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6月13日、金光翔さんのブログ『私にも話させて』に、「新潮社・早川清『週刊新潮』前編集長・佐藤優氏を提訴しました」というタイトルの記事が掲載された。提訴日は前日の6月12日とのことだ。
http://watashinim.exblog.jp/

こういう事態にいたるまでの金さんと『週刊新潮』・佐藤優氏との間の経緯は、今では案外多くの人に知られているのではないかと思うが、未知・未読の人には、『私にも話させて』・『資料庫』・『首都圏労働組合特設ブログ』掲載の記事を読まれることをお奨めする。どなたかの言葉を借りて「損はしません、きっと」と言いたい。私自身、この1、2年、金さんの鋭い日本社会批評の文章につくづく啓発されることが多かった。
金光翔さんが提訴に踏み切ったのは、上記の記事にあるように、佐藤氏が公開質問状の受け取りを拒絶し、『週刊新潮』が質問状に対して「答える必要がない、答えない」と述べ、その理由を問うたところ「答えるに値しない」との答えが返ってきたことなど、あまりにも不誠実なその姿勢のゆえであることは間違いないと思う。金さんがこの問題を曖昧のままに終わらせるつもりがない以上、提訴はやむをえなかったということだろう。

金光翔さんが佐藤優氏の言説内容に批判的姿勢をとるようになったのは、いつからなのか、何を契機としたのかは分からないが(もしかすると最初からそうだったのかもしれないが)、私の場合、佐藤氏を批判的に見るようになったきっかけははっきりしていて、高橋哲哉氏の労作『靖国問題』を批評した佐藤氏の「とても同意できない高橋哲哉著『靖国問題』の罠」(「正論」2005年9月号)を読んだことだった。

高橋氏の「靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としない。悲しいのに嬉しいと言わないこと。それだけで十分なのだ」という文章をとりあげ、佐藤氏は「悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰が生まれ、文学も生まれるのだと思う」「悲しみをいつまでも持ち続け、耐えることができる人物は一握りの強者だけ」「この倫理基準に立つ限り、高橋教授には、宗教を必要とし、慰めや癒しを必要とし、そして文学を必要とする人々の内在的論理がつかめない」「『悲しみの罠』から人々を解放するのが宗教や文学、そして時には国家の機能と思う」などと述べていた。

いくら靖国を擁護・讃美するためとはいえ、この言い分は牽強付会にも程があるだろう、と私には思えた。何より気になったのは、ここで述べられている主張は、私には単なるこじつけにしか思えなかったが、佐藤氏自身はこの論理でどこでも誰にでも通用すると思っているようにみえたことだ。「悲しみをいつまでも持ち続け、耐えることができる人物は一握りの強者だけ」などと述べているが、高橋氏は「いつまでも悲しみをもち続け、耐え続けよ」なんて主張してはいない。愛する者を亡くしたら、「うれしい」などという狂気じみたことを口にするのはやめよう、十二分に喪に服そうと提案しているに過ぎないだろうと思う。「この倫理基準に立つ限り、高橋教授には、宗教を必要とし、慰めや癒しを必要とし、そして文学を必要とする人々の内在的論理がつかめない」と高橋氏を批判し、自分自身は宗教や文学を必要とする人の内在論理が理解できているかのような口ぶりだが、理解できていないのは、むしろ佐藤氏の方ではないだろうか。佐藤氏はキリスト者ということだが、どうも自分のほうがキリストより前面に出ようとしているようにさえみえる。文学に関しても、同じ印象をうける。「悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰が生まれ、文学も生まれるのだと思う」とのことだが、これは意味自体もよく分からないが、そしておそらく誤っているのではないかと思うが、それよりも限度をはるかに超えて不遜なことを述べているように思える。このような場合に、そこから信仰や文学が生まれる、などの発言をする人物は、佐藤氏くらいではないだろうか。どんな文学者でもこんなことを言うはずはないし、想像もしないだろう。要は、佐藤氏は、他人に国家のために喜んで命を投げだすことを要求したいのではないのだろうか?

石原慎太郎や安倍晋三などを厳しく批判する人が同時に佐藤優氏を称賛する論理や心理は理解しがたい。もしかすると、この人たちは本心では石原・安倍などをもさして嫌ってもいないのではないかという気さえしてしまう。現実に、佐藤氏は石原・安倍といった人々を高く評価しているのである。それでも佐藤氏を誉め称える声は後をたたないのだ。これらの人たちがどこに評価の基準を置いているのかが分からないので、困惑を通り越し、腹立たしく暗澹とした気分になっていたのだが、このようなときに、金光翔さんの論文「<佐藤優現象>批判」が出たのだった。

この論文には、大きく分けて二つのことを感じた。一つは、これまで自分が漠然と感じつづけてきた疑いや謎のようなものの意味を的確な言葉できちんと表現してくれる人がようやく出てきたという安堵と喜び。もう一つは、「なぜ、このような右翼の論客を、ジャーナリズム内の護憲派、リベラル・左派は重用するのか?」という問いに対して金光翔さんが展開している分析はかなり難しくてわかりにくいということだった。それは、たとえば、「リベラル・左派による佐藤優の重用を、「戦後民主主義からの逸脱」とのみ捉えていては、〈佐藤優現象〉は解けないだろう、ということである。確かに、「2」で指摘したような排外主義的主張が、「戦後民主主義からの逸脱」であることは明らかであるが」と述べられたあと、「佐藤の主張が、リベラルのある傾向を促進する形で展開しており、だからこそ、ジャーナリズム内の護憲派、リベラル・左派が佐藤に惹き付けられている、と私は考える。」というような見解は私にはなかなか理解できなかった。これまで自分がいかにいろんな社会事象や現象を丁寧に観察することを怠ってきたかをつくづく感じたが、それでもこの論文に刺激をうけたこと、教えられるものが多かったことには違いなかった。

金光翔さんは「それにしても、朴裕河ブーム(?)にせよ〈佐藤優現象〉にせよ、まとまった形で批判したのが在日朝鮮人しかいないという日本の(特に左派の)現状の悲惨さに呆れざるを得ない。」とも述べているが、金さんが指摘するこのような傾向はその後ますます顕著になってきているように思える。藤田省三は1973年に「雄弁と勘定」という文章のなかで、「私の偏見によれば、今日の日本は学芸の精神的水準が底抜けに低下して了って、そのつまらなさは明治以後でも最高を記録しているのではないかとさえ思われる程だ。批評の衰弱は特にはなはだしい。新聞は情報提供という面では進んでいるけれども、れっきとした「批評家」の書く「論壇時評」なども、ほとんど読む必要を感じさせない。」と書いているが、その藤田省三も、これほど悲惨な状況がやってくることは想像しなかったのではないかという気がしないでもないが、彼はまた「批評精神の喪失はただの暴力と結びつくかそうでなければ追随的態度にいくかどちらかである。」「しかし、こういう状態のなかではどうすればよいかということについては私にもくだらないながら一つの案がある。」「その案というのは、すべての基礎的な事柄を一つ一つ人間にとっての必要という観点から検討するという平凡な思考の作業をやるべきではなかろうか、ということに過ぎない。」とも言っていて、近頃私はこの言葉を思い浮かべることが多くなっている。

「<佐藤優現象>批判」が発表された後、『週刊新潮』に金光翔さんに関する記事が載った。そこで佐藤優氏は、「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。そして、『IMPACTION』のみならず、岩波にも責任があります。社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない。今後の対応によっては、訴訟に出ることも辞しません」と述べているのだから、このように自らが痛烈に批判している対象である金さんのほうから、この発言について質問なり、問い合わせをしてきたのなら、それに応じるのはごく当然、自然な流れだと思う。というより、佐藤氏は「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です。言論を超えた私個人への攻撃であり、絶対に許せません。」と語っているのだから、その「許せない」相手が「「私が言ってもいないこと」とはどこですか?」「「言論を超えた私個人への攻撃」とは何を指しているんですか?」と尋ねてくれば、勇み立ってそれに答えるのが普通の対応だろうと思う。そうでなければ、佐藤氏は単に恫喝をしただけ、つまり「言論を超えた個人攻撃」をしたのは、佐藤氏のほうだったということになってしまうだろう。

そもそも、佐藤優氏はなぜ金さんの論文に対して反論文を書かなかったのだろう。論文は、佐藤氏の著作や新聞記事などから佐藤氏の発言を多数引用し、それらを詳細に検討・批判することで成立している。ならば佐藤氏はその金さんの批判に対し、自説を擁護して堂々と渡り合えばよかったではないか。週刊誌で金さんや論文の掲載雑誌社や、出版社とはいえ金さんの勤務先に対する怒りをぶちまけたり、掲載雑誌社を訪ねて会合をもったりなどの工作をしないで。これまで言論人の誰でもが行なってきた「言論には必ず言論で応じる」という至極当然かつ適切な姿勢をとっていれば、今回のような提訴などという問題は発生しようがなかったはずである。何か根本的に勘違いをしているように思えるのだが、それは佐藤氏だけではなく、周辺の人びとにも言えるだろう。実際、言論の自由・表現の自由を誰よりも大切にすべき言論人が自ら言論・表現の自由を侵害し、そのことを周囲があやしんだり、危機意識をもつ様子もなく、容認・加担しているのだから、事態は限りなく深刻だと思う。
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2009.06.20 Sat l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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