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大分前のことになるが、こちらの記事で、佐藤優氏が述べている夏目漱石に関する発言(魚住昭氏との共著『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社2006年。朝日文庫2010年)について二点疑問を述べたのだが、どうも書き方が大雑把だったと思うので、もう少し丁寧に書いておきたい。この件については、その後、ブログ「liber studiorum」のa-geminiさんが「佐藤優と夏目漱石」というエントリーをあげ、「昔読んだ岩波文庫の『漱石日記』と『漱石書簡集』をひっくり返してみましたよ。」ということで、漱石自身の言葉を拾いだし、漱石が「ロンドン大学での授業についていけな」かった、という佐藤氏の発言の疑わしさについて言及されている。a-geminiさんのブログは、その他、「マルコフ理論」(?)を駆使して活躍する佐藤氏を取り上げた数々の記事も必読。論評は鋭く、その上、おもしろ味があると思う。

さて、佐藤氏の最初の問題発言「漱石がロンドン大学の授業について行けなかった」という点については、漱石自身、『文学論』の序に、「大学の聴講は三四ケ月にして已めたり。予期の興味も智識をも得る能はざりしが為めなり。」と書いている。友人に宛てた書簡にも「時間の浪費が恐いからして大学の方は傍聴生として二月ばかり出席してその後やめてしまった。」(ブログ「liber studiorum」より引用)とある。また、昨年(2009年)、熊本大学五高記念館で漱石がイギリスから文部大臣あてに提出した申報書(報告書)の写しが発見されているが、その一つには、「大学ノ講義ハ」授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」と記されていたそうである。漱石にとって、ロンドン大学の講義は「期待外れ」のものであり、間違っても「授業についていけない」などということではなかった。そう言い切っていいと思う。(強調の下線および太字は引用者による。以下同じ)

上記の件については私は佐藤氏の発言のいい加減さに呆れたのだが、よりいっそう気になったのは、反論がしにくい(巧く説明するのが難しい)だけにむしろ後者の発言のほうであった。

「そこで見たイギリス人はエリートですよね。彼らはもともと個が確立しているんです。(略)そんな一部を見て、西欧社会全体が個の確立した人間で構成されているというふうに不当拡張してしまったのではないでしょうか。」

いいえ、そんなことはないでしょう。すかさずそう言いたくなるような佐藤氏の上の発言である。漱石は、イギリスの知識層(ロンドン大学関係者)について佐藤氏のように「彼らはもともと個が確立している」とも思わなければ、まして「西欧社会全体が個の確立した人間で構成されている」などと思ったことはいっぺんもないのではなかろうか。管見の限り、私は漱石がそれらしき発言をしているのを読んだことがないし、誰かがそのようなことを書いたり話したりしているのを見聞きしたこともない。上述した「liber studiorum」が掲載している、ロンドンでのある日の漱石の日記の一節を引用させていただくと、

「 ……余が下宿の爺は一所に芝居に行きしところRobinson Crusoeを演ぜしが、これは一体真にあったことなりや小説なりやと余に向って問いたりし故、無論小説なりと答えしに余も然思うといえり。よって18th cent.に出来た有名な小説なりといいしにさようかというて直ちに話頭を転じたり。その女房は先日まで女学校を聞きつつありし女故、少しく教育のあるべきはずなるが文学のことはやはり一、二冊の小説を読みしのみ。そのくせ生意気にて何でも知ったかぶりをするなり。こちらにて少々六ずかしき字を使えば分らぬくせに先方にてはくだらぬ字を会語中に挟みてこの字を知っているかと一々尋ねられるには閉口なり。これらはただ現今のOuidaまたはCorelli位の名を如るのみ。しかして必ずしも下賤なものにはあらず。中以下は篤志のものにあらざれば概してかくの如きものならん。会話は自国の言語故無論我々鯱立しても及ばぬなり。しかしいわゆるcockneyは上品な言語にあらず。かつ分らぬなり。倫敦に来てこれが分れば結構なり。倫敦上流の言語は明晰にて上品なり。standardならんか。これなら大抵分るなり。かかる次第故西洋人と見て妄りに信仰すべからず。また妄りに恐るべからず。しかしProf.などは博学なものなり。それすら難問を出して苦めることは容易なり。」

佐藤氏がどこで上述のような話を仕入れたものか分からないが、困るのは、発言の根拠が示されていないこと。これはいつものことなのだが、読むほうは正確な判断・論評をするのに非常に支障をきたす。困ることのもう一つは、佐藤氏の発言が、一見しただけではもっともらしく見えることである。当時の日本と西欧の位置関係ということもあるし、また、漱石がロンドンで一時期傍目にも病的な精神状態におちいっていたという周知の事情があるためでもある。よく知られているように、漱石は『文学論』の「序」に、

「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。」「英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。」(『文学論』の「序」)

と書いている。もしかすると、佐藤氏は漱石自身のこの有名な言葉から、「大学の授業について行けなかった」とか「西欧社会全体が個の確立した人間で構成されているというふうに不当拡張してしまった」などの勝手な憶測をしたのではないだろうか。しかし、漱石にとってのイギリス留学は、もしこれがなかったならば、今在るかたちでの文学者漱石は誕生しなかったであろうというくらいの重大な出来事なのだから、そういうことに関して佐藤氏のように、さしたる根拠もありそうにない話をさもさも確実な事実であるかのように本のなかでしゃべるのは読者にとって困ったことだ。それも本の発行元はかつて漱石が契約社員として小説その他のほぼ全文章を発表しつづけた朝日新聞社なのだから、呆れてしまう。

1900年(明治33年)の留学当時、イギリスはヴィクトリア朝の末期、イギリスについて述べている漱石の言葉から推測すると、イギリスという国もロンドンの街も漱石には親しみや好ましさを感じさせなかったようだ。また、ほとんどの時間を下宿の自室に閉じこもり、読書と思索に没頭していたようなので、これではさぞかし孤独であったろう。その上、経済生活は衣食住にもこと欠く余裕のないもので、この経済的困窮にも漱石は苦しめられたようである。上述した熊本大学五高記念館で見つかった報告書には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」とも記述されていたそうで、そのようにただでさえ苦しい経済事情のなかで、漱石はロンドン市中の古書店からなんと800冊前後もの本を購入して帰国しているのだから、不如意の程も察せられる。けれども、漱石は後年、『私の個人主義』(学習院大学における講演会の筆記録。1914年(大正3年))のなかで、イギリス留学を振り返って、

外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。

と述べている。漱石は自分について大袈裟なことを言わない人、何事においても自己を吹聴するような行為を嫌悪する人だった。そのことは文章を読めば感じとれることだが、また多くの証言にもそれは表れている。たとえば漱石晩年の門下生であった内田百は漱石が『道草』を書いていた当時、部屋の一隅に積んであった書き潰し原稿を見て、他の二人の門下生共々、「その書き潰しの原稿用紙を頂戴したいと云ふ事を、恐る恐る先生に申し出」ると、「そんな物がいるなら持つて行つてもいいよと先生が云つたので、早速三人で分けた。」そうである(『漱石先生の書き潰し原稿』)。この出来事について、百は、「先生が御自分の書き潰しの反古などを私共にやつてもいいと云はれたのは、不思議に思はれる」と書いている。百によると、

「大體先生はさう云ふ事がきらひであつた。私共から云へば、先生の推敲の跡をその儘に辿つて見られる書き潰しの原稿は何物にも代へ難い物であるけれども、先生から見れば屑籠に入れる前の紙屑に過ぎない。さう云ふ物を傍から大事がるのは傍の者の勝手としても、先生自身からそれに便宜を興へると云ふ様な事を先生はしたがらない人であつたが、その時はどう云ふ風の吹き廻しか、安安とお許しが出た。/トルストイは自分が天才であると云ふ事を自分で承知してゐるが、ドストイエフスキーはそんな考は少しもなく、ただ自分の生活の為にあれだけの仕事をした。ゲーテは自分の名が後世に傳はる事を生きてゐる内から知つてゐたに違ひないが、シェクスピヤは今日まで自分の作品が読まれようなどとは夢にも思はなかつたであらうと云ふ様な事を漱石先生が話されるのを聞いた事がある。(略)漱石先生が右の話でドストイエフスキーやシェクスピヤの方を買つて居られた事は云ふ迄もない。」(『漱石先生の書き潰し原稿』)

漱石がそういう人となりであるだけに、晩年になって(1914(大正3)年。死去の2年前)、自ら実質的にイギリスで「ある力を得」て帰って来たと公言していることはよりいっそうの重みをもって聞こえる。確かにイギリス留学は結果的に漱石の人生を一変させる出来事になったわけだが、なぜそうなったのか、その経緯については、漱石が大学で英文学を専攻して勉強を始めてからの歩みを知る必要がある。『文学論』の「序」や『私の個人主義』などにおける漱石自身の言葉を見ることにしたい。

「 私は大学で英文学という専門をやりました。その英文学というものはどんなものかとお尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。その頃はジクソンという人が教師でした。私はその先生の前で詩を読ませられたり文章を読ませられたり、作文を作って、冠詞が落ちていると云って叱られたり、発音が間違っていると怒られたりしました。試験にはウォーズウォースは何年に生れて何年に死んだとか、シェクスピヤのフォリオは幾通りあるかとか、あるいはスコットの書いた作物を年代順に並べてみろとかいう問題ばかり出たのです。年の若いあなた方にもほぼ想像ができるでしょう、はたしてこれが英文学かどうだかという事が。英文学はしばらく措いて第一文学とはどういうものだか、これではとうてい解るはずがありません。(略)とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだったのです。私の煩悶は第一ここに根ざしていたと申し上げても差支ないでしょう。 」(『私の個人主義』)

漱石は幼少の時から漢文学に親しんでいて、自分の漢詩文を味わう力には疑いをもっていなかった。それだけではなく、漢詩の創作力、文章力においても抜群の技量をもっていた。大学予備門時代、23歳の漱石は夏休みに友人たちと房総に旅行したが、帰京後、漢詩文紀行『木屑録』を書いた。同級の親しい間柄であった正岡子規に見せると、子規は「英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なり」と跋を書いてよこしたそうである(『正岡子規』ホトトギス1908(明治41)年)。漱石が東京帝国大学の英文科に進むのはその翌年だから、してみると、予備門時代から漱石は英語力においてもよほど秀でていたのだろう。ともかく当時の漱石は英文学に対しても、これまで自分が漢文学に対して培ってきた文学の観念で向き合えば、それでそのまま通るものと考えていたようである。

「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。」(『文学論』の「序」)

ところが、現実はそうではなかった。英文学の勉強を積み重ね、その結果周囲から優秀だと賞賛されても、心の内は英文学への違和感に付き纏われ、「文学とはどういうものだか、……」「とにかく三年勉強して、ついに文学は解らずじまいだった」(『私の個人主義』)と心の内を打ち明け、さらに『文学論』の「序」では次のようなことまで言っている。

卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。余はこの不安の念を抱いて西の方松山に赴むき、一年にして、また西の方熊本にゆけり。熊本に住すること数年いまだこの不安の念の消えぬうち倫敦に来れり。

このような煩悶、不安をかかえた漱石はロンドンの下宿の一室で英文学の研究のためにこれまで読みたくても読めなかった著名な本を片端から、とにかくできるかぎり数多く読破するという方針を採ったそうである。その経過と結果は、

「擅まに読書に耽るの機会なかりしが故、有名にして人口に膾炙せる典籍も大方は名のみ聞きて、眼を通さゞるもの十中六七を占めたるを平常遺憾に思ひたれば、此機を利用して一冊も余計に読み終らんとの目的以外には何等の方針も立つる能はざりしなり。かくして一年余を経過したる後、余が読了せる書物の数を点検するに、吾が未だ読了せざる書物の数に比例して、其甚だ僅少なるに驚ろき、残る一年を挙げて、同じき意味に費やすの頗る迂闊なるを悟れり。」(『文学論』の「序」)

仮に一日一冊読了したとしても一年で365冊。本は万巻を数えるのだから、漱石の「驚ろき」も「迂闊なるを悟れり」もどんなにか切実な実感だったろう。漱石はその時の衝撃や感慨、決意について下記のように記している。

「 翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は之を充分味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。/ 大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会せり。/余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。/余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。/ 余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。」「余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。始めは茫乎として際涯のなかりしものゝうちに何となくある正体のある様に感ぜられる程になりたるは五六ケ月の後なり。/ 留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。」(『文学論』の序)

「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心した」以後のことを、漱石は『私の個人主義』においては下記のように説明している。

「 私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。今は時勢が違いますから、この辺の事は多少頭のある人にはよく解せられているはずですが、その頃は私が幼稚な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私のやり方は実際やむをえなかったのです。 」

漱石についての著作がある文芸評論家の樋口覚氏によると、漱石が英国から持ち帰った本のなかには自然科学書がかなりあったそうである。これにはロンドンの下宿で一時同宿した科学者の池田菊苗の影響が大きかったことは小宮豊隆著『夏目漱石』に書かれている。また、漱石の談話筆記『處女作追懷談』にも、「池田君は理學者だけれども、話して見ると偉い哲學者であつたには驚ろいた。大分議論をやつて大分やられた事を今に記憶してゐる。倫敦で池田君に逢つたのは、自分には大變な利益であつた。御蔭で幽靈の樣な文學をやめて、もつと組織だつた研究をやらうと思ひ始めた」とあるほどである。漱石は、ロンドンから帰国した直後の自身の生活に題材をとった小説『道草』において、主人公健三の生活ぶりを次のように描いている。

「健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心は殆んど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。/ 娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から謡の稽古を勧められて、体よくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。/自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。」(『道草』1915(大正4)年)

上の文章のうち、「自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている」という叙述はつと胸をつかれるほど印象的だが、重要なのは、「心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた」という表現だと思われる。留学前、漱石の心にわだかまりつづけていた「英文学に欺かれたるが如き不安の念」は、イギリス留学を終えた後、「異様の熱塊があるという自信」に変わったのではないだろうか。時間に対する守銭奴の如き態度にしても、心の底に存在する「異様な熱塊」の促しだとも理解できるように思う。
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2010.07.23 Fri l 文芸・読書 l コメント (3) トラックバック (0) l top
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