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   死刑の宣告と執行の間

私の場合、死刑はよくない制度だ、あってはならない刑罰だ、とはっきり自覚するようになったのは、永山則夫事件を通してであった。彼の生い立ちは、決して境遇に恵まれたとは思っていない私から見ても、比較のしようもない、桁違いに悲惨なものに違いなかった。父親はもともとは腕のいい林檎の剪定師だったそうだが、彼が物心ついた頃には賭博にのめり込んで家にはいなかった。母親は魚の行商をしていたが、沢山の子どもたちを抱えて身を粉にして働かなければならず、八人兄弟の七番目の子である彼は子どもが健全に成長するためにはどうしても必要とする愛情も、親身な世話も、親をはじめとして誰からもあたえられることがなかったようである。そのことは裁判を通して、また逮捕の2年後に出版された彼の著書「無知の涙」を通して広く社会に知られるようになった。

彼は「無知の涙」において自分にこのような酷薄な生育を強いた社会をきびしく告発した。読者のなかには彼が育った環境のあまりの凄惨さに衝撃を受けたり、同情を寄せる者もいたが、一方彼には自分が四人もの無辜の人を殺したことに対する罪の意識が欠如しているという批判をする者ももちろんいた。実をいうと、私も誰にも話したことはないが、当初は同情とともにいくらかそんな気持ちをもったこともあった。

しかし、彼が自分のなした犯罪に対して罪の意識をもっていなかったということはない。私は何かの折りに読んだのだが、彼は自分の犯罪について「ああいう悪辣な犯罪は決して許されてはならない」という趣旨のきびしい言葉をノートに書き付けていた。本の印税を遺族に受け取ってもらうことを切望したのも贖罪意識の現れだったことは間違いないだろう。

これは私の思いのままの推測に過ぎないが、1981年二審の船田三雄裁判長が一審の死刑判決を破棄して無期判決をくだしたとき、彼は生まれてはじめて自分の人格がある理解をされた、存在を正当に認められたという感覚をもったのではないだろうか。裁判官によって、というだけではなくて。というのも、ある人の本で知ったのだが、彼は娑婆にいた時の忘れられない出来事として、夏、遠い道のりを歩いて疲れはてた時、手を挙げて乗せてもらったトラックの運転手に車のなかでひどく親切にしてもらったことをあげていたのだった。たしかジュースやパンを振る舞ってもらったのではなかったかと思う。人に優しくしてもらうことは誰にとっても嬉しいことには違いないが、ただその種の好意は誰でもある程度経験することなので、普通は時間が経つと忘れてしまうものではないだろうか。彼にはその程度の心を温かくしてくれる経験もほとんどなかったようなのである。もちろん、二審の裁判中の彼の前に伴侶となる女性が出現していたという事情も大きかったに違いないが、無期判決の後に「木橋」のような静謐な作品が書かれたことと思い合わせて、そのような印象をもったりもする。

しかし1983年、最高裁は検察の上告に対して原判決破棄、差戻しを命じた。そして差戻審の東京高裁による再度の死刑判決。この時彼が法廷ではげしい抗議をしたことが伝えられたが、それは、死を覚悟していた自分に対し裁判所がいったん生きるという方向に向かわせておきながら、その同じ裁判所の都合によって再び死のほうへ、絶望の方へ一方的に追いやることの理不尽、残忍さに対する抗議だったと記憶している。

彼のこの抗議、批判は人間の誰もがもつ当然の思い、行ないであろう。この立場に置かれた人間で、彼と同じように感じない人間はおそらくどこにもいないだろうと思う。これは光市事件で一・二審の無期から一転死刑が確定した元少年についても言えることである。誰がやることであろうとこのような行為は人の心をずたずたに引き裂き、精神を根底から破壊しかねないむごい仕打ちであり、裁判所は結果的に人の生と死、人の運命をキャッチボールのごとく操り、もてあそんでいることになるのではないだろうか。ドストエフスキーの「白痴」(「死刑」に関するあまりにも有名な文章なのでこうして引用するのも気がひけるのだが、常々念頭にあるとても好きな場面なので、お許し願いたい)において、スイスからペテルブルグにやって来たムイシュキン公爵は、その日早速エパンチン家を訪ねると、そこの従僕相手にフランスのリヨンで見た死刑について次のように語りだす。


「罪人は利口そうな、胆のすわった、力のありそうな中年の男でした。レグロというのが苗字です。ところがねえ、ほんとうにするともしないともきみの勝手だが、その男、死刑台にのぼると泣き出したですよ、紙のように白い顔をして。(略)今まで泣いたことのない大人が、恐ろしさに泣き出すなんて、ぼくはそれまで夢にも思いませんでしたよ。しかし、その瞬間、当人の魂はどんなだったでしょう。きっと恐ろしい痙攣をおこしたに相違ありません。魂の侮辱です、それっきりです! 『殺すべからず』とは聖書にもちゃんと書いてあります。それだのに、人が人を殺したからって、その人まで殺すって法はない。いいや、そういうことはなりません。現にぼくはひと月前にそれを見たんだけど、今でもありありと目の前に浮かんでくる。もう五度ばかり夢に見たくらいです」

「まあ、考えてごらんなさい、たとえば拷問ってやつを。こいつを受けるものは、からだに傷をつけられたりなんかして、苦しいでしょう。けれど、それは肉体の苦しみだから、かえって心の苦しみをまぎらしてくれます。だから、死んでしまうまで、ただ傷で苦しむばかりです。ところが、いちばん強い痛みは、おそらく傷じゃありますまい。もう一時間たったら、十分たったら、三十秒したら、今すぐに魂がからだから飛び出して、もう人間ではなくなるんだということを、確実に知るその気持ちです。この確実にというのが大切な点です。ね、頭を刀のすぐ下にすえて、その刀が頭の上をするすると滑ってくるのを聞く、この四分の一秒間が何より恐ろしいのです。いや、これはぼくの空想じゃありません。じっさい、いろんな人からそういって聞かされたんです。ぼくはこの話をすっかり信じていたのだから、隠さずきみにぼくの意見をぶちまけてしまいますが、殺人の罪で人を殺すのは、当の犯罪に此べて釣合いのとれないほどの刑罰です。宣告を読み上げて人を殺すのは、強盗の人殺しなどとは比較にならぬほど恐ろしいことです。夜、森の中かどこかで強盗に斬り殺される人は、かならず最後の瞬間まで救いの望みをもっています。そういうためしがよくあるんですよ。もうのどを断ち切られていながら、当人はまだ希望をいだいて、逃げ走るか助けを呼ぶかします。この最後の希望があれば十層倍も気安く死ねるものを、そいつを確実に奪ってしまうのじゃありませんか。宣告を読み上げる、すると、金輪際のがれっこはないと思う、そこに恐ろしい苦痛があるんです。これ以上つよい苦痛は世界にありません。戦場に兵士をひっぱって来て、大砲のまん前に立たして、それからそいつらをねらって撃ってごらんなさい。兵士はいつまでも一縷の希望をつないでいます。ところが、この兵士に対して死刑の宣告を確実に読み上げたらどうです。半狂乱になって泣き出しますよ。人間の本性は発狂せずにそれを堪え忍ぶことができるなんて、そんなことをいったのはいったいだれでしょう? なんだってそんな見苦しい、不必要な、そして不正な嘲罵を発するのでしょう?
 ことによったら、宣告を読み上げられて、さんざん苦しまされたあげく『さあ、出て行け、もう許してやる』といわれた人があるかもしれない。こういう人にきいたら、話して聞かしてくれるでしょうよ。この苦しみ、この恐ろしさについては、キリストもいっていられます。いや、人間をそんなふうに扱うという法はない!
 従僕はこれらのことを、公爵と同じように自分でこそいうことはできなかったが、しかし全部でないまでも、だいたいの要点が腹に入ったらしいのは、その感じ入ったような顔つきにも現われていた。」(「白痴」米川正夫訳)(太文字の強調は引用者による)

ムイシュキン公爵は死刑の宣告について「人間の本性は発狂せずにそれを堪え忍ぶこと」はできない、と述べている。私はこのようなムイシュキン公爵の洞察の深さ、高さ、鋭さを通してその人格にかぎりない雄大さを感じるのだが、作者のドストエフスキーは「ペトラシェフスキー事件」により、刑場で死刑を宣告され、その数分後に皇帝の恩赦という理由で死刑を免れた経験をもつ人である。夏目漱石は修善寺の大患の後、「思い出す事など」において、この時のドストエフスキーの体験について細かく想像をめぐらしているが、漱石によるとドストエフスキーの仲間の一人は実際その場で発狂してしまったそうである。

「 彼の心は生から死に行き、死からまた生に戻って、一時間と経たぬうちに三たび鋭どい曲折を描いた。そうしてその三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。その変化だけでも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然これから五分のうちに死ななければならないと云う時、すでに死ぬときまってから、なお余る五分の命を提げて、まさに来るべき死を迎えながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、さらに突き当ると思った死が、たちまちとんぼ返りを打って、新たに生と名づけられる時、――余のごとき神経質ではこの三象面の一つにすら堪え得まいと思う。現にドストイェフスキーと運命を同じくした同囚の一人は、これがためにその場で気が狂ってしまった。」(「思い出す事など」)

ムイシュキン公爵が、人間の本性は発狂せずにそれを堪え忍ぶことはできないと述べているのはおそらく正しいことだろう。ドストエフスキーや戦場の兵士の場合と法廷で宣告を受ける被告人の場合とでは条件が異なるので一緒にして論じることはできないという指摘は当然あるだろうが、もしかすると究極的・本質的にはなんら違いはないのではないだろうか。

もし立法者が刑罰の一つとして、腕を一本、あるいは、足を一本切り落とすという刑を新たに設けると言い出したら、その場合人はどういう反応を示すだろうか。多分、多くの人はそんな残酷な刑は止めたほうがいい、止めるべきだと言うのではないだろうか。それはもっともなことであり、そういう刑罰はあってはならないことはもちろんだが、けれども、このような刑罰よりも死刑ははるかに残酷だろう。肉体の一部分どころではない、肉体の全部、命を奪って無にしてしまおうというのだから。ドストエフスキーの仲間の一人はかいくぐった運命の苛烈さのために刑場で気が狂ったというが、彼が宣告を受けていた刑がもし死刑ではなく腕や足の切断だったとしたらどうだっただろう。発狂することはなかったのではないだろうか。永山則夫氏についても、真相はどうなのか私には知りようがないが、死刑確定後の彼が精神に変調をきたしているという話を伝え聞くこともあった。
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2010.08.10 Tue l 死刑 l コメント (1) トラックバック (0) l top
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