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金光翔さんは誹謗中傷を含んだでたらめな記事(『週刊新潮』2007年12月6日号)で名誉を棄損されたとして『週刊新潮』と佐藤優氏を提訴したが、その金さんを支援するために有志の人々が呼びかけた「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」の賛同者は、現在のところ106人(この中には私も入っている)を数えたようである。世の中の署名募集には何千、何万という数が集まることもあるのだから、この106という数を多いとは一般的には言えないかも知れないが、今の社会の趨勢、またこれまでの金さんの孤独な闘いを見れば(金さんのブログの過去の記事を読めばよく分かる)、このような内容の「共同声明」にしては大変よく健闘していると言えるだろうと思う。このことは、金さんの一貫性・統一性のある論理的な文章が高い批評力と説得力を持っていることと共に、『世界』や『週刊金曜日』を初め、良心的な雑誌として人権や言論・思想の自由のために力を尽くしてきた、今も尽くしていると社会一般もそう捉え、自らもそのように自負してきたはずの雑誌、また各執筆者などの予想もつかなかった変貌ぶりに多くの人が危機感を持っていることの現れではないかと思う。「共同声明」に寄せられた数々のコメントの内容にそのことがにじみ出ていると感じる。

金さんの「<佐藤優現象>批判」(『インパクション』第160号)が出たのは、2007年の11月だったが、この論文の内容は衝撃的なものだった。女性史研究者の鈴木裕子さんは、「私にも話させて」に「「<佐藤優現象>批判」を読んで」を寄稿されていて、そのなかで「1976年生まれ、という筆者の若さにまず驚いた。その読書力にも驚かされた。が、最も舌を巻いたのは、その分析力の鋭さである。日本の言論界ひいては思想界が溶解しはじめているのは、大分前から感じさせられていたものの、その「謎とき」に、金光翔氏の論稿は大きく示唆を与えてくれるものであった。」と書かれているが、私の場合これほど鮮明なとらえ方をしたのではなく、もっとぼんやりしていたが、それでも今思うとおおむね近いことを感じていたように思う。

岩波書店を初めとした、それなりに良識があるはずの出版社やライター達がなぜこれほどまでに佐藤優氏を賞賛するのかが当時皆目理解できなかった。後に金さんが論文で正しく述べているとおり、「取るにたらない「思想家」」としか思えない人物をあの人もこの人もこぞってほめ称えている状況は異常である、このようなことはかつて経験しない出来事だと感じずにいられなかった。

金さんの洞察力にあふれた論文とは比較にならない単純な内容の短い文ではあるが、下記に載せるのは、2006年春先に書き、半年ほど経った秋に当時唯一講読していた発行部数500~600のある冊子に投稿し掲載してもらった、佐藤氏の言説を批判したものである。そのうち、きっと佐藤氏の論説内容に対して、また佐藤氏を絶賛するメディアやライター陣に対して、厳しい批判を述べる人物がでてくるだろうという期待を持ってはいたが、それでもなかなか現れない。むしろ賞賛の声は高まるばかりのように思えたので、我慢ができず、おっかなびっくり内心気を遣いながらではあったが、投稿(誰でも載せてもらえる。当時は自分でブログを開設するなど考えたこともなかった)したのだった。何の反響もなかったが、それでも最低限言うべきことを言ったというある満足感はあったように思う。



 皆さんは、こんなことありませんか。そんなこと誰も気にかけてない、でも自分は気になる、忘れ切ることができないというようなことが。私には時々あります。自分でもしつこい気がして「ひょっとして、ヘンなのではないか?」と反省してみるものの、やっぱり納得がいかずについ思い浮かべては考えてしまうのですが、この問題もその一つなのです。

 佐藤優さんの書評「高橋哲哉著『靖国問題』の罠」(「正論」2005年9月号)。高橋氏の、政教分離を徹底することによって「国家機関」としての靖国神社を廃止すること、合祀取り下げを求める遺族の要求には応じること等の提言に対して、佐藤さんは、「靖国神社の信教、布教の自由を破壊する結果をもたらすものなので、反対だ。靖国神社は現行のままでよい。」と記しています。この姿勢は明快で率直です。内容も賛否とは別に興味深いものですが、私が大変驚かされ、茫然とし、今も納得できないのは、12頁におよぶ書評の結論部分です。佐藤氏はここで、高橋氏の「靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としない。悲しいのに嬉しいと言わないこと。それだけで十分なのだ」という文章をとりあげ、「悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰が生まれ、文学も生まれるのだと思う」「悲しみをいつまでも持ち続け、耐えることができる人物は一握りの強者だけ」「この倫理基準に立つ限り、高橋教授には、宗教を必要とし、慰めや癒しを必要とし、そして文学を必要とする人々の内在的論理がつかめない」「『悲しみの罠』から人々を解放するのが宗教や文学、そして時には国家の機能と思う」と述べています。

 これらはみな私には初めてふれる驚くべき言葉と思えましたが、なかでもビックリしたのは、悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰が生まれ、文学も生まれる、という一節です。しかし、原因が何であれ、肉親を失った遺族が、悲しみという自然のうちにある感情を意志によって喜びに変換させることが可能でしょうか。私はそれは不可能なこと、端的にいって虚偽だと思います。また人には悲しみを喜びに変換するという不自然な行為をあえて行う必要があるとも思えません。佐藤氏は、「悲しみをいつまでも持ち続け、耐えることができるのは強者だけ」といいますが、本当にそうでしょうか。現実には、悲しみに遭遇すれば、特別な強者でなくとも大抵の人はどうにか耐え抜くものです。時の力が苦しみを和らげてくれることを経験上承知しているせいもあると思いますが、たとえ悲しみに打ちひしがれてしまう人がいたとしても、自ら悲しみを喜びに変えようと意志する人など私はこれまで見聞きしたことがありません。戦死者の場合だけ「嬉しい」という言葉が使われるわけです。国家意志と密接な関係があることは明白でしょう。佐藤氏がそのことにふれることなく、感情の変換を人の当然の行為のようにみなす姿勢は疑問です。でも、もし、「悲しみを喜びに変える」ことができたと想定したら、どうでしょう。信仰の問題は今は別にします。ここから文学が本当に生まれるのでしょうか。佐藤氏はどんな文学を思い描いてそういうのか、せめてイメージだけでも示してほしかったと思いますが、私はこの問題と文学との関連性は、「人が不自然な心理操作を行うのはなぜか」という動機の解明になら求められると思います。なぜ悲しいはずの時に嬉しいというのか、悲しみを喜びに変えようとするのはなぜか、社会的諸条件と起伏や襞をふくめた人の心の動きが鋭敏に洞察されることにより、原因の追求がしっかりなされること。それなしにここから文学が生まれる可能性を考えることはできません。佐藤氏が「文学を必要とする人々の内在的論理がつかめない」と批判する高橋氏の、事態を直視しているからこそと思える「悲しいのに嬉しいと言わないこと」という提言の方が、文学を必要とする人の内心の欲求に応えていると思うゆえんです。私は佐藤氏が宗教や文学を国家の機能と同列に並べて事を論じていることも大変疑問なのですが、俳句の実作者である○○さんは如何でしょうか。
                                                    2006年9月 



佐藤氏の上述の発言について、見過ごしにできない、してはならない重大な発言だという実感を珍しいことに私は当時つよく持っていた。その一方、批判が非難として受け取られることのないように、できるだけもの柔らかな書き方をするようにと、たった3、4枚のものではあったが、これでも書くのにずいぶん骨を折った記憶がある。誰に言われたわけでもないのに、佐藤氏を批判することはタブーであるらしいと私のような言論・出版界とは何ら関係のない一市民であっても皮膚感覚的に理解できたのだった。金光翔さんの「<佐藤優現象>批判」の文章の徹底性、現象の核心をついた内容は、ともに勇気の賜物でもあったと思う。
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2009.11.20 Fri l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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