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もう7、8年前のことになるだろうか。友人のお母さんが亡くなって、その後しばらく経ってから、部屋や衣類などの片づけの手伝いに行ったことがあった。その際、本棚も整理したのだが、棚には武田泰淳の著書もあり、その名前が友人と私、二人のうちのどちらからか出たとき、そばにいた友人のお父さん(もう80をいくつも過ぎていた。この数年後には亡くなられた)が、すかさず「泰淳よりも、奥さんのほうが上手いんじゃないの。」とはっきりとした口調で仰った。もしかすると、「上手い」ではなく、「おもしろい」とか「いい(すぐれている)」という言い方だったかも知れない。お父さんは無口な方であり、突然のことでびっくりしたのだが、私も友人も「そうかも知れない」「そうですね」という返辞をしたように思う。武田泰淳は小説家であり、妻である百合子さんは小説は書いていないから、二人を比べるのはそもそも無理かも知れないし、友人のお父さんにしても何も夫の泰淳をけなしたり、ケチをつけるというような意図は全然なかったと思う。ただただ、武田百合子の文章がおもしろく、受けた感銘があまりにも深かった、印象が鮮烈であったことがこのような表現をとらせたのではないかと思う(余談ではあるが、このお父さんは晩年にいたっても岩波書店の『世界』の購読者であった。おそらく数十年来の読者だったかと思われる)。

このお父さんではないが、私にしても、今「随筆」といってすぐに思い浮かぶのは、内田百と並んで武田百合子の名であり、その文章である。それでは、前回につづき山小屋の暮らしをつづった文章を「富士日記」より引用して掲載する。

「 昭和43年 (1968年)
 3月25日(月) 雪一日中降る
 夜半に雨の音がしていたが、七時半、起きてみると、雪はうすく積ってまだ降りやまない。
 朝 ハヤシライス、スープ。
「今日はくもりのち雨となり‥ます。春の雨。菜種梅雨です」と、テレビはまた言っている。この辺で雪が降っていることなど知らないらしい。
 主人、スチームバスに入りたいと突然言う。二年位使わなかったスチームバスを倉庫から出し、花子と二人で組立てる。庭の方へ向けて食堂に置き、雪が降るのを見ながら主人入る。そのあと顔を剃る。私、花子も雪を見ながら、入る。
 主人、スチームバスが気持よかったらしく「大岡がこれをみたら入りたがるにきまってるからな。折りたたみだから貸してやってもいいな」。大岡さんは入りたがらないかもしれないのに、そんなことをいっている。
 昼 ふかしパン、キャベツ酢漬、ベーコンスープ、紅茶。
 昼食は花子が作る。雪となったので、キャベツの芯まで薄く切って、丁寧に使う。

 6月1日(土) くもり 
 二時ごろ、大岡さんへ行く。晩にビールにお誘いする。コッカースパニエルの六カ月の子供がきている。私に喜んでとびつく。よその人が大好きな犬なのだそうである。
 昼寝をする。
 六時、大岡夫妻と犬がみえる。奥様、ワラビのおひたしを作って持ってきて下さる。
 夜 ビール、黒ビール、春巻、シュウマイ、ビーフシチュー、のりおむすぴ。
 犬の名は、本名をアンドレ、愛称はデデちゃんという。この犬はおむすびが大好物らしく、とび上って食べてしまう。主人が厚い木綿の兵隊靴下をはいて脚を組んでいると、デデは高くなった方の足の先を、首をのばしては噛んで喜んでいる。主人が足を揺らすと余計喜んで足の先をしこしこ噛む。大岡さんは、はじめのうち黙っていたが、我慢ができなくなったらしく「デデ!! それは汚ねえんだぞ」と、デデに注意した。
 ワラビの作り方(大岡夫人に教わる)

 6月3日(月) くもり 
 夜六時、二人、大岡家へおよばれ。
○ビール
○湯葉の煮たのの上に山椒の葉一枚のせたもの
○ワラビの酢のもの
○山ウドと椎茸の甘煮
○かに、にんじん、椎茸の卵とじ
○かにコロッケとトマト
 大岡家の御馳走(ビール以外は、全部大岡夫人が作ったのだ)とてもおいしい。
 デデは一昨日、うちでおむすびを食べすぎたらしい。今日はあまりもらえない。テーブルの下で私の足を噛んでいる。大岡さんに判らないように噛ませる。
 大岡家のかにコロッケの中味のこと
○ホワイトソースの中にゆで卵を入れると、固まり易くていい(奥様の話)。

 8月22日(木) 晴れ
 大岡さんの新しい車の窓硝子は、走ってきて曲がってゆくとき、光線の加減で紫と青の間のような色に見える。正午近く、私が管理所から帰ってくると、大岡さんの車が坂の上バス停の方から疾走してきて大岡家への曲り角を右折していった。デデと大岡さんは乗っていない。大岡夫人はサングラスをかけて藍色の和服で運転。大岡夫人の顔色が硝子の加減か蒼白く着物が青くて、その美しいこと優雅なこと。大輪の青い朝顔のようだ!! 私は道ばたの石に腰かけて見送った。感動したときには体操をして現わすことにしているから、車のうしろに向って「万歳」を三唱した。陽盛りの野原には、われもこう、おみなえし、ききょう、キスゲが咲き乱れて、蝶が死にもの狂いで舞っている。

 テレビで。教養番組「中国の知識人」をみる。「佐々木〔基一さん〕は眼つきがいいなあ」と主人、つくづくと言う。
 テレビは、チェコの放送を、今日も続けてやった。
  夜、星なし。風が涼しすぎて素足では寒い。カーテンにスイッチョがとまって、あちこちで啼く。蚊は風呂場に集ってしまった。
 九時近く、しとしとと雨降りだし、夜遅く、大雨。


 昭和44年 (1969年)
 4月8日(火) くもりのち風雨強くなる
 今日は花祭りである。NHK教育テレビ后八時より「仏陀の思想」がある。それに主人は出ているので、一寸みてから寝るといっていたが、眠くなってきて7時にねた。代わりに私がみていた。
 テレビのニュースで。連続射殺魔少年の下宿を調べるとメモが出てきた。それは金銭に対する異常な執着を示していた、といってテレビは騒いでいる。「貧乏だったんだ、いいじゃないか。お金に執着のあるメモがみつかったって。そういうお前は金が好きじゃないのか」――解説者があまりにもしたり顔に報告するから、テレビに向かって私は声を出して言ってやる。
 台所の引出しに「オレンジジュースの素」があった。お湯で薄めて飲んだら気持がわるくなった。三年位前のお中元のだから腐っていたのかしら。

 7月11日(金)
 朝 ごはん、鮭のフライ、キャベツとにんじん酢抽漬、豆腐とわかめ味檜汁。
 昼 お好み焼(桜海老、ひき肉、青のり、ねぎ、きりいか)、かぼちゃと茄子の妙め煮、スープ。
 夜 ごはん、炒り豆腐、きゅうりのあんかけ、のり、うに。
 食堂の硝子拭き。夕焼でも虹でも花畑の花でもごはんを食べながらみられる西側の二枚の硝子戸は、ことさら念入りに磨く。主人はテラスで風に吹かれている。
「帝銀事件の平沢画伯が描いた絵で、日本髪結っためくらの女の人が鏡に向っている絵見たことある? 『心眼』て題がついてるの。ずい分昔に一回しかみたことないけど忘れられないよ。あれ? この話、あたし前にもしたっけね。どういうわけか、硝子磨いたり鏡磨いたりするとき必ず思い出す。誰もいなければ一人で思い出しているだけだけど、そばに、とうちゃんがいるとついしゃべっちゃう」「もう何度もきいたぜ。しかし、まあ、しゃべりたきゃ、しゃべったってかまわんがね」
 それで、また、この話をながくながくしゃべってしまった。

 8月1日(金) 晴
 十時半、山に戻る。先に大岡家へ寄り、鱒ずしと赤坂もち、その他野菜を届ける。デデが帰ってきていた。

 8月2日(土) 晴のち曇
 主人、朝から下痢。仕事部屋でふとんをかぶってねている。便所にたっては、またねる。

 8月3日(日) 快晴、俄か雨あり
 主人の下痢はすっかり治った。朝からオムレツが食べたいと言う。

 8月4日(月) 俄か雨ののち陽がさす
 朝から「朝ごはんのあと大岡のところへ犬を見に行くぞ」と、主人急かす。あまり早く伺ってはわるいので、ゆっくり後かたづけをして、十時過ぎに出かける。
 大岡さんは、一昨日の午後から胃が痛くて、下痢をして熱が7度3分あるとおっしゃる。主人は「俺のはもう治った。俺のは東京に二日いる間、ビールを飲み続けてクーラーにあたっていたから冷えたのだ」と、いやに元気よく主張する。「女房は下痢しないで俺だけした」と言うと、大岡さんも、「女房は下痢しないで俺だけだ」とおっしゃる。(私は鱒ずしのせいかなと思ったが黙っていわないでいた)。大岡さんは下の町でクロマイシンを買ってきた。大岡さんは、「クロマイシンはほかの菌まで殺してしまうから、あまり沢山のんではいけないんだ」と、のみながら教えて下さる。「吉田の医者を紹介してもらうから、お前のところもそこに行け。病気の時に急に行って頼んでも具合がわるいから、まず前に俺が一回行って顔つなぎをしておくから」と言って下さる。「そうすれば、往診もしてくれるぞ」「うちはワカマツをのんで、いつも治してしまうよ」と主人は言っている。
 記念品にもらったガスライターのガスを大岡夫人に入れて頂く。大岡夫人は、小さいねじまわしを出してきて、眼鏡をかけて、すぐうまく入れて下さる。私はその入れ方を見ている。「夫婦ともライターが判らないのか」と大岡さんは呆れる。「夫婦ともライターがいじれるのか」と武田は感心する。「私は自動車きり、それも自分の自動車きりしかよく出来ない」と、私は言う。
 大岡さんは、吉田で買ってきたリズムアンドブルースのレコードをかけて、リズムアンドブルースについて教えて下さる。武田が、ふうん、と言っているだけなので、「武田はテーマミュージックしか判らねえんだな。武田向きのやつをかけてやろう。『その男ゾルバ』というの知ってるか」。リズムアンドブルースを中途でやめて、ちがうのをかけて下さる。「白い恋人たち」というのも一枚かけて説明。私は「白い恋人たち」は知っていた。そのあと、大岡さんはもう一度「その男ゾルバ」のところだけかかるように狙って針をおとす。ちゃんとぴったり、うまくかかる。奥様はおかしそうに首をかしげて佇っている。十一時ごろ、おいとまする。
 昼 ホットケーキ、紅茶、かにときゅうり三杯酢。
 陽があたりはじめる。洗濯ものを出し、主人はテラスで日光浴をはじめると、パラパラと雨が降りだす。それの繰り返し。「大岡のように忙しい天気だなあ」と、主人言う。そして、「大岡の下痢、本当は鱒ずしのせいかもしれないぞ。鱒ずしだと思っていると困るから、俺のはビールとクーラーだぞと何度も言ったんだ」と言った。
 夜 ごはん(桜めし)、しらす、大根おろし、金山寺味噌、いんげんピーナツ和え、みょうがと卵の吸物、夏みかんゼリー。

 テレビで。
 富士山有料道路一合目の上で、埼玉の畳屋さんの乗用車と静岡の枕製造業のマイクロバスが衝突、双方に重軽傷者を出した。乗用車のスピード出しすぎと、見通しのきかないカーブのため。
 昨日、大学法が強行採決されたので、今日は学生のデモ、文部省の前あたりに機動隊が出て、六十人逮捕された。まだ夜間デモ、集会が続いている。


 昭和45年 (1970年)
 7月20日(月) 晴、風なし
 夕食後、ぽんやりと外を見ていると、大岡夫妻がみえる。桃一箱と神戸牛の粕漬を頂く。
 大岡さんの小説の中の文章が紅葉台の「Y」ドライブインの前に看板になって出ている。承諾をとりにこないで勝手にしている。そのことと、看板はやめてもらいたいので、出版社から話をつけにいったら、桃二箱と山菜の味噌漬のようなものをごちゃごちゃと持って謝まりにきた。秋まででやめてもらうことになった、という話。この桃はその一箱。
 デデは一週間経ったら山へ来るそうだ。
 大岡さんと奥様は、きじ料理屋に入ってみたそうだ。千二百円できじ鍋というのを食べた。肉は数えるほどしか入っていない。でも、まあまあ食べられる味だった。奥の部屋では土地の文化グループらしい人たちが、短歌か何かの会をやっていた。「あの人、才能あるじゃんか」と大きな声でにぎやかにやっていたそうである。
 大岡さんは、今年、現在は、フォーリーブスの大ファンで、テレビは欠かさず見、レコードも買い、ゴシップも沢山知っている。フォーリーブスの中の西洋人のような顔の男の子のファンだったが、その子がへンに薹がたってきたので、別の男の子にした。前は九重祐三子(?)のファンだったが今はこれ。(これは大岡夫人が語りました。)

 7月28日(火) 快晴
午後二時ごろ、パンクタイヤを持って下る。スタンドでみてもらう。太いねじ釘がささっていた。一週間位前からブレーキをふむと妙な音がしていたので、ついでにみてもらう。部品を取り替えなければならない。タイヤが直ってから部品を買いに行ってくれ、全部終ったのは六時過ぎ。

 スタンドは今年はアルバイトの女の子三人と十六歳位の 少年、整備の出来る若い衆がいる。ノブさんもきている。ノブさんは中年になって肥り気味だ。
 スタンドのおばさんは、風通しのいい日陰のベンチに私を坐らせ、自分も隣りに坐って話しこむ。中央道が出来てからは途中のスタンドで給油してくることが多く、おばさんやノブさんの顔をみるのは久しぶりだ。
 おばさんは隣りに坐るなり「万博に行ったか」と一番はじめに訊くから「行かない」と答えると「ここらでは三人に一人はいかない。わしはその一人の方よ。今年は忙しくて、まだ行ってない」と不満そうに言う。忙しかったわけは、去年おばさんのお母さんが八十歳(?)で死に、少し経ったら、そのおばあさんのところに四十年居候していた、まるきりの赤の他人で、どうして居候していたのか、おばあさんも本人もまわりの人も、よく判らないような按配のおじいさんが死に――これも八十歳位。クリスマスころから脳溢血で倒れていたスタンドのおじいさん(おじさんのおとうさん)が正月の二日にちっとも苦しまずに死に、六月におばさんの姉さんが五年もの間入院したり退院したりしていたが、東京の病院で死んだ。四人も死んで忙しかった。スタンドのおじいさんが倒れる前に、一カ月半ほどおばさんが新宿の病院に胃が悪くて入院した。いまでもおばさんは錠剤「命の母」と、のみ薬を四種類毎日のんでいる。この辺は坊さん一人五千円のお経料をやる。盛大な葬式なら一万円位。戒名のいいのをつけてもらうには五万円位やる。もっとやる人もいる。このごろはお互いに商売していて忙しいので、四十九日や新盆などでもよばないで、配りものをしてすませる――と、こんな話をおばさんはした。
 私がきじ料理屋の話をすると、「あのきじ料理屋は宿屋だったが場所がわるくて、ほかの宿屋がどんどん出来はじめて客をとられるので、考えてきじ料理の店にした」のだと言う。
 おばさんは急に思い出したらしく、「テレビの『細腕繁昌記』は面白いね。出ている人がみんなうまいね。いろいろ考えて商売してるっちゅうところがいい。『信子とおばあさん』よりこの辺では人気がある。信子はつまらなかったねえ。何のこともなかったねえ。細腕は面白い。みんなあんな風にして商売してるだ。みんなあれとそっくりだ。商売してるもんはいろいろ考えに考えてやってるが、なかなかうまくいかねえな」と、しんみりとして一人でうなずいていた。


 昭和46年 (1971年)
 7月8日(木) 晴
 午前中、吉田へ買出し。
 ハチミツ五百円、仁丹、茄子、きゅうり、赤いすもも一箱二百円、トマト、豆腐、油揚げ、豚ひき肉、ワンタン皮。罐ビール一箱、瓶ビール一箱。
 留守中に大岡夫人が「今夜来るように」と誘いにきて下さったとのこと。五時半に二人出かける。
「何故、およびしたかというと、ワグナーのレコードと新しいステレオと新しいカラーテレビを大岡はみせたくて仕方がないんです」と大岡夫人は、おかしそうに言われる。
 大岡さんは、毛むくじゃらのじゅうたんに寝ころんでいる。寝ころんだまま、ステレオのスイッチをひねれるように、新しいステレオが置かれている。スイッチを入れると、部屋の隅の四角い二つの箱の方からいい音が出てくる仕掛になっている。寝ころんだ位置できくと一番いい音なのだそうである。ワグナーのレコードは、カステラの箱を二つ重ねたほどの厚さの箱だ。中にはワグナーのレコードのほかに三冊、本が入っている。この本を読んでから、この中に一緒に入っている解説のレコードをきいて、それからワグナーのレコードをきけば、ワグナー研究学者第一人者になれてしまうほどの精しさのものだそうである。ラインゴールドのはじめの方と、ワルキューレのまん中へんと、解説(日本語)のレコードのはじめの方をかけて下さった。
 主人は「ワグナーをきいていたら霊感が湧いて、小説の題を二つも考えてしまった」と言った。大岡さんは「貸してやるから持っていっていいよ」とおっしゃった。大岡さんは「タダでこのレコードは貰ったけれど、本当は十四万円ぐらいするぞ」とおっしゃった。
 お刺身を御馳走になった。楽しかった。
 足もとが暗いので、大切なワグナーは明朝運ぶことにして車の中に置いて庭を下る。
 今夜は二人とも早く眠る。

 7月15日(木) 快晴、夕方雨
 朝 ごはん、味噌汁、うに、のり、卵、いわし大和煮。
 昼 パン、野菜スープ、トマト。
 夜 ごはん、コンビーフ、たたみいわし、おひたし、清し汁。
 気が遠くなるようなよい天気。草刈りをする。そのあと、水を沿びて、テラスで風に吹かれていたら、いつのまにかねてしまっていた。
 午後、私が食堂の椅子に腰かけているとき、テラスから主人がふっと入ってきて、硝子戸を音をたてないように閉めはじめる。一人で黙ってそそくさと閉めている。全部閉め終ると「タマは外に出ているか。タマを出さないようにしろ。百合子、じっとして音をたてないようにしていれば大丈夫だからな。いま熊が、そのつつじの向うを歩いている。もうじきほかへ歩いていくからな。じっとして外へ出ないでいろよ」と、低い声で抑揚をつけずにゆっくりと言った。タマは二階に昼寝している。二人は食堂の椅子に並んで腰かけていることにした。熊は大きな犬の三倍位の大きさだったという。遊びながら散歩している風に庭先を横切ろうとしているようだったという。しばらくして「もう 大丈夫だろう」と主人は言った。私はいそいで大岡さんへ行く。「熊がいたから、デデを外に出さない方がいい」と言いに行く。主人が報らせておけというので管理所にも行く。「あの、私が見たのでなく、主人だけが見たのだから、主人は眼がわるいので、もしかしたら間違っているかもしれないのですが……」と、小さな声でいうと「何かね。ごみの棄て方かね」と不審そうな顔を向ける。「熊が出ました」と言うと、大騒ぎになってしまった。ガードマン一人と管理所の人三人位がジープで来て、熊の歩いていった方角へ向って林の中を、洗面器やバケツを叩いて見回ってくれる。いなかった。
 今日のテレビは、ニクソン訪中のニュースばかりやっていた。

 7月22日(木) くもり、夜に雨
 涼しい。時々晴れては、くもる。
 タマ、今日ももぐらの子供をくわえて来る。しばらく遊んでいて、死ぬと放り出して外へ出て行った。土に埋める。

 8月4日(水) くもり、風つよし
 タマ、暗くなって大急ぎで家に入って来る。いつもより急ぎ足なのは、もぐらをくわえてきて、みせたかったからだ。もぐらは、この前のより成長して倍ほど大きくなっているが、毛並はまだ子供らしくビロードのようだ。ビロードの色は真黒から薄墨色に、もぐららしく変ってきている。前足もこの前のよりずっと大きく、水かきがついているみたいにひろがっている。主人は「タマ。お利口さん、ああ、つよいつよい。えらいねえ。そうかそうか。見せてくれるのか」と、しきりに猫に話しかける。そして私に「こういうときは、ほめてやらなくちゃならんぞ。もぐらをとりあげて捨てたり叱ったりしちゃいかんぞ。猫がへンな性格になるからな。いじけるからな」と言いきかせる。私も「タマ、よく見せにきてくれたね。ありがとさん。そうか。お前はつよいね」と、真似してほめた。今日のもぐらは丈夫らしく、いつまでも動いているので、タマは満足して遊んでいる。やがて動かなくなると、ふしぎそうにみつめて、放り上げてはバスケットボールをしているようにいじっていたが、ふいと飽きて、箱に入ってねてしまう。

 10月23日 くもり
 昨夜、中公の谷崎賞の会があったので、今朝「今日はやめておく? 一日のばす?」と訊くと「山へ行く。紅葉も見たい、少し休みたい」と言う。予定通りに出かける。昼少し前に赤坂を出る。
 中央高速道に入って、真直ぐの道をスピードをあげて走り出したとき「昨日、中公の会に出ていてしゃべっていたら、急に口がうまくきけないんだなあ」と、赤坂を出たときから眠っているようにしていた主人が話しだす。顔をみると、いつもの通りの顔色で、おかしそうに、うっすらと笑っている。少し恥ずかしそうにしている。
「そう。うちへ帰ってきても、だから黙っていたの?」
「会から帰ってくる車の中では、もう治ってたんだ。酒飲んでくたびれてたからなあ。淑子さん〔嫂〕の話はきいてただけだ。口きくのが面倒くさかったからなあ。あのときは治ってたんだ。ヘンだったかなあ」
「別に。あたしは、いつもよりお客に口きかないな、と思ったけど。お嫂さんはへンとは思わなかったでしょ。気がつかなかったみたい」
 主人は「腹がすいた」といって、持ってきたサンドイッチを食べはじめる。
「このまま、山へ行く? 戻って医者に診てもらおう」
 頸を振りすぎるほど振って、じろりとにらむ。サンドイッチをのみこんでから「山へ行けば治るさ。酒の飲みすぎだ。判ってるんだ。医者なんかみせたって同じだ。こうやっていたいんだからいさせろよ」
 私は真直ぐ向いたまま、ずっと車を走らせた。
 主人は手をのばして私の髪の毛を撫でる。
 語気を荒くしたことを恥ずかしそうに、お世辞をつかうように「こうやっていさせろよ」と、今度は普通の声で言いながら。
 山へ着いて、遅い昼食。ごはん、じゃがいもと玉ねぎのオムレツ、スープ、りんご。
 主人も私も昼寝。
 夜 牛肉バター焼、ごはん、大根おろし、わかめとねぎ、味檜汁。
 いま、庭に芥子が咲き乱れている。いまごろになって咲いている。

 10月24日
 本栖湖、西湖、朝霧高原へ行く。紅葉を見に。
 昼 天ぶらうどん、おひたし、りんご。
 食堂で主人の髪を刈る。そのあと、主人入浴する。
 タマが庭をせっせとおりて来る。会社員が夕方、家へ帰って来るときのように。遠くから見ると、タマの顔に黒いひげが生えているようだ。テラスまで来るとタマは得意そうに顔を仰向けてみせる。蛇をしっかりくわえている。三十センチ足らずの小蛇だ。蛇はくわえられて苦しいから脂がにじんで反りくり返っている。だからひげのように見えたのだ。「あ、タマ。蛇をくわえてきた。とうちゃん、見てごらん。タマの顔はダリにそっくり」。主人は私の声を聞くなり仕事部屋に入り、乱暴に音をたてて襖を閉めきる。タマは仕事部屋の前にきちんと坐って蛇をくわえたまま待っている。蛇をくわえているから鳴いてしらせるわけにはゆかない。みせたいから開けてくれるまで黙って坐っている。「いいか。タマを入れちゃいかんぞ。絶対に開けるな。俺はイヤだからな。タマをどこかへつれてけ。蛇は遠くに棄ててこいよ」。主人は中から、急に元気のなくなった震え声で言う。
 私はタマの頭を撫でて「タマ、えらいね。遠くからせっせと持ってきたのね。大へんだったね。見せてくれてありがとさん」と言う。蛇をくわえたままの猫を風呂場に入れておく。
 食堂に落ちている髪の毛を掃除機で吸いとって掃除したあと風呂場に行くと、蛇は死んでいた。タマはまた外へ出てゆく。蛇を箸でつまんで犬の墓のところを掘って埋める。「もう大丈夫。埋めてしまったから」と私の顔が入るだけ襖をあけて報告した。
 夜 桜めし、おでん、漬物。

 12月14日(火)晴 風つよし
 11月27日から12月9日まで、主人入院。その前後一カ月半ほど、山にこられなかった。
 前九時東京を出る。


 昭和47年 (1972年)
 6月21日(水) うすぐもり
 主人山へ来るとすぐ「ひかりごけ」のオペラのテープを聴いていたら急に聞えなくなったので、買出しのついでに吉田の電気屋へ持って行ってみてもらう。やっぱり電池がなくなっていたので取り替える。取り替えてくれてから、電気屋のおじさんはスイッチを入れて、しばらく聴いてみて、首をかしげる。
「こりゃあ歌かなあ。何だ? バッテリーがわりいときに録音しただな。もう一度バッテリーを取り替えて録音すりゃあ、歌らしくなるで。もとの録音がわりいで」と、私に注意した。
 帰りがけに、カンナをわけに大岡家へ寄った。
「武田が来なくたってビール一本位飲んでゆけ」とすすめられて、私は玄関から上ってしまった。ビールを一本御馳走になった。大岡さんは、主人の病気のことを訊かれた。こんな風、と話すと「『富士』のとき酒飲みすぎたな。しばらく何にもしないで休めばいいさ。少しよくなったら、ほんとはアメリカかなんかに二人で行って来るといいんだがなあ」とおっしゃった。「もう少しよくなったら、アメリカの田舎にいこうかしら」と、私はアメリカの田舎のことも知らないのに答えた。「しかし武田はいいよ。年とったって、中国文学と仏教というてがあるからなあ」。大岡さんは慰めるように私に言われ、私も笑った。
 夕飯のあと、主人は急に「大岡のところへ行く」といいだした。私が、さっきビールを御馳走になって、こんな話をした、といったので、自分も行きたくなったらしい。猫を家の中によび入れて出かける。夕焼が少しして、気持のいい風が吹いている。白い月が出ている。また、ビールを御馳走になる。いろいろ、話をしているうちに大岡さんは主人をしげしげと見ながら、げらげら笑う。
「笑っちゃ悪いけど、おかしい。武田が糖尿病かあ。何だかおかしいなあ」。私もおかしくなって笑ってしまう。「俺だっておかしいや」と、主人も笑っている。
 デデは、あんまり我儘でうるさいから東京においてきた、とのこと。
  すっかり暗くなって帰る。とても楽しかった。月夜になった。庭をおりるのも明るい。ふざけながらおりる。


 昭和48年 (1973年)
 5月1日(火) くもりのち時々晴
 庭のけし畑には蕾が二本出た。
 着いてすぐ、主人も私も昼寝。
 昼 麦ごはん、こんにゃくとにんじんと椎茸の白和え、とりささみつけ焼、キャベツ酢漬、とろろ昆布のおつゆ、トマト。
 早めに昼食。そのあと、テラスで主人の頭を刈る。ついでにひげも剃る。
「今だから言うけど、歯なしのころは顔が剃りにくかった。唇がへっこんでるから剃り残しが出来て。口のところはひっぱったり、口の中に空気入れてもらったりして剃ってた。
いまは剃りいいよ。しわがなくなって」
「大岡のやつ、俺が歯を入れたときここにやってきて『お前、病気したら眼が澄みやがったな』なんて、みるなりいったぞ。しゃべっているうちに『お前、入歯したらワザとらしい顔になったな』なんて言いやがった」
「ほんとだ。そういわれればそうだ」。私は笑いだした。主人も笑った。 」(武田百合子「富士日記」中央公論社1977年(現在中公文庫))
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2010.08.28 Sat l 文芸・読書 l コメント (2) トラックバック (0) l top
「富士日記」が中央公論の月刊誌『海』に載ることになったのは、武田泰淳が亡くなった1976(昭和51)年10月、編集部から山小屋でつけていた日記の一部を『海』に出したらどうか、との話があったからだそうである。妻である百合子さんは「ずい分ためらいましたが、供養の心持で」引き受けたことを一年後に出版した「富士日記」単行本の「あとがき」に書いている。日記は武田泰淳や一人娘の花さんも時折書いてはいるが、ほとんどは武田百合子の手になるもの。山小屋が建ったのは昭和38年(1963年)、日記は翌年の昭和39年(1964年)から十数年にわたって書き続けられている。すばらしく精彩に富んだ魅力ある文章だと思うので、そのうちのほんの一部だが、書き写させていただき、二回に分けて掲載する。最初読んで、特に印象に残った場面や出来事、おもしろいと思った会話など(個人的な好みも入っていると思うが、大岡昇平の言動の描写も抜群だと思う)。


「 昭和40年 (1965年)
 8月5日(木) 晴
 后六時、私と花子、外川さんと約束をしておいた河口湖湖上祭に下る。主人、急に留守番するという。
外川さん(引用者注:前回掲載した「日日雑記」の「トガワさん」と同一人物)は三人に来てもらいたい(特にセンセイ)と思っていたのに、私と花子だけということになって、ガッカリしたらしい。
 六時に外川さんの家の前に着くと、もう湖上祭に行く車でつながっていて、道一杯つかってハンドルをきり、大まわりして外川さんの家への小路に入る予定だったのに、そんなことは到底できない状態。すぐうしろには、大きなオートバイのおにいさんが女を乗せて五、六台続き、絶対あとへ退らないし。外川さんは少し先の右側の小さな農家へ入って行き、しばらくして「オーライ」と手を振ったので、少し前進してから、農家の入口めがけて右折すると、そこは車幅一杯の私道で左側は田んぼ。私の車の前にすでに千葉ナンバーの車が一台入っている。私の単が右折したのを見て、すぐ真似してもう一台あとから入ってきたので、私の前に一台、あとに一台、あれよあれよという間に一列に並んで三台入りこんでしまった。
 私が「この前の千葉の車、出られないんじゃないの。私、こんなところへとめて大丈夫かなあ」と言うと「なあに湖上祭終るまじゃ帰らねえ。九時半か十時ずらあ」と平気である。農家の障子窓があいて顔を出したおじいさんは心配そうにしていたが、外川さんが威勢がいいので黙ってしまって「中のもの、とられねようにしてくれやあ」と小さな声でいって窓をしめてしまった。何ともへんなところなので「私の車のうしろの車の人がいる今のうちに道へ戻して、外川さんの家の前にやっぱりとめたい」と訴えたが、外川さんは丈大夫だといって歩きだす。
 外川さんの前庭まできてから、もう一度「千葉の車が出られないだろうから」と言うと「ほっとけ。何もせん方がええだ」と言う。外川さんは前庭から座敷へ上り「暗くなるまで茶でも上っておくんなって」とすすめる。主人から出がけに「外川さんのうちに上りこんで御馳走になったり、酒沢山飲んだら駄目だぞ」と念を押されているので断わるが、暗くならなくては行っても無駄だ、というし、奥さんも庭先に下りてきて、是非、というので上る。
外川さんは私と花子が上るとすぐさま、座敷のテレビをつけて、テレビと話しこむほどの近さに坐りこみ、画面に眼をすえたままになる。水戸黄門をやっている。ときどき「うう」という呻き声を出しては、穴のあくほどみつめている。水戸黄門様が浅はかな殿様をたしなめて悪い家来をやっつける話で、外川さんは鼻水が垂れてきても拭かない。黄門様が終えると、すぐパチンと消して、体の向き包変え、今度は私に話しかけはじめた。わかった。外川さんはこの番組がはじまっていたので、早くこれを見たいから、千葉の車のことなんかどうでもいい、早く座敷に上りたかったのだ。外川さんは黄門様を見ている間、子供がそばにきて首をつっこんで見ようとすると、ゲンコで頭をなぐって向うへ追いやり、自分だけテレビの前で専用にして見ていた。
 さしみ、トマト.酢のもの(いか、くらげ、さば、たこ)をビールと一緒に運んできてすすめられる。
 そのうちに急に思い出したように「重ね重箱」があるから見ろ、という。棚の上のものを払い落して探したり、押入れの中からも、ものを放り出してのぞいたりして、外川さんと奥さんはやっと見つけ出す。カビが一杯生えていたが、五重ねのケヤキの見事なものだ。しかし、二箱はフチがとれている。外川さんは十年前にレークの(湖畔のことらしい)頭バカになった人から「当時の金でサンデンエン(三千円のことらしい)で買った」と言った。奥さんと、東京から花火を見に泊りがけできているらしい外川さんの妹さんも座敷に寄ってきて、坐りこんで話をしはじめる。
 そのうち暗くなってきて、湖畔に出かける時刻となる。外川さんは「さてと」と言って、ゆっくり立上り、用意の出来ている消防の印ばんてん、河口湖町消防団誘導部長と衿に染めぬいてあるのを着て、衿のところをすっとひっぱって姿勢を正し直立不動となる。そして白い日おおいのかけてある制帽を両手で大切そうにかぶる。奥さんは、衿のところを嬉しそうに直してやった。私と花子は手を叩いて「ステキ」と言った。外川さんは、この出動の場面を主人にみせたかったのだ。忠臣蔵の大石内蔵助のようだった。
 湖畔のLホテルに行くと、外川さんが予約しておいたはずだというのに満員だという。どの部屋も、湖に張り出した見物席も満員で、さかんに飲み食いしている。大座敷のようなところでは、東京からテレビでよくみる落語家がきていて、漫談のような司会のようなことをやって、みんな真赤な顔で笑いどよめいている。湖の見えない席で、西瓜とジュースを四本、外川さんは注文してくれた。そして「これから誘導の仕事が待ってるで」と言って敬礼すると、まわれ右をして出かけて行った。私たちは、外川さんにわるいと思っていたので、やっとほっとして、それを食べ終るとすぐホテルを出て、夜店を見たり、音がすると空の花火を見上げたりして湖畔を歩く。

 遊覧船に乗ってみた。船はこぼれ落ちそうに人を乗せて音楽をかけ、湖の中央まで出て、ゆっくりまわって戻ってくる。二十五分、一人九十円。まわりどうろうを買う。二百円。盆踊りの絵がまわると踊り子の手足がふわふわ動いてみえる。
 湖畔で花火を見る席には、人がぎっしりで、新聞紙を敷いて仰向けに寝転んでいる足の間を、踏まないように歩いて、遊覧船の乗り場まで行ったのだ。死にそうな位の年のおじいさんが、家族の人に囲まれて、新聞紙を敷いて寝て、仰向けになって花火を見ている。死んでしまっているのではないかと思うぐらい、じいっとして花火のあがる方角だけ見ている。この敷いている新聞紙は、売り屋がいて、その人から買っている人もある。私たちも、新聞紙があいていたので、それを敷いて仰向けになって、しばらく花火のあがるのを見た。ねころんで見ると、首がくたびれないので、ずーっと終りまで見ていられるのだ。
 花火があがって、音もなくふっと消えてゆくのを、くり返しくり返し見ていたら、梅崎さんのことを思い出して涙がでた。
 九時半頃、卵を六個買って抱えて、車をとめたところに急ぎ足で帰ると、女一人男二人がいて、怒っている様子。千葉の車の人だ。一人の男はやたらにヒステリックになっていて「二時間も待ったぞ。のんびり笑いながらやってきやがって」とふるえ声で噛みつくように言った。「花火見にきたんでしょう。花火見物の人は、花火が終るまで帰ってこないのはわかってるでしょ。あんたたちも花火終るまで見ていればよかったのに。花火見にきてのんびり笑いながら歩いて何が悪い。せっかち」と、あんまりふるえ声でどなるので、いい返したら、その男は私に殴りかかろうとした。もう一人の男が中に入って「こんな田んぼでけんかしたって仕方がない。早く車を出さなくっちゃ」と言って、私のうしろの車を四人で持ち上げて田んぼの所に斜めにうっちゃって、私の車をバックで道に戻し、やっと千葉の車が出られることになる。私のうしろの車は小さかったので、案外軽く持ち上げられたから、田んぼの中に三分の一ほど浸ってしまうこととなり、一番損をした。来年は、もう、こんなところにとめない。
 花子は「おかあさん、ほんとは私たちも少しわるいね。遅く帰ってきたからね。あの男の人ヤクザのおにいさんでしょ。おかあさんがぶたれたら負けるよ」と、単に乗ってから小さな声でいった。私は気分が少し昂揚して「ぶちにきたら、卵全部投げつけて、それから車のチェーン出してふりまわしてやろうと思って」とうちあけた。
 今年の湖上祭は、朝から晴れていたので花火がいつになくきれいに揚がったのだそうだ。その日、一度でも雨が通ると、あと晴れわたっても、空気がしけているし、花火玉の火薬もしとって、煙ばかり多いそうである。湖上祭の日は、朝から快晴ということは少なく、曇っていて雲の上に花火が打ち揚がってしまって、音だけがして見えなかったり、しとしと降って夕方からやっと晴れだすという日が多いらしい。
 「花火が終ると、このあたりの夏は終りだね。盛りを過ぎるねえ」と、外川さんも外川さんの奥さんも、地元の酒屋や八百屋のおかみさんも、ガソリンスタンドの人も、気がぬけたように言うのだ。明日かあさっては立秋なのだから。


 昭和42年 (1967年)
 7月18日(火) 快晴、夕方少し雨、雷鳴
 ポコ死ぬ。六歳。庭に埋める。
 もう、怖いことも、苦しいことも、水を飲みたいことも、叱られることもない。魂が空へ昇るということが、もし本当なら、早く昇って楽におなり。
 前十一時半束京を出る。とても暑かった。大箱根に車をとめて一休みする。ポコは死んでいた。空が真青で。冷たい牛乳二本私飲む。主人一本。すぐ車に乗って山の家へ。涙が出っ放しだ。前がよく見えなかった。
 ポコを埋めてから、大岡さんへ本を届けに行く。さっき犬が死んだと言うと、奥様は御自分のハタゴを貸して下さった(7月19日に書く)。

 7月19日(水) 晴 三時頃より雷雨
 夜一時止む。また小雨となる。
 昨夜、何度も眼が覚め、覚めると、しばらく泣いた。
 朝、陽があたっている。
 朝 ごはん、佃煮、油揚げつけ焼、大根おろし、味檜汁、のり、卵。
 ポコの残していったもの、籠と箱と櫛をダンロで焼く。土間に落ちているポコの毛をとって、それも焼く。何をしても涙が出る。
 昼 ハムサンド、とりスープ、紅茶。
 主人の顔をみないようにしている。主人も私の顔をみないようにしている。お互いに口をきかないようにしている。
 二時少し前、私だけ下る。今日は梅崎春生さんの三回忌の御命日だ(私は前から心づもりしていたのだ。私一人ならポコを座席に乗せて行ってこよう。富士霊園までは人通りも少ないから吠えたてないし、霊園の中は広々しているから、お墓でポコと遊んでこようと思っていた)。一人でお墓参りに下る途中で黒い雲が空一面となる。山中湖までくると雷鳴をともなった豪雨となる。湖面は急にふくらんできて、湖岸の道路は川のようになる。ワイパアをつけても水の中を走っているようで、前は何も見えない。車は全部スタンドや茶店に一時避難して休みだす。私はスタンドに逃げこんだ。しばらくして雨は上ったが、霊園までの赤土の道は水が出てぬかって通れないだろうと そこの人たちの話なので引き返す。(略)
 帰ってきて、主人とビールを飲んでいると、大岡さん御夫妻来る。
「どうしてる? 犬が死んでいやな気分だろう。慰めにきてやったぞ」と、入ってこられる。私は奥様に貸して頂いたハタゴで機織りを教わった。
 御飯どきだったが、へんなおかずだったから、枝豆、ハム、かに、で、皆でビールだけ飲んだ。
 大岡さんは、昔から犬を始終飼っていた。で、いろいろな死に目に遭ったのだ。
 大きな犬を飼っていたとき、鎖につながれていた犬が、そのまま垣根のすき聞から表へ出てしまい、大きな犬だったのに石垣が高いので下まで肢が届かず、首を吊ったようになって死んでしまった。道を通りかかった御用聞きだか配達だかの男の子がみつけて報らせてくれた。「絞首刑だな。自殺というか……」
 大岡さんは、そのほかにも、犬の死に方のいろいろを話された。そして急に「おいおい。もうこの位話せばいいだろ。少しは気が休まったか」と帰り出しそうにされた。
「まだまだ。もう少し」。主人と私は頼んだ。大岡さんは仕方なく、また腰かけて、思い出すようにして、もう一つ、大の死ぬ話をして帰られた。門まで送ってゆくと、しとしととした雨。夜は、釜あげうどんを食べた。
 遅くにゴミを棄てに表へ出る。まだ、ポッリボツリと犯みこむように雨は降っている。
 ポコは、あの濯木の下の闇に、顔を家の方へ向けて横たわって埋まっている。昨夜遅くなってから、よく寝入ったときのすすり上げるような寝息がひょっと聞えたように思ったが、それは気のせいだ。ポコ、早く土の中で腐っておしまい。

 7月20日(木) 晴、昼ごろ俄か雨
 朝 かに、卵、グリンピースの焼飯、スープ。主人が作ってくれた。私の分も。
 車を拭く。トランクも開けて中を拭く。実に心が苦しい。
 いつもより暑かったのだ。一時間ごとにトランクから出してやる休み時間までが待てなかったのだ。ポコは籠の蓋を頭で押しあけて首を出した。車が揺れるたびに、無理に押しあけられた蓋はバネのようにポコの首を絞めつけた。ひっこめることが出来なかったんだねえ。小さな犬だからすぐ死んだんだ。薄赤い舌をほんのちょっと出して。水を一杯湛えたような黒いビー玉のような眼をあけたまま。よだれも流していない。不思議そうにものを視つめて首を傾げるときの顔つきをしていた。トランクを開けて犬をみたとき、私の頭の上の空が真青で。私はずっと忘れないだろうなあ。犬が死んでいるのをみつけたとき、空が真青で。
 埋める穴は主人が掘ってくれた。とうちゃんが、あんなに早く、あんなに深い穴を掘った。穴のそばにべったり坐って私は犬を抱いて、げえっというほど大声で泣いた。泣けるだけ永く泣いた。それからタオルにくるんで、それから犬がいつもねていた毛布にくるんで、穴の底に入れようとしたら「止せ。なかなか腐らないぞ。じかに入れてやれ」と主人は言った。だからポコをじかに穴の中に入れてやった。ふさふさした首のまわりの毛や、ビー玉の眼の上に土をかけて、それから、どんどん土をかけて、かたく踏んでやったのだ。
 昨日、大岡夫人は「庭に犬を埋めると、よほど土を盛らないと、ずんと下りますよ」とおっしゃった。早くずんと下って、もう一ぺん土を盛るときがくればいい。
 昼 おじや、コンビーフ、白菜朝鮮漬風、トマトと玉ねぎサラダ。
 陽がかっと射してきて鳥が噂きだす。どこもかしこも戸を開け放つ。犬がいなくなった庭はしいんとして、限りもなく静かだ。
 ハタ織り少しする。
 管理所に新聞と牛乳を頼みに行く。牛乳は二本ずつ明日から。新聞は(朝日と山梨日日)明後日から。
 ハイライト一個買う。七十円。
 歩いてきたので、大岡家の前を下り、村有林の道を歩いて戻る。林の日陰にこしかけて、ハイライト二本吸う。死んだのがかなしいのではない。いないのが淋しいのだ。そうじゃない。いないのが淋しいのじゃなく、むごい仕打で死なせたのが哀れなのだ。私はポコをいつも叱っていたが、ポコは私を叱ったり意地悪したりしなかった。朝起きた私にあうと、何年もあわなかった人のようになつかしがって迎えた。昼寝から覚めたときだってそうだった。いやだねえ。

 8月21日(月) 雨
 台風十八号が近づいている由。
 九時、宿へ花子たちを迎えに。会計を済ませる。全額四千七百円。中学生割引だそうだ。
 門に大岡さんの車がある。奥様が庭を戻ってこられたところ。「今、お魚を置いてきました」
 黒鯛一尾、イナダ三尾、イセエビ一尾。頂いた。
 黒鯛はカラアゲにする。イナダは煮る。イセエビを茹でる。順繰りに食べることにする。たのしみ!!
 花子たちをのせバスの時間に合わせて下る。花子の友人は土産物店で、お母さんへのおみやげの絵葉書と財布を買った。新宿西口行二時四十五分発のバスに乗り込ませて、見送る。

 夜 黒鯛カラアゲ甘酢あんかけ、焼き茄子、ごはん。
 主人満腹。満足して、はやばやと眠る。
 八時ごろ、花子の友達が無事に帰宅したか、東京へ電話するため出かける。管理所は灯りが消え、入口が開かない。
 先日届いた浅山先生の葉書では、二十一日の午後Sランドに到着予定となっている。明朝行ってみることにしていたが、出たついでに電話を借りがてらSランドまで下ってみる。Sランドのフロントで東京へ電話をすると「迎えに出かけて、まだ戻ってこない」と留守番の人が言う。一寸気がかりなので、三十分後に、また電話してみることにする。待っている間に「今日、京都から女の客が着いたはずだが」と訊ねると、午後にお入りになったと言う。四階の一号室を訪ねて浅山先生と話しているうち、十時半過ぎる。ノックして、フロントの男「今、武田さんにお客様がきている」と告げにくる。一体、誰がきたのだろうと降りてゆくと、主人、蒼い顔をして佇っている。垂らした両手を握りしめている。花子、そのそばに、ぼーっとして随いている。外に出ると煌々とライトをつけ放しにしたジープがとまっていて、管理所の人が大型懐中電灯を持って二人いる。主人、体を震わせていて一言も言わない。ジープのあとをついて車を出して帰る。主人、車の中で「黙っていなくなる。それが百合子の悪い癖だ。黙ってどこかへ行くな」。怒気を含んで低く言う。運転しながら「ごめんなさい。これからは黙っていなくなりません」と言う。まだ怒り足りなくて震えている。「とうちゃんに買ってもらった腕時計もちゃんとします」。常に叱られていることも思い出して加える。「そうだよ。百合子は夜でも昼間と思ってふらふら出かける。時間の観念が全くゼロだ。今にとんでもない目に遭うぞ」「はい」
 ゴルフ場の林の道で、霧除けの黄色い灯りをつけてくる車が、すれちがうところで停った。大岡夫人が運転して大岡さんが乗っている。探しにきたよとのこと。ひたすら謝る。
「どっかで酒でも飲んでるんじゃねえか、心配することはねえと俺は思ってたんだ。しかし武田が蒼くなってやってきたからなあ。ひょっとして死んでたら、大岡はあのとき探しにも出なかったと、後々まで恨まれるからなあ。車を出したよ。あんまり心配させるなよ」。ひたすら謝る。
 霧が深くて、道が雨で濡れていて、滑って走りにくい夜であった。

 8月22日(火) くもり時々雨
 朝 ごはん、のり、納豆、うに、卵とじゃがいも妙め、味噌汁(玉ねぎ)。
 昼 ごはん、イナダ煮付、佃煮、キャベツ酢漬。
 夜 ごはん、豚肉衣揚げ、サラダ、さつまいもから揚げ。
 午前中、管理所に行き、昨夜、捜索のジープを出してもらったお礼とお詫びを言う。
「この辺じゃ、夜、二時間もめえに出たが、まだ着かねえというときに探しに出ることがある。林の中に車をとめて運転手が眠っていることがよくあるだ。武田さんの奥さんは、まさか、そんなこともあるめと思ったけんど、ジープを鳴沢方面とゴルフ場の方へ手分けして二台出した」
「ガスが湧いたし、道も濡れていたで。山の道には馴れてる奥さんのこんだから、まさかとは思ったが、車が沢に走りこんでひっくりけえってることもあるだからなあ。探照灯で沢や窪みを照らしながら走った。先生はジープに一緒に乗りこまれたで、そんなこんなを見ているうちに、なおのこと心配になったずら」。昨夜、捜索に出てくれた人たちは、寄ってきて、笑いながらそう言った。
 帰りがけ、大岡家に寄って、昨夜のおわびを申し上げる。大岡さんは、玄関へ出てこられて「あんまり人騒がせなことしないでくれよ」と言われる。「はい。ごめんなさい。今度、奥様がいなくなったとき、私が一生けん命探します」と、心からお詫びする。今日、朝日新聞の黛さんがくるから夕飯に来い、とのこと。
 工事の職人、一寸やってきて、すぐ帰る。雨が降り出すと仕上げは出来ないから、天気をみて仕上げ塗りをするという。
 夕方、大岡夫人迎えにこられる。三人ともいらっしゃい、といわれるが、私と花子は遠慮して、武田だけ、夕食に作った肉の衣揚げを少し持って行く。黛さんの前に三人お客があったので迎えが遅くなったとのこと。とても忙しかったらしい。
 夕食のあと、花子の二度目のハタ織りのタテ糸を作る。花子はハタ織りをしながら留守番しているという。
 八時半過ぎて、私だけ大岡家へ迎えに行く。私もビールを頂く。黛さんに昨夜の騒ぎを説明しながら、また繰り返し、皆で笑う。
 私がビールを飲みだすと「盲合子、おいとまするぞ」と、いつも口癖の主人は、今夜はそんなことを言わない。子供のようにはしゃいで上機嫌でおしゃべりだ。
「武田さん。昨夜のお顔とはまるでちがいますね。昨夜、花子ちゃんと玄関に現われたときの顔つきといったら……」。大岡夫人がからかうと、また、その話に戻って、皆大笑いした。
 車を降りると、向いの沢の寮に向かって、主人はながいながい、バシャバシャという、ビールのおしっこをする。しながら「百合子オ。松茸エ、マツタケエ」と大声を出す。
 庭の萩、オミナエシ咲き盛る。夜でも見える。 」
2010.08.26 Thu l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
二、三日ぶりに出かけたウォーキングの帰り、一時間半ほど歩いてもうすぐ家に帰りつくという時に、道端でふと武田百合子の随筆のどこかに載っていた話が頭に浮かんできた。夫である武田泰淳が死んだ時、葬儀の場で読経を唱えているお坊さんたちの目からとめどなく涙が溢れ出ていたという話である。百合子さんは、そういう場面を初めて見たと書いていた。武田泰淳は浄土宗のお寺の生まれ。お坊さんの中には武田泰淳を子どもの時から知っていた人もいたのだろう。当時(1976年)、自分が若かったせいか、私は武田泰淳の死をさほど若死にとも感じていなかったが、実はまだ65歳だったのだ。

急にこんなことが思い浮かんだのは、先日、武田泰淳の小説や評伝を二、三、読んだからだと思う。家に帰ってから、たしかあの話が載っていたのは「日日雑記」ではなかったかと本を探し出して見てみたのだが、肝心のその場面は見当たらず、富士山麓の山荘の隣組である大岡昇平や、山荘を建てた時からのお馴染みの登場人物である石屋のトガワさんが出てきて、思わず読みふけってしまった。武田百合子の随筆は最初の「富士日記」から始まって、どの本、どの場面をとっても生き生きとしていてまさしく傑作揃いと思うのだが、せっかくなので(何がせっかくだか自分でもよく分からないが(笑))、今日は、トガワさんが百合子さんの山荘を訪ねてきて話をしていく場面を引用しておきたい。1983~84年頃の文章だと思うのだが、かねてから読むたびにおもしろいと思っていたところなのだ。

「 快晴。タケヤア、サオダケエ、と昼ごろ竿竹売りの車が、めずらしく山まで上ってきた。一本も売れなかったらしい。暫らくするとタケヤア、サオダケエの声を流しながら下りていった。
 何だか今日もトガワさんが来るような気がした。三時ごろトガワさん来る。右脇に紙包、左脇にカボチャを抱えて庭を下りてきた。私はこの間貰ってまだ食べずに棚に置いてあるカボチャをいそいで隠した。紙包はきゅうりと茄子ととうもろこしとじゃがいもとにんじん。
 トガワさんが今日してくれた話。
 トガワさんの家の敷地は九百坪ぐらいある。坪十五万円ぐらいはするから、いまは大へんなものだ。昭和三十年ごろは全体で三千万円だった。でも、その前までは三十万円ぐらいだったそうだ。土地が高度成長の一時期に値上りしたから、土地成金がこの辺でもうんといて、土地の争いも絶えないそうである。(この山小屋を建てるとき、石工事一切をトガワさんに頼んだ。そのころトガワさんは、自分の石山から発破で切り出した石を運んできて石垣や土留めの石段をこしらえる石屋さんだった。いまは公共事業も請負う土建会社の社長さんである。胸に金色のポールベンをさしてる。)
 トガワさんの弟さんも石屋さんをやっていた。弟さんは旧登山道の上り口に七百坪ばかりの土地を持っていたが、敗戦後、ホンダのバイクがどうしても欲しくて(なぜ欲しいかというと、それにまたがって石山へつっ走って行きてえという気持だとトガワさんは説明を加えた)、坪百五十円だかで手放して、ホンダのバイクを当時六万円か七万円で買ったのだそうだ。
「いまになって考えてみりゃ、損をしたです。いま持ってりゃあ、あの辺は坪七万か八万、九万、いやまっとするら。七万としても四千万か五千万のものになってる。ホンダのバイクはいまでも六万か七万で買えるら」
「あたしの兄さんという人もね」似たようなことを思い出したので私も話した。「丁度そのころだと思う。ラッキーストライクが喫いたいばっかりに山林を売り払いましたよ。あのころのアメリカ煙草は禁制品で進駐軍PX横流しの闇値段だったから、えらく高かったでしょう。もっともまだ煙草の喫えない弟妹(あたしら)にも、ふんだんにPX横流しのドーナツとか金紙に包んだ胡桃入りの玉チョコなんか買ってきてくれたから、みんなして寄ってたかって肺や胃袋に入れたわけ。アメリカ人になったみたいだなんてね、うっとりして……。あっという間に山林は煙になって、たちまち日本人に戻っちゃった」
 トガワさんは、いままで遠慮して食べないでいた焼きいかへ矢庭に手をのばすと立て続けにくしゃくしゃと食べはじめた。そうして、かねがね猿蟹合戦に登場する粟の髭武者のようと私が感服している古風な顔を、お酒を飲んだように真赤にして、そうかねそうかね、と肯きながら低く笑いだした。笑いがとぎれると、涙の出てきた眼をこすり、そうかねそうかね、山林が……そうかねそうかね、とまたくり返して、ずい分と長い間笑っていた。
 毎年そうだ。いまごろは虫にくわれる。二人ともシャツの上から、鳩尾やお腹のあたりを無茶苦茶にひっかきながら話をした。
 夜、机の上でキンバエが、金色の卵みたいなものを(宇津救命丸ぐらいの大きさ)ころがして、いつまでも遊んでいた。虫か何かの眼玉か。
 追記。トガワさんは、山林が煙になった話が何故か気に入ったらしく、このあともくる度に私にその話をさせようとして、それとなく水を向けるので、私は何回か同じ話をした。トガワさんは待ちかまえていて、ひとしきり笑った。」(「日日雑記」中央公論社1997年)

トガワさんの入ってくる様子を見て、「この間貰ってまだ食べずに棚に置いてあるカボチャをいそいで隠した」というところがおかしい。ラッキーストライクのような話を聞くと、一度だけではなく何度でも聞きたくなるのは人情であり、話をしてくれるようにそれとなく水を向けるのは、きっとトガワさんだけではないのではなかろうか。
2010.08.25 Wed l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
ブログ「media debugger」のこちらの記事経由で、渡瀬夏彦氏のブログを閲読した。「沖縄県知事選と官房機密費。鈴木宗男氏と佐藤優氏の会話に注目!!」。この方はライターだということだが、率直に言って、それにしては情報を上下左右、表から裏までひっくり返して検証し、正確な記事を書くという姿勢に欠けるところがあるように思った。そもそも、まず私は、次の文面をみて押しつけがましさを感じたな。

「以下、琉球新報2010年8月7日付紙面(総合面3面)より、コラムの全文を引用する。鈴木宗男氏と佐藤優氏の重要な会話の内容を、なんとなく読み流してはいけないと思う。/ぜひ、じっくりかみ締めていただきたい。」(強調のための下線は引用者による。以下同じ)

私は一読後、いつものように思惑がいっぱい詰まっていそうな佐藤優氏の発言だと感じたが、渡瀬氏の上の紹介文には、佐藤氏の姿勢を純真、誠実とあらかじめ決めつけ、誉め称えようという意図があからさまなように思う。しかも読者に対してさえ、自分のようであるべきだと言わんばかりのようではないだろうか。官房機密費流用問題は、沖縄在住の人のブログでは作家の目取真俊氏の「海鳴りの島から」でも早速取り上げられていたし、事実重大な証言であろう。しかし、鈴木氏は当時この流用に自分自身も加担していたことには違いないのだ。なぜこの時期にこういう証言をしたのかについても機密費流用の事実関係が明らかにならないことには何とも言えないと思う。佐藤氏の言動についても同様のはずである。私が上記のように「いつものように思惑がいっぱい詰まっていそうな佐藤優氏の発言」と本心を書いたのは、渡瀬氏のように根拠も示さず佐藤氏を賞賛する人物が後から後から続々と湧くように出てくるからである。金光翔氏などから普遍的見地に立った重大な批判が出ても全員で申し合わせたように無視・黙殺。卑劣といおうか醜悪といおうか。私の知るかぎり、言論人や物書きなどがこれほど思考力や誠実さを喪失した時代は戦後なかったように思うのだが、さて、渡瀬氏が述べるように琉球新報の記事を「なんとなく読み流」さず、「じっくりかみ締め」たら、はたして何が明らかになるのだろうか? なんだか、歯だけではなく頭まで痛くなりそうな気がするのだが…。

そもそも佐藤優氏は、自分も官房機密費を30万円もらったと早くから述べているではないか。…と、ここまで書いてきて、渡瀬氏のブログにこの件を扱った記事があるのではないかとブログを訪れて検索してみたところ、この件は見つからなかったが、6月22日発売の『週刊朝日』掲載の「外交機密費を受け取った新聞記者たち」という佐藤氏発言についての記事があった。要するに、これは佐藤氏が外務省にいる時、新聞記者たちに機密費を流したという話のようである。以下は渡瀬氏のブログからの引用である。

「わたしは快哉を叫んだ。
佐藤氏は、語弊をおそれずにいえば、自らの「罪」を語っているのである。
つまり、自分の経験を踏まえた上で、外務官僚がどのようにしてマスコミの記者たちを手なずけて、情報操作のために働かせる状況をつくり出すのか、を語った。
内部事情を知り尽くした人の発言だけに、意味がある。
おそらくは、佐藤氏のこの国における「官僚支配」の強化に対する危機感が、そうさせているのだろう。
受け取った新聞記者が特定できるような話し方をしていないところは、大人の対応というべきか。」

ライターとして恥ずかしいとしか言いようのない内容の文章ではないだろうか。こんな調子では、佐藤氏が官房機密費をもらっていたことも、今「自らの「罪」を語っている」のだから、「立派!」ということになるのだろう。しかし、30万円をもらったことがあると話した時の佐藤氏の態度、口調には自分が悪事をなした、あるいは悪事に加担したというような忸怩としたもの、恐縮した様子、恥じ入った気配などは、微塵も感じられなかった。むしろ勝ち誇ったような気配があった。そのように私は感じたのだが、渡瀬氏の感想は如何に? また、佐藤氏は、昨年「背任・偽計業務妨害」有罪が確定した時には、『サンデー毎日』誌上で、

「率直に言いましょう。支援委員会は背任のための組織です。日本しかカネを拠出していない“でっちあげ国際機関”を作って会計検査院の検査から逃れ、外務省が単年度で使い切らなかった通常の予算をプールできるようにした。打ち出の小槌です/私的な流用さえなければ構わないというのが我々の認識でした/(しかし)カネが目的外に使われるという検察の言う背任の意味では……(支援委員会も)背任機関でしょう。たとえば要人の招待は配偶者の航空費や滞在費が出ないが、「背任機関」があればカネを持ってこられる…」

と述べて、著書を読めば佐藤氏が中心になって運用・活用していたことが明白だと思われる「支援委員会」なる組織の実態がいかに胡散くさいものであったかを自ら認めている。これについての渡瀬氏の感想は如何に? これもまた佐藤氏は「自らの「罪」を語っているのである」から、立派である、ということになるのだろうか? しかしおそらく佐藤氏は、上述した3件のすべての場合において、渡瀬氏が見せているような反応をあらかじめ見越した上で話していると思う。自らが責任を問われることは決してなく、渡瀬氏のように「快哉を叫ん」でくれる人が後を絶たないのだから、それは堪えられないはずだ。発言の牽制効果もいっそう強まることだろう。


8月20日朝、一部文章の訂正をしました。
2010.08.19 Thu l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 「死刑」の観念は731部隊において生体実験の正当化に利用された

戦時中の731部隊が中国人・ロシア人・朝鮮人などの捕虜や反日抗戦の容疑により拘束された人々に対して行なった生体・人体実験。旧日本軍の数多い犯罪のなかでもこれは最右翼に位置する冷酷、卑劣な悪業であることを否定する人はまずいないと思われるが、この731部隊に関する書籍や史料を読んだことのある人は、元隊員など731関係者の証言に「死刑」「死刑囚」という言葉が頻繁に出てくることに気づいた人も多いのではないだろうか。私も昔本などでそのことを知り、ショックを受けたものである。

731部隊内で「丸太」と呼ばれ、人体実験の生贄にされた人々は、関東軍憲兵と特務機関によって逮捕され、各地から一括特別移送扱いで部隊に送り込まれた人々だが、移送の前に正式な裁判が行なわれたという証言、形跡はまったく見つかっていない。形式の上でさえ死刑囚ではなかったのだ。それにも関わらず、この人々は死刑囚であるという意識は隊内中に共有されていた。そうであればこそ良心の痛みも感ぜず、数々の残忍極まりない生体実験にいそしむことができたのだ。「やつらは死刑囚である」「死刑は合法である」という観念が隊員たちのなけなしの良心の最後の一片を消し去る役目をつとめていたのだと思われる。以下に森村誠一の「悪魔の飽食」からこの問題に関連する記述、証言をいくつか引用する。(太字による強調はすべて引用者による)

「「われわれは、日本に占領された満州領内で、石井部隊の実験用に供する、生体の不足を感じたことはなかった……毎年600人程度が“特体扱”(特別移送の略)として送られてきた」
これは第731部隊第4部(細菌製造)の責任者であった川島少将の、のちにハバロフスクで開かれた極東軍事裁判のなかでの証言である。
 私は、“特移扱”となった「丸太」が反日抗戦に参加したロシア人、中国人、朝鮮人である旨を書いてきた。「丸太」は反日抗戦のかどで逮捕され、死刑を宣告された者であり、「どうせ殺される奴等」である。これが731部隊に、大規模な生体実験をおこなわせる合理的口実となった。(略)

生体解剖のメスは主として研究班の助手格(雇員)がふるった……各班長は当時の名だたる学者であり医師であったが、彼らが直接、手を下すのはよほど興味を持ったマルタの場合に限られ、通常はけっして自分の手を汚さず、すべて部下にやらせていた。生体解剖の罪悪感など一かけらもなかった。むしろ、どんな標本が採集できるか楽しみにする空気が、各班にあった。(略)

部隊では多数の医学者が、医学の名において健康な人間を選別し、生体実験の材料として生活消費財のように消費していった。「あいつらはどうせ死刑になる身だ。おなじ死ぬのなら人類のお役に立って死ね」という論理が、731医学者の間にまかり通っていたという。」(森村誠一著「悪魔の飽食」光文社1981年)

731部隊の定員は3000人だったそうだが、常時400~500人ほどの人員が不足していた。隊員の住居は部隊に隣接して建てられており、隊員の家族のなかには、特に妻のなかには、看護士、事務職などの軍属として働く人も多かった。下記に引用する文章を書いた人もそういう人の一人である。この女性は、731部隊に貢献することにより「お国のお役に立っている」と信じていた自分たちの存在や行為が戦後になってきびしく指弾されるようになったことに対して衝撃と割り切れなさを感じながら生きてきたようであり、これは一種の弁解の書に過ぎないのかも知れないが、ただ、この人は平時においては何も特別にひとと変わったところのあるではないごく普通の人だったと思われる。たいていの隊員たちがそうであったように。

「 煙突から煙の出ている時に、動物舎の臨時雇いの奥さんたちが、「今日もやったな」とか、「今日は『頭の黒いネズミ』を何匹焼いた」とか言い合っているのをよく耳にした。/ 煙が出ている時でも、何も言わないこともある。そんな時は、動物を焼いているのだ。どういうふうに説明して良いかわからないが、煙を見ていると、「頭の黒いネズミ」つまり「丸太」を焼いていた場合と動物を焼いていた場合とが、わかるのだ。/ 煙の色が違うわけではない。でも、なんとなくわかってしまうのだ。わたしも、そうだった。根拠があるわけでなく、直感が教えてくれる。わたしは、そんな時、煙突の煙に向かって、一人で必ず合掌した。「丸太」にはロシア人もいると聞いていたので、ハルビンの寺院でロシア人が十字を切っていたのを思い出し、胸のところで十字を切ってもみた。/ わたしたちは、「頭の黒いネズミ」とは言ったが、「丸太」とは口に出さなかった。もちろん「丸太」が人間であることは知っていた。/ 本部の奥深くにある「呂の字」の中には、「丸太」と呼ばれる捕虜や死刑囚がいっぱいいると聞いていた。この人たちはもう「人間」ではなく、「一本、二本」と数えるのだという。」(郡司陽子著「【証言】七三一石井部隊」徳間書店1982年)

この人は人体実験に従事するようなことも、それらに関する何かを目撃したこともなく、生体実験が日常と化した残酷な現場とは遠く離れた場所で働いていたようだが、それでも部隊の一角で「捕虜や死刑囚」に対して何が行なわれているのかは知っていた、正確に察してはいたのである。しかし、「捕虜や死刑囚」であるならば、殺されても仕方のないことと決めこんでいたらしいことが、「この人たちはもう「人間」ではなく、「一本、二本」と数えるのだという。」という言葉のなかに読み取れるように思われる。どのような納得の仕方をしたのか、それ以上考えを押し進めることはしなかったようである。煙突から上がる煙の具合でそれが人間を焼いていると理解すると、その場でいつも必ず合掌をしたという。そういう記述を読むと、平時の生活のなかで知人の死に際して静かに手を合わせ、冥福を祈っているかのような平穏な光景と見まがうようである。

731部隊がむごたらしい生体実験をやったことと死刑の間には、直接的因果関係は何もないだろう。しかし、国家は死刑を宣告することにより大手をふって人を殺すことができる。この観念は、すべての日本人の深層意識に深く浸透していて、731部隊の場合にも人間を生きながらに実験し殺すという冷酷さの極限と言える行為さえ、「死刑」「死刑囚」を前面に押し出すことにより、良心の咎なく生体実験による殺人を自分に許す格好の口実になりえた。隊内において「死刑」「死刑囚」という言葉が日常化していたらしいことは、そのことを証明しているとは言えるのではないだろうか。

 「悪魔の飽食」には下記の証言が書きとめられている。
「妊娠中に逮捕、連行され、獄中で子どもを産んだ女マルタの一人は、赤ん坊を助けるためにはどんな“実験”にも応じた…‥目に涙をためて、この子だけは助けてやってほしいと毎日のように看守に訴えつづける女マルタの姿は、ごく一部の隊員間に知られていた……しかし(略)七三一ではマルタは材料だから、その子もつまりラッチ(ネズミ)とおなじで飼育されているにすぎなかった。もちろん母子ともに殺されちまった……」

また、次のような逸話もある。ある画才をもった隊員は、凍傷の実験や細菌実験経過を彩色絵に描くよう強いられた。実験は記録映画に撮られていたそうだが、ただそれには色がついていなかった。そこで、彼の画才が目をつけられたのだが、彼は画材を携行し出頭せよとの上官の命令による呼び出しが重なるにつれ、「表情が険しくなり、眉根を寄せ部屋を出て行くのを、同僚たちは目撃している。」彼は終戦後、復員したのち、元隊員の会合には一度も出席したことがない。「七三一にはおぞましい記憶があるばかりで、元退院が寄り集まって語るべき思い出など、ひとかけらもない」とつぶやいたことがあるそうである。

死刑制度を扱い、死刑廃止を訴えたフランスの小説家カミュの「ギロチン」には、「殺人者のなかで、その朝歯を磨いている時自分が今日のうちに人を殺すことを予想していた者は一人もいなかった」という医師の調査記録が紹介されている。また、ドストエフスキーは「死の家の記録」のなかで、「どんな凶悪犯罪者であれ、また反省の情の微塵もない救いようのない者であれ、自分が犯罪者であること、悪事をなした者であることは知っていた。自分を良いと思っている者は一人もいなかった。」という主人公の観察を叙述している。これはドストエフスキー自身の体験によるものと思われるが、この観察には私などにも肯けるものがある。

翻って、731部隊についてはどんなことが言えるだろうか。1939年から45年までの6年間という長期にわたって、彼らがやったことは、ナチスのホロコーストに勝るとも劣らない冷酷残忍な行為の連続である。もちろん当時の国際法からいっても紛うことなき犯罪である。市井の人の個人的・衝動的・感情の爆発的犯罪とは悪の規模が全然異なる。部隊に関与した軍人・軍属は石井四郎部隊長をはじめ何千人もいると思われる。しかし731部隊関係者のうち罪に問われたのは、後にも先にもハバロフスクで裁かれた12人だけであった。

法務省は731部隊の実態も、生体実験が「死刑」を格好の口実にして遂行されつづけたことももちろん詳細に知っているはずである。その法務省が今や世界中に拡がっている死刑廃止の流れをよそに、また国連人権委員会からの度重なる勧告にも耳を貸さず、これほどまでに死刑存置に拘泥するのはなぜなのだろう。これは日本の歴史上731部隊のようなことが存在したにもかかわらず、と言うべきなのか、それとも、だからこそ、と言うべきなのだろうか。菅谷さんの事件、布川事件と冤罪事件が立て続けに表面化しても法務省にはそのことを真摯に受け止めた様子があまり見えないのが残念であり、はがゆい。あの後、蒼白になってこれまでの判決の見直しや冤罪防止対策に取り組んでほしいところだったのだが。死刑執行に対する世界でも珍しいほどの執心とは裏腹に、冤罪防止への対応策は取調べ可視化の問題を見ても分かるように、いかなる意味でも不熱心に見える。これこそ倒錯ではないだろうか。
2010.08.14 Sat l 死刑 l コメント (1) トラックバック (0) l top
  死刑制度の今後

永山事件についてもう少しつづきを書いておくと、1983年7月、最高裁は控訴審の無期判決を破棄して審理を東京高裁へ差戻した。この時の判決要旨には、

「確かに、被告人が幼少時から母の手一つで兄弟多数と共に赤貧洗うがごとき窮乏状態の下で育てられ、肉親の愛情に飢えながら成長したことは誠に同情すべきであつて、このような環境的負因が被告人の精神の健全な成長を阻害した面があることは推認できないではない。」

と記され、被告人の不幸な境遇に一定の理解と同情は示されているものの、最終的な判断は次のごとくであった。

「しかしながら、被告人同様の環境的負因を負う他の兄弟らが必ずしも被告人のような軌跡をたどることなく立派に成人していることを考え併せると、環境的負因を特に重視することには疑問がある……」(太字による強調は引用者による)

この判定には私は今も納得がいかないままである。あたえられた環境の下で社会生活を営むしか術をもたない人間にとって、劣悪な環境が最も深甚な影響をおよぼすのは、戦争や動乱の場合と同じく、一番弱い人間に対してであるだろう。この事件に多少なりとも関心のある人には周知のことと思うが、生活苦のために青森県の実家に帰った母親に彼はまだ小学校にも上がらない年齢で、他の姉弟三人とともに極寒の網走に置き去りにされるという体験をしているが、その時、彼は4歳か5歳だった。七ヶ月後に福祉事務所に発見された時、四人は餓死寸前の状態だったそうである。

その間、近所の人は誰も手を差し伸べようとはしなかった。姉は14歳、上の兄は12歳だったそうだが、海岸で腐りかけたような魚を拾ってきて飢えをしのぐというような生活をしながら、結局他人に助けを求めなかったところを見ると、その頃から兄弟の心のなかには自分たちを助けてくれる大人は世の中に存在しないという絶望的な意識がふかく浸透していたのではないだろうか。一人の兄は幼い彼にリンチのような暴力をふるっていたそうであるし、またすぐ上の兄は、法廷で証言台に立って、「あの時則夫が一緒だったかどうかもおぼえていない」「暗い記憶だから、そのことはつとめて思い出さないように、忘れるようにして生きてきた」と述べている。成人した後、彼はこのことを明確には記憶していなかったそうだが、そのように幼いために対象化したり、分析したりできない分、その時に受けた傷ははっきり記憶しているよりもさらに精神の奥ふかく刻印されることになったのではないかとも思う。

彼の兄弟姉妹は、たしかに彼のように犯罪で世の中を騒がせたことはなかっただろうが、かといって裁判所の言うように「立派に成人している」と言えるかどうか。一日24時間、一日一日を生き、そのようにして生を積み重ねていかなければならない人間に対して、犯罪さえおかさなければそれでOKと考えるわけにはいかない。人間の本性も、生活も、それぞれ大変に厄介なもので、一瞬一瞬の生は意味と内容をもち、否応ない重さで本人に迫ってくるものだろう。伝え聞くところによると、彼の兄弟のうち一般的にいう意味で健全な社会生活を営んでいると言える人はあまりいないようである。理由は分からないが、精神を病んだ人も何人かいるようである。結局他人を射殺することになるピストルを彼が手に入れたのも自殺願望のせいだったとも言われるが、事実そのとおりだったのではないだろうか。

逮捕後の彼が獄中で書いた小説作品が初期の頃から人の心に訴える力を有していたということは、彼が生来細やかな、感じやすい神経の持ち主だったことを物語っているように思う。そういう彼の心に環境がどれほど痛ましい傷をつけ、精神的な歪みをもたらしたか、想像がつくように思う。後の創作活動には長所となった同じ性質が実生活では絶望的な犯罪に突き動かす動因となる作用をしたかも知れない。これは誰にも言えることだと思うが、人間の一つの長所はそのまま短所と表裏の関係にあるように思われる。

裁判所が「被告人同様の環境的負因を負う他の兄弟らが必ずしも被告人のような軌跡をたどることなく立派に成人している」云々と述べているのは、犯罪の真因は環境よりも彼の性格、心がけにあるのだと暗示しているのではないかと思うが、これが犯罪の第一の要因だとすることははっきり疑問である。犯罪をおかす、おかさないは一応別問題として考えても、幼児の時からあのような環境下に置かれて人間がすくすく健全に育つとしたらそれこそ奇蹟に等しいことであろう。卑劣な人間に育てることは簡単である、卑劣な扱いをしてやればよい。正直な人間になってほしいのであれば正直な取り扱いをすることだ、というではないか。光市事件の元少年の場合にも言えることだが、私の知るかぎり、少年事件の場合は少し踏み込んで事件を見てみると、ほぼ例外なく本人にはどうすることもできない並々ならぬ事情が背後に控えているように思う。

たとえば、もう17、8年前のことになるが、永山少年と同じく19歳の少年によって引き起こされた市川一家殺人事件。この事件も一家四人もの人を殺害するという世の中に衝撃をあたえた驚くべき事件であった。犯罪そのものはなんとも言えず残忍なもので、一体このような犯行をしでかす少年というのはどんなに救いようのない人間だろうかと思うし、実際少年の精神は当時すさまじく荒れすさんでいたようだが、育った環境を見ると、永山少年などと共通した背景、要因がはっきり見える。このような犯行にいたるまで、長い間彼が飢え渇えるように求めていたものは、やさしい父親と母親に見守られた一家団欒の温かな生活なのだった。綿密にこの事件を取材し、被告人本人から聞き取りをして書かれたらしい詳細なドキュメンタリーの著者は必ずしも被告人に好意をもってはいないようにも思えた(というよりどうしても理解がおよばない点があると感じていると言ったほうがいいかも知れない)が、それでも本の行間からは、結果的に最悪の事態を惹起してしまった凄惨な犯罪とは裏腹の、被告人の一家団欒への憧れのつよさ、烈しさが異様なほどの濃さで立ちのぼってくるのであった。その彼も現在107名の確定死刑囚のうちの一人である。

話題は変わるが、先月28日の千葉景子法務大臣による死刑執行について、保坂展人氏は自身のブログで「「死刑廃止の信念変わらぬ」で「死刑執行」とは」という記事を書かれていた(その後も死刑関連のエントリを続々立てておられる)。保坂氏は、千葉大臣が死刑執行命令書に判を押し、なおかつ執行の立ち会いまでしたのは、刑場を「公開」するという法務省の決断との引き替えの行動だったのではないかと推測し、次のように述べている。

「 こうして、死刑の刑場がテレビなどで「公開」された時、どのような反応が起きてくるのかも、当然ながら法務省刑事局側は予想している。私は、メディア側が「死刑の舞台装置」の巧みさに感動し、また「厳粛にして必要な空間」などと称賛する報道も出てくる可能性がある。ここでのポイントは法務省記者クラブ加盟社以外の海外メディアやフリーの記者を入れることにある。

 裁判員制度では、市民が多数決で死刑判決に参加するという世界中に例のない評決の仕組みがつくられた。千葉大臣は、死刑の刑場が公開されることで、より慎重から事実に即した死刑の存廃も含めた議論を尽くしたいという意図があるのかもしれない。しかし、海外メディアやフリーを排除して行なわれる「刑場の公開」によって「鎖国ニッポン」は千葉大臣の意図とは別方向に暴走しかねない。

 それは、ずばり言って市民・国民参加の「死刑執行」という姿だ。
死刑の刑場も公開され、裁判員で市民・国民が決めた死刑の瞬間を皆が見届ける……もちろん、最初から「執行中継」などはないだろう。しかし、…(略)…今後50年は死刑判決と死刑執行に疑問を持たない社会を彼らは目指している。」

このような推測は、20年前ならば、いや10年前であっても、聞くやいなや「まさか」と一笑にふすしかないような話だったと思う。市民が自分の目で死刑執行を見たり、実感するような経験をすれば、大半の人は必ず死刑に反対し、拒否するようになると思ってきた。だから死刑を存続したい法務省が「市民・国民参加の「死刑執行」」のことなどチラとも考えるはずはないと思われたのだ。実際今でもその気持ちに変わりはないが、それでもあの頃にくらべると、保坂氏の上述の発言にいくらかの信憑性を感じるし、なぜともなく不安をもおぼえる。70年代からずっと年間数名だった死刑判決は2004年からその五倍にも増えてその状態のまま推移を重ねている。底ふかく何かが大きく変容してしまっているのではないだろうか。しかし、もしも保坂氏の危惧するような事態が万一訪れるとすれば、確定死刑囚やその他の獄中の人々の人権抑圧状況が厳しくなるだけではない。私たち一般大衆の人権も蔑ろにされるだろうし、そのなかで特に弱者の人権はますます踏みつけにされ、省みられなくなるだろうと思う。
2010.08.13 Fri l 死刑 l コメント (1) トラックバック (0) l top
   死刑の宣告と執行の間

私の場合、死刑はよくない制度だ、あってはならない刑罰だ、とはっきり自覚するようになったのは、永山則夫事件を通してであった。彼の生い立ちは、決して境遇に恵まれたとは思っていない私から見ても、比較のしようもない、桁違いに悲惨なものに違いなかった。父親はもともとは腕のいい林檎の剪定師だったそうだが、彼が物心ついた頃には賭博にのめり込んで家にはいなかった。母親は魚の行商をしていたが、沢山の子どもたちを抱えて身を粉にして働かなければならず、八人兄弟の七番目の子である彼は子どもが健全に成長するためにはどうしても必要とする愛情も、親身な世話も、親をはじめとして誰からもあたえられることがなかったようである。そのことは裁判を通して、また逮捕の2年後に出版された彼の著書「無知の涙」を通して広く社会に知られるようになった。

彼は「無知の涙」において自分にこのような酷薄な生育を強いた社会をきびしく告発した。読者のなかには彼が育った環境のあまりの凄惨さに衝撃を受けたり、同情を寄せる者もいたが、一方彼には自分が四人もの無辜の人を殺したことに対する罪の意識が欠如しているという批判をする者ももちろんいた。実をいうと、私も誰にも話したことはないが、当初は同情とともにいくらかそんな気持ちをもったこともあった。

しかし、彼が自分のなした犯罪に対して罪の意識をもっていなかったということはない。私は何かの折りに読んだのだが、彼は自分の犯罪について「ああいう悪辣な犯罪は決して許されてはならない」という趣旨のきびしい言葉をノートに書き付けていた。本の印税を遺族に受け取ってもらうことを切望したのも贖罪意識の現れだったことは間違いないだろう。

これは私の思いのままの推測に過ぎないが、1981年二審の船田三雄裁判長が一審の死刑判決を破棄して無期判決をくだしたとき、彼は生まれてはじめて自分の人格がある理解をされた、存在を正当に認められたという感覚をもったのではないだろうか。裁判官によって、というだけではなくて。というのも、ある人の本で知ったのだが、彼は娑婆にいた時の忘れられない出来事として、夏、遠い道のりを歩いて疲れはてた時、手を挙げて乗せてもらったトラックの運転手に車のなかでひどく親切にしてもらったことをあげていたのだった。たしかジュースやパンを振る舞ってもらったのではなかったかと思う。人に優しくしてもらうことは誰にとっても嬉しいことには違いないが、ただその種の好意は誰でもある程度経験することなので、普通は時間が経つと忘れてしまうものではないだろうか。彼にはその程度の心を温かくしてくれる経験もほとんどなかったようなのである。もちろん、二審の裁判中の彼の前に伴侶となる女性が出現していたという事情も大きかったに違いないが、無期判決の後に「木橋」のような静謐な作品が書かれたことと思い合わせて、そのような印象をもったりもする。

しかし1983年、最高裁は検察の上告に対して原判決破棄、差戻しを命じた。そして差戻審の東京高裁による再度の死刑判決。この時彼が法廷ではげしい抗議をしたことが伝えられたが、それは、死を覚悟していた自分に対し裁判所がいったん生きるという方向に向かわせておきながら、その同じ裁判所の都合によって再び死のほうへ、絶望の方へ一方的に追いやることの理不尽、残忍さに対する抗議だったと記憶している。

彼のこの抗議、批判は人間の誰もがもつ当然の思い、行ないであろう。この立場に置かれた人間で、彼と同じように感じない人間はおそらくどこにもいないだろうと思う。これは光市事件で一・二審の無期から一転死刑が確定した元少年についても言えることである。誰がやることであろうとこのような行為は人の心をずたずたに引き裂き、精神を根底から破壊しかねないむごい仕打ちであり、裁判所は結果的に人の生と死、人の運命をキャッチボールのごとく操り、もてあそんでいることになるのではないだろうか。ドストエフスキーの「白痴」(「死刑」に関するあまりにも有名な文章なのでこうして引用するのも気がひけるのだが、常々念頭にあるとても好きな場面なので、お許し願いたい)において、スイスからペテルブルグにやって来たムイシュキン公爵は、その日早速エパンチン家を訪ねると、そこの従僕相手にフランスのリヨンで見た死刑について次のように語りだす。


「罪人は利口そうな、胆のすわった、力のありそうな中年の男でした。レグロというのが苗字です。ところがねえ、ほんとうにするともしないともきみの勝手だが、その男、死刑台にのぼると泣き出したですよ、紙のように白い顔をして。(略)今まで泣いたことのない大人が、恐ろしさに泣き出すなんて、ぼくはそれまで夢にも思いませんでしたよ。しかし、その瞬間、当人の魂はどんなだったでしょう。きっと恐ろしい痙攣をおこしたに相違ありません。魂の侮辱です、それっきりです! 『殺すべからず』とは聖書にもちゃんと書いてあります。それだのに、人が人を殺したからって、その人まで殺すって法はない。いいや、そういうことはなりません。現にぼくはひと月前にそれを見たんだけど、今でもありありと目の前に浮かんでくる。もう五度ばかり夢に見たくらいです」

「まあ、考えてごらんなさい、たとえば拷問ってやつを。こいつを受けるものは、からだに傷をつけられたりなんかして、苦しいでしょう。けれど、それは肉体の苦しみだから、かえって心の苦しみをまぎらしてくれます。だから、死んでしまうまで、ただ傷で苦しむばかりです。ところが、いちばん強い痛みは、おそらく傷じゃありますまい。もう一時間たったら、十分たったら、三十秒したら、今すぐに魂がからだから飛び出して、もう人間ではなくなるんだということを、確実に知るその気持ちです。この確実にというのが大切な点です。ね、頭を刀のすぐ下にすえて、その刀が頭の上をするすると滑ってくるのを聞く、この四分の一秒間が何より恐ろしいのです。いや、これはぼくの空想じゃありません。じっさい、いろんな人からそういって聞かされたんです。ぼくはこの話をすっかり信じていたのだから、隠さずきみにぼくの意見をぶちまけてしまいますが、殺人の罪で人を殺すのは、当の犯罪に此べて釣合いのとれないほどの刑罰です。宣告を読み上げて人を殺すのは、強盗の人殺しなどとは比較にならぬほど恐ろしいことです。夜、森の中かどこかで強盗に斬り殺される人は、かならず最後の瞬間まで救いの望みをもっています。そういうためしがよくあるんですよ。もうのどを断ち切られていながら、当人はまだ希望をいだいて、逃げ走るか助けを呼ぶかします。この最後の希望があれば十層倍も気安く死ねるものを、そいつを確実に奪ってしまうのじゃありませんか。宣告を読み上げる、すると、金輪際のがれっこはないと思う、そこに恐ろしい苦痛があるんです。これ以上つよい苦痛は世界にありません。戦場に兵士をひっぱって来て、大砲のまん前に立たして、それからそいつらをねらって撃ってごらんなさい。兵士はいつまでも一縷の希望をつないでいます。ところが、この兵士に対して死刑の宣告を確実に読み上げたらどうです。半狂乱になって泣き出しますよ。人間の本性は発狂せずにそれを堪え忍ぶことができるなんて、そんなことをいったのはいったいだれでしょう? なんだってそんな見苦しい、不必要な、そして不正な嘲罵を発するのでしょう?
 ことによったら、宣告を読み上げられて、さんざん苦しまされたあげく『さあ、出て行け、もう許してやる』といわれた人があるかもしれない。こういう人にきいたら、話して聞かしてくれるでしょうよ。この苦しみ、この恐ろしさについては、キリストもいっていられます。いや、人間をそんなふうに扱うという法はない!
 従僕はこれらのことを、公爵と同じように自分でこそいうことはできなかったが、しかし全部でないまでも、だいたいの要点が腹に入ったらしいのは、その感じ入ったような顔つきにも現われていた。」(「白痴」米川正夫訳)(太文字の強調は引用者による)

ムイシュキン公爵は死刑の宣告について「人間の本性は発狂せずにそれを堪え忍ぶこと」はできない、と述べている。私はこのようなムイシュキン公爵の洞察の深さ、高さ、鋭さを通してその人格にかぎりない雄大さを感じるのだが、作者のドストエフスキーは「ペトラシェフスキー事件」により、刑場で死刑を宣告され、その数分後に皇帝の恩赦という理由で死刑を免れた経験をもつ人である。夏目漱石は修善寺の大患の後、「思い出す事など」において、この時のドストエフスキーの体験について細かく想像をめぐらしているが、漱石によるとドストエフスキーの仲間の一人は実際その場で発狂してしまったそうである。

「 彼の心は生から死に行き、死からまた生に戻って、一時間と経たぬうちに三たび鋭どい曲折を描いた。そうしてその三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。その変化だけでも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然これから五分のうちに死ななければならないと云う時、すでに死ぬときまってから、なお余る五分の命を提げて、まさに来るべき死を迎えながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、さらに突き当ると思った死が、たちまちとんぼ返りを打って、新たに生と名づけられる時、――余のごとき神経質ではこの三象面の一つにすら堪え得まいと思う。現にドストイェフスキーと運命を同じくした同囚の一人は、これがためにその場で気が狂ってしまった。」(「思い出す事など」)

ムイシュキン公爵が、人間の本性は発狂せずにそれを堪え忍ぶことはできないと述べているのはおそらく正しいことだろう。ドストエフスキーや戦場の兵士の場合と法廷で宣告を受ける被告人の場合とでは条件が異なるので一緒にして論じることはできないという指摘は当然あるだろうが、もしかすると究極的・本質的にはなんら違いはないのではないだろうか。

もし立法者が刑罰の一つとして、腕を一本、あるいは、足を一本切り落とすという刑を新たに設けると言い出したら、その場合人はどういう反応を示すだろうか。多分、多くの人はそんな残酷な刑は止めたほうがいい、止めるべきだと言うのではないだろうか。それはもっともなことであり、そういう刑罰はあってはならないことはもちろんだが、けれども、このような刑罰よりも死刑ははるかに残酷だろう。肉体の一部分どころではない、肉体の全部、命を奪って無にしてしまおうというのだから。ドストエフスキーの仲間の一人はかいくぐった運命の苛烈さのために刑場で気が狂ったというが、彼が宣告を受けていた刑がもし死刑ではなく腕や足の切断だったとしたらどうだっただろう。発狂することはなかったのではないだろうか。永山則夫氏についても、真相はどうなのか私には知りようがないが、死刑確定後の彼が精神に変調をきたしているという話を伝え聞くこともあった。
2010.08.10 Tue l 死刑 l コメント (1) トラックバック (0) l top
前回のエントリ「佐高信氏の奇妙な批判 「加藤周一への偏見」」を書くにあたって、『週刊金曜日』のウェブサイトで佐高信氏の文章を他にいくつか閲読したので、これについての感想もこの際すこし書いておきたい。

「平沼騏一郎研究の必要性」(2010/4/2)という記事において佐高氏は次のように書いている。

「 西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶすべく、山県有朋や桂太郎らの藩閥政治家は「大逆事件」をでっちあげる。その尖兵となったのが平沼騏一郎だった。」(下線による強調は引用者。以下同じ)

これを読んで私は「えっ!」と驚いてしまった。幸徳秋水をはじめ11名が死刑にされた1910(明治43)年の大逆事件がでっちあげであることは、事件当時から多くの人にとってすでに自明のことであった。石川啄木の日記、徳富蘆花の第一高等學校における講演「謀叛論」、永井荷風の作品「花火」などによりそのことは明確に知ることができる。でっちあげの首謀者の一人が平沼騏一郎であること、その背後には山県有朋の存在があるだろうということもずっとささやかれつづけてきたし、私なども現在そのように理解している。

しかし、山県有朋や桂太郎が事件に対しどの段階から、どのような関与の仕方をしたのかを綿密に調べあげた正確な史料を私はこれまで見たことはないし、そのようなものが存在すると聞いたこともない。まして、彼らが「西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶすべく」事件をでっちあげたという話は、この佐高氏の文章ではじめて知らされることである。いったいいつそんな重大な事実が明らかになったのだろうか? 

山県有朋は、岡義武著「山県有朋 -明治日本の象徴-」(岩波書店)(この本は、事実関係の記述については確実にそれもいく通りもの裏をとっているようなので、その点信頼して引用してよいと思われる)によると、日露戦争の後、山県の子分格の桂太郎に代わって西園寺公望が政権を担ったとき、山県は西園寺内閣の社会主義者に対する取締りの弱さ、不徹底に非常な不服をもち、天皇に上奏までしたそうである。変わりゆく時代の動きを感じ取り、権力者故の恐怖心に急き立てられていたのだろう。しかし大逆事件当時の首相は桂太郎だったのだから、山県(と桂)が「西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶす」べく、事件をでっちあげなければならない必要は特にないだろうし、上述の岡氏の本によっても、大逆事件の発生を知った山県は事実深刻な衝撃を受けたようであり、彼が事件に関与したのは事件発生の後だったことは間違いないだろう。それから山県と桂がでっちあげに動いたとしても、そのことが「西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶす」という思惑をもっていたという話は私にはまったく不可解に思える。山県はこのような機会に西園寺や原をおとしいれようとするような、場合によってはそれこそ自分の身に危険が返って来かねない拙劣で愚かな策略は間違ってもとらない人物であったように思われるのだ。佐高氏はこのような新説を述べる場合には、同時に必ずその根拠を示さなければならなかった。

ちなみに、森鴎外の「かのやうに」は、大逆事件当時、山県から危険思想対策を訊ねられてその応答として書かれた作品だと言われているが、山県と鴎外との親密な関係を考えると、これはおそらく事実だろうと思われる。当時の山県の頭のなかは社会主義対策でいっぱい、西園寺や原をつぶすなどという考えは露ほどもなかっただろうと思えるのだが、いったい佐高氏のこの発言はどういうことなのだろう。そもそも原敬は山県の社会主義者対策が性急過ぎるとしてその手法を問題視はしているが、思想の方向性は山県と異なっているわけではないだろう。上述の『山県有朋』には、大正時代に入ってからの山県と原の関係が次のように叙述されている。

「(山県は)思想問題については原と多分に共鳴するところがあった。山県は、当時高橋義雄に「近頃帝国大学博士連の中に国体を弁えざる愚物の輩出する」のは「痛嘆」に堪えないといったが、原に対しても学者国を誤るという論をしばしば述べた。そして、原もまたその日記の中において、前京大教授勝本勘三郎が原にむかって、相続税を高率にして財産の平均を図るべきであるという「共産主義類似」の主張をなしたと記し、「毎々学者らしき連中如此奇激の言をなせり。山県の言分には非らざれども、学者国を誤るの虞なきに非ざるべし。痛嘆の事なり」と述べている。そして、その後に原はいわゆる思想対策のむずかしいことを山県に述べ、「何か気付あらば内示を希望」し、山県は自分としても苦心しているといい、よい策のないことを原とともに嘆息し合ったのであった。そして、大正10年7月に原は山県に対し、「過激主義宣伝等に対する法律の不備」を述べて取締法規を新たに制定する必要を述べたが、山県はこれに同感の意を表明した。

岡氏のこの本によると、思想問題だけではなく、労働問題についても労働者の賃銀引上げ要求に対して、原は山県とともに現状を歎き合っている。このような原の言動を見ると、佐高氏が、大逆事件の折りに山県が「西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶすべく」云々と述べている根拠がどこにあるのか不思議である。これが、どうにかして原敬を山県有朋や桂太郎の策略の犠牲者のごとく描きたい佐高氏の妄想、でっちあげでなければ幸いである。さて、佐高氏は記事の締めくくりにこう述べている。

「 原敬の限界を云々するよりも、明白な敵の平沼を私は「研究」したい。味方と敵をまちがえないためにもである。」

『週刊金曜日』関係者は編集長の北村肇氏もそのようだが、佐高氏も「敵・味方論」が本当にお好きのようである。それではお尋ねしたいのだが、読者にイスラエル製品のボイコットを呼びかける『週刊金曜日』は佐藤優氏を重用してやまない。その佐藤氏は、下記のような恐るべき考えを述べている。

「アラブを贔屓筋にしている人たちは、イスラエルにやられても文句は言えないですよという話です。たとえばアルカイダ、ハマス、ヒズボラのテロリストを支援するような運動をやった場合、これはイスラエルにとって国家存亡の問題ですから、その人は消されても文句は言えない。それくらいの覚悟が求められる贔屓筋の話だと思います。」(『インテリジェンス武器なき戦争』幻冬舎2006年)

こういう人物は「人権派」を自称する佐高氏にとって「味方」なのか、「敵」なのか。「敵・味方論」を好んで口にするのなら、まず自分たちの雑誌におけるこういう重大な矛盾(と私には思われる)をこそクリアーにしてほしいものである。佐高氏は別の記事で佐藤氏を「危険な思想家」とも述べているが、佐高氏の頭のなかで「敵・味方論」と「危険な思想家」とはどのような連関をもち、どのような判別がなされているのかも表明してほしいところである。

また、原敬の限界を云々することと、敵であるという平沼を研究することは何ら矛盾しないはずである。佐高氏は敵でさえなければ、批判的研究も議論も必要ないと述べているかのようであるが、何とも一本調子の狭隘な発想ではないだろうか。過去、日本でも論壇や文壇で多くの論争が行なわれてきた。私は文学好きなので(と自分では思っている)、つい夏目漱石や森鴎外や斎藤茂吉、中野重治(彼は茂吉の歌壇における論争に年少の頃から生きる励ましを得てきたと述べている)、大岡昇平などの文学者ばかりを思い出すのだが、こういう論争は文学・読書界を活性化させてきたし、今読んでもその多くは大変刺激的なものであるが、これらが格別敵同士の間でなされたわけでないのはもちろんである。「明白な敵の平沼を私は「研究」したい。味方と敵をまちがえないためにもである。」という発言もまた、佐藤優氏を重用する金曜日に対する読者の疑問や批判をかわすための方便でなければ幸いである。

ところで、この記事「平沼騏一郎研究の必要性」によると佐高氏は今年になって『平民宰相 原敬伝説』(角川学芸出版)という本を出版されたそうである。もしかすると、この本に山県有朋が西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶそうとして、「大逆事件」をでっちあげたという新説についての何らかの情報が記されているかも知れないと思って、目を通してみた。しかしそういうものは、特に何もなさそうであり、むしろ何とも緊張感の欠けた生ぬるい本だなという印象を拭えなかった。たとえば原は、大逆事件についてその日記に次のように書いていた。

「今回の者共は大概肺患其他病に罹り居りて言はばヒステリイ患者同様故是れは如何ともする能はざる者と思ふ、而して是れは取締のみにては往かぬ事にて何れが社会党にて何れが無政府党なるやを識別する事は到底巡査輩の能くする所にあらざれば専門に此事のみ担当する者を定めて将来は取締るはずなりと云えり、依て余は此等に対する処置は単に鎮圧政略のみにて成功すべきものに非らず、故に公然社会政策を唱ふる如き者は之を其儘に置き無政府主義と社会主義とを公々然区別する事必要なりと云ひたるも彼は果して此趣旨を了解せしや否や不明なり」

こういう原の姿勢について、佐高氏は次のように評している。

「 末尾の「彼」とは山県有朋の子分の桂太郎である。その桂を訪ねて原は、社会主義者やアナキストはたいてい肺病その他を患っているヒステリーだから、単に鎮圧するだけではダメだ、と説いた。もちろん、巡査にはその二つの区別もつかないから、専門にこれを担当する者を決めて取り締まらなければならないとも進言したのだが、桂にそれがわかったかは不明だというわけである。
 原はここで、主義者たちの病と言っている。しかし、それは社会の方の病とも言えるのではないか。その区別が原にはついていたのか、疑問なしとしない。
 幸徳秋水らに親近感以上のものを寄せた石川啄木は、大逆事件がでっちあげられる直前の友への手紙にこう書いているが、原はそれをどう読むのだろうか。
「現在の日本には、恰も昨日迄の私の如く、何らの深き反省なしに日本国といふものに対して反感を抱いてゐる人があります、私はそれも止むを得ぬ現象と思ふけれども、然し悲しまずにはゐられません。(中略)
 現在の日本には不満足だらけです。然し私も日本人です、そして私自身も現在不満足だらけです、乃ち私は、自分及び自分の生活といふものを改善すると同時に、日本人及び日本人の生活を改善する事に努力すべきではありますまいか」
 愛したいけど愛せないと言っている啄木のような声は原の耳には届いていたのか?」(『平民宰相 原敬伝説』

私には、佐高氏の文章は、大逆事件についても、石川啄木の受け止め方についても、まったくの人ごとであるかのような筆致に感じられる。「原はここで、主義者たちの病と言っている。しかし、それは社会の方の病とも言えるのではないか。 その区別が原にはついていたのか、疑問なしとしない。」とか、「愛したいけど愛せないと言っている啄木のような声は原の耳には届いていたのか?」などの低調な物言いには読んでいて気恥ずかしさをおぼえた。もっとも、佐藤優氏について、「まさに博覧強記で、あらゆることに通じている佐藤」(「佐藤優という思想」2009/5/29)などという評価を述べる人のことだから、仕方がないのかも知れないが、それにしても、あの緊迫感にあふれた大逆事件に関する石川啄木の文章も佐高氏の引用の仕方、前後の文脈の平板さによって印象が異なって見えた。

これは佐高氏の文章と直接の関係はないことだが、この機会に、『金曜日』について前々から感じていることを言っておきたい。数年前から『金曜日』は佐藤優氏が過去の偉い思想家としゃべり合うというような企画を実践しているが、いつだったか佐藤氏がマルクスと話し合っている記事を見た。このマルクスというのが、実に日本の新聞や雑誌の論説と同レベルの内容の話をしていることに呆然としたものである。あるブログのコメント欄で「この人には畏れ多いという感情はないのでしょうか。」という書き込みを見たが、たいていの読者はそのように感じたのではないだろうか。しかしこの連載企画は『金曜日』によると好評だということだそうである。いったい誰が賞賛したり、満足したりしているのだろうか。

さて本の最後のほうになると、中坊公平氏や田原総一朗氏などの悪口が出てくるが、(田原氏はともかくとして) 中坊公平氏を佐高氏は一時期しきりに称揚し、たしか共著まで出していたと記憶するのだが、そういう自分の行動に対する総括なり反省なりを佐高氏はどこかで明らかにしているのだろうか? 私の印象では、それまでしきりに褒めそやしていた中坊氏をスキャンダルの浮上とともになしくずし的に非難し、悪口を述べるようになったように思うのだが…。

そのあたりにも疑問を感じたが、さらに不可解に感じたのは、本の最後の部分である。佐高氏は、

「もちろん、暗殺などあってはならないことだが、暗殺の対象にもならないような政治家ばかりであることに寂寥感を禁じ得ない。」

と述べて巻を終えている。日本でも世界でも、歴史上、成功、不成功を問わず、暗殺の対象とされてきたのは必ずしも国政に携わる政治家ばかりではない。民間の社会主義者や共産主義者、学者や思想家、時には文学者でさえもその対象とされてきた。1972年車に仕掛けられた爆弾で暗殺されたパレスチナ人作家であるガッサン・カナファーニもそうである。それにまた暗殺テロは強烈な存在だけが対象になるわけではない。かつて政治における死の本質は「やつは敵である。敵を殺せ。」という錯誤の論理だと述べた作家がいるが、上記の佐高氏の発言ははなはだ無思慮、軽率に過ぎるように感じられ、その了見を疑わしく思った。
2010.08.08 Sun l 週刊金曜日 l コメント (0) トラックバック (0) l top
   
私は『週刊金曜日』の購読者でもなく、佐高信氏のファンでもないので、佐高氏の文章に触れるのは偶然の機会だけで、今回『金曜日』で「加藤周一への偏見」という記事を読んだのもたまたまのことだった。が、一読してから2、3日たつのにいまも妙に気持ちにひっかかりがあるので、エントリをたてて感想を書くことにした。佐高氏はこう述べている。

「極端に言えば、加藤には偏見がないから好きになれない、ということになる。偏見などないほうがいいに決まっているではないか、と直ちに反論されるかもしれない。しかし、私は偏見にこだわりたい。いわゆる偏見を打ち砕くのも別の偏見だと思うし、第一、偏っていない見方などあるか、と開き直ることもできる。最近、二八年前に私がフリーになった時の「独立記念文集」に山田太一が書いてくれたものを再読して、なおさら、そう思った。山田は当時三七歳だった私を「偏見も適当にあって」、それがライターとしての味つけになるだろうといった意味の励ましをしている。」

う~ん…。何かを述べているようでいて、実は聞くべき中身は何もないように思う。加藤周一について「偏見がないから好きになれない」と言うのだが、佐高氏の頭のなかでこの「偏見」はどんな意味、どんなイメージをもっているのかが一言も語られていない。またその後すぐに「偏っていない見方などあるか」とも述べているが、それならなぜ「加藤には偏見がない」という言葉が出てくるのだろう。加藤周一の「知性のあり方にどこか「目黒のさんま」的なものを感じる」という発言にしても、これも何も説明していないどころか、むしろ見当違いなことを述べているように感じる。加藤周一は、欧州やアジア各国の大学から呼ばれては出かけて行って(本人いわく、小さなトランクを一つだけもって行くそうだ。)、長い外国暮らしを経験している。文章を読むと、どこに住んでいても、それぞれの社会において見るべきこと、感じとるべきことを十分に見、感じとっていることが察せられる(注1)。紀行文を読むと、あちこちの街を自由に歩き回り、そのせいか一般大衆との接触もいたってスムーズ、時にはかなり密だったように見える。もしかすると、このような視野の広さ、自由人の感じが偏見のなさに繋がり、よって「好きになれない」とでも?

「偏見を打ち砕くのも別の偏見だと思う」という見解についても同種の指摘ができると思う。どのような偏見が、別のどのような偏見を打ち砕くことが可能なのか、さっぱり分からない。一般には聞かれないこういう特異な意見を表明する場合には、その事例を具体的に示すのが書き手の責任ではないだろうか。こんな調子では「偏見」という言葉を弄んでいるだけで、実は佐高氏は具体的例を示そうにも示すべき何ものももたずに「偏見」という言葉を振り回しているだけなのではないかと疑いたくなる。

上の文章のなかで具体的に書かれているのは、昔、自分が山田太一氏から「「偏見も適当にあって」、それがライターとしての味つけになるだろうといった意味の励ましを」もらったということだけである。「ふ~ん。褒めてもらってよかったね」としか言いようのない内輪の話だが、上の文を読んで読者の頭に具体的に残るのはこれだけのようにも思う。それから、かつて江藤淳と対談した時に江藤が話してくれたという加藤周一に関する別におもしろくもない逸話を述べて、

「加藤と同じ陣営に属する私への冷やかしのタネにもなるようなことを、加藤はどうしてしてしまうのか。」

などとも書いているが、これも何を言いたいのかとっさには理解しにくい奇妙な文章である。「同じ陣営」といっても、佐高氏が加藤周一と同じ陣営に属しているとはもう誰も考えないと思うのだが(注2)。ひょっとしてこれは佐高氏の世間に対するそれとないアピール、自己主張なのだろうか。次の記述も意味不明だ。

「加藤への偏見を消せないまま、私は竹内の指摘を読み返す。

「秀才たちが何を言うか、私だってこの年まで生きていれば大方の見当はつく。たぶんそれは全部正しいにちがいないのだ。けれども正しいことが歴史を動かしたという経験は身にしみて私には一度もないのをいかんせんやだ」」

竹内好が「秀才たちが何を言うか」と言ったからといって、これが加藤周一とどう結びつくのだろう。竹内は「秀才」として加藤周一の名前を出して批判しているというのだろうか? もしそうならば、どのように描いているのかを示すべきだ。またもし加藤周一の名前が出ていないのに、佐高氏が勝手にこのような書き方をしているのなら、それは汚い手である。第一、竹内好自身、東大文学部支那文学科出であり、秀才であることに変わりはないのだから、これだけでは「秀才たちが何を言うか」という言葉自体、わけが分からない。この後、加藤周一が竹内好を論評した「竹内好の批評装置」という文章を引用するつもりだが、そこで加藤周一は、竹内好が「東京帝国大学の秀才たちがつくりあげた官僚国家」に反撥をもっていた旨を書いているが、竹内好が述べているという「秀才たち」というのは、竹内好の同級の官僚候補生たちのことではないのだろうか? というのも、彼は『教養主義について』(1949年)という文章で、加藤周一をひどく称讃しているのだ。

   
「加藤周一を、私は、フランス文学研究者のなかで、というより、一般外国文学の研究者のなかで、いちばん尊敬している。私が尊敬するのは、(略)方法の新しさ、というよりも、その新しさを支えている自覚的態度、ということであって、その点で、私は教えられるところがある / かれは外国文学を研究するには、自分がそのものになるところまで行かねばならぬと考えており、しかも、それを、日本文学の伝統だといいきっているところである。こういう自覚的態度は、私の考えでは、日本の歴史にかつてなかった。」

このように竹内好自ら「いちばん尊敬している」「日本の歴史にかつてなかった」とまで言明している加藤周一に対して、一転「秀才たちが何を言うか」というような罵声を放つことがあるのだろうか。疑問を感じるのだが、ただ先程述べたように、加藤周一は『竹内好の批評装置』(『展望』1966年11月号)というかなり長い批評文を書いている。実はこれは竹内好に対する大変きびしい指摘をふくむものである。その一部を下記に引用するが、加藤周一はまず

「竹内好は東京帝国大学の秀才たちがつくりあげた官僚国家への反撥から、魯迅のなかに自己を見出そうとしたのだ。とにかくここに、私が彼の原経験とよぶものがある。彼の文章で、直接間接に、それと係りのないものは、一つもない。」

と述べ、竹内好の原体験が魯迅との出会いであり、この出会いが竹内好の人生を決定づけるいかに重大な出来事であったかについて十分な理解を示しているわけだが、ただし竹内好はこの原体験に普遍的な契機をもちえていないと言い切っている。

「私は先に竹内の原経験がそれ自身のなかに普遍的な契機を含まぬものである、といった。その原経験を通じては、西洋文明の帝国主義的な面と普遍的な面とをひきはがすことができない。別のことばでいえば、西洋文明のなかの何が普遍的な要素であるかを、その原経験から出発して、区別することはできない。しかしそれを区別しなければ、竹内のアジアは、民主主義の原理そのものの普遍性をも、帝国主義の特殊性のなかに解消し、一括して拒否せざるをえなくなるだろう。その結果、偶然にではなく、全く必然的に、たとえば英米対日本の戦争を、帝国主義相互の戦争であり、同時に民主主義対反民主主義の戦争であると考えることが、複雑な現実への接近ではなく、複雑な現実についての考えの「混乱」へみちびくことになるのである。
(略)
特殊な歴史的条件のもとにない文明はない。しかし普遍的なものに向わぬ文明もない。特殊性の立場に終始するならば、それは自己主張にすぎず、自己主張はそれだけでは文明ではない(だからたとえばナチの人種優越論と日本帝国主義の日本神国論も、ドイツ人民と日本人民を含めて人間の尊厳のために、叩きつぶさなければならないものであった。たとえそれが帝国主義間の争いを通じてのみ可能であったとしても、それが叩きつぶされるべきものであった、ということに変りはないのである)。
(略)
竹内の説は、議論の前半、現状の批判のところで申し分なく鋭い(それが竹内好の批評装置と私のよぶものである)。議論の後半、そこでどうすればよいかというところでは、甘いと私は思う。それが私に甘く聞える理由は、二重である。その一つは分析の道具としての概念そのものに係り、もう一つは事実判断の内容に係る。そしてその二つは、むろん密接にからんでいる。」

と述べたあと、竹内好が用いる概念―たとえば、「エリート」、「民衆」について-の曖昧さ、および事実関係―たとえば、「日本の独立」ということ-についての認識不足などを徹底して批判している。

「竹内の原経験から出発した批評装置の提出する問題をとくために、われわれが必要としているのは、そこに客体化された状況に綿密な分析を加えることだ、といいたい。科学的な分析と思考は、目的を選択する究極的な根拠を、あたえるものではない。しかし目的を実現するための方法を洗煉するために、欠くことができないのである。」

加藤周一は竹内好の批評装置には「科学的な分析と思考」が欠如しているという判断をしているわけである。この評価は、「近代の超克」(1959年)や「日本とアジア」(1961年)などの論文に見られる竹内好の主張を批判したものと見て間違いないと思われるが、適切な批判といえるのではないだろうか。

   
この「竹内好の批評装置」は上述したように筑摩書房の『展望』1966年11月号に掲載されたものであるが、ちょっとおもしろいのは、同じ66年の『展望』6月号に、竹内好の「学者の責任について」という文章が掲載されていることである。この文章には「遠山茂樹氏に答える」という副題も付いている。竹内好の書いている内容から判断するに、竹内はその少し前に、遠山茂樹を始めとした何人かの歴史学者から樽井藤吉や葦津珍彦や「侵略と連隊の問題」に関して批判を受けたらしい。竹下好によると、自分について遠山茂樹は次のように述べたとのことである。まず、

「竹内好氏は、日本がアジアの中で唯一の帝国主義国であったし、戦後も帝国主義復活の途を歩んでいること、そのことが日本人にとって、いかに深刻な思想の問題をもたらしたかということ、そして日本人がその国民であることの主体的な責任感が弱いこと、したがって、そうした情況から脱却する可能性を失っていることを一貫して論じつづけられた。」

と従来の竹内好の仕事について敬意の感じられる判断を表した上で、

「竹内氏の問題意識を私はそう理解するのだが、その間題意識からする時、アジア主義を『アジア諸国の連帯(侵略を手段とすると否とを問わず)の指向』と定義づけることの現代的意義がどこにあるか疑問をもたざるをえない。

竹内氏は、アジア主義者たちの『主観』や『意図』や『目的』を専ら紹介する。それを引き出す根拠とする史料は、主として、後年の弁明の書か、後継者の筆になる頒徳的伝記である。こうした史料を無批判に採用するのでは、当年の『主観』『意図』『目的』がはたしてそうであったかどうかを論証することはできない……」 

遠山茂樹のこの批判に対して、竹内好は

「私の感じでいうと、歴史家は文献の読み方が甘い。文字の表面だけをかすっている。眼光紙背に徹するまでは望まぬが、せめて紙中にはとどいてもらいたい。そうでないと「主観」や「意図」や「目的」どころか、歴史学の眼目である「事実」の確定さえできぬではないか。歴史家の間では、史料の価値順位が他律的に決められているらしいが、これこそ私から見て「史料を無批判に採用する」態度なのだ。黒竜会文書を疑いの眼で見るのはよい。しかしそれならば、政府の公文書は、もっと大きく活眼を開いて読むべきだ。」

などとかなり執拗に歴史学者の事実を見抜く目の甘さ、怠慢を攻撃している。あくまでも、アジア主義者たちの侵略の意志のなかには連帯意識が存在したと言いたいのだろうが、それならば、歴史学者に「文献の読み方が甘い」と言う前に、歴史学者たちをも納得させるだけのアジア主義者たちの「連帯」を示す具体的な史料を提出すればよかったのではないか。遠山茂樹に「(竹内好の)根拠とする史料は、主として、後年の弁明の書か、後継者の筆になる頒徳的伝記である」と批判されるような史料では仕方がないのではないだろうか。

そう思ってしまうのは、私は遠山茂樹の著書は「明治維新」しか読んでいないのだが、その読後感は竹内好のどの文章よりも「文献の読みが緻密」である印象は圧倒的なのである。『展望』における加藤周一の竹内批判は「竹内対歴史学者」の論争と関係があったのか、それとも偶然なのかは分からないが、竹内好の頭上にブーメランとなって刺さったのではないだろうか。

加藤周一のこういう文章を読むと、佐高氏の「加藤には偏見がないから好きになれない」とか、「加藤への偏見を消せないまま、私は竹内の指摘を読み返す」などはいかにも頓珍漢で、見過ごしにくかった。

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

(注1)加藤周一の発言を見ると、細やかな神経でものごとの核心を掴んでいることを感じさせられることが多い。たとえば、次の各発言。

○「インドネシアでも、タイでも、マレーシアでも同じだと思いますが、ただちがいもあります。日本の経済的な力は、中国を支配してはいないけれど、東南アジアではかなり強い。戦争の過去から来る反感と現在の日本との経済的結びつきから受ける利益とが競合している。だから、東南アジアの国々の企業の社長や政府の役人に会えば、反日的なことをいう人は少いでしょう。しかしタイでさえ、大学に行って学生と話せば、日本批判は激しい。おそらくマレーシアやインドネシアではさらに猛烈でしょう。」(『過去への反感と現在の経済的結びつき』)

○「韓国・中国・タイ・マレーシア・シンガポール等の政府は特に日本に反対してはいない。失言に我慢がならないときは抗議するけれども、それは極端な場合で、日本の経済力に依存しようとするところもあって、曖昧にされるのでしょうが、みなさんのうちどなたかが、アジアのどこかの国で誰か一般人をよく知っていたら、対日感情が良好などとはとてもいえないでしょう。」(『戦後50年の意味するもの)

○「侵略戦争であるかないかを問題にしているのは、日本だけです。必ずしも被害国じゃなくても、どっちかなどということを考えている国はほかにはないでしょう。もちろん韓国や中国やマレーシアでそんなことは問題にならない。日本人に殺されたわけじゃないけど、パリでも「あれは侵略戦争であったかなかったか」ということは誰も問題にしていないでしょう。そういう問題を考えること自体が、鎖国心理のあらわれで、日本の特殊事情です。天下の常識に従えば、侵略戦争だ。」(『同上』)

○「日本政府は迷惑だから(沖縄の)基地を縮小したいと主張することもできない。その大きな理由は、日本がアジアで孤立しているからでしょう。アジアの国々もそれを望まないということになる。」(『同上』)


(注2)もう1年以上も前の記事になるが、ブログ「ヘナチョコ革命」には下記の文章が載っている。

「 「週刊金曜日」がやったことといえば、札付きのイスラエル支持者の佐藤優にはイスラエル支持の記事は書かせないが、それでも彼に紙面を提供して他の話題を書かせ、彼に金を払い、結果的に彼を支援して、「週刊金曜日」以外でなら、イスラエル支持の記事を書こうが演説をしようがそれは構わないという立場だ。/ この「週刊金曜日」の行為は、イスラエル支援企業の製品を積極的に買う行為あるいは宣伝する行為と、どこがどう違うのだろうか?/ 誰か、この疑問に答えて欲しい・・・」(「週刊金曜日」編集部とのやりとり~① 2009/3/19(木) )

ブログ主の檜原氏の「誰か、この疑問に答えて欲しい・・・」という問いに対し、金曜日の行為を擁護できる答は、世界中を探し回っても見つからないだろう。これはプラトンの時代のはるか以前からそうなのだ。ただし詭弁というものの存在をのぞかなければならないが。
2010.08.03 Tue l 週刊金曜日 l コメント (0) トラックバック (0) l top
  冤 罪
死刑制度の是非について考えたり議論したりする場合、その核心にあるのは、必ずしも冤罪の可能性への危惧というわけではないと思う。死刑問題の核心は、人の心を寒からしめるような犯罪を実際に引き起こした人間への刑罰としての死刑が法として社会に存在してもよいか否か、ある人が人を殺したからといってその人を殺すということが許されるか否かということではないかと思われる。けれども、現実には司法における冤罪の可能性ということは常に問題とされてきたし、今もされている。実際、死刑を否定する人のなかには、理由として、一点、冤罪の可能性への懸念を挙げる人は実に多い。そしてこれはしごくもっともだと肯けることである。過去に4人もの確定死刑囚が冤罪を認められて釈放になった事実がある。その他、冤罪の疑いを言われながら、自らも冤罪を訴えながら確定死刑囚として獄中に囚われている人もいるし、それどころか冤罪の身で死刑執行されたのではないかと疑われている人も相当数存在する。近いところでは、2008年10月に死刑執行された飯塚事件の久間三千年さんがそうである。久間さんについては、時事通信によると、執行1年後の2009年、当時の中井洽国家公安委員長でさえ、「再審で事件が見直された可能性もあったとの考えを示し、執行を「残念」と述べ」ている。国家公安委員長の立場にある人のこういう発言は、久間さんの死刑執行は冤罪によるものであった、少なくともその可能性が限りなく高いものであったことを意味していると受けとって差し支えないだろう。

法務省や法務大臣は、執行対象者の選択について、その都度、資料・書類をよく調べて有実であることを確認して選んだというが、それでは久間さんの場合はどうだったのだろう。これでは「事前によく調査した」という法務省や法相の常套句がまったく当てにならないことを自ら証明していることになるだろう。法務省が人命を尊重するという当たり前の人権感覚と職責に対する深い自覚をもっていたならば、久間さんの問題が浮上してきた時点ですべての死刑執行を停止していただろう。そういう意味でも今回の千葉法相の命による執行は重大だと思うのだが、久間さんの場合、そもそも、執行手続きの段階で法務省、法相ともに、事件の鑑定試料がすべて使い切られていたことに不審感をもたなかったのだろうか。あの時どのような理由で久間さんは執行対象に選ばれたのだろう。詳細を知りたいと思う。

死刑の存続を主張する人も冤罪の可能性については当然考慮せざるをえないわけで、そういう人のなかには、冤罪の可能性がまったくない人間、犯行を行なったことが100%確実である人の場合は法にのっとって粛々と死刑執行をつづけるべきだと言う人がいる。しかし死刑判決も、執行前の資料調べも、人間のやることである。久間さんの例を見れば分かるように、その時点で多くの人間、それも専門家が犯行はこの人物が行なったと見て間違いはないと確信していても、後々どんな不意打ちが待っているか知れない。それほど人間は例外なく不断に過ちをおかす生きものなのだ。大事にあたって相対的に過ちをおかす危険性の少ない人は、常にそのことを自覚し、肝に銘じている人のなかにこそいるだろうと思う。ソクラテスの言う「無知の知」と同次元のことだろうと思う。

風間博子さんは「埼玉愛犬家殺人事件」で元夫と共謀して殺人を行なった疑いで1995年に逮捕され、昨年死刑が確定した人である。私は風間さんに関する裁判資料をそのすべてではないが、ある程度は読んでいる。一審から最高裁にかけて法廷に提出された検察側、弁護側それぞれによる弁論要旨、検察官論告書、上訴のための弁護人・被告人の趣意書、事件関係者の尋問調書、そして判決文、等々。

その読みこみを通して感じとったこと、発見したこと、推理・考察したことを私はブログ(カテゴリ欄「埼玉愛犬家殺人事件」)で一通り書いている。何しろ素人の身であり、勘違いや誤解や見方の偏りも多々あるかも知れないとは思うものの、多数の資料のなかに検察官が主張し、判決文が認定しているような、風間さんが元夫と共謀して二件三名の人の殺人を計画・実行したという判定の裏付けとなる証拠を私は一つも見せてもらうことができなかった。逆に、資料を読み進めれば進めるほどに、風間さんは殺害計画・実行ともに何の関与もしていないという感触を強めさせられ、深めさせられるばかりであった。

この感触には、特に判決文を読んでいる時の感触には過去に覚えがあった。かつて、松川事件や八海事件や仁保事件などの冤罪事件を扱った本や資料を読んでいる時に覚えた感触と同じなのである。何が同じかというと、第三者である読者の目には白と映るものを裁判官はなぜか黒と判定する。そしてそれを説明する時の言い回し、言いくるめる手法が同一に感じられるのである(認定のやり方は、特に松川事件の二審の判決文(注)と大変よく似ているように思われた)。ここは風間さんの裁判を検討している場ではないので、これ以上詳細については述べない。ぜひ記事を読んで事実を知っていただきたいと思うが、簡単なたとえ話で言うと、朝8時に出発した電車には乗客は8時までに駅のホームに到着していないと乗ることはできない。風間さんは8時には駅に着いていない。他の証拠から推測して駅に着くことができるのは8時5分以降なのだ。しかしこれに対して裁判官が用いる論法は、たった5分の違いしかないのだから、8時に到着したことにしても構わないとして、8時の電車に乗ったことにするのである。そうしてその後の風間さんの行動のすべてを8時に電車に乗った人の行動として認定するのだ。そのために、判決文の事実認定には読み進めるにつれ、いたるところで齟齬が発生し、矛盾が噴き出している。要約すると、この事件の裁判官は一・二審ともに科学、それも小学生にも理解できる次元の科学を無視し、詭弁に次ぐ詭弁(非常に巧みではある)の連なりのような判決文を作成しているように私には思われた。判決文を読んでいるかぎり、「証拠裁判主義」を謳った刑事訴訟法317条の「事実の認定は、証拠による」という規定などは、どこか遠いよその国の条文としか感じられなくなるのであった。

どのような背景のもとでこのような不公正な事態が生じているのは分からない。しかしこれは紛れもなく現在の司法の世界で起きていることである。これ自体は(つまり判決が不公正であることは)死刑制度の是非論以前の問題ではあるが、現に風間さんには死刑判決が出て、死刑が確定しているのだから、今ではもう直接的に死刑の問題でもある。冤罪はどんな場合でも取り返しのつかない出来事ではあるが、生きていれば、冤罪が証明されればその時点で釈放されることができる。久間さんの場合を見れば分かるとおり、死刑はそれさえ不可能にする。この側面から見ても死刑はやはり存在してはならない刑罰だと思うのである。

    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

(注)裁判長は、17人の被告人に対して死刑4名、無期2名を含む有罪判決(3名は無罪)を読み上げた後、被告人たちから「自分たちはやっていない」とはげしい抗議を受けると、「やっているかいないか、真実は神様にしか分かりません」と言い放った。裁判長と被告人たちの応酬はその後もつづいたが、緊迫したやりとりの模様は録音されて今も残っている。
2010.08.01 Sun l 死刑 l コメント (6) トラックバック (0) l top
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