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95年に結成された「女性のためのアジア平和国民基金」について肯定的に語る声を過去私はあまり聞いたことがなかった。戦後補償運動に携わる人々の間での実態はよく分からないが、一般市民レベルでは概して不評、そういってよかったと思う。私もこの「呼びかけ文」を呼びかけられる側の一人としてはじめて読んだ時、読む者にひどくストレスを感じさせる自分本位の言い分だと思った。その後、拠金が思うように集まらなかった、多くの被害者に基金の受け取りを拒否されたと聞いても、必然の結果であろうと受け止めてきた。呼びかけ文の一部を下記に引用すると、

「この戦争は、日本国民にも諸外国、とくにアジア諸国の人々にも、甚大な惨禍をもたらしました。なかでも、10代の少女までも含む多くの女性を強制的に「慰安婦」として軍に従わせたことは、女性の根源的な尊厳を踏みにじる残酷な行為でした。こうした女性の方々が心身に負った深い傷は、いかに私たちがお詫びしても癒やすことができるものではないでしょう。しかし、私たちは、なんとか彼女たちの痛みを受け止め、その苦しみが少しでも緩和されるよう、最大限の力を尽くしたい、そう思います。これは、これらの方々に耐え難い犠牲を強いた日本が、どうしても今日はたさなければならない義務だと信じます。」

今、あらためて読んでみると、これまでに指摘され言い尽くされてきたことかと思うが、文面から主語が完全に抜け落ちていることに気づく。「この戦争」を起こしたのは、誰なのか、「多くの女性を強制的に「慰安婦」として軍に従わせ」、「女性の根源的な尊厳を踏みにじる残酷な行為」をしたのは誰なのか、みな主体が曖昧である。どうも「戦争」こそが主体だと言っているようにも読める。このような仕掛けというか形式によって、「いかに私たちがお詫びしても癒やすことができるものではない」「私たちは、なんとか彼女たちの痛みを受け止め、その苦しみが少しでも緩和されるよう、最大限の力を尽くしたい」という文章が示す「お詫び」し、「痛みを受け止め」、「その苦しみが少しでも緩和されるよう、最大限の力を尽く」さなければならないのは、「私たち」日本国民だということになり、その唯一の方法が、拠金をし、被害者に届けることであると述べているように読める。そのため、これにつづく「これは、これらの方々に耐え難い犠牲を強いた日本が、どうしても今日はたさなければならない義務」であるという文章のなかの「日本」は、「日本国家」でも「日本政府」でもなく、「日本国家と日本国民」または、「日本国民のみ」を指しているように受け取れる。この記述は、下記の結論めいた文章に帰結する。

「「従軍慰安婦」をつくりだしたのは過去の日本の国家です。しかし、日本という国は決して政府だけのものでなく、国民の一人一人が過去を引き継ぎ、現在を生き、未来を創っていくものでしょう。戦後50年という時期に全国民的な償いをはたすことは、現在を生きる私たち自身の、犠牲者の方々への、国際社会への、そして将来の世代への責任であると信じます。/この国民基金を通して、一人でも多くの日本の方々が償いの気持ちを示して下さるよう、切に参加と協力をお願い申し上げる次第です。」

ここで初めて「「従軍慰安婦」をつくりだしたのは過去の日本の国家です。」と国家の責任が明示されるが、その国家の果たすべき具体的責任は一切問われず、何ら言及もされず、日本国民の一人一人に対して「過去を引き継ぎ、現在を生き、未来を創っていく」責任を問い、「全国民的な償いをはたすこと」が、「犠牲者の方々」への、「国際社会」への、「将来の世代への」務めであるという託宣がなされる。被害者は、「慰安婦」制度を作った日本国家の責任を問うて名乗り出てきたのに、肝心要の被害者のその基本的姿勢に対する言及はなされない。償い金を届けさえすれば、受け取ってもらえることは自明のことであるかのようである。政府が負っている責任の実体は問われず、能うかぎりやさしく労られているように見え、ここには、結果として、1945年の敗戦後、最大の戦争責任者である「国家」とその頂点に位置する天皇の責任について何らの言及もしないまま、国民に対して「一億総懺悔」を述べた人々が用いた論理と似通ったものがあるように思える。国家や政府の責任を問わないまま、国民に対して「犠牲者の方々への、国際社会への、そして将来の世代への」責任を問うたり、説教したりするのは筋違いであろう。もちろん、「一億総懺悔」の場合とは異なり、「国民基金」の人々が善意の持ち主であることは疑わないが、こういう呼びかけ文を作ってしまうのは、自分たちの善意を微塵も疑わないところからくるのではないかという思いは否めない。

また呼びかけ文には「全国民的な償い」という言葉が使われているが、戦後補償運動関係者やよほどこの問題にふかい関心をもった人以外の日本国民のほとんどは、「慰安婦」制度が作られた経過や、どのようにして女性たちが集められたのかという基礎的事実についてほとんど知識をもっていないのである。「償いをせよ」というのなら、「呼びかけ文」は、まずその実態について国民に正確な知識を与え、一人一人が償いをしなければならない根拠を示すべきなのに、それはなされず、むしろ曖昧にやり過ごそうとしているように見える。そもそも、当たり前のことだが、政府予算は政府が稼ぎだしたものではなく、日本の住民一人一人が納めた税の集積なのだが、それには手をつけずに拠金を募ることについての説明らしきものは「日本という国は決して政府だけのものでなく」という言葉で責任をとるべき主体を政府から国民に転嫁しているように思える。このような姿勢・態度で「拠金」を募ろうとする、募ってもよい、これで拠金をしてもらえるとする考えが初めからおそろしく甘いし、不遜でもあると思う。「国民基金」は、拠金を届ける先の被害者の意思や心情についても、拠金をする側の日本国民のそれについても正確な判断ができなかったということになると思う。

どうしてそのようなことになったかの原因を考えると、市民団体や個人が、責任を負う姿勢も自覚も不十分な政府に対し、それと対峙する姿勢や覚悟を欠き、あまつさえその政府と共同でこのような難題に取り組もうとすると、悲惨な結果になるということではないだろうか。1、2年前、「国民基金」の代表的存在だった大沼保昭氏の著書「慰安婦」問題とは何だったのか」(中公新書・2007年6月)」を読んだ後では、とりわけつよくそう思った。これほど鉄面皮な、といっては言い過ぎか、完全な自己肯定、自画自賛を内容とした本はそうそうないのではないかと私はその時感じたし、今でもその思いを拭えない。きっと大沼氏と同じような考え方をしている人は他にも存在するのだろう。そういう人でもこのようなことを書けば他人にどう受け取られるかという判断のもとにおそらくは控えるであろうと思えることを大沼氏は堂々と書いている(「はじめに」からして私は度肝をぬかれた)が、その点、他人の思惑を慮って控える人よりは、大沼氏は正直といえば正直と言えるのだろうか? 例をあげれば、「償い金の額をきめて個々の被害者に手渡しはじめたあとで受け取りを希望する元「慰安婦」が続出して、償い金が足りなくなったらどうするのか。この不安も大きかった。」、「基金設立時の呼びかけに応える国民の熱気が冷めないうちに一刻も早く基金を財団化して寄付金への税の免除措置を、と日々焦燥を募らせていたものとしては、……」などと平気で書いているのである。被害者に対しても、日本国民に対してもこの考え方がどれほど非礼であることか本人は気づかないのだろう。とにかく書かれている内容に驚かされることの連続であった。

それでもこれまで私は、「『慰安婦』問題とは何だったのか」について、感想を述べようなどとはまったく考えていなかった。本の問題性を指摘してもしかたがない、通じるはずがないという無力感に似たものをおぼえさせられていた。言葉づかいや手法の問題ではなく、ものごとの根本的な観方・捉え方に関する問題だと感じられたからである。また、「国民基金」に対してこのような見方を多くの人が共有していると思っていたためでもあった。

ところが、ところが、である。最近、「国民基金」や大沼保昭氏に対して、否定一辺倒ではなく、新たな角度から検討し、見直そう、というような声をチラホラ聞くようになったのだ。こちらのブログを読ませていただいたところ、『戦後責任論』や『靖国問題』の著者である高橋哲哉氏もそのような人の一人であるようなのである。そこで『世界』1月号に掲載されている高橋氏のインタビューを見てみると、確かにかつてとは論調が異なっている。時とともに考えが変化すること自体は人間当たり前のことではあるのだが、問題はその論調の変化がその人の基本的なものの考え方や思想を形成していたはずの核心部分における変貌であり、後退・変質のように見えることである。唐突な感想のようだが、“高橋氏までも!”という思いを禁じえなかった。ここ数年顕著になったことだが、これまで公言していた根本原則をいつの間にやらひそかに、あるいは平然と変えてしまう学者やマスコミ人が続出するようになった。どうしてこんな事態になったのか、実に呆気にとられるばかりである。2年ほど前、辺見庸氏の講演を聞きに言った時(演題は「死刑廃止」に関するもの。)、辺見さんは終わりに近くなってから何人かの政治家やマスコミ人の悪口をあけっぴろげな調子で述べた後、「すばらしい学者だと思っていた人が、近頃コマーシャルに出ている」といかにも落胆した口調で話していた。あまりテレビを見ない私は誰を指しているのか分からなかったが、後で連れの友人に訊くと「カンサンジュンでしょ」という話であった。確かに、姜尚中氏の場合も最近の発言の変容ぶりには驚かされることが多い。現代日本においては、マスコミで活躍するような人はみな初めから知性といえるほどの知性などもっていないということなのだろうか。それともマスコミの世界で生きていくためには日本ではもはやこのようないき方しかないのだろうか。雑誌などに登場する人で年齢・経験を増すにつれ成熟・発展を感じさせる人は最近ほとんど皆無のように思える。少し前までこんなことは想像していなかった。戦前・戦中の知識人の転向や戦争協力には、天皇制下の治安維持法や、一方「アジアの解放」という宣伝文句の浸透など複雑な側面もあり、体制の側に巻き込まれた人に同情してしまう場合もある。知識人ではない私などにしても当時を生きていたならば同じ経緯を辿ったかも知れないとも思う。しかし、日本は現にあれだけの悲惨かつ悲劇的な歴史をもっているのだから、もう二度と同じ言いわけは通用しないと思うのだが…。さて、高橋氏は次のように書いている。

「 論争的な本についてはきちんと検証する場が必要で、ここでは感想のみにとどめざるをえません。先ほども一例をあげたように、大沼氏の議論には同意できない点もありますが、国家補償論の立場から一刀両断に否定することのできない論点も提起されていると思います。事業が終了したアジア平和国民基金について、何の成果もあげなかったといま私は言うつもりはありません。大沼氏が指摘するように、被害者の意識や要求が多様であったことは事実でしょうし、首相の「お詫びの手紙」や「償い金」を受け取り、それに慰籍された被害者の方がいたとしても不思議ではないでしょう。しかし、大沼氏も「結果責任」を主張していますが、結果的に、同基金が、日本政府が国家補償をしないで済ませるための隠れ蓑として機能してきたことは認めざるを得ないのではないでしょうか。村山政権のあと、自民党政権になったことも影響しているでしょうが、基金の設立後、政府が不作為であったことは大沼氏も認めています。
 法的責任を重視して国家補償を求め、アジア平和国民基金を批判してきた私たちが、国家補償を実現できていないことは批判を受けて当然です。国民基金を拒否し、国家補償も受けられずに亡くなっていった被害者の人たちに、いま、どんな言葉をかければよいのか。」

上の文で、高橋氏が大沼氏に「同意できない点」として挙げている「一例」とは、大沼氏が「日本という国家」について述べている次の文章である。

「白人支配・欧米人優位の現実と神話が支配した19世紀から20世紀の世界において、そうした白人支配・優位を打ち破るのに大きな功績があり、限りない希望を世界の諸民族に与えた国家である。」/「『慰安婦』制度とは、そうした優れた国、世界に誇るべき数々の美点をもつ日本が、たまたまある時期犯してしまったひとつの過ちであり、負の遺産である」

大沼氏は上記のように述べているらしい。らしい、と言わなければならないのは、私は「「慰安婦」問題とは何だったのか」を図書館から借りて読んだのだが、実はこのような記述があったことを記憶していない。気になった箇所をコピーしたのに、そのなかにこの文は含まれていなかった。おそらく見過ごしたのだと思うが、これを読むと、大沼氏は「慰安婦」をめぐるこの問題には関わらないほうがよい人だったのではないかという気がする。高橋氏は、「この文章に現れている感覚を私は共有できません。大沼氏はそうではないはずですが、韓国や台湾における「慰安婦」問題が、「戦争責任」の問題としてだけではなく、長い植民地支配のもとで生じた問題としてあることが抜け落ちてしまう傾向があります。」と、あえて「大沼氏はそうではないはずですが」と断っている。これは大沼氏への配慮だろうか、それとも精一杯の皮肉なのだろうか? 中塚明氏は、『司馬遼太郎の歴史観』(高文研2009年)のなかで、インドの政治家ジャワーハルラール・ネルーが日露戦争における日本の勝利について述べた言葉を引いている。

「 日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかを、われわれはみた。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は、朝鮮の没落を意味した。」(『父が子に語る世界歴史』)

日本について「白人支配・優位を打ち破るのに大きな功績があ」った、「限りない希望を世界の諸民族に与えた国家である」などと考えているのは、日本人だけ。それもほんの一部の人だけではないのだろうか。加藤周一も『日本はどこへ行くのか』において、アジア諸国の大学で教鞭をとった経験によると思われるが、次のように述べている。

「 東南アジアは根本的には韓国、中国と同じです。インドネシアでも、タイでも、マレーシアでも同じだと思いますが、ただちがいもあります。日本の経済的な力は、中国を支配してはいないけれど、東南アジアではかなり強い。戦争の過去から来る反感と現在の日本との経済的結びつきから受ける利益とが競合している。だから、東南アジアの国々の企業の社長や政府の役人に会えば、反日的なことをいう人は少いでしょう。しかしタイでさえ、大学に行って学生と話せば、日本批判は激しい。おそらくマレーシアやインドネシアではさらに猛烈でしょう。(略)/ 中国でも対日批判は厳しい。政府間交渉とかビジネスの交渉の話は知らないけれども、大学のなかの学生乃至教師と接触すると、日本批判の鋭いこと、深いことがわかります。親日的な日本学者でさえもそうです。もちろん日本人がみんな悪いといっているわけではない。しかし侵略戟争の過去にどう対応しているか、南京虐殺に関してどう考えているのかということで、日本人を二つに分けてつき合っているのではないかと思うほどです。私の印象では、日本のことを研究し、日本学の専門家であるような学者で、かなり親日的な人でも、南京虐殺に日本人がどう反応するかで扱いがちがってくる。そのくらい激しいものです。おそらく大学の教師および学生でそういうことを考えていない人はいないのではないかというぐらいの印象をもちました。」

日高六郎が「個人的な感想」として20年近くも韓国の獄中に囚われの身になっていた徐勝さん出獄のさいに述べたこんな言葉も思いだされる。

「 1945年、敗戦の11月にアメリカから連合国の賠償使節団としてポーレー(エドウィン・W・ポーレー)という人が日本に来ました。ポーレーはその報告の中で、敗戦日本は日本が侵略したアジアの諸国、朝鮮も含めたアジアの諸国の民衆の生活水準よりも高くなることは許されないというふうに言いました。道義的にこのことに対して反論できるでしょうか。」

このような数々の証言を前にすると、日本が「19世紀から20世紀の世界において、そうした白人支配・優位を打ち破るのに大きな功績があり、限りない希望を世界の諸民族に与えた国家である」などという大沼氏の言葉は、あまりにも虚しいし、これでは「国民基金」が国内外でさまざまな軋轢を引き起こしたのは必然だったろうと思う。

高橋氏の発言に戻ると、氏は「『慰安婦』問題とは何だったのか」に関連して、「ここでは感想のみにとどめざるをえません」と述べているので、いずれきちんとした検証文が発表されるかも知れないが、このなかで気になるのは、

「 法的責任を重視して国家補償を求め、アジア平和国民基金を批判してきた私たちが、国家補償を実現できていないことは批判を受けて当然です。国民基金を拒否し、国家補償も受けられずに亡くなっていった被害者の人たちに、いま、どんな言葉をかければよいのか。」

と述べていることである。これでは、「国民基金」を拒否した被害者の支援に携わった人たちに対しても責任を負わせるかのような言い分で酷だが、拒否したまま亡くなった被害者に対して礼を失するのではないだろうか。被害者が国家補償も受けられずに亡くなったのは、日本政府が補償しなかったせいであり、高橋氏をはじめとした支持者のせいではない。「国民基金」を拒否した被害者にとっては拒否し通したことはせめてもの誇りであり慰めだったのではないかと私は思うが、それはもし自分が、あるいは自分の家族が被害者の立場だったならば、と考え、想像してみた上でのことである。基金拒否の意思をもっている人にとって、基金を代表する人物から発足にあたって「受け取りを希望する元「慰安婦」が続出して、償い金が足りなくなったらどうするのか。この不安も大きかった。」とか、お詫びの手紙に総理の署名が入ったことについて「その意義は過小評価してはならない」、「そうした重みをもつ決断だったからこそ、(略)橋本首相は被害者個々人宛の総理のお詫びの手紙を書くことについて躊跨し、基金と内閣のあいだに極度の緊張が走ったのである」などの何ともいえない無神経かつ恩きせがましい倒錯発言が出るような性質の「償い金」を受けとって救いになる何ものがあっただろうか。大沼氏は、本のなかでしきりに「お金がほしい被害者」という言葉を繰り返しているが、被害者の人たちが自分のこの発言を知ったらどう感じるだろうとは考えないらしい。人間がある程度集まれば、どんな集団であってもそのなかには経済的逼迫をかかえている人が必ずいる。こういう被害者に関する大沼氏の記述を読んでいると、大沼氏は被害者のその逼迫にいわばつけこんで基金を誇示しているかのように感じられる。これでは被害者のなかにもし経済的に困窮している人がいなかったならば、「国民基金」の存在価値はなかったことを自ら認めていることになるのではないだろうか。それでは償いとはとうてい言えないことになる。私は言葉の壁が存在したことは「国民基金」の活動にとってどれだけ助けになったか分からないと痛切に感じた。

逆に高橋氏に問いたいのだが、基金を拒否して亡くなった被害者の方のなかに生活費にも事欠いている人が現実にいたのだろうか? 何とか食べられ、通院費などに困窮していたということがなかったのなら、拒否し通したほうがまだしも仕合わせだったのではないだろうか。だんだん年をとってきて分かることだが、老齢になると、食うに困るような生活は不安でたまらない。生活の安定はどうしても必要である。しかし、それは必要が満たされる生活であればいいので、その保証さえなされれば、例外はあるにしろ、物質的な欲望はしだいに減少していくのが老年期の特徴である。同時に、自分にとって真に重大なことが鋭く研ぎ澄まされて感じられるようになるのも老年期である。多くの被害者が齢60、70になってから意を決して日本国家の責任を問うてきたのは主にその理由によるものだったのではないかと思う。お金に関していえば、大沼氏は「多様な被害者の認識」という項目にこんなことを書いている。

「 もちろん、すべての被害者が総理のお詫びの手紙を高く評価したわけではない。わたしにとって忘れがたいのは、フィリピンで会ったひとりの元「慰安婦」のケースである。わたしが、「総理のお詫びの手紙はどうでした?」と尋ねたのに対して、彼女は質問の意味が理解できないようだった。話を進めていくうちに、彼女にとっては償い金と医療福祉支援費という「お金」をもらえたことがなによりも大事なことであって、総理からのお詫びの手紙についてはほとんど関心がなかったことがわかった。/これは、総理のお詫びの手紙を喜んでもらえるだろうと考えていたわたしにとって、ひどくショッキングな体験であった。われわれがあれほど努力してようやく勝ち取った総理のお詫びの手紙は、被害者にとって受け取ったことも忘れてしまうようなものにすぎなかったのか。こうした悲しい、というより情けない、気持ちがした。ただ、よくよく考えてみると、このことは総理のお詫びの手紙の問題性を示すというより、わたし自身が言い続けてきた被害者の境遇と考えの多様性のあらわれを示すものだった。」(p188)

「われわれがあれほど努力してようやく勝ち取った総理のお詫びの手紙」という言葉は、日本の総理大臣がいかにシブシブ、イヤイヤ、お詫びの手紙を書いたかという事実を証明するものでしかなく、被害者に対する侮辱になるのではないかと思うのだが、大沼氏にとっては、自分たちの多大な努力を強調するいわば手柄話の一つになっているように感じられる。被害者は「総理からのお詫びの手紙についてはほとんど関心がなかったことがわかった」というが、上記の大沼氏の言い分を見ると、手紙に関心を見せなかったことの理由を、こんなに単純に「お金」のせいにしてしまっていいのだろうか、と思う。またこの被害者の女性が現実に「お金」に非常に困っていたとしても、あるいは困っていたのならなおさら、このような「金がすべて」のごとき解釈をくだすことには問題があるだろう。大沼氏は、自分の母親や妻や娘がもしこのような立場に置かれたらと想像し、考えをめぐらせてみるといいのではないだろうか。

高橋氏は、徐京植氏との対談本である「断絶の世紀」(岩波書店2000年)のなかで「ハムレット」を援用して、次のように述べている。

「 たとえば日本では、元「慰安婦」など名のり出てきた被害者たちに対して、「なぜいまごろ」という声がまずあがった。いまでもそういう感覚が共有されている。しかし、これは時間のズレの問題の露呈なのだと思います。
 私はこの問題を考えるときに、『ハムレット』を思い出すんです。ハムレットは自分の父が亡くなって非常な悲嘆にくれている。亡くなった王の座を叔父のクローディアスが襲い、自分の母ガートルードと、つまり先王ハムレットの妻と結婚してしまう。冒頭で、クローディアスとガートルードが、悲嘆にくれるハムレットを教えさとそうとする場面がある。ハムレットは精神分析的にいうと喪の作業をしているわけです。つまり自分が愛着をもってそれに同一化していたような対象が突然失われた場合、現実を認めたくない、しかしやはり認めざるをえない。それを現実として認めるまでに喪の時間、悲哀の時間を過ごしてそこから立ち直る。
 それに対して新王と王妃は、さっさとその時間を切り上げてしまえというわけです。生あるものは必ず死ぬ、これはわかりきったことではないか、これは人間の運命なのだ、いつまでもそういう悲しみに沈んでいるのは、クローディアスの言葉を使うと、天に背く不遜のきわみ、何より理性、道理に背く罪であるというのです。早く『未来志同一的に生きるのが男らしい態度なのだ、と。まさに自然的時間に戻れとハムレットに言っている。 」

「国家補償を実現できていないことは批判を受けて当然」とか「国民基金を拒否し、国家補償も受けられずに亡くなっていった被害者の人たちに、いま、どんな言葉をかければよいのか」などと述べているところをみると、高橋氏はこのような考え方はもう捨てたのだろうか。「靖国問題」で、「靖国信仰から逃れるためには、必ずしも複雑な論理を必要としない。悲しいのに嬉しいと言わないこと。それだけで十分なのだ」という記述を読んだ時も、私は上記のハムレットについての話を思い起こして意図を理解したつもりでいたのだが。
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2010.01.25 Mon l 社会・政治一般 l コメント (2) トラックバック (0) l top
殺害したEさんとWさんの遺体解体の様子を描きだすY氏の供述内容については、真偽を慎重にみきわめる必要があると思う。Y氏は死体損壊・遺棄による「実刑3年」の判決を受け、満期出所した後、新潮社から事件について叙した著書『共犯者』を刊行している(後にほぼ同内容の本が、表題も著者名も変更されて角川書店から文庫で出版されている。こちらは題名『愛犬家連続殺人』、著者名「志麻永幸」)。取調べや法廷での供述と著書の内容には数々の相違・矛盾点があるが、これについては以前にこちらで指摘した。今回は、Y供述の中身およびこの供述に対する裁判所の認定に的をしぼって検討してみたい。最初に解体現場における風間さんの振る舞いについて述べたY氏の供述を判決文から引用する。

「翌日の午前2時ころ片品村の自宅に着くと、三人でEとWの死体を家の中に運び込み、まずEの死体を風呂場の中に入れて、関根と風間の二人で解体を始めた。自分は解体作業に携わっていない。二人は風間が帰るまでずっと風呂場で作業をしていた。そのとき風間は、派手な花柄のスパッツを着用し、派手なラメ入りのサンダルを履いており、演歌を鼻歌まじりに口ずさみながらEの死体を細かく切り刻んでおり、「ちんちんは気持悪いから、あんたやってよ。」などと関根に言っていた。風間については普段は口数の少ないお嬢さんタイプの女性だと思っていたので、これを見て本当にびっくりした。風間は、午前5時ころになると、「これで帰るから。」と言って、出て行ったが、そのとき風呂場の出入口付近を見ると、肉片や内臓等が入っていると思われる黒いビニール袋が6個位置かれていた。関根は風間が帰った後も作業を続けており、二人の死体を完全に解体した。二人の骨、衣類、所持品等は自分が関根の指示でドラム缶の中で燃やして灰にしてしまった。」(『一審判決文』p104~105)

これに対して裁判所は次のような判断を示している。

「Y供述の内容は、「風間は派手な花柄のスパッツや派手なラメ入りのサンダルを履き、鼻歌まじりに演歌を口ずさんだりしながらEの死体を細かく切り刻んでいた。このような風間の姿を見て本当にびっくりした。風間は、関根に対して『ちんちんは気持が悪いからあんたやってよ。』などと言っていた。また、風間は、午前5時ころになると用事があるからとしてさっさと一人で先に帰ってしまった。」などというもので、この世のものとは思えない凄惨な光景を極めて具体的かつ写実的に描写し、まさに経験した者でなければ語れないような臨場感を備えており、これが極めて高い信用性を有していることは明らかである。そして、関根供述の内容も、「Eの死体を解体するのは自分と風間がやったが、風間は自分に指示命令されてやったのではなく、本人の意思で進んでやっていた。風間はEの下半身を解体しており、その陰茎を含む部分を四角に切って、『それ以上は切れない。』などと言って自分に渡してきたことがある。風間は、午前6時ころになって、『用があったら電話して下さい。』と言って一人で先に帰って行った。」などというものであり、右Y供述を裏付けているのである。」(『一審判決文』p351~352)

この場面はY氏の著書のなかで最も話題になった箇所のようで、ネットでもこれに言及した記事を二、三度、見かけたことがある。裁判官は、Y氏のこの供述について、上記のように「この世のものとは思えない凄惨な光景を極めて具体的かつ写実的に描写し、まさに経験した者でなければ語れないような臨場感を備えており」との判示をしているが、この判断は正鵠を得ているだろうか? 私にはこの供述はまったく現実性を欠いた、どんなお手軽なテレビドラマにも使えそうにない非現実的ストーリーのように感じられる。これは人間を殺害した後の遺体の解体処理場面というよりは、グループで夏の海辺に遊びにやってきた若い男女の振る舞いであるとでもいったほうがずっと説得的なのではないだろうか。広々とした場所にきて気持ちのウキウキした若い女の子が包丁片手にバーベキューの準備でもしている光景のように思える。実際、そういう場面ならばテレビや映画やまた現実においてもどこかで見たことがあるような気がする。Y氏の本を読んだ人でこの場面について真に迫っているという人がもしいるとすれば、もしかすると過去にどこかで見たそのような場面の記憶を無意識のうちにY氏の描写するこの解体場面に投影させることで錯覚や混同のうちに納得した気になっているにすぎないのではないだろうか。一考の必要があると思う。キャンプ場でのバーベキュー作りになら、派手な花柄のスパッツに着替えたり、ラメ入りのサンダルを履いたり、演歌を口ずさみながら豚肉を刻んだりしても不思議はない。けれども、深夜、民家の狭い浴室で死んだばかりの(殺害に関与したにせよ、しなかったにせよ)二人もの人間の遺体を解体するというのに、人間、どういうわけでキャンプと勘違いしたかのような恰好に着替えたり、歌を歌ったりする気になるだろうか。風間さんは気が狂っているわけではないのだし、風間さんを知る多くの人の法廷証言でも、風間さんが常日頃突拍子もない行動などとは縁遠いタイプの堅実・実直な人柄だという点では見解の一致しているところなのである。また、このような場面の証言をしている当のY氏自身にしてからが、一方で、風間さんについて「人を殺せるような人間ではない」「人殺しには絶対に加わらないと思うし、前もって知ったら止めろという人間だと思う」と述べている。これは取調べ段階での供述であるが、出所した後証言台に立った時には、「死刑と聞いた時びっくりした」「人も殺してないのに、何で死刑になるの」「早く釈放すべきである」とまで述べているのだ。Y氏のこの証言は、前にここで述べたことだが、Wさんの死因について風間さんは「関根とYがWの首に紐のようなものを掛けて、(略)引っ張り合」ったと、Y氏が絞殺している現場を自分は現認したと明確に述べているにもかかわらずなされているのである。こうして経過をたどりくると、裁判所の認定はいっそばかばかしいとさえ言えるものではないだろうか。弁護人は下記のような指摘をしているが、大変現実的な意見だと思われる。

「Yによれば、被告人風間が浴室内で着替えたのであろうとのことであるが、Eの遺体が搬入されて極めて狭くなっている浴室内で、これからEの遺体を解体しようとするに先立ち、そのような衣類に着替える必要性は全くないと考えられる。/また、水商売の女が履くようなラメ入りのサンダルという点については、(略)狭い浴室内で、遺体を解体するにあたり、ゴム長靴等ならまだしも、不安定で転倒の危険さえあると考えられる水商売の女が履くようなサンダルを履く必要性はなく、また極めて不合理な行動ということができる。/さらに、Yの供述によれば、被告人風間は、スパッツを着用したままでY方を後にしたということであるが、このような行動は、解体の際に血液等が付着している可能性があることなどを考えると不自然である。/また、死体の解体時に、スパッツやサンダルを着用等していたということであれば、当然被告人風間の日常生活においても、スパッツ姿や水商売の女が履くようなサンダルを履いていることが目撃されなければならないと考えるが、被告人風間のそのような姿を目撃した旨の証拠は、一切存在しない。」(『一審弁論要旨』p475~476)

苦笑させられるのは、裁判官の次の見解である。上記のY供述に対して、裁判官が「経験した者でなければ語れない」「具体的かつ写実的」「臨場感」などという評価をくだしているということは、風間さんが「死体の解体時に、スパッツやサンダルを着用」したり、演歌を口ずさんだりするような意味不明かつ非常識な行動をする人間と認知しているということであろう。ところが、風間さんが早朝一人でY宅から帰って行った理由については、

「風間は、死体解体の手伝いに出かけるにしても、子供達の世話やアフリカケンネルの業務のことを考えれば、翌朝早いうちに熊谷に戻っていなければならなかったのである。」(『一審判決文』p353~354)

と、一転して急に日常的・現実的な判断を示すのである。こういう異常な状況下においても、風間さんが子どもたちの世話をはじめとした家事や仕事への考慮を忘れないだけの分別を持っている人物と判断するのなら、なぜ、遺体解体現場での「花柄のスパッツや派手なラメ入りのサンダル」や「演歌」などという誰が見ても突拍子もない証言を一も二もなく事実と決めつけ、「凄惨な光景を極めて具体的かつ写実的に描写し」云々と評することができるのだろう。不可解なことである。判決文は、被害者であるWさんが走行中の車内で絶命する場面についてのY氏の次の供述

「関根の指示に従って車を走らせていたところ、靴を履いたまま助手席のダッシュボードに足を乗せて座っていたWが突然呻き声をあげて体を突っ張らせ、痙攣硬直してそのまま死んでしまった。そのときWがダッシュボードに乗せていた両足を突っ張らせたため、フロントガラスの左下の二か所の部分がひび割れた。しかし、関根と風間は、この光景を見ても驚いた様子は全くなかった。」

に対しても、

「右供述は極めて具体的で恐ろしいほどの迫真性に富んでいる…」(『一審判決文』p175~176)

と、遺体解体の場面に対するのと同内容の判断を示してY供述の信憑性を強調する。一方、同じ場面についての風間さんの次の供述――先程述べたWさん殺害の場面についての供述であるが、

「関根の指示で4、50分位車を走らせていたが、病院などない荒川沿いの人気のない夜道を走っているうちに関根とYがWの首に紐のようなものを掛けて、『掛かったか。』などと言いながら、『せえの。』などとかけ声を出して引っ張り合っていた。そのときWの両足がダッシュボードの上にせり上がって両足が窓ガラスに当たってひび割れ、Wはその場で死んだ。」

に対しては、

「とにかく病院に行こうと思って夢中で病院などない道を運転走行していたなどとする点は作り事としか思えないし、関根とYがWを絞殺したとして述べている内容も、二人があたかもゲームでもしているかのような様子で首を絞めていたと言わんばかりの極めて不自然なものであって、前記Y供述と対比しておよそ真実味に欠けている。」

と判示する。「『掛かったか。』などと言いながら、『せえの。』などとかけ声を出して引っ張り合っていた。」という光景は実際異様きわまりない。けれども、事件を追うなかで見てきた関根氏のきわめて特異な性向――たとえば,判決文も明記しているように、法廷証言においても殺害した被害者の遺体を焼却してなきものにすることを「ボディを透明にする」などと述べていることに象徴される――を考慮に入れると、これは関根氏の行為として現実にありえないことでは決してないだろうと思う。そう考えると、この光景は「ゲームでもしているかのような様子」とは様相を異にしたものに感じられてくる。私にはこれは言いようもなく凄惨な光景に映る。「ゲーム」というなら、むしろ「風間は派手な花柄のスパッツや派手なラメ入りのサンダルを履き、鼻歌まじりに演歌を口ずさんだりしながらEの死体を細かく切り刻」む行動のほうがはるかにゲーム的ではないだろうか。

「このように、Eらの死体損壊遺棄に係わる客観的な情況事実は前記Y供述(及び関根供述)と極めて良い整合を示しているのであり、このことからも前記Y供述等が信用できることは疑う余地がないのである。
しかして、右のとおりY供述(及び関根供述)が信用できるのであるから、これと全く相反する風間の前記弁解が信用しえないことはいうまでもない。
そして、右情況事実の示すところと現に風間が死体解体作業に従事したという前記Y供述等を併せ考えると、風間がY方に同行したことや、朝方熊谷に帰ったことはもちろん、Y方で関根とともに死体解体作業に従事したことも全て予定の行動であったと認められるのであって、このことは、風間が関根とEらの殺害等について綿密かつ詳細な謀議をしていたことをよく物語っているのである。
また、信用できる前記Y供述の内容に照らすと、風間がEに対していかに凄まじい敵意と憎悪の念を抱いていたかを如実に看て取ることができるのである。」(『一審判決文』p354~355)

この判示を見ると、「この世のものとは思えない凄惨な光景を極めて具体的かつ写実的に描写し、まさに経験した者でなければ語れないような臨場感を備えており、これが極めて高い信用性を有していることは明らか」であるので、Y供述は信用でき、疑う余地はない。ゆえに,これと相反する風間供述は信用できるはずがない。信用できるY供述から推測すると、「風間がEに対していかに凄まじい敵意と憎悪の念を抱いていたかを如実に看て取ることができる」。判決文はこのように述べているのであるが、これはYの語ることは絶対に正しいという前提条件があって初めて成立する論理である。

Kさん殺害の現場に居合わせず、遺体解体にも関わっていない風間さんが、今回初めて直接殺害に関与し、こうして遺体解体までするというのに、これほどまでに気軽、大胆、平然と行動におよぶのは人間心理に照らしていくら何でも妙ではないか、奇怪であり非現実的すぎるではないかという基本的疑問に対して裁判所はどう応えるのだろう。裁判所が風間さんによる「E氏への敵意や憎悪の念」をどんなに強調しても、事実としてそのような敵意や憎悪をいだいていたという証拠は一切なく、したがって当の判決文においても具体的なことは何ら示されていないのである。

ここで、証拠不十分として立件が見送られた「M事件」のことが思いだされる。判決文は、昭和59年(84年)に関根氏が引き起こしたのではないかと疑われているMさん殺害事件に言及し、そこで風間さんのこの事件への関与を執拗に匂わせ、暗示していた。しかし、関根氏から万吉犬舎に呼び出され、頼まれてMさんの遺体の焼却を自分が行なったと法廷で証言した人物は、風間さんのM事件への関与およびその可能性について聞かれ、躊躇なく明確にこれを否定しているのだ。ところが、判決文はこの証人の明確な否定をあろうことか肯定に変え、それを根拠としてのこれは暗示なのである。遺体解体はこの「M事件」ですでに経験済みということで、E・Wさんの遺体解体現場における風間さんの奔放な行動も説明できると言いたいのではないかと思われる。でもこれでは被告人は法による裁きをうけているとはとうてい言えないだろう。疑問は尽きない。
2010.01.22 Fri l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
E氏とW氏の殺害後、日付が替わった翌22日の2時ころに関根氏、Y氏、風間さんの三人は遺体を車に乗せて片品のY宅に到着した。Y宅に向かうにあたっては、Y氏はKさん殺害時と同様、またも関根氏に脅迫されてやむをえず協力したのだと次のように述べている。

 Y氏は今回も関根氏に脅迫され、やむなく事件に協力したというのだが…

「関根の指示でカリーナバンにWの死体を積んだまま三人でEの家に戻ったが、その途中で関根に「お前は共犯者だ、死体処理を手伝え。手伝わなかったらカメラマンの女も生かしやしねえ。」などと言って脅された。/「カメラマンの女」とは当時自分が付き合っていたN・M子のことである。E方に入ると、Eが仰向けで大の宇になって倒れて死んでいた。三人でEの死体もカリーナバンの荷台に運び込んで一旦万吉犬舎に立ち寄り、関根が「博子の足があるから、お前が先頭を走って山に行け。」と言うので、自分が万吉犬舎に置かれていたクレフを運転して先導し、風間が二人の死体を積み込んだカリーナバンを運転し、関根がその助手席に乗り、片品村の自宅に向かった。」(『一審判決文』p104)

Y氏が述べるこの状況も実は大変おかしい。「「手伝わなかったらカメラマンの女も生かしやしねえ。」などと言って脅された」というが、関根氏はKさんの時もそうだったが、脅すについてこの時ピストルやナイフを手にしているわけではなく、手ぶらのようである。手ぶらでこのように脅されて、もう関根氏に従う以外に助かる方途はないと思いこむほどの恐怖を感じるだろうか? 関根氏は暴力団員でもなければ怖い仲間もいない。そのことにはもうY氏も気づかなかったはずはないと思えるし、Y氏は風間さんの場合と違って関根氏との間に面倒な縁故関係など何もないのだ。一目散に逃げればそれで済むはずではないか。今警察に駆け込めば、被害者の遺体ごと現行犯で逮捕して貰えるのだから、願ってもないチャンスである。まして、片品に向かう際、Y氏は風間さんのクレフに一人で乗っているのだ。こうして見ていくと、「脅された」というY氏の言い分にはまったく説得力がないように思える。

風間さんの弁護人は、片品に向かうにあたり、Y氏が一人でクレフを運転し、風間さんが遺体を乗せたカリーナバンを運転したことについて下記のように論述しているが、この論旨は大変説得的であると思うので、引用しておく。

「Yは、クレフに乗り込んだところ、被告人関根がクレフの助手席に乗り込んできて「お前は共犯者なんだ」などと言い、さらにN・M子について危害を加える等の脅迫をなしている旨、供述している(甲第486、593号証)。/(略)しかしながら、被告人関根が、このようにYの裏切りを警戒しているのであれば、クレフにYを単独で乗車させて先行させる理由は、全くないと考えられる。/検察官が述べるように、E・W事件が被告人両名の共謀にかかるものであって、被告人両名が運命共同体であり、一方、Yは動機もない小心者の部外者であるとするならば、このようなYの裏切りを警戒するのが当然であり、裏切りを防止するためにはYを単独で行動させずに、脅迫者である被告人関根がYの面前にいることが最も効果的なのであるから、被告人関根がクレフまたはカリーナバンに、Yと乗車するという極めて容易な手段があるにもかかわらず、あえてYの単独の運転を認めるという危険を犯すのは、極めて不自然である。/検察官の主張とは逆に、Yが単独でクレフを運転して片品に向かい、被告人関根が被告人風間の運転するカリーナバンに乗車したということは、被告人関根にとって、Yの裏切りは全く心配する必要はなく、むしろ被告人風間の行動が不安だったからにほかならないと考えられ、そのように考える方が、Yの供述の不自然性に比べてはるかに合理的である。/Yは関越自動車道沼田インターチェンジから一般道に行くべきところ、同所において検問がなされていたのを発見したことから、次の月夜野インターチェンジに向かった旨供述している(甲第486号証)。/Yはこれについて、例のごとく被告人関根から脅されていたからである旨弁解するが、(略)/Yにとって検問がなされることを発見したということは、千載一遇のチャンスであるはずであって、検問がなされていることを知らない被告人両名を、E・Wの遺体という最も端的な証拠付きで警察につき出す絶好の機会だったはずなのである。(『一審弁論要旨)p457~460)

 Eさんの所持品ロレックスの金時計

Y氏は、遺体に解体にとりかかる前にEさんの遺品のなかからロレックスの時計を手に取り、関根氏の了解のもと、これを貰い受けている。Y氏自身は関根氏に保管するように依頼されたのだと述べているが、関根氏のほうににそのような依頼をする合理的理由はちょっと考えられないことや、風間さん、Y氏の元妻であるS子さんの証言からみても,この供述は虚偽ではないかと思われる。風間さんの証言は次のとおりである。

「被告人関根とYが居間の被告人風間のそばに来て座り込み、被告人関根はEのバックを逆さにして中身をザァーと出した。/その中にダイヤのちりばめられた時計があり、Yが「これ、俺がもらっていいかな」と言い、被告人関根は「いいけど売るとか質屋に入れてながしちゃうとかするな」と言った。」(『一審弁論要旨』p102)

ロレックスについて、Y氏は取調べ当初は「捨ててしまって持っていない」とすでに処分済みであると述べていた。しかし、Y氏の供述によりE・W氏の骨片などが投棄した塗川から発見されて約20日も経た2月22日からようやくロレックスを保管している旨の供述をはじめている(甲第586号証)。ロレックスを保管していた理由について、Y氏は「切り札としても使えると思った。これを持っていれば被告人関根もYに手出しできなくなり、何かのときにはK子かS子にロレックスを持って警察に出頭させれば、被告人関根の悪行が証明できると思った。」(甲第487号証)と述べている。しかし、元妻であるS子さんの供述を聞くと、Y氏がロレックスを事件の切り札、すなわち、「被告人関根の悪行の証明」にしようと考えていたとは、到底思えないのである。一審弁論要旨から引用する。

「S子がロレックスのことを初めて知ったのは、平成5年10月の連休中に、片品村のY方を訪問した際であったが、Yが、ピースの空き缶に保管していたロレックスを取り出してきて、同女に見せ、「本物だぞ、アフリカの社長から貰ったんだ」と言い、同女からまずい品物ではないかと尋ねられたのに対し、Yは「大丈夫だよ、でもこれ売れないな、番号を控えてあるかもしれないし」などと答えているのである。/これによれば、Yは自らこれを取り出して、S子にロレックスを見せており、会話の調子からロレックスを見せびらかし、自慢するという様子がうかがえ、番号を控えられている可能性があるから売れないということは、可能ならば換金したいという希望があることを意味していることは、明らかである。」(『一審弁論要旨』p463)

その後、Y氏はS子さんにロレックスを預け、保管して貰っていたが、愛犬家連続殺人事件のキーマンとして警察の追及の気配が身辺に迫ると、Y氏は当時愛人だったK子さんとともに遁走する。その旨を元妻のS子さんに告げた際、ロレックスについて二人の間に次のような会話がなされている。再び一審弁論要旨からの引用である。

「平成6年10月18日午前4時ころ、Yが同女(注:S子)方を訪ね、警察の取調べから逃亡する旨述べたのに対し、同女がロレックスを取り出して来、Yに「これも何か事件に関係ある物じゃないの?返すから」と言ったところ、Yは「捨ててくれよ」と言い、これに対し同女は、気持ち悪かったので「自分で捨ててよ」と言って、Yにロレックスを返したという。/これによれば、ロレックスを取り戻しにS子方を訪ねたというYの供述は、全く虚偽であって、同女が、保管してあるロレックスに気付いて、Yにその返還を持ちかけたのにすぎないし、何よりも「捨ててくれよ」「自分で捨ててよ」などという会話が「Yの言う切り札にしようと思った、警察の信用を得ようと思ったなどという保管理由と完全に矛盾するものであることは明らかである。Yの言うような極めて重要な意味がロレックスの保管にあるとしたならば、捨てるなどという言葉が出ようはずはないからである。/ロレックス保管の理由として、Yは、「警察からの事情聴取を受けた場合、Yの言い分を警察に信じてもらえる有力な証拠になると思った」旨述べ、特にK事件の場合と異なり、E・W事件での遺骨等の投棄場所は、塗川であったから、証拠物が発見されない可能性があり、そうなった場合はロレックスを提出しようと考えていたが、塗川から証拠物が発見されたためロレックスを保管している必要がなくなり、警察に提出したものである旨述べる(甲第487号証)。/しかしながら、Yの述べる右理由は不合理極まるものである。/まず、事情聴取を受けた際にYの言い分を警察に信用して貰うため、というのであれば、まさに本格的な取調べが行われようとする矢先に、前述の如く(管理人注:元妻に対して)「捨ててくれ」などという言葉が、Yの口から出るはずはないのである。」(『一審弁論要旨』p464~466)

Y氏によるこのロレックス保管に関する裁判所の判断であるが、以下のとおりである。

「YはE・W事件においてEが身に着けていた高価な金時計(ロレックス)を関根から受け取り、それを処分するように指示された後も密かに保管し続けていたのであるが、その所在について妻であるK子や前妻のS子に対しては逃走中に海に投げ捨てたなどと嘘をついていたことを自認しており(甲487等参照)、右時計を所持し続けていたのはむしろ換金目的からではないかとの疑いが相当強い」(『一審判決文』p181~182)

裁判所は、Y氏が換金目的で時計を自分のものにした疑いが濃厚であることを認めながら、誰もがいだくであろう当然の疑念を述べている上述の弁護人の主張に何も答えようとせず、なぜか次のような結論を導きだすのである。

「Yの供述の主要な部分が真実であることについては被告人両名の供述をも含む関係証拠によって十分裏付けられているのであるから、結局のところ、Yの供述内容の一部に右のような虚言あるいは誇張と思われる供述が存在することは、その供述全体の基本的信用性を揺るがすようなものでないということができるのである。」(『一審判決文』p183)

「Yの供述の主要な部分が真実であること」を私はこれまでのところまだ一度も知らされていないように思うのだが、裁判官はここで具体的に明確にその「真実である主要な部分」を書き記すべきであったろう。Y氏がEさんのロレックスの時計を欲して実際に自分のものにしたのは、これが高価な品だったからであることは裁判所も上記のとおり認めている。それならば、Y氏によるこのロレックスの取り扱い状況が、自分や家族の身を守るためにやむなく犯罪に関与させられた人間のとる行動であるかどうか明確な判断を示すべきであったろう。
2010.01.21 Thu l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
平成5年(93年)の春から夏にかけて引き起こされた3件4名の連続殺人事件において、殺害の道具に使用されたのは、いずれの場合も硝酸ストリキニーネである。これが裁判所の認定である。ただし、被害者の遺体はすべて焼却・投棄され、わずかに発見されたのは骨片だけであり、これでは検証は不可能なので、この認定は科学的実証的になされたわけではない。裁判所が、Y氏の供述が三人の供述のうち最も信頼性が高いと判断し、Y氏は被害者の殺害に関与していると主張する関根氏および風間さんの供述を退けたということである。しかし果たしてこの判断は正しいだろうか。硝酸ストリキニーネはアフリカケンネルが犬を安楽死させる際にかかりつけのY獣医から過去何回か入手したことのある薬であるが、一審弁論要旨からこの薬の性質・効能についての記述を引用して説明する。

 硝酸ストリキニーネ

「検察官は硝ストの毒薬としての作用について、服用した人や動物が身体を硬直させることを別とすると、ほとんど声を上げずに静かに死亡する作用の毒薬であり、被告人関根も硝ストを投与された犬が声も上げずに静かに死亡する状況を見てその薬効を知っていた旨述べる。/しかしながら、まず硝ストの作用に関し、ほとんど声を上げずに静かに死亡する作用の毒薬であるという点については、硝ストにこのような作用がある旨記載した硝ストに関する甲号証はない。/むろん硝ストの作用による硬直性痙攣を生じている場合、声を上げることは困難であろうと思われるが、硝ストは小腸で吸収され、肝臓による解毒作用を越えた時に血液中のストリキニーネが脊髄の神経作用を生じさせる部位に到達して中毒症状が出るので(甲第934号証)、それまでの間で硝酸ストリキニーネが胃粘膜に強い刺激を与えて服用者に胃痛を与える可能性がある(甲第930考証)。/また、症状発現までは15~30分程度である(甲第934号証)。/したがって、硝スト服用後、症状発現までの間に腹痛等の痛みが生じうることになるから、この間に、服用した者が何らかの行動に出る可能性はあることになる。」(『一審弁論要旨』p204)

硝酸ストリキニーネは、青酸カリのように、服用後直ちに症状が現れる性質の薬ではないようである。熊谷市内の薬局Fの店長であるN氏の一審における法廷証言によると、平成5年(93年)2月から3月上旬ころ関根氏から硝酸ストリキニーネが入手できるか否か尋ねられ、これを断ったと証言し、H薬局店の店主H氏も同じく関根氏から硝ストを取り寄せてくれと言われてこれを断ったと述べている。このことは、事件の1~2ヶ月前に関根氏が硝酸ストリキニーネを入手しようとして果たせなかった事実があったということであり、関根氏がKさんおよびEさん、Wさんに服用させた薬はあらかじめ所持していた硝酸ストリキニーネだったかも知れないが、そうではなかった可能性もあるということだ。関根氏自身は、取調べ段階では、使用した薬について硝ストと供述していた時期もあったが、法廷ではそのように述べてはいない。では、その関根氏をはじめ、Y氏、風間さんの三人が、硝酸ストリキニーネ、およびその他の薬や飲物に関連してどのような供述をしているかを、一審判決文を基にして個別に見てみたい。なお、8月26日に起こった3件目のSさん殺害事件では、風間さんは訴追されていないが、一応その供述も記す。(氏名の敬称は略す。)

① K事件(4月20日)のケース

関根供述…Yと三人で車庫内に置いてある車(ライトエース)の中に入り、自分が運転席にKは助手席に座り、YはKの後ろの後部座席に座った。自分がKに対して適当な話をしながら、用意して来ていたワンカップの陶陶酒等を飲ませたり、バランス(精神安定剤)などを何錠かKに飲ませたところ、しばらくしてKはうとうとと居眠りを始めた。Yの方を見たら、Yは目で合図するのと同時に隠し持っていた綿引(犬を繋いだりする紐)を背後からKの首に掛け、ぎゅうぎゅう絞めて絞め殺した。

Y供述……関根が車内でKにドリンク剤などを勧めていたが、自分はその後関根に言われて給油と買い物に行ったので、殺害場面は見ていないが、その時の様子からして、関根が何らかの毒薬をKに飲ませて殺害したのだと思う。

風間供述…関根がYにKを絞殺させた上Yとその死体を損壊遺棄したことは、翌日の4月21日の午後6時ころに関根から教えられて初めて知った。

② E・W事件(7月21日)のケース

関根供述…E方に着き三人でE方に上がり、雑談などをした後風間がEにカプセル2個を渡して飲ませ、自分がYを介してWにカプセル2個を渡して飲ませた。まもなくEは腹が痛いと言い出したが、Wの状態は変わらなかったので、毒の量が少ないし古いのでやはり効かないのかと思った。Wは、救急車を呼びに行くために外に出て行ったが、Wがどこかの家の中に入って倒れたりすると大変だと思い、取り敢えずYに後を追いかけてもらった。Yは、Eが死んだのを確認して出て行った。その後、自分も風間も外に出て、Wらの所へ行き、(略) 風間がカリーナバンを運転して来たので、Wがその助手席に乗り、自分とYが後部座席に座った。(略) 自分がYの方を見ると、Yは目配せすると同時に綿引でWの首を背後から絞めた。少し経ってからYが、「社長、社長、紐。」と言って綿引の一方の端を持つよう言ってきたが、そのときは車が停まっていて、風間が後ろを向いて「もう死んでるよ。」と言った。

Y供述……E宅前で関根に「待ってろ」と言われたので、自分は家の中には入らず、そのまま車内で待機していた。20分か30分位して、Wが玄関から飛び出して来て県道の方に走って行き、その後1分位して風間が手ぶらで出て来た。風間は、代行(E)が急に具合が悪くなったので救急車を呼んでいるなどと言い、Eの家の中からは「代行、大丈夫ですか。今救急車を呼んだから。」などという関根の声がした。風間が出て来てから5分位して関根も出て来て、自分に車を持ってくるように指示してWの所に歩いて行ったので、カリーナバンを運転して関根らの所に行き、Wが助手席に乗り、関根と風間は後部座席に乗って出発したが、(略)走り出して7、8分経ったころWが突然「気持が悪い。病院に連れて行って下さい。」と言った。(略)その2、3分後にWが突然「うー。」とうなり声をあげて一瞬体を硬直させ、両足を強く突っ張ったため、左足と右足が付いていた場所を中心にフロントガラスの左下部の二か所にそれぞれ直径30センチメートルほどの蜘蛛の巣状のひびが入り、Wはそのまま動かなくなって死んでしまった。E宅に戻ると、Eは部屋の中ですでに死んでいた。したがって、自分はW・Eともに殺害現場は見ていないが、関根と風間が毒薬を飲ませて殺したと思った。

風間供述…当日は、関根からE方に午後10時に迎えに来るように指示されて行った。家の中に入ると既に関根とYが来ており、Eからは「お母さん、まだ。」などと聞かれたが、自分は何のことだかわからず曖昧な返事をしていた。そのうちにEが腹が痛いと言い出し、まもなくWとYが外に出て行った。その後Eは気持が悪いとか言っていたが、それほど大変な様子ではなく、自分も余りその場にいたくなかったので外に出て、自分の車の中で持っていた。5分位して自分の車をE方前から少し移動させて車を降りE方前に戻ったところ、関根とYが家の中から何か重そうな物を運んで出て来たので、近寄って自分もそれを持ったところ、毛布が被せられていたが、その感触から死体であると感じてびっくりした。関根とYは、それを玄関の近くに停められていた車(カリーナバン)の荷台に運び込み、関根が「お前が運転しろ。」と言ったので、思わず「はい。」と言って運転席に飛び込んだが、カリーナバンにはWが椅子を半分倒したような状態で助手席に座っていた。(略)車を走らせていたところ、関根とYが「掛かったか。」などと言いながらWの首に紐のような物を掛けて、二人で何度も「せえの。」などと声を掛けながら引っ張り合っていた。そのときWの両足がダッシュボードの上にせり上がり、足が窓ガラスに当たってガラスが蜘蛛の巣状にひび割れ、Wはその場で死んだ。

③ S事件(8月26日)のケース

関根供述…S(注:被害者女性)を車から降ろし、車を近くの駐車場に入れて買い物に出かけ、佐谷田の車庫に戻ってみると、Yが車庫の中に置かれていた車の中でSを綿引で絞めており、風間がすぐそばにいて、「もう死んでいるよ。」と言った。

Y供述>……事件の起きた当日、関根に呼ばれて佐谷田の車庫に行くと、女の人の死体を見せられた。殺害場面は見ていない。

風間供述…自分は何も関与していない。

上記の三人の供述を要約すると、まず関根氏は、Kさん殺害について、自分がKさんに酒や精神安定剤入りのドリンクを飲ませてウトウトさせたところでY氏が背後から頸を紐で絞殺した、と述べている。2件目のE・Wさんの場合は、二人にカプセルを飲ませ、Eさんはそのカプセルによって死亡したが、Wさんはしばらくすると家を飛び出したので車に乗せ、走行中にKさんの場合と同様Y氏が絞殺した。なお、E・W事件において、関根氏が薬の種類を特定せず、「カプセル」と述べているのは、薬を用意したのは風間さんであり、自分は「風間とともに、風間がどこからか取り出して来た硝酸ストリキニーネをカプセルに詰める作業をした」(『一審判決文』p116)などと述べ、それゆえ薬の種類について自分自身ははっきり知らないのだといっているのである。それから、関根氏は、3件目の被害者であるSさんの死因もY氏による絞殺だったと述べている。次に、Y氏の供述だが、上述のとおり、殺害現場は3件とも自分は一切見ていない、W氏の場合も、車内で苦しんで死亡するところを見ただけだと述べている。次に、風間さんであるが、KさんをY氏が絞め殺したと関根氏から聞かされた。カリーナバンの車内でWさんが関根氏とY氏に紐で絞殺されるのを現認した。またSさんについても、関根氏から「Yに殺らせた」と聞かされた、と供述している。

以上のように、三人の供述を簡単に説明したが、これらの供述内容から殺害に使用された薬を「硝酸ストリキニーネ」と明確に断定するのは困難ではないかとも思われる。関根氏はKさんに与えた飲物について「陶陶酒」「カプセル」と述べ、E・Wさんの場合も「カプセル」と述べていて、「硝酸ストリキニーネ」と明言されてはいないので、何らかの薬が使用されたことは確実だが、それを頭から「硝酸ストリキニーネ」と決めつけていいのかについては疑問が残る。

さて、裁判官は硝酸ストリキニーネと風間さんの関係について下記のように認定している。

「風間は、公判廷においては、これまで2回にわたって右Y獣医から犬を薬殺するという名目で硝酸ストリキニーネを直接受け取っていたことを自認しており、また風間の逮捕後に江南町の風間方居宅を捜索した結果、風呂場の脱衣場に置かれていた整理タンスの中から円筒状に丸めて輪ゴムで括ったビニール袋が発見され、その中には薬包紙に包まれた約1.545グラムもの多量の硝酸ストリキニーネが入っていたのである。風間は、後述するとおり、右薬は平成5年8月10日ころに飼犬を薬殺するためにY獣医から手に入れたものであり、また同人から受け取ったままの状態で保管していたと弁解するが、これが虚偽であることは後述するとおりである。そして、風間方から発見された右硝酸ストリキニーネは、白色紙片及びビニール片に包まれていたが、右白色紙片等は何回も開け閉めした形跡があり、しかも硝酸ストリキニーネの数量が約1.545グラムという中途半端なものであること(Y獣医は後述のとおり処分する犬1頭当たり約1グラムの硝酸ストリキニーネを渡していたものである。なお、同人は硝酸ストリキニーネを関根らに出すときはその都度秤で計量していたと言う。)からしても、その一部を使用した残りである可能性が高いと解される。/更に、風間は、捜査段階で一旦は「自分がY獣医から硝酸ストリキニーネを貰ったのは昭和60年ころの1回だけで、その後貰ったことはない。」旨述べたものの(乙76)、その後「平成5年の7月か8月ころサッチャーという名の犬を殺すためにY獣医から硝酸ストリキニーネを貰って来たことがあるが、その犬は薬物を使用することなく処分できたので、貰って来た薬は整理ダンスの中に入れておいた。」旨述べるに至り(乙77)、更に公判廷では前記のとおり「整理タンスの中から発見された硝酸ストリキニーネは平成5年8月10日ころにY獣医から貰って来たものだ。」などと述べているのであって、その供述内容を転々とさせているものである。(『一審判決文』p239~241)

上記の認定については丁寧に検証してみたい。「これが虚偽であることは後述するとおりである」、「その供述内容を転々とさせている」という箇所は非常に断定的な表現なので、これを読んだ人は大方、風間さんが明白に虚偽を述べたり、捜査段階から公判にかけて供述を転々と変化させてきたと思うであろう。そして、「後述」されているところの、「右白色紙片等は何回も開け閉めした形跡があ」ることや、「硝酸ストリキニーネの数量が約1.545グラムという中途半端なもの」であることにも疑いの目をむけるだろう。けれども、実態は判決文が述べているところとはまるで異なるのである。まず冒頭の

「風間は、公判廷においては、これまで2回にわたって右Y獣医から犬を薬殺するという名目で硝酸ストリキニーネを直接受け取っていたことを自認しており」

という文言における「公判廷においては……硝酸ストリキニーネを直接受け取っていたことを自認しており」との言い回しは思わせぶりであるが、風間さんは「公判廷においては」どころか、取調べ段階から「硝酸ストリキニーネを直接受け取っていたこと」を自認していた。そのことは、乙76と乙77の間にある2通の調書にちゃんと記されている。この2通の調書を検察官が隠匿していたのであるが、順を追って見ていくと、

「乙76は平成7年2月22日付員面調書であり、その中では、昭和60年ころ、薬殺用の薬をもらったこと、その時1回だけであることが述べられている。」(弁護人『上告趣意書』p96~98)

しかしその翌日の2月23日付、および2月24日付の2通の供述調書において、乙76で述べた内容について記憶を辿って思い出したことを追加したり、間違って話した内容を訂正したりしているのである。

「平成7年2月23日付員面調書では、2月22日付員面調書の内容を訂正し、平成5年7月か8月ころ、Y獣医がもうだめだと言ったマラミュート犬を薬殺しようとして薬をもらいに行き、もらってきたこと、その薬は結局使用しないで自宅にしまっておいた旨供述しており、また、更に2月24日付員面調書でも犬の薬殺について供述している。」(弁護人『上告趣意書』p96~98)

2月22日(乙76)には昭和60年頃の1回しか犬薬殺用の薬は貰っていないと述べているが、翌日の23日には、薬をその後もう一度貰ったこと、それは未使用のままタンスにしまいこんでいたことを記憶喚起し、それを捜査陣にちゃんと話しているのである。このように取り調べ段階から薬を2回貰ったことを自認していたのだから、判決文の思わせぶりな「公判廷においては……自認しており」という叙述は明白に誤りである。したがって、下記の

「また風間の逮捕後に江南町の風間方居宅を捜索した結果、風呂場の脱衣場に置かれていた整理タンスの中から円筒状に丸めて輪ゴムで括ったビニール袋が発見され、その中には薬包紙に包まれた約1.545グラムもの多量の硝酸ストリキニーネが入っていたのである。」

という判示における、自宅のタンスから薬が発見されたことが予想外の驚愕すべき出来事であるかのような表現はあんまりである。供述どおりにビニール袋入りの薬が自宅から出てきたことを不思議がる必要は何もないだろう。

それから、裁判所は「これが虚偽であることは後述するとおりである。」と述べているが、薬の包み紙に「何回も開け閉めした形跡がある」ことも「後述する」虚偽の一つということになるようである。でも、「開け閉めした形跡」を刻んだのは、捜査過程における警察ではないのだろうか? 常識では、それ以外に考えようはないと思うのだが。また1.545グラムの量についてだが、中途半端といえばたしかにそうである。しかし、アフリカケンネルの男性従業員Sさんは、Y獣医から平成4年9月にこの薬を受け取った時、「毒薬だから取扱いに注意してくれ」と言われはしたものの、「硝ストを単に小さいスプーンで直接薬ビンから取り出して、これを薬包紙に入れて包んだ旨述べ、Y(獣医)が言うように量りで量った上で薬包紙に包む作業がなされるのを見ていない。」(『一審弁論要旨』p201)とのことである。「Y獣医は(略)硝酸ストリキニーネを関根らに出すときはその都度秤で計量していたと言う」と判決文は述べているが、Sさんの証言をみると必ずしもそのとおりではなかったようである。「包装紙に開け閉めした形跡がある」とか「薬の量が中途半端」とか、「Y獣医本人が薬はその都度秤で計量して渡していたと述べている」などと、根拠の不確かな理由で、「これは殺害にその一部を使用した残りである可能性が高い」との判断を導きだすのでは、その論法はあまりに乱暴であり、またひどく作為的なものに感じられもする。そもそも、この事件は、風間さんらが逮捕されるまでに「埼玉愛犬家殺人事件」として1年もの長期にわたるマスコミ騒動があったということを忘れてはならない。もし風間さんが硝ストを用いて殺害に関与していたのなら、その使い残しをタンスにしまったまま忘れるなどということがありえるだろうか。「見つかったら大ごとになる」とばかり、さっさと始末したはずである。弁護人の次の判断こそがごく普通の常識だと思われる。

「K及びE・W事件において硝ストをもってこれらの被害者を殺害し、右殺害について主犯としての役割を有していた場合、その決定的な証拠である硝ストをあえて保持しているなどということは到底考えられないし、ロレックスなどと異なり、高価ではなく、投棄自体もはるかに容易である硝ストを、強制捜査の約1年前にマスコミで大々的に報道され、(略)、最も重要であって投棄も極めてたやすいにもかかわらず、被告人風間において整理ダンスの中にしまったまま忘れてしまうなどということがありえるはずはないのである。」(『一審弁論要旨』p221)

上記の弁護人の論述を見れば、硝ストに関する判決文への反論も批判ももうこれで十分ではないかと思えるのだが、もう少しつづける。

 従業員Mさんの証言と風間さんの供述の相違点

風間さんは2月22日(乙76)、23日につづいて24日にも捜査官に薬(風間さんは「硝酸ストリキニーネ」という言葉を捜査段階で使用していない。裁判官が判決文のなかで風間さんの言葉として「硝酸ストリキニーネ」と明示しているのは不公正だと思われる)についての供述をしている。念のために確認すると、22日にはY獣医から硝ストを貰ったのは昭和60年ころの一度だけと述べ、翌23日にはそれを訂正し、平成5年の7月か8月ころサッチャーという犬のために薬を貰ったことがあること、しかしそれはサッチャーの容体が回復したために使わずに済み、そのままタンスの引き出しにしまいこんでいることを供述した。そしてその翌24日には、結局貰いに行きはしなかったが、薬に関する話を従業員にしたことがあることを述べている。供述調書から引用する。

「私は今までで従業員に対してY獣医さんのところに薬殺用の薬をもらいに行かせたことはありませんが、
  Y獣医さんのところで薬殺用の薬をたのめばもらえる話をした事
があります。
その話をした従業員は、
  M 20歳位
でMさんに話をしたのです。
私がMさんに話をした時期は/ちょうどサッチャーが具合が悪くなった頃ですから/平成5年7月か8月の事でした。
Mさんに話をした場所は
  万吉犬舎か
  店
のどちらかだと記憶しています。
Mさんはその頃万吉犬舎で働いていたので万吉犬舎で話した可能性が高いのです。
話の内容は、
  店に来たお客さんの飼っている犬の具合が悪いので処分する薬をくれる様なところがあるんですか、と聞かれたので、私は「どうしてもという時は店に来てください」とお客さんに言った事でした。」
「しかし、そのお客さんは私の店には来ませんでした。そしてそのお客さんが来た話をMさんにしてから3、4日後、またMさんと雑談している時に前言った話を思い出し
  「薬のお客さんこなかった。/ だからもうもらってやんないんだ。」
と話したのです。するとMさんは
  「そうなんですか」と返事をしただけでした。
私は結局、薬殺用の薬をY獣医さんには客の為にもらいにはいかなかったんです。」

23日につづく24日付のこの調書が存在しているにもかかわらず、検察官はこれらの調書を隠匿し、いかにも風間さんが供述を変転させているかのように裁判官に受け取らせる細工をしているのである。そして、裁判官は審理の進行過程における被告・弁護人側からの検察に対する反論と批判によりこの事実を十分承知しているはずであるにもかかわらず、判決において次のように述べているのである。

「風間は、捜査段階においては、客から頼まれて硝酸ストリキニーネをY獣医から貰ったことはないと明言していたのに、公判では、客から硝酸ストリキニーネの入手方を打診されたことはあり、Mに対してMが述べているのに近い話はしたが、結局客のために硝酸ストリキニーネをY獣医から入手したことはなく、しかもMに話をしたのは7月15日でなく、7月28日である旨捜査段階の供述を実質的に覆す供述をしているのであるが、この供述変更にももっともな理由は見出せず、前同様の意図とMの強烈な供述内容を知りこれとの辻棲合わせを何とか図って自己の弁解を支えようとの意図からなされたものと見られるのである。その内容も甚だしく不自然であって(客から硝酸ストリキニーネの入手方を頼まれておらず、単なる打診があっただけだとすれば、風間がMに対してMが述べている話(客の頼みでサッチャーを薬殺すると嘘をついてY獣医から毒薬を入手した(する)ので、Y獣医から聞かれたときはサッチャーは間違いなく処分したと言ってほしいという話)に近い話などするはずはないであろう。そのほか、サッチャーを薬殺する必要が現在あるわけでもないのに、サッチャーを薬殺するために毒薬を入手したとしている点なども不自然である。)、前記M供述と対比し、到底措信できるものでない。
そして、右信用できるM供述の内容と風間が(右のような信用できない供述をしつつも)Y獣医から硝酸ストリキニーネを入手したことを認めていることなどを総合して検討すると、風間は、7月15日ころ、サッチャーを薬殺するという虚言を弄してY獣医から相当量(一頭分であるから恐らくは約1グラム)の毒薬(硝酸ストリキニーネ)を入手していたことを優に認定できるのである。もっとも、Y獣医は、平成4年12月ころから平成5年初めにかけて渡したのを最後にアフリカケンネル関係者に硝酸ストリキニーネを渡したことはないと述べているのであるが、風間自身が受け取った事実を明確に認め、かつMもこれに沿う供述をしているのであるから、Y(獣医)の右供述の存在は何ら右認定の妨げになるものではないのである。」(『一審判決文』p307~309)

上記の判決文を吟味してゆきたい。まず、「風間は、捜査段階においては、客から頼まれて硝酸ストリキニーネをY獣医から貰ったことはないと明言していたのに、公判では、客から硝酸ストリキニーネの入手方を打診されたことはあり」と述べている云々、と風間さんを非難する判示は、意味不明とまでは言えないにしろ、実態とそぐわず実に妙な表現である。日本語の使い方として基礎的なところに疑問をおぼえる。もしも、「風間は、捜査段階においては、客から頼まれて硝酸ストリキニーネをY獣医から貰ったことはないと明言していたのに、公判では、客から頼まれてY獣医から硝酸ストリキニーネを入手したことがある」とでも述べたというのなら、「供述を変転させている」と非難されても仕方ないかもしれないが、風間さんは捜査段階から公判にいたるまで、「客から犬薬殺用の薬を貰えるかどうかにつき打診され、その話を従業員の一人に話した。しかしその客はその後店に来なかったのでその話はそれっきり沙汰止みになった」と一貫して述べている。客に「打診されたことはある」という内容の供述も2月24日にちゃんとしているのである。いったい裁判官はここで何を言いたいのだろう?

「Mに話をしたのは7月15日でなく、7月28日である旨捜査段階の供述を実質的に覆す供述をしているのであるが、この供述変更にももっともな理由は見出せず」

との認定であるが、弁護人によると、「「7月15日」という供述は、第一審で証拠採用された供述調書にはどこにもない。」(『上告趣意書』p98)とのことである。裁判官はなぜ判決文において自ら「Mに話をしたのは7月15日でなく」と、わざわざ「7月15日」という日付を創作するのだろうか? 裁判官が勝手に創作した日付を被告人が公判廷において述べないのは「供述を実質的に覆す」ことではなく、自然天然、当たり前のことであろう。これはとんでもない悪質な行為だが、死刑判決という裁判所にとって最も重大深刻な判決をなすにあたり、これほどいい加減な認定が堂々なされているのである。「7月28」日という日付は、2月24日付の調書に見られるとおり、取調べ段階で「平成5年7月か8月の事でした。」と述べていたのが(どうやら、裁判官は「7月か8月の事でした」という供述をなぜか「7月15日」にすり変えているようである)、その後、記憶をたどるうちに、日付を推測する材料がでてきて、それらとの関連でMさんに話をしたのは「7月28日」だったとの特定の日付に絞り込まれていったもので、人間の記憶喚起というのは、大抵の場合、このようにしてなされるものではないのだろうか。このように自然な経過を判決文のいうように「供述変更」と捉えるのは不合理・不公正きわまりないと思われる。

次に検討したいのは、「(注:供述変更は)前同様の意図とMの強烈な供述内容を知りこれとの辻棲合わせを何とか図って自己の弁解を支えようとの意図からなされたものと見られるのである。」

という判示であるが、むしろMさんの供述内容をこのように「強烈な」と表現することこそが驚くべき「強烈な」ことのように思われる。もっとも上述のとおり、風間さんは「供述変更」などまったくしていないのだから、そもそもこのような判示が導きだされる前提が成立していないのだが、仕方がないので、一つ一つ見ていくことにする。ここで述べられている「前同様の意図」とは何であるかといえば、下記のことのようである。

「風間は、Y獣医からの硝酸ストリキニーネ入手の時期につき、捜査段階では平成5年7月か8月ころと述べていたにもかかわらず(乙77)、公判で突如8月10日と言い出したのであるが、この供述変更は、一連の事件のうちE・W事件までしか起訴されずS事件での起訴を免れたことから、硝酸ストリキニーネの入手口をE・W事件以降にしてこの入手が起訴された事件とは無関係であることを印象付けようとの意図に出たものと見られ、他にもっともな理由があっての供述変更であるとは全く考えられないのである。」(『一審判決文』p306~307)

硝酸ストリキニーネ入手の時期につき「公判で突如8月10日と言い出した」との判定だが、ここにもまた故意かどうか分からないが、過誤がある。風間さんは硝酸ストリキニーネの入手日を「8月10日」と特定しているのではなく、「8月10日ころ」と述べているのだ。「捜査段階では平成5年7月か8月ころと述べていたにもかかわらず(乙77)、公判で突如8月10日と言い出した」ことについては、先程も述べたことだが、これは、漠然とした記憶がいろんな喚起材料をえて、しだいに明確な記憶を獲得していく人間の思考の働きに適合した自然なことと思われる。なぜこれが供述変更として非難されなければならないことなのだろうか? どう考えても非難するほうがおかしいであろう。このように誰の目にも供述変更と映るはずのないことを無理やり供述変更と決めつけ、その挙げ句、その供述変更の理由として「S事件での起訴を免れたことから、硝酸ストリキニーネの入手口をE・W事件以降にしてこの入手が起訴された事件とは無関係であることを印象付けようとの意図に出たものと見られ」と勝手にS事件を持ち出して押しつけたり、根拠も示さず一方的に人の胸の内を邪推したりしているのだから、これはとても正気の沙汰とは思われない。裁判官のいう「前同様の意図」とはこのような次元のものなのだ。さて、「Mの強烈な供述内容」とは、何かといえば、次のことである。

2月24日の供述調書のとおり、風間さんはMさんという万吉犬舎の女性従業員に、Y獣医さんのところで薬殺用の薬をたのめばもらえる話をしたことがある。その内容は、風間さんの記憶では、下記のようになっている。

「 店に来たお客さんの飼っている犬の具合が悪いので処分する薬をくれる様なところがあるんですか、と聞かれたので、私は「どうしてもという時は店に来てください」とお客さんに言った事でした。」
「しかし、そのお客さんは私の店には来ませんでした。そしてそのお客さんが来た話をMさんにしてから3、4日後、またMさんと雑談している時に前言った話を思い出し
  「薬のお客さんこなかった。/だからもうもらってやんないんだ。」
と話したのです。するとMさんは
  「そうなんですか」と返事をしただけでした。」

しかし、法廷でのMさんの証言は風間さんの記憶とは微妙に異なっていて、彼女は風間さんから聞いた話として次のように証言した。

「ペットショップの近くのお客さんから、自分が飼っている犬が病気か何かで苦しんでいるので薬殺したいと頼まれて、Y獣医から薬殺用の薬を貰って来た。ただ普通の場合だと、そういう形では譲ってくれないので、一応名目上はサッチャーがもう助かりそうもないので自分の方で処理するから薬を下さいという形で貰った。だからY獣医から聞かれた場合には、あの犬は間違いなく処分したということを言っておいてほしい。』などと言われた(なお、右の貰ったという点については、これから貰うという言い方をしたかもしれない。)(『一審判決文』p304)

上記のMさんの証言が、裁判官によると「強烈な供述内容」であり、これを知ったために風間さんは辻棲合わせを図って自己の弁解を支えようとの意図から供述変更がなされたというのである。この場合の「供述変更」とは、すでに述べたようにMさんに硝酸ストリキニーネについての話をした日付が、捜査段階では「7月か8月ころ」だったのに、公判に入って「7月28日」と具体的な日付を述べるようになったことを指しているのである。硝酸ストリキニーネ入手の時期を具体的に述べるようになったことを非難した場合と同様の非難である。これを「供述変更」と呼んで非難するのはそもそも裁判官としてあまりにも低水準ではないかと思われるが、その理由はすでに述べた。

さて、一般に聞き違いということは日常茶飯によくあることである。同一の現象について、あるいは交わした会話について、一人一人がそれぞれに記憶している内容を照合すると、「エッ」と驚いたり、思わず笑いだしたりするほどの相違があることは珍しいことではない。むしろこのような経験をもたない人はほとんど皆無といってもいいのではなかろうか。そして、上述のMさんの証言だが、「Y獣医から聞かれた場合には、あの犬は間違いなく処分したということを言っておいてほしい」と風間さんが述べたとのことだが、この話は筋道にやや無理があるように思える。というのは、Y獣医はアフリカケンネルのかかりつけの獣医であり、犬が病気になれば必ずこの獣医の世話にならなければならないのだから、「サッチャー」が現に生きていて、いつ何どき獣医の診察をうけなければならなくなるか分からないのに、「獣医にサッチャーはもう処分したと言ってほしい」と風間さんが頼むというのは少々合点のいかないことである。そう考えると、二人のうち、記憶違いの可能性が大きいのは、風間さんではなく、Mさんのほうではないかというように思われるのである。

風間さんとストリキニーネの関係についてまとめると、風間さんの主張は、これまでY獣医からこの薬を貰ったのは2回だということである。1回目は、昭和60年(85年)のことで、薬を貰って犬の薬殺に使用した。もう1回は平成5年の8月10日頃で、風間さんの供述によると、

「万吉犬舎にはサッチャーという名前のアラスカン・マラミュートがいたが、その犬が7月中旬ころ重い病気に罹って発作を起こしたりしていた。8月10日ころにはサッチャーは普通に歩けるような状態になっていた。8月10日ころ他の犬を治療のためY獣医のところへ連れて行ったときに、Y獣医からサッチャーの病状について聞かれ、『今度発作を起こしたら、もう完全にいかれちゃって危ないぞ、飼い主だってどうなるか分からない。』などと言われたため、『そのときは覚悟して薬殺しますから、そのときのために薬を分けて下さい。』と言って貰った。」(『一審判決文』p301~302)

ということである。これまで見てきたように、風間さんは取調べ段階(2月23日)から公判までこの供述を一貫して行なっているし、実際、硝酸ストリキニーネは風間さんの供述どおりに自宅から出てきているのだ。矛盾はないと思われる。検察官は風間さんがいかにも供述を変化させているように装うべく、2月23・24日の調書を隠匿した。裁判官はその事情をまず間違いなく知っているはずであるにもかかわらず、素知らぬ風で「供述の変転」と決めつけ、執拗にあらんかぎりの難くせをつけている。けれども、具体的に事実を見ていけば、風間さんの供述の一貫性・合理性は誰の目にも明らかだと思われる。
2010.01.19 Tue l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
Kさん殺害からおよそ3ケ月が経った平成5年(93年)7月21日に発生したEさんとWさん二人の殺害事件。この事件に関する判決文の認定について、これまで気にかかりながら書きもらしていた疑問点をこれから数回に分けて記していく。自宅で殺害されたEさんは、関根氏とは約十年来の付き合いであったが、殺害当時、関根氏は暴力団の幹部でもあるE氏に金銭を要求されることが多くなり、その存在を鬱陶しく感じるようになっていたようである。判決文は二人の交流について下記のように述べている。

「被告人関根は、日ごろから自分が暴力団員と親交を有していることを周囲の者に得意気に吹聴するなど、自己が暴力団にも顔が利く人間であることを誇示するとともに、犬の売買等で相手方と紛争が生じたときにはEに仲介を頼むなどして暴力団幹部である同人の威力を利用しており、Eもまた被告人関根との交際を通じて自己の利を図るなど、両名は複雑な利害関係を保ちつつ親交を重ねていた。」(『一審判決文』p39)

関根氏とEさんの関係は数々の証言から推察するに、上記の判決文の認定どおりでほぼ間違いないと思われる。

しかし、Eさんと風間さんの人間関係についての裁判所の認定にははなはだ疑問がある。判決文は、風間さんがEさんを「毛嫌いしていた」(p40)とか「K建設との間でこのような紛争が生じたのは仲介者であるEが前記2000万円をK建設に渡さずに着服するなりしてしまったからではないかと疑うとともに、Eに対する不快感を益々強めるに至った。」(p42)などと、風間さんがE氏を嫌悪し、憎悪していたと断定する。しかし、風間さんがE氏に対して判決文が示すような悪感情をもっていたことを裏付ける証拠は関根氏の証言以外には何もない。風間さん自身は、E氏は暴力団員であり、K建設との間のゴタゴタや金銭に関する日頃の行動からみて当然Eさんへの信頼感などもってはいなかったが、しかしEさんの行動は何事も関根氏と裏で画策した上でのことであると考えていたので、E氏に対して嫌悪も憎悪も特別な感情などもっていなかったと述べている。

他方、21歳の若いWさんは当時Eさんの付き人兼運転手のような役目をしていた人で、関根氏との間に利害の衝突や人間関係における軋轢などは何もなかった。側近として常にEさんと行動を共にしていたために、それを唯一の理由として口封じのためにEさんと一緒に殺されることになってしまった。どの被害者の方もそうだが、Wさんも気の毒としか言いようがない。

事件当夜、関根氏、Y氏、風間さんの三人が各々どのような行動をしたかについて、判決文は今回もまたY氏の供述こそが全面的に信用できるとしてこれを採用し、次の事実認定を行なっている。

「Eは、いよいよ暴力団員の本性を露わにして、(略)被告人らに対して、「銭を借りるから江南町の土地建物の権利証や実印を21日までに俺の家に持って来い。」などと露骨な要求を突き付けるに至った。そのため、被告人両名は、その対応策について相談するうちに、このままではせっかく自分達が築いた財産を全てEに取られてしまうに違いないとの危機感を強め、こうなればいっそEの右要求を全部呑むふりをして同人を安心油断させ、E方で同人及びその付き人として常に同人の傍らに控えているWに毒薬(硝酸ストリキニーネ)を服用させて両名を殺害した上、Kの場合と同様に、Yに手伝わせて両名の死体をY方に運び込み、同所で死体を解体等した上で遺棄することを決めるに至った。そこで、被告人両名は、Eに対しては、右要求に応じるため被告人両名が7月21日の午後10時ころE方を訪問する旨告げて同人の了承を得るとともに、かねてから隠匿保管していた硝酸ストリキニーネをカプセルに詰めるなどしてEらを殺害するための準備を進め、また死体を解体するための包丁等も用意した上で、同日午後10時前ころ、右の事情を知らないYに車(トヨタカリーナバン)を運転させて万吉犬舎を出発し、約束の時間にE方に到着し、被告人関根がYに対して車の中で待機しているよう指示するとともに、被告人両名がE方に入って行った。」(『一審判決文』p50)

裁判所のこの認定に対し、風間さんは全面的に異議を唱え、上記のすべての認定を否定している。「硝酸ストリキニーネをカプセルに詰めるなどしてEらを殺害するための準備を進め」たことも、「死体を解体するための包丁等も用意した」ことも。事実、判決文にこの認定を裏付ける証拠は記されていないのであるが、ここでは、「同日午後10時前ころ、右の事情を知らないYに車(トヨタカリーナバン)を運転させて万吉犬舎を出発し、約束の時間にE方に到着し、被告人関根がYに対して車の中で待機しているよう指示するとともに、被告人両名がE方に入って行った。」という認定--三人がY氏の運転するカリーナバンに同乗して一緒にE宅に向かったという判示について検証する。

風間さんは、、自分はその日の夕方6時30分頃、Y氏と一緒にペットショップにやってきた関根氏から、「Eんちへ行っているから、10時頃迎えに来てくれ」と言われ、母親や娘と一緒にうちわ祭を見物して帰宅した後、夜10時過ぎに大原の自宅から一人でE宅に向かったのだと主張している。殺害計画など何も知らなかったし、E宅からその頃関根氏が一人で暮らしていた江南の住居まで送り届けるつもりで、サンダル履きの軽装で出かけたのだと述べる。そしてこの供述を正しいと証言してくれる証人はちゃんといるのだが、裁判所はこの証言をも退けている。これはまったく不当なことだと当ブログは考えるが、判決文は上述の判示につづいて、「罪となるべき事実」として次の判断をくだしている。

「被告人両名は共謀の上、平成5年7月21日午後10時過ぎころ、埼玉県×××所在のE方居宅において、同人(当時51歳)に対し、殺意を持って、硝酸ストリキニーネを詰めたカプセルを栄養剤と偽って交付し、即時同所において、情を知らない同人をして右カプセルを服用させ、よって、そのころ、同所において、同人を右毒物により中毒死させて殺害した。/被告人両名は共謀の上、前同日午後10時過ぎころ、前記E方において、W(当時21歳)に対し、殺意を持って、硝酸ストリキニーネを詰めたカプセルを栄養剤と偽って交付し、即時同所において、情を知らない同人をして右カプセルを服用させ、よって、同日午後10時40分ころ、同町大字樋春付近の荒川右岸堤防沿いの道路を走行中のY運転の小型貨物自動車(カリーナバン)内において、右Wを右毒物により中毒死させて殺害した。」(『一審判決文』p51~52)

このように、裁判所は、関根氏と風間さんが共謀してE氏・W氏の殺害計画・準備を進め、その上で事情を何も知らないY氏を脅して手伝わせ、二人の毒殺を実行したと認定しているので、関根氏、Y氏、風間さん、この三人の事件への関与の構図はKさん殺害事件と同じということになる。ただし、Kさん殺害の際は、風間さんは事前共謀と被害者の車の放置にだけ関与し、殺害現場に登場することはなかった。佐谷田の車庫にいたのは加害者としては最初から最後まで関根氏とY氏だけだったが、今回は風間さんは殺害に赴く車に自らも乗り込み、関根氏およびY氏と共にE氏の自宅に向かったのだと認定している。この点、Kさん殺害の場合と状況は大きく異なる。判決文の認定が正しいかどうか、風間さん側の主張や証言などの証拠と照らし合わせて検証してみたい。風間さんがどのように述べているか、一審弁護人の弁論要旨から以下抜粋する。

「被告人風間の7月21日の行動
(1)(略)(ペットショップに)12時頃には長男Fが友人と店にやって来て、二人で食事に行きたいというので金を渡し、食事に行かせた。/その際、Fは夜うちわ祭に行くと言っていたので被告人風間はFに対し、「10時前には帰るように」と言った。/午後3時頃、被告人風間の母Y子が店にやって来て、N(娘)の相手をしてくれたことから、被告人風間は午後四時頃、バイクで万吉犬舎へ行き、従業員Mの手のあくのを待って、ログハウスの中でMと一緒にサッチャーに注射等の治療をしたが、治療に要した時間は約一時間くらいである。/被告人風間が万吉犬舎に着いたときは、被告人関根、Yはおらず、また駐車場にはトヨタライトエース(5971番)、トヨタハイエース(3458番)、カリーナバン(5996番)はなかったが、直後に右3台の車が万吉犬舎に入ってきて、被告人関根とYの顔はチラッと見たが、被告人風間はすぐにログハウスの中に入り、会話はしていない。/そして治療を終えて、被告人風間がログハウスから出た直後に、万吉犬舎前の道路にカリーナバンがやって来て、停車したのを見ている。/Yが運転席、被告人関根が助手席に乗っていたが、被告人関根から「砂場(注:そば屋)に行くからお前も一緒に来い」と言われ、被告人風間はカリーナバンに乗り、午後5時30分頃砂場で食事をし、万吉犬舎に戻り、被告人風間は、一人でバイクにのって6時10分頃店に戻り、母とN(娘)と従業員一名とすごした。
(2) 午後6時30分頃、被告人関根とYが店にやって来て、少しして二人でどこかへ出かけたが、その際被告人関根は被告人風間に対し、「Eんちへ行っているから、10時頃迎えに来てくれ」と言っていった。/そして被告人風間は、6時40分くらいに店を閉め、母、Nの3人でうちわ祭を見物し、その夜はNは母の家に泊まる約束になっていたので、お祭り広場で別れ、午後9時過ぎ頃、被告人風間はクレフに乗って一人で大原の家に戻った。
(3)同日午後9時30分過ぎ頃にもMR(注:愛人)より電話が入り、被告人風間はMRと会話をかわしている。
(4)そして午後9時50分頃、Fが帰宅し、「どう、今日は時間をちゃんと守ったでしょう」と会話を交わし、Fが当日タコ焼きの屋台でアルバイトをし、自分が初めて焼いたタコ焼きを待って帰ったので二人で食べた後、「お客さんのところにお父さんを迎えに行って江南に送ってくる」と言って、午後10時10分頃大原の家を出た。/その時の被告人風間の服装は、上は白っぽい色のTシャツまたはポロシャツ、下はジーパンをはき、健康サンダル履きの軽装で財布と免許証だけをもってクレフに乗って向かった。
(5)(略)午後10時30分頃E宅の路上にクレフを停車し、車中で5分位待機していたが、被告人関根が出てこないので、玄関の中に入り、「こんばんわ」と声をかけた。/Eが「おう入れよ」と言ったので、部屋に上がったところ、Eは低いソファに座り、被告人関根、Yは床に座り、Wは立って動き回っていた。/被告人風間は被告人関根のそばに座った。/そうするとEが「おかあさん、まだ」と言うので、被告人風間はその意味がわからなかったが「ええ?」という感じと「ええっ」と返事するような曖昧な感じで答えた。」(『一審弁論要旨』p93~96)

このように、風間さんは、自分は関根氏、Y氏と一緒にE氏宅に向かったのではなく、9時半頃うちわ祭から帰宅した長男と一緒にたこ焼きを食べ、その後、午後10時過ぎに自宅を一人で出たのだと主張している。風間さんのこの供述は取調べ段階から公判まで一貫して変わっていないが、この供述にはその正しさについての証言者がいる。当時中学3年生だった長男のFくんである。一審の証言台では、彼がなぜ鮮明にそのことを記憶しているかについて、前年の中学2年時は友人の家のタコ焼き店で売るほうだけしか担当させて貰えなかったが、3年の時はタコ焼き作りをさせて貰ったためとてもつよく印象に残っている、と答えている。控訴審の法廷でも証言内容は同じである。以下に記す。

「博子さんとタコ焼きを食べたのは?
   「中3のとき。」
なぜ憶えているのか?
   「自分が初めてタコ焼きを作ったから。 」
タコ焼き屋と自宅の距離は?
   「自転車で30分。」
うちわ祭りは何時までか。 
   「9時まで。」
10時前に家に着いたとき お母さんは
   「家にいました。」」(控訴審法廷供述2004年10月20日)

上の証言を読まれる方のなかには、あるいは「親子だから口裏を合わせているのではないか」というような疑いをもたれる人もいるかも知れない。しかしそのようなことは取調べの状況からいって不可能であった。というのも、風間さんは逮捕後5年余の間、95年(平成7年)1月の逮捕時から2000年(平成12年)の半ばまで厳しい接見禁止下にあり、家族との面会はもちろん、手紙類のやりとり、本や資料の差し入れなども禁止されていた。外部との交流は一切断たれていたのである。取調べは朝から晩までつづく厳しいもので、事件から2年近くが経っていることでもあり、日常の細かなところまで記憶が残っているはずもなく、次々に浴びせられる尋問に対して正確な供述をするための記憶喚起になる手がかりも何ら与えられないまま、ひたすらY氏の供述内容に沿う供述を強いられるという、過酷な取調べに晒されていた。証言台に立つ息子との口裏合わせなどは成り立ちようのない状態だったことは明白である。そのことは、裁判所が長男の証言を退けるに際して用いた理由を見ても分かる。一審裁判所は、

「風間の長男である前記Fは、「母親(風間)は当日の午後10時過ぎころまで大原の自宅にいたと思う。」などと風間の弁解に沿うような供述もしているが(Fの公判供述参照)、その内容は甚だ曖昧なもので、これによっては前記判断が揺るぐことはないのである。」(『一審判決文』p334)

と判示している。さすがに裁判官も長男に対して「母親の供述に合わせて虚偽の証言をしている」などとの非難はできなかったのである。しかしその替わりに、証言内容が「曖昧」だというのであるが、一体どこが曖昧なのかを裁判官は判決文に明示すべきであったろう。「うちわ祭」「中学3年」「生まれて初めてタコ焼きを作った」「祭が終了したのは9時」「その後間もなく帰宅」「屋台から家までの距離は自転車で約30分」「親子の間でちゃんと約束を守ったでしょう、という会話がかわされた」「家で一緒にタコ焼きを食べた」「母親である風間さんはこれから外出する旨をその用件内容と共に告げて家を出ている」、等々、何ら曖昧だとは思えないのだが? 裁判官はこのFくんにどのような「曖昧でない」証言をすべきであったと言っているのであろうか。何よりも、裁判官は法廷で証言内容が曖昧だと思ったのなら、曖昧に感じる点について証言者であるFくんにその場でなぜ具体的な質問をなし、事を詳らかにしようとしなかったのだろうか。また、接見禁止処分に付されていた風間さんの取調べ段階での供述と息子の法廷での証言がこのようにピタリと一致している理由についてどのような判断をもったのだろうか。「万に一つの偶然の一致」とでも考えたのだろうか。

ここでついでに述べておくと、被告・弁護人側は、この夜、6時40分から9時頃まで、風間さんが母親と娘と三人でうちわ祭りを見物していたことの証人として風間さんの娘のNちゃんをも法廷に呼びたいとの要望を出した。しかし、裁判所は「もう、このくらいでいいでしょう」と応じたので、この返答を聞いた風間さんと弁護人は、裁判所はもう十分に分かってくれている、無罪の心証をもってくれていると思い、それ以上執拗に証人申請を要求はしなかったとのことである。

それからもう1点、風間さんがEさん宅に入っていった時の様子に関する供述のことだが、一審弁論要旨には、「Eが「おかあさん、まだ」と言うので、被告人風間はその意味がわからなかったが「ええ?」という感じと「ええっ」と返事するような曖昧な感じで答えた。」と記されている。この件について、裁判所は、下記のような判示をしている。

「風間は、E方に上がった際に、Eから『お母さん、まだ。』などと聞かれたと弁解するが、Y子(注:風間さんの母)の訪問など全く予定されていなかったことは既に述べたことから明らかであって、右弁解もまたあからさまな虚偽というほかはない。(『一審判決文』p333~334)

これは実に奇妙な判断である。事実、「Y子の訪問など全く予定されていなかったことは…明らか」ではあるだろうが、しかしこれでは関根氏がE氏にそのような虚偽の約束をするなどはありえないと裁判所が判断していることになるのだが、裁判所が関根氏の供述にそれほどの信頼を置いているとはこれまで知らなかった。以下に弁論要旨からこの出来事に関する弁護人の推論を引用しておきたい。

「被告人関根の平成7年3月10日付検面調書によれば、「(注:風間さん名義の江南町の土地・建物の)権利証のかわりに現金をやることにしよう。夫婦別れすることにして、ばあさんから手切れ金として1億円を出してもらうことにして、半分の5000万円をEにやるということにして、7月20日(略)、万吉犬舎で話した。Eは信じ込んだ様子であった」と供述している。/そして被告人関根の第70回公判、第81回公判においても同趣旨の供述をしている。/また被告人関根の第69回公判では「Eから親の家の権利証、印鑑証明、実印等の書類を用意しろ。江南の方も言われたが、江南は月賦がついているので、意味がない。母の方のあれを持ってこい」と言われたと供述している。/とすれば、事件当夜、Y子は金1億円とY子名義の土地の権利証等を持ってくることになっていたのであり、実子である被告人風間はY子を伴って一緒に来ると考えた方が自然かつ合理手的である。」(『一審弁論要旨』p360~361)

以上の推理は、十分に合理的と言えるのではないだろうか。少なくとも「Y子の訪問など全く予定されていなかった」から風間さんの供述は「あからさまな虚偽というほかはない」という判決文よりどれだけ論理的・説得的であることだろうか。
2010.01.17 Sun l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
『おかしな娘 古在直枝遺稿詩集』(1967年)より詩2編のご紹介。


 「芭蕉クン」

「私は 芭蕉クンのことを
 かんがえると
 涙がでる

 私は 芭蕉クンのことを
 かんがえると も少し
 生きてても
 いいような気がする

 私は 芭蕉クンのことを
 かんがえると ポカツポカツと
 する

 芭蕉クンは 一人で
 行脚したので ので

 そのことを考えると……
 マネツコマンザイ
 マメヤノコゾウ
 ウスツパカのハゲアタマ

 といわれても なんでもかんでも
 一人行脚して
 『静けさや いわに しみいる せみの声』
 といつてみたい 」
 


 「コイケサン」

「コイケサン
 アノネ
 コナイダ
 ウチニ アルトモダチガ タズネテキタノ

 スナオナハナシ

 オタクニ クルノニ ミチガ
 ワカラナク ナツタモノデ
 アルヒトニ キイタラネ
 『ああ あの エリザべス テーラーみたいな人の
 いるところですね』
 トイイマシタヨ

 トコロデ
 ワタシトアネガ 一瞬 ジブンノコトジヤナイカ
 トオモツタノハ
 ソレハマア ユルセルトシテモ(ナゼトモシレズ)
 五十ヲ スギタ ハハマデガ
 ウスラアカク ナツタトハ
 ナンダカ ナンダカ ムナシイオハナシ 」


詩集は、海で泳いでいて太平洋の潮流のために沖に流され、24歳にして亡くなった古在直枝さんがノートに書き残していた詩を父上が編まれたもの。(中野重治「詩集『おかしな娘』の件」『文藝』1969年2月号初出。「中野重治全集 第24巻」から引用)。読んでいると、「ポカツポカツとする」。おもしろくて、自由を感じさせてくれて、ふと慰められもする。



--追加--

 「アンポトウソウゴ」

「私は 誰も非難しない
 私は 誰も疑わない

 〈事実〉が終わつた後
 非難するヤツには
 〈事実〉が終わつた後
 疑うヤツには
 〈その事実〉の中で
 すでに――
 あなたは
 動く資格を持つてはいなかつた

 どんな形でも
 どんな皮肉でも
 〈そのときの事実〉に参加したものには
 これから動くこと
 あなたが 場面を動かすこと
 それだけのみが のこされている

 人間に疑問符を持つケンリは
 ない
 自分自身にさえ
 それはない

 …………
 …………

 場面を 動かせ
 場面を 動かせ
 注意深く
 思慮深く
 計算高く
 効果的に
 ちょうど 上等のシバイの
 ように
 (シェイクスピアのシバイのように)

 …………
 …………
 ディ・エンドは
 悲しくても
 嬉しくても
 楽しくても
 憂うつであつても
 〈上等〉でありさえ
 すれば!!

 腹のなかでは
 満面の笑顔 」


(1月12日 詩「アンポトウソウゴ」を追加しています。直枝さんの紹介文も修正しました。)
2010.01.11 Mon l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
昨年(2009年)は、1949年(昭和24年)に発生した松川事件から60年が経過した年で、10月17日と18日の二日間にわたり福島大学で「松川事件60周年記念全国集会」が開催されたそうである。報告文を読ませていただくと、1200名という多数の参加者があったそうだが、松川国鉄労組10名、東芝松川労組10名の元被告人20名のうち、東芝関係の元被告はすでに全員他界、国労のほうは2名の方が亡くなり、集会には5名が出席されたとのことである。十数年の長い裁判の全過程において東芝労組の杉浦三郎氏とともに被告団の中心的役割を担われた国労側の鈴木信氏は集会で矍鑠として挨拶をされたとのことである。もう89歳になられたとのことだが、気力にあふれた発言内容に驚きと敬意をいだかされる。20世紀が終了する時期だったと思うが、鈴木氏は同じく元被告の阿部市次氏とともに新聞社の取材に応じ、今このような時代になっているけれども、私たちは人々の深部にあるものは変化していないと何の疑いもなく信じている、という趣旨のことを語っているのを読んだことがある。岡林辰夫弁護士とともに事件発生の直後から一貫して弁護人を務めつづけた大塚一男弁護士は、松川裁判の無罪獲得運動について、著書のなかで「60年安保、三池闘争とともに日本の偉大な三大運動の一つ」と述べ、また「偉大な松川の運動」という表現を何度も記されているが、鈴木氏が新聞で語っていた「私たちは人々の深部にあるものは変化していないと信じている」という発言はそのような闘いを経験している人だからこその本心からの言葉だと感じたものであった。「60周年記念全国集会」では、鈴木氏は下記のように語っておられる。

「これだけ無罪を示す証拠がそろっているのだから自分は無罪になるに違いないという甘い考えを持っていた。当時、増田甲子七・官房長官が『この事件は、思想的には下山・三鷹事件と同じ。日本の国を存続させるために多少の犠牲はやむを得ない』と公言していた。私は国民のひとりとしてこの事件の真相を究明しなければならない。自分の一生の問題として今後も闘い抜く」

当時の増田甲子七官房長官が「多少の犠牲はやむを得ない」とまで述べていたとは初めて聞くことである。しかし、この官房長官が遠い松川で列車転覆が起った8月17日の翌日に、記者会見の席で下記のように語ったことは紛れもない事実である。

「今回の事件は今までにない凶悪犯罪であり、三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流に於いては同じものである。」

下山事件が発生したのは同年の7月5日(下山国鉄総裁が行方不明になった日。翌6日朝、常磐線五反野付近の線路上に轢死体となって発見される)、三鷹事件は7月13日、これにつづいて起きたのが8月17日早朝の金谷川・松川間での列車転覆事件であった。当時、定員法による国鉄労働者の大量馘首が始まり、国鉄労組が馘首反対闘争に立ち上がっていたことは事件を見るうえで必ず抑えておかなければならない重要な事実だと思われる。3、4年前から始められたという俳句に鈴木氏が「広津文乾いた喉に滲みわたり」と詠んでいる、松川事件と裁判の実態を広く世に報せ、20人の無罪獲得に大きな貢献をした作家の広津和郎は、「中央公論」連載の『松川裁判』で、上述した3つの大事件が発生する前に、新聞にさりげなくしかし断続して列車妨害の記事が載っていたことを印象ぶかく記している。

「昭和24年(1949年)という年は、この国はまだアメリカの占領下にあった頃であったが、鉄道関係で大小いろいろな事件が起った。6月中旬頃から、全国の諸所方々で、線路に石や材木が載せてあったとか、信号機が破壊されていたとか言ったような列車妨害の報道が、頻々として新聞に掲載され、国民の心に何とも知れない不安を与えていた。」

このような過程があったため、松川事件が発生した翌日の増田官房長官の談話にも、広津和郎は(広津和郎でさえ、というべきか)違和感をいだかなかったそうである。『松川裁判』のなかで次のように述べている。

「後になって考えれば、17日に事故が起った翌日の18日では、特に何かの予断を持たない限り、現場に於いてもまだ五里霧中で何者がかかる犯罪を行ったかその見当さえついていたはずがないし、したがって現場から261粁離れた東京の吉田内閣に、事故の真相が解るはずがないから、内閣の重要な地位にいる官房長官が、そういう談話を発表したという事が、如何に軽率で乱暴であるかという事に思い当たるが、当時に於いては、筆者なども迂闊に官房長官の談話を信じ、それを思想犯罪と思い込まされたものであった。それには6月半ば以来の列車妨害の新聞報道や、下山、三鷹と続いた事件についての宣伝が、いつかわれわれの心に、増田官房長官の談話をそのまま鵜呑みにするような下地を作っていたということが考えられる。

振り返って見ると、一カ月前の三鷹事件の時も、事件の翌日吉田首相が、「定員法による馘首がもたらした社会不安は、主として共産主義者の煽動による」という声明を発したものであった。」

松川事件の被告人が無実であることは裁判で完璧に証明され、20人全員が無罪を勝ち取ることができた。けれどもいまだに事件の真相は闇に隠されたままである。当時最高裁長官であった田中耕太郎は、裁判所内での訓示においてメディア上で健筆をふるう松川裁判の広津和郎や八海事件の正木ひろし弁護士らを指して(名指しはしなかったが、状況からみるとそう考えて間違いないと思われる)、「世間の雑音に耳を貸すな」と雑音呼ばわりしたり、松川事件の最高裁判決においては、高裁への差戻しを主張する多数派の裁判官らを「木を見て森を見ざるもの」と批判し、自らは上告棄却を強力に主張した。これまで田中長官については、資質的に反動的な裁判官だったのだろうと単純に考えていたが、よくよく増田官房長官や吉田首相の言動を見てみると、果たして単にそれだけのことだったのだろうかという気もする。田中耕太郎が最高裁長官に就任したのは昭和25年(1950年)だが、これは吉田茂首相時代のことであり、田中耕太郎自身、最高裁長官への推挙について「おそらく吉田茂氏の意向ではなかったかと思う。」と語っているのを私はどこかで読んだことがある。その時は「二人とも同じ程度に反共主義者だからだろう」と軽く思っただけだった。ところが、最高裁長官を退官後、田中耕太郎は、吉田茂元首相をノーベル平和賞に推挙する運動を小泉信三などとともに展開しているのである。私はこのことを、最近になって、「一体、吉田茂にノーベル平和賞をとは何事であろうか」と語気するどく批判している中野重治の文章を読んで知った。私は昔から松川裁判には関心をもっていて関連する本などは目につく範囲でずいぶん読み、啓発されることが大変多かったのだが、吉田茂と田中耕太郎との関係が直接的に頭に浮かんだのは今回が初めてだった。増田官房長官は吉田内閣の主要閣僚だということの意味は解っているつもりで、増田氏の談話の背後に吉田首相の存在を考えてはいたが、吉田内閣と最高裁長官とを結びつけて考えたことは今回が初めてである。

田中耕太郎が最高裁長官に推挙された理由や経過についてはもっと関心がもたれていいことなのかも知れない。いや、あるいは、事件の周辺の人々にとっては吉田茂と田中耕太郎の間柄に関するこのような関心というか、疑念は共通認識としてずっと存在していたのかも知れないとも思う。事件翌日の増田官房長官の談話についての広津和郎の叙述は上述したように「軽率」「乱暴」と記していて主観を抑えたさりげない書き方だが、事件から十数年を経ての1961年における中野重治の語調は大変厳しい。

「 しかし私は、そもそも列車転覆のあくる日、何で増田があんな発表をしたのだったか、それは今日の話として増田本人から聞きたいと思っていた。ついうっかり、あんなことを言ってしまった。つくづく後悔している。あるいは、あのときああ発表したのは、内閣官房長官として当然だった。今日かえりみて、何らやましいところはない。いずれにしろ、それを聞きたいとほんとに思うが増田はどうだろうか。理由を衆議院に出している、日本一教育程度の高いという長野県人の考えはどうであろうか。」(フィクションと真実)

中野重治とともに私も増田元官房長官に「列車転覆のあくる日、何であんな発表をしたのだったか」、今さらながらではあるがぜひ聞いてみたい。松川裁判闘争が裁判史上空前の盛り上がりをみせ、市民運動における「日本の偉大な三大運動のひとつ」と称せられるほどの闘争が展開されてなおその後の司法のあり方を変えることはできなかった。昨今の裁判の現状を見ていると私などもそのことを痛感させられるのだが、これは松川裁判のような大きな事件でもなお真相が明らかになっていないこと、でっち上げをなした側で責任をとった人間が皆無であることと無関係ではないだろうと思う。

国労側の謀議・実行の首謀者として、鈴木氏と同様、一審・二審ともに死刑判決をうけた本田昇氏は、今年の4月2日、毎日新聞夕刊の「裁判員制度」についてのインタビュー取材で次のように述べておられる。

「私は1949年に福島県で起こった「松川事件」で汽車転覆致死容疑で逮捕・起訴された20人の一人です。東北線金谷川~松川駅間でレールの継目板などが外され、列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡した事件で、当初から捜査当局は国鉄などの労働組合員を狙った見込み捜査を行い、一部の逮捕者に自白を強要しました。私は最後まで無罪を主張しましたが、1、2審は死刑判決。拘置所で近くの房の確定死刑囚に刑が執行され「自分もそうなるのか」と全身が震えました。/その後、作家の広津和郎先生が雑誌上で判決批判を展開したり、被告のアリバイを示す証拠を検察が隠していたことが報道されたことで、審理は差戻しとなり、無罪判決が確定。胸をなで下ろしましたが、拘束された23歳からの10年間は戻ってきません。/事件当時は米軍占領下で、今とは状況が違いますが、03年の鹿児島県議選をめぐって買収などで起訴された12人全員の無罪が確定した志布志事件をみても、捜査当局によるでっち上げのやり方は変わっていない。過去の過ちを総括し、捜査をもっと可視化するなどの対策が必要です。検察が不利な証拠を隠さない仕組みも重要。裁判員になる国民が当局の誤った判断にお墨付きを与える制度にならないよう願っています。」(「カウントダウン裁判員制度」施行まで49日)

上で本田氏が述べておられることを箇条書きにしてみると、

� 捜査当局によるでっち上げのやり方は変わっていない
� 過去の過ちを総括すること
� その上で可視化などの具体的な対策をとること
� 検察が不利な証拠を隠せない仕組みづくりの重要性
� 裁判員になる国民が当局の誤った判断にお墨付きを与える制度になりかねないとの懸念

いずれも重要な指摘ばかりであることは間違いない。�については、松川事件の場合、佐藤一被告のアリバイを証明する「諏訪メモ」が検察によって隠匿されていることが発覚したおかげでかろうじて最高裁による差戻し判決はなされたのだ。もしこれがそのまま隠し通されていたならば、と考えると寒気がする経過である。上述のとおり1・2審で死刑を判決されていた本田氏は、最高裁判決を迎えるにあたって、もし上告棄却の判決がでたならば、世を覆っている高い抗議の声を抑えるためにも自分たち4名(国労側の鈴木・本田、東芝側の杉浦・佐藤一、の各氏)に対しあるいは早期の死刑執行がなされるのではないかという悪夢が日夜脳裏を離れなかったと、後日手記のなかで述べていた。鈴木信氏も「死か生か日日ゼロ点に立つ死刑囚」という死刑を詠んだ俳句に添えて、次のように書かれている。「午前9時が近づくと確定死刑囚のいる獄舎は針を落としてもピリピリするほど静まりかえる。毎日生か死の瞬間を迎え、ある死刑囚は骨と皮だけになり「生ける屍」とはこの姿だと思った」。検察が自分たちに不利な証拠を隠せる仕組みが許されてきたということは、国家が不公正な裁判の温床を認めつづけてきた、今も現にそうしているということに他ならない。「埼玉愛犬家殺人事件」の風間博子さんの裁判経過を見ても、同様のことが平然と行われている。裁判を一歩でも健全なものにするには、誤りをおかしたこれまでの裁判の真相を公的に明らかにし、反省すべきことを深刻に真摯に反省し、それを具体的な対策に活かしていく地道なやり方以外にないだろうと思う。
2010.01.08 Fri l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
中国国家副主席の習近平氏の来日に際し、宮内庁に対して「30日ルール」という手続き上の期限内規を超えて天皇と習近平氏との会見を要請した政府は、無理をいうその理由として、「中国との関係は重要」である点を挙げていたとのことであった。そのことを、羽毛田氏と小沢氏それぞれの記者会見で知ったのだが、この一点につき私は胸にヒヤリとしたものを感じた。愛読しているブログ「きまぐれな日々」のkojitakenさんは、この出来事が表沙汰になったことで「自主憲法制定」を主張する極右の人間たちにつけ入るスキを与えたということや、またマスコミに対してあのような発言をした羽毛田氏の思想的背景に懸念をもったためではないかと思われるが、小沢氏に対するより、むしろ羽毛田氏への批判をつよくもたれたようで、この点いくらか違和感をおぼえるところがあり、この問題について書いてみる気になった。とりとめのない感想になってしまうにちがいないが、思うところを記してみる。

天皇は「政治的権能を有しない」とあえて憲法に明記されている人物だ。中曽根康弘作の「憲法改正の歌」にある「占領軍は命令す/若しこの憲法用ひずば/天皇の地位うけあはず」の歌詞は歴史的事実としてその通りの経過だったと思われる。天皇の政治的権能の剥奪ということも、「若しこの憲法用ひずば」における「この憲法」の重要な内実の一つであったことは確かだろう。そのような地位に現在ある人に対して日程調整上の無理を押しての会見要請をするにあたり、その国との関係は重要、とのこれ以上はないほどの政治的理由をもってなされていたわけだから、この現実には目のくらむほどの矛盾を感じた。

日本政府がその国との政治的関係を重要視している、かけがえのないものと考えているとの意思を相手に示すに際して、その役目を果たしうる最良・最強の存在が天皇だということなのだろう。総理大臣や幹事長といった政府首脳の接待のみでは完璧ではないようだ。これが実態だとすると、実態と、「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と「天皇の権能の限界」を定めた憲法第4条との矛盾は量り知れず大きいということになるだろう。「憲法尊重擁護の義務」を定めた憲法第99条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とある。憲法によると、小沢氏や鳩山氏など政府閣僚のみならず、天皇にも憲法遵守の義務があるのである。

天皇が頻繁に政治の場に現れることは、何にしろ私たち普通の市民・住民にとってよいことが生じようはずがない。戦前戦後の歴史を見て私は常々そう感じてきたが、この意識はここ数年ますますつよまってきている。裕仁天皇に対しては、戦争責任問題が潜在的には常にくすぶっていたために、たとえば、今回のように政府が特定のある国との関係が重要だからという理由で会見を依頼するようなことはなかったのではないだろうか。少なくとも依頼する側にも躊躇が生じたのではないかと思う。ところが現天皇に対しては、天皇が政治的役割を担うことにかつてのような逡巡がなくなっているように思う。それどころか、最近あちらこちらで指摘されているように、一般には左派として通っているような学者や文筆家やメディアの人物が現天皇を手放しに称賛している発言を雑誌などのメディア上でよく見かける。

いわく、現天皇は昭和天皇と違って平和主義者である。政治家や官僚のよき手本・規範になりえる存在である。アジア諸国との関係改善に天皇外交はまたとない役目を果たすことができるに違いない、……等々。誰も天皇と個人的によく付き合ったこともないだろうに、また現天皇がまとまった形で自分の歴史観や政治思想を開陳したこともないはずなのに、なぜ公の場でこんなふうに断定的な称賛ができるのだろうと不可解に感じることが多い。私とても現天皇に個人的な反感などはあるはずもないが、それでも教育基本法改定や国旗・国歌法制定などは平成になってから起きた政治的出来事であり、無邪気に顔をほころばせて、あるいは力をこめて熱心に現天皇個人を称賛する姿勢には「一体何を考え、何を期待しているのだろう?」と疑問と懸念を感じることがある。私はいずれ天皇制は廃止したほうがよいとずっと思ってきたものではあるが、私自身の親もそうだったし、天皇の擁護者および天皇制の支持者に必ずしも批判をもつというわけではない。夏目漱石の門下だった小説家の森田草平は戦後共産党に入党したくらいで、若いころから堺利彦など左翼の人の言説に共感することの多い人だったそうだが、同時になぜか皇室に対する敬愛の念が異常につよく、特に何とかという当時の皇太后に憧れていて周囲にもそのことを隠さなかったことが内田百間の「実説艸平記」にも印象的に描かれている。それを読んでも、森田草平に特別な違和感や疑問はおぼえなかった。むしろ興味ぶかくおもしろく読んだ。ところが、今盛んに天皇を称賛し天皇について語る人たちの言葉には訝しさや怪しさをおぼえてしまう。その語るところに恬淡とした気持ちで聞いていられない何かがあるように感じるのである。

今回の小沢氏の発言には、「きまぐれな日々」のコメント欄でぽんきん氏が述べておられた「天皇の人権」「天皇の個の解放の問題」と関連するかと思うが、天皇個人に同情させられるところもあった。このことは、小沢氏がいうように、天皇は引見を「喜んでやってくださる」かどうかということとは別問題だし、また羽毛田氏の言動に思想的背景があるかどうかといったこととも無関係で(とは言っても、羽毛田氏の例の発言を聞いたかぎりのことだが、「国の間に懸案があったら陛下を打開役にということになったら、憲法上の陛下のありようから大きく狂ってしまう」という発言は正論だと思うし、「心苦しい思いで陛下にお願いした。こういったことは二度とあってほしくない」などの発言もそれ自体は立場上もっともなものではないかとは思う。また、公務員は辞表をだしてからでないと政府批判はできないという意見にも賛成できない。)、あくまでも小沢氏が会見で述べた言葉に対しての感想なのだが、人に会う、会って話をする、交わりをもつということは本質的にどういうことなのかと考えさせられるのである。

「国政に関する権能を有しない」人が、わざわざ「国政に関する絶大な権能を有する」ところの他国の政治家と単独で会って話をするということは、ただ単に相手の格の高さを証明してあげること以外の意味が何かあるのだろうか。「それで結構ではないか」と考える人もいるかも知れないが、そこには私たち一般民衆の側における人間の精神や存在に対する無知や軽率な思い込みがあるのではないだろうか。憲法の解釈ではどういうことになっているのか正確なところを知りたいと思っているが、素人考えでは、多分、天皇は人前で一切政治に関わる発言をしてはならないということはないのではないかと思う。記者会見で政治的な質問がなされることも実際にある。しかし、相手が外国の政治首脳である場合、天皇が会見の席で政治的見解なり主張なりを述べることには問題があるのではないだろうか。何しろ、国政に関する権能を有しないのだから、厄介な問題が生じる可能性もないわけではない。そのように考えていき、「中国との関係は重要」という政府の意図を頭において会見の席を具体的に想像すると、そこには気の毒というより、残酷といいたいほどに複雑かつ微妙なものがあると思う。ヒヤリとしたのは、小沢氏の発言内容にも語調にもそのようなことへの感覚的配慮や思考過程がまったく欠けているように思えたことだった。

小沢氏の場合、自身のホームページに掲載している「永住外国人の地方参政権について」という記事でも、今回と同じようにヒヤリとさせられるところが随所にある(ブログ「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」で具体的な指摘がなされ、批判されている)。喜怒哀楽という人間の感情は、多種多様、複雑怪奇であり、心理的ニュアンスの相違、深さ、濃淡など一筋縄では量りがたいものだが、その点、小沢氏の理解力の幅は呆気ないほど狭量で一本調子、日本の政治土壌自体がそうだからと思えば最も日本的な政治家だともいえるのだろうが、読んでいて気が滅入ることではある。

> この点、象徴行為説や公人行為説に立つ論者も、憲法の明文規定にないこの種の天皇の行為が「政治的性格」を帯びることに警戒的な態度を示しつつも、象徴天皇制という妥協的制度の現実からやむをえない現実的必要性を認めて、さらに何らかの細目規準を挙げながら、一定範囲でのみ「象徴行為」「公的行為」を認めているのですが、侵略戦争をしかけた相手国の次期国家主席候補者という接遇相手の地位から見て、おそらく習副主席の接受を「憲法上なしえない」とは言わないでしょう。

上記の文章は「きまぐれな日々」のコメント欄における、樹々の緑氏の文章の一節である。kojitaken氏が「kojitakenの日記」でも全文掲載しておられる。勝手に引用して申し訳ないのだが、この部分に関する感想を少し述べさせていただくと…。まず憲法に関してとても豊富な知識をもっておられることが一読して分かり、論旨も明快なので問題を考える上で大変参考になるのだが、ただ「侵略戦争をしかけた相手国の次期国家主席候補という接遇相手の地位から見て、おそらく習副主席の接受を「憲法上なしえない」とは言わないでしょう。」という文言に見られるところの論理は、やや自分本位で乱暴、また狡猾なのではないだろうか。政府による「天皇の政治利用」であるかないかを問題としている場面で、相手が「侵略戦争をしかけた相手国の次期国家主席候補という接遇相手の地位」だから、「憲法上ありえる」という結論がでるのでは、侵略行為の重さ、憲法の存在意義、そのどちらもが互いの意味と重みを軽くする作用をしていて、このことには疑問をおぼえる。このような言い分には、中国の政治首脳はともかく、民衆のなかには苦々しく感じる人もいるのではないだろうか。もしところをかえていたら私自身はそのように感じるのではないかという気がするのである。

2010.01.04 Mon l 天皇制 l コメント (6) トラックバック (0) l top
明けましておめでとうございます。昨年は、拙文を読んでくださり、ありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いします。

お正月でもあることだし、たまには何か楽しいことを書きたいと思いつつ、残念ながらあまり思い浮かばないのが現状で、下記の文章も楽しい話とは言いがたいと思いますが…。

もうだいぶ昔の話です。図書館の棚の前で何気なく一冊の本をとりだしてパラパラめくっていたところ、ふとこんな文字が目に入りました。「その人のことを思い出すと、いつでも心が明るくなり、思わず口もとに笑みが浮かび上がってくるというような存在の人がいる。」
これは記憶で書きました。決して正確な写しではありません。何しろその時一読したきりであり、ついでにいうと、この本の作者名も私はいつの間にか忘れてしまって、記憶していないのです。が、これを読んだ時は、何かしら興味を惹かれ、ちょっと推理しました。さて誰のことだろう。恋人? そんなことを漠然と思ったのですが、つづきを読むと、答はなんと「神」だったのです。私は心底驚いてしまいました。神様、というと厳めしい裁き手のごとき存在としかその時まで感じとることができていませんでしたから。きっと無意識のうちに自分をよほど罪ある人間、救われない悪人と感じていて、心の底では罰があたらないかと常々ビクビクしていたのかも知れません。

それでも、これは後々じわじわと感じたことなのですが、この文を読んだ(知った)ことは私にはとてもよい経験でした(著者はもしかするとキルケゴールだったかも知れません)。神様をそのようにうけとめる余地があるということを知ったこと自体がとても心やすまることで、嬉しい気持ちがしたものです。実際にそれ以後はそれまでに較べると格段に楽な気持ちで、少なくとも怯えることなく、神についての人の話を聞いたり、読んだり、少しは考えたり、感じたりすることができるようになった気がします。不思議なことですが。 たとえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』という小説などは、読んでいると、それも時によることではありますが、上の言葉がじつは真理かも知れないと感じさせてくれるようにも思います。

それにしても、「その人のことを思い出すと、思わず口もとに笑みが浮かんでくる」と書いてあるのを読んで、「恋人」を思い浮かべるということは、「恋愛」についての考えがまったく足りなかったと思います。大抵の場合、「恋愛」はおそらくそういう性質の感情ではありませんね。多かれ少なかれ力に余る激情を伴うもので、明るい気持ちになったり、笑みがうかんでくるというような平安・静謐な感情とはほど遠いというのが本質ではないかと思います。それでその後、「思い出すと思わず笑みが浮かぶ」というような存在の人物、あるいはその人物にまつわっての出来事が自分にもあるだろうか、あるとしたら何だろう。おりにふれてあれこれ思いをめぐらしてみました。

たとえば、わが子が赤ん坊の時、または4歳頃までの幼児だった時期には、上の文章がそっくり該当するようなことがずいぶんあったような気がします。それから自分自身の子どもの頃を思い出すと、やはりそういう存在をもっていましたね。プロ野球の長嶋茂雄選手。正確にいうと、長嶋選手のプレイですね。走塁、守備、打撃といろんな場面を頭のなかにたくさん蓄えていて、好きなときに好きな場面を呼び寄せては(というより勝手に浮かんでくるのですが)、うっとりしたり、気持ちが活気づけられたり、伸びやかな、豊かな感情を味わったりしていたような気がします。今、日本プロ野球はもとより、大リーグのどんな選手のプレイに対しても、いま一つ物足りなさを感じてしまう(無意識のうちにあれ以上のプレイがあるはずがないとハナから思い込んでいるのかも知れません)というのは、長嶋選手の数々の記憶がこれ以上はないほど完璧な姿で頭に焼きついているためなのでしょう。さて、現在ですが、散歩している時などに思い出すと、思わず気持ちが明るくなるようなものがあるかといえば、「赤と黒」の作者として知られるスタンダール、そしてスタンダールの自伝である「アンリ・ブリュラールの生涯」のなかのいくつかの文章はそう言えそうです。

スタンダールは生前まったく売れない作家でした。たとえば「恋愛論」は10年間で10数冊しか売れなかったそうで、スタンダールが売れ行きを問い合わせると、本屋は「あの作品は聖別されているのでしょう。だれも手に触れようとしません」と返答してきたということがスタンダールの原稿の端っこに記されていたそうです。「赤と黒」も「パルムの僧院」もほとんど誰にも読まれませんでした。「アンリ・ブリュラールの生涯」は当分刊行する予定も意思もないままに半ば退屈しのぎに書かれたもので(とはいっても、スタンダールは50年後、80年後の読者との邂逅を本のなかで約束していますが)、それだけにこの本には、スタンダールの性格や思想が何の飾りもなく素朴に率直にあらわれていて、飽きることのない尽きぬ味わいがあるような気がします。たとえば、こんな場面は何度読んでもおもしろいと思うし、好きな箇所なので下記に2点引用しておきます。未読の方には、ある種のおもしろさを感じていただけるかも知れません。(「キュブリー嬢」とはスタンダールが12、13歳の頃、彼が住むグルノーブルに公演にやってきた劇団の、喜劇を演じ、歌う若い女優のこと)

「 私は、一時間前から、書くことに、キュブリー嬢のころの自分の印象を正確に描こうとつとめることに大いに喜びを感じているようだ。しかし、いったい誰が私とか我とかをやたらにつめこんだこんな書きものを読む勇気をもつだろうか? 自分自身にも鼻につく。こういうのがこの種の書きものの欠点で、それにこういうつまらぬ書きものに、山師的な味つけソースをかけて供するすべを私は知らない。つけくわえていいだろうか? ルソーの『告白』のように、だ。いやいけない。いくらそういう非難が馬鹿ばかしくても、人は私が羨望しているか、それともこの大作家の傑作と自分との非合理でばかばかしい比較をこころみようとするのだ、と考えるだろう。
 私は改めて、もういちどだけ、抗議しておく。私はペリゼ、サルヴァンディ、サンマルク・ジラルダンのような『討論』紙おかかえの偽善的衒学者を、心から、最高度に、軽蔑している。しかし、だからといって、自分を大作家に近いなどとは信じてはいない、ということだ。私が自分にすぐれた才能があると認めているのは、ある瞬間瞬間に非常に明らかに自分に見える自然をよく似ているように描くこと。第二に、真実にたいして私は完全な誠意と尊敬の念をもっていること。第三には、書く喜びということ。ミラノのジャルディーノ通りのペロンティ氏の家で1817年に狂気に達するほどの喜びを、もったことである。」

「 だが、キュブリー嬢のことにもどろう。そのころは、なんと私は欲望から遠かったことだろう。そして、欲望で非難されることを恐れる気になったり、どんなやりかたであろうと他人のことを考えたりすることからいかに遠かったことか! 私のために人生ははじまりかけていたところだった。
 この世にただ一人の人しかいなかった、キュブリー嬢。ただ一つの出来事しかなかった、彼女はその晩舞台に出るだろうか、それとも翌日なのか?
 彼女が出ずに、出しものが悲劇だったときの、なんという失望!
 広告に彼女の名を読んだときの、純粋で、やさしい、勝ちほこったような恍惚感はどうだったか! 私の目には、まだあの広告が見える。その形、その紙、その文字。
 この広告の出ている三、四カ所へ、このいとしい名をつづけさまに、私は読みに行った。ジャコバン門のところ、公園のアーケード、祖父の家のそばの町角。私は、ただ名を読むだけでなしに、その広告全部を何度も読む喜びを味わうのだった。この広告をつくった悪い印刷屋のすこし磨滅した活字が私には愛しいもの、神聖なものになった。そして、長い年月のあいだ、私はもっとも美しい活字よりそれをもっと好きだった。
 つぎのようなことさえ、私は思い出す。1799年11月にパリに到着したとき、活字の美しさが私には不愉快だった。キュブリーの名を印刷してあったような活字ではなかったから。

彼女は出発した。それがいつごろか、私には言うことができない。長いあいだ、私は二度と劇場へは行けなかった。……」(岩波文庫・桑原武夫・生島遼一訳)

「真実にたいして私は完全な誠意と尊敬の念をもっている」というスタンダールの言葉について、大岡昇平は、「このような姿勢を持ち続けていれば、人はそう大きく誤った方向には行かないことが分かる」というような趣旨のことをスタンダールに関して述べていますが、私もこの考えに全面的に賛成です。最初に述べた「神」とは何ら関係のない話になってしまいましたが、どうぞお許しを。
2010.01.01 Fri l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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