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今年(2010年)の4月27日、もう4ケ月も前のことになるが、最高裁第3小法廷(藤田宙靖裁判長)は、2002年(平成14)年に大阪で発生した「母子殺害・放火事件」の第1審判決の無期懲役(求刑は死刑)、第2審の死刑判決を破棄し、大阪地方裁判所に差戻した。この事件は、マンションの自室で28歳になる女性(主婦)が絞殺され、1歳10ヶ月の長男が浴室に沈められて殺害された上、部屋は放火されて全焼という陰惨なもので、逮捕されたのは、被害者女性の夫の養父にあたる人物であった。差戻し判決を伝えるニュースや新聞の論説などはたくさん出ているが、こちらのサイト(最高裁第3小法廷;大阪の母子殺人事件 が死刑を破棄、差し戻し(10年4月27日)=判決全文/関連社説)に判決全文および各新聞社の社説などまとめて載っていて、事件の詳細を知るには参考になると思われるのでリンクしておく。


「     最高裁第3小法廷が言い渡した判決理由の要旨

  刑事裁判での有罪の認定にあたっては、合理的な疑いを差し挟(はさ)む余地のない程度の立証が必要であるところ、状況証拠によって事実認定をすべき場合であっても、直接証拠によって事実認定をする場合と比べて立証の程度に差があるわけではないが、直接証拠がないのだから、状況証拠によって認められる間接事実中に、被告が犯人でなければ合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることを要する。ところが、本件で認定された間接事実はこの点を満たすとは認められず、1、2審で十分な審理が尽くされたとは言い難い。
 1審判決による間接事実からの推認は、被告が事件当日に現場マンションに赴いたという事実を最も大きな根拠とする。その事実が認定できるとする理由の中心は、マンション階段踊り場の灰皿に残されていたたばこの吸い殻に付着した唾液(だえき)中のDNA型が、被告の血液のそれと一致したという事実からの推認である。
 この点について、被告は1審から、息子夫婦に自分が使った携帯灰皿を渡したことがあり、息子の妻が携帯灰皿の吸い殻を踊り場の灰皿に捨てた可能性があると主張していた。
 吸い殻はフィルター全体が茶色く変色しており、水にぬれるなどの状況がなければ短期間でこのような変色は生じないと考えられる。吸い殻が捨てられた時期が、事件当日よりもかなり以前のことであった可能性を示すものとさえいえる。吸い殻の変色を合理的に説明できる根拠は、記録上見当たらない。 」


この判決理由要旨によると…。刑事裁判の鉄則は「合理的な疑いを差し挟(はさ)む余地のない程度の立証が必要である」ことだが、まして直接証拠がなく状況証拠(間接証拠)によって事実認定をするしかない場合には、さらに厳しい条件が付与され、その条件をクリアーしなければ証拠として認定してはならないという判断が示されたことになる。その条件が、間接証拠の中に「被告が犯人でなければ合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていること」である。これは裁判所によって示された新しい基準であると思われる。

この事件と判決の内容について私は詳細をほとんど知らなくて、拙ブログを読んでくださった無空氏とコメントのやりとりをしているなかで教えていただき、そのおかげで判決全文を読むことができたのだった(無空様、改めてありがとうございます)。そしてこの事件を取り扱った最高裁裁判官諸氏の事実認定に対するきわめて慎重で厳正な姿勢に接し、大変に嬉しかった。差戻しに賛成した多数意見の4名の裁判官のうち3名は丁寧な補足意見を書き、もう一人の多数意見の裁判官と少数意見の裁判官の二人はそれぞれに意見、反対意見を書いている。

「疑わしきは被告人の利益に」、「たとえ10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜を処罰するなかれ」、あるいは上の判決要旨に見られる「事実認定には合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証が必要とされる」などの刑事裁判における大原則は承知していても、現実の日本の裁判においてはこれらの原則はほとんど無視されてしまっているように感じることが多かった昨今、なんだか久しぶりに判決文らしい判決文を読んだ気がしたのであった。

被害者の部屋はマンションの三階にあり、被告人の吸殻が見つかった灰皿は、マンションの1階と2階の踊り場に備え付けられていたそうである。事件翌日押収されたこの灰皿には被告人の唾液が付いた吸殻(ラークスーパーライト)が1本あることがDNA鑑定で分かったわけだが、これについて、被告人は一審段階から一貫して、息子夫婦に自分が使っていた携帯用灰皿を譲り渡したことがあり、その中にあった吸殻を被害者がマンションのその灰皿に捨てた可能性があると主張していたことは、上述の判決理由要旨にあるとおりである。写真でみると、この吸殻はフィルターが茶色く変色しており、最高裁はこれについて、「事件当日よりかなり以前に捨てられた可能性がある」と見たわけである。また被害者宅からは、別の金属製の黒色の携帯用灰皿も見つかっており、この灰皿の中の吸殻からは被害者の義母(被害者の夫の母親)のDNAが検出されているが、この灰皿も元は被告人宅にあったものだそうである。その上、また別の箱型の白と青のツートーンの携帯灰皿もマンション自室から発見されているそうだから、被告人宅から被害者宅に持ち込まれた灰皿は都合3個にもなるわけだが、被告人側はこの箱型の携帯灰皿から捨てられた可能性が高いと主張しているそうである。

判決文を読むと分かるのだが、最高裁は、被告人の吸殻のDNA鑑定をした際、なぜ同時に被害者のDNA鑑定をしなかったのかということを問題にしている。というのも、72本の吸殻の中には、被害者が通常吸っていた銘柄(マルボロライト〔金色文字〕)の吸殻が4本あったそうなのである。これには私なども「なぜ?」と不思議に感じる。もしこのマルボロライトの吸殻がDNA鑑定の結果被害者のものと一致したならば、被害者が被告人から譲り受けた携帯灰皿の吸殻をそのまま踊り場の灰皿に捨てたのであろうというつよい推認ができるからである。もっとも検察側は明確に「鑑定をしなかった」と明確に述べているわけではないようである。ただ「鑑定をした」という証拠・記録がないということである。

それから最高裁判所の5人の裁判運のうち4人までもが、写真を見て「事件当日に吸った煙草にしてはあまりにも変色が甚だしすぎる」と感じとるくらいだから、この吸殻がいつ頃吸われたものなのか、捜査陣がその時点でなぜ問題にしなかったのかということも不審である。吸殻の1本に付着していた唾液が被告人のものと一致したことで「事足れり」、これが動かぬ証拠になる、と思ったのだとしたら、あまりにも軽率すぎる、捜査が杜撰にすぎると思う。

というのは、私も喫煙者であり、一時期、ビニール製の携帯灰皿をバッグに入れて持ち歩いていたことがあるが、吸殻がたとえ3、4本の少量であっても、それをバッグ(ハンドバックならなおさら)に入れておくと妙に気になるものなのである。そんなことは現実には滅多にないのだが、バッグの中が灰で汚れるのではないかというような落ち着きなさをおぼえ、どこか気軽に捨てられるところがあれば捨ててしまいたいという気分になるものなのだ(実はそれが原因で私は携帯灰皿をバッグに入れるのをやめてしまった。現在は3㎥位の大きさの携帯灰皿を時々用いることがある)。ここ数年は禁煙場所が多くなってそういう場面はあまり見なくなったが、以前は公園やスーパーの休憩所などに備えつけられた大きな灰皿に携帯灰皿から吸殻を移している、というか、振り捨てている場面を見た記憶もある。最高裁の五人の裁判官の方々は全員男性のようだが、女性の場合は特にこういう心理をおぼえる可能性は高いのではないかと経験上感じる。小さな携帯用灰皿から大きな灰皿に吸殻を捨てるという行為は、案外、そこかしこで日常よくあることではないかと思う。

したがって、5人の裁判官のうちの少数意見である堀籠幸男裁判官が述べているような「被告が犯行に関与したことは合理的疑いを差し挟まない程度に立証されている」との反対意見にはとても賛同できないし、これでは誤審が発生する危惧、危険性をつよく感じる。生活していれば、まして人を訪ねたりする場合には、思いもかけないことは往々にして起きるものなのだ。気軽に立ち寄ったつもりでいたのが先方で何か大事が起きていてびっくりしたり、思いもかけず数十年ぶりに珍しい人に会ったり、何かしらの驚くべき経験のない人は滅多にいないはずである。ただそれ以上の大事に至らないから、自然に忘れてしまうだけなのだ。人生何が起きるか分からないというのは紛れもない事実だと思う。だからこそ、捜査や裁判のような重大事にあたっては、取り返しのつかないことにならないように決してあらかじめ何かを決めてかかってはいけない、必ず失敗が発生すると思う。

差戻しに賛成した4人の裁判官の中でも、次の問題については意見が分かれているようである。それは、差戻しの審理の結果、被害者が好んで吸っていた灰皿の中の4本の銘柄(マルボロライト)の吸殻が被害者のDNAと一致しなかった場合、また被告人の吸殻が確実に事件当日にその場で吸ったという新たな事実が判明した場合、被告人の犯人性をどう見るかという問題である。

多数意見に加わり、差戻しに賛成した那須弘平裁判官の意見は,次のとおりである。

「……多数意見が「仮に,被告人が本件事件当日に本件マンションに赴いた事実が認められたとしても,認定されている他の間接事実(注1)を加えることによって,被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明できない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が存在するとまでいえるかどうかにも疑問がある」とする点については,私は見解を異にする。
そもそも,被告人には犯行に至ってもおかしくない人間関係が存在することは否定しがたく,これに妻Eとの間での携帯電話のやりとりをめぐる被告人の不自然な行動,及び事件当日の被告人の行動につき被告人自らによる合理的説明がなされていないこと,犯行現場の状況や犯行の手口等からみて犯行が被害者と近しい関係にある者によって敢行された可能性を否定できないこと等の間接事実が存在することを踏まえると,被告人が犯人ではないかとの疑いは拭いがたいものがある。
そのような証拠状況に加えて,さらに,本件吸い殻に関する差戻し後の審理の結果として,被告人が当日本件マンションに赴いた事実が証拠から認定できる状況が生じた場合を想定すれば,被告人が犯人ではないかとの疑惑は極めて強いものになるはずである。そして,この場合には,被告人が第1審及び原審を通じ,本件マンションへの立入りを強く否定し続けてきたことと両立しがたい客観的事実(立入りの事実)の存在が明らかになったことになるのであるから,そこに「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係」が存在すると認めざるを得なくなる。
したがって,なぜ被告人が事実に反して立入りを否定し続けたのかについての説得力を持った特別な理由が被告人から示されない限り,被告人が犯人であることにつき「合理的疑いを差し挟む余地のない程度の証明」がなされたものと認めて差し支えないと考える。」


那須裁判官が上で述べているように、被告人は一貫して自分は被害者の住んでいるマンション内には事件の前にも後にも一度も足を踏み入れたことはないと述べているのだ。しかし、もし差戻しの審理の結果、それが偽りであった場合、つまり被告人が事件当日マンションに足を踏み入れたことが判明し、なおかつその虚偽について当人が説得的な説明ができなかった場合には、被告人の犯人性の証明はなされたとみて差し支えないと那須裁判官は述べている。

それに対して、他の三人の裁判官、藤田宙靖、田原睦夫、近藤崇晴の三氏の見解は異なる。たとえば、原田裁判官の補足意見は次のとおりである。

「本件吸い殻の状況からして,それが本件当日に本件灰皿に投棄されたものと認定するには重大な疑問が残る上,仮に,同吸い殻が本件当日に本件灰皿に投棄されたと推認できるとしても,当該事実は,即,被告人の犯人性に結びつくものではなく,同事実とは別に,被告人と本件犯行を結びつけるに足る他の間接事実が存する場合に,それを補強する有力な証拠となるにすぎない。
(略)
本件吸い殻が本件灰皿から発見された事実は,本件吸い殻が第三者によって本件灰皿に投棄された可能性(その可能性があることについては,弁護人らは第1審以来,亡Cにおいて,被告人が所持していた携帯灰皿を持ち帰り,その中味を本件灰皿に捨てた可能性があると主張している。)が認められない限り,被告人が本件マンションを訪れた事実を証明するものではある。
しかし,(略),その事実は,即,被告人が本件マンションのB方を訪れた事実の推認に結びつくものではなく,いわんや本件の犯人性に結びつくものではない。」


事件名が2名の殺人と現住建造物等放火による犯罪である以上、被告人がマンション内に入ったことのみで即犯人ということになるわけでないことは自明のことなのだが、現在ではこのような厳密な事実認定のあり方を私たちは次第に忘れてきているようで、このような判決文に接すると何か大変新鮮な、また厳粛な心持ちをおぼえる。

前述したように、また多くの人がすでに数多く述べていることでもあるが、この判決文で最も重大なことは、間接事実を総合して被告人を有罪と認定する場合には、「認定された間接事実に被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない(あるいは,少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることが必要」との判断を示したことであることは間違いないだろう。この概念については他ならぬ少数意見の那須裁判官から、判決文の補足意見において「「被告人が犯人でないとしたならば合理的に説明することができない事実関係」という概念は必ずしも明確ではない。」という意見が述べられている。私なども具体的な事例を取り上げ、それに当てはめて検証してみるなど、じっくり考えてみる必要があると感じている(注2)。捜査においても、裁判においても、先入観と偏見を排し、四方八方から真相を追求する心構えと手法、いわば弁証法のような取り組み、姿勢が求められているということではないだろうか。この問題に関する議論が広まり、深まってゆくことを期待する。


    ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 


(注1) 事件当日本件マンション付近で被告人が使用していた自動車と同種・同色の自動車が付近に駐車していたという目撃情報があること。被告人が被害者の夫の養父ないし保証人として借金の対応に終われていたが、息子が無責任かつ不誠実な態度をとることに対して息子夫婦に怒りをだいていたこと。事件当日、妻を職場に迎えに行く約束をしていたが、メールで「行けない」旨を伝えただけで、夕方のある時間(殺人事件が起きた可能性が高いと思われる時刻)に携帯電話のスイッチを切り、出火時刻の20分後くらいまでそのまま切られていたこと、などを指すのではないかと思われる。


(注2) 「埼玉愛犬家殺人事件」における風間博子さんに対する判決文を読むと、これは被告人を犯人とするためには「合理的な疑いを挟む余地のない立証が必要である」という本件裁判所も明示する刑事裁判における原則的定義にまったく該当していないと思われる。むしろそこから大きく逸脱していると感じずにいられない。判決文は一審、二審ともに、別の人の表現を借りて言うと、「ほとんど逐語的に「合理的な疑い」を感じさせられ、直ちに反論が浮かぶほどのものである。

風間さんの場合も本件と同じように間接証拠しかない。それも共犯といわれる二人(主犯の元夫とその仲間であったS氏)の供述・証言しかない。そしてそれは裁判の経過につれ完全に破綻していることが明白であると思われる。実刑3年で出所した共犯のS氏はその後証人として法廷に現れ、殺害に関する風間さんの無実を明確に証言した。一方、元夫の証言に対して裁判所はまったく信を置いていない。ところが風間さんの有罪に関する元夫の証言に対しては、それがどんなに不合理なものであろうと、「…この限りにおいて信用できる」として証拠採用した。それで死刑確定である。一・二審とも裁判所は主犯の元夫を上述のようにまるで信用できない人物、大法螺吹きと見なしていながら、こと風間さんに関してだけは、彼女に有利な他の多くの証拠を全て退け、この人物の特に根拠ももたない証言のみを「証拠の王」としている。

「直接証拠がないのだから、状況証拠によって認められる間接事実中に、被告が犯人でなければ合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていることを要する」という本件における裁判所の定義を「埼玉愛犬家殺人事件」における風間さんの場合に当てはめて考えてみても、そのような事実関係は今のところ見当たらない。「埼玉愛犬家殺人事件」は本件と異なり複数犯によるものだから、一概に同一視できない点があるかと思われるが、まず「被告が犯人でなければ合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていること」は、私には皆無のように思われるのである。
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2010.09.30 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
   

時々、夏目漱石はなぜ英文学を専攻したのだろう? という疑問というか、戸惑ったような声をきくことがある。もっともな疑問だと思われる。当ブログにも「なぜ英文学 漱石」という検索で訪れてくれた人がいるくらいなのだ。私にも本当のところはもちろん分からないのだが、「落第」という題の文章(漱石は大学予備門の2年の時だったか、腹膜炎を煩って試験が受けられず、落第の憂き目にあったのだ。)によると、漱石は、12、3歳で中学に入ったが、そこがおもしろくないので、2、3年で止めてしまい、二松学舎という学校に入ったそうである。どうやらここは漢学・漢文を教える学校だったようだが、その頃のことを漱石はこんなふうに書いている。

「元来僕は漢学が好(すき)で随分興味を有って漢籍は沢山読んだものである。今は英文学などをやって居るが、其頃は英語と来たら大嫌いで手に取るのも厭な様な気がした。兄が英語をやって居たから家では少し宛(ずつ)教えられたけれど、教える兄は癇癪持、教わる僕は大嫌いと来て居るから到底長く続く筈もなく、ナショナルの二位でお終いになって了ったが、考えて見ると漢籍許り読んでこの文明開化の世の中に漢学者になった処が仕方なし、別に之と云う目的があった訳でもなかったけれど、此儘で過ごすのは充(つま)らないと思う処から、兎に角大学へ入って何か勉強しようと決心した。」

あくまでも「落第」における言い分だが(漱石には自分のことについては何事も少し低めに言う癖があるように思えるので)、「何か勉強しようと決心した」漱石は、成立学舎という学校に一年間通ってそこで一生懸命英語を勉強したと、次のように述べている。

「入学して、殆んど一年許り一生懸命に英語を勉強した。ナショナルの二位しか読めないのが急に上の級へ入って、頭からスウヰントンの万国史などを読んだので、初めの中(うち)は少しも分らなかったが、其時は好(すき)な漢籍さえ一冊残らず売って了い夢中になって勉強したから、終(つい)にはだんだん分る様になって、其年(明治17年)の夏は運よく大学予備門へ入ることが出来た。」

これが英文学者・漱石の誕生につながっていくわけだが、ただ漱石は予備門時代の当初は建築家になろうと思っていたと書いている。その理由というのは、自分は変人である。元来変人だから、このままでは世の中に容れられない。しかし、職業を日常欠くべからざる必要な仕事をすれば、変人を改めることなく生きていくことができる。「此方が変人でも是非やって貰わなければならない仕事さえして居れば、自然と人が頭を下げて頼みに来るに違いない。そうすれば飯の喰外れはないから安心だと云うのが、建築科を択んだ一つの理由。」だそうである。それともう一つは、もともと漱石は美術的なことが好きだったので、実用と共に建築を美術的にしてみようと思ったのだそうである。ところがそうはならなかった。これはよく知られたことだが、米山保三郎と云う友人が漱石に文学の道に進むよう進言したのだ。この米山という若くして亡くなった人物を漱石は大変尊敬していて(「我輩は猫である」にも「天然居士」として描いている)、1909(明治42)年に米山保三郎に関してこんな俳句を書いているそうだ。「空間を研究する天然居士の肖像に題す 己酉 四月」)米山はおそらく漱石の文才の非凡を見抜いていたのだろう、下記のように言ったそうである。

「之は非常な秀才で哲学科に居たが、大分懇意にして居たので僕の建築科に居るのを見て切りに忠告して呉れた。僕は其頃ピラミッドでも建てる様な心算(つもり)で居たのであるが、米山は中々盛んなことを云うて、君は建築をやると云うが、今の日本の有様では君の思って居る様な美術的の建築をして後代に遺すなどと云うことは迚も不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝える可き大作も出来るじゃないか。」と米山はこう云うのである。」

こう云われて見ると漱石は、成程そうだと思われるので、又決心を為直して、

「僕は文学をやることに定めたのであるが、国文や漢文なら別に研究する必要もない様な気がしたから、其処で英文学を専攻することにした。」

のだそうである。うーん……。時代の趨勢、風潮の影響が大きかったと思うが、ただこういうきっかけで、しかも英語で後世にも残るような大文学を書こうとして英文学に進んだのでは、後に漱石が「卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。」と述べるようになったというのも無理はないような気もする。しかし、進路の選択というのはたいていそういうものかも知れない。もちろん例外はいくらもあるだろうが、将来が茫漠としたものに映ることの多い若い時のことなのだから、案外こういうちょっとした偶然の契機が作用する場合が多いのではないだろうか。

しかし、偶然による進路の選択と言えば、漫画家&エッセイストの東海林さだお氏の「露文受験」の右に出るものはあまりないのではないだろうか。これには漱石も真っ青、とても勝ち目はないと思う。


   

では、『逆上の露文入学』という題の文章を「ショージ君の青春記」(文春文庫1980年)から次に引用する。

「 長い長い一年だった。(引用者注:ショージくんは浪人したのである)
(略)
 多賀子の噂を、一度だけ風の便りに聞いた。
 暑い夏の陽盛りに、日傘をさして歩いていた、というただそれだけのものだった。
 それだけの報告でも、ぼくには生々しかった。
 暑い陽ざしの中の、日傘の下の多賀子の汗ばんだ顔が鮮やかに浮かんでくるのだった。
 二年目は、目標を早慶二枚に絞った。
 二校には絞ったが、学部はたくさん受けた。
 早稲田の政経(新聞)、法、教育、商、文学部、慶応の経、法、商、文学部の合計九学部を受けた。
 この九つの志望学部を見て、人は、いったいこの男は将来なにになろうとしているのか判断に苦しむと思う。
 新聞記者になろうとしているようにも思えるし、普通のサラリーマンになろうとしているようにも見える。教師になろうとしているようにも思えるし作家とも考えられる。
 この九つの志望学部から、「漫画家」という正解を引き出せる人はまずいまい。
 だが、この男の志望は、すでに漫画家ということでちゃんと決まっていたのである。
 要するに大学ならばどこでもよかったのである。
 それが証拠に、早稲田の文学部は、最初、「美術史」を受けるつもりだった。
 それが終局的には露文を受験することになってしまうのである。
 渡画家志望の人間が、なぜ露文などに入ってしまったのか。
 浸画とロシア語と、いったいどういう関係があるのか。
 もともとなんの関係もないのである。
 ただ入学願書受付の窓口が、「露文」と「美術史」と隣り合わせだった、ということがそもそもの発端なのである。
 漫画家志望の人間が、「美術史」を学ぼうとする心情は、ある程度理解できると思う。
 ぼくは受験票にも、ちゃんと「美術史」と書き、受験料二千五百円ナリを握りしめて、受付の行列に神妙に並んでいた。
 あと自分の番まで、二、三人目というところでふと隣りの行列を見た。
 これがいけなかった。
 隣りは露文である。
 ここで急に迷ってしまったのである。
 もともと、大学ならどこでもいい、と思っている人間である。
(入学してから女のコとつき合うとき、美術史よりも露文のほうがモテるのではなかろうか)
 そういう考えが、モクモクと胸中に湧きあがってきた。
 女のコと話をする場合でも、
 「たとえば写楽の浮世絵は……」
 などとしゃべるより、
「たとえばドストエフスキーの『罪と罰』の中の……」
 などとしゃべるほうが、ずっと格好がよいのではなかろうか。
 大学受験は、いわばその人の人生を決定する大事な問題である。
 なによりも、まず自分の将来、適性などを第一の基準にして決定しなければならないはずである。
 それなのにぼくは、「女のコとつき合うときのモテ具合」を第一の基準にして考えてしまったのである。
 ぼくの受付の番まであと二、三人である。
 決断の時間はあと二、三分しかない。
 人生の重大事を決定するための時間としては、二、三分という時間は決して充分な時間とはいえない。
 また、人生の重大事を決定するときは、いつもより冷静な頭脳と、明智な判断力が必要である。
 なのにぼくは、こういう状況に陥ると、いつも逆上するのをつねとしていた。
 むろん、このときも、例にたがわず逆上したのである。
 事柄の重大さに比例して、逆上の度合いもまた激しいものがあった。
 受付をやっていた人も、きっと驚いたに違いない。
 自分のところの行列に、それまで神妙に並んでいた男が、突如血相を変えて、隣りの列に移ってしまったのだから。
 ぼくはこの「逆上による決断」によって、つねに決断を下しつつ、今日までを生きしてきた。
 その決断がよかろうはずがない。
 よい結果を生むはずがないのである。
 この、人生の重大事を決定するときには、いつも逆上する、という習性は、今もって直らない。
 たとえば靴下一足買いに行っても、逆上なしでは靴下を購入することができないのである。
 ぼくの欲しいのは、たった一足の靴下である。
 なのにデパートでは、何百、何千という靴下が、ぼくを待ち受けているのである。
 元来靴下などというものは、気楽に買うものである。
 靴下一足の購入で、その人の人生が変わるわけでなし、あるいは一足の靴下のために生計に破綻綻をきたすというものでもない。
 むろんぼくも、気楽に靴下売場に赴くわけである。
 気楽に赴いたにもかかわらず、ぼくの目前には、何千の靴下が展開されているのである。
 最初茶色の無地の一足が目につく。
(靴下の件が延々と何ページも続くので、略)
 靴下一足でこれであるから、いわんや、背広などという大物を購入するときは、その一週間前ぐらいから、ナワトビ、ボデービルなどをして体を鍛え、座禅などもして、心の落ちつきをはかり、しかるのちにデパートへ赴く、というような、大がかりな準備が必要になるのである。
 さて。
 九学部の受験は九日間たて続けに行なわれた。
 そういうふうにスケジュールができていたのである。
 合格発表もまた、九日間たて続けに行なわれた。
 ぼくは毎日毎日発表を見に行った。
 毎日毎日ぼくは落ちていた。
 大学受験は、一つだけ落ちてもかなりガックリくるものであるが、それが八日間毎日毎日落ちているのである。
九日間を耐え抜いたその強靭な精神力をぼくは今にして思う。
 九日目にやっとぼくの受験番号が、掲示板の片隅に、ひっそりとひかえめに、つつましく出ていた。
 その番号は、刀折れ、矢尽きてポロポロになった兵士のように、痛々しく感じられた。
「合格した」という喜びより、
 これで助かった」という感じのほうが強かった。
 それからまた、
「なあんだ」というような感じもした。
「なあんだ、ちゃんと受かったじゃないか」
 ぽくは、大学へ入りさえすれば、ただちにバラ色の青春が展開するのだ、と思い込んでいた。
 そのことだけを思って浪人生活を耐え抜いたといってもよい。
「大学へ入りさえすれば」ただちに恋人ができ、ハイキングでランランということになり、スキーでランランということになり、ダンスパーティでランランということになり、とにかく、来る日も来る日もランララランランと口ずさまずにはいられない日々が到来するのだと堅く信じていた。
 だが、実際はランランの毎日ではなかった。
(略)
 ロシア語の授業は、まるでおもしろくなかった。
 もともと、女のコにモテるために入った露文であったから、勉強に身が入るはずがなかった。
 第一、露文科に入るとロシア語を勉強させられるということをまるで知らなかったのである。
 ロシア語だけが印刷された教科書を、ドッサリ買わされて呆然となった。
 表紙がロシア語であり、目次もまたロシア語であり、そのあとずーっとおしまいのページまで全部ロシア語であった。日本語は一字たりとも出てこなかった。
 ロシア語は、それまで一度も見たことがない不思議な文字である。
「これを一体どうしろというのだ」
 ぼくは怒りさえ感じた。
 これが書物である、とは到底考えられなかった。
 不思議な模様がビッシリ描き込まれた、紙で作られた玩具であるように思えた。
 むろんこれは玩具ではなく、この不思議な模様も、辞書とか文法書などをあやつって調べていくと、ちゃんと解読できるということであった。
 しかも一週間の授業のうちの半分以上が、この不思議な模様との対決に費されるのであった。
(こんなことをこれから四年聞、毎日毎日やっていかなくてはならないのか)
 ぼくは再び呆然となった。
 ぼくは憤慨さえした。
 露文は、どういうわけか左翼系の学生が多く、授業が始まる前には、いつもなにやらそういった内容の討論会みたいなものが開かれるのがつねだった。ぼくはいつも教室のうしろのほうでただ呆然としているより他はなかった。
 そして授業が始まると、ロシア語だらけの本を眺めて、また呆然としていた。
 入学してまもなくのメーデーに、露文専修一年も魁単位で参加した。
 これにもぼくはただ呆然とついていった。
 露文科に入って、ぼくは、ただただ毎日呆然としていたのである。
 赤いノポリやら横幕やらを押し立てて、構内を一周したあと、われわれは神宮外苑を目指して 出ていった。
 警官隊の一隊に遭遇すると、なぜか興奮し突っかかっていったりした。
 そして、神宮外苑に到着すると、記念掃影をして、流れ解散となった。
 今、その写真を取り出してみると、学生服に角帽が半分以上を占めているのである。
 今にして思えば、ノンビリしたデモであった。
 なにしろデモに行って記念撮影をしてくるのであるから、多少過激な運動を伴うハイキングのようなものだったのかもしれない。
 露文のクラスは総勢三十数名で女性が五人ばかりだったように思う。
 ここでもぼくは女性に恵まれなかったのである。
 級友たちは、いつも文学論やら、マルクスやらレーニンやら毛沢東やらを論じており、ぼくはただ呆然とそれを聞いているより他はなかった。
 ぼくは完全な異端者であった。
 当然、友人はできなかった。 」


以上で引用終わり。ショージ君は「友人はできなかった。」と書いているが、苦悩の大学生活一年間を過ごした後、「漫画研究会」なるものが学校に存在することを伝え聞き、そこに入って、園山俊二やしとうきねおや福地泡介など大勢の仲間を得ることができたのだ。東海林さだおのエッセイのうちベスト3に入るほど好きな文章なので、一部抜粋して載せてみた。漱石の文章とのつながりはそんなに(もしかして、全然?)なかったような気もするが、楽しんで読んでいただけるかも?
2010.09.29 Wed l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
「首都圏労働組合特設ブログ」における前回の「岩波書店労働組合員、会社に対して私への弾圧を扇動 (09/02)」 と、今回の「岩波労組、会社に対する金への弾圧扇動をエスカレートさせる (09/27)」を読んだ感想を書いてみる。とはいえ、一体何から、誰に向かってどう書いていいのやら、途方にくれる心持ちがするのだが、そして外部の者が余計なことを書いて金光翔さんが社内でさらに困った事態になるかもしれないと危惧する面もあるのだが、そうそう黙ってもいられない。「岩波労組」はあまりにも酷すぎる。その行為の程度はもはや「残忍」という言葉を使ってもいいレベルにあるようにも思える。

まず頭に入れておくべきは、岩波労組員は全部で200人前後、対する金光翔さんはただ1人だということである(松岡氏は会社を批判する文中で、「強気に易し、云々」と、まるで金さんが強者であるかのように書いていたが、実はあれは自分たちが大勢でたった一人の人物をいじめていることを内心ちゃんと知っていて、そのことを自分自身にもまた外部に対しても打ち消し、否定するためにあのようなことを書いたのではないだろうか? そうでないとしたらあまりにも怖いことだ)。前回のエントリーの「岩波書店労働組合員、会社に対して私への弾圧を扇動」のことで、金さんは岩波労組委員長と執行委員の二人に呼び出されて組合文書の「無断引用」をしているということで注意を受けたそうである。そこで金さんは当然、松岡という人物が書いた文章のなかの

「全社員に関わる社員の安全や信義に基づく情報の安全の不安には、穏便路線で対応し、非正規雇用の組合員には、「期間雇用のカベ」を行使する。こんな強気(金注・ママ)に易し、弱い者に不利益を与えるという岩波書店の理念を踏みにじる、あるいは労使慣行的にも変則的な仕打ちをすることを、絶対に許すことはできない。」

という言葉や、新たに催した組合アンケート(このアンケートも金さんを中傷し、いやがらせをするためにわざわざ企画したのではないかと疑いたくなる面もあるのだが…)の中に出てくる金さんへの中傷と思われる「ヤクザみたいな男」などの発言について、執行委員としてこれらのことをどう考えているのかと訊ねたところ、委員長と執行委員は

「金が「弾圧を扇動している」などと言っている松岡氏の文章の該当箇所は、そもそも何を言っているのか自分たちは分からない。松岡氏は特定の個人や団体を挙げているわけではないし、これを読んだ岩波労組員が、松岡氏が金や首都圏労働組合について語っていると受け取るとは思えない。>」「「ヤクザみたいな男」という表現も、金を指しているとは自分たちは思わなかったし、これを読む岩波労組員もそうは思わないだろう。誰を指して言っているかは全く分からない。」(強調の下線は引用者による)

などと答えたそうだが、不思議な応答である。松岡氏が会社に対して「情報の安全の不安には穏便路線で対応し」とか「こんな強気(金注・ママ)に易し、弱い者に不利益を与える……仕打ち」などと述べている発言内容は誰の目にもまったく尋常ならざるものだが、労組委員長と執行委員のお二人がこの発言について金さんを指していると思わなかったのだとしたら、あるいは松岡氏が錯乱や狂気に陥っているとでも考えたのだろうか? アンケート調査の結果についても同じことが言えると思う。これらの発言が「誰を指して言っているかは全く分からない」という二人の発言が事実なら、こういう調子ではお二人は物事に対して小学生以下の判断能力しか有していないと考えられるので、出版社の仕事は勤まらないのではなかろうか。否、仕事以前に社会生活を営むのも困難なのではないかと思えるのだが、どうだろう。そもそも、松岡氏は金さんが自分を名指しで批判した前回の記事を読んで何と言っているのだろうか。「自分は金さんを指してあんなことを言ったわけではない」、「これは完全な濡れ衣だ。事実はこうだったんだ」とつよく抗議・反論しているのだろうか? もし前回の金さんの記事が的外れなものだったとしたら、松岡氏は当然そうしているはずだろう。

それよりも私はここで委員長と執行委員のお二人に聞きたいことがある。訴訟の問題に関連するので微妙な問題かも知れないが…。「岩波関係者」とともに『週刊新潮』の取材に応じた「岩波組合関係者」とは一体誰なのか? 食堂に張り出しているくらいなのだから「公開の文書」と思われる組合文書をブログに引用したとして金さんに抗議をするより、組合執行委員がまずやるべきことは、一社員をスキャンダル週刊誌に売るという破廉恥な行為をしている組合員が誰なのか、執行部一丸となって真摯に話し合い、調査し、その結果を金さんに報告し、陳謝することであろう。それが普通一般の人間のとるべき態度である。

もう一つ。岩波労組は、昨年の10月1日に、「組合費を払わず、組合に敵対する行動をしている人は、除名すべきです。そのような人に、春闘・秋年闘の果実である一時金を与えるのは、公平を欠きます。」などというコメントを載せた文書を全組合員に配布したそうだが、金さんによると、自身が加盟している「首都圏労働組合は、岩波書店労働組合とは別途、春闘・秋年闘の一時金を要求している」とのことである。この時点でこの人物は金さんに謝罪するのが当然であろう。その上、一時金は、「組合員ではない部課長にも全く同様に(組合員と同基準で)支払われるのである」そうだから、組合としての一時金の位置づけは「給料の後払い」ということではないのだろうか。だとしたら、二重にも三重にも人を侮辱した、どうにも始末に終えない発言の主だと思う。

このような体制では、岩波労組は一風変わった「チンピラ集団」にしか見えない。そもそも私はこれほど酷い組合の話をほとんど聞いた記憶がない。

これは岩波労組だけのことではないが、前々から私はそう感じていたのだが、佐藤優氏を中核にした周辺一帯はまるでジョージ・オーウェルの「1984年」の世界のようである。実によく似ている。話していること、書いていることが、即そのまま信じられることはほとんどなく、これは本当のことか、とか、あるいは何らかの裏の思惑があるのではないかと常に疑心暗鬼を感じさせるところが。

もし2007年暮れに金さんの「<佐藤優現象>批判」が出ていなかったとしたら、どうだっただろう。これでも佐藤氏周辺は多少は自分たちへの批判の目を意識してはいるだろうから、もしあの論文の発表がなかったならば、状況はますます酷くなっていただろうと私は感じる。当時、私はかりに金さんが今批判文を書かなかったとしても、そのうち他の人がどのような形式にしろ厳しい批判文を書くことになっただろうと思っていたが、その後の事態を見ると、あのように体系だった洞察の行き届いた批判は出なかったおそれがある。不信の内容は金さんと少し異なっていたかも知れないが、同じように佐藤氏の書くもの(二枚舌そのものの文筆活動。一体、このように公然と媒体によって主張を使い分け、読者をごまかしつつ文章を書きつづけた人物が戦前・戦後を通して一人でも存在したのだろうか? これは本来スパイだけがやることである。しかしスパイならば両極端の考え・思想を双方ともに堂々と公衆の目に曝すことはできない。常に緊張の中にいるはずである。佐藤氏はあちこちの出版社やライター仲間などの協力・支援によってちょこまかと筆先を操作し、ごまかし、騙すことで文筆活動をしているのである。本心を言えば、私は国家権力の強制もなしに、まともな出版社がこのような行為に手を染めたり、手を貸したりしたことは国際的にもないのではないかと思っている。ここ数年もしやそういう話がどこかに出てないか本を読む時など気をつけているが、少なくとも公的には見当たらないようである。このような問題について岩波書店上層部、および岩波書店労働組合の見解を聞きたいものである。)に不信感をもっていた私は金さんがあの論文を書いてくれたことに読者の一人として感謝している。

そのような事情も作用しているのかも知れないが、私は金さんが『世界』編集部に佐藤優氏の起用に異議を唱えたこと、それが受け入れられなかったことで『世界』編集部を離れたこと、組合を見切って離れたこと、自らの観察したことを論文として雑誌に発表したこと、またその後も労使一体となったいじめ・いやがらせにもかかわらず職場としての岩波書店からは離れなかったこと。それらの一連の言動に、2つの文章を重ねることがある。一つはある小説の一場面なので引用するのはやめておくが、もう一つは藤田省三の次の文章である。この際だから、引用しておきたい。題名は「離脱の精神」、初出は1978年の(『アサヒグラフ』11月3日号である。(わりと難解な文章かも知れないので改行の部分は引用者の判断で行を空けることにした。)



  離脱の精神 ――戦後経験の一断章―― 

 「俺たちは公務員であって軍人ではない。だから戦争には参加すべきではない」という決議を、海上保安庁の掃海艇の乗組員が、連れて行かれた戦争の現場で行なって、断然たる戦線離脱の挙に出たことがあったようである。一と月ぐらい前になろうか、テレビの第一チャンネルで映された「朝鮮戦争秘史」という記録がその事実を伝えてくれた。

1950年(昭和25年)10月のことであった。米軍は三八度線の遥か北に位置する元山に上陸作戦をやろうとして、その辺りの海域の機雷を一掃するために日本の掃海艇を動員したのであった。たくらんだ者はもちろんマッカーサーたちであったが、そのたくらみに応じたのは吉田茂と初代海上保安庁長官大久保武雄であった。そこで、太平洋戦争中に日本の海一円にバラ撒かれていた機雷を取り除く作業に従事していた掃海艇が、行先も漠然としか知らされないで下関の唐戸桟橋に呼び集められた。そして、怪し気な雲行きを察知して船出を嫌がった乗組貞を、無理やりに急き立てて元山沖まで直行させ、米海軍と一緒に掃海作戦に参加させた。一隻の日本の掃海艇が機雷に触れて爆沈し一人が死んだ。それを機会に「能勢隊」という一隊の人達は現場で会議を開いた。冒頭の一句はその時に発せられた。それは事実上、戦線離脱の宣言であった。現地の米軍司令官は激怒して荒れ狂ったが、能勢隊は平静にそれに抗って一隊だけさっさと帰国し、能勢隊長は帰国後、職を奪われた、という。

 これを伝えたテレビの記録は、当事者の各種の人々のナマの声を集めているために、一層の迫真力を持っていた。例えば、マッカーサーや吉田茂とともに事の決定に参画した大久保長官は、さも誇らしげにその動員経過を喋っていた。(何と阿呆らしい誇りであろうか。)能勢隊長は、隊員一同の意向を尊重した、あの決断について、いくらか沈痛な面持ちで語っていた。(真面目な人柄がうかがわれるようであった。)一般の乗組員は当時の不安や当惑を正直に話していた。(国際的権力関係のコストや国家の重荷などを無理やりに背負わされる者の感慨がそこに現われていた。)その光景だけで、もう、大久保長官などの司令部連中と、戦争の現場を突然押し付けられた人達との間のコントラストは歴然としていた。その脈絡の中で発せられた「我々は公務員であって軍人ではないから戦争には参加すべきではない」という言葉は鮮かに生きていた。

 恐らく能勢隊の人達の中には旧海軍軍人がかなりいたことであろう。そして戦後も生活手段を求めて保安庁に属し危険を伴う掃海艇に乗っていたところから推測すると、この人達の生活問題の逼迫もさることながら、考え方の点では、旧海軍的な物の見方に対して甚しく批判的な地点に立っていた人達とは思えない。占領軍や日本の当局も多少はそこの点を見込んで命令したのでもあろう。そういう人達から断乎たる文民宣言が出たのである。戦後五年間の激動の中で獲得された歴史的経験がその宣言を無意識の裡に彼らの精神的身体の中に用意していたのに間違いない。現に「公務員」という単語からして戦前の日本にはなかった。いわんや、上からの命令を拒否して戦線離脱を積極的に主張させるような「公務員」概念は五年前までは想像することさえ出来なかった筈である。この事件の起こつた時点においても、そして民主主義が「定着」したなどと言われる今日においても、日本の役人の世界でこういう「公務員」概念は一般的には無かったし今もない筈である。戦後日本の精神革命は、この比較的に「保守的」な人々が否応なしに決断を迫られた此の時におのずと口にした一句の中に、その小さなしかし奥深い結晶物を人知れず表出していたのである。

 戦後の占領の制度的帰結の一つである「法律革命」が、「ザ・パブリック・サービス」という英語の直訳としての「公務員」を、戦前の「官」(それも元々は矢張り古代律令国家の行なった法律革命に際して中国帝国から直輸入したものであったのだが)に換えて使用するよう命じて以来、今日まで続いている単なる名称革命がこの時にだけ(と言っても過言ではないであろう)その名にふさわしい精神史的結実を自発的に産み出していた。しかもその精神の表現が、その「名称革命」を強制的に推進して来た当の権力である米軍に向かって対抗的に提出されている点に注目するならば、如何にその場合に能勢隊の示した文民としての「公務員」精神が自主的で本物で内面的確信に裏づけられたものであったかが分る筈である。名称としての「公務員」の出自が英語の直訳であることなどは此処ではもうどうでも良いことである。文民であることを普遍的価値に基く義務だと考えている精神と、そういう者に軍事行動を強制している権力との対抗だけが現実の問題状況だったのである。その問題状況において文民精神を貫徹する者こそが平和の戦士なのであり反軍国主義者なのであり、在るべき姿における「公務員」なのである。こうして戦後精神は此処に輝かしい一頂点を産み出していたのであった。

 むろん、この能勢隊の人達の内面には戦前から連続して勇気という徳が生き続けていた。そしてその勇気は戦後5年間の経験によって鍛えられて本来あるべき姿へと形態変化を遂げ、団体と権力とから加えられる「卑怯者」という罵声に耐えながら、決然として離脱を通告できる程にまで精神的に成熟したのであった。その成熟過程には、制度や組織によって強制されるままに唯唯諾諾として虚偽の「己が罪」を「告白」する悲惨な「自己批判」とは全く逆の、社会の精神を自己と共に再生させ復活させる本来の自己批判――歴史によって貫かれながら、そのことを通して、却て歴史そのものを変えていく相互主体的な自己批判――が明かに伏在していた。戦後革命の光栄ある核の一つは其処に在った、と言ってよいであろう。

 そうして、本当の精神的な勇気とは、それが精神である以上、組織的戦闘行為に加わって人一倍の勇敢さを示す場合よりも、むしろ団体権力の圧迫と衆を恃んだ便乗的批難とに抗して敢えてそこから離脱する決心をする場合にこそしばしば現われ出るものである。古代以来の歴史においてすでに、その精神的勇気は或は「ストア的退却」と呼ばれたり或は「エピクロス的撤退」と名づけられたり又或は「世界の断念」と言われたりした。しかしそう呼ばれた人たちこそが、堕落したポリスからの厳しい離脱によって、人間に、考えることの意味――「哲学」――を教えた。私たちは、必要とあらば、いつでも、どんな団体からでも離脱することが出来なければならないであろう。そうする時、その団体は、批難・中傷・罵声などのような言論的表面においてではなく字義通り身を以て行なわれた批判に曝されるのであり、そこに生まれる団体の危機の自覚を通してだけ、団体の構成の在り方は内側から変えられることになるであろう。

 私たちが例えば国家から離脱したからといって、それは私たちが日本人であることを否定することではなく、むしろ逆に、団体意識の過剰な日本を改めて、公平な感覚を備えた日本へと変えることにつながる筈である。その他の政治団体についても文化団体についても、職場であろうと地域体であろうと、事情は同じである。離脱の精神を含まぬ単純な「参加」主義は、「翼賛」という名に代表される左右大小さまざまの追随主義を産む。そのことは既に歴史が痛烈に教えている。

 「離婚」の自由という原則的危機を絶えず包蔵する時にだけ、「結婚」における結合の積極性は存在しうる。分離と結合、離脱と所属、等々の弁証法はかくの如くである。民族問題についてであろうと諸組織についてであろうとこの真理に変わりはない。そうしてその真理の実現態を支える精神的基礎の鍵は離脱の精神の存否に他ならないのである。理想的に言えば、全成員の脱出と亡命の可能性が常に考慮に入れられている時、始めて、国家を含む全ての組織団体は健康でありうる。 」(「精神史的考察」所収・平凡社ライブラリー1993年)


金光翔さんは、今回の記事の最後に、「岩波労組は、私や首都圏労働組合に関する陋劣としか言いようがない弾圧要請を即刻やめ、弾圧要請と誹謗中傷の文書を社内中に配布していることを私に謝罪すべきである。」と当然のことを書いているが、また、「岩波労組が本心から経営状況に危機感を持っているならば、「社内一丸」やら「会社としての真の一体感」といった無内容なスローガンを唱えたり私の弾圧を会社に扇動したりするのではなく、上のようなごく当然の(最低限でしかないが)現実認識のもとで、再出発すべきであろう。」とも述べている。耳を傾けるべき言葉ではないだろうか。
2010.09.27 Mon l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
鈴木宗男氏の上告が棄却され、実刑が確定したことに関して、昨日(9月8日)、とあるブログで「今日は、国民の憎悪が検察に向けられる記念日です。祝日にしましょう。」というタイトルの記事(http://richardkoshimizu.at.webry.info/201009/article_22.html)を見て、目を疑った。そこには、

「NYのユダヤ人が、日本で飼っている検察のゴロツキどもを使って冤罪で陥れた日露フィクサー、鈴木宗男先生が収監されます。

いつまでも日本を支配下に置き、日本から生き血を吸いたいNYの金融ユダヤ人たちは、下品な検察のゴロツキ役人を使って、鈴木氏を排除することで「二島先行返還」による日ロ関係改善を阻止したのです。そして、今日、鈴木氏の冤罪は、ついに実刑として確定してしまいました。今日は、その意味で日本検察が金融ユダヤ人に飼われたゴロツキ・人間の屑であると確定した記念日でもあります。鈴木先生、どこにあっても戦うことは可能です。逆境での奮闘の仕方を我々に見せてください。」

と書かれていたのだ。鈴木宗男氏がユダヤの手先である検察によって事件をでっち上げられ、実刑を押しつけられたの? 私はこれまでずっと、鈴木宗男氏はイスラエルと大変深い友好関係を持っている政治家だとばかり思ってきたのだけど。現に、鈴木氏の盟友と思われる佐藤優氏は次のように述べている。

「日本の政治家、外交官で、対米配慮からイスラエルに対する友好関係を口にする人たちは時折います。しかし、日本の国益のために政治的リスクを冒して日本とイスラエルの関係を勧めようとした政治家は、私が知る中では鈴木宗男さんだけです。」(『国家の罠』岩波書店2006年12月)

また、昨年の初頭、イスラエルによるパレスチナ自治区・ガザへの見境のない猛攻撃が行なわれていた最中、週刊誌などで、イスラエルの攻撃は正当である、悪いのはハマスだ、パレスチナだ、というようにイスラエル全面擁護論を展開した佐藤氏に加えて、鈴木宗男氏も、こちらのサイトで次のような指摘を受けていた。

「イスラエルがガザ地区に対して攻撃を加える最中、新党大地の鈴木宗男衆議院議員が、「ハマスがテロリストである事を政府に対して確認する質問主意書」を繰り返し提出している事が判明しました。
内容的には、「ハマスがテロリストである」とすることで、イスラエルによる虐殺を正当化するものであるのみならず、それをファタハのパレスチナ自治政府、パレスチナ民衆全体をも「テロリスト」だとして描き出そうとする、恐るべきものでした。」

このサイトには、鈴木氏からの日本政府に対する幾つもの質問書が掲載されているが、これによると、鈴木氏は、イスラエルのガザ攻撃に対して日本政府が、「イスラエル、パレスチナ自治政府、エジプト、イラン等の政府関係者」と電話協議をしたり、「一千万ドル規模の緊急人道支援、有馬龍夫外務省参与(中東和平問題担当特使)の現地派遣による現地政府要人に対する停戦に向けた働きかけといった関与を行ってきた。」ことについて執拗な質問を行ない、暗に政府のパレスチナへの支援行為を批判している。この質問書を読むかぎりでは、鈴木氏も、佐藤氏同様、日本政府は全面的にイスラエル寄りの位置に立つよう働きかけているとしか思えない。

佐藤氏といい、鈴木氏といい、イスラエルにすればこんな有り難い人物は日本国中探してもそうそう見つからないはずだ。こういう貴重な人材(しかも大物政治家)を「NYのユダヤ人」の命を受けた検察が陥れるというようなストーリーが成り立つの? どうして? 何の目的で? 荒唐無稽すぎて私には想像もおよばない。

このブログだけではない。鈴木氏の上告棄却を受けて佐藤優氏も早速、「佐藤優の眼光紙背:第79回」において、「なぜ最高裁はこのタイミングで鈴木宗男衆議院議員 の上告を棄却したか?」というタイトルの下、超主観的というか、陰謀論的というか、いつもながらの佐藤氏特有の論説を披露している。

 「 このタイミングで最高裁判所の司法官僚が鈴木氏の上告棄却を決定したことは、きわめて合理的だ。それには2つの理由がある。

 第1の理由は、9月10日に大阪地方裁判所で行われる村木厚子元厚生労働省局長の裁刑事判で、無罪判決が予想されているからだ。そうなれば特捜検察は正義の味方であるという神話が裁判所によって覆される。当然、世論の特捜検察の取り調べに対する疑念と批判がかつてなく強まる。そうなると、「国策捜査」によって事件が作られたという鈴木氏の主張を完全に無視することができなくなる。

 第2の理由は9月14日の民主党代表選挙で小沢一郎前幹事長が当選する可能性があるからだ。最高裁判所の司法官僚にとっては、これも頭痛の種だ。小沢氏は鈴木氏の政治的能力を高く評価している。そもそも鈴木氏を衆議院外務委員長に抜擢したのは小沢氏だ。小沢政権になれば鈴木氏が政府の要職に就くなど、政治的影響力が高まるのは必至だ。そうすれば排除が困難になる。」

上の文章のうち、「村木厚子元厚生労働省局長の裁刑事判で、無罪判決が予想されている」ことについてはそのとおりなのだろうが、これは何ら驚くべきことでも意外なことでもない。私たち大衆は、冤罪が多発していることもよく知っているし、またその中には単なる過誤ばかりではなく、でっち上げもかなり入っているのではないかという疑いも常々持っている。しかし、村木さんが無罪判決を受けたら、検察は、「「国策捜査」によって事件が作られたという鈴木氏の主張を完全に無視することができなくなる」という佐藤氏の主張はどうだろうか。裁判所は、村木さんが事件への関与を認めた供述調書の大半を採用しなかったというではないか。鈴木氏や佐藤氏の場合とは全然事情が異なっているらしいこともさることながら、そもそも「特捜検察は正義の味方であるという神話」など今さら無邪気に信じている人はそういないだろう。佐藤氏も鈴木氏も、自分たちを「国策捜査」の犠牲者だというのならば、その訴えを真に理解してもらうためになすべきことは、裁判の経過を公にすることだったのではないだろうか。特に事件の核心部分については欠かせなかったはずである。

私は、4、5年前から佐藤氏らがあれほど「国策捜査」を訴えているのだから、その訴えを証明しえる(読者の立場からすれば検証可能な)具体的かつ詳細な裁判記録が雑誌やネット上に公開されるのではないかと思ってきたが、いまだにそれはなされていないようなのだが? 無実を主張する以上、その根拠、証拠をきちんと表示するのは当人の当然の責任であり、これまで無実(「国策捜査」の場合も同様のはず)を訴える一般市民は誰でもそのようにしてきたはずである。鈴木氏、佐藤氏が忙しくてそれができないのならば、『岩波書店』、『週刊金曜日』、『講談社』など、佐藤氏が連載を持っている雑誌社、あるいは魚住昭氏、青木理氏などの親しいライターなど人材には事欠かないのだから、依頼すればよかったのではないだろうか。私はその欠如をかねがね不審に感じてきた。青木氏などは、佐藤氏の有罪が確定したとき、『週刊金曜日』に「「国策捜査」追認する最高裁佐藤優氏上告棄却で有罪に」というタイトルで、次のように書いている。

「多くの人が既に周知の事実として認識しているように、これらはいずれも、政界やメディアなどを覆い尽くした鈴木宗男氏バッシングの中で「ムネオ逮捕ありき」の捜査に突き進んだ検察が無理矢理に描き出した「虚構の絵図」に過ぎない。いまさら語るまでもないが、佐藤氏は二〇〇五年に『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を著し、「国策捜査」という言葉を人口に膾炙させるきっかけをつくった。その後の活発な言論活動を含め、佐藤氏の言説が広く受け入れられているのは、検察捜査の歪みを何よりも雄弁に物語る。」(「金曜アンテナ」2009.07.10)

お分かりのように、「虚構の絵図」である根拠は示されていない。また、「「国策捜査」という言葉を人口に膾炙させるきっかけをつくった」ことや「佐藤氏の言説が広く受け入れられている」ことが、「検察捜査の歪みを何よりも雄弁に物語る」という青木氏の主張はあまりにも無責任である。裁判は一にも二にも証拠、根拠である。根拠なしの無実の主張などあり得ないことは誰でも分かること。まして青木氏は物書きではないか。これは上述した雑誌社にも言えることだが、私は今では「国策捜査」であることの根拠を明示しようにも明示できないので、こういう詭弁を用いてすましているのではないかという疑いさえおぼえる。

さて、このタイミングで最高裁が鈴木氏の上告棄却を決定したことのもう一つの理由として、佐藤氏は、下記の点を挙げている。

「小沢氏は鈴木氏の政治的能力を高く評価している。そもそも鈴木氏を衆議院外務委員長に抜擢したのは小沢氏だ。小沢政権になれば鈴木氏が政府の要職に就くなど、政治的影響力が高まるのは必至だ。そうすれば排除が困難になる。」

鈴木氏を衆議院外務委員長に抜擢したのは小沢氏だということを佐藤氏のこの証言で私ははじめて知ったが、鈴木氏の有罪の可能性がきわめて高いということは小沢氏も重々承知していたはずである。それにもかかわらず、鈴木氏を重要な役職に任命したというのは、小沢氏の政治的失点であろう。それ以外に感想は浮かんでこない。

鈴木氏は記者会見で、検察のなかに青年将校がいて、その人たちが自分に対する「国策捜査」をでっち上げたというような趣旨の話をしていた。これは佐藤氏の持論でもあるようで、私は佐藤氏がそのように述べるのを昨年から今年にかけて何度か聞いた覚えがある。民主党政権になったら検察には都合が悪いことがあるというような話だったと思うが、しかし、佐藤氏は、たしか2005~2006年頃にも同じことを言っていた。魚住昭氏との対談か座談会でそのような話をしきりにしていたのを私は週刊誌で読んだ記憶があるのだが、もちろん当時は自民党政権下であった。

そもそも現在の検察が青年将校化しているというのはどういう意味なのだろうか? 「青年将校」と聞いて私たちがとっさに思い浮かべるのは、戦前の海軍および陸軍の若い将校たちによって引き起こされた「5・15事件」とか「2・26事件」のようなテロを含んだ国家革新運動であるが、両者の間に一体どのような類似性、共通性があるのか、私などにはさっぱり分からない。具体的な説明や指摘もなくこのような特異かつ意味不明の言辞が飛び交う現状に私は不審と危険を感じる。
2010.09.09 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (1) l top
   
玉井策郎氏は、1949(昭和24)年から1955(昭和30)年までの6年間、大阪拘置所の所長を務めた人だが、在職中の1953年に「死と壁―死刑はかくして執行される」(創元社)という本を刊行している。死刑に関してはおびただしい質量の書籍・史料があるが、「死と壁」には、獄中における死刑囚の生活や精神の状態、特に処刑前後の心情が手に触れるように克明に率直に記されていて、私が読んだ死刑関連の本のなかでは最もふかい感銘を受けた一冊であった。玉井氏は大阪拘置所に赴任する前は、長崎の少年刑務所に勤務していられた。少年たちの更生に携わる仕事に誇りと喜びとを感じていて、大阪拘置所への転任通知を受けたときは、一度は鄭重に断ったそうである。理由は、大阪拘置所には死刑囚がいる、所長として死刑執行に中心的に関与しなければならないが、その重荷に耐えられそうもないと思われたからだそうだが、しかし二度目の異動命令にはもう逆らうことは許されなかったということである。

「死と壁」には次のような文章が見られる。

「よく私が人から聞くことですが、死刑囚の取扱いが余り寛大過ぎる。もっと因果応報ということを知らしめて、自分の犯した罪の報いというものの苦しさを味わわすべきだという意見があります。しかし、これは人間としての彼等に接していない人の、誤った考えだと思っています。人は決して肉体の苦しみによって、自分の行為を反省するものではありません。その証拠に、同じ職員の中でも、規則一点張りの、厳格過ぎる職員に、保安上の事故が度々演じられているのが、その一例です。/厳し過ぎず、甘やかさず、彼等の立場を、自ら認識させるには、どうしても彼等を理解する上に立った愛情が必要なのです。すべての死刑囚に対する処遇の根本は、そこに源を発していなければならないということは決して言い過ぎではないでしょう。」

上記のように玉井氏が「死刑囚の取扱いが余り寛大過ぎる」と人から聞くというのは、一つには、当時の死刑囚の処遇が現在とはまったく異なっていて、各刑事施設に任された自由裁量の余地が大きかったことによる。1963年、一片の「法務省通達」によって突如打って変わって自由が厳しく制限されることになったわけだが、それまでは部屋で小鳥を飼ったり、短歌や俳句の会、お茶の会、生け花の会、野球大会など、死刑囚同士の交流も定期的に行なわれていたし、外部との通信や面会もほとんど制限なく許可されていたそうである。玉井氏の運用による大阪拘置所の処遇は特に寛大だったらしい(作家の加賀乙彦の弁。東京拘置所精神医官であった加賀乙彦は玉井氏が去った後の大阪拘置所を訪れて、職員から玉井氏にまつわる敬意のこもったさまざまな話を聞いたという)。著書からもう少し文章の引用を続けたい。

「死刑囚と呼ばれる見捨てられた人達も、決して生れながらの極悪人ではなかったのです。そのことは、私達が毎日彼等に接していて初めて身に滲みて感じられてまいります。/ 人を殺したような人間が何が可哀相だとおっしゃる方もあると思いますが、それは彼が罪を犯し、犯した直後までの話ではないでしょうか。/ 人知れず被害者の霊を慰めながら、自分の運命を達観して、死を通り越した未来に生きようとする修養に懸命になっている死刑囚は、時には私達以上の清浄な世界に呼吸している人間でもあるのです。/ ですから、私達が彼等を取扱うのにも、これが極悪人だという気持ちでは接しておりません。」

「死刑囚は、死というものに異常な神経を働かしております。これがとても一般の人には想像も出来ないほど敏感なのです。一例を申しますと、刑務所に収容されている受刑者で、5年、10年独居生活を続けている人であっても、遠くで聞こえる鍵の開け方で誰が開けているかを的確に当てる人はおりませんが、死刑確定者は、ものの3ヶ月もすれば、足音を聞いただけでどの職員が歩いているか、(略)誰が開けたかを大体知っております。そんな調子でありますので、今日は誰それが執行される日だと知ると、その時間には同囚のその場の光景を自分の身にあてはめて、恐ろしいほど神経が緊張しているのです。/ 希望のない、死を目前に控えたこの人達の苦痛というものは、一般の方々の想像を絶するものがあるのです。もしこの苦悩のあるがままに、生きたい本能から生まれた狂乱のような心のままで死刑を執行するとしたらどうでしょう。人間が同じ人間を裁くとしましても、それはあまりにも残酷な仕打となるのではないでしょうか。」

「現在、死刑という刑罰があるかぎり、これを否定するわけにはまいりません。(略)少しでも残酷でないようないろいろな配慮があってこそ私達の気持も僅かながらも充たされるのでありまして、刑をあえて残酷に執行するようなことがあっては私達矯正職員の名に恥じるのです。いや人間としてそれは許される行為ではないのです。/ 私達は懸命に、この人達を導くことに努力しております。冷ややかな、そして恐怖におののいている死刑囚を、温かい、生命の本当の姿を見出す人間に立ち返らすために、出来るだけの真実と愛情を捧げて努力しているのです。」

「ある死刑囚にこんなのがありました。彼は一切の宗教を否定し、彼に注がれる一切の愛情を彼自ら振り切って、何事によらず曲解し、どうせ死ぬ身だという捨鉢の気分で、死ぬ日まで所内でも凶暴性を発揮していたのです。(略)職員も彼には全く手の施しようがなく本当に困った存在でありました。死刑執行の当日でした。いよいよこれでお別れという最後の時です。私はその男の手を握って、「あなたは決して悪い人ではありません。こうしてお別れしなければならないことを、ここの職員一同どんなに悲しんでいるかわかりません」と、こう申しますと、彼はその場で大声をあげて泣き出し、「これ程の悪人をまだそんなにまで言って下さいますか。ああ、このまま死ぬのが口惜しい。せめて一日でも人間らしい私を見て頂きたかった」そして「自分は執行場でウンと暴れて暴れて暴れ廻して、一人ぐらい傷つけて死ぬ気でおった。それがもう今の一言で出来ません」そういって、実に静かな微笑を浮かべ有難うございましたの声涙を残して去って行きました。/ 最もたちの悪い死刑囚の一例がこれであります。(略)無闇な圧力では駄目なのです。 」(「死と壁」より)

当時、玉井策郎氏は、執行の2日前に当人を部屋に呼んで「残念ですが、お別れしなければならなくなりました…」と自らの口で執行を告げていたそうである。家族、親族、友人と最後の面会をしたり、遺書を書いたり、心の準備をするための時間を与えていたわけである。その2日間の時間について想像をめぐらせると、これもまた残酷なことに違いないと思えるのだが、しかし現在のように、朝食後、いきなり執行のために刑務官に独房を急襲されて連行されるよりはやはり人間的であるとは言えるのだろう。ある時、玉井氏は、執行を明日に控えた死刑囚から面と向かって「死刑執行官は、ある意味から言えば体裁のいい殺人犯だ」ととつとつと言われたことがあるそうである。「死と壁」には、その時「その言葉を打消す勇気が出なかった。」と記述されていた。

   
1956(昭和31)年に高田なほ子、市川房枝、羽仁五郎などの議員によって国会に死刑廃止法案が提出されたことがあるが、この法案提出に弾みをつけ、後押しをしたのは、玉井氏の「死と壁」だったと聞いたことがある。周知のようにこの法案は審議未了で廃案になったのだが、この時「法務委員会公聴会」に玉井氏は論者の一人として出席して死刑廃止の弁を述べている。これは「法務委員会公聴会」記録として今も残っているので、ここから玉井氏の弁論部分を抜粋して以下に掲載する。この時の出席者は、議員として、高田なほ子、一松定吉、宮城タマヨ、赤松常子、羽仁五郎、市川房枝など。また公述人としては、木村亀二(東北大学教授)、正木亮(弁護士)、渡辺道子(Y・W・C・A常任委員)、河野勝斎(日本医科大学事務総長)、古畑種基(東京医科歯科大学教授)、吉益脩夫(東京大学教授)、島田武夫(弁護士)、森戸じん作(弁護士)、等々。(なお、強調のための下線・太文字は引用者による)


第024回国会 法務委員会公聴会 第3号

昭和31年5月11日(金曜日)
   午前10時44分開会
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本日の会議に付した案件
刑法等の一部を改正する法律案(高田なほ子君外6名発議)
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委員長(高田なほ子君) これより法務委員会公聴会を開会いたします。/ 刑法等の一部を改正する法律案を議題に供します。公聴会の問題は、死刑廃止の是非についてであります。

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委員長(高田なほ子君) 次に、奈良少年刑務所長の玉井策郎さんにお願いをいたします。

一松定吉君 ちょっと私、御講演をなさる方にお願いがあります。まず結論を出していただきたい。死刑廃止には賛成、反対と、それから何ゆえに賛成であるか、何ゆえに反対であるかというように、それを説明していただくと、おれわれ非常によくわかりますから、どうかそういうように御講演を願いたい。

公述人(玉井策郎君) 私は、28年間の刑務官生活と、その間に6カ年間の間の死刑確定者のめんどうを見さしていただいた経験から、死刑の廃止に賛成するものであります。
 この理由について、一応しばらく話してみたいと思いますが、これは、あくまでも私個人の考えであるということを御了承願いたいと思います。
 刑務官すなわち矯正職員の任務は、受刑者を矯正して、善良なる国民の一人として、この社会に復帰させることであります。従って私たちは、私たちの職責を遂行するに当ては、常に私たちは教育者であると自負し、誇りを持って私たちの仕事に精励しているのであります。と同時に、受刑者に対しても、その心構えをもって常に接しておるものであります。ところが、この死刑確定者、いわゆる極刑者に対しては、この尊い教育者としての使命は通用いたしません。人の生命を奪って何の教育でありましょう。教育と死刑、この二つの相反する現実に直面する私は、その大きな矛盾に悩んできたものであります。死刑という刑罰が存在する限り、そしてその執行を私たち矯正職員が行わなければならない限り、私は方便的に任務を遂行するのであって、そこに教育としての良心は片鱗をも示すことはできない。人殺しとみずからあざけっておるものであります。この点から考えても、私は当然死刑は廃止してほしい。そして、もし直ちに廃止することができないとするならば、さしずめ死刑の執行は矯正職員にやらせることだけは、せめて直ちにやめさしてもらいたいということを懇望するものであります。(拍手)これは、私が過去6カ年間大阪拘置所長として、数多くの死刑確定者と接し、彼らの死刑執行に立ち会ってきた経験から結論づけられたものであります。
 前にも話したように、私は昭和4年にこの刑務官を拝命しました。昭和24年から昨年まで、まあ6カ年大阪拘置所長として勤務しました。その間に、46人の人の死刑の執行をして参りました。言葉をかえて申しますというと、いかに法律という定めによって、この手続によって執行するとはいえ、46人の人々を私は殺してきたものであります。死刑は人間が人間の生命を剥奪することであって、これほど血なまぐさい残虐な刑罰はありません。憲法にも規定してあるように、公務員によるところの拷問及び残虐な刑罰は絶対に禁じている。でもあるのに、私はこの残虐な刑罰を執行し、目撃せねばならないのであります。個人的には何の恨みもないその人間を人間が殺す、その不法の瞬間を私思い知らされてきたのであります。凶悪な犯罪は、もちろん天人ともに許されるところではありません。ただ、目の前に起った犯罪の事実だけでそれを見て、その人間が生れつき野獣性のある人間だと断定して、絶対に真人間にはなれない極悪非道な悪人だときめてしまっていいのでしょうか。私が6カ年間に接してきた、そうして送った46人の人々は、やはりその性は善でありました。人間としての美点も持っておりました。いな、かえって自分の犯した大きな罪に対して反省ができてからの彼らは、むしろ私たちよりも、その心の持ち方ははるかにすぐれておったのであります。そんな気持になった彼らをも殺さなければならない。何が何でも、人を殺した以上、その人を殺してやるぞというような応報的な考え方、目には目、歯には歯をというようなかたき討ち的な考え方の中に、どこに教育的な要素が見出せましょう。私たちが刑罰執行の場としての刑務所での受刑者に対する考え方、すなわち教育的な行刑理念とは、これは根本的に合致しておりません。最初に申しましたように、私たち矯正職員は、刑の執行と同時に、受刑者を更生させて、社会に復帰させるという大使命、これをもって彼らに彼らの間違った考え方、行為を反省させて、これを善導し、教育して、再び社会のりっぱな一員として世の中に送り出すことに懸命の努力をしているのであります。彼らを矯正して、一日も早く刑務所の門から社会に送り出すことに、ほんとうの生きがいを感じているものであります。この喜び、この感激を踏みにじるものが死刑の存在であります。何としても死刑を廃止しなければなりません。このように苦しみ悩みながら、私は法と義務、人情と道徳のジレンマに陥り、その苦しみ悩みをごまかすために、法律の定める手続によっているのであるからとか、公共の福祉に反する場合はとか、火あぶりやはりつけと異なって、現在の執行方法は普通各国で行われている方法であって、さほど残虐ではないんだなどと自己弁護をして、彼らに接する場合には親切に、そうしてその執行後の死体は丁重に埋葬してやるというようなことによって、みずからを慰める方法を見出し、辛うじて自己満足的な理論の裏付けをしようとして苦しんできたのであります。どんなにしかしごまかしてみても、人間が人間を殺すということは残虐であります。これ以上の残虐はないと思います。もちろん自分は現在死にたくない、死の恐怖におびえている彼らは喜んで死ねる境地、この境地は実際に本物かどうか、あるいは私だけの自慰かもしれません。この境地にまで持っていき、絞首台に立ったとき、安心立命して往生させようと、文字通り懸命の努力はして参りました。しかし、それでもなおかつ死刑の執行が残虐であるという事実は否定できません。私は、死刑執行のつど、このように考えました。日夜多くの職員あるいは教誨師その他の関係の方々の努力によって、こんなにまでりっぱな人間にしてやったのに、もし社会がこの人に何かを求めようとするならば、普通の人以上にその期待に沿える人間にまでなった。この成長した人を、それなのに、何ゆえに今になって彼らを殺さなければならないかという疑問、死刑を存続させるという考え方は応報刑罰にほかなりません。従って、教育刑を信奉する刑務官としての私は、死刑は廃止すべきであると結論し、現在の死刑に該当する犯罪者に対して、もっと合理的な、かつ、もっと効果的な制度があるのではなかろうかと思うのであります。不定期刑制度等もその一つではなかろうかと思います。
 死刑廃止の根拠は種々ありますが、矯正職員である私の立場から以上を論じ、死刑廃止に賛成するものであります。(拍手) 」(「法務委員会公聴会」より)



「第024回国会 法務委員会公聴会 第3号」の全記録は前記のサイトで読むことができる。玉井氏の著書「死と壁」は現在は絶版になっているのではないかと思われるが、92年に「弥生書房」から新たに刊行されているので、公立図書館にはだいたい備わっているのではないかと思う。一読をお奨めしたい。
2010.09.07 Tue l 死刑 l コメント (0) トラックバック (1) l top
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