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7月28日の1年ぶりの死刑執行のニュースには驚いた。千葉景子氏は法相就任時から死刑廃止論者と喧伝されていたし、これまでの経過を見ても9月までの千葉氏の任期中には執行はないと思いこんでいた。私も「死刑を廃止してほしい」と思っている者の一人なので、最近は千葉法相が退任するかも知れない9月以降のことがチラチラ気にかかっていた。ところがここにきての二人の人の死刑執行。千葉法相が自ら執行に立ち会ったという報道にも私は少なからず驚かされた。いったいどんな事情があったのだろうか。

朝日新聞によると、法務省の幹部は「法にのっとって執行しないことには、国民的議論なんて始まらない」「一度執行した上で『自分も苦渋の決断をした。その上で議論をしたい』と言えば、説得力がある」などと述べていたそうで、案の定、執行後、法務省内では、「重い決断を下したのは立派だ」と法相の決断を称讃する声がしきりだそうである。これは絵に描いたような官僚らしい発想であり感想だと思うが、アムネスティの「日本支部声明 : 死刑執行に抗議する」には、下記の見解が表明されている。

「今回、千葉法相は、死刑の在り方について検討するための勉強会を立ち上げるとともに、東京拘置所の刑場についてマスメディアの取材の機会を設けるよう指示した、と発表した。しかし、死刑制度に関する情報公開や、存廃に関する公の議論は、死刑の執行を正式に停止してから行うべきである。一方で人を処刑しながら、他方で死刑についての議論を行うという行為は矛盾しており、執行を続けながらの検討は、死刑の正当化を後押しするものになるとの危惧を抱かざるを得ない。」

上記の発言のうち、アムネスティの「一方で人を処刑しながら、他方で死刑についての議論を行うという行為は矛盾して」いるとの指摘に私はまったく同感する。一方、法務省幹部の「法にのっとって執行しないことには、国民的議論なんて始まらない」という言い分は、何が何でも死刑制度を続けていくための無理無体、こじつけの論理に過ぎないように思う。死刑に関する国民的議論を始める意思が法相および法務省にあるというのなら、アムネスティが述べているとおりここで執行をしてはいけなかった。死刑に関する議論を誰のためにやるのかといえば、その対象は、直接的には他の死刑の確定している人とともに、他ならぬ死刑執行された篠澤一男さん、尾形英紀さん二人のはずだった。

もし現在日本の監獄に確定死刑囚が十人、あるいは五人だけだったら法相はどうしただろうか。いや端的に、死刑囚が篠澤一男さん、尾形英紀さんの二人しかいなかったとしたらどうだっただろう。「法にのっとって執行しないことには、国民的議論なんて始まらない」ということで、議論を始める前に二人に対して死刑を執行したのだろうか。そうして死刑囚の誰もいなくなったところで死刑に関する議論を始めようとしただろうか。おそらく、そんなことはしなかったのではないだろうか。その実態・光景の空虚さ、無意味さ、無残さは誰の目にもあまりにも明白だと思うが、もしそうであるならば、今回の執行にも同じことが言えるだろう。確定死刑囚の人数が二人であろうと、百人だろうと、一人一人は別々の人間である以上、事態の本質には何の変わりもない。国民的議論を始めるというのなら、その当事者である二人への執行をしてはならなかった。

そもそも、法務官僚が口にしている「法にのっとって執行しないことには、」云々の発言は私には脅迫にしか聞こえないのだが(それが誰に対するものかは不明ながら)、この人物は、日本の裁判史上、死刑が確定した後に再審によって無罪となった冤罪事件に免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件の四事件があることをもう覚えていないのだろうか。いやしくも法務官僚として死刑に関わっているのなら、これはいついかなる場合でも肝に銘じておくべき最重大事項であるはずだ。今回死刑執行を伝えるニュースのなかに、わざわざ刑事訴訟法の第475条の「2 前項の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。」という条文を掲載している記事をネットで見たが、もしこの法規が杓子定規に適用されていたならば、上の四事件で被告人とされた人たちは全員無実の罪で殺されていた。この事実ほど、かのモンテーニュが述べたという「冤罪は実際のどんな犯罪よりはるかに重大な犯罪である」という認識の正しさが実感されることはないと思う。

今回の千葉法相の決断は上述の法務官僚の考え方に納得するところがあってのことなのか、それとも他の理由によるものなのか、今のところ私にはよく分からないが、ただ、上の法務官僚の発言に見られる欺瞞的・詭弁的思考法は今や官僚のみならず、また政治家のみならず、マスメディアを中心にそこいら中に蔓延し、当たり前のように流通していると思う。他ならぬ死刑廃止を語る人のなかにもその傾向を見ることがあるし、言論上のタブーの存在もさまざまに感じられる。こういう社会的空気のなかで昨年法相に就任した千葉氏は死刑について広く議論しようとしても、その契機を社会、市民のなかに見出すのはなかなか難しかったのではないだろうか。これは直覚的な印象に過ぎないが、そういう側面もあったかも知れないと思う。というのも、かりに議論を呼びかけられていたとして、一人の市民である私自身がそれに率直に反応できたかどうか、実は今ひとつ自信がない。死刑に関する自分の考え・意見を素直に自由に表明するには根本的に気になること、疑問に感じること、躊躇するものが数多く存在した。そういう自分の消極性に今忸怩たる思いを感じてもいるので、次回から死刑についての自分なりの考えを書いてみようかと思う。
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2010.07.30 Fri l 死刑 l コメント (2) トラックバック (0) l top
   (1)
1946年の末、中野重治は『漱石と漱石賞』という題の文章を書いている。当時、それまで夏目漱石の全集を一手に引き受けていた岩波書店とは別のある出版社が漱石の全集を出すこと、その全集出版に際して「漱石賞」を創設するという発表をしたことがあったらしい。全集刊行も賞の創設も選者の顔ぶれも、何もかもが中野重治には漱石を汚すこととしか思われなかったらしく、これはその動きに関連して書かれた文章である。漱石について中野重治は下記のように書いている。

「 彼は軍国主義を認めたが、それを資本主義に結びつけて考えることはできなかつた。彼はその人生と文学との道で労働者階級を見つけることなしに生涯を終えた。ほかならぬ漱石が自分で推薦した「土」を文学として十分読めなかつたという事情がそこに原因をもつていよう。その日暮らしの労働者には物質上の苦労はあつても精神上の苦労はないという、この人とも思えぬ、しかし決して見のがすことのできぬ考え方の特徴がこの人の実態のなかにあつた。」

漱石の文章を読むと、私はだいたいいい心持ちになる。特に近年はこういう人がいてくれて本当によかった、という気持ちをいつももっているのだが、ただ返す返すも残念に思うこともある。『満韓ところどころ』に明らかな民族的差別表現のことである。これについては、別の場所で中野重治も書いている(この文章が載った本が手元にないので記憶で書くのだが、それは漱石を責めるというような論調ではなかった。中野重治は自らの詩『雨の降る品川駅』にも帝国主義の尻尾のようなものがくっついているのが認められるという趣旨のことを述べているので(「中野重治全集」「著者うしろ書」)、漱石や自分をも含めた日本人全体の意識の問題として認識し、考えていたように思われる)。

こちらのサイトに、「満韓ところどころ」における漱石の民族的差別発言を批判する中国人学者の談話が掲載されている。執筆者は牧村健一郎氏。朝日新聞社勤務の人で、漱石に関する著書ももっておられるようだ。一部引用させていただく。

「漱石は埠頭で働く無数のクーリーを見て、その紀行「満韓ところどころ」で、「大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚らしいが、二人寄るとなお見苦しい」と書く。また「チャン」や「露助」という表現も記している。
(略)
 90歳になるという大連外国語学院の元教授・李成起さんは、中学のころから習い続けた日本語が達者で、日本近代文学を専攻する温厚な老教授だ。/「漱石先生は中国でも文豪として尊敬されています。私はとくに「こころ」に感心しました。人間の深い魂を描いています」という老教授も「満韓」の表現についてはこういった。「先生(漱石)のような偉大な文学者が、言ってはならない言葉を使ったのは大変遺憾に思っています。中国人を、文学者ではなく、戦勝者の目で見ています。あのクーリーたちは今の大連市民の祖先ですよ」/漢文、漢詩を学んだ漱石は中国文化を深く尊敬しており、差別意識はなかっただろうが、帝国主義の時代に入った明治人として、友人同士の気楽なやりとりのつもりで、書いたのだろう。これを中国人が不快に思い、批判するのは、また当然だろうと思った。」

かつて英国留学時、日記に、

「日本人を見て支那人と云はれると嫌がるは如何、支那人は日本人よりも名誉ある国民なり、只不幸にして目下不振の有様に沈倫せるなり、心ある人は日本人と呼ばるるよりも支那人と云はるるを名誉とすべきなり、仮令然らざるにせよ日本は今迄どれ程支那の厄介になりしか、少しは考へて見るがよからう」

と書きつけた人とは思えないようなひどい発言だが、これは相当の見識をもつしっかりした人でも時代の大勢に巻き込まれ、流される恐れは常にあるということを証明しているのだろう。しかし、漱石のこの差別発言は今も日本社会に悪影響を残しているのではないだろうか。「あの漱石にしてこうなのだから、我々が少しくらい差別的発言や行動をしたって仕方がない。あれこれ言われる筋合いではない」というような内心の弁解として作用している側面があるようにも思う。しかしそれは受け取る側の間違いであろう。晩年の漱石が意志として表に現わした行動、生き方を見ると、漱石の過ちや限界の上に現在の私たちが乗っかることは決して許されることではないと思う。中野重治は上述の文章につづき、次のように述べている。

「 しかも彼はあくまで真面目に、正直に、日本人の文学と生活とに真実をもとめて悪戦苦闘した。学習院が講演の礼に届けてきた金十円について、文部省が押しつけてよこした学位について、『太陽』の人気投票で押しつけられた金盃について、また学校教師、大学教授、新聞人としての職業について、世渡り上手からは偏屈とも神経過敏とも笑われるばかりの、むき、生真面目さですべてに対して行つた。くれるという博士ならもらつておけ、西園寺が御馳走するというなら行つて食つてこようというようなさばけた考えに彼は従うことができなかつた。他をもおのれをもあざむかぬことで自己の個性を確立しようと、これが生涯をかけた彼の仕事であつた。彼はそれを、個の確立が具体的に保障される革命と革命階級とから切り裂かれた一人身でやろうとした。ここに彼の暗さ、絶望的な孤独感、家族にまでたいする猜疑が生れ、彼自身は死ぬまでそれにさいなまれることとなつた。彼はそれを尊重しつつそれにひとすじにすがつて行つた。広瀬中佐の愛国詩について、彼はその「俗悪で陳腐で生きた個人の面影がない」(「艇長の遺言と中佐の詩」)ところから、彼の軍人としての「誠実」を疑うことも辞しなかつた。
 彼のこの態度は年とるにつれ、作家として成長するにつれ、読者がふえて世間に名がひろまるにつれて強まつて行つた。そして日本の「家」とその夫婦関係とはその腐敗と虚偽とで最後まで彼を苦しめたものであつた。おそらく、五十歳の彼の疲労と渋面とには、彼の死後三十年してはじまつた民主革命のなかで個の確立をしやべりたてるすべての九官鳥とは別種の人間的誠実が輝いていたであろう。しかも啄木のしたのと裏表の関係でした自然主義批評のなかで彼の求めた「ヒロイック」が、作品として実をむすぶことができなかつたところに彼とわれわれとの悲劇があつたのである。

 しかし一部の日本人は、死後三十年のこの作家を改めて侮蔑しようとするかのようである。紙の出どころについてよからぬうわさのある本屋が新しく『漱石全集』を出し、それに景気つけるために漱石賞をつくり、その選者として石川達三、林房雄、林芙美子、横光利一、武者小路実篤、内田百聞、久米正雄、松岡譲、青野季苦、里見の人びとが発表されたのである。これらの人を総体として見るとき、どこに漱石の生き方、漱石の文学との順直なつながりが見出されようか。一体としての彼らのどこに官僚的なものとのたたかい、それからの脱走、金銭からの芸術の防衛、年とるにつれ名がひろまるにつれて増した世俗との対立、人生と文学とにおける真実追求の苦闘が認められようか。戦争に対する彼らの反応が彼らのすべてを一括して漱石に対置している。まことに、まことに、貧しい小学教師にまつこうから丸太をくれ、そのまま拡声器へ「暴力にはあくまで屈せず」と吹きこむカトリックの文部大臣に花たばの捧げられる新憲法世界にふさわしいかぎりの国柄である。」

   (2)
中野重治がこの文章を執筆したのは第一次吉田茂内閣の時で、「カトリックの文部大臣」とは、後に最高裁長官に就任する田中耕太郎のことである。「漱石賞」の「選者」として名前の挙がっている人のなかには内田百や青野季吉もいて、この人たちが中野重治によって十把一絡げに論難されているように見えるのは私には気の毒に感じられるが(中野重治自身これらの人をみな同列に見ていたのではないと思うが)、それはともかくとして、上の文章のなかで、私が特に感銘をうけるのは、「広瀬中佐の愛国詩について、彼はその「俗悪で陳腐で生きた個人の面影がない」(「艇長の遺言と中佐の詩」)ところから、彼の軍人としての「誠実」を疑うことも辞しなかつた。」という箇所である。漱石は『艇長の遺書と中佐の詩』に次のように書いている。

「 昨日は佐久間艇長の遺書を評して名文と云(い)つた。艇長の遺書と前後して新聞紙上にあらはれた広瀬中佐の詩が、此遺書に比して甚だ月並なのは前者の記憶のまだ鮮かなる吾人の脳裏に一種痛ましい対照を印した。
 露骨に云へば中佐の詩は拙悪と云はんより寧ろ陳套を極めたものである。吾々が十六七のとき文天祥の正気の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出来栄である。文字の素養がなくとも誠実な感情を有してゐる以上は(又如何に高等な翫賞家でも此誠実な感情を離れて翫賞の出来ないのは無論であるが)誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉れたならと思ふだらう。」(『朝日新聞』1910年(明治43)年)

明治末の世相に「軍神」「英雄」として喧伝されている人物の遺書について、新聞紙上でこれほど率直に大胆に自己の感想を披瀝し、しかも読者に対して執筆者の誠実さ、真剣さを疑う余地を微塵もあたえない、このような文章は世に稀なことではないだろうか。しかも漱石の執筆は中佐の死の直後なのである。漱石は中佐の詩について、下記のように「偉さう」「偉がってゐる」とまで書いている。

「其詩は誰にでも作れる個性のないものである。のみならず彼の様な詩を作るものに限つて決して壮烈の挙動を敢てし得ない、即ち単なる自己広告のために作る人が多さうに思はれるのである。其内容が如何(いか)にも偉さうだからである。又偉がつてゐるからである。

道義的情操に関する言辞(詩歌感想を含む)は其言辞を実現し得たるとき始めて他をして其誠実を肯はしむるのが常である。余に至つては、更に懐疑の方向に一歩を進めて、其言辞を実現し得たる時にすら、猶且其誠実を残りなく認むる能はざるを悲しむものである。微かなる陥欠は言辞詩歌の奥に潜むか、又はそれを実現する行為の根に絡んでゐるか何方かであらう。余は中佐の敢てせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁(か)するのである。 」

この一文が朝日の文芸欄に載ったのは、1910年(明治43)年7月20日。この時漱石は胃潰瘍のため長与胃腸病院に入院中であり、翌8月には療養のため修善寺温泉に転地している。いわゆる「修善寺の大患」が起きたのはその8月中のことであった。幸い漱石はこの危機を乗り越え、快復に向かうことができたのだが、もし不幸にもそうでなかった場合、『艇長の遺書と中佐の詩』が遺稿になった可能性もあったのではないだろうか。その辺りの詳細は私には分からないが、かりにそうだったとして、私は、この文章は漱石の遺稿として少しも恥じるところのない、むしろ文学者漱石の独創性を如実に示す、遺稿として相応しいものだったとさえ言えるように思う。

このようなことを思うにつけ、また人間の言葉を受けとめる漱石の命を懸けているかのような一徹な真剣さ、内にもっている揺らぎようのない確固とした信念、飾ることのない率直な表明の仕方などを見たり感じたりするにつけ、佐藤優氏の漱石に関する発言はいつも本当に苦々しい。とりわけ、前回述べたところの『ナショナリズムという迷宮』におけるデタラメでいい気な漱石論や、「私と鈴木宗男代議士との関係についても、「私設秘書」と「恫喝政治家」というような関係ではなく、(略)夏目漱石『こころ』の主人公と先生のような関係であることを検察側にどこまで正確に理解させるかということも、私にとっては重要なことです。」(『獄中記』。版元の岩波書店にはこのような佐藤氏の主張をどう考えるのか、今あらためて訊いてみたい。)という、何の実証も伴わない、その必要性の自覚さえまったく感じられないいかにも唐突な発言は、私にはひとえにうまい世渡りのために漱石を利用しようとするもの、そのことによって読者を騙し、さらに漱石を侮辱するものにしか映らない。

追記-以前私は、文芸評論家の三浦雅士氏の『漱石 母に愛されなかった子』という本(岩波新書2008年)について批判的に述べたことがあるが、ただ決してこの本を佐藤優氏の発言と同列に見ているわけではない。三浦氏の本は、過去に多くの漱石論にすでに書かれている内容(たとえば、大岡昇平の『小説家夏目漱石』)が何倍にも薄められ、しかも事実関係が不正確な点が多いように思えた。それが非常に不満足だったのだが、ただ佐藤氏の場合のように悪意や何らかの思惑など他意のあるものとは全然考えていない。下手な書き方のためにそのような誤解をあたえる恐れがあるのではないかとふと気になったので、一応記しておきたい。


最初の意図と異なり、書いているうちに、なんだかタイトルにそぐわない内容になってしまいました。読者の皆様、申し訳ありません。
2010.07.24 Sat l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
大分前のことになるが、こちらの記事で、佐藤優氏が述べている夏目漱石に関する発言(魚住昭氏との共著『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社2006年。朝日文庫2010年)について二点疑問を述べたのだが、どうも書き方が大雑把だったと思うので、もう少し丁寧に書いておきたい。この件については、その後、ブログ「liber studiorum」のa-geminiさんが「佐藤優と夏目漱石」というエントリーをあげ、「昔読んだ岩波文庫の『漱石日記』と『漱石書簡集』をひっくり返してみましたよ。」ということで、漱石自身の言葉を拾いだし、漱石が「ロンドン大学での授業についていけな」かった、という佐藤氏の発言の疑わしさについて言及されている。a-geminiさんのブログは、その他、「マルコフ理論」(?)を駆使して活躍する佐藤氏を取り上げた数々の記事も必読。論評は鋭く、その上、おもしろ味があると思う。

さて、佐藤氏の最初の問題発言「漱石がロンドン大学の授業について行けなかった」という点については、漱石自身、『文学論』の序に、「大学の聴講は三四ケ月にして已めたり。予期の興味も智識をも得る能はざりしが為めなり。」と書いている。友人に宛てた書簡にも「時間の浪費が恐いからして大学の方は傍聴生として二月ばかり出席してその後やめてしまった。」(ブログ「liber studiorum」より引用)とある。また、昨年(2009年)、熊本大学五高記念館で漱石がイギリスから文部大臣あてに提出した申報書(報告書)の写しが発見されているが、その一つには、「大学ノ講義ハ」授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」と記されていたそうである。漱石にとって、ロンドン大学の講義は「期待外れ」のものであり、間違っても「授業についていけない」などということではなかった。そう言い切っていいと思う。(強調の下線および太字は引用者による。以下同じ)

上記の件については私は佐藤氏の発言のいい加減さに呆れたのだが、よりいっそう気になったのは、反論がしにくい(巧く説明するのが難しい)だけにむしろ後者の発言のほうであった。

「そこで見たイギリス人はエリートですよね。彼らはもともと個が確立しているんです。(略)そんな一部を見て、西欧社会全体が個の確立した人間で構成されているというふうに不当拡張してしまったのではないでしょうか。」

いいえ、そんなことはないでしょう。すかさずそう言いたくなるような佐藤氏の上の発言である。漱石は、イギリスの知識層(ロンドン大学関係者)について佐藤氏のように「彼らはもともと個が確立している」とも思わなければ、まして「西欧社会全体が個の確立した人間で構成されている」などと思ったことはいっぺんもないのではなかろうか。管見の限り、私は漱石がそれらしき発言をしているのを読んだことがないし、誰かがそのようなことを書いたり話したりしているのを見聞きしたこともない。上述した「liber studiorum」が掲載している、ロンドンでのある日の漱石の日記の一節を引用させていただくと、

「 ……余が下宿の爺は一所に芝居に行きしところRobinson Crusoeを演ぜしが、これは一体真にあったことなりや小説なりやと余に向って問いたりし故、無論小説なりと答えしに余も然思うといえり。よって18th cent.に出来た有名な小説なりといいしにさようかというて直ちに話頭を転じたり。その女房は先日まで女学校を聞きつつありし女故、少しく教育のあるべきはずなるが文学のことはやはり一、二冊の小説を読みしのみ。そのくせ生意気にて何でも知ったかぶりをするなり。こちらにて少々六ずかしき字を使えば分らぬくせに先方にてはくだらぬ字を会語中に挟みてこの字を知っているかと一々尋ねられるには閉口なり。これらはただ現今のOuidaまたはCorelli位の名を如るのみ。しかして必ずしも下賤なものにはあらず。中以下は篤志のものにあらざれば概してかくの如きものならん。会話は自国の言語故無論我々鯱立しても及ばぬなり。しかしいわゆるcockneyは上品な言語にあらず。かつ分らぬなり。倫敦に来てこれが分れば結構なり。倫敦上流の言語は明晰にて上品なり。standardならんか。これなら大抵分るなり。かかる次第故西洋人と見て妄りに信仰すべからず。また妄りに恐るべからず。しかしProf.などは博学なものなり。それすら難問を出して苦めることは容易なり。」

佐藤氏がどこで上述のような話を仕入れたものか分からないが、困るのは、発言の根拠が示されていないこと。これはいつものことなのだが、読むほうは正確な判断・論評をするのに非常に支障をきたす。困ることのもう一つは、佐藤氏の発言が、一見しただけではもっともらしく見えることである。当時の日本と西欧の位置関係ということもあるし、また、漱石がロンドンで一時期傍目にも病的な精神状態におちいっていたという周知の事情があるためでもある。よく知られているように、漱石は『文学論』の「序」に、

「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。」「英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。」(『文学論』の「序」)

と書いている。もしかすると、佐藤氏は漱石自身のこの有名な言葉から、「大学の授業について行けなかった」とか「西欧社会全体が個の確立した人間で構成されているというふうに不当拡張してしまった」などの勝手な憶測をしたのではないだろうか。しかし、漱石にとってのイギリス留学は、もしこれがなかったならば、今在るかたちでの文学者漱石は誕生しなかったであろうというくらいの重大な出来事なのだから、そういうことに関して佐藤氏のように、さしたる根拠もありそうにない話をさもさも確実な事実であるかのように本のなかでしゃべるのは読者にとって困ったことだ。それも本の発行元はかつて漱石が契約社員として小説その他のほぼ全文章を発表しつづけた朝日新聞社なのだから、呆れてしまう。

1900年(明治33年)の留学当時、イギリスはヴィクトリア朝の末期、イギリスについて述べている漱石の言葉から推測すると、イギリスという国もロンドンの街も漱石には親しみや好ましさを感じさせなかったようだ。また、ほとんどの時間を下宿の自室に閉じこもり、読書と思索に没頭していたようなので、これではさぞかし孤独であったろう。その上、経済生活は衣食住にもこと欠く余裕のないもので、この経済的困窮にも漱石は苦しめられたようである。上述した熊本大学五高記念館で見つかった報告書には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」とも記述されていたそうで、そのようにただでさえ苦しい経済事情のなかで、漱石はロンドン市中の古書店からなんと800冊前後もの本を購入して帰国しているのだから、不如意の程も察せられる。けれども、漱石は後年、『私の個人主義』(学習院大学における講演会の筆記録。1914年(大正3年))のなかで、イギリス留学を振り返って、

外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。

と述べている。漱石は自分について大袈裟なことを言わない人、何事においても自己を吹聴するような行為を嫌悪する人だった。そのことは文章を読めば感じとれることだが、また多くの証言にもそれは表れている。たとえば漱石晩年の門下生であった内田百は漱石が『道草』を書いていた当時、部屋の一隅に積んであった書き潰し原稿を見て、他の二人の門下生共々、「その書き潰しの原稿用紙を頂戴したいと云ふ事を、恐る恐る先生に申し出」ると、「そんな物がいるなら持つて行つてもいいよと先生が云つたので、早速三人で分けた。」そうである(『漱石先生の書き潰し原稿』)。この出来事について、百は、「先生が御自分の書き潰しの反古などを私共にやつてもいいと云はれたのは、不思議に思はれる」と書いている。百によると、

「大體先生はさう云ふ事がきらひであつた。私共から云へば、先生の推敲の跡をその儘に辿つて見られる書き潰しの原稿は何物にも代へ難い物であるけれども、先生から見れば屑籠に入れる前の紙屑に過ぎない。さう云ふ物を傍から大事がるのは傍の者の勝手としても、先生自身からそれに便宜を興へると云ふ様な事を先生はしたがらない人であつたが、その時はどう云ふ風の吹き廻しか、安安とお許しが出た。/トルストイは自分が天才であると云ふ事を自分で承知してゐるが、ドストイエフスキーはそんな考は少しもなく、ただ自分の生活の為にあれだけの仕事をした。ゲーテは自分の名が後世に傳はる事を生きてゐる内から知つてゐたに違ひないが、シェクスピヤは今日まで自分の作品が読まれようなどとは夢にも思はなかつたであらうと云ふ様な事を漱石先生が話されるのを聞いた事がある。(略)漱石先生が右の話でドストイエフスキーやシェクスピヤの方を買つて居られた事は云ふ迄もない。」(『漱石先生の書き潰し原稿』)

漱石がそういう人となりであるだけに、晩年になって(1914(大正3)年。死去の2年前)、自ら実質的にイギリスで「ある力を得」て帰って来たと公言していることはよりいっそうの重みをもって聞こえる。確かにイギリス留学は結果的に漱石の人生を一変させる出来事になったわけだが、なぜそうなったのか、その経緯については、漱石が大学で英文学を専攻して勉強を始めてからの歩みを知る必要がある。『文学論』の「序」や『私の個人主義』などにおける漱石自身の言葉を見ることにしたい。

「 私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。その頃はジクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞が落ちていると云って叱られたり、発音が間違っていると怒られたりしました。試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並べてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい解るはずがありません。(略)とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです。私の煩悶は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支ないでしょう。 」(『私の個人主義』)

漱石は幼少の時から漢文学に親しんでいて、自分の漢詩文を味わう力には疑いをもっていなかった。それだけではなく、漢詩の創作力、文章力においても抜群の技量をもっていた。大学予備門時代、23歳の漱石は夏休みに友人たちと房総に旅行したが、帰京後、漢詩文紀行『木屑録』を書いた。同級の親しい間柄であった正岡子規に見せると、子規は「英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なり」と跋を書いてよこしたそうである(『正岡子規』ホトトギス1908(明治41)年)。漱石が東京帝国大学の英文科に進むのはその翌年だから、してみると、予備門時代から漱石は英語力においてもよほど秀でていたのだろう。ともかく当時の漱石は英文学に対しても、これまで自分が漢文学に対して培ってきた文学の観念で向き合えば、それでそのまま通るものと考えていたようである。

「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。」(『文学論』の「序」)

ところが、現実はそうではなかった。英文学の勉強を積み重ね、その結果周囲から優秀だと賞賛されても、心の内は英文学への違和感に付き纏われ、「文学とはどういうものだか、……」「とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだった」(『私の個人主義』)と心の内を打ち明け、さらに『文学論』の「序」では次のようなことまで言っている。

卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。余はこの不安の念を抱いて西の方松山に赴むき、一年にして、また西の方熊本にゆけり。熊本に住すること数年いまだこの不安の念の消えぬうち倫敦に来れり。

このような煩悶、不安をかかえた漱石はロンドンの下宿の一室で英文学の研究のためにこれまで読みたくても読めなかった著名な本を片端から、とにかくできるかぎり数多く読破するという方針を採ったそうである。その経過と結果は、

「擅まに読書に耽るの機会なかりしが故、有名にして人口に膾炙せる典籍も大方は名のみ聞きて、眼を通さゞるもの十中六七を占めたるを平常遺憾に思ひたれば、此機を利用して一冊も余計に読み終らんとの目的以外には何等の方針も立つる能はざりしなり。かくして一年余を経過したる後、余が読了せる書物の数を点検するに、吾が未だ読了せざる書物の数に比例して、其甚だ僅少なるに驚ろき、残る一年を挙げて、同じき意味に費やすの頗る迂闊なるを悟れり。」(『文学論』の「序」)

仮に一日一冊読了したとしても一年で365冊。本は万巻を数えるのだから、漱石の「驚ろき」も「迂闊なるを悟れり」もどんなにか切実な実感だったろう。漱石はその時の衝撃や感慨、決意について下記のように記している。

「 翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は之を充分味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。/ 大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会せり。/余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。/余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。/ 余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。」「余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。始めは茫乎として際涯のなかりしものゝうちに何となくある正体のある様に感ぜられる程になりたるは五六ケ月の後なり。/ 留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。」(『文学論』の序)

「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心した」以後のことを、漱石は『私の個人主義』においては下記のように説明している。

「 私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。今は時勢が違いますから、この辺の事は多少頭のある人にはよく解せられているはずですが、その頃は私が幼稚な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私のやり方は実際やむをえなかったのです。 」

漱石についての著作がある文芸評論家の樋口覚氏によると、漱石が英国から持ち帰った本のなかには自然科学書がかなりあったそうである。これにはロンドンの下宿で一時同宿した科学者の池田菊苗の影響が大きかったことは小宮豊隆著『夏目漱石』に書かれている。また、漱石の談話筆記『處女作追懷談』にも、「池田君は理學者だけれども、話して見ると偉い哲學者であつたには驚ろいた。大分議論をやつて大分やられた事を今に記憶してゐる。倫敦で池田君に逢つたのは、自分には大變な利益であつた。御蔭で幽靈の樣な文學をやめて、もつと組織だつた研究をやらうと思ひ始めた」とあるほどである。漱石は、ロンドンから帰国した直後の自身の生活に題材をとった小説『道草』において、主人公健三の生活ぶりを次のように描いている。

「健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心は殆んど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。/ 娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から謡の稽古を勧められて、体よくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。/自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。」(『道草』1915(大正4)年)

上の文章のうち、「自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている」という叙述はつと胸をつかれるほど印象的だが、重要なのは、「心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた」という表現だと思われる。留学前、漱石の心にわだかまりつづけていた「英文学に欺かれたるが如き不安の念」は、イギリス留学を終えた後、「異様の熱塊があるという自信」に変わったのではないだろうか。時間に対する守銭奴の如き態度にしても、心の底に存在する「異様な熱塊」の促しだとも理解できるように思う。
2010.07.23 Fri l 文芸・読書 l コメント (3) トラックバック (0) l top
 「ジューチカの贋もの説」と「マトリョーシャのマゾヒスト説」- 発想の根は同一

前回、「ペレズヴォンはジューチカに非ず」という亀山氏の説を取り上げ、あれこれ思いをめぐらしたり、記事を書いたりしているうち、亀山氏が著書「『悪霊』神になりたかった男」で『悪霊』のマトリョーシャについて述べていた説を思い出してしまった。マトリョーシャが母親に布きれやペンナイフを盗んだ疑いで折檻される場面について、マトリョーシャはその時泣きながらマゾヒスト的な快感を覚えていたのだと言うくだんの説である。もともとこのような読み方は私には突拍子もないことにしか感じられなかったし、以前からドストエフスキー研究者の木下豊房氏や萩原俊治氏などからつよい批判や反論が発せられていたわけだが、別の犬をジューチカに似せるために誰かがその顔に傷を付けた可能性があると述べているのをあらためて読んでいるうち、これはスタヴローギンに凌辱され、その結果首を吊って死んでしまった少女マトリョーシャをマゾヒストと見るのと同じ質の発想であり、二つの説には同じ幹から生え出た二本の枝のような関係があるのではないかと思った。マトリョーシャは12歳、コーリャは13歳である。マゾヒストとかサディストなどというフロイト学説に依拠した亀山氏の作品解釈自体に私はとてつもない違和感を覚えるし、亀山氏の述べるところを聞いてもあまり根拠をもっての説とも感じられないのだが、「解題」を読むと、亀山氏は、ペレズヴォンとジューチカの関係をめぐってコーリャに対してもその説を適用しているように見える。「解題」で開陳されている「ペレズヴォンはジューチカに非ず」という亀山氏の解釈をあらためて見てみる。

「コーリャは、結核で死にゆこうとするイリューシャの「傷」の原因を推しはかり、ジューチカ(?)を探してきて徹底的に仕込むのだが、非情なしごきに似たその訓練ぶりは、彼の冷徹な意志を思わせる。/ こうして、片目がつぶれ、耳に裂け目のはいったペレズヴォン(改名されたジューチカ)は、コーリャに完壁に奉仕する存在となった。文字通り「ございます犬」の誕生である。コーリャをめぐる、このあたりの微妙な設定のもつ重層性を理解するには、くどいようだが、「第二の小説」の知られざる構想にまで想像の翼を広げて考えないことにはおぼつかない。犬のジューチカとペレズヴォンが同一かどうかという問題は、複雑きわまりない連想の糸をたぐり寄せてしまう。もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。」(「解題」。下線は引用者による。以下同じ。)

上の文章を読むと、亀山氏はここで、ペレズヴォンとジューチカとは同一犬ではない、コーリャがペレズヴォンの片目をつぶし、耳に裂け目を入れてジューチカに似せたのだと主張していると見て差し支えないと思われる。亀山氏は、いや自分は同一犬ではないと断定しているわけではない、単に疑いがあると述べただけだと言うかも知れない。しかしそのような弁解は成り立たないと思う。このような作品全体の秩序を根幹から揺るがしかねない重大な新説を述べる以上、亀山氏にはロシア文学者として、また『カラマーゾフの兄弟』の翻訳者として、発言に責任が生じるのであり、これはその覚悟がないかぎり公言すべき性質の説ではないはずだからだ。また、自分は「だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか」という文のとおり、決して片目をつぶし、耳に裂け目を入れたのがコーリャだと断定しているわけではないとも言うかも知れない。けれども、コーリャは犬(ジューチカ)を探し出したことを誰にも打ち明けていない。家の中で一人で隠密裏に飼育し、芸を仕込んでいたのだから、犬の顔に傷をつけることができるのはコーリャしかいない。まさか二人暮らしのコーリャの母親はそんなことをするなんぞ考えも及ばない性質の人である。

コーリャがジューチカそっくりの犬を作り上げるために、別の犬の顔にナイフで傷を付けたという解釈がどんなに重大であるかは、その場面を想像してみるだけで分かろうというものである。亀山氏は、登場人物の誰彼についてあれはマゾヒストだとかサディストだとか断言しているが(管理人注:リーザやイワンの名が挙がっている)、スメルジャコフについて、下記のように述べている。

「小説のなかでのきわめつきのサズィストは、むろんスメルジャコフである。猫の葬式ごっこをして遊んだ彼は、やがてイリューシャをそそのかし、犬への残虐ないじめを実行させた。」(「解題」)

柔らかいパンの中にピンを入れて飢えた犬に食べさせ、それがどうなるか見物しよう、というのは残酷な趣味である。スメルジャコフにそそのかされたとはいえ、自分もスメルジャコフと一緒にその行為をやってしまったために、イリューシャは重い病気になるほど苦しんでいた。コーリャに事情を打ち明けた時のイリューシャの様子は、コーリャによると、

「犬は、すぐにとびついて丸呑みにするなり、悲鳴をあげて、ぐるぐるまわりだすと、やにわに走りだし、走りながらきゃんきゃん悲鳴をあげて、そのまま消えてしまったんです。これはイリューシャ自身の言葉ですけどね。あの子は僕に打ち明けると、おいおい泣きながら、僕に抱きついて、身をふるわせていました。『走りながら、きゃんきゃん悲鳴をあげるんだ』と、そればかりくりかえしてましたっけ。」(『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳。以下同じ)

イリューシャの心のなかは「きゃんきゃん悲鳴をあげて」いたジューチカで占められていたのである。そういうイリューシャの苦しみをコーリャは隅々まで十分には理解していなかった。理解していたならば、探し出したジューチカに芸を仕込むなどの計画を思いついたり、実行したりなどしないで、すぐにイリューシャの元に連れて行っただろう。コーリャはそのようにして真っ先にイリューシャを安心させるよりも、ふっくらと犬を太らせ、芸のできる完璧な犬に仕上げたいという自己の欲望の方を優先したのだ。それは何事においても自分本意の考え方から抜け出せない彼の性質のためであろうが、それだけではなく13歳という少年らしい子どもっぽさ、幼さのせいでもあっただろうと思う。それにもう一つ、その方がイリューシャをより喜ばせることができるとも考えたのだろう。このようなコーリャが見知らぬ犬の「片目をつぶし、耳に裂け目を入れる」行為をするなんぞ現実的に想像できるだろうか?

そのような発想・行為は、パンの中にピンを入れてそれを呑み込んだ犬がどうなるか見物しようと言い出したスメルジャコフのそれとどう違うだろうか。スメルジャコフが「きわめつけのサディスト」ならば、犬の顔に傷をつけるコーリャも「きわめつけのサディスト」になるだろうし、事実、亀山氏はそのように主張したいのだろう。これを、犬の立場になって考えるとどうなるだろうか。ピンの入ったパンを投げあたえられることと、口や耳にナイフを刻まれることとの間に苦しみにおいてどのような違いがあるだろうか。またコーリャがそのようなことをしてジューチカの贋ものを作り上げたとして、もしイリューシャがその事実を知ったならば、彼は絶望してその瞬間に死んでしまうのではないだろうか。コーリャははたしてそのようなことを理解できない少年だろうか? またペレズヴォンがジューチカでなかったのなら、日夜ジューチカのことで頭を一杯にして、父親のスネギリョフに、

「僕が病気になったのはね、パパ、あのときジューチカを殺したからなんだ、神さまの罰が当たったんだよ」(『カラマーゾフの兄弟』)

とアリョーシャの前で三度もくりかえして言っていたというイリューシャが、コーリャが伴ってきた犬を見てそれがジューチカでないことに気づかないなどということがありえるかどうか、亀山氏は考えなかったのだろうか? またアリョーシャがそのような出来事の不自然さに気づかないということがありえるかどうかについても思いをめぐらせなかったのだろうか? コーリャは、自分が引き起こした衝撃のために布のように顔を蒼白にしているイリューシャに向かって無邪気にこう言うのだ。「どうしたの? こいつを君のベッドへ上がらせりゃいいよ。こい、ペレズヴォン!」。そして、

「コーリャが掌でベッドをたたくと、ペレズヴォンは矢のようにイリューシャのところにとびこんだ。イリューシャはやにわに両手で犬の首をかかえこみ、ペレズヴォンはそのお返しにすぐさま頬を舐めまわした。イリューシャは犬を抱きよせて、ベッドに身を伸ばし、顔を房々した犬の毛に埋めてみなから隠した。 」(『カラマーゾフの兄弟』)

この後、コーリャは、鞄からブロンズの大砲を取り出してみんなに見せるのだが、そのときのコーリャの心情について、ドストエフスキーは下記のように叙述している。

「急いだのは、彼自身も非常に幸福な気持だったからだ。これがほかのときなら、ペレズヴォンのひき起した効果のおさまるのを待ったにちがいなかったが、今はあらゆる自制を軽蔑して、急いだ。『これだけでも君たちは幸福だろうが、もう一つおまけに幸福をあげよう!』と言わんばかりだった。彼自身もすっかり陶酔していた。」(『カラマーゾフの兄弟』)

コーリャは常に自分というものの価値について過剰に意識しないではいられない、従ってその行動がどうしても自分本意になりがちの少年ではあるが、同時に利発で愛情のふかい善良な少年であることにも疑いの余地はないだろう。コーリャはイリューシャが寝ている部屋に入ってきた時、下記のような様子を見せた。

「 だが、コーリャはもうイリューシャのベッドのわきに立っていた。病人は目に見えて青ざめた。ベッドに半身を起し、食い入るようにまじまじとコーリャを見つめた。コーリャは以前の小さい親友にもう二カ月も会っていなかったので、突然すっかりショックを受けて立ちどまった。こんなに痩せおとろえて黄ばんだ顔や、高熱に燃えてひどく大きくなったような目や、こんな痩せ細った手を見ようとは、想像もできなかったのだ。イリューシャが深いせわしい呼吸をしているのや、唇がすっかり乾ききっているのを、彼は悲しいおどろきの目で見守っていた。一歩すすみでて、片手をさしのべると、まったく途方にくれたと言ってよい様子で口走った。
「どうだ、爺さん‥…具合は?」
 だが、声がとぎれて、くだけた調子はつづかず、顔がなにかふいにゆがんで、口もとで何かがふるえだした。イリューシャは痛々しい微笑をうかべていたが、相変らず一言も言えずにいた。コーリャがふいに片手を上げ、何のためにかイリユーシャの髪を掌で撫でてやった。
「だいじょぶ、だよ!」小さな声で彼はささやいたが、それは相手をはげますというのでもなく、何のために言ったのか自分でもわからぬというのでもなかった。二人は一分ほどまた黙った。」(『カラマーゾフの兄弟』)

そのコーリャについて、今、コーリャの連れてきた犬を抱いているイリューシャがどのように感じているかと言えば、

「彼はつきない興味と楽しみをおぼえながら、コーリャの話をきいていた」(『カラマーゾフの兄弟』)

イリューシャとコーリャに対するこのような描写を見れば、亀山氏の想像がいかにありえないことであるか、愚劣であり、残忍でさえあるかが一目瞭然であろう。亀山氏は、コーリャがジューチカに似せるために、どこかから連れてきた犬の耳や口にナイフを入れている場面を具体的に想像してみたことがあるのだろうか。それともそんなことは考えもせず、ただ自分の思いつきに夢中になってそのような読解が現実に成立しえることかどうか検討することもなく述べたのだろうか。どちらなのか私には分からないが、亀山氏のこの見解は、『悪霊』のマトリョーシャについて述べたマゾヒスト説とよく見合った、同一の発想によるもののように思う。

『悪霊』の主人公、ニコライ・スタヴロ-ギンは、ある時期、女性との逢い引きのためにゴロホワヤ街の大きな建物のなかの一部屋を、ロシア人の町人夫婦からまた借りしていたが、マトリョーシャはその夫婦の娘である。

「母親は娘を愛してはいたのだが、よくぶつことがあり、町人によく見られるように、〔何かにつけ〕ひどくどなりつけることもあった。この少女は私の女中代りで、衝立のかげの片づけもしてくれた。」(『悪霊』江川卓訳。以下同じ)

と、スタヴローギンはチホンに見せた告白の文書に記している。亀山氏が「マゾヒズム」説を唱える根拠にしている場面の文章を『悪霊』から下記に引用する。(下線は引用者による。)

「ある日、私の机の上からペンナイフがなくなった。それはまったく不必要なもので、なんということもなく、そこに置きっぱなしになっていたものである。まさかそのために娘が折檻されるなどとは思いもしないで、私はそのことを主婦に話した。ところが彼女はたったいま、何かのぼろきれがなくなったのを、娘が〔人形を作るために〕盗んだにちがいないと考えて、娘をどなりつけ、髪をつかんでお仕置きまでしたところだった。そのぼろきれはまもなくテーブル掛けの下から見つかったのだが、少女は〔自分が非もないのに折檻されたことに対して〕文句ひとつ音おうとはせず、ただ黙って目をむいているばかりだった。私はそのことに気づき、〔彼女はわざと文句を音おうとしなかったのだ〕またそのときはじめて少女の顔に目をとめた。それまでは、ただちらちら見かけるという程度だったのだ。彼女は髪や眉の白っぽい、顔にそばかすのある子で、ごくふつうの顔立ちをしていたが、表情にはほんとうに子供子供した、もの静かなところ、いや、度はずれにもの静かなところがあった。母親は、理由もなくぶたれたのに娘が口答えをしないのがおもしろくなくて、なぐりこそしなかったが、人形をつかんで娘の頭上にふりあげたところだったが、ちょうどそこへ、私のペンナイフの一件がもちあがったのである。[事実、その場に居合せたのは私たち三人だけで、私の部屋の仕切りのかげにはいったのは、少女一人だけだった。]おかみは、最初の折檻が自分の手落ちであっただけにすっかり逆上してしまい、[箒にとびついて]箒から小枝の束を引抜くと、娘がもう数えで十二歳だというのに、私の見ている前で、みみずばれができるほど娘を打据えた。マトリョーシャは打たれても声をあげなかった、おそらく、私がその場に居合せたからだろう。しかし、打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。
[ところが、実はその前にこういうことがあったのである。おかみが鞭を作るために、箒のほうへとんでいったちょうどそのとき、私はたまたま自分の寝台の上に、何かのはずみで机からそこへ落ちたのだろう、例のペンナイフを見つけたのである。私の頭にはそのとき、娘をぶたせるために、このことを言わないでおいてやろうという考えがうかんだ。私は即座に決心を固めた。こういう際、私はいつも息がとまりそうになる。しかし私は、何ひとつ秘密の残らないように、いっさいをできるかぎり明確な言葉で語っておくつもりである。
(略)
少女は、泣いたあと、いっそう無口になった。私に対しては、悪感情をもっていなかったと確信している。もっとも、私の目の前であんなふうに折檻されたことを恥ずかしく思う気持は、たしかに残っていただろう。しかし、こういう羞恥を感じながらも、彼女は、従順な子供らしく、自分一人を責めていたようである。」(『悪霊』)

亀山氏は、「打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。」というマトリョーシャの態度をマゾヒスト説の根拠にしているようである。しかし、これについては、上述の木下氏や萩原氏からロシア語の解釈を含めた明確な反論が出ているが、私も翻訳の一読者としてそのような解釈はまったく成立しえないように感じる。まず、スタヴローギンは、マトリョーシャが母親からみみみずばれができるほどに打据えられても声をあげなかった理由について、「おそらく、私がその場に居合せたからだろう。」とちゃんと書いている。また、マトリョーシャの普段の様子について、「表情にはほんとうに子供子供した、もの静かなところ、いや、度はずれにもの静かなところがあった。」とも記している。彼女はつよく自己主張するような性質ではまったくなく、自分一人で我慢する性質であり、この時もよその人であるスタヴローギンがいたこととともに我慢して声をあげなかったのだろう。そのことは、この事件の後のマトリョーシャの様子についてスタヴローギンが「私の目の前であんなふうに折檻されたことを恥ずかしく思う気持は、たしかに残っていただろう。しかし、こういう羞恥を感じながらも、彼女は、従順な子供らしく、自分一人を責めていたようである。」と述べていることでも明らかだと思う。

次に、「打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。」というマトリョーシャの態度は、どんなに彼女が忍耐つよい従順な性格であっても、これは確か萩原氏がブログ「こころなきみにも」で述べていたことだと思うのだが、なんの落ち度もなく濡れ衣をきせられ、打ち据えられたのが口惜しかった、納得できなかった、同時に切なく悲しかったからだろう。実はマトリョーシャにかぎらず、子どもはふとこのような姿態をかいま見せることが往々にしてあるものなのだ。子どもはたとえば可愛がっていた生き物に死なれたり、親に理不尽な怒られ方をしたり、年長の友達にいじめられたりして、幼くして人生の不条理を切々と感じることがある。そんな時、どうかすると1時間や2時間、あるいはそれ以上の長い時間、沈黙のうちにただえんえんと泣きじゃくったりすることがあるのだ。そういう時の子どもの姿は孤独感や物悲しい神秘的な気配さえ醸し出していることもある。このことは自分自身や兄弟姉妹やわが子の幼年時代を思い出してみると、誰しもふと思い当たることがあるのではないだろうか。打たれても声をあげなかった、しかし、打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた、この時のマトリョーシャの態度を私は特に不思議にも不可解にも感じないし、むしろ既視感を覚える。ドストエフスキーはこのようなことを十分に知り尽くしていたのではないだろうか。

またスタヴローギンはぼろきれやペンナイフが紛失した事情をこと細かに説明しているが、これはマトリョーシャが受けた打擲は紛れもなく濡れ衣であること、それとともにマトリョーシャの忍従的な性格の表現ということがスタヴローギンのみならず、作者の意図にもあったのではないかと思うのだが、その点についての亀山氏の解釈はどうなのだろうか? モノが紛失した事情がこんなに丁寧に描かれている理由も考えに入れるべきではないだろうか。ここにマゾヒズムの入り込む余地はないように思う。なにより、マトリョーシャがマゾヒストなら、スタヴローギンに凌辱された後、彼女はなぜ病気になるほど一人で苦しみ、「神さまを殺してしまった」とうわごとを言い、顔には「子供の顔には見られるはずのない絶望があらわれ」、ついには首を吊って死んでしまうようなことになったのだろうか。スタヴローギンは文書に、この後、納屋で首を吊って死んでしまうマトリョーシャについて、死の直前の様子を次のように書いている。

「マトリョーシャのほかにはだれもいなかった。彼女は自分の部屋の衝立のかげの母親のベッドに横になっていて、ちらと顔をのぞかせたのが見えたが、私は気がつかないふりをしていた。窓はあけられていた。空気はあたたかく、暑いほどだった。私はしばらく歩きまわってから、ソファに腰をおろした。このときのことは、ほんの一瞬にいたるまで、はっきりと記憶している。私は、なぜか知らぬが、自分がマトリョーシャに声をかけようとせず、彼女を苦しめていることに、すっかり満足しきっていた。私はたっぷり一時間ほど待った。すると、ふいに彼女が衝立のかげからとびだしてきた。彼女がとびだした拍子に、その両脚が床にふれてことんと音を立てたのが聞え、それから、かなり足早な足音が聞えて、彼女は私の部屋の戸口に立った。[彼女は突っ立ったまま、黙ってこちらを見ていた。卑劣にも私は、辛抱しとおして、彼女のほうから出てくるまで待ちおおせたことがうれしくてたまらず、心臓がどきりと躍ったほどだった。]私はあのとき以来、一度も彼女を間近で見たことがなかったが、たしかにこの間に彼女はひどくやつれていた。顔はかさかさに乾き、頭はたしかに熱をもっているらしかった。(管理人注:この前に、スタヴローギンは、マトリョーシャの母親から、「マトリョーシャがもう三日も病気で、毎晩熱を出し、うわごとを言う」と聞いていた。どんなうわごとを言うのかとたずねると、それは「おびえた」うわごとで、「神さまを殺してしまった」というようなことを口走るのだと。)
 目は前よりも大きくなって、じっと私を見据え、最初そう思えたのだが、鈍い好奇心を浮べているようだった。私はすわったまま相手を見返し、その場を動こうとしなかった。そして、そのときふたたび、ふいにまた憎悪を感じた。しかし、すぐとまた、彼女が全然私をこわがっていないで、ひょっとすると、熱に浮かされているのかもしれないと気がついた。しかし、熱に浮かされているのでもなかった。やがて彼女は突然私に向って、しきりと顎をしゃくりはじめた。無邪気な、まだ非難の仕方も知らないような子供が、相手を強くとがめるときの、あの顎のしゃくり方である。それから、ふいに彼女は私に向って小さな拳を振りあげ、その場所から私を脅しはじめた。最初の瞬間、私にはそのしぐさが滑稽に思われたが、じきに耐えきれなくなってきた。[そこで私はふいに立ちあがって、恐怖をおぼえながら足を踏み出した。〕彼女の顔には、子供の顔には見られるはずのない絶望があらわれていた。彼女はなおも脅すように私に向って手を振りあげ、とがめるように顎をしゃくった。私は[立ち上がり、恐怖をおぼえながら彼女のほうへ足を踏み出し]、用心深く、小声で、できるだけやさしく声をかけたが、彼女が何も理解しそうにないことに気づいた。それから彼女はふいに、あのときと同じように、両手でさっと顔を覆うと、その場を離れて、私に背を向けて窓ぎわに立った。……](『悪霊』)

コーリャが犬の耳と口にナイフで傷を付けたのではないかという説も、マトリョーシャが母親の折檻にマゾヒスト的快感を覚えていたという説も、私は現実的な検証にとうてい耐ええない単にグロテスクな読解だと思う。コーリャとイリューシャとジューチカ(ペレズヴォン)とは物語のなかでたがいに緊密な関係をもって存在している。スタヴローギンとマトリョーシャの関係についても同じことが言えると思う。それに対して、亀山氏は一人遊びのような感覚でできるだけ刺戟のつよい思いつきを考え出しては、それらをほとんど吟味もしないで公開の場で披露しているように思える。亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』は、ネットで検索してみたところ、どうやら朝日新聞の『ゼロ年代の50冊』のうちでも上位に選出されているようである。私は「ペレズヴォンはジューチカにあらず」という説は『カラマーゾフの兄弟』という作品の根幹を揺さぶる重要な読解の一つだと思うので(管理人注:「解題」にはこの他にも重大な場面に対する摩訶不思議な読解が多数あると思う。)、この作品を選出し、推称している選考委員の人々には、亀山氏のこの読解をどのように考えるのか、このような読解がこれまでに指摘されてきた夥しい質量の誤訳と関係はないのかどうか、一人一人に考えを聞いてみたいと思うのだが、望めないだろうなぁ。でもこの程度の読者の質問にも応えられない専門家の存在というのも思えば物悲しいものではないだろうか。本来、このような問題は、人に質される前に、出版・編集者をはじめとした関係者は確固とした自分の考えをもっていて然るべき範疇のことのはずなのだが……。
2010.07.10 Sat l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
   

朝日新聞の読書企画「ゼロ年代の50冊」に亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が選ばれていることに関連して、読者として感じていることをもう少し書いておきたい。いろいろ考えても、否、考えれば考えるほど、この翻訳が識者、編集者、読者によって朝日新聞の紙面に見るごとく絶讃されている状況(注1)は異様で、これは文学作品の基本的な味読や読解力の面で、また出版・編集関係者の熱意や誠意の面でも、致命的な衰退・腐敗・歪みをきたしていることの表われのように思えてくる。なぜそのように思ってしまうのか、その理由・根拠について『カラマーゾフの兄弟』に対する亀山氏の読解の一例を具体的に細かに見てみることで探ってみたいと思う。

亀山氏は『カラマーゾフの兄弟 5』に「解題」を載せていて、そこで『カラマーゾフの兄弟』を自分がどのように読んだかを登場人物とその行動に即して述べている。その内容には思わず唖然としてしまう説が少なくないのだが、その一つに、コーリャ少年が十分に芸を仕込んだ上で病床のイリューシャの元に連れてきた犬ペレズヴォンは、イリューシャが待ち焦がれていた犬ジューチカではないという示唆をしていることがある。亀山氏は「もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。」とまで述べている。これがどんなに驚くべきまた恐るべき読解であるかは、あの場面を実際に読んだことのある者なら誰でも感じることではないかと思うのだが、日本の文壇(今も存在するのかどうかは知らないが)や雑誌・新聞を含む読書界においては、あるいはもうそうではないのだろうか?

イリューシャはまだ元気で学校に通っていたころ、スメルヂャコフにそそのかされて飢えた犬にピンを埋め込んだパンを投げ与えるという残酷ないたずらをした。この事件についてイリューシャからすべての事情を打ち明けられていたコーリャが後にアリョーシャに語ったところによると、

「あの子は何かのきっかけで、あなたの亡くなったお父さん(そのころはまだ生きてらっしゃいましたけど)の召使スメルヂャコフと親しくなって、あの男がばかなあの子に愚劣ないたずらを、つまり残酷な卑劣ないたずらを教えこんだんです。パンの柔らかいところにピンを埋めこんで、そこらの番犬に、つまり空腹のあまり噛みもしないで丸呑みにしてしまうような犬にそれを投げてやって、どうなるかを見物しようというわけです。」(引用は新潮文庫の原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』から。以下同じ。)

そこで二人はそういうパン片をこしらえて、片目がつぶれ、左耳が裂けているむく犬のジューチカに投げてやった。

「犬は、すぐにとびついて丸呑みにするなり、悲鳴をあげて、ぐるぐるまわりだすと、やにわに走りだし、走りながらきゃんきゃん悲鳴をあげて、そのまま消えてしまったんです。これはイリューシャ自身の言葉ですけどね。あの子は僕に打ち明けると、おいおい泣きながら、僕に抱きついて、身をふるわせていました。『走りながら、きゃんきゃん悲鳴をあげるんだ』と、そればかりくりかえしてましたっけ。」

イリューシャからこの話を聞き終えると、コーリャは次のような態度をとったのだという。

「あの子を鍛えてやりたかったもんですから、実を言うと、ちょっと芝居をして、実際は全然それほどじゃなかったかもしれないのに、すごく怒ったふりをしたんです。僕は言ってやりました。『なんて卑劣なことをしたんだ。君は卑劣漢だぞ。もちろん僕は言いふらしたりしないけど、当分君とは絶交だ。』」

コーリャは数えで13歳、イリューシャはコーリャより3つか4つ年下である。悲しみと苦しみに苛まれていたその時のイリューシャにとって、誰よりも慕っていたコーリャのこのような態度はどんなに大きなショックだったろう。その上、この出来事の直後、イリューシャは学校帰りに父親のスネギリョフがドミートリーにあご鬚を掴んで往来を引きずり回される場面を目撃することになる。その時イリューシャは二人の間に割って入り、父親を許してくれるようにドミートリーに懇願さえしている。愛してやまない父親のその時の惨めな様子を友だちから「へちま、へちま」とからかわれると、イリューシャは父親をかばってみんなに一人真っ向から立ち向かうが、このようなつらい境遇は、イリューシャにナイフでコーリャの膝をついて血を出させたり、友だちと石の投げ合いをするような事態に追い込むことになる。その結果、イリューシャは完全に孤立してしまうのだが、彼が重い病気に罹るのは、このようないくつもの心労が重なった後のことだった。

イリューシャが病気になり学校を休むようになると、アリョーシャの絶妙なタイミングの助言や仲立ちもあり、友だちはみんな次々にイリューシャを見舞い、仲直りをした。ところが、コーリャは訪ねて行こうとしないのだ。イリューシャと真っ先に和解したスムーロフ少年に、コーリャは「病人を見舞いに行くのなら、《自分なりの計算》がある」とか、「ジューチカが生きてさえいるなら、犬一匹探しだせないなんて、揃いも揃って間抜けばかりだ」と謎のようなことを言うのだったが、実は、後にコーリャ自身が述べるところによると、彼はジューチカを探し出して、この犬にペレズヴォンという名を付け、家で懸命に芸を仕込んでいたというのである。完璧な芸を覚えさせた後に、イリューシャの元に連れて行き、驚き喜ばせようという計画を練っていたというのだ。後にそれを聞かされたアリョーシャはそのようなやり方をやんわりと咎めるのだが、ともかくコーリャはそういう少年なのだった。

「少年たち」のなかで、コーリャ・クロソートキンの肖像は誰もが口を揃えるように飛び切り明確であり、美しくもあり、印象ぶかい。それは確かなことだが、イリューシャという少年もまた固有の重みと希有な存在感を備えた、作品になくてはならない登場人物である。そのことは亀山氏も認めていて、「カラマーゾフの兄弟には、魅力的な「脇役」が数かぎりなく登場する。」と述べ、下記のようにつづけている。

「 脇役のなかでもとくに印象的なのは、スネギリョフ二等大尉と子どもたち、ことにその息子イリューシャと、友だちのコーリャ・クロソートキンである。/スネギリョフ二等大尉と息子イリューシャが織りなす数場面、第4編「錯乱」、第10篇「少年たち」、さらに「エピローグ」は、ドストエフスキーのもっとも豊かな人間的想像力が発揮された例といってよい。」

上述の亀山氏の見解には私もまったく異論はないのだが、この後ジューチカとペレズヴォンが同一犬ではないことを示唆する発言が飛び出したのには、呆然としてしまった。

満足の行くまで犬の訓練をなし終えたコーリャはようやくスネギリョフ家を訪ねる。そこで彼は二ヶ月振りに会ったイリューシャが病のためにすっかり痩せおとろえているのを見て衝撃を受けるのだが、やがて部屋のなかに犬を呼び寄せる。この場面を描いた文章を上記と同じく原訳『カラマーゾフの兄弟』から引用する。その後、亀山氏の「解題」からこの場面を解釈した文章を紹介する。はたして亀山氏の言う「ペレズヴォンはジューチカにあらず」という説が成立する余地があるかどうか、作品と解題の両方を併せて読むことで、読者はこの問題に関する自分の判断を確認できると思う。(注2)

長くなって恐縮なのだが、その後にさらにもう一つ、森有正の著書『ドストエーフスキー覚書』からこの問題に関連する場面の文章を抜き出して掲載したい。森有正という人とドストエフスキーとの関係については昨年ブログ「こころなきみにも」ではじめて教えられたのだが、読んでみると、確かにこの『覚書』は今後もそうそう現れるとは思えないすぐれたドストエフスキー論だと感じた。内容は深く繊細、丁寧な分析は興味ぶかく教えられるところが大変多かったのだが、有り難いことに、この本には、今ここで問題にしている「コーリャとイリューシャ」そして「ジューチカとペレズヴォン」をめぐる関係性についても詳細な論述がなされていた。読み比べることで、私たち読者は大抵「ジューチカとペレズヴォンが同一犬ではない」という説が如何なるものであるか、自ずと、しかも確実に知りえるのではないかと思うのである。ではまず作品の引用から始めたい。


   

 『カラマーゾフの兄弟』「少年たち」からの抜粋 (原卓也訳。下線は引用者による。)

「 コーリャはイリューシャのベッドのすそに腰をおろした。おそらく、ここへくる途中、どんな話題からくだけた会話をはじめるか、準備してきたのだろうが、今や完全にその糸口を見失っていた。
「いいえ……僕はペレズヴォンを連れてきたんです……僕は今、ペレズヴォンという犬を飼ってるんですよ。スラブ的な名前でしょう。向うに待機してますから、僕が呼び子を吹けば、とびこんできます。僕も犬を連れてきたんだ」ふいに彼はイリューシャをふりかえった。「なあ、爺さん、ジューチカをおぼえてるかい」突然彼はこんな質問でイリューシャにすごいパンチを浴びせた。
 イリューシャの顔がゆがんだ。彼は苦痛の色をうかべてコーリャを見た。戸口に立っていたアリョーシャ眉をひそめ、ジューチカの話はせぬようにと、ひそかにコーリャに合図しかけたが、相手は気づかなかった。あるいは気づこうとしなかったのだ。
「どこにいるの……ジューチカは?」張り裂けるような声で、イリューシャがたずねた。
「おい、君、君のジューチカなんか、ふん、だ! 君のジューチカはどこかへ行っちまったじゃないか!」
 イリューシャは黙りこんだが、また食い入るようにまじまじとコーリャを見つめた。アリョーシャは、コーリャの視線をとらえて、必死にまた合図を送ったが、相手も今度も気づかなかったふりをして、目をそらした。
「どこかへ逃げてって、そのまま行方知れずさ。あんなご馳走をもらったんだもの、行方不明になるのも当然だよ」コーリャは無慈悲に言い放ったが、その実、当人もなぜか息をはずませはじめたかのようだった。「その代り、僕のペレズヴォンがいるさ……スラブ的な名前だろ……君のところへ連れてきてやったよ……」
「いらないよ!」突然イリューシャが口走った。
「いや、いや、いるとも。ぜひ見てくれよ……気がまぎれるから。わざわざ連れてきたんだもの……あれと同じように、むく毛でさ……奥さん、ここへ犬をよんでもかまいませんか?」だしぬけに彼は、何かもうまったく理解できぬ興奮にかられて、スネギリョフ夫人に声をかけた。
「いらない、いらないってば!」悲しみに声をつまらせて、イリューシャが叫んだ。その目に非難が燃えあがった。
「それは、あの……」坐ろうとしかけた壁ぎわのトランクの上から、ふいに二等大尉がとびおりた。「それは、あの……また次の機会にでも……」彼は舌をもつれさせて言ったが、コーリャは強引に言い張り、あわてながら、突然スムーロフに「スムーロフ、ドアを開けてくれ!」と叫び、相手がドアを開けるやいなや、呼び子を吹き鳴らした。ペレズヴォンがまっしぐらに部屋にとびこんできた。′
「ジャンプしろ、ペレズヴォン、芸をやれ! 芸をやるんだ!」 コーリャが席から跳ね起きて叫ぶと、犬は後足で立ち、イリューシャのベッドの前でちんちんをした。と、だれ一人予期しなかった事態が生じた。イリューシャがびくりとふるえ、突然力いっぱい全身を前にのりだして、ペレズヴォンの方に身をまげると、息もとまるような様子で犬を見つめたのだ。
「これは……ジューチカだ!」ふいに苦痛と幸福とにかすれた声で、彼は叫んだ。
「じゃ、君はなんだと思ってたんだい?」よく透る、幸せそうな声で精いっぱい叫ぶと、コーリャは犬の方にかがみこんで、抱きかかえ、イリューシャのところまで抱きあげた。
「見ろよ、爺さん、ほらね、片目がつぶれてて、左耳が裂けてる。君が話してくれた特徴とぴたりじゃないか。僕はこの特徴で見つけたんだよ! あのとき、すぐに探しだしたんだ。こいつは、だれの飼い犬でもなかったんですよ!」急いで二等大尉や、夫人や、アリョーシャをふりかえり、それからふたたびイリューシャに向って、彼は説明した。
「こいつはフェドートフの裏庭にいて、あそこに住みつこうとしかけたんだけど、あの家じゃ食べ物をやらなかったし、こいつは野良犬なんだよ、村から逃げてきたんだ……それを僕が探しだしたってわけさ……あのね、爺さん、こいつはあのとき、君のパン片を呑みこまなかったんだよ、呑みこんでたら、もちろん、死んでたろうさ、それなら終りだ! 今ぴんぴんしてるとこを見ると、つまり、すばやく吐きだしたんだよ。ところが君は、吐きだすとこを見なかった。吐きだしはしたものの、やはり舌を刺したんだね、だからあのとききゃんきゃん鳴いたんだよ。逃げながら、きゃんきゃん鳴いたもんで、君はてっきり呑みこんだと思ったのさ。そりゃ悲鳴をあげるのが当然だよ、だって犬は口の中の皮膚がとても柔らかいからね……人間より柔らかいんだ、ずっと柔らかいんだよ!」 喜びに顔をかがやかせ、燃えあがらせて、コーリャは興奮しきった口調で叫んだ。
 イリューシャは口をきくこともできながった。布のように青ざめ、口を開けたまま、大きな目をなにか不気味に見はって、コーリャを見つめていた。何の疑念もいだかなかったコーリャも、病気の少年の容態にこんな瞬間がどれほど苦痛な、致命的な影響を与えうるかを知ってさえいたら、今やってみせたような愚かな真似は絶対にする気にならなかったにちがいない。だが、部屋の中でそれをわかっていたのは、おそらく、アリョーシャだけだったろう。二等大尉となると、まさにごく幼い子供に返った感があった。
「ジューチカ! じゃ、これがあのジューチカかい?」 世にも幸せな声で彼は叫びたてた。「イリューシャ、これがジューチカだってさ、お前のジューチカだよ! かあちゃん、これがジューチカなんだよ!」 彼は危うく泣きださんばかりだった。
「僕は見ぬけなかったな!」スムーロフが情けなさそうな声を出した。「これでこそクラソートキンだ。この人ならきっとジューチカを見つけるって、僕は言ってたけど、やっぱり見つけたね!」
「ほんとに見つけたね!」さらにだれかが嬉しそうに応じた。
「えらいや、クラソートキンは!」さらに別の声がひびいた。
「えらいぞ、えらいぞ!」少年たちがみんなで叫び、拍手をしはじめた。
「まあ待ってくれ、待ってくれよ」コーリャはみなの叫び声に打ち克とうと努めた。「こうなったいきさつを、今話すからさ。問題はほかのことじゃなく、こうなったいきさつにあるんだから! 僕はね、こいつを探しだすと、家へ引っ張ってきて、すぐに隠したんだ。家には鍵をかけて、最後までだれにも見せずにいたのさ。ただ一人、スムーロフだけは二週間ほど前に嗅ぎつけたんだけど、これはペレズヴォンだって僕が思いこませたもんで、見破れなかったんだよ。そこで僕は合間をみてはジューチカにあらゆる芸を仕込んだってわけさ。今すぐ見せるよ、こいつがどんな芸を知ってるか、見てやってくれよ! 僕はね、爺さん、すっかり芸を仕込んで、艶々と太ったこいつを君のところへ連れてくるために、教えていたんだよ。どうだい、爺さん、君のジューチカは今こんなに立派になったぜ、と言うつもりでさ。あの、お宅に牛肉の細片か何かありませんか、こいつが今すぐ傑作な芸を見せますからね、みんな笑いころげちまいますよ。あの、牛肉は、細片でいいんですけど、お宅にございませんか?」
二等大尉は玄関をぬけて家主の家へまっしぐらにとんで行った。
(略)
「それじゃ、ほんとに君は、犬に芸を仕込むだけのために、今までずっと来なかったんですか!」アリョーシャが不満げな非難をこめて叫んだ。
「まさにそのためです」 コーリャはいたって無邪気に叫んだ。「完全に仕上がったところを見せたかったんですよ!」
「ペレズヴォン! ペレズヴォン!」 突然イリューシャが細い指を鳴らして、犬を招いた。

「どうしたの? こいつを君のベッドへ上がらせりゃいいよ。こい、ペレズヴォン!」 コーリャが掌でベッドをたたくと、ペレズヴォンは矢のようにイリューシャのところにとびこんだ。イリューシャはやにわに両手で犬の首をかかえこみ、ペレズヴォンはそのお返しにすぐさま頬を舐めまわした。イリューシャは犬を抱きよせて、ベッドに身を伸ばし、顔を房々した犬の毛に埋めてみなから隠した。

原訳による作品の引用は以上である。次に、亀山氏の「解題」を掲載するが、上の作品を読んだ後で、イリューシャという少年に対する亀山氏の解釈や、ペレズヴォンは本当にジューチカなのかと本気で疑っているらしい記述を読むと、正直なところ、亀山氏の翻訳がなぜ先行訳の水準とは次元を違えて誤訳や不適切訳が多いのか、つくづく納得させられる思いがする。亀山氏の「解題」は以下のとおりである。


   

 亀山郁夫「解題」

「 スネギリョフの息子で早世するイリューシャが、まだ元気に通学できたころに見せたふるまいは、やはり常軌を逸している。仲良しのコーリャにナイフを突き立て、アリョーシャの背中をねらって石を投げ、スメルジャコフのそそのかしで飢えた犬に針を含ませたパンを食べさせた。すべてに、どこかに癒しがたい恨みをかかえ、だれかれかまわず「仕返し」したいという衝動があったにせよ、針を含ませたパンを犬に与えるなどの行為の是非がわからないほど、幼かったとはとても思えない。やや飛躍するが、そこに色濃く未来のテロリストの面影がちらついているとみるのは、うがちすぎだろうか。
 コーリャとイリューシャは、先生と生徒、さらには主従関係、強力な支配者と非支配者の関係にあった。コーリャは、この年齢にしては天才的といえるほどの知能・教養、カリスマ性を備え、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールまで読んでいることになっている。あるいは、生半可ながら社会派の批評家ペリンスキーや、当時の革命民主主義者ゲルツェンの思想にも親しんでいた。
 自称「社会主義者」である彼は、目的成就のためには頑として意志を通すところがあり、イリューシャに対する鉄のような教育も、「社会主義者」に彼を育てたいという強烈な願望の現れだったにちがいない。
 いっぽうイリューシャは、専制君主的な少年コーリャの足下に屈し、絶対的ともいえる主従関係を結ぶことになるのだが、彼自身もきわめて自尊心が強く、対等でありたいという願望にとりつかれていた。その背伸びした思いが、先ほどの犬いじめにつながるのである。イリューシャにとってそれは、たんなる悪ふざけであったというより、むしろ意志的な行為、すなわち自分が大人であることを示す、あるいは大人になるために自分に課した試練でもあったように思えてならない。
 しかし、犬いじめの一件は、思いもかけずイリューシャの心の「傷」となり、コーリャとのあいだに決定的な亀裂を生んだ。コーリャは、結核で死にゆこうとするイリューシャの「傷」の原因を推しはかり、ジューチカ(?)を探してきて徹底的に仕込むのだが、非情なしごきに似たその訓練ぶりは、彼の冷徹な意志を思わせる。/ こうして、片目がつぶれ、耳に裂け目のはいったペレズヴォン(改名されたジューチカ)は、コーリャに完壁に奉仕する存在となった。文字通り「ございます犬」の誕生である。コーリャをめぐる、このあたりの微妙な設定のもつ重層性を理解するには、くどいようだが、「第二の小説」の知られざる構想にまで想像の翼を広げて考えないことにはおぼつかない。犬のジューチカとペレズヴォンが同一かどうかという問題は、複雑きわまりない連想の糸をたぐり寄せてしまう。もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。 」 (下線は引用者による)

上述の亀山氏のイリューシャ観と後にその文章を引用する森有正のイリューシャ観とを読み比べると、二人のイリューシャに対する評価はまったく対照的である。亀山氏の目には、アリョーシャがスネギリョフ家を訪ねるやすぐに見抜いたイリューシャの心根の優しさ、父親への愛情のために一身をなげうって闘おうとする勇気などは目に入っていないかのようである。もし亀山氏が小学校の教師だったら、イリューシャのような悪童的振る舞いをする子どもがいたとして、その心中の苦しみなどには目もくれず、同僚教師などに「あの子は異常ですよ」「あれでは、将来はテロリストですよ」とでも言い出しかねない短絡、軽率、そして洞察力の致命的な弱さなどを感じる。

さて、もし亀山氏が述べるごとくにジューチカとペレズヴォンが同一の犬でないとしたら、『カラマーゾフの兄弟』は、これまで読者を魅了してきた美しい場面の一つがたちまち一転、醜悪な姿に変貌してしまうだろうと思う。『カラマーゾフの兄弟』は、かれこれもう百年以上もの間、世界中で読まれてきた作品だが、普通人並みの理解力をもった読者のなかで亀山氏のような読解をした人物はこれまでどこかにいたのだろうか? 私はいなかったと思うのだが……。コーリャがイリューシャにジューチカだと思わせるために、どこかから拾ってきた犬の片目をつぶし、耳に裂け目を入れるようなことをしたのなら、そのような行為に至る少年の心の不健康さ、醜悪さは想像するさえ耐えがたいものがある。これでは、コーリャという少年がもっている生気溌剌としたイメージは消え、まったくコーリャも作品も別様のものに一変してしまうことになるだろう。亀山氏の翻訳を称讃する文学関係者には(もちろん「ゼロ年代の50冊」企画関係者も含まれる)、亀山氏のこのような読解をどのように考えるかを明らかにする責任があるだろうと思う。亀山氏の意識はどうであるにしろ、その解釈は作品の本質そのものへの指摘だと思うからだ。

またイリューシャはペレズヴォンが部屋に飛び込んできたとき、「これは……ジューチカだ!」と苦痛と幸福とにかすれた声で、叫んだ」のだが、この時イリューシャは見誤って「苦痛と幸福とにかすれた声」を上げたのだろうか? また、イリューシャのその叫びを聞いたコーリャも、「じゃ、君はなんだと思ってたんだい?」と「よく透る、幸せそうな声で精いっぱい叫」んだのだが、この時コーリャはイリューシャを騙すために、芝居をして「幸せそうな声」を張り上げたのだろうか? 亀山氏のこの読解には、思慮や思考力を欠いた粗雑な思いつき、その思いつきへの頑なな固執と欲望、などというものばかりが感じられてならない。


   

次は、森有正の文章の引用である。イリューシャを、コーリャを、筆者がどのように考察しているかを読んでみたい。

 森有正『ドストエーフスキー覚書』 (筑摩書房1967年)(作品の引用文は米川正夫訳)

「 イリューシャ対デューチカ対クロソートキン

デューチカは、もともとイリューシャにとって、単なる一匹の犬、どこにでもいる平凡な番犬にすぎなかった。しかしかの事件に際しての邂逅において、デューチカはイリューシャにとって他の犬とおきかえることのできない存在となってしまった。イリューシャにとって、元気なデューチカを目前に見ること以外に慰めはなくなってしまったのである。それがかれにとっての罪の赦しなのである。殺したものの復活、これ以外にかれの赦し、かれの慰めはないのである。アリョーシャは言う、「とにかく、わたしたちはどうかして、デューチカはちゃんと生きていて、どこかで見た人があるというように、あの子を信じさせようと骨をおってるんです。このあいだ子どもたちがどこからか、生きた兎を持って来ましたが、あの子はその兎を見ると、ほんの心持にっこりして、野原へ逃がしてくれと言って頼みました。で、わたしたちはそうしてやりましたよ。たったいま親爺さんが帰って来ました。やはりどこからかメデリャン種の仔犬を貰ってきて、それであの子を慰めようとしましたが、かえって結果がよくないようでした……」(第三巻三四九頁)。デューチカが元気で生きていること。この新しい事実に邂逅することだけが、イリューシャの赦し、赦し以上の赦しとなるであろう。この赦しがあれば、病気の苦痛も、死も何ものであろう。イリューシャは今は死ぬこともできないのである。「駆けながら鳴いているデューチカ」はかれが死んでもやはり存在しつづけるであろう。かれは分裂したままで存在しつづけるであろう。それがかれにとって唯一の現実なのである。倦怠は死によって消滅する。しかし罪は消滅しない。科学的事実より他の現実を信じない現代人にとって、これは神経衰弱症の思いすごしにすぎないかもしれない。しかしドストエーフスキーはこの現実の中に生きている。かれはそれに邂逅したのだから。
 コーリャが捜しあてて飼っているペレズヴォンは、実は、デューチカだった。デューチカは死ななかったのである。しかもコーリャは、イリューシャがデューチカの生を熱望しているのを知りながらそれをかれの所へ連れて行って見せようとしないのである。それが生きていたことを知らせようともしないのである。かれは。ペレズヴォンに、十分、芸を仕込んで、その上でイリューシャのところへつれて行って、その芸でイリューシャをびっくりさせようというのである。これはイリューシャの現実に対する完全な無知からでた、気楽な思いつきであった。しかしその原因は決して気楽なだけとは言えないものを含んでいる。すなわちコーリャの所業の裏には自分の手柄を幾倍にも美化しようとする自己中心的な願いがひそんでいる。さらに、イリューシャの安心を完全に自分の意志の下におこうとする、支配欲が潜んでいる。かれはペレズヴォンにいろいろな芸をしこむ。そのしこみ方、扱い方がかれらしいのである。「かれはおそろしい暴君のような態度で、さまざまな芸を教え込んだ。とうとうしまいにはこの憐れな犬は、主人が学校へ行った留守じゅう唸り通しているが、帰ってくると喜んで吠え出して、狂気のように跳ね廻ったり、主人のご用を勤めたり、地べたに倒れて死んだ真似をして見せたりなどして、一口に言えば、べつだん要求されるわけでもないのに、ただ悦びと感謝の情の溢れるままに、しこまれた芸のありったけをして見せるようになった。」(第3巻314頁)。かれはずいぶん残酷と思われるような芸をも平気でしこむのであった。かれとペレズヴォンとは無類の仲よしになるが、支配権は完全にいつもコーリャの手中にあった。コーリャは、ペレズヴォンの存在を愛するよりも、そのしこんだ芸を自慢しているのであった。かれはペレズヴォンにおいて無二の存在に邂逅していないのである。

 クラソートキン対アリョーシャ

 スネギーレフを含めて、少年たちの群に対して、アリョーシャは独特の立場にたって活動している。すべての人はかれに自分の心の奥底を打明ける。スネギーレフも、少年たちも、クラソートキンさえも。しかしイリューシャは少し違う。かれは自分のデューチカに対する罪を打明けない。かれはデューチカの復活以外の慰めを欲していないのである。イリューシャは真に男らしい少年であった。
 クラソートキンはかねてからアリョーシャに深い興味を抱いていたが、例の独立の欲望から、あくまで対等の立場にたって、アリョーシャと話そうと望む。かれは内心さまざまに工夫を凝らして自分に威儀を附そうとする。はじめてアリョーシャに会う時にも、わざわざスムーロフをやってアリョーシャを凍りつくような往来まで呼び出させるのである。それに反してアリョーシャはなんの飾るところもなく、気軽に出てくるのである。クラソートキンはアリョーシャに、イリューシャとの関係、デューチカ事件のことを巨細にわたって述べたてるが、それは自分がどんなにイリューシャを支配し、イリューシャを「陶冶」しているかを知ってもらうためである。アリョーシャは『ああ、実に残念です。君とあの子の関係を前から知らなかったのが、わたしは実に残念です。それを知っていれば、とっくに君の処へ行って、一緒にあの子のとこへ来てもらうように、お願いする筈だったのに。……わたしは君があの子にとって、どのくらい大串な人か知らなかったんです。』という。しかしアリョーシャの意味はおそらくクラソートキンには通じない。アリョーシャは、クラソートキンがイリューシャを教えることではなく、慰めるのに、大切なかずかずの条件を具えた人であることを知ったのである。アリョーシャはまっさきにデューチカのことを尋ねる。しかるにクラソートキンはペレズヴォン(実はデューチカ)を現につれているのに、そのことを秘して語らない。しかしクラソートキンはアリョーシャとの話にひどく満足した。なぜかというとアリョーシャは「まったく同等な態度でかれを遇し、まるで『大人』と話をするように物を言う」からであった。クラソートキンは人から対等におとなとして扱われることを欲しながら、他の子どもたちに対しては暴君として臨むのである。かれはその矛盾に気がつかない。かれは、ペレズヴォンをイリューシャの傍につれて行って、びっくりさせようとして、『カラマーゾフさん、ぼくはいまあなたにひとつ手品をお目にかけますよ』という。(略)
 やがてデューチカは、元気で生きたまま、イリューシャの傍に帰ったが、これについては、後述する。ただアリョーシャは、『じゃあ、君はただ犬を教え込んでいたために、いままで来なかったんですか?』と思わずなじるような調子で叫ぶ。
 それからコーリャを中心にして一同の話がはずむ。コーリャは、その才智ともの慣れたしかし確信のある態度で、完全に一座を支配してしまう。ただアリョーシャだけが押し黙って、真面目な顔をして、沈黙を守っているのである。不安になったクラソートキンは、やっきとなって、アリョーシャと話を始める。コーリャは世界歴史を尊敬しない。かれの尊敬するのは数学と自然科学だけである。古典語に関しては、それは狂気の沙汰であり、たかだか秩序取締りの政策以上のものではない。ただ「いったんはじめた以上、りっぱにやり遂げた方がいいと思う」からそれをやっているにすぎないのである。かれはまた神を信じていない。それは「世界秩序といったようなもののために」考えだされたものである。話はヴォルテールから社会主義に転じ、かれは自分を社会主義者であるという。かれはラキーチンからそれを教えこまれたのである。しかしこれらの話に際して、アリョーシャは一歩も妥協せずに、コーリャの思い上った態度を自ら自覚させてゆく。かれはその社会主義もラキーチンから吹きこまれたものであり、ほとんど本も読まずに知ったかぶりをしていることが、曝露される。そしてイリューシャの姉、びっこのニーチカがコーリャに『なぜあなたもっと早くいらっしゃらなかったの?』といったということから、アリョーシャは『君もこれからここへ来ているうちに、あの人がどんな娘さんかということが判りますよ。ああいう人を知って、ああいう人から多くの価値ある点を見いだすのは、あなたにとって非常に有益なことです。それがなにより具合よく君を改造してくれるでしょう』と述べる。われわれはここにソーニャとラスコーリニコフとの関係を想起する。コーリャはニーチカのように、まったく自ら求めるところなく、純愛を人に注いで忍従することのできる人との接触によってのみ、自己を改造することができるであろう。コーリャはついに悲痛な調子でいぅ、『ええ、実に残念ですよ。どうしてもっと早く来なかったろうと思って、自分を責めているんです。』さらに、『……ぼくが来なかったのは自愛心のためです。利己的自愛心と下劣な自尊心のためです。ぼくはたとえー生涯苦しんでも、とうていこの自尊心から遁れることはできません。ぼくはいまからちゃんとそれを見抜いています。カラマーゾフさん、ぼくはいろんな点から見てやくざ者ですよ!』と告白する。しかしかれは、アリョーシャがかれを軽蔑してないこと、を感ずる。『ああ、カラマーゾフさん、ぼくはじつに不幸な人間ですね。ぼくはどうかすると、みんなが、世界中の者がぼくを笑っているんじゃないかというような、とんでもないことを考えだすんです。ぼくはそういう時に、そういう時にぼくは一切の秩序をぶち壊してやりたくなるんです。』という。コーリャは自分を苦しめていたのであった。しかしかれは、自分を軽蔑しない、真率な、アリョーシャに対して、深い慰めと愛とを覚える。『じつにりっぱだ! ぼくはあなたを見損なわなかったです。あなたは人を慰める力を持っていらっしゃいます。あぁ、カラマーゾフさん、ぼくはどんなにあんたを慕っていたことでしょう。どんなに以前からあなたに会う機会を待っていたでしょう!』コーリャはアリョーシャに対する限りない愛を告白する。
 なぜこのようにクラソートキンの態度が変化したのか。それはアリョーシャの、人を軽蔑しない、人を同等に扱う、尊敬にみちた、態度によるばかりではなかった。またアリョーシャがかれの内心の苦しみに触れたからばかりではなかった。病いに疲れたイリューシャとの会見がかれに重大な影響を及ぼしていたのである。かれは、イリューシャを一目見て、自分の態度がまったく誤っていたことを直観したのである。

 クラソートキン対イリューシャ(下)

 クラソートキンは、イリューシャの病室にはいって来た時、社交上の礼儀作法の驚くべき知識を示した。かれは「おとな」としてはいって来たのである。「けれど、コーリャはもうイリューシャの寝床の傍に立っていた。病人はみるみるさっと蒼くなった。かれは寝台の上に身をおこして、じつとコーリャを見つめた。こちらはもう二カ月も、以前の小さい親友を見なかったので、愕然としてその前に立ちどまった。かれはこんなやつれて黄色くなった顔や、熱に燃えてなんだかひどく大きくなったような眼や、こんな痩せ細った手などを見ようとは、想像することもできな かったのである。かれはイリューシャがおそろしく深い、せわしそうな息づかいをしているのや、唇がすっかり乾ききっているさまなどを、悲痛な驚きをもってうちまもった。」。病みやつれたイリューシャの姿。かれがのんきにデューチカをしこんでいる間に、イリユーシャは、病気と心労とのために、まったく変ってしまった。「コーリャは急に手を上げて、なんのためかイリューシャの髪を掌で撫でた。」かれは自己支配を失って、イリユーシャの姿とひとつになってしまったのである。かれは自己の誤りを覚り、同時にイリューシャに深い愛、本当の愛を感じたのである。しかしかれはその時、一つ憎むべき芝居を打ってから、ペレズヴォンを呼び入れた。「『跳ねるんだ、ペレズヴォン、芸だ! 芸だ!』コーリャはいきなり席を立ち上ってこう叫んだ。犬は後脚で立って、イリューシャの寝床の前でちんちんをした。と、思いがけないことがおこった。イリューシャはぶるぶると身震いをして、急に力いっぱい体を前へ突きだしペレズヴォンの方へかがみ込んで、茫然感覚を失ったようにその犬を見た。
『これは……デューチカだ!』かれは苦痛と幸福にひび割れたような声で叫んだ。」。かれはペレズヴォンの芸などには見向きもしなかった。『見たまえ、どうして君は見ないんだね? ぼくがわざわざ連れて来たのに、イリューシャは見てくれないんだからなあ!』とコーリャは不平を言った。イリューシャはベッドに飛び上ったペレズヴォンの頭を両手で抱き、その房々とした毛の中に頭を埋めてしまった。ここにイリューシャの苦悩のひとつは完全に解決した。このイリューシャを前に見て、コーリャの心中には新しい愛が生れ、それはアリョーシャによって、さらに深められるのである。コーリャはここにイリューシャとアリョーシャとのふたりに邂逅したのであった。そしてそれはかれ自身の罪を明らかにした。かれはおもむろにひとつの系譜からいまひとつの系譜へと転換しはじめる。それは、しかし、かれの内における内的闘争の新しい開始を意味する。アリ㌢-シャは『ねえ、コーリャ、君は将来非常に不幸な人間になりますよ。』という。コーリャ自身もそのことを知っている。コーリャはこのように新しい生命の閾の上まできた。しかしかれはまったく新しくなることはできないであろう。内的闘争の開始。しかしかれはまったく新しくなることはできないであろう。内的闘争の開始。しかしそれで地上においては十分なのではないであろうか。新しい生命が芽生えはじめたこと。これは非常に重大なことではないであろうか。クラソートキンは来合せた医者と口論の末、『お医者さん、ニコライ・クラソートキンに命令することのできる者が、世界じゅうにたったひとりあるんです。それはこの人なんです(とコーリャはアリョーシャを指さした)。ぼくはこの人に従います、さようなら!』と叫ぶ。かれはまた病室から玄関へ走りだして泣いた。かれのなかに新しい現実が生れた。『……ああ残念だ、どうしてぼくはもっと前に来なかったんだろう』と、「コーリャは泣きながら、しかもその泣いていることを恥じようともせずに呟いた。」

 死。イリューシャの死。その埋葬。私はこれ以上に深く美しい叙述を知らない。二、三をひろってみよう。花で飾られた椅麗な枢の傍で、コーリャは、アリョーシャにきいた、「『あなたの兄さんは罪があるのですか、それともないのですか? お父さんを殺したのは、兄さんですか下男ですか? ぼくたちはあなたのおっしゃることを本当にします。話して下さい。ぼくはこのことを考えて、四晩も眠らなかったんですよ』
『下男が殺したんです。兄に罪はありません』とアリョーシャは答えた。
『ぼくもそうだと言ってるんです!』スムーロフという少年がだしぬけにこう叫んだ。
『そうしてみると、あの人は正義のために、無辜の犠牲として滅びるんですね』コーリャは叫んだ。『でも、たとえ滅びてもあの人は幸福です! ぼくはあの人を羨ましく思います!』
『君はなにを言うんです? どうしてそんなことができますか? なんのためです?』とアリョーシャはびっくりして叫んだ。
『でも、ぼくはいつか正義のために、自分を犠牲にしたいと思ってるんですもの』とコーリャは狂熱的にこう言った。
『しかし、こんなことで犠牲になるのはつまりませんよ。こんな恥曝しな、こんなおそろしい事件なんかで!』とアリョーシャは言った。
『むろん……ぼくは全人類のために死ぬことを望んでるんです。でも恥曝しなんてことはどうだって構いません。ぼくらの名なんか、どうなったって構やしない。ぼくはあなたの兄さんを尊敬します!』」
 コーリャは、すでに新しい現実に足を踏み入れた。かれ は人のために辱めをも喜んで負う気になっている。無条件で、アリョーシャの言葉を信ずる気になっている。これにはなんらの理由づけをすることもできない。イリューシャの姿とアリョーシャの姿が、かれを、変化させたのである。
  しかしこの美しい人々も、美しくなかった人々も、すべて、やがてイリューシャのように死ぬであろう。それではすべては無意味になるのか。シュストフのニヒリズムは真実であるのか。
  コーリャは言う、『ぼくは悲しくってたまりません。もしイリューシャを生き返らせることができれば、この世にありったけのものを投げだしても、ぼく惜しいとは思いません。』 コーリャは、イリューシャのなかに、まったくかけがえのない存在に邂逅したのである。かれの心にひとつの現実が生れたのである。
  「『カラマーゾフさん!』とコーリャは叫んだ。『ぼくたちはみんな死から甦って命を得て、またお互いに見ることができるって――どんな人でも、イリューシャでも見ることができるって、宗教の方では教えていますが、あれは本当でしょうか?』
『きっと甦ります。きっとお互いにもう一度出会って、昔のことを愉快に楽しく語り合うでしょう』アリョーシャはなかば笑いながら、なかば感動のていでこう答えた。
『ああ、そうなればどんなに嬉しいだろう!』とコーリャは思わず口走った。
 
ラスコーリニコフにも、スタヴローギンにも、ドミートリーにも、イワンにも、生れなかった、真の現実への転換が、コーリャに生れた。ドストエーフスキーはそれを真実に信じていたであろうか。すべては死をもって終る。人間はそれ以上のことを言いえない。かれは、ありえないことを、無邪気な少年たちの物語のなかに、象徴的に措いたのではないであろうか。
邂逅! それのみが真実を開示する。人間の新生も、死よりの復活も、偉大なる邂逅として以外には絶対に把握されない。ドストエーフスキーの全作品に充ち満つる人間の苦悩は、人類を救う偉大なる現実の邂逅へ、終末的に、指向されているのである。かれは絶望している。しかも絶望していない。 」

上の文章を読むと、ペレズヴォンがデューチカでないことの可能性など森有正の頭のなかには片鱗もないことが分かるだろうと思う。作品の全体から眺めても、またジューチカとペレズヴォンが登場する具体的場面に即して見てみても、それは当然のことだと思う。亀山氏のような読解をしたのでは、『カラマーゾフの兄弟』を根本から崩壊させることになるだろう。指摘されている夥しい誤訳の表出は、このような読解力と密接不可分のものだと思う。

ちなみに森有正は、「あとがき」に、次のことを述べている。最後に、この言葉を紹介して終わりにしたい。

「本書は、文字どおり、ドストエーフスキーの作品についての貧しい『覚書』である。専門も異なり、また原文をも解さない私が、このような『覚書』を公けにすることは、はなはだしい借越ではないかということをおそれている。もちろん、体系的なドストエーフスキー研究ではない。そこには多くの誤謬や思い違いもあるであろう。しかし、私の心はまったくかれに把えられた。神について、人間について、社会について、さらに自然についてさえも、ドストエーフスキーは、私に、まったく新しい精神的次元を開いてくれた。それは驚嘆すべき眺めであつた。私にとって、かれを批判することなぞ、まったく思いも及ばない。ただ、かれの、驚くべく巨大なる、また限りなく繊細なる、魂の深さ、に引かれて、一歩一歩貧しい歩みを辿るのみである。」

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(注1) 6月13日の朝日新聞「ゼロ年代の50冊」では、亀山氏の翻訳『カラマーゾフの兄弟』と並んで佐藤優氏の『国家の罠』も取り上げられていることは前回も書いたが、その佐藤氏もあちらこちらでこの翻訳を絶讃している。これに関して佐藤氏が問題なのは、氏は亀山訳を称讃するに際し、「(亀山訳は)語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」「それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがちですが、新訳のおかげでプロテスタント誕生直後の16世紀だということがはっきりします。」(『ロシア 闇と魂の国家』文春新書2008年)などと虚偽の発言をしていることである。先行訳に対し存在しない誤訳を指摘し、その虚偽を基にして亀山訳を褒めあげているのだ。ここには想像を絶する知的不誠実があると思う。これは文学作品と先行翻訳者に泥を塗り付け、読者を欺く行為に他ならない行為だからだ。佐藤氏は同趣旨の発言を原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』を出版している新潮社の文芸雑誌「小説新潮」でも行なっている。これを黙認しているのだから、新潮社はもう出版社としての最低限の矜持も誠意ももちあわせていないのだろう。しかし過去にこれまでどんな著作家、どんな出版社がこのような破廉恥な行為をしたことがあっただろうか? 率直に言って、私は佐藤氏のこのような言行に、焚書を行なう精神と通底するものを感じる。何度もこの件を取り上げてしまうのはそのためである。こういう行為をあえて行なえるということは、私にはことに際して自分を律しうる、歯止めになるような著述家としての倫理観をなんらもっていないということを現わしているように思える。

(注2) 実は、この問題については、ブログ「連絡船」でとても緻密な分析がなされている。また当ブログでもこちらで言及している。

 
2010.07.04 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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