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2007年12月5日、金光翔さんは、論文「<佐藤優現象>批判」を雑誌に発表したことにつき岩波書店(社長)から、

「社員でありながら、あの論文を公表したことは、岩波書店の社会的な信用を傷つけた。今後はこのような行為は慎んでほしい」

という理由で「口頭による厳重注意」を受けたとのことである。また、この処分に先立つ11月28日には、下記の見解をも伝えられていたそうである。

「著者・読者・職場の信頼関係を損なうものであり、岩波書店を成り立たせる存立基盤を掘り崩すものだと考える」

「厳重注意」には、「社員でありながら」という一言が入っている。岩波書店も著者や読者に対しては、佐藤優氏の言説の問題点を指摘したり、そういう佐藤氏を重用するリベラル・左派系メディアの姿勢を批判することは許されない、などとはまさか言えないわけで、その自覚が「社員でありながら」という表現をとらせたのだろう。しかし「社員でありながら」あの論文を発表したことが「著者・読者・職場の信頼関係を損なう」ことになったのかどうかについてはよくよく検討する必要がある。たとえば、もし論文に記載されている事実関係に虚偽があったり、根拠のない非難や攻撃が見られたり、あるいは的外れの分析・批判がなされているなど、論文が一般常識上の品位を欠いたものだったのなら、岩波書店も論文公表のせいで「著者・読者・職場の信頼関係」が損なわれたと言っていいかも知れない。しかしあの論文がそのような性質のものとは私には思えない。また、岩波書店も「厳重注意」のなかでそのような指摘はしていない。それから、金さんは論文発表に際して自分が岩波書店の社員であることを公表していなかった。論文発表は個人としての行為であり、また読者には論文の内容にだけ注視して読んでほしいという願望の下でそのようにしたのだと述べている。論文の著者が岩波書店の社員であることが公になったきっかけは、裁判の被告側書面によると、「岩波関係者」の『週刊新潮』への働きかけだった。

岩波書店のいう「著者・読者・職場」のうち、「著者」とは具体的に誰を指すのだろう。論文で批判されている佐藤優氏やその周辺の人たちのことだろうか。それとも岩波書店から本を出したり、岩波書店発行の雑誌に文章を寄稿したりする執筆者全体のことを指しているのだろうか。この点も曖昧だが、この問題に無関係の執筆者も「著者」のうちに含まれるとしたら、その人たちに対し、論文がそれ自体で「著者・読者・職場の信頼関係」を損なうことなどありえないし、またできるはずもないと思う。物書きは誰でも文章を読めば、善悪美醜などについて各自がもっている価値観に基づいて独自の評価・判断をくだすはずである。この場合も同じであろう。岩波書店のこのような言い分はそれこそ執筆者に対して礼を失しているのではないだろうか。

これを見ても、どうも近頃の岩波書店は執筆者に対してもさほど敬意を払っていないのではないかと感じられるのだが、これは私の錯覚だろうか。戦前・戦中から戦後にかけて抵抗精神や批判精神をもって書きつづけ、文壇や論壇をリードしてきた作家・知識人はもう大方姿を消した。その視線や発言を恐れなければならないような人物はもういない。自分たちには好き勝手な振る舞いが許されている。岩波書店の役員の人々は、無意識にせよ、そんなふうに思っているのではないだろうか。そんな邪推をしたくなるほど言動がなんだかあまりにも場当たり的、無節操、無軌道に見える。

これらのことは著者に関してだけではなく、読者に関しても同様のことが言えるように思う。多くは文庫本ではあるが、私もある程度岩波書店刊行の本を読んできている。一応、読者と称してもいいのではないかと思うのだが、そういう読者としての私は、「<佐藤優現象>批判」が、「著者・読者・職場の信頼関係を損な」った、などという判断が岩波書店によってなされているのはまったく納得できないばかりか、迷惑でもあり心外でもある。

その理由は、①論文「<佐藤優現象>批判」が事態の核心をついている、少なくとも真実の一端を明らかにしていると思えること、②もう一つは佐藤優氏を『世界』が起用することに異を唱えたり、雑誌に論文を発表した金さんの行動に対する岩波書店の態度・姿勢にはきわめて大きな問題があると思えること。大まかに言うと、この二つによってである。

今回は②に関連して、文章を一つ引用したいと思う。藤田省三が1990年に『世界』のインタビューで述べたもので、この問題について考えるとき、下記のこの文章がよく私の頭に浮かんでくるのである。(強調は引用者による。)

「 先年亡くなった西ドイツのカール・レービットは戦争中日本にいて軟禁状態におかれていた。かれは戦後間もなくこう書いています。日本人の精神的特徴は自己批判を知らないということである。あるのは自己愛、つまりナルシシズムだけである、と。その指摘はいまいよいよ実証されてきたと思います。

〇個人としての自己愛であればエゴイズムになり、したがって自覚がありますが、日本社会の特徴は、自分の自己愛を自分が所属する集団への献身という形で表す。だから本人の自覚されたレベルでは、自分は自己犠牲をはらって献身していると思っている。その献身の対象が国家であれば国家主義が生まれ、会社であれば会社人間が生まれて、それがものすごいエネルギーを発揮する。しかしこれはほんとうはナルシシズムであって、自己批判の正反対のものなのです。錯覚された自己愛、ナルシシズムの集団的形態であって、所属集団なしに自己愛を人の前に出すほどの倫理的度胸はない。ほんとうに奇妙な状態です。

〇よく外国の批評家が、日本人は集団主義だというけれども、それは一応はあたっている。ただし、日本人の集団主義は、相互関係体としての集団、つまり社会を愛するというのではなくて、自分が所属している集団を極度に愛し、過剰に愛することによって自己愛を満足させているのですから、そこに根本的な自己欺瞞がある。

〇自分では自己犠牲をはらっている、自分は献身的であると思っていて、人にもそういって自分を正当化しながら、実は国家主義であり、会社主義なのです。」(「現代日本の精神」初出は『世界』1990年。現在、みすず書房「全体主義の時代経験」収載)

以上であるが、この文のインタビュアーは、実は『世界』現編集長の岡本厚氏である。もう十年ほど前に、私はこのインタビューを日本人論として実に的を射た見方だと思って自分自身痛痒いような気持ちで読んだ記憶があるのだが、金さんの論文が発表されて後の岩波書店や岩波書店労働組合の動向を見ていると、この人たちは藤田省三のこの文章を意識し、ここで批判されている日本人をあえて真似てみせているのではないかとすら思えたりする。あまりにもそのままではないだろうか。岡本氏はそう思われないだろうか。ひょっとすると岡本氏には藤田省三に何か含むところでもあるのではないだろうか? 裁判所に提出されている被告側書面における「岩波関係者」や「岩波書店組合関係者」の発言や行動といい、先日「私にも話させて」で金さんが述べていた

「組合費を払わず、組合に敵対する行動をしている人は、除名すべきです。そのような人に、春闘・秋年闘の果実である一時金を与えるのは、公平を欠きます。」

という組合員の投書といい、またこれを文書に掲載して全社に配布した労働組合の行動といい、本当に凄いものである。これほど底意地の悪い卑劣な仕打ちは、会社の暗黙の容認がなければできないのではないだろうか。私にはそう思える。まさに、藤田省三が述べているところの

「その献身の対象が国家であれば国家主義が生まれ、会社であれば会社人間が生まれて、それがものすごいエネルギーを発揮する。しかしこれはほんとうはナルシシズムであって、自己批判の正反対のものなのです。錯覚された自己愛、ナルシシズムの集団的形態であって、所属集団なしに自己愛を人の前に出すほどの倫理的度胸はない。」

を絵に描いたような、いやむしろその究極の姿ではないだろうか。金さんは会社に異動願を提出した理由について、次のように述べている。

「 私は、被告佐藤を起用することや、今後、川人を起用することによって、人権や平和に対する大きな脅威を与えることに、強い精神的苦痛を感じていました。これは、そのような書き手を起用する編集方針に従事することへの苦痛と、そのような書き手を起用すること、また、私の名前が誌面に出る以上、在日朝鮮人である私が『世界』編集部員として、そのような編集方針を容認しているかのような印象を読者に対して与えることが、社会に悪影響を与えることへの苦痛です。」(「原告陳述書」より)

「異動願」の提出理由についての上述の金さんの発言に誤解の余地はないと思う。他に推定できる理由は考えられそうもないからである。このような編集社員の複雑な心情や思考や判断に対して、編集長が当然なすべきことは熟考であろう。「被告準備書面(4)」によると、岡本編集長は金さんの異動に際して「これからの職場もね、やっぱり人間関係ってさ、どこの職場でもあるから。」と述べているが、現在の「編集方針を容認しているかのような印象を読者に対して与えることが、社会に悪影響を与えることへの苦痛」を感じている在日朝鮮人社員の心情についていくらかでも思いを巡らせたのであれば、このような説教はできないだろう。同僚社員の差別発言を注意したことについての『世界』編集部の反応も、同じ実態の別の表われに過ぎないと思う。同じ在日朝鮮人や社会全体へのふかい視野を含んだこのような判断、理由をもっていたからこそ、金さんはあれだけの嫌がらせやいじめにも対抗できたのだと思う。そうでなければ決してできることではない。その点に私はかねがね敬意をもっている。自分だったらとてもこのような粘り、堪え性はもてないのではないかと思うのである。しかし一昔前にはいくらでも見聞きすることができたこのような視点や心情や価値観は今や希有なことのようになってしまっている。中野重治なら、これは文学の問題だと間違いなく言うと思うのだが…。若い人にはそのような試みも望みたい気もする。それにしても岩波書店のこのような現実のなかから、はたして読者の心に活き活きと訴える力をもった書籍、時代を正確に力づよく映しだす雑誌が生まれでる可能性や希望の余地があるのだろうか?
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2010.06.10 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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