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中国国家副主席の習近平氏の来日に際し、宮内庁に対して「30日ルール」という手続き上の期限内規を超えて天皇と習近平氏との会見を要請した政府は、無理をいうその理由として、「中国との関係は重要」である点を挙げていたとのことであった。そのことを、羽毛田氏と小沢氏それぞれの記者会見で知ったのだが、この一点につき私は胸にヒヤリとしたものを感じた。愛読しているブログ「きまぐれな日々」のkojitakenさんは、この出来事が表沙汰になったことで「自主憲法制定」を主張する極右の人間たちにつけ入るスキを与えたということや、またマスコミに対してあのような発言をした羽毛田氏の思想的背景に懸念をもったためではないかと思われるが、小沢氏に対するより、むしろ羽毛田氏への批判をつよくもたれたようで、この点いくらか違和感をおぼえるところがあり、この問題について書いてみる気になった。とりとめのない感想になってしまうにちがいないが、思うところを記してみる。

天皇は「政治的権能を有しない」とあえて憲法に明記されている人物だ。中曽根康弘作の「憲法改正の歌」にある「占領軍は命令す/若しこの憲法用ひずば/天皇の地位うけあはず」の歌詞は歴史的事実としてその通りの経過だったと思われる。天皇の政治的権能の剥奪ということも、「若しこの憲法用ひずば」における「この憲法」の重要な内実の一つであったことは確かだろう。そのような地位に現在ある人に対して日程調整上の無理を押しての会見要請をするにあたり、その国との関係は重要、とのこれ以上はないほどの政治的理由をもってなされていたわけだから、この現実には目のくらむほどの矛盾を感じた。

日本政府がその国との政治的関係を重要視している、かけがえのないものと考えているとの意思を相手に示すに際して、その役目を果たしうる最良・最強の存在が天皇だということなのだろう。総理大臣や幹事長といった政府首脳の接待のみでは完璧ではないようだ。これが実態だとすると、実態と、「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と「天皇の権能の限界」を定めた憲法第4条との矛盾は量り知れず大きいということになるだろう。「憲法尊重擁護の義務」を定めた憲法第99条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とある。憲法によると、小沢氏や鳩山氏など政府閣僚のみならず、天皇にも憲法遵守の義務があるのである。

天皇が頻繁に政治の場に現れることは、何にしろ私たち普通の市民・住民にとってよいことが生じようはずがない。戦前戦後の歴史を見て私は常々そう感じてきたが、この意識はここ数年ますますつよまってきている。裕仁天皇に対しては、戦争責任問題が潜在的には常にくすぶっていたために、たとえば、今回のように政府が特定のある国との関係が重要だからという理由で会見を依頼するようなことはなかったのではないだろうか。少なくとも依頼する側にも躊躇が生じたのではないかと思う。ところが現天皇に対しては、天皇が政治的役割を担うことにかつてのような逡巡がなくなっているように思う。それどころか、最近あちらこちらで指摘されているように、一般には左派として通っているような学者や文筆家やメディアの人物が現天皇を手放しに称賛している発言を雑誌などのメディア上でよく見かける。

いわく、現天皇は昭和天皇と違って平和主義者である。政治家や官僚のよき手本・規範になりえる存在である。アジア諸国との関係改善に天皇外交はまたとない役目を果たすことができるに違いない、……等々。誰も天皇と個人的によく付き合ったこともないだろうに、また現天皇がまとまった形で自分の歴史観や政治思想を開陳したこともないはずなのに、なぜ公の場でこんなふうに断定的な称賛ができるのだろうと不可解に感じることが多い。私とても現天皇に個人的な反感などはあるはずもないが、それでも教育基本法改定や国旗・国歌法制定などは平成になってから起きた政治的出来事であり、無邪気に顔をほころばせて、あるいは力をこめて熱心に現天皇個人を称賛する姿勢には「一体何を考え、何を期待しているのだろう?」と疑問と懸念を感じることがある。私はいずれ天皇制は廃止したほうがよいとずっと思ってきたものではあるが、私自身の親もそうだったし、天皇の擁護者および天皇制の支持者に必ずしも批判をもつというわけではない。夏目漱石の門下だった小説家の森田草平は戦後共産党に入党したくらいで、若いころから堺利彦など左翼の人の言説に共感することの多い人だったそうだが、同時になぜか皇室に対する敬愛の念が異常につよく、特に何とかという当時の皇太后に憧れていて周囲にもそのことを隠さなかったことが内田百間の「実説艸平記」にも印象的に描かれている。それを読んでも、森田草平に特別な違和感や疑問はおぼえなかった。むしろ興味ぶかくおもしろく読んだ。ところが、今盛んに天皇を称賛し天皇について語る人たちの言葉には訝しさや怪しさをおぼえてしまう。その語るところに恬淡とした気持ちで聞いていられない何かがあるように感じるのである。

今回の小沢氏の発言には、「きまぐれな日々」のコメント欄でぽんきん氏が述べておられた「天皇の人権」「天皇の個の解放の問題」と関連するかと思うが、天皇個人に同情させられるところもあった。このことは、小沢氏がいうように、天皇は引見を「喜んでやってくださる」かどうかということとは別問題だし、また羽毛田氏の言動に思想的背景があるかどうかといったこととも無関係で(とは言っても、羽毛田氏の例の発言を聞いたかぎりのことだが、「国の間に懸案があったら陛下を打開役にということになったら、憲法上の陛下のありようから大きく狂ってしまう」という発言は正論だと思うし、「心苦しい思いで陛下にお願いした。こういったことは二度とあってほしくない」などの発言もそれ自体は立場上もっともなものではないかとは思う。また、公務員は辞表をだしてからでないと政府批判はできないという意見にも賛成できない。)、あくまでも小沢氏が会見で述べた言葉に対しての感想なのだが、人に会う、会って話をする、交わりをもつということは本質的にどういうことなのかと考えさせられるのである。

「国政に関する権能を有しない」人が、わざわざ「国政に関する絶大な権能を有する」ところの他国の政治家と単独で会って話をするということは、ただ単に相手の格の高さを証明してあげること以外の意味が何かあるのだろうか。「それで結構ではないか」と考える人もいるかも知れないが、そこには私たち一般民衆の側における人間の精神や存在に対する無知や軽率な思い込みがあるのではないだろうか。憲法の解釈ではどういうことになっているのか正確なところを知りたいと思っているが、素人考えでは、多分、天皇は人前で一切政治に関わる発言をしてはならないということはないのではないかと思う。記者会見で政治的な質問がなされることも実際にある。しかし、相手が外国の政治首脳である場合、天皇が会見の席で政治的見解なり主張なりを述べることには問題があるのではないだろうか。何しろ、国政に関する権能を有しないのだから、厄介な問題が生じる可能性もないわけではない。そのように考えていき、「中国との関係は重要」という政府の意図を頭において会見の席を具体的に想像すると、そこには気の毒というより、残酷といいたいほどに複雑かつ微妙なものがあると思う。ヒヤリとしたのは、小沢氏の発言内容にも語調にもそのようなことへの感覚的配慮や思考過程がまったく欠けているように思えたことだった。

小沢氏の場合、自身のホームページに掲載している「永住外国人の地方参政権について」という記事でも、今回と同じようにヒヤリとさせられるところが随所にある(ブログ「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」で具体的な指摘がなされ、批判されている)。喜怒哀楽という人間の感情は、多種多様、複雑怪奇であり、心理的ニュアンスの相違、深さ、濃淡など一筋縄では量りがたいものだが、その点、小沢氏の理解力の幅は呆気ないほど狭量で一本調子、日本の政治土壌自体がそうだからと思えば最も日本的な政治家だともいえるのだろうが、読んでいて気が滅入ることではある。

> この点、象徴行為説や公人行為説に立つ論者も、憲法の明文規定にないこの種の天皇の行為が「政治的性格」を帯びることに警戒的な態度を示しつつも、象徴天皇制という妥協的制度の現実からやむをえない現実的必要性を認めて、さらに何らかの細目規準を挙げながら、一定範囲でのみ「象徴行為」「公的行為」を認めているのですが、侵略戦争をしかけた相手国の次期国家主席候補者という接遇相手の地位から見て、おそらく習副主席の接受を「憲法上なしえない」とは言わないでしょう。

上記の文章は「きまぐれな日々」のコメント欄における、樹々の緑氏の文章の一節である。kojitaken氏が「kojitakenの日記」でも全文掲載しておられる。勝手に引用して申し訳ないのだが、この部分に関する感想を少し述べさせていただくと…。まず憲法に関してとても豊富な知識をもっておられることが一読して分かり、論旨も明快なので問題を考える上で大変参考になるのだが、ただ「侵略戦争をしかけた相手国の次期国家主席候補という接遇相手の地位から見て、おそらく習副主席の接受を「憲法上なしえない」とは言わないでしょう。」という文言に見られるところの論理は、やや自分本位で乱暴、また狡猾なのではないだろうか。政府による「天皇の政治利用」であるかないかを問題としている場面で、相手が「侵略戦争をしかけた相手国の次期国家主席候補という接遇相手の地位」だから、「憲法上ありえる」という結論がでるのでは、侵略行為の重さ、憲法の存在意義、そのどちらもが互いの意味と重みを軽くする作用をしていて、このことには疑問をおぼえる。このような言い分には、中国の政治首脳はともかく、民衆のなかには苦々しく感じる人もいるのではないだろうか。もしところをかえていたら私自身はそのように感じるのではないかという気がするのである。

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2010.01.04 Mon l 天皇制 l コメント (6) トラックバック (0) l top