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  冤 罪
死刑制度の是非について考えたり議論したりする場合、その核心にあるのは、必ずしも冤罪の可能性への危惧というわけではないと思う。死刑問題の核心は、人の心を寒からしめるような犯罪を実際に引き起こした人間への刑罰としての死刑が法として社会に存在してもよいか否か、ある人が人を殺したからといってその人を殺すということが許されるか否かということではないかと思われる。けれども、現実には司法における冤罪の可能性ということは常に問題とされてきたし、今もされている。実際、死刑を否定する人のなかには、理由として、一点、冤罪の可能性への懸念を挙げる人は実に多い。そしてこれはしごくもっともだと肯けることである。過去に4人もの確定死刑囚が冤罪を認められて釈放になった事実がある。その他、冤罪の疑いを言われながら、自らも冤罪を訴えながら確定死刑囚として獄中に囚われている人もいるし、それどころか冤罪の身で死刑執行されたのではないかと疑われている人も相当数存在する。近いところでは、2008年10月に死刑執行された飯塚事件の久間三千年さんがそうである。久間さんについては、時事通信によると、執行1年後の2009年、当時の中井洽国家公安委員長でさえ、「再審で事件が見直された可能性もあったとの考えを示し、執行を「残念」と述べ」ている。国家公安委員長の立場にある人のこういう発言は、久間さんの死刑執行は冤罪によるものであった、少なくともその可能性が限りなく高いものであったことを意味していると受けとって差し支えないだろう。

法務省や法務大臣は、執行対象者の選択について、その都度、資料・書類をよく調べて有実であることを確認して選んだというが、それでは久間さんの場合はどうだったのだろう。これでは「事前によく調査した」という法務省や法相の常套句がまったく当てにならないことを自ら証明していることになるだろう。法務省が人命を尊重するという当たり前の人権感覚と職責に対する深い自覚をもっていたならば、久間さんの問題が浮上してきた時点ですべての死刑執行を停止していただろう。そういう意味でも今回の千葉法相の命による執行は重大だと思うのだが、久間さんの場合、そもそも、執行手続きの段階で法務省、法相ともに、事件の鑑定試料がすべて使い切られていたことに不審感をもたなかったのだろうか。あの時どのような理由で久間さんは執行対象に選ばれたのだろう。詳細を知りたいと思う。

死刑の存続を主張する人も冤罪の可能性については当然考慮せざるをえないわけで、そういう人のなかには、冤罪の可能性がまったくない人間、犯行を行なったことが100%確実である人の場合は法にのっとって粛々と死刑執行をつづけるべきだと言う人がいる。しかし死刑判決も、執行前の資料調べも、人間のやることである。久間さんの例を見れば分かるように、その時点で多くの人間、それも専門家が犯行はこの人物が行なったと見て間違いはないと確信していても、後々どんな不意打ちが待っているか知れない。それほど人間は例外なく不断に過ちをおかす生きものなのだ。大事にあたって相対的に過ちをおかす危険性の少ない人は、常にそのことを自覚し、肝に銘じている人のなかにこそいるだろうと思う。ソクラテスの言う「無知の知」と同次元のことだろうと思う。

風間博子さんは「埼玉愛犬家殺人事件」で元夫と共謀して殺人を行なった疑いで1995年に逮捕され、昨年死刑が確定した人である。私は風間さんに関する裁判資料をそのすべてではないが、ある程度は読んでいる。一審から最高裁にかけて法廷に提出された検察側、弁護側それぞれによる弁論要旨、検察官論告書、上訴のための弁護人・被告人の趣意書、事件関係者の尋問調書、そして判決文、等々。

その読みこみを通して感じとったこと、発見したこと、推理・考察したことを私はブログ(カテゴリ欄「埼玉愛犬家殺人事件」)で一通り書いている。何しろ素人の身であり、勘違いや誤解や見方の偏りも多々あるかも知れないとは思うものの、多数の資料のなかに検察官が主張し、判決文が認定しているような、風間さんが元夫と共謀して二件三名の人の殺人を計画・実行したという判定の裏付けとなる証拠を私は一つも見せてもらうことができなかった。逆に、資料を読み進めれば進めるほどに、風間さんは殺害計画・実行ともに何の関与もしていないという感触を強めさせられ、深めさせられるばかりであった。

この感触には、特に判決文を読んでいる時の感触には過去に覚えがあった。かつて、松川事件や八海事件や仁保事件などの冤罪事件を扱った本や資料を読んでいる時に覚えた感触と同じなのである。何が同じかというと、第三者である読者の目には白と映るものを裁判官はなぜか黒と判定する。そしてそれを説明する時の言い回し、言いくるめる手法が同一に感じられるのである(認定のやり方は、特に松川事件の二審の判決文(注)と大変よく似ているように思われた)。ここは風間さんの裁判を検討している場ではないので、これ以上詳細については述べない。ぜひ記事を読んで事実を知っていただきたいと思うが、簡単なたとえ話で言うと、朝8時に出発した電車には乗客は8時までに駅のホームに到着していないと乗ることはできない。風間さんは8時には駅に着いていない。他の証拠から推測して駅に着くことができるのは8時5分以降なのだ。しかしこれに対して裁判官が用いる論法は、たった5分の違いしかないのだから、8時に到着したことにしても構わないとして、8時の電車に乗ったことにするのである。そうしてその後の風間さんの行動のすべてを8時に電車に乗った人の行動として認定するのだ。そのために、判決文の事実認定には読み進めるにつれ、いたるところで齟齬が発生し、矛盾が噴き出している。要約すると、この事件の裁判官は一・二審ともに科学、それも小学生にも理解できる次元の科学を無視し、詭弁に次ぐ詭弁(非常に巧みではある)の連なりのような判決文を作成しているように私には思われた。判決文を読んでいるかぎり、「証拠裁判主義」を謳った刑事訴訟法317条の「事実の認定は、証拠による」という規定などは、どこか遠いよその国の条文としか感じられなくなるのであった。

どのような背景のもとでこのような不公正な事態が生じているのは分からない。しかしこれは紛れもなく現在の司法の世界で起きていることである。これ自体は(つまり判決が不公正であることは)死刑制度の是非論以前の問題ではあるが、現に風間さんには死刑判決が出て、死刑が確定しているのだから、今ではもう直接的に死刑の問題でもある。冤罪はどんな場合でも取り返しのつかない出来事ではあるが、生きていれば、冤罪が証明されればその時点で釈放されることができる。久間さんの場合を見れば分かるとおり、死刑はそれさえ不可能にする。この側面から見ても死刑はやはり存在してはならない刑罰だと思うのである。

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(注)裁判長は、17人の被告人に対して死刑4名、無期2名を含む有罪判決(3名は無罪)を読み上げた後、被告人たちから「自分たちはやっていない」とはげしい抗議を受けると、「やっているかいないか、真実は神様にしか分かりません」と言い放った。裁判長と被告人たちの応酬はその後もつづいたが、緊迫したやりとりの模様は録音されて今も残っている。
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2010.08.01 Sun l 死刑 l コメント (6) トラックバック (0) l top
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