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「埼玉愛犬家殺人事件」における風間博子さんへの判決文を検証してきたが、第一の事件であるKさん殺害については今回で一先ず検討作業を終えることにする。この間、Kさん殺害事件を検証して痛切に実感させられたことは、風間さんが関根氏の狡猾な企みによってKさんの車の置き捨てに関与する結果になったことは事実だが、殺人の共謀および実行に関する風間さんの無実はどのような方面・角度からみても疑問の余地なく明らかであるように見えるということである。この判決は、事実認定がいびつに歪められた上でなされていて、一目瞭然、不自然・不合理きわまりないと思える。事件全体を構成する一つひとつの出来事や人の行動が自ずと現わし、物語り、教えているものを、裁判所が強引に歪めてしまい、その結果驚くべき矛盾にみちた事実認定が引きだされている。このことは特別の偏見や思惑や意図をもつことなく素直に検証してみれば誰にでも分かることではないかと感じさせられている。風間さんが殺人に関与したという証拠は一つもない、そして無実を推認させる状況証拠・証言は無数に存在している。そう私の目には映るのだが、以下の出来事もその一つである。

4月20日深夜から翌日にかけてY氏とともにKさんの車を八重洲駐車場に収めた後、風間さんは佐谷田の車庫でY氏と別れ、4時40分頃自宅に戻った。

 Kさん殺害翌日の昼頃、風間さんはKさんの妻に関根氏の居場所を電話で問われ、関根氏の所在地、つまりY宅の住所と電話番号を教えている

その日、風間さんがペットショップに出勤したのは10時頃だったが、昼頃、Kさんの妻のN子さんから電話がかかってきた。N子さんは前夜夫が帰宅しないために眠れぬ夜を過ごし、翌日勤め先(Kさんの兄が経営している)に連絡を入れて夫が出勤していないことを知った。その他の心当たりにも連絡を入れたが夫はどこにも姿を見せていないことが明らかになり、N子さんは、このところ続いていた犬のキャンセル話によるもつれが、夫が帰宅しなかったことと関係があるのではないか、関根氏が何らかの関与をしているのではないかと疑い、ペットショップに電話をかけた。そして電話に出た風間さんに、「社長を出してちょうだい」と言ったところ、離婚の成立によって関根氏に替わり社長に就任していた風間さんは、「私が社長です」と答えた。N子さんは「それは偽装離婚でしょう。関根さんから聞いて知っていますよ」というようなことを述べ、風間さんはその時ようやく電話の相手がKさんの妻であることを認識した(二人は一度Kさんの犬が自宅から逃げ出した際に、その件で電話で話したことはあったが、顔を合わせたことはない)という。電話の主がKさんの妻であることを知った風間さんは、関根氏の居場所を尋ねられてすぐに片品のY氏宅の電話番号と住所を教えている。そこがY氏の家である旨と共に。第一審31回の公判(平成9年(97年)3月17日)で、その時の様子を尋ねられたN子さんは、次のように述べている。

「(ペットショップの)電話には、だれが出ましたか。

   「風間博子が出ました。」

証人は、風間博子に何と言いましたか。

   「社長を出してくれと言いました。」

風間博子は、それに対して何と言いましたか。

   「社長は私だと言いました。」

証人は、どうしましたか。

   「偽装離婚のことは知っている。とにかく関根の居所を教えてくれと頼んだところ、電話番号、関根のいるところの電話番号を教えてくれました。」

その電話番号というのは、どこでしたか。

   「S(Y氏のこと。以下同)の家でした。」

証人は、風間博子から聞いたSのうちに電話してみましたか。

   「電話しました。」

だれか出ましたか。
  
   「いえ、何度か電話しましたが、ファックス音のような音がするだけで、通じませんでした。」」


N子さんからかかってきた電話についての風間さんの証言は次のとおりである。

「平成5年4月21日の昼頃、ペットショップへN子さんから電話が架かって来ました。/初め「社長を出してくれ」と言われたので「私ですが」と返答しましたが、関根の居場所が知りたい旨、伝えてきたので、当時、関根が生活をしていた、群馬県の片品村、Y方の電話番号と、そこがY宅であることを教えました。/すぐに教えているので、通話時間は短いものでした。」(被告人控訴趣意書)

つづいて、前回の第31回公判の後の、第32回公判(平成9年(97年)4月24日)におけるN子さんのこの電話に関する証言を紹介する。

「社長を出してくれという証人の話に対して、風間被告人のほうは、社長は私ですというように。

   「言っていました。」

言われたわけですね。

   「はい。」

そのやりとりのあとに、どんな話に移ったんですか。社長を出してくれ、私が社長だというやり取り、ありましたね。
 
   「それを聞いたので、以前、偽装離婚のことを関根から聞いていたので、そのことを言いましたら、居場所、いるところの電話番号を、博子が教えてくれました。」

その偽装離婚のことを言ったということですけど、できるだけ思い出して、どういう言葉で、どういうようなお話、されましたか。

   「社長は、社長、いますかと言ったら、自分が、私が社長だと言うので、いえ、偽装離婚のことは関根のほうから、関根さんから聞いていますと、言いました。」(略)

そしたら、風間被告人は何と答えましたか。

   「いえ、すんなり、何も言うも、言わないも、はい、分かりましたと、もうすぐに電話番号、教えてくれました。」

そのときに、いや、偽装離婚ではなくて、ちゃんと離婚しちゃってるんだよ、だから、今、関根被告人はどこにいるか分からないというような話は、出ませんでしたか。

   「出ませんでした。」

偽装離婚に対する、まあ否認というか。

   「しませんでした。」

私は絶対、偽装離婚なんかしてませんというような反論は、なかったですか。

   「ないです。」

で、当初は、関根被告人の居所については、どういう言い方で風間被告人は答えてましたか。

   「ここにいると思うから、多分ここにいるからっていうことで、電話番号、教えてくれました。」

最初は、居所が分からないという言い方だったんでしょう。

   「そうです。」

その最初、居所が分からないという言い方だったという、その風間被告人のいった言葉を思い出せますか。はっきりと、どこにいるか分からないという言葉で言いましたか。

   「そうですね。最初の感じは、そうでしたね。」

分からない理由について、何か言ってましたか。

   「何も言いません。」

あなたのほうでは、どうも証言の前後から推測しますと、離婚しているから居所が分からない。

   「はい。」

だけども、あなたのほうは、関根被告人から、既に、偽装離婚だということを聞いていたんで。

   「はい。」

風間被告人がうそをついているんじゃないか。

   「はい。」

そういうような認識を持ったと。
 
   「はい。」

当時、そういうお気持ちでよろしいんですか。

   「そうですね、とにかく、社長は関根だと思っていたので、その一言で、社長は自分だと言ったので、それは、以前に聞いてるからということを確認する意味で言ったところ、もう、すぐに教えてくれました。電話番号を。」」

以上、電話に関するKさんの妻の法廷証言を幾分長めに引用したが、これには2つの理由がある。①まず、関根氏の行方を尋ねるN子さんに、風間さんは問われるままにその場ですんなりと関根氏が同居しているY氏宅の電話番号を教えていることの確認、②証言台でN子さんが口にしている「偽装離婚」という言葉がもつ意味についてよく検討する必要があると思われること。この2点のためである。

上記の①については、簡単明瞭に理解できることだ。もし風間さんがKさん殺害について関根氏と共謀を図っていたのなら、殺害翌日の昼12時頃、N子さんにY方の電話番号を教えることはありえないだろう。なぜなら、朝の4時半頃、アウディ放置を終えて佐谷田の車庫でY氏と別れたきりの風間さんは、片品のY方で遺体や遺品の解体遺棄がどの程度進行しているかを超能力者でもないかぎりその時点で知りうるはずがないからである。共謀していたのなら、この時点で殺害現場であるY宅を教えるという危険をおかすはずはない。仮に教えるとしたら、少なくともその前にY方に電話をして遺体の処置が終わっているかどうかを確かめてからでなければ教えられないはずである。このようにまず関根氏にN子さんから電話があったことを連絡する必要があるのだから、N子さんにはたとえば「30分ほど経ってからもう一度電話してください」とか、「後ほどこちらからかけ直します」などの発言があるはずで、そうでなければおかしい場面である。けれども、風間さんはそのような行動をとっていないし、またこのような状況に置かれたならば人が必ずおぼえるであろう躊躇や不安や焦りの気配もその言動からは感じられず、無防備である。これについて一審の弁護人は下記のように述べている。

「12時頃K・N子から店に電話がかかってきて、「社長いますか、社長を出してちょうだい」と言われ、被告人風間は自分がアフリカケンネルの社長であったことから、「私が社長です」と答えたところ、「とぼけないでよ」等のやりとりがあり、電話の主がKの妻のN子であることを知り、「関根は今、片品のSさんの家に住んでいるからそちらに連絡して下さい」と言って、片品のY方の電話番号を同女に教えた。/被告人風間がK殺害を共謀し、また知っていたら、片品の電話番号を教えるはずがないのである。」(『一審弁論要旨』p82~83)

弁護人の上記の主張に、一審の裁判所は何も答えなかった。これに対し、控訴審の被告・弁護人側はもちろん一審同様の主張を繰り返した。裁判所はようやくこの件に反応したが、その判示は以下のとおりである。

「風間は,Kが殺害された翌日の昼ころ,Kの所在を探していたKの妻から電話で関根の所在を聞かれた際,片品村のY方の電話番号を教えているが,このことは風間がK殺害を知らなかった証左である,というのである。/しかしながら,風聞がKの妻に関根の所在を教えたころには,既にKの死体の始末は終わっていたのみならず,K・N子の検察官に対する供述調書によれば,風間は,Kの妻からの問い合わせに対して,当初,関根とは離婚しておりどこにいるかも分からないなどととぼけたものの,偽装離婚だろうなどと言って追及されるに及んで片品村のY方の電話番号を教えたのであって,このことはむしろ風間が関根の所在を隠そうとしていたことになりこそすれ,K殺害を知らなかった証左となるものではない。」(『控訴審判決文』p29~30)

「風聞がKの妻に関根の所在を教えたころには,既にKの死体の始末は終わっていた」ことは裁判の進行過程において判明した事実なので、これならば子どもでも言える判示であろう。「既にKの死体の始末は終わっていた」と言うのなら、裁判官にはそのことをN子さんから電話がかかってきた時点でなぜ風間さんが知っていたかということについての説明が求められているはずである。その答がない。また裁判官は、「偽装離婚だろうなどと言って追及されるに及んで片品村のY方の電話番号を教えた」と認定しているが、なぜに法廷におけるN子さんの肉声による「偽装離婚」に関する証言を無視して、「K・N子の検察官に対する供述調書によれば」と、わざわざ検察官作成の古い調書を持ち出すのだろう。N子さんは、確かに当初、風間さんがすんなりと関根氏の電話番号を教えたのは、自身が「偽装離婚」の話を持ち出したからというように思い込んでいたような気配がある。というのも、風間さんも関根氏の共犯として「殺人罪」で逮捕・起訴されているのだから、N子さんにしてみれば、風間さんも夫殺しの片割れと思い込んでいたであろう。N子さんの立場からするとまったく無理のないことだと思われる。それでも、上述のN子さんの法廷における尋問内容を子細に見ていけば分かることだが、風間さんが関根氏の居場所と電話番号を教えたのは、「偽装離婚」と言って追及されたからではなく、「Kさんの妻だということが判ったから」という風間さんの供述は実態と合致して自然であり合理的であると思われる。

というのも、多くの第三者の法廷証言で明らかになったことだが、当時、関根氏は自分たちの離婚は偽装離婚だと誰かれとなく触れ回っていて、風間さんは関根氏のその行為をよく知っていたのだ。N子さんに偽装離婚だと言われたことは、何ら動揺するようなことではなかったはず(税務署に知られることを除けば)だが、それより何より、自分たちの離婚が偽装離婚であるかどうか、N子さんがそのことを知っているかどうかは、もし風間さんがKさん殺害を共謀していたのだとしたら、この時点ではなおいっそうどうでもいいことであり、蚊に刺されたほどの痛痒にも感じなかったはずである。昨日から自分たちが実行している殺人・被害者の遺体解体・焼却・遺棄などの重犯罪を終える前に、被害者家族に怪しまれ、警察に通報され、Y宅に踏み込まれたりしたら、それこそ身の破滅であることは誰にも分かることである。

よって、風間さんがN子さんにすんなり関根氏の居所と電話番号を教えたということは、この時点で風間さんがKさん殺害を知らなかったことの明白な証の一つであると考えられるが、さらに、関根氏とY氏の下記の供述も風間さんがKさん殺害に関与していないことの間接的な証明になっていると思われる。

 Kさんの肉親からの電話に関根氏とY氏は驚愕した

N子さんは風間さんから関根氏が滞在しているY宅の所在地と電話番号を伝えられると、すぐにそこに電話をかけた。その時は関根氏とY氏は遺体の骨片などの遺棄から戻っておらず(このことは裁判で明らかになったことである)、電話には誰もでなかった。ようやく電話が通じたのは、Kさんの安否を気遣ってKさん宅にやって来たKさんの弟と共に電話をかけた時で、電話にでたY氏と応対したのはその弟さんであった。この時の会話の内容について、Y氏および関根氏の供述を引用して見てみたい。まずY氏の供述調書から2点紹介する。

「自宅に戻り、犬の世話をしている時、Kさんの弟だと名乗る男から電話が入ったのです。このときの状況は二度あったという記憶を持っているのです。それは、最初の時、私が出て、アフリカ居るか という事であったので、その男に「アフリカは今散歩に行っている」と答えた覚えがあるからです。/その二度目の電話が入った時は、関根が犬の散歩から帰って来ていた時で、夕方ころの時間だったと思います。/最初に私が電話に出たところKさんの弟だと名乗る男から
  「兄貴を隠しているだろう。兄貴を出せ」
としつこく言われ、私としては、知らないとしか答えざるを得なかったので、「知らない」と返事すると、今度は
  「アフリカ 居るか」
と言うので、そばに居た関根に電話を替わったのです。/この時、私はKの身内は、私らがKさんをどうにかしただろうと疑いを持っている事が判り、心配となったのです。』(平成6年(94年)12月22日 員面調書)

「その間にKさんの弟さんという人から一回電話がかかって来ました。弟さんは、アフリカ居るか? と聞きましたので、私は関根の事だと思い、今散歩に行ってる、と答えました。/それから暫くしてまた、弟さんから電話がかかって来ました。弟さんは、Kを知ってるだろう、と聞きましたので、まさか殺されたとも言えず、知らない、どこに居るか判らない と嘘を言ってとぼけました。すると弟さんは アフリカを出せ、と言いました。この二回目の電話の前か途中か忘れましたが、関根が犬の散歩から帰って来たので、私は、今帰って来た、と言って、関根に電話を替わりました。/私は、やはりKさんが帰って来ないので、Kさんの兄弟らが行方を探しているんだと判りました。/電話の様子から関根を疑っているようなので、私は、殺して死体を処分した事がバレないか、心配になりました。」(平成7年(95年)1月20・21・22日 検面調書)

次に関根氏の供述調書から該当部分を引用する。

「そのころ、Sの家でKさんの弟という人がかけてきた電話に出たことがありました。/Sが最初に電話で話していたのですが、何か怒鳴り合いをしているような状態でした。/Sが話した後、Sから言われて私がその電話に出ました。相手の弟という人は、私に対して
   兄貴がどこにいるのか知らないか
という意味のことを聞いてきました。私は、本当は私がKさんの死体を解体し、捨てたりしていたのですが、そんなことを正直に言うわけにはいきませんので、知らない振りをして、知らない、と嘘を言いました。
問 その電話の際に、Kの弟だけではなく、Kの妻とも話していないか。
答 その電話と同じ時だったかどうかははっきりしませんが、確かに事件後間もないころ、Kの奥さんと電話で話したことがありました。話した内容は、弟の時と同じような内容だったと思います。
 私は、Sの家になぜKさんの弟が電話をしてきたのか分からず、なぜ私達がSの家にいるのが分かったのか、不思議に思うと共に、怖くなりました。/しかし、電話ではとぼけることしかできず、Kさんのことは知らないという嘘で通しました。」(平成7年(95年)1月25日 検面調書)

上記で分かるとおり、関根氏、Y氏ともに風間さんがKさんの妻であるN子さんに電話番号を教えたことはまったく知らず、勘づいてもいない。関根氏がY宅にいること、そしてY宅の電話番号、この2つをなぜKさんの家族が知っているのか、訳が分からずに気味悪がっていることは二人の供述から十二分にうかがえることである。風間さんはN子さんとの電話を終えた後もKさんの妻から電話がかかってきたこと、関根氏の所在を尋ねられてY宅の電話番号と住所を教えたことなど何ら関根氏に伝えていないのだ。その後N子さんはKさんの実弟とともにY宅に電話をかけ、関根・Y氏と話をしているが、その弟さんはこの時の会話の内容について法廷で証言をされているので見てみたい。

「Sのうちに電話をしたとき、だれが出ましたか。
  
   「Sが出ました。」

証人はまず、どんなことを言ったんですか。

   「……Kの弟ですって言いました。」

それに対して、Sは何と答えましたか。

   「はぁ?って。どちらの、さあっていうような感じで、とぼけてました。」

で、どういう話をしましたか。

   「それで私はもう一度、……Kの弟だっていうことを、明確に相手に伝えました。すると、やつは、どちらのKさんですかって、とぼけました。で、とぼけたので、私もかちんときまして、とぼけるんじゃない、なんでおまえ、お茶とか飲んだり、いろいろ遊び来たり、会ったりしてるのに、とぼけるんだと。とぼける必要、ないじゃないかと言いました。すると、やつが、なんだその言い方はって言ったので、その場で私も負けずにどなり、どなり合いになりました。すると、やつは、電話を一方的に切ってしまいましたので、私はすぐ折り返し電話しました。なんで電話を切るんだと。とにかく犬屋を出せっていうことで、私はSに言いました。すると、今、犬屋とは付き合ってないって言いました。付き合ってないわけないだろう、いいから、犬屋を出せと、私はしつこく何回も言いました。すると、犬屋は今、犬を散歩させてると言いました。散歩じゃない、そばにいるの、分かってんだ。犬屋に替われって、私は言いました。すると、そこにいるやつが、電話に出ました。私はそこにいるやつに、どなりかかろうとしたときに、やつは、私の話をちょっと聞いてください、お願いだから、私の話をちょっと聞いてくださいと言い、説明を始めました。」

今、そこにいるやつと言われたのが、関根被告人のことですか。

   「そうです。」

Sから関根被告人に、電話の相手が替わったということですか。

   「そうです。」

で、関根被告人が証人に対して、どういうことを言い始めたんですか。

   「私の話を聞いてください。ええっと、実はです、19日の日に、Kさんとはお茶を飲んで、楽しく円満解決して、お金を渡して別れたと。三人でソープランドも遊びに行ったようなことも、言ってました。」

で、そういう説明を始めたわけですか。

   「はい、そうです。」

それで、証人はどうしましたか。

   「それで、いろいろそういう話を聞くうちに、犬屋から650万だの、350万だのっていう、私が聞いたことのないような数字が出てきました。で、そんな数字は私は兄貴からは200万としか聞いてなかったので、650万だの、350万だのっていう話は、ちょっと分からなかったので、それじゃ女房に替わると言って、N子に替わりました。」(略)

で、結局、Kさんの居所については、関根披告人は知らないということだったんですか。

   「そうです。」

証人は、そのときの電話のやり取りで、そのことが本当だと思いましたか。

   「……ちょっと私が冷静に考えたときに、おかしいなと思いましたのは、私はそのときは、ちょっと興奮してて気がつかなかったんですが、最初に私が……Kの弟ですって言ったときに、まずSがとぼけたんですね。通常であれば、とぼける必要はないわけなんですね。それをまず、とぼけたっていうことが、すごく不自然でした。あとは犬屋が私に、いきなり説明をしてきました。だけど、私は大屋にもSにも、兄貴が帰って来てないってことは一言も言ってません。なのに、やつらは、こうやって、お茶を飲んで、お金を渡して別れたとか、ああだとか、こうだとかっていうことを、説明をしました。私はただ、……Kの弟だって電話をしただけで、それで相手がとぼけて言い合いになっただけで、兄貴が帰って来なかった、おまえらが、どっかへさらったんだろうとか、そういうようなことは一言も言ってないのに、それに対しての説明がべらべら、まるで台本を読んでるように返ってきました。それがすごく不自然で、そういう答えが返ってくるっていうことは、近々必ずそういう電話が入るんだっていうことを分かってたから、そういうような答えが返ってきたんだと思います。それじゃなければ、そういうような、とぼける必要もなければ、こっちがなんでかけてきたんだか、普通、通常であれば分からないから、そういう説明は来ないと思います。」

じゃ、その電話のときのやり取りで、証人はおかしいなと思われたんですか。

   「はい。」

で、その後、どうしましたか。

   「その後は、このままじゃ、しようがないので、警察に行こうということで、N子と一緒に、行田警察署に行きました。」」(第一審33回公判 平成9年(97年)5月8日)

 風間さんは関根氏の電話番号と所在地をN子さんに教えたことを関根氏に伝えていない

Kさんの家族からの電話を切った後、関根氏とY氏は熊谷に行き、ペットショップに立ち寄っている。関根氏からKさん殺害を知らされたのはその時で、夕方の6時頃だったと風間さんは供述している。

「被告人関根は被告人風間に対し、「夕べ持っていった車はKのだ。Kは車庫でSにやらせた。お前もKの車を運んだのだから、殺人の共犯だ、だからお前さえ黙っていれば大丈夫だ、一切何も言うな」と言って、両手でひもを引っ張るような動作をしたため、被告人風間は被告人関根とYがKを殺害したと思い、愕然とした。」(『一審弁論要旨』p83)

この時も、風間さんは昼間Kさんの妻のN子さんから電話がかかってきたこと、その際片品の電話番号および住所を教えたことを関根氏に伝えていない。風間さんはKさん殺害を知らされた衝撃に打ちのめされ、冷静に物事を考えられる精神状態ではなかったと控訴趣意書に記している。関根氏とY氏は、昼間、片品にかかってきたKさんの家族からの電話に薄気味悪い思いをしていたのだから、この時風間さんが電話番号のみならず所在地まで教えたことを知れば、Kさんの家族から電話がかかってきた事情も理解でき、今後の対策も立てられただろう。この後、わざわざ片品のY宅まで戻り、家の前で待ち受けているKさんの親族を見てあわててUターンするというような無駄足を踏むこともしないで済んだだろう。関根・Y氏の二人は昨夜から一睡もしないで動き回っているのである。風間さんがN子さんの電話について何の報告もしていないことは事件の構造を把握する上で決定的に重要なことと思われる。

 Kさんの兄弟等親族は深夜のY宅前で帰宅を待ち受けていた。

関根氏とY氏はKさんの家族からの電話をうけ、家族がなぜ自分たちの電話番号を知っているのかと不安に苛まれてはいたものの、住所まで知られているとは思いもよらなかった。したがって、ペットショップで風間さんと別れ、片品に戻った関根氏とY氏は、Kさんの兄弟ら親族が自宅の前で自分たちの帰りを待ちうけている様子を見て驚き、慌ててUターンして、その夜は自宅に戻らずホテルに宿泊している。以下にその模様を述べた調書を引用する。まずY氏の供述である。

「ベンツに関根を乗せて翌22日午前1時頃、片品の自宅付近まで帰って来ました。/すると家の手前50メートル位に一台の車が道路右側に止まっていました。シーマという車で熊谷ナンバーでした。/昼間の電話の件があったので、Kさんの関係者ではないかと思いました。私は関根に
  車は熊谷ナンバーだし Kの関係じゃないの?
と尋ねました。関根は、
  時間が時間だから避けよう。揉めたらまずいから
と言いました。それで私はその車の横を通って家の前を通り過ぎ、山道を抜けて国道120号線に入りました。/そして沼田インターチェンジから関越自動車道に乗りました。ところがKさんを殺してから二人とも寝ていなかったため眠くなってきました。それで本庄インターで降りて二人で近くのホテルに泊りました。」(平成7年(95年)1月20・21・22日 検面調書)

次に関根氏の平成7年(95年)1月25日の検面調書から抜粋する。

「Kさんの骨などを捨てた日は、私はSの車で一緒に万吉犬舎に行ったと思います。/そして、その日の夜、泊まるためにSの家にSの車で戻ろうとしたのですが、家の近くまで行ったところ、高級な乗用車が止まっており、Sがその車を見て
  Kの所の車だ 5人くらいいる
と言ったので、私達はSの家に帰るのをやめ、そこから逃げ出しました。
 Kさんの兄弟などが私達を疑ってここまで来たと思ったので、もめ事になり、乱暴をされるかもしれないと思ったので、会わないまま逃げ出したのです。/そして、その夜は、Sと一緒に本庄インターで降り、近くにある適当なモーテルに入って泊まりました。/Kさんの兄弟達がなぜ私やSを疑ったのかは分かりませんが、私とKさんとの間で犬のキャンセルの話でもめ事があったので、それで疑ったのだろうと思いました。/しかし、もうKさんの死体を処分した後でしたので、私達が口を割らなければ、ばれないと思っていました。」

上記の供述調書を見ると、風間さんがその日の昼、Kさんの妻からペットショップに電話がかかってきたこと、所在を訊かれて教えたことなどを関根氏とY氏に何も報告していないことが読み取れる。もしも共謀が存在したのなら、このように恬淡とした態度でいられたはずはない。犯罪――まして殺人という最も恐るべき犯罪をおかした人間の心理として、事件への疑いや追及への懸念ほど気がかりなものは他に何もないはずであろう。風間さんがKさんの妻の電話の件を関根氏に告げていないことは、Kさんの妻にあっさりと関根氏の居所と電話番号を教えたことと同様、風間さんがKさん殺害について関与どころか、何も知らなかったことの証拠ではないかと思われる。
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2009.12.28 Mon l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
共犯者のY氏がKさん殺害当夜にみせた行動にはいくつもの不可解さがつきまとっている。事件の真相に迫るためにはこれを見過ごすことはできないので、以下に不可解な点を4つ取り上げ、それが何を意味するかを個別に検討する。

� 車庫の近くに住む風間さんがアウディを待ち合わせ場所まで運ばなかったのはなぜ?

平成5年(93年)4月20日、Y氏は佐谷田の車庫で関根氏に脅迫され、これに抗しきれずにKさんの遺体を車庫から片品のY氏宅まで運んだという。家に着くと、関根氏は浴室で遺体の解体にかかり、Y氏は関根氏に命じられて車庫に置いたままになっているKさんの車アウディを東京に行って放置することを命じられた。その際、関根氏は、「Kの車を博子と一緒にどこかに捨てて来い。博子には事情を話してあるから。」と言われたとのことである。自宅を出た後のY氏の行動を、控訴審判決文から抜粋すると、

「Yは,アウディを置き捨てに行くために風間と落ち合うに際して,関越自動車道を東松山インターチェンジで下り,風間との待ち合わせ場所を通り過ぎた上,佐谷田の車庫でアウディに乗り換えて再び待ち合わせ場所に戻るという経路をとっている」(『控訴審判決文』p26)

上記のとおり、Y氏は、東松山インターチェンジ(以下「東松山IC」と記す)で車を下り、そこから公衆電話で風間さんに電話をかける。その際の会話は、何度も述べてきたことであるが、念のために記すと、次のようであった。

Y   「車を東京まで置きに行きたいんだけど行けるかい。社長から聞いている」
風間 「大丈夫だよ」

ということで、待ち合わせ場所にY氏は現在地の東松山ICから4.5km地点にある休憩所を指定した。ここは、風間さんの大原の自宅から約11kmの距離である。単純に位置関係を示すと[東松山IC→待ち合わせ場所→風間さんの自宅(車庫との距離3km)]というようになる。Y氏は、現在地の東松山ICと風間さんの自宅との間の地点を待ち合わせ場所に指定したわけである。東松山ICから車庫までの距離は15.5kmである。その車庫は風間さんの自宅から3kmの距離である。風間さんは電話を受けて約30分後に自宅を出て待ち合わせ場所に向かっている。Y氏は、東松山ICから4.5kmの待ち合わせ場所を通り越して車庫までの15.5kmを走った。そしてそこで愛車のミラージュからKさんのアウディに乗り換えると待ち合わせ場所までの11kmを引き返した。関係する各地点の距離を以下に示す。

○風間さんの自宅←→車庫  ○風間さんの自宅←→待ち合わせ場所
           (3km)               (11km)

○東松山IC←→待合せ場所 ○東松山IC←→車庫 ○車庫←→待合せ場所
       (4.5km)             (15.5km)       (11km)
 
二人が待ち合わせ場所に行くために通った経路を記すと、

○風間さん 大原の自宅→待ち合わせ場所 11km
○Y氏    東松山IC→待ち合わせ場所(4.5km)→車庫(11km)→待ち合わせ場所(11km) 計26.5km

Y氏はこの日すでに片道約2時間の熊谷・片品間を往復している。しかも熊谷から片品の自宅まで運転して帰ったのはつい先刻であり、それもY氏の供述によると、関根氏から「手伝わなかったらどうなるかわかっているな」と脅されての運転だったという。極度に緊張し、疲労もしていただろう。風間さんがKさん殺害を承知した上で自宅待機していたのなら、なぜ風間さんは自宅から3kmの佐谷田の車庫まで行き、そこでアウディに乗り換えて待ち合わせ場所まで行かなかったのだろうか。電話でY氏にその旨伝えればいいではないか。そもそも主犯であり共謀相手である関根氏はなぜ事前に風間さんおよびY氏にその指示をしなかったのだろう。風間さん自身も共謀の打ち合わせの際、なぜそんな単純かつ自然なことを思いつかなかったのだろう(そもそも殺人という大それた犯罪の後始末を従順に引き受ける人間が存在すると計画・準備の段階で考えることが異常であることは言うまでもない)。電話をかけたY氏にも同様のことが言える。車庫に寄ったからといって、風間さんの走行距離は自宅から直接待ち合わせ場所に向かった場合とほとんど変わらないのだし、そうすればY氏は26.5kmもの距離を走る必要はなく、たった4.5kmで済む。

Y氏は風間さんと一緒にKさんのアウディを東京の八重洲駐車場に放置して、その後風間さんの車で車庫まで送ってもらった後、自分の車であるミラージュを運転して自宅に帰るわけだが、その後、遺体や所持品の焼却、山林や川への遺骨類の放棄など、関根氏とともに一切睡眠をとることもなく動きつづけるのである。何事においても時間はできるだけ節約したかったはずで、当然、アウディ置き捨てに関しても心急いていたと思われる。また、犯罪者の常として、Kさんの車をいつまでも殺害現場である車庫に置きっぱなしにしていることに対する不安もあったと想像される。

もちろん、被告人・弁護人は、一審・二審ともに法廷でこの奇妙さを突いているが、それに対する裁判官の答えは下記のとおりである。

「(風間側は)Yは,アウディを置き捨てに行くために風間と落ち合うに際して,関越自動車道を東松山インターチェンジで下り,風間との待ち合わせ場所を通り過ぎた上,佐谷田の車庫でアウディに乗り換えて再び待ち合わせ場所に戻るという経路をとっているが,そのような迂遠な方法を取らずとも,風間が自宅に近い佐谷田の車庫に立ち寄って自らアウディに乗った上,待ち合わせ場所に行く方が合理的であるから,このことは関根とYがアウディを佐谷田の車庫から持ち出すことを風間に知られたくなかったことを示すものであり,ひいては風間はK殺害の共謀に加わっていなかったことを示すものである,というのである。/しかしながらYは関根に命じられてアウディを乗り捨てに行くために片品村からミラージュに乗って関越自動車道を南下し,アウディの置いてあった佐谷田の車庫にミラージュを置いてアウディに乗り換えた上,風間との待ち合わせ場所に向かったのであって,その行動は誠に自然なものである。風間の所論は,そのような方法も可能であるという以上に出るものではなく,理由がない。」(『控訴審判決文』p26~27)

この論理構成は、ここで検討した、金銭欲のために風間さんが殺害に関与していたというのなら、犯行当日に無駄になると分かりきっている高額な犬代金の振込手続きをするはずがない、という被告人側の主張に対する答えと同一のものである。一般に不自然・不合理な行動とされ、実際誰の目にもそのように映ると思われる行動が、裁判所にとっては、「誠に自然なもの」ということになるようである。それだから、被告・弁護人側の主張は「理由がない」ものであり、解釈する必要もないということなのであろう。こうしてどんなに合理的な主張も反論も、真摯な審議を付されることなく、裁判官の個人的・恣意的な判断ひとつで排除されていくことになる。なお、一審の裁判所は被告人側のこの主張に対して何も応答していないが、これも、犬代金の振込手続きの場合と同様であるように思われる。

� 事前共謀があったのなら、アウディ放置は風間さん一人で行なったほうが自然かつ合理的。Y氏が加わる必要はない

実はKさんのアウディの置き捨てについては、�の疑問はまだまだ序の口であり、もっと根本的な疑問がある。風間さんが「Kに返す金などない」と述べて殺害を主張し、関根氏と事前共謀していたのなら、なぜ風間さんが一人でアウディを捨てに行かなかったかという疑問である。実情を考察すると、車の放置に関してY氏を当てにする必要はまったくなかったのである。弁護人は次のように述べている。

「Kの殺害は4月20日午後7時ころには終了し、その後はKの乗車してきたアウディは佐谷田車庫内にあるのであり、いつでもこれを持ち出せる状況にあったことは明らかである。」(一審弁論要旨p426)

Y氏は7時頃、給油と買い物を終えて車庫に戻ると、いきなり関根氏からKさんの遺体を見せられ、次のように脅迫されたとのことである。

「関根は私に、『お前もこれと同じ様になりたいか。お前この死体を片付けるのを手伝え。そうすれば一生面倒を見てやる。そうしなければお前だけじゃなく東京に居る女房子供も同じようになる。 俺は一人じゃねえ。仲間は10人は日本に居るから必ずやる。』 と言って脅しました。/この時、私は関根に逆らえば本当に私だけでなく東京に居るS子や二人の子供も殺されると思いました。関根は付き合い始めてから、『おれは若い頃、秩父の祭りの時、ヤクザの親分を日本刀でぶった切って殺し、15年も懲役に行っていた男だ。』と言っていましたし、現に遠藤さんといったヤクザ者とも付き合いがありました。」(甲第478号証)

このようにY氏を脅す関根氏は手に凶器を持っている様子もないのが腑に落ちないところではあるのだが、このようにしてY氏を脅したとしても、それは街中の車庫でのことである。Y氏がKさんの遺体を見てショックをうけ、外に飛び出すなどの興奮した反応を示す懸念もあったはずである。殺害した被害者の車の置き捨てという、重大な犯罪の後始末に、必ずしもうまく協力させられるかどうか分からないY氏を当てにして計画を立てるのはどう考えてもおかしい。ともに綿密に計画を練った共謀相手である風間さんがアウディ放置をするのが自然であり合理的である。なぜそうしなかったのだろうか。風間さんは巧みな運転技術をもったベテラン・ドライバーだったそうだから、何もY氏を煩わす必要は皆無だったはずである。そもそも脅迫によって遺体の運搬を手伝わせ、なおかつ自宅を遺体解体場所にするよう強要したのならば、関根氏が家に着くや否や、「博子に電話して、一緒にアウディを捨てて来い」と言って、すぐにY氏を手放したのはなぜだろう。関根氏はY氏が警察に通報する危険は感じなかったのだろうか。それはまた風間さんにも言えることである。Y氏と同行するについて、警察に通報されるのではないかという心配の片鱗もないように見えるのだが、本当に不思議なことである。ということで、次の疑問である。

� 関根氏から離れて一人になったY氏はなぜ警察に駆け込まなかったのか?

Y氏が事件に対してどのような内容の、そしてどの程度の関与をしたのかを考察する場合、この疑問もまたとても重要である。つい4時間ほど前に、「(手伝わなければ)お前だけじゃなく東京に居る女房子供も同じようになる。 俺は一人じゃねえ。仲間は10人は日本に居る」と脅迫され否応なく手伝わされたというY氏であるが、しかしY氏はもう半年近く関根氏と終始行動を共にしていて、当時は同居もしていた。関根氏がいわゆる「ホラ吹き」であり、「仲間が10人もいる」というような話が本当であるはずがないことに気づかないことはありえないように思われる。もし事実そのとおり信じたとしても、それが警察に保護を求めることを躊躇する理由にはならないのではないだろうか。警察が今すぐに片品の自宅に踏み込めば、関根氏を現行犯逮捕できるのだ。「仲間の10人」が怖ければ、警察にその旨述べて、つよく保護を求めればよいのではないか。その点、Y氏は警察に遠慮するような気弱な人物ではないだろう。Y氏は取調べ段階において、検察が自分に約束していたはずの保釈申請を認めないことに苛立ち、

「検事に暴言を浴びせ、ふてくされた態度をとるようになり、検事の取調べ室のドアを蹴って「覚えてろ」などの捨てゼリフを言い、さらに保釈と調書への署名との取引を求めるなどしていた。/そして4月1日、保釈に関するやり取りからYは興奮し、署名したばかりの調書を取り上げ、 「保釈するつもりはないんだ、それならこの調書を破ってやる」などと言うという事態が発生し、M刑事の電話での説得により、Yの要求通りそれまでの調書のコピーを渡してようやく事をおさめるという一幕も生じたのである。」(『一審弁論要旨』p27~28)

ということであり、また公判廷でも、次のような様子であった。

「「覚えていません」を連発し、あるいは尋問者を馬鹿にしたように答え(たとえば第9回公判の冒頭ではローデシアン・リッジバックの特徴を聞かれ「足は4本あります。」と答え、第14回公判の終わりには弁護人に対して「聞く質問選んで聞けや、こらっ」と答えるなど)、(略)とりわけ実行行為に関連する部分では、一切答えよぅとせず、証言を拒否してY尋問は終わっている。」(『控訴趣意補充書(7)』p8)

このような人物が、関根氏から前述のような脅迫をされたからといって、もう関根氏の言うがままになるしか助かる途はないと一途に思いつめたりするだろうか? Kさん殺害に関してやましさがなければ、この時こそ自分および家族を守るために一目散に警察に駆け込むのが人間の心理としてごく自然であるように思われる。東京の家族の安否が心配なら、家族に電話をかけて落ち合う算段をし、その後に警察に連絡をいれてもいいだろう。いずれにしても、この夜のY氏の行動をみると、ひたすら関根氏を怖れ、その脅迫に屈して仕方なく事件に関与している人の態度では到底ないように思われるのである。

� 合流した時、風間さんが「どう、うまくいった?」と尋ねたというY証言は真実か?

Y氏は待ち合わせ場所で合流した際の風間さんの様子について下記のように述べている。

「午前1時ころ待ち合わせ場所に着き、先に来ていた風間の車(クレフ)の後ろに車を停めて近づくと、クレフの窓ガラスが開いて、風間が中から『うまくいった(か)。』と声を掛けてきた。風間が最初にこのようなことを言ったのは今でもはっきり覚えている。そして、風間は、『じゃあ、Sさん東京分かるでしょ。先に行ってよ。都内のどこでもよいから車を置いて来ようよ。『はい、これ高速料金よ。』と言って1万円札1枚を渡してくれた。」(『一審判決文』p252)

そして、検察官は、この「うまくいった」という発言こそは、風間さんの共謀の証左であると言い、判決文は一審、控訴審ともに、上記のY氏の供述を迫真的で自然で合理的であり、信用できるとしている。

「右のKの車を捨てに行った際の状況等についての供述内容を仔細に検討しても、その内容は極めて具体的で迫真性に富んでいるばかりでなく、何ら不自然不合理な点も存在しない。それどころか逆にYが述べている風間の当夜の異様とも思われる言動等の多くが真実であることは風間自身も認めているのであって(例えば、関根の指示で車を捨てに行くことになったYが深夜に風間方に電話を掛けたところ、風間自身が直ちに電話口に出て、その理由も聞かないまま深夜に外出してYと行動を共にすることを承諾して待ち合わせ場所を決め、そこで合流したこと、更にYが現実に東京まで遠征して深夜の駐車場に車を置き捨てるという異常かつその裏に何らかの重大な犯罪が起きていることを窺知させる行動に及んでいるのに、最後までその理由すら一切聞こうともしないまま行動を共にしていることなど)、これらからすれば、右の点に関するYの供述が極めて高い信用性を有していることは明らかである。」(『一審判決文』p269~270)

「Yの供述を一般的に信用してよいことは前記のとおりであるが,以上の供述内容について,風間自身が,Yからの電話連絡の際,理由も聞かないまま深夜に外出して行動を共にしたこと,東京まで車を置き捨てに行っているのにその理由を一切聞こうともしなかったことなど,核心的なところが真実であることを認めていることに照らしても,これを信用してよいことは原判決が説示するとおりである。」(『控訴審判決文』p19)

一・二審とも、判決文はこの「うまくいった」という発言自体について直接は触れていない。だが、双方ともにY氏のこの供述について「その内容は極めて具体的で迫真性に富んでいるばかりでなく、何ら不自然不合理な点も存在しない」、「これを信用してよいことは原判決が説示するとおりである」とのことだから、「うまくいった」という言葉を実際に風間さんが口にしたと認定しているものと思われる。

まず、風間さんの述べているところはこれとまったく異なる。風間さんはこの日の用件を単純に「車の移動」「車を駐車場に置きにいく」と思っていたと述べている。またこれは関根氏の用事であると考えていたことから、高速代金をY氏に渡したが、その金額は1万円ではなく、2千円だったとも述べている。Y氏の依頼をすぐに引き受けたのは、これまで何度も書いたことだが、前日関根氏から、「Sには世話になっているから、用事を頼まれたらできるだけ引き受けてくれ」と言われていたことが念頭にあったためであり、また深夜の外出については、犬のブリーダーである風間さんにとって、夜の11時頃というのは、子どもたちも眠りについた時間であり、このような用事のために動くにちょうどよい時間帯だったということである。これらのことは、格別、裁判所が述べるような「異常な行動」とは思われない。まして、一審の裁判所が述べるような「その裏に何らかの重大な犯罪が起きていることを窺知させる行動に及んでいるのに、最後までその理由すら一切聞こうともしないまま行動を共にしている」などという判示を見ると、むしろ裁判所のこの感覚のほうが特異ではないかと感じられる。

さて肝心の「うまくいった」という発言は事実かどうかである。もし風間さんが関根氏と共謀して殺人計画を立てていたのだとしたら、この時点でのY氏に対するこのような発言はありえないのではないだろうか。なぜならば、 まず「うまくいった?」とY氏に尋ねるということは、風間さんは事件がうまくいったか失敗したかをまだ知らなかったということを意味する。事実、関根氏が事件後、風間さんに連絡をとった証拠は一切ない。つまり連絡を取り合ってはいないのである(93年当時は携帯電話も一般には普及しておらず、連絡のとりようもなかった)。この日、風間さんは午前中、例の犬代金の送金手続きをし、午後は愛人のMR氏と一緒であった。とすると風間さんは関根氏と一緒に殺人の共謀をしておきながら、そして関根氏が今まさにその計画を実行中であることを承知しながら、その時間に関根氏には秘密の愛人と共に時間を過ごしていたというのだろうか?

また、Y氏は買い物から車庫に戻ったところで関根氏から突然Kさんの遺体を見せられ、散々脅されたということだが、風間さんは現場にいなかったのだからY氏が遺体運搬や解体のための自宅提供を引き受ける事態になったかどうかをこの時点ではまだ知らないはずである。なぜ、顔を合わせるなり、「うまくいった」という言葉がでたのだろう。これは事態に即すとありえない言葉のはずである。そしてまた、「脅されてやむなく」というY氏の供述が事実なら、主犯の片割れであるはずの風間さんは殺人に関与させられてショックを受けているに違いないY氏の精神状態が気がかりのはずであり、その顔色や様子に真剣な注意を払うはずだろう。先程述べたように、警察への通報の懸念だってあったはずであろうに、「うまくいった」という言葉にそのような気配を見てとることはできない。

それから、「クレフの窓ガラスが開いて、風間が中から『うまくいった(か)。』と声を掛けてきた」というこの光景からは、これまで犯罪にかかわったこともない女性が元夫と共謀して生まれて初めて殺人という重大犯罪に手を染めたという、そういう特異な立場にたっている人間ならば自ずと漂わせていないはずがない緊張や不安や恐怖や警戒心などの片鱗もうかがえない。殺人の結果どころか、まるで遊びごとや運動会の徒競走か何かの結果でも尋ねているかのような雰囲気である。思い出されるのは、一審の裁判所が判決文のなかで触れていた、「M事件」というものの存在のことである。この「M事件」なるものは現実には立件もされていないのだが、判決文はM氏と風間さんの関係についての第三者の証言を明確に180度歪曲してさもさも結婚直後の風間さんが関根氏と共謀してMなる人物を殺害したかのような暗示をしていた。顔を合わせるなり風間さんが「うまくいった」と述べたというY供述に対しての「その内容は極めて具体的で迫真性に富んでいるばかりでなく、何ら不自然不合理な点も存在しない」という判定を見ると、「M事件」へのあのような暗示も、Y氏のこういう供述の信憑性を高めるための布石ではなかったのかという疑念をおぼえるのである。
2009.12.22 Tue l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
去る12月16日に、1963年(昭和38年)に発生した「狭山事件」の再審開始の実現が期待できそうな下記のニュースが流れた。

「 昭和38年に埼玉県狭山市で女子高校生が殺害された「狭山事件」で、強盗殺人などの罪で無期懲役が確定し無実を訴える石川一雄さん(70)の第3次再審請求審の三者協議が16日、東京高裁であった。門野博裁判長は検察側に対し、警察の捜査メモや犯行時間帯の目撃証拠などの開示を勧告した。狭山事件の再審請求で証拠開示が勧告されたのは初めて。

 検察側が「存在しない」としている殺害現場の血液反応の検査報告書については、不存在についての合理的説明を求めた。石川さんの弁護団が明らかにした。

 弁護団は殺害現場の血液反応の検査報告書や、犯行時間帯の目撃証拠などの開示を求めていた。勧告に法的拘束力はないが、弁護団によると、検察側は再審請求での勧告にはほとんど従い、開示しているという。

 裁判をめぐっては、石川さんの捜査段階での犯行を認めた自白や被害者の家族に届いた脅迫状の筆跡鑑定などが有力な証拠となり有罪が確定したが、弁護団は信用性に疑問を呈した。今回、高裁が開示を求めた証拠は、石川さんの取り調べメモや、筆跡鑑定のために捜査段階で石川さんが書いた脅迫状と同内容の文書など。犯行時間帯に現場近くにいた男性が「石川さんや被害者を見ていない」と証言した調書も含まれる。

 殺害現場の被害者の血液反応の検査報告書については検察側が一貫して「存在しない」としてきた。しかし高裁は「存在しないというのはおかしい」と検察側に合理的説明を求めた。」(産経新聞)

石川一雄さんの長い間のご苦労には言葉のかけようがない思いがする。再審開始の確定が一日も早いことを願ってやまない。検察が「血液反応の検査報告書」がないというのなら、そのような最重要の書類がなぜなくなったのかの懇切な説明が求められるのは当然のことだ。「取調べメモ」や「筆跡鑑定書」や「目撃証言者の調書」など、検察は速やかな提示をしなければならない。これまで隠しとおしてださなかったのがおかしいのだ。今年発生後60年目を迎えた「松川事件」の場合も、同様の事情があった。列車転覆のための犯行計画・準備のための謀議がなされたとされる時間に、その謀議に出席していたはずの、そしてそのために一・二審ともに死刑を宣告されるはめになった佐藤一氏が、実はその時間には会社の団交に出席していたことが会社側の諏訪氏によってノートに記されていた。このいわゆる「諏訪メモ」が初めから法廷に出ていたならば、一審の段階で事件がでっち上げだということはもっと広く認知されていたはずなのだ。事実は、そのメモを一人の検察官が最高裁段階まで十数年もの間、後生大事にあちこちの転勤先に転々持ち歩いていたということであった。

実は、「埼玉愛犬家殺人事件」の風間博子さんの場合にも同様のことがある。検察は弁護人がどんなに催促しても捜査記録を法廷に提出しなかったり、あるいは風間さんの供述調書をそのうちのあるものは証拠請求し、あるものは請求しない(隠す)というように、すべて風間さんの不利になるような細工をしている。ただし、前述の「狭山事件」や「松川事件」などと事情が異なるのは、風間さんの場合は証拠の隠匿が判決に決定的な役割を果たしたとまでは言えないかもしれないということである。というのも、風間さんには殺害関与の物的証拠もなければ、自白もない。殺人の有罪の根拠とされたのは、関根・Y氏という共犯者の証言だけなのだ。それも、関根氏は警察の取調べの初期段階では風間さんの関与について何も述べてはいなかったのだが、その途中から風間さんを主犯とする供述を始めている。一方、Y氏は取り調べ段階では関根氏と共に風間さんをも事件の主犯としていたのだが、裁判が進むにつれ、(Y氏は関根・風間の両被告人とは分離の裁判であった。5年の実刑判決が下された)、風間さんの殺害関与を否定する証言を始めた。そしてその証言はその後一貫して変わっていない。つまり、風間さんの場合は何らの証拠もなく死刑判決をくだされているというのが実情ではないかと疑われるケースなのである。

このような事情で、狭山事件などとは同一に論じられない点はあるが、それでもなお、警察・検察の恣意的な証拠請求のし方が、風間さんの死刑確定の要因の一つであることは事実である。その点を下記に記しておきたい。

① Kさんが殺害された4月20日夜11時前、風間さんは自宅でY氏からの電話をうけた。これにより、Kさんの車であるアウディを放置のために東京(八重洲駐車場)まで運ぶことになったのだが、実はこの夜の二人の行動は偶然にも当日設置されていた警察の「Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置」により捕捉されていた。だが警察・検察はこのNシステムの内容を隠蔽し、一切の証拠提出を拒絶している。被告・弁護側の要請により、担当の警察官(幹部)が法廷に呼ばれた。しかしこの人物は「Nシステム」が二人の当夜の行動を捉えていることを認めながら、しかしその内容を、車が何時にどこを通過したかも含めて、「許可が下りないから言えない」と一切証言しないのである。報告書が現存するのかどうかもはっきりしない。しびれを切らした弁護人に「警察がNシステムを導入した目的は何か」と訊かれて、「主に犯罪捜査のためだと承知している」と述べながら、Y氏と風間さんの車輛の通過時刻を頑として明かさなかったのだ。待ち合わせ場所を出発した時間や途中三芳パーキングエリアに立ち寄ったのが往きだったか帰りだったかについてY氏と風間さんの証言内容が異なり、検察はY氏の証言を信用できると全面擁護し、風間さんを嘘つき呼ばわりして非難した。判決文もまた以下のようにこれに同調している。

「(風間は)自分達が三芳のパーキングエリアに寄ったことは事実だが、それは帰りではなく、行く途中のことである。」旨弁解し、そのことは自分が上りのパーキングエリア売店で饅頭と大きなどら焼きを二、三個ずつ買ったことからしても間違いないと断言し(60回公判)、更に検察官から最初にその点の確認を求められると、「大きいというのは、少しじやなくてとても大きくて、直径20センチメートル位もあったと思う。それはばら売りで二、三個買った。そして饅頭の方は二、三箱だった。」などと詳細な供述をしていたのである(62回公判)。ところが、その後検察官による補充立証により、風間の言う「大きなどら焼き」は当時の三芳の上りのパーキングエリア売店では販売されていなかった(逆に下りの同売店で販売されていた。)ことが法廷で明らかになると、その供述内容はたちまち曖昧になり、「大きいどら焼きを買ったと言ったのは、当時の取調警察官からそのように言われて、自分もいつの間にかそのように信じ込んでしまった。」などと趣旨不明の弁解をしつつ(64回公判)、下りではなく上りのパーキングエリアに立ち寄ったことをただひたすら強調するという態度に終始しているのであって、その供述内容は支離滅裂で、帰りにマット等を捨てるために下りのパーキングエリアに立ち寄ったと明確に述べる山崎供述と対比して全く信用できない。(一審判決文p263)

「どら焼き」は裁判官が判示しているように、確かに下りの売店で売られていたとのことである。だからこれは風間さんの供述の誤りであろう。この件につき、弁護人は、下記のように論述している。

「前述した様に、被告人風間は取調べの過程で虚偽の事実をあたかも真実であるかのように言われるなどして自白の強要を目的とする過酷な取調べを受けているのであって、このような取調べの過程の中で誤った認識が生じてきてしまったとしても何ら異とするに足りないことである。その立ち寄ったパーキングエリアで何を買ったかというささいな事項は、そうでなくても明確な記憶を持つことが困難であり、/検察官は、そのように記憶が混乱することはありえず、信用しえないと言うが、人間の記憶が思いこみやその他の理由によって比較的容易に他の記憶とすりかえられ、また存在していないことを存在していたように記憶が変容することがあることはよく知られていることであり、/検察官は、被告人風間が大きなどら焼きの大きさについて自らの手を使って約20センチの大きさを表現したことを指摘しているが、下りの三芳パーキン グエリアで販売されていた大きなどら焼きは13センチ程度のものであったのであるから、むしろこの点においても被告人風間の記憶が混乱してしまっていることを示しているものと言える。」(『一審弁論要旨-p291~292)

この「どら焼き」の判示には、一種のトリックのにおいが感じられる。「どら焼き」が下りのパーキングエリアでしか販売されていなかったのは事実のようだが、しかしここで風間さんは判決も明示していることだが、翌日会社でのおやつにするためにと饅頭を二、三箱買っているのだ。アウディを八重洲駐車場に置いての帰り、Y氏と車庫で別れる際、風間さんはそのうちの一箱をY氏に分け与えている。風間さんは、取調官に饅頭を買ったことを思い出して供述したが、「その他にも何か買わなかったか」と何度も何度も言われて、「どら焼き」をも買ったような気がしてきたと述べている。裁判官はしきりと「どら焼き」の件で風間さんを責めているが、これが理解できない。「どら焼き」を買ったことが、帰りではなく行きにパーキングエリアに立ち寄ったことの証拠になると誰にしろ思うはずはないのではなかろうか。また帰りではなく行きにパーキングエリアに立ち寄ったと供述したことについても同じことが言えるように思う。パーキングエリアへの立ち寄りが往復のどちらであるかに何かの意味があるとは普通誰も考えないだろう。どちらにせよ、風間さんは単に記憶のままに答えたに過ぎないだろうと考えたほうが自然であろう。風間さんは、「どら焼き」の件は確かに勘違いであったことを認めているが、しかし依然として、パーキングエリアに立ち寄ったのは行きだったという主張は変えていないのである。「嘘つき」呼ばわりするのなら、Nシステムの証拠を提示すれば万事が明らかになるはずである。それをしないところを見ると、通過時刻や行動についての二人の供述のうち、Nシステムの捕捉した客観的事実に合致しているのは、Y氏のものではなく風間さんのほうだったのではないかということが推測される。Nシステムに関する上述の警察官のこのような証言拒否の姿勢は、そのためなのではないだろうか。納税者の血と汗の結晶である大切な税金を遣って「犯罪捜査」を目的とするはずの「Nシステム」なるものを導入しておきながら、こうして肝心要の「犯罪捜査」に用立てることを拒否するのは、納税者への背理でもあるだろう。


② 一審の判決文は下記のように述べている。

「風間は、検査官の取調べの当初段階においては、関根から右のような指示を受けていたことはないと明言するとともに「Sにはいつも用事を頼んでいたのでその依頼を断る気にはならなかった。」などと述べていたのである(乙75)。」(『一審判決文』p262)

判決文のなかの「右のような指示」とは、Kさん殺害の前日、風間さんがペットショップにやってきた関根氏から言われていた

「S(Y氏のこと)から連絡が入ったらできるだけ動いてくれ
Sには俺の用事で色々動いてもらっているから」

という言葉のことである。関根氏からそのように言われていたので、殺害したKさんの車アウディを東京に放置に行くためにY氏が20日の夜間11時前に大原の自宅に電話をかけてきて

「車を東京まで置きに行きたいんだけど行けるかい
社長から聞いている」

と言ったとき、風間さんは、これは前日関根氏が述べていた用事の件だと考え、手伝うことにし、「大丈夫だよ」と答えている。

さて、判決文は、「風間は、検査官の取調べの当初段階においては、関根から右のような指示を受けていたことはないと明言」と、検察官の主張どおりの認定をしているが、これは完全に事実に反する。判決文の認定とは裏腹に、風間さんは取調段階から、公判廷とほぼ同様の供述をしている。検察官が当該の供述調書を出さなかっただけである。しかし、弁護人は、法廷で検察官により隠されていた供述調書を基にして次のように論述していたはずである。

「 検察官主張の虚偽性について
(1)言うまでもなく、検察官は前述の被告人風間の調書及び上申書の内容を全て把握し、さらに被告人風間がいついかなる時期に何故にそのような上申書並びに調書が作成されたかについての被告人風間の供述を全て当公判廷で聴取しているのである。/しかしながら、検察官はこともあろうにK事件のアウディ放置にまつわる事項に関し乙第七号証の問答形式の供述部分(平成7年1月20日付員面調書)を引用しつつ、以下の如き主張を展開しているのである。

「このように、被告人風間が捜査段階では被告人関根からの指示がなかったことを明確に供述していたにもかかわらず、公判において、不自然な供述をしてまで被告人関根からの事前の指示があったかの如き供述に変遷したのは、捜査段階での供述内容があまりにも不自然であることに気付き、何とかつじつまを合わせるため、苦し紛れに供述を変遷させたからに他ならない。山崎の供述にあるように、Kを殺した後、同人が乗ってきた車を処分するために、山崎が被告人風間と連絡を取ることを、被告人関根はあらかじめ被告人風間に伝えてあり、被告人風間もその目的を承知した上で、山崎の呼出しに応じたと見るのが自然かつ合理的であり、これを否定する被告人風間の供述は信用することができない。」

(2)しかしながら、前述した通り、被告人風間は、被告人関根に対する恐怖から、K事件について被告人関根が関与する部分は供述を行えなかったところ、ようやくこれを脱し、2月8日付上申書で、被告人関根が右アウディ放置に関与している部分及び事件後被告人関根からK殺害を告げられた部分の概要を述べ、さらに同僚である検察官が作成した二月17日付検面調書においてその詳細を供述しているのである。右調書等は弁護人に開示されているが、検察官は意図的にその証拠申請を怠っている。

2月8日付上申書の内容は、以下の通りである。

「Kさんは平成5年4月20頃、私達が使っている佐谷田の車庫で関根元とS(Y氏のこと。以下同)が殺してしまいました。私はこのKさんの車をSさんと都内の駐車場まで置きにいってます。私はKさんが殺される2~3日前に関根から『Sさんから連絡が入ったら出来るだけ動いてくれ、俺の用でいろいろと動いてもらっているから』と言われました。Kさんを殺したあとSさんは私に夜十時~十一時頃電話をよこし『車を東京までおきにいきたいんだけど行けるかい』と言われたので『大丈夫だよ』と返事をし、東松山インター近くで待ち合わせSさんの乗って来た黒っぽい乗用車のあとをつけて私は自分の車(クレフ)でついていきました。東松山インターから関越にのって東京方面に走っていき首都高より都内の駐車場に入りSさんは入ってすぐ右側の駐車場に入れました。そのあとSさんはクレフの助手席にすわりSさんの案内で帰り佐谷田車庫でSさんをおろしました。/そのSさんが乗っていた黒っぽい車は一~二日後の夕方関根元より店の奥でKの車だと聞かされました。Kは殺しちゃった。KはSがしめ殺したとか言って手でポーズをしたのでロープかひもか何かで首をしめてしまったのだと思いました。私は『どうして』『何で』と聞くと『Kとの犬のトラブルがあったとかKさんの兄弟の誰とかがヤクザ者でその入やまわりの人たちが金をかえせとかいろいろ言ってきてうるさくてどうしようもなくなってしまい殺してしまった』とかいろいろと話してくれましたが、あとは頭の中がボーとしてしまっていて何を聞かされたのかわかりませんでした。
今まで言えずにきてしまいすみませんでした。/たくさんの人たちに心配や迷惑をいっぱいかけてしまいました。」

2月17日付検面調書の該当部分の内容は以下の通りである。

「今日、拘留の最後の日に当たり、上申書を書いたときの私の気持ちを話してもらえないかということですので、私のお話しできる範囲内でお答えいたします。
私は、平成5年4月20日の翌日か翌々日には、関根から
「Kをやっちゃった
Sの家に運んで処分した」
と聞かされ、関根がKさんを殺したことをその時から知っていたのですが、刑事さんにはその事を話せませんでした。
しかし、今回逮捕されて、毎日のように取調べを受けていると、つくづくあの時、つまり、関根に打ち明けられた時に、刑事さんに正直に話しておけばこんな大事にはならないで済んだのにと考えるようになり、そのことを上申書に書いて刑事さんに提出した次第です。
私は、今でも関根と

とが、一緒になってKさんを殺したことは間違いないと思っております。/何故かと言えば、いくら大ぼら吹きの関根でも、人を殺したなどという大事なことで嘘は言わないと思いますし、その日の夜、私は、Sからの連絡で東京の駐車場まで車を置きに行っており、あの車がKさんの車だということも関根から言われましたので、状況的にもぴったりと合致するからです。
私は、関根とSがKを殺したという日の2、3日前、たぶん店の中だったと思いますが、

Sから連絡が入ったらできるだけ動いてくれ
俺の用事で色々動いてもらっているから

と言われてたのです。
私は、関根のその言葉を聞いて、普段からSさんには色々と用事を頼んでおりますし、関根がSさんに大事な用でも頼んでいてSさんから私に連絡があったらSさんの手伝いをするようにということだと思い、用事の中味までは確認しないでいたのです。/関根から、そのように言われた2、3日後で、夜半10時から11時位の間に、Sさんから私の自宅に電話があり、

車を東京まで置きに行きたいんだけど行けるかい
社長から聞いている

と言うので、私は、関根がSさんに頼んでいる用事のことだと考え、
大丈夫だよ
と答えて、Sさんが東京まで車を置きに行くのを手伝うことにしたのです。/東京まで車を置きに行った時の状況については、死体遺棄の事件の取調べを受けているとき話しているとおりですが、その中で、二つだけ嘘を言っておりました。/それは、Sさんの用事で車を東京に置きに行ったのだと話したことと、Sさんに高速料金を渡していないと話したことですが、東京まで車を置きに行ったのは、関根の用事で車を置きに行くことを最初から知っておりましたし、高速料金も私がSさんに2、000円渡しているのが本当のことであります。
私が関根から、関根とSの二人でKさんを殺したという話を打ち明けられたのは、私がSさんと一緒に東京まで車を置きに行った日の翌日か翌々日の日のことでした。/時間的には夕方でしたが、関根とSさんが、ペットショップの店に来て、Sさんは外におり、関根だけが店の奥の部屋に入って来ました。/その時、関根は私に対し、
Kは、Sがやっちゃった
と言って、両手を上に向けて握るようにして関いたのです。/私は、その関根のポーズを見て、KさんはSさんがロープか紐で絞め殺したんだなと思いました。/私は、関根のその言葉を聞いて、
なんで
と言って聞き返すと、関根は、Kさんとの犬のトラブルが元で、ヤクザ者まで差し向けて金を返せとか言ってうるさくてどうしようもないので、Kさんを殺してしまったという趣旨のことを言っておりましたが、関根の言葉は所々しか聞き取ることができませんでした。/それは、私がびっくりして頭の中がボーとした状態で、全ての言葉を正確に聞き取れなかったからであります。」

(3)右事実は、検察官が、捜査段階において、被告人風間が既に公判供述と同内容の供述をしていることを十二分に知っているにもかかわらず、前記上申書及び検面調書を証拠として提出せずに、これを隠し、あたかも公判段階において突然被告人風間が供述を変更したかのように装って、その旨主張し、嘘をついて裁判所をだまし、被告人風間の供述の信用性を損なおうとしているものにほかならないのである。/本件は死刑が求刑された極めて重大な事件である。/そして、被告人風間は無罪を主張し(ただし、遠藤・和久井事件の死体遺棄を除く)、 公判廷において極めて真摯な供述を行ってきた。/検察庁法第四条は「検察官は、刑事について、公訴を行い、裁判所に法の正当な適用を請求」することを定めている。/右の「裁判所に法の正当な適用を請求する」ことは、意図的に嘘をついて裁判所をだまし、被告人の供述の信用性を傷つけて、裁判所に供述内容を疑わせ、それによって被告人の死刑を求めるなどということが含まれることは絶対にありえない。」(『一審弁論要旨』p239~247)

このように、弁護人は風間さんの取調段階における「2月8日付上申書」および「2月17日付検面調書」を用いて詳細に検察官の嘘を暴き、風間さんが踏査段階から公判廷にいたるまで如何に一貫した供述をしているかについて詳述しているにもかかわらず、裁判官は、平然と、前に述べたことの繰り返しになるが、下記の判定をしているのである。

「風間は、検査官の取調べの当初段階においては、関根から右のような指示を受けていたことはないと明言するとともに「Sにはいつも用事を頼んでいたのでその依頼を断る気にはならなかった。」などと述べていたのである(乙75)。」(『一審判決文』p262)

検察官は被告人に有利な証拠を隠匿して虚偽の主張をし、裁判官はそのことを上記のとおり百も承知でいながら、素知らぬ顔をして検察官の主張を採用する。こうして裁判は事実の解明がなされることなく終了する。でもこれは実質上、裁判とは言えない、その名に値いしないだろう。このような行為をして罪を問われない職業が他にあるのだろうか? ここで挙げている事例は一件だけだが、この判決文には類似の事実認定が頻出している。
2009.12.19 Sat l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
12月15日、最高裁により「布川事件」の再審開始が決定された。「足利事件」の菅谷利和さんにつづいて今年2件目の再審確定のニュースである。菅谷さんに対しても同じ思いだが、杉山卓男さん、桜井昌司さんのこれまでのご苦労と粘り強い闘いに慰謝と敬意を表したい。これから、再審の場で捜査段階の取調べもふくめた徹底した洗い出しがなされ、事件の真相究明が着実に遂行されることを切に願う。

それと共に、「足利事件」の菅谷利和さんの再審決定の報道に接した時もそうだったが、今回も、なぜもっと早くこの決定がなされなかったのかというやるせなさ、憤りを禁じえない。「足利事件」「布川事件」ともに、裁判開始当初から、巷では冤罪疑惑の指摘や囁きがなされていた事件だったからだ。裁判関係者がそのことを知らないはずはなかったと思う。また、このようなニュースに接すると、確定した有罪判決に疑いのある事件が他にも多数あることを改めて思い出さないわけにはいかない。「狭山事件」や「袴田事件」などがその典型と思われるが、私は、本年6月に死刑が確定した風間博子さんの判決もその一つだと思う。

杉山さん、桜井さんの記者会見の模様をテレビで見たが、杉山さんは、「警察や検察が分かってくれなくても、裁判所なら分かってくれると思っていたが、6回も負けた。裁判官が一番許せない」と話されていた。風間さんに対する判決文を読み、法廷に提出された供述調書や証言などの多数の証拠を見て、私が最も不可解にも不審にも思ったのはやはり裁判官であった。裁判所は、被告人にしてみれば最後の頼みの綱であり、残された唯一の救済機関である。その裁判所が、繰るページ、繰るページ、驚き呆れるしかないほどの不自然かつ矛盾にみちた判定を示しつづけているのだった。私は法制にはまったく無縁の素人だが、それでもこの事件の一・二審の判決文を読み、法廷の証拠と見くらべてみれば、あれでは誰の目にもその矛盾はあまりにも明らか。どうごまかしようも隠しようもないだろうと思う。

これまでまだ書いていなかった取調べおよび判決の不審な点を2、3点、下記に述べてみる。事の性質上、すでに以前述べたことと重複する面もでてくるが、どうぞご容赦いただきたい。


① 聞き込み捜査の写真一覧表にY氏の写真がないのはなぜか?

「埼玉愛犬家殺人事件」が発生したのは、平成5年(93年)であった。3件の事件が相次いで起こされ、被害者も4名にものぼる、殺害方法もきわめて残忍な、重大事件であった。風間さんが殺人罪で起訴されたのは、4月20日、7月21日に発生した2事件に対してである。3事件のすべてに関わったとされる共犯者のY氏は、関根・風間の両氏が逮捕される平成7年(95年)1月5日のおよそ1ケ月ほど前から警察の事情聴取をうけていた。その供述に沿ってかどうかは不明だが、警察は写真をもって近所の薬局やガソリンスタンドなど近辺の聞き込み捜査を行っている。その写真の一覧表には、関根氏、風間さんはもちろんのこと、被害者やアフリカケンネルの従業員や知人などの顔写真が十数名分掲載されている。が、そこに共犯者のY氏の写真はないのである。この事件で逮捕されたのは、後にも先にも関根・風間・Yの三氏だけであり、事件当時Y氏は関根氏と終始行動を共にしていたにもかかわらず、である。実に不思議なことだが、これを、Y氏の写真を持ち歩いて聞き込みをした結果、第三者からY氏に不利な目撃証言がでることを警察はあらかじめ避けたのだと判断しても不公平の誹りをうけることはないのではなかろうか。それを偏見や不公平な観方だというのであれば、では聞き込み捜査資料の写真一覧表にY氏の写真がないことの理由として考えられることが他に存在するだろうか? 

そもそも警察・検察は逮捕後のY氏に接見禁止の措置も講じていないのである。風間さんは逮捕後すぐに、結局5年余もの間続くことになった接見禁止を付され、その間じゅう家族との面会どころか郵便物の送受も、読書さえも許されなかったという。一方、以前書いたことだが、Y氏は逮捕後も外部との面会も自由に行なえるなど警察・検察から腫れ物にさわるかのような特別な処遇をうけていたのである。一審での風間さんの弁護人は、次のように述べている。

「殺人・死体損壊・遺棄事件、それも4名もの犠牲者が出ている重大事件において、それが共犯事件であれば接見禁止が付せちれるのが常識である。/とりわけ、本件の如く物証が少なく、一年余も経過し、さらに共謀関係、事件への関与の関係の捜査のために共犯者に接見禁止が付せられるのは、常識というよりも絶対に必要なことであると言わなければならない。/なぜなら、これらを解明するためには、共犯者各人と共犯者以外の関係者を取調べることにより、証拠物の発見や、犯行に関連する会話等がなされているか否かが判明し、右共犯者各自の関与についての客観的な証拠が収集されることになるからである。/このような場合、自由な接見が許されれば、これらの証拠の発見が不可能となるおそれがあるからである。/然るに、山崎には一切接見禁止は付せられなかった。まさにこれは捜査当局と山崎との間において取引と約束がなされていたことの証左であると共に約束の実現に他ならない。」(『一審弁論要旨』p26)

これに対して、裁判所は、

「Yは、浦和地裁で聞かれた自らの各死体損壊遺棄被告事件の公判において、起訴事実を全面的に認め、捜査段階の供述と同趣旨の供述を繰り返す一方で、「I検事には証拠さえ出してくれれば何でも言うことを聞いてやると言われていた。」などと、同検察官との間で取引又は密約があったかのような供述をなし、また当裁判所に証人として出廷した際にも、右のような取引があったことをひたすら強調するような供述をする一方で、検察官等に対して極度に挑発的な態度を取るとともに、検察官及び弁護人らから事件に直接関係する事項について質問を受けると、「忘れた。」、「覚えていない。」などと実質的に殆ど証言拒否に近い態度を取り続けた。/右に見たように、捜査段階でY供述が得られたことについては複雑な経緯があり、またY自身は本件についで詳細な告白をなしたことに対するいわば見返りとして捜査当局から様々な恩典を与えてもらいたいという思惑を抱き、妻の保釈、自己の保釈等を要求し、自己の保釈が容れられないと見るや、取調検察官に対して反抗的な態度を取ったり暴言を吐いたり、果ては取調べに応じることを拒否しようとするなど、功利的で厚かましい言動に出ていたのである。」(『一審判決文』p167)

と「捜査段階でY供述が得られたことについては複雑な経緯があり」と、Y氏の供述に関して、Y氏と検察との間に「司法取引」とも疑われかねない不公正な経緯があったことは暗に認めているようでもある。ところが、そのことが供述内容とどのような関連をもっているかについては、一切判断を示さず、下記のような頓珍漢ともいいえるような論理を展開している。

「しかし、その一方で、山崎は、検察官に説得されたりして結局取調べには応じており、またその本件各犯行についての供述内容自体は、任意出頭して供述を始めた当初から本人自身の裁判という最終的段階に至るまで終始変わっておらず、当裁判所に証人として出廷し、傲岸不遜極まりない態度で証言した際でさえ、自己の本件各犯行についてのこれまでの供述が虚偽であったなどとは遂に述べることがなかったのである。」(『一審判決文』p168)

上記の「これまでの供述が虚偽であったなどとは遂に述べることがなかったのである」という判示は、以前にも述べたことだが、実にナンセンスだと思う。Y氏が片品村の自宅を遺体解剖の場所に提供し、遺体焼却や遺棄に関わったことは証拠上明らかにされた客観的事実であり、「これまでの供述が虚偽であった」と述べることは、即ちY氏の罪は死体遺棄にとどまらず、殺害にまで関与したという事件へのより重大な罪責を示唆することにしかならないのではないだろうか。そのことは事件の推移・経過から見て明らかであろう。Y氏の身になってみれば「虚偽であったなどとは遂に述べることがなかった」のは当然のことだと思われる。


② 裁判官は、Y氏の供述には多くの「秘密の暴露」がある。だからY氏の供述は他の供述もふくめて基本的に信用できると認定しているが、この論理は奇妙ではないだろうか。裁判官は下記のように記している。

「ところで、右Y供述の信用性を判断するに当たって、最も注目されるべきことは、Y供述中には捜査官の知らなかった多数のしかも極めて重要な事項が含まれており、しかもそれがその後の裏付け捜査の進展に伴っていずれも真実であることが判明するに至っているということである。」

では、Y氏の供述にどのような重要な事項が含まれているのかについて、判決文は次の事例をあげている。

「Y供述によって、4名の被害者が各判示の日時ころに殺害された上、その死体はいずれも片品村のY方に運び込まれ、切り刻まれて完全に解体され焼却されて投棄されたことが初めて判明し、被告人両名においても後にこの事実自体は完全に認めるに至っているのである」(『一審判決文』p168)

おかしな判定である。Y氏宅で遺体の焼却・解体・投機されたことをY氏が認めたことは、関根氏が確かに殺人事件を起こし、これにY氏が関与したことが明らかになったということであり、「秘密の暴露」といいうる性質のことではないだろう。ましてこのことが風間さんの関与を示唆していることになるはずがない。「被告人両名においても後にこの事実自体は完全に認めるに至っている」にいたっては、明らかな虚偽である。「被告人両名」「被告人ら」という言葉の頻出はこの判決文の一大特色であるが、この事実は関根氏の行動に根拠を示すことなく風間さんを結びつけ、風間さんにその罪を押しつけるという不公正な役割を果たしている。そしてこの判示はその典型例だと思われる。なぜなら風間さんがKさんの殺害現場にいなかったことは証拠上明白であり、また4人目の被害者であるSさん殺害事件においては風間さんは起訴もされていないのだから、この殺害の事情も風間さんが知るはずがない。したがって、4名の被害者の焼却・解体・投機を認めるはずがないし、現に認めていない。さらに、裁判官はY氏が事件解明に果たした重要な役割を「秘密の暴露」として次のように認定する。

「Yが警察の実施した引き当たり捜査に同行して各被害者の骨や所持品等を焼却した灰を捨てたとして指示した場所(山の中や川の中)から、その供述に沿う焼けた骨片、歯牙片、時計の部品等、多数の遺留品が発見されており、しかもそれらについて詳細な鑑定等を経た結果、これらの遺留品の多くが各被害者の殺害あるいは損壊遺棄を裏付けるに足りる重要な証拠であることが判明するに至っているのである。」(『一審判決文』p170)

Y氏の自宅で遺体が解体され、その後関根氏とY氏が焼却・放棄に携わったのだから、Y氏が放棄場所を供述すれば当然指定された場所から「焼けた骨片、歯牙片、時計の部品等、多数の遺留品が発見され」るはずである。何ら不思議なことではないはずである。裁判官はこれも「秘密の暴露」と言いたいようであるが、不可解である。警察・検察がY氏に接見禁止措置も付さず、

「I検事は、接見施設のない検察庁内の部屋においてYがK子とS子に面会することを許し、むしろ自ら接見するか否かをYに尋ね、これを許しているのである。/また、検事は、YにK子への電話をすることを許し、さらにS子とYを会わせたときは調べ室で会わせ、検事自らと事務官は退席までしているのである。」(『一審弁論要旨』p27)

とのことだから、裁判官は、検察のY氏に対する異例の便宜供与、優遇措置とY氏の「各被害者の殺害あるいは損壊遺棄を裏付けるに足りる重要な証拠であることが判明するに至っ」たY氏の供述との関連性についての判断を示すべきではないのだろうか。「一般に検察庁においては、弁護人ですら接見施設のないことを理由に接見を拒否される」(p27)と弁護人は述べているが、なぜY氏は捜査当局からこれほどの優遇措置を受けるにいたったのだろうか。Y氏の供述どおりに「焼けた骨片、歯牙片、時計の部品等、多数の遺留品が発見され」た事情にはいろいろと疑わしいことが沢山ある。弁護人は

「Yは1月下句ころから、約束されていた筈の保釈申請が認められないために、いら立ち、検事に暴言を浴びせ、ふてくされた態度をとるようになり、検事の取調べ室のドアを蹴って「覚えてろ」などの捨てゼリフを言い、さらに保釈と調書への署名との取引を求めるなどしていた。/そして4月1日、保釈に関するやり取りから山崎は興奮し、署名したばかりの調書を取り上げ、 「保釈するつもりはないんだ、それならこの調書を破ってやる」などと言うという事態が発生し、M刑事の電話での説得により、Yの要求通りそれまでの調書のコピーを渡してようやく事をおさめるという一幕も生じたのである。」(『一審弁論要旨』p27)

と述べているのである。したがって、Y氏の供述によって「焼けた骨片、歯牙片、時計の部品等、多数の遺留品が発見され」たことは「秘密の暴露」であり、このような暴露を行なったY氏の供述はその他の供述も基本的にすべて信用できるという、裁判官が示唆するこの論拠はまったく筋が通っていない、あるいは完全に的を外しているのではないだろうか。また、捜査段階で風間さんの殺害関与を供述していたY氏は、その後その供述を一転、翻して、風間さんの殺害関与を否定した。そして以後その証言内容を変えていないのである。控訴審で証人として出廷したY氏は、風間さんについて「人を殺していない」「早く保釈されるべきである」と述べている。風間さんは、2件目の事件であるE氏、W氏の事件におけるW氏の殺害について、風間さんが運転している車内で関根氏とY氏がW氏の頸に巻き付けた紐を両方から引っ張り合って殺害した、と明白にY氏の殺害行為を証言しているにもかかわらず、Y氏は風間さんの無実を証言しているのである。この事実に関する判断も裁判官はまったく示していない。
2009.12.16 Wed l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (2) トラックバック (0) l top
先日、辺見庸の「単独発言 私はブッシュの敵である」(角川文庫2003年)を読んでいたら、米国のイラク爆撃直後のインタビュー取材で辺見さんが次の発言をしているのが目にとまった。

「ラムズフェルド国防長官はたいへんな詭弁家です。大量破壊兵器保持の証拠がないとされると、「証拠の不在は不存在の証拠ではない」といってのけたのですから。これではまるで中世の戦争の論理です。イラク側が国連の査察国にどれほど歩み寄ろうとも、米国はもともと戦争のみを構えていました。イラクに対する全面的武力行使は米国にとって9.11以前から既決事項だったのです。」(p66)

「単独発言」を久しぶりに本棚から取りだしてきたのは、まだ病に倒れる前、辺見さんがやはりどこかの取材をうけていて、そのインタビュアーとの間で1997年に「日米ガイドラン」が国会を通った時に小沢一郎がこの法律について「あれは戦争法だ」と述べたということについての会話がかわされているのを読んだことがあり、その箇所をもう一度見てみたかったからだ。おぼろげな記憶では、特にこの政治家の資質に踏み込んだ話が交わされていたわけではなかったと思うが、ただ小沢一郎がこの法律の核心をつかむ先見の明をもっていたという認識はその場で共有されていたようでもあった。大きな力を持っているらしい小沢一郎という人がどんな政治思想をもった人物なのかこのところ有権者としてはちょっと気になったりするので、一応その事実関係を確かめておこうと思ったのだった。でも、その話が掲載されていたのは見当をつけていたこの本ではなかったようで、見つけられなかったのだが、代わりに発見したのが上述のラムズフェルドの発言だった。そう言われてみれば、確かにこんな発言があったことを思いだす。当時、ブッシュとラムズフェルド、二人揃ってとても正気の沙汰とは思えない不気味な発言を繰り返していたので、私の頭のなかではラムズフェルドとブッシュの発言とがごっちゃになってしまっていた。しかし、イラク攻撃直前にラムズフェルド元国防長官が述べたというこの「証拠の不在は不存在の証拠ではない」という発言をこの本で見たとき、私はとっさにこちらで検討した「埼玉愛犬家殺人事件」における風間博子さんへの控訴審判決文の次の箇所

「風間は,K事件の当日に,KWの依頼に基づいて高額の犬の購入代金を送っているが,関根との間にKを殺害する事前共謀があったのであれば,K用に注文していた犬をKWに回せば足りる道理であって,KW用の犬の代金を送るような無駄になることをするはずがない。したがって,この事実は風間が関根と事前に共謀していなかったことの証左である,というのである。/しかしながら,その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない。同じ理屈が当てはまる関根が現にK殺害を実行しているのである。所論は理由がない。」(『控訴審判決文』p29)

のなかの「しかしながら、その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない」という一節を思い浮かべ、このラムズフェルド発言に重ね合わせていた。戦争と裁判という別々の場所での発言ではあるが、ラムズフェルドと「埼玉愛犬家殺人事件」の控訴審裁判官、二人が用いている論理はどこかひどく似ていないだろうか。私は両者に底ぶかい共通点を感じたのだった。辺見さんの「これではまるで中世の戦争の論理です。」という発言にもピタリ感じるものがあった。このうちの「中世の戦争の論理」を「中世の裁判の論理」と言い替えれば、「埼玉愛犬家殺人事件」をもそのまま言い表わすことができるかも知れない。今日はこの点を少し検討してみたい。

辺見さんは、上記のラムズフェルドの発言を引用した後、下記のように述べている。

「フセインが大統領宮殿の査察まで受け入れるという、屈辱的な国連の要請に応じたのは、本音としては「命ごい」だったのです。そしてそれ以上に避けて欲しいと思っていたのはイラクの民衆なのです。」

1991年から98年まで7年間も国連大量破壊兵器廃棄特別委の査察官を務めた米国のスコット・リター氏は、米国がイラク攻撃に突入する前から、

「(イラクの)調査は完璧に近く、国連の対イラク兵器削減プログラムは成功を収め、90%から95%の兵器が廃棄された。特に核兵器の開発に関連する施設は完全に破壊され、その後も再建されていない。イラクはすでに軍事的脅威ではなくなった」

と証言していた。イラク攻撃が敢行された後、事実はリター氏の証言どおりだったことが証明されたのだから、「証拠の不在は不存在の証拠ではない」というラムズフェルド発言は、「イラクに大量破壊兵器があろうがなかろうが、イラク侵攻という米国の方針に変わりはない。大量兵器云々は、イラク攻撃のための口実に過ぎない」という意味に他ならなかったということになる。これが論理として通用するのなら、通らないものは何もないことになるだろう。辺見さんが「これではまるで中世の戦争の論理です」というのはとても的確な批評だと思う。

一方、浦和地裁の風間博子さんへの死刑判決を支持し、被告人の控訴を棄却した控訴審裁判官の「しかしながら、その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない」という言い分はどうであろうか。まず、判決文のいう「その主張」が何であるかということから説明すると、まずは一審の検察官が最初の殺人事件であるKさん殺害に風間さんが関与したと主張し、その動機について次のような説明をしたことに端を発する。

「当時アフリカケンネルの資産が著しくひっ迫し、右代金返還に窮する状態であった/同人(管理人注:被害者のKさん)がローデシアンの購入をキャンセルしてその代金を返還するよう要求したことに対する拒絶にあり、(略)被告人風間には、自己の財産に対する執着心が強くあって、主に被告人風間が大きな利害関係を持っていることからしても、被告人風間がK殺害を言い出してその共謀のきっかけを作ったとみるのが自然かつ合理的で、被告人関根のこの点に関する右供述の信用性は極めて高い。(『一審論告』p130、132)

上記のように、検察官の主張は、①アフリカケンネルの経営状況が悪化し、風間さんは資金繰りに苦慮していた、②風間さんは金銭や財産に対するつよい執着心の持ち主であった。これにより、関根氏から打診されたKさんへのキャンセル料返還の話を拒絶し、代わりに率先して殺害を提示し、その結果、Kさん殺害が計画・実行されたというものであった。これに対し、一審弁護人は、では異様なほどに金銭への執着心がつよい風間さんがKさん殺害当日、別の人物からの注文であるローデシアン犬の購入代金を海外送金したのはなぜか?と反論した。この犬もKさんの犬と同種のローデシアンであり、しかも同じくオスなのだ。今夜、Kさんを殺してしまえば、すでに日本に到着してただ今検疫中であるKさんのオス犬は引き取り手がなくなる。風間さんの立場にたてば、飼い主を殺すことにより行き場のなくなることが分かりきっているその犬をそのまま新たな注文主に渡すことにすれば万事願ったり叶ったりではないか。それでこそ殺人まで提案し、決意してお金を惜しんだ甲斐があったというものであろう。「Kに返す金などない」「殺るしかない」と殺人を提示するような人物が、どうして、溝に捨てるも同然になるしかない高額の輸入手続きをするだろうか。送金額は、100万円をはるかに超えているのだ。この件について、弁護人は次のように述べている

「平成5年4月20日付の送金分はKWが注文したバードの代金である。/ところで、犬の繁殖のためにはオス、メスのつがいが必要であるところ、メスは何頭手元にいても子を産むので価値があるが、オスは犬舎に複数頭いても売却しない限り、餌代がかかるだけであって、繁殖業者にとってはマイナスであることは常識である。/ところでKが注文したオス(トレッカー)の代金は既に平成5年3月25日に送金済みであり、平成5年4月20日にKを殺害することを事前に共謀していたとすれば、右トレッカーの引き取り手はなく、万吉犬舎にはローデシアンのオス二頭(グローバー、トレッカー)が残ることとなる。/検察官の主張によれば、被告人風間は金に執着心が強く、金銭に細かい人間ということである。/そうした性格の被告人風間が事前にK殺害を共謀、しかも殺人動機が「金への強い執着心」であったとすれば、トレッカーをKWに渡せば済むことであり、K殺害当日の平成5年4月20日にKWが注文したバードの犬代金をわざわざ送金することはあり得ないと言える。/この事実からも被告人風間はK殺害について事前共謀がなかったことを物語っている。」(『一審弁論要旨』p78)

検察官と弁護人、上述したそれぞれの主張に対し、浦和地裁は検察官の主張どおり風間さんの殺害関与を認定した。ケンネルの資金が逼迫していたという、完全に事実に反する認定を検察官の主張どおりに認定し、風間さんが「返す金などない」としてKさん殺害を提示したという検察官主張も次のように全面的に認めた。

「関根としても、Kに右のような返済案を提示したことは、その直後に風間に当然伝えたであろうし、これに対する対処策も、右返済案が数日間という短い日限を切ったものであったことからして、当然直ちに話し合ったと考えられるのである。しかるところ、関根はその後まもなく売買代金の返還に藉口して川崎を誘き出して同人を殺害するに至っているのであって、このことは、風間が右のような犬の代金返還という形で解決を図ることに強く反対したことを示唆しているのであり、「風間に相談したが、(川崎に)返す金などないと言われた。」とする関根供述は、その限りにおいては十分信用できる」(『一審判決文』p191)

上の判決文において裁判官が展開している論法はまったく粗雑で乱暴きわまりないものに思われる。“関根がKに返済案を提案したことは当然風間に伝えたであろう。そしてただちに話し合ったであろう。しかるに間もなく関根がK殺害を実行しているところをみると、風間が返済に反対し、「返す金などない」と述べたという関根供述は、信用できる”、というのだ。一体、こんな没論理的な事実認定があるだろうか。「事実の認定は証拠による」としっかり刑事訴訟法で定められているのではないのだろうか。この判決文のどこに証拠の一片でも見られるだろうか。証拠どころか、筋道の通った推論の形跡さえない。しかも、この文を読んでくださる方はよく見ていただきたいのだが、裁判所は、風間さんが「Kに返す金などない」「殺るしかない」と主張したという関根供述は信用できる、と認定しながら、また、アフリカケンネルが資金繰りに困窮していたとも言いながら、なぜ殺害当日に高額の犬購入代を送金したかについては一言も触れていないのである。ここから推測できることは、資金繰りの困窮といい、財産・金銭へのつよい執着心といい、裁判所はいずれにしろ風間さんの殺害動機を金銭の出し惜しみと認定しているのだから、このあからさまな矛盾の露呈をみると、おそらくこの動機を認定したのも、他の動機を見つけだそうにも見つけだせなかったからではないかということが疑われる。そうである以上、この認定にとってより大きな決定的な矛盾――自家撞着におちいるしかない送金手続きに触れることは何としてもできなかったのだと思われる。しかしこのような不公正な手続きと判断の下で死刑判決がくだされているという事実は本当に驚くべきことであり、決して見逃すわけにはいかないことである。

さて一審の死刑判決を受けて、控訴審においても被告人・弁護人側は、当然、引き続きこのローデシアンの輸入代金送金の件を殺人共謀不在の根拠としてつよく主張した。その主張に対する裁判所の答えが、先に述べた

「しかしながら、その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない。同じ理屈が当てはまる関根が現にK殺害を実行しているのである。所論は理由がない。」

というものだったのである。この裁判所は自ら、一審の死刑判決を支持する最大の理由として、「関根と風間が共同経営していたアフリカケンネルの経済状態が悪化していた」(『控訴審判決文』p21)というように、金銭的困窮がKさん殺害の原因であると認定しておきながら、平然とこのようなことを言うのである。私はこれは悪質な詭弁である、被告人・弁護人は当然のことながら、その他の法曹関係者や判決文を読む者のすべてに対して最低限の誠意をも欠いた、救いの余地のない呆れはてた詭弁ではないかと思う。

当時関根氏と風間さんは離婚し、別居していた。関根氏は共犯者のY氏の自宅でY氏と同居していたのである。Y氏の証言によると、犬に関する問い合わせ電話や注文もその家で受けたりもしていたらしい。また風間さんと関根氏は夫婦であり、アフリカケンネルを「共同経営」をしていたには違いないが、勤務場所はずっと別であった。関根氏は犬舎で、風間さんは終日ペットショップで仕事をしており、同じ場所で一緒に働いていたわけではないのである。犬舎の従業員やY氏などの第三者が、関根氏が犬の売上代金の中から好きなように一部を抜き、残額を風間さんに売上代金として渡していた、ごまかしていたと証言していることも、裁判官は法廷でちゃんと聴いているはずである。だから、事件当時の状況についての上記のような「風間と関根が共同経営していたアフリカケンネル」という言い回しには、この場合引っかかるものがあるのだ。というのも、このこととのつながりで、「同じ理屈が当てはまる関根が現にK殺害を実行しているのである。所論は理由がない。」という認定がなされているのではないかという疑いを感じるからである。関根氏と風間さんとに「同じ理屈が当てはまる」という判決文のこの文言は何を意味するのだろうか? 関根氏が殺人を実行していることは被害者の遺骨の破片や遺品などの証拠物からも明らかであろう。風間さんの場合はまったくそうではない。事件前、Kさんと交流し交渉していたのはもっぱら関根氏であり、Y氏である。Kさんの奥さんによる、関根氏とY氏には何度も会っているが、風間さんに会ったことは一度もないとの証言もある。そもそも風間さんはKさんに会ったこと自体、ごくわずかの回数で、Kさんがペットショップに買い物にきた際の2、3度だけであると供述している。このことは裁判所も承知しているはずなのだ。「同じ理屈が当てはまる」ということはありえないはずである。 

さて、肝心の「その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない。」という判決文だが、これが蔵する論理を要約すると、ほぼ次のようなものになると思われる。

被告人風間がKへのキャンセル料返還を惜しみ、「返す金などない」といってK殺害を主張したという関根の供述は信用できる。なぜなら、他ならぬ共同経営者である関根の言葉であり、どうやら会社は経済的に困窮もしていた(管理人注:事実は、一審弁論要旨p67の「七 被告人両名の資産及びアフリカケンネルの経営状況」に記載のとおり、資金難の事実はまったくない)、また風間は金銭に対し異常につよい執着心の持ち主(管理人注:この認定の根拠・証言も法廷に提示された記録を見るかぎりどこにもない)でもある。したがって、この限りにおいて関根の供述は、確かだと認定してよい。さて、被告人および弁護人が主張するところの、それほど金銭に困りまた執着していたというのなら無駄になることが分かっている犬を購入するために殺害当日、多額の海外送金手続きをするはずがないではないか、という主張は、そういう可能性もあるという理屈にすぎないから、あえて取り上げる必要も価値もない。判決文の論理はこういうことになるだろう。だが、弁護人が、この送金の事実を持ち出し、力をこめてこの件を論述しているのはなぜか。一審の裁判官が、アフリカケンネルの資金難および金銭欲のために風間さんがKさん殺害を共謀したと認定し、死刑を宣告したからである。「金銭」を論点にしたのは検察官・裁判所であり、被告・弁護人ではないのである。裁判所がもし殺人の理由として他の動機を認定したのなら――たとえば、Kさんへの個人的な憎悪が殺害動機であるとでも認定したのなら、弁護人にしてもこの送金の事実について執拗に論じるはずもないのだ。誰が見ても、殺害当日のこの送金は事件の解明および公正な判決のための重大な論点に違いないのである。裁判所は、これほど確かな証拠をそなえた被告人側のこの主張を「そのようなことも可能であるという理屈にすぎない」と判定するのなら、それでは一体どのような主張ならば「そのようなことも可能であるという理屈にすぎ」なくない、正当な主張なのかを具体的に明示するべきであったろう。それなくしての、

「しかしながら、その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない。」

という控訴審判決文のこの文言は、無責任な暴言であり、卑劣な詭弁と映るのである。この判定が通用するのなら、裁判所はどんなでたらめな事実認定も、またどんな無理無体な判決も思いのままであろう。これでは、この裁判官は決定的に法の精神と感覚を欠いた法秩序の破壊者であるというしかないのではないだろうか。そしてこのような事例を繰り返すことによって、日本の司法の世界はいよいよ論理も倫理も喪失し、法感覚を磨滅させていくのではないのだろうか。私には、これは、やはりラムズフェルドの「証拠の不在は不存在の証拠ではない」という発言と好一対のものと思えてならないのである。
2009.12.13 Sun l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
ブログ「連絡船」の木下和郎氏が、「亀山郁夫氏に呼びかける」というタイトルで、「(亀山氏は)『悪霊』の翻訳にかかっているらしい。ついさっきネットでこの情報を読んで、声をあげてしまいました。最悪です。」、「『悪霊』翻訳は中止してください。/そうして、できるだけ早く謝罪と撤退をしてください。」と書かれていたのは、9月30日のことだった。直後に少しこの情報を探してみて見つけられなかったのだが、数日前、ようやくというべきだろうか、あるブログにその情報が載っているのを読んだ。もっとも、この記事が木下氏の読まれたネット情報と同一であるかどうかは分からない。私が見たのは、こちらのブログで、この方は亀山氏出演の深夜のラジオ番組をタイマー予約しておき、それを翌日聴いたのだという。

「亀山先生は、今「悪霊」を翻訳しているという。そして、「タイトルを『悪魔』とか『悪鬼』とかに変えて読者にはげしく迫ってみようと思う」という爆弾発言があった。」

テレビやラジオの音声には、聞き違いということが起きがちだ。言葉の意味の聞き誤りもあるし、ニュアンスの受け止め方の違いということもある。しかし、記事によると、ブログ主の方は「3回くらい繰り返して聴いてしまった」ということだから、上記の発言は正しく亀山氏が述べたものと受け止めていいのではないかと思う。そう判断し、この発言から感じたことを述べてみる。

「タイトルを『悪魔』とか『悪鬼』とかに変え」るという亀山氏の発言が本気なのかどうかは分からない。もしかすると冗談なのかも知れないが、しかし公的な場所での発言なのだから、本気と受け止めることにする。『悪霊』の原題は「Бесы」らしいが、これがロシア語で正確にどのような意味をもっているのか、ロシア語の分からない私には判断がつかないところだが、それでも日本語で考えると、悪霊、悪魔、悪鬼、はそれぞれの単語が持っている意味が異なるのは明らかなように思う。題名に『霊』という字が入るのと入らないのでは大変な相違があるのではないだろうか。日本文学史上広く世に知れ渡ったこのタイトルの変更を口にする亀山氏はそのことについてこれまでにどれだけ掘り下げた多面的な考察をしたのだろうか。

また、タイトルを変えて「読者にはげしく迫ってみようと思う」という発言はまったくいただけないと思う。亀山氏は『悪霊』がドストエフスキーの作品であること、翻訳者の使命は原作者とはまったく異なることをどれだけ自覚しているのだろうと思った。亀山氏のこの言葉に品位がないと感じられたのは、おそらくそのことについての亀山氏の認識が疑われる、もっというと発言にドストエフスキーおよび原作をないがしろにしている印象すら漂っているからではないだろうか。

ドイツのある作家が翻訳および翻訳家について述べた文章で、「翻訳の読者は原作を理解できない人々なのだろうか?」と書いているのを読んだことがあるが、これは、そうではあるまい、という意味をこめての記述だったに違いないと思っている。というのも、翻訳者の姿勢は本当にそうでなければならないだろうと想像できるからだ。この論理のとおりに、つまり翻訳者は読者が作品を理解できるという前提で翻訳をしなければならないのだとしたら、当然翻訳者が作品を一般の読者より高次元の水準で理解していることは当たり前のこと。こんなことは本来言うまでもない基本的なことに違いないのだが、でも情けないことに、率直にいって亀山氏には木下氏同様、私も読者としてこの点に疑念をおぼえる。

亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』では、ホフラコーワ夫人、その娘リーザ、カテリーナ、グルーシェニカという4人の女性が、アリョーシャとの会話において自分の行動なり考えなりを説明するのに、全員揃って「私、○○したってわけ。」という普通めったに聞くことのない大変特異な話し方をしていた。これらの女性たちは『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のなかで一人として欠くことのできない重要な人物ばかりであり、言うまでもなくそれぞれに個性的な性格の持ち主である。年代も10代、20代、40代とそれぞれに異なる。小説の場合、登場人物の物の言い方、言葉遣いは、行動と同じようにその人の性格や個性を表わす最重要要素のはずである。逆方向から言うと、読者は、作者によって描き分けられたそれぞれの人物の物の言い方によってその性格や個性や人生を理解していくのだ。だからこれは物語の筋や進行ともふかく関わっているはずである。亀山氏の訳本で、4人の女性全員が「私、○○したってわけ。」という物の言い方をしているということは、亀山氏は一人ひとりの人物像を個別に把握し切らないままに『カラマーゾフの兄弟』を訳したと判断されても仕方のないことだと思う。

亀山氏の『カラマーゾフの兄弟』訳は誤訳・不適切訳が多数指摘されているが、私が最も驚き、かつ、その後もふと頭に浮かんできて、いまさらのように呆れてしまうのは、上記の件であった。その上に伝聞の形で知ったことではあるが、今回の発言である。『悪霊』についていうと、亀山氏は翻訳より前に、この困難な作品(私自身はこの作品をちゃんと理解しているという自信がない。だからこそ翻訳者にはいっそう信頼のおける訳をしてほしい、そうでなければ困るという気持ちがある)を正確に読みこなす力があるのかどうか、どうしても疑問を感じてしまうのは、これではやむをえないのではないだろうか。
2009.12.08 Tue l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
昨年12月5日に文芸評論家(文明批評家ともいえる)の加藤周一逝去のニュースを知った時、喪失感も寂しさもおぼえたが、同時に、胸に一個の見事な作品の完成を見るような感動もあった。89歳という長寿といいうる年齢に達していたことも理由の一端ではあったかと思うが、もちろんそれだけではない。ここ数年、それまで長年にわたり自己の信念として、基本的・原則的な価値観の表明として公的に述べてきたはずの発言を、気づいてみるといつのまにかガラリ変質させてすましているように見える物書き、学者、ジャーナリストなどが非常に多いと感じていた。時にはジョージ・オーウェルの『1984年』の世界のようだと思うこともあったほどである。でも、加藤周一にはそんな懸念は初めからまったく感じなかった。加藤周一の精神、内包している思想や感覚は、そのような醜悪な(と感じられた)行為をするにはあまりにも精神の位が高く、思想の根拠は堅固であるという全幅の安心感、信頼感をもてたのだ。これは大きなことだった。死去の報せをきいたときにもこの信頼感がよみがえり、「全う」という印象が一番つよかった。前述した「物書き、学者、ジャーナリスト」と加藤周一のような人との姿勢の違いは何に起因するのだろう。決定的に作用するのは思想の質の違いだろうか。これは自分を省みる上でもよく考えてみるべき問題だと思うが、でも実のところ、つい数年前まではこのような姿勢が普通、当たり前のことだと思っていたのだったが…。

『20世紀の自画像』(ちくま新書・2005年)からノートにメモしていた加藤周一の発言を記すが、まず、「沖縄、アイヌ、「在日」と日本文学」のなかで、現代日本文学について

「文学の現状を聞かれれば、それはもちろん、いちばん生産的なグループは在日の作家たちではないかと思います。なぜかといえば、共通の大きな問題を抱えているからでしょう。/彼らの小説の世界は心理的な葛藤だけじゃすまない。それは在日ということ自体が、すでに問題を含んでいるからです。大きな社会的な、第一次戦後派が拡げた文学の世界を、いま引き継いでいるのは在日の人かもしれません。」

と書いていた。私はあまり雑誌や新刊本を読まないので、現状の文壇や論壇について詳しくないが、ブログなどで目に触れる範囲でいうと、在日朝鮮人が書いた文章は一般の水準に比してテーマのつき詰められ方が格段に異なる、深さが違うように感じることが多い。文学や思想においては、深くなければ持続的な拡がりを作り出すことはできないはずなので、加藤周一がここで「第一次戦後派」という言葉を遣っているのもあながちおかしくはないのではないだろうか。加藤周一自身も「第一次戦後派」の一人だったはずである。また、あとがきに、2005年に発生した中国の大規模な反日デモについての次の文章があった。私はこの論旨をまったくの正論だと思う。

「個々の争点の現状は、日中いずれかの側の「致命的国益」に触れるほど重大なものではない。しかしそれをまとめてみれば、日本の「右寄り」傾向のあきらかな加速を示す。その流れのなかに、いわゆる「歴史意識」の問題がくり返しあらわれた。すなわち過去の侵略戦争の膨大な破壊に対して現在の日本社会がとる態度の問題である。/戦後60年日本国を信頼し、友好的関係を発展させつつある国は、東北アジアの隣国のなかに一つもない。/その責任のすべてが相手方にあるのだろうか。/何度も指摘されたように、戦後ドイツは隣国の深く広汎な反独感情に対して「過去の克服」に全力を傾け半世紀に及んだ。類似の目的を達成するために保守党政権下の戦後日本は、半世紀を浪費した。今さら何をしようと半年や一年で事態が根本的に変わることはないだろう。/私は「反日デモ」がおこったことに少しも驚かなかった。もちろん何枚のガラスが割られるかを予想していたのではない。しかし日本側がその「歴史認識」に固執するかぎり、中国や韓国の大衆の対日不信感がいつか、何らかの形で爆発するのは、時間の問題だろうと考えていた。その考えは今も変わらない。アジアの人びとの反日感情と対日批判のいら立ちは、おそらく再び爆発するだろう。それは日本のみならず、アジア、殊に東北アジアにとっての大きな不幸である。私は私自身の判断が誤りであることを望む。」


加藤周一は1945年敗戦を迎えた時25才で、東大医学部の学生であった。戦争には少年時代からずっと反対であり、当然のことながら少数者の孤立感のなかにいたようだが、学生時代には強硬な戦争批判者であった文学部の渡辺一夫や神田盾夫といった教師の存在が支えになっていたそうである。著書『羊の歌』では、渡辺一夫について、「天から降ってきたような渡辺助教授」という表現がされている。

ちなみに、その当時東大文学部の助手をしていた日高六郎は、戦争に対する当時の文学部内部の実態について『映画日本国憲法読本』(フォイル・2004年)のなかで次のように話している。

「文学部のなかで、長い戦争に対して疑問をもつ、あるいは反対だということをはっきりとした姿勢で考えていた人は教員80人近くいたと思いますが、ふたりだけ。渡辺一夫先生と、それから言語学科の神田先生。そのふたりは、はっきりと戦争全体に反対。ぼくも、そうですけれどね。あとは、いわゆる日支事変段階ではね「この戦争は一体どこまで泥沼に入ってしまうのか」と懸念をもっている人はいくらかいた。しかし日米戦争で空気はがらっと変わります。ハワイ真珠湾攻撃の日に、たまたま大学へ行ったんです。ある研究室のドアからね、教授、助教授の興奮した声が聞こえました。戦争の性格が変わった、この戦争はアジアの植民地解放戦争なんだ、これで戦争目的ははっきりしたと。そういう声が聞こえてきた。なるほど、これがこれからの日本政府の宣伝のポイントになるだろうという感じを受けました。/僕はアジアの植民地解放のためというスローガンを出すならば、なぜ朝鮮と台湾の問題に触れないのか。朝鮮の自主独立を許す、台湾を中国へ返すということを、日米戦争が始まったときにすぐに宣言していたら、アジアの解放もいいですよ。しかし、自分の植民地はそのままにしておいて、これはアジア解放戦争だと言っても通用しませんよ。」

実は昨年春頃から加藤周一の著作集を読み始めていた。時たま、その著作を図書館で借りて読んでみるといつも大変おもしろい。どの文章にも、感嘆したり、よく理解できないながらも興味深かったり、教えられる箇所が必ずといっていいほどある(もちろん肯けない観方もあるが、それは別人である以上、当然のことだろう)。できればまとめて手元に置いておきたいと思っていたところ、ある古本屋さんで平凡社からでている16巻本を、うち欠本が一冊あるという理由でとても安く買うことができ、こつこつと読んでいたところでの訃報であった。

私がこれまで読んだのは著作集(購入した16巻本の後、つづいて24巻までが出版されている)のほんの一部に過ぎないのだが、そのせまいわずかな読書経験から感じたことを書いてみたい。まず、加藤周一の博学はものすごくて、無知無学の私などは驚嘆し圧倒される。が、加藤周一自身は、広い知識を持つことはそれ自体に何ら意味があるのではない、知識は何のために必要とされるのかということを著作でよく表現し、証明しているように思った。日本の古来からの歴史、その時々の日本と中国や朝鮮との関係、明治以後の日本と西欧との関係、それらの多岐にわたり複雑な問題を、文学(この範囲が広くて加藤周一は鎌倉仏教までをも文学の範疇にいれている)を中心とした芸術作品を通してできる限り正確に観察し、そのなかに分け入って深く分析し、明瞭にしようと努めた形跡が著作集からよく見てとれるように思ったし、その試みは現実に相当高い水準で成功しているのではないだろうか。

日本の近・現代の文学者に関する評論もとても興味深かった。特に、森鴎外、夏目漱石、永井荷風に関する批評がおもしろい。夏目漱石についての『漱石に於ける現実 ――殊に『明暗』に就いて――』は1948年に書かれたものだが、1978年刊行の著作集の[追記]には、「少なくとも小説について、私の意見の要点はここに尽きる。すなわち漱石の最高の小説を『明暗』とすること、その理由は何かということである。」と記されているが、加藤周一は、漱石のなかに「教養の豊富さ」や「知性人たるの本質」を見るのは、誤りだと述べている。

「文壇の知性も教養も、明治以来、日本の一流の水準に達したことはない。例外は、おそらく、鴎外の知性と露伴の教養とであり、又それのみであった。彼等だけが、「学殖なきを憂へない。」と豪語することが出来たし、又豪語に値することが出来たのである。漱石は決してそうではない。又私見によれば、そうである必要もない。」

上の文章で、加藤周一が近代文学史上「鴎外の知性」と共に、「露伴の教養」を別格扱いしているのは、まったく卓見だと思う。私は以前図書館で露伴の全集を少し眺めてみたことがあるのだが、中国古典について述べている露伴の知識の範囲や一個の漢字(この漢字がまたそれまで見たこともないもので、たとえば「漢」という字に例をとると、これを十倍にしたほど画数の多い字であった。ただその大がかりな字が見たものを惹きつける風格、美的力を持っているように感じられたこともつけ加えておきたい。)についての物凄い考証研究ぶりに仰天し、読んでみようにも手も足もでず、すごすごと引き返したことがある。自身もすばらしい小説家である娘の幸田文が晩年にいたっても自分の存在を「露伴の娘」ということに限定しているかのような話し方をしていたのは、実際に少し露伴の書いたものを眺めてみると、文の言葉はそう言わないではいられない実感に支えられていたのであったろうと納得させられるのだった。自分も勉強家である大岡昇平は、全集収録の「明治・大正の作家たち」において「露伴の生涯と作品は、多くの驚異を蔵し、/その文筆活動は小説、詩、歴史、評論、考証随筆に及び、その広さ、豊かさにおいて、鴎外、漱石がわずかに比肩する。/その41巻の全集を理解する人は、ますます数少なく、史前世界の巨獣のような、わけのわからぬ活力と原理を持っていることが、漠然と想像されるだけである。この特異な人物の真価が十分に解明されるには、長い歳月が必要であろう、あるいはその機会はもはやないということが考えられるのである。」と述べている。露伴全集の2、3冊を前にして私はまさしくその本が「わけのわからぬ活力と原理を持っていること」を、「漠然と想像」しただけであった。(露伴に関心のある人には、塩谷賛著「幸田露伴」をお勧めしたい。)

さて、知性や教養に漱石の価値の根拠がないとすれば、ではどこに真骨頂があると加藤周一が考えているのかというと、

「『こゝろ』は、他に例を見ない失敗であった。この小説家だけが、自らの知性をためし、その限界によって、失敗し、その限界を超える可能性を知ったのである。従って、漱石の知性は、その成功のために必要な前提であったが、真の文学的価値を決定する作品は、小説家の「知性人たる本質」に根ざすよりも、知性人たらざる本質に根ざす。/『猫』は今日読む能わず、『こゝろ』は読み得るかもしれないが、我々の文学世界に何らの新しい現実を加えていない。新しい現実は、『明暗』のなかにある。」

と、漱石は「『明暗』によって、又『明暗』によってのみ、不朽である」と言うのである。そして上記のように、『明暗』は、漱石の「知性人たる本質」によってではなく、「知性人たらざる本質」によって生み出されたのだと述べ、それでこそ、その他のすべての小説が達し得なかった、今日なお新しい現実、人間の情念の変らぬ現実に達し得たのだという。また創造のからくりのなかに潜むデモーニッシュな力の大きな役割を述べて、「そのデーモンは、『明暗』の作者を、捉えたのであり、生涯に一度ただその時にのみ捉えたのである。それが修繕時の大患にはじまったか、何にはじまったか、私は知らない。確実なのは、小説の世界が今日なお新しい現実を我々に示すということであり、それに較べれば、知的な漱石の数々の試みなどは何ものでもないということである。」とも記している。

加藤周一がいかに高く『明暗』を買っているかがよく分かる文章であるが、彼は、漱石の内部には強烈に表現と認識をもとめているものが確実に存在し、この『明暗』によってそれを見事に実現しえた、とも述べている。作品のどこにそれが認められるかというと、まず登場人物の微妙な心の動きを執拗なほどに正確に捉える文体に見ている。『明暗』は、作者の鋭い観察と、論理的な分析の鮮やかな協力によって、明治大正の文学史に無双の心理小説だというのだが、しかしそれだけではない。観察に加えて、作者漱石がもったにちがいないはずの内的体験ということを強調している。

「我々の憎悪や愛情やその他もろもろの情念は、しばしば極端に到り、爆発的に意識をかき乱し、ながく注意され、ながく論理的に追求されれば、意識の底からは奇怪なさまざまの物が現れるであろう。我々の日常生活にそういうことが少ないのは、我々の習慣が危険なものを避け、深淵が口を開いても、その底を見極めようとはしないからである。しかし、その底に、我々の行動を決定する現実があり、日常的意識の奥に、我々を支配する愛憎や不安や希望がある。それは、日常的生の表面に多様な形をとって現れるが、その多様な現象の背後に、常に変らざる本質があり、プラトン風に言えば、影なる現象世界の背後に、観念なる実在がなければならない。観念的なものは現実的であり得るし、むしろ観念的なもののみが現実的であり得る。なぜなら、それが、小説家に、深く体験され、動かしがたく確実に直感されたものであるからだ。」

漱石は、上記の「深く体験され、動かしがたく確実に直感された」内的体験を『明暗』によって現実的なものとして恐ろしいばかりに見事に表現しえたのだが、このことはその観察がどんなに鋭く正確でもそれのみでは実現不可能であり、「内的体験」の存在こそがそれを可能にしたということを加藤周一は指摘しているのだと思われる。私は『道草』もとても好きだが、しかし『明暗』を漱石の小説の最高傑作とする加藤説に賛同する。『明暗』では、人間の心理が息苦しいほど鋭く正確に捉えられ、緊密な文体で十全に表現されているように私も感じる。何度か読んだけれども、そのたびにどうして漱石はこれほどまでの心理洞察力を持ち得たのだろうと不思議な気さえするので、加藤周一のこの文章は大変示唆にみちていて興味深かった。ただ、上記の文章のなかで「観念的なものは現実的であり得る」という部分までは理解できるように思うのだが、「むしろ観念的なもののみが現実的であり得る。なぜなら、それが、小説家に、深く体験され、動かしがたく確実に直感されたものであるからだ。」という見解が、観念的でないせいだろう、私はちゃんと消化できない。どなたか教えてくださる方がいれば、ぜひご教示ください。

森鴎外、永井荷風についての評論も独創的で、興味のつきないおもしろさがあると思う。これらについては今日は詳述できないが、加藤周一はその人間や生き方への評価とは区別して(荷風については「惨たる生涯」とも述べている)、この二人の文章を格別に高く評価しているようである。それは、たとえば、「外国文学のうけとり方と戦後」という文章のなかの「文章の変化」の項目の一節にも読み取れると思う。

「明治以後の日本文へ欧文が及した影響は、漢文の影響の最大なるときに、最大であった。すなわち鴎外であり、その次に荷風である。また漢文の影響の最小なるときに、最小であった。すなわち昭和期殊に戦後の諸家である。/日本文が漢文の影響を脱するに従って、欧文の影響をうけるようになったというのは、俗説にすぎない。むしろ逆に、漢文の影響と欧文の影響とは平行し、時と共に減じてきたのだ。/散文の場合には、外国の小説の影響がそれほど破壊的ではなかったかもしれない。しかし翻訳小説は沢山あらわれた。したがって翻訳の文章の大部分は、もはや鴎外訳の場合とはまるで性質の違うものであった。そういう翻訳小説をよむことによってえられるだろう信念の一つは、疑いもなく、小説の文章は週刊雑誌の記事と本来ちがわぬものだということ以外ではないだろう。少くとも荷風はそうは考えていなかった。しかし戦後の小説家の多くはそう考えているらしい。」

永井荷風の文章が並外れて立派である(美しいといったほうがいいかも知れない)ことは私も深く実感したことがあった。私は印刷物の版下を作る仕事を細々とやっているのだが、10数年前のこと、ある時、雑誌(多分、『三田文学』だったと思う)に載せるので、荷風を論じた300枚ほどの手書きの原稿をパソコンに入力してほしいという仕事をうけた。当然のことなのだろうが、そこには荷風の文章が数多く引用されていた。入力してみると、その文章のすばらしいこと! 特に時代が進めば進むほどに、荷風の文章は洗練され、品位をまし、特に「下谷叢話」の場合は、キーをうつ手元から感覚のなかに優美で品格にみちた言葉がひとつながりになって流れ入るようであった。それは読むだけでは実感できないことであったが、このような経験は初めてであり、その後もない。こういう個人的な経験を絶対視するわけではないが、それでも上記の加藤周一の批評はおそらくほぼすべて的を射ているのではないかと思う。この文章は、1960年に書かれたものだが、それにしても、加藤周一の日本の現代文学に対する観方はきびしい。この後、年ごとにさらにきびしくなっていくのは察知できることだが、実はしだいに現状の日本文学についての発言は少なくなっていったように思う。「外国文学のうけとり方と戦後」は次の文章で終わっている。

「文学は思想である。思想はまた感覚から出発するものである。外国文学のうけとり方を正面から問題にするとすれば、思想をとおして感覚にまで到らなければならない。私は外国の思想の影響は、明治以来の日本文学に浅かったといったが、その理由は、第一、当方の社会そのものの含む問題が別のところにあったからであり(管理人注:キリスト教および近代の人権宣言の影響下にある西洋の文学は、天皇制下の日本文化とでは根本的な条件の違いがあった、など)、第二、外国の思想を支える感覚的体験の質が無視されていたからである。第一の点について、戦後におこった変化を、私はすでに述べた(管理人注:天皇制下で社会・生活環境が根本的に異なるなかで西欧の文学を受容した戦前と、彼我の違いが不分明になりむしろ相互に共通点が多いことを前提にして西欧文学を受け入れた戦後。その根本的な違い)。第二の点についても、戦後に大きな変化がおこったであろうか。しかし第一の点は、社会の全体の問題であり、第二の点は、外国文学と接触するその人の個人の問題である。私は後者の点については、戦後の劃期的な成果を、森有正『流れのほとりにて』にみたいと思う。なぜこの本は広くよまれなかったか。劃期的だからである。なぜこの本は劃期的であるか。西洋思想の感覚的基礎をみきわめようとする自覚的な努力を、綿密に記録した例は、開国以来今日に到るまでにまだ一度もなかったからである。同じような努力がなかったわけではない。そういう努力はあった。たとえば鴎外にもあったが、荷風にもあった。しかしこれほど自覚的な努力は多分なかったし、その過程のこれほど綿密な記録もなかったのである。今後外国文学のうけとり方を問題にするときには、どうしてもこの本を通らざるをえないであろう。そうしなければ、どれほどもっともらしい談義をしても、それがこの本のまえで軽薄にひびくことを免れるわけにゆくまい。ヴェネツィアの古い石が自分の感覚とならなければ、フォースターの思想のすべては空文にすぎないということだ。/しかし外国文学はうけとる必要のあるものだろうか。おそらくその必要はあるまい。しかしおそらくそうせざるをえまいと私は考えている。」

この文の[追記]では、本居宣長は自由自在に「漢文」を書くことができたからこそ、無理をしてまでやまとことばで押し通そうとしたことが述べられ、「中国文学の影響は、18世紀の日本に宣長を生んだ。西洋語で書くという習慣がなくて、西洋文学の影響は、20世紀の日本に日本文のなかで外来語を用いることを好む多数の文筆家を生んだ」と記されている。そうすると、「外国文学はうけとる必要はあるまい」、これは皮肉なのだろうか?

加藤周一は成人後の人生の半分をヨーロッパやアジア諸国の大学で教員として生きてきたようで、特にヨーロッパ生活が長かったそうだが、私の知る範囲では、日本文学と欧米文学以外の、たとえばロシア文学やアジアの文学については述べていないように思う。しかし、たとえば、もし亀山郁夫氏のドストエフスキー翻訳本を読んだら何と思うだろう。絶句するのではないかと思われるが、それとももはやあきらめの境地にいただろうか。

最後に、加藤周一著作集の「月報」に大岡昇平が寄せている「加藤さんの印象」という一文を引用して終わりにしたい。この短文にはそっけないようでいてよい味わいがあると思うのだが、上記の加藤周一の文章で取り上げられている、またブログ「こころなきみにも」の萩原氏がよく敬意をこめて触れておられる森有正がでてくる。それぞれがまだ若かったころのパリにおける一挿話だが、大岡昇平によると加藤周一と森有正は当時印象がよく似ていたとのことである。

「 私は復員して1948年まで、明石の疎開先を動けなかったので、『1946・文学的考察』や『マチネ・ポエティク詩集』など、敗戦直後の加藤さんの活躍は知らない。はじめてお眼にかかったのは、1954年、パリにおいてである。彼は当時、医者としてソルポンヌに留学中だった。やはりパリ在住の森有正さんに紹介されたと思う。パリのどこにお住いだったか。私はサン・ミシェル通りがリュクサンブール公園にぶつかるあたりの、リュ・ロアイエ・コラールという横丁の安ホテルにいた。森さんはそれよりもう少し南の、アべ・ド・レペという横丁の、たしか「オテル・ド・フランス」にいた。名前が大きくいかめしくなれば、それだけ汚なくなるのは日本とは反対で、森さんはそういう安ホテルに下宿して、ソルボンヌに提出するのだとかいう、パスカルに関する厖大な未整理原稿をかかえていた。それは見せてもらえなかったが、フランス文化を理解するためには、フランス人と同じくらいその伝統に沈潜しなければならない、という意見で、フランスの田舎をこまめに廻っていた。/私はそれはとてもできない相談だから、いい加減にして、東京の教壇に復帰することをすすめてみたが、てんで受け付けて貰えなかった。しかし私はそういう森さんの頑固さ、30歳を越えても自分の思想形成のために、清貧に甘んずる態度を、尊敬した。彼のパスカル研究はその後どうなったか知らないが、1957年からその滞仏記録『バビロンの流れのほとりにて』などを日本で発表しはじめた。独自の体験の哲学を打ち立てた。/森さんのことばかり書くようだが、当時、私が加藤さんから受けた印象は、極めて森さんに似ていたからである。/加藤さん、森さんから、私の学んだことは、へんに身なりを飾らないこと、余分の金を稼ごうとしないことである。外国語をやること、教養を大事にすること――これは戦争のため欧米との文化的格差がひどくなっていた1954年頃では、不可欠なことであったが、そこに金持へこびる、成上り者みたいな生活態度が加わると、鼻持ちならなくなる。知識人は貧乏でなければならない――これが加藤さんから学んだ第一の教訓である。/加藤さんは1957年に『雑種文化』を出した。森さんと同じ講談社の「ミリオン・ブックス」だったのは、変な縁だが、加藤さんの方が少し先だったはずである。これは帰国してから書いたものだが、外国滞在の成果であることは共通している。
 「私は西洋見物の途中で日本文化のことを考え、日本人は西洋のことを研究するよりも日本のことを研究し、その研究から仕事をすすめていった方が学問芸術の上で生産的になるだろうと考えた」「ところが日本へかえってきてみて、日本的なものは他のアジアの諸国とのちがい、つまり日本の西洋化が深いところへ入っているという事実そのものにももとめなければならないと考えるようになった」。
 その結果、加藤さんは日本文化を「雑種文化」と規定した。このあまりに有名になり、多くの人の手に渡って俗化してしまった概念が、以上のような体験と考察の末に出たものであることに注意を喚起しておきたい。」(大岡昇平)
2009.12.04 Fri l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回、山口二郎氏が著書「政治を語る言葉」(七つ森書館・2008年7月刊)のなかで中野重治の政治思想や人物像について述べている発言への違和感や疑問を記した。ところが、その本のなかで山口氏が中野重治について実際どんな発言をしているのかという、肝心の山口氏の文章を私はほとんど紹介していなかった。そのことに今日になってようやく気づいた。どうやら、長々と引用した中野重治の文章の入力作業に時間がかかり、疲労して注意力散漫になってしまっていた(いつものことのような気がしないでもないが。)ようなのだ。下記にあらためて山口氏の発言内容をひととおり記しておくが、その前に山口氏が、中野重治や永井荷風について語っている内容について感じたことをもう少し述べておきたい。

中野重治について、山口氏は、前回紹介したように「彼(中野重治)は左翼の人ではありましたが、日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだという薄っぺらな歴史観をもっていたわけではないんですね。」との発言の後、

「戦争で倒れた、戦争で苦しんだ普通の人々に対して限りない共感と愛着をもっていた、戦争で倒れた人々とともに戦後民主主義を何とかつくりだしていこう、庶民の感覚に根を下ろした民主主義をつくりだしたいという問題意識を彼はもっていた」

と述べているが、この発言の内容自体をおかしいとも間違っているとも思わない。でも、これを読んで、これはまさしく中野重治について述べられた文章だと実感する(できる)人がいるかといえば、あまりいないのではないだろうか。この内容では、評される人物を中野重治としなくても、大抵の人には当てはめることのできる批評のように感じる。当時の政治家や官僚など、支配層の誰かの発言だといってもあながちおかしくはないのではないだろうか。否、むしろそのほうが相応しいような気もする。昭和天皇の心情だとして語られても違和感はないかも知れない。実際、昭和天皇が国民に持っている限りない温情の発露としてこのような趣旨の話をこれまでいろんな人が語るのを沢山聞いてきたような気もする。

永井荷風についての山口氏の発言にも少し触れておきたい。山口氏は、中野重治について、戦後の早い段階から「敗戦を解放と言祝ぐ側にも、犠牲者に対する一定の敬意や悲しみの共有が必要」という問題を視野に入れて、戦後民主主義を論じてきた人物とする一方、

「権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統も存在したという主張をぶつけることも必要である。こうした視点については、政治史学者の坂野潤治氏の著作から多くを学んだ。講演で、永井荷風や石橋湛山を重視したのも、この理由による。こうした意味での連続性を強調することによって、ナショナリズムと戦後民主主義との接合を図りたいというのが、私の意図であった。」

と述べている。山口氏は、永井荷風を「権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統」を体現した人物と考えているようだ。「伝統」というのは、「日本の伝統」という意味だろうから、山口氏の説から推理すると、日本にはもともと「権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統」があって、その伝統にしたがって永井荷風は自由を貫いたということになる。でもそれは全然違うのではないだろうか。日本にそのような自由の伝統がなかったからこそ(少なくともそのことが最大の原因をなして)、永井荷風は完全に日本社会から孤立し、自ら「偏奇館」と名付けた自宅に籠城したかのような、世捨て人のような生き方をすることになったと言っていいのではないかと思うのだが? そもそも「権威や権力を恐れず」ということ自体誤りだと思う。永井荷風は戦争中も意欲的に小説を書き、日記を書き続けたが、万が一当局に踏み込まれても大事にいたらないよう、伏せ字を多用するなどずいぶん念入りな細工を施していたようだ。要するに、隠れて書いたのである。「権威や権力を恐れ」なかったら、荷風も治安維持法で逮捕されていただろう。日本には個人が自由にその意思を貫いて生きられる伝統はなく、荷風自身当然権力を恐れもしたけれども、それにもかかわらず、特異な個性と利子生活者という条件をもっていたために、かろうじて自己の生き方を貫いたということではないだろうか。山口氏は「世間を冷静に見つめた永井荷風」とも記しているが、冷静に、客観的に万象を観察し、誤りなく社会や戦局の趨勢を見通すことができたのは、荷風の場合、その精神がひとり完全に日本社会から外部に出ていたからではないだろうか。「ナショナリズムと戦後民主主義との接合を図りたい」ためなのだろう、日本に自由を貫く伝統が存在したとする(したい)山口氏が、自分のその考えと志向を補強するために永井荷風という強烈な一個の個性を強引にもってきたという印象は否めない。


では、山口氏の著書「政治を語る言葉」から、主に中野重治に関する文章を引用しておく。

「私のとらえ方を単純な図式にすれば、次のようになる。
1 満州事変以後のアジア太平洋戦争は、他国との関係においては日本の侵略であり、誤った戦争であった。
2 戦争に敗北し、戦前の国家体制が瓦解したことによって、民主主義体制が生まれた。その意味で、戦後民主主義は戦争の犠牲者のうえに成立している。
3 戦後民主主義を守り、育て、国民自身が国の運営の主人公となり、再び誤った路線に進まないようにすることこそ、戦争犠牲者に報いる道である。
 このような枠組みは、きわめて常識的なものであり、少なくとも認識のうえでは、多くの人々と共有可能であると私は考えている。しかし、とくに2の論点については、認識だけではなく、犠牲者の死をいかに意味づけ、弔うかという感情の問題が入ってくることは避けられない。この点について、敗戦を解放と言祝ぐ側にも、犠牲者に対する一定の敬意や悲しみの共有が必要だと思う。戦後の早い段階からこの間題を視野に入れて、戦後民主主義を論じてきたのが中野重治であつた。私の講演で中野を重視したのはこのような理由による。
 もう一つの視点として、戦前と戦後の断絶のみを重視するのではなく、自由や民主主義の追求という理念の連続性を重視する必要もあるということを強調したかつた。戦前の日本には悪いことばかりではなかったというのは保守派の主張だが、逆に、権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統も存在したという主張をぶつけることも必要である。こうした視点については、政治史学者の坂野潤治氏の著作から多くを学んだ。講演で、永井荷風や石橋湛山を重視したのも、この理由による。こうした意味での連続性を強調することによって、ナショナリズムと戦後民主主義との接合を図りたいというのが、私の意図であった。(略)

中野重治が説く足もとからの民主主義
 (略)中野重治は後に離党しましたが、この当時は共産党の活動家として、精力的に小説や評論を執筆しておりました。しかし同時に、中野は大変なナショナリストでした。
 彼は『展望』という月刊誌の1946年1月号に「冬に入る」という論説を書いています。これを読むと、彼は左翼の人ではありましたが、日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだという薄っぺらな歴史観をもっていたわけではないんですね。戦争で倒れた、戦争で苦しんだ普通の人々に対して限りない共感と愛着をもっていた、戦争で倒れた人々とともに戦後民主主義を何とかつくりだしていこう、庶民の感覚に根を下ろした民主主義をつくりだしたいという問題意識を彼はもっていたと、私は理解しています。
 そこで「冬に入る」という論説の一部を紹介します。占領軍によって与えられた民主主義、与えられた自由なんていう、斜に構えた議論がありますが、それは違うと中野は力説しています。「日本の国民は与えられた自由の前に少しも『戸惑ひして』いない。かえって日本の国民は、与えられた民主主義が自己の力で独立に獲られたものでないことを泣かねばならぬほどよく知っている。それだから日本の国民は、与えられた民主主義の糸ぐちを大事なものとして、貴重に取りあつかわねばならぬことをよく知ってそれをそのように扱っている」と書いています。
 それから、戦争に動員された普通の人たちの立場から、どのようにして戦争責任を追及していくのかについて、中野はこう書いています。「『身命を抛って』戦った兵隊はそのことにおいて、『身命を抛って』しまった兵隊はそのことにおいて、病気になり不具になった兵隊はそのことにおいて、そのすべての遺家族をつれつつ、その他の国民とともに、軍閥・軍国主義の国民的問責陣の主軸の一つをなしているのである」。つまり、名誉の戦死とか、国のために死んだという形で意味づけるのではなくて、まさに吉田満が描いたように、戦後の日本こそは、国民自身が常に目覚めて、国を誤った方向に行かせない。そういう民主主義の社会をつくっていく。そういう形で戦争の犠牲者を悼む、尊ぶ。そのことの裏返しとして、間違った戦争を引き起こした指導者の責任をきちんと追及していく。こういう論理を、中野は敗戦直後に想定していたわけです。
 残念ながら、日本の革新勢力というか、左派勢力は、そのような民衆の共感に基づいた戦争責任論を十分展開できず、そのことが長い間、戦後の政治に影を落としてきたと言えます。」

2009.12.01 Tue l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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