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中野重治全集の解題を書いている松下裕氏によると、中野重治は「政治活動をする人間として文学をやりたい」とどこかで述べているそうである。私はその文章を直接見てはいないが、こつこつその全集を読んでいると、中野重治は確かにそうであったろうということが実感される。戦前・戦中、書きたくても書けないことが胸に積もりに積もっていたのだろう、敗戦後5、6年間の中野重治の舌鋒鋭い言葉には迸るかのような勢いを感じる。天皇制、東京裁判、戦争責任の問題、等々、さまざまな問題がなんともヴィヴィッドな筆致で幅広く取り上げられ、批評の対象にされている。阿波丸事件、管季治事件などということも、どこかで断片は聞いたことはあっても詳細については全然知らなかったものを、中野重治全集によってそれらの問題が当時の社会でどのように受け止められていたのかなどについて私も多少知ることができた。他にも同様のことは数多くあり、次の例もその一つである。

ニム・ウェルズというアメリカ人女性が書いた『アリランの唄』という本を推奨している中野重治の文章がある。1953年(昭和28年)に「日本読書新聞」に寄稿された文(全集25巻に収載)で、題は「ニム・ウェルズの『アリランの唄』」。白竜の歌う「アリランの唄」は知っていても、この本については初めて知ったのだが、このなかに次の一節があった。

「 われわれ日本人は朝鮮を忘れている。朝鮮と朝鮮人とにたいするおのが犯行を忘れたがつているのだ。寺内が題辞を書き、竹越・内田が序を書いた『亡国秘密 なみだか血か』も忘れた。外骨のつくつた『壬午鶏林事変』も忘れた。1930年に出た金民友の『朝鮮問題』戦旗社版も忘れた。アメリカとの関係で、黒田寿男が日韓議定書の問題を国会で出したとき日本人はほんとうにおどろいたのだつた。」(下線は引用者)

黒田寿男と日韓議定書の問題。初めて聞く名前と内容だったので、ネットで検索してみると、中野重治の上の文章が書かれる2年前の1951年10月19日、時の首相吉田茂(注)に対する衆議院議員 黒田寿男の国会質問を見つけることができた。その年吉田茂が全権大使として渡米し、9月8日に「講和条約」とともに「日米安保条約」を結んで帰国してから1カ月余り後の出来事である。中野重治は「日本人はほんとうにおどろいたのだつた」という黒田議員の質問内容について何も書いていないが、これはこの日、10月19日の国会質問を指しているのはおそらく間違いないと思われる。黒田寿男は締結したばかりの「日米安全保障条約」と1904年に日本と韓国の間で結ばれた「日韓保護条約」の条文が酷似していると言い、そこからくる懸念について吉田総理に質問しているのであった。このような国会質問がなされたこと、それが当時日本社会を驚かせたり、話題になったりしたことを私は初めて知ってそれこそ大変驚いた。当時人々の間にどのような意見が出て、どのような議論や会話がかわされたのだろうか。国会答弁を読んだかぎりでは、吉田首相は黒田議員の質問に「それをお手本にしてつくつたものではなく」と答えているが、当然そうだろう。ただこの答弁のしかたには奇妙だといえば奇妙だと感じるところもある。首相の口調は思いもかけない質問をうけたというふうではないようにも思えるのだ。

去る4月25日は沖縄で普天間基地の県内移設に反対する大集会が行なわれ、9万人もの人々が結集したとのことである。鳩山政権は選挙前の公約を必ず守らなければならない。また高校の授業料無償化法案から朝鮮学校のみを排除しようとする動きをみても分かることだが、近年在日朝鮮人に対する差別を固定化し強化する露骨な動きが見られる。また最近、植民地支配に関して「日本は朝鮮に橋や鉄道を作ってやった、衛生設備を整えてやった」などの発言が日本人の口からよく出るようになっている。これは恥知らずの上にも恥知らずな言い分としか言いようがない。「日米安保条約」と「日韓保護条約」とを同列に並べるようなことは決してしてはならないが、こと条文に関しては、黒田氏が「生き写し」という言い方をしているとおり、双方の内容が大変よく似ていることは事実のように思う。時が時でもあり、日本社会の現状を考える上で参考になるようにも思うので、下記のサイト

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/012/1216/01210191216004c.html 
「第012回国会 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 第4号」

から該当個所を引用して掲載する。(なお黒田寿男の経歴をこちらで見てみると、学生時代は東大新人会のメンバー、1937年には「人民戦線事件」で投獄され、議会を追放された人物のようである。弁護士でもあった。)


「○田中委員長 黒田寿男君。
黒田委員 私は本日は平和條約と安全保障條約とを合せて、多少根本的な問題を総理にお尋ねしたいと思うのでありますけれども、総理の方でおさしつかえがありまして、予定しただけの時間がいただけませんので、きようはただ一問だけ特に御質問申し上げたいと思います。あとはこの次の機会に質問する権利を留保させていただきたいと思います。
 そこできようは、便宜上、私は安全保障條約の―この安全保障條約と申しますのは、今回の日米安全保障條約のことでありますが、この安全保障條約の性格について政府にお尋ねしてみたいと思います。私の見るところでは、日米安全保障條約は、名称は安全保障條約でありますけれども、実質的にはいわゆる安全保障体制の性格を備えていない。それでは一体何であるか、私も懸命に研究してみたのでありますが、結局私の結論は、安全保障條約ではなくて、むしろ保護国條約の性格を持つておる、あるいはその通りでないにいたしましても、それに非常に近い性格を持つておるものである、こういう結論に到達したのであります。これにつきまして私は自分の所信を述べながら、政府の御所信を承つてみたいと考えるのであります。
 そこで第一に、日米安全保障條約は、本来の安全保障條約ではないと私は結論を下すのであります。なぜであるか、本来の安全保障体制であるためにはどういう條件が必要であるかと申しますと、すべての参加国が継続的にして効果的な自助及び相互援助を行うものでなければならぬ、こういう條件が必要なのであります。現に本来の安全保障條約でありまするところの北大西洋條約、米此相互防衛條約、オーストラリア、ニユージーランド、アメリカ合衆国、この三国間の安全保障條約等の本来の衆団安全保障体制を研究してみますと、すべてこの條件を備えておるのであります。しかして今日吉田総理が単独で調印されて参られました日米安全保障條約なるものは、この條件を備えていない。だから暫定的なものであるという言葉が用いられておるのであります。すなわち将来本格的な安全保障体制ができることを米国は期待しておるというておるのもあります。将来本格的な安全保障條約になるのであるならば、今は本格的な安全保障体制でないということは明らかである。この区別だけははつきりさせておかなければならない国民は、名称が安全保障條約というので、本来の安全保障條約ができるのであるかのごとく考えさせられているのであります。これは、私は非常に危険なことであると思うのであります。そこで今度首相の調印されて参られました安全保障條約なるものは、いわゆる暫定的なものであつて、本来の安全保障体制としての條約ではない。このことをはつきり国民に知らせておく必要がある。この点につきまして私と同じようにお考えになるかどうか、ちよつと総理大臣の御見解を承つてみたい。
吉田国務大臣 これは安全保障條約の中にはつきり書いてあります。つまり日本が国連またはその他により、いわゆる恒久的なといいまするか、安全保障あるいは日本の独立を守るだけの措置ができたならば、そのときはやめると書いてあるので、暫定的というお話は私も同意であります。またこれをもつて何百年もやる考えはないのであります。しかしながら、日本は独立はできたが防備はない、その空間を満たすための暫定條約であつて将来国力が充実するか、あるいは国連その他の国際的機構が充実される場合には別に考えるべきで、独立を得たその瞬間における独立安全をどうしてはかるか、そのさしあたりの必要に応ずるためにこの條約はできたのであります。ゆえに暫定であります。またわれわれも暫定と考えております。
黒田委員 これは文字通り暫定と書いてありますから、わかる人にはわかるのでありますが、国民がこの暫定ということに気がつかないで、いろいろと間違つた考えを持つのではなかろうかと思いますので、あえてこの点を明らかにしていただいたのでありますけれども、やはり総理も暫定だと申されますし、むろん私も総理のおつしやつたように暫定と考えております。
 そこでその点を、はつきりさせておきまして、しからばこの安全保障條約が、本来の安全保障体制たることができないのはどのような條件が欠けておるか、このことを私は考えてみた。そうすると、それは言うまでもなく日本が自身として軍備を持つていないことである、こういうことがすぐ答えとして出て来るのであります。すなわち日本が自国の防衛のため漸増的にみずから責任を負い得るような條件をつくらなければ、安全保障体制に入ることができないのだ、こういうことが言えるのである。そこで、しからば日本は何ゆえにこの條件を欠かねばならぬか、こういう問題が次に出て来ると思います。それは言うまでもなく今の憲法が嚴として存在しておるからである。この憲法が存在する限りは、日本は、この條件を満たすことができない、すなわち再軍備をすることはできないのであります。従つて安全保障條約の名のもとに、実際は安全保障條約でないところの、しかも実質は一種の軍事條約が結ばれる、こういうところに落ちて行くよりほかない、こういうことになろうとしているのであると私は考えるのであります。そこで総理にお尋ねしたいと思いますことは、日本が再軍備をしなければ、この日米安全保障條約はいつまでも存続して行かねばならぬという論理の帰結になるのでありますが、そういうように解釈してよろしいのでありましようか。言いかえれば、この暫定的安全保障條約から、本来の安全保障條約に入らなければならぬ條件を満たすためには、再軍備をしなければならぬ、この條件にかかつておる。こういうように私どもは考えざるを得ないのであります。この点についてはつきりと総理の御見解をお尋ねしておきたい。
吉田国務大臣 お答えしますが、これは必ずしも再軍備―軍備とかあるいは兵力とかいうものに、一にかかつておるとは私は解釈しないのであります。日本の国力がどう発展するか、あるいはどう充実されるか、あるいは日本の今後における大勢といいますか、政治その他の條件あるいは客観情勢がどうなりますか、内外の情勢について判断すべきものであつて、いわゆる危險とかいうようなことは内外の情勢がきめるもので、その大きさ、その内容に従つて考えるべきものである。これは将来の事態の経過によつて判定すべきである。その事態において善処する。いかなる恒久平和條約ができるか、それはできたときに御相談をいたします。
黒田委員 そういうお答えでありますと、念のためにもう一度しつこいようでありますがお尋ねします。この点は昨日芦田氏もお尋ねになつたのでありますけれども、尋ねる方も答える方も、何か歯にきぬをきせたような応答であつたと思いますので、私どもももやもやとした感じがまだとれておりません、そこではつきりひとつお尋ねしてみますが、この安全保障條約の中に書いてあります「日本が自国の防衛のため漸増的にみずから責任を負い得るような條件をつくる」ということは、軍備を再建するということではないのでありましようか。この点をはつきりと私ども国民としてお聞きしたい。
吉田国務大臣 はつきり申しますが、これはいろいろの意案含んだ広義なものであります。
黒田委員 それではそのいろいろな條件の中に、軍備の再建というものも含まれているかどうか、その点を質問いたします。
吉田国務大臣 特に軍備を含むとかいうような、具体的な話はまだいたしておりません。
黒田委員 まあこれはこの程度にしておきます。何べん繰返しましても今言うようなお答えしかなさらぬだろうと思いますから……。
 そこで次の問題をお尋ねいたしたいと思いますが、その前に、ちよつと中間的にお尋ねしておきますが、日米安全保障條約が一種の軍事條約であるということは、これは政府もお認めになると思いますがどうでありますか。
吉田国務大臣 お尋ねは軍事條約……。
黒田委員 軍事的性質を持つた條約であるかということ……。
吉田国務大臣 軍事的性質は持ちます。
黒田委員 ちよつと聞き漏らしましたが、もう一度……。
吉田国務大臣 アメリカの駐兵を許しておるのでありますから、軍事的性質を持つております。
黒田委員 そこで今までの質問応答で、本来の安全保障條約ではない、しかもそれにもかかわらず、一種の軍事的な條約であるということがわかつたのでありますが、その次に私ども国民として真剣に考えてみなければならないと私の思いますことは、しからば一体この條約の性格は何であろうか。私どもは政治家として物事をいい加減に考えることは許されない。あくまで真相を突き詰め、真実を発見するという態度で国会におきましても働かなければ、議員としての役割を果すことはできないと考えます。そこで安全保障條約でないとすれば一体何かということを私は考えてみた。自助の力もなく、相互援助の力もない状態で、しかもそれは軍事條約でいるというようなものを締結するときに、その條約の性格は一体どんなものになるか、これを私は考えてみた。これは言うまでもなく、当方としては義務があつても権利はない。先方様は権利があつても義務がない。こういう根本的な性格を持つ條約に落ちて行くよりほかには行きかたがないものであるが、事実私は日米安全保障條約の内容を見て、米国とわが国との権利義務の関係は、まさにこの通りになつていると考えるのであります。これについて政府はどういうふうにお考えになりましようか。多少私の説明が極端であるかもしれませんが、必ずしも今申し上げましたように日本には権利が全然ない、向うにはまた権利ばかりあつて義務がないとは申しません。けれども事の本質から見れば、とにかく日本の方には権利はなくて義務ばかりある、向う様には権利ばかりあつて義務はない、大体本質的にこういう性格の條約になつている。こう私は考えますが、一般論としてどうでありましようか。
吉田国務大臣 いろいろ御議論もありますが、私はそう考えません。もし日本の平和が脅かされたとか、あるいは日本の治安が第三国の進出あるいは威嚇等によつて脅かされた場合には、日本としては当然米国軍を要求する権利がある。これに応ずべき義務がアメリカにはある。これは相互的な権利前務があるからこそ、ここに條約ができておると考えるべきであると思います。
黒田委員 この点につきましては、きよう私はこれ以上総理に御質問いらしません。私は総理とは見解が違いますけれども、これはまた他の機会に條約局長にでも少し詳しく聞いてみたいと思ひます。そこで私は今申しましたように、一種の軍事同即でありながら本来的の安全保障條約でない。わが国に権利がなく、相手ばかり権利を持つておる、こう申したのでありますが、私はこの見解から議論を進めるのでありますから、そのようにお考え願いたいと思う。
 そこでこの安全保障條約の内容はこのようなものである、その本質はこうだというふうに考えてまゐりますと、一体その性格は何になるか、この疑問がなお私どもの頭に残る。政治家の良心はこれを探求せしめねばやまないのである。そにで私はこれをやつてみた。咋日芦田氏は総理に対する質問の際に、日米安全保障條約のような内容を持つ條約の例を知らない、こう言われた。芦田博士の博学をもつてしてなおその例がないと言われた。それは安全保障條約という名前を持つておる條約の中に先例を見出そうといたしますから、そういう條約の中には今回の日米安全保障條約のような屈従的内容を持つたものはない、こう言われる意味であろうと私は考えるのであります。私どもはこの点は芦田氏と同意見である。そで方面をかえて先例を探してみなければならぬというとろに私は来た。どういう先例を探求すべきか、私は安全保障という名称にとらわれないで、その実質から見て、この條約が非常に従属的性格を持つておるその面に目をつけて、こういう見地から私は過去の條約について先例を調べてみた。そうすると私は先例がないのじやなくてあると思う、確かにある。実にあるのであります。共産党の諸君は日満議定書の例をよく引用されます。私から見れば、なるほどそれもある程度の類似性を持つておりますが、もつと多くぴつたりした類似性をもつものが、私の目から見ると、あると思う。もつと適切な例を私は指摘することができると思う。私は過去の條約集を、根気を出して年代的にさかのぼつて、先にくとページを繰展げて調べて参りましたところ、実に今から約五十年前、明治三十七年の日韓保護條約の例に私は到達したのであります。私はこの條約に目を通したときに、実にこれだと思つた。実によく似ておる。今ごろになつて保護国というと諸君はおかしいと思われるだろう。国際関係におきましてそういうものは次第になくなりつつあります。今はもうほとんどないといつてもよろしいでしよう。ところがこの日韓保護條約の例に、この日米安全保障條約の例が実によく似ておる。この日韓保護條約は、名前のごとく、韓国が日本の保護国となつたときの條約であります。それは実に約五十年近く前のことである。幾昔も前のことであります。そして、それがやがてその次には日韓保護協約となりまして、それからその次には明治四十三年にいよいよ韓国併合條約、こういうところに行き着いてしまつた。もとより私は日本がそういうところに落ちるとは思いません。けれども韓国がこのようなところに落ちて行く、その過程に、日本に保護を求めるという條約が、韓国と日本との間にできましたその條約に今日の條約は実によく似ておると思う。そして朝鮮は、今私が申しましたような三つの條約の成立の過程を経て、結局日本の資本主義侵略の手中に落ち、遂に日本の植民地となつてしまつたのであります。そうしてあの長い苦難の経験を経て、太平洋戦争の後に今や独立に向つて進んでいる、その途中でまた今回私どもが見ておるごとき苦難の道をたどりつつあるのであります。しかしとにかく朝鮮の向う方向は、独立への方向であるということだけは私ども大づかみに認めることができる。しかるにわが国は、これからかつての韓国のごとき状態に陥れられるような條約がここでできるのではないか、何という情ないことであるかと私は思う。今私はここで両條約の内容を諸君の前で対比してみます。この條約はあまりにも古い昔の條約でありますから、最近の條約集を買つてみてものつておりません。私も一生懸命古本屋を歩いて、本郷の古本屋でやつと古い條約集を見つけてそれを見たところが、この條約があつた。そこで私はいかに両條約の内容が、共々に、みじめなものであるかということを明らかにいたしまして、吉田総理の御意見を承りたいと思うのです。日米安全保障條約というと、私どもはむしろ日本の利益になるような條約であると思つております、けれども、日韓保護條約のような保護條約と言われてみれば、これは考えてみなければならぬということになるのではなかろうかと私は思う。そこで私は、日韓保護條約はごく簡単な條約でありますから、参考のために日韓保護條約と日米安全保障條約の内容を比較してみたいと思います。日韓保護條約はわずかに六箇條にすぎません。それから日米安全保障條約は前文のほかに五箇條であります。しかしこのような條索の数がよく似ておるというようなことは、これは本質的な問題ではありませんので、ただこれだけのことを申し上げて、さて内容上はどうかということを私は申し上げてみたい。
 日韓保護條約の第三條に「大日本帝国政府ハ、大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実二保護スル事。」こういうな條文がありますが、日米安全保障條約にもやはり「日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。」アメリカは「この希望をかなえてやる、」こういうことになつておりまして、ちようどこの第三條のような関係が示されておるのであります。
 それから日韓保護條約の第四條に「第三国ノ侵害二依リ、若クハ内乱ノ為、大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全二危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速カニ臨機必要ノ措竃ヲ取ルヘシ。而シテ大韓帝国政府ハ右大日本帝国政府ノ行動ヲ容易ナラシムル為、軍略上必要ノ地点ヲ臨機収用スル事ヲ得ル事、」この点が日米安全保障條約に非常によく似ておるのであります。わが国とアメリカとの場合もやはり内乱問題が取扱われている。「一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じようを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、」云々という言葉がありますが、ちようどこの日韓保護條約の第四條にこれと同じことが書いてあります。それから今も申しますように、日本国政府が必要の場合臨機の措置をとるということと同様なことが、日米安全保障條約の中に現われておるのであります。
 それからなおよく似ておるところがある。それは日韓保護條約には、「両国政府ハ相互ノ承認ヲ経スシテ後来」―今後のことでありましよう。「後来、本協約ノ趣意二違反スヘキ協約ヲ第三国トノ間二訂立スルコトヲ得サル事」こういうように書いてありますが、これも安全保障條約の第二條の「第一條に掲げる権利が行使される間は、日本国は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地における若しくは基地に関する権利、権力若しくは権能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第三国に許与しない。」と書いてあります。これも非常によく似ておる。
 それからもう一つよく似ておることがある。これで最後であります。ごく短かい。日韓保護條約の第六條にこう書いてある。
 「本協約一一関聯スル未悉ノ細條ハ大日本帝国代表者ト大韓帝国外務大臣トノ間二臨機協定スル事。」これは日米安全保障條約の第三條に「アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する條件は、両政府間の行政協定で決定する。」こう書いているのとよく似ておるのであります。ほとんど日韓保護條約の全部が、ちようどこの條文も同じほどの数でありますが、ぴつたりと日米安全保障條約に当てはまる、生写しということがありますけれども、私は写せると思う、合せてみれば同じだと言えると思う。私はこういう條約があるということを発翻したのであります。私はこの條約を見て非常に深い感慨に陥れられざるを得なかつたのであります。年代があまりにかけ離れておりますから、人々は注意しないことでありましよう。けれどもその本質を調べてみると、このような類似点があるということは私どもも無視することができません。このような日韓保護條約があつたということは、これは政府もよく知つておいでになると思ひますから、こんなことがあるとかないとかいうことを質問する必要はないと思います。が、一体講和とは何であるか、講和とは日本が独立することであります。その日本が独立しようという講和條約の中から日米安全保障條約というものが出て来た。その安全保障條約の内容が実にかくのごときものであるということを見たときに、私どもが率直に考えてみて、国民の一人として、これが独立のための條約であるというように一体考えられるでありましようか、私には考えられない。おそらく吉田総理は、そうお考えになつたからあの平和條約と安全保障條約に調印して帰られて、そして今、国会にその承認を求めておいでになるのであると考えますが、私がどうしてもこれに賛成する気になれないのは、この條約のかくのごとき本質を知ることができるからであります。どうでありましよう、こういうように考えて行くと、どうも私は日本がアメリカの保護国的地位に落される條約になるのじやないか、そう思われるのであります。これは政府に質問いたしましても、まさか政府はそうだとはおつしやらないでありましよう。だから私は質問はしませんが、私の結論だけは申しておきます。政府がどう考えられましようとも、私はそう考える。こういうように考える国民もおるということだけは、吉田さんも、また自由党の諸君もよくお考えください、それでよろしい。質問は致しません。そうして、こういうところに落されて、それで独立だ独立だといつておることが、はたしてほんとうに日本の独立のためになるかどうかということを、私は心から御反省を願いたいと思う。元来私ども国家の種類を―今私がここで講義する必要はありませんが、国家の種類を考えますと、一方において主権国があり、その反面において非主権国あるいは半主権国、不独立国というものがあるのであります。私はこのような條約の、すなわち安全保障條約というけれども、実際上の安全保障條約ではなくて保護條約である條約のもとに日本人が生きてゆかなければならぬようになつたときに、一体日本は主権国であるか、それとも非主権国でないとしましても半主権国、少くともこういうところに落されてゆくのではなかろうかという心配を私は持つのです。この憂慮は私だけが持つのでありますならば幸いでありますけれども、わからないからそう考えていないだけで、わかれば私と同じような心配を持つ国民がこれからどんどんとふえて来ると思う。私はそう考えざるを得ないのです。そこでこのような條約は―これは質問して答えは得られないと思いますけれども、私から見れば半独立国くらいに日本がなる條約にすぎないと思うのでありますが、念のために総理の御見解を聞いておきたいと思う。
田中委員長 この際ちよつと黒田君に申し上げます。総理大臣は四時からやむなき所用のために退席されるとのことでありますから、もう御承知のことと思いますがさよう御了承願います。
吉田国務大臣 私の言うことは、黒田君には承諾あるいは是認されないと思いますが、念のため申します。今度の安全保障條約は、日韓議定書ですか、それをお手本にしてつくつたものではなくて、全然新構想でつくつたものであります。先ほど申した通り、日本が独立する、その独立をどうして守るか、日本には防備はない、その真空を埋めるためにこの保障條約をつくつたのであつて、日韓議定書を調べてつくつたものではないのであります。また当時の日本政府の気持と申しますか、状態、あるいは朝鮮の状態と、日本の今日の状態とは全然違うので、われわれの将来が日韓併合と同じようなことになるとは、第一アメリカ政府がそういうふうに考えますまいし、われわれもまたされようとも考えませんから、この点は御安心になつてしかるべきものだと思います。
黒田委員 もとより吉田総理がおつしやいますように、日韓保護條約ができてそのあとに訪れた韓国の運命を、わが国が受けなければならぬようなことになろうとは私どもも考えておりませず、またそうならぬよう努力しなければならぬと思う。けれども今はあの当時よりもつと恐しい世界戦争というものがあるのです。あの時分にはこれほどの恐怖はなかつた、これほどの破壊のおそれはなかつた。けれども今やそういう我等のおそれがある。だから形の上で、必ずしも日韓保護條約が日韓保護協定になり、合併條約になつたというような途はふまなくとも、このような日韓保護條約的な條約の中に日本が引き込まれて行くと、日本の意思にあらずして外国と外国との戦争に巻き込まれる可能性を発生させるというようなことになつてしまう、そうなれば、この日韓保護條約の将来よりももつと恐ろしい将来が日本を訪れはしないかという心配もあり得るのであります。
 今日は私はなおいろいろと総理に御質問申し上げたいことがございますけれども、委員長の御注意もありましたし、次会に総理に対する質問の機会をもち得ることを希望いたしまして、今日はこの程度で終了いたします。」



「日韓議定書」と「日米安全保障条約(旧)」の全文を参考までに以下に示す。

日韓議定書 (1904年(明治37年)2月23日)

大日本帝国皇帝陛下ノ特命全権公使林権助及大韓帝国皇帝陛下ノ外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔ハ各相当ノ委任ヲ受ケ左ノ条款ヲ協定ス

第一条 日韓両帝国間ニ恒久不易ノ親交ヲ保持シ東洋ノ平和ヲ確立スル為大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ヲ確信シ施政ノ改善ニ関シ其忠告ヲ容ルル事

第二条 大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ皇室ヲ確実ナル親誼ヲ以テ安全康寧ナラシムル事

第三条 大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実ニ保証スル事

第四条 第三国ノ侵害ニ依リ若ハ内乱ノ為大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ而シテ大韓帝国政府ハ右大日本帝国ノ行動ヲ容易ナラシムル為十分便宜ヲ与フル事
2 大日本帝国政府ハ前項ノ目的ヲ達スル為軍略上必要ノ地点ヲ臨検収用スルコトヲ得ル事

第五条 両国政府ハ相互ノ承認ヲ経スシテ後来本協約ノ趣意ニ違反スヘシ協約ヲ第三国トノ間ニ訂立スル事ヲ得サル事

第六条 本協約ニ関聯スル未悉ノ細条ハ大日本帝国代表者ト大韓帝国外務大臣トノ間ニ臨機協定スル事


日米安全保障条約(旧) (1951年(昭和26年)9月8日)

 日本国は、本日連合国との平和条約に署名した。日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。
 無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。よつて、日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。
 平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。
 これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。
 アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある。但し、アメリカ合衆国は、日本国が、攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則に従つて平和と安全を増進すること以外に用いられうべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する。
 よつて、両国は、次のとおり協定した。
第一条
 平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によつて引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じよう{前3文字強調}を鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。
第二条
 第一条に掲げる権利が行使される間は、日本国は、アメリカ合衆国の事前の同意なくして、基地、基地における若しくは基地に関する権利、権力若しくは権能、駐兵若しくは演習の権利又は陸軍、空軍若しくは海軍の通過の権利を第三国に許与しない。
第三条
 アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する。
第四条
 この条約は、国際連合又はその他による日本区域における国際の平和と安全の維持のため充分な定をする国際連合の措置又はこれに代る個別的若しくは集団的の安全保障措置が効力を生じたと日本国及びアメリカ合衆国の政府が認めた時はいつでも効力を失うものとする。
第五条
 この条約は、日本国及びアメリカ合衆国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が両国によつてワシントンで交換された時に効力を生ずる。



(注)「敵ながら天晴れ」という言い方があるが、中野重治は吉田茂に対してそうも思っていなかった、政治家としてもほとんど評価していなかったようである。ご存じのように、中野重治は1947年からの3年余を日本共産党所属の参議院議員としてはたらいた。そしてこのことはさほど広く世の中に知られていないようだが、国会での中野重治の演説は他党派の議員にも楽しみにして待たれるほどに感銘ふかいものだったという話もきく。それは極小の範囲内でのことかも知れないが、全集第23巻の「国会演説集」を見ると、そのような高い評価もあながちえこひいきや社交辞令ではないのかも知れないという気もする。

さて、中野重治は自分が国会議員に就任してみると、他の文学者にぜひ国会に足を運んでほしい、観察に来てほしいと念じたようである。1949年に「国会と文学者」という題で「あすこへ来て実地を見れば、見ただけのことは必ずある、酒を一ぱい飲むぐらいのことは必ずあるのだから、文学者という文学者が、見物という程度でもいいから国会へ出て見るのがいいと思う。」としきりに来場を勧めている(おそらくその願いが実現することはあまりなかったのではないかと思うが。)が、そこで、吉田茂に触れている部分があるので、以下に引用しておきたい。

「吉田という絵理大臣なども、新聞に出る写真やなぞとはちがつて、倣慢だとか、一本気だとか、そんな人間でないことが文学者の手で描きだされる必要がある。文学者がものの二、三十分も見ていさえすれば、あれがどういう人間だかということが間違いなくわかつてくる。一本気どころか、三本気とも五本気ともつかぬ、古手外交官風の手管つかいに過ぎぬことが見えてくるのだが、そういうことは、やはり文学者の眼に頼るほかないように――我田引水か知らぬがわたしとして思う。」

吉田茂は今も戦後政治家のなかで言及されることの際立って多い政治家である。だが、書物などにおける多くの描写・叙述においてその行動や発言に何か真に傑出したものが見いだせるか、印象ふかいものが存在するかというと、私にはそのような経験は記憶になく、案外吉田茂の印象は希薄である。中野重治のこの指摘は的を射ているように思う。この吉田観とは対照的な方向で、参議院のある議員の風貌を中野重治は見事に活写さしている。この議員が誰なのか私は皆目見当もつかないのだが、もしご存じの方がいらしたら教えていただきたい。

「 参議院にやはり外交官あがりのからだの小さい議員がいる。むかしは何がし自由主義的な点のあつた人らしいが、モスクワでは日本人のあいだでチャボというあだ名があつた。背の低い人にありがちの、いつも背いつぱいの高さに見せようとしてピンと伸び切つた姿勢でやつているのがおもしろい。なかなか役者のようなところがあつて、演壇に立つて胸ポケットから老眼鏡を取りだしてかける仕草などは見事なもので、日本の作家であの真似のできるものは一人もなかろう。つまり、手で眼鏡を持つて、それを顔の鼻にかけるという段取りをちやんとやる――と言つただけで説明不十分とすれば、ポケットから眼鏡を取りだして、その眼鏡の方へ顔を持つて行かないで、眼鏡の方を鼻へ持つて行くといえばはつきりしようか。そのあいだじゆう、背の低いからだはいつばいに伸ばしたまま、首も伸ばしたまま――というよりは項をいつぱいに伸ばしたままの――だから鼻は、最初演壇に立つたときの位置からすこしも動いていない。右うでで眼鏡を取りだすと、それをそのまま前上へ突きだして行く。そこで眼のさき一尺ぐらいのところで一旦とめて、今度は肘をひと曲げして一直線に鼻へ持つて行く。動かぬ鼻、動かぬ胸ポケット、眼のさき一尺の空間の一点、この三角形の、鼻から胸ポケットへの線以外の他の二線を眼鏡が移動して行く眺めは見事なものだ。これ一つ見れば、この外交官あがりの男の性格がそこにむきだしになつていることがわかる。こういう眺めを知らずにすごすのは惜しいと思う。」
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2010.04.28 Wed l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
4月23日追記
本エントリーで、木下豊房氏の文章を引用させていただいたが、その引用文について木下氏から一部訂正があるとのコメントをいただいた。訂正箇所は、亀山郁夫氏の訳文の箇所で、「なぜならそれは神の愛の姿であり」は引用の誤記であり、実際の亀山訳は「なぜならそれは神の愛の似姿であり」になっているとのことである。(下線は管理人による)
木下氏のサイトにおける文章はすでに訂正されているので、本エントリーでも引用文を差し替えさせていただいた。


先日、木下豊房氏のサイトで「亀山訳引用の落とし穴」という一文を読んだ。佐藤優氏は大分前から文芸雑誌「文学界」に「ドストエフスキーの預言」というエッセイを連載していたようである。そういえばどこかでそんな話を聞いたような気もするが、どうやら相変わらずあやしげなことを書いているらしい。「あやしげなこと」などと言うのはいかにも言葉が過ぎるようだが、しかしもうそうとしか思えないのである。私の知識などは何事においても狭く小さいものでしかないが、それでも関心があるなどの理由で多少の知識をもっていることについて佐藤氏が書いているのを読んでみると、必ずといっていいほど腑に落ちない点がある。述べられている事実関係に誤りがあったり、解釈が頓珍漢だったりで、書いている事柄に関して正確な知識をもち、全体を把握した上でものを言っているとはとうてい思えないことがしばしばなのだ。このことは、他のブログなどでもよく指摘されていることである。たとえば、

http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-fd39.html (数学・自然科学系)
http://clio.seesaa.net/article/143204107.html (歴史系)
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A1R23I7DNMSHYT/ref=cm_pdp_rev_title_1?ie=UTF8&sort_by=MostRecentReview#R2RRKQ8CVLNMLH (「国家の自縛」書評・経済系)、等々。

今回、木下氏の文章を読ませていただいても、これまでとまったく同じ感想をもった(掲載号を図書館で探してみたが、借り出されているのか見つけることができず、残念なことに今のところ参照していない)。まず、長くなるが、下記に木下氏の文章を引用させていただく。

「……佐藤は文芸誌「文学界」に連載中の「ドストエフスキーの預言」というエッセイで、ゾシマ長老の説話の次のような一節を含むかなり長い文章を亀山訳から引用し、それに対する自分のコメントを付けているのである。

「兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪のある人間を愛しなさい。なぜならそれは神の愛の似姿であり、この地上における愛の究極だからだ。神が創られたすべてのものを愛しなさい。<以下省略>」(亀山訳2巻451頁)

この個所で佐藤優はこうコメントする。「ここでゾシマは、罪ある人間を<神の愛の似姿>としている。これは神学的に間違っている。確かに人間は<神の似姿>である。しかし、神は罪を有していない。従って、罪まで含めた人間を神の似姿とすることは、罪の責任を神に帰すことになる」云々。ここで佐藤はあたかもゾシマ長老の考え方を訂正する役回りを演じているかのようであるが、実は亀山訳の不正確さを踏まえての佐藤の解釈そのものが見当はずれなのである。ロシア語原文を見てみよう。(括弧内の訳は亀山訳に沿いながら、ポイントの個所を傍線で示す)

 «Братья, не бойтесь греха людей, любите человека и во грехе его, ибо сие уже подобие божественной любви и есть верх любви на земле. Любите всё создание божие, <・・・> »(14-289)(兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪ある人間を愛しなさい。なぜならそれはもはや神の愛に似た行為であって、地上における愛の極致であるからだ。神が創られたすべてのものを愛しなさい)

 亀山は「罪ある人間を愛しなさい」を受けての「神の愛に似た行為」(«подобие божественной любви»)を「神の愛の似姿」と訳したことによって、佐藤の見当違いの解釈の原因を作った。早とちりした佐藤は原文を確かめることもなく、前文を受ける 「それは」(«сие»)を「罪ある人間」ととらえ、「神の似姿」に重ね合わせた。まともにロシア語を読める者ならば誰にも明白であることであるが、「それは」(«сие»)は文法的に中性形で、「罪ある人間を愛すること」という「行為」を受けているのであって、男性形である「人間」(«человек»)を受けるはずがないのである。

 ちなみに先行訳は、「罪ある人間を愛すること」を受けて。「なぜなれば、これはすでに神の愛に近いもの」(米川訳)、「なぜならそのことはすでに神の愛に近く」(原訳)、「なぜと言うて、それこそが神の愛に近い愛で」(池田健太郎訳)、「なぜならば、これはすでに神の愛に近いもので」(小沼訳)、「なぜなら、それこそが神の愛に近い形であり」(江川訳)となっていて、亀山のようなまぎらわしい誤訳をしているものは一つもない。」

木下氏が参照できなかったという小沼訳、江川訳を見てみたところ(管理人注:木下氏の最初の文では小沼訳、江川訳はまだ参照されていなかった)、次のとおりであった。

「 江川卓訳(集英社 p360)
 お坊さま方、人間の罪を恐れず、罪あるままの人間を愛されるがよい。なぜなら、それこそが神の愛に近い形であり、この地上での愛の極致だからである。神のすべての創造物を、その全体をも、一粒一粒の砂をも愛されよ。一枚の木の葉、一条の光をも愛されよ。動物を愛し、植物を愛し、一切の物を愛されよ。一切の物を愛するとき、それらの物のうちにひそむ神の機密を会得できよう。いったんそれを会得したならば、あとは美ますます深く、たゆみなくそれを認識していくようになろう。」

 小沼文彦訳(筑摩書房 Ⅱ p128)
 諸師よ、人間の罪を恐れてはならない。罪あるがままの人間を愛するがよい。なぜならば、これはすでに神の愛に近いもので、この地上における最高の愛であるからである。神のあらゆる創造物を、その全体をも、そのひとつひとつをも愛するがよい。一枚の木の葉、ひとすじの日光をも愛すべきである。動物を愛し、植物を愛し、ありとあらゆるものを愛さねばならない。あらゆるものを愛するならば、あらゆるもののうちに神の秘密を見出すであろう。一度それを発見すれば、あとはまいにちまいにち、いよいよ深く、いよいよ多くのものを認識して疲れを知らぬようになるであろう。そしてやがては、今度は完全な普遍的な愛で、全世界を愛するようになるに相違ない。」(下線は引用者による)

以上のように、江川訳、小沼訳ともに、確かに木下氏が引用している他の先行訳と事情はほぼ同じであった。そして、前後の文脈からして、この訳は大変自然だと思う。死を前にしたゾシマ長老は自分の弟子たちに人間どうしが互いに愛し合うことをさとし教えているのだから、この場面でゾシマが「罪ある人間」を「<神の愛の似姿>と」述べるなどは、内容が不自然であるばかりでなく論理的にもおかしいだろうと思う。佐藤氏は、亀山訳の「罪ある人間を愛しなさい。なぜならそれは神の愛の姿であり」を読んで、「ゾシマは罪ある人間と神の愛とを同一視している」と受け取り、そういうゾシマは神学的に誤っている、と指摘しているわけだが、おかしい・誤っていると思ったのなら、そのときなぜまずもって他の訳文を参照してみなかったのだろう。手間を厭わず米川訳でも原訳でも見ていれば、すぐに自分が誤読していることに気づいたと思うのだが…。そもそも、もし佐藤氏の指摘していることが事実だったとしたら、しごく単純な内容の疑問なのだから、厖大な数のこれまでの読者・研究者が誰も気づかなかったというようなことがそうそうありえると思っているのだろうか。これからはまず最初に自分の読解力をこそ疑ってみるのがいいのではないかと思う。このようなことでは読者に迷惑がかかるばかりである。

私は、「文学界」(2010年1月号)の連載第九回「無神論者ゾシマ」を図書館で読んでみたが、冒頭から大変不愉快な印象を受けた。佐藤氏は、こんなことを書いている。

「 ドストエフスキーは愉快犯である。神などまったく信じていない。神を信じたいと思っても信じることができない現代人の一人である。『カラマーゾフの兄弟』におけるテーマも無神論者について描くことであった。」

自分には『カラマーゾフの兄弟』の何もかもが分かっていると言わんばかりのなんとも傲慢なものの言い方だと思うが、「ドストエフスキーは愉快犯」とはどういう意味だろうか。ドストエフスキーは神を信じていないにもかかわらず、信じたふりをして読者を欺き、その状態をおもしろがっているとでも言いたいのだろうか。ドストエフスキーは「神を信じたいと思っても信じることができない現代人の一人である」とか、『カラマーゾフの兄弟』のテーマは「無神論者について描くことであった」と躊躇なく言い切っているが、その理由を述べるのは評者の当然の務めだと思うが、それは書かれていない。下記の場合も同様である。マサリクというチェコの学者について、佐藤氏は、

「大審間官もゾシマ長老も、同じような無神論者なのである。マサリクは、このことに気づいた数少ないドストエフスキー研究家なのである。」

と述べているが、「大審間官もゾシマ長老も、同じような無神論者」であるという見解は初めて聞いた。佐藤氏がこのように断定する根拠は何だろうか。「マサリクは、このことに気づいた数少ないドストエフスキー研究家」と述べているところを見ると、佐藤氏は、自分自身をこれまでドストエフスキーとその作品について述べてきたマサリクを含む多くの論者の一段高みに立たせて、大審問官やゾシマを信仰者と見るのは誤っているという判断をくだしていることになる。このような兆候は佐藤氏には常に見られる特徴なのだが、自分自身を知らなさすぎると言えるだろう。それにしてもこういう重大な断定をするからには、その理由をここでしっかり説明することは発言者の当然の責任のはずである。しかしいつものように佐藤氏は決してそうはしない。ただ、えんえんとマサリクの文章を引用するだけである。これでは根拠もなく思いつきで、あるいは好き勝手に、「大審間官もゾシマも、無神論者」と決めつけていることにしかならないのではないだろうか。佐藤氏も雑誌社もこうやって読者を騙るのはもういい加減にしてほしい。

音楽家の坂本龍一の父親は、長年文芸雑誌の編集者を務めた人だったそうだが、辺見庸との共著「反定義 新たな想像力へ」(朝日新聞社2002年)において、坂本龍一は父親のこんな発言を紹介している。

「うちの父がいま八十歳です。「どうしてこんなになっちゃったんだろう」というんですよ。「日本人ってどうしてこんなになっちゃったんだろう」って。原発で人為的な事故が起こったでしょう。しかも誰もきちんと責任をとらない。ぼくにポロっと言ったことがありますよ。「日本人は、こういうことだけはやらなかったのにな」って。父の時代の日本人は、こういう事故は起こさなかったと。もう生きていたくないという気持ちもあるでしょうね。見たくないっていう。」

想像するに、最近の出版・編集のあり方についても、もし聞かれたならば、この人は原発事故に関する発言と同様のことを言うのではないだろうか。いくらなんでも亀山郁夫氏のドストエフスキー翻訳や佐藤優氏の評論などの言説内容が一切の批判を封じ込める形でほぼ全マスコミによってもてはやされている現状はあまりにも異様であり、見ていて、つい一昔前までの出版・編集者は「こういうことだけはやらなかった」という感想が湧いてくるのを禁じえないのである。
2010.04.22 Thu l 文芸・読書 l コメント (2) トラックバック (0) l top
岩波書店の『世界』5月号の岡本厚編集長による「編集後記」を読んだので、その感想を述べてみるつもりだが、その前に岡本氏と同じくやはり岩波書店の役員である小島潔氏の「カッコ良いひと」という柄谷行人氏を評した文章の印象を書いておきたい。これを「Web版新刊ニューストップ」で読んで私はかなり驚いた。今からもう10年ほども前の出来事のようだが、小島氏は知り合ったばかりの柄谷氏から活動の舞台をニューヨークに移すという話をすきやきをつつきながら聞いたそうだが、そのときのことを次のように記している。

「柄谷さんは野望に燃える青年のようだった。「でも、アメリカでは誰にも相手にされないかもしれないじゃないですか」と、私が茶々をいれると、「それならそれでいいんだ」と、何のてらいもなく言った。日本にいればいくらでも「威張って」いられるのに、そして日本での威を着たまま海外に出れば苦労なんかしないのに、わざわざ一個人として自分を試しにいく柄谷さんは、やはりカッコ良かった。」

なんだか不思議な話ではないだろうか。小島氏がここで述べているのは、このような場合私たちが普通に想像するような、文筆家がアメリカへどんな目的や抱負や意欲をもって行くのか、行った先で何を研究したいのか、というような職業や生き方に関連したことではなく、「日本にいればいくらでも「威張って」いられるのに」、「アメリカでは誰にも相手にされないかもしれない」のに、それを振り切って渡米しようとする柄谷氏のその決断(心意気?)がすばらしいとそのことに小島氏はいたく感心しているようなのである。

これを読んで私はタレントの吉田栄作の渡米にまつわる出来事を思い出した。柄谷氏よりは4、5年ほど早い時期だったと思うが、彼も芸能界を一時休業、役者修業のためということで渡米したことがあったのだ。そのとき、芸能レポーターは栄作を追いかけ回してあれこれしつこく質問したり、本人のいないところで盛んに揶揄したりしたものである。レポート内容はきまりきっていた。小島氏が柄谷行人に述べた内容と瓜二つで、「日本にいればアイドルとして仕事もあるし、固定ファンもいる。でもアメリカに行ったら、誰にも相手にされないにきまっている。きっと寂しいよ~」。吉田栄作に対する芸能レポーターの口調はかなり意地悪だったと記憶するので、その点小島氏の柄谷氏に対するそれとは異なるが、それでも、述べている内容自体はほぼ同じである。小島氏にとって、柄谷行人は芸能人のようなものなのか? まあ、小島氏は肩のこらない、柄谷氏に対して読者が親しみをもてるようなエピソードを披露しようと考えたのではあるだろうが……。

さて、『世界』(2010年5月号)の「編集後記」を読んで、これにも私は大変驚いた。岡本氏は授業料無償化対象からの朝鮮学校の排除問題に関して下記のようなことを述べている。

「 ある意味で、朝鮮学校の存続は、同化、排除、差別政策によって民族性を喪失させようとし続けてきた日本政府、日本社会に対する、民族性を守る闘いそのものであった。」

朝鮮学校が被ってきたこれまでの迫害や日本政府の差別政策などについてこのような認識をもっているのならば、『世界』は、なぜ今日まで、5年も6年もの長期にわたって佐藤優氏をああまで熱心に起用しつづけてきたのだろう。佐藤氏が『世界』をはじめとした雑誌に登場しはじめた当初から、北朝鮮をはじめ韓国や中国、また日本国内では朝鮮総連に対して差別・敵対意識に満ち満ちた内容の言説を発しつづけていたことは歴然としていた。この人は、自らの逮捕は国策捜査によるものであるとして、有罪判決に対する上訴をつづけながら、一方、「国策捜査は必要」と言い(『世界』にしろ『金曜日』にしろ、周囲のライター達にしろ、この発言の矛盾の重大さに疑問を呈さないのは信じられないことである。)、その一例として、朝鮮総連への国策捜査を煽動してきた。たとえば次のとおりである。

「緒方元公安調査庁長官の事件でも、結局は朝鮮総連が被害者になるような筋立てになってしまっていますが、そんな体たらくでどうするんだといいたいですよね。ああいう事件は当然、政治的に利用すべきですし、ここはしっかり国策捜査すべき局面でしょう。総連に対して圧力をかければ、拉致問題を巡る交渉も有利になるからです。それは先の段階で総連に対する圧力を緩めるということが、外交カードになるからです」(『軍事研究別冊』2007年9月号)

となんだか空恐ろしいことを述べているが、岡本氏は佐藤氏のこのような発言についてよく知っているはずである。橋下大阪府知事などは朝鮮学校を視察して「援助を受けたいならば朝鮮総連の関係を切れ」と脅迫しているが、私には佐藤優氏がこれまで述べてきたことも橋下氏が現在主張していることも根本的にはそうちがわないように思える。岡本氏は佐藤氏の朝鮮総連弾圧煽動を容認してきたこれまでの自分たちの姿勢をどのように考えて、上記の発言をしているのだろうか。

私は、佐藤氏の朝鮮総連に対する積極的な団質煽動発言、そしてそういう発言の主を他のどこにもまして重用しつづけてきた『世界』の姿勢は今回の朝鮮学校排除に関する政府判断にも社会全体の空気にも相当な影響をおよぼしていることは間違いないと思う。岡本氏はこのような発言をする前に、まずこれまで佐藤氏の排外的な言説を容認しつづけてきた自分たちの姿勢に対する説明や現段階での自己批評があってしかるべきだろう。<佐藤優現象>推進者としての『世界』に向けられた批判など存在しないかのような今回の岡本氏の発言内容には唖然とさせられる。まさか、奇妙奇天烈な理由であろうとも、佐藤氏が「朝鮮学校排除」に反対しているから、自分たちも安心して反対できると考えてはいないだろうと思うが。

「 いかなる社会にあっても、少数派の人権、尊厳は守られなければならない。 」

「うーん」と考えこんでしまう。文句のない立派な考え方だと思うのだが、でもそれならば、会社と組合総がかりで金光翔さんになしてきた「表現の自由」なんぞ眼中にないとしか思えないこれまでの「いやがらせ」「いじめ」の数々を何と説明するのだろう。「少数派の人権、尊厳」に対する配慮の一片もないかのようだったが。

「在日韓国・朝鮮人は、日本の植民地主義の結果、日本に居住せざるを得なくなった人々の子孫である。日本に特別の責任があり、その少数派としての教育には、むしろ特別の配慮があってしかるべきなのである。」

これにも上述の場合と同じ感想をもつ。この立派な発言と、岡本編集長らが社内で行なってきたらしい言動とがあまりに食い違っているのに唖然としてしまう。こういうところにも佐藤優氏の影響、もしくは共通点を感じてしまう。

「 高校授業料無償化の「朝鮮高校除外」は、普遍的人権の問題であり、子どもの学習権の問題であると同時に、歴史認識の問題でもある。もしこのようなことが行なわれれば、日本は政府が少数派を公然と差別すると国際社会に向けて宣言するに等しい。あまりに恥ずかしいことではないか。」

広範に「進歩的・良心的」という社会的イメージをもち、自らもそのことを誇っていると思われる『世界』が『金曜日』とともに他のどんな雑誌にもまして、差別的・排外的言辞をまき散らす国家主義者である佐藤優氏を重用してきた。このような事態に対しては、社員であれ読者であれ気づいた者はそのおかしさをきちんと指摘し、しっかり批判しなければならない。このような批判は、表現、思想、言論の自由に基づいた私たち一人一人の権利(同時に岡本氏の言う「歴史認識の問題」を考えることでもあると思う。)である。これに対し岩波書店はどのような形でもいまだ一切答えていない。岩波は日本で有数の言論機関だというのに。私は岡本氏の発言をもじって次のように言いたい。「岩波書店および労組の一体となった一個人への攻撃は、岩波書店は少数派を公然と差別すると社会に向けて宣伝しているに等しい。あまりに恥ずかしいことではないか。」

「 「新しい公共」などと口で言いながら、人権感覚も、歴史への見識も、多元社会へ向かう寛容さも感じられない。深い失望を感じる。」

人権感覚、歴史への見識、寛容さ。これらが民主党政権に感じられないのは確かだが、それにしても、何度も繰り返すようだが、佐藤優氏をあれほど大事にしてきた『世界』編集部の、それも編集長の口からこのような発言を聞くとなんとも腑に落ちない気分になる。私なども無意識のうちに二重基準の発言をしてしまうことは生活の上である。今適切な例を思い出せないのだが、たとえば食べものや趣味などで以前キライだと言っていたものをスキだと言ってそのことを傍から指摘されたこともある。また、こちらで引用したことだが、詩人の萩原朔太郎にも往々にしてそんなことがあったことを中野重治は書いている。

「彼がいろんな意見を述べたが、その意見は本や何かで読んだことと自分の気質とをむすびつけたもので、歴史的に真実でなかつたから、そのまま伸ばして行くと、彼の主観的に大きらいな俗流ブルジョアの見地を弁護することとなるのだつたけれども、そんなことと全く気がつかずにしきりに彼はそれを主張した。」

しかしそのことを中野重治から指摘され、自分のあやまりに気づきそれを認めると、生真面目に自分の主張を撤回した丁重な手紙を寄こしたりしたそうである。それは中野重治が言うとおり、

「しかしまたそこに、一種の愛敬のようなものがあり、ことにその論理の勝手な処理が、何か自分の損得を考えてのことでないことが初手から明瞭だつたから、わが田へ利得のために水を引くものの醜さというものが微塵もなかつた。」

だからこそ朔太郎はこだわりなく訂正や謝罪行為ができたのだろう。しかし、佐藤優氏や<佐藤優現象>を形成している人たちの場合はどうか。言論・出版界を一空間としてみて、そのなかで寄稿媒体によってまったく相反する主張を繰り広げている人物が存在し、その言論活動が社会において支障なく通用しているというような異様な事態がこれまでの日本に、また世界の歴史においてもどこかでありえたのだろうか。大変に疑問である。これでは言論内容とは究極的には低俗な性質の政治的・社会的処世術の道具でしかなく、個人の思考の成熟や発展や深化なぞ望めないばかりか、問題でさえないことになる。誠実や正直や真理の探求などの徳とも一切無縁になる。もちろん岩波書店が自社の紹介文で言う「物事を筋道を立てて理解し,問題を深く的確にとらえる――このようないわば科学的思考」とも無関係になる。突飛な感じ方だとは思うが、私は佐藤優氏や<佐藤優現象>を見ると、『道草』という小説で夏目漱石が主人公健三の養母について叙述している下記の場面を連想することがある。

「 彼の弱点が御常の弱点とまともに相搏つ事も少なくはなかった。
 御常は非常に嘘を吐く事の巧い女であった。それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。健三をほんの子供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に暴露して自から知らなかった。
 或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に上った甲という女を、傍で聴いていても聴きづらい程罵った、ところがその客が帰ったあとで、甲が又偶然彼女を訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしいお世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変誉めていたところだというような不必要な嘘まで吐いた。健三は腹を立てた。
「あんな嘘を吐いてらあ」
 彼は一徹な子供の正直をそのまま甲の前に披瀝した。甲の帰ったあとで御常は大変に怒った。
「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」
 健三は御常の顔から早く火が出れば好い位に感じた。
 彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常に何処かに働いていた。いくら御常から可愛がられても、それに報いるだけの情合が此方に出て来得ないような醜いものを、彼女は彼女の人格の中に蔵していたのである。そうしてその醜いものを一番能く知っていたのは、彼女の懐に温められて育った駄々っ子に外ならなかったのである。 」

漱石は、別の箇所で、この養父母によって「健三の気質も損われた」とも書いているが、上の短い文章からでも、漱石がまっ正直さにどんなに高い価値を置いているかが分かるように思う。この養母は無教養な市井の人だから言動があからさまだが、このような心性をもって現代性や教養の覆いをまとい政治的に振る舞えばどうなるか。必ずしも自分たちと無縁の存在とは言えない気がする。たまたまネット上の言説や刊行される新刊本の中身を見ると、一般読者のみならず著者のなかにも、佐藤優氏および<佐藤優現象>の影響を感じることがしばしばある。じわりじわりと社会の内部に、そして私たちの精神に浸透していっているのではないだろうか。


4月13日 一部に文意の通じにくい表現があり、訂正いたしました。
2010.04.13 Tue l 言論・表現の自由 l コメント (2) トラックバック (0) l top
東本高志氏は金光翔さんの「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利を(も)強調すべき――朝鮮学校排除問題」という記事への批判文を書かれたが、これに対する金さんの「東本高志氏への反論」に対しては、もう一週間以上経ったが、直接的には何も反応されていないようである。私は東本氏のブログを今回はじめて拝見したのだが、ブログタイトルが、「「草の根通信」の志を継いで」であることを知り、ちょっとした感慨をおぼえた。「草の根通信」といえば、大分県中津市在住の作家の故・松下竜一氏。私は「草の根通信」は読んだことはないが、松下氏の著書は『豆腐屋の四季』をはじめわりあいよく読んでいて、数年前氏の死去を知ったときは「もう少し書いてほしかった」と残念に思うと同時に、病身をおしての長い間の地道な奮闘努力に対し、しみじみ「お疲れさま」という気持ちをもった。そういう松下氏の志を継ぎたいという東本氏の意思がブログタイトルにも表われているのだと思うが、今回の文章およびそれをめぐる言動を拝見するに、残念ながら、松下氏ならば決してこういう行動はしないのではないかと感じることがあった。それは次の2点で、一つは文章の読解について、もう一つは、意見の交換や議論の際の、それこそ東本氏自身の言葉を用いていえば、「作法」ということについてである。

 1.文章の誤読の問題

東本氏が批判の対象にした金光翔さんの記事が、授業料実質無償対象から朝鮮学校のみを排除しようとする政府方針に反対し抗議する声明文などを見て、「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」への言及が非常に少ない、それはもっと強調されるべき、と述べているものであることは明白であり、この点については東本氏もその趣旨を理解しておられるようである。ただし、東本氏の目には、声明文の多くが「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」を十分に含んでいる、そのことをもきちんと主張しているように映ったということで、この点金さんと観方が異なったわけである。しかしそれならば、東本氏が自身の記事で引用提示している声明文について、「これ、このとおり。歴史的経緯に触れた声明文もたくさんありますよ。」と述べるだけでよかったのではないか。なぜ、「仮定の論」、「マッチポンプ的な論文作成の手法」、「自らが仮定したいわば架空の論でしかない論」、あるいは「仮定上の問題への作為的反論」というような認識を示すことになったのだろう。

金さんが記事中で植民地支配や歴史的経緯に触れていない声明文や抗議文の実例を挙げなかったことをもって、東本氏はそれを「仮定の論」「架空の論」と受けとめたようだが、実例を挙げない理由が、声明文を出すという行為そのものに対して「一定の評価をしている」からであると読まなかったのだとしたら、それは東本氏の読解力不足を示しているに過ぎないのではないだろうか。普段金さんのブログを読んでいる人なら分かることと思うが、これまで金さんが意見を述べる場合に根拠や理由を曖昧にしたり明示しなかったりというようなことはまずなかったように思う。したがって、今回具体的な実例をあげない理由は、「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」を強く訴える文が少ないことへの懸念を一方で持ちながら、しかし声明文のようなかたちで抗議の声を挙げることに対しては「評価をしている」からこそであることは、一読すればまずたいてい理解できたのではないかと思うのだが。

それから、東本氏は金さんの「懸念」を「マッチポンプ」と認識したようであるが、これも誤読、あるいは読み取りの浅さを示しているのではないかと思う。ここ数年の朝鮮総連への弾圧に対する社会的容認や黙認、佐藤優氏のような国家主義的・排外主義的言説が岩波や週刊金曜日をはじめとしたリベラルと広く社会に認知されている集団や個人に黙認され、高く評価されつづけてきているという現状について、これまで金さんはつよく異議申し立てをし、批判をつづけてきた。こういう金さんの経験、日本社会への観点からすると、今回の「懸念」があるいは杞憂であれ、声明文に歴史的経緯への言及が少ない(と金さんに思える)ことが意図的・戦略的なものではないかという懸念を持たざるをえなかったということは、東本氏も感じとってもよかったのではないだろうか。

 2.議論における作法の問題

以上、東本氏の読解に対する疑問を述べたが、次は議論における作法、対応の仕方ということについてである。東本氏は、金さんのブログ「私にも話させて」をご自身のブログで「お気に入り」に登録しておられるようであり、普段からよく金さんの文章を読んでいるはずなのに、今回明確な根拠も示さずに、いきなり「架空の論」とか「マッチポンプ」などの強烈な言葉を用いていることには、自分が正確な読み取りをしているかどうか一旦立ち止まって内省を試みてみたという痕跡や気配が見られないこともあいまって、批判や議論をする場合の作法に疑問を感じた。松下竜一氏には人一倍その種の繊細さ・慎重さが身に備わっていたと思うのだが。またそれ以前に、金さんのあの文章を読んで、松下氏ならば東本氏のような読み取りは決してしなかったと思う。そのような点で私は松下竜一氏を信頼できた。だからこそ乏しい財布をはたいて新刊本を購入したりもしたのである。

あるいはこれは東本氏の意図的な行為ではないかも知れないが、たとえ意図的でないとしても、これが読者にどのような受けとられ方をするかという点を考えなかったのだとすれば、やはりその姿勢は疑念をもたれても仕方のない行動だと思えるのだが、東本氏は、金さんの反論を受けた4日後、そのことには一切触れることなく、他のブログに掲載されていたという吉野弘の詩と茨木のり子の文章とをブログに掲載し、次のように述べている。

「…(略)… 私も吉野弘さんの「祝婚歌」という詩と茨木のり子さんの「祝婚歌」という文章を紹介させていただこうと思います。私がなぜおふたりの詩と文章を載せたくなったのか。その理由はおふたりの詩と文章を読んでいただければご了解いただけるものと思います。」(下線は引用者による)

金さんの記事に対する東本氏の批判文がブログに公開されたのは3月27日、これに対する金さんの反論は30日、そして「祝婚歌」という詩と文章が東本氏のブログに載ったのは4月3日だった。私は、東本氏は金さんの反論に自分の言葉で答える代わりに、この詩と文章をブログに載せたと思ったのだった。そして詩や文章など文学作品を東本氏が自己の行為の弁明のために利用しているのではないかとも感じたのだが、ちがうだろうか。もしそのような意図や思惑なしにこの行動がなされたのだとすれば、あまりに鈍感過ぎる。どちらにせよ、ひどく文学精神に反する行為のように感じた。

東本氏のブログには、ブログタイトル「「草の根通信」の志を継いで」のすぐ下に、「大分在住者の政治的・文学的発信」との言葉がある。この行為も「文学的発信」だとすればこれはその種のものとして最悪のケースではないだろうか。他人のある文章に対して自分の方から批判を行ない、それに対して相手はすぐさま精緻な反論を率直に行なった。それならば、批判した当事者としては自分の言葉でその反論に応えるしか方途はないはずである。それをしないで、「私がなぜおふたりの詩と文章を載せたくなったのか。その理由はおふたりの詩と文章を読んでいただければご了解いただけるものと思います。」などと曖昧とも思わせぶりともつかない言葉を添え(いったい読者は何を了解すればいい?)、他人の文学作品を掲載し、これでもって議論に代えようとするのなら(少なくとも読者はそのように読むし、読まれても文句は言えないだろうと思う。)、東本氏の批判に自分の言葉で応答した金さんに対して大変非礼であると同時に、この詩と文章およびその作者に対しても失礼ではないだろうか。また松下竜一氏がこのことを知ったら何と言うだろうか。こと、この問題に関するかぎり、私には東本氏がとられた対応・姿勢には感心できない面が多かった。
2010.04.08 Thu l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回の記事のタイトルはどうも内容に即していないように思われるので(いつものことで恐縮だが)変更して①とし、さらに中野重治のこの問題に関連する文章を②として新たに紹介したい。ちょっと長文だが、時間のあるときに読んでいただければと思う。中野重治が死去したのは1979年だが、晩年になればなるほど、彼の朝鮮および在日朝鮮人に触れた文章の量はそれまでと比べて格段に増えているし、文章に込められた熱意の度は異様なほどにふかまっているように感じられる。私自身、読んで教えられることが多かったので、以下にその全集から、1973年執筆の「在日朝鮮人の問題にふれて」と「日韓議定書以来」という二つの文章を抜粋掲載する。


 在日朝鮮人の問題にふれて

「……(略)事の本質は、志賀直哉の『震災見舞』のなかにも見つけられると私は思う。」
 こう書いたとき、私は「震災見舞」そのものは引用しなかつた。ここで一部分引用する。この年春志賀は我孫子から京都粟田口へ移つていた。6月には有島武郎が自殺した。そして9月の大地震が来た。志賀は見舞のため束京へ出た。「震災見舞」は何とかいう雑誌に発表されたがそれが発禁になつた。「震災見舞」のために発禁になつたのか今確かでないが、鳥がたつようにして京都を出て――しかしばたばたはしていない。――東京へはいつて、それからちよつとしての部分をここへ引く。志賀は年41だつた。
「山〔上野の山――中野〕から見た市中は聴いてゐた通り一面の焼野原だつた。見渡すかぎり焼跡である。自分はそれを眺める事で強いショックを受けるよりも、何となく洞ろな気持で只ぼんやり眺めて居た。酸鼻の極、そんな感じでは来なかつた。焼けつつある最中、眼の前に死人の山を築くのを見たら知らない。然しそれにしろ、恐らく人の神経は平時とは変って了ってゐるに違ひない。それでなければやりきれる事ではないと自分は後で思った。それが神経の安全弁だと思つた。此安全弁なしに平時の感じ方で、真正面に感じたら、人間は気違ひになるだらう。入りきれない水を無理に袋に入れようとするやうなものだ。」
「自分はそれからも悲惨な話を幾つとなく聴いた。どれもこれも同じやうな悲惨なものだ。どの一つを取つても堪らない話ばかりだ。が、仕舞にはさういふ話を自分は聞かうとしなくなつた。傍でさう云ふ話をしてゐても聞く気がしない。そして只変に暗い淋しい気持が残つた。」
「そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけて休んでゐる時だつた。丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。
『――叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかつたのがある!』刺子の若者が得意気にいつた。『――鮮人が裏へ廻ったてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ』刺子の若者は自分に気を兼ね一寸此方を見、言葉を切ったが、直ぐ続けた。『然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ。』二人は笑つてゐる。ひどい奴だとは思つたが、平時さう思ふよりは自分も気楽な気持でゐた。」
 異常な状態がわかる。しかしここで、「然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから……」が、「……迫ひかけると、それが鮮人でねえんだ」から来ていた事実に問題はあるだろう。
「鮮人」が確かなら、「かう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから……」がそもそも出て来ない。日本人が日本人の手で、ただ彼が朝鮮人とまちがえられたということただ一つで、それがそうでないとわかつた後でそのままナグサミに殺される。「鮮人」にまちがえられたのが運の尽きということになる。まちがえられるに事欠いて、なにしろ「鮮人」とまちがえられたのだからなアということが大前提にある。まちがいとわかつても、何にまちがえられたかといえば朝鮮人にまちがえられたというその「朝鮮人」に原罪の原罪がある。それは、上から、ほとんど凅疾的に吹きこまれてきた日本帝国主義側のインフェリオリティー・コンプレクスと裏表になる。そこに亡霊が生きている。そこにほとんど黙阿弥ものめいた世界が現出する。共産主義者と見まちがわれたために、それが見まちがえだつたことが明らかになつたあとでも残酷に殺されて殺した本人が罪悪感をまぬかれる。まぬかれた側の根源的弱さがそこで暴露される。そしてそれが暴露されればされるほど残忍が出てくる。インフェリオリティー・コンプレクスが大きいだけ残忍が大きくなる。救われようのない頽廃がそこに出てくる。アメリカ軍のヴェトナム行為がそれを証拠だてている。そこを、ここで、われわれが自分に引きあてて直面に見なければならぬというのがわれわれの問題であるだろう。
 関東大震災と朝鮮人との関係でいえば、ここで私は今東光を引くこともできる。『小説新潮』、1972年9月号、「青葉木菟の欺き」で今は佐左木俊郎のことに触れている。佐左木俊郎を直接知つている人も少なくないにちがいない。今はこう書いている。
「……幸いにして彼はずつと後(昭和5年)になつて『熊の出る開墾地』という作品を世に問うまでに至つたのである。
 ところが、佐左木俊郎は大正12年9月の関東大震災に命を失うことなく助かつたが、あの混乱の中で朝鮮人虐殺事件が起つた時、彼は朝鮮人に間違われて電信柱に縛りつけられ、数本の白刃で嬲殺しに近い拷問を受けたのだ。彼は、
『日本人という奴は、まつたく自分自身に対して自信を持つていない人種ですな。僕の近所の奴等が僕が自警団員のため額や頬をすうと薄く斬られ血まみれになり、僕は彼等に日本人だということを証明して下さいと叫んでも、ニヤリと笑うだけで首を振つて保証してくれる者が一人もないのですよ。男ばかりでなく親しい近所の女房どもさえ、素知らぬ振りなんです。僕はこの時ほど日本人だということが恥ずかしく厭だつたことはありません』
『其奴等は今どうしてる』
『なあに。ケロッとしたもんですよ。あの時、口を出したら自分等も鮮人と思われるから怖かつたつてね』……………」
一つの事実とともに、佐左木の「近所の女房どもさえ」、確かに朝鮮人ならば殺されても然るべきものとする勢いに抗しえぬ状態にあつたことが語られている。それは直ちに、佐左木俊郎がまたその状態にあつたということではない。佐左木自身ならば、朝鮮人とまちがわれて日本人が刃物の拷問を受ける不当を不当としただけでなく、朝鮮人が朝鮮人だからといつて、それだけで日本人から殺されさいなまれることの不当を不当としたにちがいない。ただ一般的に当時の日本で、「破戒」のなかで藤村が描いたように、ポグロームをけしかける勢力のもとで、けしかけられるのを待ちうける状態に通常の国民がおかれていた事実はここで語られている。そしてこのことを、1972年、3年のわれわれが陰に陽に承けついでいることを私は否定できぬように思う。日本共産党五十年史は、この点、そこをマイナス方向で代表しているものの一つとして見られるというものであるだろう。
 その責めは、終局的には日本人民に来る。日本文学にも来る。(略) 」(73年1月20日)

「 
 日韓議定書以来

 1932年下半期の「在阪朝鮮人の生活調査」のことで、「そこでの第一の問題は『貧』のことである。」と私は書いた。この「貧」のことを、ここでこれ以上には書いていることができない。しかしとにかく、「渡来当時ノ所持金」についてみると、世帯主が所持金「0円」、つまり文無しで来た場合が68パーセントだつたことをわれわれは知つておきたい。そしてそれらの世帯のうち――というのは、文無しで来た世帯だけを指すのではない。所持金「10円以下」その他の世帯も含めてのことである。――合計約2800世帯が「三畳以下」に住んでいたことを知つておきたい。一世帯あたりの人数をしらべると、最高が三人の2889世帯、次ぎが四人の2365世帯、次ぎが二人の2242世帯、次ぎが五人の1648世帯だから、ここから直線で類推することはできぬにしろ、およそこのへんの世帯が「三畳以下」に住んでいたろうと見当をつけることは許されよう。大阪と東京とはちがうが、32年当時の東京の模様から推すと、一般日本人の場合これほどのことはなかつたろうと私は思う。私個人の知識で書くことで、正確なことを知つている人には教えてもらいたい。つまるところ、2863世帯が、日本警察の留置所でほど狭くそこに住んでいなければならなかつた。そして留置所では、そこに坐つていれば飯が、どれほどひどいものにしろ配られたが、ここでは、主人は働きに出かけねばならなかつた。細君は台所を処理するうえ、赤ん坊があればそれを育てねばならなかつた。そしてその彼らを、「植民地」なみの貸銀を日本人労働者に支払うために、日本資本家陣がそれだけ余計苛酷にしぼつていたのだつた。しかしそこが、当時の日本の労働者運動、社会主義・共産主義運動の上でどれだけ自覚的に取りあげられていたかいくらか覚束なく私は思う。この手のことを感じで言つてはならぬにちがいないが、当時、「日本帝国主義の植民地であつた朝鮮、台湾の解放の旗」をかかげ、「日本と朝鮮の労働者は団結せよ」と呼びかけていた側が、在日朝鮮人勤労者の「無条件の政治的、経済的平等――殊に社会的平等のため」、不断に日常的にたたかつていたかの点いくらか私は覚束なく思う。なるほど言葉としての原論はあつた。しかし日常具体的に各論がなかつたという記憶は今のところ消すことができない。
 文学に関係するものとしていえば、当時の在日朝鮮人の実態に即して、文学上の主要問題の一つとしてこれを取りあげる点、まつたく私たちが質量ともに弱かつたと私は思う。文学方面について言つて、この点でわれわれの知識が極端なほど狭く、またそれさえも、上からの忘却政策によつて押しながされていた形が強かつたのではないかと思うことがしばしばある。ここで私は徳永直の言葉を引きたい。徳永の言葉は彼自身を描きだしているが、同時にそれは私たち総体の無知、鈍感を描きだしているともある意味で言えはしないか。むしろ言わねばならぬだろう。
 1932年より大分あとのこと、徳永が何かの関係で「満州国」へ出かけて行つたことがある。彼はいわばほうほうの態で帰つてきて、かなり不自由な形で若干のことを書いた。その行きしなのときに彼が私にハガキをくれた。彼はそれを朝鮮通過のときに書いていた。このごろそのハガキが出てきたが、いま文面どおりに写すことはできない。ただ確かにこんな意味のことがそこにあつた。
「いま朝鮮を通過しつつある。朝鮮の労働者はひどい状態で働かされている。朝鮮人労働者がほとんど奴隷的な状態で働かされているのは日本でだけかと思つていたが、本国へ来てもまつたく同様だ……」
徳永は、労働者、勤労者の生活状態に実質的に敏感な作家だった。当時の戦争進行が、政治イデオロギーの上でいろんな揺れを徳永に与えていたにしても、そしてこの揺れがこの敏感に再び揺れを与えていたにはしても、彼のこの実質的敏感はとにかく一貫したものだつた。その徳永にも、代々木五十年史にいう日本人労働者の「植民地的」低貸銀、そしてその際の朝鮮人労働者のそれ以下の実情の忘失ということはぽおつとした状態で事実としてあつた。1920年代から30年代へかけて、日本「内地」の警察留置所で「朝鮮刑法」という言葉が通用していた事実を覚えている人はまだいるにちがいない。留置所のなかで、何かの場合警察官によるリンチが行なわれたが、特に残忍な形のものがこの名で通つていた。日本「内地」の警察留置所で、日本人、「内地人」にそれが加えられる場合それがこの名で呼ばれたということは、朝鮮で「鮮人」にたいして加えられるときは、ことさらそれがこの名では呼ばれなかつたことを意味していただろう。たとえば東京の留置所で、日本人にたいしてわざわざ「日本刑法」でやつつけてやるぞといつてことさら残忍なリンチが加えられなかつたことにそれは見合う。労働条件、労賃の件にしても、朝鮮人労働者の朝鮮内での実態が、日本「内地」なみ、それ以上だつたとすれば、彼らがわざわざ「植民地的」労賃の日本「内地」へそれほどに連れこまれたはずがないと考えることは誰にしろできる。侵略戦争の進行中、それがいつそうそうであることも誰にしろ想像することができる。しかしそれが、一般に本国人に忘れられ勝ちだということも争えぬ事実としてあるだろう。植民地の搾取から来るもののおかげで本国小ブルジョア層(植民地で、たとえば朝鮮で生活する本国人層を含めて)がそこへ引きこまれるだけでなく、本国人労働者階級も一般にそこへ引きこまれるということは事実としてある。東京の留置所で、「本国人」、「内地人」にたいして「朝鮮刑法」リンチが加えられてならぬだけでなく、朝鮮人にたいしてそもそもそれが加えられてならぬことについての「本国人」の感覚が鈍らされる。この呼び名そのものの含む朝鮮人侮蔑にたいする鈍感がそこで養われて蓄積される。それが、関東大震災のときの朝鮮人虐殺にたいする日本人われわれの鈍感につながつていただろう。朝鮮人とまちがわれて殺された日本人の不運には同情しても、まちがわれないで、朝鮮人とわかつて殺された朝鮮人の不幸はこれを頬かぶりで見送るという精神が養われてきたにちがいない。まして、自分とまちがわれて(まちがいとわかつたときでさえ)殺された日本人にたいして、ある朝鮮人たちの感じた深い同情、名状しがたく憤ろしい悲痛の念は想像してみることさえ不可能という日本人精神が養われてきただろう。私は軍国主義植民者勢力、搾取者・圧迫者勢力によつて養殖されてきたこの日本人精神が、混濁した愛国主義と入りまじつて今の現在まで陰に陽にわれわれ自身のなかに残つてきているように思う。
 これ一つをわめきたてて言おうとは私は思わない。けれども、日米安保条約にたいするわれわれの反対闘争のなかにさえそれのなごりがなかつたかは考えて見ていいと思う。
 あのとき、社会党の黒田議員が日韓議定書の件を持ちだした。国会はどよめいた。多くの日本人がわがこととしてそれを受けとつた。しかしあのとき、どれほどのことをわが日本が朝鮮にたいしてしたかにたいする国民の怒りはそれほどには湧かなかつたと私は記憶する。うろ憶えの気味でよくないが、あのとき私たちのなかで、暴慢で本国顔、主人顔をするアメリカ政府側と、卑屈で属領顔、家来顔をする日本政府側とにたいして燃えあがつた国民の怒りのなかに、日韓合併、日本人による「韓国併合」のときの朝鮮人民の怒りと悲しみとがどこまで溶けこんでいたか私ははつきり指摘することができない。あのとき日本側が押しつけた条々、それが沖縄返還のときにも、ヴェトナム問題の今も、なまなましく日本国民に思い出されていたか、いるかについて私は弱々しくしか答えられぬように思う。
「韓国駐箚軍司令官長谷川大将」の押しつけた条々がどの程度われわれの頭に今も出てくるか。
「-軍事行動に妨げなき限り内外人の権利は保護す。
 -軍政地域内に於て軍事行動を妨害したる者は軍律により処分す。
 -軍政地域内に多数人員を集合する場合は予め軍司令官の許可を経るを要す。
 -許可なき外国人は軍政地域内に出入滞在するを許さず。
 -軍政地域内にては次の条項を執行す。(以下略)」
「日本国政府及び韓国政府は韓国警察制度を改善し、財政の基礎を鞏固にするの目的を以て左の条約を締結せり。
第1条 韓国の警察制度の完備したる事を認むる時に至る迄、韓国政府は警察事務を日本国政府に委任す。
第2条 韓国皇室警察事務に関しては……」
『亡国秘密 なみだか血か』の著者は、このヘん、「……警察権は警務総監によつて統べられ、憲兵本位の警察制度を布き……警務機関の統一と共に憲兵の新に増派せられたる者2000余名に及び、是等を主たる機関として十三道の各要所要所に配置したる外、補助機関として従来の巡査を其儘使用し、是に加ふるに多数の密偵諜者を用ひたれば、韓国内至る所警戒陣頗る厳密を極め細鱗と維も漏らさざる網の如きものありき……」と書いている。二人の著者村上、後藤はこうも書いている、「翻て統監側に於ける策戦は如何、智謀半島の邦人中随一と称せらるる少将明石元二郎氏は憲兵司令官に兼ぬるに韓国警務総督の重職に在り、寺内統監を助けて画策至らざるなし、陰然として統監参謀長の態あり、統監の旨を受けて……」
 日韓議定書の件はこうして順調に「韓国を日本帝国に併合する」「併合条約」締結へと進んだ。「日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其の后妃及後裔をして各其の地位に応し相当なる尊称威厳及名誉を享有せしめ且之を保持するに十分なる歳費を供給すへきことを約」した。それからこの仕事で「勲績ある者に対して授爵式」があり、朴泳孝その他に侯爵が、李完用その他に伯爵が授けられた。そこで「寺内総督は併合顛末奏上の為め10月20日帝都に帰る、陛下総督の偉功を嘉みし給ひて特に儀仗兵を賜ひ……」となる。ここに来る経過がどうわれわれに知りつくされているか。それをどうわれわれが新しく思い出しているか。憲兵司令官明石についてなども、このときの彼の働きよりも日露戦争のときの働き、ストックホルムを根拠地にロシアの1905年革命に働きかけたといつた話の類が日本でおもしろおかしく話されているのではないだろうか。
 日本と中国との関係は発展し定着しようとする勢いを見せている。その種の動きは朝鮮とのあいだにも見られる。しかしそこに多少のちがいもある。たしかにそこに原因も理由もあるにはちがいない。ただ私は、日本が朝鮮を完全に「併合」していたことからくる問題、あの「併合条約」の第1、2条に規定された問題とその後のその実施実情、第二大戦後の日本帝国主義からの解放、独立の問題があると思う。「併合条約」の第一条、第二条はこうなつていた。
「第一条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す。
 第二条 日本国皇帝陛下は前条に掲けたる譲与を受諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す。」
 ここからして、「全然」また直接に「在阪朝鮮人の生活状態」も出てきたに違いない。端的にいえば、日本帝国の無条件降伏、日本天皇の例の「終戦の詔勅」は、それまでの敵側諸国にたいしてことごとく平伏したものではあつたが、朝鮮・韓国にたいしては全く平伏していなかつた。むしろそれは、朝鮮をわが内へ引きいれておいて他の一連の国々に無条件降伏をしたものだつた。加害者が被害者を、加害者自身に加えておいて他に対するという非道で恥知らずの性格をそれは持つていた。そしてこのことにたいして、日本人民のたたかい、活動は非常に不十分なものだつたように私は思う。そしてそれがそのまま今に及んでいはしないか。隣国中国について見れば、南京事件その他が明らかにされている。あるいは明らかにされつつある。花岡のことなども明らかにされている。無論すべてが明らかになつたのではない。しかし朝鮮と朝鮮人との問題に比べては相対的にそう言えるだろう。朝鮮と朝鮮人との問題は、その点全く手つかずだと言わねばならぬにちがいない。『統一評論』二月号の「沖縄における日本帝国主義の蛮行」(上)を見てあらためて私はそう思う。この種の問題を私はろくに知らなかつた。これには、沖縄への「朝鮮人強制連行と虐殺の記録」と副題がついている。この「連行」は日本「内地」からだけでなく朝鮮白身からのものを含む。沖縄で日本軍は地元の人びとを残酷に扱い、全く残酷に死に追いやつた。同時に、朝鮮人をそれ以上残酷に扱い、言いようなく残忍に死に追いやつた。
 残忍な朝鮮人殺しは慶良間列島でも行なわれた。ずつと前、私は自分の書いたものに「慶良間は見えても睫毛は見えぬ」という沖縄の諺をつけていた。しかしそこで、時はおくれるにしろ、これほどのことがあつたことを私は全く知らずに今に来た。『統一評論』の記述は尾崎陞、藤島宇内たちの調査に基いている。朝鮮と朝鮮人との問題は、ほとんど新しく、あらためてそこに近づかねばならぬ性質のものとしてわれわれの足もとにあると思う。(73年3月22日)
2010.04.06 Tue l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
ここ1、2年、中野重治の全集を一冊ずつ図書館から借りてきてはぼちぼち読んでいるが、どの巻も大変おもしろい。中野重治に対して私は昔からずっと尊敬の念はもっていたし、「歌のわかれ」や「むらぎも」などの小説や詩は好きではあったが、ほぼ同時代の作家のなかでは戦後に現れた大岡昇平や埴谷雄高などに比べるとあまり親しみは感じていなかった。なんだか人間が立派すぎるというか、いかめしい印象があって近づきがたいという気がしていた。でも、こうして実際に評論や文芸時評や中野重治自身は「雑文」と称している時事的な文章などを読んでいて、いつのまにか読者を懐のうちにいれてしまう大きさや説得力や離れがたい人間的魅力をもった作家であることを実感させられている。

中野重治は、1938年に国家により執筆禁止処分をうけたといわれてきたし、私もそう理解していたが、中野自身によると、実際は内務省から雑誌社・新聞社に対してこれこれの人間(中野重治の他、宮本百合子など)には執筆依頼をしないようにという達しが行ったのであり、作家本人に直接その旨の通告があったのではなかったそうである。そうであっても実際にはこの達しにより雑誌などへの文章の寄稿は不可能になったわけで、困窮した中野重治は、東京市の「小額給料生活者失業応急事業」の臨時採用に応募して雇われたこともあったそうだ。

その職を世話してくれたのは朝鮮人の金子和という人物だったそうで、これから取り上げるつもりの文章『三畳以下に住む2800世帯』が書かれたのは、一つにはそのような縁があったせいかも知れない。また、この文章が執筆されたのは1973年だが、そのころ朝鮮高校などの若い在日朝鮮人に対する日本人の襲撃事件が頻発していて、そのことについても中野重治は別の場所できびしい怒りをこめた一文を書いているので、そのような現実を見るにつけ、遠い過去の記憶が鮮明に呼び起こされ、過去と現在の連続性の問題なども痛切に感じたのだったかも知れない。中野は自身が東京で臨時採用された1938年の6年前、1932年に大阪府がやはり失対事業の一環として行なった調査事業の記録『在阪朝鮮人の生活状態』を基に、当時の在日朝鮮人が置かれていた環境や経済の実態を考察する文章を書いたのだった。これが上述した『三畳以下に住む2800世帯』で、このエントリーの最後に抜粋して掲載する。大阪府はこの事業に50名の臨時雇員を当てたそうだが、その他に通訳者として大阪市内居住の朝鮮人知識階級失業者20名をも臨時採用し、調査には計70名が従事したそうである。

この調査記録を読んだだけで、日本にやって来た朝鮮人の大多数が、植民地支配下の朝鮮で飢渇状態に追いやられ、生死をかけても自国を出ざるをえない切羽詰まった状態だったことが理解される。何しろ、日本に来るにあたり、その68パーセントもの人が所持金なしだったというのである。中野重治も、植民地支配の全般的な実態について、ひどいと知ってはいたが、これほどとは思わなかった、という趣旨のことを何回も書いているが、これは私などはもっともっとそのように思う。この問題とは離れるが、たとえば、「笞刑」という刑罰について、ドストエフスキーの「死の家の記録」にその実態が克明に描写されている。芸術的なほどの残忍な笞の使い手である刑吏がでてきて罪人に笞を振るう場面は一度読めば決して忘れられないものだが、読んでいるそのとき私は日本が朝鮮で「笞刑令」を作り、植民地支配に抵抗する数千の朝鮮人を死ぬ目にあわせているなどは全然知っていなかった。中野重治はこの刑罰についても他所で書いているので、「これほどとは思わなかった」ということのなかにはこのことなども含まれるかと思う。

朝鮮人が見舞われたこのような災厄、信じがたいほどの過酷な生活実態を知ると、学費の助成金を朝鮮学校のみ除外するなどということを平然と言い、平然と実行しようとさえしている日本の政治・社会の異常さが身にしみて感じられる。このようなことを言い出す政治家がいて、それを聞いた政治家のなかに「とんでもない!何という恥さらしなことを言うのだ。」と一喝する者も、強硬に反対する者もなく、実際に朝鮮学校を除外して法案を通過させる行為をすることのできる政府が世界中さがしていったい幾つあるのだろうか。人権に関する重要な問題で、原理原則を外して突っ走ると必ず禍根が残り、災いが生じる。これは歴史を見ると歴然としていると思うが、そうするまでもなく、現実の社会生活のなかで私達の誰もが日常的に経験していることではないだろうか。ましてや、その対象になるのは自国が一方的に踏みつけにし、災禍をあたえつづけてきた当の相手である。在日朝鮮人のほとんどは、中野重治の表現によると日本が「連れこんだ」朝鮮人の子孫の人々である。日本以外の他国はそのことをみんなちゃんと知っている。政府は、一刻も早く、無条件に朝鮮学校の除外政策を撤回しなければならない。それは何ら特別なことではない。ごく普通、最低限に当たり前のことのはずである。

中野重治は、『日本共産党50年史』という、日本共産党発行の記念誌についての感想を述べるなかで、次のような批判をしている。

「じつは私は、あの『第1章 日本共産党の創立』、その第1項『創立当時の日本の支配的制度』、その書出し7行目でそもそも引つかかつたのだつた。日本の『労働者は植民地同様の低賃金』、こう書いたとき、この筆者たちは、学説のことはさておき、在日朝鮮人労働者のことをてんで肉感的に思い出さなかつたのだろうか。日本人労働者が『植民地同様の低賃金』だつたとして、そのとき朝鮮人労働者は、朝鮮で、また日本で、何的低賃金だつたとこの筆者たちは言いたいのだろうか。だいたい、『日本の支配的体制』が、どれだけの朝鮮人を日本へ追いたて、ほとんど強制的に連れこんでいたかが一行も書いてない。関東大震災で、『何千人という朝鮮人も〔「も」ではない。「も」では付けたり扱いになる。〕虐殺された』のならば、何万人もの朝鮮人が、すでにそれまでに連れこまれていたという事実をそれは語つているだろう。それがないだけでなく、それがからだで感じられていない。」『在日朝鮮人の問題にふれて』(1973年1月)

そして、日本政府が「日本へ追いたて、ほとんど強制的に連れこん」だ朝鮮人の実態に関して、先に述べた『三畳以下に住む2800世帯』(『新日本文学』1973年4月号)という一文が書かれている。植民地時代、朝鮮人が好き好んで、あるいは選択の余裕をもった上で日本にやってきたようなことをいう人も少なくないようなので、長くなるが、引用しておきたい。


「50名の臨時雇員」、「20名の朝鮮人通訳者(臨時採用)」と私は書いたが、あわせて70人のこの人たちのこともちょつと書いておきたい。70人のうち、日本人50人は「小額給料生活者失業」者というものだつた。朝鮮人20人は、「大阪市内居住の朝鮮人知識階級失業者」というものだつた。またそもそものところ、「在阪朝鮮人の生活状態」調査というこの仕事が、大阪府の、「昭和7年度小額給料生活者失業応急事業の一として」「行」なわれたものなのでもあつた。つまりそれは、「応急」の「失対事業」の一つだつたわけである。
 むろんそこに正面の大目的はあつた。それは決して名目だけのものではなかつた。それは堂々と、正面から、あるいはあけすけに掲げられていた。
「大阪府管内に在住する朝鮮人は近来夥しく増加して他府県に其の比を見ない。而も其の後年々増加して之が為種々の社会問題を惹起し、住宅問題を始め労働問題、融和問題等は年と共に益々其の重要性を高め、殊に朝鮮人労働者は労働貸銀の低廉等の関係から内地人労働者の失業率を高め更に近時に於ては彼等自らの中に失業問題を発生し朝鮮人の保護救済は其の要が益々切なるものとなつた。而して其の問題の解決は極めて微妙な問題であって、先づ彼等の生活状態、生計状態を知るは勿論、彼等の渡来に関する事情、渡来当時の状態等をも熟知して彼等に対する内地人の理解を深め以て之が対策を講ぜなければならん。本調査は彼等の生活の真相を如実に知る基本的資料を得るために実施したのであつて、内鮮融和並に朝鮮人保護の参考に資するを得ば幸甚である。」
 ここで、「其の要が益々切なるものとなつた」、その「解決は極めて微妙な問題であつて」というのは、問題が非常に厄介な性質のもので、その解決となれば手も足も出ぬような気がするということであつただろう。とにかく、代々木50年史のいう日本人労働者の「植民地同様の低賃金」、さらにそれを下まわる朝鮮人労働者の低質銀、それが「内地人労働者の失業率を高め」ている事実、ところが、「更に近時に於ては」、この朝鮮人労働者「自らの中に失業問題」が出てきた事実をそれは語つていた。それは、日本人労働者の「植民地的」低質銀、朝鮮人労働者のそれ以下の、学問上何というか私は知らぬが「農奴的」とでもいうべき低質銀、つまり近代的な意味で「貸銀」の概念からはみだしてしまう際まで来たひどい報酬制、そして今度はそこでさえもの「失業」のあらわれ、むかし三浦周行が、室町期の土一揆、国一揆について書いたような事情の近代的に大がかりにされた状況、それの部分的到来の告白ということにそれは繋がつていたかも知れない。そうして、それの解決の、つまりそれの予防事業の「参考に資するを得ば幸甚である」という調査事業が、ほかでもなくそんな状態のもとでの日本人下級サラリーマンの失業者、おなじく「朝鮮人知識階級失業者」を対象とした「応急」失対事業の一つとして実施された事実を、にがにがしくも、非常に興味ふかいことにも今私は思う。当時私は、この種の事実を知らなかつた。この種の事実を、文学上の仕事仲間たちがろくすつぽ知らなかつた事実についても知つていなかつた。私たちがごそつと逮捕された時期だつたからでもあつたろう。「昭和7年」、つまり1932年といえば、プロレタリア的、革命的、民主的文化運動がかなり基礎的に弾圧を受け、小林多喜二たちはほとんど完全に非合法生活に追いこまれていた。触手をひろく伸ばして問題をとらえ、その意味を理解し、応急策をたて、それを実行に移す時間をあたえずに支配的政治勢力側が我が方を駆り立てた時期にあたっている。そこでひと口に言って、当時われわれは朝鮮人問題を十分に理解していなかつた。これを、ここで私は個人として言う。誤りがあるかとも思う。その節は教えてもらいたい。私は、私個人のせまい経験から書く。その中心の一つには、日本へ連れこまれた朝鮮人の生活について、私たちがろくすつぽ知つていなかつたという事実、日本の共産主義・社会主義運動も、いくらか知つていたにはしても突きこんでは知らず、またこれを中心問題の一つとしては扱つていなかつたらしい事実について私個人の貧しい記憶を書きつける。むろん私は、ある何ごとかに私が直接携わつていない場合、そのことのため、またそれに直接関係ある仕事で人がどれほど苦労して働いていてもそれがわからぬという事実、そしてそんな苦労をしているものがどこにもいないと思いこみかねぬ事情を知つている。しかしとにかく、そんな条件のもとでいえば、当時あるいは「先進的」な――この言葉を私は好かぬが――日本人労働者、知識人さえ、朝鮮人問題になかなか内側までははいつて行かず、ある点では、反動的な民族主義イデオローグたちよりさえ部分的に後れていはしなかつたかと思うことがある。ある極端な場合には、日本のプロレタリア的革命家、その運動さえ、そのなかに朝鮮問題軽視、朝鮮人蔑視、すくなくともそれに近い何かを含んでいはしなかつたか、その点いくらか心もとなく思う瞬間があるという私個人の感じを記録しておきたいと思う。
 第二大戦後、あの東京裁判のとき、旧満州帝国の溥儀元皇帝(注)が検察側証人として法廷に立つたことがあつた。そのときの模様を、日本のほとんどすべての新聞類が、この傀儡皇帝を浅ましい人間として描くやり方で扱つた事実を私は覚えている。アメリカ勢力の支配のもとでだつたには違いないが、傀儡を傀儡として仕立ててこき使つてきた日本の天皇主義、軍国主義の姿はほとんどすべての日本新聞類がひた隠しにして押し通した。まして朝鮮と朝鮮人とに関しては、国土と人民とを日本が奪つたことについて何ひとつ、ひろく正規には事が明らかにされなかつた。新聞もラジオも学校数育もそれをしてこなかつた。関東震災での組織的朝鮮人虐殺などをひた隠しにして押し通したのは勿論のこと、それと裏表の関係で、朝鮮王族と日本「皇族」方面との政略婚姻の事実についても何ひとつ恥じた姿勢はそこに見られなかつた。まして、朝鮮人から朝鮮語を奪った事実、朝鮮人の苗字、名まえを日本式に暴力的に改めさせた事実などなどについて何ひとつひろく公けにすることはこれを完全に圧服して押し通した。人の名のこの問題は、近年の日本人のある層、「タレント」とか藝人とか水商売の人たちとかの外国名まえ採用とは完全に質がちがつている。そしてそれは、日本の「領土」問題での政治的鈍感(しばしば全く意識的な)と裏表の関係で、「南鮮」と「北鮮」との「国境」問題、「南ヴェトナム」と「北ヴェトナム」との「国境」理解(誤解)に結びついている。早い話が、1973年現在、北ヴェトナムと南ヴェトナム とのあいだに、また北朝鮮と南朝鮮とのあいだに、「国境」があるという考えは相当多くの日本人のなかに事実としてあると私は思う。日本人が日本人について、また国としての日本について、「東海の君子国」だの、「くはしほこちたるのくに」だのと、これつぱかりも考えていないという証拠はいまだに一般的にはない。旧溥儀皇帝、旧朝鮮王族、それとの関係で、日本の今の天皇が、どれだけ何かの責任をもつて階段に立つ力があるか日本人一般は自分自身に明らかにしていないと私は思う。「日本人一般は」などと言わなくてもいい。日本の労働者階級、日本の「先進的」な人びと、私たち自身とも言つていいと私は思う。
(略)
 「睦仁天皇の日本政府が閔妃を殺したとき、ジョンソン大統領のアメリカ政府がゴ・ジン・ジェムを殺したとき、殺害者の側には侮蔑と計算とだけがあつた。伊藤博文をたおしたとき、安重根には熱烈で透明な憎悪があつた。」
 問題のここの関係を、われわれ日本文学者があまりにかすかすにしか見てこなかつたと私は思う。「戦後」についてみても、たとえば小林勝の作品の受けとり方などにもそれが見られ、近年の、日本語で書いている朝鮮人作家たちの仕事の受けとり方にもそれが見られはしないか。1928年の日本で、全く抜け目なく治安維持法と結びあわせにして普通選挙制がしかれることになつたとき――この結びあわせにそれ自身の問題があつたが――ここから一般に女がはずされただけでなく、具体的にも原則的にも朝鮮人、台湾人がはずされていた事実、これをどれだけ切実なものとして私たちが肝に銘じてきたろうか。日本共産党が、「日本帝国主義の植民地であつた朝鮮、台湾の解放の旗を敢然と」掲げたこと、「日本と朝鮮の労働者は団結せよ」と呼びかけたことは正しかつた。この旗を掲げてこう呼びかけたのが日本共産党だけだつたことも事実だつた。しかしそれが日常のたたかいにまで具体的に実現されなかつたことも残念な事実だつた。
(略)朝鮮の歴史、それも日本との、日清戦争、日露戦争、日韓合併以後の時期だけでもの関係史についてのわれわれの一般的無知、むしろ一般的忘却がそこにあるだろう。もしかすれば、「戦後」に来て、朝鮮の「独立」以後、特にこの十年来、この一般的忘却が意識的に組織され養成されてきたと見られるフシさえなくもないと私は思う。(略)東京その他での、朝鮮人学校生にたいするここ何年来の暴行連続にたいする一般の無反応にもそれは見られる。青年・学生運動方面に見られるこれにたいする無反応、小学校から大学までの教職員組織に見られるこれにたいする無反応にも重畳してそれは見られる。その底に幾重にもたたみこまれた因子があるにはちがいないがやはりあの「調査」へ帰ろう。そこでの第一の問題は「貧」のことである。
 当時大阪市には警察管区が33あつた。そのうち水上署関係3管区が調査から除かれ、「調査上地理的に不便な柴島、大和田」2管区が除かれ、「朝鮮人居住者の極めて僅少な船場、島之内」両管区が除かれた。「極めて僅少」、つまり船場、島之内は金持ち区域で、朝鮮人は一般に、金持ち区域でないところに住んでいたという事実からこれは来ていたのだつたろう。いろいろの表がある。「渡来当時ノ所持金ニヨツテ分チタル世帯主数」表を見ると、世帯主の68パーセントほどが所持金「0円」である。17パーセントほどが「10円」以下、5パーセントほどが「20円」以下、2パーセントほどが「30円」以下、1パーセントほどが「40円」以下、何パーセントか、図表では黒の横線一本ほどが「50円」以下である。「世帯使用の畳敷によつて分ちたる世帯数」表を見ると、一世帯で「一畳以下」「二畳以下」に住んでいるのが770世帯、「三畳以下」が2082世帯、「四畳以下」が618世帯、「五畳以下」が1799世帯、「三畳以下」の2082世帯が百分比17・59で最高である。 」


(注): 元満州国皇帝・溥儀が東京裁判に検察側証人としてやってきた時の日本のマスコミ、天皇を含めた政府役人の溥儀への酷薄な対応・処遇について、中野重治は、1946年のその当時から晩年にいたるまで、『五勺の酒』を初めとした小説においても、随筆や感想文のような文章においても、執拗なくらいに繰り返し書き、飽くことなく批判している。中野重治が日本人の人格の度し難く厭な面をそこに象徴的に見ていたのは間違いないように思う。
2010.04.04 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
書くのが遅くなってしまったが、ようやくにして確定した足利事件の菅家利和さんの再審無罪判決について感じたことを述べておきたい。3月26日、宇都宮地裁において菅家さんの無罪は確定したが、判決の後、佐藤正信裁判長は、菅谷さんにむかって次のように謝罪したという。読売新聞に全文が載っていたので引用する。

「 通常ですと、判決宣告後に適当な訓戒ができることになっていますが、本件では、自戒の意味を込めて謝罪をさせていただきます。
 菅家さんの真実の声に、十分に耳を傾けられず、17年半もの長きにわたり、自由を奪う結果となりましたことを、この事件の公判審理を担当した裁判官として誠に申し訳なく思います。
 このような取り返しのつかない事態を思うにつけ、二度とこのような事を起こしてはならないという思いを強くしています。
 菅家さんの今後の人生に幸多きことを心よりお祈りし、この裁判に込められた菅家さんの思いを深く胸に刻んで、本件再審公判を終えることといたします。」

足利事件において裁判所は一審・二審・最高裁と都合3度も誤判を繰り返し、菅家さんを取り返しのつかない苦しみのなかに閉じ込めてきたのだから、謝罪は当然のことだが、その内容にはいささか疑問を感じる。「菅家さんの真実の声に、十分に耳を傾けられず」という発言に対してである。

菅谷さんが無実を訴えだしたのは、2001年に草思社から出版された小林篤氏の労作「幼稚園バス運転手は幼女を殺したか」(2009年に標題を「足利事件」と変更して再刊行。講談社文庫)によると、一審の最終段階に入ってからだったようである。そのときから菅谷さんは自白とともに有力な証拠とされていたDNA鑑定について、もう一度DNA鑑定をやってもらいたい、自分はあの犯行をやっていないのだから、鑑定をやり直してもらえば自分の無実は明らかになるはずだと一貫して述べていた。これは控訴審以来の弁護人の主張でもあった。そもそもこの鑑定結果が厳密な証拠能力をもっているかどうかについては、「幼稚園バス運転手は……」によると、当時裁判を傍聴し、事件を伝える報道記者たちにさえつよく疑われていたようである。それなのに裁判所は被告人の訴えに頑として耳を貸さなかった。再審の佐藤裁判長が「十分に耳を傾けられ」なかったという「菅谷さんの真実の声」とは再度の鑑定を求める菅谷さんのこの訴えを指しているのかとも思う。それならば、逆転無罪判決という絶好の機会にこそそのことを率直に述べるべきだったのではないだろうか。なぜかといえば、そのようにして具体的に誤りを俎上に乗せて語らないかぎり、この過ちが今後に生かされることにはならないのではないかという危惧や不信を拭えないからである。

上記で書いたように、佐藤裁判長の言う「真実の声」がもしDNA鑑定を求める菅谷さんの声を指していたのだとしても、「真実の声」という言い方にはなお疑問が残る。裁判所の誤りは、無実の人の「真実の声」に十分に耳を傾けなかった、というのではなく、事件の真相解明に十分な誠実さ、熱意、真摯さをもって取り組まなかったことではないかと思うのである。裁判長の「真実の声」という言葉に即していえば、真実の声が何であるかを見極める姿勢において裁判所は欠けていたのではないかということである。

裁判の目的は一にも二にも真相解明にあるはずである。真相が解明されなければ被告人に対して有罪も無罪も判決の宣告はできないわけである。無実を訴える菅家さんの声が真実だったことは今になると明らかだが、被告人と検察の主張が相反した場合、どちらの言い分が真実かは、特に裁判の開始当初は誰にも分からない。場合によっては双方とも真実とかけ離れた偽りの主張をしていることだってありえる。裁判所に常に求められるのは、客観的な証拠を基にした徹底的な真相解明の遂行のはずである。それが誠実になされていなかったことは、控訴審以後の主任弁護人である佐藤弁護士の話を聞き、小林篤氏の事件について伝える文章を読み、またマスコミ報道などで裁判の推移を振り返ってみるかぎり、あまりにも明らかだと思われる。だからこそ、裁判長には、ありきたりの一般論で謝罪するのではなく、具体的な審理上の誤りの指摘やそれに対する自己批判の言葉を述べてほしかったと思う。具体的な論点が裁判官の口から語られてはじめて、取り返しのつかないこの誤判を今後の司法の改善と健全化に教訓として生かすことができるはずである。第一、菅谷さんの取り返しのつかない被害、人権侵害に対して、せめてそのくらいの実のあることをしないと、なんらの謝罪にもならないだろうと思う。

小林篤氏の「幼稚園バス運転手は幼女を殺したか」は、二審が始まった直後から取材がはじめられ、最高裁で無期懲役が確定するまでの経過を追ったもので、菅谷さんの有罪判決につよい疑問を投げかけるものであった。私がこの事件について多少の知識をもったのは、この本によってであった。パチンコ店前からの幼女失踪の経過、翌日河川敷で遺体が発見された際の現場の状況、警察および検察によるしらみ潰しの捜査、後に容疑者として逮捕されることになる菅谷さんの当日の行動、菅谷さん逮捕に至るまでの捜査の動きと流れ、菅谷さんの自白、その後の裁判の推移。この本は事件に関わるそれらすべてを詳細に、また丁寧に追ったもので、些細な点まで実にかゆい所に手が届くというような細やかさで事件のいろいろな側面が描かれていたと思う。小林氏は菅谷さんの有実に疑問を感じながらもその直観に引きずられないように、思い込みによって見方が偏ることのないようにと、抑制的な神経の働かせ方をし、さまざまな角度から精緻な検証をなしていたと思う。だからこそ、なのだろう、読んでいて、菅谷さんを有罪とするための根拠がことごとく崩れ、消えていき、その結果、この有罪判決の納得のゆかなさに焦燥感をおぼえさせられた。

菅谷さんの自白内容は、一つ一つ吟味していくと遺体や死体発見現場やその付近の状況とまったく一致しないのである。「幼稚園バス運転手は幼女を殺したか」によると、控訴審の弁護人は「控訴趣意書」で、次のように自白内容の不合理・不自然な点を挙げ、菅谷さんの無実を確言している。

① 被害者を見つけられたか。パチンコ店の駐車場付近でこのようにして被害者幼女を見つけたという菅谷さんの事情説明が不合理である。同時間帯には、駐車場に車が多数駐車していると推測されるが、もしそうであったならば、菅谷さんの位置からしゃがんでいた幼女を見ることは不可能だったはずである。

② 見知らぬ男の誘いに応じるか。4歳8ケ月の、しかも非常にハキハキと話す、しっかりした性格の女の子が、目の前のパチンコ店内に父親がいるというのに、見知らぬ男に「自転車に乗るかい」とひと声かけられただけで、その誘いに応じるか。

③ なぜ目撃者が現れないのか。菅谷さんは、パチンコ店から渡良瀬公園までの600m程の距離を幼女と二人乗りの自転車で行き、葦の茂みに入ったと供述している。1990年5月12日。時刻は午後7時前頃であり、公園付近には100人くらいの人がいて、そのうち80人が捜査当局に判明しているとの新聞報道がある。しかし、被告人らを見たという目撃者は一人も現れない。犯行の際に公園入口付近に30分程自転車を放置していたのに、これを見たという者もいない。また、菅谷さんが幼女を誘ったとされるパチンコ店から菅谷さんの実家までは1kmの距離であり、菅谷さんもこのパチンコ店に週に二、三回は通っていてよく顔を知られていた。このあたりは菅谷さんの生活圏内なのだ。したがって、当日も同パチンコ店には菅谷さんの知人が何人もいた。しかしこの日に菅谷さんを見たという人間は一人も現れない(自白をひるがえした後、菅谷さんはこの日借りているアパートの部屋からまったく出なかったと述べている)。

④ まもなく5歳になるという女の子が、日没後の暗がりをついていくか。当日の日没時間は午後6時40分。薄暗くなった午後7時前後に、女の子が駐車場から公園までの600メートルもの距離を嫌がることなく荷台に乗り、さらに、自転車を降りた後、被告人に手を引かれるまま、黙って葦の茂みの中に入って行くということがありえるだろうか。

上記の他に、○遺体の傷が自白と合致しない、○自白による殺害行為の不自然さ ○わいせつ行為のおよそ考えられない不自然さ、○「犯行場所」の自白が転々と変遷している、○犯行の核心部分の自白が変遷を重ねている、○被害者の衣服についての被告人の自白の矛盾-客観的状況とかけ離れている、○犯行後の行動として自白した内容が客観的状況と矛盾している、等々が述べられている。

詳しくは、本を読んでいただきたいが、一つ一つの状況を確かめながら文章を追っていって、判決に対する疑問や苛立ちを感じずにいることは難しいことだった。控訴審の裁判所は菅谷さんが被害者幼女に声をかけて公園に連れ込み、犯罪をおかしてその場を立ち去るまでの事実経過に的を絞ってその真偽を検証していくのではなく、DNA鑑定の高い信用性のみを集中的に語っているように思えた。これはあるいは、事実を吟味し検証していけば、その内容があまりにも矛盾にみち、不自然・不合理であり、有罪判決をくだし得ない結果になることを恐れたからではないかという疑いさえおぼえさせられた。DNA型の再鑑定をかたくなに拒否する裁判所の姿勢と合わせて、そのように感じられたのである。それから判決に対してこのように焦燥を感じずにいられない疑念をおぼえさせられるのは、昨年死刑が確定した「埼玉愛犬家殺人事件」の風間博子さんに対する判決文も同様だということを述べておきたい。
2010.04.02 Fri l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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