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工藤美代子氏の「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」のでたらめぶりを取り上げた当ブログのこの記事に対して、最近いくつかコメントの投稿があった。この人たちはどうやら工藤氏のあの本を熱烈に支持しているらしく、初めから話が噛み合いそうもなかったが、投稿がつづいたので、一応返事を書いた。そのなかで、「 工藤氏があの本で述べていることは、たとえば、「広島と長崎に原爆を落したのは、じつは米国ではなかった。別の○○という国だった」などという主張レベルの、全編これまったく根も葉もないデマゴギーだと思います」と書いたところ、 次のコメントが反ってきた。

「この本全部読みましたが、この文章一寸覚えが有りません。こんな酷い文章は、何ページに書いてあるのでしょうか?」

原爆うんぬん、の箇所が工藤氏の文章に対する一つの比喩と受けとられずに、工藤氏の地の文章の記述と受けとめられたらしいことには唖然としてしまった。当方の書き方がいくらまずかったとしても、さすがにこれはないのではないか。工藤氏は、「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」のなかで、震災時における朝鮮人についての流言蜚語を皮肉った芥川龍之介の言葉を、故意かどうかは分からないが、直線的に大真面目に受けとめてとんちんかんな感想を書きつづり、結果としては著書本人の無知や鈍感や滑稽さを晒していた。あの本には同種のこと(常識外れの特異な受けとめ方)が他にもいろいろあったと思うが、そういう点でこのコメント主と工藤氏は感覚がよく似ているのではないだろうか? 「あの著者にしてこの読者あり」…なんて言ったら、さすがに言い過ぎかな? 言い過ぎですね、すみません。さてこの方のコメントには次の文句もあった。

「次にあの本には当時の新聞記事の画像が載っていませんが、ググれば多くの不逞を働いた朝鮮人の新聞記事が見つかります。そこには工藤美代子氏の主張することが書かれています。あなたがデマゴギーと主張することと矛盾しませんか?」

工藤氏の著書が盲目的に依拠した「当時の新聞記事」「多くの不逞を働いた朝鮮人の新聞記事」が、いかに官憲におもねった、でたらめのかぎりをつくした犯罪的なものであったかは、当ブログ(ここここ)で、山田昭次氏の著書を参考にするなどしてわりあい詳細に書いている。どうもこのコメント主はろくろく当のブログ記事も読まずに(一方、「当時の新聞記事」や工藤氏が書いていることには何の疑いも持たずに頭から信じこんでいる様子である。)、当該コメント欄に文句のコメントを書きこんでいるように思われる。その上、今日は下記のコメントが来ている。

「その他にも突っ込みたいところ満載ですので、
 そろそろ、この休み中に返事が頂きたい。 」

どうやらこの方は、前述したご自分のコメントの突っ込みが大変鋭くすばらしいので、ブログ主(すなわち当方)は返事ができなくて困っていると思われたようでもある。そういう心境でいるらしきところに水をさすようで申しわけないのだが、これでは意思の疎通のとりようもなく、またこの方には意見のやりとりに最低限必要な論理性も欠けているように思われる。したがってこれ以上のコメントのやりとりは不毛と思われるので、今後この方のコメントは削除させていただくことにしたいと思う。また、この場合と同種のコメントと当方が判断したコメントについても同様の措置をとらせていただくことにする。はなはだ一方的な措置とは思いますが、この点、ご了承のほどどうぞよろしくお願いいたします。
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2012.07.28 Sat l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (5) トラックバック (0) l top
工藤美代子著「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」について、もう少し述べておきたいことがあるので、これまでに書いた部分と重複するところもあるかと思うが、書いておきたい。

工藤氏は、吉野作造について、

「「朝鮮人が虐殺された」とする説の展開に最も指導的な役割を担った吉野作造博士」

と書いている。吉野作造については、琴秉洞氏も「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」のなかで、

「この虐殺事件の時に良心的に活動した日本人の一人である吉野作造」「史料77~79は東大教授吉野作造の文である。78の「朝鮮人虐殺事件に就いて」は有名だが、吉野にはこの外にも「圧迫と虐殺」と題する原稿があって、これは前出『関東大震災と朝鮮人』(みすず書房刊)に収録されている。/ 史料78に「手当り次第、老若男女の区別なく、鮮人を鏖殺(おうさつ)するに至っては、世界の舞台に顔向けの出来ぬ程の大恥辱」とあるが、当時、学者で彼ほどに朝鮮人問題に好意的であったものはいない。」

と述べているように、その訴え、主張が当時の社会にあって際立って説得的であったことは事実のようである。しかし、もし彼が何かの都合でこの問題に関する言葉を何も発しなかったとしたら、関東大震災時における権力と自警団・住民による「朝鮮人虐殺」が歴史的事実として認識されることがなかったかといえば、そんなことはありえない。権力側が流す言い分をそのまま紙面に載せた震災直後の新聞各紙のデマゴギー(山崎今朝弥弁護士が当時述べた「新聞社の見識のないことと意気地のないこと。」という発言を想起すべし。)や、内田良平のような右翼のこれも何ら具体的根拠をもたない独断的言説に依拠する以外、自己の主張の理由・根拠を一切提示することもできないまま無責任にもデマに充ち充ちた本を書き、発表してしまう工藤氏や版元の姿勢とはまったく様相を異にする、震災直後から如何に日本人による朝鮮人への酷たらしい虐殺、朝鮮人狩りが各所で頻発したかということのきわめて具体的な目撃証言及び体験証言は無数に存在するからだ。

たとえば、以前に当ブログで触れたことだが、中野重治は「在日朝鮮人の問題にふれて」において、志賀直哉と佐左木俊郎という二人の人物の震災体験について書いている。まず志賀直哉の『震災見舞』の方だが、その一節には、奈良から上京した志賀直哉が目撃した日本人の言動が次のように描かれている。

「そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけて休んでゐる時だつた。丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。
『――叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかつたのがある!』刺子の若者が得意気にいつた。『――鮮人が裏へ廻ったてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ』刺子の若者は自分に気を兼ね一寸此方を見、言葉を切ったが、直ぐ続けた。『然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ。』二人は笑つてゐる。ひどい奴だとは思つたが、平時さう思ふよりは自分も気楽な気持でゐた。」

もう一人の佐左木俊郎という人物のことだが、この人は震災当時『新潮』の編集者だったようだが、その体験について、『小説新潮』(1972年9月号)に今東光は「青葉木菟の欺き」という題で次のように書いているそうである。

「……幸いにして彼(引用者注:佐左木俊郎のこと)はずつと後(昭和5年)になつて『熊の出る開墾地』という作品を世に問うまでに至つたのである。
 ところが、佐左木俊郎は大正12年9月の関東大震災に命を失うことなく助かつたが、あの混乱の中で朝鮮人虐殺事件が起つた時、彼は朝鮮人に間違われて電信柱に縛りつけられ、数本の白刃で嬲殺しに近い拷問を受けたのだ。彼は、
『日本人という奴は、まつたく自分自身に対して自信を持つていない人種ですな。僕の近所の奴等が僕が自警団員のため額や頬をすうと薄く斬られ血まみれになり、僕は彼等に日本人だということを証明して下さいと叫んでも、ニヤリと笑うだけで首を振つて保証してくれる者が一人もないのですよ。男ばかりでなく親しい近所の女房どもさえ、素知らぬ振りなんです。僕はこの時ほど日本人だということが恥ずかしく厭だつたことはありません』
『其奴等は今どうしてる』
『なあに。ケロッとしたもんですよ。あの時、口を出したら自分等も鮮人と思われるから怖かつたつてね』……………」

体験記といえば、江口渙の「車中の出来事」も同様である。工藤氏は、内田良平の「震災善後の経綸に就て」(工藤氏は「善後」を「前後」と記しているが、「現代史の会」編の「ドキュメント 関東大震災」には「善後」とあるのでこちらを用いた。)を引用しているが、内田良平は、

「今回の震災に乗じ社会主義者及び一部不逞鮮人等が爆弾を投じ或は放火を縦(ほしいまま)にし或は毒殺、掠奪其他在らゆる非道なる兇行を逞うしたるは天下万人の斉(ひと)しく認むる所にして一点疑ひの余地を存せざるなり。」

と、「社会主義者及び一部不逞鮮人等」による「爆弾を投じ或は放火」「毒殺」「掠奪」が「一点疑ひの余地」なく存在したと言い切っている。しかも、それを「天下万人の斉(ひと)しく認むる所」とまで断定しているところを見ると、この人物はこけおどしや嘘を用いることに躊躇しない人物のように思える。この文章にそのような断言をするだけの根拠は一切示しえていないからだ。「社会主義者及不逞鮮人の徴章と符号」の題の下で記されている文章はたとえば次のとおりである。

「彼等が投弾放火其他の凶行には予じめ其場所を指定し置き、兇行担当者は其場所に於て兇行を行ふこととなしたるものの如く、下記の符号は早きは一ケ月以前より塀或は井戸側等にインキ若くは白墨等にて記し置きたるものなり。雑司ケ谷の如きは九月一日震災後間もなく此の符号を井戸に着け廻したる事同方面の調査報告中にても知らるべし。但し、該符号は必ずしも全部一致し居らざるが如く、方面により多少の相違なきにあらず、想ふに是れ其指揮者を異にせるによるものならんか。」

徴章は、ヤ(殺人)、ヌ(爆弾)、A(放火)、●(石油放火)、その他、井戸投薬などの分かりやすい簡単な徴章から複雑で奇怪なものまである多種の徴章や符号について、社会主義者及び一部不逞鮮人が示し合わせて塀や壁に書き記したものと主張している。工藤氏の著書にも内田良平主張のこの「徴章と符号」が掲載されている(P208。関心のある方は参照されたし。)。湯浅警視総監や四谷警察署はこれらの徴章・符号について「掃除人夫の符号なりとて打ち消し」があったそうだが、内田良平は、これについて

「 四谷署発表の符号は他と比べて極めて複雑である。当該「中央清潔会社」へも内田は出向いたが、人夫たちが解雇され不在で社長では要領を得なかった。つまり、元来、符号の役割があるとすれば、仲間同士の間で通用しなければ意味がないのだから、符号の存在自体を、本人以外には分からないというのでは怪しいといわざるを得ない。」

などと述べている。だが、これは悪質であることはもとより何とばかばかしい主張であることだろうか。大地震の予知が出来る人間などいるはずもなく、実際この震災により何万、何十万の人々が命を落とし、重軽傷を負い、地震と火事の恐怖に怯え切り、また飢えてもいるのである。このような状況下で、在日朝鮮人には、日本人と違いそのような危機は身に迫っていなかったとでもいうのだろうか。「大地震の9月1日は、人も我もひたすら恐怖と不安のうちに日を暮らし、夜を明かした。」(嶋中雄三)ということだが、このつらい心情・境遇は朝鮮人も同じことであったろう。いや、異国の地で遭遇する大災害なのだから、まして当時の在日朝鮮人は来日2、3年未満の極貧の人々がほとんどだったそうだから、日本人以上に心細さ・不安・恐怖は大きかったはずであるが、ともかく、寺田寅彦の「流言蜚語」を読めば、内田良平が言うところの「徴章と符号」の言などは朝鮮人暴動捏造のための戯言以外の何ものでもないことが誰にも得心されるのではないかと思うので、もう一度引用しておきたい。

「「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。もしもその町内の親爺株の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化らないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が、有効に伝播したとしたら、どうだろう。それは、このような明白な事実を確実に知っている人が如何に少数であるかという事を示す証拠と見られても仕方がない。
 大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。
 例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
 仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。 (略)
 爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。
 尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。
 科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。」(寺田寅彦「流言蜚語」)

工藤氏がその著書で朝鮮人暴動があったことの根拠の一つとした内田良平の言い分などは、寺田寅彦の上の文章に明確に表れている良識的・合理的姿勢の前ではいっぺんに吹き飛んでしまう儚いものでしかないことがよく理解されるのではないだろうか。震災時の朝鮮人虐殺問題について発言した右翼のなかには、上杉慎吉という人物もいたようで、琴秉洞氏はこの人について次のように述べている。

「史料80の上杉慎吉は(引用者注:吉野作造と)同じく東大教授である。憲法学看で国粋主義者として知られ、同時期、右翼の頭山満、内田良平らと「震災善後措置ニ関スル建言書」(後出)に名をならべ、朝鮮人暴動は事実であったと支配層たる官憲の意図通りに動いた人物だが、この80ではその警察官憲こそが自動車、ポスターで「○○(鮮人)襲来、放火、暴行」を宣伝していたことを明言し、その責任を問うている。皮肉であり矛盾のようでもある。」

その「史料80」とは次の文章である。

「 警察官憲の明答を求む 上杉慎吉
 私は数百万市民の疑惑を代表して、簡明に左記の五箇条を挙げて、警察官憲の責任に閲し明答を得たいと思ふ。
 一、9月2日から3日に亘り、震災地一帯に○○襲来放火暴行の訛伝謡言が伝播し、人心極度の不安に陥り、関東全体を挙げて動乱の状況を呈するに至つたのは、主として警察官憲が自動車ポスター口達者の主張に依る大袈裟なる宣伝に由れることは、市民を挙げて目撃体験せる疑うるべからざる事実である。
 然るに其の後右は全然事実に非ずして虚報であつたと云ふことは、官憲の極力言明して打消して居る所である。然らば警察官憲が無根の流言輩語を流布して民心を騒がせ、震火災の惨禍を一層大ならしめたるに対して責任を負はなければなるまい。
 二、当時警察官憲は人民に向て○○○○の検挙に積極的に助力すべく自衛自警すべきことを極力勧誘し、武器の携帯を認容したのであつた。而して手に余らば殺しても差支なきものと、一般をして何となく信ぜしめたのである。而して之を信じて殴打激殺を行つた者は到る処に少からぬのである。此れ等の自警団其の他の暴行者は素より検挙処罰すべきこと当然であるが、さて之に対する官憲の責任は如何。
 三、仮りに警察官憲が之を勧誘教唆したのではないとしても、彼の場合にあれだけの大騒擾大暴行を起して、之を予防も鎮圧も出来なかつたと云ふ、職務を盡くさざりしの責任はどうする。
 四、当時警察官憲は各種の人民を見界なく検挙し殴打した。遂に之を段戮し、其死体は焼棄てたと云ふことは亀戸事件にも見えて居る。此の警察官憲の暴行には軍隊も協同したと云ふことであるが、警察官憲は無責任と云ふわけには行くまい。
 五、憲兵が大杉を殺した事件には警察官憲の諒解承認又は依頼勧誘があつたものと疑はれて居る。
 既に疑があれば、憲兵方面では甘糟大尉が軍法会議に移されたと云ふだけで、大杉と野枝と子供と三人を殺したと云ふ事実はまだ疑はしいのに、断然司令官迄が責を引きたるが如く警察や政府の方面でも、即時罷免其他責任を明にする処置は執らねばならぬであらう。詳しく論すれば論じ度きこと多くあるが、明瞭を期する為め、右の五点の要領を述べる。之を述べる所以は、これだけの事が明にならぬと云ふと、数百万市民の胸が治まらぬからである。(談)」(『国民新聞』1923(大正12)年10月14日夕刊)

この文章には、同じ右翼でも内田良平のものと異なり悪辣さは感じられないように思うが、これはむしろ内田良平の主張内容が酷すぎるということなのだろう。琴秉洞氏の内田良平評は下記のとおりである。

「内田は「鮮人の暴挙と残虐行為とは、掩ふ可からざる事実にして、而かも公憤を発した市民が、自衛の為にこの不逞鮮人を殴打し又はこれを殴殺したのは実に止むを得ないこと」と云い張るのである。まったくの茶番劇で当初、内務、治安当局の意図通り、又は意図以上に動き、大虐殺が外国に知られては困ると判断した政府が、朝鮮人暴動流言のトーンダウンを図ると、逆に政府当局に食ってかかるという手の込んだ演出までやる。何のことはない。政府当局が彼等に朝鮮人問題で食ってかかられたということは、為政者の公正さを内外に示すというおまけまでつくことになるのである。」


目撃・体験記といえば、「朝鮮人虐殺における知識人の反応」には、島中雄三という人物の次の文章も収められている。琴秉洞氏の解説には、

「史料126の島中雄三は、大正デモクラシーの申し子の一人で、評論家、社会運動家である。この文は大震一年後に発表された。この島中の体験記は実に貴重なものと思う。朝鮮人襲来の流言を聞いた彼は直ちにウソだと断定している。それだけでなく、朝鮮人狩りにいきり立っている自警団と真正面に向き合って彼等の非なるを説きつづけている。島中自身が群衆から「叩き殺せ」の罵声を浴びながらの奮闘である。生半可な知識人、人道主義者のやれることではない。社会および権力の在り様を見透した真の日本人の典型を見る思いである。島中雄三の弟雄作はこの数年後中央公論社の社長になる人物として有名。」

と記述されているが、「史料126」の表題は「自警団」で、副題に「震災当時の思ひ出」とある。発表されたのは震災から一年後の9月である。以下に引用する。


「自警団  震災当時の思ひ出」 島中 雄三

 自警団とは、昨年九月大震火災の混乱に乗じ、恐怖と陰謀とが野合して生み落した私生児である。
 今はもう影も形もないやうであるが、この私生児が犯した大罪悪は、思ひ出すさへ戦慄を禁じ得ぬ。
 大地震の九月一日は、人も我もひたすら恐怖と不安のうちに日を暮らし、夜を明かした。幸に私は、地震の被害も少い山の手に住み、火の手にも遠かつたので二日はや平静に帰った。久世山の高見から、下町一帯の猛火を見おろしながら不思議にも無事であり得た自分たちの幸運を喜ぶ心と.想像だも及ばぬ幾十萬の悲惨な死を傷む心とに.交々自分々ひたらせた。丁度その頃である。下町の方からワーッワーッと喊の聲が起り、ついで『朝鮮人が朝鮮人が』といふ声が人々の口から聞えた。夕方であつた。十八九の青年が真青な顔をして死物狂ひで駈け抜けたと思ふと、竹槍棍棒をもつた若者十数人が、ドヤドヤとそれを追つかけた。久世山一帯の避難者は、何事とも分らず騒き立った。女子供は顔色かへて遁げた。
 青年はやがて捕まった。と見るや三つ四つ続け様に打たれて、その場に倒れた。群衆はその周囲に集まつた。
 が、多くの人々の期待に反して、獲物をもつた若者たちは、すごすごと青年の周りを離れた人々は物足らぬ顔を見合せた。
『朝鮮人ぢやないんだつて、日本人だつて。」
『馬鹿な奴だなア。日本人なら日本人つて言へばいゝのに。』
『顫えてばかりゐてまるで口がきけないのさ。可哀さうに。』
 口々に人々は言ひ合つた。
 私は、何故とも知れぬ恐れにふるへ上つてゐる子供たちをすかしたり慰めたりしながら、遠くからそれを眺めてゐた。憤りが胸を突いて来る。けれども、何うしやうもない。
『朝鮮人が何か悪いことをしたのでせうか。』
『さァ、何ですか。何でも頻りに火を放けてまはつてゐる朝鮮人があるツて言ひますが。』
 近所のK氏はさういつて、解せぬ顔付をしてゐた。
『朝鮮人てトテモ悪い奴なんだね あの火事は皆鮮朝人が火をつけたんだつてね。」
『朝鮮人て世界中で一番悪い奴なんだって。』
『朝朝人をみんな叩き殺してしまふといゝんだね。」
 子供たちは可愛い顔をしてそんな恐ろしいことを口にしあつた。
 これは大変なことを言ひふちすものだと私は思つた。けれども思っただけで何うしやうもなかった。
夜に入ると朝鮮人の噂はますます烈しくなつて来た。朝鮮人を追ひかける群集の喊の声は、物凄くあつちこつちで起つた。
『皆さん朝鮮人が到るところに放火して歩いてゐます。各自に警戒して下さい。男の方は一人づゝ自宅に帰つてゐて下さい。竹槍でも棍棒でも何でも用意して、朝鮮人と見たら叩きのめして下さい。』
 かう音つて大声にふれ廻る若者の一隊があつた。
『此の上火を放けられちやたまらないな』私は苦笑した。
『ほんとでせうか』妻はウロウロし出した。
『嘘だよ嘘だよ。そんな馬鹿なことがあるものか。』
『でも……』
 そのうち石油の臭ひがすると言ひ出すものがあつた。
『臭い臭い。』
『石油石油だ。』
 人々はいよいよ騒ぎ出した。
『まつたくですわ。ほら、石油の臭がしますわ。』
『さうかね。』
『ほら、するぢやありませんか。』
 さう言はれてみればそんな臭ひがせぬでもない。
『石油の臭ひか知ら。』
『石油ですよ、石油の臭ひですよ。あなたは鼻が悪いから。』
 私は言はるゝまゝに自宅へ帰つた。真暗な中から提灯を探し出して蝋燭を鮎じ手に手ごろの竹の棒をもつて、兎も角お附合ひに家の附近を見張りした。
 この頃までは、まだ自警団といふやうなものはなかつた。しかし金盥を叩いたり拍子木を打つたりして、様々の流言を傳へて歩く若者の一群はあつた。それは私たちの住む小日向台町附近の人ではなくして、皆他区の人のやうであつた。
 私の住む小日向台町一帯の附近は、大体に所謂知識階級が多く住んでゐた。官吏勤人、大学教授や新開雑誌記者や、さうした種類の比較的わかつた人が多かつた。同時に此等の種類の人は、東京といふ土地を一種の植民地のやうにしか思つてゐない。二十年住んで居ようが三十年住んで居ようが、東京は唯仕事の便宜上或は生活の便宜上、身を託してゐる足留地である。従つて自分を守ることは知つてるるが公共の仕事に熱心ではあり得ない。隣り合せて住んでゐても、口をきゝ合ふなどは極めてめづらしいといふ有様である。それは多くの人が、自分の住む所以外に故郷といふものをもつてゐる関係からである。だからいざとなれば故郷へ帰る。それが此の人たちの強みである。それだけに東京市民としての騒い意識は此の人たちにない。
 不意の大きな天災は、しかし此ういふ人たちにも、隣保扶助の心を起させたのは事実である。長年壁一重に住みながら口をきいたこともなかつた隣家の主人同志が.急に現しく話し合ふやうになつたのはそのその証拠である。此の隣保扶助の心は、人間の生れながらにもつてゐる本来の心であるか、或は一時の変態心理であるかは兎も角、当時のあの大きな自然の叛逆に錯愕おく所を知らなかった人々にとつて頼みになるものはたゞ同じ災に顫へた人々の心であつた。この心が互に結び付いて頭上にふりかゝる当面の災害を防止するために一致の行動を取らうとするのも必然である。もし自警団といふものが.かういふ必然の心理過程によつて起つたものであるならば、よしその行動に過誤があつても、恕されていゝ事情がある。
 ところが実際はさうでなかつた。
 二日の夜、といふよりも三日の明方である。二三十人の何処から来たともなき若者一群が、手に手に武器をもつて叫んだ。
『朝鮮人三百人の一隊が、今此の久世山を目がけて押し寄せて来ようとしてゐます。女の人や子供は遁げて下さい。男は皆武器をもつてこゝで防いで下さい。』
 之を聞いた避難者の群れは、俄に上を下へと騒ぎ出した。女たちは顔色をかへて遁支度に取り掛った。寝てゐた子供たちは泣き出した。『さァ大変だ』といふので、男たちは手に手に竹槍棍棒をもつて起ち上つた。
『敵は何処だ。何の方面だ。』
 此に至つて私の全身は怒りに顫へた。何といふ不埒な、そして愚妹な民衆!
 私はしかし静に言つた。『君たちは何かこゝで朝鮮人を相手に戦争をおッぱじめようといふのか?』
 若者の一人は私の顔を見て黙ってゐた。
「朝鮮人々々々といふが、何を証拠に朝鮮人が火を放けたと君等はいふのか。朝鮮人のうちにも、悪い人間はあるかも知れない。しかし朝鮮人の悉くが放火犯人だと何うした断定するのだ.日本人のうちには朝鮮人よりももつと悪い人間が沢山あるだらう。君等朝鮮人を悉く叩き殺してしまふつもりなのか。」
 私の声は次第に激した。成るべく落ち着いて物を言はうとするが、その声は我ながら驚くばかりに高かつた。
『朝鮮人であらうが九州人であらうが、同じ日本の同胞ぢやないか。同じ震災に遭うて身の置きどころもない気の毒な羅災民ぢやないか。君たちはそれを助けようとしないで、叩き殺さうとするのは一体どういふ積りなのだ。もしさういふ事をした時に、将来日本にとつて伺ういふ禍を起るかといふことを考へてみたのか。』
『何だ、何だ。馬鹿なことをいふ奴があるな。何処の奴だ。』
『日本の人民でありながら怪しからんことをいふ奴だ』
『殴れ殴れ。』
『叩き殺せ。』
 群集は私を取り巻いた。私は自分の危険を感じないではなかつたが.しかし騎虎の勢ひもう止むを得ない。手にした握り太の竹の棒をふり廻しながら、私は一団の首謀者とも見える年嵩の男に肉迫した。
『三百人の鮮人といふが、果して悉く悪人だと君は認めますか。』
『あなたは少しも下町方面の事情を知らないからそんな事をいつてるのです。認めるも認めんもない。皆奴等が火を放けて廻つてるのだ。』
『よし。確にさうであるなら僕もこゝで君等と一緒に戦はう。内地人であらうが朝鮮人であらうが.さういふ不埒な奴に封して容赦はしない。だが、君、もしさうでなかつたら何うするのだ。僕は警察へ行つて聞いて来る。替察ではそれを何と認めてゐるかたしかめて来る。それまで待つていたまへ。』
『警察なんかあてになるかい。』
『警察のいふことが信用できないで君等のいふことが信用できると思ふか。」
 そこへ一人の若者が口を出した。
『私は警察へも行つて来たんです。警察では避難民だらうといふのですが、警察のいふことは全く信用ができません。』
『警察で避難民だらうといつてゐるものを君等が勝手に放火隊にさめてしまつてゐるのだね。さうだね。』
『勝手にきめてゐるンぢやない。朝鮮人と見れば、片つ端から殺しちまへといふ命令が来てゐるんだ。いつまで訳の分らんことをいつてると叩つ殺してしまふぞ。』
 少し離れて大声でさう怒鳴つたものがある。
『さうださうだ。やれやれ。やッつけろ。』
『諸君、馬鹿なことを言はないでも少し気を落ち付けたまへ。いゝか。君等の心持は僕にも分る。僕等も同じ日本人だ。しかし、さういふ乱暴なことをした結果がどんな重大なものだかを考へてみたまへ。もし君等が、朝鮮人であるが故に彼等を征伐しようといふんなら、以ての外のことだ。僕はこゝで朝鮮人の味方して君等と戦ふ。』
 さう言つて私は彼等を睥睨した。首脳者らしい年長の男は、周囲の者に何事か私語いた。私が二言三言いふ間、彼等は黙つてゐた。私はもう言ふべきことを言ひつくしたので静に彼等のそばを離れた。
 夜がしらじらと明けはじめた。此の時になつても、彼等の所謂三百人の朝鮮人の一隊は何処にも見えなかづた。避難者たちはやつと少し落ち着いた。すると、今までいきり立つてゐた若者たちは、ぞろぞろ、ざわざわ、何かさゞめき合つてるたが、やがてそのうちの一人の最後に言つた言葉は、私にとつて永久に忘れない謎である。
『君この邊は駄目だ。あつちへ行かう、あつちへ』かうして彼等の一群は、音羽の方へ向つて去つた。
 その翌日から、自警団といふものが私の町内にも組織された。しかしそれは一種の強制であつた。それが組織される前に、今いつたやうな若者の一団が、各区各所に出没して盛んに活動したことは事実である。何者の命令によつてであるかそれは知らぬ。兎にも角にもそれが所謂自警団なるものゝ正体であることは、大正震災史を編むものゝ逸すべからざる重要事であると思ふ。 」(『文化運動』1924(大正13)年9月号)
2010.11.17 Wed l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (0) トラックバック (0) l top
     
関東大震災時における「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」のなかで、編者の琴秉洞氏が、もしかするとただ一人、まるで、「問題のある発言をしているけれど、こういう型の人間では、対等に取り扱って叱ってみても仕方がない」とでもいうかのように、さしたる批判もなく通過している(ように見える)人物があった。それが小説家の「葛西善藏」なのだが、琴秉洞氏はあるいは、震災に関する廣津和郎の文章を読み、そこに描かれている葛西善藏の姿を見てそのような判断をされたのかも知れない。

震災に関する廣津和郎の文章は、「年月のあしおと」(講談社、1963年刊)から一部を抜いたということだが、これは「葛西善藏の「蠢く者」」という小見出しが付いた文章の一部分であり、琴秉洞氏は、

「鎌倉に住んでいた広津は、「町役場からだと云って、自転車に乗った男が」朝鮮人襲来を触れまわっているのを聞いて、「そんな莫迦な話があるものか」と言下に否定している。そして、葛西善藏に建長寺の菅原管長が竹槍を持って出た話を聞いて広津はこの管長に批判的に対している。広津の良識の眼は曇っていない。」

と廣津和郎を評しているが、一方、「代表的私小説作家葛西善藏の大震記」をも取り上げていて、その葛西善藏については、

「自己および自己周辺の人々を題材に凄絶な葛藤の世界を描く巧者だが、ここでは素直に自然の猛威に脱帽している感がある。彼はこの時期、鎌倉建長寺の塔頭、宝珠院に起居して創作にはげんでいた。それにしても「管長さん始め、僕なぞも○○など持って○○○警戒に出た」とあるが、葛西のような云わば一種の幼児性のある男はともかく、建長寺の管長ともあろう善知識(であろう、と思う)が、一犬虚を吠えて高大実を伝う図を地でいっていたとは驚きでもある。」

と、「葛西のような云わば一種の幼児性のある男はともかく」と述べていて、琴秉洞氏の批判の対象は「建長寺の管長」である。下に廣津和郎の「葛西善藏の「蠢く者」」を掲載しようと思っているが、この文章を読んで、廣津和郎について二つ感じたことがあった。その一つは、この人にはどうやら合理的な思考の習慣がしっかり身についていて、ちょっとやそっとのことではそれを失うことのない型の人物であるらしいこと(松川事件への取り組みもその一つであったろう。戦中も勇ましい(?)ことを述べたことはおそらく一度もないはずである。)、もう一つ感じたのは、心の底に日本人全体に対するある種の不信感が一貫してあるのではないかということである。

震災の際の朝鮮人への対応についても「ああ云う場合、この国の人間には、野蠻人の血が流れているのではないかという気がする。」と書いているが、「心臓の問題」という文章にも、1936年の2・26事件から間もなく、街を息子(おそらく十代後半だったと思われる)と一緒に散歩していた時、息子が警官に「おいこら」と乱暴な呼び止められ方をして近くの派出所に連れて行かれたことを書いている。その時息子は学帽を被らずにいたためか、人相がある達しの人物に似ているとかの理由で呼び止められのだが、それに対して「何の用なのです?僕はこれの父親なのだが……」と質問や抗議をする廣津和郎に対し、その警官は「父親? ふん、父親でも構わん。この男をしらべる事がある。向うに行っていろ」からついには「君は警察というものを知るまい。訊問、検束、みな自由なのだぞ。」とまで言ったらしい。その威嚇――特に「検束が自由」と述べたことへの廣津和郎の衝撃と怒りは大きく、「訊問はまだよろしい。併し人民を検束する事が警察の自由であるとは。――これは一つの恐怖である。」と書いている。その怒りは家に帰ってもどうしても治まらないので、警視総監に抗議の手紙を10枚も書きかけたそうだが、丁度心臓を悪くしていた時で、その心臓が益々興奮を強め、とうとう手紙を書きつづけることができなくなったと述べている。その他、防空演習の際の燈火のことで、血気にはやった青年たちが規則づくめに凝り固まってしまって、人の事情説明など聞こうとせず、居丈高に命令したりすることがあったり、そんなこんなを経験しているうちに、廣津和郎は次のように感じるようになったという。

「若し何かの規則を作って、その規則で何かを民衆に言ってもよいという権限を与えたら、日本人はみな警官になり得る素質を持っているのかも知れないと考え、とうとう苦笑して、灯火を消してしまって、ベッドの上に仰向けに転がった。――人をとがめていいという権限を与えたら、日本人はみなその人をとがめる権限を享楽しそうである。規則の内容は問題にせずに、その規則の適用範囲を拡げるだけひろげて、人をとがめる事に喜びを感じそうである。」(「心臓の問題」文藝春秋1937年)

     
廣津和郎が自分は若い時からニヒリスティックな傾向がつよかったと書いているのを何度も見たことがあるが、エネルギッシュでねばりづよい松川事件への取り組み方を見ていると、そういう側面がどうも分かりにくかったのだが、最近何となく理解できるような気もする。それでは、以下に「葛西善藏の「蠢く者」」を引用する。


「葛西善藏の「蠢く者」」  廣津和郎著
 葛西(善藏)も宇野浩二と同じく、大正八年頃から確固たる地歩を文壇に占めて来た。そして震災の二、三年位前から、鎌倉建長寺の或寺の部屋を借りて、そこに住んでいた。
 あの震災に關聯して、今思い出しても日本人として堪らない気持のするのは、各地に起つた例の鮮人騒ぎである。日頃から鮮人をいじめていたということから来た、復讐を受けやしないかという強迫観念か、或は国内の革命でも恐れるために、わざと国民の気持を、彼等に向けさせるために、何ものかがあんな策動をしたものなのか、とにかく鮮人に對して、あの時日本人の行つたことは、これは何とも辯解のしようのない野蠻至極のものであつた。ああ云う場合、この国の人間には、野蠻人の血が流れているのではないかという気がする。
 鎌倉でも同じことで、田中純の家に避難している時、或日の午後、町役場からだと云つて、自轉車に乗つた男が、「今鮮人の一隊が小袋坂まで押し寄せて来ています。横須賀の海軍の陸戦隊があそこを守つていますが、突破されると、合図の鐡砲を打ちますから、それを聞いたら武器を持つた男の方たちは、門前に出て下さい。婦女子と子供は山に逃げて下さい」と云つて解れまわつたものである。
 私は、
そんな莫迦な話があるものか。鮮人が地震を予知していたわけではあるまいし、何虞で勢揃いし、何虞からやつて来るというのだ。かりに横濱あたりで勢揃いしたところで、一體何しに鎌倉になどやつて来るのだ。たといやつて来るにしても、保土ヶ谷や戸塚の青年團がそれを通すか。そんなことは絶封に考えられないよ。僕はこれから寝るから、ほんとうに鮮人が来たら起してくれ。――若しほんとうに来るとしたら、家が焼かれるかも知れないから、山に逃げる人たちは、野宿のために、毛布か掻巻の一枚ぐらい宛持つて行くんだな」と云つて、人々を安心させるために、畳の上にひつくり返つたら、實際に眠つてしまつた。
 夕方眼をさましたが、無論鮮人など来る筈はなかつた。
 その翌日私は建長寺に葛西を訪ねて行くと、建長寺附近でもその騒ぎがあつたらしく、
「ここの菅原管長は見上げたものだぞ。昨日は竹槍を持つて出て来て、村の若者と一緒に寺の門前を守るというのだからな。はじめは寺の寶刀を持つて出て来たが、注意した者があつたので、竹槍に代えたが、とにかく村の若者と一緒に、竹槍を持つて、鉢巻をして出て来るところが愉快だよ」と葛西は面白そうに云つた。
「愉快なものか。圓覚寺の古川管長はどうしていた?」
「禪堂に籠つたきり出て来なかつたそうだ」
「それでこそ管長だよ。あんな場合、管長位がおちつかなくつてどうするんだ」
「いや、管長などと云つておさまらずに、村の若者と一緒に竹槍を持つて出るのが面白い」
 實に他愛のない云い合いであるが、そして日頃菅原管長に感心しているわけでもない葛西であるから、何虞までが本気でそんなことを云つているのか解らないが、しかし鮮人問題では私は腹が立つていたものだから、ついむきになつて、
「おい、葛西、君の小説はうまいよ。名人藝には違いないよ。だが、その名人藝は、君が建長寺の屏風に雀を描いたら、その雀が朝な朝な米を食いに屏風から飛び出したという傳説でも出来そうなうまさだよ。だが、雀がとび出したつて、そんな藝術は古いんだぞ」と云つてしまつた。
 そこで葛西と喧嘩別れの形で別れたが、それから間もなく汽車が通じるようになると、葛西は私のところには別れの挨拶もしに来ず、鎌倉を引揚げて東京へ行つてしまつた。
 葛西は本郷の方の下宿におせいさんと一緒におちついたという噂を聞いたが、私のところにははがき一本よこさなかつた。
 それから半年ぐらいの後、多分大正十三年になつてからであつたと思うが、「中央公論」に葛西が久しぶりで「蠢く者」という小説を書いたので、それを讀むと、思わず私は眉をひそめた。それは葛西が下宿で結核で血を吐いてだんだん衰弱して行きながら、おせいさんにいじめられたり、撲られたりする何とも云われぬみじめな小説だからである。
 葛西は昔から自分が相手をいじめながら、自分が相手にいじめられたと書く癖のある男である。葛西に惚れ込んでいる谷崎精二に云わせると、葛西には強迫親念があって、自分がいじめられていると思うのが、葛西に取つては實感なのだと葛西のために弁解しているが、私は谷崎のその同情ある見方にはあまり賛成していない。(略)
 私は谷崎のように同情的な見方はしていないので、葛西の書くものを、十分警戒して讀んでいるのであるが、しかしこの「蠢く者」はあまりにみじめ過ぎる。私はおせいさんが葛西に三度三度、雨が降つても風が吹いても、自分の家である牛僧坊下の茶店から、葛西の寺まで食膳をはこんでいたのを知つているし、深切で、優しく、忍耐強く、長い間酔つ拂つて管を巻く葛西の介抱をしていたのを知つている。そのおせいさんが、血を吐く葛西をいじめたり、撲つたりすることは考えられないと思いながらも、葛西のこの小説は、葛西がいじめられるそのみじめさが眞に迫つている。
 これは一度見舞に行かなければならないと思うと、私はじつとしていられなくなつて、或晩本郷の下宿に葛西をたずねて行つた。
「中央公論」の編集の伊藤君が、葛西の「酔狸洲七席七題」の口述を筆記しているところであつた。
 私が彼の部屋に入つて行くと、「おお、廣津、とうとう来た、廣津はやつぱり来た」と葛西は云つて立上るなり、私に抱きつき、「来た、廣津はこれ、この通り、おお、やつぱり来た」とベろべろと私の頬を舐めまわすのである。葛西はべろんベろんに酔つていて、息は酒臭かつたが、小説で讀むと、彼は結核で盛んに血を吐いているとある。その血を吐く口で、頬を舐めまわされるのはやりきれたものではない。結核菌が顔中にべたべたくつつく気がする。
「もう解つた、解つた」と云いながら、私は彼の近づけて来る口を両手で遠ざけた。
 それからやつとおちついて、彼は彼の座に戻り、私は伊藤君の横にすわつたが、葛西の机の上には線香立があり、彼は伊藤君に口述筆記をさせる問、時々線香立に線香を立て、一寸黙祷するような恰好などをするらしい。
 酒を飲み、線香を立て、彼流のとりとめのないお喋りをしながら、時々気が向くと、さて口述筆記となるのであるが、それはほんの数行で、又酒を飲み、線香を立て、黙祷し、駄辯り、そして気が向いた時、續きを口述するという風らしいので、筆記原稿はいくらも進まないらしい。こうして毎日葛西の口述筆記をしにやつて来て、彼の野狐禪的な気焔をじつと聞いていなければならない伊藤君の忍耐は大變なものであろう。
 おせいさんはと見ると、鎌倉時代と同じ善良な顔をして、しかしその頃から見ると、大分世帯やつれを見せながら、部屋の隅にしずかに坐つていた。
 葛西をいじめたり撲つたり――とんでもない。凡そそんなことがある筈はない。小説にあるように小さくなつているのは葛西ではなく、おせいさんである。荒れる葛西におとなしく辛抱強くかしずいている昔ながらのおせいさんである。
 又一杯葛西に喰わされたか、と思つたが、別に腹が立つわけではない。あの「蠢く者」の迫眞性に、警戒しながらもつい引つかかつてやつて来たということが、わけもなくおかしくもなるのであつた。 」(「年月のあしおと」講談社1963年)

     
廣津和郎が朝鮮人襲来の噂の件について上で述べていることは、科学者であり随筆家でもあった寺田寅彦が震災後に「流言蜚語」で述べていたことと内容的にひどく似ている。以下に、その「流言蜚語」の一部を引用する。

「 例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
 仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。
(略)
 爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。」(「流言蜚語」(1924(大正13)年9月 『東京日日新聞』)

     
また、作家の佐多稲子が書いていることだが、震災の際に近所のおかみさんが述べたという発言も同じ種類のことであった。佐多稲子は、震災の頃はたしかまだ独り身で、中野重治や後に結婚することになる窪川鶴二郎など同人雑誌「驢馬」の人達と知り合う前のことだったと思うが、「朝鮮人大虐殺に関する知識人の反応」を読むと、震災についてこういう文章を書いている。

「 私はこのときのことをおもい出すたびに、同じ長屋で親しくしていたひとりのおかみさんの言った言葉を同時におもい出す。日頃から気性の勝った人だった。夫は旅まわりの劇団についてまわっている貧しい興行師で、その留守中、病人の舅と幼い娘を自分の内職で養っている、そういう人であった。とにかく騒然とした一夜が明けて、長屋のものが半壊のわが家のまわりに寄り合ったとき、ひとりが自分のゆうべの恐ろしかった経験を話し出した。話し手の彼女は、一晩中朝鮮人に追いかけられて逃げて歩いた、というのだ。それを聞いたとき、興行師のおかみさんは、利口にその話を訂正した。彼女はこう言ったのである。朝鮮人が暴動を起したなんていったって、ここは日本の土地なんだから、朝鮮人よりも日本人の数の方が多いにきまっている。朝鮮人に追いかけられたとおもっていたのは、追われる朝鮮人のその前方にあんたがいたのだ。逃げて走る朝鮮人の前を、あんたは自分が追われるとおもって走っていたに過ぎない、と
 私はこの訂正を聞いたとき、強いショックでうなずき、兼ねてのこの人への尊敬をいっそう強くしたり全くそのとおりだとおもったし、しかもそういう判断にいっこう気づかなかった、ということにショックを受けた。 」(「下町のひとびと」)

廣津和郎も寺田寅彦も、そしてこのおかみさんも、しごく当然の合理的な見解を述べているのであり、こうして読んでいると一も二もなく肯けることだが、しかしこのような当たり前の発想・考え方はその時点では周辺と隔絶していたのだ。おかみさんの話をきいてすぐに納得した佐多稲子はやはり怜悧な人だと思うが、こういう人でさえ、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という風評に対してそれまで特に疑念をもったり、反発している様子はない。とすると、私などはさらに自分はそうではなかったろう、真相を見抜けていたはずだと言い切れるかどうか。常に自省・自戒していなければならないのだが、それでは、現在の日本社会はどうなのだろうか。1995年に神戸で大震災が発生した時、関東大震災のことが一瞬頭に浮かんだりしたということを在日朝鮮人の作家が書いているのを二篇ほど読んだことがある。その時、私は本当に意外なことを聞いたように思い、そんなことはもう決してない、そう言い切ってもいいと思い、むしろ危機に遭遇していまだにそのようなことを思い浮かべる人がいたということにショックを感じたものである。

今でも、再び同じことが発生することは今後はもうありえないと思っているが、どうしてもわだかまりが消えないのは、日本政府がこの事件について、本や資料などで知るかぎり、自警団の一部を起訴して有罪にしてはいるものの、それは形式を踏んだだけのもので、その他に当然なすべき調査もしなければ、被害者に対して何らの謝罪も補償もしていないということである。何事もそうだと思うが、特に弁解の余地のない悪事をなしてしまったら、謝罪をするしかない。謝罪をするとしないとでは現在だけではなく、将来においても天地の差が出てくることは間違いないように思う。だからこそ、また大きな災害や事件が発生した時に、形を変え、今度はまた別の対象に向かった攻撃が起きないとはかぎらないように思えるのである。何か一つ事が起きると、一斉にある一点に全神経、全注意を向けてしまうという、「長いものには巻かれろ」「みんなで渡れば怖くない」式の日本人の性向に根本的な変化はないのではないか、というよりこのところそのような傾向がむしろつよまっているのではないかという気もするのである。
2010.11.03 Wed l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (0) トラックバック (0) l top
琴秉洞氏が編纂された2冊の分厚い「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」(緑蔭書房1996年)から、 関東大震災時における体験記や詩作品を抜き出して紹介したい。人間の残忍さに恐怖する記録の数々とともに、人物の見識の高さや人間味の豊かさに救われる気持ちになった文章も多かった。そのなかから今日は江口渙が9月1日の震災からそう間のない11月に『朝日新聞』に2回にわたって発表した文章と萩原朔太郎が震災翌年の2月号のある雑誌に発表していたという詩を引用する。江口渙、萩原朔太郎ともに(他の文章についても同様)、琴秉洞氏が懇切な解説を書かれているのでまずその文を先に載せ、その後に作品を引用したいと思う。ここですこし感想を述べると、江口渙の「車中の出来事」にはその場の情景が目に生々しく浮かんできて、恐怖や嫌悪で身体が凍りつきそうな気がした。江口渙は「無防備の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにはいかなかった。」と書いているが、江口に限らず、2冊のこの本には、当然のことのように思われるが、「つくづく日本人が嫌になった」「もう自分が日本人の一人であることが嫌になった」というような感想は実に多く見受けられた。

萩原朔太郎の三行詩「近日所感」は私も初めて読んだ。「その血百里の間に連なれり」の「その血」は、他ならぬ日本人が殺した朝鮮人の血に他ならないことを作者が暗澹たる気持ちでじっと見ていることが感じとれる。「こういう詩を書いていたんだ!」と驚きとも感慨ともつかない感じをうけたが、しかし、それよりもさらに驚きと感銘をうけたのは、この詩をはじめて読んだという琴秉洞氏が述べている、この詩から受けとられた底知れぬほどの感動の深さに対してであった。琴秉洞氏はこの本(1・2とも)の扉裏のすべてに朔太郎のこの詩を採用していられる。


それでは、まず江口渙についての琴秉洞氏の解説から。

「 史料162~163の江口渙は作家で社会運動家としても知られる。その創作および社会活動は、「蒼白きインテリー」の代表にも擬せらるる小説書きの世界において、その骨太さの故に異彩を放つ存在である。
 162の「車中の出来事」は大震の年の2月後に【東京朝日新聞】に発表されたものであるが、この時期に「大和魂」に対して、心から侮蔑と憎悪を感じた」という勇気には驚きの念を禁じ得ない。(管理人注:江口渙は震災の7年後にもう一つ朝鮮人や社会主義者殺戮に関する文章を発表していて、この本にも収載されている(史料163)。これは、琴秉洞氏の解説をそのまま記すと「内相水野こそ虐殺事件の最初の点火者と名指している。当時、すでに濃厚な疑いをもたれ、論証は弱いながらも内相水野を点火者と断定しているのだ。次に驚くべきことは、大杉栄は憲兵隊本部でなく、麻布三聯隊の営庭で銃殺されたと断言していることである。恐らく元帥畑俊六の日記の存在は知る筈もなく「その秘密は当時麻布三聯隊にいた一年志願兵の口から端なくも暴露された」としているが、それにしては大変な情報を公表していたものである。」とのことだが、大変迫力のある文章である。ただ、長いものなので、今回はこちらのほうは割愛する)」(「琴秉洞氏の解説」より)


  車中の出来事   江口 渙 
   上
 屋根と云う屋根は無論の事、連結機の上から機関車の罐の周囲にまでも、丁度、芋虫にたかった蟻のように、べた一面、東京からの避難民を乗せた私達の列車が、赤羽の鉄橋を北へ渡ったのは、九月八日の午後六時すぎででもあったろうか。
 汽車の中は、地震の噂、火事の噂、鮮人、社会主義者の噂でもって一杯だった。何処で如何に丸焼けに逢ったか、そして何処で如何に生命がけに、だが如何に勇敢に逃げ延びたかと云う風な事が、機関銃の雨を冒して敵陣を乗っ取った勇士のような態度と矜持とでもって話された。然も少しでも多く丸焼けになり、少しでも多く生命がけで逃げた者ほど、尚更みんなの称賛を博していた。そして、この際人間としてむしろ焼け出されたのが本当で、焼け出されないのは間遠っているのだと云う風な感じさえ与えた。だから地震にも火事にも逢わない私などが同じ汽車に乗り合わせているのは、はなはだ肩身のせまい事であった。
 汽車が荒川の鉄橋を殆ど渡ろうとした時だった。みんなの話しに耳を貸しながらぼんやり外を眺めていた私は、一丁足らずの上流を、岸に近く、何か白い細長いものが流れて来るのに気がついた。多量に水蒸気を含んで鈍く煙った雨上がりの薄暮と、うす濁りのしている河水のために、最初はその白いものが何であるか、少しも見当がつかなかった。
 然し、畦の草叢の上を一群の人々が、その白いものを追い駈けるらしくぞろぞろやって来るのを見た時、殊にみんな手に手に竹槍や鳶口らしいものを持っている上に、白いものに向かってしきりと石を投げつけているのを見た時、それが何であるかを私ははじめて知つた。
「あれは何です」
 傍に立っていた若い男がこう私に訊いた。
「どうも死骸のようですね」
「きっと××[鮮人-編者]でしょうね。それとも主義者かしら」
「さあ。どっちですかね」
 重そうに流れて来る白い細長いものと、投げられた小石がその周囲にしきりにあげる飛沫に眼をやりながら、私は押し潰されるような気持ちでもってこう答えた。そして、更に息をころして尚もそれ等のものを見詰めた。
「やあ××[鮮人]。××[鮮人]」
「何。××[鮮人]だ。何処に。何処に」
「あれを見ろよ。あれを」
こんな叫びがあっちこつちに起こつたと思うと、車内は忽ち物狂わしい鯨波の声でみたされてしまった。そして、一度に総立ちになったみんなは、互いに肩や頭を押しのけてまでも、ひたすら上流の河面を見ようとさえ焦った。
 やがて汽車が鉄橋を渡り終わってそれ等のすべてが視界から消えさった時になっても、人々の動揺は鎮まらなかった。そして××[鮮人】と主義者との噂がなおさら盛んに話されたのは云うまでもない。

   下
 それから二十分程たった後だった。私から三側後の座席で突然喧嘩が始まった。三十四、五歳のカアキ一服を着た在郷軍人らしい男と、四十前後の眼鏡をかけて麦藁帽子をかぶった商人かとも思われる男とである。その男は地震でのびたらしい不精髭をはやして、白シャツ白ズボンで肩から水筒をかけていた。喧嘩の原因はどっちかが足を踏んだとか踏まないとかと云うのらしい。向き合って腰をおろした二人はしきりと大声で罵り合った。「そらッ。喧嘩だ」というので、物見高い車中の眼は、たちまちその方へ注がれた。しかし誰も仲裁なんかしようともしない。却って弥次ったりケシかけたりした。
 喧嘩は暫時続いていた。すると在郷軍人らしい方が、片手を網棚にかけて、突然座席へ突っ立ち上がった。
「諸君、こいつは××[鮮人]だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」
 こう叫ぶと片手で相手を指差しながら、四角い顎を突出して昂然と車中を見渡したと思うと、いきなり足を揚げて頭を蹴った。この場合、××[鮮人]と云う言葉が車中にどんなショックを与えたかは、私が説くまでもない。車内はたちまち総立ちになった。叩くような怒声と罵声が一面あたりに迸って、血の出るような興奮がみるみる無気味な渦を巻き起こす中で、みんなの身体は怖ろしい勢いで波を打った。
「おら××[鮮人]だねえ。××[鮮人]だねえ」
 押し合いへし合い、折重なって詰め寄った人間の渦の下から」時どき脅え切ったその男の声が聞こえた。然も相手がおろおろすればする程、みんなの疑いを増し昂奮を烈しくするばかりだった。
 やがて次の駅についた時、その男はホームを固めていた消防隊と青年団と在郷軍人団とに引渡された。そして、手と云わず襟と云わず遮二無二掴まれて真逆さまに窓から外へ引き摺り出されたと思うと、何時か物凄い程鉄拳の雨を浴びた。
「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ」
 私は思わず窓から首を出してこう叫んだ。側にいた二三人の人もやはり同じような事を怒鳴った。然しホームの人波はそんなものに耳を貸さない。怒号と叫喚との渦の中にその男を包んだまま、雪崩を打って改札口の方へ動いて行った。そして、何時の間にか鳶口や梶棒がそっちこっちに閃いたと思うと、帽子を奪われ眼鏡を取られたその男の横顔から赤々と血の流れたのを、私は電燈の光ではっきりと見た。
 こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。私には、一箇月程だった後に埼玉県下に於ける虐殺事件が公表された時、あの男も一緒に殺されたとしか思われなかった。そして無防備の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにはいかなかった。ことに、その愚昧と卑劣と無節制とに対して。」
             (『東京朝日新聞』1923(大正12)年11月11・12日]


「 史料237の萩原朔太郎の「近日所感」は、『現代』大正24年2月号の「近作一什」という、詩人、歌人、俳人19人の作を集めた項の欄に載ったものである。私には朔太郎は高村光太郎とならぶ高名の詩人という位の認識しかなく、彼の詩集も「月に吠える」というのがあったなあ、とかすかに覚えている程度で、勿論、中身はろくに読んでもいない。しかし、この「朝鮮人あまた殺され云々」の 近日所感」を眼にした時、私はほとんど雷に打たれたかのようであった。このような詩を雑誌に発表した人がいた、というのが先づ大きな驚きであった。萩原朔太郎という詩人が日本の詩の世界でどんな評価を受けているのか、どんな立派な、または拙い詩を書いているか、後にどんな良いこと、悪いことをした人物なのかは問う所でない、という実に主観的な、衝動的な非理性的極まる想念に頭が満たされたものである。
 この詩こそは、大震時の朝鮮人虐殺と関連した良心的日本知識人の至高の意志表現であろう。この詩を書いたときの朔太郎の思想と感情の純粋さと高さを、他の日本知識人の積極的肯定型、消極的肯定型、大勢順応型の文、言と比較してもらいたい。朔太郎のこの詩の前では、文だけでなく人間そのものが忽ち色槌せてゆくのが判るだろう。この史料集の各中扉裏にこの詩をおいた所以である。」(「琴秉洞氏の解説」より)


  近日所感   萩原朔太郎

 朝鮮人あまた殺され
 その血百里の間に連なれり
 われ怒りて視る、何の惨虐ぞ  」

          (『現代』1924(大正13)年2月号)

   注:惨虐(さんぎゃく)
2010.11.02 Tue l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (1) トラックバック (0) l top
「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」(工藤美代子著)は、2009年12月の刊行(その前(2008年5月から翌年7月までの1年以上)、『SAPIO』に連載されていたことは前に書いた。)だが、いったいなぜ今この時に、このような内容の文章が雑誌に連載され、単行本として出版されるようなことになったのだろうか。私には、これは「ナチスのホロコーストはなかった」「南京虐殺は嘘である」といった本と同種の、歴史を歪め、ねじ曲げるためのデマゴギー本と瓜二つに見える。関東大震災発生の1923年と言えば、今から87年前のこと。震災の体験・記憶をもつ人はほぼ亡くなってしまっていることや、現在の日本社会が極端に右傾化の傾向が強まっていること、特に2002年の朝鮮民主主義人民共和国による日本人拉致事件発覚以後の在日朝鮮人に向ける日本社会の視線の厳しさなどを奇禍として、もうこういう本を出してもいい、大事にはいたらないと、著者、編集者、出版者ともどもそう考えたのだろうか。

それにしても、本書の内容のお粗末さには恐れ入るばかりである。究極のところ、この本は、震災発生当初の「2000人の朝鮮人襲来」「朝鮮人恣に掠奪、暴行」などのデマを満載した新聞記事を鵜呑みにし、それを「事実」と見なし(しかしそれが「事実」であることを示す証拠は本のなかにただの一つも明示されていない。したくてもできなかったのだろうが)、丸写しにした代物である。著者は、日本人(自警団)は暴行・虐殺を恣にする朝鮮人に自衛手段として対抗し、その過程での過剰防衛の結果朝鮮人虐殺もいくらかは発生した、と述べ、この全体を指して「「朝鮮人虐殺」の真実」と主張しているわけである。

工藤氏は、菊池寛(の朝鮮人暴動に関する発言)に触れた芥川龍之介の文章に対して「いったいどういう感覚をしていればこんな読み方ができるのだ?」と言いたくなるような摩訶不思議な解釈をしていたが、この事例ほどあからさまではないが、他の知識人に関しても不審なことをさまざま書いている。自警団の呼び出しに応じてそれに参加した内村鑑三や井伏鱒二の文章に対して、また震災で崩壊する以前の横浜を哀惜した谷崎潤一郎の文章に対しても、「初めに朝鮮人の暴行・略奪ありき」という自分の主張に沿うようにその趣旨をねじ曲げた解釈をしているのだ。

内村鑑三や井伏鱒二の日記・文章を読むと、確かにイヤイヤ自警団に参加しているようには見えない。かといって、朝鮮人の放火や暴行や井戸に毒を入れたなどの流言を信じている様子も見えない。つまり、彼らはこの問題については一切触れていないのだ。この触れていないことに関する批判はありえると思うし、事実、琴秉洞氏は内村鑑三について、「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」のなかで「朝鮮人虐殺問題に、只の一言も触れずに通した事実には驚嘆を禁じ得ない。」と批判している。内村鑑三は、聖書の読み取りをはじめとしたキリスト教理解の深さにおいて日本人クリスチャンよりも朝鮮人クリスチャンをはるかに信頼していることは彼の手紙などで明白である。琴秉洞氏はそのことを知っているからこそ、他でもないこのような悲惨時における内村の沈黙をいっそうつよく批判したのではないだろうか。

琴秉洞氏は、群馬県安中キリスト教会の牧師、柏木義円の主宰する『上毛教会月報』から、震災関連の柏木の文章を抜き、「どうか植村、内村の文と読み比べて戴きたい。軍隊出動の問題にしても、自警団評価の問題にしても、柏木の眼は透徹している。殊に(略)「此れ大虐殺に非ざるか」に至っては、義のためには、理のためには、冷酷、鉄巌の如き権力といえども正面に対して恐れない哲人のような柏木義円を実感させて余りあるものと云える。」と述べている。琴秉洞氏の上の文章に「植村」とあるのは植村正久牧師のことで、この人も震災を語るに際し、朝鮮人虐殺に関して一切触れていないそうである。しかし、そうであるからといって、「朝鮮人の暴行・掠奪があった」と主張する工藤氏が自己の主張に内村や井伏や谷崎が同調しているかのような書き方をしているのは、まさしく詐欺者の手法であり、卑怯この上ないのではないだろうか。

工藤氏は自著において「参考文献」として山田昭次氏の著書「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」を挙げているが、見たところ一向に参考にした様子はないようである。だが山田氏の本には、デマの流布の発生源やその後の経過を克明に物語る貴重な資料が豊富に掲載され、また各事実に対し深い分析・考察がなされていると思うのでこれから見てみたい。まず官憲側の資料から。(下線、太字による強調はすべて引用者による)

「 警視庁編・刊『大正大震火災誌』(25年)には、「流言蛮語が初めて管内に流布されたのは1日午後1時頃」で、富士山が大爆発を起こした、東京湾沿岸に大津波がくる、更に大地震の来襲があるといった自然災害に関するデマがまず流布され、午後三時頃には「社会主義者及び鮮人の放火多し」というデマが流布され、2日午前10時頃には「不達鮮人の来襲あるべし」、「昨日の火災は、多くは不達鮮人の放火または爆弾の投榔によるものなり」といったデマが流布されたと記されている(445~446頁)。
 デマの発生源については「9月1日の震火災起る、これ実に陰謀野心の徒の乗じ得べき好機会なれば、予ねてより鮮人暴動の杞憂を抱ける民衆が、直覚的にその実現を恐れたるも亦謂(まついわれ)なきに非らず」
と、民衆がデマの発生源だと断定した(453頁)。
 神奈川県警察部編・刊『大正大震火災誌』(26年)にはこの点に関しては「この時に当り一部不逞者の暴行掠奪等あるや、これ等の行為は針小棒大に、然かも僚原の火の如く伝わり、好事家これに付和して虚を大にし、人心は益々悪化すると共に極度の不安に陥り、警察当局が如何にこれを安定せしめんと欲するも、一度大なる惨禍に罹り不安に陥りたる人心は容易に緩和すべくもあらず」と書かれている(389頁)。本書は朝鮮人の暴行掠奪があったことにして、これを針小棒大なデマに作り上げたのが民衆で、警察はデマを押さえようとしたのだといっているのである
 私も民衆がデマを伝播させたことは認める。しかしこれら警察編さんの書物は、警察署や警察官がデマを流したことを隠蔽しており、ここに国家の事後責任がはっきり示されている。」(山田昭次著「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」(創史社2003年)

上の警察の資料は、震災後2、3年後にまとめられたものであるが、山田氏によると、地震発生日の9月1日の夕方には早くも警官や警察署は「朝鮮人が暴動を起こした」というデマを流したという。そのことを裏づける史料が同書には以下のように提示されている。


�東京市麻布区本村尋常小学校一年生 西村喜世子「だいじしんのおはなし」
 大じしんのとき、わたくしはいいぐらにいました。(中略)みんなで本村のほうににげてきました。〔中略〕それからゆうがたになったら○○○○○○○〔ふていせんじん〕がせめてくるからとおまわりさんがいいにきました。(東京市学務課編纂『東京市立小学校児童震災記念文集』24年。

�寺田寅彦「震災日記より」9月2日から
 帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが13人避難して来ていた。いずれも何一つ持ち出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○〔朝鮮〕人の放火者が徘徊するから注意しろと言ったそうだ。(琴秉洞、96年、285頁)(管理人注:琴秉洞氏によると、寅彦はこの報を聞いて日記に「「こんな場末の町へまで荒らして歩くためにはいったい何千キロの毒薬、何万キロの爆弾がいるであろうか」と科学者に相応しいきわめて冷静な判断を記しているそうである。)

�23年10月28日付け『報知新聞』夕刊市内版(記事要約)
10月25日に東京の本郷小学校で開かれた本郷区会議員・区内有志・自警団代表者の会合で曙町村田代表は「9月1日夕方曙町交番巡査が自警団に来て『各町で不平鮮人が殺人放火しているから気をつけろ』と二度まで通知に来た」と報告した。

�埼玉県入間郡入間町(現・狭山市)警察から発したデマ
 地方に於ける訛伝の一節として埼玉県入間町〔在郷軍人会〕分会長の口頭報告したるもの左の如し、
 9月1日午後7時頃警察署は警鐘を乱打し、警察官は和服に日本刀を帯び自転車に乗じて町民に左の如く警告せり。
 爆弾兇器を有する鮮人11名当町に襲来し内1名捕縛さる。此者は六連発短銃を携帯す、全町は 燈を滅し戸綿をせよ。(東京市、27年、294頁)

 ���は東京市内で9月1日夕方警察官がデマを流布したことを示す。�は埼玉県入間市(現・狭山市)で同日晩に警察署がデマを流したことを示す。 

 次に2日に警察署または警察官がデマを流したことを示す史料を挙げる。

�東京市麹町区富士見尋常小学校六年生 岩崎之隆 「大正震災の記」
 (9月1日の)夜が明けるが早いか巡査がやってきて、一軒々々に「かねてから日本に不平を抱く不逞○〔鮮〕人が例の二百十日には大暴風雨がありそうなのを知って、それにつけ込んで暴動を起そうとたくらんでいた所へ今度の大地震があったので、この天災に乗じて急に起って市中各所に放火したのだそうです。また横浜に起ったのは最もひどく、人と見れば子供でも老人でも殺して了(しま)い、段々と東京へ押寄せて来るそうだから、昼間でも戸締を厳重にして下さい」と、ふれ歩いたので、皆はもう恐くて恐くて生きた心持ちもなく、近所の人もひとつ所に集って、手に手に竹槍、バット等を持って注意をしていた。(東京市学務課編纂前掲書、琴秉洞、89年、346頁)

�東京市京橋区京橋高等小学校一年生 鈴木喜四郎「思い出」
 噫(ああ)-思い起せば9月1日時計の針が正に正午を報ぜんとする一刹那、地鳴りと共に、やにわに大振動。〔中略〕)〔2日〕日は西に傾いた。今晩は○○○〔不逞鮮〕人の夜襲があると言ううわさがぱっとたつと、巡査が「今晩は○○○〔不逞鮮〕人の夜襲がありますから気を付けて下さい」と叫びながらまわってあるいた。(東京市学務課編纂前掲書、琴秉洞、89年、370~371頁)

�中原村(現・川崎市)青年団員・在郷軍人会中原分会員小林英男の日記9月2日より
 この日、午後、警察より、「京浜方面の鮮人暴動に備うる為出動せよ」との達しあり、在郷軍人・青年団・消防団等、村内血気の男子は各々武器を携え集合し、市之坪境まで進軍す。(川崎市役所、300頁)

��は東京市内で9月2日に警察官がデマを流した事例である。�は警察署が同日、架空の朝鮮人暴動に対処して中原村の在郷軍人会分会や青年団員に武装出動を命じたことを示す。
 以上のように、1日夕方から個々の警察署や警官は朝鮮人が暴動を起こしたと宣伝し、2日ともなれば、在郷軍人会や青年団に武装出動を命じた例もある。ただし、時期から見てこれらは国家の中央からの指令に基づく行動ではなく、何かにつけて朝鮮人に神経を尖らす警察の日常の習性から現れた行動であろう。」(同 上)

さて、治安の中枢部である内務省の動きであるが、山田氏は「内務省警保局長の朝鮮人暴動の認定」について、次のように述べている。

「 治安の中枢部である内務省警保局長が朝鮮人が暴動を起こしたと認定して行動を起こしたのは、9月2日であったと考えられる。その根拠の第一は、船橋海軍無線電信送信所から9月3日午前8時15分に呉鏡守府副官経由で各地方長官宛に打電された内務省警保局長の左記の電文である (次頁参照)。これは東京で朝鮮人が暴動を起こしたと告げ、朝鮮人取締りを命じたものである。
 「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不達の目的を遂行せんとし、現に東京市内 に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし。」(琴秉洞、91年、185)
 電文の欄外には「この電報を伝騎にもたせやりしは2日の午後と記憶す」と注記されている。つまり騎兵が電文を受け取って船橋に向かって東京を出発したのは2日の午後であり、警保局長が朝鮮人暴動を起こしたと認定したのが2日だったことを示す。このことは次の史料とも符合する。次の史料は9月2日、埼玉県内務部長香坂昌康が9月2日の晩に郡役所経由で埼玉県内の町村へ発した指令である。

 「庶発第八号
   大正十二年九月二日
               埼玉県内務部長
 郡町村長宛
    不逞鮮人暴動に関する件
     移牒
 今回の震災に対し、東京に於て不逞鮮人の妄動有之、又その間過激思想を有する徒これに和し、以って彼等の目的を達せんとする趣及聞、漸次その毒手を振わんとするやの惧(おそれ)有之候に付ては、この際町村当局者は、在郷軍人分会・消防隊・青年団等は一致協力して、その警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度。右その筋の来牒により、この段及移牒候也。」 (吉野作造、24年、96頁)
 23年12月15日の衆議院本会議での永井柳太郎の演説によると、埼玉県の地方課長が9月2目に東京から本省つまり内務省との打ち合わせを終えて、午後5時頃帰ってきて香坂内務部長に報告し、香坂はその報告に基づいて上記の移牒を守谷属に県内の郡役所に電話で急報させ、各郡役所はこれを電話や文書で各町村に伝えた。
 したがって、この移牒が言うところの「その筋」とは内務省であり、内務省の指示に基づいて香坂は埼玉県内の郡町村に右の指令を発したのである。しかもそれが9月2日であり、警保局長が船橋に向けて騎兵に電文を持たせたのと同じ日である。東京市とその周辺五郡に戒厳令を布告したのも9月2日である。以上の根拠により、治安の中枢部の内務省警保局が朝鮮人が暴動を起こしたと認定したのは9月2日であると判断する。 」(同 上)

この時から、数日にわたり、工藤氏が朝鮮人暴動の証拠として挙げるデマ記事が新聞各紙によって一斉に報道されることになった。山田氏の同書によると、『福岡日日新聞』は3日、「横浜監獄を脱出せる暴行○○[鮮人]の一隊 百鬼夜行の態にて西進 静岡連隊の出動」「○○○○[不逞鮮人]二千の群 発電所襲撃の暴挙」「歩兵隊と戦闘開始 更に増援隊派遣」といった記事が掲載されたそうである。工藤氏の挙げる「事実」と何とよく似ていることだろう。

政府(山本権兵衛内閣)が政策転換を模索し始めたのは、前回述べたことだが、9月5日の「内閣告諭第2号」の「不穏な朝鮮人は軍隊、警察へ引き渡せ、云々」からだったが、その後10月20日には、司法省は、次のような発表をした。

「 今その筋の調査した所によれば、一般鮮人は概して純良であると認められるが、一部不逞の輩があって幾多の犯罪を敢行し、その事実宣伝せらるるに至った結果、変災に因って人心不安の折から恐怖と興奮の極、往々にして無辜の鮮人、または内地人を不逞鮮人と誤って自衛の意味を以て危害を加えた事犯を生じた…」(『国民新聞』23・10・21)

この司法省の言明について、山田氏は下記のように批判している。

「 つまり「不逞鮮人」の「犯行」があったのだから、朝鮮人が虐殺されても仕方がないという、弁解の口実として「不逞鮮人」の「犯行」が発表されたのである。」

山田氏は、司法省発表による朝鮮人の「犯罪」の詳細な表を本書に載せているので、詳細を知りたい方はぜひこの本(p94)を直接ご覧になっていただきたい。放火1件、脅迫1件、強姦殺人1件・4名、などの一見おどろおどろしい罪名が並んでいるが、肝心の中身はといえば、不思議なことにほとんどの例は加害者も被害者も氏名不詳、氏名の判明している人物は現在居所不明とされている。これに対し、東洋経済新報社の石橋湛山は下記のように述べている。

「官憲の発表に依れば、殆ど皆風説に等しく、多分は氏名不詳、たまたまその明白に氏名を掲げあるものも、現にその者を捕えたるは少ない。斯くてはその犯罪者が、果たして鮮人であったか、内地人であったかも、わからぬわけである。」(『東洋経済新報』23.10.27。)

また弁護士の布施辰治も『日本弁護士協会録事』(24・9)に掲載した「鮮人騒ぎの調査」で

「当局の発表した凶暴鮮人の暴行脅迫、放火強姦と云うのは、被害者の名前も判らなければ、被告の名前も判らない流言蜚語その儘の訛伝(かでん)が、死人に口なき被害者に鞭打つものではあるまいかを疑わなければ為らない」

と厳しく批判したが、山田氏によると、多くの新聞は「子供だましのような司法省発表の口車に乗せられてしまった」そうである。山崎今朝弥弁護士は『地震、憲兵、火事、巡査』でいわく、「知識階級とは無意識者の謂(いい)か。新聞社の見識のないことと意気地のないこと。」とのことだが、私も当時の新聞がこれほどまでに情けない、権力追従の露わな姿を晒しているとは思っていなかった。

なお、姜徳相氏は自著「関東大震災」(中公新書1975年)において、この件について「氏名の判明している金孫順、姜金山など、朝鮮人の名前としては奇妙であり任意に創作した疑いすら見られるが、その彼らも亀戸署に拘禁され、同署が類焼したため2日に解放され、所在不明とある。(略)朝鮮人の総員検束が始まったばかりのときに解放とはどういうことか。命があれば、必ずどこかの収容所に検束されていなければならないのに行方不明とはどういうことか。両氏は逆に亀戸署で虐殺された被害者の可能性が強いのである。」(p37)と述べている。
2010.11.01 Mon l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (4) トラックバック (0) l top
工藤美代子氏が著書「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」において、「朝鮮人の暴動」が発生したという確かな根拠を一つも示せない、しかし一見して刺激的な内容のさまざまな新聞記事(特に『河北新報』)を正確な報道と勝手に決めつけ、「ここまでさまざまな経緯を見てきたことで、(略)実際に襲撃があったからこそ住民と自警団が自衛的に彼らを排除したのだということが理解されると思う。」(p134)と、読者が唖然とせざるをえないようなことを述べていることは前回紹介した。しかし、その後、さすがに政府の姿勢は変化した。その変化について、工藤氏は「朝鮮人の襲撃はなかった」ということにされたといって、次のようにつよく非難している。(以下の下線および太字による強調はすべて引用者による)

「 理由もなく「殺人事件」が実行された事実はない。ない事実は「嘘」ということである。/ 朝鮮人による襲撃があったから、殺傷事件が起きたのである。/ 実際に起きた事実を後になって隠蔽し、「朝鮮人の襲撃はなかった」ことにしたのは、実は政府そのものなのである。俗にいえば自警団は政府によって突如としてハシゴを外されたのである。 震災発生当初、新聞各紙は暴行を繰り返しながら東京市内へ侵入してくる朝鮮人の犯罪を、事実の情報に従って大きく掲げ、国民に警戒を促す警鐘を鳴らしていた。ところが、間もなく戒厳令下の政府から事実の公表をとめられる事態となった。奇怪としかいいようのない「超法規的措置」がとられたのだ。奇妙なことに、朝鮮人による暴虐行為はなかったことに一転させられたのだ。」 (p135~136)

政府によって新聞社が「事実の公表」をとめられる事態になったのは、新聞各紙のそれまでの記事が実はデマであり、「事実の情報」ではなかったからではないか? というごく普通の疑問は工藤氏の脳裏には浮かばないようである。工藤氏は、これまで「これ、このとおり、朝鮮人の暴動は事実なんです!」と言わんばかりにしきりに「『河北新報』の記事を引用してきたが、山田昭次氏の「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」(創史社2003年)によると、その『河北新報』には、9月3日、

「危機に陥った東京 銃殺された不逞鮮人 已に数百に及ぶ」「四百名の不逞鮮人ついに軍隊と衝突 東京方面へ隊を組んで進行中 麻布連隊救援に向う」

という記事が満載されたとのことだが、工藤氏はあれだけ『河北新報』の記事を根拠にして「朝鮮人暴動の事実」を強調していながら、なぜこの記事を引用しなかったのだろう。「四百名の不逞鮮人ついに軍隊と衝突 東京方面へ隊を組んで進行中」などの記事が嘘であることが誰の目にもあまりにも明らかなので(調べればすぐに判明する)、自分がこれまで一途に頼りにして事実として書きつづってきた『河北新報』の引用記事も嘘であることが読者に見透かされる、ひいてはこの本を書く根拠が失われることになりかねないとは思わなかっただろうか。

それでも、「「朝鮮人の襲撃はなかった」ことにしたのは、実は政府そのものなのである。俗にいえば自警団は政府によって突如としてハシゴを外されたのである。」という工藤氏の見解には、一理(おそらくほとんど唯一の)があると思われる。治安当局は、これ以上朝鮮人が軍人、警察、自警団などによって虐殺される事態を黙認しているわけにはいかなかった。山田昭次氏の「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」には、「政策転換の模索」の見出しの下で次のくだりがあるが、おそらくこの指摘どおりだったのではないだろうか。

「9月5日、山本権兵衛内閣は民衆に対して内閣告諭第二号を発し、不穏な朝鮮人は軍隊、警察へ引き渡せと命じ、リンチ(私刑)を禁じた。「民衆自ら濫りに鮮人に迫害を加うる如きことは固より日鮮同化の根本主義に背戻するのみならず、又諸外国に奉ぜられて決して好ましきことに非ず」というのがその趣旨である(姜徳相、琴秉洞)。
 つまり民衆の朝鮮人迫害が朝鮮人の同化政策の障害になり、かつ法治国家であるはずの日本が、外国からの批判を招くというのがその趣旨である。植民地支配や対外関係の粉から日本国家を窮地に陥らせるから止めようとしたのであって、人権を守る見地からなされたものではない。」(山田昭次著「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」(創史社2003年))

朝鮮人暴動流言の発生や伝達については、これまでも、また現在もさまざまな研究が行なわれ、発表されているわけだが、ここでは、「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応1」と「2」(緑蔭書房1996年)を編纂された琴秉洞氏がこの書籍の冒頭に記された文章を掲載したい。関東大震災と朝鮮人虐殺について日本の作家、学者、芸術家、ジャーナリスト、法曹者、宗教家、政治家などによって雑誌に寄稿された文章や談話や日記や手紙。そこに見られる多種多様の見解・発言を収集し、隈なく目を通しただけでなく、それぞれの主張・見解の整合性についても十分な注意が払われていて、その努力に心を打たれる。本当はこのような仕事は日本人が率先してやってもよかったのではないかという気もするが…。それにしても、日本政府は90年近くもの間、唯の一度もこれほどの残忍な朝鮮人虐殺に対して心からの謝罪をしたことはないのだ。この件だけではない。日本政府は、明治以来一貫して謝罪すべきところで謝罪をしない。それが日本政府(政府だけではないかも知れないが)の特性のようになってしまっているし、諸外国からもそのように見られているのではないだろうか。海外で暮らすことの多かった加藤周一もよくそのような意味のことを書いたり話したりしていた。山崎今朝弥弁護士は震災直後「鮮人問題の解決の唯一の方法は、早く個人には充分損害を払い、民族にはただちに自治なり独立なりを許し、もって誠心誠意、低頭平心、慰藉謝罪の意を評するよりほかはない。(12月14日)」(地震,憲兵,火事、巡査)と述べているが、本当にそのとおりだと今更ながら思う。それでは、琴秉洞氏の文章を引用する。


(一) 朝鮮人暴動流言の発生と伝達
 日本知識人の虐殺に対する反応を紹介する前に、朝鮮人虐殺にいたる前提的問題を、これまでの諸研究の成果や私自身の所見を含め、明らかにする必要があろうかと思う。

(1) 流言の発生源
 � 地震被害の状況と被災者の状態
 1923年(大正12年)9月1日、正午2分前関東地方に突如として大地震がおこった。
 稀有の大激震に多くの家は倒壊し、ちょうど昼食準備の火を使っていた事情と重なつて各所での火事の発生となり、またたく間に東京・横浜をはじめとする繁華街や家屋密集地は炎に包まれたが、天を焦がす大火は夜を徹して燃え広がり、18時間、または20数時間も燃え続けた。
 死者は10万(14万人ともいう)を超え、負傷者はこれに数倍した。経済的損害は当時の金で50億とも100億円(今の金に直せば数兆円にはなろう)とも言われたが、実に史上まれにみる大災害であった。
 したがって、罹災民衆の苦労は想像を絶するものがある。
 「当時に於いては百万に近き罹災者あり、而も共罹災者は家財を失ひ、父母妻子離散し、寝る所なく、食ふに程なく、着るの衣なく、実に惨憺たる状態にあり」(本史料1 雑誌「自警」大正12年11月号。)と、時の内務大臣水野錬太郎は書いている。 
 このような罹災者は日比谷公園や「宮城」前などに50万人、上野公園、芝公園、靖国神社境内などに10万人くらい集まってきたと言う。
 家は焼け、親子兄妹は離ればなれになり、命からがら逃げのびては来たものの、余震はつづき、大火は黒煙を噴き上げて迫ってくる、という状況の中で、群衆は食物を求め、水を求め、親は子を、子は親を、そして兄弟、姉妹がお互いに捜しあって、これらの広場、公園に集まっても、収拾のつかない大混乱におちいっていたのである。

 � 治安当局の対応と戒厳令発布
 このような民衆の大集団と、その極度の混乱をみて、治安当局者はどう反応し、どのような対策を樹てたのであろうか。
 時の内務大臣水野錬太郎、内務省警保局長後藤文夫、警視総監赤池濃の三人の真っ先にやったことは、罹災民救済ではなく、宮中に行って天皇(大正天皇は日光に避暑中)や皇太子(昭和天皇)の御機嫌奉伺をすることであった。
 その宮中参内の途中でこの三人の当局者は、群衆の大混乱をみて、大群衆の不満のホコ先が政府に向けられることを最も恐れた。
 三人は一貫して内務畑を歩き、5年前の米騒動時には、共に治安当局者として民衆弾圧に努めているが、同時に民衆暴動の恐ろしさを最も実感していた男たちである。
 その翌年の朝鮮での三・一運動の時も水野は直後の斎藤美総督の下で政務総監として、朝鮮人の民族運動の巨大なうねりを肌で知っていたし、赤池は総督府警務局長として、朝鮮人民の三・一運動を直接先頭に立って弾圧している。つまり、日本人群衆・朝鮮人民の暴動や独立運動の巨大な力を誰よりも知り得る立場にあったのである。
 このような三人が、文字どおり驚天動地の最中に、天皇の居処、宮中で顔を合わせたのである。何を議したか。
 この三人は宮中で顔を合わせ、1はこの大群衆の不満の爆発を未然に押え込み、2には、この不満の吐け口を効果的に他に向けさせることを申合わせたのである。
 今考えても実に不思議なのは、彼等自身がこのことを自ら証言しているのである。伝聞記録として残されているもので、後には単行本、全集や総合的な震災記録(官・公・私)等に収められている。
 それを当の御本人に語ってもらおう。
 警保局長後藤文夫は「9月1日午後震災の被害各方面に惨憺たる状況を呈しているを見た余は、全都を通じて其災禍の頗る大なるを想像せざるを得なかったのであって、尋常一様の警備を持って依って生じる人心の不安を沈静し秩序の保持を為す事の困難なるは当局者の看取した所であって、戒厳令を布くの非常手段を執らざる可からざるとの決意は地震の直後当局者の間に生じたのであった」(史料2前掲書)と述べている。
 警視総監赤池濃もまた「四辺の光景を見て余は千緒万端、此災害は至大、至悪、或いは不祥の事変を生ずるに至るべきかと憂へた~此間復た参内状勢を奏上せんとせるに、余は後藤警保局長と共に引返したが、~余は帝都を挙げて一大混乱裡に陥らん事を恐れ、此際は警察のみならず、国家の全力を挙げて治安を維持し、応急の処理を為さざるべからざるを思ひ、一面、衛戍総督に出兵を要求すると同時に、後藤警保局長に切言して内務大臣に戒厳令の発布を建言した。それは多分、午後2時頃であったと思う」(史料3前掲書)と述べている。
 この二人の証言は実に重要である
 つまり、数十万の大群衆の極度の混乱状態を目撃した治安当局者は、「不祥の事変を生ずるに至るべき」に恐怖感を持ち、「尋常一様の警備を持って依って生じる不安を沈静し秩序の保持を為す事の困難」を知り、軍隊を出動させ、戒厳令に依って、群衆の「不祥の事変」を押さえようとしたのである。
 しかし、問題は戒厳令を布く理由である
 戒厳令第1粂には「戒厳令は戦時若しくは事変に際し兵備を以て全国若しくは一地方を警戒する法とす」とある。
 つまり、戒厳令を布くには戦時か、もしくは内乱(事変)の、いずれかの条件が必要なのである。
 ところが、今の混乱は地震と火災によるものであって、戦争でもなければ内乱でもない。戒厳令を要請しようにも、その理由がない。そこで考え出されたのが「朝鮮人暴動」である。
 ほかでもない、治安の最高責任者内務大臣水野錬太郎その人がこのことを証言している。「翌朝(9月2日)になると、人心恟々たる裡に、どこからともなくあらぬ朝鮮人騒ぎが起こつた。~そんな風ではどう対処すべきか、場合が場合故、種々考へても見たが、結局戒厳令を施行するの外はあるまいという事に決した」(史料7『帝都復興秘録』、みすず書房『関東大震災と朝鮮人』所収)と云うのだ。戒厳令は「朝鮮人暴動」に対処するために布いたのだということを、しかも治安の最高責任者である内務大臣が、これほど明確に述べた文献は、今までのところ他に見当たらない。
 赤池警視総監が戒厳令の発布を建言したのは、9月1日の「午後2時頃」である。とすれば地震が起こつて2時間ほどしか経っていないので、朝鮮人騒ぎは露ほどにも起こつていない時である。朝鮮人問題が全く起こつていない時に赤池や後藤は戒厳令発布を要請した。罹災し、混乱した百万近い大群衆による「不祥の事変」を押さえるには戒厳令しかないと考えたからである。
 ところが実際には、戒厳令を布いた理由を朝鮮人暴動に対処するためだったと水野内相は確言している。ここまで明らかになればもう疑問の余地はない。つまり、水野、後藤、赤池ら治安三人組は、戒厳令発布要請の理由づけに苦しんだ挙句、朝鮮人暴動を造りあげて戒厳令発布の法的裏付けを整えたのである。この三人の証言、殊に水野のそれは担当大臣だけに決定的と云える重みがある。
 このことと同時に、「朝鮮人暴動」流言の狙いは今一つある。それは日本人民の不満と怒りを朝鮮人に転嫁させるためであった。この日論見は美事に当たったということである。
 日本人の不満、持ってゆき場のない憤懣を朝鮮人にぶっつけさせる政府内務当局のやり方は、戒厳令要請の法的裏付けとなり、併せて支配層に向けられる人民の不満をかわしたという点で一石二鳥の措置だったが、水野にしろ赤池にしろ三・一独立運動時の朝鮮人民への血の弾圧者だったことを考えると、朝鮮人への恐怖とその報復心の発露ということで一石三鳥の意味があったようだ。
 彼らの脳裡には、5年前の米騒動の際、凄さまじいばかりの爆発力をみせた日本人民の反権力闘争と、4年前の三・一運動の折りにみせた朝鮮人民の燃えたぎる愛国的情熱が、恐怖をこめて想い出されたに違いない。

(2) 流言の伝達
 大震災時の朝鮮人虐殺事件でまず問題になるのは、大虐殺の直接の契機となった「朝鮮人暴動」流言は誰の発想になり、誰が発令し、どう伝達されたのか、ということである。
 朝鮮人暴動流言とその伝達については、今日までの研究では、大きくみて三つある。�は官憲説、�は民衆自発説、�は官民同時発生説である。
 そのいずれの説にも、かなりな説得力のあるのを認めるのに吝さかではないが、日本政府が真に有効的な措置をとらず、一定の限度まで、虐殺容認の姿勢でいたことを考慮すると、やはり�の官憲説に落着かざるを得ない。
 私はこの問題の決め手になるのは、当時、誰がこの種の流言を切実に欲していたのか、この流言の結果により、誰がどのような政治的な利得を得たのか、という政治的利害と直接結びつくところにあると思っている。
 日本政府の流言伝達についていえば、ごく初期は別として、政府の公的な流言伝達方法は二つあった。
 その一つは無電である。内務省警保局長名で全国の「各地方長官宛」に発せられた第一報は次のようなものである。
 「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり、既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし」。文面は、朝鮮人が放火しているから戒厳令を布いたとなっている。水野の証言とピッタリ一致するのである。
 この第一報は千葉の海軍船橋送信所から発せられた。この電文に内務省治安担当者の乾坤一擲の執念がこめられているのに気付くのはそう難しいことではない。ここで、はっきりしているのは、政府の組織的な流言伝達は、朝鮮人虐殺と直接結びついたということである。
 警保局長はきびすを接するように「不逞鮮人」の放火等に関する電文を幾つも送っている。これを受け取っては朝鮮人暴動を信じない方が可笑しい筈である。
 いま一つは、電文ではなく、関東各県(今のところ埼玉県)に朝鮮人暴動と取締りを直接伝達したものである。
 「通達文  東京に於ける震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又、其間過激思想を有する徒之に和し、以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮はんとする虞有之候、就いては此際警察力微弱であるから町村当局者は、在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、一朝有事の場合には速やかに適当な方策を講ずるやう至急相当手配相成度き旨、其筋の来牒により此段移牒に及び候也」。この通達は、埼玉県が内務省の命令を受けて、管下の各町村に出したものである。
 埼玉県の場合、永井柳太郎の国会質問によると、埼玉県の地方課長が9月2日に東京の本省と打合わせ、午後5時頃帰ってきて香坂内務部長に報告したものである。香坂は友部警察部長と相談してこの通達文を作り守谷属兼視学をして県内の各郡役所に電話を以て急報し、各郡役所は文書と電話とで各町村に伝えている。
 それにしても「一朝有事の場合には速やかに適当な方策を講」ぜよと指示しているが、これは朝鮮人殺しを官許したものである。 当時の本庄町の町会議員で、1957年当時の本庄市長、中島一十郎氏は「本庄町では郡役所の門平文平氏ら幹部などが県庁からの達しだといって消防団や在郷軍人分会などにそれを事実として伝え、対策に乗り出すように指示した」(『埼玉新聞』昭和32年9月2日付 史料14)と語っているが、内務省によって流言は組織的に伝播され、これによって自警団の発生を見るようになるのである。

(二) 虐殺状況と被殺者数
 朝鮮人虐殺の目撃例は数多く報告されているが、日本知識人のこの問題についての反応をみようというからには、虐殺がどのように行われたのかという点を前提として押さえておく必要があろう。
 ここでは、私の手近にある資料から幾例かを抜いて、当時の虐殺状況を見ることにしたい。

(1) 虐殺状況の例
 △東京の例

 「『骨は何ふしてくれる』と私は言った。『骨は荒川放水路の四ツ木橋の少し下流で焼いたから自由にひろってください』『あそこには機関銃が据つけてあって朝鮮人が数百人殺されたことは周知のことだから誰の骨かわかるものですか』(『種蒔き雑記』)」機関銃で殺したとあっては軍隊に間違いないが、このとき、この地、亀戸にきていたのは千葉習志野の騎兵第十三連隊である

 △東京の例
 「4日目ぐらいになると、朝鮮人狩りが本格的になった。うちの門の柱に、第何分隊屯所と筆太とに書いた紙をはり、剣付き鉄砲の兵隊が立っていた。~裏の庭で、兵隊さんが牛芳剣をみがいていた。縄をひろってきて、それへ砂をつけてこするのだが、刃金にしみこんだ血のしみがなかなかおちない。~番小屋につめていたとき隣の大島町6丁目にたくさん殺されているから見に行こうとさそわれた。~空き地に東から西へほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にしてならべてあった。数は250ときいた。ひとつひとつ見てあるくと、喉を切られて、気管と食道と二つの頚動脈がしろじろと見えているのがあった。後ろから首筋をきられて真白な肉がいくすじも、ざくろのようにいみわれているのがあった。~ただひとつあわれだったのはまだ若いらしい女が腹をさかれ、六七カ月になろうかと思はれる胎児が、はらわたのなかにころがっていた。が、その女の陰部に、ぐさり竹槍がさしてあるのに気づいたとき、ぼくは愕然として、わきへとびのいた。~ぼくはいいようのない怒りにかられた。日本人であることをあのときほど屈辱に感じたことはない」(田辺貞之助『女木川界隈』、本史料集第2巻戦後篇29参照)。

 △東京月島の例
 「評議忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の別ね飛ばされた。かく捕へられた鮮人24人は13人一塊と11人一塊と、二塊にして針金で縛しあげ、鳶口で撲り殺して海へ投げ込んでしまったけれども、まだ息のあるものもあったので海中へ投入してから更に鳶口で頭を突き刺したが、余り深く突き刺さって幾人もの鳶口がなかなか抜けなかった。また外に3人の鮮人は三号地にある石炭コークスの置き場の石炭コークスが盛んに燃えている中へ生きているまま一縛にして引縛って投げ込んで焼き殺してしまった。鮮人を縛して海に投じた時、見ていた巡査達は双手を挙げて万才を叫んだ」(『関東大震災と朝鮮人』みすず書房、172頁)。

 △東京での例
 「父の友人である大島町八丁目の野原さん宅へ行った(避難のため)。翌日朝、近所の人びとが走っていくので、なにごとかと見ますと、警官が一人の男を連行して行くのを一団の群衆が、朝鮮人、朝鮮人と罵しりながらとり巻いています。そのうち群衆は警官を突きとばして男を奪い、近くの池に投げ込み三人が太い丸太棒を持ってきて、生きた人間を餅をつくようにポッタ、ポッタと打ち叩きました。彼は悲鳴をあげ、池の水を飲み、苦しまぎれに顔をあげるところをまた叩かれ、ついに殺されてしまいました。一団の人びとはかん声をあげて引きあげました。
 すると、また別の一団がきて、死んでいる彼を池から引きずり出し、かわるがわるまた丸太棒で打ち叩きました。肉は破れ、血は飛び散り、人間の形のなくなるほど打ち、叩きまた大声をあげて引きあげました」
(三橋茂一『手記・関東大震災』)。

 △東京・被服廠跡での例
 「被服廠跡地内のやや広い空間では、ひどい光景にぶつかった。10人くらいの人が、血だらけになった4人の朝鮮人を針金で縛って、一升瓶の石油をぶっかけたかと思うとそれに火をつけたのである。燃え上がる火に、のたうちまわると、こんどは手に持った焼けぼっくいで抑えつける。そして目を血走らせて口々に叫ぶ。「こいつが俺たちの兄弟や親子を殺したのだと』」(渡辺政雄『手記・関東大震災』)。

 △横浜の例
 「9月4日午後5時頃、根岸町の自警団にとらわれた3名の鮮人(内1名女)が同町吉野巡査派出所に逃げ込み保護を願った所、巡査は、男二人を派出所の側に縛って現場で惨殺し、助命を乞ふた女をも同夜2時頃、某所に連れ出し殺害した。之がため同所自警団はこの処置を署長の命令と誤信し、引き続き暴挙に出た形勢がある」(『福岡日日新聞』大正12年10月20日付)。

 △千葉の例
 「北総鉄道工夫38名(内女1名、子供1名)が習志野騎兵聯隊に収容されんとして兵士15名護送のもとに、午前2時頃船橋入り口の九日市避病舎前の村道に差しかかって来た~船橋自警団初め八栄村自警団員等150名は『それっ』とばかり、用意の竹槍、棍棒、鳶口、日本刀などを以て忽ち23名を突き殺し、残余のものが数珠繋ぎのまま、大地に膝まづいてしきりに合掌して助命を乞ふのもきかず総掛りで子供1人を残して全部を殺害し、死骸は路傍に放棄したまゝ引揚げた」(前出『関東大震災と朝鮮人』207頁)。

 △埼玉の例
 埼玉県本庄での虐殺事件では、当時の本庄署員新井賢次郎氏の証言がある。「子供も沢山居たが、子供達は並べられて、親の見ている前で首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも途中までやっちゃあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後でおばあさんと娘がきて『自分の息子は東京でこやつらのために殺された』といって、死体の目玉を出刃包刀でくりぬいているのも見た」(「かくされていた歴史」関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委貞会刊)。

 △群馬県藤岡での例
 「午後6時となるや自警団員その他200余名の群衆、潮の如く同署(藤岡署)に殺到『やってしまえ』と誰かが怒号すると、小宮部長と交渉中の代表者は『引受けた』とばかり用意して来た猟銃、竹槍、日本刀をふりかざして同署構内裏手の留置場へ乱入し兇器で留置場を破壊し、また一人は巡査の手から留置場の鍵を強奪し、遂に留置場の入り口を破壊した。この襲撃に狂気の如くなった鮮人等は外部に出ずると共に、猿の如く留置場の屋根に飛び上がった。自警団側は梯子をかけて屋根に追いつめ、竹やり、日本刀で虐殺をはじめ、下からは猟銃を発射し、僅1時間30分にて14名全部を惨殺した。血に酔った団員等は喊声をあげて引きあげたが、全官憲は手の下しようもなかった」(前出『関東大震災と朝鮮人』206頁)。

(2) 被殺者数の問題
 このように日本人による目撃例も数多い訳だが、被殺者数を発表する段になると日本政府の数はぐつと縮って200から300名くらいという。時の朝鮮総督斎藤実は二名だといった。
 この虐殺事件の時に良心的に活動した日本人の一人である吉野作造は、その論文の中で「朝鮮罹災同胞慰問班」の一員から聞いたものとして、2,613人という数字を留めている。
 また、震災直後に組織された在上海の独立新聞が派遣した記者をキャップとする朝鮮人調査団は、各地をまわって実地検証をかさね、6,400名から6,600名と発表している。やはり良心的活動家として動いていた布施辰治弁護士と共に活躍している弁韓土山崎今朝弥は、日本政府の調査人数の少なさを憤り、かつ皮肉って「兎に角二人以上一万人以下なることは確からしい」(『地震・憲兵・火事・巡査』)と書いた。
 市川正一は『日本共産党闘争小史』で「何万という朝鮮人が~虐殺された」と書いている。
 ならば実際に虐殺された朝鮮人数はどの位なのか。6,000名以上という朝鮮人調査団の発表は正しいのかとなると、これはほぼ正しい数字である。
 当時、東京、神奈川に住んでいた朝鮮人は約20,000名であるが、震災後、収容所に入れられた人数は11,000人から14,000人。つまり、公的記録からだけでも6,000名以上の数差を得ることができるのである。しかも、居住者数は官庁統計よりも常に多いのが実状である。
 東京で虐殺された朝鮮人の死体を憲兵隊や警察のトラックに積込んで本所の被服廠跡に運び込んだとの証言もある。当初、被服廠跡の焼死体は38,000体と発表され、後に42,000体に増えたが、この増えた4,000の数には、市内で殺されて死体処理のできなかった朝鮮人の遺骸も多く含まれている。
 朝鮮人に対する虐殺は、東京市内に限らず、神奈川、千葉、埼玉、栃木、群馬、茨城等の関東一円にわたっており、その数も一県で数千または数百を越えるものもあることや、東京市内や横浜での虐殺死体もその場で埋めたり、油をかけて焼いたり、河に流したりしたものもかなりな数にのぼることから、直後の調査で被殺者数を6,000以上としたことに大きな誤りはないものと思う。
 また、多い被殺者数を報告している朝鮮人調査団の数字も地域別によくみれば、吉野論文や新聞調査などの数よりも少ないところもすくなからずある。
 たとえば亀戸の被殺数は、朝鮮人調査団では100名としている。
 しかし八島京一という人の供述によると、9月4日の朝、顔見知りの清一という巡査と言葉を交わしているが、「『昨夜は人殺しで徹夜までさせられちゃった。320人も殺した。外国人が亀戸管内に視察に来るので、今日も急いで焼いてしまふのだよ』『皆鮮人ですか』『いや、中には7~8人社会主義者も入っているよ』」(『種蒔き雑記』)という内容になっているが、みられるように、312名の朝鮮人が亀戸ではたった一晩で殺されている。そしてこの数字などは朝鮮人調査団の報告にも正確に反映されていないといえる。
 この他、埼玉県などでも、本庄市や神保原などでも当時の数と、その後の目撃者の回顧談とでは多少の数差があるようである(『埼玉新聞』1957年9月2日~5日付)。
 また朝鮮人虐殺数の最も多かった横浜もそうである。つまり、朝鮮人被殺者数は、今日なお、調査すればする程増えこそしても、決して減りはしないのである。」(「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応1」(緑蔭書房1996年))


なお、工藤美代子氏は、本書で正力松太郎に関しても次のように触れている。

「後年、野球を縁に正力と知己を得た「ベースボール・マガジン社」の創業者池田恒雄(著者の工藤氏は池田氏の実娘のようである)は、その裏話を語ったことがある。後藤(新平)が正力を呼んで次のように言ったのだという。9月末から10月初旬のことと思われる。

「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあたら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」

三十八歳の正力は百戦錬磨の後藤のこの言葉に感激し、以後、顔には出さずに「風評」の打ち消し役に徹した。 」(工藤美代子著「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」(p172))

しかし、震災発生時、正力松太郎は、警視庁の監房主事という重職に就いていたのであり、何も後で後藤に実情を教えてもらうまでもなく,当然、朝鮮人虐殺に至る実情・経緯を逐一知っていたはずではないだろうか。琴秉洞編「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」にも正力松太郎に関しては戦前篇、戦後篇と二度も出てくる。琴秉洞氏は、下記のとおり「正力は朝鮮人虐殺司令塔の中心人物の一人である」とまで述べている。

「 正力は大震時、警視庁官房主事をしていた。「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗し」たと述べている(引用者注:1944(昭和19)年、警視庁での講演会において) 。管下警察署ならいざ知らず、本庁の幹部が流言の発生源を知らなかったとは可笑しい。しかし彼としてはこうとしか云いようがなかったかも知れぬ。」(戦前篇)

「 史料36の正力松太郎は戦前篇「官僚・軍人」の項でその回想談を引用したが、これは戦後に回想したものである。一読して明白なのは、ここの引用部分には朝鮮人問題に一言も触れていない。実はここだけでなく、全文、朝鮮人に触れていないのである。
 前に戦後篇4で、戒厳参謀 森五六中佐の日記を紹介したが、その引用部分にもある、9月3日、戒厳司令部に「警視庁の某部長が来て朝鮮人騒ぎの話をし、腕をまくつて「もうこうなったらやりますゾ』と言った」某部長とは正力松太郎である。正力は、戦前篇一「官僚・軍人」の9で、はっきり朝鮮人来襲のことに触れている。
 正力は朝鮮人虐殺司令塔の中心人物の一人である。彼が流言の発生源との資料はでていないが、警官及び自警団をして朝鮮人殺しをやらせた中心部に居た人物であることを考えると、戦前の自らの犯罪行為を必死に隠す証拠煙滅という意味もあるという点で、この36の回想記は貴重なものと思う。」(戦後篇)


注意-琴秉洞氏の文中に出てくる「史料××」中の数字「××」は、収載された膨大な数の文章の各々に掲載順番として付されたものである。
2010.10.30 Sat l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (1) トラックバック (0) l top
「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」(工藤美代子著)は、一番後ろの「参考文献」5ページ分もふくめて全311ページの厚みだが、その約三分の一ばかり過ぎたp134の小見出し「自警団の覚悟」には、冒頭に、

「ここまでさまざまな経緯を見てきたことで、朝鮮人の襲撃事件が決して「流言蜚語」などという絵空ごとではなく、実際に襲撃があったからこそ住民と自警団が自衛的に彼らを排除したのだということが理解されると思う。」

との文章がある。ハテ? ここまでの計133ページのいったいどこに「朝鮮人の襲撃事件が決して「流言蜚語」などという絵空ごとではなく、実際に襲撃があった」事実が描かれ、立証されていたのだろうか。軍隊、警察、自警団などの日本人の側が一方的に朝鮮人を虐殺したというのでなく、初めに「朝鮮人側からの襲撃」が確かにあったと断言するのなら、まず最低限、実証を伴う実例の提示が必要不可欠のはずだが、ここまでのところこの本にはそういう例はただの一つも出ていない。皆無だったと思う。「不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を擅にするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる」とか、「鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやっておる」とか、「品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりする」などという、震災発生当初の新聞記事を丸写しして(そのへんのカラクリについてはこれまでさまざまな人が実証的に論じているところである。そのうち言及してみたい)、それを何ら検証もしないまま事実と認定して叙述しているが、方々で略奪、強盗、強姦、殺害されたり、爆弾を投げられたというのなら被害者が多数いるはずである。それについても著者は何も語らない。

「河北新報」にはこのような記事も載ったようである。東京月島の市営住宅の先に約3万坪の空き地があって、下水管置き場に使用されていたが、そこに鉄管、土管があり、多数の住民や避難民はそのなかにもぐりこんで退避したのだという。この件に関して、9月6日、「河北新報」に載ったのは下記の記事だった。

「この土管の中に約三万人の月島住民は避難してゐた。勿論着のみ着のままで……辺りには火薬庫がある。これが万一破裂しようものなら生命はこれまでだと生きた心地もなく恟々として潜んでゐた。(略)これより先、越中島の糧秣廠にはその空地を目当てに本所深川辺りから避難してきた罹災民約三千人が雲集してゐたところが、その入口の方向に当つて異様の爆音が連続したと思ふと間もなく糧秣廠は火焔に包まれた。そして爆弾は所々で炸裂する。三千人の避難者は逃場を失なつて阿鼻叫喚する。遂に生きながら焦熱地獄の修羅場を演出して、一人残らず焼死して仕舞つた。」(河北新報)

これについて、著者の工藤氏は次のように言う。

「 繰り返すが越中島の東京湾沿いにある糧林廠と月島とは、枝分かれした大川を挟んで目と鼻の距離にある。
 もとより糧秣廠とは軍が馬の林を収納するだけの簡素な倉庫である。爆弾などが置いてあるはずもない。広さは広いが火の気に警戒してきたのは軍の常識である。そこへ爆発物の音が連続して聞こえ、火の海となったというのは尋常ではない。話は核心に入る。」

「而も鮮人の仕業であることが早くも悟られた。そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいふ側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた。恐らく首魁者の一人であろうといふので厳重に詰問した挙句遂に彼は次の如く白状した。
『われわれは今年の或時期に大官連が集合するからこれを狙つて爆弾を投下し、次で全市到るところで爆弾を投下し炸裂せしめ全部全滅鏖殺(注・皆殺しの意)を謀らみ、また一方二百十日の厄日には必らずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた(略)』
 風向きと反対の方面に火の手が上つたり意外の所から燃え出したりパテパチ異様の音がしたりしたのは正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであつた事が判然したので恨みは骨髄に徹し評議忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の下に別ね飛ばされた」(河北新報)

これも一見ツジツマが合っているようでいて、実はひどくおかしな話である。朝鮮人の仕業ではないかと疑って、「仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいふ側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた」というのだが、大勢でずいぶん熱心に探し回ったようだが、どこで下手人を捕らえたのだろう。またこの下手人はなぜ一人でいつまでも爆弾を身に携えていたのだろう。仲間はいなかったのだろうか。「二百十日の厄日には必らずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた」と告白したというのだが、私にはこれは耳を疑うような不思議な話のように思える。著者はどのような根拠でこの話をそのまま事実であるとこうまで固く信じこめるのだろうか。前回述べたことだが、著者は芥川龍之介の機知や韜晦趣味や反俗的・反軍的な性向など眼中にないらしく、芥川が朝鮮人襲来の噂を明確に否定した菊池寛に憤怒・絶望し、それが彼の自死の一つの原因となったかのように述べていたが(これでは芥川も浮かばれまい)、ここでもばかばかしいかぎりの自分の憶測や証拠のない新聞記事を麗々しく並べてみせているだけのように思える。また、ここでは日本人による朝鮮人「殺害」が問題とされているわけだが、この「殺害」について工藤氏は「彼らを排除した」と表現しているが、私はこのことに対してもその感覚をひどく疑わしく感じる。

そうかと思うと、この人は、日清戦争後、日本が公使館の人間の手で朝鮮国王高宋の妃閔妃を殺害したことを悪びれも怯みもせずに記し、この殺害について日本側の犯罪として批判したり、謝罪の言葉を述べたりするどころか、葬儀が大々的に行なわれたことについて、夫の高宋が「日本への反感を盛り上げようとし」て意図的にやったのだと述べ、

「あれほど悲惨な独裁政治にあえいできた朝鮮の国民は、見事に反日感情をむきだしにして閔妃の死を号泣して悲しんだ。」

ので、「高宋は政略が見事に功を奏し、彼は大いにほくそ笑んだに違いない」と記している。これでおおよそ理解できると思うのだが、この著者の考えでは、朝鮮人はみな頼まれもしないのに自国に乗り込んできて自分たちを支配し、果ては植民地にまでした日本に感謝しなければならないのである。日本の思い通りにならない朝鮮人はすべて悪、まして独立運動などの行動をとる朝鮮人は不逞の輩、恩知らず(橋や鉄道などのインフラをあれだけ整備してやったのに)、ということになるようである。著者は下記のようなことも書いている。

「ひとつ申し添えておかねばならないことがある。この時期、李朝の刑罰の残酷なことは近代以前、中世状態だった。/反抗するものには笞刑(ちけい」と呼ばれる鞭打ち刑が容赦なく行なわれ、国賊に対しては常軌を逸した残酷な処刑が日常的に施されていた。)(p68)

ここでいう「反抗するもの」とは清朝政府に「反抗するもの」という意味なのだろうが、日本が強引に朝鮮を自国の植民地にするまで、朝鮮に「笞刑」という刑罰が存在したのかどうか私は知らない。私だけではなく大方の読者は知らないと思われるので、こういうことを書く場合は具体的に例を挙げて提示するのが著者の当然の責任であろう。「笞刑」に関して書くのなら特にそうだと思う。なぜなら、日本が朝鮮を植民地にした後、日本の侵略・殖民政策に抵抗したり独立運動を行なう朝鮮人に対し、「笞刑」という刑罰を執行していたことが事実として存在するからである。

例えば、在日朝鮮人作家の徐京植氏は、著書の「秤にかけてはならない」(影書房2003年)において、「日本人へのメッセージ」という章を設けているが、その一節に、次のような文章がある。

「植民地時代、朝鮮人を弾圧するためさまざまな治安法令が発令された。笞刑、すなわち前近代的な体刑である鞭打ちが朝鮮人だけを対象に行なわれていた。1919年の三・一独立運動の際、逮捕された朝鮮人は5万名近くにのぼり、合計7,500名以上が殺された。この逮捕者のうち、笞刑を加えられた者の総数は1万名以上にのぼる。笞の一振りごとに、激痛と屈辱が朝鮮人の体に叩き込まれたのだ。/朝鮮独立運動は、「国体変革」を企図するものとして治安維持法を適用された。治安維持法による被害者の数は日本本土より朝鮮の方がはるかに多く、量刑も重い。大量の死刑判決も下された。1937年から38年にかけてのいわゆる「恵山(ヘサン)事件」では朝鮮人共産主義者および民族主義者739名が検挙され、166名が重刑を宣告された。死刑は権永壁ら6名である。1943年の朝鮮語学会事件では、言語学者など30名あまりが検挙され、李允宰、韓澄の二人が拷問のため獄死させられている。同じ43年、同志社大学に学んでいた詩人の尹東柱は独立運動の嫌疑で拘束され、禁じられていた朝鮮語で彼が滞日中に書き溜めた貴重な詩稿は特高警察に押収され、永遠に失われた。懲役2年を宣告された彼は日本敗戦のわずか半年前、いとこの宋夢奎ともども福岡刑務所で無残な獄死を遂げている。ここに挙げた名は、数千名にのぼる朝鮮人治安維持法被害者のごく一部に過ぎない。」

また、詩人・小説家の中野重治も1967年『展望』という雑誌に、次のように書いている。

「 1958年春には私はこんなことも書いた。
「この朝鮮が、今の『韓国』をふくめて、大日本帝国に合併されたあとの1912年(明治45年)のことを書いておこう。ときの朝鮮総督は伯爵寺内正毅だつた。/ その年の3月30日、『総督府訓令第41号』というもので、朝鮮全土警察にあてて寺内が『笞刑執行心得』というものを出している
『第一条 笞刑は受刑者の両手を左右に披伸し、刑盤上に筵を敷きて伏臥せしめ、両腕関節および両脚に窄帯を施し、袴を脱し背部を露出せしめて執行するものとす。/第二条 笞刑執行者は右手に笞を携へ……/第三条 筈の鞭下は、苔刑執行者自ら……受刑者の右臀に対し、一鞭毎に自ら発声して笞数を算しつつ之を連行すべし。/第七条 受刑者一方の臀に異状ありて執行に差支あるときは、他の一方のみを執行することを得。/第八条 笞刑は食後一時間以上を経過して執行し、執行前成るべく大小便を為さしむべし。/第九条打方は終始寛厳の差なく且受刑者の皮膚を損傷せざる様注意し、引き打又は横打を為すべからず。/第十条 執行数回に亘る場合に在りては、必要に依り執行後臀部に冷却方法を施すことを得。/第十一条 笞場に飲水を供へ、随時受刑者に与ふることを得。/第十二条 執行中受刑者号泣する虞あるときは、湿潤したる布片を之に噛ましむることを得』
 なおつづくが、ここではこれだけにしておくとして、これを日本の警察が全朝鮮にわたって実行したことを各条ごとに、読者が自分で両腕をのばして、両脚をしばつって、ズボンを臀の下まで脱いで、うつ向けになつて、口にぬれ雑巾をくわえて、想像力をはたらかして考えてみ」てくれ、うんぬん。 」」

中野重治は、「これ(引用者注:『笞刑執行心得』の各条文のことだと思われる)を見ておどろいてくれた人があつた。私自身、これを見るまでこれほどまでとは思っていなかったのでもあった。」とも記している。

工藤氏は、「ひとつ申し添えておかねばならないことがある。」とわざわざ断り書きを入れて、「この時期、李朝の刑罰の残酷なことは近代以前、中世状態だった」のであり、「反抗するものには笞刑(ちけい)と呼ばれる鞭打ち刑が容赦なく行なわれ、国賊に対しては常軌を逸した残酷な処刑が日常的に施されていた。」と当時の朝鮮の刑罰の残忍さを述べているが、日本政府が朝鮮を植民地にした後、朝鮮人に対し、徐京都植氏や中野重治が書いているような「笞刑」(工藤氏いわく、「残酷なことは近代以前、中世状態」の刑罰である笞刑)を容赦なく科していた事実を知らなかったのだろうか。それとも知っていながら、素知らぬ風をして自著にこのようなことを書いたのだろうか。どちらにしてもこの態度はものを書く人として不誠実なことこの上ないと思われるのだが、これについてはぜひ著者・工藤氏の弁明を聞きたいものである。
2010.10.29 Fri l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (2) トラックバック (0) l top
工藤美代子著「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」。出版社をみると、やはり産経新聞出版。2008年から1年以上『SAPIO』に連載されていたそうで(『SAPIO』は立ち読みもしたことがないので、連載自体を知らなかった)、それを加筆・訂正してまとめた本だとのこと。ざざっと一読したところ、朝鮮人虐殺は一切なかった、とまでは主張していないようだ(もっとも、そんな見え透いた虚偽を書けば、著者も出版社も編集者もいよいよ恥を晒すだけであろう)。震災を機に朝鮮人が徒党を組んで日本人を襲撃してきたり、放火したり、井戸に毒を入れたりしたので、住民たちはやむを得ず、自分たちを守るために自警団をつくって立ち上がっただけであった、というのが一巻をつらぬくモチーフのようである。しかし、本の中身はあまり類を見ないほど無責任でお粗末きわまりないものに思える。著者はこう言っている。(下線による強調は引用者による)

「「朝鮮人が襲撃する」という説はまず横浜から始まったとされる。それは九月一日の夜が一番早い情報で、翌二日の昼過ぎから夜にかけて一挙に広まったという。
 発端は「朝鮮人がこの震災に乗じて、殺人、強姦の上、井戸に毒を入れるらしい」という情報が流れてきたことによる。東京市内にそうした「流言」とされる情報が入ってきたのはおおむね二日の夕刻以降だった。果たしてそれは今日まで伝えられているように「流言輩語」だったのか。/無数の目撃談は幻を見たに過ぎないとでもいうのだろうか。 横浜における目撃者の談話からその一端をみておきたい。」

そう言って著者が持ち出してくる目撃情報とは下記のようなものである。

「一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが大崩壊に続く猛火には如何ともすることが出来ず、二日まで絶食のままで諸所を彷徨した(略)交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。況んや不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を擅にするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる。これに対する官憲の警備は東京市と異り、軍隊の出動もないので行届かざること甚だしく、遂には監獄囚人全部を開放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当らしめたので大戦闘となり、鮮人百余人を斃したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。以上の如き有り様なので食糧飲料水の欠乏は極に達し、然も救援の何ものもないので生き残った市民の全部は天を仰いで死を待つばかりである」(大日本石鹼株式会社専務・細田勝一郎談「河北新報」大正12年9月5日)
                                          
この細田という人物は、9月1日の震災から2日間絶食のまま諸所を彷徨していたというが、二千人の朝鮮人が腕を組んで街中を横行し、暴れ回っているのをどこで見たのだろうか。世にも珍しい話、まったくの初耳である。そんな話は数多い関東大震災体験記・目撃記にもただの一つも出てこないようである。朝鮮人が地震の予知能力をもっているはずもなく、日本人だろうと、朝鮮人だろうと、個人個人は突然の大地震に驚愕し、恐怖し、自分や家族や親族などの身の安全および家屋が倒壊したり火災で燃え尽きたりしないか、誰もが大きな不安を抱えて事態に対処することで精一杯だっただろう。火は燃えつづけているのだ。軍隊も警察も総力をあげて警護や警戒に当たっている。その最中になぜ二千人もの朝鮮人がいったいどこからやって来て、どのように肩を組んで横浜市内をねり歩くことができたのだろうか? 発言主だという細田氏が河北新報の記者に上の談話どおりの話をしたのかどうかも分からないし、また事実そのように話したのだとしても細田氏がどういう人物なのか知りようがないので、記事掲載までの経過は不明だが、前述したごとく朝鮮人に地震の予知能力が備わっているとか、すでに地震兵器でも開発していてそれを使って地震を起こしたとかいうのならいざ知らず、「鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を擅にするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる」などは常識上、経験則上、とうてい信じられる話ではないだろう。略奪、強姦などの被害者数十名の人々はその後どうしたのだろう。どのような事後処置、保障を受けたのだろう。何よりも、地震当日かその翌日にこのように白昼堂々横浜市中を横行し、掠奪や強姦をほしいままにしているというこの二千名の朝鮮人とは、井戸に毒を入れたり爆弾を投下して回ったという朝鮮人と同一集団なのだろうか? それとも毒投入・爆弾・放火犯はまた全然別の集団だったのだろうか? 大量の毒薬や爆弾は地震発生までどこに貯蔵されていたのだろう。それらは地震の被害を一切受けなかったのだろうか。いずれにせよ奇怪千万な話の連続としか思えない。この他にも著者は目撃談として2つの例を挙げているが、それらも最初のものと同じく信憑性をつよく疑わせるものである。一つは横浜港でパリー丸に救助された判事の遭難記録というものである。

「(二日朝)岡検事、内田検事は東京から通勤して居たので東京も不安だとの話を聞いてから自宅を心配し初めた。私も早く東京との連絡を執らうと欲つて居たので若し出来ることなら両検事と一緒に上京し司法省及東京控訴院に報告しやうと思ひ、事務長に向ひランチの便あらば税関附近に上陸し裁判所の焼跡を見て司法省に報告したい、と話したが事務長は『陸上は危険ですから御上陸なさることは出来ない』といふ。なぜ危険かと問へば『鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやっておる。(略)(「横浜地方裁判所震災略記録」パリー丸船内、部長判事長岡熊雄)

この「鮮人の暴動」とは、前記の二千人の朝鮮人の行動を指しているのだろうか。それともまた別口のことなのだろうか。パリー丸の事務長は、朝鮮人の暴動を自分の目で見たのかどうかもはっきりしていない。「やっておる」と言い、「見た」とは述べていない。「昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやつておる。」と言うだけでは、どんな風采・出で立ちの朝鮮人にどのような人物がどこでどんな被害を受けたのか、現実的・具体的な実態は皆目不明である。「河北新報」の細田という人物の目撃談といい、パリー丸の事務長の話といい、どうも当時渦巻いていたはずの「流言・蜚語」をそのまま述べているだけのように感じられて仕方がないのだが、著者が述べる朝鮮人暴動のもう一例は、品川での事件である。

品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました。鮮人は鉄砲や日本刀で掛るので危険でした。其中に第三連隊がやつてきて鮮人は大分殺されましたが日本人が鮮人に間違はれて殺された者が沢山ありました」(「北海タイムス」大正十二年九月六日)

三日は、戒厳令の下、横浜と東京の間には、びっしりと憲兵や警官隊がそれこそ蟻の這い出る隙間もないほどの重警戒をしていたはずである。通行人が少しでも怪しいと見られれば執拗な訊問を受けたことは多くの経験者が語っている。空を飛んできたのでなければ、なぜ三百人もの朝鮮人が横浜から東京まで爆弾や鉄砲や日本刀をもって押し寄せ、それらを投下できたのだろうか。いったい、持参した爆弾やら鉄砲やらをどこで、どんなふうに、誰に向かって投げたり撃ったりしたのだろうか?

このように世にも不可解な3件の例を裏付けもないままに挙げた上で、著者は「こうした証言はあげれば際限がないほど多くを数える。」という。私には、根拠不明のこのような証言こそ「流言・蜚語」と呼んでしかるべきことのように思えるので、こういう証言をいくら聞かせて貰っても仕方がないと思うのだが、著者は、次のように言う。

「だが、これ(引用者注:上記3例における新聞記事などの目撃談)に反し逆に日本人によって多数の「無実の朝鮮人」が虐殺されたのだと主張する説が長い間歴史観の主流を占めてきた。/ 本書の主題はその真実に迫ることにあるが、その前提としてまず時間の推移に従って事件の背景を検証しなければならない。「虐殺」説の解剖は後の章で行うことにして、ここはしばらく地震発生当時の、それぞれの体験記録を繰りながら話を進めたい。」

その体験記録の冒頭に掲載されているのが、小説家の芥川龍之介が震災直後に書いた「大震雑記」という文章なのだが、工藤氏はその中から次の文を引いている。

「  5 
 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。
 戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を銜へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤も雑談とは云うものの、地震以外の話の出た訳ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云ふ外はなかつた。しかし次手にもう一度、何でも○○○○(不逞鮮人)はポルシェヴィッキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉も挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽ち自説(?)を撤回した。
 再びぼくの所見によれば、善良なる市民と云ふものはポルシェヴィッキと○○○○(不逞鮮人)との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。
 尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。」(ドキュメント関東大震災(草風館1983年))

皆さんはこの文章をどのように読まれるだろうか。おそらく大多数の人は、菊池寛は常識外れの荒唐無稽な噂話などには惑わされないだけの知性をもつ人物であることを知り、またそれを堂々と(友人芥川相手だからこそかも知れないが)口にする菊池寛に見識を感じるのではないだろうか。芥川はここで菊池寛をそのような人物として描いていると思う。しかるに、著者の工藤氏は、「芥川の憤怒」と小見出しを付けて次のように述べている。

「芥川龍之介は大火の原因を一部朝鮮人の犯行と見ていたようである。」「芥川龍之介は菊池寛に対する激憤の行方として、自死を選んだように思えてならない。死因は時代への絶望だとされるのが一般的な解釈だが、それは決して軽いものではないことがうかがえる。(略)」

まぁ、物凄い伝記作家もいればいるものである。呆れてものも言えないとはこんな場合にこそ使われるべき言葉ではないだろうか。著者によると、芥川は菊池寛の発言を聞いて憤怒し、そればかりか、この時の菊池寛の反応が芥川を絶望させ、それが後の芥川の自殺に結びついたかのようにさえ述べている。芥川の小説を二、三でも読んだことがあれば、あるいは読んでいなくても、この文章の内容、全体の雰囲気、気配から、菊池寛がこのときに見せた態度・振る舞いに芥川が全幅の信頼感を持っていること、またこうして菊地寛の言動を叙述することによってパラデキシカルに自分の思い、考えを語り、表現していることは明白ではないかと思う。

労作「朝鮮人大虐殺に関する知識人の反応1・2」(緑蔭書房1996年)を編集・出版された琴秉洞(クム ビヨンドン)氏は、芥川龍之介の上の文章について下記のような解説をされている。

「史料144~147の四篇は芥川龍之介の文である。芥川は当時(今もだが)並ぶものなき人気作家で、大震に関しては幾つかのエッセーがある。その中で流言や朝鮮人問題にも触れたものを抜いたのだが、これらの小文の中でも彼はいささか韜晦めいた独特の文体に潜ませているが、云わば彼の人間的本質といったようなものが、ゆくりなくもほの見えるようである。ことに144中の菊池寛との対話のうちにそれがよく出ていると思う。一般的には菊池寛と云えば、日本支配層、軍部のアジア侵略戦争にきわめて積極的だった印象が強いのだが、この芥川の文に出てくる菊池は、朝鮮人の放火も、ポルシェヴイキと「不逞鮮人」との連携も一言の下に、断乎として「ウソだ」という、透徹した眼識の持主である。「ぼくの所見によれば、善良なる市民と云うものはボルシェヴイキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は少なくとも信じているらしい顔つきを装わねばならぬものである。(中略)尤も善良なる市民になることは、兎に角苦心を要するものである」とある所は、権力が幅を利かす社会に対する皮肉でもあり、彼の人生に対する云わば冷笑的態度をよく現していることでもあろうか。」

芥川に関する琴秉洞氏の判読を前にして、工藤氏はご自分の見方の浅薄さ、不見識を恥ずかしく感じないだろうかと思うが、あるいは芥川の文章の意図、意味をちゃんと読み取った上で、あえて上記のような書き方をしたのかも知れないとも思う。というのも、工藤氏は、「参考文献」のなかに、「姜徳相、琴秉洞編「現代史資料6-関東大震災と朝鮮人」」を挙げているのに、その後に出版された大部の「朝鮮人大虐殺に関する知識人の反応1・2」は入れていないのだ。この本には、震災当時の小説家、詩人、学者、法曹関係者、宗教者、ジャーナリスト、政治家、運動家、教育者、学生といった、およそ考えうるかぎりの知識人の文章(雑誌などへの寄稿文、日記、知人への手紙など)、談話が網羅されて出ている。それも執筆者・談話者自身の直接体験、目撃談話がほとんどなのだ。当然そこには執筆者・発言者が接触する市井の人々や官憲側の人間など、多様な人々のおびただしい行動や発言が収載されている。それほど貴重なこの2冊の記録を、なぜ、この重大な問題を取り扱うというのに、「参考文献」としなかったのか。この点についても私は少々疑いをもつ。 
2010.10.26 Tue l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (32) トラックバック (0) l top
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