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7月28日の1年ぶりの死刑執行のニュースには驚いた。千葉景子氏は法相就任時から死刑廃止論者と喧伝されていたし、これまでの経過を見ても9月までの千葉氏の任期中には執行はないと思いこんでいた。私も「死刑を廃止してほしい」と思っている者の一人なので、最近は千葉法相が退任するかも知れない9月以降のことがチラチラ気にかかっていた。ところがここにきての二人の人の死刑執行。千葉法相が自ら執行に立ち会ったという報道にも私は少なからず驚かされた。いったいどんな事情があったのだろうか。

朝日新聞によると、法務省の幹部は「法にのっとって執行しないことには、国民的議論なんて始まらない」「一度執行した上で『自分も苦渋の決断をした。その上で議論をしたい』と言えば、説得力がある」などと述べていたそうで、案の定、執行後、法務省内では、「重い決断を下したのは立派だ」と法相の決断を称讃する声がしきりだそうである。これは絵に描いたような官僚らしい発想であり感想だと思うが、アムネスティの「日本支部声明 : 死刑執行に抗議する」には、下記の見解が表明されている。

「今回、千葉法相は、死刑の在り方について検討するための勉強会を立ち上げるとともに、東京拘置所の刑場についてマスメディアの取材の機会を設けるよう指示した、と発表した。しかし、死刑制度に関する情報公開や、存廃に関する公の議論は、死刑の執行を正式に停止してから行うべきである。一方で人を処刑しながら、他方で死刑についての議論を行うという行為は矛盾しており、執行を続けながらの検討は、死刑の正当化を後押しするものになるとの危惧を抱かざるを得ない。」

上記の発言のうち、アムネスティの「一方で人を処刑しながら、他方で死刑についての議論を行うという行為は矛盾して」いるとの指摘に私はまったく同感する。一方、法務省幹部の「法にのっとって執行しないことには、国民的議論なんて始まらない」という言い分は、何が何でも死刑制度を続けていくための無理無体、こじつけの論理に過ぎないように思う。死刑に関する国民的議論を始める意思が法相および法務省にあるというのなら、アムネスティが述べているとおりここで執行をしてはいけなかった。死刑に関する議論を誰のためにやるのかといえば、その対象は、直接的には他の死刑の確定している人とともに、他ならぬ死刑執行された篠澤一男さん、尾形英紀さん二人のはずだった。

もし現在日本の監獄に確定死刑囚が十人、あるいは五人だけだったら法相はどうしただろうか。いや端的に、死刑囚が篠澤一男さん、尾形英紀さんの二人しかいなかったとしたらどうだっただろう。「法にのっとって執行しないことには、国民的議論なんて始まらない」ということで、議論を始める前に二人に対して死刑を執行したのだろうか。そうして死刑囚の誰もいなくなったところで死刑に関する議論を始めようとしただろうか。おそらく、そんなことはしなかったのではないだろうか。その実態・光景の空虚さ、無意味さ、無残さは誰の目にもあまりにも明白だと思うが、もしそうであるならば、今回の執行にも同じことが言えるだろう。確定死刑囚の人数が二人であろうと、百人だろうと、一人一人は別々の人間である以上、事態の本質には何の変わりもない。国民的議論を始めるというのなら、その当事者である二人への執行をしてはならなかった。

そもそも、法務官僚が口にしている「法にのっとって執行しないことには、」云々の発言は私には脅迫にしか聞こえないのだが(それが誰に対するものかは不明ながら)、この人物は、日本の裁判史上、死刑が確定した後に再審によって無罪となった冤罪事件に免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件の四事件があることをもう覚えていないのだろうか。いやしくも法務官僚として死刑に関わっているのなら、これはいついかなる場合でも肝に銘じておくべき最重大事項であるはずだ。今回死刑執行を伝えるニュースのなかに、わざわざ刑事訴訟法の第475条の「2 前項の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。」という条文を掲載している記事をネットで見たが、もしこの法規が杓子定規に適用されていたならば、上の四事件で被告人とされた人たちは全員無実の罪で殺されていた。この事実ほど、かのモンテーニュが述べたという「冤罪は実際のどんな犯罪よりはるかに重大な犯罪である」という認識の正しさが実感されることはないと思う。

今回の千葉法相の決断は上述の法務官僚の考え方に納得するところがあってのことなのか、それとも他の理由によるものなのか、今のところ私にはよく分からないが、ただ、上の法務官僚の発言に見られる欺瞞的・詭弁的思考法は今や官僚のみならず、また政治家のみならず、マスメディアを中心にそこいら中に蔓延し、当たり前のように流通していると思う。他ならぬ死刑廃止を語る人のなかにもその傾向を見ることがあるし、言論上のタブーの存在もさまざまに感じられる。こういう社会的空気のなかで昨年法相に就任した千葉氏は死刑について広く議論しようとしても、その契機を社会、市民のなかに見出すのはなかなか難しかったのではないだろうか。これは直覚的な印象に過ぎないが、そういう側面もあったかも知れないと思う。というのも、かりに議論を呼びかけられていたとして、一人の市民である私自身がそれに率直に反応できたかどうか、実は今ひとつ自信がない。死刑に関する自分の考え・意見を素直に自由に表明するには根本的に気になること、疑問に感じること、躊躇するものが数多く存在した。そういう自分の消極性に今忸怩たる思いを感じてもいるので、次回から死刑についての自分なりの考えを書いてみようかと思う。
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2010.07.30 Fri l 死刑 l コメント (2) トラックバック (0) l top
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