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前回、山口二郎氏が著書「政治を語る言葉」(七つ森書館・2008年7月刊)のなかで中野重治の政治思想や人物像について述べている発言への違和感や疑問を記した。ところが、その本のなかで山口氏が中野重治について実際どんな発言をしているのかという、肝心の山口氏の文章を私はほとんど紹介していなかった。そのことに今日になってようやく気づいた。どうやら、長々と引用した中野重治の文章の入力作業に時間がかかり、疲労して注意力散漫になってしまっていた(いつものことのような気がしないでもないが。)ようなのだ。下記にあらためて山口氏の発言内容をひととおり記しておくが、その前に山口氏が、中野重治や永井荷風について語っている内容について感じたことをもう少し述べておきたい。

中野重治について、山口氏は、前回紹介したように「彼(中野重治)は左翼の人ではありましたが、日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだという薄っぺらな歴史観をもっていたわけではないんですね。」との発言の後、

「戦争で倒れた、戦争で苦しんだ普通の人々に対して限りない共感と愛着をもっていた、戦争で倒れた人々とともに戦後民主主義を何とかつくりだしていこう、庶民の感覚に根を下ろした民主主義をつくりだしたいという問題意識を彼はもっていた」

と述べているが、この発言の内容自体をおかしいとも間違っているとも思わない。でも、これを読んで、これはまさしく中野重治について述べられた文章だと実感する(できる)人がいるかといえば、あまりいないのではないだろうか。この内容では、評される人物を中野重治としなくても、大抵の人には当てはめることのできる批評のように感じる。当時の政治家や官僚など、支配層の誰かの発言だといってもあながちおかしくはないのではないだろうか。否、むしろそのほうが相応しいような気もする。昭和天皇の心情だとして語られても違和感はないかも知れない。実際、昭和天皇が国民に持っている限りない温情の発露としてこのような趣旨の話をこれまでいろんな人が語るのを沢山聞いてきたような気もする。

永井荷風についての山口氏の発言にも少し触れておきたい。山口氏は、中野重治について、戦後の早い段階から「敗戦を解放と言祝ぐ側にも、犠牲者に対する一定の敬意や悲しみの共有が必要」という問題を視野に入れて、戦後民主主義を論じてきた人物とする一方、

「権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統も存在したという主張をぶつけることも必要である。こうした視点については、政治史学者の坂野潤治氏の著作から多くを学んだ。講演で、永井荷風や石橋湛山を重視したのも、この理由による。こうした意味での連続性を強調することによって、ナショナリズムと戦後民主主義との接合を図りたいというのが、私の意図であった。」

と述べている。山口氏は、永井荷風を「権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統」を体現した人物と考えているようだ。「伝統」というのは、「日本の伝統」という意味だろうから、山口氏の説から推理すると、日本にはもともと「権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統」があって、その伝統にしたがって永井荷風は自由を貫いたということになる。でもそれは全然違うのではないだろうか。日本にそのような自由の伝統がなかったからこそ(少なくともそのことが最大の原因をなして)、永井荷風は完全に日本社会から孤立し、自ら「偏奇館」と名付けた自宅に籠城したかのような、世捨て人のような生き方をすることになったと言っていいのではないかと思うのだが? そもそも「権威や権力を恐れず」ということ自体誤りだと思う。永井荷風は戦争中も意欲的に小説を書き、日記を書き続けたが、万が一当局に踏み込まれても大事にいたらないよう、伏せ字を多用するなどずいぶん念入りな細工を施していたようだ。要するに、隠れて書いたのである。「権威や権力を恐れ」なかったら、荷風も治安維持法で逮捕されていただろう。日本には個人が自由にその意思を貫いて生きられる伝統はなく、荷風自身当然権力を恐れもしたけれども、それにもかかわらず、特異な個性と利子生活者という条件をもっていたために、かろうじて自己の生き方を貫いたということではないだろうか。山口氏は「世間を冷静に見つめた永井荷風」とも記しているが、冷静に、客観的に万象を観察し、誤りなく社会や戦局の趨勢を見通すことができたのは、荷風の場合、その精神がひとり完全に日本社会から外部に出ていたからではないだろうか。「ナショナリズムと戦後民主主義との接合を図りたい」ためなのだろう、日本に自由を貫く伝統が存在したとする(したい)山口氏が、自分のその考えと志向を補強するために永井荷風という強烈な一個の個性を強引にもってきたという印象は否めない。


では、山口氏の著書「政治を語る言葉」から、主に中野重治に関する文章を引用しておく。

「私のとらえ方を単純な図式にすれば、次のようになる。
1 満州事変以後のアジア太平洋戦争は、他国との関係においては日本の侵略であり、誤った戦争であった。
2 戦争に敗北し、戦前の国家体制が瓦解したことによって、民主主義体制が生まれた。その意味で、戦後民主主義は戦争の犠牲者のうえに成立している。
3 戦後民主主義を守り、育て、国民自身が国の運営の主人公となり、再び誤った路線に進まないようにすることこそ、戦争犠牲者に報いる道である。
 このような枠組みは、きわめて常識的なものであり、少なくとも認識のうえでは、多くの人々と共有可能であると私は考えている。しかし、とくに2の論点については、認識だけではなく、犠牲者の死をいかに意味づけ、弔うかという感情の問題が入ってくることは避けられない。この点について、敗戦を解放と言祝ぐ側にも、犠牲者に対する一定の敬意や悲しみの共有が必要だと思う。戦後の早い段階からこの間題を視野に入れて、戦後民主主義を論じてきたのが中野重治であつた。私の講演で中野を重視したのはこのような理由による。
 もう一つの視点として、戦前と戦後の断絶のみを重視するのではなく、自由や民主主義の追求という理念の連続性を重視する必要もあるということを強調したかつた。戦前の日本には悪いことばかりではなかったというのは保守派の主張だが、逆に、権威や権力を恐れず自由を貫くという伝統も存在したという主張をぶつけることも必要である。こうした視点については、政治史学者の坂野潤治氏の著作から多くを学んだ。講演で、永井荷風や石橋湛山を重視したのも、この理由による。こうした意味での連続性を強調することによって、ナショナリズムと戦後民主主義との接合を図りたいというのが、私の意図であった。(略)

中野重治が説く足もとからの民主主義
 (略)中野重治は後に離党しましたが、この当時は共産党の活動家として、精力的に小説や評論を執筆しておりました。しかし同時に、中野は大変なナショナリストでした。
 彼は『展望』という月刊誌の1946年1月号に「冬に入る」という論説を書いています。これを読むと、彼は左翼の人ではありましたが、日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだという薄っぺらな歴史観をもっていたわけではないんですね。戦争で倒れた、戦争で苦しんだ普通の人々に対して限りない共感と愛着をもっていた、戦争で倒れた人々とともに戦後民主主義を何とかつくりだしていこう、庶民の感覚に根を下ろした民主主義をつくりだしたいという問題意識を彼はもっていたと、私は理解しています。
 そこで「冬に入る」という論説の一部を紹介します。占領軍によって与えられた民主主義、与えられた自由なんていう、斜に構えた議論がありますが、それは違うと中野は力説しています。「日本の国民は与えられた自由の前に少しも『戸惑ひして』いない。かえって日本の国民は、与えられた民主主義が自己の力で独立に獲られたものでないことを泣かねばならぬほどよく知っている。それだから日本の国民は、与えられた民主主義の糸ぐちを大事なものとして、貴重に取りあつかわねばならぬことをよく知ってそれをそのように扱っている」と書いています。
 それから、戦争に動員された普通の人たちの立場から、どのようにして戦争責任を追及していくのかについて、中野はこう書いています。「『身命を抛って』戦った兵隊はそのことにおいて、『身命を抛って』しまった兵隊はそのことにおいて、病気になり不具になった兵隊はそのことにおいて、そのすべての遺家族をつれつつ、その他の国民とともに、軍閥・軍国主義の国民的問責陣の主軸の一つをなしているのである」。つまり、名誉の戦死とか、国のために死んだという形で意味づけるのではなくて、まさに吉田満が描いたように、戦後の日本こそは、国民自身が常に目覚めて、国を誤った方向に行かせない。そういう民主主義の社会をつくっていく。そういう形で戦争の犠牲者を悼む、尊ぶ。そのことの裏返しとして、間違った戦争を引き起こした指導者の責任をきちんと追及していく。こういう論理を、中野は敗戦直後に想定していたわけです。
 残念ながら、日本の革新勢力というか、左派勢力は、そのような民衆の共感に基づいた戦争責任論を十分展開できず、そのことが長い間、戦後の政治に影を落としてきたと言えます。」

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2009.12.01 Tue l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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