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先日、辺見庸の「単独発言 私はブッシュの敵である」(角川文庫2003年)を読んでいたら、米国のイラク爆撃直後のインタビュー取材で辺見さんが次の発言をしているのが目にとまった。

「ラムズフェルド国防長官はたいへんな詭弁家です。大量破壊兵器保持の証拠がないとされると、「証拠の不在は不存在の証拠ではない」といってのけたのですから。これではまるで中世の戦争の論理です。イラク側が国連の査察国にどれほど歩み寄ろうとも、米国はもともと戦争のみを構えていました。イラクに対する全面的武力行使は米国にとって9.11以前から既決事項だったのです。」(p66)

「単独発言」を久しぶりに本棚から取りだしてきたのは、まだ病に倒れる前、辺見さんがやはりどこかの取材をうけていて、そのインタビュアーとの間で1997年に「日米ガイドラン」が国会を通った時に小沢一郎がこの法律について「あれは戦争法だ」と述べたということについての会話がかわされているのを読んだことがあり、その箇所をもう一度見てみたかったからだ。おぼろげな記憶では、特にこの政治家の資質に踏み込んだ話が交わされていたわけではなかったと思うが、ただ小沢一郎がこの法律の核心をつかむ先見の明をもっていたという認識はその場で共有されていたようでもあった。大きな力を持っているらしい小沢一郎という人がどんな政治思想をもった人物なのかこのところ有権者としてはちょっと気になったりするので、一応その事実関係を確かめておこうと思ったのだった。でも、その話が掲載されていたのは見当をつけていたこの本ではなかったようで、見つけられなかったのだが、代わりに発見したのが上述のラムズフェルドの発言だった。そう言われてみれば、確かにこんな発言があったことを思いだす。当時、ブッシュとラムズフェルド、二人揃ってとても正気の沙汰とは思えない不気味な発言を繰り返していたので、私の頭のなかではラムズフェルドとブッシュの発言とがごっちゃになってしまっていた。しかし、イラク攻撃直前にラムズフェルド元国防長官が述べたというこの「証拠の不在は不存在の証拠ではない」という発言をこの本で見たとき、私はとっさにこちらで検討した「埼玉愛犬家殺人事件」における風間博子さんへの控訴審判決文の次の箇所

「風間は,K事件の当日に,KWの依頼に基づいて高額の犬の購入代金を送っているが,関根との間にKを殺害する事前共謀があったのであれば,K用に注文していた犬をKWに回せば足りる道理であって,KW用の犬の代金を送るような無駄になることをするはずがない。したがって,この事実は風間が関根と事前に共謀していなかったことの証左である,というのである。/しかしながら,その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない。同じ理屈が当てはまる関根が現にK殺害を実行しているのである。所論は理由がない。」(『控訴審判決文』p29)

のなかの「しかしながら、その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない」という一節を思い浮かべ、このラムズフェルド発言に重ね合わせていた。戦争と裁判という別々の場所での発言ではあるが、ラムズフェルドと「埼玉愛犬家殺人事件」の控訴審裁判官、二人が用いている論理はどこかひどく似ていないだろうか。私は両者に底ぶかい共通点を感じたのだった。辺見さんの「これではまるで中世の戦争の論理です。」という発言にもピタリ感じるものがあった。このうちの「中世の戦争の論理」を「中世の裁判の論理」と言い替えれば、「埼玉愛犬家殺人事件」をもそのまま言い表わすことができるかも知れない。今日はこの点を少し検討してみたい。

辺見さんは、上記のラムズフェルドの発言を引用した後、下記のように述べている。

「フセインが大統領宮殿の査察まで受け入れるという、屈辱的な国連の要請に応じたのは、本音としては「命ごい」だったのです。そしてそれ以上に避けて欲しいと思っていたのはイラクの民衆なのです。」

1991年から98年まで7年間も国連大量破壊兵器廃棄特別委の査察官を務めた米国のスコット・リター氏は、米国がイラク攻撃に突入する前から、

「(イラクの)調査は完璧に近く、国連の対イラク兵器削減プログラムは成功を収め、90%から95%の兵器が廃棄された。特に核兵器の開発に関連する施設は完全に破壊され、その後も再建されていない。イラクはすでに軍事的脅威ではなくなった」

と証言していた。イラク攻撃が敢行された後、事実はリター氏の証言どおりだったことが証明されたのだから、「証拠の不在は不存在の証拠ではない」というラムズフェルド発言は、「イラクに大量破壊兵器があろうがなかろうが、イラク侵攻という米国の方針に変わりはない。大量兵器云々は、イラク攻撃のための口実に過ぎない」という意味に他ならなかったということになる。これが論理として通用するのなら、通らないものは何もないことになるだろう。辺見さんが「これではまるで中世の戦争の論理です」というのはとても的確な批評だと思う。

一方、浦和地裁の風間博子さんへの死刑判決を支持し、被告人の控訴を棄却した控訴審裁判官の「しかしながら、その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない」という言い分はどうであろうか。まず、判決文のいう「その主張」が何であるかということから説明すると、まずは一審の検察官が最初の殺人事件であるKさん殺害に風間さんが関与したと主張し、その動機について次のような説明をしたことに端を発する。

「当時アフリカケンネルの資産が著しくひっ迫し、右代金返還に窮する状態であった/同人(管理人注:被害者のKさん)がローデシアンの購入をキャンセルしてその代金を返還するよう要求したことに対する拒絶にあり、(略)被告人風間には、自己の財産に対する執着心が強くあって、主に被告人風間が大きな利害関係を持っていることからしても、被告人風間がK殺害を言い出してその共謀のきっかけを作ったとみるのが自然かつ合理的で、被告人関根のこの点に関する右供述の信用性は極めて高い。(『一審論告』p130、132)

上記のように、検察官の主張は、①アフリカケンネルの経営状況が悪化し、風間さんは資金繰りに苦慮していた、②風間さんは金銭や財産に対するつよい執着心の持ち主であった。これにより、関根氏から打診されたKさんへのキャンセル料返還の話を拒絶し、代わりに率先して殺害を提示し、その結果、Kさん殺害が計画・実行されたというものであった。これに対し、一審弁護人は、では異様なほどに金銭への執着心がつよい風間さんがKさん殺害当日、別の人物からの注文であるローデシアン犬の購入代金を海外送金したのはなぜか?と反論した。この犬もKさんの犬と同種のローデシアンであり、しかも同じくオスなのだ。今夜、Kさんを殺してしまえば、すでに日本に到着してただ今検疫中であるKさんのオス犬は引き取り手がなくなる。風間さんの立場にたてば、飼い主を殺すことにより行き場のなくなることが分かりきっているその犬をそのまま新たな注文主に渡すことにすれば万事願ったり叶ったりではないか。それでこそ殺人まで提案し、決意してお金を惜しんだ甲斐があったというものであろう。「Kに返す金などない」「殺るしかない」と殺人を提示するような人物が、どうして、溝に捨てるも同然になるしかない高額の輸入手続きをするだろうか。送金額は、100万円をはるかに超えているのだ。この件について、弁護人は次のように述べている

「平成5年4月20日付の送金分はKWが注文したバードの代金である。/ところで、犬の繁殖のためにはオス、メスのつがいが必要であるところ、メスは何頭手元にいても子を産むので価値があるが、オスは犬舎に複数頭いても売却しない限り、餌代がかかるだけであって、繁殖業者にとってはマイナスであることは常識である。/ところでKが注文したオス(トレッカー)の代金は既に平成5年3月25日に送金済みであり、平成5年4月20日にKを殺害することを事前に共謀していたとすれば、右トレッカーの引き取り手はなく、万吉犬舎にはローデシアンのオス二頭(グローバー、トレッカー)が残ることとなる。/検察官の主張によれば、被告人風間は金に執着心が強く、金銭に細かい人間ということである。/そうした性格の被告人風間が事前にK殺害を共謀、しかも殺人動機が「金への強い執着心」であったとすれば、トレッカーをKWに渡せば済むことであり、K殺害当日の平成5年4月20日にKWが注文したバードの犬代金をわざわざ送金することはあり得ないと言える。/この事実からも被告人風間はK殺害について事前共謀がなかったことを物語っている。」(『一審弁論要旨』p78)

検察官と弁護人、上述したそれぞれの主張に対し、浦和地裁は検察官の主張どおり風間さんの殺害関与を認定した。ケンネルの資金が逼迫していたという、完全に事実に反する認定を検察官の主張どおりに認定し、風間さんが「返す金などない」としてKさん殺害を提示したという検察官主張も次のように全面的に認めた。

「関根としても、Kに右のような返済案を提示したことは、その直後に風間に当然伝えたであろうし、これに対する対処策も、右返済案が数日間という短い日限を切ったものであったことからして、当然直ちに話し合ったと考えられるのである。しかるところ、関根はその後まもなく売買代金の返還に藉口して川崎を誘き出して同人を殺害するに至っているのであって、このことは、風間が右のような犬の代金返還という形で解決を図ることに強く反対したことを示唆しているのであり、「風間に相談したが、(川崎に)返す金などないと言われた。」とする関根供述は、その限りにおいては十分信用できる」(『一審判決文』p191)

上の判決文において裁判官が展開している論法はまったく粗雑で乱暴きわまりないものに思われる。“関根がKに返済案を提案したことは当然風間に伝えたであろう。そしてただちに話し合ったであろう。しかるに間もなく関根がK殺害を実行しているところをみると、風間が返済に反対し、「返す金などない」と述べたという関根供述は、信用できる”、というのだ。一体、こんな没論理的な事実認定があるだろうか。「事実の認定は証拠による」としっかり刑事訴訟法で定められているのではないのだろうか。この判決文のどこに証拠の一片でも見られるだろうか。証拠どころか、筋道の通った推論の形跡さえない。しかも、この文を読んでくださる方はよく見ていただきたいのだが、裁判所は、風間さんが「Kに返す金などない」「殺るしかない」と主張したという関根供述は信用できる、と認定しながら、また、アフリカケンネルが資金繰りに困窮していたとも言いながら、なぜ殺害当日に高額の犬購入代を送金したかについては一言も触れていないのである。ここから推測できることは、資金繰りの困窮といい、財産・金銭へのつよい執着心といい、裁判所はいずれにしろ風間さんの殺害動機を金銭の出し惜しみと認定しているのだから、このあからさまな矛盾の露呈をみると、おそらくこの動機を認定したのも、他の動機を見つけだそうにも見つけだせなかったからではないかということが疑われる。そうである以上、この認定にとってより大きな決定的な矛盾――自家撞着におちいるしかない送金手続きに触れることは何としてもできなかったのだと思われる。しかしこのような不公正な手続きと判断の下で死刑判決がくだされているという事実は本当に驚くべきことであり、決して見逃すわけにはいかないことである。

さて一審の死刑判決を受けて、控訴審においても被告人・弁護人側は、当然、引き続きこのローデシアンの輸入代金送金の件を殺人共謀不在の根拠としてつよく主張した。その主張に対する裁判所の答えが、先に述べた

「しかしながら、その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない。同じ理屈が当てはまる関根が現にK殺害を実行しているのである。所論は理由がない。」

というものだったのである。この裁判所は自ら、一審の死刑判決を支持する最大の理由として、「関根と風間が共同経営していたアフリカケンネルの経済状態が悪化していた」(『控訴審判決文』p21)というように、金銭的困窮がKさん殺害の原因であると認定しておきながら、平然とこのようなことを言うのである。私はこれは悪質な詭弁である、被告人・弁護人は当然のことながら、その他の法曹関係者や判決文を読む者のすべてに対して最低限の誠意をも欠いた、救いの余地のない呆れはてた詭弁ではないかと思う。

当時関根氏と風間さんは離婚し、別居していた。関根氏は共犯者のY氏の自宅でY氏と同居していたのである。Y氏の証言によると、犬に関する問い合わせ電話や注文もその家で受けたりもしていたらしい。また風間さんと関根氏は夫婦であり、アフリカケンネルを「共同経営」をしていたには違いないが、勤務場所はずっと別であった。関根氏は犬舎で、風間さんは終日ペットショップで仕事をしており、同じ場所で一緒に働いていたわけではないのである。犬舎の従業員やY氏などの第三者が、関根氏が犬の売上代金の中から好きなように一部を抜き、残額を風間さんに売上代金として渡していた、ごまかしていたと証言していることも、裁判官は法廷でちゃんと聴いているはずである。だから、事件当時の状況についての上記のような「風間と関根が共同経営していたアフリカケンネル」という言い回しには、この場合引っかかるものがあるのだ。というのも、このこととのつながりで、「同じ理屈が当てはまる関根が現にK殺害を実行しているのである。所論は理由がない。」という認定がなされているのではないかという疑いを感じるからである。関根氏と風間さんとに「同じ理屈が当てはまる」という判決文のこの文言は何を意味するのだろうか? 関根氏が殺人を実行していることは被害者の遺骨の破片や遺品などの証拠物からも明らかであろう。風間さんの場合はまったくそうではない。事件前、Kさんと交流し交渉していたのはもっぱら関根氏であり、Y氏である。Kさんの奥さんによる、関根氏とY氏には何度も会っているが、風間さんに会ったことは一度もないとの証言もある。そもそも風間さんはKさんに会ったこと自体、ごくわずかの回数で、Kさんがペットショップに買い物にきた際の2、3度だけであると供述している。このことは裁判所も承知しているはずなのだ。「同じ理屈が当てはまる」ということはありえないはずである。 

さて、肝心の「その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない。」という判決文だが、これが蔵する論理を要約すると、ほぼ次のようなものになると思われる。

被告人風間がKへのキャンセル料返還を惜しみ、「返す金などない」といってK殺害を主張したという関根の供述は信用できる。なぜなら、他ならぬ共同経営者である関根の言葉であり、どうやら会社は経済的に困窮もしていた(管理人注:事実は、一審弁論要旨p67の「七 被告人両名の資産及びアフリカケンネルの経営状況」に記載のとおり、資金難の事実はまったくない)、また風間は金銭に対し異常につよい執着心の持ち主(管理人注:この認定の根拠・証言も法廷に提示された記録を見るかぎりどこにもない)でもある。したがって、この限りにおいて関根の供述は、確かだと認定してよい。さて、被告人および弁護人が主張するところの、それほど金銭に困りまた執着していたというのなら無駄になることが分かっている犬を購入するために殺害当日、多額の海外送金手続きをするはずがないではないか、という主張は、そういう可能性もあるという理屈にすぎないから、あえて取り上げる必要も価値もない。判決文の論理はこういうことになるだろう。だが、弁護人が、この送金の事実を持ち出し、力をこめてこの件を論述しているのはなぜか。一審の裁判官が、アフリカケンネルの資金難および金銭欲のために風間さんがKさん殺害を共謀したと認定し、死刑を宣告したからである。「金銭」を論点にしたのは検察官・裁判所であり、被告・弁護人ではないのである。裁判所がもし殺人の理由として他の動機を認定したのなら――たとえば、Kさんへの個人的な憎悪が殺害動機であるとでも認定したのなら、弁護人にしてもこの送金の事実について執拗に論じるはずもないのだ。誰が見ても、殺害当日のこの送金は事件の解明および公正な判決のための重大な論点に違いないのである。裁判所は、これほど確かな証拠をそなえた被告人側のこの主張を「そのようなことも可能であるという理屈にすぎない」と判定するのなら、それでは一体どのような主張ならば「そのようなことも可能であるという理屈にすぎ」なくない、正当な主張なのかを具体的に明示するべきであったろう。それなくしての、

「しかしながら、その主張は,そのようなことも可能であるという理屈にすぎない。」

という控訴審判決文のこの文言は、無責任な暴言であり、卑劣な詭弁と映るのである。この判定が通用するのなら、裁判所はどんなでたらめな事実認定も、またどんな無理無体な判決も思いのままであろう。これでは、この裁判官は決定的に法の精神と感覚を欠いた法秩序の破壊者であるというしかないのではないだろうか。そしてこのような事例を繰り返すことによって、日本の司法の世界はいよいよ論理も倫理も喪失し、法感覚を磨滅させていくのではないのだろうか。私には、これは、やはりラムズフェルドの「証拠の不在は不存在の証拠ではない」という発言と好一対のものと思えてならないのである。
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2009.12.13 Sun l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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