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前回に引き続き、『カラマーゾフの兄弟』新訳(亀山訳)の感想を述べていこうと思う。2回目の今日は、第4巻の感想である。

『カラマーゾフの兄弟 4』  (第12刷)

   第10編 少年たち

新訳 p57 小粒ながらいきいきとした灰色の目は、不敵な輝きを帯びていたし、ときとして、強烈な感情に燃え立った。

原訳 下・p44 小さいが、生きいきした灰色の目はものおじせず、感情に燃えあがることがしばしばあった。

小沼訳 Ⅲ・p32 灰色の眼はあまり大きくはないが、しかしいきいきとしていて、そのまなざしは大胆で、はげしい感情にパッと燃えたつことがあった。

江川訳 p588 小さいが生き生きとした灰色の目は大胆不敵な感じで、しばしばはげしい感情に燃え立つことがあった。

感想 目を「小粒な(がら)」と形容するのは珍しいと思ったので、先行訳を見てみた。「小さいが」と「大きくはないが」とあった。「小粒」という表現でも誤りではないのだろうが、どうも違和感が残る。これはコーリャという少年が、大胆さや我慢づよさの際立つ性格であるためにそのように感じるのかも知れない。


新訳 p90  立て、ペレズヴォン、うまくやれ、うまくな!」コーリャは立ち上がって叫んだ。犬は後ろ足で立ち上がると、イリューシャのベッドのまん前でちんちんを披露した。
 だれひとり予期しないことが起こった。イリューシャはぎくりとしやっとのことで全身で前に乗り出すと、ふいにペレズヴォンのほうに屈みこみ、息もたえだえに犬を眺めやった
「これは……ジューチカだ!」彼はふいに、苦しみと幸せのあまり、潰れたような声で叫んだ。
「じゃ、きみはなんだと思ってたんだい?」甲高い幸せそうな声でコーリャは力いっぱい叫ぶと、犬にむかって屈みこみ、イリューシャのほうに軽く抱き寄せてみせた

原訳 下・p65   「ジャンプしろ、ぺレズヴォン、芸をやれ! 芸をやるんだ!」コーリャが席から跳ね起きて叫ぶと、犬は後肢で立ち、イリューシャのベッドの前でちんちんをした。と、だれ一人予期しなかった事態が生じた。イリューシャがびくりとふるえ突然力いっぱい全身を前にのりだして、ペレズヴォンの方に身を曲げると、息もとまるような様子で犬を見つめたのだ
「これは……ジューチカだ!」ふいに苦痛と幸福とにかすれた声で、彼は叫んだ。
「じゃ、君はなんだと思ってたんだい?」よく透る、幸せそうな声で精いっぱい叫ぶと、コーリャは犬の方にかがみこんで、抱きかかえ、イリューシャのところまで抱きあげた

小沼訳 Ⅲ・p52   「とびはねるんだ、ペレズヴォン、芸だ! 芸を見せるんだ!」椅子からとびあがってコーリャはどなった。犬は後足で立ってイリューシャのベッドのまん前でちんちんをした。するとまったく思いがけないことが起った。イリューシャがぎくりと身をふるわせると力いっぱいからだを前へ乗りだすようにして、ペレズヴォンのほうへかがみこんで、まるで前後を忘れたようにじっとその犬を見つめはじめたのである
「これは…‥ジューチカだ!」と苦痛と幸福感のためにひびわれたような声で、彼は不意に叫んだ。
「じゃ、君はなんだと思ったんだい?」とコーリャは甲走った、いかにも嬉しそうな声をせいいっぱい張りあげた。そして屈みこんで犬をつかまえると、イリューシャに抱きあげて見せた

江川訳 p601   「跳ねろ、ペレズヴォン、芸だ! 芸をするんだ!」コーリャはその場から躍りあがって叫んだ。犬は後足で立ちあがり、イリューシャの寝床の前でちんちんをして見せた。と、だれもがまったく予期しなかったことが起った。イリューシャが急にびくりと震えたかと思うと、いきなりはげしく身体を乗り出して、ペレズヴォンのほうにかがみ込み、まるで息もとまりそうな面持で、その犬を見つめたのである
「これ……ジューチカだ!」苦痛と幸福にかすれたような声で、ふいに彼は叫んだ。
「じゃ、きみはなんだと思ったんだ?」グラソートキンは高くひびく、幸福そうな声で力いっぱいこう叫ぶと、かがみ込んで、犬を抱きあげ、イリューシャの目の前へ突きつけた

感想 この場面は、コーリャが病床のイリューシャを訪れ、劇的なやり方でイリューシャやみんなにペレズヴォンを披露しているところだが、新訳には違和感をおぼえるところが大変多かった。たとえば、「立つ」ことと「跳ねる」こととは、全然異なる動作なのだから、コーリャのペレズヴォンへの命令もコーリャ自身の動きも、単に「立つ」なのか、それとも「飛び跳ねる行為をする」なのか、明確であってほしい。先行訳がすべて「跳ねる」と表現しているところを見ると、原作もそう書かれているのではないだろうか。また、先行訳にあるイリューシャの身の「ふるえ」が、新訳には見あたらない。イリューシャの「身を前に乗り出す」動作を、原・小沼訳は「力いっぱい」、江川訳は「はげしく」と表現しているが、新訳は「やっとのことで」と記している。これでは先行訳と新訳とでは原文の一つの単語について異なる解釈をしていることになるのではないかと思う。新訳の「息もたえだえに犬を眺めやった。」という文についても同じことがいえるのではないだろうか。原訳「息もとまるような様子で犬を見つめた」、小沼訳「まるで前後を忘れたようにじっとその犬を見つめはじめた」、江川訳「息もとまりそうな面持で、その犬を見つめた」などの先行訳と、新訳の「息もたえだえに犬を眺めやった」とでは、犬を見るイリューシャの姿が明白に異なる。小沼訳の「前後を忘れたようにじっと」は、原・江川訳の「息もとまるような(とまりそうな)」という表現とは異なるが、それでも、我を忘れたかのような様子で食い入るように犬を見つめるイリューシャの気配は充分に感じとれる。この部分を改めて引用してみる。

新訳 ぎくりとし、やっとのことで全身で前に乗り出すと、ふいにペレズヴォンのほうに屈みこみ、息もたえだえに犬を眺めやった

原訳 びくりとふるえ、突然力いっぱい全身を前にのりだして、ペレズヴォンの方に身を曲げると、息もとまるような様子で犬を見つめた

小沼訳 ぎくりと身をふるわせると、力いっぱいからだを前へ乗りだすようにして、ペレズヴォンのほうへかがみこんで、まるで前後を忘れたようにじっとその犬を見つめはじめた

江川訳 急にびくりと震えたかと思うと、いきなりはげしく身体を乗り出して、ペレズヴォンのほうにかがみ込み、まるで息もとまりそうな面持で、その犬を見つめた

「やっとのことで」「息もたえだえに」「眺めやった」などの言葉からは、このときイリューシャを貫いているはずの極限の緊張感が感じられず、もどかしくも奇異な思いがした。
「苦しみと幸せのあまり、潰れたような声で叫んだ」という文の「のあまり」「潰れた」にも実は違和感がある。イリューシャの叫び声じたいがその時のイリューシャの「苦しみと幸せ」をそのまま直截にあらわしていたと思うので「のあまり」はどうだろうか。人の口から「潰れたような声」がでる場合と「かすれた声」がでる場合とでは経験からすると異なるように感じられ、この場合、「潰れた」は不適切なようにも思えるのだが。また、「犬にむかって屈みこみ、イリューシャのほうに軽く抱き寄せてみせた」という描写も一見正確であるかのように見えるけれども、たぶん、犬を抱きかかえるコーリャの動作が記述されていないためだと思われるが、読んでいて、「屈みこんで犬をつかまえると、イリューシャに抱きあげて見せた。」(小沼訳)や「かがみ込んで、犬を抱きあげ、イリューシャの目の前へ突きつけた。」(江川訳)のようには、コーリャの動きがくっきり見えるようには目に浮かびあがらず、曖昧である。

以上のように、下線を沢山付し、新訳への疑問を多数述べることになってしまったが、私は新訳のこの場面を読む前に、亀山氏が、『解題』で、

「犬のジューチカとペレズヴォンが同一かどうかという問題は、複雑きわまりない連想の糸をたぐり寄せてしまう。もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。」

と述べている文章を読んでいた。亀山氏のこの解釈については、木下和郎氏のブログ「連絡船」のこの記事で大変丁寧な分析・洞察がなされていて、私はこの文章を拝見し、ようやく胸のつかえがおりる思いがした。もしペレズヴォンがジューチカでないのだとすると、「だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか」という亀山氏の念頭にあるのは少年コーリャのようだが、もしそうだとすると、『カラマーゾフの兄弟』における少年たちの物語は、これまで私たちが読んできたものとはがらりと様相を異にした、たとえようもなく陰惨な物語ということになる。『カラマーゾフの兄弟』に描かれたコーリャという少年の言動のどこを見てもそのような行為が導きだされる芽は皆無のはずで、私には、むしろ作品中のコーリャの肖像にこれほど不似合いな縁遠い行為はないように思える。一体どうして亀山氏にそのような発想が生じえたのか不思議である。

上述のような重大な読解が、他ならぬこの本の新翻訳者によってなされているのに、雑誌や新聞で話題にもならず、議論もなされない、「寂として声なし」状態は、あんまりである。新聞・雑誌における批評欄の存在意義も疑われる。私などは『カラマーゾフの兄弟』を読んで、亀山氏のような理解をする人はほとんどいないだろうと思っているのだが、実はそうではないのだろうか? それとも、皆さんは、この『カラマーゾフの兄弟』という作品においては、少年や犬のことなどどっちにしてもそう大した問題ではないと考えているのだろうか? 

最近は翻訳に限らず、出版社や編集者には、暗黙のうちに批評内容を統制しようという傾向が、少なくとも自由な批判や活発な議論を歓迎しない傾向があるように思う。ここ4、5年、言論の場で、佐藤優氏の言説に対する批判がタブー視されてきたのがその典型と思うが、このような空気がいつの間にか出版界に浸透し、全体を覆い尽くし、文芸の世界もその例外ではなくなっているのではないか。翻訳に関する些細なエピソードで、何という題名の文章だったか、またそれがどの表題の本に収められていたかもちょっと思い出せないのだが、内田百間がこんなことを書いているのを読んだことがある。あるとき、出版されたばかりの英文の翻訳書が誤訳博物館とでもいうべき姿を呈していたそうで、そのことが仲間うちでしきりに話の種になっていたそうである。何でも「アイヌ」が「エイヌー」と訳されたりもしていたそうだが、ある夜更け、鈴木三重吉が百間も含めて5、6人の後輩を率いて街を歩いているとき、その三重吉がある家の門灯の真下に立った。そして「おーい、ここが誤訳の大家のお住まいだぞ」と大声をあげたそうである。この出来事は多分大正時代のことではなかったかと思うが、鈴木三重吉は、百間によると、漱石の門下でただ一人、ごろつきめいた味をもった人だったそうだから、このようなことも起きたのだろう。この文章を読んだのは、もう二十年ほど前のことだが、私はその時、その翻訳者が気の毒なような、可笑しいような気持ちになったが、ただ、誤訳の指摘に対し、当の翻訳者が「人格攻撃だ」と述べたり、また発行元の出版社や編集者が「瑣末な誤訳論争に与する気はない」とか「異論があるのなら、ご自分で翻訳なさったらよろしいのでは」と開き直ったりする、『赤と黒』や『カラマーゾフの兄弟』への誤訳の指摘に対してみられたような発言がなされるとはまったく想像しなかった。実際はどうだったのか分からないが、読者の耳にそのような話がもれ伝わってくることはなかったし、また無意識ではあるが、作品の内容・出来映えへの批評に対する出版側のそのような反応は、作品と読者を蔑ろにしていることに他ならず、出版文化の衰退にしか結びつかないはずのそのような言動はありえないことと思いこんでいたのだと思う。

さて、亀山氏の訳の話に戻るが、上述のように、新訳の犬に関する箇所は、先行訳に比べて特に明晰さを欠いたすっきりしない訳のように思う。こういう結果になるのは、亀山氏がペレズヴォンをジューチカとは別の犬だとする、そのような思考法と関連しているのではないかと感じる。しかし、それでも、新訳を見ると、ご自身、二匹の犬が同一としか読み取れない訳をしているのではないだろうか。以下に、何点かその例をあげる。

① 毛むくじゃらでかなり大きめの汚らしいこの犬は、ひと月ほどまえ、コーリャがどこからかいきなり拾ってきたものだった。家のなかに連れこみ、どういうわけか友だちのだれにも見せず、部屋のなかで内緒にして飼っていたのである。/コーリャはこの犬を恐ろしくしごき、ありとあらゆる芸当を仕込んだ。(p21)

この①は、いよいよ病床のイリューシャを訪ねる日の朝の叙述である。コーリャはスムーロフと一緒にスネギリョフ家に向かったが、家の中に入る前にまずアリョーシャを門まで呼び出した。アリョーシャは、コーリャの訪問を知り嬉しげにやってきたが、コーリャが犬を伴っているのをみて、その犬はジューチカではないのかとこう訊く。

② 「……で、その犬、あなたの犬ですか?」
「ぼくのです、ペレズヴォンっていいます」
「ジューチカじゃなくて?」 アリョーシャは、残念そうにコーリャの目を見やった。
「すると、あの犬、やっぱりあのままいなくなってしまったんですか?」
「あなたがたがみんな、ジューチカを望んでらっしゃることは知っていますよ、話はすべて聞いてますから」そう言うと、コーリヤは謎めいた笑みを浮かべた。(p60)

③ 「ほんとうに、ほんとうにあなたは、あのジューチカを探しだせなかったんですか?(略)あの子は病気だというのに、涙ながらにぼくのいるまえで、父親に三度もこう繰り返して言ったんです。『ぼくが病気なのは、パパ、あのときジューチカを殺したからなんだ、これは、神さまがぼくを罰しているしるしなんだ』とね。その考えから逃れられないんですね! でも、もしいま、あのジューチカが見つかり、まだ死んでなくて、生きているところを見せてやれたら、あの子も喜びのあまり、生き返るような気がするんです。ぼくたちみんな、あなたに望みをかけていました」
「教えてほしいんですが、いったいどんな理由で、このぼくがジューチカを探しだすって、ほかのだれでもなく、このぼくが探しだすなんて、期待を抱いたんです?
異常な好奇心にかられてコーリャがたずねた。(p69)

①については、上述の「連絡船」で懇切かつ具体的な反論・批判がなされている。そこで指摘されているように、実際、「ひと月ほどまえ、コーリャがどこからかいきなり拾ってきた」「コーリャはこの犬を恐ろしくしごき、ありとあらゆる芸当を仕込んだ」というのに、なお「片目をつぶし」たり「耳に裂け目を入れた」りする時間や余裕はどこにもないことは明白であろう。②と③だが、これはジューチカの行方について訊ねるアリョーシャに対するコーリャの反応であり、態度である。この日が初対面ではあるが、すでにコーリャがアリョーシャにふかい関心と尊敬の念をもっていることは明らかであり、そういうアリョーシャにコーリャが嘘をついたり、ごまかしを口にしたりすると考えるほうがおかしいのではないだろうか。また、コーリャの態度にそのような不自然さがあるのなら、それを見抜かないアリョーシャだろうか。何よりも、亀山氏は、イリューシャの「これは……ジューチカだ!」という声を、「苦しみと幸せのあまり」と、ちゃんと「幸せ」という言葉を記し、またそのイリューシャの言葉をうけたコーリャの「じゃ、きみはなんだと思ってたんだい?」との叫びについて、「甲高い幸せそうな声で力いっぱい叫ぶと」と記してもいる。ペレズヴォンがジューチカであることを一瞬にしてさとったイリューシャの喜びを見て、「幸せそうな声」を「力いっぱい」張り上げる少年の背後に、亀山氏が『解題』で述べているような酷たらしい行為が隠されているはずはなく、このような想像はあまりにも低劣に過ぎ、これでは亀山氏の思いはどうあれ、結果としてドストエフスキーと作品を貶めることになっているのではないだろうか。


新訳 p100   「クラソートキン、これ、母にプレゼントしてもいいですか?」イリューシャは祈るような表情で、クラソートキンに顔を向けた。自分へのプレゼントを人にあげるのが怒られるのではないか、そう恐れているかのようだった。

原訳 下・p71  「ねえ、クラソートキン、ママにこれあげてもいい?」せっかくのプレゼントを他人にやったりして、気をわるくせぬかと案ずるように、突然彼は祈るような顔つきでコーリャに話しかけた。

小沼訳 Ⅲ・p57  「クラソートキン、ママにやってもいいでしょう?」と彼はだしぬけに哀願するようにクラソートキンのほうを振り向いた。せっかくくれたものをひとにやったりして、気を悪くしないかと心配でならないといった顔つきであった。

江川訳 p605  「クラソートキン、これを母ちゃんにプレゼントしてもいいかしら?」彼はふいにクラソートキンのほうへ祈るような顔を向けた。自分への贈りものを人にやってしまって気を悪くはしないだろうかと、いかにも心配そうな様子だった。

感想 新訳に、微妙な違和感をおぼえた。イリューシャはせっかくの自分への好意を無にしたというようにクラソートキンが感じるのではないかということを心配し、それを気遣っているのだから、「怒られるのではないかと恐れる」より、「案ずる」「心配する」の訳のほうがいいのではないだろうか。


新訳 p112  ええ、世界史です。人類がおかした、いくつもの愚行を研究してるんです。

原訳 下・p79 ええ、世界史をです。あれは人類の一連の愚行の研究にすぎませんからね。

小沼訳 Ⅲ・p64 ええ、世界歴史ですよ。人間どもの愚行の連続の研究にすぎませんからね。

江川訳 p610 ええ、世界史をです。人類の犯した幾多の愚行の研究にすぎませんからね。

感想 上は、世界史の研究についてのコーリャの意見の表明だが、「いくつもの愚行を研究」中の「いくつもの」は不適切な訳ではないかと思う。「長期にわたる」「多数の」という意味をもった言葉がなければならないだろう。


新訳 p114  だってそうでしょう、古典は各国語に訳されている。つまり、古典の研究にラテン語なんてまるきり必要ないわけなので、もっぱら治安の手段なんです。能力を鈍らせるためなんです。

原訳 下・p81 だって考えてもごらんなさいよ、古典作家はすべてあらゆる国語に翻訳されてるでしょう。だとすればラテン語が必修になったのは、古典作家の研究のためなどじゃ全然なくて、もっぱら警察の学生対策と、才能を鈍らせるためじゃありませんか。

小沼訳 Ⅲ・p66 だってそうじゃありませんか、古典は残らずあらゆる国語に翻訳されていますからね。つまり、古典研究のためにはラテン語なんてものはぜんぜん必要がありませんよ。だからあんなものは警察的な目的をもった手段のために、才能を鈍らせるために必要とされているにすぎません。

江川訳 p610 だってそうじゃないですか、だって古典は全部各国語に訳されているんですよ、とすれば、ラテン語は古典の研究のために必要なんじゃ全然なくって、ただただ警察の取締りと才能の鈍化のためだけに必要なんですよ。

感想 すぐ上の例と同じく、これもコーリャの発言だが、この場合は「各国語」だけでは意味が正確に通じないのではないだろうか。「各国語」に、先行訳がそうしているように「すべて」「残らず」「全部」などの言葉を加えることが必要とされていると思う。


   第11編 兄イワン

新訳 p151  さっきからもう煮立ってるの、あなたを待ってたせいでね

原訳 下・p106 もうさっきからコーヒーが煮立って、あなたを待ってますわ

小沼訳 Ⅲ・p98 もうさっきからコーヒーが煮えくりかえって、あんたを待ってるのよ

江川訳 p625 ずっと前からちんちんたぎって、あんたの来るのを待っていたみたいよ

感想 「あなたを待ってたせいでね」と訳されたために、せっかくのグルーシェニカの機智に富んだ表現の魅力が台無しになってしまっていると感じる。


新訳 p168 あなたに嘘はいいません。イワンはカテリーナさんに惚れてはいません、ぼくはそう思います。

原訳 下・p117 僕は嘘は言いませんよ。イワンはカテリーナ・イワーノブナに恋してなんかいません、ぼくはそう思うな。

小沼訳 Ⅲ・p88 僕は嘘なんか言いませんよ。イワンはカテリーナ・イワーノブナにほれてなんかいません、僕はそう思いますね。

江川訳 p632 ぼくは正直に言いますけど、イワンはカチェリーナさんに惚れたりしちゃいませんよ、ぼくはそう思うな。

感想 「あなたに嘘はいいません」と「僕は嘘は言いません」とではアリョーシャの発言の趣旨、意味するものが異なるはずなので、こういう箇所の訳は正確であってほしい。


新訳 p231 おまえには信じられんだろう、アレクセイ、おれがどんなに生きたいと思っているか、存在していたい、意識を保ちたいという欲求が、いいか、このぼろぼろに剥げた壁のなかの、このおれのなかで生まれたんだぞ!

原訳 下・p161 アリョーシャ、俺が今どんなに生きたいと望んでいるか、お前には信じられんだろう。生存し、認識したいというどんなに熱烈な欲求が、ほかならぬ漆喰の剥げたこの壁の中で、俺の心に生れたことだろう!

小沼訳 Ⅲ・p137 お前には信じられないかもしれないがね、アレクセイ、おれはいまどんなに行きたいと思っているだろう、このはげっちょろけな壁の中に閉じこめられてはじめて、生存と意識を求める渇望が、おれの内部に新しく生まれてきたんだ!

江川訳 p657 おまえは本当にしないだろうけれどな、アリョーシャ、おれはいまどんなに生きたいと思っているだろう、ほかでもないこのはげちょろけの壁の中で、おれの胸には生存し、意識したいという渇望が生れてきたんだ!

感想 監獄の壁のなかでドミートリーに新しく生まれたものなのだから、その欲求は「意識を保ちたい」ではなく、「認識したい」「意識したい」という訳のほうが適切ではないかと思うのだが、どうだろうか。


新訳 p234 イワンには神がいない。やつには理想がある。おれなんて足元にもおよばない。なのに、あいつ……

原訳 下・p163 イワンには神がない。あいつには思想があるからな。それも俺なんかとは規模がちがうやつがさ。それでも黙っているんだ。

小沼訳 Ⅲ・p139 イワンには神がない。あれの持っているのは思想だけなんだ。とてもおれなんかには考えられないことさ。しかしあいつは口をつぐんで……

江川訳 p632 イワンには神がない。その代りに思想がある。おれなんかとは桁ちがいの思想だ。ところが、あいつは黙っている

感想 上と同様、監獄でドミートリーがアリョーシャに話をきかせている場面だが、ドミートリーが自分とは桁ちがいの規模でイワンが持っていると述べるものを「理想」と言ったのでは、趣旨と意味が異なることになるのではないだろうか。


新訳 p243 ヒステリックなぐらいに言うんだ。肝心なのは金だが、逃亡資金として1万ルーブル出す、とな。で、アメリカ行きには2万かかるが、おれたちは1万ルーブルで立派にそれを実現してみせるとな

原訳 下・p170 肝心なのは金だけど、イワンのやつは、脱走の資金に1万、アメリカ行きには2万ルーブル出すし、1万ルーブルで立派に脱走の手筈をととのえてやる、と言ってるよ

小沼訳 Ⅲ・p146 一番肝心なのは金だが、1万ルーブリを脱走費として用立てよう。アメリカまでは2万ルーブリかかるが、1万ルーブリで立派に逃亡させて見せると言うんだ

江川訳 p662 問題は金だが、脱走の費用として1万ルーブリ、アメリカ行きに2万ルーブリ出そう、1万ルーブリで脱走は立派に成功させて見せると言うんだ

感想 上と同じ場面。ドミートリーが、イワンが立てた脱走計画についてアリョーシャに説明しているところである。イワンが出すと言っている金額は、全部で3万。しかし、「脱走」もしくは「逃亡」を、新訳のように「それを」と記すと、読者に、イワンがアメリカ行きと逃亡資金の両方を合わせて1万で(3万ではなく)すませて見せると述べているように受け取られる恐れがあるのではないだろうか。


新訳 p256~259  イワンはふいに立ちどまった。
「じゃあ、おまえは、いったいだれが殺したっていうんだね?」明らかに、どこか冷ややかな口ぶりで彼はたずねた。その問いの調子には、何となく高慢なひびきが聞きとれるようだった。
「兄さんは、ご自分でだれか知ってるでしょう」低いしみじみとした声でアリョーシャは言った。
「だれなんだ? 例のくだらん作り話のことを言ってるのか、気がへんになったあの癲癇やみのばかの仕業だとかいう? スメルジャコフ犯人説のことだが?」
 アリョーシャはふと、全身にふるえが来ているのを感じた。
「兄さんは、ご自分でだれか、知ってるでしょう」力なく、言葉が口をついて出た。息が切れていた。
「いったい、だれなんだ、だれなんだ?」ほとんど凶暴な調子で、イワンは叫んでいた。それまでの沈着さが、一瞬にして消し飛んでいた。
ぼくが知っているのは、ひとつ」と、アリョーシャは、あいかわらずほとんどささやくような声で言った。「父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです
「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは、呆然としてたずねた。
「父を殺したのは、あなたじゃない、あなたじゃない!」アリョーシャはきっぱりした口調で繰り返した。三十秒ほど沈黙がつづいた。
「おれじゃないことぐらい、自分でもわかってるさ、何を寝ぼけたこと言ってる?」
青ざめた顔にゆがんだ笑みを浮かべて、イワンは言った。彼は、食い入るようにアリョーシャの顔を見つめた。二人は、ふたたび街灯の下に立っていた。
「いいえ、イワン、あなたはなんどか、自分が犯人だと言い聞かせてきたはずです」
「いつ、おれがそんなことを言った?……おれはモスクワにいたんだぞ……いつ、言ったんだ?」イワンは、すっかり途方にくれて口ごもった。
「恐ろしかったこの二ケ月間、あなたは一人になると、自分になんどもそう言い聞かせてきました」あいかわらず低い声で、一語一語区切りながら、アリョーシャはつづけた。とはいえその口ぶりには、もうわれを忘れ、自分の意志というより、何か逆らうに逆らえない命令にしたがっているかのような趣きが感じられた。
「あなたは、自分を責め、自分でも認めていました。犯人は自分以外のだれでもない、ってね。でも、殺したのはあなたじゃない、あなたはまちがっている、犯人はあなたじゃない、いいですね、あなたじゃないんです! ぼくが神さまに遣わされたのは、それをあなたに告げるためなんです」
 二人とも口をつぐんだ。沈黙のなかで、長い一分間が流れた。二人は立ったまま、ずっとたがいの目を見つめあっていた。二人とも真っ青だった。

原訳 下・p179~181  イワンは突然立ちどまった。
「じゃ、だれが犯人だ、お前の考えだと」なにか明らかに冷たく彼はたずねた。その質問の口調にはどこか倣慢なひびきさえあった。
「犯人がだれか、兄さんは自分で知ってるでしょう」心にしみるような低い声で、アリョーシャは言い放った。
「だれだ? 例の、気のふれた白痴の癲癇病みとやらいう、たわごとか? スメルジャコフ説かい?」
 アリョーシャはふいに、全身がふるえているのを感じた。
「犯人がだれか、兄さんだって知っているでしょうに」力なくこの言葉が口をついて出た。彼は息を切らしていた。
「じゃ、だれだ、だれなんだ?」もはやほとんど狂暴にイワンが叫んだ。それまでの自制がすべて、一挙に消え去った。
僕が知っているのは一つだけです」なおもほとんどささやくように、アリョーシャは言った。
「お父さんを殺したのは、あなたじゃありません」
「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」イワンは愕然とした。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、あなたじゃありません!」アリョーシャがしっかりした口調でくりかえした。
 三十秒ほど沈黙がつづいた。
「俺じゃないことくらい、自分でも知っているさ、うわごとでも言ってるのか?」青ざめた、ゆがんだ笑いをうかべて、イワンが言い放った。アリョーシャに視線が釘付けになったかのようだった。二人ともまた街燈のそばに立っていた。
「いいえ、兄さん、あなたは何度か自分自身に、犯人は俺だと言ったはずです」
「いつ俺が言った? …俺はモスクワに行ってたんだぞ……いつ俺がそんなことを言った?」
すっかり度を失って、イワンがつぶやいた。
「この恐ろしい二カ月の間、一人きりになると、兄さんは何度も自分自身にそう言ったはずです」相変らず低い、はっきりした口調で、アリョーシャはつづけた。だが彼はもはや、さながら自分の意志ではなく、何かさからうことのできぬ命令に従うかのように、われを忘れて話していた。「兄さんは自分を責めて、犯人は自分以外のだれでもないと心の中で認めてきたんです。でも、殺したのは兄さんじゃない。兄さんは思い違いをしています。犯人はあなたじゃない、いいですね、あなたじゃありません! 僕は兄さんにこのことを言うために、神さまに遣わされてきたんです」
 どちらも沈黙した。この沈黙はまる一分もの長い間つづいた。二人とも立ちどまり、終始相手の目を見つめていた。どちらも蒼白だった。

小沼訳 Ⅲ・p154~155  イワン・フョードロヴィッチは急に立ちどまった。
「それじゃお前は誰が殺したと言うんだ?」と彼は見たところ妙に冷やかな調子でたずねたが、その質問の調子にはなにか傲慢とも思える響きが感じられた。
「それが誰であるかはにいさんにはわかってるでしょう」とアリョーシャは低い、胸にしみとおるような声で言った。  
 「誰だ? あの気違いの癲癇もちの馬鹿がやったっていうでたらめの話か? あのスメルジャコフのことか?」
 アリョーシャは急に全身がふるえているのを感じた。
「にいさんにはわかってるじゃありませんか」という言葉が力なく彼の口からもれた。彼は息をあえがせていた。
「いったい誰だ、誰なんだ?」とイワンは荒々しいともいえる調子で叫んだ。それまでのひかえ目な調子などはたちまちどこかへ消えてしまった。
僕の知ってるのはただこれだけです」とアリョーシャは相変らずほとんどささやくような調子で言った。「おとうさんを殺したのはにいさんじゃない
「『にいさんじゃない』だって!にいさんじゃないっていうのはどういうことだ?」イワンはその場に立ちすくんだ。
「おとうさんを殺したのはにいさんじゃない、にいさんじやない!」とアリョーシャはきっぱりとした声でくりかえした。
 三十秒ばかり沈黙がつづいた。
「そうさ、おれでないことぐらいは自分でもちゃんとわかってる、なにをねぼけてるんだ?」と蒼白いゆがんだような微笑を浮かべてイワンは言った。彼は食いいるようにアリョーシャの顔を見つめた。ふたりはまた街灯のそばに立っていた。
「いいえ、イワン、あなたは何度も、人殺しはおれだと自分で自分に言ったはずです」
「いつおれがそんなことを言った!……おれはモスクワヘ行って留守だったじゃないか……。いつおれがそんなことを言った?」とイワンはすっかり度を失ってつぶやくように言った。
「にいさんはこの恐ろしいふた月のあいだ、ひとりきりになると、何度となく自分でそう自分に言い聞かせたはずです」とアリョーシャは相変らず低い声で、だがはっきりと言葉をくぎるようにしてつづけた。しかしそれは、もはや自分の意志によるものではなく、なにか自分でもどうにもならない命令に従って、無夢中で言ってぃるようであった。「にいさんは自分を責めて、親殺しの犯人は自分以外の何者でもないと認めていたのです。しかし殺したのはにいさんじゃありません、それはにいさんの思いちがいです。犯人はにいさんじゃありません、いいですか、にいさんじゃありません!僕はにいさんにこのことを言うために神様からつかわされたのです」
 ふたりは口をつぐんだ。この沈黙はまる一分問もつづいた。ふたりはその場に立ちすくんだまま、互いにじっと相手の眼を見つめていた。ふたりともまっさおな顔をしていた。

江川訳 p667~668  イワンはふいに足を止めた。
「じゃ、きみに言わせると、人殺しはだれなんだい?」イワンはことさら冷やかな調子でたずねた。その問の調子には何か妙にかさにかかったようなものさえ感じられた。
「だれかってことは、兄さんが自分で知っています」低い、心にしみ通るような声でアリョーシャは言った。
「だれだい? 例の気が変になった癲癇白痴がやったっていう作り話かい? スメルジャコフの話かい?」
 アリョーシャは突然、全身が震えているのを感じた。
「兄さんが自分で知っているはずです」言葉が力なく彼の口をついて出た。彼は息を切らせていた。
「だからだれだい、だれなんだ?」ほとんど狂暴ともいえる口調になって、イワンは声を高めた。それまでの抑制がたちまち消え失せた。
「ぼくは一つのことだけを知っています」アリョーシャは相変らずひそひそとささやくような声でつづけた。「お父さんを殺したのは、あなたじゃない
「《あなたじゃない》だって! あなたじゃないとはどういうことだ?」イワンはその場に棒立ちになった。
「あなたがお父さんを殺したんじゃない、兄さんじゃないんです!」アリョーシャはきっぱりとくり返した。
 三十秒あまりも沈黙がつづいた。
「ぼくがやったのじゃないくらい、自分でわかっているさ、何をうわごとを言っているんだ?」青ざめた顔にゆがんだ薄笑いを浮かべて、イワンが言った。彼はアリョーシャの顔を吸い寄せられるように見つめていた。二人はまた街灯の近くへ来ていた。
「ちがいますね、イワン、兄さんは何度も自分に言っていますよ、殺したのはおれだって」
「いつそんなことを言ったんだ?……ぼくはモスクワにいたじゃないか……いつ言ったんだ?」イワンは完全にうろたえてつぶやいた。
「この恐ろしい二カ月の間、一人きりになったとき、兄さんは何度も自分にそう言ったんです」一語一語を区切った静かなもの言いをくずさずにアリョーシャはつづけた。しかしその話しぶりはもうまったく無我夢中の感じで、自分の意志ではなく、何か自分にはどうしようもない命令に従ってでもいるような調子であった。「兄さんは自分を責めて、人殺しは自分以外ではありえないと自認したんです。でも、殺したのはあなたじゃない、兄さんは思いちがいをしている、人殺しは、あなたじゃないんです、いいですか、あなたじゃないんです! ぼくは神さまに遣わされて、兄さんにこのことを言いに来たんです」
 二人は口をつぐんだ。しばらくつづいたこの沈黙はとりわけ長いものに感ぜられた。二人はじっと立ったまま、お互いの目を見つめ合っていた。二人ともまっ青な顔をしていた。

感想 上記のように、先行訳も含めて長々と引用したが(注:引用文中の太字部分は、訳文において強調のための傍点がふられていた箇所である。亀山訳にはこの強調は施されていない)、アリョーシャが苦悩するイワンに対して放った「あなたじゃない」という言葉をめぐる新訳の問題点は木下豊房氏のサイトで、また「連絡船」で、何度もとりあらげれている。亀山氏の訳本をどのように評価するかについて、完全に中心課題となっていると言っていいのではないかと思う。拙いながら、私も感じたことを以下に述べてみる。

新訳においては、「いったい、だれなんだ、だれなんだ?」と、イワンがアリョーシャにほとんど凶暴な調子で叫んだのに対し、アリョーシャは次のように述べたことになっている。

「ぼくが知っているのは、ひとつ」と、アリョーシャは、あいかわらずほとんどささやくような声で言った。「父を殺したのは、あなたじゃないってことだけです」

先行訳では、「ぼくが知っているのは、ひとつ」という旨のアリョーシャの言葉は、その後文の「あなたじゃない」を強調するための補佐的なはたらきをしている。ところが新訳では、後文が「あなたじゃない」ではなく「あなたじゃないってことだけです」と訳されたために、「ぼくが知っているのは、ひとつ」は、「…ことだけです」を強調する役目をして、「あなたじゃない」という言葉の千鈞の重みを軽減する結果をまねいている。そもそも、上記の引用文をみればわかるように、先行訳ではことごとく「あなたじゃない」というアリョーシャの言葉に強調のための傍点がふられている。木下豊房氏によると、原文におけるこの箇所は強調のためのイタリック体になっているのだという。亀山氏の訳文では、この強調は上記の引用文のとおり完璧に無視されているのだが、しかしそのような不自然な行為は、訳文にそのまま跳ね返ってしまっているように思える。というのも、「あなたじゃないってことだけです」というアリョーシャの言葉に対し、イワンは即座に「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」と、「…ことだけです」という言葉を無視して喋っている。イワンの耳には、「…ことだけです」の言葉は聞こえなかったかのような反応なのだ。これは、「…ことだけです」という言葉があるために、緊迫したこの場面がひどく不自然でちぐはぐなものになっているということである。イワンの「『あなたじゃない』だと! あなたじゃないとは、どういうことだ?」という、この鋭く烈しい反応は、とても「……ことだけです」というような、どこか独白めいた言葉を耳にした人の反応とは思えない。また、イワンのこの言葉に対し、

「父を殺したのは、あなたじゃない、あなたじゃない!」アリョーシャはきっぱりした口調で繰り返した。

というのだから、「あなたじゃないってことだけです」の不自然さはますますふかまる。そして、なおもアリョーシャは、

「恐ろしかったこの二ケ月間、あなたは一人になると、自分になんどもそう言い聞かせてきました」、「あなたは、自分を責め、自分でも認めていました。犯人は自分以外のだれでもない、ってね。でも、殺したのはあなたじゃない、あなたはまちがっている、犯人はあなたじゃない、いいですね、あなたじゃないんです!」

と我を忘れたように断定的にイワンに語りかけた上、

「ぼくが神さまに遣わされたのは、それをあなたに告げるためなんです」

とまで述べているのである。このように、イワンとアリョーシャの間のこの緊迫感にみちた会話のすべては、「あなたじゃない」をめぐって取り交わされているのであり、そこでのアリョーシャの発言はすべて、自分が最初に口にした「あなたじゃない」という言葉がそのとおりにイワンの心に届き、そっくりそのまま受けとめてもらうための必死の言葉の積み重ねであることは確かである。ここから遡って、アリョーシャが「あなたじゃない」と断言するのではなく、新訳のように「あなたじゃないってことだけです」と発言した可能性があるかどうかを考えてみると、それがありえないことがよくわかる。「あなたは、自分を責め、自分でも認めていました。犯人は自分以外のだれでもない、ってね。でも、殺したのはあなたじゃない、あなたはまちがっている、犯人はあなたじゃない、いいですね、あなたじゃないんです!」「ぼくが神さまに遣わされたのは、それをあなたに告げるためなんです」と、我を忘れたようにイワンに述べるアリョーシャが、「あなたじゃないってことだけです」のような内向的かつどこか曖昧さの漂う発言をすることがどうしてありえるだろう。このように筋の展開、会話の内容から見ても、「あなたじゃないってことだけです」という言葉は、物語の展開に甚だしく水をさすだけの、非常に不自然な訳だと思う。


新訳 p260  「兄さん」声を震わせながら、アリョーシャはまた切り出した。「ぼくが兄さんにこのことを言ったのは、兄さんは、ぼくの言葉を信じてくれるからです、そのことがわかってるからです。《あなたじゃない》って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます! いいですか、死ぬまで、ですよ。さっきのは、神さまがぼくの心に、兄さんにそう言うようにって、務めを課したんです。たとえ、いまこの瞬間から、兄さんが永久にぼくを憎むことになろうとです……」

原訳 下・p182  「兄さん」アリョーシャがふるえる声でまた言いだした。「僕があんなことを言ったのは、兄さんが僕の言葉をきっと信じてくれるからです。僕にはそれがわかるんです。あなたじゃない、という今の言葉を、僕は一生をかけて言ったんですよ。いいですか、一生をかけて。兄さんにああ言えと、神さまが僕の心に課したんです、たとえ今の瞬間から、兄さんが僕を永久に憎むようになったとしても……」

小沼訳 Ⅲ・p156  「にいさん」とアリョーシャはまたふるえる声で言いだした。「僕がいまあんなことを言ったのは、にいさんなら僕の言葉を信じてくれるにちがいないと思ったからです。この『にいさんじゃない』という言葉を、僕は自分の命にかけて言ったんですよ! いいですか、命にかけてですよ。神様がこの言葉を僕の魂に吹きこんで、それをにいさんに向って言わせたのです。たとえ、この瞬間から永久ににいさんに憎まれることになったにしても…」

江川訳 p669  「兄さん」アリョーシャはまた震える声で言った。「ぼくがあんなことを言ったのは、兄さんがぼくの言うことを本気にしてくれると思ったからなんです、ぼくにはそれがわかるんですよ。あなたじゃない、といういまの言葉を、ぼくは生涯をかけて言ったつもりなんです。いいですか、全生涯をかけて言ったんです。神さまがこの言葉をぼくの魂に吹き込んで、言わせてくださったんですよ、たとえいまこの瞬間から、兄さんが永久にぼくを憎むようになるとしても……」        

感想  「《あなたじゃない》って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます!」。この訳文は、すでにさまざまに指摘されているように、本当に奇妙な文である。《あなたじゃない》という言葉を、当の相手が死ぬまで信じつづけるとは、普通の文章としても奇妙で、誰も含意を理解できないのではないだろうか。《あなたじゃない》という言葉が読む者の心に沁み入ってくるのは、その言葉が、先行訳にあるように、人の「一生」、「命」、「生涯」をかけて、発せられたからこそではないだろうか。

亀山氏は、『解題』のなかで次のように述べている。

「 さらに、アリョーシャの次の言葉にも注目したい。居心地が悪いという以上に、やはり凄絶としか言いようがないセリフである。
「《あなたじゃない》って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます! いいですか、死ぬまで、ですよ。」
 さらにアリョーシャは、この言葉は神が語れと自分に要求したのだ、とまで告げる。
(「神さまがぼくの心に、兄さんにそう言うようにって、務めを課したんです」)。 
こうなれば、アリョーシャの言葉はもはや、「殺したのはあなたです」と言っているのと等しい重みを担うものとなる。(略)
 アリョーシャの言わんとしたのは、やはり「あなたが殺した」ということだった。しかし同時に、殺したのはあなたの一部分である悪魔だとも言おうとしていた。要するに、アリョーシャは、結果として悪魔とイワンは一体ではないと語る(予言する)ことで、悪魔から離れなさいと、暗黙裡に警告したことになる。(略)
 また、イワンはこの瞬間、自分が犯人かもしれないとの根源的な認識の入り口に立つとともに、じつは「幻覚症」の入り口に立ったといっても過言ではないのである。彼が思わず、自分を犯人とみなしているアリョーシャを「絶交」という言葉で突き放したのは、きわめて当然のふるまいだった。」

亀山氏は、「《あなたじゃない》って言葉、ぼくはあなたが死ぬまで信じつづけます!」と、どうみても意味不明の訳をなし、その訳を基礎にして、「こうなれば、アリョーシャの言葉はもはや、「殺したのはあなたです」と言っているのと等しい重みを担うことになる」などと、これも第三者にはどのような感覚や論法から導きだしたのか一向に理解できないことを述べている。なぜ、どのようにして、「アリョーシャの言わんとしたのは、やはり「あなたが殺した」ということだった」という結論が導きだされたのだろうか? 普通に読めば、アリョーシャの《あなたじゃない》という言葉は、アリョーシャが心の底からそのように信じ、だからこそ一生をかけてその言葉を口にしえたのだと思うのだが。少なくとも私はそのように読んだ。また、亀山氏は、アリョーシャが、「殺したのはあなたの一部分である悪魔だとも言おうとしていた」「悪魔から離れなさいと、暗黙裡に警告した」とも述べているが、この時のアリョーシャは、イワンが悪魔の訪れに悩まされていることをまだ知らないはずだ。亀山氏は、自身で下記のように記述している。

「 二人とも口をつぐんだ。沈黙のなかで、長い一分間が流れた。二人は立ったまま、ずっとたがいの目を見つめあっていた。二人とも真っ青だった。ふいにイワンが全身をふるわせ、アリョーシャの肩をぐいとつかんだ。
「おまえ、おれの家に来てたな!」歯ぎしりしながら彼はささやくように言った。
「やつが夜中うちに来ていたとき、おまえもいたんだな……白状しろ……おまえ、やつの姿を見たんだろ、見たんだろ?」
「だれのことを言ってるんです……ミーチャですか?」けげんそうな顔で、アリョーシャはたずねた。
「ミーチャじゃない、あんな人でなし、糞くらえだ!」夢中になってイワンは叫んだ。
「おまえ、やつがおれの家に通っているのを、知ってるのか? どうやって知った、言ってみろ!」
「やつってだれのことです? 兄さんがだれのことを言ってるのか、ぼくにはわからないんです」アリョーシャはもう怖気づいて口ごもった。」(第4巻 p259)

したがって、イワンが「自分を犯人とみなしているアリョーシャを「絶交」という言葉で突き放したのは、きわめて当然のふるまいだった。」という亀山氏の言葉は無意味であると共に誤りとしか言えないように思う。


新訳 p262 イワンはこの二ヶ月間で、奇妙なぐらいうるさくなくなり、一人きりでいるのをひどく好むようになった。

原訳 下・p183 イワンはこのふた月の間に、異常なくらい手数がかからなくなり、まったく一人きりにされているのを非常に好んだ。

小沼訳 Ⅲ・p157 イワン・フョードロヴィッチはこの二カ月というもの、不思議なくらい女中の手をわずらわせなくなって、ひとりきりでいるのを好むようになっていた。

江川訳 p670 イワンはこの二カ月の間、奇妙なくらい口やかましいところがなくなり、一人きりでいるのを好むようになった。

感想  「うるさくなくなり」でも意味が通じないことはないかも知れないが、正確さと巧みさに欠けているように感じる。


新訳 p264 ついでながら、兄のドミートリーに対するイワンの感情についても、この場かぎりということにして、二、三述べておくことにする。

原訳 下・p184 長兄ドミートリーに対するイワンの感情について、一遍だけふた言ばかり述べておくと、イワンはこの兄をまったくきらいで、……

小沼訳 Ⅲ・p159 兄のドミートリー・フョードロヴィッチに対するイワンの感情について、ほんのひとことだけ述べておくが、彼はミーチャのことなぞ……

江川訳 p671 ついでだから、兄のドミートリーに対するイワンの気持について、一度かぎり、ほんのひと言ふれておこう。

感想 「この場かぎり」という言い方は、普通、その話の中身が真実性の保証を欠いているとか、外聞をはばかるような話題の場合に用いられることが多いように思えるので、「一遍だけ」、「一度かぎり」という訳のほうがいいのではないだろうか。


新訳 p316 イワンはだまって相手を見ていた。元の下男が自分に対して放った、この思いがけない口調、前代未聞といってよいほどの、どこか恐ろしく傲慢な物言いひとつとっても、もはや尋常ではなかった。

原訳 下・p220 イワンは無言で相手を眺めた。以前の召使が彼に対して今用いた、かつてないほどまったく横柄な、思いもかけない口調だけをとっても、異常なことだった。

小沼訳 Ⅲ・p191 イワンは黙って相手の顔を見た。こうした彼の思いもよらない調子だけでも、かつての自分の家の下男がいま主人に向って言った、なんだか常識はずれなひどく横柄な言葉の調子だけでも、異常なものであった。

江川訳 p691 イワンは無言で彼を見つめていた。この思いがけない語調、かつての従僕がいま彼に向かって話しかけたときの、とてつもなく横柄な語調、それだけでもただごとではなかった。

感想 新訳の「前代未聞」の用法にはやや違和感をおぼえた。スメルジャコフが今目の前でみせている物言いの横柄さが、もしイワンがかつて、いつ、いかなる場所においても耳にしたことがないほどの世に稀な程度とでもいうのなら「前代未聞」でいいと思うが、この場合のスメルジャコフの口調の横柄さについて、イワンはスメルジャコフとの間におけるこれまでの自分の経験に限定して述べているようだから、この「前代未聞」は少しどうかという気がする。


新訳 p317~318  「……殺したのは、あなたですよ、あなたが主犯なんです。ぼくは、ただあなたの手足を務めただけにすぎません。ぼくは、召使リチャルダって役どころにすぎないんでしてね。あれを実行したのも、あなたの言葉にしたがったまでのことなんです」
「実行しただと? じゃあ、ほんとうにおまえが殺したのか?」イワンは、思わずぞっとなった。脳みその何かが、まるでぴくりとしたかのようで、彼は悪寒で小きざみに全身を震わせはじめた。そこでようやくスメルジャコフも、今さらながら驚いた様子で、相手の顔をまじまじと見やった。どうやら、イワンのあまりに真剣な驚きように、あらためてショックを受けたものらしかった。
「それじゃあ、ほんとうに、何もご存じなかったんで?」にやりと顔をゆがめて、彼はうさんくさそうにつぶやいた。イワンはそのまま彼を見つめつづけた。まるで舌が回らなくなったかのようだった。すると、ふいにまた頭のなかでさっきの歌がひびきわたった。

ああ、イワンは都に行きました
わたし、あの人あきらめます!

原訳 下・p221  (略) 「実行した?じゃ、ほんとにお前が殺したのか?」イワンはぞっとした。
脳の中で何かが動揺したかのようで、全身がぞくぞくと小刻みにふるえだした。今度はスメルジャコフのほうがびっくりして相手を見つめた。どうやら、イワンの恐怖の真剣さにやっとショックを受けたようだった。
「それじゃ本当に何もご存じなかったので?」イワンの目を見つめて、ゆがんだ薄笑いをうかベながら、彼は信じかねるようにねちっこい口調で言った。
 イワンはなおも相手を眺めていた。舌がしびれてしまったかのようだった。

  ああ、ワーニカはピーテルに行っちゃった、
  あたしは彼を待ったりしない!

 突然、頭の中であの歌の文句がひびいた。

小沼訳 Ⅲ・p192~193  (略) 「実行した? じゃ、殺したのはきさまなのか?」イワンは思わずぞっとなった。
 まるで脳震盪でも起こしたようになって、彼の全身は悪寒のために小刻みにふるえだした。そのときになってはじめてスメルジャコフも、改めてびっくりしたように彼の顔を見た。おそらく、イワンの驚き方があまりにも真剣なものだったので、思わずはっとしたものにちがいなかった。
「じゃ、あなたは本当になにもご存じなかったので?」と皮肉な微笑を浮かべてイワンの顔を見つめながら、眉唾ものだというようにスメルジャコフはつぶやいた。
 イワンはなおも彼の顔を見つめていたが、まるで舌がしびれたようになって口をきくこともできなかった。

  ワーニカはピーテルへ行っちゃった、
  だれがあんなやつ待つものか

 という歌声がとつぜん彼の頭のなかでひびきわたった。

江川訳 p691~692  (略) 「実行した? じゃ、ほんとうにおまえが殺したのか?」イワンは思わずぞっとなった。
 脳に震盪でも起きたように、ふいに彼の全身が小きざみな悪寒にがたがたと震えはじめた。そのときになって、スメルジャコフもさすがに驚いたように彼の顔を見た。イワンのあまりに正直なおびえぶりに、彼もようやく度肝を抜かれたらしい。
「じゃ、あなたはほんとうに何もご存じなかったんですか?」彼は信じられぬといった面持でこうつぶやき、ゆがんだ薄笑いを浮かべて相手の目を見返した。
 イワンはなおも彼を見つめたきり、まるで舌を抜かれでもしたようだった。

  えい、ワーニャは都へ旅に出た、
  あんなおとこう、だれが待とう?

 歌の文句が、突然、頭の中でひびきわたった。

感想  新訳の「あらためてショックを受けた」はおかしいのではないだろうか。原訳のように「やっと」、小沼、江川訳の「はじめて」のほうがよいように思う(小沼訳には、「はじめて」の後に「改めて」とある。分かりにくいが、この「改めて」はスメルジャコフがイワンの顔を見る動作にかかるのだろうか?)。スメルジャコフはつい今まで、フョードル殺害後のこれまでのイワンの態度について、事前の共謀など全然なかったかのような演技をしていると考えていた。ところが、このときのイワンの烈しい驚きようを見て、「やっと」「はじめて」はっとしたのだと思う。また、新訳の「ふいにまた頭のなかでさっきの歌がひびきわたった」の「また」はおかしい。イワンはさっき確かに歌を聞いたが、それは道で直接自分の耳で聞いたのであり、頭のなかで歌がひびきわたったのはこのときが初めてのはずである。


10月23・25日に、一部(新訳p90およびp256~259の感想)の文章を加筆・修正しました。
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2009.10.22 Thu l 文芸・読書 l コメント (2) トラックバック (0) l top
今年に入ってから、新聞や雑誌、またネット上でも、「エレサレム賞」の受賞や、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』についての好意的なコメントなどで、村上春樹の名前が目につくことが多かった。折から新作の「1Q84」という小説が評判なので、めったに読まない小説家なのだが、市の図書館から借りられるなら借りて読んでみようかと思いたち、ネットで検索してみると、なんと、「1Q84-a novel-BOOK1」は1900件余、「BOOK2」も1600件を越す予約が入っていた。100くらいは入っているのではないかという漠然とした予想をしていたところ、1000を越しているとは! 両巻合わせて予約数3500である。予約欄にこんな膨大な数が記されているのを初めて見た。「エルサレム賞」受賞の件が広く社会的話題になったことも影響しているのかも知れないが、そうでなくても、とにかくよく読まれる現代随一の人気作家なのだ。購入する気はないので、あきらめて2、3年後、ゆっくり借りて読めるようになるまで待つことにしよう。そのときはもう読む気が失せてしまっているのではないかという心配がないでもないが…。

私は昔から村上春樹という小説家にさほど関心がなく、作品もデビュー作の「風の歌を聴け」を含めてせいぜい3、4作しか読んでいない。そのせいか、村上春樹に関してこれまでで一番印象に残っていることといえば、彼がオウム事件を題材にして書いたのが、小説ではなく、「アンダーグラウンド」という、サリンの被害者を取材したインタビュー集だったということである。事件の被害者を取材することは全然悪いことでも批判されることでもない。まして相手方が納得して取材を受けたに違いないのだから、第三者が疑問を挟むのもヘンかも知れないのだが、しかし村上春樹を一個の小説家としてみれば、「なぜ?」という素朴な疑問も浮かぶ。東京の地下鉄で引き起こされた、あの衝撃的なサリン事件の意味も核心もすべて犯罪を計画し実行したオウム真理教の側が握っている。事件からさほど時日も経ないあの時点で被害者を対象にオウム事件に関する文章を書こうとする小説家のその発想と意図がよく理解できなかった。村上春樹はよくドストエフスキーについて語っているが、ドストエフスキーは同時代の犯罪-ネチャーエフ事件に遭遇して「悪霊」を書いたし、このような例はスタンダールの「赤と黒」など枚挙に暇がない。被害者にインタビューした村上春樹の文章を読んで、そのことが思い浮かび、この事件を取り上げるのなら、なぜ、オウム真理教自体を対象としないのだろう、という気がしたのだった。「アンダーグラウンド」刊行の後、オウムの信者にもインタビュー取材をしているが、上の疑問を解消してくれるものではなかった。

最近、村上春樹は、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』についてもほうぼうで意見を述べているようで、毎日新聞の取材では、亀山訳について「従来の訳とは全然雰囲気が違って楽しかったです」と述べていた。この「楽しかった」という言葉は私には腑に落ちなかった。亀山訳は、読んでいてむしろストレスを感じることが多かったからだが、それでなくても、この新訳についてはずいぶん前から専門家と読者の双方から重大な誤訳が具体的な根拠をもって指摘されている折りであり、こういう場合は、「どのように」「どのような箇所が」楽しかったのか、ぜひその理由まであげた上で話してほしいと思う。取材する側、原稿を依頼する側にも、それに対応するだけの責任が求められているのではないだろうか。

村上春樹は、自身の「エルサレム賞」受賞について、今年2月、現地イスラエルで下記のように述べている。

「彼ら(管理人注:エルサレム賞の辞退を勧めた人達)は、僕がこの賞を辞退すると聞けばとても喜んだでしょうし、賞を辞退し、彼らが僕に拍手を送るということで終わらせることが、僕にとっては最も簡単な選択でした。しかし、僕は、とにかく来る決断をしたのです」と明かす。「僕は作家です。作家の役割は、人間の魂について書くことですが、政治的課題もその人間またその魂が生きる世界の一部です。受賞を辞退することは否定的なメッセージです。すなわち、安全で、都合のいい内面の世界に僕が閉じこもるということです。僕にはここイスラエルに多数の読者がいますし、ここに来て直接顔を見て語ることは僕の義務なのです。それは作家としての僕の責任の一つです。本当のところ、僕は賞そのものには関心がありません、それは、一枚の紙とメダルにすぎません。僕の読者がいなければ、いくら賞を受賞しても意味がないのです。彼らは、書くことにおける僕のパートナーであり、僕は彼らに敬意を示す必要があるのです。」

この文章は、ブログ「漂流博士」の管理人の方が、イェディオット紙に載ったインタビューを日本語に翻訳されたとのことである。それを引用させていただいたのだが、この方によると、「写真を撮りながらの会話をインタビューにしているようで、記者が事前に用意した内容に村上春樹氏の言葉を差し込んでいったという印象をうけるのですが…」ということなので、新聞での発言内容は完璧に精確と決めつけるわけにはいかないのかもしれないが、「受賞を辞退することは否定的なメッセージです。すなわち、安全で、都合のいい内面の世界に僕が閉じこもるということです。」との発言を実際にしたのだとしたら、これはまったくいただけないと思う。それでは、サルトルのノーベル賞辞退、大岡昇平の芸術院会員入会の辞退などはどういうことになるだろう。サルトルや大岡昇平の選択は、「安全で、都合のいい内面の世界に閉じこも」ったということになるのだろうか。「僕は賞そのものには関心がありません、それは、一枚の紙とメダルにすぎません。僕の読者がいなければ、いくら賞を受賞しても意味がないのです。彼らは、書くことにおける僕のパートナーであり、僕は彼らに敬意を示す必要があるのです。」との発言にも欺瞞があるのではないかと思う。村上春樹の読者の中にも、賞の辞退を望んだ人は大勢いたはずだ。賞の辞退を進言する人間は自分の読者にはいないと思いたいのかも知れないが、そんなことはない。パレスチナでも村上春樹の作品はよく読まれているそうだが、その読者の大半は賞を辞退してほしいと思っただろう。読者に対する敬意、というのなら、そのような読者に対する敬意はどうなる? 村上春樹は発言に際して、大半はエルサレム賞受賞を喜んだに違いないイスラエルの読者しか念頭においていないかのようである。だから「賞を辞退し、彼らが僕に拍手を送るということで終わらせることが、僕にとっては最も簡単な選択でした。」などという言葉もでるのだと思うが、しかし、上述の発言が全体として現しているのは、受賞を動かすことのできない絶対条件とした場合にしか導きだされない強引な理屈の印象ではないだろうか。村上春樹は、また、次の発言もしている。

「僕はドストエフスキーの大ファンです。彼が『カラマーゾフの兄弟』を執筆したのは、60歳の時です。僕は日本版「カラマーゾフ」を書いてみたいと思っています。」

あまりにも発言の時期が悪い。『カラマーゾフの兄弟』で、イワンは罪のない子どもがいわれもなくこの世でうける痛ましい話を沢山蒐集していて、大審問官を物語る前にその話をアリョーシャにつぎつぎと聞かせている。イワンは、ガザの学校や病院を狙いすましたイスラエルの空爆をみて、それをノートに書きこまないはずがないと思われるが、上記の発言をみるかぎり、あのとき、村上春樹はそのような連想をはたらかせることはなかったように感じる。しかし人に倍して想像力豊かなはずの小説家であり、上記のように「僕はドストエフスキーの大ファンです。」と断言している人にそんなことがありえるのだろうか? そのようなことに関する考えをそのうち忌憚なく語ってもらえればと思う。


10月19日、出だしの文を加筆・修正しました。
2009.10.17 Sat l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
亀山郁夫氏の翻訳による『カラマーゾフの兄弟』の感想をこれから3回にわたって述べてみるが、先行訳もふくめて作品からの引用が多いために、思いがけず長文になってしまった(今回の分は第2巻についての感想だけなのだが)。実は、新訳全5巻のうち、私が読み通しているのは、3巻――2・4・5巻だけである。第1巻については、木下豊房氏のサイトで「検証」「点検」を読んでいたせいだと思うが、手にとって読んでみようという気持ちにどうしてもなれず、はじめから回避した。第3巻も未読である。しかしながら、コーリャ、イリューシャをはじめとした少年たち、およびスネギリョフ一家が登場する場面の ほぼはすべてが、読了したこの第2・4・5巻に収まっているので、感想を述べるにあたって、あまり支障はないのではないかと思う。というのも、私の場合、亀山氏が「解題」その他で披瀝している少年や犬に関する見解 ―― 犬のジューチカとペレズヴォンとは同一の犬ではないのではないかという説や、コーリャとイリューシャの人物像についての突飛な(と思える)見方など(この件を考えるうえで「読書案内」のブログ「連絡船」は大変参考になる。また学ぶことは他にも多い) ―― に大変驚いたり、疑問を感じることが多く、自然、具体的には、少年や犬のでてくる場面についての感想を多くもつことになったからであるが、したがってこれらの箇所だけは可能なかぎり丁寧に読むよう心がけた。

3巻を読み終えての感想だが、全体として大雑把な訳文だという印象がつよい。旧訳に比べて速く読めるという話をよく聞くが、その原因は、文体が大雑把だからではないだろうか。また「分かりやすい」という意見が多いというのも、そのことと関係があるのではないか。私自身は亀山訳を「分かりやすい」とは感じなかったので、この意見は実感的には理解しにくいのだが、筋書きを理解することを主な目的として読みすすめるのであれば、これでも支障はないのかも知れない。そのように考えると、先行訳を読むことと、新訳を読むこととでは、読書体験の内容・中身が異なるのではないかという気がする。率直にいうと、新訳は、熟読玩味には相応しくない文体ではないかと思う。そういう読み方をするには細部に違和感や疑問をおぼえる箇所が多すきると感じられた。

前にも述べたことだが、私はまったくロシア語を(も)解さないし、また必ずしもドストエフスキーの熱心な愛読者というわけでもない。もしも誰かに文学者の中で好きな作家を数名あげよと言われることがあったとしたら、その場合でも、ドストエフスキーの名はださないような気がする。ただし、最も偉大な文学者は誰と思うかと訊かれたら、いの一番にドストエフスキーの名をあげることになるのではないかとは思う。そういうことで、私の場合、ドストエフスキーの作品はいつも身辺においておき、始終手にとって読むというわけではないが、それでも時々無性に読みたくなるというタイプの作家である。たとえば、つい2、3年前にも「死の家の記録」と「地下室の手記」を本棚から引っ張りだして読んでいる。ドストエフスキーは、私にとってもやはりなくてはならない偉大かつ大切な文学者であることはたしかである。

さて、感想文の書き方だが、コーリャやイリューシャらの「少年たち」が登場する場面を主な対象に、新訳(亀山訳)の気になった箇所をとりあげ、その部分を先行訳と比較対照しながら具体的に感想を記していくことにした。このやり方なら、私にもどうにか読後感らしきものを述べることができそうに思えたので。先行訳は、原卓也訳(新潮文庫)、江川卓訳(集英社)のほかに小沼文彦訳(筑摩書房)も引用した。小沼訳は30年ほど前、最初に『カラマーゾフの兄弟』を読んだときの訳本であり、愛着があるので用いた。原訳は昨年から今年にかけて通読し、江川訳は最近になって読了した。まず、新訳を読んで気になった部分 ―― 違和感や疑問をおぼえた部分の文章を引用し、その箇所に下線を付したが、先行訳にも、相応する箇所に同じように下線を付した。感想はその後に記した。本のページ番号は訳者名のすぐ後に付している。


『カラマーゾフの兄弟 2』 (第14刷)

   第4編 錯乱

新訳
 p11 体力の許すかぎり、長老は説教をつづけた。その声は弱々しかったが、それでもまだかなり張りがあった。「何年もみなさんに説教し、何年も声に出してみなさんにお話ししてきましたからね、こうして話をすることがすっかり身についてしまいましたよ。ですから、愛する神父さま、兄弟たち、口を開けばおのずと説教になり、体がこんなに弱りきったいまも、お話しするのより、口をつぐんでいるほうがむずかしいくらいなんです」周りにつめかけてくる人々を感慨深げに見まわしながら、長老はそうおどけてみせた

原訳 上・p307~308  周囲に集まった人々を感動の目で眺めやりながら、長老は冗談を言った

小沼訳 Ⅰ・p270 まわりに集った人たちを嬉しそうに見まわしながら、彼はこんな冗談を言うのであった

江川訳 p181 周囲に集まった人たちを感動の面持で見まわしながら、長老はこんな軽口もとばした

感想 新訳の「周りにつめかけてくる人々」だと、現に人が部屋に次々と入りつつある光景を想像させる。その中で長老が「おどけてみせた」かのように読めるので、先行訳の「集った」「集まった」が誤解の余地がなくてよいと思う。「つめかけている人々」としたほうがよかったのではないだろうか。
「おどけてみせた」は滑稽味をつよく感じさせる表現だが、長老の人柄、当該発言の内容、発言者である長老の死が目前に迫った場面であることを考え合わせると、これには違和感を覚える。「冗談を言う」「軽口をとばした」のほうが適切ではないかと思う。


新訳 p14  アリョーシャがわずかのあいだ庵室を離れることになったとき、庵室内部とその周りにひしめく修道僧たちを包みこむ強い興奮と期待の念に、彼は圧倒される思いがした。その期待は、ある人たちにとってはほとんど不安に満ちたものだったが、またあの人たちにとっては晴れがましい歓びに溢れていた。だれもが、長老の逝去のあとすみやかに起こるはずの、何かしら偉大なものを待ち受けていたのだ。

原訳 上・p310 その期待はある人々の間ではほとんど不安に近く、他の人々の間では厳粛なものだった

小沼訳 Ⅰ・p273 その期待はある人びとのあいだではほとんど不安に近く、また他の人びとのあいだではおごそかなものであった

江川訳 p183 その期待はある者たちのところではほとんど不安に近いものに、他の者たちのところでは勝利感に似たものとなっていた

感想 「晴れがましい歓びに溢れていた」という表現からは、一点の曇りもない晴れやかな情景がイメージされ、この場面にあるにちがいないはずの緊張感が完全に欠如しているように感じられて、違和感をおぼえた。


新訳 p29  そればかりか、彼(オブドールスクから来た修道僧)は前々から、つまりこの修道院を訪れる前から、人づてでしか知らなかった長老制につよい偏見を抱き、ほかの多くの人々の尻馬に乗ってこれを有害な新制度と決めつけていたのである。

原訳 上・p320 そればかりではなく、彼はこの修道院にくる以前からすでに、それまで話でしか知らなかった長老制度に対してひどく偏見をいだき、他の多くの人にならって有害な新制度と頭から決めてかかっていたのである。

小沼訳 Ⅰ・p282 またそればかりではなく、彼はこの僧院にやってくるずっと以前から、それまでは話にしか聞いていなかった長老制度というものに対して、大きな偏見をいだいて、多くの他の人たちの意見に従って、頭から有害な新制度であるときめこんでいたのである。

江川訳 p159 そのうえ彼は、まだこの僧院にやって来る以前から長老制度に対して大きな偏見を持っていた。もっとも、これまではいろいろな風説でこの制度を知っていただけだったが、多くの人のひそみにならって断然それを有害な新制度だと考えていたのである。

感想 これは語り手の言葉であるが、この作品の語り手は、このような場合に、「尻馬に乗って」というような、否定的な主観がつよくあらわれる表現は用いないのではないだろうか。


新訳 p95 で、そのひどい目にあった人のことを調べてみたら、苗字はスネギリョフといって、たいそう貧しい人だってことがわかりました。勤め先でなにか悪いことをしてクビになったらしいんですが、それはあなたにお話しできませんわ。いまその人は家族をかかえ、それも病気の子どもたちと、どうも少し頭のおかしい奥さんがいっしょという不幸な家族をかかえて、おそろしく貧乏な暮らしをされているんだそうです。
 その人、もうだいぶ昔からこの町に住んでいて、なにかの仕事をしていて、どこかで筆耕の仕事なんかなさっていたのですが、ここにきて急に一銭も払ってもらえなくなったんだそうです。そこでわたし、あなたに目をつけたってわけ……つまり、わたし、考えてたんです……わたしが何かわけもわからず、混乱してしまって……ええと、アレクセイさん、わたしがあなたに頼みたかったのは……あなたはほんとうに優しい方だから、あの人のところへ出かけていって、なんとか口実をみつけて、中に入って、つまり、その二等大尉のおうちにですよ……ああ、わたし、すっかりしどろもどろになってしまって……で、デリケートに、注意深く……そう、あなたじゃなくちゃできないようなやりかたで(アリョーシャは急に顔が赤くなった)……その方にこのお見舞い金を、ほらここに二百ルーブルありますわ、これを渡していただきたいの。きっと受けとってくださると思います……つまり、受けとるように説得していただきたいんです……だめかしら、どうでしょう?

原訳 上・p366~367 苗字はスネギリョフといいますの。勤め先で何か落度があって、馘にされたんだそうですけれど、あたくしにはそれはとても話せませんわ。
あたくし、あなたをちらと見て……つまり、こう思いましたの。あたくし、どうしたのかしら、なんだか混乱してしまって。いえね、あなたにお頼みしようと思ったんですの、アレクセイ・フョードロウィチ、あなたはほんとに気立てのやさしい方ですもの。

小沼訳 Ⅰ・p324~325 なにか勤務上のことで落ち度があって、免職になったのですが、その事情をお話しすることはできません。
わたしはあなたのお顔を見て……それでつまり考えたのですけれど――

江川訳 p216 なんでも勤務上のことで落ち度があって、頸になったんだそうですが、そこのところはうまく説明できません。
それで、ふとあなたのお顔を見ていて……つまり、わたし考えたんです――

感想1 カテリーナ・イワーノヴナが、スネギリョフ家を訪ねて200ルーブルを渡してほしいとアリョーシャに依頼を始める場面だが、このような場合にカテリーナは「勤め先で何か悪いことをしてクビになった」というような露骨な説明の仕方はしないのではないだろうか。先行訳の「落ち度」という言い方のほうがいいように思う。
また、カテリーナは、「あなたに目をつけたってわけ」というような不躾な言葉遣いもしないように思える。もっとデリカシーのある言い方をするのではないだろうか。
この「あなたに目をつけたってわけ」中の「わけ」という言葉遣いを、亀山訳はカテリーナだけではなく、グルーシェニカ、ホフラコーワ夫人、リーズと、読んでいて気づいた範囲では4人の女性にさせている。ここで纏めて述べることにするが、下記のとおりである (この部分は、小沼訳の引用は省略した)。

(グルーシェニカの発言)
新訳 p168 で、こんどはわたしにやきもち焼いてるってわけ、わたしに罪をおっかぶせるためよ。

原訳 下・p117 あとであたしに責任をなすりつけるために、今ごろになって焼餅をやくなんて!

江川訳 p632 いまあたしに嫉いて見せるのも、あとであたしを悪者に仕立てようとしてなんだわ。


(ホフラコーワ夫人の発言) 3例
新訳 p180 いきなりわたしを好きになってしまったってわけ

原訳 下・p125 あたくしに恋をする気になったらしいんですの。

江川訳 p637 このわたくしに恋をする気になったらしいんですの。


新訳 p181 彼がわたしに握手してから、……わたしの片っぽうの足がずきずき痛みだしたってわけ

原訳 下・p126 あの人に手を握りしめられたとたん、急にあたくしの足がわるくなったんですの。

江川訳 p637 あの人に手を握りしめられたら、とたんにわたくし片足が痛みはじめたんですの。


新訳 p186 机に向かい、これを書きあげたんです。そして投稿し……活字になったってわけ

原訳 下・p129 テーブルに向って書きあげて、投稿したのが、掲載されたんです。

江川訳 p639 投稿したら、新聞に載ったんですわ。


(リーズの発言) 2例
新訳 p200 生きていくのは退屈そのものってわけ、そのくせあの人もうすぐ結婚するのよ。

原訳 下・p139 空想ならどんな楽しいことでもできるけど、生活するのは退屈だ、なんて。

江川訳 p645 空想でなら、どんな愉しいことでも空想できるけど、生活するのは退屈ですもの。


新訳 p204 口では恐ろしいとか言いながら、内心ではもう大喜びなの。その一番手が、このわたしってわけ

原訳 下・p142 恐ろしいことだなんて、だれもが言ってるけど、内心ではひどく気に入ってるのよ。あたしなんか真っ先に気に入ったわ

江川訳 p646 みんな、恐ろしいことだなんて言いながら、心の中じゃ愛してるんだわ。わたしなんか、まっ先に愛しちゃってるもの


感想2 年齢は、カテリーナとグルーシェニカは20代、ホフラコーワ夫人は40代、リーズは10代であるが、亀山訳においては世代の相違も、また女たち一人ひとりの性格や生活環境の違いも関係なく、みなが会話のなかで「わけ」という言葉を遣っているのには読みながら仰天した。それでなくても、「わけ」という言葉のこのような遣い方は特異なのに。


新訳 p101 「リーズ、ぼくは死ぬほど悲しいんです! すぐに戻ってきます。でも、ほんとうに悲しくて!」
そう言って、彼は部屋から駆け出して行った。

原訳 上・p372 「リーズ、僕は深刻に悲しんでるんです! すぐ戻ってきますけど、僕には大きな、とても大きな悲しみがあるんです!」

小沼訳 Ⅰ・p328~329 「リーズ、僕には容易ならぬ悲しみがあるんですよ! 僕はすぐに帰ってきますけど、大きな、大きな悲しみがあるんです!」

江川訳 p219 「リーズ、ぼくはいままじめな悲しみを抱えているんです! すぐ戻って来ますけれどね、ぼくには大きな、大きな悲しみがあるんです!」

感想 「死ぬほど悲しい」という言い方をアリョーシャという青年がするだろうか?


新訳 p102  たしかに彼は、いま死ぬほど悲しかった。その悲しみは、これまで彼がめったに経験したことのないものだった。

原訳 上・p372 彼は本当に、これまでめったに味わったことのないような深刻な悲しみをいだいていた

小沼訳 Ⅰ・p329 事実、彼にはいままで経験したことのないような、容易ならぬ悲しみがあったのである

江川訳 p219 彼はほんとうにまじめな悲しみを抱えていた。それは、これまでに彼がめったに経験したことのない類いのものであった。

感想 この「死ぬほど」を語り手がこのように用いると、アリョーシャの場合以上に大きな違和感をおぼえる。


新訳 p103 カテリーナの頼みごとを聞くうち、ある事情が頭にひらめき、これもまたひどく彼の興味をかき立てた。二等大尉の息子で小学生の幼い少年が、声をあげて泣きながら父親のそばを走りまわっていたという話を聞いたとき、アリョーシャの頭にふとある考えが生まれたのだ。つまりその少年というのは、さっき、自分がいったい何をしたのかと問いつめたとき、いきなり指に噛みついてきたあの小学生にちがいない、という考えである
アリョーシャはいま、なぜかはまだ自分にもわからないまま、ほとんどそのことを確信していた。

原訳 上・p373 カテリーナの頼みの中で、やはりきわめてアリョーシャの関心をひいた点が一つあった。ほかでもない、二等大尉の息子のまだ小さい中学生が、大声に泣き叫びながら、父のまわりを走りまわっていたという話をカテリーナがしたとき、アリョーシャの心の中でそのときすでに、その少年はきっと、僕がどんなわるいことをしたのと質問したとたん、アリョーシャの指に噛みついた先ほどの中学生にちがいないという思いが、ふいにひらめいたのである。今やアリョーシャは、自分でもまだ理由はわからぬながら、そのことをほとんど確信していた。

小沼訳 Ⅰ・p330 カテリーナ・イワーノヴナの頼みのなかでちょっと気にかかり、同時にひどく彼の興味をひいた点がひとつあった。例の二等大尉の息子で、小学生の小さな男の子が、声をあげて泣きながら父親のそばを駆けまわっていたという話をカテリーナ・イワーノブナの口から聞いたとき、即座にふっとアリョーシャの頭に、先刻アリョーシャにいったい僕がどんな悪いことをしたのだと問いつめられて、いきなり彼の指に噛みついたあの小学生こそ、きっとその少年にちがいないという考えがひらめいたのである。自分でもなぜかはわからぬままに、アリョーシャはいまではきっとそうにちがいないと信じこんでほとんど疑わなかった。

江川訳 p219 カチェリーナの依頼でふと頭にひらめいたことに、もう一つ、ひどく気がかりな事情があった。カチェリーナが、例の二等大尉の息子で、まだ小学生の小さな子供が、大声をあげて泣きながら父親のまわりを駆けまわっていたと話したとき、アリョーシャはとっさにその子供というのは、まちがいなく、さっきのあの子に相違ない、ぼくがどんな悪いことをきみにしたと言うの? とたずねたとたん、アリョーシャの指に噛みついてきたあの小学生に相違ない、と直感したのだった。どういうわけでそうなのかはまだ自分でもわからなかったが、いまやそれはもうほとんど確信になっていた。

感想 新訳の「アリョーシャの頭にふとある考えが生まれたのだ。つまりその少年というのは、……あの小学生にちがいない、という考えである。」という表現は、いかにも説明的に感じられ、カテリーナの話を聞いている最中、アリョーシャの頭にふいに直感のように、ひとりでに浮かんだ思い(考え)、という生き生きした感じが出ていないように思う。


新訳 p129~131 「それも聞いております。危ないことでございます。クラソートキンというのは、たしかここのお役人ですから、ひょっとすると、これまた面倒なことになるかもしれませんでして……」

原訳 上・p391~392 「それもききました。危ないことでござりますな。クラソートキンというのは、ここの役人でしたから、ひょっとすると、また面倒なことになるかもしれませんです……」

小沼訳 Ⅰ・p346 「そのことも聞いております。まったく危険なことで、クラソートキンというのはこの町の役人でございますから、ことによると、また厄介なことが起こるかもしれませんな……」

江川訳 p230 クラソートキンというのはこの町の役人でございますから、このうえまた面倒なことがおきるかもしれません(略)

感想 クラソートキンの父親は県庁の役人だったが、14年前に亡くなっているので、ここは原訳の「ここの役人でしたから」がよいのではないのだろうか?


新訳 p129~131 「そう、怒りでございますよ!」言葉尻をつかまえて二等大尉は叫んだ。「まさにその怒りでございます! 小さな生き物ながら、大きな怒りでございます。あなたさまがまったくご存じないお話でございます。

原訳 上・p391~392 「怒り、ね!」二等大尉は相槌を打った。「まさしく怒りでござりますな。一寸の虫にも五分の魂、と申しますですからね。

小沼訳 Ⅰ・p346 「怒り!」と二等大尉はくりかえした。「確かに怒りでございますな。小さな子供の胸にも、大きな怒りがかくされているものですなあ。(略)」

江川訳 p230 「怒りでございます、はい!」二等大尉はその言葉尻をとらえた。「まったく怒りでございますよ。ちっぽけな子供の心に大いなる怒りでございますな。(略)

感想 「小さな生き物ながら、大きな怒りでございます」は、意味の理解はできるが、先行訳に比較して、すっきりと腑に落ちるというわけにはいかず、読んでいて少々ストレスを感じた。


新訳 p129~131 でも、わたくしのイリューシャは、広場であの方の腕にキスをした瞬間、まさにあの瞬間に、すべての真理を学びとってしまいましたんです。あの子のなかに地上の真理が入っていって、あの子を永遠にうちのめしてしまいましたんです」
 二等大尉は熱っぽい調子で、またもやわれを忘れて叫ぶと、まるでその『真理』がイリューシャをうちのめした様子を現に表してやろうとでも思ったのか、右手のこぶしで左の手のひらをぼんと叩いてみせた。

原訳 上・p391~392 うちのイリューシャは広場でお兄さまの手に接吻したあの瞬間、まさにあの一瞬に真理をすっかり究めつくしてしまいましたんです。そしてその真理があの子の心に入りこみ、あの子を永久にたたきのめしたんでございますよ」またしても我を忘れたかのように、熱っぽい口調で二等大尉は言ったが、その際にも、いかに《真理》がイリューシャをたたきのめしたかを現実に示そうとするように、右の拳で左の掌をたたくのだった。

小沼訳 Ⅰ・p346 ところがうちのイリューシャはその瞬間その広場で、お兄様の手に接吻するやいなや、その瞬間たちまち真理という真理を自分の身につけてしまったのでございますよ。その真理が自分のものとなると同時に、また永久に叩きのめされてしまったのでございます」と夢中になってまたもや前後を忘れたように二等大尉は言った。そして『真理』がどんなにイリューシャを叩きのめしたか、それをまざまざと表現しようとでもするように、右手の拳骨で左手の手のひらをなぐりつけるのだった。

江川訳 p230 あの子の身内にこの真理が入りこんで、永遠にあの子をぶちのめしてしまいましたんでございます、はい」二等大尉は熱っぽく、ふたたび前後をわすれたようになってこう叫ぶと、《真理》が彼のイリューシャをぶちのめしたさまをまざまざと見せようとでもするように、右手の拳をかためて、左の手のひらをごつんと叩いて見せた。

感想 新訳の「様子を現に表してやろうとでも思ったのか」は、不適切な訳のように感じた。たとえば「思ってでもいるかのように」などとして、スネギリョフの行動の描写に徹したほうがよかったと思う。


新訳 p133  わたくしとイリューシャは、いつものようにいっしょに手をつないで歩いていました。あの子の手はほんとうに小さくて、指もほそくて、ひやっとしておるんです。なにせ、胸をわずらっているもんですから。『パパ、パパ』とあの子が言いました。『なんだい』とわたくしは答え、顔を見ると、あの子の目がきらきら光っているのです。『パパ、あのときはほんとうにひどい目にあったね、パパ』『しかたないさ、イリューシャ』とわたくしは答えました。

原訳 上・p393 『パパ、パパ!』あの子が言うんです。『何だい』と言って、ひょいと見ると、目がきらきら光ってるじゃありませんか。『パパ、あのときあいつはひどいことをしたね、パパ

小沼訳 Ⅰ・p348 ところが不意に『パパ、パパ!』と言うじゃありませんか。『なんだい』と言いながら見ると、眼がぎらぎらと光っています。『パパ、あのときあいつはほんとにひどいことを、ねえ、パパ!

江川訳 p232 『お父ちゃん、あのときはひどいことされたねえ!』――『仕方がないよ、イリューシャ』

感想 「ひどい目にあった」ことと「(誰かに)ひどいことをされた」ことの意味は明確に異なると思う。ましてこの出来事がイリューシャの感じやすい心におよぼした深甚な苦痛・衝撃の深さを考えれば、彼にとっては、決定的に異なるはずである。


新訳 p141 あの人はあなたが兄から受けたのと同じような辱めに耐え(辱めの程度はちがいます)、あらためてあなたのことを思いだしたんです!

原訳 上・p398 あの人は自分が兄から、あなたの受けたのと同じような(侮辱の程度においてですが)侮辱を受けたときに、はじめてあなたのことを思いだしたのです!

小沼訳 Ⅰ・p352 あのひとがあなたのことを心に思い浮かべたのも、自分があなたとまったく同じような侮辱を、(つまり同じ程度の侮辱を)あの男から受けたときなのです!

江川訳 p235 あの人があなたのことを思い出したのも、自分があなたと同じような辱しめを(つまり、辱しめの程度ということですが)兄から受けたときでした!

感想 ドミトリーからカテリーナが被った侮辱とスネギリョフが被った侮辱について、新訳は「侮辱の程度が異なる」としているが、先行訳は「侮辱の程度が同一」としている。二人がうけた侮辱の性質が異なることは読者にも分かっている。同一だというのであれば、それは「程度」だということになると思う。先行訳のほうが適切ではないだろうか。


   第5編 プロとコントラ

新訳 p159 リーズは、彼の話に異常なほど心を動かされていた。アリョーシャは彼女のまえで熱い思いをこめ、「イリューシャ」の面影をありありと描きあげていった。あのかわいそうな将校が、お金を足で踏みにじった場面を微にいり細をうがち話してやると、リーズはもう気持ちを抑えきれず、両手をぱんと叩いて叫んだ。

原訳 上・p409 リーズは、彼の話に異常なほど心を打たれた。アリョーシャが熱烈な感情をこめて彼女の前にイリューシェチカの人間像を描きだしてみせたからだ。あの不幸な男が、金を踏みにじった情景を、微細にわたって話し終えると、リーズは両手を打ち合せ、感情を抑えきれずに叫んだ。

小沼訳 Ⅰ・p409 リーズは彼の話にひどく感動させられた。アリョーシャは熱烈な感情をこめて彼女の前に『イリューシェチカ』の姿を描きだすことに成功したのである。

江川訳 p242 リーズは彼の話に深く感動させられた。アリョーシャは熱烈な感情をこめて彼女の前に《イリューシェチカ》の姿をみごとに描き出してみせた

感想 新訳の「面影」には違和感をおぼえた。「面影」という言葉は、イリューシャという少年の精神的側面を伝ええないだろう。アリョーシャがリーズに話してきかせたのは、イリューシャの「人間像」「人物像」であり、その姿が生き生きと語り、伝えられたからこそ、リーズは感動したはずなのだ。亀山氏は、「解題」「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」において、イリューシャを異常な性格の少年のごとくに述べているが、実際、亀山氏はイリューシャについて気高い精神をもったえがたい少年とはとらえていないのかも知れない。この「面影」には亀山氏のそのような認識が現れているのではないかという気もする。


新訳 p196 「……(略)どうかくれぐれもお願いしますが、ぼくのことも、ぼくがお教えしたことも、ドミートリイさまには何もおっしゃらないでください。なにしろ、あの方はとくにこれという理由もなく人殺しをする人ですから

原訳 上・p391 「……(略)ただ、くれぐれもお願いします、わたしのことや、わたしがお知らせしたなんてことは、何もおっしゃらないでくださいまし。なぜって、あの方はとくにこれといった理由がなくても殺しかねないんですから

小沼訳 Ⅰ・p387 「……しかしくれぐれもお願いしておきますがね、私のことも、私がお知らせしたことも、絶対におにいさんには言わないでくださいよ、でないと私は間違いなく殺されてしまいますからね

江川訳 p257 「……私のことも、私がお知らせしましたことも、あの方にはご内聞にお願いしますよ、さもないとそれこそわけも何もなく殺されてしまいますから

感想 いくら何でも「あの方はとくにこれという理由もなく人殺しをする人ですから」という言い方はないのではなかろうか。たとえ発言主がスメルジャコフであっても。私はこの場面を読んで大変驚き、次いで笑ってしまった。これではドミートリイが過去に実際に理由もなく人を殺したことがあり、しかも発言主のスメルジャコフはその場面を見たか聞いたかした経験があるかのように感じられる。


新訳 p199 アリョーシャは、イワンがこの料理屋にほとんどいちども足を運んだことがなく、そもそもこういった類の店をあまり好んでいないのを知っていた。ということは、彼がここに顔を出したのは、兄のドミートリイとの約束で落ちあうためだけかもしれないと思った。もっとも、そのドミートリイの姿はなかった。

原訳 上・p438 アリョーシャは、イワンがこの飲屋にほとんど一度も来たことがなく、また概して飲屋を好まないのを知っていた。してみると、ここにこうしているのも、ドミートリイとの約束で落ち合うためにほかならない、と彼は思った

小沼訳 Ⅰ・p388 イワンがこのレストランにはほとんど足を踏み入れないこと、また全体にレストランなどはあまり好きでないことを、アリョーシャはよく知っていた。してみると、彼がこんなところにいるのは兄のドミートリイとの約束で、ここで待ち合わせるためにちがいない、と彼は考えた。しかし、兄のドミートリイの姿は見当らなかった。

江川訳 p258 アリョーシャは、イワンがこの料亭にはほとんど一度も来たことがなく、元来が料亭のたぐいを好んでいないことを知っていた。してみると、ドミートリイとの約束で、ここで落ち合うためだけにわざわざ足を運んだものらしい。けれど、そのドミートリイの姿は見えなかった。

感想 新訳の「落ちあうためだけかもしれないと思った」の「かもしれない」という表現は前文を読むと疑問である。ここは断定でなければならないのではないだろうか。


新訳 p212 いったいなんのために、おれたちはこの町にやってきたんだ?

原訳 上・p448 何のためにおれたちはここへ来たんだい?

小沼訳 Ⅰ・p397 いったいなんのためにここへやってきたんだい?

江川訳 p264 だってぼくら自身のことを話し合うためなら、まだ充分に余裕があるもの、ぼくらがここへ来たのは、自分のことを話すためだったんだろう? どうしてそんなけげんな顔をするんだ? さあ、答えてくれよ、ぼくら二人、ここへ来たのはなんのためだい? カチェリーナ・イワーノヴナへの愛情問題を話すためかい? 親父やドミートリイのことを話すためかい? 外国のことを話すためかい? ロシアの悲惨な国情やナポレオン皇帝の話をするためかい? そうなのかい、そんなことのためだったのかい?」
「いいえ、そんなことのためじゃありません」

感想 江川訳が一番全体の文意を理解しやすいと思ったので長めに引用したが、「ここへ」の「ここ」は、現にイワンとアリョーシャが話し合っているその飲屋(飲食店)のことではないだろうか。新訳の「この町」では、兄弟三人のそれぞれが、それまで住んでいた別々の土地からやってきて今一同に会している「この町」のことを指しているように思えるのだが。


新訳 p212 おまえがまる三ヶ月、もの欲しそうにおれを見つめていたのは、いったいなんのためだ?

原訳 上・p448 お前だって、それだからこそ、三カ月もの間、期待の目で俺を見つめつづけていたんだろう?

小沼訳 Ⅰ・p397 いったいお前はなんのために三カ月ものあいだ、あんな期待するような眼でこの僕を見つめていたんだ?

江川訳 p264 おまえにしたって、この三カ月、いったいなんのためにあんな期待の眼差をぼくに向けていたんだい?

感想 「もの欲しそう」という言葉を普通、人がどのような場合に用いるかを思うと、この表現はいただけないのではないだろうか。


新訳 p213 いくらこのおれだって、もの欲しそうに三ヶ月もおれを見つめていたかわいい弟を悲しませる気はないぜ。

原訳 上・p449 いくら俺だって、三カ月もの間あんなに期待をこめて俺を見つめていたかわいい弟を嘆かせるつもりはないよ。

小沼訳 Ⅰ・p398 いくら僕だって三カ月ものあいだあんな期待するような眼で僕を見つめていた可愛い弟を、いまさら悲しませそうとは思わないよ。

江川訳 p264 ぼくがからかうだって? 三カ月間、あんな期待をこめてぼくを見つめていたかわいい弟を悲しませるなんて、そんな気をぼくが起こすわけがないよ。

感想 上の感想に同じ


新訳 p299 アリョーシャはとつぜん立ち上がり、彼に近づくと、何も言わず、彼の唇に静かにキスをした。
「実地で盗作と来たか!」イワンが、なぜか有頂天になって叫んだ。「いまのキス、さっきの詩の盗作じゃないか! でもまあ、ありがとうを言っておくよ。立てよ、アリョーシャ、さ、出よう、おまえもおれもそろそろ時間だろう」

原訳 上・p507 アリョーシャは立ち上がり、兄に歩み寄ると、無言のままそっと兄の唇にキスした。
「盗作だぞ!」突然なにやら歓喜に移行しながら、イワンが叫んだ。「俺の詩から剽窃したな! それにしても、ありがとう。立てよ、アリョーシャ、出ようじゃないか。俺もお前ももう行く時間だからな」

小沼訳 Ⅱ・p33 アリョーシャは立ちあがると、兄のそばへ歩み寄り、なにも言わずにそっとその唇に接吻した。
「文学的剽窃だぞ!」と、とつぜん一転して一種の歓喜にひたりながら、イワンは叫んだ。「そいつは僕の詩から盗んだんじゃないか! しかし、とにかくありがとう。じゃ、アリョーシャ、もう出かけるとしようか、俺にもお前にももうそろそろ時間だからな」

江川訳 p299 「ぼくはね、アリョーシャ、ここを去るにあたって、ぼくにもこの世界にせめておまえ一人はいる、と思っていたんだ」ふいに思いがけない感情をこめてイワンが言った。「ところがいまは、おまえの心の中にもぼくの場所はないことがわかったよ、かわいい隠者君。あの《すべてが許される》という公式を引っこめるつもりはないよ、ところがどうだ、おまえはこの公式のためにぼくを否定するんだろう、ええ、そうなんだろう?」
アリョーシャは立ちあがって兄に近づき、無言のまま静かにその唇に接吻した。
「盗作だぞ!」イワンはふいに浮き浮きした調子になって叫んだ。「いまの接吻はぼくの叙事詩から盗んだものじゃないか! でも、ありがとう。さあ、アリョーシャ、出かけるとしようや、ぼくもおまえも、そろそろ時間だしな」

感想 「なぜか有頂天になって叫んだ」という表現には違和感をおぼえた。これは「有頂天」の前に「なぜか」という言葉が遣われているせいだと思う。この「なぜか」という語彙により、読者をして、アリョーシャのキスをうけるまでのイワンの心情の流れや変化の過程を訳者はきちんと把握していないのではないかという疑問をもたせてしまったように思う。それだけではなく、この「なぜか」は、この重大な場面に前文とのつながりが切断された印象をもたらし、切迫感をも希薄にしているように感じた。
2009.10.14 Wed l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
金光翔さんが、佐藤優氏と共に名誉毀損罪で告訴している『週刊新潮』(正確にいうと、被告は、「新潮社」および「『週刊新潮』前編集長」だが、問題の記事が載ったのは『週刊新潮』である)は、つい数カ月前にも、87年に発生した「朝日新聞阪神支局襲撃事件」に関して重大な誤報事件を起こしたばかりである。松本サリン事件の被害者である河野義行さんや沖縄で発生した米兵による少女強姦事件被害者の少女とその家族に対する中傷・捏造記事、そして数多くの言論弾圧煽動記事など、『週刊新潮』が過去に引き起こした人権侵害事件は数えだすときりがない。
『週刊新潮』の創刊は、1956年(昭和31年)というから、もう50年-半世紀を過ぎたことになるが、ホームページを見てみると、『週刊新潮』の広告というか紹介文のなかに次のような文面があった。

「 50年という長い時を経ても、「週刊新潮」の編集方針は、創刊当時から全くと言って良いほど変わっていません。
 何より、文芸出版社から発行される週刊誌として、常に「人間という存在」を強く意識した記事作りをしています。それはまさに「殺人事件を文学としてとらえる」ことでもあります。偽善を嫌い、人間の本質に切り込む姿勢は、時に「世の中を斜めからシニカルに見ている」と評されることもあります。
 また、皇室、学界、右翼、左翼、宗教団体、暴力団、日教組、動労……時代により、その対象は変わりますが、あらゆる“タブー”に挑む姿勢も一貫しています。
 最近では、「加害者の方が、被害者より手厚く保護されている」という少年犯罪の不可解な“タブー”を問題にし、少年法が改正されるに至っています。
 世の中が左に振れても右に振れても、「週刊新潮」は常に変わらぬ主張を堅持し、その一貫した姿勢が読者に支持されてきました。今後もマスコミ界の「剣鬼」として、「魔剣や凶刃」に磨きをかけていきたいと思っています。」

感想として最初に言いたいのは、「「加害者の方が、被害者より手厚く保護されている」という少年犯罪の不可解な“タブー”を問題にし、少年法が改正されるに至っています。」という自画自賛(?)の文面についてである。『週刊新潮』が、いかなる犯罪に対しても、「加害者を厳罰に!」と一貫して主張してきたことはたしかだ。しかし、その分、彼らが被害者に対して配慮をみせてきたかというと、決してそんなことはないだろう。『週刊新潮』の論調は、自分たちの気に入ったとおぼしき一部の人を例外に、被害者に対してどの雑誌よりも無慈悲であり、同情的どころか、中傷・捏造記事の対象にしつづけてきたように思う。上述した河野義行さんや米兵による沖縄の被害少女に関する記事、それから2004年のイラク人質事件の際の被害者に対する中傷記事のように。その上、弁解の余地のない過ちを指摘され、被害者側から抗議されても決して素直に認めもせず、誠意ある謝罪もしない。河野義行さんの場合も本当に酷かったが、「朝日新聞阪神支局襲撃事件」の記事が誤報だったと認めざるをえなくなったときも、編集長はインタビューで「我々に捜査権はない」などと、“だから誤報も仕方ない”と言わんばかりの、ともかく大変珍妙な論旨の話をしていた。

「殺人事件を文学としてとらえる」「偽善を嫌う」という『週刊新潮』の自己評価は正確か?

さて、「何より、文芸出版社から発行される週刊誌として、常に「人間という存在」を強く意識した記事作りをしています。それはまさに「殺人事件を文学としてとらえる」ことでもあります。偽善を嫌い、人間の本質に切り込む姿勢は、時に「世の中を斜めからシニカルに見ている」と評されることもあります。」との文面だが、ここで述べられている内容も「偽善を嫌い」との自己評価に反して、一種の「偽善」ではないだろうか? 始終、人権侵害記事や言論弾圧の煽動記事を書いておいて、「文学」を騙るのは止めてほしいと私は思うが、『週刊新潮』が自分たちをそのような存在として規定する根拠をどこにおいているのかというと、新潮社が毎月文芸雑誌を発行し、多くの小説家や詩人の著作を刊行している会社であるところに、ではないだろうか。また「新潮文庫」には、ドストエフスキーやトルストイなど世界の文豪の諸作品がきら星のごとく揃ってもいる。長く『週刊新潮』の編集長を務め、斉藤十一氏とともに今の『週刊新潮』の基礎を造ったといわれる野平健一氏は、「キザないい方だが、人間の名において仕事をしているつもりです」(亀井淳著「反人権雑誌の読み方-体験的「週刊新潮」批判-」と述べていたようだが、この人は、生前の太宰治の担当編集者でもあったらしい。その縁が効いているのかどうかは分からないが、「新潮文庫」には太宰治の作品も多数入っている。ホームページの『週刊新潮』を紹介する文章に、自ら「殺人事件を文学としてとらえる」とか、「偽善を嫌い、人間の本質に切り込む」などと表現しているところをみると、『週刊新潮』は上記の名だたる文学者たちの威光が自分たちの記事の上にも射しているとでも勘違いしているのではないだろうか。率直にいって、『週刊新潮』の記事内容は他の二流・三流といわれる週刊誌のものよりもずっと冷酷・残忍さを感じさせることが多い。それは、『週刊新潮』の勘違いの自己認識が、現実との矛盾などでいくつもの屈折を経た末にそのような事態というか現象を招いてしまうのではないかという気もする。

『パルチザン伝説』事件

一例として、早世した小説家の桐山襲氏の場合が考えられる。桐山氏は、83年、小説『パルチザン伝説』を雑誌『文藝』に発表した際(これは氏のデビュー作であった)、『週刊新潮』の煽動によって右翼攻撃をうけ、大変な災厄を被った一人であった。桐山氏は、事件後4年を経て、この出来事を詳細に振り返った一冊の本「『パルチザン伝説』事件」(作品社1987年)を刊行しているが、昨年私は久しぶりにこの本を再読してみた(『週刊新潮』とは無関係の事件なので、今回はあまり触れないが、その際、「『パルチザン伝説』事件」だけでなく、61年にこれまた右翼が引き起こした中央公論社の「風流夢潭事件」の際、担当編集者として否応なく事件の渦に巻き込まれることになった京谷秀夫氏と、当時やはり中央公論の社員であった中村智子氏が、後に事件を振り返って纏めた二冊の本(京谷秀夫著「『一九六一年冬「風流夢譚」事件』」・中村智子著「『風流夢譚』事件以後-編集者の自分史-」)も改めて読んでみた)。

金光翔さんの論文の発表、その直後の金さんを揶揄・中傷する『週刊新潮』の記事、そして『週刊新潮』の記事に便乗するかのような岩波書店および岩波書店労組による金さんへのいやがらせ、等々を知るにつけ、この出来事には、右翼団体こそでてこないが、出版界に起きた過去のこれらの事件を思い起こさせる何かがあると感じた。一番衝撃的だったのは、金光翔さんが所属する岩波書店が『週刊新潮』に同調し、佐藤優氏を全面的に庇い立て、社員である金さんを迫害する姿勢をとったことだった。金光翔さんのブログの文章を読んでいて、私が一番ショックをうけたのはそのことだった。

改めて「『パルチザン伝説』事件」を読んでみると、今回の出来事といくつかの共通点も感じられた。まず、攻撃をしかけてきたのがともに『週刊新潮』だったこと、次に、小説と論文の違いはあるが、雑誌発表の時点で二人とも無名の新人だったこと(立場が弱く、『週刊新潮』の餌食になりやすかった)、それから、方法は異なるが、攻撃に対して二人とも泣き寝入りせず闘う姿勢をみせたこと、など。ただ、金さんの場合は、周辺からの攻撃が激しかったので、桐山氏に比べてさらに孤立無援の立場に追い込まれたように思う。

「風流夢譚事件」について書いた二人の著者もそうだと思われるが、桐山氏の場合も、この事件を一冊の本に纏めたのは、何といってもこの事件を今後の教訓にしてほしい、「言論・表現の自由」の敗北の歴史をこれ以上積み重ねることなく、状況をよい方向に導いてほしいという念願があったことはまちがいない。これらの本を読んで切実に感じるのは、何にもましてこのことだった。でも、その後の経過をみると、事態はこの人たちが願う方向には進まなかった。それどころか、現状は当時よりさらに悪化していると思われる。そのことは、「<佐藤優現象>批判」を発表した金光翔さんがどのように遇されたかをみればわかる。京谷秀夫氏が上記の本を最初に出版したのは、83年、晩聲社からだった。それから十数年後の96年に今度は平凡社から再刊行をはたしているが、その「後書き」で、この新たな出版について京谷氏は、二度も「恥ずかしい」と述べている。その意味についての説明はないが、もしかすると、自身があの重大事件について思考に思考を重ね、内省に内省を経た上で、いわば満を持して筆をとったにもかかわらず、真摯な受けとめられ方をしていない、現状に役立っていないという無力感を噛みしめるところがあったのではないのだろうか。

しかし、これらの経験に学ぶところは今も多いはずである。そのように信じるので、今回、「『パルチザン伝説』事件」中の桐山氏の発言を少しみてみたい。日本の出版文化の現状、そのなかにおける『週刊新潮』という雑誌の性質と存在感について理解するための手助けになると思う。

『週刊新潮』は25年も前から、「またもや『週刊新潮』の記事で、言論弾圧が組織された」という評価をされていた

『パルチザン伝説』という小説は、桐山氏が自身で述べているところによると(エッセイ「亡命地にて」)、「東アジア反日武装戦線がかつて企図した現実の事件の衝撃力を受けとめ、そこから、この国の<戦後>というもの、また1968年から現在に至る<この時代>というものを考察し、文学的に表出しようとした作品」であった。事実、83年9月7日、『パルチザン伝説』が載った『文藝』10月号が発売されると、この小説はまもなく各新聞の文芸時評欄で注目すべき作品として取り上げられ、下記のように好意的かつ穏当な作品批評をうけている。

○9月24日 奥野健男 「国家体制への深層意識的批判がはじめて文学作品として表現されて来たことに大きな感慨を抱かざるを得なかった」(サンケイ新聞夕刊)
○9月24日 菅野昭正 「天皇制という思想問題の重さと、物語的な面白さを持続させるエンターテインメントを結びつけようとする野心が、ここには感じとれる」(東京新聞『文芸時評』)
○9月28日 篠田一士 「日本という国を外側から見据えようと、懸命に努力している」(毎日新聞夕刊)

しかし、9月29日に『週刊新潮』は、「おっかなビックリ落選させた(注:「文藝賞」のこと)『天皇暗殺』を扱った小説の『発表』」とのタイトルの下、各新聞紙、電車に大きな広告を載せた。桐山氏は、「その日のうちに、右翼の宣伝車が河出の前に停まって激烈な放送を行なうという形で第一波の攻撃が開始されますから、新潮社と右翼の動きは文字通り連動していたと言うことが出来ます。」と述べている。『天皇暗殺』などという言葉は作品のどこにもないにもかかわらず、『週刊新潮』はそのような言葉を大々的に広告に載せているのである。

「『パルチザン伝説』事件」には、「またもや『週刊新潮』(10月6日号)の記事をきっかけに右翼が動き出すという形で、言論弾圧が組織された」という、『インパクション』掲載の天野恵一氏の意見も収められている。この意見は当時私などが『週刊新潮』にもっていたイメージとも一致する。『週刊新潮』は、四半世紀前からすでに「言論弾圧」の常習雑誌として名高かったのだ。

桐山襲氏「『週刊新潮』は、第一級の「煽動機関」」

下記は87年時点における桐山氏の発言(インタビュー)である。興味ぶかい内容だと思うので、長くなるが引用する。

「この記事の第一の問題は、「第二の『風流夢譚』事件か――」という書き出しですね。右翼の動きが全く存在していないにもかかわらず、このような書き方をすること自体、明らかに一つの煽動になっているわけです。そして「風流夢譚」の痛快性のある文体を引用した上で、「第二の『風流夢譚』事件を誘発しかねない題材」であると決めつけているわけですね。「誘発しかねない」などと実にイヤらしい書き方をしていますが、誘発させたくてしかたがないという新潮社側の劣情が、非常に露骨にあらわれています。
 第二の問題は、「天皇暗殺」という、小説の中には全く存在しない言葉を使って、しかもそれを大きな見出にして、煽動していることですね。このようにすれば、「パルチザン伝説」=「天皇暗殺」ということになってしまうわけですね。別にそういう作品が存在してもかまわないですけど、「パルチザン伝説」は暗殺のスリルで読ませるような小説ではないわけです。だいたい「天皇」なる人物が登場してこないわけですから。それに、これは作者と言葉との関係ですけど、一人の作者には、その作者が思想的・感覚的に使わない言葉というのがあるんですね。私の文体でいえば、「暗殺」という言葉はまず出てこない。そういう言葉は、感性的に非常に遠いわけです。
 第三の問題は、「覆面を脱がない作者」という二段ヌキの見出しを掲げて、作者追及の煽動を行なっていることです。この記事の中の人名は、「深沢七郎氏」とか「野間宏氏」とか、すべて敬称がつけられているんですが、私の場合だけは「気になるのはやはり桐山襲なる作家の正体だ」という具合に、意識的に呼び捨てにして、あたかも「犯罪者」であるかのような形にして、煽動しているわけですね。
 第四の問題は、「ある作家がいうには」という形で、どこの誰とも知れない人物を登場させて、全くのデタラメを述べさせ、その言葉によって煽動している点です。「実は、僕はあの小説のモトの作品を読んだんですよ。去年、文藝賞に落ちてすぐのころだったと思うんですが、地下出版されかかったことがあるんです。そのまま日の目を見ないのは惜しいという誰かの意思があったようで、とにかくそのゲラを手に入れた人が見せてくれましてね。まあ、構成などの点では現在発表されているのと大して変らないんですが、ただ、天皇に関する表現は、かなりヒドいものでした。それにしても、ああいう内容のものをよく書いたなあ、と思いましたよ」――という調子ですね。
「地下出版されかかった」とか、「そのゲラ」とか、全くのデタラメであるわけです。つまり、新潮社は、現にある「パルチザン伝説」だけではどうも右翼が怒りそうもないから、その「モトの作品」をデッチ上げて、それでフレームアップしようとしているのですね。
 こういうふうに、匿名の人物を最後に登場させて、その言葉によって疑惑をかき立てるというのは、新潮社のいつものやり方なんですね。作者の匿名が気になるなんて言いながら、自分の方はいつも架空の人物を登場させて、全く事実に反することを言わせて、フレームアップしているんです。これは明らかに「報道」というよりは「煽動」と呼ぶべきで、新潮社というのは、第一級の「煽動機関」であるといえると思います。
 以上がだいたい新潮社の記事の問題点ですが、このことから分かるのは、記事がたまたま右翼の動きを誘発させてしまったなどというものではなくて、最初から右翼を煽動して騒ぎを起こすことを目的として書かれた記事だということです。最初から右翼を煽動し、「第二の『風流夢譚』事件」をつくり出す意図が存在していたわけです。そういう点で、「パルチザン伝説」事件を考えるとき、この新潮社の問題が一番大きいと言えます。

 ―― 新潮社がこういう書き方をしなければ、騒ぎにならなかった可能性が大きいと思いますね。作品の質からみても、右翼が読んですぐに激昂するというタイプのものでもありませんし。

それはそうです。『週刊新潮』以前に幾つもの新聞が紹介していても、何の動きもなかったわけですからね。しかし、そういう仮定の問題はあまり意味がないんです。問題は、新潮社が明らかに「第二の『風流夢譚』事件」を煽動する記事を書いた。そして現実に右翼が動いたという、この歴史的な事実なんですね。だから、極言するならば、「パルチザン伝説」事件というのは、<右翼と表現>の問題というよりは、<新潮社と表現>の問題だとさえ言うことが出来ると思います。

ここでの問題点(筆者注:右翼の攻撃以降のマスコミおよび識者等の発言)は、やはり、新潮社に対する批判がきわめて弱いこと、それから、「風流夢譚」からの類推で事件を考えるという安易な思考が主流となって、個別の問題点が深められていないこと、などがあげられるでしょう。「風流夢譚」の時代に比較してさえ、ジャーナリズムと知識人が、問題を基本的に考えるという能力を喪ってきているということが明らかになったと言えますし、こういう文化状況こそが、真に危機的なのだと言えます。また、そういう状況であったればこそ、私は、抗議声明を一発出して終わるという形を取らずに、単行本化への出口をもとめていったわけです。

―― 新潮社に関する問題に戻りたいと思います。新潮社への批判は、いま言われたように数少なかったわけですが、実はこれは大変な問題だと思うんです。どこかの四流出版社がああいう形で右翼を煽動したのならともかく、新潮社というのは、多くの作家や批評家が本を出している大出版社なわけですね。そういうところが、表現の自由・出版の自由を圧殺するようなことをやって、作家や批評家たちが何も声を挙げない。これは世界的にみても、類例のないことだと思うんですよ。

頽廃ですね、ひと言で言えば。例えばヨーロッパなんかで、ガリマールがああいうことをやったら、それこそ大変な騒ぎになりますよ。むこうの作家は、物を考えますからね(笑)。

―― そういう状況であれば、新潮社は最初からああいう記事は書かなかったわけですね。それはそうです。日本の出版界というのは、きわめて特殊なんですよ。(略) いま、頽廃と言われましたが、出版弾圧をまのあたりにして、新潮社から本を出している人たちが頬かむりしているということは、頽廃と言っただけでは済まないような気がしますが。

その辺は、日本の文筆家の下部構造から見なければいけないと思います。本当に書きたい小説だけ書いて喰っている作家というのは、数多いようでいて、実は少ないんじゃないでしょうか。そのほかの人たちは ―― 大学の特権的なポストに安住しているような連中は論外として ―― ジャーナリズムのさまざまな場所に雑文を書いて喰っている、喰っているというよりは金を蓄めているという雰囲気もありますけど。中曽根内閣の文化庁長官だった三浦朱門氏なんかは、長官時代に「強姦する体力がないのは男として恥ずべきことだ」とかなんとか、スポーツ誌とかにまで書いているでしょう。大そうな月給もらって、その上そんなにまでして金が欲しいのかと思うけど、まあ、そうやって皆さん生活しているわけです。だから、彼らにしてみれば、大新潮社を批判するなどということは、平社員が社長を殴るみたいなもので、とても怖くて出来ないんだと思いますね。そういうふうに、日本の文筆家というのは、知識人である前に売文奴隷みたいなところがありますから、新潮社が何をやろうと、自分とは関係ない、自分だけ喰えればいいということになるんじゃないでしょうか。
 非常に貧しい話ですが、「社会的責務」という言葉ほど、日本の作家に遠いものはないんですね。それでいて、国家が戦争でも始めれば、昔みたいに「従軍記」みたいなものを皆書くようになるのでしょうから、「社会的責務」には関係なくても、「国家的責務」には敏感なんですね。

―― 以上からひき出されることは、日本の作家なり文筆家なりが、<表現の自由>を守るなどということとはほど遠い、きわめて絶望的な状態にあるということですね。

絶望的ですよ。そんなことは、分かりきったことです。しかも、こういう時代の中で、ますます絶望的になっていっている。本当の売文奴隷だけが生き残っていくと、私は考えています。しかし、重要なことは、そのような中にも、今回私を支えてくれた人たちは陰に陽に存在したわけで、全体としていくら絶望的であっても、そこのところは忘れてはならないと思います。

―― ある意味でいえば、「パルチザン伝説」事件が、日本の作家やジャーナリズムにとって、試金石だったわけですね。

小なりといえども、「最後の審判」だったんですよ(笑)。」

以上、長い引用をしてきたが、桐山氏は、同書の別の箇所で下記のような発言もしている。

事件をきちんと語り、総括することの重要性

「右翼が社前に来たとき、河出としてはやはり「風流夢譚」を思い浮かべたんだろうと思うんです。あのときのようになるんじゃないか、ということがすぐに連想されてしまって、非常にビビったと思います。明らかに、「風流夢譚」が河出にパニックをひきおこして、その結果が早期の敗北につながっていったと考えられます。/しかし、注意すべきは、「風流夢譚」が一個のパニックとなりえたのは、河出=出版界がそれを総括していたからではなくて、逆に全く総括していなかったからなのではないか、私はそう考えています。(注1)/「風流夢譚」事件以後、天皇制をめぐる表現は常に“過剰恐怖”ともいうべきものに支配されてきたわけですが、その“過剰恐怖”を少しでも取り除く方策というのは、過去の事件に対する客観的な総括以外にはないんですね。何よりもまず当事者が、敗北を敗北として認め、その過程を明らかにすることが必要です。ことは紛争である以上、勝ち敗けはつきものであるし、敗北したということはそれだけで恥かしいことではないんですね。「風流夢譚」事件以降の幾つかの事件は、敗北を敗北として語らなかったことによって、いっそう状況を困難なものにしてきたと言えると思います。」

秘密にしてしまって内へ内へと籠もり、自分たちだけでこっそり片をつけようとする姿勢では何も解決できない。敗北を繰り返すだけだと述べているのだと思われるが、似たような提起は、京谷秀夫氏からもなされている。

「ペンが剣より強くなるためには、ペン本来の機能を最大限に発揮しなければならないのは自明の理というものであろう。」「たとえば、ジャーナリズムとしての『中央公論』は、その編集に従事する者たちの企画に対して、理論・思想、あるいは芸術作品を提供してくれる数多くの執筆者と、それを読んでくれる広範な読者によって成立していることを考慮すれば、この二者を埒外において、基本的な編集に関する問題について、右翼であれ、左翼であれ、特定の団体・組織と取引きすることが、彼らとの相互信頼のうえから許されていいものだろうか、ということである。」(『一九六一年冬「風流夢譚」事件』)

これらの指摘は、「天皇制をめぐる表現」についてのみに該当するわけではないと思うが、「天皇制タブー」が存在すれば、そしてこのタブーが強固であればあるほど、他のタブーもより多く生じ、それぞれのタブーはよりいっそう強まっていくのではないかと思う。ここ数年、そのタブーの一つとなってしまっているのが佐藤優氏だろう。だから、たかだか一介の物書きに対し、異論・反論を述べるのに勇気が必要とされる、勇をふるってそれを述べれば、みなで寄ってたかって排除にかかる、というような異様な状況が生まれるのだろう。しかし、本来、批評は日常的な当たり前の行為のはずである。傑作といわれる作品は、文学作品であろうと思想書であろうと、きびしい批判に耐える力をもっているからこそすばらしいのである。公的に発表された文章に対し、沈黙か褒めそやすことしか許されない現状はあまりにも異様である。。

さて、桐山氏の発言で気になることは沢山あるが、その一つは、「極言するならば、「パルチザン伝説」事件というのは、<右翼と表現>の問題というよりは、<新潮社と表現>の問題だとさえ言うことが出来ると思います。」という言葉である。これを受けて、インタビュアーは、「新潮社というのは、多くの作家や批評家が本を出している大出版社なわけですね。そういうところが、表現の自由・出版の自由を圧殺するようなことをやって、作家や批評家たちが何も声を挙げない。これは世界的にみても、類例のないことだと思うんですよ。」と述べているが、この会話は、いまさらながらではあるが、重要な内容だと思う。(注2)

『週刊新潮』を発行している新潮社に違和感をおぼえながら、私なども新潮文庫をわりあいに数多く買っている。私の場合、ほとんど古本ではあるが、それでも割り切れなさ、不本意な感触は残るのである。

「「風流夢譚」が一個のパニックとなりえたのは、河出=出版界がそれを総括していたからではなくて、逆に全く総括していなかったからなのではないか、私はそう考えています。」、「「風流夢譚」事件以降の幾つかの事件は、敗北を敗北として語らなかったことによって、いっそう状況を困難なものにしてきたと言えると思います。」という桐山氏の発言もよく噛みしめるべきであろう。金光翔さんが論文発表後の出来事をブログを通してすべて公にしてきたことは、誰のためにも本当によいことだったのだ。正直なところ、私は最初、訴訟にそれほど積極的な意義を感じとることができなかったのだが、今は、真相は明らかにされなければならないこと、そして真相を明らかにする方法は提訴以外になかったのだと理解できる。


(注1)
『文藝』編集部は、右翼に怯えながらも、当然のことではあるが、精一杯桐山氏の身を守る姿勢は見せている。また桐山氏の発言から、氏もそのことをきちんと理解していることがみてとれる。

(注2)
河出書房新社から出版予定だった「パルチザン伝説」は、河出が右翼の要請を受け入れたことにより刊行中止となった。しかし、翌84年、<刊行委員会>の尽力によって単行本が出た。これに対し、『週刊新潮』・右翼とも動きはなかったそうである。私は<刊行委員会>の構成メンバーについて何も知らないが、この人々は、桐山氏のいう「社会的責務」を果たしたということになるだろう。出版にあたって<刊行委員会>は下記のメッセージをだしている。

「刊行の辞」
 わたしたちは、雑誌「文藝」1983年10月号掲載の桐山襲著「パルチザン伝説」をめぐる一連の事態を、言論に携わるものにとって看過できない問題として注視してきた。
 言論の自由に対する右からの攻撃に対して為すところなく蹂躙に委せたことは、共に遺憾とするところである。また、文藝作品をもっぱら興味本位に取り上げこれを挑発した週刊誌記事、攻撃の実態を明らかにすることなくひとり自主規制の道を選んだ版元の姿勢、そして著者の意志をふみにじり無断刊行した出版社、および事態に対する無責任な発言、報道、これらはいずれも今時の言論表現の自由を守る上で出版人自らも大きな禍根を残したというべきであろう。
 こうした気運を放置することは執筆者・版元間に一層の自主規制を強いる危険につながる。一篇の小説を現実に守りえずに如何なる言論の自由も存在しない。すべての言論人は己れ自身の問題としてこれを肝に銘ずべきである。
 わたしたちはいっさいの表現の自由の侵犯に対する抗議の表明として、ここに桐山襲作品集を著者の望むかたちで刊行する。
 1984年5月
刊行委員会記 


桐山氏の談話

――この<刊行委員会>というのが大きな力を発揮したと思いますが、メンバーについては言えないでしょうねえ。

言えませんねえ(笑)。少なくとも私よりは著名な方々だということだけです。
2009.10.11 Sun l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
金光翔さんは6月12日、新潮社・早川清『週刊新潮』前編集長・佐藤優氏を提訴しましたが、その裁判はすでに9月から始まっているとのことです。その金さんを支援するために、先日、有志の方々が「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」を出し、署名を募っています。
私も声明に賛同する署名をしましたが、この問題に関心のある方がいらっしゃいましたら、下記のブログをご覧ください。

「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-23.html

上記の声明に私が賛同する理由ですが、当ブログの「カテゴリー」における「言論・表現の自由」「文芸」欄の拙文(記事数が少なくて恐縮です。これからぼちぼちとですが、書きつづけます)を見ていただければ、ご理解いただけるかと思います。私たち人間は生きていく上で誰もが自由な言論、自由な表現を日々必要としています。これなくしては、精神は窒息し、涸れていくほかないはずです。歴史は(特に日本の過去の歴史は)そのことを明確に証明していますし、だからこそ、「言論・表現の自由」は、人権の中でも最重要の条件・要素の一つとされているはずです。しかし現実の日本の文化・言論の状況を見ると、出版界やその周辺の人々にその認識は薄い、またはほとんど皆無のようにさえみえます。金さんへの数々のいやがらせや弾圧をみると、そのことが実感されます。このような中で、この現状に抗しながら金光翔さんが提起している問題は、「言論・表現の自由」の基本そのものへの問いであり、きわめて重要だと思;っています。

追記-佐藤優現象は、はじめから言論封殺を伴う性質をもっていたのではないかと思います。
2009.10.08 Thu l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
法相 千葉景子 様

法務大臣就任おめでとうございます。

突然ではありますが、ある確定死刑囚のことにつき、大臣にぜひお知りおき願いたいことがあり、メールを送らせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

「埼玉愛犬家殺人事件」の風間博子さんは、今年6月に最高裁判決により主犯である元夫とともに死刑が確定いたしました。今年早々、偶然の機会から、私は風間さんに関する一・二審の判決文や論告文、弁論要旨、控訴趣意書、等々の裁判資料を読む機会を得ました。自分としましては素人ながらかなり丁寧に読みこんだつもりですが、その過程を通して、風間さんが殺人に関与したとする裁判所の判定には、多大な疑問をおぼえざるをえませんでした。その詳細につきましては、現在、拙ブログ「横板に雨垂れ」 にて、判決文を主な対象とした裁判資料の検討を行なっております。また、これは他の人のサイトのことになりますが、「友人の会」による http://geocities.yahoo.co.jp/gl/kazama_muzai/ のように、すでに数年前から、この裁判の異様さを感じ取り、いち早く、風間博子さん支援のサイトを立ち上げた方達もおられたようです。私もこの間、たどたどしい足どりながら、真摯な心構えで裁判資料と向かい合ってきましたが、人間のごく普通の感覚・良識で法廷に提出された証言、その他の証拠を子細に見てゆけば、この死刑判決の不当性は誰の目にもあまりにも明らかなのではないかと思っています。大臣には、どうか、風間さんの死刑確定判決はこのような見方ができるものだということ、また現にこのような疑問をもっている人間がたしかに存在することをお知りおき願いたいと存じます。

激務の中、どうぞくれぐれもお身体をお大切になさってください。


2009.10.06 Tue l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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