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金光翔さんの「対『週刊新潮』・佐藤優裁判まとめ」がこちらのサイトに出ている。原告と被告がこれまで法廷で争い、陳述してきた書面がすべて揃っているので、読者は双方の主張を公平に知ることができる。論点も多く、理解しづらい箇所もあるが(被告側が、「人民戦線」と「反ファッショ統一戦線」の意味の違いや、編集長による「原告のもて余し」にわき目もふらず(?)ひたすら執着している様子は可笑しい。つい笑ってしまう。自分のほうから「曲解していること」という争点をもちだしておきながら、原告に反論されると、「新たな反論を繰り返すことにより、争点から次第に離れて行く危険性がある」のでさらなる反論は控えるという趣旨のことを述べていることも。原告側一人に対して被告側は専門家が三人も四人も揃っているというのに。)、ゆっくり読めば出来事の全体が十分把握できるのではないかと思う。

原告の金光翔さんを支持し、被告に対して批判的立場に立つ者としては、金さん自身によってすでに周到な主張がなされ、また被告の主張に対してもほぼ完璧とも思える鋭い批判・反論がなされているように感じるので、これ以上私などが付け加えるべきことはほとんどないような気がするのだが、それでもいろいろ感じたこともあるので書いてみたい。今日は、「岩波関係者」の不思議な行動についての感想である。

『週刊新潮』の記事が数多くの名誉毀損裁判を引き起こしていることは今ではもう世間一般周知のことだし、またそれは傍目にももっとものことだと思われるのだが(ちなみに、『週刊新潮』は2006年か2007年だったと思うが、光市事件弁護団に対し、見出しに「人間失格」という表現を用いて一方的な非難記事を載せていた。私の記憶では、『週刊新潮』にはこの表現を使って弁護団を非難する特集記事が一度ではなく二度載ったように思う)、それにしてもこの裁判には特異な点がいろいろある。特に異様なのは、原告・金さんの勤務先である岩波書店の「関係者」という人物が『週刊新潮』の当該記事の成り立ちにふかく関与していた――それどころかそもそもこの記事作成の発端になったのはこの「関係者」からの第一報だったことを、他ならぬ被告側が主張していることである。

2010年3月10日付の「被告準備書面(4)」の「第1 取材の経過について」によると、『週刊新潮』が件の記事を作る発端になったのは、

「週刊新潮編集部の記者が平成19年11月に、岩波書店の関係者から、電話で雑誌「IMPACTION」に掲載された、被告佐藤優を批判する論文の著者が岩波書店の社員であり、それを知った被告佐藤が立腹している旨聞いた」

ことだったというのである。そして、被告側は、

「荻原記者は、当初週刊新潮編集部に電話で連絡をしてきた岩波書店関係者に面談した上で2時間前後取材を行った。」

とも述べている。「当初週刊新潮編集部に電話で連絡をしてきた岩波書店関係者」という表現がなされているところを見ると、これは紛れもなく「岩波関係者」が自分のほうから『週刊新潮』編集部に電話をかけて、金光翔さんに関する情報をもたらしたということである。まさに「密告」であり、この「岩波関係者」は、『週刊新潮』誌上で金光翔さんを非難する記事を書くように『週刊新潮』を唆したことになる。

まるで悪夢のような出来事だが、これをそのまま事実として受けとっていいかというとそうもいかない。金さん自身もこちらで、被告側のこの主張により、「岩波書店社員がこの記事に積極的に関与していることは証明された」と言いつつも、「この記事の「きっかけ」に関する被告の主張は極めて疑わしい」と述べているように、「岩波関係者」がわざわざ『週刊新潮』に電話をかけ、編集部記者に上述のような内容の情報を伝えるなんぞ、にわかには信じがたいことではある。この「岩波関係者」の話しぶりをみると、金さんとの私的な関わりは特にもっていなかったようだし、このようないかがわしいだけでなく危険でもあることをあえてして一体どんな利益があるのかが疑問なのだ。

被告側の「取材の経過について」のなかに「岩波関係者」からの電話を受けた「週刊新潮編集部の記者」の名前が記されていないのはなぜだろう。金光翔さんは『週刊新潮』の法務担当の佐貫という記者から、『週刊新潮』の編輯部には佐藤優氏と大変親しく「毎日のようにやりとりしている」人物がいると聞かされたとのことである。この人物は実は当該記事を書いた塩見洋記者だそうだが、「岩波関係者」と電話で話したのはこの塩見記者ではないのだろうか。それとも別の記者なのだろうか。被告側はこの点はっきりすべきであろう。もし塩見記者だったとしたら、それでなくても信じがたい「岩波関係者」から先に情報をもたらす電話がかかってきたという被告側の主張は、二重、三重に疑わしくなる。佐藤氏と「毎日のようにやりとり」するほど親しい塩見氏なら、金さんが岩波書店の社員であることや佐藤氏の怒りの程度は十分に知っていたに違いないと思えるからである。「岩波関係者」に電話で教えてもらう必要は全然ない。

「岩波関係者」が『週刊新潮』に電話をかけたということを事実だと仮定して考えてみると、おそらく「岩波関係者」の電話を受けたのは塩見記者だったのだろう。これがもし別の人物だったのなら、被告側は、準備書面にその旨をちゃんと記しただろうと想像される。塩見記者だったからこそ、明記を避けたのではないだろうか。そもそも、「岩波関係者」のほうから『週刊新潮』に電話をかけたというのなら、その際、この「岩波関係者」は特定の人物を名指しして、その相手を電話口に呼び出さなかったのだろうか。それとも、編輯部に電話をかけるや自分が話している相手を確認もせず、いきなり、インパクションの論文の著者が岩波書店の社員であるだの、それを知った佐藤氏が立腹しているだの、という情報をしゃべり立てたのだろうか。この「岩波関係者」がどんなに非常識な人間だとしてもそんなことをするはずはないだろうし、電話を受けた相手も知らされた情報をそのまま信じ、これによって企画を立てる(被告側の準備書面を見ると、この記者は実際そのように動いたようである)ようなことはしないだろう。「岩波関係者」は『週刊新潮』編集部に佐藤優氏やインパクションの論文やその著者に対する関心なり知識なりを有している人物が存在することを承知していたからこそ、電話をかけたに違いないと思われる。それは『週刊新潮』編集部の同僚が、「毎日のようにやりとりしている」と証言するほどに佐藤氏と親しいらしい塩見記者以外には考えられない。

『週刊新潮』に電話がかかった日付も「11月」というだけで、明瞭でない。これらは文書作成上の基本に関することであり、正確に記すべきことのはずである。この問題が発生したそもそもの初めから、つまり裁判になる前から、被告側につきまとう「事実を隠そう」「曖昧にして逃げよう」という不正直な印象がここでも如実に感じられ、読んでいて大変歯がゆく、不快である。ここには個人のプライバシーに関係するものなどは何もなく、どれも事件を構成する純然たる要件の問題なのだから、被告側は正直であるべきだ。

被告側の「取材の経緯について」によると、「岩波関係者」から電話で話を聞いた『週刊新潮』の記者は、11月22日(木)にこの内容を『週刊新潮』の記事にする企画を会社に提出し、翌23日の会議で、特集記事の一本として取材を行なうことが決まったとのことである。上述したように電話がかかってきた日付が明らかにされていないので、情報を得てから22日に企画を提出するまでの間に、どのくらいの日数があったのか、その間、幾らかでも関係者への取材を行なったのかどうかも分からないが、この書面全体の様子から推察すると、電話を受けてから企画提出までの間は非常に短く、その間『週刊新潮』は特に何もしていないようである。企画の取材が決まった23日以降に、取材担当の荻原信也記者があわただしく取材活動に勤しんだようである。そして25日に記事掲載が最終的に決定されている。

「午後1時からの全体会議で、上記取材に基づく内容が、ワイド特集記事の1本として掲載の方向性で取材を進めることが確認された。」

この25日までに荻原記者が取材しているのは、24日(土)に直接面談して話を聞いた「岩波関係者」と佐藤優氏の二人だけである。確かに、金さんには「取材のお願い」というメールを送っており、また岩波書店「学術編集部」の馬場公彦氏にも取材依頼の電話をかけたとのことだが、そのどちらとも連絡はとれていない。岩波書店の「組合関係者」や世界編集長の岡本氏や総務部などへの取材がなされるのは、25日の記事掲載決定後のことである。すると、「上記取材に基づく内容が……」における「上記取材」とは、「岩波関係者」と佐藤優氏という、この二人への取材のことであり、記事内容の方向性はこれによって決定されたということになる。これらの事実を見ると、自分への『週刊新潮』からの取材依頼のメール内容を分析して、これは「単にアリバイ的に「取材のお願い」を送ったに過ぎないことを示している。」(原告準備書面(3))とする金さんの見解は正しいように思われる。金さんはまた、

「佐貫によれば、塩見は、私が本件記事の虚偽の記述に対して、ブログを開設して反論を行ったことを理由として、私のことを「異常」な人間であり、相手にする必要はない、などと言っているとのことです。しかも、その見解を『週刊新潮』編集部としても是認しているとのことです。一体、この塩見をはじめとした『週刊新潮』編集部というものは、どれほど破廉恥なのでしょうか。杜撰極まりない取材による虚偽の記事で、私の名誉を大きく傷つけておき、それに微力ながらも抵抗しようという行為を「異常」などと嘲笑しているのです。」(金光翔陳述書)

と述べている。『週刊新潮』によると、自分たちに記事を書かれた側はそれがどんな内容のものであれ黙って受け入れないといけない。反論したり抵抗するものは「異常者」なのだそうである。実際、この発言に顕われている『週刊新潮』という雑誌は、普通の常識ももたなければ、善悪に関する倫理観も一般とは遠くかけ離れた、いわば暴力を旨とする「ならず者」のごとき心性や信条をもった集団ではないかと疑いたくなる。

『週刊新潮』はもともとそういう週刊誌なのだと思えば、そのように考えることもできなくはない。しかしそれで済ますことができないのは、「岩波関係者」の行動・言動である。

「岩波関係者」が『週刊新潮』編輯部にどこから電話をかけたのかということも気になる。自宅、会社、あるいはそのいずれでもない第三の場所。どうも私は会社からかけたのではないかという気がするのだが、どうだろうか。というのも、反人権雑誌、スキャンダル雑誌として名高い『週刊新潮』に、岩波書店の社員が、たとえその人物がどんな性格、どんな考え方の持ち主であるにせよ、自分の意志で「岩波関係者」と名乗って他の社員の個人情報を流すというようなことはさすがにしえないのではないかと思うからだ。24日に『週刊新潮』がこの「岩波関係者」から取材できたという内容は以下のようなものである。

①原告が、入社した際には通名であったが、いつの間にか本名の「金光翔」を名乗るようになっていたこと、②原告は、(略)他の部員の些細な発言を取り上げて、「差別だ!」と大袈裟に批判したことがあったこと、③原告が、編集会議で、佐藤優氏の文章を掲載することに激しく反対し、「佐藤は○○主義者」とレッテルを貼った上で、「反総連の記事はけしからん!」「何故、佐藤を連載に使うのか!」などと言って編集長が一度決めた方針にまで激しく抗議をしていたこと、④岡本厚編集長も原告を持て余し、会社もそのような状況を把握して、平成19年に校正部に異動になったこと、

上記の発言内容は、どれをとっても、これが事実であるか、歪曲や虚偽であるかを判断する以前の問題として、「岩波関係者」が、個人の判断で他雑誌に話せる性質の情報であるとは私にはどうしても思えない。特に、④の「岡本厚編集長も原告を持て余し、会社もそのような状況を把握して、平成19年に校正部に異動になったこと」という人事に関する情報は、一つ間違えれば社内外に大波紋を惹起しかねない内容である。この発言主が誰の目にも岩波書店の社員であることはミエミエであると考えれば、解せないのは岩波書店上層部の反応である。社員が『週刊新潮』に対しこれほど踏み込んだ内容の発言をしているというのに、この点に関する金光翔さんの問いに対する岩波書店の上層部の応答を見ると、役員の誰一人としてこれにまともな関心や注意を払おうとしていない。心配もしなければ苦にもしていないように見えるのだが、これは不思議なことである。そして、この「岩波関係者」の発言が『週刊新潮』に載ったことの責任をも金さんに負わせようとしている。「首都圏労働組合特設ブログ」の「岩波書店による私への「厳重注意」について① 」には、

「会社によれば、『週刊新潮』の記事によって生じた会社への不利益も、私が論文を発表したことに責任があるとのことである」

と書かれている。また、

「社員が社員を外で公然と批判するのは会社が困るということです」

という金さんの論文に対する編集部長の発言も掲載されている。けれども、この「岩波関係者」が『週刊新潮』で行なっていることは、「社員が社員を外で公然と批判」どころか、「社員が社員を他雑誌で大々的に誹謗・中傷」、その上、人事情報の漏洩さえ疑われるのだが、岩波書店上層部の言動にはそういうことに注意を払う気配が露ほどもないように感じられる。これはなんともおかしなことである。
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2010.05.30 Sun l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
1959年(昭和34年)8月10日、松川事件に対し最高裁は「仙台差戻し」の判決を出した。事件発生からちょうどまる10年を経てのときであった。この2年後、1961年8月8日に仙台高等裁判所で被告人全員はようやくにして無罪判決を得ることになるが、この判決に対して検察は上告したので、被告たちが完全に無罪放免となったのは、1963年の9月12日の第二次最高裁判決によってであった。この裁判をふくめて松川事件は計5回もの長い裁判を闘わざるをえなかったことになるが、このうち裁判の流れの転回点となったという意味で最も重大だったのは何といっても1959年の第一次最高裁大法廷における「仙台差戻し判決」ではなかったかと思われる。

この判決における多数派の意見は、検察官によって隠匿されていた「諏訪メモ」(列車転覆のための国鉄労組と東芝労組の共同謀議に出席していたと認定され、死刑判決をうけた佐藤一被告が、実は謀議と同時刻に開かれていた東芝松川工場の労使交渉の場にいて発言をしていた。そのことが記されている会社側出席者の諏訪氏のメモ)の出現を重く見て、列車転覆のための謀議およびその実行行為に関する事実認定に重大な疑惑があるとして差戻しを主張するものであったが、判決終了後、少数意見、特に田中耕太郎最高裁長官の意見があちこちで議論の的となった。田中裁判官の反対意見は、差戻しに票を入れた多数意見者をつよく攻撃するものだったのだ。田中長官の意見は、

「 多数意見は、法技術にとらわれ、事案の全貌と真相を見失っている。しかもその法技術自体が、証拠の評価と刑訴411条の適用において重大なる過誤を犯している。従って私として到底承服することができない。」

という文言から始まり、事案の「全貌と真相」とは「雲の下」に深く隠されている。多数意見者が見ているものは、事案全体から見れば巨大な山脈の雲表に現れた嶺にすぎない。それらを連絡する他の部分は雲下に隠されているのだから、単なる嶺である「諏訪メモ」の出現など問題視する必要はないのだという。また、田中氏は、多数意見は「木を見て森を見」ていないとの非難もしている。そして、もし多数意見者が、被告たちをこの犯罪の実行者でないと考えているのなら、原判決を破棄して、無罪の判決をくだすべきであり、「差し戻し」などという中立を装った中途半端な判定をくだすのは誤りだと攻撃している。

この極端な少数意見に対して、当然さまざまな反論がなされているが、そのなかから、今日は広津和郎に加え、小説家の大岡昇平、歴史家の石母田正の文章を抜粋して掲載する。これらの文章を読むと、田中長官たち五人の少数意見がどのような性質のものであるかが明瞭に分かると思う。まず広津和郎の「少数意見について」だが、これは、「証言としての文学」(學藝書林1968年。初出は1964年)からの抜粋である。大岡昇平の「田中長官を弾劾する」は、「週刊新潮」に載ったもの。この頃、この週刊誌は現在と違ってまともな記事も掲載していたようである。大岡昇平は、「事件」という推理小説(裁判小説?)を書いている(松坂慶子主演のテレビドラマにもなっている)が、大野正男氏との対談「フィクションとしての裁判」によると、この作品を書くことになるそもそもの契機は、実は広津和郎の松川裁判批判に刺戟や影響を受けたことが大きかったのだという。また1955年(昭和30年)には、松川事件についてすでに下記の文章を書いていた。

「 一昨年(注:昭和28年)の秋、アメリカへ発った時、僕の関心の残っていたのは、松川事件だった。高橋被告の身体障害について、一般に公表されたところによって、前判決(注:一審判決)が支持されないのは決定的に見えた。裁判官がどこまで折れるかが問題だと思えた。
 しかしニューヨークで日本の新聞を読み、(二審)判決に殆んど変更なく、さらに或るジャーナリストが裁判所の決定に従うべきだと主張しているのを見て、大袈裟にいえば、僕は祖国のことに興味を失った。それからヨーロッパへ渡って、便宜のないままに、以来八カ月、内地の新聞社誌は全く読まなかった。
 帰って広津さんが依然として、判決文を検討し続けているのを知ったのは、意外でもあり、うれしかった。」(「風報」昭和30年5月号)

石母田正の文章には、田中耕太郎長官の特異な個性がよくとらえられ表現されているように思う。事件からもう10年が経過し、今後新しい証拠が見つかる可能性も期待できないのだから、下級審に余計な負担をかけることになる裁判はもう止めたほうがいい、などと露骨に述べていることには、死刑判決を受けている何人もの被告人がいることを思い合わせて慄然とするが、最高裁長官に就任したとき(管理人注:この就任は吉田茂首相の推薦によるものではないかと田中長官自身が述べている。)、号外がでたとはこれも驚きである。松川裁判の無罪判決は被告たち自身にとってのみならず、後々のためにも本当によかったと思う。これがもし有罪のまま決着したとしたら、一体どうなっていただろう。ただ、その後日本の裁判はこれを糧とすることができたのだろうか。当面はあるいは司法への松川無罪判決の影響はあったのかも知れないとは思うが、現在は誰も田中長官のような本心を口にしないだけで、当時よりさらにひどい状態になっているのではないかという不安がある。
  
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 少数意見について 広津和郎

 田中長官の「雲の下」とは何であろう。雲表に出ていないものを、何によって知ることができるのであろう。田中長官は「もしその隠れた部分を証拠によって推認することができるならば、<謀議>の存在を肯定できるのである」というからには、雲の下を推認できる証拠を、見つけているのであろう。――そう思って長官の文章を読んで行くと、次ぎの一節にぶつかった。

 かりに二個の連絡謀議が否定された場合に、国鉄側と東芝側との連絡の事実は、当然否定されなければならないか。ところが原判決の挙示する各証拠申連絡の事実を肯定するに足るものが実に多数存在する。これらは被告人赤間の供述(101山本調書)中の阿部、本田の各発言と赤間自身の供述、赤間の供述(102唐松調書)、浜崎の供述(105唐松調書)、大内の供述(107唐松調書、1011笛吹調書)中の杉浦の発言と菊地の供述(1018辻調書)中の太田の発言である。

「雲の下」はこれらの被告らの自白調書によって推認できるというわけである。
 ここで思い出すのは、田中長官をはじめ少数意見に名をつらねている最高裁裁判官たちは、前から「自白尊重」の裁判官であったということである。この少数意見の裁判官たちは、松川裁判の前に、練馬事件に対して、われわれを驚かしたような判例を出している。
 それは被告人の自白は共同被告人に対して、被害者をふくむ証人の証言と同じく、裁判官の自由心証にまかせて差支えない、すなわち証拠として差支えない、というのである。
 そしてその事件では一人の捜査段階の自白によって、数人を罪にしてしまったのである。
 私はこの判例が出た時には戦慄した。これは例の松川の場合に検察官の取った「分離証人」などという面倒な手段を取る必要はなく、被告の自白調書は、そのまま共同被告の証拠として差支えない、というわけであるからである。
 松川裁判の大法廷判決で少数意見にまわった裁判官たちが、この練馬事件では多数意見となって右の判例を出したのであるが、それに対しては当時としての少数意見の烈しい反対があった。その少数意見の一人であった真野毅裁判官がその反対意見の筆を執ったと聞いているが、それは、被告の自白調書が共同被告に対して証拠となったら、共同被告は防禦のしょうがないではないか、これは人権上から見て法の著しい後退である、という意味のものであった。
 実際その通りで、これは他人の自白で人を罪にしても差支えないということを端的に認めた判例なのであるから、こんな法解釈が通用したら、国民は安心して生きてはいられない。おまけにこの裁判官たちは、意思の合致は互に名を知らない人間同士の間にも認め得るから、それを共謀共同正犯と見て差支えないという見解を持っているのであるから、誰かわれわれの知らない人間が、われわれと一緒に何かをやったと自白すれば、それによってわれわれはその人間と共謀共同正犯とされ、その知らない人間の自白によって、逮捕され、その知らない人間の自白が証拠となってわれわれが罪にされても仕方がないということになるわけである。こんな不合理なことはあるまい。現に松川の場合でも、佐藤一は赤間を知らないし、会ったこともない。又高橋晴雄も赤間とは会ったことがない。それだのに赤間自白に佐藤一や高橋晴雄の名が出るので、赤間自白を佐藤一や高橋の証拠としてもさしつかえない、というわけである。実際第一審、第二審では、そういう解釈によって、佐藤一も高橋も死刑だの無期だのの判決を受けて来たのである。その不合理が松川裁判批判を惹き起したのであるが、練馬事件の判例は、真向からその不合理を是認しているのである。
 この練馬事件の判例が出た時には、雑誌『世界』がそれについての座談会を開いた。法律家諸氏にまじって私も出席したが、その席上で当時最高検の検事であった某氏が、「こういう判例が出ると、裁判官が余程しっかりしていないと、被告に取っては危険ですな」
 と呟いたものであった。検察官でさえその判例に驚いたのである。
 この練馬事件の判例を出した裁判官たちが、松川の場合の最高裁大法廷の少数意見の裁判官たちだったのである。田中氏もその仲間なのである。
 昔は自白が証拠の王とされていたが、それが如何に危険であるかが反省され、今日は自白を証拠とすることを禁ずるのが世界的通念となって来た。それだからわが国の憲法も、「何人も、自己に不利益な唯二の証拠が本人の自白でぁる場合には、有罪にされ、又は刑罰を科せられない」と規定している。ところが自白者本人を有罪にすることはできなくても、その自白で共同被告を有罪にすることはできるという解釈が、一部の法律実務家の間には流通し始めた。共同被告にとっては、他人の自白で罪にされてもいいということになるのであるから、こんな恐るべき解釈はない。併しこういう解釈の最も端的な現われがつまり練馬事件の最高裁の判例なのであり、そしてその判例を出した裁判官たちが、松川裁判では多数意見に反対し、少数意見となって、相変らずあくまで自白が証拠になると主張しているのである。この人達は「他人の自白を証拠の王」にしようとしているのである。
 それであるから田中長官が「雲の下」を推認できると称する証拠類が、みな捜査段階の他人の自白詞書であったからといって、別に意外と思うには当らない。
 しかし自白者自身のことは暫く措き、自白者の自白詞書の中に、発言者として名を出されている本田や阿部や杉浦が、その調書の中にあるような発言をしたということが、そのまま証拠とされていいものかどうか。
 この本田や阿部や杉浦は、みな自白者らの自白の中に名を出されて逮捕された人たちであるが、この人達が捜査段階で具体的容疑事項を調べられずに、自白者らの自白によって起訴されて法廷に立ったことは、前に度々述べたことであるから、読者は記憶されていることと思う。捜査段階で具体的に容疑事項を調べられないこの人たちの、他人の捜査段階の自白調書の中にある発言が、反対尋問も経ずに、この人たちの発言としてそのまま証拠とされていいものか。それを証拠として「雲の下」が推認されていいものか。無論そんな不合理が許されてなるものではない。(略)


 田中長官を弾劾する 大岡昇平 (『週刊新潮』昭和34年8月24日号)

 筆者は文章を綴るに足る教育を受け、幸いそれを公表する機会を持つ一国民にすぎない。松川裁判の成行きに興味を持っていたが、これを政治的裁判と呼び、大衆行動によって、裁判の結果を左右出来ると信じ、或いはそのように信じるふりをする指導者に反感を持っていた。
 広津和郎氏の著作の愛読者であったが、松川大行進は最も愚かしき行動と憂慮していた。
 従って今度の仙台高裁差戻しの判決について「人民の勝利」の如き感想を洩らすのはもってのほかと考えている。
 裁判は「雑音」にわずらわされることがなく、公正に行われたと信じている。しかし新聞紙に発表された田中最高裁長官の反対意見要旨を読むに到って、著しく不満を抱くに到った。その理由を列挙する。

  怖るべき少数意見

 少数意見は多数決主義の合議体にあって、廃棄された意見であるが、最高裁の判決文に記載されるのは、判決の性質をよりよく示すためと了解している。
 最高裁の判決は、いわゆる判例として、こん後の裁判を拘束するから、多数意見たる判決と共に、少数意見も載せて、その判決の性質を知らしめ、後日の参考に供するためと了解している。
 それはまた、十年毎にわれわれに与えられる、最高裁の判事の罷免を投票する機会、つまり国民審査に当って、裁判官の資格の適否を判断する資料として、表示されるものと了解している。無論多数意見を批判するのは自由である。しかし批判は審議の対象となった事案に限るのを適当とし、多数意見を書いた裁判官について、批判を行うは逸脱であると考える。周知のように多数意見は事実誤認の疑いありとして、高裁に差戻している。この判決に反対する田中長官の少数意見に言う。
「かりにいわゆる『諏訪メモ』により、佐藤のアリバイが立証されても、事件全体には影響がない。佐藤は実行行為に参加しているから、責任を免れないのである。上告人側はかような点をクローズ・アップして力説し、多数意見者にこの点が事件全体に決定的な意義をもつかのような錯覚をおこさせるのに成功した」
 これは驚くべき暴言である。反対意見の誤りを指摘することは自由であるが、何を根拠に、多数意見者が上告人の力説によって「錯覚」に陥ったと、推理するのであるか。
 裁判官も人間であるから、判断を誤ることは、あると考えるぺきである。しかし錯覚は判断以前の感覚的錯誤であり、判断力の全面的喪失を意味する。最高裁判所判事に、かかる侮辱を加えることが、田中裁判官がその長であるゆえに、許されるのであるか。
 最高裁は内閣が任命し、われわれ国民もそれに同意した、判事をもって構成されていると了解している。その信頼すべき判事について、上告人が「クローズ・アップ」によって「錯覚」をおこさせるのに「成功した」というごとき推測を物語ることは法廷を侮辱するものではないかと考える。われわれ国民を侮辱するものではないかと考える。
 田中長官は職制において、最高裁の長であるが、討議においては、議長として長であるにすぎないと了解する。そして彼自身も判事の一人として評決に参加し、その結果少数意見を書いているのであって、「雑音にまどわされるな」の如き無用の訓示を垂れている時とは、別の人格として、行動しているものと了解する。
 その信頼すべき少数意見に、かかる暴言をまじえること、これが、筆者の不満の第一である。

  たとえ語は伝染する

 第二の不満は、要旨末尾にある。
「法技術の末に拘泥して大局的総合的判断を誤ることのないこと、つまり木を見て森を見失わないこと、これ裁判所法が最高裁判所裁判官に法律の素養とともに高い識見を要求しているゆえんである。われわれとして最高裁判所の在り方について深く思いをいたさざるを得ないのである」
 われわれの語法によれば、ここには多数意見者について、「いや味」と「脅迫」の如きものが感じられるが、これは田中長官とわれわれとでは、用語も語法もちがうかもしれないから、深くは考えないことにする。
 ただたしかなのは「木を見て森を見失う」のような「たとえ話」を、裁判に持ち込むことの害である。
 多数意見者が大局的総合的判断を誤ったと判断したことは、その通り書いてあるのだから最早十分である。「木を見て森を見失う」の如き「たとえ話」で補強するのは無用である。「たとえ話」は俗耳に入り易いが、常に両刃の剣であると知るべきである。もし意地悪な論者がいて、森にばかり気を取られて、木を見ないでもよいのか。事件全体の輪郭を見惚れて、重大な細目を見逃してならぬと反論されたらどうするか。
 事実「松川裁判」は、「諏訪メモ」という「木」によって、今回差戻しの判決が出たのである。それが事件の全面から見て取るに足らぬと、事実に基いて論証するのは、裁判官として正しいやり方である。しかし「木を見て云々」の如き「ことわざ」を援用するのは有害無益である。
 このような「たとえ話」は田中長官と同調した高橋裁判官の少数意見にも伝染している。
「多数意見は、『シカを逐う者山を見ず』のたとえの如く、原裁決の判文の表面にとらわれて、その全趣旨を没却したものであって云々」
 かかる鼻歌の如き「たとえ」以て、同僚を嘲笑する風潮に自ら範を垂れたことについて、田中長官を弾劾する。
 少数意見は、敗者の意見であるから、もっと厳粛であるべきである。われわれがこれまでに見て来た、少数意見はみなそのようなものであった。
 昭和三十年の三鷹事件最高裁判決の少数意見の一は、竹内被告を過失致死罪の刑をもって処断すべしとしたものであり、二は二審が書面審理をもって、一審を破棄自判して、被告に不利な刑を課したことは違法としたものであり、三は被告人に防禦の機会を与えず死刑という極刑に処したことを違法としたものであった。
 そこにはなんの「たとえ話」もなく、淡々と意見が述べられているだけである。それは国民が国家権力によって生命を奪われるに当って、審議で慎重であること、法律自身もそのように整備されていることを、われわれに教えてくれたものである。
 田中長官や高橋裁判官の意見が通っていれば、松川被告中四人が生命を奪われているのである。少数意見は一見厳粛の外観を呈しているが、実は「木を見て云々」「シカを逐う者云々」の如き鼻歌を含んだ、驚くべき思い上がった少数意見なのである。
 筆者はこのような少数意見を書く裁判官に対し、不信の念を抱かざるを得ない。「本意見は多数意見に対する自己の見解を明らかにすることに限局した」と田中長官は書いているが、その言葉は守られていないのである。
 たしかなのは、多数意見が「二つの連絡謀議」に「事実誤認」の疑いがあるとしたことによって、被告の一部を死刑とすることを避けたことである。まるで多数意見のような威丈高の少数意見があり、少数意見のように低姿勢な多数意見があったのが、こんどの判決の特徴である。

  新しい証拠評価法則がなぜいけないか

 以上は田中長官の少数意見の、一般的局面についての不満である。直接「事案」の細目に関する点について、私見がないでもないが、それをここに書くのは差控える。筆者は裁判外の一国民にすぎず、有能なる専門家が五年の歳月を費して調査し、討議した結果達した結論を、その結論の表面に現われたところを以て論ずるのは誤りと考えるからである。
 ただ次のような一般的論拠については、私見を述べることは、許されるであろう。
「多数意見は供述中に矛盾、変化がある場合に反証のない限り、一応信憑性のないものと推定する、われわれとして到底採用できない全く耳新しい証拠評価法則を提唱しているのである。この論理を裏がえせば、供述が一貫していれば、一応信憑性があるものと認むぺきことになる」
 裏がえした論理とは、まったくの書生論理であって、われわれ国民の間にも、そんな議論は行われていない。まして事案に則すぺき裁判においては無用な議論である。
「われわれとして到底採用出来ない」とか「全く耳新しい」とか、またもや多数意見者を素人扱いにした言い分である。この種のいい分は、このほか数多く存在し、多数意見を反対するよりは、読む者に多数意見者に対する不信感を植えつけようとするかの如き印象を与えるのが、田中長官の少数意見の特徴であるが、その点は田中長官の趣味の問題として問わないとしても、「耳新しい」証拠評価法則を採用して悪い理由は、全くないと考える。
 多数意見が矛盾、変化のある供述が信頼出来ないとするのは、「太田自白はその内容を精査すれば」と判決理由書にある通り、現に問題の太田自白について言っているのである。そして同じように変化の多い大内自白が本裁判中に存在すること、それらすべてを含んだ事案の全体について、矛盾、変化のある供述は信憑性のないものと推定したと了解する。
 われわれは裁判とはそのようなものと考えている。新しい事件には「耳新しい」法則が提唱されても、少しも不思議はない。松川事件は審理に十年を要したという事実を取ってみても、日本裁判史上極めて稀な裁判である。珍しい事件に「耳新しい」法則が提唱され、それが判例となって、次の裁判を導いて行く。
 われわれは時代と共に裁判が変ることを期待し、新しい事態には新しい判決があるのを望んでいる。そのようなことの出来る機関として、最高裁判所を持っているのだと了解しているのである。
「もし多数意見者にして心証として犯罪事実を肯認しているとすれば、同条(刑訴四一一条)の裁量権の行使による破棄ははなはだしく不当である。またもし犯罪事実を架空なものと認めるならば、多数意見者は原判決を破棄し無罪の判決をなすぺきである」
 これもまた書生論理であるとまでは言わないが、われわれの間では、こういう言い方を「言いがかり」と呼んでいる。
 多数意見は疑わしいと一言っているだけである。

 裁判所の負担と人命とどっちが重いか 

「付言する。事件発生後ほとんど十年を経過した今日、本件を仙台高等裁判所に差戻しても、新たな証拠は到底期待できない。また証拠はすでに十分でその必要もない。かような措置はいたずらに下級審に負担をかけるだけで有害無益である。差戻し後は審理のためさらに数年を要するかもしれない。これでは裁判の威信は地を払ってしまう」
 これも暴言である。証拠はすでに十分でその必要はないとは、田中裁判官の意見にすぎない。証拠が十分でないと多数意見は判断したから「差戻し」の判決が決定したのである。
 判決の結果は、少数意見の直接関係するところではないはずである。ことが人命に関するものである以上、何年かかろうと、審議を尽すのが裁判ではないのか。
 十年たっているから新しい証拠はどうせ見つからないから、死刑を確定して、手数を省けというのは、国民を侮辱するものである。田中長官には人民の生命より、下級審の手間の方が大事なのか。
 少数意見は判決の性格を明らかにするために、特に表示しなければならないとしてあるものである。それは判決同様、下級裁判所の審理に影響すると考えるべきである。その重大な少数意見の中で、下級裁判所を意気阻喪せしめ(或いは勇気づけ)るごとき、軽率な言辞をさしはさむ最高裁判所長官は、その職務を心得ているのか。



 「廻り道」はおそれない 石母田正(『中央公論』1959年)

 外部的な兆候からみれば楽観してよい材料が多かったにかかわらず、さすがに判決の下る前日は心配で仕事が手につかなかった。判決の結果を放送できき、その夕方から日比谷の野外音楽堂でひらかれた大集会にでかけたが、戦後のこうした集会のなかでもっとも感動的な集まりの一つであったとおもう。七名の多数意見にたいして五名の少数意見が存在したことの重大な意味については、その席上でも強調されたが、そのなかに田中裁判長もふくまれていたことは、予想のとおりではあった。そのときは新聞に報道された田中意見の要点しかわからなかったので、その正文をぜひ読みたいと思った。私はこの田中耕太郎という人物と思想に特別の興味をもっている。戦後の日本の来るべき反動が、もう戦前の国家主義者のような泥くさい形であらわれてくることができないとすれば、田中耕太郎のような人物と思想が、これからの反動の典型としてあらわれてくるのではないかという予感が、彼の最高裁長官に就任したときからしていた。その就任にさいして、朝日新聞が当時としても異例な号外をわざわざ発行したことも、強く印象にのこっている。商法の専門家で、『世界法の理論』の著者で、カソリックとして、コスモポリティズムの思想の信奉者たるこの人物は、戦後の新しい日本の反動のチャンピオンの一人となるのにもっともふさわしい人物なのである。戦後の反動も全体としてみれば、戦前と同じような泥くさいものにみえるが、それを指導している核心的部分はもっとハイカラなものに変わっているとおもう。国民は田中耕太郎の著作集の全部を読むくらいに、この人物と思想について勉強する必要があるかもしれない。(略)
 今度の多数意見は、事件を第二審裁判所に差しもどすことによって、有罪か無罪かという問題については、いわば中立的で、「公正な」立場をとったといえる。田中意見がこの中立性を攻撃の主要な目標としていることは興味がある。田中意見によると、このような重大問題について、多数意見が何らかの心証をもたずに判決を下すことは理論的にも誤っている。多数意見者が心証として犯罪事実を「肯認」しているとすれば、今度の判決は不当であるし、反対に被告による犯罪事実を架空のものと認めているなら、元判決を破棄して、無罪の判決を下すべきだというのである。田中裁判官自身の「心証」はどうかといえば、その「大局的、全体的判断」からみても、また裁判「記録」からだけでも、列車転覆の陰謀はこの被告たちの所業に相異ないという。第二審に差しもどすというような多数意見の中立的な立場、田中裁判官の言葉をかりれば、「一見理論的、良心的かのように思われる」立場は、この判決では許しがたいとして、二者択一をせまっている。われわれも被告の人たちと同じように多数意見が無罪の判決を下さなかったことを残念に思っているが、それとはまったく反対の立場から、多数意見の中立的で、「良心的に思われる」立場を攻撃している裁判長以下五名の少数意見が存在していること、裁判官あるいは官僚層の内部において、「一見理論的、良心的のように思われる」立場を維持することが、この攻撃のために、ますます困難になるかもしれないということをかんがえると、私は第一審以来この裁判の性質を階級的、政治的裁判だと信じているにかかわらず、今後も公正な、政治から独立した裁判をますます要求してゆかねばならないとおもっている。
 田中意見はこうものべている。「多数意見者は、事件発生以来十年を経過しようとしている今日でも、本件を第二審裁判所に差し戻すことによって、なんらかの新しい証拠資料が見出され、真実の発見に資するものと思って差し戻したものであろうか」。検察当局が十年にもわたって諏訪メモを裁判と国民の眼からかくしてきた事実、そのようなことは権力をにぎっているものにはきわめて容易である事実には、まったく目もくれないで、被告たちを獄舎につないだこの十年の経過というものを自己弁護につかっている。自然にこの「十年」が過ぎ去ったのではない。一体だれが「十年」を経過させたのか。「新たな証拠は期待できず、またその必要もない」とものべている。どのような根拠にもとづいて、新しい証拠は期待できないというのか。「その必要もない」というのは何故か。多数意見は、判決文に示されているような十分の根拠があったから、差しもどしを命じた。その結果、田中意見がのべているように、「数年という年月」を要することになりそうであっても、それは人間の生命にかえることはできないからそうしたのである。しかし、田中意見によれば、それは「廻り道」であり、「いたずらに下級審に負担を課するだけ」である。「これでは裁判の威信は地を払ってしまう」。「裁判の威信」が地におちても、無実の人間の生命の一つもうばわれてはならないという国民の立場からすれば、裁判所が新しい証拠を探し出すために全力をあげ、裁判記録を徹底的に検証することを要求する権利がある。被告の人たちには大変なことだが、国民は今度の「廻り道」を少しもおそれてはいない。おそれているものはほかにいるのではないか。
2010.05.27 Thu l 裁判 l コメント (2) トラックバック (0) l top
文集「真実は壁を透して」は、1951年12月、松川事件の被告人20名が福島地方裁判所により5名の死刑(杉浦三郎・佐藤一(以上、東芝労組)、鈴木信・本田昇・阿部市次(以上、国鉄労組)、5名の無期刑を含む全員有罪判決を受けた後、月曜書房という出版社から刊行されたという。詩や手記や自分たちの無実を訴え救援を呼びかける文など形式はさまざまだが、20名全員の寄稿文によって構成されている。そのなかから今日は4つの文章を掲載する。筆者は二階堂武夫(事件当時24歳)、赤間勝美(同19歳)、菊地武(同18歳)、杉浦三郎(同47歳)という人たちで、赤間被告は国鉄労組側の人、残り3名は東芝労組側の人である。杉浦氏は全被告のなかで最年長、長い裁判を通して終始一貫、被告団長を務められた。赤間被告の場合は、「赤間自白なくして松川事件なし」とまで言われたほど、警察・検察から膨大な分量の自白調書をとられている(死刑を宣告された人たちは全員取調べ段階から一貫して犯行を否認しているので、彼らが言い渡された死刑判決の根拠はほぼすべて矛盾に満ちた赤間被告の調書のみに拠っている。取調べの捜査陣も若い人のほうが与しやすしと見て赤間被告らに徹底攻撃をかけたのは間違いなかったようである)。杉浦被告の文章は面会に訪れた支援者に宛てた手紙の写しだが、二階堂、赤間、菊地被告ら3人の文章は「被告人控訴趣意書」の写しである。

自宅に送られてきたこの文集を偶然読んだ広津和郎が「嘘では書けない文章だと感じた。特に赤間君の文章に対してそう感じた。」と述べたのは有名だが、実は小説家の武田泰淳もこの文集の感想として「被告たちは本当のことを言っていると思う。」(「真実は壁を透して」改訂版) と述べている。特に、二階堂被告の「ビラ書きの夜」のリアリティについて、「もしこれが創作、作り話だとしたら、二階堂被告は異常な才能をもつ小説家ということになる」というおもしろい読後感を寄せている。経験をありのままに平静に正確に叙述した文章の説得力にまさるものはないということなのだろう。

事件の起訴事実だが、「器具窃取罪」が若い被告3名(東芝側の小林・菊地・大内の3被告が線路破壊に使用されたスパナとバールを松川駅倉庫から盗み出したというもの。事件発生の同時刻における自分たちの行動を綴った「ビラ書きの夜」という二階堂被告の手記にこの件が出ている。)に認定されている他、すべての被告に対して付きつけられたのが「共同謀議」、あるいは「共同謀議実行」という罪名であった。

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 ビラ書きの夜  二階堂武夫

 事件のおきる前の晩、八月十六日、私と二階堂ソノさん、小林、大内、浜崎、菊地の六名は宣伝ビラ作製のため、組合事務所(東芝松川)において深夜までの仕事を続け、そしてその夜は事務所に泊ったのであるが、このことが本件と結びつけられ、今日のごとく極刑をうける対象となっている。判決文によれば、この夜十時半頃、小林、大内、菊地の三君が、松川駅線路班よりバールとスパナを盗み出し、この盗み出し成功を祝して六名で労働歌を合唱し、志気を鼓舞し、その後(十七日)午前零時半頃、組合事務所に佐藤一氏が単身やってきて我々と雑談をなし、一時半頃浜崎君をともなってバールとスパナで脱線作業に向かった。その時残余の五名は「しっかりやってこい」「見つからぬようにやってこい」と声援を発して送り出したとされており、私とソノさんは、この人達が当夜どこにも出なかったという擬装アリバイを作るために泊ったとされているのである。
 だが真実はどうか。

 十六日夜八時半頃組合大会が終って、組合事務所にのこっていたのは、私と二階堂ソノ、小林源三郎の三人だった。
 事務所内は静かで、電燈を真上にしながら、机にかぶさるようにして、ソノさんは事務をとっており、紙上を走るペンの音と、振子時計の音が入りまじってきこえる。小林君はよほど疲れたらしく、会議用の長椅子に体を投げ出して長くのびている。
 そこへ、外の方で人の話し声がし、足音と共に近くなり、プラカードの打ちつけてある入口の戸をガタガタさせてあけ、浜崎、大内、菊地の三君が入って来た。「なんだコサビシ(小林君のこの名を拝名するに及んだのは、いつだったか組合事務所に来た大内君が、小林君にこれを渡してくれと手紙をおいて行ったが、その表面に小淋原三郎と書いてあった。源の三ズイが一段上に籍をうつし、コサビシ・ハラサブロウなる奇怪な名が現出して、通用されるに至ったのである)、まだ居たのか。こんなところにのびてやがる」「イスをもちあげて落してしまえ」と、大内、菊地の両君がふざけはじめた。
「しでー奴らだ、おめいらは、やめろよ」と兄さん株の浜崎君がとめる。もちろん、二人は本気でないが、小林君の腹を小づいて起してしまう。「チェッ、うるせいな。俺は頭が痛いんだぞ、馬鹿野郎」と小林君は少しきげんがわるいが、二人はさんざんふざけて仲なおりをしてしまう。「懇談会終ったの?」と私がきくと、浜崎君が「うん終ったよ。外部の人が帰ったので止めたんだ。」「そうか。ところで大内君、君の宿泊の件は、木村のバアさん(八坂寮の管理人)にたのんでおいたから、菊地君の部屋にでも泊れや」と話すと、大内君は「んじゃ武夫さん、どうするんだい。汽車行っちまったぞ、泊るとこあんのかい」ときく。「いやない、それで今考えていたんだ。明日の宣伝用のビラが足りないんでね、今晩ここに泊って、仕事をしようかとも考えてるんだ」「そうか、こまったなや」「なんで寮に泊めねんだっぺ」「馘首者の入門拒否というわけだろうよ」「おもしゃくねえな、畜生ヤロ」
 私が泊れぬということに皆不満の様子でどの顔も渋い顔だ。そのうちソノさんが、「事務所に泊まるのはいいけど、武夫さん、体は大丈夫なのですか。又無理をして、この前のようなことがあると困りますからね」と心配気に話しかける。
 私は夏になると極端に体力が落ち、衰弱するのであり、その上半月ほど前、過労のため組合運動中倒れ、二、三日注射を打ちながら床についたこともある。
 みんなは、がやがやと言いはじめたが、けっきょく、
「んじゃ、ビラ書き、俺たちにやらせてくれ、いいべ。あんた一人にやらせることも出来ね」
「みんながやるなら、私も手伝いますよ」とソノさんまでが言う。
 こうなれば、とめてもきかぬ人たちなので、感謝してやってもらうことにする。
 早速道具が持ち出され、古新聞紙を出して半分に切り、ポスターカラーを皿の上にしぼり出し思い思いに筆をとった。
「なんて書くんだ」「まず首切反対だべ」「吉田内閣打倒もいるな」「もっとあるぞ」「なんだ」「んだな。不当馘首反対だ」「なんだ首切反対と同じだべ」「ちがうべ」「おんなじだ」「ちがう」「おんなじだでば」「チェッ、又はじめやがった、すぐこれだからな。黙って書け」「アハハハ」とにかく、ゆかいな連中なのだ。
 疲れをなおすには、元気で冗談を言い合うにかぎる。そのうち空腹をうったえてきた。夕食を食べてないのだ。
「腹へったな」「んだ、おれもへった」「なにかねいか」「なんにもねえな」「トミニかカンパ芋ねえかな」(トミニとはトウモロコシ、カンパ芋とはジャガイモのこと、組合隠語)「ねえな」「ああ、カンパ芋くいて」「ねえがな」「菊地、寮から持ってこ」「イヤだ」「このやろ、薄情だな、寮にいっぱいあっぺ。それ持ってこ」「ダメだ、ハアねてっぺ」「かまいねいがら、起して借りてこ」「いやだでば」「このやろ、おもしゃくねいやろうだ」
 組合にはなにもない。八坂寮に宿泊している菊地君を、さんざん責めている。実際のところ私も非常に空腹であった。何かないかと思ったが、何もない。
「ソノちゃん、組合にはないかな」「あるけど、カギがないからあかないわ」「ぶっこわせ」さっそく横ヤリが入る。「こわすわけにはゆきませんよ。しかられちゃう」「なおせばいいべ」「ダメよ」
「八坂寮から何か借りるか。ソノちゃん、わるいが借りてきてくれないかな」「ハイいいわ。行って来ます」と立上りかけたところを小林君が「ああ、俺、米もってんだっけ、これ食うべや」「どうしたんだ、その米は」「昨日ない、俺八坂寮に泊まったばい、寮のメシ食ったんで、その分返そうと思ってない、もってきたんだ」「そうかい、それ借りよう、どの位あるの」「あんまりねえな、四合か五合だべな」「一人一合ないわけだな」「ぜいたくゆわねで、がまんすっぺ」「それじゃあ、小林君に炊事の方はまかせるか」「ヨシ、やっぺ、ナベはどうすっぺな」「寮から借りてくんだな」
 小林君はナベを借りに出てゆき、やがてかえってくる。
「ナンダ、そのナベは、イカレテやがらあ」「しょうがあんめ、これしかねいってゆんだからな。これでもたけっぺ」「まかせるわ」
 借りてきたのはよいが、大分くたびれている品物である。原形をようやく保っているニュームの鍋であった。そのナベで米をとぎ、電気コンロにかけたが、今度は適当なフタがない。
「ええ、面倒くさいや、これにしちまえ」と小林君、事務所のバケツをスッポリかぶせてしまう「きたねえやつだ、めし食えねえや」「食えねえやつは食わねんだな、アハハハ」
 その間に我々はビラを書きつづけた、大分書けた。手は色で変色し、顔も各自数カ所のハン点がついている。筆を洗う洗面器の水は底が見えず、雑多な色でそまっている。丁度電気の下にあるので、小さな虫が数匹水面に浮んでいる。御飯の方もフタがフタなので、なかなか出来ぬらしく、つきそいの小林君がときおりバケツをとっては、中をのぞいている。
 そのうち御飯もできたので、食事をとおもったが副食がない。それでソノさんと菊地君に寮に行ってもらい、味噌、茶わん、皿、ハシ等を借りて、御飯を一人一杯ずつ盛り、カビの生えた味噌をなめながら食事をすませた。
 食事がすむと各自やはり疲れが出て、今までの張り合いもぬけた。
 そのうちに、各人が歌をうたいはじめた。「若者よ体を鍛えておけ」「黒きひとみいずこ」
「晴れた青空」「起て飢えたる者よ」
「畜生、じゃましやがる。一しょにうたえ」「ヘーイ、この若者よ」「うるせいったら」
「さあ、みんな前へ進め!」「この野郎、ぶんなぐっぞ」菊地君のいたずらはますますつのり、相手の歌を妨害しようとして、いろいろな歌がとび出してくる。歌合戦だ。
 疲れた小林君がまずビラ書きをやめ、会議室のコの字形の机の上にねてしまう。」「俺もねっぺ」と浜崎君が小林君とは反対の机の上に、新聞紙を敷いて横になり、福島県下最大の東芝連合会マーク入りの組合旗をかぶり横になる。「畜生、蚊がいんな」「よし俺が蚊いぶしをしてやる。葉っぱ取ってくんかな」と言って菊地君が出てゆく。菊の葉をとってきた。ヨモギの葉とまちがえたらしい。
 アレスター(避雷器)のフタの中に使い古しの原紙と新聞を入れ、その上に菊の葉をのせて、電熱器から火をつけてあおぐ。煙がでて、室内に充満する。茶目気の多い菊地君なので、これが又おもしろいらしく、むやみにあおり立てるので、我々はむせかえるようになる。
「おい、いいかげんにしてくれよ」「もうたくさんだ、蚊はいねえよ」
 やがて大内君は浜崎君のとなりに、菊地君は小林君のとなりに横になる。
 しばらくして私は、物置の中から幻燈用の幕を取り、小林・菊地君の上にかけてやった。すでにかるい寝息がもれている。
 ソノさんも、机に両手をあげ、手を重ね、その上に頭をのせてねむりについた。
 時間は二時を過ぎている。私はまだ起きたまま、連合会の指令・通報・速報・経過報告などのプリントに目を通す。
 そのうち、遠く松川町の方向で、半鐘の音が夜の静けさをやぶってきこえて来た。瞬間自分の耳をうたがったが、やがてハッキリしてきた。火事だなと思って、うしろで寝ている二人をよび起した。
「おい小林君、菊地君、起きろ、火事だぞ」
 二人は目をこすりながら、
「本当かい何も聞えねや、うそだっぺ」「うそじゃない、よく聞いてみな」「なるほどきこえる。町のカネだな。どこもえてんだべな、コサビシの家でねえか」「冗談いうな」
 それからみんな起して、浜崎君と大内君が外へ見に行った。五分ほどで帰ってきた
「どこだかわかんね」「どこも明るくなってねえから、火事でねえんでねえかな」「それ見ろ何でもねえべ、すぐさわぐんだから困ったもんだ」「何言ってんだ。馬鹿野郎」「こいつすぐ人を馬鹿ていう、馬鹿々々ていうな、馬鹿」「ねっぺ、ねっぺ」「んだ、んだ、又ねっぺ」みんなふたたび眠りについた。
 しかし、もう朝だ。六時にはみんな起きた。
「ねだ、ねだ、体がいでえな」「わいの顔黒いぞ」「わがの顔も黒いべ」「きたねえ顔だ」「もどもどだべ」「このヤロウ!」
 汗ばんだ顔にほこりがついてたのだろう、どの顔も黒くよごれている。
 寝場所を片づけて掃除をはじめる。
「ソノちゃんはよくねたな。半鐘鳴ったの、わかんねべ」「なに半鐘て?」「やっぱりわかん
ね。今朝半鐘なったんだ」「何時頃」「五時頃」「何の半鐘なの、火事?」「それがわかんねん
だ」「変ね」「何かあったんだと思うね。その内にわかるだろう」
 八時からビラ貼りに出ることになっているので、ノリにするうどん粉を買いに大内君が出て行った。
 各班別にビラをそろえて分けたのち、どうも外の様子が少し変なので、私はソノさんを残して組合事務所を出て、会社の警備所の前まで来ると前方からウドン粉をもった大内君と逢った。
「武夫さん、汽車が脱線してない、人が死んだというぞ」「どこで!」「よくわかんねが、すぐそこだというよ」「何人位死んだの」「三百人位と聞いたな」「そいつはしでえな」「俺見てくるわ」と大内君は又出かけて行った。
 私は八坂寮の二階にいる佐藤一さんの部屋にとんで行った。ちょうど彼は起きたところらしく廊下に出ていた。
「一さん、汽車の脱線で三百人死んだというよ」「三百人?」彼も私の話におどろきの目を向けた。「君はどこに居たんだ」「ぼくですか、夕べはビラが足りないんで、組合事務所で小林君らと徹夜で書きましたよ」「そうか、そんなら俺に知らせてくれればよかったのにな、手伝うんだった」「いやあ、あんたも疲れていると思いましてね、我々でやりました」「御苦労様だったね」「それにしても一さん、これは何かあるぞ、三鷹の例もありますからね」「うんそうだね、気をつけなければなるまい」
 そのまま、私は二階から下り、ビラ貼りの準備のため組合事務所に向った。
 以上が問題の十六日夜から朝にかけての我々の行動であった。


 私の調書はどのようにして作られたか  赤間 勝美

 ――原判決で証拠にして居る赤間調書がどう云う取調べの中で出来たかは次の通りです。
 私は九月十日午前六時頃働いていた福島市太田町の村山パン屋から金間刑事に福島地区警察署に任意出頭と云うことで連れて行かれたのです。そしてその日の夜午後十一時頃まで調べられて暴力行為と云う逮捕状が出されました。
 しかしその日から私の調べられたことは暴力行為と云う去年の「ケンカ」のことでなく身におぼえもない列車転覆のことでした。そして一日毎にその取調べは「ヒドク」なって行きました。そして暴力行為が釈放になる九月二十一日の夜まで脅迫と誘導と拷問で身におぼえのない列車転覆という恐ろしいことを無理々々に押しつけられて行く毎日だったのです
 私は九月十日任意出頭で福島地区署に連れて行かれて最初の取調べは金間刑事に伊達駅事件で保釈になった以後の行動や退職金を貰ってどうしたかという事を調べられました。そしてその調べは直ぐ終ったので看守巡査の休んで居る室で休ませられ、休んでいるうち今度は武田部長に呼び出されました。最初は退職金の事や自分の財産の事を調べられたのです。そしてその調べが終ると今度は全然身に憶えのない八月十六日の晩安藤や飯島に今晩列車の転覆があると云ったろうと私に恐ろしい目をして云ってきたのです。私は全然云ったことはないので、有りませんと答えました。すると武田長は「なに云わない……嘘を云うな安藤や飯島がお前が今晩列車転覆があると云ったのを聞いているのだ」と声が大きくなって「誰にその話を聞いた」といじめられるので、私は誰にも聞かないし又その様な事は全く云った憶えがないので本当にその様な事は云いませんと云うと、武田部長は「お前が云わないと云うのは嘘だ。安藤や飯島が云っているから嘘だ」と云って、今度は安藤や飯島を私の前に連れて来て、私が云った事がないのに、八月十六日の晩列車転覆があると云ったと云わせるのです。そして武田部長は「安藤や飯島が、この通り云っているから云わないと云うのは嘘だ」と云っていじめられるので私は困ってしまいました。そして今度は安藤や飯島が、私が虚空蔵様の辺りで黒い服をきた者と一緒に歩いていたなどと云ったので、武田部長はその黒い服をきた者から聞いたのだろう、その者は誰だか云え云えと有りもしない事迄云っていじめるので、本当に困ってしまったのです。それでも私はその様な者と歩いていないからそんな者と歩いた事はないと云うと武田部長は、「お前が歩かないと云うのは嘘だ嘘だ」と云っていじめるので、私は本当に嘘ではありませんと云うと武田部長は、「それじゃ誰に聞いたか早く云え」とせめるのです。それでも私は全然知らないので知りませんと云うと武田部長は、「お前が列車をひっくりかえしたから云われないんだろう」と云うので、私はそんな事はないと云うと、武田部長は「それじゃ誰に聞いたか云え云え」とさんざんいじめるので私はほんとうによわってしまいました。もう私が何を云っても駄目なのです。そして同じ事を何回も何回も云っていじめられるので、警察に対する恐怖心が益々つよまってくるのです。そしてその日の午後十一時半頃暴力行為で逮捕状を出されたのです。
 しかし其の日暴力行為に関する取調べはほんの一時間位だけでした。そして次の日は取調室に出されると直ぐ武田部長に「黒い服をきた者は誰だ、誰にその話を聞いた、それを云え」とさんざんせめられるので、私は益々よわってしまったのです。それでも私は誰にも聞いた事はないと云うと武田部長は「お前がやったから云われないんだ」とか「南や国分達と一緒に列車をひっくり返したんだろう。だいいち赤間らが斎藤魚店の前を通ったのを伏拝の自転車預所に居った青年団の者等が見ていないから、お前等がひっくり返したんだろう」と云ってせめてくるので私はほんとうに困ってしまいました。弁解すると怒鳴るのです。そして誰から聞いたか云え、云えと云っていじめられるので私は益々くるしくなり、このくるしさにたえきれなくなって松川の者に聞いたと嘘を云ってしまいました。すると松川の何と云う者から話を聞いたかとせめるので、私は野地とか丹野とかは松川の方にそう云う名前の者が多いのを知っていたので、私は野地とか丹野とか云う者に聞いたとあやふやな事を云ったので、直ぐバレてしまったので、武田部長に嘘を云った為にさんざんいじめられ、そして武田部長に「お前が話を聞いた黒い服をきた者は、国鉄の組合の者だろう、国鉄の何という者だ」と私の全然知らない事を云ってせめるし、私は又あやふやな事を云うといじめられるので、私は誰にも聞いていないから知りませんと云うと武田部長は「お前が知らないと云うのは嘘だ、お前は知っているから云え」と云ってせめるので、私は益々困ってしまったのです。私が苦しくなってよわねをはいたことが益々自分を苦しめて行ったのです。
 そしてこの日はこう云う取調べを何度もくりかえしくりかえし続けられたのです。そして次の日も取調室に入ると玉川警視と武田部長がいました。「今日は誰に聞いたか云え」と云ってせめはじめたのです。私は全く知らない事をせめられ何を云っても怒鳴られるのでどうしてよいか困ってしまったのです。そして午前十時頃から今度は玉川警視に「お前は女に強姦して居るから強姦罪や其の外の罪名で重い罪にしてやる」と六法全書を見て云われ、それに皆の前で実演させると云われるので、私は強姦なんかしていないけれども実演させると云われたので本当におそろしくなって、それはやめて下さいと云うと玉川警視は「それでは誰に聞いたか早く云え」と云ってせめるのです。それでも本当に誰にも聞いていないから云った事はありませんと云うと玉川警視は「お前が聞かないと云うのは嘘だ、嘘をつくな」と云っていじめられ、そしてお前が云わないならば、実演させてやる。女もお前に強姦されたと云って居ると云ってその女の強姦されたと云う部分の調書を見せられたので、私は益々おそろしくなってどうかやめて下さいと云うと、玉川警視は「それじゃ取消しにしてやるから早く云え」とせめるので、私は本当に聞いていないと云うと、警視は「嘘を云うな。お前が嘘を云ってばかり居ると一生刑務所にぶち込んでやる」とか、「伊達駅事件の保釈も取り消してやる。お前はこう云う事やこう云うことをやって居るから一生刑務所から出られなくしてやる」とか「零下三十度もある網走刑務所にやって一生出られなくしてやる」とか六法全書を見せて云われるので私は云いようのない本当におそろしい気持になってしまいました。そして次から次に誰から聞いたとか、お前がやったから云われないんだろうと云うので益々苦しくなるばかりだったのです。そして玉川警視には「お前がやった事は大した事はないんだ。一番は大物だから早く云え早く云え」とせめるので私は益々くるしむし、私が本当の事を云うと玉川警視等は「チンピラ共産党嘘を云うな」と云っていじめられるし、私は本当に答えようがなくなってしまったのです。それに玉川警視等は「皆んな赤間が転覆させたと云って居るんだぞ、三鷹事件も共産党がしたのだ、松川事件も共産党がさせたのだ。それに関らず赤間が列車をひっくり返したと云っているんだ。本田は赤間がさせたと云って居る。大したこともないお前が自白しないで情にからまれ皆んなと同じ重い罪にされてもよいのか。だから早く云えと云うんだ」とせめるし、玉川警視は「国鉄の労組で聞いたんだろう」と云うので私はくるしまぎれにそれに合せて国鉄労組事務所に水をのみに寄った時、その列車転覆の話を聞いたと云ったのです。すると玉川等に其の様な重大な秘密会議をして居るのに知らない者がいっても出来るはずはない、嘘を云うなといじめられ、お前も転覆の相談をしたんだろうとせめられるので私は相談なんかしませんと云うと玉川警視等は、「それじゃ誰がやったか早く云え」と又目茶ク茶になって無理にせめてくるので私は全く困ってしまいどうしてよいかわからなくなってしまったのです。
「お前がやったから云われないのだ。お前は、列車転覆の容疑者として一番重くしてやれば死刑か無期だ」と云われるので本当に死刑にされてしまうのかと思うようになってしまいました。それに武田部長から「早く云って玉川警視に寛大な処置を取って貰え」と云われ、私は玉川警視に「御寛大な処置を取って下さい」と頼むと、玉川警視に「嘘ばかり云って御寛大な処置があるか」とさんざんいじめられ、私はどうしたらよいか本当に泣き出したい気持になってしまいました。しかし其の晩私が十二時から一時までに帰っている事を婆ちゃんは知っていましたので、私は婆ちゃんに聞いて下さい、婆ちゃんは私が寝ていることを知っているのですと頼みました。ところが武田部長は「お前のお婆さんは二時頃迄目をさまして居ったがまだお前が帰って来ない。四時頃小便に起きた時もまだ帰って来ない。お前がいつ帰って来たか判らないと云って居る」と云われ、そして私が何時帰ったか判らないと云う調書を読んで聞かされ、婆ちゃんの名前を見せられた時、私は俺の無実を証明してくれる人がいなくなったと思ったので目の前が暗くなってしまうようでした。私はもう一度お願いしました。そして「婆ちゃんはきっと知っているんです。もう一度聞いて下さい」と頼んだのです。すると玉川警視や武田部長に「いつまでもそんなことを云っていると、おまえの親兄弟全部を監房にぶちこむぞ」と怒鳴られてしまいました。私は本当に親兄弟全部が警察にぶちこまれるかも知れないと思って益々おそろしくなって、もうどうにもならないと云う気持ちになってしまったのです。そしてこのように一週間以上の脅迫誘導拷問が朝の九時から夜の十二時一時頃迄もされ、夢中に眠く、すっかり疲れて死の恐怖の取調べはもうたえられなく苦しくなっていました。そして頭が痛いから休ませて下さいと頼みましたが、武田部長からは夜通しで調べると云われるのです。
 私は死ぬよりもつらいことでした。この脅迫や拷問の取調べから救われたい為に明日云うから寝せて下さいと頼んでしまったのです。
 そして翌日取調室に入ると直ぐ玉川警視から「明日云うと云ったから早く云え、早く云え」とせめられてもう弁解することは出来ませんでした。そしてとうとう最後迄真実を守り抜く事が出来ずついにその日の午後虚偽の自供をさせられたのです。そして虚偽の最初に出来た調書では汽車転覆の話は玉川警視等に云われる通り、八月十五日国鉄労組の人達と相談して聞いた事にしてしまったのです。私は玉川警視等に国鉄労組で列車転覆の話を聞いたんだろうなどといじめられ、そして信用させられていたので、私は国鉄の労組の人達が本当にやったものと思い、私はこれらの人達の為にいじめられると考えると憎らしくなっていたのです。又鈴木信さん、二宮豊さん、阿部市次さん、本田昇さん、高橋晴雄さん、蜷川さん達をどうしてこの謀議に出席したとデッチ上げたかと云うと、鈴木さんや二宮さんの場合は、八月十七日から十八日の新聞に二宮さんと武田さんがこの事件のことで出ていたのでこの人がやってると思ってデッチ上げたのです。そして武田さんが新聞に出ていたのを鈴木さんとばかり思って鈴木さんを謀議に出席したとデッチ上げたのです。阿部市次さんの場合は組合の人達がやっているならば阿部さんもやって居ると思い、憎らしくなってデッチ上げたのです。本田昇さんの場合は国鉄の幹部で労働組合の事務所に居る者でつまり党員だと云っておられたし、又本田と云う者は自分がやったのに赤間が転覆させたと云って居ると云われたので本田さんを憎んでいたので謀議にデッチ上げたのです。高橋晴雄さんの場合は警察から高橋と云う者はアリバイがくずれて居ると云われた事があったので高橋さんは関係して居るなと思ってデッチ上げたのです。蜷川さんの場合は警察から相談の席に誰々が居ったろう、誰々が居ったろうと云われたのでそれを利用して蜷川と云う者がいたかも知れないと云ったのです。私は本田さんも高橋さんも蜷川さんも知りませんでしたがもうどうでもよいと云う気持で警察の云う通り合せて行ったのです。そしてこの様にして八月十五日の謀議や人の名前が出来たのです。
 そして玉川警視からいつ相談するから来いといわれたのかと聞かれたので、私は伊達駅事件の打合せに行ったとき聞いたと云って十一日を間違えて十三日と云ったのです。そして阿部市次さんに云われたなどと有りもしない様な事をデッチ上げたのです。それから八月十六日の晩については十二時過ぎに待合せた場所は永井川信号所の踏切詰所の南の道の処でそこから真直ぐ行って信号所の東側を通って南の踏切を出たと最初供述させられたのです。それが後で武田部長が歩いて来て本田清作がお前等三人を見たと云うからお前等三人の通った道は信号所の処でなく本田清作の家の前を通ったんだろうと云われて私は実際歩いていないから武田部長の云う事と合せて返事したのです。それから最初に云わせられた帰りの道順は金谷川のトンネルの処から山の山道を通って線路の東側の田圃に出たと供述したら、後で武田部長が、私の云った通りの処を歩いて来て、山に道がないのでどうしても歩かれないので帰って来てから私に「山に道がないから割山の線路を通って来たんだろう」と云われたので、私は歩いていないから武田部長の云う事に合せて云ったのがそうなったのです。又赤間調書の道順がくわしく書かれている訳は、私が前に線路工手をして居ったので、松川や金谷川方面を何回も歩いた事があるので道順を知っていたのです。それから又最初から道順がくわしく書かれて居るのは、調書を書く前に私から云わせた事を「メモ」を取ってそうして武田部長が歩いて来てから調書が完了したから道順がくわしく書かれて居るのです。
 それから赤間調書の帰り道で浅川踏切附近の神社の前を通った事になったのは玉川警視に「お前等三人が帰り道に浅川踏切付近の神社の処で『ホイド』(乞食)が見ていたと云うから神社の前を通ったろう」と云われたので私はそれに合せて通りましたと云ったのです。それで神社の前を通った事になったのです。それから現在ある赤間調書の列車番号と列車と出合った場所及び手袋等や森永橋の処で肥料汲の車等に会ったと云うのはどうして調書に出来たかは次の通りです。
 最初に列車関係を云うと、一番先に出来た調書一五二列車と一一二列車しか書かれませんでした。
 一五二列車の列車番号は警察の取調べに玉川警視からおしえられ、そしてこの列車と浅川踏切の手前あたりで会ったろうと云われたので私はそれに合せていい位な事を云ったのです。一一二列車は取調べに玉川警視から一一二列車の大西機関士がお前等五人の者をここらで見たと云うから一一二列車と会ったろうと云われるので、私は知らないけれどもここらで会いましたと合せて云ったのです。そして検事調書には「大西機関士に顔を見られたことは検事さんに初めて知らされた」と書いてあるが大西機関士が見ていたと云う事はこの時聞いたのです。それから一一五列車と六八一列車は九月二十九日頃保原で山本検事に私が図面を書き終って山本検事に見せたら山本検事はその図面に一一五列車と六八一列車がないので私に一一五列車と六八一列車番号をおしえて其の列車とどの辺で会ったかと云うので、私は一五二列車の直ぐ後の列車だとおしえられたので、それに合せて自分でいい位な距離を作って云ったのです。


 おとし穴  菊地 武
   
 私は昭和六年に福島県安達郡大山村に生れ、終戦の次の年である昭和二十一年六月に東京芝浦電気松川工場に入社し、わずか三年数カ月憲法により保障された権利に基づき、労働組合員と共に、ひたすら歩んで来た。そして昭和二十四年八月十五日終戦記念日と同時に、同工場を首切られた。組合大会の決定により執行部の指導のもとにニカ月首切反対闘争を続けて来たが故に。
 十月八日未明、突然私の家の前に自動車が止ったと思うと同時に、どやどやと警官が私服、或は制服で私の家に入り込み、寝て居た私の枕もとに来て任意出頭を求めるので、私は盲腸を切ってまだ十四日しかたってないのであまり歩けないから行けないが、どんな理由で出頭を求めるのか聞いて見ました。すると、刑事が、いや休が悪いなら行かなくとも良いが、君が行って話をすれば前に逮捕になった杉浦や浜崎や大内、小林その他東芝の者が全部帰れるのだ。お前が行って話をして呉れないか。警察では可哀そうで一日も多く泊めて置きたくないのだが、どうだ行って十六日泊ったという証明をして呉れないかと言うので、私は、私が十六日夜泊った事を証明して呉れるとみんなが帰れると言うなら、私は休の悪い身でありながら行く事に決め、そして一日も一分も早く組合の人々に帰って貰うようにと考え、朝飯を食べて着物を着て(盲腸を切ったばかりで、ズボンのバンドが出来なかった為)居りますと、お母ちゃんが休が悪いのだから後にしたらどうだ、歩いては駄目だ。と何回も何回も言われましたが、私としては前に逮捕になって居った東芝の人連を早く釈放させたいが為に、刑事と共に自動車に乗り福島に向いました。この時自動車の窓から見た両親の姿は今でも忘れる事は出来ませんでした。
朝やけの空をながめながら、右に左にゆれ、福島地区警察本部についたのは、もうすでに十一時は廻って居りました。それからすぐに三階の取調室に上げられましたが、私は何にもやって居らないから、自分の木当の行動をそのまま話をすれば、みんなと一緒に帰れるものと落着いた気持で取調官の来るのを待って居りました。だが前に逮捕になっていた大内さんや小林、浜崎さんと一緒に組介事務所に泊ったから疑いを受けてでもいるのか、それでも木当の事を言えば、みんなと帰れるものと思い取調官の来るのを待って居りました。すると間もなく、武田刑事部長と玉川警視(氏名は後で判った)が人って来たのです。そして二人は、私に組合経歴や共産党に入党云々――と聞かれるので、私はこばむ事なく全部答えて居り、これを終ると、今度は、八月十六日の行動を聞くので、私はビラ書きをして居った事やら、その晩一緒に寝た様子など、記憶のまま述べて居りますと、玉川と武田は笑いながら、菊地よ、ここに来てもそのようなことを言って居るのでは助からないぞ、それは君遠の作ったアリバイだと小林や大内はちゃんと言って居るのだ、お前達の犯した罪は死刑か無期なのだと、言うので、私は驚いてしまいました。亦犯人として取扱われて居ろとは夢にも思わなかったのです。一体私が何をしたと言うのだろうか、どうして組合事務所に泊った私達が死刑や無期になるのでしょうか。
私は今迄話をした以外の事は知らないから早く帰して下さいとお願いすると、武田は、そういそがなくとも良いだろう。これからここに毎日泊めてやるから心配するなと言うのです。しかし今日どうしても帰りたい、家の人達が心配して居るから帰りたいと思い、そのためには何を言うと帰れるのかも考えました。これから組合運動は絶対にやりませんと言うと良いのか、それとも大内君、小林君、浜崎君と一緒に泊らなかったと言えば良いのか、何んでも良いから取調官の言う通り答えて早く帰ろうかという考えにもなりました。そして私は取調官の武田刑事部長に、私は一体何をしたというのですかと聞いてみました。すると武田刑事は脇の数百枚の罫紙に何か書いてあるのを見ながら、何時、何処で誰々が集まって列車を転覆させる話をして……その次の日は、大会が終って、誰と誰とが集まって……話し、それにもとづいて、小林と大内、お前が夜中に組合事務所を出て、八坂神社の方に行き、松川保線区に行ったろう。この時にお前達三人が歩いてゆくのを見たという証人も居るのだし大内や小林も菊地と一緒にバールとスパナを取りに行ったと言っているのだから、お前がなんと頑張っても駄目だ。当ったろう。この通りだろう。お前が行かないなどといって自白をしないで居れば、今のうちは保線区倉庫まで行っただけであるが、後になれば、現場に行ったようにされるかもしれない。そうなれば一生監獄で暮すか、或は悪くすれば絞首台に立たされるかも知れない。お前は自分の罪の大きさに驚いたのだろう。小川に流れる木の葉も、やはり流れて行くところは大きな海に行くのだ。君も木の葉と同じ、行く道は只一つしかないのだから早く自白したらどうかというので、私はなんとなく夢のような気がするのです。
 当時は列車転覆の話を聞いたこともなし、叉、あの夜は松川保線区迄行ったと言われるので、頭はもうもうとなり、腹は痛み出すので、横にさせて下さいとお願いすると、自白をしないものを横にすることが出来るものか、ガマンしろと怒鳴るのです。
 こうした取調べが夜九時半迄続けられ、苦しみと痛みをこらえながら来たが、つい倒れそうに机にうつ伏せになってしまいました。すると玉川警視は、野郎まいりそうだから令状でも示して休ましてやれといって、夜の十時に恐るべき列車転覆罪の逮捕状が示され、監房に入れられてしまったのであります。そして、あの薄い白壁に囲まれて一人淋しく泣きながら、どうすれば調べをせずにすむのか、あの調べの苦痛をどうしたら逃れられるのか、早く家へ帰りたいと、起き伏せしながら考え通しました。そうして初めて監房の一夜を明かしたのであります。
 翌九日、朝七時頃、再びドアーの錠が開かれ私を二階の取調べに上げようとするので、私は断りました。今日は休が悪く動けないから、もう少し取調べを休まして下さいとお願いすると、私を連れに来た刑事は、私を監房から引き出すようにして引張り、休が悪いなど、ぜいたくな事を言って居るのではない。ここは何処だと思って居るのだと言って私を二階へ上げ、昨日と同じ部屋に入れますと、やはり取調官は武田刑事部長に玉川警視でありました。
 室に入るより早いか、高圧的に、貴様は自白をしないで死にたいのか、それとも生きたいのかどちらだと、大声をあげて怒鳴るのです。私は死にたくはありません。生きたいのです。と言うと、生きたいなら自白をしろと怒るので、私は死にたくないし、生きたいし、自白をしろと言われても、何にもやらない者が、何の自白をしたら艮いのか判らず、黙ってしまいました。
 すると、黙って居れば武田刑事部長は、私の耳に口を寄せ、大声をあげ、ツンボになったのか、返事が出来ないのか、警察では黙って居ればその者は事件を認めた事にして厳重処分とし、検察庁に送れば死刑か無期はまぬがれないぞ、それでも良いのか、と言うので私は黙って居れば事件を認めた事になるのでは大変だと思い、又自分の行動を述べ始めました。すると、そんな事は聞いて居らない、それは君達の作ったアリバイだと小林や大内も口をそろえて言って居るのだから本当だろう。そして又、大内、小林はちゃんと菊地と一緒に、松川保線区倉庫に行って来たと言って居るのだから、組合事務所から出たと言え言えと、机を叩き、本を叩き、口からアワを出してどなるのです。そして、事務所からも出たのを答えられないならば、貴様はあの列車の下になって死んだ三人に何と言ってお詫びするのだ。貴様のような悪人はこの世に生かして置けば人民の害毒だから、一生監獄にぶち込むか、それとも親にも会わせず検事さんにお願いして、殺してやると何回も何回も言われるので、私は本当に殺されてしまうのか、殺される前に、一遍でも良いから親に会いたいという事を考えるようになり、私は二人の取調官の居る前で、おそれと苦しみに大声をあげて泣き出してしまいました。
 すると、玉川は、そうらそうら良心が出て来た。もう少しだ。こしかけて居っては駄目だ。立って、悪かったとあの三人に手を合わせておがめ、といって私を立たせ、手を合わせて三十分も四十分も立たせたままにして、その間に、死体のことやら、蒸気の中で呼ぶ声のまねをしたり、そうら後に亡霊が立って居る、と、全くおそろしい、本当にうしろに誰れかが立って居るような気がする位にまで亡霊の話をするのです。
 或日は叉、夜中に起して、こうした話を聞かせたり、或日は絞首台の図面まで書いて教えるのでありました。こうした取調べの日が一日、二日、三日……行われ、私は一週間、真実と正義を守り通しました。
 十月十五日、この日は、名前の知らない刑事五人が私を取調べに掛ったのであります。そして休が痛く、つかれた私に自白をしろ、自白をしろと言って休をゆすったり、或は「ナズキ」(額)をぐんぐんと後に押して部屋中廻ったりした事もありました。
 こうして、この日午前中は、五人の刑事によって、人間対人間の取調べではなく、暴力的な拷問が開始されたのであります。
 そして午後からは、今迄に見た事もない刑事が一人で来て、私に六法全書を見せながら、列車を転覆させれば死刑か無期よりしかないのだ、もしも自白をしないで罪にされれば、お前の命はわずか十七才にして終るのだ、大切にして使えば後三、四十年は完全に生きられるのだが、人に義理をたてて命をちぢめ死刑か或は一生監獄に人ったりしては、家族に何んとお詫びするのだ。君の継母は、きっと殺人の家には居れないと言って、この寒い冬を前にして君の家を出て行くであろう。そうしたらお前はどうするのだ……それよりお前が早く警察の言う通り答えて、一日も早く帰えり、親に安心させたらどうだ。警察では、お前が自分で何をしたかも言わずして、人の言うことばかりで一番重い罪にされたら、お前が可哀そうだと思うから、こうして情をかけて呉れるのだ。普通の人ならかまわないでそのまま検察庁に送ってやるのだ、と言うので、警察を疑う事のない私はほうほうと泣き出してしまいました。
 そして私が机に、うつ伏せになり、生きる事を考えはじめると、刑事は更に続けて聞かせるのです。お前や小林、大内は、杉浦や共産党の人達にだまされてやったのだ。それは警察では知って居るのだが、お前が話をしないからどうする事も出来ないのだ。大内や小林とお前は面白半分にやったのだから、大した罪にはならない。悪くしても証人位、よくすれば証人にもならなくともすむかもしれない。俺は悪い事は教えない。よく考えて見ろ。大内だって小林だって、お前と一緒に組合事務所を出て、松川保線区に行ったと言って居るし、その間、三人が並んで歩いて行くのを見たと言う証人もちゃんと居るのだ。お前は組合事務所から出ないと言うが、もしも出ないなら出ないという証明をさせる証人を出して見ろと言われたので、私は組合事務所に一緒に泊った小林君、大内君、浜崎君それから二階堂武夫さんと園子さんが証明して呉れると思います、と言うと、この人達がお前と一緒にバールとスパナをとりに行ったと言って居るのだから、証明にはならない。その外に居るかと言うので、私は夜で組合事務所には誰も来なかったから、その外には証明を出来る者はないと言うと、証明が出来ない事はやったのだと言うので、私はこの証明が出来ないと本当に死刑にされて仕舞うのか、そして叉、大内君も小林君も嘘を言って、私と三人で組合事務所を出たなどと言って居るのか、だが私はどうしても生きたい、又もう一遍だけでも外に出たいという心細い気持になって居る処に、名前を知らない署員が来て、刑事さん、今度菊地を検事さんが調べるそうですと言って、その人はドアを閉め、帰ったのです。すると刑事が今度検事さんが調べるそうだから、検事さんというのは裁判する時に立合い、罪を重くするも、軽くするも決めるのだから、助かりたいと思ったら今迄のような事言って頑張っては駄目だぞ、判ったなあ、さアー行こうと言うので、私はその席を立とうとすると、長い間坐らせられて居る為と恐怖の為に歩くことが出来ず、目からはいろいろな色をしたボールのような、美しい玉がすうーすうーと飛び、目まいがするので、私は一人で歩く事が出来ず、刑事の肩を借り、左手を肩に掛け、右手で盲腸の痛みをさすりながら、そろりそろりとあるいて、検事の調べ室に人りました。
そこには叉、誰も居らず、私は椅子に腰をおろして、机にもたれて考えました。
こんなに苦しむなら死んだ方が良い、それともこの苦しみをどうにかして逃れる事が出来ないのか、――すると検事が、一本のタバコをくわえて室に入って来たのです。そして、私にどうして泣いて居るのだ、泣いただけではすまないのだ。もうお前達のやった事は全部知って居るのだから、自白したらどうだと、高圧的に調べを始めたのです。そして小林を今調べて来たが、彼はすっかり話をして、悪かった申訳けなかったと涙を流してお詫びして居るのだ。お前も小林達のような気になれないのか、それとも死にたいのか、一生監獄で暮したいと言うのかと、怒鳴るのです。
 私は生れて始めて警察に来て、刑事や検事は、こんなにまで嘘を言わせる処だとは思いませんでした。そして私が考えた事は、あの晩確かに組合事務所でビラ書きをし、そして小林君と共に赤旗をかぶって寝たのだから、小林君も私も組合事務所から出なかったはずだ、それでも私達の組合事務所に泊ったという証人は、一緒に泊った人以外には居らないのです。それに外の証人を出せと言われても出しようがないのでした。叉検事も私達三人が、松川構内を歩いて居たと言う証人が居るというので、これではとても、無実であることを頑張っても殺されてしまうか、一生監獄で暮す以外に道は無いのかと考え、それよりもみんなと同じく、話をして、この苦しい取調べを止めて貰おうと思いました。
 そして、話をすれば直ぐ帰れると言うし、話をしないと殺される。それよりも、自分だけでも良いから早く帰りたいと言う勝手な気持になり、苦しみと痛みをたえながら、真実を守り技いた一週間目である十月十五日、夜十二時過ぎ頃、とうとう検事の言われるままに返事をさせられてしまったのであります。
 すると検事は、改心の情が現われて来たのだ、それで良いのだ、人問はそれで良いのだ。まして君は若いのだから、全部を話して、早く帰るようにしろ――これから嘘を言わず、ありのまま話をしてくれと言うのでありますが、私は行った事も歩いた事もない道であるから、何と答えて良いのか判らず、歩いた道は、わすれましたと言うと、検事は、大内や小林も、こう言ってるのだから、君もこうだろうと言うので、そうですと返事だけし、謀議もこのようにして作られ、ただ、調べ室で教えられ、行為も、行った事もないまぼろしの行為を作りあげられたのであります。
 その後の調べは楽になり、家へ帰れる日ばかり楽しみに待ちました。だがいくら待っても帰されず、そのデッチ上げ調書にもとづいて私達は、無実の罪で有罪の宣告を受け、そして嘘を言わされたが故に殺されようとしているのです。
 私はこのようになるとは少しも思わなかったし、又このような大きな陰謀事件であることは、考えた事はありませんでした。
 私は悪かった。真実を曲げた事は悪かった。生れて初めての警察や検事の調べだったし、そして私は警察や検事と言うのは、もっとも真実を求める処であると思っていたのが、全く私の間違いであったのです。これが、私の嘘を言わされた一番大きな原因になったのです。(略)


 折れた線香  杉浦 三郎   

寒むい寒むい朝だった
木戸を開けると     ・
見覚えある
土屋刑事外十数名
今日は嫌でも一緒に行ってもらわねばと出されたものは逮捕状
チェツとうとう来やがった
これで首切り反対闘争おしまいだ
十日か二十日は
この室ともお別れだ
早く早くとホエル犬
とうとう来たか
首切り反対闘争おしまいだ
首切り反対闘争おわったら
サーお帰りと言うだろう

何組合長だ
可哀相に知らないな
組合なんか
お前が来るとすぐ変ったぞ
共産党もつぶれるぞ
それでは帰ってよいでしょう
駄目だ駄目だ話はまだまだこれからだ

何……腹が痛い……そうだろう そうだろう
腹も胸も頭も痛くなるだろう
若い奴等はみなシャベッたぞ
シャベレば病気は直ぐ治る
強盗、強姦、殺人事件
お前首つり見たことあるか
鼻をだらりとブーラブラ
死ぬ程恐い事はないぞ
話はそれで終わりかね
いやいやまだまだウンとある

ネズミヲネズミ捕に捕えたなら
水に入れよと火で焼こうと
人間様の御自由だ
頭に△紙はりつけて
紙の着物で六文銭
三途の川まで送ってやろう
ナムアミダブ ナムアミダブ

折れた線香の一本(歌入り観音経を唄う繰り返し)
それはそれは御苦労様
でも今頃六文銭はないでしょう。
ウウンおれは探すのが商売だ
女房はきっと泣くだろう
娘はパンパン娘になるだろう
バイ毒ショッて泣くだろう
話はそれで終りかね
まだまだまだまだうんとある

平の奴らはおこってた
共産党の幹部の野郎
俺達だまして逃げちゃった
今度来たらば殺してやる
そこで幹部は警察へ
お助け下さいと逃げて来た
どうだ最後は警察さまだ
おれがお前を助けてやろう
それはそれはありがとう
話はそれで終りかね
明日は十五日 明日は帰して貰いましょう
こんな野郎身体に物を言わせたら
三日もあれば音をあげさせる
何……身体に物を言わせると
今一度言ってみろ
いやいや今のは独言
まだまだ話がうんとある
東芝係の青年は毎日々々位いている
お前が言わないばっかりに
重い刑になるのだと
園子もスイ子も女だなあ――
来ると直ぐ綿の差入れ頼んでた
お前が話せば園子もスイ子も帰れるんだ
不人情義理知らず
西山老人占領政策違反でたたき込むぞ
こんな悪党容赦はいらぬ
死刑だ……医学校で解剖だ
サー何とか言え言え言え言え
ツンボかオシかこの野郎
何……便所へ行きたいと
この野郎オシかと思うたら口きいた
口がきけるならサーシャベレ
こっちの返事をするまでは
便所へなんかやらないぞ

外の者はみんなやったと言ってるぞ
やらぬと言うのはお前が唯一人
九人の言うこと本当か
お前一人の言うこと本当か
お前は民主主義者で……多数決
サーどっちが本当か考えろ
何……何……何だと
一人でも本当は本当だと
この馬鹿野郎
日本の算術忘れたな
民主主義を忘れたか
どうだどうださあーどうだ
何だ何だこの野郎 その笑は何だ
貴様の笑は鬼笑だ 悪魔の笑だ
薄気味悪いやめろやめろ
何……何だと
自白した奴は気が狂うたと
エエイこの馬鹿野郎
とうとう気が狂うたな
何……何……誰が狂人か
公判廷精神カン定を要求すると
エエイ
コノ狂人野郎タタキ込んでおけ 
(1951年9月21日)  

 わざわざ御見舞有難う御座いました。本日突然御目にかかり東京からわざわざおいで下されるとは思って居りませんでした。その上松田様は二十才代の若い方とばかり思って居りましたので外の方かと思ってしまいました。
 御手紙は何回もいただきまして、是非一度はと思いながら今まで一度も御便り致しませんでした。松川の外の者がよく出すようですから、私の下手な手紙はいらないというような気分もありまして、叉よく御通信下される方より通信のない方へと思って書きませんでした。
 これは、詩の形になっているかいないか私は詩というものは書いたことがありませんのでわかりません。
 八月十二日以後、団体交渉その他の会合は、工場周囲を警察の包囲の中で行われ、私の身辺も常に警戒されており、十三日にはアカハタデモ事件の容疑者として執行委員が逮捕されたのを手初めにその後毎日五、六名から十五名位の組合員が参考人という名目で朝早くトラックで大勢の警察官が乗りこむというような形で連行されました。十六日は組合大会。警官は傍聴を申込んで来ましたが断りました為、工場附近及び工場警備所で警備されその上、十六日夜、松川町に土蔵破りの強盗が入ったといって非常線が張られました。この中でこの事件は起されました。この事件が起るとすぐ私がこの事件に関係あるように新聞で報道されますので、私も首切り闘争弾圧の為にこの事件に名をかりて逮捕されるなと思いました。しかしあまりにも私の行動が明らかで、警察でも手が出ないで困っているだろうと思っていました。
 従って逮捕された時も別に驚きもしません。十日か二十日位拘留されて組合の闘争がつぶれたら帰されるだろう。これも運命だとあっさり考えて出かけました。逮捕三日目唐松判事の拘留尋問の終った時、唐松判事がこう言って来ました。「杉浦様、あなた紳士ですね。外の者は何で俺を引張って来た、すぐ帰せのなんのと大きな声を出したり、いろいろしますがね、あなたはおちついておこりも何もしない、偉いですね」と私はほめられたのやら、いや味を言われたのやら変な気分になりましたが、まあ落ちついて唐松判事の煙草が机の上にあったので、それをもらってゆうゆうと吸って居りました。
 そうして、次の日から取調べに唐松判事が十四日といっていたからね 十四日迄ゆっくり話をしましょうという調子で、毎日々々強盗、強姦、人殺し、死刑、首つり、そんな話をして、詩に書きましたように三途の川まで送ってやるといって、歌人観音経の「折れた線香の一本も」という処をよく歌いますので私は、君々、折れた線香のところだけでなく後を歌うようにとさいそくしましたら忘れたから帰ってレゴードでおぼえて来て歌ってやると言って次の日、又折れた線香をやる、レコードで習って来るのを忘れたという。最後にはレコードを探したけれどなかったなどと言ってました。ちょっと他人とは風変りな取調べでした。私も三、四日後には始めに考えたようなものでなく重大な事になりそうだと気がつきました。
 初めは、彼らが日本中の弁護士が全部かかったって、この事件だけは駄目だ、証拠がギッシリあるのだからというような事を言われましてもピンと来ませんでしたが、差入れをしてくれた人の氏名さえ文書であると言って知らせない、ものすごく厳重な取扱いで、これはと感じた時には早く帰ろうと思って行動の一通りを述べた後でした。後で後悔しました、本当の行動というものは取調官には絶対話すべきでないこと、しかし相当の部分を話していない事をとてもよかったと思いました。彼らは本当のことを言うと、それをシラミつぶしにつぶしてゆく、もしも私の事を白であると証明する人があればその入も逮捕し、共犯とする。その人が脅迫されて私の事を黒のような証明をすれば逮捕せずに証人として、私を犯人にしようとしていることが、取調を十日程受けてる中によくわかりました。それで恐ろしい事だ、ことによるとこのまま殺される……人生五十年という、よしきた、あきらめて最後まで闘うと覚悟し、取調の初めに取調官に対し黙秘権など使わない、大いに話し、また議論もしましょうと言ってあるので、中途から黙秘権を使うなどという事もいやだと思いまして、私は最後まで黙秘権は使わない、何度話しても初めと同じだという態度で通しました。
 十月二十日前後には、朝から夜まで自白をしないで公判に出ると損なことになる、特に国鉄関係の者は、このような取調には前にも経験があってよく知っているので、皆自白して自分の方に都合のよい事を言ってる。お前がそうやって頑張っていると一番重くなる、お前だけならお前の勝手だが、東芝の親方のお前が重くなることは東芝の若者全部が重くなる事だ、又お前が西山の家に十一時頃行ったというので西山の老人は、あの野郎ウソを言いやがって人の家に迷惑をかけると言って、狂人のようになってさわいでいる。娘のスイ子は逮捕した。園子も逮捕だ。お前が話せば直ぐこのような者は帰してやる。お前が話さなければ、西山の老人も占領政策違反でタタキ込む。お前が話をすれば、自分の取扱ってる被疑者は可愛いいものなのだ、きっと軽くなるようにしてやる、どうだという、これにはまったく心の中で泣かされました。俺は死ぬ覚悟をしたが、西山の老人までタタキ込むとは何という悪党共だろうと思い、心の中で西山様その他の方々許して下さいと心に祈りながら答えたものです。「お話はようくわかりました………だが、私は前にお話しした涌りです」すると「この野郎少しもわかっていないじゃないか」と言って又々繰返します。そうして何回も繰返して、先方からして、「お話はようくわかりました……だが」ではいかんぞと断って来ました。そこで私は言う事がなくなり黙っていることになりました。
 このようにして鈴木信や佐藤一も初めは頑張っていたが、とうとう終りには悪るうございました、と涙を流してあやまったと聞かされ、私はおどろきました。彼等がまいってしまうようではもう駄目だ。
 弁護士に逢いたい、弁護士に、そうして党の本部へ連絡してもらいたい。「この事件は福島でやっていたら殺される。本部で全国的の問題として闘ってくれなければ殺される。弱っている者に弁護士から又は差入の形式でも何でもよい応援してやってくれ」とこう思いながらここで負けては一大事、何のこの悪党共と、最後の反ゲキとして、詩にある、誰が狂人か公判廷でカン定を受けるというので終り、取調官はあきらめてその後取調なし。
 次の日三笠検事は、昨日は悪かった今日は検事としてでなく人間としてお話をしましょう、さあどうぞ煙草を吸って下さいと言ってオセジを言った後、前と同じ事でもよいですから調書を取らせて下さいといって、前と同じ調書を取って行きました。
 この三笠検事には全くあきれてます。初めに見た時、これはこれは一流の役者だわい、肩をそらして「ウウン、どうだ、汐時だぞ、汐時だぞ、人間は汐時がカンジンだ」などという時の声に力が入り、室中ヒビキ渡り、実にたいしたものだ、検事という者を初めて見たが判事とは違う。判事連中もなかなかよい声を出すが、さすがは検事だ、判事達からくらべると、一段と役者が上だと思い、口の中でこの態度とセリフを聞きながら「ハリマヤ、ナリタヤ」と手をたたきたい気分で眺めてました。初めのうちは「ハリマヤ、ナリタヤ」と芝居でも見るように感心して見て居りましたが、刑事が六、七名周囲に居って交代でどなられ、その上ノドがかわいた時、お茶を要求したら、駄目だという。「君も呑んでるでないか、俺は罪人でないのだ、同等だ呑ませろ」といったら「同等に俺も呑まない」といって彼はやめてしまった。そしてしまいには便所へもやらないといい出す。私はいまいましいから、室の中で腰かけたままジャージャーやってやろうかと思ったけれど、まあ三度いってみようと思い、三度目をいったら室から出て行ってしまうという実にあきれた男で、私はお茶を断られてからは、その儀ならこちらも考えがあると、その次からは薬ビンに水を入れてそれをポケットに入れて行き、お茶の要求をしないで、彼等が何も呑まずオシャベリしてる時に、その水を呑んで済ましました。何かもんくをいうかと見てましたら、嫌な顔だけしていました。
 このように書きますと、あまり苦しめられないように思われるかも知れませんが、決して、決してお話出来ない苦しい闘争でした。
 唯いつも先手を取るようにと心掛けました。そして、いつも負けずにいられたのは、俺は罪人でないのだという事です。彼らが私が犯人であるような事を一言でもいったら、私は「俺が犯人であるというのか」と強く反駁しますと、必ずいいます。「犯人とはいわない、被疑者だというのだ」と。それから又私が何かやったような話をしますと、私は「俺がやったというのか」と強く反駁します。すると「いや君がやったというのではないよ、これは話だよ、話をしていると身におぼえのあるものは気になるのでね、杉浦様どうだね」とこうくるのです。そうして私がやったといってさんざんどなっておきながら、こちらが強く出ると、話だよという、まったくしまつの悪い悪党でした。
 こちらが少し弱味を見せたら最後です。立派な犯人に仕上げられます。
 簡単に詩に対する説明を書こうと思いまして長くなりました。どうかよろしく。(1951年10月)  

2010.05.21 Fri l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
松川事件が起きたのは1949年だったから、昨年(2009年)は発生から60周年の年であった。このことについてブログですこし触れたところ、その後、週に一、二度だが、検索によるアクセスが切れ目なくある。松川事件への関心は細いながらも今も依然として続いているようである。事件の重大さ、いまだ解明されない真相への興味関心によると思われるが、それだけではなく、松川事件にはこれについて読んだり調べたりしていると、不思議と元気づけられる要素がいろいろあるのだ。たとえば、20人の被告人のうち、自白をとられてでっち上げ調書を作られた人が赤間被告をはじめ半数近くもいたのに、最後まで誰一人として闘争から脱落しなかったことにも心を打たれる。

裁判員制度が始まったが、これには私は賛成できない。常識や市民感覚を裁判に取り入れるなぞ、何のことだか分からない。専門の裁判官には常識や普通の市民感覚が備わっていないというのだろうか。刑事裁判に望むことは何よりも誤りのない判決であり、そのための丁寧な証拠調べである。被告人の防御権が守られていないという話をよく聞くが、これが一番恐ろしい。自分には関係ないと思っていても、やがては自分たちに返ってくるのだ。個人の思想・信条による辞退・拒否が許されないという点では憲法違反でもあると思う。

松川事件に学ぶことは裁判一般についても具体的な個々の裁判についても、今でも数多くあると思う。ここ数年新しい現象として気になるのは、裁判の審理の問題とは別に、ある事件の冤罪(国策捜査と呼称される事件も含む)を主張するに際して、その理由・根拠を実証的に明らかにしようとする姿勢を一切抜きにして、あたかも冤罪が自明のことであるかのように話したり書いたりしている人たちが相当目につくことである。これは冤罪の重大な犯罪性を希薄にする結果をもたらしかねず、非常に危険な傾向だと思う。今日は、二審の有罪判決後、徹底的に判決を検討し、月刊雑誌『中央公論』によって批判文を書き続けた広津和郎が、その最中の1957年に名古屋で行なった講演を「証言としての文学」(學藝書林1968年)から抜粋して掲載する。また、広津和郎がそもそも松川事件に関心をもつ契機となった20人の被告たちの文集「真実は壁を透して」からいくつかの文章を後日掲載したいと思っている。

この講演でも、広津和郎は、被告たちから送られてきた文集を読んで、「これはうそでは書けない文章だと感じた」と述べているが、そのことについて別の場所で、「特に赤間くんの文章に対してそのように感じた」と述べているのを読んだことがある。広津和郎のこの発言内容はよく知られていることだが、ただ、今でも往々にして真意は不正確な伝わり方をしているのではないかと思う。「真実は壁を透して」を実際に読んでみると、たいていの人は広津和郎と同じように「被告たちの言うことのほうが本当ではないか」とか「どうもこの事件はおかしいぞ。」などと感じるのではないかと思うのだが(私もそう感じた)、ただそれだからといって、広津和郎はその時点で「被告は無実だ」と決めつけているわけではまったくない。「うそでは書けない文章だと感じた」から、このまま放っておくわけにはいかない、これから丁寧に、徹底的に裁判記録を調べてみようと考えたと解するべきではないかと思う。「被告の目が澄んでいるので無罪だ」と広津和郎と宇野浩二の二人が言ったという伝説についても同じことが言えると思う。

最高裁において辛うじて(採決の結果は7対5の僅差であった!)仙台高裁差戻しが決定されたのは、1959年(昭和34年)8月10日だったから、この講演が行なわれたのはその2年前だったわけである。それでは、だいぶ長くなるが、広津和郎の講演である。(強調はすべて引用者による。単なる可能性の問題が実行済みの行為にされたり、出廷した証人の否定の言葉を肯定にすり替えたりなど、裁判官の恣意的な判断・行動が広津和郎によって指摘されているが、実は「埼玉愛犬家殺人事件」の風間博子さんの裁判でもこれとそっくり同じ事態が数多く見られる。)

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 「松川裁判について」 広津和郎講演

 わたしは講演が苦手なので、文芸講演というようなものだと、此処に立つ気はないのですが、裁判について語れということでしたので承諾した次第であります。裁判といっても日本の裁判全体を調べているわけではなく、この約四年ほど松川事件について調べつつあるので、それについてならば私にも話す材料がありますし、それにこの裁判については、是非皆さんに聞いていただきたい気持もあるのです。それでこの機会に松川事件について少ししゃべらしていただこうと思います。わたしは今『中央公論』、に、松川裁判に対する批判を連載しつつありますが、既に三年半たちますのに、まだなかなか終らないような複雑なものですから、わずかな時間にその全貌を語るということは到底不可能です。ですからそのほんの一部しか語れないと思います。
 大分若い方もいられるようですから、松川事件がどういうものか或は御存じないかと思われるので、大体の輪郭を初めにお話しいたそうと思います。これは今からちょうど八年前の昭和二十四年八月十七日に、東北線の松川駅と金谷川駅との間のカーヴで起った列車転覆事件で、幸い乗客にはけが人はなかったのですが、機関士が三人死にました。そしてそれは自然事故ではなく、明かに誰かが故意に線路を破壊して計画的に列車を転覆させたということは明瞭でした。そこで捜査陣は動き出しましたが、当時の国鉄の首切りに対する反対闘争を行っていた福島の国鉄の労組が、同じく首切り反対闘争中の東芝の松川工場の労組を引き入れて、協力してこの事件を惹起したという想定のもとに、国鉄福島労組から十名、松川労組から十名、都合二十名の被疑者を検挙しました。この二十名はやがて起訴されて被告人となり、第一審、第二審とも有罪と認定され、死刑、無期を始め、十五年、十三年等の重罪の判決を受けましたので、今最高裁に上告中であります。これが松川事件の輪郭であります。
 昭和二十四年といいますと、日本はまだアメリカの占領下にありました。名義は連合国の占領下というわけですが、実質的にはアメリカの占領下と見る方がほんとうだと思います。その年国鉄に大量首切りがありました。実に九万七千人という大量首切りでしたが、それは占領軍の指令によったものでした。シャグノンというアメリカの中佐が当時国鉄を牛耳っていましたが、そのシャグノン中佐の指令でこの大量馘首が強行されたということになって居ります。七月四日の第一次の首切りで、三万七千人が馘首されましたが、非常にお若い方でない方は覚えていらっしゃることと思いますが、その馘首に続いて下山事件というのが起りました。つまりその馘首発表後間もなく、国鉄の下山総裁が行方不明になって、やがて鉄道線路の上に死体となって発見されたのです。その死体は二つの大学で検べましたが、一つの大学では死後轢断、他の大学では、生体轢断と鑑定されました。前者ならば明かに他殺であり、後者ならば、生きている総裁を線路に投げ込んだ他殺とも取れれば、又総裁みずから線路にとびこんだ自殺とも取れるわけです。自殺か他殺かで当時の新聞は沸き立ちましたが、いつかそれは有耶無耶の中に捜査が打ち切られて、今日では謎の事件となって居ります。この事件については、昨年のサンデー毎日に警視庁の捜査課の人たちの座談会が出ていましたが、それによると、第一次首切りの二日前に、夜中にシャグノン中佐が下山邸に自動車を乗りつけ、ビストルをテーブルに置いて、下山総裁に馘首断行を迫ったという事実があるそうです。警視庁の捜査課の人たちの座談会ですからこの事は信用してもよいかと思います。下山総裁の轢死と関係があるかどうかは俄かに断じ得ませんが、併し重要な参考資料の一つにはなると思います。
 この年は妙な年で、列車事故というものがその前から無暗に新聞やラジオで報道されました。殊に六月ぐらいから非常に多くなりました。それがみんな左翼系の人たちのやった仕業であるというように新聞やラジオで宣伝されたのであります。そこに下山総裁が轢死体となって現われたので、それも亦国鉄労組の左翼系の者のしわざであるとか、或は丁度その頃北朝鮮系の朝鮮人が問題になっていましたが、その朝連の人達のしわざであるとか、新聞やラジオで宣伝されたわけであります。そのために三万七千という大量馘首に立上った国鉄労組の反対闘争の出端が挫かれてしまいました。
 それから十日後の十三日に更に六万という大量馘首が発表されました。それに続いて起ったのが皆さん御存じの三鷹事件であります。無人電車が暴走して人を殺し、人家を破壊したのです。これも亦左翼系の労組のしわざであると宣伝されました。そのために国鉄労組の首切り反対闘争の立上りが又しても押えつけられてしまいました。かくして二回合せて九万七千人という驚くべき大量馘首が、スムースに実現された次第です。併し下山事件、三鷹事件によって馘首反対闘争の出端を挫かれた国鉄労組は、その翌月になると再び立上り、全国的に気勢を揚げ始めました。中でも福島の労組支部は最も尖鋭だといわれていましたが、そこに起ったのが松川事件で、この列車転覆事件も、左翼系のしわざであると宣伝されたために、また立上ろうとしていた労組の反対闘争は再びそれによって押えつけられてしまいました。結局九万七千人という大量首切りは、下山事件、三鷹事件、松川事件という三つの稀有な事件が引続き起ったことによって労組の抵抗を受けずに完成してしまったわけであります。この事についてはいろいろいう者があり、かかる幾つかの事件の裏側には何か政治的な陰謀が隠されているという噂が一部に起りましたのも、無理のないことかと思います。というのは、三鷹事件の直後には時の総理大臣の吉田さんがこれは左翼系の者がやったものだという声明をしていますし、また松川事件が起ると、まだ現地で捜査も全然進まないその翌日、官房長官の増田甲子七氏が、「今回の事件は今までにない兇悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各事件と思想的底流に於いては同じものである」と声明しているのですから。まだ捜査陣にも何もわからない筈の頃に、時の政治の責任者たちが、こんな声明をしたのですから、左翼弾圧のための政治的工作ではないかという噂が立ったのも止むを得ないことかと思います。しかし、それだからといって、これ等の事件の裏側に政治工作が果してあったという証拠を掴むことは、今のわれわれには出来ません。従って、左翼弾圧のための保守系の計画的な政治工作だなどとわれわれはいうことはできません。証拠がない事についてはわれわれは想像で物を言うことは避けなければならないからであります。私達は証拠による事実だけを述べるに止めなければなりません。 
 以上が松川事件が起った当時の社会的政治的情勢のほんの輪郭であります。さて、わたしがなぜ松川事件に関心をもったかということを少しばかり申しますが、実は最初は何の関心ももっていなかったのであります。というのは新聞、ラジオその他でもって、その年に引続き起った鉄道事故がみんな左翼系のやったことであると聞かされていたので、松川事件もほんとうにそういう思想的傾向の人たちがやったものであると、わたしは簡単に思い込まされていたわけであります。それですから第一審の松川事件の公判が始まったということにも殆んど関心をもちませんでしたし、有罪の判決があってもなんとも思いませんでした。第一審の判決後、被告諸君は刑務所から、無実を訴える手紙を各方面に送っていました。それは随分沢山送られたものと思われます。というのは、その当時ばかりでなく、四年半程の間の統計ですが、刑務所から訴えた手紙や葉書等の郵便代だけで八十万円に達したというのですから、それを見ても想像されます。それ程多方面に送ったのですから、無論わたしのところなんかにも来ていたに違いないと思うのですが、最初わたしは関心をもっていなかったものですから、殆んどそれに気がつきませんでした。恐らく開封しても見なかったのではなかろうかと思います。ところが、そのうちに、被告諸君の文章を集めた「真実は壁を透して」というパンフレット風の小冊子が送られて来ると、私は不図封を切ってページをめくって見たのです。そして読むともなく眼をやっている中に、その文章に惹きつけられ始めました。これは後に世間でわたしたちが甘いといわれた点なんですが――私はこれはうそでは書けない文章だと感じたわけなのです。そこで引き入れられて全部読み通してみると、どうもこの被告諸君は無実だ、としか考えられなくなって来ました。わたしは宇野浩二にその話をすると、宇野は既に読んでいて、自分もあれはひどい事件だ、被告たちの訴えることが真実ではないかと思っているというのです。そこで会う度に二人は松川事件について語り合いましたが、それでは二人で――ちょうどそのころ第二審の裁判が仙台で行われていましたので――傍聴に行ってみようではないかということになり、宇野と一緒に仙台に出かけて行きました。そこで傍聴したり、被告諸君に会ったり、又第一審の法廷記録をできるだけ集めて、第一審の判決文と対照してみたりしました。どうも納得がいかない、被告諸君の主張がほんとうのことに思われる。そういうようにしてだんだんこの事件に関心を深めていった次第であります。
 前に申しました通り、「被告諸君の文章はうそでは書けない」と私たちのいったことは、当時世の中の物笑いになりまして、四十年も文学に携わっているリアリズムの作家たちが、文章がうそでは書けないなんていう言い方で、人間が無実であるか、無実でないかをきめるのは甘過ぎる、というので非難攻撃を受けたわけです。それからこれは宇野が書いたのだったと思いますが、被告諸君の目が澄んでいたと書いたことも、またわれわれの甘さだと言って嘲笑されました。殊に第二審の判決があった時には、それ見ろ、法治国であるから裁判所のやることを信じれば好いのに素人のくせに余計なことを言うから、そんなどじを踏むのだといった調子で、暫く宇野や私は四面楚歌の声でした。

 そんな余談は切り上げて、これから松川の事件について話しますが、八月十七日に松川の列車転覆事件が起りますと、捜査陣は非常にたくさんの町のチンピラたちを洗いましたが、九月十日に至って赤間勝美君というやはり七月四日に首を切られた一人で、永井川信号所の線路工手をしていた当時十九歳の少年を逮捕しました。これも町のチンピラ風の、けんかなどを事としていた少年ですが、逮捕の理由は傷害容疑というのでした。それは前に友達の頭をなぐったとかいうような他愛ないことでしたが、それを翌年の九月の十日に至って逮捕するなどということは、考えただけでもおかしなことです。無論友達の頭をなぐったという問題はただの逮捕の口実であって、目的は松川事件を調べることでした。警察では、事件の起った八月十七日の前の晩は、虚空蔵さんのお祭りの晩でしたが、その虚空蔵の境内で、その晩赤間君が今晩列車転覆があると友達たちに向って予言したろうと言って責めたてたわけです。赤間君がそれを否定すると、赤間君の友達を二人つれて来て、その友達に赤間君が確かに「今晩汽車が転覆するといった」と赤間君の面前でいわせたわけです。二人とも赤間君と同年配で、同じく町のチンピラ少年たちでした。赤間君は如何に否定しても友達二人が警察官の前でそういうので窮地に追い込まれました。それで結局予言したことにされてしまったのです。
 この二人の少年は後に第一審法廷に検察側から、証人として呼び出されています。それは検察側に有利な証言をさせるために検事が召喚したのですが、併し法廷に立った二人の少年は、赤間君が予言したなどという事は嘘であること、それは、自分たちが朝の五時から夜の十一時までその問題で警察で調べられて、赤間が予言したといわないと「今晩泊めるぞ」とおどかされるので、止むなく赤間が予言したなど言ったのだという事を暴露して、召喚した検事をあわてさせました。けれども、第一審の裁判官も第二審の裁判官も、この二人の少年の法廷での証言を斥けて、警察での前の供述を取上げ、赤間君が予言したと認定したのです。そしてこの予言を、被告諸君有罪の緒としたのです。
 また警察では、松川事件について赤間君に自白させるために、赤間君が婦女凌辱をやっているといって、責め立てました。赤間君が否定すると、被害を受けたという娘さんの調書を持ち出して赤間君に突きつけ、この通りお前から被害を受けたと本人が言っているのだ。これでお前は網走行きだ。それがイヤなら松川の事を話せ、そうすればそっちの事は許してやるから。松川の事を話さなければ、お前と娘と俺たちの前で実演させる。それがイヤなら松川事件のことを話せ。これは一種の精神的拷問というべきですが、そんな風にして自白を強制したのです。
 その娘さんも証人として第一審の法廷に立たされましたが、次のように証言しています。「警察官が自分を呼びに来て、赤間からそういうことをされたろうと言って尋ねました。わたしはそういうことをされた事はないので、そういう事はないといいましたのに、わたしの目の前で、警察官が、そういう事をされたと調書に書き、無理にわたしに署名させました」と。つまり警察で嘘の調書を無理に作成して、その娘さんに署名させ、それを突きつけて赤間君を脅迫したわけです。赤間被告を精神的に拷問するためには、手段を選ばずにそういうことを警察でやっているのです。それから更に赤間君を苦しめたのは、赤間君のおばあさんの調書を捏造したことです。そのおばあさんは赤間君と毎晩一緒に同じ部屋で寝ていました。赤間君は両親たちが満州の方に長く行っていたために、おばあさんに育てられたいわゆる「お婆さん子」でした。そのお婆さんが「勝美は一時になっても、二時になっても、三時になっても帰って来なかった」と言っているという調書を赤間君に突きつけて、「お前のおばあさんもこう言っているぞ」と言って赤間君を責めたのです。これが「おばあさんがそんな事を言っているとすれば、もう自分のアリバイを証明してくれるものはない」という絶望にどんなに赤間君をかり立てたか知れません。おばあさんは字が読めません。そのおばあさんの調書をそんな風に捏造して押印させたのです。そのおばあさんも第一審の法廷に証人として立っていますが、自分は勝美がちゃんと一時ごろ帰ったと警察で述べたと証言しています。そういうやり方で警察では赤間君を精神的に拷問したわけです。一人の警察官が短刀を一ぺん突きつけたということはありますけれども、大体は肉体的の拷問よりは以上述べたように精神的に赤間君を拷問して、次第に窮地に陥れて行ったわけです。それと長時間に亘る取調べと睡眠不足と……こうして十日ばかりで疲れ切った赤間君はついに屈服して、嘘の自白をヂッチ上げられることになってしまいました。予言についての二少年の証言も、婦女凌辱についての当の娘さんの証言も、又十六日の晩のアリバイについてのおばあさんの証言も、裁判所によって全部取り上げられていません。そして赤間君は列車転覆の謀議をやったり、線路破壊の実行に行ったりしたことに認定されてしまったのです。

国鉄側の赤間白白と照応するように、東芝側でデッチ上げられたのは太田自白であります。初めは東芝側からも赤間君より一つ年下の菊地君という十八歳の少年を窃盗容疑名目でつかまえました。赤間君の傷害容疑と同じやり方で、その窃盗容疑というのは、工場の配給のタバコを菊地君が盗んだという他愛のない話です。それは工場内の問題で、普通なら警察の干渉するほどの事ではないのですが、そういう名義で菊地君を逮捕したのです。而もそれは事実が相違する問題であって、菊地君が「そんな事はない、それは配給のタバコを配る者がテーブルの上に置き忘れたものだから、自分が戸だなにしまっておいたのだ、工場に問合せてくれれば判る」といいますと、警察官は出て行きましたが、やがて戻って来て、「なるほど、工場に問合せたら、確かにお前のいう通りだった」というので、それでは直ぐ帰して貰えるのかと思うと、そうではなく留置場に入れられて、翌日松川事件の事を調べられ始めたのです。つまり警察では労組の幹部を狙いながら、国鉄側からは幹部でもなければ共産党員でもない赤間少年を傷害容疑で、又東芝松川工場側からは、これも労組の幹部でもなく共産党員でもない菊地少年を窃盗容疑で、それぞれ逮捕し、事件をデッチ上げようとしたわけであります。併し菊地君の方は取調べ中に盲腸炎を起したので、止むなく釈放しなければならなくなりました。その代りにデッチ上げられたのが太田君でした。太田君は、東芝松川労組の副組長でもあり、又年も相当の年配でしたが、当時精神的に非常に動揺していました。組合の副組長になったり、入党したりしながら、思想的にはっきりした自信がなく、それらのことを後悔している上に、細君からも組合運動から手を引くように始終責め立てられていました。そういう風で動揺していたので、会社側からも、労組の切崩しに太田君に目をつけていました。そんなところを警察から狙われたわけです。それで逮捕されると、赤間君同様あの手この手で警察官に強制されて到頭嘘の自白をデッチ上げられるに至ったのです。このようにして、国鉄側の赤間自白、東芝松川側の太田白白というものができ上り、それを裏付ける具体的証拠というものがなんにもないのに、この二人の自白を証拠として、福島の国鉄労組と松川の東芝工場労組とが共謀して、列車転覆を実行したということに認定してしまったのであります。
 以上はほんの粗筋ではありますが、何しろこの事件の法廷記録は非常な厖大なもので、その一部について語っても、長い時間を要しますから、以上で大体を想像して頂くことにして、以下皆さんに興味がありそうな具体的な点を二、三拾って申すことにします。

 赤間自白は以上のようにして出来上ったものですが、それが実際上の事実とどう食違っているかというと、何処も此処も食違っているところだらけなのです。赤間自白によると、十五日に国鉄労組の事務所で列車転覆の謀議を行い、その結果として、赤間、本田、高橋の三君が国鉄側から線路破壊のために出かけることに決定し、翌十六日の晩十二時頃、右三君が永井川信号所附近で落合って、線路伝いに松川・金谷川間の現場に行き、松川から来た佐藤一、浜崎の両君と落合い、この五人で線路破壊を実行したという事になっているのですが、最初に赤間君が本田、高橋の二君と出遭ったという永井川附近の出発点そのものが、途中で変更されたりして、既におかしいのです。初めは永井川信号所の北の踏切に近い路上となっていたのが、約一丁半程離れた鈴木材木店の裏という事に訂正されます。出発した集合点が記憶違いだといって訂正されるなどは、経験則上あり得ないことですが、それはまあ大日に見るとして、次ぎに、その出発集合から間もなくのところで、永井川南部の踏切を通ったということになっています。その踏切を通って、一旦線路の向う側に出、少し行って橋のある横から、線路の堤の上に登り、線路伝いに現場へ出かけたというのですが、この永井川信号所には北側と南側と二つの踏切があります。北の踏切には踏切番人がいますが、南の踏切は普段は番人が居りません。それで最初に出来上った赤間自白では、「永井川信号所の人に見られるといけないから、わざと番人のいない南の踏切を通った」ということになっていたのです。ところがその晩は虚空蔵の祭の晩で、特に人通りが多いからというので、その南の踏切にも臨時踏切番のテントが張られ、そこに踏切番人がいたという事実を警察が後に気がつくのです。
 それでその最初の赤間自白ができ上って、二十日程経ってから、警察官が永井川信号所の線路班を訪ね、その晩に臨時踏切番をやった四人の番人を調べ、そこに臨時踏切番の出来ていた事を確かめ、且つ赤間たち三人が通ったかどうかを尋ねました。(このことは法廷記録に出ています)番人たちは三人の通ったのを見なかったと答えました。
 それから十日程して、今度は検察官が訪ねて行って、同じ質問をしました。番人たちはやはり赤間君等を見なかったと答えました。こういう事実があった後に、次ぎの調書で赤間自白は訂正され、その晩は南の踏切に臨時踏切番が出来ていたという供述が入って来たのです。それは捜査陣が事実に合わせようとして訂正させたということが記録上明瞭です。その訂正された赤間供述によると、「私は永井川線路班に四年三カ月も勤めていたので、正月と虚空蔵のお祭の晩には南の踏切に臨時踏切番のできることを知っていましたし、自分もその番をしたことがありました。併しその晩はそのことを忘れていたのです。そして夜が暗かったので、踏切に近づき、テントにぶつかってハッとしました。しかし幸い踏切に人が出ていなかったので、急いで通り越しました」という事になって来たのです。ところが、この訂正された赤間自白は、その晩の南踏切の情況と甚だしく相違しているのであります。第一審の判決では、その訂正された赤間自白通りに認定されたのですが、第二審になって、鈴木裁判長が、証人として出廷した線路班の人に、迂闊にこれは裁判長として迂闊だったに違いない――その晩の踏切附近の燈火のことを訊ねてしまったのです。すると証人は、その晩張ったテントは、別の場所で半分使っていたので、その踏切に使われていたのは半分で、天井はあるが、三方に幕が垂れていなかったこと――つまり赤間たちがテントに近づいたということになっている方の側にだけ幕が垂れていて、他の三方には幕が垂れていなかったこと。――三方はテントの中から見通しだったわけです――そして天井に合図燈を二つ下げたこと――その光で将棋が指せたというのです――その上更にその晩は特に永井川の駅長から六〇ワットの電球を借りて来て、これをテントの横の電柱につけて、テントの上や踏切や道路を照らし、道を通る人の顔も明瞭にわかったこと等を答えました。これは赤間自白では夜が暗かったので、踏切まで来てテントにぶっつかってハッとしたというのですが、夜は暗かったけれども、踏切の附近は暗くはなかったわけです。法廷記録には踏切までの道がどういう道であるか書いてないので、念のため私はそこに行って見ましたが、それは田圃の中の一間幅の道でした。横幅が私の足で三歩ですから一間幅ということになるでしょう。人の踏むところが一間幅で両端に草が生えてそのまま田圃の中に落ち込んでいる道――よく田舎にあるあの道です。それが田圃の中を通って、汽車の線路と交叉する。線路は田圃より小高い。道がだらだらと昇りになって行って、線路に近づくと、線路の手前が砂利場になっている。その砂利場の左側にテントが張られて、臨時踏切番が出来て、四人の番人が番をしていたわけであります。そこにさしかかる道は今申したように一間幅で、無論木立はないし、隠れるところはありません。そして赤間君たちが近づいて行った方角だけ幕が垂れているが、他の三方は幕がないのですから、そのそばを通る時には、テントの中から見通しのわけです。直ぐ目の前の六十ワットの電燈に照らされたところを、三人の男が通ったというのです。テントと道との間は一間そこそこです。それだのに四人の番人は三人が通ったのを見ないと言うのです。これは三人が通らないと見なければなりません。それも他に人通りの多い時刻なら見紛うということもありますが、十二時前に小雨が降ったので、道行く人が絶えてしまったことが記録上明らかなのです。大体二時まで番をしている予定のところが、通る人がなくなったので、十二時十五分にはテントを片づけてしまったというのですから、赤間君等三人が通ったことになっている十二時五、六分過ぎた頃には、もう人通りが絶えていたということが確かであります。そういう時もし足音が聞えてくれば、番人が四人いたのですから、たとえ四人が四人とも道と反対の方を向いていたとしても、だれか一人位は足音のする方を振り向かなければなりません。赤間自白によれば、暗かったのでテントにぶつかってハッとした、というんですから、そこまで来るのに警戒して足音を忍ぶなどということはあり得ない。自分はズック靴をはいていたけれども、他の二人は皮の靴をはいていたというのですから、どうしても足音はするはずです。ところが、テントの中の四人は三人の足音も聞かなければ通ったのも見ないと証言しているのです。それに赤間君は虚空蔵のお祭の晩と正月とには、ここに臨時踏切番の出来ることを知っていたし、自分もまた番をしたこともあるが、その晩はその事を忘れていたといっても、真暗の中に踏切のところだけ六十ワットの電燈がついていれば、そこだけ明るく浮き上っているわけです。晴ければ暗いほど、そこだけ際立って明るいわけです。田圃の中から二町も三町も先から電燈に気がついて、そうだ、今夜は臨時踏切番ができている晩だ、と考えない筈はないのです。「暗かったので、テントに近づいてはっとした」という赤間自白は、その晩のその踏切の情況とは全然異った情況です。
 これを見ても赤間自白が事実と食違った虚偽であることが明瞭なのですが、第二審の判決文を見ると、裁判長自身燈のことを尋ねながら、その事は素知らぬ顔をして、燈について一言も述べていません。そして踏切のところに人が出ていなかったという赤間自白は、証人の言うことと符合するなどと言っているのです。そして「右テント内にいた工手達(番人)が赤間被告等の通行を気がつかなかったとしても、赤間被告等が通行しなかったとは断定できない」という「可能性」によって赤間君ら三人が通ったことにしてしまっているのです。若し皆さんがその踏切を実際に御覧になれば、そんな可能性で、通ったことにしてしまえるような場所でないことがお解りになると思います。この踏切を通っていなければ、その晩赤間君らが、線路伝いに線路破壊になど行く筈がないのですから、此処一つ見ても、赤間自白が虚偽であることは明瞭です。それを裁判官は強引に可能性で赤間君らを通ったことにしてしまい、被告全員を「黒」に追いやろうとしたのです。実際、言葉の可能性だけならばどんなことでも言えます。ラクダが針のめどを通れないとは限らないとでも言えます。併し事実上、ラクダは針のめどを通れはしない。それと同じように、目の前の燈に照らされた一問幅の道を三人の男が通って行くのを、四人の番人が気がつかなかったとしても、三人が通らなかったとは限らないと、言葉だけなら言えないことはない。併し実際上ではラクダが針のめどを通れないように、四人の番人に気がつかれずに、この踏切道を三人が通ることなど絶対にでき得る筈はない。
 以上は一例に過ぎませんが、肝心かなめのところを、確実な証拠によらずに、可能性で押しきり、それを事実にすりかえて行くのが、この判決文のやり方なのです。この踏切を「可能性」で通してしまったばかりでなく、そこから破壊現場まで行くのに、赤間自白は事実と食い違ってばかりいるのに、それを判決文はすべて「可能性」で通ったことに判定してしまっているのです。こんな事をしゃべっている中に、予定の時間が来てしまったけれども、(時計を見て、主催者にむかって)時間はどうなんです。まだいいんですか――(拍手)それではまだ構わないそうですから、「可能性」の例を二つ三つ。お聞きぐるしいでしょうが、もう少し聞いてください。(拍手)なにしろ私自身が三年半も判決の批評文を書きつづけながら、まだまだなかなか終らないんですから、どこをお話ししていいかわからなくなりますが、今の「可能性」についてだけもう少しお話ししましょう。
 赤間君、高橋君、本田君の三人が国鉄側から線路破壊の実行に行ったということになっている事は前に話しました。その高橋君について少し話しますが、高橋君は前に庭坂駅で転轍夫をやっていたのですが、雪の日にプラットホームと線路の間にすべって恥骨から尿道にかけて大けがをしました。二年も病院に入ったり、病院通いをしたりしても、全治しないので、とうとう廃療ということで病院通いをやめましたが、前のように烈しい労働はできないので切符切りになりました。こういう人ですから、線路の上を往復五里、その上に赤間君や本間君と出会ったところまで、高橋君の家から一里以上あるのですから、高橋君がその晩歩いたとされているのは総計七里十町近いという事になります。それだけの道を歩いて、線路被壊の実行が出来るような身体であるかどうかということも、法廷で論争の的となったところですが、その問題は今は別としても、高橋君は八月九日から細君と生れて半年程の赤ん坊をつれて、郷里に墓参に行ったり、細君の実家に墓参に行ったりしていて、十六日の夕方福島に帰って来たのですから、十五日の謀議などに出席できる筈がない。それであるから、十六日の夜の十二時頃に赤間君や本田君と線路破壊に出かけるなどという約束はしない。それを判決文は、何の証拠も示さずに、「誰かが高橋に連絡した」というのです。誰かが連絡したということは、法廷記録のどこにもないのに、勝手に判決文は「誰かが連絡したので、高橋が鈴木材木店の横の集合地点に集まった」と判定するのですから、目茶苦茶な話です。尚高橋君は最初は赤間自白の中で十五日謀議の列席者の一人にされているのですが、福島にいなかったというアリバイが余り明瞭なために、後に訂正されるのです。それも亦おかしな話で、此処にも捜査陣のデッチ上げのカラクリがあるのですが、そういうことを詳しく喋っている暇がありませんから、一切省くことにします。とにかく高橋君は自分の実家に行ったり、細君の実家に行ったりして、十六日の夕方福島に帰って来ました。帰って来るとその足でミシン屋に寄って、細君のためミシンを買っているのです。高橋君はやはり七月に馘首された人ですが国鉄に勤めていたのが長かったので、退職手当も多く、又次ぎに就職もきまっていましたので、生活には困ってはいなかったのです。一万四千円を一時払いして細君にミシンを買ってやったということを考えても、国鉄の労働者としては生活に余裕があったと見るべきでしょう。それに国鉄は馘になっても、次ぎの仕事は既にきまっているし、生活にさしずめ不安はなし、愛妻との間に生れて半年程の赤ん坊がいるし、線路破壊などというヤケのヤンパチのテロ行為にかりたてられる理由は凡そないのです。こういう点も人を裁判する者はよく考慮すべきであると思います。
実家に帰ったり、細君の郷里に行ったりして、とにかく十六日の夕方に高橋君は、妻子をつれて福島に帰って来て、その足でミシン屋に行って、一万四千円を一時払いして、細君のためにミシンを買い、ミシン屋がリヤカーに積んで、ミシンを運ぶのを後から押しながら、家に帰って行ったのです。家といっても二階借りですが、その二階に帰るとそれから夕御飯を食べ、そして細君と赤ん坊と、その二階を貸して呉れている家主の鈴木セツさんというお婆さんの十歳になる孫とを連れて、盆踊を見に行っています。そして九時半か十時ごろに二階に帰って来ると、細君はミシンを買った嬉しさにガチャガチャやり始めましたが、十一時になったので、高橋君は、ほかの部屋の人に悪いからもうやめろといってそれを止めさせ、そして夫婦は寝たわけなのです。それは生れて半年目の赤ん坊を持った若い夫婦の平和な生活図です。ところが赤間自白によると、この高橋君が十二時頃突如として永井川の近くの鈴木材木店の横に現れて、本田君や赤間君と落合ったということになるのですが、高橋君が鈴木セツ方の二階から下りて行ったのを見た者もないし、高橋君が出て行ったという証拠は何一つありません。それだのに判決文は此処でも亦「可能性」によって、高橋君が二階から下りて、永井川の近くで赤間、本田の両君と落合って、線路破壊に出かけたことにしてしまっているのです。
 その二階の梯子段は検証の結果、ギシギシ音を立てるということが解っています。そしてその梯子を下りて玄関に出て行くのには、家主の鈴木セツというお婆さんが蚊帳を吊って寝ている部屋を通らなければならない。そこを通らないで台所から出ようとすると、台所のガラス戸の敷居は又レールが曲っていて高音を立てる。検証の結果そういうことが解っているのです。鈴木セツは警察に調べられたり、証人として法廷に立ったりしていますが、高橋君が出て行ったのを知らない、と述べています。
 ところが判決文はこういうのです。「夜のことで鈴木セツは寝ていたし、夜遅くお客さんが帰って来ることに気がつかないこともあるということであるから、たとえ鈴木セツが高橋被告が二階から下りて外に出て行くのに気がつかなかったとしても、高橋被告が出て行かなかったとは限らない」と。こういう「可能性」でもって高橋君が二階から下りて外に出て行き、永井川附近で赤間、本田の両君と落合ったと認定しているのです。 出て行ったならば又帰って来なければならない。ところが鈴木セツはその翌朝は夏時間の五時というのですから、普通時間の四時ですが、その頃から起きて働いた、併し高橋君が帰って来たのを見ないと証言しているのです。それを又判決文は、「鈴木セツは夏時間の五時から起きていたのであるから、もし高橋が帰って来れば、当然気がつくはずだという弁護人らの論旨は一応もっともではあるが、併し、朝のことではあり、鈴木セツは働いていたに違いないから、鈴木セツの行動、および高橋被告の行動いかんによっては、高橋が鈴木セツに知られずに家に入り、二階に上らなかったとは限らない」といって、高橋被告が帰って来たことにしてしまっているのです。出て行ったのも可能性、帰って来たのも可能性、その可能性を事実とすりかえて、犯行を認定してしまっているのです。
 その晩高橋君と同じ二階に寝ていた奥さんは、高橋君が一晩中自分の側に寝ていた事、夜中に赤ん坊のおしめを取換えるために何度も目をさましたが、いつでも良人は側に寝ていたことを証言していますが、それは妻の証言であるというために、一顧をも与えられません。それを憤慨した武田久被告(この人は第二審では無罪になった)が、「良人の夜の行動について妻の証言が信用されないというのであれば、われわれは身のアカシを立てるために、夫婦の寝室にいつでも警察官でも寝かしておかなければならないではないか、」と怒鳴ったのももっともであると思います。
 次ぎに本田君の事を述べましょう。本田君は十六日の晩はお盆のことで、武田君の家に先祖の法事があったので、鈴木、阿部、岡田(いずれも被告人)の諸君と一緒にそこに招ばれて行ったことが記録上明らかで、その事は判決文も認めています。武田君の弟さんが田舎から友達と一緒に焼酎一升を持って出て来ました。又他の親類から清酒五合を届けてくれました。その外に合成酒を三合(又五合ともいいます)を後から買い足しました。それを六人(阿部君は飲まない質なので)で飲んだわけです。本田君は元来酒の弱い質でしたが、その時恋愛問題で煩悶していました。それは労組事務所の書記をしている娘さんですが、その好きな娘さんが二、三日前にほかの男と夕方歩いていた後姿を見たということで煩悶していたわけです。そのためにその晩は無暗に飲みました。飲んでその娘さんの事をいい出したので、岡田君がセンチだといってからかったのです。そのために本田君と岡田君は恋愛論を闘わしながら、二人ともむやみに飲んだのです。如何に酔ったかというと、岡田君はそこに酔潰れてしまったので、鈴木君と阿部君とで鈴木君のところまでかついで行かなければならなかった程でした。本田君も酔払って嘔吐したりしたけれども、みんなが帰って行った後、尚武田君の妹さんの久子さんを相手に縁側のところで愛情問題を論じていました。それはその好きな娘さんと久子さんとが学校の同級生だったので、久子さんに向って余計訴えたかったわけなのです。武田家ではあまり酔払っているから泊って行ったらどうかと本田君にいいましたが、どうしても帰るというので、心配した久子さんが途中まで送って行きました。二人は尚も変愛論を続けながら歩いて行き、これから二人でその娘さんのところに行って見ようかという話になり、その方へ向って足を向けましたが、本田君がこんなに酔払っていては失礼になるから止そうというので、止めることにしました。そんな風にして駅に近い辰巳屋という旅館の前まで送って行って、久子さんは「お大事に」といって本田君と別れて帰って来ました。
 以上は武田久子さんの法廷における証言ですが、久子さんの外にも本田君がその晩非常に酔払ったということについては沢山の人の証言があります。併し判決文は、その晩は本田君が赤間君や高橋君と線路破壊の実行に行ったことになっている晩ですから、酔払ったことにするわけに行かないので、珍妙な理屈を並べ立てて、本田君を酔払わないことにしようとしています。此処の判決文は実に面白いのです。先ず判決文は酒の量を計算して次ぎのようにいっています。――各人酒の量を異にするものであるから一概にはいえないが、併し焼酎一升、清酒五合、合成酒三合は、六人の男が会食の時に飲む量としては決して多い量とはいえない、従って泥酔又はそれに近い程酩酊するとは考えられない、とこういうのです。
 如何ですか。焼酎一升、日本酒八合というのは、六人で飲むのに大した量ではないですか。僕は酒の飲めない質なのでよく解りませんが、皆さん、考えて見て下さい。
併し右のような論法は判決文などに使うべき正しい論理ではないと思います。今の論法を逆にすれば、結果はあべこべになってしまうからです。焼酎一升、清酒五合、合成酒三合は、六人が会食の時に飲む酒としては大した量とは思われないが、併し各人酒の量を異にするものであるから、泥酔しないとも限らない、とこういえば泥酔したことになってしまうではありませんか。
 こんな論理の遊戯で、酔ったものを酔わないことにするなどということは、厳正なるべき判決文に用いるべき論法ではありません。更に判決文は本田君を酔わないことにするために、世にもとぼけた三段論法を案出しています。それは武田久子さんが本田君を送って行った情況についてこういっているのです。
 武田宅にいた頃から嘔吐をする程酔っていたとすれば、本田は苦しくて口を利く気力などなかったに違いない。たとえ愛情の問題であっても、議論などするとは考えられない。もし議論したとすれば、それはクダをまいたに違いない。クダをまいたとすれば、水商売でもない武田久子が、盆踊りなどで賑わっている福島の町を、一緒に並んで歩いて行くなどとは考えられない。(逃げ出した筈だというのです。)しかるに武田久子は本田と二人で肩を並べて歩いて行ったというのであるから、本田は一応しゃんとしていたと見るべきである。つまり泥酔してなどいなかった筈だというのです。こんな目茶苦茶な三段論法、四段論法があるでしょうか。何か心にあって酔払った時と、何もなくて酔払った時と、その酔い方が違うものであるなどという事は今更説明するまでもないことです。愛情の煩悶があって酔払えば、他の事は一切解らなくなってもその事だけが頭に冴えて来るものです。――とにかく右の論法によって、本田君が酔わないという証拠は一つもないのに酔わないことにし、「本田が酔払っていたという各証人の証言は措信するに足らず」というのですから、その乱暴さは、驚くべきではありませんか。これが判決文の論法なのです。
 何故こうまでして本田君を酔払わないことにしなければならないかというと、赤間自白によると、その晩本田君は線路破壊の実行に行ったということになっているので、その赤間自白を被告人全体の有罪の証拠とするためには此処で本田君が酔わないことにしなければならないからです。酔えば線路の破壊になど出かけられないからです。かくして本田君は酔わないことにされ、死刑の宣告を受けているのです。
 武田久子さんと別れてから、本田君は家に帰ろうと思ったが、それからまだ三十分も歩かなければならない。酔は益々苦しくなって来た。そして国鉄労組の事務所に行って、そこの宿直室の畳の上にぶっ倒れて寝てしまいました。本田君が労組事務所の畳の部屋にその晩泊ったということを証言している人は九人もいます。その晩その事務所の畳の間には、四人の人が泊っていました。中でも木村泰司という男は、酔払って転がり込んだ本田君に毛布などかけてやったりしました。そして本田君が逮捕されて後、そのことを皆に吹聴していたのです。それが警察に四度喚ばれるに及んで、その頃本田君が酔って転がり込んで来たことはあったが、それが八月十六日の晩ではなかったと、今までいっていたことと違ったことをいい始めたのです。この木村という人物の変更した供述一つによって、本田君は泊らなかったと認定されてしまったのです。木村が警察に喚ばれない前に、大塚弁護人が木村の供述録取書を取って置きましたが、それによると、本田君が酔って来たので、自分が介抱して寝かしつけてやったと述べていますし、警察に喚ばれても、最初は大塚弁護人に述べたのと同じことを述べているのですが? 四度喚ばれるに及んで、それを変更したということを考えて下さい。この人物は警察でご馳走になったという事を友達に得意気に吹聴したり、第一審の法廷で本田君や高橋君に不利な証言をした後では、主任検事から飯坂温泉に匿まって貰ったりしているような奇怪な人物なのです。併しその法廷での証言は、被告人諸君から反対尋問を受ける度に、そのいう事が変って来て、支離滅裂なものになっています。そのために、裁判官は本田君が泊らなかったという根拠を木村証言に置きながら、それを証拠として判決文に書くことはできないのです。それ程それは矛盾だらけなのです。そこで木村証言を蔭に隠してしまって、本田君が泊ったといってそのアリバイを肯定している他の証人たちの証言を、本田君が泊らなかったことの証拠にすりかえようとして、苦心惨憺しています。その例を二つ三つ挙げますと、その晩は事務所の畳の間に、木村の外に、松崎、村瀬、小尾という三人が泊っていましたが、三人とも本田君が泊ったということを証言しているのです。松崎は本田君が酔払ってころがり込んで来たことは眠っていて知らなかったけれども、夜中の一時か二時頃便所に起きると、誰かが毛布をかぶって寝ていたので、便所から帰って毛布をめくって見たら、それが本田君だったので、毛布をかけ直してやって、自分は寝たと証言し、村瀬は夜中に何処からか電話がかかって来て、木村が本田の名を呼んで起していたので、本田君の泊ったことを知ったと証言しています。また小尾は国鉄労組事務所内に同居している地区労に属する娘さんで、前日東京から来たばかりで人々の名は知らないのですが、黒いズボン(本田の服装に符合)を穿いた国鉄の人が、夜中に電話に出ていたと証言しています。これ等の証言は本田君のアリバイを明らかにしている証言です。
 ところが、判決文はこれ等の証言の中から、証人達が寝ていて本田君が来た時を知らなかったという部分を取り、「若し本田が酔って来て、木村に介抱されて寝たような場面があったとしたら、如何に寝入りばなとはいえ、松崎や村瀬が限をさましてそれに気がつくのが自然であり、気がつかないことこそ寧ろ不自然である。然るに松崎、村瀬は本田が酔って来て木村に介抱されて寝た場面を知らないというのであるから、その事はそういう場面がなかったことを示すものである」という理屈を生み出すのです。つまり本田が来た時の事を、松崎や村瀬が知らないということは、本田が来なかったことを意味するものだ、というわけであります。それなら、松崎の、「夜中に便所に起きると、誰かが毛布をかぶって寝ていたので、便所から帰って毛布をめくって見たら本田君だったので、又毛布をかけ直してやり、自分は寝た」という証言をどう見るのであろうか、というと、これには驚くべき強引な否定の仕方をしています。それは「松崎は夜中の一時か二時頃、本田が寝ているのを見たというだけで、その後朝までの本田の行動について述べていないのであるから、その証言は措信するに足らない」というのです。一体法廷に立った証人というものは、自分勝手にただ喋るのではなく、裁判官なり、検察官なり、弁護人なり、被告人なりから質問されたことについてだけ答えるものなのです。それが証人の役目なのです。それであるから質問されないことには、何も答えないのが証人としてはあたりまえであります。その事を誰よりも一番よく知っているのは裁判長の筈です。私はその時の法廷記録を仔細に調べてみましたが、松崎証人に向って、「便所から帰ってきて、本田に毛布掛けて寝かしてやった後、本田は朝までどうしたか」と尋ねているものは誰もありません。検察官も弁護人も被告人も裁判官も誰もそんなことは尋ねていません。尋ねていないのですから、松崎証人が何も語っていないのは当然のことです。そればかりでなく、寝ている本田君に毛布をかけてやって自分も寝たのです。眠らずに朝まで本田君の行動を見守っていたのではないのです。自分も寝てしまったのですから、朝までの本田君のことを知らないのはあたりまえでしょう。
 この松崎の証言は第二審の法廷における証言ですから、若し第二審の裁判長が「朝までの本田の行動について述べていないから松崎証言は措信するに足らず」と判決文に書くならば、自分でそのことを松崎証人に向って尋ねて見るべきでしょう。松崎証人は裁判長の直ぐ眼の下の証人台に立って証言していたのです。尋ねて見て松崎証人の答がアイマイで疑わしいというなら何といってもいいでしょう。併し法廷記録によると裁判長は尋ねていません。尋ねもしないでいて、その証人が何も述べていないから、その証言は措信するに足らずというに至っては言語道断です。
 この松崎証言は何処から見ても本田君のアリバイを証明しているものです。それをこのように歪曲して、本田君のアリバイ否定に裁判官は逆用しようとするのです。
 又松崎証言には、夜中に電話がかかって来て、木村が出たが、本田君は寝ていて電話には出なかったようだということがありますが、それを判決文は又、本田が電話に出なかったということは、本田がそこにいなかった証拠だというように持って行くのです。総てこういう論法なのです。前に話しましたように、本田君がその晩国鉄労組に泊ったことを証言しているのは、九人もいるのですが、それ等の人達の証言を、裁判官はみんな右の筆法で否定してしまうのです。今それを此処で詳しく述べている時間はありませんが、そういうやり方で本田君がそこに泊ったという総ての証拠を否定し、赤間、高橋君らと線路破壊に行ったことにし、第二審の裁判官(第一審の裁判官も)は本田君を死刑と判決しているのであります。
 以上はこの裁判において裁判官が事実を歪曲した例でありますが、単に事実を歪曲するばかりではなく、時によると重大な証拠の捏造さえもやるのであります。
 国鉄労組と東芝松川労組とが共同謀議して、協力してこの列車転覆を行なったというのが、検察側の主張するところであり、裁判所側の認定するところでありますが、その国鉄側と東芝側とが共同謀議をしたということは、太田自白の外には証拠が一つもありません。その太田自白によると、八月十二日に国鉄側から東芝側の杉浦組合長に電話がかかり、翌十三日に相談したい事があるから来てくれと言って来たので、杉浦君が自分が行かれないから太田君と佐藤一君に行ってくれと言ったために、太田君と佐藤一君とが十三日に福島に出かけて行って、国鉄労組の者たちと列車転覆の謀議をした。――これが十三日謀議、つまり第一回の国鉄・東芝共同謀議です。その第一回の謀議が終った時、その謀議の座長を勤めていた武田久君(国鉄労組福島支部委員長)が「もっと具体的なことを相談したいから、十五日にもう一度集まって貰いたい」と言ったので、十五日に集まってまた謀議をした。――これが十五日謀議、つまり第二回の国鉄・東芝共同謀議です。太田自白によるとこの十三日、十五日との二回、国鉄・東芝の共同謀議があったということになっているのです。第一審ではそれがそのまま認定されましたが、第二審では、太田自白が余りに矛盾だらけなので、十二日の電話連絡及び十三日謀議というものはなかったものと認定されました。この十三日謀議が不存在になったので、座長を勤めた武田久君は第二審判決では無罪(第一審判決は無期)になったわけであります。十三日謀議がなかったものとされ、武田君が無罪になったのですから、従って武田君が十五日謀議を召集する筈はありません。即ち十五日謀議なるものの成立の動機がなくなったのであります。従って十五日謀議も存在しなかったものと認定されるのが当然なのでありますが、併し十五日謀議もなかったことになれば、国鉄側と東芝側とが協力して列車転覆をしたということは、空中楼閣に過ぎないことになり、全員無罪ということにならなければなりません。本来ならばそうなるべき道理であります。ところが被告人達を有罪にするためには、どうしても十五日謀議だけでも成り立たせなければならないと、第二審の裁判官は考えたのではないかと思います。何故かというと甚だしい証拠の捏造をやって、あくまで十五日謀議は存在したと認定しているからであります。その事をお話ししましょう。
 検察側の主張でも、又検察側がそれの証拠としている太田自白でも、十五日謀議は十三日謀議の終った時に、武田君が召集したことになっています。ところが十三日謀議は存在しなかったことになり、武田君は無罪になりました。それでは十五日謀議の成立つ動機もなくなるので、何とかしてその動機を案出しなければならないと裁判官は考えたらしいのです。
 十三日謀議はなくなりましたが、太田君が十三日に他の用事で福島に出て行ったことは確かであり、その際国鉄労組に立寄ったことも確かであります。判決文はそこを掴まえて、何とかして十五日謀議成立の動機を見つけようとしたのであります。そしてこういうことを案出しました。
「太田自白は矛盾や食違いが多くて、それによって十三日謀議の存在を認めることはできないが、併し十三日に太田被告が国鉄労組事務所に立寄った際、国鉄側被告の誰かが、十五日に列車転覆の相談をしたいから、東芝側からも参加して貰いたいと太田被告に申入れたという程度においては、太田自白は信用できる」というのであります。これは実に珍妙な言葉であります。これを言い直して見ると、「太田自白は矛盾が多くて、その言ってることは信用できないが、言っていないことでそれは信用できる」ということになるのであります。何故かというと、「国鉄側の被告の誰かが十五日謀議を連絡した」などという事は太田自白には全然ありません。太田自白にあるのは十三日の謀議の終る時、「武田がもっと具体的に相談したいから十五日に再び集まってくれと言った」ということであります。その太田の供述が信用できないので、十三日謀議もないことになり、従って武田君は無罪になったのですが、太田君が言っていない「国鉄側の被告の誰かが十五日謀議を連絡した」という程度には(程度というのはおかしな言葉です)太田自白が信用できるというのですから、これは言葉としても体をなしていません。併し言葉として体をなしていないというだけなら笑って済ましても好いのですが、笑って済まされないのは検察側の起訴理由にもなければ、その証拠とされている太田自白にもなく、又あらゆる法廷記録にもない「国鉄側被告の誰か」というものが、武田君に代って、十五日謀議の連絡者になっている事であります。これは第二審の裁判官が勝手に証拠を控造したものであります。これは一体どういうことになるでしょう。武田君が十五日謀議を召集したという検察側の主張は、法廷で被告人側弁護人側によって十分論駁し尽されたのです。その結果、裁判官もそれを認めることができなくなって、十三日謀議はなかったものとして、座長武田君を無罪にしたのであります。ところが、公判廷での取調はすっかり終ってしまった後になって、判決文の中でいきなり裁判官が「国鉄被告側の誰かが」というものを持出したのでは、被告人も弁護人も、それを反駁することはできない。それは被告人の防禦というものを全然無視揉欄した裁判官の不法措置であります。若し裁判官が「国鉄側の被告の誰か」が連絡したと認める理由を発見したならば、検察側の起訴理由を変更させ、それを法廷に出して、被告人側の検討にまかすべきであります。それを公判が終った後、被告人の防禦権を行使できない判決文の上で、裁判官がかかる証拠の捏造をするということは、憲法の精神を無視した違法行為であります。
 このように驚くべき違法を犯してまでも、証拠のない十五日謀議を成立たして、それによって被告人諸君を有罪にしようというのが、松川裁判の裁判官の魂胆なのであります。
 さて判決文の中に現れたわざとらしい事実の誤認や、意識的な証拠の歪曲、捏造等を挙げているとキリがありません。以上はほんの一部分の例でありますが、裁判官のこの裁決に対する意向はほぼお解りになったことと思います。併しそれは事実の誤認や証拠の歪曲、捏造にとどまらず被告人諸君を不利にするためには、検察側も裁判所も、意識的に法律の意味を曲解しているのであります。私は自分が法律には素人であるという意識から、この裁判を批判するにも努めて法律問題に触れず、事実や証拠の解釈の上で、納得の行かない点を指摘するに止めて来た。私は『中央公論』に批判文を連載するのに、約三年間はこの心構えでやって来ました。併し判決文や法廷記録を調べれば調べる程、やはり法律問題に触れなければならなくなって来たのであります。
 法律というと、皆さんの多くは、甚だ難解で無味乾燥で退屈なものとお考えになるかも知れませんから、憲法何条とか、刑法何条とか、刑訴法何条とか、そういう法律の条文については語らないことにします。併し法律はわれわれの常識で理解できないものではないのであります。先ず松川裁判でおかしいのは、この裁判で最も重要視されている被告人太田や、その他いわゆる自白組の被告人達の公判以前の検事調書や判事調書が被告人以外の者の調書として法廷に出ていることであります。これは松川裁判ばかりでなく、他の裁判でも、こういう手続きが当然のこととして認められているようでありますが、被告人の調書が被告人以外の者の調書として、法廷に証拠として持出されるということは、何としても奇異なことであります。
 それに被告人の供述調書として出されたのでは、自己に不利益なことを述べた場合にのみ、そしてその供述が真実であると認められる場合の外は証拠になりません。そしてそれは被告人自身についての証拠になるだけで、他の被告人たちの証拠にはなりません。そこで被告人の供述調書を、他の被告人らに対しては、被告人以外の者、即ち第三者の供述調書として出して、他の被告人等に対する証拠等に対する証拠たらしめようとするのであります。
 それをどういう手続きでやっているかという事は、私は十月号(三十二年)の『中央公論』の「田中最高裁判所長官に訊ねる」の中に詳しく書いて置きましたから、興味を持たれる方は、それをお読み願いたいと思います。それは担当検察官と担当裁判官との協議の上で、自白した被告人を法廷で他の被告人から分離して、被告人以外の者として証人尋問をし、それが公判以前に検事や判事の前で語ったのと異った事を述べた場合、「被告人以外の者が、公判廷で公判以前に検事や判事の前で述べた事と違った事を述べた場合には、前の検事調書や判事調書を、証拠として出せる」という法律で(刑事訴訟法にそれがあるのです。)被告人以外の者の供述調書として、被告人のものを法廷に証拠として検察側から出して来るのです。併しこれは担当検察官と担当裁判官とが協議の上、手続き上被告人以外の者(証人)として取扱ったというだけで、前に挙げた刑事訴訟法に於ける「被告人以外の者」ではありません。それですから、右の被告人の公判以前の公判調書を、「被告人以外の者」の調書として出す事は、違法なのであります。併しこういう違法を、検察官も裁判官も、無反省に犯しているのであります。こういう事については、国民は法律が正しく運用されているかどうかを、注意深く見守って、それが、裁判官や検察官によって正しく運用されることを要求しなければなりません。
 この検察側が被告人を被告人以外の者として公判廷で証人調べを裁判官に請求し、裁判官がそれを職権で許可するという違法(新しい刑事訴訟法では、訴訟当事者たる被告人を、裁判官が法廷で尋問することはできないのであります。それを証人とすれば尋問できるという勝手な解釈をして、その刑事訴訟法の精神を蹂躙しているのであります)は、法廷ばかりではなく、捜査段階から既に行なわれているのであります。それはこういうことであります。被疑者として逮捕された赤間なり、太田なりが捜査官に自白をすると、その自白調書を検察官が裁判所に送って、裁判官に証人尋問を請求し、裁判所がそれに応じて、赤間、太田を証人として尋問して、その証人尋問調書を作成していることでありますが、予審制度の廃止された今日では、裁判官が被疑者を調べることは許されていないのであります。それを検察側では被疑者以外の者という名義で太田や赤間の証人尋問を裁判所に請求し、裁判官は被疑者以外の者として太田、赤間を証人尋問しているのであります。裁判官は被疑者を尋問はできないが、被疑者以外の者なら尋問できる。そこで被疑者を被疑者以外の者として尋問しているのであります。これも違法であります。――今は詳しく説明している時間がありませんから、興味を持たれる方は『中央公論』十月号に私が書いている文章をお読み願いたいと思います。
 何故こんな違法を犯すかというと、自白以外に証拠がないこの事件で、自白を証拠能力あるものにしたいためであります。検察側と裁判所側とが、協力して、違法を犯してまでも、赤間や太田の自白調書が証拠能力があるということにしようとしているのであります。
 ところがそればかりではない。第二審の裁判官は驚くべき独創的な法律論を案出して、検察側が被告人の調書を被告人以外の者の調書として法廷に証拠調べに提出するのに対応しているのであります。それは「被告人以外の者が、被告人がかくかくの事を喋っていたといって検察官に述べると、被告人の反対尋問を受けずに、被告人に対して証拠能力があると見るべきが刑事訴訟法の精神だ」という驚くべき法律論であります。これはとんでもない事で、誰かが検察官にあなたがかくかくの事をいったと告げると、それがあなた方の反対尋問を受けずに、あなた方に対して証拠能力があるというのですから、これは安閑としてはいられません。いつ検察官に対して、あることないこと密告する者がないとは限らない。そしてその密告が密告された者にとっては、そのまま証拠能力があるというのですから、堪ったものではありません。第二審の裁判官は詭弁によって、そういう法律論をやっていますが、刑事訴訟法の何処を調べても、そんな馬鹿な「精神」などはありません。併しそれを刑事訴訟法精神だとして、佐藤一被告が太田に話したと太田が供述している調書は、そのまま佐藤一被告に対して証拠能力があり、鈴木、二宮、阿部、本田などの諸被告が、謀議の席上でかくかくの事をいったと赤間が述べている調書はそのまま鈴木、二宮、阿部、本田に対して証拠能力があるものだ、と第二審の裁判官はその間違った法律論によって認定しているのです。法律はこれ等の検察官によっても裁判官によっても、正しく運用されてはいないのです。
 日本の法律はなかなか好い法律であります。それが正しく運用されていれば、国民の人権はもっと守られるべきなのです。――それが正しく運用されることを国民は要求し、且つ監視すべきであると思います。これは裁判所に対する侮辱ではありません。裁判所に対する国民の協力であります。私が松川裁判を批判していることを、田中最高裁長官なんかは雑音と称して裁判を侮辱するものだというように解釈しているようですが、とんでもない話で、日本の裁判というものの窮極の公正さを信じなければ、三年半も書き続け、訴えつづけられるものではありません。ですから国民が監視するということは裁判所自身もほんとは協力だと思って、身を締めてやって貰いたいのです。日本で裁判だけは信用できるものにしてくれなければ困ると思います。(拍手)
 法律はどんな風にでも解釈できるというものではなく、ほんとうの解釈は一つしかない、という考え方が検察官にも裁判官にも足りない。それで都合の好い理屈をつけて、前に述べたように松川裁判などはやっているのです。そういう点、国民の協力によって、もっと厳にやって貰わなければならないと思います。私の裁判についての話をこれで終ります。(拍手)
                        
2010.05.20 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
1948年に成立した「軽犯罪法」に中野重治が反対意見を述べている国会演説を全集から引用して掲載する。1948年4月30日の日付である。この法律については、95年のオウム事件当時、信者に対して限度を越えて目茶苦茶な乱用がなされていたという記憶が今もつよく残っているのだが、この法律そのものが中野重治が言うように在ってはならないものなのか、それとも適切な適用がなされれば法自体はそう危険視する必要のない法なのか、この点をこれまでつきつめて考えたり調べたりしたことがない私には今残念ながら判断がつかない。ただこの演説を読んで、そこに並々ならぬ気迫と格調の高さがみなぎっていることを感じ、感銘を受けた。法案の本質・核心に焦点を絞ってそこから決して目を離そうとしない、その一点だけを問題にし、議論するという決意が疑う余地なくはっきり見えるように思う。国会で時にはこのくらい中身と迫力のある政治家の演説を聞いてみたいものだが、ないものねだりだろう、叶えられる可能性は当分ありそうにない。ウェブサイトで検索してみたところ、この演説は「参議院会議録情報」にも載っていることが分かったが、全集収録に際して多少言葉遣いの変更がなされているようなので、こちらのほうを採用した。


 軽犯罪法案反対 (全集23巻「国会演説集」)
日本共産党はかかる堕落した法案には賛成することができない。我々にとつて何が大事であるか、これは基本的人権であることは言うまでもない。日本の人民は、この基本的人権を、あの大きな戦争の犠牲をとおして保障されるまでに至つたのである。このことを我々は少しでも忘れてはならない。この大きな犠牲を払って、己れの基本的人権を保障されるところまでわれわれが漕ぎつけることができた結果なにが生じたか。人民から奪われていた生産物が、物質と精神との両面にわたつてあばかれ始めた。支配官僚の腐敗が、下から正されはじめた。そこでいかにして旧支配権力は自己の破滅を救い、又その犯罪をあばかれずに済ますことができるか。彼らはそのために何に訴えたらよいか。彼らが従来訴えてきたところの治安維持法は廃止されており、更に最近までわずかに訴えてきたところの警察犯罪罰令は廃止されざるを得ないところにきている。そこで彼らは、道徳の仮面に訴えるというほどまでに堕落したのである。即ちほかならぬ「道徳」に、自己の犯罪を守ろうとして訴えたのである。ここにこの法案の狡猾さ、それにもかかわらぬごまかせぬ腐敗が見てとられる。このことは、この法案を発案した当事者がすでに認めている。多くの重罪犯すら取りしまれぬ現在の警察の質と量とによつて、ここにならべられているような軽犯罪を取りしまり得ないことは、この参議院の労働委員会懇談会で、法務庁検務局長自身が認めている。すなわち彼らにとつては、そういうことはもはや問題でないのである。問題は、ここで牙を剥かなければおのれが破滅するということである。そこで牙を道徳的に剥いたのが、この法案である。こう我々は明らかに断定せざるを得ない。ケーペルがこういう意味のことを言つている。
「人が常に常に道徳的に語り得るためには、その人はいかほどまでに道徳的に堕落していなければならぬであろう!」
彼は感嘆符をつけて書いている。これが即ちこの法案である。この法案が通過したならば、それによつて何がもたらされるか、それは、国に満ちた犯罪と腐敗とを、正して行こうとする日本人民の下からの組織的行動にたいする、支配権力側からの一斉襲撃である。この襲撃が成功したならばどうなるか。国の腐敗はいっそう進み、国に満ちている犯罪はいっそう大きく充満してくる。日本共産党は、日本の国民生活がこれ以上腐敗し、日本の国に満ちた犯罪がこれ以上大きくなることを黙つて見ていることはできない。我々はその意味で、かかる仮面にかくれた、それ自身犯罪的な法案に真向から反対するものである。(拍手)


中野重治が演説のなかでその言葉を引いているケーベルというのは、1893年(明治26年)から1914年(大正3年)まで20年余東京帝国大学で哲学を教えた人物のことだと思う。上の中野重治の引用だけでは、言葉の意味したところがもう一つはっきりしないのが残念だが、少数政党である共産党は質問や演説にあまり時間をもらえなかったのではないかと想像される。

漱石は「ケーベル先生」をはじめ何度かこの人について書いている。ケーベルの来日当時、英文科の大学院生だった漱石は、美学を教わったそうである。ついでになるが、ここで、漱石がケーベル先生について書いた文章を2点掲載する。1914年(大正3年)、東大を辞職したケーベル先生は8月12日にドイツに帰国の予定だったが、第一次大戦勃発のため帰国が難しくなり、その後も機を逸して、とうとう日本に骨を埋めることになったそうである。恩師の帰国に際して漱石が朝日新聞に書いた下記の文章「ケーベル先生の告別」と「戦争からきた行き違い」にその経過が綴られている。漱石の死去は1916年(大正5年)なので、これはその2年前の出来事であった。

「 ケーベル先生の告別
 ケーベル先生は今日(8月12日)日本を去るはずになっている。しかし先生はもう二、三日まえから東京にはいないだろう。先生は虚儀虚礼をきらう念の強い人である。二十年前大学の招聘に応じてドイツを立つ時にも、先生の気性を知っている友人は一人も停車場へ送りに来なかったという話である。先生は影のごとく静かに日本へ来て、また影のごとくこっそり日本を去る気らしい。
 静かな先生は東京で三度居を移した。先生の知っている所はおそらくこの三軒の家と、そこから学校へ通う道路くらいなものだろう。かつて先生に散歩をするかと聞いたら、先生は散歩をするところがないから、しないと答えた。先生の意見によると、町は散歩すべきものでないのである。
 こういう先生が日本という国についてなにも知ろうはずがない。また知ろうとする好奇心をもっている道理もない。私が早稲田にいると言ってさえ、先生には早稲田の方角がわからないくらいである。(略)
 私が先月十五日の夜晩餐の招待を受けた時、先生に国へ帰っても朋友がありますかと尋ねたら、先生は南極と北極とは別だが、ほかのところならどこへ行っても朋友はいると答えた。これはもとより冗談であるが、先生の頭の奥に、区々たる場所を超越した世界的の観念が潜んでいればこそ、こんな挨拶もできるのだろう。またこんな挨拶ができればこそ、たいした興味もない日本に二十年もながくいて、不平らしい顔を見せる必要もなかったのだろう。(略)
先生の金銭上の考えも、まったく西洋人とは思われないくらい無頓着である。先生の宅に厄介になっていたものなどは、ずいぶん経済の点にかけて、普通の家には見るべからざる自由を与えられているらしく思われた。このまえ会った時、ある蓄財家の話が出たら、いったいあんなに金をためてどうするりょうけんだろうと言って苦笑していた。先生はこれからさき、日本政府からもらう恩給と、今までの月給の余りとで、暮らしてゆくのだが、その月給の余りというのは、天然自然にできたほんとうの余りで、用意の結果でもなんでもないのである。
 すべてこんなふうにでき上がっている先生にいちばん大事なものは、人と人を結びつける愛と情けだけである。ことに先生は自分の教えてきた日本の学生がいちばん好きらしくみえる。私が十五日の晩に、先生の家を辞して帰ろうとした時、自分は今日本を去るに臨んで、ただ簡単に自分の朋友、ことに自分の指導を受けた学生に、「さようならごきげんよう」という一句を残して行きたいから、それを朝日新聞に書いてくれないかと頼まれた。先生はそのほかの事を言うのはいやだというのである。また言う必要がないというのである。同時に広告欄にその文句を出すのも好まないというのである。私はやむをえないから、ここに先生の許諾を得て、「さようならごきげんよう」のほかに、私自身の言葉を蛇足ながらつけ加えて、先生の告別の辞が、先生の希望どおり、先生の薫陶を受けた多くの人々の目に留まるように取り計らうのである。そうしてその多くの人々に代わって、先生につつがなき航海と、穏やかな余生とを、心から祈るのである。 

 戦争からきた行き違い
 十一日の夜床に着いてからまもなく電話口へ呼び出されて、ケーベル先生が出発を見合わすようになったという報知を受けた。しかしその時はもう「告別の辞」を社へ送ってしまったあとなので私はどうするわけにもいかなかった。先生がまだ横浜のロシアの総領事のもとに泊まっていて、日本を去ることのできないのは、まったく今度の戦争のためと思われる。したがって私にこの正誤を書かせるのもその戦争である。つまり戦争が正直な二人を嘘吐きにしたのだといわなければならない。
 しかし先生の告別の辞は十二日に立つと立たないとで変わるわけもなし、私のそれにつけ加えた蛇足な文句も、先生の去留によってその価値に狂いが出てくるはずもないのだから、われわれは書いたこと言ったことについて取り消しをだす必要は、もとより認めていないのである。ただ「自分の指導を受けた学生によろしく」とあるべきのを、「自分の指導を受けた先生によろしく」と校正が誤っているのだけはぜひ取り消しておきたい。こんなまちがいの起こるのもまた校正掛りを忙殺する今度の戦争の罪かもしれない。 」
2010.05.17 Mon l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回、三浦雅士氏の「漱石 母に愛されなかった子」という本の感想を批判的に書いたが、言いたかったのは、漱石自身が母に愛されなかったというつよい潜在意識をもっていたという三浦氏の断定には説得的な根拠がほとんど示されていないではないかということであった。特にいただけないと思ったのは、『坊ちゃん』というフィクションの主人公の行動を通して漱石の心理と行動を説明し、自分の言い分の正当性を証明しようとしている姿勢であった。

『坊ちゃん』は、夏目漱石が初めて書いた小説である『我輩は猫である』と同時期に、『猫』と同じく「ホトトギス」に発表された作品である。『猫』は1905年(明治38年。ということは日露戦争の最中である。)1月号から翌1906年の8月号までの連載。『坊ちゃん』は20日程で一気呵成に書かれ、1906年4月号に一挙掲載されている。「『坊ちゃん』の載った号には『我輩は猫である』の第10章も載った」(高橋英夫)そうだから、当時の漱石の創作力がどんなに旺盛で豊かだったかが分かる。

漱石は、芥川龍之介の『鼻』を本人に宛てた手紙に「落ち着きがあって、ふざけてなくって、自然そのままのおかしみがおっとり出ているところに、上品な趣があります。それから材料が非常に新しいのが眼に付きます。文章が要領を得て、よく整っています。」と書いて若い芥川を感激させたが、この手紙の文面は、そのまま『坊ちゃん』にも当てはまるように思う。『坊ちゃん』は作品全体が簡潔であり、活き活きした魅力にあふれているので、おもしろみもおかしさも「おっとり」しているというより、読者をして声をあげて笑い出させることが多いが、それでも清や下宿のおばあさんと坊ちゃんとの会話には「おっとり」したおかしみもあるように思う。これから、『坊ちゃん』のなかから魅力がある、おもしろいと私が思う場面を以下に引用し、感想を書いてみる。(下線はすべて引用者による。)

「校長は時計を出して見て、追々ゆるりと話すつもりだが、まず大体の事を呑み込んでおいてもらおうと云って、それから教育の精神について長いお談義を聞かした。おれは無論いい加減に聞いていたが、途中からこれは飛んだ所へ来たと思った。校長の云うようにはとても出来ない。おれみたような無鉄砲なものをつらまえて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなえらい人が月給四十円で遥々こんな田舎へくるもんか。人間は大概似たもんだ。腹が立てば喧嘩の一つぐらいは誰でもするだろうと思ってたが、この様子じゃめったに口も聞けない、散歩も出来ない。そんなむずかしい役なら雇う前にこれこれだと話すがいい。おれは嘘をつくのが嫌いだから、仕方がない、だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断わって帰っちまおうと思った。(略)到底あなたのおっしゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。やがて、今のはただ希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなくってもいいと云いながら笑った。

漱石は帝国大学英文科を卒業して高等師範学校に就職することになるが、1914年(大正3年)の講演『私の個人主義』によると、実は卒業を控えて漱石には高等学校と師範学校の双方に口があり、結果的に漱石は両校に承諾を与えるような格好になってしまったそうだ。事が面倒になり、困った漱石は、いっそ両方とも断ってしまおうかとも思ったそうである。結果的には、師範学校に赴任することになるわけだが、校長の嘉納治五郎と面会したときの様子を次のように述べている。

「私は高等師範などをそれほどありがたく思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡したくらいでした。/ 嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったと云って、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を懸持しようなどという慾張根性は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数をかけた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。」(『私の個人主義』)

四国の中学校での校長と坊ちゃんとの辞令を前にした会話はすこぶるおもしろいが、これは漱石自身の経験がモデルだったわけだ。寄宿生から宿直中の布団にバッタを入れられ、一晩中寝ずに生徒たちと談判した後の坊ちゃんと校長の会話にも妙味がある。校長に「あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に及ばん」と言われた坊ちゃんは、「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業はやります、云々」と答えるのだが、

校長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれていますよと注意した。なるほど何だか少々重たい気がする。その上べた一面痒い。蚊がよっぽと刺したに相違ない。おれは顔中ぼりぼり掻きながら、顔はいくら膨れたって、口はたしかにきけますから、授業には差し支えませんと答えた。校長は笑いながら、大分元気ですねと賞めた。実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。」

下線を付した部分の校長の態度、言葉にはなんともいえない渋い味わいがあると思う。また、坊ちゃんも、校長は自分をひやかしたのだとちゃんと感じとっているところはなかなかのものだと思うのだが、このように、坊ちゃんは決して一本調子の人間ではない。感情の機微の感じ取り方はいつもたいへん正確だし、人との対応は意外に大人である。たとえば下宿のおばあさんと交わす坊ちゃんの会話は年齢にしては巧みである。坊ちゃんは清の手紙を待っていて、時々おばあさんに「東京から手紙は来ませんか」と尋ねてみるのだが、おばあさんは「何にも参りません」と気の毒そうな顔をするが、時々部屋にやって来ていろいろな話をする。

「どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにお出でなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。可哀想にこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭を置いて、どこの誰さんは二十でお嫁をお貰いたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人お持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁を試みたには恐れ入った。それじゃ僕も二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似て頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
「本当の本当のって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」この挨拶には痛み入って返事が出来なかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極っとらい。私はちゃんと、もう、睨らんどるぞなもし」
へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか
「どうしてて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦がれておいでるじゃないかなもし」
こいつあ驚いた。大変な活眼だ
「中りましたろうがな、もし」
「そうですね。中ったかも知れませんよ」
「しかし今時の女子は、昔と違うて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「どこに不たしかなのが居ますかね」 」

24歳で結婚するのは珍しくないと半ダースの例をあげるおばあさんの様子も眼前に見るように活き活きしていて感嘆するが、「へえ、活眼だね。どうして、睨らんどるんですか」、「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」という坊ちゃんの受け答えを見ると、話の内容は悠々としていて、態度は練れている。二人の会話を聞いているうちに、このおばあさんと清との共通点も相違点も自然と理解され、この場面も一度読んだらまず忘れられない。おばあさんは、坊ちゃんをこの下宿に紹介したもの静かなうらなり先生とマドンナと教頭の赤シャツ、この三人の間に起きている悶着の詳細をも坊ちゃんに話してきかせる。この日から数日後、偶然停車場で見かけた坊ちゃんが「全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握ってみたような心持ちがした」と形容することになるマドンナはうらなり先生の婚約者だそうだ。

「「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持ってお出るし、万事都合がよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過ぎるけれ、お欺されたんぞなもし。それや、これやでお輿入も延びているところへ、あの教頭さんがお出でて、是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどい奴だ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んで懸合うておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓を求めて遠山さんの方へ出入をおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手馴付けておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが悪るく云いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがお出たけれ、その方に替えよてて、それじゃ今日様へ済むまいがなもし、あなた」
全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」」

おばあさんの話を聞き、「それじゃ今日様へ済むまいがなもし、あなた」と言われた坊ちゃんは「全く済まないね」と即答し、つづいて「今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」と言葉を重ねるが、こういう感じ方、考え方が坊ちゃんの真骨頂であろう。私の知るかぎり、『坊ちゃん』を最も数多く読んでいる人は、作家の大岡昇平である。中学1年で初めてこの小説を読んだという(偶然にも私が初めて読んだのも中学1年の時であった。)大岡昇平だが、1966年、朝日新聞に「私は若いころからスタンダールをやっていて、『パルムの僧院』を二十遍以上読んでいる。ところで漱石の「坊っちゃん」の方は、多分その倍ぐらい読み返しているのである。」と書いている。二十遍の倍となれば四十遍。大岡昇平が死去したのは1966年から22年後の1988年だから、その後再読はさらに重ねられたことだろう。大岡昇平のこの文章には「主人公は、あまり知恵はないが、正義感に満溢した快男子である。人生の不正と欺瞞は、その美しい心情の反応から、立ちどころに裁かれる。」と書かれている。「全く済まないね」というおばあさんへの即座の返答も「美しい心情の反応」の一つであることは間違いないだろう。

さて、バッタ事件である。

「 おれは早速寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構うものか。寝巻のまま腕まくりをして談判を始めた。
「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先の一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやろう」と云ったが、生憎掃き出してしまって一匹も居ない。また小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら、「もう掃溜へ棄ててしまいましたが、拾って参りましょうか」と聞いた。「うんすぐ拾って来い」と云うと小使は急いで馳け出したが、やがて半紙の上へ十匹ばかり載せて来て「どうもお気の毒ですが、生憎夜でこれだけしか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云う。小使まで馬鹿だ。おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込めた。「篦棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼んだ」
「誰も入れやせんがな」
「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――さあなぜこんないたずらをしたか、云え」
「云えてて、入れんものを説明しようがないがな」

漱石が少年のころから落語好き、講談好きだったことは有名だが、「あしたになりましたらもっと拾って参ります」にはじかに落語の一節を聴いているような愉快さがある。「菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」という坊ちゃんの駄洒落はあまり冴えていないように感じるので、ここでは「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」という生徒のツッコミの方が鋭くはある。(笑)。 

生徒のこのへらず口の叩き方を見ていると、『我輩は猫である』において艶書事件の相談をもって苦沙弥先生を訪ねてきて「下を向いたぎり何にも言わない」中学生の古井武右衛門が彷彿としてくる。あそこには「元来武右衛門君は中学の二年生にしてはよく弁ずる方で、頭の大きい割に脳力は発達しておらんが、喋舌る事においては乙組中鏘々たるものである。現にせんだってコロンバスの日本訳を教えろと云って大に主人を困らしたはまさにこの武右衛門君である。」という叙述があったが、この中学生たちも何かやむをえない相談事が生じたために一人で坊ちゃんの下宿を訪ねなければならない事態におちいったとなると、きっと武右衛門君と同じような悄然とした態度をとるに違いない。しかし今は集団だから、「イナゴは温い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」などとどこまでも「やに落ち着いた」態度を押し通そうとするので、坊ちゃんの怒りはさらにカッカと燃え上がることになる。

と、こんなふうにだらだら書いていくときりがないのでこのくらいにしておくが、今回『坊ちゃん』を読み返して、私はこれまで以上に作品に魅力を感じた。坊ちゃんの率直なものの感じ方、行動に尊いものを感じるのだ。これは時代のせいだと思うが、また作者の漱石をこれまで以上に好きだと感じた。他の作品もぼちぼち読み返してみたい。
2010.05.13 Thu l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
文芸評論家の三浦雅士氏に「漱石 母に愛されなかった子」という本がある。2008年刊行の岩波新書である。私はこれまで三浦氏の著作を読んだことはなかったが、「母に愛されなかった子」という題名に興味を惹かれて図書館の棚から手にとってみると、本文最初のページは次の文章で始まっていた。

「 漱石は母に愛されなかった子だった。少なくとも漱石はそう思っていた。そのことはたとえば『坊ちゃん』を読めばすぐに分かります。」(下線は引用者による。以下も同様)

下線を付した部分に私は驚いてしまい、「これはいけない!」と思った。そもそも漱石について「母に愛されなかった子」という表題を付けること自体、はて、そう言い切ってしまっていいのだろうか? と少し首をひねったのだった。というのも、漱石は『硝子戸の中』などで母親の思い出を書いたり、他のところでもふと母親の記憶に触れたりしているが、私の知る範囲でだが、母親の言動によって心が傷つけられたなどの辛い思い出、悪い記憶は一度も書いていないはずだ。たとえば、『硝子戸の中』には次の文章がある。

「母の名は千枝といった。私は今でもこの千枝という言葉を懐かしいものの一つに数えている。だから私にはそれがただ私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない。/(略)/悪戯で強情な私は、けっして世間の末ッ子のように母から甘く取扱かわれなかった。それでも宅中で一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中には、いつでも籠っている。」

このように漱石は母親に対して「強い親しみの心」をもっていたと述べている。けれども一方、漱石は、生れ落ちてすぐに里子にやられ、8、9歳になって実家に呼び戻されるまで養父母の下で暮らさなければならなかった。随筆ふうの文章や自伝的小説と言われる『道草』などを読むと、このことは漱石にとって決定的に不幸なことであったに違いないと感じられるし、『硝子戸の中』には、

「私を生んだ時、母はこんな年歯をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰り返されている。」

とも書いているのだから、漱石はあるいは口にこそ出さないが、はっきり嫌っていた父に対してだけでなく、母に対してもある屈折した感情をもっていたかも知れない。三浦氏が漱石について「母親に愛されなかった子」という見方をするのならそれもまるっきり理解できないというわけではない。この本が表題を支えるだけの充実した内容と説得力を持ちえれば、むしろこの主題は興味ふかいことであり、漱石の人物および作品の評論・研究としても意味があるのではないかと思う。しかしながら、書き出しがこれでは…。

『坊ちゃん』は自叙伝でも随筆でも歴史小説でもなく、小説である。作家が想像力をもって自由に構想し、事実に脚色をくわえて創作する小説を解読することにより、その著者が母に愛されなかった、少なくとも著者はそう思っていた、ということの証明がなされるなど、論理上からいっても考えられないことである。

たとえばスタンダールの『赤と黒』という作品はよく知られているとおり父親に憎まれ虐待されて育つ主人公をもつ。その主人公・ジュリアンも父親を憎悪している。一方、『赤と黒』の作者であるスタンダール自身も父親を心底から嫌っていて、このことは本人が『アンリ・ブリュアールの生涯』他でことあるごとに書いている。だから作者自身の父子関係があの『赤と黒』という作品のジュリアン父子に反映しているであろうという推測は十分可能だし、現実に多くの研究者や読者がそのような指摘をしている。しかし、そうだからといって、スタンダールの親子関係の実態は、『赤と黒』を読めば分かる、などということは決して言えないはずのことである。スタンダールは自分が父親の養育によってどれほど酷い目に遭ってきたかということを生涯をとおして力説していたが、16歳で故郷を離れパリに向かうとき乗合馬車に乗り込んだ息子を見て父親は涙を流しているが、一方息子のほうはその父親の顔を醜いと感じた、という感想を述べている。人によっては、このような我が儘かつ薄情な息子をもった父親こそ本当に気の毒だと感じるのではないだろうか。スタンダール自身の認識とも『赤と黒』に描写されている親子関係の内容とも異なって。

このように、小説のなかのある人間関係から作者をはじめとした登場人物の実生活における意識や実態を想像したり推測することは自由だし、ある程度まで可能なことではあるだろうが、しかし、ことの性質上、決してそれは確言はされえないことのはずである。これはどのような作品と作家の関係についても言えることだと思う。作者個人の実生活上のある秘密なり感情なり事実なりの実在の証明が、その作家の作品の検討によって論証しえた実例がこれまでにもしあったのだとしたらそれを教えてほしい。

以上の問題は小説という文学形式の原則に関わっての疑問だが、次は、『坊ちゃん』という小説の内容に即しての三浦氏への疑問である。これまで私は『坊ちゃん』をおそらく7、8回は通読していると思うが、その読後感からすると、確かに、父親にしろ、母親にしろ、「坊ちゃん」に対して厳しいし、決して温かいとは言えないとは感じる。むしろ冷たいのではないかとも思う。しかし、「坊ちゃん」があまりにも無鉄砲で日常的に心配をかける息子であることも事実であろう。なにしろ隣近所から「悪太郎」と呼ばれているくらいなのだ。親は心配や責任感などで気苦労が絶えず、そのために甘い態度は見せられなかったのだという見方もできるだろう。いずれにせよ、「漱石は母親に愛されなかった、少なくとも漱石はそう思っていた」ことが、『坊ちゃん』を読めば、理解できるなどということはまったくないと思うし、三浦氏の断言は理解しがたい。

三浦氏は、自分の述べていること――漱石は母親に愛されなかった、少なくとも漱石はそう思っていた――を証明しようとして、作品から文章を多数引用し、解説にこれつとめているのだが、それはことごとく空回りしているように思えた。たとえば、坊ちゃんが母親の死に目に会えなかったことについて、三浦氏は次のように述べている。

「 母が病気で死ぬ二、三日前、台所で宙返りをしてかまどの角で肋骨を打って大いに痛かった。母がたいそう怒って、おまえのようなものの顔は見たくないと言うから、親類へ泊まりに行った。その泊まりに行っているあいだに母が死んだ、というのです。怒ったときに顔も見たくないというのは、怒りの強さを示すひとつのレトリックにすぎない。親がそういうレトリックを使うことは誰だって繰り返し体験することであって、誰もほんとうにそうだと思いはしない。ところが坊っちゃんは、そのレトリックを言葉通りに受け取って、病人の母を置き去りに、じゃあ、目の前から消えてやるよ、とばかりに親類の家に泊まりに行ったわけです。いささか穏やかではない。拗ねている、僻んでいると受け取られてもしようがない行動である。
 本人もそれを認めている。そう早く死ぬとは思わなかったと書いているからです。そんな大病ならもう少しおとなしくすればよかったと思いながら帰ってきた、と。これは乱暴もいたずらも父母の気を惹くための行為だったと認めているようなものだ。

母親に「おまえのようなものの顔は見たくない」と叱られて親類の家に泊まりに行ったことをもって坊ちゃんが「拗ねている、僻んでいる」と断定することはとうてい無理だと思うし、「じゃあ、目の前から消えてやるよ」というような心理や発想は、坊ちゃんの性格から遠くかけ離れていると感じる。しかし、三浦氏は、これこそが坊ちゃんのあらゆる行動の真の動機だと捉えているようである。この場合だけではなく、やがて物理専門学校を卒業した後教師として赴任する四国の中学校での坊ちゃんの行動もすべて「じゃあ、目の前から消えてやるよ」という拗ね、僻みという心理が原動力になっているというのである。この「じゃあ、目の前から消えてやるよ」という発想については後でまた取り上げることになると思うが、さらに、「これは乱暴もいたずらも父母の気を惹くための行為だったと認めているようなものだ。」という見解にいたっては、どうしてこういう解釈ができるのかまったく理解できない。これでは、坊ちゃんが友達にからかわれて西洋ナイフで指を切ったのも、「弱虫やーい。」と囃し立てられて学校の二階から飛び降りたのも、動機は親の気を惹くための行動だったということになる。三浦氏の読解をさらに見てみる。

「で、帰ってきたその坊っちゃんのことを兄が親不孝者だとなじる。母の寿命を縮めたのはおまえだというわけです。坊っちゃんとしては口惜しい。愛されていると信じたい、そのことを確かめたくてしたことが、ことごとく裏目に出てしまうから口惜しい。口惜しくて悲しくてたまらないのは自分のほうだ。そこで兄の顔を殴ってしまう。また叱られる。
 面白おかしく書いているので、こちらもつい軽快に読み飛ばしてしまうが、ことは母の臨終にまつわることである。考えてみれば、ずいぶん深刻な話なのだ。じっさい、漱石自身、親類の家に泊まりに行って母の臨終に立ち会っていないのです。親類へ行っていて立ち会えなかったと、後年になって書いている。もちろん仔細が書かれているわけではないが、しかし心理的にはこれにたぐいすることがあったと十分に想像できる。短いながら、『坊っちゃん』には心理の機微がきちんと書かれているからです。
 事実はどうであれ、漱石はここで、坊っちゃんを借りて、自分の母への心理的なこだわりを書いているのだと言っていい。

坊ちゃんが親類の家へ泊まりに行くことになったのは、「台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲っ」て、母親に、おまえの顔は見たくないと言われたからだが、この宙返りをも三浦氏は、坊ちゃんが「愛されていると信たい、そのことを確かめたくてしたこと」だと言っているようである。漱石が実母の臨終に立ち会っていないことを私は今回三浦氏の上述の文章ではじめて知った。だとすると、これは作品と実生活の出来事とが一致していることになるのだから、漱石のどの作品にこの事実が書かれていて、どのような内容の文章なのかをここで紹介してほしかった。そうすれば三浦氏の論証の説得力がいくらかでも増したのではないかと思う。また三浦氏は、漱石の実生活に「心理的にはこれにたぐいすることがあったと十分に想像できる。」と書いている。つまり、三浦氏は、漱石の母が死去した際に漱石が親類の家に行っていたのは、『坊ちゃん』の場合と同じように、母親に叱責されて、という事情があったのではないかと推測しているわけだが、その推測の根拠は、「『坊っちゃん』には心理の機微がきちんと書かれているから」だと言う。しかし、母親の死に際して『坊っちゃん』に描かれている文章は、次のとおりである。

「そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかったと思って帰って来た。そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれの為めに、おっかさんが早く死んだんだと云った。口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた。」

簡潔な文章であり、自然なあっさりとした書き方だと思う。これでどうして、漱石が『坊っちゃん』と同じ心理的経験をしたに違いないとまで言えるのか不思議である。まして、この場面によって、「漱石はここで、坊っちゃんを借りて、自分の母への心理的なこだわりを書いているのだと言っていい」とまで述べられたのでは、それがどのような性質の「心理的こだわり」なのか三浦氏が何も書いていないので、読者の私は戸惑うばかりである。

そういう母への心理的なこだわりが、逆にその正反対とも言える清という下女のイメージをかたちづくったと言えます。清のような老女が周辺にいたのかもしれない。あるいは、実母自身のなかにそういう一面がじつはあったのかもしれない。それを拡大したのかもしれない。けれど、それを取り出してひとつの明確なイメージにまで高めるためには、それなりのエネルギーを必要とします。母の一面をむやみに拡大するにもエネルギーがいる。その出所は母への心理的なこだわりの強さ以外には考えられない。漱石は母に対してわだかまりがあったのだと考えるほかない。

清に限ったことではないが、作家が明確な性格と輪郭をもった一人の人間を創造するには、確かにエネルギーがいるだろうと思う。清はたいそう魅力と存在感のあるおばあさんだから、尚更そうだったかも知れない。しかし漱石によるこういう人物造形の出所がなぜ「母への心理的なこだわりの強さ以外には考えられない」のかが分からない。三浦氏は自分がそのように考える理由を他人が理解できるようきちんと説明すべきであろう。その他、

「清の話が出てくるそのつど、坊っちゃんは父母の情愛には恵まれなかったんだ、少なくとも本人はそう思っていたんだと思わせるわけです。母への心理的なこだわりが清を生んだと言わざるをえない。

という表現を見ても同じ感想をもつ。もっとも、三浦氏も読者からこれまで私が述べてきたような反論がくることは予想していたようで、

「 漱石は母に愛されなかった子だ、少なくともそう思っていた、そのことは『坊っちゃん』を読めば分かると述べて、坊っちゃん自身の、おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった、母は兄ばかり贔屓にしていた、という有名な台詞を引いたわけですが、坊っちゃんがそうだからといって漱石もそうであるとは限らない。小説と現実は違う。漱石自身の体験、教師として松山中学に赴任した体験をもとにしたとはいえ、『坊っちゃん』はあくまでも小説、つまり作り話である。証拠にはならないと反駁されるかもしれない。

と述べている。ところが、このような(読者からの)反駁に対する三浦氏の説明は次のとおりである。

「 しかし、四国に赴任してからの坊っちゃんの行動は、おしなべて、母の臨終のときに坊っちゃんがとった行動の焼き直しなのだということになれば、話はまた違ってくるでしょう。いたずらをしたら母がたいそう怒って、おまえのようなものの顔は見たくないと言うから、じゃあ、消えてやるよ、とばかりに親類の家へ泊まりに行った、その泊まりに行っているあいだに母が死んだというエピソードの、基本的には繰り返しであるということになれば、これは作者自身のわだかまりを反映していると考えるほかない。」

三浦氏は、最初のほうで引用したように、母親に叱られて親類の家に泊まりに行った坊ちゃんの行動は、母親に愛してもらえないために拗ね、僻んで「じゃあ、消えてやるよ」というごとき心理に支配されたものであると述べていた。そして四国の中学校における坊ちゃんの行動もその「焼き直し」である、つまり天麩羅事件に関しての教室での振る舞いやバッタ騒ぎや赤シャツとの戦いの際の坊ちゃんの行動は母親の臨終の際の反復だと述べているわけである。それは、坊ちゃんの「じゃあ、消えてやるよという、潔くもあれば捨て鉢でもある」母親に対しての構えであり、そのような「母に対してとった構えが習い性になってしまったところから出ている」とのことである。

「潔くもあれば、捨て鉢でもある」と三浦氏は書いているが、「潔い」ことと、「捨て鉢」であることは、似て非なるものである。これまで三浦氏が坊ちゃんの行動の原因について説明を重ねてきた、「拗ね」「僻み」「じゃあ消えてやるよ」というような発想・心理は、「捨て鉢」とは結びついても、「潔さ」とは逆の性格のものであろう。これがごく普通の一般的な言葉の理解ではないだろうか。

三浦氏は、坊ちゃんが校長の「生徒の模範になれとか徳を及ぼせとか言う」訓示に対し、とても言われたとおりにはできないからというので辞令を返そうとする行為についても、「母親に愛されなかった子」としての「拗ね、僻み」による「じゃあ、消えてやるよ」という心理のせいにして説明している。しかし、これは、学校出たてで世間知らず、もともと正直で単純な心の持ち主である坊ちゃんが、校長の話を大まじめに受けとめたからだろう。この反応は、「じゃあ、消えてやるよ」などという拗ねた心性とは正反対のものであることは誰が読んでも明らかだと思うのだが、三浦氏は次のように言う。

「『坊っちゃん』という小説の全体が母の臨終での一件の繰り返しだというのは、相手の台詞を言葉通りに受け取ってみせるところだけに表われているわけではない。母への心理的なこだわりは、結局、母が自分をどう見ているか、どう評価しているかということへの関心の強さから生まれているわけですが、坊っちゃんは中学の教師や生徒が自分をどう見ているか異常にこだわっている。自分がどのように見なされ、どのように扱われるかということにじつに過敏に反応する。自意識過剰と言ってもいいほどです。そのほうがさらに重要な、母の臨終での1件の繰り返しである。」

このような見方をする三浦氏は、坊っちゃんが、

「他の教師に聞いてみると教壇に立って一カ月くらいは自分の評判が良いか悪いか非常に気にかかるそうだが、自分はいっこうにそんな感じはなかった。」

と述べていることについても、それは「実際の行為とはまるで矛盾する」と決めつけている。私には、三浦氏のこの発言こそ不可解である。坊ちゃんの「自分の評判が良いか悪いか」気にかからなかったという発言がどの行為とどのように矛盾するのかが不明なのである。三浦氏はあらゆる坊ちゃんの行動を「母に愛されなかった子」という自ら設定した命題に結びつけなければならず、自分のその観念に脅迫されてなんでもかんでも強弁しなければならない羽目におちいっているのではないか。坊ちゃんの行動は、校長、赤シャツをはじめとした同僚教師、生徒、下宿のおばあさんなど、接する相手の行為や言動に対していつも健全に反応していると思う。その性格は単純率直、正義感の横溢した清新な魅力に富んでいて、「拗ね、僻み」などの暗い感情とは縁遠いのではないだろうか。もっとも、作品全体の基調は決して単純でも一概に明るくもないので、そのことと坊ちゃんの性格・行動とがあいまって、いまだに広く読まれているのではないだろうか。三浦氏は『坊ちゃん』のおもしろさ、魅力がどこにあると考えているのだろう。

前に述べたように、漱石は、母の千枝という名前がほかの女の名前であってはならない気がするほどに母の名である千枝という言葉を懐かしく感じていると書き、また、

「悪戯で強情な私は、けっして世間の末ッ子のように母から甘く取扱かわれなかった。それでも宅中で一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中には、いつでも籠っている。愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のある床しい婦人に違なかった。そうして父よりも賢こそうに誰の目にも見えた。気むずかしい兄も母だけには畏敬の念を抱いていた。」

と述べて母親への敬愛の念を吐露しているのだが、三浦氏にかかると、このように漱石が母を褒めていることの理由は、「私を生んだ時、母はこんな年歯をして懐妊するのは面目ないと云った」ことや、最初の養子先が古道具の売買を渡世にしていた貧しい夫婦ものであったこと、そのために漱石はその道具屋の我楽多といっしょに、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていた、ことなどを書いて発表したので、世間に「これだけでは不人情な母と思われかねないと思った」からであろう、と述べるのである。このような三浦氏の態度は、単なる邪推とつまらない揚げ足取りの域を出ておらず、そのために最初の意図がどうあれ、三浦氏の書くことは漱石の作品の魅力の源泉を涸らす役目をになう結果になってしまっているのではないかという気もする。また上の引用文において漱石が「愛憎を別にして考えて見ても」という言葉を記していることについても、三浦氏は、次のように述べている。

「 文面からは漱石が母に愛されていなかったとは思えない。少なくとも、相互に悪い感情を持っていたとは思えないわけだが、だからこそ逆に、なぜ里子に出し養子に出したのかという疑問がいっそう強められただろう。それが、愛憎を別にして考えてみても、という、ふつうならばあまり挿入しないだろう言葉に込められた意味ではないか。」

漱石は、「宅中で一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心」が自分のうちにあることを述べたすぐ後で、「愛憎を別にして考えてみても」と書いている。これは、三浦氏の判断とは異なり、家の中で自分にもっとも愛情をかけてくれたのが母だったからという私情による依怙贔屓の感情によって母を「品位のある床しい婦人」と述べているのではない。漱石はそう言いたいがために、わざわざ「愛憎を別にして考えてみても」とことわっているのではないかと思う。

その他、三浦氏は、漱石が『一貫したる不勉強』と題された談話のなかで「二松学舎」に通っていた時分に「毎日弁当を持って家を出るが学校には行かずに道草を食って遊んでいた」と語っていることに対して、漱石は「登校拒否者だった」「いわば命がけで登校拒否していたのである。」とまたまた根拠もなく決めつけている。漱石が中学を中退した後、大学予備門に入るまでの経緯についてはこれまでも多くの人が不思議がってそれぞれの推測を書いている。しかし三浦氏のような断定の仕方をした人を私はこれまで見たことがない。それは、これまでの論者がはっきり分からないことを分かったかのように書いてはならないというもの書きとしての最低限の節度をわきまえていたからであろう。

岩波書店の「漱石全集」は「世界に冠たる」(藤枝静男)全集として知られている。漱石没後間もなく始まった全集出版には、漱石の門下生が中心となって相談が始められ、内田百聞も森田草平とともに校正に携わったそうである。その百聞の『実説艸平記』によると、全集校正にあたって、まず、漱石の仮名遣い、送り仮名、用字の癖などを調べ、それに則った「漱石文法」を作成したそうである。そのような準備を整えて仕事に取りかかったにもかかわらず、「実際の場合にぶつかると、それがしょっちゅうぐらつく」。ときには七校も八校も取るようなことになり、岩波からは頻りに進捗させてくれと言ってきたそうである。それについて、百聞は「遅れる責めは重重こちらにあるとしても、だからこちらが悪いのだからと云ふので、漱石先生の全集に、これではいけないと思ふ所をその儘にして校了にするわけには行かない。」「だれに迷惑を掛けようと、発行日が少少どうならうと、この全集に承知の上で誤りを遺す事は出来ないと云ふのが十三号室(引用者注:校正室)のみんなの本心であった」と記している。その時には岩波書店は少々このような校正のやり方に困っただろうが、少し長い目でみると結局そのほうが想像を絶するほどに得(徳とも言える)なのである。岩波書店の信用は何よりも漱石全集によって作られたと聞いたことがある。

今も「漱石全集」を発行しつづけている岩波書店だが、編集者は、たとえば「漱石は母に愛されなかった子だった。少なくとも漱石はそう思っていた。そのことはたとえば『坊ちゃん』を読めばすぐに分かります。」という冒頭の言葉に疑問を感じなかったのだろうか。
2010.05.09 Sun l 文芸・読書 l コメント (3) トラックバック (0) l top
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