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去る8月5日、亀山郁夫氏と佐藤優氏によるドストエフスキー関連のトークショーが開かれたそうだ。このことを私はネットの検索をしていて偶々知り、「まぁだ、二人でやってるの!」と呆れた気分になったのだが、トークショーはどうやら満員御礼の盛況だったようである。

これで思い出したのが、もうずいぶん前に『小説新潮』という雑誌で読んだ、亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』を批評した佐藤優氏の文章のことだ。当該雑誌を探し出して見てみると、2007年9月号(管理人注:読者の方に指摘されて初めて気付いたのだが、私は一年余 (2010年10月7日まで) 、この雑誌の発行年「2007年」を誤って「2008年」と書いていた。ブックオフで購入したのが発売翌年の2008年に入ってからだったため、発売年もその年と勘違いしてしまっていたようだ。)とある。この文章を読んだときの奇妙な後味の読後感は忘れられない。「トークショー」の盛況を記念して(?)、佐藤氏のこの一文についての感想を述べてみたい。

「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』批評」は、佐藤氏の『功利主義者の読書術』という連載物の第5回目分のようだが、こんなことが書かれている。

「今回、亀山郁夫氏(東京外国語大学教授)がフョードル・ドストエフスキーの古典『カラフマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫、全五冊)の新訳を公刊した(以下、亀山訳という)。たいへんな勇気が必要になる仕事だ。ロシアにかかわる学者、新聞記者、外交官たちには一癖も二癖もある奴が多い。苦労して新訳を出しても「ここの解釈が間違っている」とか「先行訳の焼き直しに過ぎない」といった類のやきもち半分の悪口を言う輩が必ずでてくる。悪口も耳に人ってこなければ気にならないのであるが、ロシア屋さんの世界は狭いので必ず聞こえてくる。他人の訳に文句があるならば、対案で自分の翻訳を提示すればよいのに、それはしない。それだけの語学力がないからできないのだ。」

ずいぶん愚劣なことを述べているものである。ある翻訳に対して、もしも「ここの解釈が間違っている」とか「先行訳の焼き直しに過ぎない」という発言がなされたのなら、肝心なのは、それが実際、単なる「やきもち半分の悪口」なのか、それとも「なされるべくしてなされたまっとうな批判」なのかの見極めであろう。正鵠をえた批判ならば、それは作品にとっても、読者にとっても有益なのであり、むしろ絶対に必要とされるもののはずである。それとも佐藤氏は、膨大な数の誤訳があろうと、訳文がおかしかろうと、読者はおしなべて黙認すべきであるとでも言うのだろうか。

「他人の訳に文句があるならば、対案で自分の翻訳を提示すればよいのに、それはしない。それだけの語学力がないからできないのだ。」

との見解も、誤訳を指摘された際に見せた光文社の編集長の対応にそっくりである。内容は支離滅裂であり、そもそもの姿勢が非常に傲慢だ。どんな根拠があって「語学力がないからできない」などと断定するのだろう。また、翻訳できるだけの語学力 (この場合はロシア語の) がなければ批判は許されないとでも? 本当は「批判など一切するな」と言いたいのではないか。このような考え方をしているのでは、自らが批判されると、論戦に応じることも、反論もしないで、意識はただちに批判の封殺行為に向かうのもあながち無理はないような気がするが、私としては、ここで「批評精神の喪失はただの暴力と結びつくかそうでなければ追随的態度にいくかどちらかである。」という藤田省三の言葉を記しておきたい。

『小説新潮』を読んだ時、佐藤氏のこのような発言は、ロシア文学者の木下豊房氏が運営するサイト における亀山批判を念頭に置いてなされているのではないか。すでに木下氏のサイトで亀山訳批判を読んでいた私はその時そう思ったのだが、しかし、木下氏のサイトにおいて亀山氏の「誤訳問題」が初めて指摘されるのは2007年の12月であり、これは『小説新潮』に佐藤氏の上記の文章が載った4、5ヶ月程後のことになる。佐藤氏は木下氏のサイトを意識してあの文章を書いたわけではなかったのだ。これは上述した読者の方の指摘を受けて初めて気づいたことで、完全に私の早呑み込み、勘違いであった。

この点の私の推測はこのように完全に間違っていたのだが、ただし佐藤氏と亀山郁夫氏との共著『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書)は2008年4月発刊であるが、この本における佐藤氏の発言内容は、『小説新潮』2007年9月号で述べていたところとまったく変わっていない。また、この『小説新潮』連載の『功利主義者の読書術』は、2009年7月に同じ表題で単行本として新潮社から出版されているが、この本を二 、三日前に見てみたところ、雑誌連載時の文章は何の変更もなくそのまま収載されている。

以上のことから、佐藤氏の考えは、2007年『小説新潮』執筆時からいまだ何の変化もないと見て差し支えないと思われるので、『 小説新潮』における佐藤氏の主張や見解を木下氏のサイトを参照することにより批判的に検討してみたい。まず指摘したいのは、次のことである。

佐藤氏は、「ロシアにかかわる学者、新聞記者、外交官たちには一癖も二癖もある奴が多」く、「ここの解釈が間違っている」とか「先行訳の焼き直しに過ぎない」などの悪口を言う輩が必ずでてくる、などと述べて亀山氏を擁護しているが、最初に亀山氏の誤訳問題を指摘したのは、「学者、新聞記者、外交官」などではない、商社に勤めるNN氏というドストエフスキーの一愛読者だったということだ。

木下氏によると、検証を始めるきっかけは、この人物から亀山訳の多数の問題点を訴えられたことだったそうである。ただ、NN氏は、「一愛読者」といっても、「大学でロシア語・ロシア文学を専攻し、卒業後、ロシア関係の商社勤めのかたわら、ロシア人のチューターを相手に、『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』を音読で読破したという経験の持ち主」(木下氏)ということなので、必ずしもまったくの素人ということではないかも知れないが、かといって、佐藤氏のいうところの「ロシア関係の学者、新聞記者、外交官」でもない。木下氏は下記のように述べている。

「NN氏は電話で、亀山訳にはとても我慢できない誤訳が多いと語った。まだ手元に訳本がなく、確認しようのない私に、NN氏はロシア語原文と、亀山訳とコメントをつけた検証のテキストをメールで送りはじめた。私はNN氏の検証作業にだんだんに引きこまれていった。私はNN氏の読みの鋭さに感心すると同時に、亀山訳に唖然とした。これはロシア語の分かる者同士の意見交換にすまさないで、一般読者にも判断をあおぐ手だてを講じるべきだと考えた。そこでNN氏のコメントと並行して、問題個所を先行訳三種(米川正夫、原卓也、江川卓)の当該個所と対比する形をとることにした。検証作業のために、私も亀山訳第1冊を購入し、NN氏から問題個所のページと行の指摘を受けて、ロシア語原文と突合せて問題点を確認した。その上で、私が亀山訳の打ち込みを引き継ぎ、私の手元にある米川、原訳と対比、入力する作業をおこなった。江川訳の入力はNN氏がおこなった。」

サイトを訪れて拝読してみると、上記の検証作業は手間を厭わない本当に懇切丁寧なもので、私は木下氏およびNN氏によるこの検証に学ぶことが大変多かった。批評の価値の有無や大小は、それが作品と読者にとって有益かどうかにあるのではないかと思うが、このような批判文を読むことができたことに文学作品の読者(愛好者)である私は(好みは偏っているし、決して深い読解力をもっているともいえないにしろ)、文学のある真髄に触れたというような充実感を味わったので、これを読んだ後では、「やきもち半分の悪口を言う輩が必ずでてくる」などという発言はなんとも低劣なものに感じられた。

2007年末、上記の検証結果がサイトにアップされたところ、九州在住のドストエフスキーの愛読者である森井友人氏から木下氏宛てに長文の手紙が届いたそうである。木下氏はその経過について下記のように記している。

「私とNN氏が「検証」を公開したのは、昨年(2007年)12月24日のことだった。間もなく、年が明けての1月2日付けで、森井氏から長文の手紙が届いた。そこには、「検証」を見て、「我が意を得たりと、胸のつかえがおりる思いがし、非礼を顧みず一筆差し上げることにしました」と書かれていた。日本語だけが頼りの一読者として、亀山訳の不適切な個所に疑問を感じ、光文社の編集者直々に問題個所を指摘するなど、私たちの 「検証」公開に先立つ、森井氏の孤軍奮闘の幾月かがあったのである。(略)
森井氏はすでに誤訳とおぼしき 不適切な個所のリストを作成しており、そこには「検証」と一部重なりながらも、そのほか私達が見逃した数々の重要な個所が指摘してあった。それらは当然ながら、ロシア語の専門的立場から検討に値するものと思われた。そこでNN氏の賛同と協力を得て、「一読者による点検」の作成を開始したのである。」

森井友人氏は、ロシア語はまったく読めないそうである。しかし、誤訳に気づいた。この点について、森井氏自身の説明は次のとおりである。

「読み始めてみると、すいすい読めるという評判に相反して、これが読みにくい。訳文が頭に入ってこない、言い換えれば、文脈が読み取りにくいのです。最初は、こちらの頭の調子が悪いのかと思ったのですが、途中でいくらなんでもこれはおかしいと思い、原訳・江川訳を引っ張り出して確認したところ、やはり誤訳・悪訳です。そう判断したのは、この二つの先行訳だと、その箇所の意味がすっきり通るからです。それまでも引っかかりながら読んで いたので、ここで私は改めて初めから読み直すことにしました。さて、その気になって読んでみると、あちこちに誤訳・悪訳が目に付きます。これまでも誤訳に 気づいた訳書はあります。しかし、今回はその数がちょっと多すぎます。正直なところ、唖然としました。」

最終的な責任はロシア文学者でありサイトの運営者である木下氏が負うとしても、上記の「検証」「点検」作業は、木下氏だけではなく、むしろ一般読者のNN氏や森井氏によって担われている。「亀山訳批判」への佐藤氏による反批判は的を射たものとは言えず、亀山氏への迎合とでも評するのが一番適切なように思われる。

ところで、面白いと思ったのは、佐藤氏が記事のなかで「後に筆者が若手外交官の翻訳をチェックするようになると、誤訳はすぐに気がつくことがわかった。まず日本語として意味が通じないところは、文法的に取り違えている可能性が高い。」と述べていることだった。この発言は奇しくも「点検」を行なった森井友人氏が亀山訳を誤訳ではないかと疑った理由と同じである。森井氏が亀山訳をおかしいと思った契機は、上述のように、「カラマーゾフの兄弟」の訳文が頭に入ってこなかったことであり、「「原訳・江川訳を引っ張り出して確認したところ、やはり誤訳・悪訳です。そう判断したのは、この二つの先行訳だと、その箇所の意味がすっきり通るからです。」と述べている。

佐藤氏も森井氏も同じく、日本語の意味が通らない場合は誤訳の可能性が高いと発言しているのだが、ところが、亀山訳に関して二人が導きだした結論は正反対のものである。「点検」作業において(「検証」もそうだが)、森井氏はまず疑問を感じた箇所の新訳を掲載し、それに対する自身の疑問を率直に記している。その後に、原卓也訳、江川卓訳を引用、その上、原文とNN氏による解釈と解説を附すというように、作業は大変実証的に、サイトを訪れた誰でもが理解・納得できる公明正大なかたちでなされている。一例を以下に引用させていただく。

新訳 (母ソフィアは)どうかこの子をお守りくださいとお願いするかのように、両腕にかかえた赤ん坊を聖像の方へ差し出している┄┄。と、とつぜん乳母が駆けこんできて、�驚いた顔の母の手から幼児を奪いとる。そういう光景なのだ!
アリョーシャは、�その瞬間の母の顔もはっきりと覚えていた。�思い出せるかぎり、母は狂乱しながらも美しい顔をしていたと彼は話していた。

森井の疑問 最初に気になったのは、後段の方である。�の「~できるかぎり(では)」という表現は、その行為の精一杯の限度を示す。これは、�と矛盾する。「はっきり覚えていた」のなら、楽々と思い出せたはずで、精一杯の努力は要らないはずである。
この時、�が目に入って、先行訳との違いに気づきました。─先行訳では、驚いた(おびえた)のは乳母の方である。意味はどちらも通るが、文脈上、ソフィアの神がかった行動を目にして、赤子を案じた乳母が驚いた(おびえた)とするのが自然ではないか。こう感じていたが、「検証」で確認できました。
原訳 (…)そこへ突然、�乳母が駆けこんできて、怯えきった様子で母の手から彼をひったくる。こんな光景なのだ! アリョーシャが�母の顔を記憶にとどめたのも、その一瞬にだった。その顔は狂おしくこそあったが、�思いだせるかぎりの点から判断しても、美しかったと、彼は語っていた。
江川訳 (…)と、ふいに�乳母が駆けこんできて、おびえたように母の手から彼をもぎとる。これがその光景であった! アリョーシャは�その瞬間の母の顔を覚えていた。彼の話では、これは、取り乱してこそいたが、�思い出しうるかぎりでは、実に美しい顔であったという。
原文 ... и вдруг вбегает нянька и вырывает его у нее в испуге.  Вот картина! Алеша запомнил в тот миг и лицо своей матери: он говорил, что оно было исступленное, но прекрасное, судя по тому, сколько мог он припомнить.
解説(NN) 「覚えていた」の原語は“запоминл ザポームニル” で、“запомнить ザポームニチ (覚える、記憶に留める、記憶する)” という完了体動詞の過去形。完了体動詞の過去形には「或る動作が完了して、その結果がいまだに残っている」というニュアンスが含まれます。しかし、「はっきりと」の意味合いまでも含まれるかというと、これはさに非ず。「はっきりと記憶に留める」と言う場合には何らかの副詞、たとえば “хорошо ハラショー (よく)” なりを補って “Хорошо запомни! ハラショー・ザポームニィ!(よく覚えておけ!)” などと表現します。当該個所には何の副詞もなく、「はっきりと」は翻訳の際に補われたものです。「はっきりと覚えていた」のすぐ後に続く文が「思い出せるかぎり(原文は “судя по тому, сколько мог он припомнить スージャア・パ・タムー、スコーリカ・モーク・オン・プリポームニチ”)」と始まっているのは確かに不自然。不適切な語の補いの例です。
  「驚いた顔の母」という誤訳については、言及のとおり、先の「検証」で詳述しております。
森井追記 �は、「検証」の指摘に従って新訳第20刷で訂正されている。
(訂正前)と、とつぜん乳母が駆けこんできて、�驚いた顔の母の手から幼児を奪いとる。
(訂正後)と、とつぜん乳母が駆けこんできて、�おろおろと母の手から幼児を奪いとる。
ただし、今回初めて指摘する�・�は手つかず。矛盾したままです。」

以上、一例だけ引用させていただいたが、私はこの「点検」の方法にも、そこで述べられている内容にも納得するところが多かった。あとは直接サイトをご覧いただくとして、問題は佐藤氏のほうである。

佐藤氏も、「日本語として意味が通じないところは、文法的に取り違えている可能性が高い。」と、森田氏と近いことを述べているのに、そういう佐藤氏は、森田氏らが上記のように丁寧に指摘している亀山訳の明白な誤訳の数々をどのように見ているのだろうか。そう思わずにいられないのだが、もちろん佐藤氏はそんなことには頓着しない。それどころか、亀山訳を絶賛していわく、

「亀山訳を通読して、筆者は何とも形容しがたい感銘を受けた」、「大審問官伝説でドストエフスキーが拒絶しているのは、イエズス会型のカトリック教会のみでなくプロテスタント諸教会を含む西欧のキリスト教総体であるということが、亀山訳を通じれば、ロシア語の知識がない読者にも明らかになる。「神は細部に宿り給う」というが、このような重要な細部を正確に翻訳することができる亀山郁夫氏のような翻訳者をもつわれわれは幸せだ。」

と、今更ながらのありきたりな読後感の披瀝とともに、「亀山郁夫氏のような翻訳者をもつわれわれは幸せだ」とまで記している。「われわれ」が誰を、どのような範囲を指し示しているのか分からないが、「検証」や「点検」を読んだ後では、このような言い分は無恥の厚かましさとしか思えず、怒りさえおぼえる。

佐藤氏が「日本語として意味が通じないところは、文法的に取り違えている…」と述べた上で亀山訳を正確だと称賛しているのは、「大審問官」の前書き部分に相当する次の箇所である。

「その彼が自分の王国にやってくるという約束をして、もう15世紀が経っている。彼の預言者が『わたしはすぐに来る』と書いてから15世紀だ。彼がまだ地上にいたとき述べたように『その日、その時は子も知らない。ただ父だけがご存じである』であっても、人類はかつての信仰、かつての感動をいだいて彼を待ちつづけている。いや、その信仰は昔よりもむしろ大きいくらいだ。なぜって、天から人間に与えられた保証が消えて以来、もう15世紀が過ぎているんだからな。

心が語りかけることを信じることだ
天からの保証はすでにないのだから

つまり、心が語りかけることに対する信仰だけがあったんだ! たしかに、当時は奇跡もたくさんあった。奇跡的な治療をおこなう聖人もいたし、『聖者伝』によると、義しい人々のもとへ、聖母が自分から天くだったとされている。でも悪魔だってそうそう昼寝ばかりしてたわけじゃない。人々のあいだに、そういった奇跡の信憑性に対する疑いが早くも生まれはじめたんだ。ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現れたのはまさにそのときだった。『松明に似た、大きな星が』つまり教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』ってわけだ。(亀山訳、第二巻、253~254頁)」

佐藤氏は、上記の亀山氏の訳文に下記のような解説をしている。

「このポイントになる「大きな星」の部分を、標準的定本である『ドストエフスキー30巻全集第14巻』(レニングラード、1976年)から直訳するとこうなる。
〈「松明に似た」巨大な星が(それは諸教会のことである)「水源の上に落ち、そして水源が苦くなった」〉
括弧をつける部分が少し違っているが、亀山訳は原文に忠実だ。この点について、先行の米川正夫訳(岩波文庫、1928年、1957年改版)、原卓也訳(朝潮文庫、1978年)と比較してみよう。
〈ちょうどその頃、北方ゲルマニヤに恐ろしい邪教が発生した。『矩火に似た』(つまり教会に似た)大きな星が『水の源に隕ちて水は苦くなれり』だ。〉(米川訳、第二巻、78頁)
〈北国ドイツに恐るべき異端が現われた(訳注 宗教改革のこと)のは、ちょうどこのころだよ。《たいまつに似た》(つまり、教会に似た)巨大な星が《水源の上に落ち、水が苦くなった(訳注 ヨハネ黙示録第八章)》のだ。〉(原訳、上巻、476頁)
原文を素直に読む限り、「松明に似た大きな星」が教会を指すのである。つまり「大きな星」が教会そのものにたとえられるのだ。そして、『ヨハネの黙示録』によれば、その星の名前が「苦よもぎ」と言うのだから、ここから読者の印象が大きく広がっていく。亀山訳だと『カラマーゾフの兄弟』が聖書の世界に連結していく。米川訳、原訳の「教会に似た大きな星」という解釈では、意味がまったくわからない。
 更に米川訳の邪教では、キリスト教以外の宗教になるので、原文から意味がずれる。原訳、亀山訳のロシア正教から見たキリスト教の異端、すなわちこの異端はプロテスタンティズムを示唆しているという解釈が正しいのである。」

私はロシア語を読めないので、佐藤氏の引用する箇所も当然日本文として読んだ。その上で述べるのだが、佐藤氏の上述の解説ははなはだ疑問である。佐藤氏は、米川・原の両先行訳と比較して亀山訳を絶賛しているが、比較するのならなぜ引用文のすぐ後にどんな文が続いているのかを問題にしないのだろうか。この場合は、それをも見なければ、先行訳と亀山訳のどちらが日本文としてすぐれているか、判別できないことは文脈上明らかだと思う。よって、佐藤氏が上記で引用している亀山・米川・原の三氏の訳文に続く文を加えた上で、佐藤氏の見解が妥当かどうかを検討してみたい。

亀山訳
「人々のあいだに、そういった奇跡の信憑性に対する疑いが早くも生まれはじめたんだ。ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現れたのはまさにそのときだった。『松明に似た、大きな星が』つまり教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』ってわけだ。
 で、これらの異端者たちは、奇蹟を冒瀆的に否定しはじめた。ところが、そのまま信仰を失わずにいた連中は、逆にますますはげしく信じるようになった。」

米川訳
「しかし、悪魔も昼寝をしてはいなかったから、これらの奇跡の真実さを疑うものが、人類の中に現われ始めた。ちょうどその頃、北方ゲルマニヤに恐ろしい邪教が発生した。『矩火に似た』(つまり教会に似た)大きな星が『水の源に隕ちて水は苦くなれり』だ。これらの邪教が罰あたりな言葉で奇跡を否定しにかかった。しかし信仰を保っている人は、なおさら熱烈に信じつづけた。」

原訳
「しかし、悪魔も居眠りをしちゃいないないから、人類の間にはすでにそうした奇蹟の真実性に対する疑惑が起り始めていた。北国ドイツに恐るべき異端が現われた(訳注 宗教改革のこと)のは、ちょうどこのころだよ。《たいまつに似た》(つまり、教会に似た)巨大な星が《水源の上に落ち、水が苦くなった(訳注 ヨハネ黙示録第八章)》のだ。この異教は冒瀆的に奇跡を否定しはじめた。だが、依然として信仰を持ちつづけた人々は、そのことによっていっそう熱烈に信ずるようになった。」

日本文として読むかぎり、米川・原訳のほうが亀山訳よりはるかにすっきり意味が通ると思う。亀山訳のように「星」を「教会のこと」と確定してしまえば、その後に続く「これらの異端者たち」は前文からぷつんと繋がりが切れてしまい、文脈上「これら」とは何のことか分からなくなるではないか。また、亀山訳では「星」の象徴性が消え失せてしまうと感じる。
私の感覚では原訳が一番いいと思うし、次に米川訳をあげたい。残念ながら亀山訳は評価できない。佐藤氏は「米川訳、原訳の「教会に似た大きな星」という解釈では、意味がまったくわからない。」と述べているが、この見解は、私にはそれこそ意味がまったく分からない。
佐藤氏は、「米川訳の邪教では、キリスト教以外の宗教になるので、原文から意味がずれる。」とも述べているが、辞書によると、「邪教」の含意はまず「社会の害悪となる宗教」なのだから、「邪教」でも何ら誤りではないと思う。

佐藤氏は、『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書2008年)においても奇妙な発言をしている。「亀山訳は、(略)語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」「それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがちですが、新訳のおかげでプロテスタント誕生直後の16世紀だということがはっきりします。」などと述べているのだが、でもこれは完全にでたらめである。「それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがち」などということはまったくなく、当然のことだと思うが、米川・江川・原の各氏をはじめ、小沼文彦氏の訳でも「大審問官」の舞台を「16世紀」と誤解の余地なく明記している。では他に、亀山訳が「これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」という箇所がどこかにあるのだろうか? あると言うのなら、それはどの場面なのだろうか? 錚々たる過去の翻訳者たちに対し、何一つまともな理由も根拠も示さずに「誤訳」云々と好き勝手にしゃべり散らすのは、非礼と不遜にすぎるのではないだろうか。

日本文学史上、ドストエフスキー作品の読解と解釈に欠くことのできない深い意味と豊かな稔りをもたらしたと思われる作家の埴谷雄高は、晩年「嘗ての私達は、米川ドストエフスキイを読んで、ひたすら米川さんの恩恵に浴している」「第二次大戦以前は、小林秀雄も私も、米川ドストエフスキイによってひたすら考察し、……」(「謎とき『大審問官』」福武書店1990年)と、米川正夫氏のドストエフスキー翻訳からうけた文恩について率直な言葉で語っている。何も埴谷雄高のような文学者やロシア語の専門家にかぎらない。数多くの一般読者がそれぞれに深い思いをいだいていたはずなのだ。

江川訳、原訳に対してもそうだが、先行訳について異論や反論を述べたいのなら、最低限の知的誠実さの証として、せめて基本的な事実関係くらいは正確に把握した後にしてほしいものだ。佐藤氏のような姿勢では、翻訳者のみならず、原作者であるドストエフスキー自身への関心の程度さえ疑われても仕方ないだろうと思う。

亀山郁夫氏の訳本についての感想も機会があったら記してみたい。


     ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 2010年10月12日

読者の方から、先日(10月7日)、佐藤優氏の「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』批評」が載った『小説新潮』は、記事に書いてある「2008年9月号」ではなく、前年の「2007年9月号」ではないかとの指摘をいただき、調べてみたところ、確かにご指摘どおり、掲載号は「2007年9月号」でした。これまでこの記事を読んでくださった皆さんにお詫びいたします。一旦、記事中の「2008年9月号」を「2007年9月号」に直し、雑誌の購入時期を付したのですが、これだけの訂正では、時系列に矛盾が出るとの新たな指摘をいただきました。自分でもヘンだと思い、訂正の必要を感じてはいたのですが、話の展開上、これがなかなか難しいように感じられて、心ならずもしばらく放置していたのですが、今日なんとか訂正してみました。拍手コメントで二度も的確な指摘をくださった方、ありがとうございます。
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2009.08.31 Mon l 文芸・読書 l コメント (6) トラックバック (0) l top
『週刊金曜日』は、定期講読者ではないので、毎週読むわけではないが、偶然読んだ掲載記事につよく感応してしまうということがこのところ2回ほどあった。
近いほうの例は、2009.07.10号の「「国策捜査」追認する最高裁 佐藤優氏上告棄却で有罪に」という記事。筆者はジャーナリストの青木理氏で、佐藤優氏の上告が6月30日付けで棄却されたことをうけての文章である。
一読後、内心にひどく引っかかるものがあったのだが、それは下記の部分であった。

「今後、佐藤氏は「起訴休職中」というくびきから離れ、むしろ活躍の幅は広がるだろう。そのさらなる旺盛な言論活動に期待すると同時に、検察の捻り出した虚構に付き従うことしかできない司法の砦=最高裁の滑稽な佇まいには、徹底的に唾を吐きかけておきたいと思う。」

上記の文章を3つの部分に分けて感想を記すが、まず、①は、「今後、…むしろ活躍の場は広がるだろう」という箇所。これについては、青木氏が述べるとおりに佐藤氏の活躍の幅がこれからさらに広がるのだとすれば、佐藤氏の言説内容を評価しない当方としては辟易する。そうとしか言いようのないことだが、それよりも興味ぶかく感じたのは、②「さらなる旺盛な言論活動に期待する」という青木氏の発言だった。これを見ると、青木氏は現在の佐藤優氏の言論活動を高く評価しているということだと思うが、佐藤氏の言説の何を、どのような発言をすばらしいと思い、今後への期待につなげているのだろうか?

佐藤氏が事実「国策捜査」の被害者であるかどうかについては、私は訴訟記録も見ていないし、有罪、無罪を判断できるような情報も何ら持ち合わせていないので、正直なところ分からない。一般に流布されている裁判に関する情報から推測すると、「背任」を問われた3349万円の支出には事務次官の決裁がされているということだし、有罪の確実な証拠はないようにも思える。ただ、佐藤氏が著作や対談や雑誌・新聞記事などで自分の事件について述べている文章を読んでいると、その説明内容にふつふつと疑念が湧いてくるというのもまた事実である。

疑問の一つなのだが、佐藤氏は、なぜ、自分が「国策捜査」の被害者だと訴え、控訴、上告をつづけながら、これとセットのように、ことあるごとに、「国策捜査の必要性もよく理解しています」「国策捜査は必要と考えています」(獄中記)という主旨の発言を繰り返すのだろうか。自分はこれまで国策捜査そのものを否定したことは一度もない、と強調している文章も私はどこかで見かけた記憶がある。このような見解をきくと、私などは「それならば、もう裁判を打ち切って、おとなしく判決を受け容れることにしたらどうか」と思うのだが、佐藤氏はどのような意図でこの発言を延々と繰り返すのだろうか。

自分への国策捜査は承認できないが(上訴するということはそういうことだろう)、他人の場合は必ずしもそうとばかりはいえない、という意図をもって述べているのだろうか(そういえば、朝鮮総連への国家的弾圧について、国策捜査はこういうときにつかうものだ、と弾圧を推進する旨の発言をしている文章を読んだことがあった。)。または、このような発言をすることによって、検察やその他の国家機関にひそかなメッセージ、アピールを送っているつもりなのだろうか。それとも、これらのこととは全然別の、何らかの考えや思惑があるのだろうか。

佐藤氏の定義によると、「国策捜査」も無実の罪 ― 冤罪には違いないようである。冤罪を訴えている人物が、冤罪も必要な場合がある、などと発言することは普通まずありえないし、倫理的にもあってはならないだろう。しかし、佐藤氏はその見解を何年にもわたって述べ続けている。忠告する人も、疑問を呈する人もいないようだ。佐藤氏自身、自分の言動に矛盾を感じないのだろうか? このような発言は、現に、冤罪を訴え、冤罪に苦しんでいる人の立場や環境にじわじわと悪影響をもたらす可能性も十分に想定されると思うが、佐藤氏はこのようなことに考えをめぐらすことはないのだろうか?

また、佐藤氏が責任を問われた「背任罪」は、イスラエルに関連しての事件のようだが、大変気になるのは、佐藤氏とイスラエルとの関係である。佐藤氏は誰はばかることなくイスラエルへの自分の絶大な傾倒ぶりを口にしているが、この事件および裁判に、イスラエルと佐藤氏の関係は何らかの影を落としていないのだろうか。「国家の罠」「獄中記」でもイスラエルに対する言及は夥しくなされていて、イスラエルに対する如何にも好意的な記述は印象に残ったのだが、驚いたのは、2006年および2008~2009年に起きたパレスチナに対するイスラエルの大虐殺の最中、佐藤氏が全面的にイスラエルを擁護し、その上、日本外務省に対してもっと完全にイスラエル側につくようにと明確な要請をしたことだった。佐藤氏のこの言動 ―― 特に外務省への要請は、佐藤氏を「国策捜査の被害者」扱い一辺倒だったこれまでの見方に再考を促すに十分な出来事ではなかったかと思う。

以上、佐藤氏に対する2つの疑問点を記したが、青木氏は、これらの点についてどのような見解をもっているのだろう。上記のような疑問は、おそらくは多かれ少なかれ誰の胸にも浮かぶと思われる疑問なのだから、最高裁の判決が下りた今、青木氏が、佐藤氏を国策捜査の被害者であると読者や社会一般にむかって断言するのならば、誰にいわれなくても、上記の疑問点について自分のほうから率先して佐藤氏に質問し、調査検討して、読者に説明するのが責任ある姿勢ではないかと思う。

佐藤氏は、2006年11月に刊行された「インテリジェンス武器なき戦争」(幻冬舎)において、

「アラブの原理主義やパレスチナの極端な人たちの中から、「佐藤は日本におけるイスラエルの代弁者だ」ということで、「始末してしまったほうがいい」と言ってくる人たちが出てくるかもしれない。それはそれでかまわない。それを覚悟で贔屓しているわけです。しかしそれと同じように、アラブを贔屓筋にしている人たちは、イスラエルにやられても文句は言えないですよという話です。たとえばアルカイダ、ハマス、ヒズボラのテロリストを支援するような運動をやった場合、これはイスラエルにとって国家存亡の問題ですから、その人は消されても文句は言えない。それくらいの覚悟が求められる贔屓筋の話だと思います。」

と述べている人である。パレスチナに対するイスラエルの虐殺、占領・封鎖政策に心を痛め、批判する人々への脅迫に等しい発言内容だが、このような恐るべき発言をした人は、戦後、文芸や言論に携わってきた人のなかに一人もいなかったと思われるが、こういう発言に沈黙し、容認したまま、「さらなる旺盛な言論活動に期待する」という青木氏の姿勢も私は不可解である。佐藤氏の上記の発言は、金光翔さんの論文「<佐藤優現象>批判」が発表された際の言動をはじめとして、自分が批判された場合に佐藤氏がみせる対応とふかく関係していると思うのだが、佐藤氏に対して上記のような期待の言葉を述べる青木氏は、ジャーナリストとして、佐藤氏の上述の言動をどのように解釈し、評価しているのだろうか。

これは青木氏にかぎったことではないが、佐藤氏の周辺の人達は、もし自分自身や周囲の人間が何者かに言論・表現に関して干渉や圧力をうけた場合、一体どんな対応をとるのだろう。言論・表現の自由に対する侵害だ、と憤ったり抗議したりするのだろうか。しかし、自分のすぐ身近で生じたこのような露骨な人権侵害に一度見て見ぬふりをしたり、容認してしまったら、自分自身が被害をうけた際に、そのような言葉を口にすることはできなくなる、少なくとも大きな矛盾を露呈することになると思うのだが…。また、自分が言論の場で誰かにきびしい批判をあびた時にどうするかという問題もある。それから自分の近親者(親、子、夫、妻、兄弟姉妹 etc.)や親しい友人が言論活動をしていると仮定して、その人が、誰かに批判をうけた場合に、佐藤氏のように、言論に言論で応じることをせず、週刊誌での恫喝や裏工作に走るような態度をとったとしたら、そのときどうするかという問題もある。この人々はその場合も黙認するのだろうか。悲嘆しないのだろうか。しかし、そのようにして、佐藤氏のような対応・言動が、言論界や社会のあちらでもこちらでも、とあたりまえのようにはびこりだしたらどうなるのだろう。少なくとも、これまでは、日本社会にもこのような行為は恥ずべきこと、軽蔑すべきことという共通認識がたしかに存在していたはずなのだが。

最後に、③として、「検察の捻り出した虚構に付き従うことしかできない司法の砦=最高裁の滑稽な佇まいには、徹底的に唾を吐きかけておきたいと思う。」という記述について述べておきたい。裁判所には私も刑事事件の判決文を読んだりする折りには、一庶民としてときには絶望的な気持ちをおぼえることもあり、その点、青木氏の心情に共感するが、これまで述べてきたような、佐藤氏に対する疑問が解消されない以上、佐藤氏の事件を通し、佐藤氏を「被害者」として擁護する立場からの裁判所批判には賛同することはできない。「国家の罠」には、国益にあたえる悪影響をミニマム化する、とか、特殊情報に関することが表に出ないようにする、ということへの配慮の要請を検察に伝え、その点では検察との間で手を握ることができるとの感触を得た、などとも記されている(文庫版p292)。つまり、あの事件には、法廷には出ていない種々の問題が存在する可能性を佐藤氏自身が記述しているのである。青木氏には、そのようなことにも注意を向けて欲しかった。
2009.08.14 Fri l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
検察は、風間さんと関根氏の間に、自分たちの財産や事業を守るためには他人の抹殺をも辞さない性質の排他的で強固な絆があるのだと主張し、二人の関係を「車の両輪」や「運命共同体」などにたとえている。それでは、実際二人の間にこのような確固とした絆があったのかどうか、これからこの説の信憑性を探ってゆきたい。この問題は、大変複雑微妙な性質の内容を含み、また事象は多方面におよんでいるので、下記のように幾つかの項目に分類し、それぞれ個別に検討してゆく。

1.「M事件」について
2.風間さんの入れ墨に関する問題
3.風間さんの連れ子である長男への関根氏の暴力
4.同じく関根氏による風間さんへの暴力
5.その他

最初に、検察が昭和59年(84年)に関根氏と風間さんによって共謀実行されたと主張する「M事件」から検討する。

1.「M事件」について

検察は、この出来事こそ二人が同志的「車の両輪」関係を築き上げる原点になったのだと主張し、また裁判所もそのように認定しているので、事件の全貌および裁判の構造を正確に認知する上で、このM事件の詳細な検討は決定的に重要だと思う。

検察官は、Kさん殺害の動機は、Kさんからの犬のキャンセル料返還請求に対する風間さんの拒絶にあるのだと主張する。これによると、関根氏から事情を聞いた風間さんは「Kに返す金などない」と反応し、「Mだって、殺してから10年も経つけど警察は迎えにも来ていない。日本は法治国家だから証拠がなければ逮捕されない。」「やるしかない」と述べたということだ。
検察官のこの主張は関根氏の取調べ段階の供述調書を根拠にしているのだが、しかし、公判に入ってからの関根氏は、ことM事件に関しては、全面的に自分のこの供述内容を否認している。M氏を殺害したこと自体を否定しているということである。

このMという人物は関根氏の古い知人とのことである。もし検察官の主張が正しいのなら、昭和59年2月、結婚して3、4ケ月後、それまで犯罪と無縁だった風間さんが、結婚後に知り合った夫の友人を殺害したことになるのだが、殺害の理由・経過・状況などは、論告によると、下記のとおりである。

「被告人両名は、アフリカケンネルの事業開始後間もない昭和59年2月ころ、M・E(以下、「M」という。)を殺害し、その死体を解体して、知人のS・R(当時はA・R)に手伝わせて、万吉犬舎にてその死体を焼却し、荒川の押切橋付近に遺棄するという事件を起こした。
被告人関根とMとは、被告人関根が被告人風間と婚姻する以前からの知り合いであり、被告人両名が婚姻した後、被告人風間もMと付き合いをもつようになったが、被告人風間の両親が不動産等の資産を有していたことから、Mは、その資産を当てにして、被告人両名の婚姻後、被告人関根に金の無心等をするようになり、それが執拗になってきたことから、被告人両名は、Mの殺害等を共謀し、それを実行したものである。」(『一審論告』p23)

上記の検察主張に対し、一審弁護人は、次のように反論している。

「しかし右主張を裏付ける証拠は被告人関根の平成7年1月26日付、同1月30日付員面調書だけである。
右調書によれば、「結婚した頃、Mが家によく来ていた。Mは、20万円貸せ、50万円貸せと次々と言ってきた。被告人関根が渋っていると、『おばあちゃんに掛け合う』と言って被告人風間の母親の財産を当てにし出した。そのため、風間も財産を取られると思い、被告人関根に「二人で殺そう」と言い、被告人関根は被告人風間のためになればと思い殺した」とあるが、全くのでたらめであり、検察官は被告人関根の供述について多々信用性を否定しているのに、何を根拠にこの供述を信用できると言うのか全く理解できない。(『一審弁論要旨』p114)

また検察官は右について証人S・Rの証言によっても裏付けられると主張するが、右証言は「昭和59年2月か3月頃、関根から『Mをケムにしたので、手伝って欲しい』と電話があり、万吉犬舎へ行って関根の指示で燃やすのを手伝った、殺した理由は関根が風間や母親の不動産をMに一部やると約束し、それを実行できなかったからだと思う」とあり、また「風間は関根のMに対する右約束を知らないし、その後Mとのトラブルに巻き込まれていない」とあり、仮にM殺害があったとすれば、被告人関根の単独犯を証明する証言であり、被告人風間の共謀を裏付ける証拠は皆無である。」(『一審弁論要旨』p340)

上記の論告や弁論要旨を読んでいると、「M事件」におけるS・R氏の役割は、本件におけるY氏の役割を彷彿とさせるのだが、ではこのS・R氏が、万吉犬舎でMという人物の遺体を焼却した経緯について公判廷でどのような証言をしたかを見てみたい。
なお、当時の風間さんは、犬についての知識などなく、犬舎の仕事にも関わっていなかった。当然、犬舎は関根氏がひとりで営んでいた。

「(燃やしている時に)実際に、だれか来ましたか。
  「来た記憶はありません。」
もともと、当時の万吉犬舎というのは、昼間、人がよく来るような場所だったんですか。
  「当初は、あまり来なかったと記憶してます。」
そうすると、もともと、昭和59年の2月か3月ごろは、万吉の犬舎は、昼間でも人はそんなに来ない場所ではあったわけですか。
  「はい。」
今、実際に誰も来たことはそのときなかったということですが、全くだれの姿も見なかったんですか。あるいは、だれか見たような記憶があるようなことはなかったですか。
  「ええ、ありません。」
全く、ないですか。
  「あっ、客はだれもいませんでした。」
今、「客は」ということをおっしゃったんですが、客以外でだれか知ってる人の姿を見かけましたか。
  「それははっきりとした記憶じゃありませんが、風間博子さんが缶ジュースか何かお茶をもってきてくれたような記憶があるんですが。」
それは、その焼却をしている間ということですか。
  「はっきりとはわからないです。」
おおよその記憶ということなんで、それで聞きますけれども、大体の記憶では、焼却処分をしている間という記憶になるわけですか。
  「はい。」
お茶とか何か持ってきたということですが、それは1回だけですか。それとも、何回かあったんですか。
  「いや、何回もなかったと思います。」
1回か2回、あるいは3回くらいかということではどうでしょうか。
  「1回だと思います。」
お茶を持ってきたということですが、それは、焼却処分をしている最中の証人のところに持ってきたんですか。それとも、別のところに持ってきたんですか。
  「そこまで細かく覚えてません。」
ただ、証人もちょっとあやふやな記憶ではあるけれども、焼却処分中に被告人風間博子の姿を見かけたことがあるということになるわけですか。」
  「はい。」
それから、関根なんですが、さきほどの話で、犬の世話をしてたと、焼却処分の間ですけど、そういう話でしたね。
  「はい。」
それ以外に、関根は何か焼却自体にかかわるようなことはしていたんですか。
  「ほとんど、私がしてました。」
ほとんど。
  「一度か二度くらいは火のそばに来たかもしれません。」
それは、そばに来て様子を見ただけだったんですか。
  「はい。」 」(第56回公判 平成10. 8. 20日)

どうだろうか。関根氏に呼び出され遺体の焼却を手伝わされたというこの人物の、「はっきりとした記憶じゃありませんが、風間博子さんが缶ジュースか何かお茶をもってきてくれたような記憶があるんですが。」というこの証言から、風間さんが事件に何らかの関与をしたと感じとる人間が、はたして何人いるだろうか。大変疑問だが、しかし、裁判所は下記のように認定している。

「証人S・Rは「自分は以前から関根と犬の購入や繁殖話を通じて付き合いがあったが、昭和59年の2月か3月ころ、関根から電話があり、『Mを殺したからすぐ来て手伝ってほしい。』などと言われ、急いで万吉犬舎に行くと、何かが半分位入っているごみ捨て用の黒いビニール袋が4個か5個位置いてあり、その傍らに関根がいて、それはMの死体だと言ったと思う。自分もそれを聞いて、関根とMとの間で金銭的トラブルがあったのは知っていたので、関根がMを殺害して解体したに違いないと思った。そして関根がこれらを焼却しろと指示したので、それに従って万吉犬舎内の焼却炉で燃やし、その灰はかき集めてビニール袋に入れ、近くの川に捨てた。このような作業をしている時風間がお茶を持って来てくれたことがある。」旨述べているのであって、その供述内容も極めて具体的で信用できるものである。そうすると、関根の捜査段階における右供述(筆者注:風間さんが関根氏に「Mだって殺してから10年も経つけど警察は迎えにも来ていない。日本は法治国家だから証拠がなければ逮捕されない。」と述べたという供述)は、このような会話が両名の間で交わされる確かな根拠も存在するのであって、(どちらがそれを言い出したかは別として)少なくとも両名間でそのような話がなされたという限度において、十分信用できるものである。」(『一審判決文』p249~250)

呆気にとられるしかない乱暴な認定だと思う。「その供述内容もきわめて具体的で信用できるものである。」とは、何を指して「具体的」「信用できる」と述べているのだろうか。文脈を見ると、「風間がお茶を持って来てくれたことがある」というS・R証言が「具体的で信用できる」という意味としか読めないのだが、もし風間さんがお茶を持ってきたことが事実だったとしても、それに意味など何もないだろう。その時、遺体焼却が行われていたとしても、それは焼却炉のなかでのことであり、外からは見えないのである。風間さん自身はこのような出来事、場面はまったく記憶にないというが、それはそうだろうと思う。仮にS・R氏にお茶を持って行ったとしても、これは、風間さんにとっては日常生活の単なる一齣でしかなく、まさかお茶を出したことがM氏殺害関与の証拠だと考える人間はまずいまいと思われるが、裁判所はそうは考えないのか、強引に「そうすると」という接続詞を使って、次のような断定をしている。

「そうすると、関根の捜査段階における右供述は、このような会話が両名の間で交わされる確かな根拠も存在する」。

どうやら裁判官は、焼却中に風間さんが「缶ジュースか何かお茶をもってきてくれたような記憶がある」というS・R氏の曖昧模糊としたこの証言を、驚くべきことに、風間さんが「Mだって殺してから10年も経つけど警察は迎えにも来ていない。日本は法治国家だから証拠がなければ逮捕されない。」と事実そう述べたのだと認定するための「確かな根拠」としているのである。
その上、なお、このようにして自ら作った「確かな根拠」と称するものを、Kさん殺害における両者の事前謀議の証拠としているのだ。

「両名間でそのような話がなされたという限度において、十分信用できるものである。」

上記の「そのような話」とは、もちろん、「Mだって殺してから10年も経つけど警察は迎えにも来ていない。日本は法治国家だから証拠がなければ逮捕されない。」という発言のことであるが(筆者注:判決文は、風間さんがこのように述べたとする検察官主張を全面的に採用していながら、しかしこの発言が関根・風間のどちらが言い出したことであるかまでは断定できないと記している。)、この発言の信憑性を、遺体の焼却中に風間さんにお茶を出してもらったような記憶がある、というS・R証言は「十分信用できる」ほどに証明しているのだという。したがって、裁判官はこれにより風間さんのKさん殺害に関する事前謀議の真実性はいよいよ動かしがたく確実になったと断定していることになる。

なお、裁判所が、「Mだって殺してから10年も経つけど警察は迎えにも来ていない。日本は法治国家だから証拠がなければ逮捕されない。」という風間発言を証言している関根供述が信用できると断定する理由は、上記のS・R氏の証言のみに拠っているわけではなく、もう一点、下記の理由も明示している。

「関根と風間との間でK事件に先立ってどのような話し合いがなされたかなどということはもとより捜査官の窺い知ることもできないことであり、まして右の話などは捜査官が誘導などできるはずもなく、関根の捜査段階における右供述は極めて個性的かつ具体的なもので、(略)その内容自体からして信用性が高いと解される」(『一審判決文』p248~249)

「右の話」(Mだって殺してから10年も経つけど警察は迎えにも来ていない。日本は法治国家だから証拠がなければ逮捕されない。)が二人の間に確かに交わされたと信じてよいもう一つの理由として、裁判官は、このような個性的かつ具体的な話は捜査官は思いつくことはできないし、まして誘導などできるはずがないことを挙げている。
だが、このような言い分はもはやばかばかしいとしか思えない。「風間博子さん死刑判決への疑問(5)」で具体例を幾つか示したが、関根氏は稀にみる巧みな話術の持ち主であり、聞き手を引き込む力をもった、非常にリアリティのあるデタラメを、すなわち「個性的かつ具体的な」虚偽話を、淀みなく語ることのできる人物である。その実例は訴訟記録のなかから幾らでも引き出すことができるが、このケースに最もふさわしいと思われる例を以下に引用する。ぜひ関根氏の発言内容に注目してほしい。

注目すべき、マスコミ報道の渦中での関根発言

「平成6年2月頃、本件に関連してマスコミ報道が激しくなり、ペットショップや犬舎に新聞記者や、テレビのレポーターが押しかけてきた。
その件に関し、被告人関根は「自分は捕まるかと思った。被告人風間は日本は証拠がなければ大丈夫、よけいなことを言うな。従業員にもマスコミと一切接触さすな。私が全部話すから、マスコミが来たら、店の方によこしてくれ」と言ったと供述している。
しかし、弁第63号証、第64号証のビデオテープ(再生済み)の証拠調べ結果を見ると、すべて被告人関根がマスコミに対応して雄弁に演説しており、さらに大阪愛犬家殺人事件のことに触れられると、声を大にして「あんなものは愛犬家でない、大変迷惑している」と語っており、マスコミに対し被告人風間がすべて対応したとの供述も虚偽である。」 (『一審弁論要旨』p333~334)

当時私もテレビでこの件に関する報道を何回か見た記憶があるが、画面に現れたのは関根氏だけであった。風間さんを見たことは一度もない。

さて、逮捕前、アフリカ犬舎にマスコミが取材に押しかけてきた時のことを、関根氏は、「被告人風間は日本は証拠がなければ大丈夫と言った。」と発言しているが、この言葉は、Kさん殺害に際して風間さんが述べたという「日本は法治国家だから証拠がなければ逮捕されない」という発言と内容がまったく同じである。
してみると、「日本は証拠がなければ大丈夫」との発言が上記のようにまったくの虚偽であることが明白である以上、「日本は法治国家だから証拠がなければ逮捕されない」との発言に一体どんな信用性が認められるだろうか。先に引用した、判決文のこれに対応する文をもう一度見てみたい。

「右の話などは捜査官が誘導などできるはずもなく、関根の捜査段階における右供述は極めて個性的かつ具体的なもので、(略)その内容自体からして信用性が高いと解される(『一審判決文』p248~249)

「右の話」というのは、前にも述べたが、文脈上、「Mだって殺してから10年も経つけど警察は迎えにも来ていない。日本は法治国家だから証拠がなければ逮捕されない」との発言のことである。このなかの「証拠がなければ逮捕されない」も、マスコミによる加熱取材の渦中で述べたという「証拠がなければ大丈夫」も、ともに同一人物の、風間さんの発言なのである。前者の「証拠がなければ逮捕されない」が、「捜査官が誘導などできるはずのない、個性的かつ具体的なもので、信用性が高い」と認められるのなら、論理則上、後者の「証拠がなければ大丈夫」にも同じことが言えるはずである。しかし後者ははっきり虚偽なのである。

この際、前者、つまり「日本は法治国家だから証拠がなければ逮捕されない」という関根供述も虚偽であると判断することだけが、裁判所がとることのできる唯一の公正な態度ではないだろうか。

この点について、控訴審の判決文が

「(注:S・Rが)風間がお茶を持って来てくれたことがある,と述べている点に照らすと,関根の捜査段階における前記の供述は,根拠のないものではなく,関根と風間のどちらが言い出したかはともかく,そのような会話があったとみて差し支えないことは原判決の説示するとおりであると考えられる。」(『控訴審判決文』p21)

と認定し、一審判決を全面的に支持していることにも、つくづく呆れてしまう。

以上で見てきたように、M事件を契機として構築されたという関根・風間の「車の両輪」「運命共同体」説なるものが、如何に薄弱な根拠を礎に組み立てられているか、誰にでも認識できるのではないかと思う。
裁判官は、立件もなされていない事件をあたかも確実に存在した事件であるかのように判決文に書き込み、S・R証言の曖昧きわまる「お茶を持ってきてくれたような記憶がある」程度の話を、それがさもさも共犯であることの動かぬ証拠のように見せるべく努め、また何ら証拠のない一方的な関根供述を「個性的かつ具体的なもので、信用性が高い」などとして、風間さんの終始一貫した否認にもかかわらず、不確定なその事件の殺人共犯者と認定し、その認定を「車の両輪」説と結びつけるなどして、Kさん事件における、殺人の共謀共同正犯罪の有力な証拠にして断罪しているのだ。恐ろしいことだと思う。

S・R氏によるM事件に関する法廷証言の詳細

先ほど、M事件に関するS・R氏の証言を公判調書から引用したが、もう少し追加して紹介する。

ただ、証人はそのMの死んだ場面は見ていないし、その原因は直接は知らないと。
  「はい。」
ただ、証人が記憶しているのはビニール袋に分けられた、その切り刻んだ死体を焼却したと、そういうことになるわけですよね。
  「はい。」
そのように死体を処理したのは、証人自身ではなく、被告人関根だと、そういうことですよね。
  「はい。」
そこで伺いますが、まず、今の証言に関連して聞きますが、なぜ、そのMの死んだ場面を見ていないのに、被告人関根がMと思われる死体の、今証言されたようなビニール袋に分けたような状況にしたと思ったか、その根拠を言ってください。
  「当時、私は深谷に住んでまして、電話がありました。来てくれという。」
だれからですか。
  「関根氏からです。」
それは時間的には、おおよそでも結構なんですが、いつごろか覚えてますか、その電話があったのは。
  「記憶では、午前中だと思います。」
午前中に、関根から、深谷の当時の証人の家に電話があったわけですね。
  「はい。」
どういう内容の電話だったんでしょうか。
  「Mをケムにしたので、手伝ってほしいと。」
今証言されたのは、Mをケムにしたということでしたが、それはどういう意味ですか。
  「殺したということです。」
(略)
その後、その電話連絡を受けてから、証人はどうしましたか。
  「私はすぐ万吉に行きました。」
それは、万吉に来てくれという関根の電話連絡だったんでしょうか。
  「はい。」
(略)
証人が認識してる範囲で結構なんですけど、当時の認識で、どういうトラブルがあったんでしょうか。
  「はっきりとしたものを言っていいか分からないんですが、私の記憶では、風間博子さんの親が所有していた不動産のことだと思います。」
その風間の親の不動産に関して、どういうトラブルがあったんでしょうか。飽くまでも、当時の証人の認識、記憶でいいですよ。
  「風間博子さんと結婚した後、その不動産を一部、M氏に上げるということだったと記憶してるんですが。」
そういう話を聞いたことがあったんですか。
  「ありました。」
それは、だれから聞いたんですか。
  「M氏自身からも、関根氏自身からも聞きました。」
トラブルということは、何か、それで、もめ事があったわけですか。
  「それが実行できなかったということだと思いますが。」
(略)
M自身から何か聞いたような事実はなかったですか。
  「Mさんから聞いたことは、やはり、今の約束が守られてないということです。」
(略)
それから、Mさんと関根被告人とのことをちょっと聞きますけれども、あなたが、まあMさんは殺害されてるという記憶ですが、その動機として、関根被告人が、風間被告人の親御さんの土地の一部をMさんに上げると、だが、それが実行されなかったのが殺害の動機ではないかと、そのように言われましたね。
  「はい。」
風間被告人の親御さんの土地の一部をMさんに上げるという話に関連して風間被告人は、そのことを知ってたんでしょうか。
  「知らなかったと思います。」
(略)
それから、証人が万吉の犬舎でMさんの解体されたであろう骨を焼却しているときに、風間被告人がジュースかお茶か何かを持って来たような記憶があると、そういうようなお話でしたね。
  「はい。」
あなたは、風間被告人と、その際に何らかの会話は交わしたんでしょうか。
  「いや、した覚えはない。記憶にありません。」
風間被告人は、どの程度の時間その場にいたと記憶されてますか。
  「覚えてません。」
風間被告人は、証人が骨を焼却している、その事実を、その現場で見たんでしょうか・
  「………分かりません。」
(略)
それから、先ほど、風間の弁護人から、Mと関根との間の金銭トラブルのことについて聞かれていましたが、それに関してもう少し伺いますけれども、風間の母親の土地、不動産ですか、に関する話というのは、風間自身は知らなかったであろうという証人の認識であるわけですね。
  「はい。」
ただ、いずれにしても、その不動産の一部を上げる上げないで、関根とMとの間でトラブルがあったことは間違いないと。
  「はい。」
問題は、そのトラブルがMと関根との間に生じた後に、そういうトラブルに、何らかの形で、風間が巻き込まれるなり、かかわっていたかどうか、そこら辺はどうですか。何か記憶がありますか。
  「いや、なかったと思います。」
なかったと思いますか。
  「はい。風間さんですね。」
そうです。直接知らなくても、人から聞いた話でもいいんですけれども、そういう、何かそれに関する話とかは全然聞いてないですか。
  「風間さん自身ですね。」
ええ。
  「ないと思います。」」 (第56回公判 平成10. 8. 20)

どのような面から検討したとしても、風間さんをM事件と関連づけるのが不当であることは、明白ではないだろうか。

昭和59年(84年)に関根氏の周辺で発生した3件の失踪事件

M事件が発生した(とされる)昭和59年には、関根氏の周辺でこのM氏以外にあと2人、計3名もの人物が姿を消し、そのまま行方が分からなくなっている。このなかには、実は上記証言者のS・R氏の妻も含まれている。いずれも立件されていないこの3件のうち、公判廷で検察がなぜM事件だけを俎上にのせたかの理由も不明である。風間被告人の控訴趣意書を見ると、公判廷に3件の事件全部を持ち出せば、風間さんはそのうちの一人(S・R氏の妻)もほとんど面識はない、もう一人の人物に至っては一面識もないので、風間さんが事件に関与していないことが明白になり、「車の両輪」説が成立しなくなるからではないかとの疑念が述べられている。

また、同上の趣意書のなかで風間さんは、一審判決文には関根氏と結婚した年、昭和58年が昭和59年と1年ずれて記述されていることを指摘している。「風間博子さん 死刑判決への疑問(4)」で私は風間さんの両親の経歴が判決文においてことごとく誤記されていることを記したが、ここでも同様のことが起きている。判決文は文字数にしておよそ160000字、原稿用紙に換算すると400枚になる。これは多量といえばいえるけれども、裁判所において語句のチェックも不可能なほどの文書量ではないはずだ。意識的な行為であろうと風間さんが疑うのも無理がないのではないだろうか。風間さんは裁判所のこのような行為の理由について、風間さんがM事件を承知した上で関根氏との結婚に踏み切ったのだと判決文を読む者 ―― 公衆を誘導するための作為ではないかという自身の判断を述べているが、事実はどうだろうか。

「事実の認定は証拠による」(刑事訴訟法317条)という条文は、あまりにも有名なので、法律の世界にふかい関わりを持たずに生活している私達の意識にも沁み透っているのであるが、この事件における裁判官の事実認定は、確実な証拠により導かれているものがどれだけあるだろうか。
2009.08.04 Tue l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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