある人は、元隊員など731関係者の証言に「死刑」「死刑囚」という言葉が頻繁に出てくることに気づいた人も多いのではないだろうか。私も昔本などでそのことを知り、ショックを受けたものである。

731部隊内で「丸太」と呼ばれ、人体実験の生贄にされた人々は、関東軍憲兵と特務機関によって逮捕され、各地から一括特別移送扱いで部隊に送り込まれた人々だが、移送の前に正式な裁判が行なわれたという証言、形跡はまったく見つかっていない。形式の上でさえ死刑囚ではなかったのだ。それにも関わらず、この人々は死刑囚であるという意識は隊内中に共有されていた。そうであればこそ良心の痛みも感ぜず、数々の残忍極まりない生体実験にいそしむことができたのだ。「やつらは死刑囚である」「死刑は合法である」という観念が隊員たちのなけなしの良心の最後の一片を消し去る役目をつとめていたのだと思われる。以下に森村誠一の「悪魔の飽食」からこの問題に関連する記述、証言をいくつか引用する。(太字による強調はすべて引用者による)

「「われわれは、日本に占領された満州領内で、石井部隊の実験用に供する、生体の不足を感じたことはなかった……毎年600人程度が“特体扱”(特別移送の略)として送られてきた」
これは第731部隊第4部(細菌製造)の責任者であった川島少将の、のちにハバロフスクで開かれた極東軍事裁判のなかでの証言である。
 私は、“特移扱”となった「丸太」が反日抗戦に参加したロシア人、中国人、朝鮮人である旨を書いてきた。「丸太」は反日抗戦のかどで逮捕され、死刑を宣告された者であり、「どうせ殺される奴等」である。これが731部隊に、大規模な生体実験をおこなわせる合理的口実となった。(略)

生体解剖のメスは主として研究班の助手格(雇員)がふるった……各班長は当時の名だたる学者であり医師であったが、彼らが直接、手を下すのはよほど興味を持ったマルタの場合に限られ、通常はけっして自分の手を汚さず、すべて部下にやらせていた。生体解剖の罪悪感など一かけらもなかった。むしろ、どんな標本が採集できるか楽しみにする空気が、各班にあった。(略)

部隊では多数の医学者が、医学の名において健康な人間を選別し、生体実験の材料として生活消費財のように消費していった。「あいつらはどうせ死刑になる身だ。おなじ死ぬのなら人類のお役に立って死ね」という論理が、731医学者の間にまかり通っていたという。」(森村誠一著「悪魔の飽食」光文社1981年)

731部隊の定員は3000人だったそうだが、常時400~500人ほどの人員が不足していた。隊員の住居は部隊に隣接して建てられており、隊員の家族のなかには、特に妻のなかには、看護士、事務職などの軍属として働く人も多かった。下記に引用する文章を書いた人もそういう人の一人である。この女性は、731部隊に貢献することにより「お国のお役に立っている」と信じていた自分たちの存在や行為が戦後になってきびしく指弾されるようになったことに対して衝撃と割り切れなさを感じながら生きてきたようであり、これは一種の弁解の書に過ぎないのかも知れないが、ただ、この人は平時においては何も特別にひとと変わったところのあるではないごく普通の人だったと思われる。たいていの隊員たちがそうであったように。

「 煙突から煙の出ている時に、動物舎の臨時雇いの奥さんたちが、「今日もやったな」とか、「今日は『頭の黒いネズミ』を何匹焼いた」とか言い合っているのをよく耳にした。/ 煙が出ている時でも、何も言わないこともある。そんな時は、動物を焼いているのだ。どういうふうに説明して良いかわからないが、煙を見ていると、「頭の黒いネズミ」つまり「丸太」を焼いていた場合と動物を焼いていた場合とが、わかるのだ。/ 煙の色が違うわけではない。でも、なんとなくわかってしまうのだ。わたしも、そうだった。根拠があるわけでなく、直感が教えてくれる。わたしは、そんな時、煙突の煙に向かって、一人で必ず合掌した。「丸太」にはロシア人もいると聞いていたので、ハルビンの寺院でロシア人が十字を切っていたのを思い出し、胸のところで十字を切ってもみた。/ わたしたちは、「頭の黒いネズミ」とは言ったが、「丸太」とは口に出さなかった。もちろん「丸太」が人間であることは知っていた。/ 本部の奥深くにある「呂の字」の中には、「丸太」と呼ばれる捕虜や死刑囚がいっぱいいると聞いていた。この人たちはもう「人間」ではなく、「一本、二本」と数えるのだという。」(郡司陽子著「【証言】七三一石井部隊」徳間書店1982年)

この人は人体実験に従事するようなことも、それらに関する何かを目撃したこともなく、生体実験が日常と化した残酷な現場とは遠く離れた場所で働いていたようだが、それでも部隊の一角で「捕虜や死刑囚」に対して何が行なわれているのかは知っていた、正確に察してはいたのである。しかし、「捕虜や死刑囚」であるならば、殺されても仕方のないことと決めこんでいたらしいことが、「この人たちはもう「人間」ではなく、「一本、二本」と数えるのだという。」という言葉のなかに読み取れるように思われる。どのような納得の仕方をしたのか、それ以上考えを押し進めることはしなかったようである。煙突から上がる煙の具合でそれが人間を焼いていると理解すると、その場でいつも必ず合掌をしたという。そういう記述を読むと、平時の生活のなかで知人の死に際して静かに手を合わせ、冥福を祈っているかのような平穏な光景と見まがうようである。

731部隊がむごたらしい生体実験をやったことと死刑の間には、直接的因果関係は何もないだろう。しかし、国家は死刑を宣告することにより大手をふって人を殺すことができる。この観念は、すべての日本人の深層意識に深く浸透していて、731部隊の場合にも人間を生きながらに実験し殺すという冷酷さの極限と言える行為さえ、「死刑」「死刑囚」を前面に押し出すことにより、良心の咎なく生体実験による殺人を自分に許す格好の口実になりえた。隊内において「死刑」「死刑囚」という言葉が日常化していたらしいことは、そのことを証明しているとは言えるのではないだろうか。

 「悪魔の飽食」には下記の証言が書きとめられている。
「妊娠中に逮捕、連行され、獄中で子どもを産んだ女マルタの一人は、赤ん坊を助けるためにはどんな“実験”にも応じた…‥目に涙をためて、この子だけは助けてやってほしいと毎日のように看守に訴えつづける女マルタの姿は、ごく一部の隊員間に知られていた……しかし(略)七三一ではマルタは材料だから、その子もつまりラッチ(ネズミ)とおなじで飼育されているにすぎなかった。もちろん母子ともに殺されちまった……」

また、次のような逸話もある。ある画才をもった隊員は、凍傷の実験や細菌実験経過を彩色絵に描くよう強いられた。実験は記録映画に撮られていたそうだが、ただそれには色がついていなかった。そこで、彼の画才が目をつけられたのだが、彼は画材を携行し出頭せよとの上官の命令による呼び出しが重なるにつれ、「表情が険しくなり、眉根を寄せ部屋を出て行くのを、同僚たちは目撃している。」彼は終戦後、復員したのち、元隊員の会合には一度も出席したことがない。「七三一にはおぞましい記憶があるばかりで、元退院が寄り集まって語るべき思い出など、ひとかけらもない」とつぶやいたことがあるそうである。

死刑制度を扱い、死刑廃止を訴えたフランスの小説家カミュの「ギロチン」には、「殺人者のなかで、その朝歯を磨いている時自分が今日のうちに人を殺すことを予想していた者は一人もいなかった」という医師の調査記録が紹介されている。また、ドストエフスキーは「死の家の記録」のなかで、「どんな凶悪犯罪者であれ、また反省の情の微塵もない救いようのない者であれ、自分が犯罪者であること、悪事をなした者であることは知っていた。自分を良いと思っている者は一人もいなかった。」という主人公の観察を叙述している。これはドストエフスキー自身の体験によるものと思われるが、この観察には私などにも肯けるものがある。

翻って、731部隊についてはどんなことが言えるだろうか。1939年から45年までの6年間という長期にわたって、彼らがやったことは、ナチスのホロコーストに勝るとも劣らない冷酷残忍な行為の連続である。もちろん当時の国際法からいっても紛うことなき犯罪である。市井の人の個人的・衝動的・感情の爆発的犯罪とは悪の規模が全然異なる。部隊に関与した軍人・軍属は石井四郎部隊長をはじめ何千人もいると思われる。しかし731部隊関係者のうち罪に問われたのは、後にも先にもハバロフスクで裁かれた12人だけであった。

法務省は731部隊の実態も、生体実験が「死刑」を格好の口実にして遂行されつづけたことももちろん詳細に知っているはずである。その法務省が今や世界中に拡がっている死刑廃止の流れをよそに、また国連人権委員会からの度重なる勧告にも耳を貸さず、これほどまでに死刑存置に拘泥するのはなぜなのだろう。これは日本の歴史上731部隊のようなことが存在したにもかかわらず、と言うべきなのか、それとも、だからこそ、と言うべきなのだろうか。菅谷さんの事件、布川事件と冤罪事件が立て続けに表面化しても法務省にはそのことを真摯に受け止めた様子があまり見えないのが残念であり、はがゆい。あの後、蒼白になってこれまでの判決の見直しや冤罪防止対策に取り組んでほしいところだったのだが。死刑執行に対する世界でも珍しいほどの執心とは裏腹に、冤罪防止への対応策は取調べ可視化の問題を見ても分かるように、いかなる意味でも不熱心に見える。これこそ倒錯ではないだろうか。
2010.08.14 Sat l 死刑 l コメント (1) トラックバック (0) l top
  死刑制度の今後

永山事件についてもう少しつづきを書いておくと、1983年7月、最高裁は控訴審の無期判決を破棄して審理を東京高裁へ差戻した。この時の判決要旨には、

「確かに、被告人が幼少時から母の手一つで兄弟多数と共に赤貧洗うがごとき窮乏状態の下で育てられ、肉親の愛情に飢えながら成長したことは誠に同情すべきであつて、このような環境的負因が被告人の精神の健全な成長を阻害した面があることは推認できないではない。」

と記され、被告人の不幸な境遇に一定の理解と同情は示されているものの、最終的な判断は次のごとくであった。

「しかしながら、被告人同様の環境的負因を負う他の兄弟らが必ずしも被告人のような軌跡をたどることなく立派に成人していることを考え併せると、環境的負因を特に重視することには疑問がある……」(太字による強調は引用者による)

この判定には私は今も納得がいかないままである。あたえられた環境の下で社会生活を営むしか術をもたない人間にとって、劣悪な環境が最も深甚な影響をおよぼすのは、戦争や動乱の場合と同じく、一番弱い人間に対してであるだろう。この事件に多少なりとも関心のある人には周知のことと思うが、生活苦のために青森県の実家に帰った母親に彼はまだ小学校にも上がらない年齢で、他の姉弟三人とともに極寒の網走に置き去りにされるという体験をしているが、その時、彼は4歳か5歳だった。七ヶ月後に福祉事務所に発見された時、四人は餓死寸前の状態だったそうである。

その間、近所の人は誰も手を差し伸べようとはしなかった。姉は14歳、上の兄は12歳だったそうだが、海岸で腐りかけたような魚を拾ってきて飢えをしのぐというような生活をしながら、結局他人に助けを求めなかったところを見ると、その頃から兄弟の心のなかには自分たちを助けてくれる大人は世の中に存在しないという絶望的な意識がふかく浸透していたのではないだろうか。一人の兄は幼い彼にリンチのような暴力をふるっていたそうであるし、またすぐ上の兄は、法廷で証言台に立って、「あの時則夫が一緒だったかどうかもおぼえていない」「暗い記憶だから、そのことはつとめて思い出さないように、忘れるようにして生きてきた」と述べている。成人した後、彼はこのことを明確には記憶していなかったそうだが、そのように幼いために対象化したり、分析したりできない分、その時に受けた傷ははっきり記憶しているよりもさらに精神の奥ふかく刻印されることになったのではないかとも思う。

彼の兄弟姉妹は、たしかに彼のように犯罪で世の中を騒がせたことはなかっただろうが、かといって裁判所の言うように「立派に成人している」と言えるかどうか。一日24時間、一日一日を生き、そのようにして生を積み重ねていかなければならない人間に対して、犯罪さえおかさなければそれでOKと考えるわけにはいかない。人間の本性も、生活も、それぞれ大変に厄介なもので、一瞬一瞬の生は意味と内容をもち、否応ない重さで本人に迫ってくるものだろう。伝え聞くところによると、彼の兄弟のうち一般的にいう意味で健全な社会生活を営んでいると言える人はあまりいないようである。理由は分からないが、精神を病んだ人も何人かいるようである。結局他人を射殺することになるピストルを彼が手に入れたのも自殺願望のせいだったとも言われるが、事実そのとおりだったのではないだろうか。

逮捕後の彼が獄中で書いた小説作品が初期の頃から人の心に訴える力を有していたということは、彼が生来細やかな、感じやすい神経の持ち主だったことを物語っているように思う。そういう彼の心に環境がどれほど痛ましい傷をつけ、精神的な歪みをもたらしたか、想像がつくように思う。後の創作活動には長所となった同じ性質が実生活では絶望的な犯罪に突き動かす動因となる作用をしたかも知れない。これは誰にも言えることだと思うが、人間の一つの長所はそのまま短所と表裏の関係にあるように思われる。

裁判所が「被告人同様の環境的負因を負う他の兄弟らが必ずしも被告人のような軌跡をたどることなく立派に成人している」云々と述べているのは、犯罪の真因は環境よりも彼の性格、心がけにあるのだと暗示しているのではないかと思うが、これが犯罪の第一の要因だとすることははっきり疑問である。犯罪をおかす、おかさないは一応別問題として考えても、幼児の時からあのような環境下に置かれて人間がすくすく健全に育つとしたらそれこそ奇蹟に等しいことであろう。卑劣な人間に育てることは簡単である、卑劣な扱いをしてやればよい。正直な人間になってほしいのであれば正直な取り扱いをすることだ、というではないか。光市事件の元少年の場合にも言えることだが、私の知るかぎり、少年事件の場合は少し踏み込んで事件を見てみると、ほぼ例外なく本人にはどうすることもできない並々ならぬ事情が背後に控えているように思う。

たとえば、もう17、8年前のことになるが、永山少年と同じく19歳の少年によって引き起こされた市川一家殺人事件。この事件も一家四人もの人を殺害するという世の中に衝撃をあたえた驚くべき事件であった。犯罪そのものはなんとも言えず残忍なもので、一体このような犯行をしでかす少年というのはどんなに救いようのない人間だろうかと思うし、実際少年の精神は当時すさまじく荒れすさんでいたようだが、育った環境を見ると、永山少年などと共通した背景、要因がはっきり見える。このような犯行にいたるまで、長い間彼が飢え渇えるように求めていたものは、やさしい父親と母親に見守られた一家団欒の温かな生活なのだった。綿密にこの事件を取材し、被告人本人から聞き取りをして書かれたらしい詳細なドキュメンタリーの著者は必ずしも被告人に好意をもってはいないようにも思えた(というよりどうしても理解がおよばない点があると感じていると言ったほうがいいかも知れない)が、それでも本の行間からは、結果的に最悪の事態を惹起してしまった凄惨な犯罪とは裏腹の、被告人の一家団欒への憧れのつよさ、烈しさが異様なほどの濃さで立ちのぼってくるのであった。その彼も現在107名の確定死刑囚のうちの一人である。

話題は変わるが、先月28日の千葉景子法務大臣による死刑執行について、保坂展人氏は自身のブログで「「死刑廃止の信念変わらぬ」で「死刑執行」とは」という記事を書かれていた(その後も死刑関連のエントリを続々立てておられる)。保坂氏は、千葉大臣が死刑執行命令書に判を押し、なおかつ執行の立ち会いまでしたのは、刑場を「公開」するという法務省の決断との引き替えの行動だったのではないかと推測し、次のように述べている。

「 こうして、死刑の刑場がテレビなどで「公開」された時、どのような反応が起きてくるのかも、当然ながら法務省刑事局側は予想している。私は、メディア側が「死刑の舞台装置」の巧みさに感動し、また「厳粛にして必要な空間」などと称賛する報道も出てくる可能性がある。ここでのポイントは法務省記者クラブ加盟社以外の海外メディアやフリーの記者を入れることにある。

 裁判員制度では、市民が多数決で死刑判決に参加するという世界中に例のない評決の仕組みがつくられた。千葉大臣は、死刑の刑場が公開されることで、より慎重から事実に即した死刑の存廃も含めた議論を尽くしたいという意図があるのかもしれない。しかし、海外メディアやフリーを排除して行なわれる「刑場の公開」によって「鎖国ニッポン」は千葉大臣の意図とは別方向に暴走しかねない。

 それは、ずばり言って市民・国民参加の「死刑執行」という姿だ。
死刑の刑場も公開され、裁判員で市民・国民が決めた死刑の瞬間を皆が見届ける……もちろん、最初から「執行中継」などはないだろう。しかし、…(略)…今後50年は死刑判決と死刑執行に疑問を持たない社会を彼らは目指している。」

このような推測は、20年前ならば、いや10年前であっても、聞くやいなや「まさか」と一笑にふすしかないような話だったと思う。市民が自分の目で死刑執行を見たり、実感するような経験をすれば、大半の人は必ず死刑に反対し、拒否するようになると思ってきた。だから死刑を存続したい法務省が「市民・国民参加の「死刑執行」」のことなどチラとも考えるはずはないと思われたのだ。実際今でもその気持ちに変わりはないが、それでもあの頃にくらべると、保坂氏の上述の発言にいくらかの信憑性を感じるし、なぜともなく不安をもおぼえる。70年代からずっと年間数名だった死刑判決は2004年からその五倍にも増えてその状態のまま推移を重ねている。底ふかく何かが大きく変容してしまっているのではないだろうか。しかし、もしも保坂氏の危惧するような事態が万一訪れるとすれば、確定死刑囚やその他の獄中の人々の人権抑圧状況が厳しくなるだけではない。私たち一般大衆の人権も蔑ろにされるだろうし、そのなかで特に弱者の人権はますます踏みつけにされ、省みられなくなるだろうと思う。
2010.08.13 Fri l 死刑 l コメント (1) トラックバック (0) l top
   死刑の宣告と執行の間

私の場合、死刑はよくない制度だ、あってはならない刑罰だ、とはっきり自覚するようになったのは、永山則夫事件を通してであった。彼の生い立ちは、決して境遇に恵まれたとは思っていない私から見ても、比較のしようもない、桁違いに悲惨なものに違いなかった。父親はもともとは腕のいい林檎の剪定師だったそうだが、彼が物心ついた頃には賭博にのめり込んで家にはいなかった。母親は魚の行商をしていたが、沢山の子どもたちを抱えて身を粉にして働かなければならず、八人兄弟の七番目の子である彼は子どもが健全に成長するためにはどうしても必要とする愛情も、親身な世話も、親をはじめとして誰からもあたえられることがなかったようである。そのことは裁判を通して、また逮捕の2年後に出版された彼の著書「無知の涙」を通して広く社会に知られるようになった。

彼は「無知の涙」において自分にこのような酷薄な生育を強いた社会をきびしく告発した。読者のなかには彼が育った環境のあまりの凄惨さに衝撃を受けたり、同情を寄せる者もいたが、一方彼には自分が四人もの無辜の人を殺したことに対する罪の意識が欠如しているという批判をする者ももちろんいた。実をいうと、私も誰にも話したことはないが、当初は同情とともにいくらかそんな気持ちをもったこともあった。

しかし、彼が自分のなした犯罪に対して罪の意識をもっていなかったということはない。私は何かの折りに読んだのだが、彼は自分の犯罪について「ああいう悪辣な犯罪は決して許されてはならない」という趣旨のきびしい言葉をノートに書き付けていた。本の印税を遺族に受け取ってもらうことを切望したのも贖罪意識の現れだったことは間違いないだろう。

これは私の思いのままの推測に過ぎないが、1981年二審の船田三雄裁判長が一審の死刑判決を破棄して無期判決をくだしたとき、彼は生まれてはじめて自分の人格がある理解をされた、存在を正当に認められたという感覚をもったのではないだろうか。裁判官によって、というだけではなくて。というのも、ある人の本で知ったのだが、彼は娑婆にいた時の忘れられない出来事として、夏、遠い道のりを歩いて疲れはてた時、手を挙げて乗せてもらったトラックの運転手に車のなかでひどく親切にしてもらったことをあげていたのだった。たしかジュースやパンを振る舞ってもらったのではなかったかと思う。人に優しくしてもらうことは誰にとっても嬉しいことには違いないが、ただその種の好意は誰でもある程度経験することなので、普通は時間が経つと忘れてしまうものではないだろうか。彼にはその程度の心を温かくしてくれる経験もほとんどなかったようなのである。もちろん、二審の裁判中の彼の前に伴侶となる女性が出現していたという事情も大きかったに違いないが、無期判決の後に「木橋」のような静謐な作品が書かれたことと思い合わせて、そのような印象をもったりもする。

しかし1983年、最高裁は検察の上告に対して原判決破棄、差戻しを命じた。そして差戻審の東京高裁による再度の死刑判決。この時彼が法廷ではげしい抗議をしたことが伝えられたが、それは、死を覚悟していた自分に対し裁判所がいったん生きるという方向に向かわせておきながら、その同じ裁判所の都合によって再び死のほうへ、絶望の方へ一方的に追いやることの理不尽、残忍さに対する抗議だったと記憶している。

彼のこの抗議、批判は人間の誰もがもつ当然の思い、行ないであろう。この立場に置かれた人間で、彼と同じように感じない人間はおそらくどこにもいないだろうと思う。これは光市事件で一・二審の無期から一転死刑が確定した元少年についても言えることである。誰がやることであろうとこのような行為は人の心をずたずたに引き裂き、精神を根底から破壊しかねないむごい仕打ちであり、裁判所は結果的に人の生と死、人の運命をキャッチボールのごとく操り、もてあそんでいることになるのではないだろうか。ドストエフスキーの「白痴」(「死刑」に関するあまりにも有名な文章なのでこうして引用するのも気がひけるのだが、常々念頭にあるとても好きな場面なので、お許し願いたい)において、スイスからペテルブルグにやって来たムイシュキン公爵は、その日早速エパンチン家を訪ねると、そこの従僕相手にフランスのリヨンで見た死刑について次のように語りだす。


「罪人は利口そうな、胆のすわった、力のありそうな中年の男でした。レグロというのが苗字です。ところがねえ、ほんとうにするともしないともきみの勝手だが、その男、死刑台にのぼると泣き出したですよ、紙のように白い顔をして。(略)今まで泣いたことのない大人が、恐ろしさに泣き出すなんて、ぼくはそれまで夢にも思いませんでしたよ。しかし、その瞬間、当人の魂はどんなだったでしょう。きっと恐ろしい痙攣をおこしたに相違ありません。魂の侮辱です、それっきりです! 『殺すべからず』とは聖書にもちゃんと書いてあります。それだのに、人が人を殺したからって、その人まで殺すって法はない。いいや、そういうことはなりません。現にぼくはひと月前にそれを見たんだけど、今でもありありと目の前に浮かんでくる。もう五度ばかり夢に見たくらいです」

「まあ、考えてごらんなさい、たとえば拷問ってやつを。こいつを受けるものは、からだに傷をつけられたりなんかして、苦しいでしょう。けれど、それは肉体の苦しみだから、かえって心の苦しみをまぎらしてくれます。だから、死んでしまうまで、ただ傷で苦しむばかりです。ところが、いちばん強い痛みは、おそらく傷じゃありますまい。もう一時間たったら、十分たったら、三十秒したら、今すぐに魂がからだから飛び出して、もう人間ではなくなるんだということを、確実に知るその気持ちです。この確実にというのが大切な点です。ね、頭を刀のすぐ下にすえて、その刀が頭の上をするすると滑ってくるのを聞く、この四分の一秒間が何より恐ろしいのです。いや、これはぼくの空想じゃありません。じっさい、いろんな人からそういって聞かされたんです。ぼくはこの話をすっかり信じていたのだから、隠さずきみにぼくの意見をぶちまけてしまいますが、殺人の罪で人を殺すのは、当の犯罪に此べて釣合いのとれないほどの刑罰です。宣告を読み上げて人を殺すのは、強盗の人殺しなどとは比較にならぬほど恐ろしいことです。夜、森の中かどこかで強盗に斬り殺される人は、かならず最後の瞬間まで救いの望みをもっています。そういうためしがよくあるんですよ。もうのどを断ち切られていながら、当人はまだ希望をいだいて、逃げ走るか助けを呼ぶかします。この最後の希望があれば十層倍も気安く死ねるものを、そいつを確実に奪ってしまうのじゃありませんか。宣告を読み上げる、すると、金輪際のがれっこはないと思う、そこに恐ろしい苦痛があるんです。これ以上つよい苦痛は世界にありません。戦場に兵士をひっぱって来て、大砲のまん前に立たして、それからそいつらをねらって撃ってごらんなさい。兵士はいつまでも一縷の希望をつないでいます。ところが、この兵士に対して死刑の宣告を確実に読み上げたらどうです。半狂乱になって泣き出しますよ。人間の本性は発狂せずにそれを堪え忍ぶことができるなんて、そんなことをいったのはいったいだれでしょう? なんだってそんな見苦しい、不必要な、そして不正な嘲罵を発するのでしょう?
 ことによったら、宣告を読み上げられて、さんざん苦しまされたあげく『さあ、出て行け、もう許してやる』といわれた人があるかもしれない。こういう人にきいたら、話して聞かしてくれるでしょうよ。この苦しみ、この恐ろしさについては、キリストもいっていられます。いや、人間をそんなふうに扱うという法はない!
 従僕はこれらのことを、公爵と同じように自分でこそいうことはできなかったが、しかし全部でないまでも、だいたいの要点が腹に入ったらしいのは、その感じ入ったような顔つきにも現われていた。」(「白痴」米川正夫訳)(太文字の強調は引用者による)

ムイシュキン公爵は死刑の宣告について「人間の本性は発狂せずにそれを堪え忍ぶこと」はできない、と述べている。私はこのようなムイシュキン公爵の洞察の深さ、高さ、鋭さを通してその人格にかぎりない雄大さを感じるのだが、作者のドストエフスキーは「ペトラシェフスキー事件」により、刑場で死刑を宣告され、その数分後に皇帝の恩赦という理由で死刑を免れた経験をもつ人である。夏目漱石は修善寺の大患の後、「思い出す事など」において、この時のドストエフスキーの体験について細かく想像をめぐらしているが、漱石によるとドストエフスキーの仲間の一人は実際その場で発狂してしまったそうである。

「 彼の心は生から死に行き、死からまた生に戻って、一時間と経たぬうちに三たび鋭どい曲折を描いた。そうしてその三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。その変化だけでも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然これから五分のうちに死ななければならないと云う時、すでに死ぬときまってから、なお余る五分の命を提げて、まさに来るべき死を迎えながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、さらに突き当ると思った死が、たちまちとんぼ返りを打って、新たに生と名づけられる時、――余のごとき神経質ではこの三象面の一つにすら堪え得まいと思う。現にドストイェフスキーと運命を同じくした同囚の一人は、これがためにその場で気が狂ってしまった。」(「思い出す事など」)

ムイシュキン公爵が、人間の本性は発狂せずにそれを堪え忍ぶことはできないと述べているのはおそらく正しいことだろう。ドストエフスキーや戦場の兵士の場合と法廷で宣告を受ける被告人の場合とでは条件が異なるので一緒にして論じることはできないという指摘は当然あるだろうが、もしかすると究極的・本質的にはなんら違いはないのではないだろうか。

もし立法者が刑罰の一つとして、腕を一本、あるいは、足を一本切り落とすという刑を新たに設けると言い出したら、その場合人はどういう反応を示すだろうか。多分、多くの人はそんな残酷な刑は止めたほうがいい、止めるべきだと言うのではないだろうか。それはもっともなことであり、そういう刑罰はあってはならないことはもちろんだが、けれども、このような刑罰よりも死刑ははるかに残酷だろう。肉体の一部分どころではない、肉体の全部、命を奪って無にしてしまおうというのだから。ドストエフスキーの仲間の一人はかいくぐった運命の苛烈さのために刑場で気が狂ったというが、彼が宣告を受けていた刑がもし死刑ではなく腕や足の切断だったとしたらどうだっただろう。発狂することはなかったのではないだろうか。永山則夫氏についても、真相はどうなのか私には知りようがないが、死刑確定後の彼が精神に変調をきたしているという話を伝え聞くこともあった。
2010.08.10 Tue l 死刑 l コメント (1) トラックバック (0) l top
  冤 罪
死刑制度の是非について考えたり議論したりする場合、その核心にあるのは、必ずしも冤罪の可能性への危惧というわけではないと思う。死刑問題の核心は、人の心を寒からしめるような犯罪を実際に引き起こした人間への刑罰としての死刑が法として社会に存在してもよいか否か、ある人が人を殺したからといってその人を殺すということが許されるか否かということではないかと思われる。けれども、現実には司法における冤罪の可能性ということは常に問題とされてきたし、今もされている。実際、死刑を否定する人のなかには、理由として、一点、冤罪の可能性への懸念を挙げる人は実に多い。そしてこれはしごくもっともだと肯けることである。過去に4人もの確定死刑囚が冤罪を認められて釈放になった事実がある。その他、冤罪の疑いを言われながら、自らも冤罪を訴えながら確定死刑囚として獄中に囚われている人もいるし、それどころか冤罪の身で死刑執行されたのではないかと疑われている人も相当数存在する。近いところでは、2008年10月に死刑執行された飯塚事件の久間三千年さんがそうである。久間さんについては、時事通信によると、執行1年後の2009年、当時の中井洽国家公安委員長でさえ、「再審で事件が見直された可能性もあったとの考えを示し、執行を「残念」と述べ」ている。国家公安委員長の立場にある人のこういう発言は、久間さんの死刑執行は冤罪によるものであった、少なくともその可能性が限りなく高いものであったことを意味していると受けとって差し支えないだろう。

法務省や法務大臣は、執行対象者の選択について、その都度、資料・書類をよく調べて有実であることを確認して選んだというが、それでは久間さんの場合はどうだったのだろう。これでは「事前によく調査した」という法務省や法相の常套句がまったく当てにならないことを自ら証明していることになるだろう。法務省が人命を尊重するという当たり前の人権感覚と職責に対する深い自覚をもっていたならば、久間さんの問題が浮上してきた時点ですべての死刑執行を停止していただろう。そういう意味でも今回の千葉法相の命による執行は重大だと思うのだが、久間さんの場合、そもそも、執行手続きの段階で法務省、法相ともに、事件の鑑定試料がすべて使い切られていたことに不審感をもたなかったのだろうか。あの時どのような理由で久間さんは執行対象に選ばれたのだろう。詳細を知りたいと思う。

死刑の存続を主張する人も冤罪の可能性については当然考慮せざるをえないわけで、そういう人のなかには、冤罪の可能性がまったくない人間、犯行を行なったことが100%確実である人の場合は法にのっとって粛々と死刑執行をつづけるべきだと言う人がいる。しかし死刑判決も、執行前の資料調べも、人間のやることである。久間さんの例を見れば分かるように、その時点で多くの人間、それも専門家が犯行はこの人物が行なったと見て間違いはないと確信していても、後々どんな不意打ちが待っているか知れない。それほど人間は例外なく不断に過ちをおかす生きものなのだ。大事にあたって相対的に過ちをおかす危険性の少ない人は、常にそのことを自覚し、肝に銘じている人のなかにこそいるだろうと思う。ソクラテスの言う「無知の知」と同次元のことだろうと思う。

風間博子さんは「埼玉愛犬家殺人事件」で元夫と共謀して殺人を行なった疑いで1995年に逮捕され、昨年死刑が確定した人である。私は風間さんに関する裁判資料をそのすべてではないが、ある程度は読んでいる。一審から最高裁にかけて法廷に提出された検察側、弁護側それぞれによる弁論要旨、検察官論告書、上訴のための弁護人・被告人の趣意書、事件関係者の尋問調書、そして判決文、等々。

その読みこみを通して感じとったこと、発見したこと、推理・考察したことを私はブログ(カテゴリ欄「埼玉愛犬家殺人事件」)で一通り書いている。何しろ素人の身であり、勘違いや誤解や見方の偏りも多々あるかも知れないとは思うものの、多数の資料のなかに検察官が主張し、判決文が認定しているような、風間さんが元夫と共謀して二件三名の人の殺人を計画・実行したという判定の裏付けとなる証拠を私は一つも見せてもらうことができなかった。逆に、資料を読み進めれば進めるほどに、風間さんは殺害計画・実行ともに何の関与もしていないという感触を強めさせられ、深めさせられるばかりであった。

この感触には、特に判決文を読んでいる時の感触には過去に覚えがあった。かつて、松川事件や八海事件や仁保事件などの冤罪事件を扱った本や資料を読んでいる時に覚えた感触と同じなのである。何が同じかというと、第三者である読者の目には白と映るものを裁判官はなぜか黒と判定する。そしてそれを説明する時の言い回し、言いくるめる手法が同一に感じられるのである(認定のやり方は、特に松川事件の二審の判決文(注)と大変よく似ているように思われた)。ここは風間さんの裁判を検討している場ではないので、これ以上詳細については述べない。ぜひ記事を読んで事実を知っていただきたいと思うが、簡単なたとえ話で言うと、朝8時に出発した電車には乗客は8時までに駅のホームに到着していないと乗ることはできない。風間さんは8時には駅に着いていない。他の証拠から推測して駅に着くことができるのは8時5分以降なのだ。しかしこれに対して裁判官が用いる論法は、たった5分の違いしかないのだから、8時に到着したことにしても構わないとして、8時の電車に乗ったことにするのである。そうしてその後の風間さんの行動のすべてを8時に電車に乗った人の行動として認定するのだ。そのために、判決文の事実認定には読み進めるにつれ、いたるところで齟齬が発生し、矛盾が噴き出している。要約すると、この事件の裁判官は一・二審ともに科学、それも小学生にも理解できる次元の科学を無視し、詭弁に次ぐ詭弁(非常に巧みではある)の連なりのような判決文を作成しているように私には思われた。判決文を読んでいるかぎり、「証拠裁判主義」を謳った刑事訴訟法317条の「事実の認定は、証拠による」という規定などは、どこか遠いよその国の条文としか感じられなくなるのであった。

どのような背景のもとでこのような不公正な事態が生じているのは分からない。しかしこれは紛れもなく現在の司法の世界で起きていることである。これ自体は(つまり判決が不公正であることは)死刑制度の是非論以前の問題ではあるが、現に風間さんには死刑判決が出て、死刑が確定しているのだから、今ではもう直接的に死刑の問題でもある。冤罪はどんな場合でも取り返しのつかない出来事ではあるが、生きていれば、冤罪が証明されればその時点で釈放されることができる。久間さんの場合を見れば分かるとおり、死刑はそれさえ不可能にする。この側面から見ても死刑はやはり存在してはならない刑罰だと思うのである。

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

(注)裁判長は、17人の被告人に対して死刑4名、無期2名を含む有罪判決(3名は無罪)を読み上げた後、被告人たちから「自分たちはやっていない」とはげしい抗議を受けると、「やっているかいないか、真実は神様にしか分かりません」と言い放った。裁判長と被告人たちの応酬はその後もつづいたが、緊迫したやりとりの模様は録音されて今も残っている。
2010.08.01 Sun l 死刑 l コメント (6) トラックバック (0) l top
7月28日の1年ぶりの死刑執行のニュースには驚いた。千葉景子氏は法相就任時から死刑廃止論者と喧伝されていたし、これまでの経過を見ても9月までの千葉氏の任期中には執行はないと思いこんでいた。私も「死刑を廃止してほしい」と思っている者の一人なので、最近は千葉法相が退任するかも知れない9月以降のことがチラチラ気にかかっていた。ところがここにきての二人の人の死刑執行。千葉法相が自ら執行に立ち会ったという報道にも私は少なからず驚かされた。いったいどんな事情があったのだろうか。

朝日新聞によると、法務省の幹部は「法にのっとって執行しないことには、国民的議論なんて始まらない」「一度執行した上で『自分も苦渋の決断をした。その上で議論をしたい』と言えば、説得力がある」などと述べていたそうで、案の定、執行後、法務省内では、「重い決断を下したのは立派だ」と法相の決断を称讃する声がしきりだそうである。これは絵に描いたような官僚らしい発想であり感想だと思うが、アムネスティの「日本支部声明 : 死刑執行に抗議する」には、下記の見解が表明されている。

「今回、千葉法相は、死刑の在り方について検討するための勉強会を立ち上げるとともに、東京拘置所の刑場についてマスメディアの取材の機会を設けるよう指示した、と発表した。しかし、死刑制度に関する情報公開や、存廃に関する公の議論は、死刑の執行を正式に停止してから行うべきである。一方で人を処刑しながら、他方で死刑についての議論を行うという行為は矛盾しており、執行を続けながらの検討は、死刑の正当化を後押しするものになるとの危惧を抱かざるを得ない。」

上記の発言のうち、アムネスティの「一方で人を処刑しながら、他方で死刑についての議論を行うという行為は矛盾して」いるとの指摘に私はまったく同感する。一方、法務省幹部の「法にのっとって執行しないことには、国民的議論なんて始まらない」という言い分は、何が何でも死刑制度を続けていくための無理無体、こじつけの論理に過ぎないように思う。死刑に関する国民的議論を始める意思が法相および法務省にあるというのなら、アムネスティが述べているとおりここで執行をしてはいけなかった。死刑に関する議論を誰のためにやるのかといえば、その対象は、直接的には他の死刑の確定している人とともに、他ならぬ死刑執行された篠澤一男さん、尾形英紀さん二人のはずだった。

もし現在日本の監獄に確定死刑囚が十人、あるいは五人だけだったら法相はどうしただろうか。いや端的に、死刑囚が篠澤一男さん、尾形英紀さんの二人しかいなかったとしたらどうだっただろう。「法にのっとって執行しないことには、国民的議論なんて始まらない」ということで、議論を始める前に二人に対して死刑を執行したのだろうか。そうして死刑囚の誰もいなくなったところで死刑に関する議論を始めようとしただろうか。おそらく、そんなことはしなかったのではないだろうか。その実態・光景の空虚さ、無意味さ、無残さは誰の目にもあまりにも明白だと思うが、もしそうであるならば、今回の執行にも同じことが言えるだろう。確定死刑囚の人数が二人であろうと、百人だろうと、一人一人は別々の人間である以上、事態の本質には何の変わりもない。国民的議論を始めるというのなら、その当事者である二人への執行をしてはならなかった。

そもそも、法務官僚が口にしている「法にのっとって執行しないことには、」云々の発言は私には脅迫にしか聞こえないのだが(それが誰に対するものかは不明ながら)、この人物は、日本の裁判史上、死刑が確定した後に再審によって無罪となった冤罪事件に免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件の四事件があることをもう覚えていないのだろうか。いやしくも法務官僚として死刑に関わっているのなら、これはいついかなる場合でも肝に銘じておくべき最重大事項であるはずだ。今回死刑執行を伝えるニュースのなかに、わざわざ刑事訴訟法の第475条の「2 前項の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。」という条文を掲載している記事をネットで見たが、もしこの法規が杓子定規に適用されていたならば、上の四事件で被告人とされた人たちは全員無実の罪で殺されていた。この事実ほど、かのモンテーニュが述べたという「冤罪は実際のどんな犯罪よりはるかに重大な犯罪である」という認識の正しさが実感されることはないと思う。

今回の千葉法相の決断は上述の法務官僚の考え方に納得するところがあってのことなのか、それとも他の理由によるものなのか、今のところ私にはよく分からないが、ただ、上の法務官僚の発言に見られる欺瞞的・詭弁的思考法は今や官僚のみならず、また政治家のみならず、マスメディアを中心にそこいら中に蔓延し、当たり前のように流通していると思う。他ならぬ死刑廃止を語る人のなかにもその傾向を見ることがあるし、言論上のタブーの存在もさまざまに感じられる。こういう社会的空気のなかで昨年法相に就任した千葉氏は死刑について広く議論しようとしても、その契機を社会、市民のなかに見出すのはなかなか難しかったのではないだろうか。これは直覚的な印象に過ぎないが、そういう側面もあったかも知れないと思う。というのも、かりに議論を呼びかけられていたとして、一人の市民である私自身がそれに率直に反応できたかどうか、実は今ひとつ自信がない。死刑に関する自分の考え・意見を素直に自由に表明するには根本的に気になること、疑問に感じること、躊躇するものが数多く存在した。そういう自分の消極性に今忸怩たる思いを感じてもいるので、次回から死刑についての自分なりの考えを書いてみようかと思う。
2010.07.30 Fri l 死刑 l コメント (2) トラックバック (0) l top
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