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(1)
萩原俊治氏のブログ「こころなきみにも」の連載「亀山訳『カラマーゾフの兄弟』批判」を読ませていただいているが、述べてみたい感想や触発されて思い浮かべたことなどがあるので(まるで、『カラマーゾフの兄弟』でトロイの建設者が誰であるかを言ってみたくてたまらない少年カルタショフの心境みたいで恐縮だが!)、僣越ながら記してみたい。

まず、【亀山訳『カラマーゾフの兄弟』批判2】における

>【誤訳】アレクセイが「偉大な人物ではない」という訳(原、小沼)。

「作者の言葉」のこの訳文については、じつのところ、私もずっと前から腑に落ちない思いをしていた。小沼訳では、次のようになっている。

「わが主人公アレクセイ・フィードロヴィッチ・カラマーゾフの一代記に取りかかるにあたり、私は多少のためらいを感じている。それはほかでもない、私はアレクセイ・フィードロヴィッチをわが主人公と読んではいるものの、彼がけっして偉大な人物でないことを、自分でもよく心得ているからである。」

作者は、このようにアリョーシャを「偉大な人物ではない」と述べていながら、一方、同時に、読者からの自分に対する

「彼をその主人公に選んだのは、あなたのアレクセイ・フィードロヴィッチになにかすぐれた点があってのことなのか?」

という質問を予期しているわけである。すると、「偉大な人物」と「すぐれた点がある人物」とは全然重なり合わないことになるので、「はて?」と戸惑いをおぼえた。そこで私は、作者の言う「偉大な人物」を勝手にナポレオンとかシーザーのような歴史上の人物に見立てて自分を納得させることにした。「偉大な人物でない」という意味を、自らの手で直接社会を動かし、新たな歴史を作り出す軍人や政治家のような型の人物ではないというふうに理解しようとしたのである。今から思えば、無意識のうちにも「偉大な人物」をこの連載で萩原氏が述べているような、老若男女の誰でもが知っている「超有名人」と捉えたことになる。それでも、ドストエフスキーがナポレオンのような「有名人」を「偉大な人物」と断定するのも奇妙だという感じが残りはしたが…。

それで一応納得したつもりでいたのだが、再び混乱したのは、昨年原卓也訳を読んだ時だった。小沼訳は、アリョーシャについて単に「偉大な人物でない」とだけ述べているが、原訳は、なんと「人間として彼が決して偉大でないことは、わたし自身よく承知しているし」と、アリョーシャを「人間として偉大でない」と言い切っているのだった。小沼訳は最初に読んだ本ではあり、肩肘張らないとても自然な訳のように感じて私は愛着を持っていたが、昨年はじめて読んだ原訳は精確かつ繊細な文章だと読みながら感服する思いがしていたので、この訳には大変困惑した。すぐに思ったことは、「それではゾシマ長老はどうなのだろう?」ということだった。アリョーシャが人間として偉大でないのなら、アリョーシャもその世界に共に住んでいるように思えるゾシマ長老も人間として偉大ではないというのだろうか? それともゾシマとアリョーシャ、この二人の人物の精神の大きさや深さをドストエフスキーは厳密に区別しているのだろうか? ドストエフスキーはそもそも「人間として偉大な人物」としてここで具体的に一体誰を想定していたのだろう。 ナポレオン? では、シェークスピアは? などと割り切れない思いであれこれ考えを巡らせたのだった。

しかし仕方がないので、それ以来、もうこの箇所は避けて通ることにした。だから、江川訳が「アレクセイは「大人物などと言えた柄ではない」という訳をつけている」ことも「そうだったっけ?」と今回はじめて知ったようなしだいであった。萩原氏が「偉大」という単語を完全に削ってしまい、「無名」とされたのは、翻訳を読む身には大変納得できることであった。そのような訳が可能であることを知っただけでも気持ちがすっきりとして嬉しい。

(2)
次に、大変興味津々だったのは、エピグラフの「はっきり言っておく」という文句の中の「はっきり」という言葉の遣い方に関する議論であった。まず4人の翻訳者の訳文を記そう。

亀山郁夫訳:はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネの福音書、十二章二十三節)

原卓也訳:よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

小沼文彦訳:誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の実地に落ちて死なずば、ただ一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし。

江川卓訳:まことに、まことに汝らに告ぐ。一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多くの実をもたらすべし。

「はっきり言っておく」とか「はっきり言うが…」というように、他の誰かを前にしていざ話の口火をきるような場合に遣われる「はっきり」という単語には、萩原氏が言われるように、確かに、警告・非難など否定的なニュアンスがつきまとう。これは「はっきり」という単語の意味が「明瞭」とか「明確」であることと関係があるのかも知れないが、実際、この言葉は、意志的にというか、主体的に、かなりつよい否定のニュアンスをこめて用いられる場合がほとんどのように思う。その場に警戒心を含んだ緊張を惹起することも少なくないのではないだろうか。萩原氏が例にあげている「はっきり言うけどね、わたし、あんたのことなんか大嫌いよ」はまだ穏当(?)だが、「はっきり言っておく。もう一度今回と同じことをしたら、そのときはただではすまないからそう思え、云々」。ぴったりしすぎていて、大変、コワイ! このような用法が可能である「はっきり言っておく」は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、……」という至言の前おきに全然合わない。不釣り合いだと思う。

一方、「はっきり」は、上でも述べたが、「明瞭」という単語と同義語と言っていいと思われる。文章を読んでいて、時々、「明瞭」に「はっきり」というふりがなが付されているのを目にすることもある。「はっきり言っておく」という言葉が、日常的に使用されている上述のような事例と異なって、「明瞭に言っておく」と字義どおりの意味合いでエピグラフに用いられていると想定したらどうだろうか。

「明瞭」という言葉を私はいつも頭の片隅においているような気がするが、考えてみると、どうやらそれはスタンダールがバルザックに宛てた手紙のなかの「私の規則は唯一つよりありません。即ち明瞭に書くこと。明瞭でないと私の世界は崩壊します」という言葉と共に、のようだ(私はスタンダールのファンなのである)。雑誌やブログなどで文章を読んで、「この人の文章は明瞭だな」というように感じることもある(たとえばブログ「私にも話させて」の金光翔さんの文章)が、『カラマーゾフの兄弟』におけるエピグラフの「はっきり言っておく」の「はっきり」に関連してやはりスタンダールのこの言葉を思い浮かべた。スタンダールの『パルムの僧院』が発表された時、バルザックは「ベール(スタンダール)氏は各章ごとに崇高が炸裂する作品を書かれた」と絶賛する文章を書いてスタンダールを感激させたが、そのなかで幾つかの批判もした。文法的な誤りや書き方が無造作だという指摘もその一つだったが、これに答えて、スタンダールは上記のように「明瞭」の一語で応答したのだった。熱烈なスタンダリアンであった大岡昇平は、「同時代に読者を持たなかったスタンダールは自分を後世に伝へる為に、常に真実をしかも真実だけを語ってゐるかどうか、について不安があった」から「明瞭」であることに拘ったのだと推測し解釈している(「バルザック『スタンダール論』解説」・1944年)。

少し脱線したが、「明瞭」であることは、それ自体大変貴重なことでありすぐれた美点だと思う。反対の意味をもつ「不明瞭」「ぼんやり」「曖昧」であることが、話すにしろ、書くにしろ、現実にどのような困惑・混乱を生じさせることがあるかを考えれば「明瞭」の意義が理解されるのではないだろうか。さて、『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフだが、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、……」という言葉はそれ自体この上なく「明瞭」だと思う。内容豊富な明瞭なことを語るのに、あえて「はっきり言う」と前おきする必要はまったくないばかりでなく、文脈上むしろそれはおかしいのではないだろうか。「よくよくあなたがたに言っておく」、「誠に、まことに(あるいは、まことに、まことに)汝らに告ぐ」のどちらかが、断然、だんぜん、いいという気がする。
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2009.11.11 Wed l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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