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前回のエントリ「佐高信氏の奇妙な批判 「加藤周一への偏見」」を書くにあたって、『週刊金曜日』のウェブサイトで佐高信氏の文章を他にいくつか閲読したので、これについての感想もこの際すこし書いておきたい。

「平沼騏一郎研究の必要性」(2010/4/2)という記事において佐高氏は次のように書いている。

「 西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶすべく、山県有朋や桂太郎らの藩閥政治家は「大逆事件」をでっちあげる。その尖兵となったのが平沼騏一郎だった。」(下線による強調は引用者。以下同じ)

これを読んで私は「えっ!」と驚いてしまった。幸徳秋水をはじめ11名が死刑にされた1910(明治43)年の大逆事件がでっちあげであることは、事件当時から多くの人にとってすでに自明のことであった。石川啄木の日記、徳富蘆花の第一高等學校における講演「謀叛論」、永井荷風の作品「花火」などによりそのことは明確に知ることができる。でっちあげの首謀者の一人が平沼騏一郎であること、その背後には山県有朋の存在があるだろうということもずっとささやかれつづけてきたし、私なども現在そのように理解している。

しかし、山県有朋や桂太郎が事件に対しどの段階から、どのような関与の仕方をしたのかを綿密に調べあげた正確な史料を私はこれまで見たことはないし、そのようなものが存在すると聞いたこともない。まして、彼らが「西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶすべく」事件をでっちあげたという話は、この佐高氏の文章ではじめて知らされることである。いったいいつそんな重大な事実が明らかになったのだろうか? 

山県有朋は、岡義武著「山県有朋 -明治日本の象徴-」(岩波書店)(この本は、事実関係の記述については確実にそれもいく通りもの裏をとっているようなので、その点信頼して引用してよいと思われる)によると、日露戦争の後、山県の子分格の桂太郎に代わって西園寺公望が政権を担ったとき、山県は西園寺内閣の社会主義者に対する取締りの弱さ、不徹底に非常な不服をもち、天皇に上奏までしたそうである。変わりゆく時代の動きを感じ取り、権力者故の恐怖心に急き立てられていたのだろう。しかし大逆事件当時の首相は桂太郎だったのだから、山県(と桂)が「西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶす」べく、事件をでっちあげなければならない必要は特にないだろうし、上述の岡氏の本によっても、大逆事件の発生を知った山県は事実深刻な衝撃を受けたようであり、彼が事件に関与したのは事件発生の後だったことは間違いないだろう。それから山県と桂がでっちあげに動いたとしても、そのことが「西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶす」という思惑をもっていたという話は私にはまったく不可解に思える。山県はこのような機会に西園寺や原をおとしいれようとするような、場合によってはそれこそ自分の身に危険が返って来かねない拙劣で愚かな策略は間違ってもとらない人物であったように思われるのだ。佐高氏はこのような新説を述べる場合には、同時に必ずその根拠を示さなければならなかった。

ちなみに、森鴎外の「かのやうに」は、大逆事件当時、山県から危険思想対策を訊ねられてその応答として書かれた作品だと言われているが、山県と鴎外との親密な関係を考えると、これはおそらく事実だろうと思われる。当時の山県の頭のなかは社会主義対策でいっぱい、西園寺や原をつぶすなどという考えは露ほどもなかっただろうと思えるのだが、いったい佐高氏のこの発言はどういうことなのだろう。そもそも原敬は山県の社会主義者対策が性急過ぎるとしてその手法を問題視はしているが、思想の方向性は山県と異なっているわけではないだろう。上述の『山県有朋』には、大正時代に入ってからの山県と原の関係が次のように叙述されている。

「(山県は)思想問題については原と多分に共鳴するところがあった。山県は、当時高橋義雄に「近頃帝国大学博士連の中に国体を弁えざる愚物の輩出する」のは「痛嘆」に堪えないといったが、原に対しても学者国を誤るという論をしばしば述べた。そして、原もまたその日記の中において、前京大教授勝本勘三郎が原にむかって、相続税を高率にして財産の平均を図るべきであるという「共産主義類似」の主張をなしたと記し、「毎々学者らしき連中如此奇激の言をなせり。山県の言分には非らざれども、学者国を誤るの虞なきに非ざるべし。痛嘆の事なり」と述べている。そして、その後に原はいわゆる思想対策のむずかしいことを山県に述べ、「何か気付あらば内示を希望」し、山県は自分としても苦心しているといい、よい策のないことを原とともに嘆息し合ったのであった。そして、大正10年7月に原は山県に対し、「過激主義宣伝等に対する法律の不備」を述べて取締法規を新たに制定する必要を述べたが、山県はこれに同感の意を表明した。

岡氏のこの本によると、思想問題だけではなく、労働問題についても労働者の賃銀引上げ要求に対して、原は山県とともに現状を歎き合っている。このような原の言動を見ると、佐高氏が、大逆事件の折りに山県が「西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶすべく」云々と述べている根拠がどこにあるのか不思議である。これが、どうにかして原敬を山県有朋や桂太郎の策略の犠牲者のごとく描きたい佐高氏の妄想、でっちあげでなければ幸いである。さて、佐高氏は記事の締めくくりにこう述べている。

「 原敬の限界を云々するよりも、明白な敵の平沼を私は「研究」したい。味方と敵をまちがえないためにもである。」

『週刊金曜日』関係者は編集長の北村肇氏もそのようだが、佐高氏も「敵・味方論」が本当にお好きのようである。それではお尋ねしたいのだが、読者にイスラエル製品のボイコットを呼びかける『週刊金曜日』は佐藤優氏を重用してやまない。その佐藤氏は、下記のような恐るべき考えを述べている。

「アラブを贔屓筋にしている人たちは、イスラエルにやられても文句は言えないですよという話です。たとえばアルカイダ、ハマス、ヒズボラのテロリストを支援するような運動をやった場合、これはイスラエルにとって国家存亡の問題ですから、その人は消されても文句は言えない。それくらいの覚悟が求められる贔屓筋の話だと思います。」(『インテリジェンス武器なき戦争』幻冬舎2006年)

こういう人物は「人権派」を自称する佐高氏にとって「味方」なのか、「敵」なのか。「敵・味方論」を好んで口にするのなら、まず自分たちの雑誌におけるこういう重大な矛盾(と私には思われる)をこそクリアーにしてほしいものである。佐高氏は別の記事で佐藤氏を「危険な思想家」とも述べているが、佐高氏の頭のなかで「敵・味方論」と「危険な思想家」とはどのような連関をもち、どのような判別がなされているのかも表明してほしいところである。

また、原敬の限界を云々することと、敵であるという平沼を研究することは何ら矛盾しないはずである。佐高氏は敵でさえなければ、批判的研究も議論も必要ないと述べているかのようであるが、何とも一本調子の狭隘な発想ではないだろうか。過去、日本でも論壇や文壇で多くの論争が行なわれてきた。私は文学好きなので(と自分では思っている)、つい夏目漱石や森鴎外や斎藤茂吉、中野重治(彼は茂吉の歌壇における論争に年少の頃から生きる励ましを得てきたと述べている)、大岡昇平などの文学者ばかりを思い出すのだが、こういう論争は文学・読書界を活性化させてきたし、今読んでもその多くは大変刺激的なものであるが、これらが格別敵同士の間でなされたわけでないのはもちろんである。「明白な敵の平沼を私は「研究」したい。味方と敵をまちがえないためにもである。」という発言もまた、佐藤優氏を重用する金曜日に対する読者の疑問や批判をかわすための方便でなければ幸いである。

ところで、この記事「平沼騏一郎研究の必要性」によると佐高氏は今年になって『平民宰相 原敬伝説』(角川学芸出版)という本を出版されたそうである。もしかすると、この本に山県有朋が西園寺公望と原敬のリベラリズムをつぶそうとして、「大逆事件」をでっちあげたという新説についての何らかの情報が記されているかも知れないと思って、目を通してみた。しかしそういうものは、特に何もなさそうであり、むしろ何とも緊張感の欠けた生ぬるい本だなという印象を拭えなかった。たとえば原は、大逆事件についてその日記に次のように書いていた。

「今回の者共は大概肺患其他病に罹り居りて言はばヒステリイ患者同様故是れは如何ともする能はざる者と思ふ、而して是れは取締のみにては往かぬ事にて何れが社会党にて何れが無政府党なるやを識別する事は到底巡査輩の能くする所にあらざれば専門に此事のみ担当する者を定めて将来は取締るはずなりと云えり、依て余は此等に対する処置は単に鎮圧政略のみにて成功すべきものに非らず、故に公然社会政策を唱ふる如き者は之を其儘に置き無政府主義と社会主義とを公々然区別する事必要なりと云ひたるも彼は果して此趣旨を了解せしや否や不明なり」

こういう原の姿勢について、佐高氏は次のように評している。

「 末尾の「彼」とは山県有朋の子分の桂太郎である。その桂を訪ねて原は、社会主義者やアナキストはたいてい肺病その他を患っているヒステリーだから、単に鎮圧するだけではダメだ、と説いた。もちろん、巡査にはその二つの区別もつかないから、専門にこれを担当する者を決めて取り締まらなければならないとも進言したのだが、桂にそれがわかったかは不明だというわけである。
 原はここで、主義者たちの病と言っている。しかし、それは社会の方の病とも言えるのではないか。その区別が原にはついていたのか、疑問なしとしない。
 幸徳秋水らに親近感以上のものを寄せた石川啄木は、大逆事件がでっちあげられる直前の友への手紙にこう書いているが、原はそれをどう読むのだろうか。
「現在の日本には、恰も昨日迄の私の如く、何らの深き反省なしに日本国といふものに対して反感を抱いてゐる人があります、私はそれも止むを得ぬ現象と思ふけれども、然し悲しまずにはゐられません。(中略)
 現在の日本には不満足だらけです。然し私も日本人です、そして私自身も現在不満足だらけです、乃ち私は、自分及び自分の生活といふものを改善すると同時に、日本人及び日本人の生活を改善する事に努力すべきではありますまいか」
 愛したいけど愛せないと言っている啄木のような声は原の耳には届いていたのか?」(『平民宰相 原敬伝説』

私には、佐高氏の文章は、大逆事件についても、石川啄木の受け止め方についても、まったくの人ごとであるかのような筆致に感じられる。「原はここで、主義者たちの病と言っている。しかし、それは社会の方の病とも言えるのではないか。 その区別が原にはついていたのか、疑問なしとしない。」とか、「愛したいけど愛せないと言っている啄木のような声は原の耳には届いていたのか?」などの低調な物言いには読んでいて気恥ずかしさをおぼえた。もっとも、佐藤優氏について、「まさに博覧強記で、あらゆることに通じている佐藤」(「佐藤優という思想」2009/5/29)などという評価を述べる人のことだから、仕方がないのかも知れないが、それにしても、あの緊迫感にあふれた大逆事件に関する石川啄木の文章も佐高氏の引用の仕方、前後の文脈の平板さによって印象が異なって見えた。

これは佐高氏の文章と直接の関係はないことだが、この機会に、『金曜日』について前々から感じていることを言っておきたい。数年前から『金曜日』は佐藤優氏が過去の偉い思想家としゃべり合うというような企画を実践しているが、いつだったか佐藤氏がマルクスと話し合っている記事を見た。このマルクスというのが、実に日本の新聞や雑誌の論説と同レベルの内容の話をしていることに呆然としたものである。あるブログのコメント欄で「この人には畏れ多いという感情はないのでしょうか。」という書き込みを見たが、たいていの読者はそのように感じたのではないだろうか。しかしこの連載企画は『金曜日』によると好評だということだそうである。いったい誰が賞賛したり、満足したりしているのだろうか。

さて本の最後のほうになると、中坊公平氏や田原総一朗氏などの悪口が出てくるが、(田原氏はともかくとして) 中坊公平氏を佐高氏は一時期しきりに称揚し、たしか共著まで出していたと記憶するのだが、そういう自分の行動に対する総括なり反省なりを佐高氏はどこかで明らかにしているのだろうか? 私の印象では、それまでしきりに褒めそやしていた中坊氏をスキャンダルの浮上とともになしくずし的に非難し、悪口を述べるようになったように思うのだが…。

そのあたりにも疑問を感じたが、さらに不可解に感じたのは、本の最後の部分である。佐高氏は、

「もちろん、暗殺などあってはならないことだが、暗殺の対象にもならないような政治家ばかりであることに寂寥感を禁じ得ない。」

と述べて巻を終えている。日本でも世界でも、歴史上、成功、不成功を問わず、暗殺の対象とされてきたのは必ずしも国政に携わる政治家ばかりではない。民間の社会主義者や共産主義者、学者や思想家、時には文学者でさえもその対象とされてきた。1972年車に仕掛けられた爆弾で暗殺されたパレスチナ人作家であるガッサン・カナファーニもそうである。それにまた暗殺テロは強烈な存在だけが対象になるわけではない。かつて政治における死の本質は「やつは敵である。敵を殺せ。」という錯誤の論理だと述べた作家がいるが、上記の佐高氏の発言ははなはだ無思慮、軽率に過ぎるように感じられ、その了見を疑わしく思った。
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2010.08.08 Sun l 週刊金曜日 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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