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工藤美代子氏が著書「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」において、「朝鮮人の暴動」が発生したという確かな根拠を一つも示せない、しかし一見して刺激的な内容のさまざまな新聞記事(特に『河北新報』)を正確な報道と勝手に決めつけ、「ここまでさまざまな経緯を見てきたことで、(略)実際に襲撃があったからこそ住民と自警団が自衛的に彼らを排除したのだということが理解されると思う。」(p134)と、読者が唖然とせざるをえないようなことを述べていることは前回紹介した。しかし、その後、さすがに政府の姿勢は変化した。その変化について、工藤氏は「朝鮮人の襲撃はなかった」ということにされたといって、次のようにつよく非難している。(以下の下線および太字による強調はすべて引用者による)

「 理由もなく「殺人事件」が実行された事実はない。ない事実は「嘘」ということである。/ 朝鮮人による襲撃があったから、殺傷事件が起きたのである。/ 実際に起きた事実を後になって隠蔽し、「朝鮮人の襲撃はなかった」ことにしたのは、実は政府そのものなのである。俗にいえば自警団は政府によって突如としてハシゴを外されたのである。 震災発生当初、新聞各紙は暴行を繰り返しながら東京市内へ侵入してくる朝鮮人の犯罪を、事実の情報に従って大きく掲げ、国民に警戒を促す警鐘を鳴らしていた。ところが、間もなく戒厳令下の政府から事実の公表をとめられる事態となった。奇怪としかいいようのない「超法規的措置」がとられたのだ。奇妙なことに、朝鮮人による暴虐行為はなかったことに一転させられたのだ。」 (p135~136)

政府によって新聞社が「事実の公表」をとめられる事態になったのは、新聞各紙のそれまでの記事が実はデマであり、「事実の情報」ではなかったからではないか? というごく普通の疑問は工藤氏の脳裏には浮かばないようである。工藤氏は、これまで「これ、このとおり、朝鮮人の暴動は事実なんです!」と言わんばかりにしきりに「『河北新報』の記事を引用してきたが、山田昭次氏の「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」(創史社2003年)によると、その『河北新報』には、9月3日、

「危機に陥った東京 銃殺された不逞鮮人 已に数百に及ぶ」「四百名の不逞鮮人ついに軍隊と衝突 東京方面へ隊を組んで進行中 麻布連隊救援に向う」

という記事が満載されたとのことだが、工藤氏はあれだけ『河北新報』の記事を根拠にして「朝鮮人暴動の事実」を強調していながら、なぜこの記事を引用しなかったのだろう。「四百名の不逞鮮人ついに軍隊と衝突 東京方面へ隊を組んで進行中」などの記事が嘘であることが誰の目にもあまりにも明らかなので(調べればすぐに判明する)、自分がこれまで一途に頼りにして事実として書きつづってきた『河北新報』の引用記事も嘘であることが読者に見透かされる、ひいてはこの本を書く根拠が失われることになりかねないとは思わなかっただろうか。

それでも、「「朝鮮人の襲撃はなかった」ことにしたのは、実は政府そのものなのである。俗にいえば自警団は政府によって突如としてハシゴを外されたのである。」という工藤氏の見解には、一理(おそらくほとんど唯一の)があると思われる。治安当局は、これ以上朝鮮人が軍人、警察、自警団などによって虐殺される事態を黙認しているわけにはいかなかった。山田昭次氏の「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」には、「政策転換の模索」の見出しの下で次のくだりがあるが、おそらくこの指摘どおりだったのではないだろうか。

「9月5日、山本権兵衛内閣は民衆に対して内閣告諭第二号を発し、不穏な朝鮮人は軍隊、警察へ引き渡せと命じ、リンチ(私刑)を禁じた。「民衆自ら濫りに鮮人に迫害を加うる如きことは固より日鮮同化の根本主義に背戻するのみならず、又諸外国に奉ぜられて決して好ましきことに非ず」というのがその趣旨である(姜徳相、琴秉洞)。
 つまり民衆の朝鮮人迫害が朝鮮人の同化政策の障害になり、かつ法治国家であるはずの日本が、外国からの批判を招くというのがその趣旨である。植民地支配や対外関係の粉から日本国家を窮地に陥らせるから止めようとしたのであって、人権を守る見地からなされたものではない。」(山田昭次著「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」(創史社2003年))

朝鮮人暴動流言の発生や伝達については、これまでも、また現在もさまざまな研究が行なわれ、発表されているわけだが、ここでは、「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応1」と「2」(緑蔭書房1996年)を編纂された琴秉洞氏がこの書籍の冒頭に記された文章を掲載したい。関東大震災と朝鮮人虐殺について日本の作家、学者、芸術家、ジャーナリスト、法曹者、宗教家、政治家などによって雑誌に寄稿された文章や談話や日記や手紙。そこに見られる多種多様の見解・発言を収集し、隈なく目を通しただけでなく、それぞれの主張・見解の整合性についても十分な注意が払われていて、その努力に心を打たれる。本当はこのような仕事は日本人が率先してやってもよかったのではないかという気もするが…。それにしても、日本政府は90年近くもの間、唯の一度もこれほどの残忍な朝鮮人虐殺に対して心からの謝罪をしたことはないのだ。この件だけではない。日本政府は、明治以来一貫して謝罪すべきところで謝罪をしない。それが日本政府(政府だけではないかも知れないが)の特性のようになってしまっているし、諸外国からもそのように見られているのではないだろうか。海外で暮らすことの多かった加藤周一もよくそのような意味のことを書いたり話したりしていた。山崎今朝弥弁護士は震災直後「鮮人問題の解決の唯一の方法は、早く個人には充分損害を払い、民族にはただちに自治なり独立なりを許し、もって誠心誠意、低頭平心、慰藉謝罪の意を評するよりほかはない。(12月14日)」(地震,憲兵,火事、巡査)と述べているが、本当にそのとおりだと今更ながら思う。それでは、琴秉洞氏の文章を引用する。


(一) 朝鮮人暴動流言の発生と伝達
 日本知識人の虐殺に対する反応を紹介する前に、朝鮮人虐殺にいたる前提的問題を、これまでの諸研究の成果や私自身の所見を含め、明らかにする必要があろうかと思う。

(1) 流言の発生源
 � 地震被害の状況と被災者の状態
 1923年(大正12年)9月1日、正午2分前関東地方に突如として大地震がおこった。
 稀有の大激震に多くの家は倒壊し、ちょうど昼食準備の火を使っていた事情と重なつて各所での火事の発生となり、またたく間に東京・横浜をはじめとする繁華街や家屋密集地は炎に包まれたが、天を焦がす大火は夜を徹して燃え広がり、18時間、または20数時間も燃え続けた。
 死者は10万(14万人ともいう)を超え、負傷者はこれに数倍した。経済的損害は当時の金で50億とも100億円(今の金に直せば数兆円にはなろう)とも言われたが、実に史上まれにみる大災害であった。
 したがって、罹災民衆の苦労は想像を絶するものがある。
 「当時に於いては百万に近き罹災者あり、而も共罹災者は家財を失ひ、父母妻子離散し、寝る所なく、食ふに程なく、着るの衣なく、実に惨憺たる状態にあり」(本史料1 雑誌「自警」大正12年11月号。)と、時の内務大臣水野錬太郎は書いている。 
 このような罹災者は日比谷公園や「宮城」前などに50万人、上野公園、芝公園、靖国神社境内などに10万人くらい集まってきたと言う。
 家は焼け、親子兄妹は離ればなれになり、命からがら逃げのびては来たものの、余震はつづき、大火は黒煙を噴き上げて迫ってくる、という状況の中で、群衆は食物を求め、水を求め、親は子を、子は親を、そして兄弟、姉妹がお互いに捜しあって、これらの広場、公園に集まっても、収拾のつかない大混乱におちいっていたのである。

 � 治安当局の対応と戒厳令発布
 このような民衆の大集団と、その極度の混乱をみて、治安当局者はどう反応し、どのような対策を樹てたのであろうか。
 時の内務大臣水野錬太郎、内務省警保局長後藤文夫、警視総監赤池濃の三人の真っ先にやったことは、罹災民救済ではなく、宮中に行って天皇(大正天皇は日光に避暑中)や皇太子(昭和天皇)の御機嫌奉伺をすることであった。
 その宮中参内の途中でこの三人の当局者は、群衆の大混乱をみて、大群衆の不満のホコ先が政府に向けられることを最も恐れた。
 三人は一貫して内務畑を歩き、5年前の米騒動時には、共に治安当局者として民衆弾圧に努めているが、同時に民衆暴動の恐ろしさを最も実感していた男たちである。
 その翌年の朝鮮での三・一運動の時も水野は直後の斎藤美総督の下で政務総監として、朝鮮人の民族運動の巨大なうねりを肌で知っていたし、赤池は総督府警務局長として、朝鮮人民の三・一運動を直接先頭に立って弾圧している。つまり、日本人群衆・朝鮮人民の暴動や独立運動の巨大な力を誰よりも知り得る立場にあったのである。
 このような三人が、文字どおり驚天動地の最中に、天皇の居処、宮中で顔を合わせたのである。何を議したか。
 この三人は宮中で顔を合わせ、1はこの大群衆の不満の爆発を未然に押え込み、2には、この不満の吐け口を効果的に他に向けさせることを申合わせたのである。
 今考えても実に不思議なのは、彼等自身がこのことを自ら証言しているのである。伝聞記録として残されているもので、後には単行本、全集や総合的な震災記録(官・公・私)等に収められている。
 それを当の御本人に語ってもらおう。
 警保局長後藤文夫は「9月1日午後震災の被害各方面に惨憺たる状況を呈しているを見た余は、全都を通じて其災禍の頗る大なるを想像せざるを得なかったのであって、尋常一様の警備を持って依って生じる人心の不安を沈静し秩序の保持を為す事の困難なるは当局者の看取した所であって、戒厳令を布くの非常手段を執らざる可からざるとの決意は地震の直後当局者の間に生じたのであった」(史料2前掲書)と述べている。
 警視総監赤池濃もまた「四辺の光景を見て余は千緒万端、此災害は至大、至悪、或いは不祥の事変を生ずるに至るべきかと憂へた~此間復た参内状勢を奏上せんとせるに、余は後藤警保局長と共に引返したが、~余は帝都を挙げて一大混乱裡に陥らん事を恐れ、此際は警察のみならず、国家の全力を挙げて治安を維持し、応急の処理を為さざるべからざるを思ひ、一面、衛戍総督に出兵を要求すると同時に、後藤警保局長に切言して内務大臣に戒厳令の発布を建言した。それは多分、午後2時頃であったと思う」(史料3前掲書)と述べている。
 この二人の証言は実に重要である
 つまり、数十万の大群衆の極度の混乱状態を目撃した治安当局者は、「不祥の事変を生ずるに至るべき」に恐怖感を持ち、「尋常一様の警備を持って依って生じる不安を沈静し秩序の保持を為す事の困難」を知り、軍隊を出動させ、戒厳令に依って、群衆の「不祥の事変」を押さえようとしたのである。
 しかし、問題は戒厳令を布く理由である
 戒厳令第1粂には「戒厳令は戦時若しくは事変に際し兵備を以て全国若しくは一地方を警戒する法とす」とある。
 つまり、戒厳令を布くには戦時か、もしくは内乱(事変)の、いずれかの条件が必要なのである。
 ところが、今の混乱は地震と火災によるものであって、戦争でもなければ内乱でもない。戒厳令を要請しようにも、その理由がない。そこで考え出されたのが「朝鮮人暴動」である。
 ほかでもない、治安の最高責任者内務大臣水野錬太郎その人がこのことを証言している。「翌朝(9月2日)になると、人心恟々たる裡に、どこからともなくあらぬ朝鮮人騒ぎが起こつた。~そんな風ではどう対処すべきか、場合が場合故、種々考へても見たが、結局戒厳令を施行するの外はあるまいという事に決した」(史料7『帝都復興秘録』、みすず書房『関東大震災と朝鮮人』所収)と云うのだ。戒厳令は「朝鮮人暴動」に対処するために布いたのだということを、しかも治安の最高責任者である内務大臣が、これほど明確に述べた文献は、今までのところ他に見当たらない。
 赤池警視総監が戒厳令の発布を建言したのは、9月1日の「午後2時頃」である。とすれば地震が起こつて2時間ほどしか経っていないので、朝鮮人騒ぎは露ほどにも起こつていない時である。朝鮮人問題が全く起こつていない時に赤池や後藤は戒厳令発布を要請した。罹災し、混乱した百万近い大群衆による「不祥の事変」を押さえるには戒厳令しかないと考えたからである。
 ところが実際には、戒厳令を布いた理由を朝鮮人暴動に対処するためだったと水野内相は確言している。ここまで明らかになればもう疑問の余地はない。つまり、水野、後藤、赤池ら治安三人組は、戒厳令発布要請の理由づけに苦しんだ挙句、朝鮮人暴動を造りあげて戒厳令発布の法的裏付けを整えたのである。この三人の証言、殊に水野のそれは担当大臣だけに決定的と云える重みがある。
 このことと同時に、「朝鮮人暴動」流言の狙いは今一つある。それは日本人民の不満と怒りを朝鮮人に転嫁させるためであった。この日論見は美事に当たったということである。
 日本人の不満、持ってゆき場のない憤懣を朝鮮人にぶっつけさせる政府内務当局のやり方は、戒厳令要請の法的裏付けとなり、併せて支配層に向けられる人民の不満をかわしたという点で一石二鳥の措置だったが、水野にしろ赤池にしろ三・一独立運動時の朝鮮人民への血の弾圧者だったことを考えると、朝鮮人への恐怖とその報復心の発露ということで一石三鳥の意味があったようだ。
 彼らの脳裡には、5年前の米騒動の際、凄さまじいばかりの爆発力をみせた日本人民の反権力闘争と、4年前の三・一運動の折りにみせた朝鮮人民の燃えたぎる愛国的情熱が、恐怖をこめて想い出されたに違いない。

(2) 流言の伝達
 大震災時の朝鮮人虐殺事件でまず問題になるのは、大虐殺の直接の契機となった「朝鮮人暴動」流言は誰の発想になり、誰が発令し、どう伝達されたのか、ということである。
 朝鮮人暴動流言とその伝達については、今日までの研究では、大きくみて三つある。�は官憲説、�は民衆自発説、�は官民同時発生説である。
 そのいずれの説にも、かなりな説得力のあるのを認めるのに吝さかではないが、日本政府が真に有効的な措置をとらず、一定の限度まで、虐殺容認の姿勢でいたことを考慮すると、やはり�の官憲説に落着かざるを得ない。
 私はこの問題の決め手になるのは、当時、誰がこの種の流言を切実に欲していたのか、この流言の結果により、誰がどのような政治的な利得を得たのか、という政治的利害と直接結びつくところにあると思っている。
 日本政府の流言伝達についていえば、ごく初期は別として、政府の公的な流言伝達方法は二つあった。
 その一つは無電である。内務省警保局長名で全国の「各地方長官宛」に発せられた第一報は次のようなものである。
 「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり、既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし」。文面は、朝鮮人が放火しているから戒厳令を布いたとなっている。水野の証言とピッタリ一致するのである。
 この第一報は千葉の海軍船橋送信所から発せられた。この電文に内務省治安担当者の乾坤一擲の執念がこめられているのに気付くのはそう難しいことではない。ここで、はっきりしているのは、政府の組織的な流言伝達は、朝鮮人虐殺と直接結びついたということである。
 警保局長はきびすを接するように「不逞鮮人」の放火等に関する電文を幾つも送っている。これを受け取っては朝鮮人暴動を信じない方が可笑しい筈である。
 いま一つは、電文ではなく、関東各県(今のところ埼玉県)に朝鮮人暴動と取締りを直接伝達したものである。
 「通達文  東京に於ける震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又、其間過激思想を有する徒之に和し、以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮はんとする虞有之候、就いては此際警察力微弱であるから町村当局者は、在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、一朝有事の場合には速やかに適当な方策を講ずるやう至急相当手配相成度き旨、其筋の来牒により此段移牒に及び候也」。この通達は、埼玉県が内務省の命令を受けて、管下の各町村に出したものである。
 埼玉県の場合、永井柳太郎の国会質問によると、埼玉県の地方課長が9月2日に東京の本省と打合わせ、午後5時頃帰ってきて香坂内務部長に報告したものである。香坂は友部警察部長と相談してこの通達文を作り守谷属兼視学をして県内の各郡役所に電話を以て急報し、各郡役所は文書と電話とで各町村に伝えている。
 それにしても「一朝有事の場合には速やかに適当な方策を講」ぜよと指示しているが、これは朝鮮人殺しを官許したものである。 当時の本庄町の町会議員で、1957年当時の本庄市長、中島一十郎氏は「本庄町では郡役所の門平文平氏ら幹部などが県庁からの達しだといって消防団や在郷軍人分会などにそれを事実として伝え、対策に乗り出すように指示した」(『埼玉新聞』昭和32年9月2日付 史料14)と語っているが、内務省によって流言は組織的に伝播され、これによって自警団の発生を見るようになるのである。

(二) 虐殺状況と被殺者数
 朝鮮人虐殺の目撃例は数多く報告されているが、日本知識人のこの問題についての反応をみようというからには、虐殺がどのように行われたのかという点を前提として押さえておく必要があろう。
 ここでは、私の手近にある資料から幾例かを抜いて、当時の虐殺状況を見ることにしたい。

(1) 虐殺状況の例
 △東京の例

 「『骨は何ふしてくれる』と私は言った。『骨は荒川放水路の四ツ木橋の少し下流で焼いたから自由にひろってください』『あそこには機関銃が据つけてあって朝鮮人が数百人殺されたことは周知のことだから誰の骨かわかるものですか』(『種蒔き雑記』)」機関銃で殺したとあっては軍隊に間違いないが、このとき、この地、亀戸にきていたのは千葉習志野の騎兵第十三連隊である

 △東京の例
 「4日目ぐらいになると、朝鮮人狩りが本格的になった。うちの門の柱に、第何分隊屯所と筆太とに書いた紙をはり、剣付き鉄砲の兵隊が立っていた。~裏の庭で、兵隊さんが牛芳剣をみがいていた。縄をひろってきて、それへ砂をつけてこするのだが、刃金にしみこんだ血のしみがなかなかおちない。~番小屋につめていたとき隣の大島町6丁目にたくさん殺されているから見に行こうとさそわれた。~空き地に東から西へほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にしてならべてあった。数は250ときいた。ひとつひとつ見てあるくと、喉を切られて、気管と食道と二つの頚動脈がしろじろと見えているのがあった。後ろから首筋をきられて真白な肉がいくすじも、ざくろのようにいみわれているのがあった。~ただひとつあわれだったのはまだ若いらしい女が腹をさかれ、六七カ月になろうかと思はれる胎児が、はらわたのなかにころがっていた。が、その女の陰部に、ぐさり竹槍がさしてあるのに気づいたとき、ぼくは愕然として、わきへとびのいた。~ぼくはいいようのない怒りにかられた。日本人であることをあのときほど屈辱に感じたことはない」(田辺貞之助『女木川界隈』、本史料集第2巻戦後篇29参照)。

 △東京月島の例
 「評議忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の別ね飛ばされた。かく捕へられた鮮人24人は13人一塊と11人一塊と、二塊にして針金で縛しあげ、鳶口で撲り殺して海へ投げ込んでしまったけれども、まだ息のあるものもあったので海中へ投入してから更に鳶口で頭を突き刺したが、余り深く突き刺さって幾人もの鳶口がなかなか抜けなかった。また外に3人の鮮人は三号地にある石炭コークスの置き場の石炭コークスが盛んに燃えている中へ生きているまま一縛にして引縛って投げ込んで焼き殺してしまった。鮮人を縛して海に投じた時、見ていた巡査達は双手を挙げて万才を叫んだ」(『関東大震災と朝鮮人』みすず書房、172頁)。

 △東京での例
 「父の友人である大島町八丁目の野原さん宅へ行った(避難のため)。翌日朝、近所の人びとが走っていくので、なにごとかと見ますと、警官が一人の男を連行して行くのを一団の群衆が、朝鮮人、朝鮮人と罵しりながらとり巻いています。そのうち群衆は警官を突きとばして男を奪い、近くの池に投げ込み三人が太い丸太棒を持ってきて、生きた人間を餅をつくようにポッタ、ポッタと打ち叩きました。彼は悲鳴をあげ、池の水を飲み、苦しまぎれに顔をあげるところをまた叩かれ、ついに殺されてしまいました。一団の人びとはかん声をあげて引きあげました。
 すると、また別の一団がきて、死んでいる彼を池から引きずり出し、かわるがわるまた丸太棒で打ち叩きました。肉は破れ、血は飛び散り、人間の形のなくなるほど打ち、叩きまた大声をあげて引きあげました」
(三橋茂一『手記・関東大震災』)。

 △東京・被服廠跡での例
 「被服廠跡地内のやや広い空間では、ひどい光景にぶつかった。10人くらいの人が、血だらけになった4人の朝鮮人を針金で縛って、一升瓶の石油をぶっかけたかと思うとそれに火をつけたのである。燃え上がる火に、のたうちまわると、こんどは手に持った焼けぼっくいで抑えつける。そして目を血走らせて口々に叫ぶ。「こいつが俺たちの兄弟や親子を殺したのだと』」(渡辺政雄『手記・関東大震災』)。

 △横浜の例
 「9月4日午後5時頃、根岸町の自警団にとらわれた3名の鮮人(内1名女)が同町吉野巡査派出所に逃げ込み保護を願った所、巡査は、男二人を派出所の側に縛って現場で惨殺し、助命を乞ふた女をも同夜2時頃、某所に連れ出し殺害した。之がため同所自警団はこの処置を署長の命令と誤信し、引き続き暴挙に出た形勢がある」(『福岡日日新聞』大正12年10月20日付)。

 △千葉の例
 「北総鉄道工夫38名(内女1名、子供1名)が習志野騎兵聯隊に収容されんとして兵士15名護送のもとに、午前2時頃船橋入り口の九日市避病舎前の村道に差しかかって来た~船橋自警団初め八栄村自警団員等150名は『それっ』とばかり、用意の竹槍、棍棒、鳶口、日本刀などを以て忽ち23名を突き殺し、残余のものが数珠繋ぎのまま、大地に膝まづいてしきりに合掌して助命を乞ふのもきかず総掛りで子供1人を残して全部を殺害し、死骸は路傍に放棄したまゝ引揚げた」(前出『関東大震災と朝鮮人』207頁)。

 △埼玉の例
 埼玉県本庄での虐殺事件では、当時の本庄署員新井賢次郎氏の証言がある。「子供も沢山居たが、子供達は並べられて、親の見ている前で首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも途中までやっちゃあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後でおばあさんと娘がきて『自分の息子は東京でこやつらのために殺された』といって、死体の目玉を出刃包刀でくりぬいているのも見た」(「かくされていた歴史」関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委貞会刊)。

 △群馬県藤岡での例
 「午後6時となるや自警団員その他200余名の群衆、潮の如く同署(藤岡署)に殺到『やってしまえ』と誰かが怒号すると、小宮部長と交渉中の代表者は『引受けた』とばかり用意して来た猟銃、竹槍、日本刀をふりかざして同署構内裏手の留置場へ乱入し兇器で留置場を破壊し、また一人は巡査の手から留置場の鍵を強奪し、遂に留置場の入り口を破壊した。この襲撃に狂気の如くなった鮮人等は外部に出ずると共に、猿の如く留置場の屋根に飛び上がった。自警団側は梯子をかけて屋根に追いつめ、竹やり、日本刀で虐殺をはじめ、下からは猟銃を発射し、僅1時間30分にて14名全部を惨殺した。血に酔った団員等は喊声をあげて引きあげたが、全官憲は手の下しようもなかった」(前出『関東大震災と朝鮮人』206頁)。

(2) 被殺者数の問題
 このように日本人による目撃例も数多い訳だが、被殺者数を発表する段になると日本政府の数はぐつと縮って200から300名くらいという。時の朝鮮総督斎藤実は二名だといった。
 この虐殺事件の時に良心的に活動した日本人の一人である吉野作造は、その論文の中で「朝鮮罹災同胞慰問班」の一員から聞いたものとして、2,613人という数字を留めている。
 また、震災直後に組織された在上海の独立新聞が派遣した記者をキャップとする朝鮮人調査団は、各地をまわって実地検証をかさね、6,400名から6,600名と発表している。やはり良心的活動家として動いていた布施辰治弁護士と共に活躍している弁韓土山崎今朝弥は、日本政府の調査人数の少なさを憤り、かつ皮肉って「兎に角二人以上一万人以下なることは確からしい」(『地震・憲兵・火事・巡査』)と書いた。
 市川正一は『日本共産党闘争小史』で「何万という朝鮮人が~虐殺された」と書いている。
 ならば実際に虐殺された朝鮮人数はどの位なのか。6,000名以上という朝鮮人調査団の発表は正しいのかとなると、これはほぼ正しい数字である。
 当時、東京、神奈川に住んでいた朝鮮人は約20,000名であるが、震災後、収容所に入れられた人数は11,000人から14,000人。つまり、公的記録からだけでも6,000名以上の数差を得ることができるのである。しかも、居住者数は官庁統計よりも常に多いのが実状である。
 東京で虐殺された朝鮮人の死体を憲兵隊や警察のトラックに積込んで本所の被服廠跡に運び込んだとの証言もある。当初、被服廠跡の焼死体は38,000体と発表され、後に42,000体に増えたが、この増えた4,000の数には、市内で殺されて死体処理のできなかった朝鮮人の遺骸も多く含まれている。
 朝鮮人に対する虐殺は、東京市内に限らず、神奈川、千葉、埼玉、栃木、群馬、茨城等の関東一円にわたっており、その数も一県で数千または数百を越えるものもあることや、東京市内や横浜での虐殺死体もその場で埋めたり、油をかけて焼いたり、河に流したりしたものもかなりな数にのぼることから、直後の調査で被殺者数を6,000以上としたことに大きな誤りはないものと思う。
 また、多い被殺者数を報告している朝鮮人調査団の数字も地域別によくみれば、吉野論文や新聞調査などの数よりも少ないところもすくなからずある。
 たとえば亀戸の被殺数は、朝鮮人調査団では100名としている。
 しかし八島京一という人の供述によると、9月4日の朝、顔見知りの清一という巡査と言葉を交わしているが、「『昨夜は人殺しで徹夜までさせられちゃった。320人も殺した。外国人が亀戸管内に視察に来るので、今日も急いで焼いてしまふのだよ』『皆鮮人ですか』『いや、中には7~8人社会主義者も入っているよ』」(『種蒔き雑記』)という内容になっているが、みられるように、312名の朝鮮人が亀戸ではたった一晩で殺されている。そしてこの数字などは朝鮮人調査団の報告にも正確に反映されていないといえる。
 この他、埼玉県などでも、本庄市や神保原などでも当時の数と、その後の目撃者の回顧談とでは多少の数差があるようである(『埼玉新聞』1957年9月2日~5日付)。
 また朝鮮人虐殺数の最も多かった横浜もそうである。つまり、朝鮮人被殺者数は、今日なお、調査すればする程増えこそしても、決して減りはしないのである。」(「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応1」(緑蔭書房1996年))


なお、工藤美代子氏は、本書で正力松太郎に関しても次のように触れている。

「後年、野球を縁に正力と知己を得た「ベースボール・マガジン社」の創業者池田恒雄(著者の工藤氏は池田氏の実娘のようである)は、その裏話を語ったことがある。後藤(新平)が正力を呼んで次のように言ったのだという。9月末から10月初旬のことと思われる。

「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあたら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」

三十八歳の正力は百戦錬磨の後藤のこの言葉に感激し、以後、顔には出さずに「風評」の打ち消し役に徹した。 」(工藤美代子著「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」(p172))

しかし、震災発生時、正力松太郎は、警視庁の監房主事という重職に就いていたのであり、何も後で後藤に実情を教えてもらうまでもなく,当然、朝鮮人虐殺に至る実情・経緯を逐一知っていたはずではないだろうか。琴秉洞編「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」にも正力松太郎に関しては戦前篇、戦後篇と二度も出てくる。琴秉洞氏は、下記のとおり「正力は朝鮮人虐殺司令塔の中心人物の一人である」とまで述べている。

「 正力は大震時、警視庁官房主事をしていた。「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗し」たと述べている(引用者注:1944(昭和19)年、警視庁での講演会において) 。管下警察署ならいざ知らず、本庁の幹部が流言の発生源を知らなかったとは可笑しい。しかし彼としてはこうとしか云いようがなかったかも知れぬ。」(戦前篇)

「 史料36の正力松太郎は戦前篇「官僚・軍人」の項でその回想談を引用したが、これは戦後に回想したものである。一読して明白なのは、ここの引用部分には朝鮮人問題に一言も触れていない。実はここだけでなく、全文、朝鮮人に触れていないのである。
 前に戦後篇4で、戒厳参謀 森五六中佐の日記を紹介したが、その引用部分にもある、9月3日、戒厳司令部に「警視庁の某部長が来て朝鮮人騒ぎの話をし、腕をまくつて「もうこうなったらやりますゾ』と言った」某部長とは正力松太郎である。正力は、戦前篇一「官僚・軍人」の9で、はっきり朝鮮人来襲のことに触れている。
 正力は朝鮮人虐殺司令塔の中心人物の一人である。彼が流言の発生源との資料はでていないが、警官及び自警団をして朝鮮人殺しをやらせた中心部に居た人物であることを考えると、戦前の自らの犯罪行為を必死に隠す証拠煙滅という意味もあるという点で、この36の回想記は貴重なものと思う。」(戦後篇)


注意-琴秉洞氏の文中に出てくる「史料××」中の数字「××」は、収載された膨大な数の文章の各々に掲載順番として付されたものである。
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2010.10.30 Sat l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (1) トラックバック (0) l top
「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」(工藤美代子著)は、一番後ろの「参考文献」5ページ分もふくめて全311ページの厚みだが、その約三分の一ばかり過ぎたp134の小見出し「自警団の覚悟」には、冒頭に、

「ここまでさまざまな経緯を見てきたことで、朝鮮人の襲撃事件が決して「流言蜚語」などという絵空ごとではなく、実際に襲撃があったからこそ住民と自警団が自衛的に彼らを排除したのだということが理解されると思う。」

との文章がある。ハテ? ここまでの計133ページのいったいどこに「朝鮮人の襲撃事件が決して「流言蜚語」などという絵空ごとではなく、実際に襲撃があった」事実が描かれ、立証されていたのだろうか。軍隊、警察、自警団などの日本人の側が一方的に朝鮮人を虐殺したというのでなく、初めに「朝鮮人側からの襲撃」が確かにあったと断言するのなら、まず最低限、実証を伴う実例の提示が必要不可欠のはずだが、ここまでのところこの本にはそういう例はただの一つも出ていない。皆無だったと思う。「不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を擅にするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる」とか、「鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやっておる」とか、「品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりする」などという、震災発生当初の新聞記事を丸写しして(そのへんのカラクリについてはこれまでさまざまな人が実証的に論じているところである。そのうち言及してみたい)、それを何ら検証もしないまま事実と認定して叙述しているが、方々で略奪、強盗、強姦、殺害されたり、爆弾を投げられたというのなら被害者が多数いるはずである。それについても著者は何も語らない。

「河北新報」にはこのような記事も載ったようである。東京月島の市営住宅の先に約3万坪の空き地があって、下水管置き場に使用されていたが、そこに鉄管、土管があり、多数の住民や避難民はそのなかにもぐりこんで退避したのだという。この件に関して、9月6日、「河北新報」に載ったのは下記の記事だった。

「この土管の中に約三万人の月島住民は避難してゐた。勿論着のみ着のままで……辺りには火薬庫がある。これが万一破裂しようものなら生命はこれまでだと生きた心地もなく恟々として潜んでゐた。(略)これより先、越中島の糧秣廠にはその空地を目当てに本所深川辺りから避難してきた罹災民約三千人が雲集してゐたところが、その入口の方向に当つて異様の爆音が連続したと思ふと間もなく糧秣廠は火焔に包まれた。そして爆弾は所々で炸裂する。三千人の避難者は逃場を失なつて阿鼻叫喚する。遂に生きながら焦熱地獄の修羅場を演出して、一人残らず焼死して仕舞つた。」(河北新報)

これについて、著者の工藤氏は次のように言う。

「 繰り返すが越中島の東京湾沿いにある糧林廠と月島とは、枝分かれした大川を挟んで目と鼻の距離にある。
 もとより糧秣廠とは軍が馬の林を収納するだけの簡素な倉庫である。爆弾などが置いてあるはずもない。広さは広いが火の気に警戒してきたのは軍の常識である。そこへ爆発物の音が連続して聞こえ、火の海となったというのは尋常ではない。話は核心に入る。」

「而も鮮人の仕業であることが早くも悟られた。そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいふ側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた。恐らく首魁者の一人であろうといふので厳重に詰問した挙句遂に彼は次の如く白状した。
『われわれは今年の或時期に大官連が集合するからこれを狙つて爆弾を投下し、次で全市到るところで爆弾を投下し炸裂せしめ全部全滅鏖殺(注・皆殺しの意)を謀らみ、また一方二百十日の厄日には必らずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた(略)』
 風向きと反対の方面に火の手が上つたり意外の所から燃え出したりパテパチ異様の音がしたりしたのは正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであつた事が判然したので恨みは骨髄に徹し評議忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の下に別ね飛ばされた」(河北新報)

これも一見ツジツマが合っているようでいて、実はひどくおかしな話である。朝鮮人の仕業ではないかと疑って、「仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいふ側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた」というのだが、大勢でずいぶん熱心に探し回ったようだが、どこで下手人を捕らえたのだろう。またこの下手人はなぜ一人でいつまでも爆弾を身に携えていたのだろう。仲間はいなかったのだろうか。「二百十日の厄日には必らずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた」と告白したというのだが、私にはこれは耳を疑うような不思議な話のように思える。著者はどのような根拠でこの話をそのまま事実であるとこうまで固く信じこめるのだろうか。前回述べたことだが、著者は芥川龍之介の機知や韜晦趣味や反俗的・反軍的な性向など眼中にないらしく、芥川が朝鮮人襲来の噂を明確に否定した菊池寛に憤怒・絶望し、それが彼の自死の一つの原因となったかのように述べていたが(これでは芥川も浮かばれまい)、ここでもばかばかしいかぎりの自分の憶測や証拠のない新聞記事を麗々しく並べてみせているだけのように思える。また、ここでは日本人による朝鮮人「殺害」が問題とされているわけだが、この「殺害」について工藤氏は「彼らを排除した」と表現しているが、私はこのことに対してもその感覚をひどく疑わしく感じる。

そうかと思うと、この人は、日清戦争後、日本が公使館の人間の手で朝鮮国王高宋の妃閔妃を殺害したことを悪びれも怯みもせずに記し、この殺害について日本側の犯罪として批判したり、謝罪の言葉を述べたりするどころか、葬儀が大々的に行なわれたことについて、夫の高宋が「日本への反感を盛り上げようとし」て意図的にやったのだと述べ、

「あれほど悲惨な独裁政治にあえいできた朝鮮の国民は、見事に反日感情をむきだしにして閔妃の死を号泣して悲しんだ。」

ので、「高宋は政略が見事に功を奏し、彼は大いにほくそ笑んだに違いない」と記している。これでおおよそ理解できると思うのだが、この著者の考えでは、朝鮮人はみな頼まれもしないのに自国に乗り込んできて自分たちを支配し、果ては植民地にまでした日本に感謝しなければならないのである。日本の思い通りにならない朝鮮人はすべて悪、まして独立運動などの行動をとる朝鮮人は不逞の輩、恩知らず(橋や鉄道などのインフラをあれだけ整備してやったのに)、ということになるようである。著者は下記のようなことも書いている。

「ひとつ申し添えておかねばならないことがある。この時期、李朝の刑罰の残酷なことは近代以前、中世状態だった。/反抗するものには笞刑(ちけい」と呼ばれる鞭打ち刑が容赦なく行なわれ、国賊に対しては常軌を逸した残酷な処刑が日常的に施されていた。)(p68)

ここでいう「反抗するもの」とは清朝政府に「反抗するもの」という意味なのだろうが、日本が強引に朝鮮を自国の植民地にするまで、朝鮮に「笞刑」という刑罰が存在したのかどうか私は知らない。私だけではなく大方の読者は知らないと思われるので、こういうことを書く場合は具体的に例を挙げて提示するのが著者の当然の責任であろう。「笞刑」に関して書くのなら特にそうだと思う。なぜなら、日本が朝鮮を植民地にした後、日本の侵略・殖民政策に抵抗したり独立運動を行なう朝鮮人に対し、「笞刑」という刑罰を執行していたことが事実として存在するからである。

例えば、在日朝鮮人作家の徐京植氏は、著書の「秤にかけてはならない」(影書房2003年)において、「日本人へのメッセージ」という章を設けているが、その一節に、次のような文章がある。

「植民地時代、朝鮮人を弾圧するためさまざまな治安法令が発令された。笞刑、すなわち前近代的な体刑である鞭打ちが朝鮮人だけを対象に行なわれていた。1919年の三・一独立運動の際、逮捕された朝鮮人は5万名近くにのぼり、合計7,500名以上が殺された。この逮捕者のうち、笞刑を加えられた者の総数は1万名以上にのぼる。笞の一振りごとに、激痛と屈辱が朝鮮人の体に叩き込まれたのだ。/朝鮮独立運動は、「国体変革」を企図するものとして治安維持法を適用された。治安維持法による被害者の数は日本本土より朝鮮の方がはるかに多く、量刑も重い。大量の死刑判決も下された。1937年から38年にかけてのいわゆる「恵山(ヘサン)事件」では朝鮮人共産主義者および民族主義者739名が検挙され、166名が重刑を宣告された。死刑は権永壁ら6名である。1943年の朝鮮語学会事件では、言語学者など30名あまりが検挙され、李允宰、韓澄の二人が拷問のため獄死させられている。同じ43年、同志社大学に学んでいた詩人の尹東柱は独立運動の嫌疑で拘束され、禁じられていた朝鮮語で彼が滞日中に書き溜めた貴重な詩稿は特高警察に押収され、永遠に失われた。懲役2年を宣告された彼は日本敗戦のわずか半年前、いとこの宋夢奎ともども福岡刑務所で無残な獄死を遂げている。ここに挙げた名は、数千名にのぼる朝鮮人治安維持法被害者のごく一部に過ぎない。」

また、詩人・小説家の中野重治も1967年『展望』という雑誌に、次のように書いている。

「 1958年春には私はこんなことも書いた。
「この朝鮮が、今の『韓国』をふくめて、大日本帝国に合併されたあとの1912年(明治45年)のことを書いておこう。ときの朝鮮総督は伯爵寺内正毅だつた。/ その年の3月30日、『総督府訓令第41号』というもので、朝鮮全土警察にあてて寺内が『笞刑執行心得』というものを出している
『第一条 笞刑は受刑者の両手を左右に披伸し、刑盤上に筵を敷きて伏臥せしめ、両腕関節および両脚に窄帯を施し、袴を脱し背部を露出せしめて執行するものとす。/第二条 笞刑執行者は右手に笞を携へ……/第三条 筈の鞭下は、苔刑執行者自ら……受刑者の右臀に対し、一鞭毎に自ら発声して笞数を算しつつ之を連行すべし。/第七条 受刑者一方の臀に異状ありて執行に差支あるときは、他の一方のみを執行することを得。/第八条 笞刑は食後一時間以上を経過して執行し、執行前成るべく大小便を為さしむべし。/第九条打方は終始寛厳の差なく且受刑者の皮膚を損傷せざる様注意し、引き打又は横打を為すべからず。/第十条 執行数回に亘る場合に在りては、必要に依り執行後臀部に冷却方法を施すことを得。/第十一条 笞場に飲水を供へ、随時受刑者に与ふることを得。/第十二条 執行中受刑者号泣する虞あるときは、湿潤したる布片を之に噛ましむることを得』
 なおつづくが、ここではこれだけにしておくとして、これを日本の警察が全朝鮮にわたって実行したことを各条ごとに、読者が自分で両腕をのばして、両脚をしばつって、ズボンを臀の下まで脱いで、うつ向けになつて、口にぬれ雑巾をくわえて、想像力をはたらかして考えてみ」てくれ、うんぬん。 」」

中野重治は、「これ(引用者注:『笞刑執行心得』の各条文のことだと思われる)を見ておどろいてくれた人があつた。私自身、これを見るまでこれほどまでとは思っていなかったのでもあった。」とも記している。

工藤氏は、「ひとつ申し添えておかねばならないことがある。」とわざわざ断り書きを入れて、「この時期、李朝の刑罰の残酷なことは近代以前、中世状態だった」のであり、「反抗するものには笞刑(ちけい)と呼ばれる鞭打ち刑が容赦なく行なわれ、国賊に対しては常軌を逸した残酷な処刑が日常的に施されていた。」と当時の朝鮮の刑罰の残忍さを述べているが、日本政府が朝鮮を植民地にした後、朝鮮人に対し、徐京都植氏や中野重治が書いているような「笞刑」(工藤氏いわく、「残酷なことは近代以前、中世状態」の刑罰である笞刑)を容赦なく科していた事実を知らなかったのだろうか。それとも知っていながら、素知らぬ風をして自著にこのようなことを書いたのだろうか。どちらにしてもこの態度はものを書く人として不誠実なことこの上ないと思われるのだが、これについてはぜひ著者・工藤氏の弁明を聞きたいものである。
2010.10.29 Fri l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (2) トラックバック (0) l top
工藤美代子著「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」。出版社をみると、やはり産経新聞出版。2008年から1年以上『SAPIO』に連載されていたそうで(『SAPIO』は立ち読みもしたことがないので、連載自体を知らなかった)、それを加筆・訂正してまとめた本だとのこと。ざざっと一読したところ、朝鮮人虐殺は一切なかった、とまでは主張していないようだ(もっとも、そんな見え透いた虚偽を書けば、著者も出版社も編集者もいよいよ恥を晒すだけであろう)。震災を機に朝鮮人が徒党を組んで日本人を襲撃してきたり、放火したり、井戸に毒を入れたりしたので、住民たちはやむを得ず、自分たちを守るために自警団をつくって立ち上がっただけであった、というのが一巻をつらぬくモチーフのようである。しかし、本の中身はあまり類を見ないほど無責任でお粗末きわまりないものに思える。著者はこう言っている。(下線による強調は引用者による)

「「朝鮮人が襲撃する」という説はまず横浜から始まったとされる。それは九月一日の夜が一番早い情報で、翌二日の昼過ぎから夜にかけて一挙に広まったという。
 発端は「朝鮮人がこの震災に乗じて、殺人、強姦の上、井戸に毒を入れるらしい」という情報が流れてきたことによる。東京市内にそうした「流言」とされる情報が入ってきたのはおおむね二日の夕刻以降だった。果たしてそれは今日まで伝えられているように「流言輩語」だったのか。/無数の目撃談は幻を見たに過ぎないとでもいうのだろうか。 横浜における目撃者の談話からその一端をみておきたい。」

そう言って著者が持ち出してくる目撃情報とは下記のようなものである。

「一日の大地震に続く大火災に辛ふじて身を以て免れた私は何等かの方法でこの悲惨極まる状況を知らしめたいと焦慮したが大崩壊に続く猛火には如何ともすることが出来ず、二日まで絶食のままで諸所を彷徨した(略)交通機関の全滅は元より徒歩さへも危険極まりない。況んや不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を擅にするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる。これに対する官憲の警備は東京市と異り、軍隊の出動もないので行届かざること甚だしく、遂には監獄囚人全部を開放し看守の指揮によりてこれが掃蕩に当らしめたので大戦闘となり、鮮人百余人を斃したが警備隊にも十余人の負傷を生じた模様である。以上の如き有り様なので食糧飲料水の欠乏は極に達し、然も救援の何ものもないので生き残った市民の全部は天を仰いで死を待つばかりである」(大日本石鹼株式会社専務・細田勝一郎談「河北新報」大正12年9月5日)
                                          
この細田という人物は、9月1日の震災から2日間絶食のまま諸所を彷徨していたというが、二千人の朝鮮人が腕を組んで街中を横行し、暴れ回っているのをどこで見たのだろうか。世にも珍しい話、まったくの初耳である。そんな話は数多い関東大震災体験記・目撃記にもただの一つも出てこないようである。朝鮮人が地震の予知能力をもっているはずもなく、日本人だろうと、朝鮮人だろうと、個人個人は突然の大地震に驚愕し、恐怖し、自分や家族や親族などの身の安全および家屋が倒壊したり火災で燃え尽きたりしないか、誰もが大きな不安を抱えて事態に対処することで精一杯だっただろう。火は燃えつづけているのだ。軍隊も警察も総力をあげて警護や警戒に当たっている。その最中になぜ二千人もの朝鮮人がいったいどこからやって来て、どのように肩を組んで横浜市内をねり歩くことができたのだろうか? 発言主だという細田氏が河北新報の記者に上の談話どおりの話をしたのかどうかも分からないし、また事実そのように話したのだとしても細田氏がどういう人物なのか知りようがないので、記事掲載までの経過は不明だが、前述したごとく朝鮮人に地震の予知能力が備わっているとか、すでに地震兵器でも開発していてそれを使って地震を起こしたとかいうのならいざ知らず、「鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を擅にするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる」などは常識上、経験則上、とうてい信じられる話ではないだろう。略奪、強姦などの被害者数十名の人々はその後どうしたのだろう。どのような事後処置、保障を受けたのだろう。何よりも、地震当日かその翌日にこのように白昼堂々横浜市中を横行し、掠奪や強姦をほしいままにしているというこの二千名の朝鮮人とは、井戸に毒を入れたり爆弾を投下して回ったという朝鮮人と同一集団なのだろうか? それとも毒投入・爆弾・放火犯はまた全然別の集団だったのだろうか? 大量の毒薬や爆弾は地震発生までどこに貯蔵されていたのだろう。それらは地震の被害を一切受けなかったのだろうか。いずれにせよ奇怪千万な話の連続としか思えない。この他にも著者は目撃談として2つの例を挙げているが、それらも最初のものと同じく信憑性をつよく疑わせるものである。一つは横浜港でパリー丸に救助された判事の遭難記録というものである。

「(二日朝)岡検事、内田検事は東京から通勤して居たので東京も不安だとの話を聞いてから自宅を心配し初めた。私も早く東京との連絡を執らうと欲つて居たので若し出来ることなら両検事と一緒に上京し司法省及東京控訴院に報告しやうと思ひ、事務長に向ひランチの便あらば税関附近に上陸し裁判所の焼跡を見て司法省に報告したい、と話したが事務長は『陸上は危険ですから御上陸なさることは出来ない』といふ。なぜ危険かと問へば『鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやっておる。(略)(「横浜地方裁判所震災略記録」パリー丸船内、部長判事長岡熊雄)

この「鮮人の暴動」とは、前記の二千人の朝鮮人の行動を指しているのだろうか。それともまた別口のことなのだろうか。パリー丸の事務長は、朝鮮人の暴動を自分の目で見たのかどうかもはっきりしていない。「やっておる」と言い、「見た」とは述べていない。「昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやつておる。」と言うだけでは、どんな風采・出で立ちの朝鮮人にどのような人物がどこでどんな被害を受けたのか、現実的・具体的な実態は皆目不明である。「河北新報」の細田という人物の目撃談といい、パリー丸の事務長の話といい、どうも当時渦巻いていたはずの「流言・蜚語」をそのまま述べているだけのように感じられて仕方がないのだが、著者が述べる朝鮮人暴動のもう一例は、品川での事件である。

品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりするので近所の住民は獲物を以て戦ひました。鮮人は鉄砲や日本刀で掛るので危険でした。其中に第三連隊がやつてきて鮮人は大分殺されましたが日本人が鮮人に間違はれて殺された者が沢山ありました」(「北海タイムス」大正十二年九月六日)

三日は、戒厳令の下、横浜と東京の間には、びっしりと憲兵や警官隊がそれこそ蟻の這い出る隙間もないほどの重警戒をしていたはずである。通行人が少しでも怪しいと見られれば執拗な訊問を受けたことは多くの経験者が語っている。空を飛んできたのでなければ、なぜ三百人もの朝鮮人が横浜から東京まで爆弾や鉄砲や日本刀をもって押し寄せ、それらを投下できたのだろうか。いったい、持参した爆弾やら鉄砲やらをどこで、どんなふうに、誰に向かって投げたり撃ったりしたのだろうか?

このように世にも不可解な3件の例を裏付けもないままに挙げた上で、著者は「こうした証言はあげれば際限がないほど多くを数える。」という。私には、根拠不明のこのような証言こそ「流言・蜚語」と呼んでしかるべきことのように思えるので、こういう証言をいくら聞かせて貰っても仕方がないと思うのだが、著者は、次のように言う。

「だが、これ(引用者注:上記3例における新聞記事などの目撃談)に反し逆に日本人によって多数の「無実の朝鮮人」が虐殺されたのだと主張する説が長い間歴史観の主流を占めてきた。/ 本書の主題はその真実に迫ることにあるが、その前提としてまず時間の推移に従って事件の背景を検証しなければならない。「虐殺」説の解剖は後の章で行うことにして、ここはしばらく地震発生当時の、それぞれの体験記録を繰りながら話を進めたい。」

その体験記録の冒頭に掲載されているのが、小説家の芥川龍之介が震災直後に書いた「大震雑記」という文章なのだが、工藤氏はその中から次の文を引いている。

「  5 
 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。
 戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草を銜へたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤も雑談とは云うものの、地震以外の話の出た訳ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云ふ外はなかつた。しかし次手にもう一度、何でも○○○○(不逞鮮人)はポルシェヴィッキの手先ださうだと云つた。菊池は今度は眉も挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽ち自説(?)を撤回した。
 再びぼくの所見によれば、善良なる市民と云ふものはポルシェヴィッキと○○○○(不逞鮮人)との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬものである。けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完全に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。
 尤も善良なる市民になることは、――兎に角苦心を要するものである。」(ドキュメント関東大震災(草風館1983年))

皆さんはこの文章をどのように読まれるだろうか。おそらく大多数の人は、菊池寛は常識外れの荒唐無稽な噂話などには惑わされないだけの知性をもつ人物であることを知り、またそれを堂々と(友人芥川相手だからこそかも知れないが)口にする菊池寛に見識を感じるのではないだろうか。芥川はここで菊池寛をそのような人物として描いていると思う。しかるに、著者の工藤氏は、「芥川の憤怒」と小見出しを付けて次のように述べている。

「芥川龍之介は大火の原因を一部朝鮮人の犯行と見ていたようである。」「芥川龍之介は菊池寛に対する激憤の行方として、自死を選んだように思えてならない。死因は時代への絶望だとされるのが一般的な解釈だが、それは決して軽いものではないことがうかがえる。(略)」

まぁ、物凄い伝記作家もいればいるものである。呆れてものも言えないとはこんな場合にこそ使われるべき言葉ではないだろうか。著者によると、芥川は菊池寛の発言を聞いて憤怒し、そればかりか、この時の菊池寛の反応が芥川を絶望させ、それが後の芥川の自殺に結びついたかのようにさえ述べている。芥川の小説を二、三でも読んだことがあれば、あるいは読んでいなくても、この文章の内容、全体の雰囲気、気配から、菊池寛がこのときに見せた態度・振る舞いに芥川が全幅の信頼感を持っていること、またこうして菊地寛の言動を叙述することによってパラデキシカルに自分の思い、考えを語り、表現していることは明白ではないかと思う。

労作「朝鮮人大虐殺に関する知識人の反応1・2」(緑蔭書房1996年)を編集・出版された琴秉洞(クム ビヨンドン)氏は、芥川龍之介の上の文章について下記のような解説をされている。

「史料144~147の四篇は芥川龍之介の文である。芥川は当時(今もだが)並ぶものなき人気作家で、大震に関しては幾つかのエッセーがある。その中で流言や朝鮮人問題にも触れたものを抜いたのだが、これらの小文の中でも彼はいささか韜晦めいた独特の文体に潜ませているが、云わば彼の人間的本質といったようなものが、ゆくりなくもほの見えるようである。ことに144中の菊池寛との対話のうちにそれがよく出ていると思う。一般的には菊池寛と云えば、日本支配層、軍部のアジア侵略戦争にきわめて積極的だった印象が強いのだが、この芥川の文に出てくる菊池は、朝鮮人の放火も、ポルシェヴイキと「不逞鮮人」との連携も一言の下に、断乎として「ウソだ」という、透徹した眼識の持主である。「ぼくの所見によれば、善良なる市民と云うものはボルシェヴイキと○○○○との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は少なくとも信じているらしい顔つきを装わねばならぬものである。(中略)尤も善良なる市民になることは、兎に角苦心を要するものである」とある所は、権力が幅を利かす社会に対する皮肉でもあり、彼の人生に対する云わば冷笑的態度をよく現していることでもあろうか。」

芥川に関する琴秉洞氏の判読を前にして、工藤氏はご自分の見方の浅薄さ、不見識を恥ずかしく感じないだろうかと思うが、あるいは芥川の文章の意図、意味をちゃんと読み取った上で、あえて上記のような書き方をしたのかも知れないとも思う。というのも、工藤氏は、「参考文献」のなかに、「姜徳相、琴秉洞編「現代史資料6-関東大震災と朝鮮人」」を挙げているのに、その後に出版された大部の「朝鮮人大虐殺に関する知識人の反応1・2」は入れていないのだ。この本には、震災当時の小説家、詩人、学者、法曹関係者、宗教者、ジャーナリスト、政治家、運動家、教育者、学生といった、およそ考えうるかぎりの知識人の文章(雑誌などへの寄稿文、日記、知人への手紙など)、談話が網羅されて出ている。それも執筆者・談話者自身の直接体験、目撃談話がほとんどなのだ。当然そこには執筆者・発言者が接触する市井の人々や官憲側の人間など、多様な人々のおびただしい行動や発言が収載されている。それほど貴重なこの2冊の記録を、なぜ、この重大な問題を取り扱うというのに、「参考文献」としなかったのか。この点についても私は少々疑いをもつ。 
2010.10.26 Tue l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (32) トラックバック (0) l top
10月4日付の岩波書店に送信されたm_debugger氏のメール文には今回も返信はなかったようで…。私も岩波書店から何らかの返事らしきものをいただいたことはなく、完全に無視されている。もっとも、昨年6月にブログを始めてからは一度も記事を先方に送信したことはないので当然といえば当然だが。でもおそらく、岩波書店はどなたかが一通りネットの巡回はされていて、自社への批判もそれなりに把握はしているのではないかと思う。

今回、m_debugger氏が文中に引用されている岩波書店の現社長と『世界』編集長執筆の文章を読んで、事態は本当に深刻だといまさらのようだが、痛感した。(ちなみに、m_debugger氏の「…礼儀正しいyokoitaさんのお問い合わせ」という文中の「礼儀正しい」には、穴があったら入りたい気分になった。m_debuggerさん、そんなことはまったくなく、むしろ逆です。)

岡本氏の発言には何か悪い夢でもみてるような儚い気持ちになった。彼(ら)は何もかも自分に都合のいいようにしか考えられなくなっているように思う。「もしかすると自分(たち)のほうにこそ問題(病巣)があるのではないか」というような、自分に都合の悪い考えは、おそらく「自分たちはこんなに忙しく一生懸命働き、雑誌を作っているのに」などと考えて、心中からきれいに追い出してしまうのだろう。金光翔さんがこれまで何度も述べているように「時分たちは良心的な本を作っている、良心的な人間である」という一途な確信に凝り固まっているせいではないだろうか。「弁証法」という言葉はあまりにもよく見聞きするので、哲学とは縁のない私でも「弁証法とは何だろう」と時々思い出したように考えたりするのだが、頭脳が緻密でない故だろう、なかなか理解できないのだが、ただ現在見えるそのような姿勢、現象をぴったし「反弁証法」というのではあるまいか? とは思う。

場合が場合だけに、社長が口にしている「良心」という言葉にも目が吸いよせられた。金光翔さんが佐藤優氏の『世界』重用に異議を唱えたことは「編集者の良心」に深く関わる問題だったと私は思うのだが、現社長とはいえども長く編集者でもあった山口氏はその点についてはどのように考えておられるのだろうか。これは、問題の性質からいって、社長として、また元編集者としてぜひとも答える必要性をもつことであろう。むしろ、率先して公にすべきことではないだろうか。「良心」を意識していると述べる以上は。

私はわりあいに広津和郎の文章が好きで(松川事件関連のものだけではなく)、時々、棚から本を引っ張りだしてきては目についたものを行き当たりばったり読んだりするのだが(年々歳々、その文章が現実感をもって迫ってくるようになってきている。はるかに過ぎ去った遠い昔の話を聞いているというような感じではないのだ。「わが心を語る」「散文精神について」「心臓の問題」「歴史を逆転させるもの」など戦前・戦中(主に1930年代)に書かれたものが、今、ここで-同時代に起きた出来事を聞いているかのように身に沁みて感じられる。)、ちょうど、日本がハワイ真珠湾を攻撃して全面戦争に突入する少し前に発表された「派閥なし」という文章を読み了えたところだったので、岩波書店社長の「良心」という言葉は特に「派閥なし」の文章と内容的に重なって感じられた。1941年、時流に流されたり乗ったりして行く傾向の見える文筆家や文壇ジャーナリズムの、これまで保持してきた長所・美点を今あらためて表に出し、これを喪失してしまうことのないようにとそれとなく文壇(論壇もふくめていいのではないかと思う)やジャーナリズムや読者に呼びかけた文章のように思えたからである。呼びかけた対象には漱石の作品をはじめとして学術書など良書を出版しつづけてきた岩波書店も当然入っていたことだろう。

広津和郎は、文壇人が反省しなければならない事はいくらでもあるとして、「時局に対する認識も足りないし、科学に対する知識も不用意だし、いろいろな社会現象に対する理解も深くない」といって、自省と奮闘の必要を説きながら、しかし、手前味噌とことわりながらも、「今の世の中で、文壇がそう腐っているものとは凡そ思えないし、寧ろ文壇などはその性質上、今の世の中で清潔の部類に属する事が出来るものではないかとさえ思えるのである。」と述べている。そして、その長所は、何といっても派閥がないことだというのである。「派閥なし」から以下の文章を引用する。(下線による強調は引用者による)

「 その第一には文壇には派閥がない。といったら人々は信用しないかも知れない。勿論派閥らしいものが時々起らない事はない。併しその派閥は他の社会のように政治性をそう強く発揮する事が出来なくなるのである。というのは、この社会は実力が物をいい、実力がなければ、いかに策略をもって世に出ても、凡そ長続きがせず、直ぐ化けの皮をひん剥かれるからである。
 親の威光も利かなければ、師の威光も利きはしないし、そして叉仲間賞めの威光も大して功を奏するものではない。現に私などは父が明治文壇の作家であった。それだから文壇というものをよく知らない人々からは、親の威光によって文壇に出たろうなどという人がある。近頃はそんな事をいう人はなくなったが、若い頃はよくいわれたものである。併し私が世に出た頃は、私の父の時代は去り、文壇は自然主義の天下であった。
 そして大体文壇の新時代というものは、前の時代に反抗して立つものである。それだから自然主義時代には、私の父には当時の文壇への手がかりなかった。――もっともこうはいうものの、ジャーナリズムの上で、父の子であるという事が多少の好奇心を惹いたかも知れない。併しそんな事は一つ物を書けば、それで終りである。父の子であるという事が、続けて物を書かせて貰う資格には凡そこの世界ではなるものではない。
 それと共に、又自然主義が反抗して立った前の時代の作家で私の父があったという事で、その子である私に、自然主義時代が別段何の妨害もするわけではない。出るのも情実ではないと共に、叉情実で叩きつけられるような事も凡そあるわけではない。」(『中外商業新聞』1941(昭和16)年4月)

広津和郎が「父の子」と言っているのは、彼が、明治の一時期盛名をひびかせた硯友社の小説家・広津柳浪の息子だったからだが、これは立場上一応言ってみただけのことで、ここで広津和郎が言いたかったことは勿論そんなことではないと思う。次を引用する。

「 このように文壇はいつも公明正大である。それは実力本位という文壇の暗黙の規律が厳として存在しているためであるが、それと同時にジャーナリストというものが又案外公明正大である事をも見逃してはならない。平穏を嫌うジャーナリズムが、時によって平地に波瀾を捲き起そうとする事もあるし、作家達に一時的流行的の注文をつける事もあるが、それだから「ジャーナリズムの弊害」などという言葉が叫ばれたりするようにもなるのであるが、併し作家達の策略とか、仲間賞めとかいうもので、決してジャーナリスト達は動かされるものではない。一時動かされるような事もない事はないが決してそれは長続きはしない。それは実際面白い現象というべきであろう。
 作家達の性質によって、多くの読者に受ける側の人とそうでない人とかある。日本の純文学というものは、例外もあるが、所謂俗受けしない側の作家達によって主として続けられて来た。そしてそれを守り立てて来たのは、つまり日本の綜合雑誌のジャーナリスト達の感覚と良心となのである。――日本の綜合雑誌のジャーナリスト達は、大体においてそう恵まれた生活を送ってはいない。彼等の純文学を守り立てて来た功績も常に忘れられ勝である。併し彼等がいつも公明正大で、文壇の公明正大を助長させて来た手柄というものは決して忘れられてなるものではない。そしてジャーナリスト達の公明正大さに信頼を持っているからこそ、作家達はいつでもフランクな気持で、めいめいの道を進んで来る事が出来たのである。 私は今の日本の他の社会と文壇とを一々比較して見た訳ではないし、又そういう事に別段興味も持たないが、併し私が触れた程度のどの社会よりも、文壇が公平であるという事は、自信をもっていって差支ないものだと思っている。どの社会よりも政略や策略がいらず、どの社会よりも正直というものがほんとうに買われていると思う。本人の地金をこの位安心して出せる世界は又とないと思っている。所謂お上手に立ち廻って、僅かな利益にありつく事があるかも知れないが、それでもって欺き通せるという事は、文壇――殊に純文学の世界ではあり得ない。
 少々正直過ぎ、従って長所をも欠点をもさらけ出すので、そういう所から文士達は一般から誤解を受けるが、人間性の正直さを尊ぶ事、凡そ彼等の如きはないと私は思っている。
ポリシイを憎む事彼等の如きはない。それだから、ポリティックというものは、本来彼等の性に合わない――目的のために手段をえらばずという事が、近頃は時代のモラルの如く是認されているが、それを是認しない最後のものは、文壇だろうと思う。

 それが嘘だと思うなら、文壇人とつきあって見るが好い。彼等はわがまま者で、粗野で、自分の気の向かない事にはふり返りもしないが、併し彼等は正直な事は他の社会から見ると無類であるし、凡そ嘘や見せかけを、自他共にゆるさないという事が解るだろう。
 そこで私が正直で、気が弱くて、他の社会から何とかいわれれば、それに怯んだ気色をも見せかねない作家達に、此処で改めていいたいと思うのは、どんな時代が来ても、諸君の嘘嫌いな気質は決して間違っていないという事を、はっきり自信しても好いという事である。決して今の世の中で諸君は怯む必要は少しもないのである。日本人全体文壇人の如く正直であれと、あべこべに諸君は主張したとしても、それは決して思い上りではないのである。――唯勉強はわれ人ともに足りない。これはほんとうである。それはあらゆる意味で勉強しなければならないだろう。併し他の社会に倣って、ポリシイなどを学ぶ必要は少しもない。余りのポリシイのない莫迦正直を、世の中から嗤われたら、それは嗤う方が悪いのである。それだから勝手に嗤わせて置いて然るべきである。
 私は散文作家が政治に関心を持つべきだという事を度々いった事がある。併しそれは作家がポリシイを是認する政治家にならなければならないなどという意味では凡そない。そういう卑近な解釈をされるのが一番迷惑する。そうではなく、民衆の生活に刻々に影響する政治というものを、作家精神によって見まもらなければならないというのである。
 余りに正直なるが故に、作家達はその正直さを持て余すというような現象も時に生じない事はない。それで反撥から、それの反対のものへの憧れを無邪気に示したりする事も往々ある。――偽悪家や露悪家の絶えないのもその消息を語っている。
 又「逞しさ」などという言葉によって、その憧憬を示す事もある。無論逞しさその事に反対するものではないが、中にはその「逞しさ」の追求の方向を間違えて、実業家や政治家達に取っては陳腐である「手段を選ばず」的のふてぶてしさと解釈し、そうしたふてぶてしさに新たなモラルでも探し当てたような顔附をしているものもある。
 併しそれは間違いである。そんなところに新しいモラルがあるわけではない。そんなものはよその世界では陳腐なものなのである。それが文壇人の或者に新鮮味と間違えられたりするのは、それ程にわれ等の先輩たる代々の文壇人が、そういう濁りに染む事を警戒して来たという事実からの逆作用なのである。
 そういう意味の現実主義を軽蔑すればこそ、作家達は身分保障令もなく、恩給もなく、書かなければどんな大家でも直ぐ食えなくなるというような、小利口者や臆病者の到底やって行けないような道を選んで、文学をやって行くのである。それは決勝点というもののないトラックの上を走っているようなものである。何処まで走ったら息を吐いていいというようなものではない。私の五歳の時から小説を書き出した徳田秋声氏が私が五十一歳になった今日でも、尚私達と同じトラックの上を、肩を並べながら走っているのである。いや、私よりも更に十歳、二十歳年下の作家とも亦肩を並べて、この老大家が走って行くのである。
 そして又このトラックの上の事になると、七十幾つの老大家も三十歳の新進作家も、同じく無遠慮な峻烈な批評を受ける。その間に情実の区別はない。実力勝負で争っているのである。
私は実力勝負という事で、土俵上の力士を思い出したが、併し力士にはいつか年寄になる株がある。ところが、作家にはそんな気やすめはない。―― 一生決勝点のないトラックの上を、倒れるまで走りつづけて行かなければならないのである。そしてそのように走りつづける唯一つのコツはその作家の正直な地金をみがく事の外にはない。誤魔化さずに、正直にみがく事の外にはない。それ以外の粉飾は、このような遠道を駈けて行く中にはみな剥げてしまう。
 文壇というところはこういうところである。そしてこういうところである事を怯むような傾向が近頃はほの見えて来たが、他の社会の何処にこういうところがあるかを、寧ろ誇ってやるべきだと思う。 」(同 上)


私は、上の文章には広津和郎の本心、そして基本的・原則的な考え方がそのまま叙述されていると捉えていいと思う。そして、この文章を読むと、例外も物足りなさもいろいろあるにしろ、自分が長い間なぜ大体において文学者一般を好きだったのか、信頼できると考えていたのか、その理由の一端が自分で理解・納得できるような気がする。ところが残念でならないのは、ここで広津和郎が文学者や文壇ジャーナリズムの長所としてあげている性格や傾向を最近はほとんど感じることができないことなのだ。そのことを如実に示しているのが、とりわけ佐藤優氏の文筆活動だと思える。

一例を上げれば、靖国問題を論じて、靖国を現状のままでよいという場合に、こともあろうに「悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰が生まれ、文学も生まれるのだと思う」などという言葉をはくのは、信仰や文学に対する侮辱、人間に対する侮辱以外ではないと私には思えたし、今もまったく同様に感じられて思い出しても苦々しい。

もう一つ特に佐藤氏の不正直さを感じるのは、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べていることである。)〈『地球を斬る』2007年「愛国心について」。

佐藤氏のこの発言について、金光翔さんは、「リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。」と述べているが、これは一言で核心を衝いた見方だと思う。1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾して敗戦を迎えた当時、戦争に協力し翼賛体制に乗った人物が上の佐藤氏のような発言をしたならば、それがどのような反響を呼んだか、想像してみればいいと思う。「悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰が生まれ、文学も生まれるのだと思う」という発言にしても同様だと思う。

このような発言は広津和郎が文学者や文壇について述べている内容とはまったく逆の、実に不正直きわまるものであることは、少しでも(普通一般に)ものの分かる人ならば一目瞭然のことだと思うのだが、これを胸の悪くなるような不快かつ危険な発言にまで高めているのは、佐藤氏のこういう愚かな発言を許容して何やかやと賞賛し、当然出るべくして出てきたとしかいえない金光翔さんのような鋭い批判が出ると、寄ってたかって暴力的な排除の姿勢をとる岩波書店や岩波労組や多くの言論人たちの姿であるように思える。
2010.10.18 Mon l 言論・表現の自由 l コメント (5) トラックバック (0) l top
以前、東海林さだおの「逆上の露文入学」を引用掲載したことがあるが、私には得体の知れない奇人・変人としか映らない数学者の岡潔宅訪問の顛末を描いたこの文章もとてもおもしろい(友人である漫画家の園山俊二が死去したときの追悼の文章もとてもよかった。「天使」という言葉ほど園山俊二に似合う言葉はない、と訥々と記されていたが、読んでいると、筆者が心からそう思っているのが読む者にひしひしと伝わってくるような文章であった。それから、漫画家として売り出す前に家で一生懸命描いた漫画を持参してあちこちの雑誌社を回って歩く、本人いわく「漫画行商」をしていた時期のことを書いた文章も忘れられない。)。

この「岡潔センセイと議論する」も、岡潔の奇妙さと一見気弱・従順のショージ君の組み合わせがおもしろくて、昔何度も読んだのだが、ただ、今回久しぶりに読んでみて、何か隔世の感があるような気にはなった。時代は変わった…、と思ったのだが、これは何も「グループサウンズ」とか「日活のアクションスター」なんてなつかしの言葉が出てくるという理由だけではないような気がする。岡潔も今どきの言い方でいうと「トンデモ」ということになると思うが、少し違うように感じるのは、岡には今ではもうあまり見ることがなくなった何か(たとえば、右顧左眄しない一徹さとか)があるように感じるからだろうか。

さてタイトルは、上述したように「岡潔センセイと議論する」。いかにも勇ましい感じだが、スタイルは、ショージ君が奈良の岡宅におじゃまして岡の話をひたすらかしこまって聞くというもの。数学者の岡潔といわれても、私は数学、チンプンカンプン、岡潔個人についても昔雑誌の対談を一、二度読んだくらいで、しかもその印象はまったくよくなかった記憶があるのだが、この訪問記はそんなことに関係なく、大変おもしろい。私などには見えなかった岡潔の一面を東海林さんは的確に捉えたのだろう。

記事の執筆時期については、正確な日付は分からないのだが、多分1960年代の終りから1970年代の初め頃ではないかと思われる。当時東海林さだおは文春で『にっぽん拝見』という連載記事をもっていたらしい。釣りや競馬や商店街やストリップ劇場などいろんな場所を探索して歩いて記事にするという、雑誌でよくある企画ものだったようだが、ある日、担当の編集者から、「こんどは、オカキヨシさんに会ってみませんか」と言われた。「オカキヨシ……ハテ聞いたことあるぞ、グループサウンズの一員だったかな、いや待てよ、日活のアクションスターかな」と思いあぐねるうち、数学の岡潔だといわれて、ショージ君は、オビエてしまった。ショージ君も数学が苦手だったのである。

「 ボクは数学と聞いただけで、数々のいまわしい思い出が、頭をよぎるのである。
 解析Ⅰ、解析Ⅱ、幾何、ああ思い出してもセンリツが背中を走る。
 数学の授業が始まって終るまでの、あの重苦しい、長い長い灰色の時間よ。
 試験の答案をもらうとき、女生徒に見られぬように、パッと引ったくり、すばやく折りたたみ、卑屈な笑い浮かべて、教壇から自分の机に戻る足どりの重さよ。
 考えてみれば、ボクは、あのころから女のコにモテなかったなァ、と思い出は、よくない方へ、よくない方へと拡がるばかり。
 岡先生は、こともあろうにその数学の先生なのである。
 考えれば考えるほど身がすくむ。
 編集部の人の話によると、今回は、数学の話ではないという。
 岡先生の近況は、数学から離れ、荒廃する日本の行く末を案じて自宅に道場を建てられ、念仏三昧の毎日を送っておられるという。
 今回は、岡先生が、どんなふうに日本の行く末を案じておられるのか、また、次代のにない手である若者をどうお考えになっておられるのか、そこのところを、ボクが、若者の代表としてうけたまわってくるという趣向だという。
 それではということで、早速、編集の人と二人で岡先生の住む奈良へ電話をかける。
「もしもし、こちら文芸春秋の浸画讀本の者ですが、今回、『にっぼん拝見』という企画で、東海林という浸画家が、ぜひ先生にお目にかかって、お話うかがわせていただきたいわけなのですが」
「なに?漫画家が?わたしに?……なぜ漫画家がわたしに会う必要があるのです。漫画家はふざけて書くから会いません。会いたくありません」
「そこを、ぜひなんとか……」
「日本はいま、どういう時だと思いますか?」
「……」日本は、どういう時かと聞かれ、一瞬ちんもく。チト待てよ、たとえば安保の……
「では、さようなら」
ガチャン。
いったい、なにがどうなったのか、ボクは呆然と受話器を見つめるばかり。
だが現代のマスコミというものは、こんなことぐらいで、ひるむものではないのである。とにかく奈良まで行きましよう、行けば行ったでなんとかなりますよ、ということになってしまうのである。」(東海林さだお「岡潔センセイと議論する」)

こうしてショージ君は編集者共々奈良に向かったのだが、出発前に岡潔の本を「片はしから買い求め、読みふけった」そうである。そして、何か共通の話題はないものかと考えると、「数学は、インスピレーションによって新しい発見をすることが多いというが、じつをいうと、恐る恐るいうのであるが、漫画のいわゆるアイデアといわれるものも、このインスピレーションの一種によってできあがるものなのである。であるから漫画家は、毎日が、インスピレーションの連続なのである。」と考えたショージ君は、ようやく岡先生との細い一筋の共通点を見出した気分になることができ、ある日、編集者とともに奈良の岡宅に向かった。以下、本文より引用する。

「 朝早く起きて斎戒沐浴、ふだんは磨いたことのない歯も磨き、靴も磨き、ネクタイもキチンとしめて岡先生のお宅に向かう。
だが先生は、はたして会ってくださるだろうか。電話で「では、さようなら」と断わられているのである。それなのに、厚顔にも、こうして奈良までノコノコやって来てしまったのである。もし断わられたらどうしよう。(略)

一月の奈良は、氷るように寒い。
奈良の山を背負った田ンボの中に、岡先生の新居が見えてきた。
文化勲章受賞当時、六畳二間の文化勲章」と騒がれた家を引きはらって、二年ほど前に建てられた白壁の大きな家である。敷地も二百坪はあると思われる。
このへん、坪いくらぐらいするだろうと、俗塵にまみれた漫画家は考える。
ともすれば、ひるむ心にムチ打ち、玄関のベルを押す。
たぶん、お嬢さんと思われる人が出て来て用件を聞き、「しばらくお待ちください」といって引っ込む。
 家の中で協議が行なわれているのであろう。緊張の十分。
そして、「お会いするそうです。お上がりください」といわれたときは、うれしさと、緊張のあまり足がもつれ、よろめくように座敷にころげこんだ。
(略)
 浸画家といっても、漫画界では一流の、人品いやしからぬ紳士が、ゆったり現われると思いきや、ヘンなアンチャンみたいのが、赤い背広着てドタドタところげこんできたのであるから、先生としても、さぞビックリされたことと思う。
 だが先生は、優しい瞳をして、静かにすわっておられた。
 蓬髪、痩躯、鶴のように痩せた、という表現そのままに、先生はキチンと正座されている。ボクも座ぶとんの上にキチンと正座する。
「わたしとしては、漫画家には会いたくないが、東京からわざわざおいでになられたのであるから、わたしの最近の心境のようなものでしたらお話ししましょう」
 といわれる。
 早速、メモ帳出してキッとかまえたが、ボクはここ数年、正座というものをしたことがない。一分とたたないうちに、足がしびれてくる。足もしびれるが、ボクのズボンは安物なので、ヒザが抜けてしまわないか、それも心配である。シワだって寄る。
 先生のお話は、まず日本の防衛論から始まった。
 先生のお話は、急に飛躍したり、前後がつながらないことが多いが、これは、先生の頭脳が、通常人の約二万七千倍も速く回転するせいであると思われる。(この二万七千倍については後述する)
「エー日本は兵力の放棄をうたっておりますが、相手の国が(兵力を)放棄するかどうかを考えていません。(これでは)いったいどうなりますか」
「そして民族の団結心がない。国を愛していない。みんな自己主張ばかりしています。そしてみな、物質中心の考え方しかしない。こんな状態が続けば国は亡びます」
「あのォ安保条約に関して先生は……」
「今いうよ」
「ハハーッ」
「安保は存続させるべきです。日本のこんにちの繁栄は、安保があって(米軍に)守ってもらっているからこそ、こうなったのです。もしこれを放棄して、米国が日本から去れば、中共は必ず攻めてきます。これは自明です。今の日本人は、こんなことさえもわからないのです」
「ハハーッ」
「そして日本は、今や、亡国直前のユダヤと同じです。みんな、儲けることしか考えない。そして団結心がない。そして国を愛するという気持ちがない。日本は亡びます、十中八九亡びます」
「ハハーッ。亡びます……と」
 ここからお請は情緒の問題に急転換する。
 お話のあいだ中、ずっと体は左右に揺れ続け、ハイライトを口にくわえるが、火はつけない。つけないでまたテーブルに置く、またくわえるということをくり返す。
「情緒の元は、すべて頭頂葉にあります」
ボクの足のシビレは限界に来たが、先生は決して、「おたいらに」といってくださらない。やむなく、先生のスキをみて、ソロソロとヒザをくずしにかかる。
「最近の人間は頭頂葉を使わずに、前頭葉ばかり使っています。自然科学的なものの考えの元は前頭葉にあります。西洋人は前頭葉ばかり使ってきました。だから物質第一主義となったのです」
 この頭頂葉という言葉は、先生のお好きな言葉であるらしく、じつにヒンパンにお話の中に出てくる。
 そして「頭頂葉」といわれるたびに頭のテッペンをバシッとたたかれる。そのありさまは、ほんとにバシッという感じで、先生の腕時計が、そのたびに、カチャカチャと音を立てるほどなのである。
「日本人は、大型景気に浮かれ、借金をしてどんどん設備投資をしています。借金だから利子を払わなくてはいけません。ですからそのうち、大量倒産時代が必ずやってきます。そのとき日本人は団結心がないからたちまち亡びてしまいます。それもみな、情緒というものを忘れてしまったからです。それは、頭頂葉(バシッ、カチャカチャ)を使うことをしないからです」
 そうして先生は「国が亡びるのを座視するに忍びず」その対策を、本に書いたり、人にいったりしてきたのであるが誰もわかってくれない。
「日本人は情操を解するただ一つの秀れた国民です。もともと頭頂葉(パシッ、カチャカチャ)の発達した国民です。それがいつのまにか、こんなことになってしまった。情けないことです。日本はもうすぐ亡びます」
 話が佳境にはいり、熱してくると、体の揺れも激しくなり、「頭頂葉」の出てくる頻度も激しくなり、当然、頭をたたかれる回数も多くなる。バシッ、カチャカチャも多くなる。
 しかし、あんなに頭をたたかれては、頭頂葉のために、よくないのではないだろうか。あるいは、ああして頭頂葉を鍛えておられるのだろうか。
 お茶が出、コーヒーが出て、話はどんどん発展する。
「とにかく日本は、いま、亡国寸前です。亡びるのは自明ですから、それまであなたは漫画でも書いていなさい」
「ハイ。そうします」
 お茶を飲みすぎて、ボクの膀胱は、ついに満タンになってしまった。
「あのォ、おトイレは」
「だいたい今の人間は自然科学を重視しすぎます。自然科学で、人間はなにを知りえたでしょうか。たとえば、今私は坐っている。立とうと思う。そうするとすぐ立てる。これもまた不思議なことです。全身四百いくつの筋肉が統一的に働いたから立てたのです。なぜこんなことができるのか。目然科学はなにひとつ教えてくれません」
 膀胱をしっかり押さえつけ、シビレる足をなでつつお話を拝聴する。
「今、全学連が騒いでいますが、先生としては……」
「あんなことをしてもなんの役にも立ちません。すべて物質中心主義、自然科学過信がまねいた結果です」
「あのォ、宇宙開発が今盛んに……」
「いくら物質を科学しても、何も得られません。ムダなことです。宇宙を開発しても人間は幸福になりません。大切なのは心です」
「最近の女性は……」
「最近の女性は、あれはいったいなんですか。性欲まる出しにして尻ふりダンスなどしておる。まったく情操の世界から逸脱しておる。セックスは種の保存のために必要です。仏教では親が子を生むのではなく、子が親を選ぶのだといいます。ですから男女のまじわりは気高く行なわねばなりません」
 セックスについて語るのに「気高く」という表現が使われたのでボクは一瞬息をのむ。
「最近の若者の無知ぶりはひどい。わたしはせんだってある女子大生の知力をはかってみましたところ、わたしの二万七千分の一しかありませんでした。そして最近になって、もう一度はかってみましたら、さらに、そのときの三十分の一になっていました。これはじつに、合計百万分の一ということです」
(略)
「日本の最近の男女の乱れぶりは亡びる前のアテネに似ています」
先生はここで急に声をひそめ、
「日本の共産主義の若いものは、『歌って踊って恋をして』の方針でやっているらしい。わたしが最近、親しい僧侶から聞いた話では、男たちが、若い女性を輪姦して、それで女が喜びを知って共産主義に走るということをしているらしい。これは、私が相当の地位にある僧侶から聞いた語だから、ウソではないでしょう」
 ボクは岡先生の口から輪姦という言葉がとび出してきたのでびっくりしてしまった。そして、老いたる高名な僧侶と先生が、ヒソヒソと輪姦の話をなさっている場面を、思わず想像してしまったのである。
「それにしても」と先生は続ける。「こんなことをして、ほんとうに日本はどうなるのでしょう。まちがいなく亡国寸前の姿です。日本はまもなく亡びます。十中八九亡びます」と、おいとまを告げて玄関に出たわれわれに、さらに先生はこう続けられたのである。
 玄関で靴をはく間もボクの心は深い憂いに沈んでいた。どうやら日本はまもなく滅びるらしいのである。本当に日本はどうなるのだろうか。この非常のときに、漫画など書いてていいのだろうか。不安が次第につのり、胸がいっぱいになり、ぼくはヨロメくように玄関から退出したのである。(略)」(同上)


以上、(『ショージ君のにっぽん拝見』文春文庫1976年)より引用したが、「日本は、いま、亡国寸前です。亡びるのは自明ですから、それまであなたは漫画でも書いていなさい」と岡に言われて、ショージ君が当然のように「ハイ。そうします」と応じるところがおかしい。この文庫の解説は野坂昭如が書いていて、この「岡潔センセイと議論する」をたいそう誉めている。「……岡潔へのインタビュー、というよりその形をかりて、老先生を肴にした文章/名にしおう狷介孤高偏屈独断の人物を相手に、その周辺をとびはねているだけの如くみえて、余人の誰もえがき出せなかった岡の人物像を、見事、浮び上らせたのだ。」。野坂昭如のこの解説もドンピシャの名評のように思える。
2010.10.14 Thu l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
こちらの記事を読んでくださった方から、次のコメントをいただいた。コメント欄に返信を書きかけたが、長くなりそうだったので、本文で書くことにした。コメントの全文は以下のとおりであった。

「漱石がロンドン大学の授業について行けなかった」というのは、佐藤氏がどういう意味で言ったのか分かりませんが、当たらずといえども遠からずでしょう。当時の英国では漱石が目指していたような「英文学の研究」はまだ行われていなかった。ジェイン・オースティンやメレディスなんぞはわざわざ研究する値打ちがあるものとはみなされていなかった。授業は中世英語などでしょう。これは現代(ヴィクトリア朝を含めて)の英語から見れば全くの外国語で、予備知識が無ければチンプンカンプンのはず。「授業について行けなかった」から漱石がだめだったということではないのです。」

このコメントを幾つかに区切った上で返信コメンを書くつもりだが、簡潔な書き方が苦手なほうなので話が要領をえなくなるのが心配だが、その点ご容を。コメントの最後のほうから答えていきたい。

① >「授業について行けなかった」から漱石がだめだったということではないのです。

については、まったく同感です。漱石がもしロンドン大学の授業について行けなかったとしたら、漱石のような優秀な人でも母国語を使えない本場で授業を受ければ初めはそんなこともあるのね、とか、どこに問題があったのだろう、と思うだけで、「漱石がだめだったから授業について行けなかった」などと思うことはありません。

② >授業は中世英語などでしょう。これは現代(ヴィクトリア朝を含めて)の英語から見れば全くの外国語で、予備知識が無ければチンプンカンプンのはず。

私は外国留学の経験がないのでよく分からないのですが、あなたがおっしゃっている「中世の英語」云々の意味は、当時、ロンドン大学の授業が一貫して中世英語で行われていたということですか? もしそのような趣旨ならば、そんなことはなかったかと思いますが…。それでしたら、英語を母国語としている英国の学生にも「チンプンカンプン」になるのではないですか? 中世の文学をテキストとした授業の場合は、もちろん中世英語が出てくるのは当然ですが、それならば大抵の人にとって新規なことのはずで、日本人である漱石だけではなく、英国の他の学生にとっても同じ条件のはずですから、漱石が「授業についていけなかった」という話とは質がちがうことですね。シェイクスピアは中世の人とはいえないでしょうが、それに近いですね。漱石の蔵書にはシェイクスピア全集が7揃いもあったと言います。学生時代からよく読み込んではいたようですよ。

一番肝心なのは、本人が「授業を受けるのを止めたこと」についてどう言っているかだと思いますが、通学を中止した理由について漱石は知人に、次のような手紙を書いています。(2通ともロンドン到着後およそ3、4ケ月後)

「僕は書物を買うより外にはこの地において楽(たのしみ)なしだ。僕の下宿などと来たら凰が通る暖炉が少し破損している憐れ憫然(びんぜん)なものだね。こういう所に辛防しないと本などは一冊も買えないからな-。(略)大学もこの正月から御免蒙った。往復の時間と待合せの時間と教師のいう事と三つを合して考えて見ると行くのは愚だよ。それに月謝などを払うならなおなお愚だ。それで書物を買う方が好い。然もそのProf.がいけすかない奴と来たらなおなお愚だよ。君はよく6時間なんて出席するね。感心の至だ。僕のコーチ(引用者注:個人教授を依頼したシェイクスピア研究者のクレーグ博士)も頗る愚だが少しは取る処ありで、これだけはよさずに通学している。」(藤代禎輔宛。1901年2月5日)

「 宿はそれで一段落が付た。それから学校の方を話そう。University Collegeへ行って英文学の講義を聞たが第一時の配合が悪い。むやみに待たせられる恐がある。講義その物は多少面白い節もあるが日本の大学の講義とさして変った事もない。汽車へ乗って時間を損して聴に行くよりもその費用で本を買って読む方が早道だという気になる。尤も普通の学生になって交際もしたり図書館へも這入たり討論会へも傍聴に出たり教師の家へも遊びに行たりしたら少しは利益があろう。しかし高い月謝を払わねばならぬ。入らぬ会費を徴収されねばならぬ。それのみならずそんな事をしていれば二年間は烟のように立ってしまう。時間の浪費が恐いからして大学の方は傍聴生として二月ばかり出席してその後やめてしまった。同時にProf. Kerの周旋で大学へ通学すると同時にGraigという人の家へ教わりに行く。この人は英詩及シエクスビヤーの方では専門家で、(略)余り西洋人と縁が絶ても困るからこの先生の所へは逗留中は行くつもりだ。」(狩野亨吉・大塚保治・菅虎雄・山川信次郎宛。1901年2月9日)

漱石という人は、自分ができもしないことを虚栄心のためにさもできるかのように話したり、ごまかしや嘘で自他を欺いたりすることを「愚」なこととして最も嫌う人のように思います。「私の個人主義」のなかに「世界に共通な正直という徳義」なんて言葉も使っているくらいです(笑)。漱石の美点はそういうところにもあり、上で引用した書簡には何の誇張も偽りもないと思いますよ。漱石の英語が卓抜であったことは日本在住の英国人の間でも有名だったらしく、五高で漱石に英語を教わった野間真綱によれば、五高の外国人教師H・ファーデルは生徒に対して「君等は英語に熟するには外国へ行く必要はない、日本丈けで充分熟達することが出来る。その証拠は夏目教授だ」と語ったという(『英語教師 夏目漱石』川島幸希(新潮選書2000年))し、英国留学に向かう船中でも英国婦人から同じような賞賛を受け、漱石自身日記に、「誰にも我英語巧ミナリトテ賞賛セラル赤面ノ至ナリ」と書いています。自分では決してそうは思っていなかったからこその「赤面」だったのでしょうが、そういう漱石のことですから、もしロンドン大学の授業内容が自分にとって重荷だったのなら、正直にそのように書き、日本での教育のどこに問題があったのかについても率直に記すだろうと思います。

後一つ、二つ、証言(?)を。これは以前にも書いたことですが、文学論の序から、漱石自身の言葉を。

「大学の聴講は三四ケ月にして已めたり。予期の興味も智識をも得る能はざりしが為めなり。私宅教師の方へは約一年間通ひたりと記憶す。」

もう一つ。下記の『漱石研究』はこちらのブログ(http://soseki.intlcafe.info/kenkyuu/index07.html)の引用ですが、ブログ主の方の試訳だそうです。該当部分を一部引用させていただきますと…。執筆者は ビョンチャン・ユー。ウェイン州立大学で英文学を講じておられるそうで、翻訳者の方の説明によると、「 漱石の著書の翻訳の他、ラフカディオ・ハーン研究書『神々の猿』などの優れた研究書もある。」とのことですが、この方はロンドンにおける漱石について次のように述べています。

「 …当時漱石は、後に発病した慢性胃潰瘍とともに死ぬまで彼についてまわることになる神経衰弱の最初の発作に悩まされていた。しかし、彼の神経が冒されたのは、人々が考えたように、厳しい現実に直面し、感受性豊かな心が耐えきれずに絶望状態に陥ったためではなかった。漱石は当時、個人的な危機に直面していた。つまり、彼の苦しみは、純粋な魂が魂自身と取り組もうとしていたことから来る苦しみだった。
 この個人的危機は漱石が松山、ついで熊本へと引っ越した頃から兆しはあった。ロンドンでそれが最終的にやって来た時、そのショックは激しかった。英国到着後、漱石はケンブリッジでもオックスフォードでもなく、ロンドンを滞在先に選んだ。それは経済的な理由からだった。スコットランド、アイルランドといった地方も考えたが、英語を学ぶにはそれよりロンドンの方がよいのは明らかだった。漱石はロンドン大学の聴講生の登録をすませたが、まもなくその授業がまったく期待はずれのものであることがわかり、授業に出るのをやめた。その結果、大学で会うのは個別指導教官のクレイグ博士だけとなった。博士はシェイクスピア学者だったが、とくに知的な刺激を与えてくれる人物ではなかった。博士について指導を受けるかたわら、漱石は自分の専門分野についてできるかぎり多くの本を読もうと努めた。とくに、名前は知っているが読んだことのなかった、一般に定評のある本は片端から読んだ。しかし、一年たった後、そんなことをしても、大学卒業時に感じていた英文学に対する疑いは晴れないことがわかった。実際のところ、漱石がやっていたのは、問題と対決することではなく、むしろ、それからどんどん遠ざかることだった。だが、とうとうその問題と正面から対決する込む時が来た。その時、漱石の魂はまさに暗黒の夜を経験することになった。」

この文章のなかの「彼の苦しみは、純粋な魂が魂自身と取り組もうとしていたことから来る苦しみだった。」という一節ですが、これは「文学論」の序に見られる漱石自身の次の文章と対応しているのではないかと思います。

「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、全く此幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。/ 卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。/ 翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は之を充分味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。/ 大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会せり。/余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。 /余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。 /余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。 」(『文学論』序)

こういう漱石にとって、そもそも文学とは何か、人間にとってなぜ文学が必要とされるのか、という根本的な問題に自力で答をあたえること、これを解決することこそが最重要課題ではなかったかと思います。何しろ「卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。」という発言は只事ではないと思います。ですから、漱石には「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題」を解釈することが英国留学の当初からほとんど生死を賭けるほどの重大問題であって、

③ >当時の英国では漱石が目指していたような「英文学の研究」はまだ行われていなかった。ジェイン・オースティンやメレディスなんぞはわざわざ研究する値打ちがあるものとはみなされていなかった。

あなたが名前を出しているジェイン・オースティンやメレディスを漱石は確かに好きだったようですね。漱石の作品にメレディスの影響を指摘する人もいるようですし。ただ、漱石はオースティンにしろ、メレディスにしろ、誰か特定の個人を研究したかったわけではなかったのではないでしょうか。1年間必死に次々といろんな本を読破してみた後に、これではいけないと悟り、「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり」という生き生きとした発見の言葉をきくと分かると思うのですが、漱石は英文学そのものに違和感や疑念をもっていて、そこに彼の切実な悩みがあったのではないでしょうか。漱石は謙遜な人ですから、自分は英国で重大なものを掴んで帰国した、というような大見得は切りませんが、その後の漱石の滾々と湧きだし溢れるかのような創作力を見ると、また、「私の個人主義」で述べている、

「(文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設、一口でいうと、自己本位という四字をよう やく考えて、この自己本位という言葉を自分の手に握ってから)その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰欝な倫敦を眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。 (略) すなわち外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。 」

というような発言をみると、漱石には初めから漱石固有の問題の解決こそが最重要事であったように思います。最初のコメントに戻りますが、以上のことを総合的にみて、

④ >漱石がロンドン大学の授業について行けなかった」というのは、佐藤氏がどういう意味で言ったのか分かりませんが、当たらずといえども遠からずでしょう。

というあなたのご意見にはとうてい同意できません。「ロンドン大学の授業について行けなかった」にしても、「一部を見て、西欧社会全体が個の確立した人間で構成されているというふうに不当拡張してしまったのではないでしょうか」にしても、佐藤氏の話はだいたいいつもそうですが、出典・根拠が記されていません。言いっぱなしです。

ただ、漱石は英国到着直後、コックニーに大変悩まされで、人が何を言っているのか本当にわからなかったようです。友人にも愚痴のようなハガキを随分書いていますね。これについては、上述した「英語教師 夏目漱石」の著者・川島幸希氏(秀明中・高の校長だったという。一読の価値あり)も、初めてロンドンに行った時はコックニーをさっぱり聞き取れなかったそうで、相手が「一瞬何語を話しているのかと思ったほどであった。」と述べ、

「コックニーの洗礼をはなから受けた漱石が「日本の西洋人のいふ言が一通り位分つても此地では覚束ないものだよ」と自信を喪失したのもうなずける。/ ただ漱石自らが書き残しているように、日本語に方言があるのと同じで英語も地方によって異なり、さらには日本語以上に階級によっても違うのだから、渡英直後に聞き取りに不自由を感じてもそれほど挫折感を持つ必要はなかったはずである。にもかかわらず、漱石がコックニーにこだわったのはなぜか。それはコックニーが大英帝国の首都ロンドンで話されていた言葉だったからだと思う。」

と記しています。英語の話せる知人によると、サッカーのベッカムの言葉がコックニーでテレビなどで聞くとやはり聞き取りがたいそうですね。
2010.10.10 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
「松川事件のうちそと」には、第二審判決の日(1953(昭和28)年12月22日(一審判決はこれより3年前の12月6日、福島地方裁判所で行われた)の法廷の模様の録音が掲載されている。これは短い記録映画として今も残っていて、私はこのビデオを昔知人に頂戴して今も持っているのだが、法廷の場面はほとんどカット写真のみで構成されているが、被告人たちの怒りのみなぎった顔つき、それから裁判長との激しいやり取りの声音から、その場の緊迫した光景が目に見えるようである。着席した裁判長はまず主文「原判決を破棄する」として3人を無罪とした。法廷にホッとした気配が漂ったかにみえた瞬間、裁判長は、「被告人鈴木信、同本田昇、同杉浦三郎、同佐藤一を各死刑に処する。被告人二宮豊、同阿部市治を無期懲役に処する……」と、残り17人に一審とほぼ同様の重判決を読み上げていった。松川事件のある裁判長が、被告たちの鋭い追求をうけて「やっているかやってないかは神様しかわかりません。」と述べたことは有名だが、その発言が飛び出したのは、この日、この仙台高裁の裁判長によるものであった。だが、松川裁判の最初から最後まで岡林弁護士と共に終始一貫主任弁護人として力を尽くした大塚一男弁護士は「回想の松川弁護」(日本評論社2009年)のなかで、この日の判決言い渡しは裁判長の「本日の判決は確信をもって言い渡す」という自信満々の前口上で始まったと述べている。それでは、広津和郎の短くも印象的な紹介文につづいて「第二審判決の日の法廷」を掲載する。(太字、下線による強調はすべて引用者による)


 次に掲げるのは、控訴審判決期日における公判廷の模様を、速記並びに録音によって整理したものであるが、この松川裁判の性質を端的に示すものとして、われわれに多大の感動を与える。」(広津和郎)

  第二審判決の日の法廷
    ○
 午前10時開廷、裁判長は判決文構成の項目を説明して後、判決要旨の朗読を始め、主文を告げ、判示事実の朗読を続けていった。
 判決要旨の朗読にはいってから18分後、
佐藤一被告 裁判長、それは何です、読んでいるのは、
裁判長 発言を禁止します。
佐藤一被告 第一審の判決をいい加減にして、また、まるででたらめを言ってるんじゃないですか。
裁判長 最後まで聞いて下さい、発言を禁止します。
佐藤一被告 そういう判決は、我々は承服できないのです。
裁判長 発言を禁止します、それに承服できなければあとで方法があります。
鈴木信被告 裁判長、聞くのは結構ですが、私達の聞きたいのは事実関係についてどうのこうのという解釈論でなく、何故真実とあなたの判断がくい違いがおきたか、その根本的理由を聞きたい。
裁判長 後で説明します。
鈴木信被告 スパナーで抜けるかどうか、バールが線路班のものかどうかが問題でなくて、もっと根本的なもので、裁判長のそういう解釈論というのか何か有罪だという考えがあって出てくると思います。だから、それでそこまで到達した過程を聞きたい。
裁判長 あとでそれは説明します、とにかく続けます。
鈴木信被告 いや、例えば電話連絡について事実関係をどう解釈するという小さな問題でなくて、あなたは何故我々とまるで違った判断をなすにいたったか……
裁判長 私共としては被告達のおっしゃることも充分検討して、詳細に検討したつもりですけれどもね。
鈴木信被告 冗談じゃないですよ。
裁判長 とにかく発言を禁じます、今まであなた方のいう事は充分聞いたのです、今日は聞きなさい。
鈴木信被告 聞きますけれどもね、結局11日に電話連絡があったとか、なかったとか、あの自在スパナではずせるかどうかという問題でなくて、一体何故事実とかけはなれた……
裁判長 とにかく説明を先に聞きなさい、不服申立ての方法がありますから、途中でそういう事を言われても困ります。
鈴木信被告 聞かないとは言いませんよ。
佐藤一被告 あまりにも事実と違いすぎるですよ。
裁判長 違う違わないはない……
佐藤一被告 今までは黙ってききました。しかしこういう判決を聞かせられては黙っていられません、どうして真実を曲げたかその根拠を示してもらいたい。
裁判長 それは見解の相違ですよ、我々はこの事実を認めたのですから。
佐藤一被告 そんな簡単なものでないですよ
裁判長 あんまり聞かないなら退廷してもらいます。
鈴木信被告 聞きますよ、聞きますけれども、あなたはここで不服なら上告しろとおっしゃるけれども、なるほどあなた方としてはそれは流れ作業でよいでしよう。それは責任のがれです。例えば第一審ではこうだった、不服なら二審へもっていけ。これをやるのに確信があるなら……
裁判長 いや無論我々は確信があってやっているんです、しかしながら不服があれば仕方がない、我々は決して流れ作業でその場の責任逃れをやっているのでない。
武田久被告 何の為に2年間やったか問題ですよ、事実とかけ離れた判断をしている。
裁判長 発言を禁じます、これ以上発言するなら退廷を命じます、被告達に無論聞いてもらわなければならないけれども、傍聴人、弁護人にも全部に聞いてもらう。
鈴木信被告 それではあとで発言の機会をいただけますか。
裁判長 あなた方には最終陳述でも充分述べる機会を与えたつもりです、今日は被告達の発言する必要はないです、検察官も弁護人も発言する必要はない。
佐藤一被告 我々はその必要ないような裁判を願ってきたのですよ。
岡田十郎松被告 裁判長、我々は4人も殺されたらどうするんです、我々は何もやっていないのだよ。
裁判長 言うなら静かに言って下さい。
蓬田弁護人 裁判長、被告の云うことを聞いてやって下さい。
裁判長 では代表で鈴木被告に10分間発言を許します。
鈴木信被告 とにかくですね、問題はあなたが言われるような、ささいな枝葉末節の解釈の事でなく、裁判長が如何なる判断をなされようとも真実は唯一つであり、絶対に動くものでありません、不滅です。問題にするのは、あなたはなんとおっしゃっても我々は実際やっていない。全くやっていない……
山本弁護人(高橋陪席裁判官を指し)、にやにや笑っている! にやにや笑ってよくないよ。
裁判長 静かに静かに(廷内騒然)
二宮豊被告 まだ笑っている。
高橋裁判官 それは……
岡田十良松被告 人を殺すときに笑っている。
高橋裁判官 おかしくないですけれど、笑うのは僕のくせでね。
杉浦被告 我々は真剣だ、高橋裁判官は笑っているとは何事です。
岡林弁護人 裁判長は直接死刑に手を下すのではないでしょう、しかしいやしくも人を死刑の宣告をなすときにニタニタ笑うような裁判官に我々は断固として抗議せざるをえない。顔を洗って出直していただきたい。言渡しをやるなら顔を洗って真剣な気持で判決がされることを要望します。我々は裁判官の笑いながらの判決を聞く事はできない。人道上の犯罪ですよ。
梨本弁護人 今朝の新聞を見ますと一部有罪一部無罪という様な報道がなされている。このことに非常な疑問を持たざるを得ない。この点について裁判所の釈明を求めます。
裁判長 とにかくやります。
蓬田弁護人 裁判長、延丁に命じて鏡を法廷に持って来て下さい。高橋陪席裁判官の前に持って来て笑い顔を反省させて下さい。裁判の権威を失墜させるものです。
岡林弁護人 裁判長は法廷指揮権を持っていられる、裁判長、同じ構成裁判官の一人が死刑の刑を4人に言い渡す最中において、ニタニタ笑っていられる、そして笑うくせがあると言っていられる、この様なことをいやしくも人間性のあるものが黙っていられますか、いやしくも人の魂をもっているものが。けだものの行為です、野獣の行為ですぞ。笑う様な顔を洗ってかかって下さい。(騒然)
高橋被告 今までいつも居眠りばかりしてきたんだ(註 高橋裁判官は公判審理中によく居眠りするので弁護人より注意された)
本田被告 無実で殺される私達の身になってごらんなさい。
岡林弁護人 一寸待って下さい。私がけだものの行為と言った時に瞬間的にまじめになられた。それ以前も以後もにたにた笑っていられる。私は真剣な評議が行われたとは考えられない。この法廷においてニタニタ笑っていられる様な態度では私は裁判所が真剣に反省されて評議し直されんことを求めます。
裁判長 高橋裁判官に注意します。
岡林弁護人 どういう注意をされるのですか、我々が今言ったようなことを。
裁判長 とにかく緊張してまじめにやって、心ではまじめにやっておられるでしょうが外観においても。
太田被告 今まで居眠りして来たんだから。
鈴木被告 とにかくどんな判断をされようとも私達は実際やっていないのだ。実際関係はない。このことは私は裁判の法廷で再三述べましたが、全く真実と離れた判断をされるか、その点が非常に心配だったんです、それは一番危険なのは新聞に出ているいわゆる心証というやつです、心証程危険なことはありません、これは判断の誤りを起す一番大きな原因です、それで我々は常に客観的な事実だけはいかなる偏見にも迷わされず、主観も入りません、だから客観的事実のみによって判断して下さいということを、繰返しくりかえし述べて来たんです。所が第二審法廷で2年間のあの調べで少くとも我々に不利な証拠というものは何一つ出なかった。事実審理の過程において我々に有利なもののみが出たということは、裁判官も御存じの事と思います、だからもっともっと調べれば必ずもっと有利なものがどんどん出て来ると思います、だから私達が問題にしたいのは実際やってない我々に対して有罪という判断が成立するかという事です、その過程においてなぜ誤ったものが出てくるか、その原因を我々が分析をしなければならない、そこに問題がある、その点を明確にしてもらわなければならない、そこで我々が一体実際やっていないのに、その様な死刑の判決を我々に聞けというのは、一体無理な話じゃないでしょぅか。
裁判長 裁判は裁判所の認定した事実と法律の適用によって宣告しなければならない、宣告した以上は終りまできかなければいかん、そして後でそれでこういう風に認めたという根拠を控訴理由の判断の中に折り込んで説明しますから。被告は絶体やらないと主張しておるが……
(被告はこもごもに) いや主張でなく真実です。
 証拠は我々の無罪を証明しているじゃないか。
裁判長 それは後で説明します、それで不服であれば仕方がない、裁判所の事実の認定は証拠によるんです、それで不服があればしょうがないです。
鈴木被告 やらなくとも死ねというんですか。
裁判長 それ以上聞いたって仕方がない、あなた方の言うことは皆聞いた筈です、あなた方の言い分はのみこんだつもりです。
被告 つもりだったら無罪だ!
裁判長 暴言をはくな!
被告 暴言ではない。(廷内騒然)
岡林弁護人 裁判長、被告諸君はこういう事を言っているんです、被告達は目の前で自分が殺され、あるいは同僚が殺されようとするのに対してだまっていることは出来ない、それは人間の普通の感情ではないですか、これはすなわち裁判所が裁判所としては目の前で殺すという実感を持たないで判決されるということが示されている、それは高橋裁判官がニタニタと笑っていた態度にもあらわれている、裁判所はまだあとがあるので今自分が刃を持ってするのとは違うという意識を明かにもっている……
裁判長 そんなつもりはありません。
岡林弁護人 しかし被告達は目の前で自分達が殺される、自分達を殺す手をひしひしと感じておるのです、人間が目の前に刃がかかってくるならば防ぐ本能を持っておる、そういう意味で自分達はただだまってはいられない、また一方裁判官の一部に判決の途中でニタニタ笑い容易にこれを反省されず、被告および弁護団の抗議に会い、裁判長から注意を受けてはじめて普通の顔にかえっている、こういう状態では一応裁判所もそういう気持を警告されるだけでなく、その警告は目の前で一寸つくろったにすぎない、裁判所が全体として厳粛なる気特を持って出直して判決されることを要望します、裁判所にその様な厳格な気持のなかったことを反省され、裁判所として厳格な気持を持直して宣告にのぞまれることを希望する次第であります、私はそれが正しい裁判のやり方であると考えます、裁判長は新聞紙上で拝見したことによるとすべての人々を納得させるつもりで裁判は行うと言っておられる様であります、それならば裁判官が宣告の最中、ニタニタわらうようなのでは、一体すべての人々を納得させると言っても納得するものは一人もいないであろうと私は考える、それ故に裁判所の猛反省を望む次第です。以上。
裁判長 とにかく続けます。
佐藤一被告 裁判長、私は裁判長の宣告によって生命をうばわれるものであります、しかしながら、裁判長、私はまた私以外の全部のものはこの事件には全然関係はないのです。あなたは先程我々の発言は聞いて来たと言っておられる、しかし今になって考えればそれはとんでもない。我々の発言を真に聞いてそして法廷に出された証拠を見るならば必ず無罪の判決がある筈だ、我々の発言を本当に聞いたならば必ず今日この法廷では無罪の判決がある筈です、それがない。我々を有罪にする証拠はない。何がある、証拠はないが、拷問によってデッチあげた白自調書以外はないではないか。
裁判長 後で説明します。
佐藤一被告 デッチあげた自白調書以外ないではないか、そこに我々に対する偏見があり、公正をよそおって検察官と同じ立場に立って、我々をただ死地に追いやろうとする態度ではありませんか、私達はこういう裁判には絶対承服出来ません、裁判官も記憶しておられるであろう、私は7月23日の公判廷で言った、この裁判が単にこの法廷だけで闘われてきたのではない、全日本、全世界からあらゆる関心が寄せられ、あらゆる支援がよせられて闘われて来た法廷なんです。だから法廷だけを納得させるだけでなく、全世界の人々、全日本の国民を納得させる様な裁判を要求した。裁判長もその時うなづいたではないか。
裁判長 そのつもりで判決しています。
佐藤一被告 そういう判決では絶対ない。
裁判長 それは見解の相異です。もうこれ以上聞いてもしようがない。分りました。
鈴木被告 見解の相異と言いますがね、そうじやないですよ。あなた達はそう思うと言っても実際やっていないんですから。
裁判長 やっているかやってないかは神様しかわかりません。
被告 我々は知ってるんだ。
裁判長 黙らないならあなたがたに退廷してもらうより外ない。まだまだ我々が聞いてもらいたいことは用意してあるんです。それをみな聞いて下さい。
鈴木被告 やっていないものを殺すというのか。
裁判長 とにかく続けますから。
杉浦被告 裁判長、そんなことを長々しく聞く必要はないですよ。我々の無罪だということは、証拠関係でもってはっきりしている。何故有罪にしたかということについて誰の命令を受けているかということだ。一体誰の命令で無罪を有罪にするのか。
裁判長 誰の命令も得ません。裁判に誰の命令もいりません。
杉浦被告 あらゆるものは無実の証明をしている。それを、その証拠を全部けとばして……だれかの命令でなければ出来ない。
裁判長 命令は誰にも受けていません。
被告 うけている。
裁判長 これ以上発言するならば退廷を命じます。黙って聞いてる人はいいが。
本田被告 裁判長、これは自分の良心に従った判決ですか。
裁判長 勿論。
(裁判長は判示事実の朗読を続けること4分)
佐藤一被告 裁判長! 私は裁判長が我々を納得させるような態度をとらないで、この判決を続けられる。異議がある。こういう判決はやめてもらいたい。そして出直してもらいたい。正しい判決をしていただきたい。
裁判長 やめません。そんなら佐藤一に退廷を命じます。
鈴木被告 どうして退廷を命じるのですか、私は正しいことを言っている。
裁判長 退廷しなさい。裁判所は双方の言うことを聞いてこう言うのですから。
佐藤一被告 裁判長は如何なることを言おうと真実は一つあるのです。とにかく最後まで闘いますからいいですか。我々は全世界の支持があるのです。
裁判長 退廷を命じます。
 (被告全員起立。佐藤一被告を退廷させようとする廷丁も看守もいない。)
裁判長 腰かけなさい。
佐藤一被告 必ず最後に歴史が真実を明らかにすると言った。しかし歴史をまつまでもなく私達は裁判長が国民の声に耳を傾けて真実を明らかにすることを確信しておった。しかし確信をうら切られたのだ。だから私はこの法廷において真実を追求する為に国民の皆さんの支持をお願いして最後まで必ず闘います。いいですか。はっきりと今日のことを肝に銘じてもらいたい。いいですか、私はもう言うことはない。
裁判長 それならばこれから黙って聞くか、きくならば退廷を取り消す。
杉浦被告 裁判長は何人の……
裁判長 とにかくやります。
高橋被告 ウソの判決を撤回しなさい。
裁判長 判決の撤回ということはありませんから、そんなことを言うなら高橋被告は駄目です。 退廷を命ずる。そういうことはありますか。あなた方は聞かないですか。
被告 聞きます。
裁判長 だまって聞いたらいいじゃないか。納得できないならば今言い渡したその理由を言う訳なんだ。最後まで聞いて下さい。君達は無罪以外納得出来ないなら退廷を命じます。とにかく静かに聞かないなら退廷を命じます。
被告 退廷々々と脅迫だ。
裁判長 脅迫なんかしません、警告しただけだ。
佐藤一被告 我々は納得できる判決を聞きにきたんです。それに退廷しろとは何事ですか。
裁判長 裁判の宣告をさまたげることになる。
佐藤一被告 我々は真に正しい裁判が行われるならばさまたげない、だから納得行く様なことを…
裁判長 有罪判決を聞こうとしない人は退廷してもらうより外はない。
弁護人 先程岡林弁護人からも言いました様に、あなたが今判決を言渡しているわけです、それに対して被告の発言を何時までも聞く訳にはいかないと言っておられた。しかし被告は何時までも聞いてほしいと言っているんでないです。
裁判長 だから先刻鈴木被告に10分間許しました。
鈴木被告 10分間しませんよ。
裁判長 一体言渡しの時に被告の発言をいつまでも聞くことが出来ますか。
弁謙人 裁判長は事務的に考えている。
裁判長 考えてません。
弁護人 それでは裁判にはならない。退廷を命じて死刑を宣告する、それは国民の納得する様な裁判になりますか。
裁判長 今になってはしようがないです。
被告 しようがないではすまないよ。
裁判長 そんなら立ってる被告全部退廷を命じます。
被告 私達の証拠は無罪です。
 裁判長! ききます。
裁判長 だめです、聞かないと同じです、退廷を命じます。
 (金員起立の被告着席)
袴田弁護人 休廷してもらって気分を新たにしたらどうですか。
裁判長 休憩はしません。円満にやりたいと思う。
蓬田弁護人 円満にやりたいと思います、その方法としてはこの情勢に政治性を発揮したらどうですか、この空気は裁判所側が挑発している、厳格な気持を回復して裁判長自身も気持をひきしめて気分を新たにして出直してやったらどうかと思います。このままでは徒に混乱する。
裁判長 どうすればいいんです、休んでも立ったり入ったりで相当時間がくうんです。
蓬田弁護人 今日は夜の12時まで時間があるのですから、人殺しをする重大な時に12時まで時間があるんですから、徹底した人間性がなければ公正な判決は下せない。
裁判長 被告が退廷すれば事務的になされることでしょう。
弁護人 このままではいけない、休廷を。
岡林弁護人 休廷の前に一言、裁判は事務的な処理で出来るものじゃありません……
裁判長 結構でないことは知っています。
岡林弁護人 私は実におだやかでない気持を持っている、裁判官がニタニタ笑うということは未曾有のことです、この事件ではじめて行われたものである、私自身も落ち着きたいと思います。裁判官もやはり人間である以上は神様でないということをよく言われましたが、おだやかでない感情を持たれたにちがいありません。これはやはりお互いが人間同志であるならば一寸空気をぬくべきではないでしょうか。
鈴木被告 無実の罪で死刑の判決をされて、あなただったらどうしますか。
裁判長 法律に従って責任をおいます。30分休憩します。(午前11時5分)
岡田被告 なにもしないのに殺されてたまるか。
本田裁告 私は裸にでもなににでもなります、何にもしないのにたまったものか。
裁判長 傍聴人退廷して下さい、30分後に初めます。

 (午前は結局11時15分休廷となり、午後1時から開廷された)
 (午前とひきかえ午後は裁判所の一階から三階の法廷まで、仝廊下を蟻の出る余地もない様に警官と看守は一列にならんで警戒した)

岡林弁護人 裁判長、あの警戒は何です、威圧しているんです、階段の下から上までずっと列を作って今にもとびかからんとしております。
鈴木被告 一体無実の我々を殺す裁判をするのにこの警戒は何だ。そんなことしなければ裁判はやれないのか。我々は真実をもっているから逃げもかくれもせん、誰が警官を動員した。
裁判長 そんなつもりでやったんでないです、あれは私だけでないです、私は法廷検察権しかもっておりません、それぞれの責任者がやっております。
鈴木被告 このざまは何だ。裁判長、今までの我々の審理に対する態度はみたでしょう、極めて紳士的にやってきたのだ。
佐藤一被告 我々は午前の裁判によって裁判長の正体を見破った。公正をよそおって人間性と良心を失った裁判に憤激した。憤激したために我々は抗議した。それを裁判長はにべもなく却下し退廷をもっておどかした。しかし我々は弁護人のなだめによって一応聞こうという方針を出した。聞いて裁判官が如何にデタラメの裁判をなすか聞こうと、全世界の人に知ってもらおうという気持になった。しかしながらこのものものしく警戒する態度を見ていると、どうしてもこれ以上聞くに耐えない。我々は裁くものは裁判官でなく本当は大衆である、国民であるということをまざまざとこの法廷でみせつけられた。これ以上法廷にいる事はできない。そして真実を守って国民大衆の判断によって、国民大衆に訴えることによって、国民大衆の支持のもとに我々は明らかにして堂々と争う。勿論我々はにげかくれしません。私は裁判長の不正な態度、良心を失った態度に満腔のいかりを以て抗議する。私達は退廷する。
(被告こもごもに)我々の顔をよくみておけ。
 我々は最後までたたかう。
 貴様らに殺されてたまるか。
 俺の顔をよくみろ。
 真実の強さを見ておけ。
 あれは売国奴だ。
佐藤一被告 弁護士諸先生に申し上げます。私達は先生方の真面目な態度にあくまでも真相を究明された事に深く感謝しております。この法廷で私達の無実が明らかになり無罪の判決がきまるものと期待して来ました。しかし判決の結果はこうであります。そして午前中判決を聞いた結果どうしても怒りを押える事ができなかったのであります。その為に裁判長に抗議しました。我々は裁判長に釈明を求めました。しかし納得いくものではありません、そのため休廷になり、一応もう少し聞いて如何に裁判官が事実に反した辻つまの合わない裁判をするか聞いて、その結果を日本の良心をもった人々に訴えてゆこうというようにきまったのでありますが、しかし、私達は食事をしながら考えますに怒りを禁じえませんでした。ほんとうに禁じえませんでした、このものものしい警戒をみた時更に怒りが爆発したのであります。どうしても法廷にとどまって、判決の朗読を聞く事はできないのであります。私達は勿論逃げ隠れもしません。あくまで真実を守って真相を明らかにする為に堂々と闘います。今後とも諸先生方の絶大なる援助をお願い致します。
岡林弁蕃人 全力をあげて我々はやります。
弁護人 決意にそむかないように闘います。
佐藤一 全力をあげて闘うと言うことをおききしまして、またみんな闘うという事についてせつにお願いします。

 (被告全員退廷)

岡林弁韓人 弁護人も退廷せよという意見がありますが如何いたしますか。
袴田弁韓人 私は弁護人として最後まで退廷しないつもりです。
上村弁護人 一点言申し上げます、被告諸君はこういう判決をきく必要はないからというので我々は午前中協議致しまして、聞く方がいいという意見だったのでありますが、午後になって被告が帰った故のものは、警官の板締りの態度に憤激したもので、私も実に少なからず憤激したのであります。こういう無理な判決を無理な形でおしつける事は被告にとって耐えられないものであったと思います。我々は法廷指揮を守らなければならないけれども、被告が退廷したところで弁護人だけおめおめとして言渡しをきく必要はないと思う。弁護人は居る必要はないと思う。ですから私は全員退廷する事を弁護人諸君にすすめたいと思う。被告が一生懸命聞くなら我々も聞かなければならないが、被告が聞くに耐えない判決とこの法廷指揮に対して、被告がいないところで聞く事はむしろ弁護権の行使でないと確信するのでありますから、全員退廷することをおゆるしねがいたい。
袴田弁薄人 判決文をみればわかりますが、できるだけ早く判決を頭の中に入れる必要があると思う。団体行動に反することになるかもしれませんが私は最後までのこります。
岡林弁護人 我々は判決がデマ宣伝に使われるということが予想されるので、世上に流されるそれに対しては反撃しなければならない。それは被告に対する義務であると思う。そのために判決文ができて吾々の手元に渡されていれば退廷してもいいけれども出来ておらない以上は要旨だけでも一応聞いて、できる限り、如何に判決が誤っており、許すべからざるものであるかを反撃した方がいいのでないでしょうか。私達も非常な憤激をもっております。御承知のように私は気が短いけれども、これは被告諸君が聞くに耐えなくとも、その点は被告諸君ほどには直接でないだけにいくらかは聞きうる余裕をもっております。そして世間に訴える余裕をもっている。あくまで聞いて訴えるという趣旨の方がいいではないでしょうか。
上村弁護人 聞くのは一応義務と考えますが、この世紀の判決に対して被告がどうしてもここにとどまる事ができないと言って弁護人の静止を聞かず、協定を破って出ていった。しかし我々はどこまでも弁護人なんです。被告の利益を擁護する弁護人であり、それ以外の何ものでもない。かくのごとき事態を出現させたのは、すべからく裁判所の責任であろうと思う、そこで被告なしに我々はきいたところでどうにもならない。しかしきかないと言っても、これは判決があればあとで書面でわかる事である。我々は弁護の熱誠にあふれているから、こういうところで聞くのは辞すべきであろうと思う。
岡林弁護人 我々は退廷するのに控訴審だから了解は必要ないんです。
梨本弁護人 私は御前中裁判長に釈明を求めました。新聞紙上で、本判決が一部有罪、一部無罪という事が報道されている。しかも裁判長が判決を書いているその場面が新聞紙に写真としてのっている。これらの事実を綜合するならば、この判決が事前に外部にもれた事を想像せざるをえない。そのような想定のもとに本日のような戒厳令下にある様な事をしたと考えざるをえない。弁護人が出入するところまで人垣の警官によって警戒するという事は、私は裁判史上このような経験をもっていない。これはこの判決は、国民を納得させる判決でなくして、国民の納得しない判決を押しつけようと権力と武力、ピストルによって押しつけようとしたものと判断する。それ故にこの疑いが私個人の疑いなら私は考え直しますが、しかし客観的にこのような事実が我々の眼前にある新聞紙上に判決を書いている写真がのっている。この点について裁判長の釈明を求めます。
裁判長 新聞の点は絶対洩らした事はありません。写真はとらせましたけれども、しかしこの場合は用意周到に我々が書いているものは全部うつらないようにしたつもりです。記録はいやしくもその様な事のないように注意しました。
梨本弁護人 判決を書いている現場に報道者を入れていること自体は判決が外部にもれることをおそれるものである。
裁判長 役所で判決を書いている場面でしょう。あの部屋しかないですよ。そこで新聞記者に会うので、あそこしかない。別に判決をもらすようなことはありません。それ以上はあなた方が勝手に想像されても答えようありません。
岡林弁護人 私が非常に新聞の点について疑問に思っておりますが、これは大変失礼かと思って、だまっていたが、11月下旬、裁判長は最高裁判所の真野(マノ)さんに東北のどこかの温泉でお会いになったことはありませんか。
裁判長 そんな事は絶対にありません(苦笑)真野裁判官の名誉のためにも。但し視察にこられた事はあります。その際庁員一同と外に弁護士会の代表者が来られたと思います。そのとき以外にはありません。
岡林弁護人 そうですか、別に疑っているわけではないんですが、ただ新聞にもれている疑いがあるので失礼ですがお聞きしたわけです。
裁判長 ただ最高裁の方が来る事はあります。最高裁の人が来た時はその様な所にご案内する事はありますが、11月下旬は私は判決文を書くためにいそがしかったのですから絶対に行っては居りません。
能勢弁護人 法廷指揮権の問題について一寸おたずねしますが、東京その他では法廷外も構内も裁判官の指揮権内にあるような説がある様ききますが、裁判長は法廷指揮権は法廷内のみに限ると先刻来おっしゃっておられるが…
裁判長 法廷内のみとは言っておりません、法廷内は勿論、それに接着する廊下などには及ぶと考えている。
能勢弁護人 私は廊下の只今の状態はあまりひどいと思います。被告はそれに憤激致しまして午後からの裁判はうかがうことは出来ないと言う様な興奮状態に達しておりますので、そのことによって被告のいない空白の法廷を持たなければならない。上村先生の言われる様に私達は弁護人なのでありますから、被告人なしにこれをきくことは堪えないのでありますが、そういうことはやはり裁判長の拒揮権の下に行われたということを私共は見てよろしいでしょうか。
裁判長 私はそういうつもりでやっておったのでないですから、そう言う風にお考えになられたんでは……廊下はせまいもんですし、カメラマンの出入等もありまして、そういうことになったのでないかと思いますが実際私はその場面を拝見していません。
能勢弁護人 カメラマンはずっと端の方にいましたが、私共がズーッと通過して来るところは全く人垣の中と棍棒の中を通って来なければならない。弁護人が午後からの発言につきましても威嚇をうける様な状態でここに入る様になりました。そういうことがやはり裁判官の指揮権の中だと言うことを確認してよろしいですね。
裁判長 そういう事になるでしょう。ただ庁舎管理権と競合する場面もあると思います。
蓬田弁護人 午前におけるこの法廷を中心とする警戒ぶりと午後における極端な警戒ぶりとは法廷は非常な差がある。しかも裁判長は平穏の中に判決を言い渡して職責を全とうされるという考えのもとにこの法廷にのぞまれたと思います。その時に法廷を中心とする廊下、接着する場所について、この程度の警戒なら判決は最も効果的になされるというお考えのもとで入廷されたと思います。ところが午後は午前と異なり警官の人垣の中をずうっと通ってこなければならん。あえて私はかくのごとき武装警官が何十万押寄せようとびくとも致しませんが、何の必要があって午後に更に動員されたか。その具体的理由、しかも開廷以前に岡林弁護人から法廷外の警戒を解いていただきたいと言った。それを依然としてとらない。さような事をしなければ言渡しができない様な具体的危険が発生しているか。その点をはっきりごまかさないで我々の納得いくような釈明を願いたい。しかも今、被告は退廷している……尚且つ警戒をつづけられるか、御答弁顕いたい。
裁判長 午前も午後の警戒も、私は無論法廷に警察官がいるという考えはもっておりません。どっかの部屋に待機しているという事は知っております。しかしこの法廷を警戒してくれとかいう指図は一切しておりません。
岡林弁護人 その様な問題に就て我々が不当と思う点はまた後で述べる様にしますが、我々自身が如何なる武力によって脅かされ様とも屈するものではありません。しかしこの場合私はやはり上村先生の御意見もありましたけれども、弁護人と致しましては裁判長が読み上げられ様としている判決が如何に不当であるかということも大体今まで現われたところでも感じ、また一部分判っても居ります。しかしそういう点を更に直に、本日我々がある程度の結論を出し得る様にするために、早くききたいと思います。そしてどうかいそいで朗読していただきたいと思います。それは上村先生に対しては私はまことに言いにくいのでありますが、やはり弁護人といたしましては被告諸君は単に感情のみで動くのではなくして、その感情には寄りどころがあると言うことをあきらかに示したい。被告諸君が何故に憤激するかと言うことを判決の事実について示したいが故に、しのぶべからざるをしのんで、此処に聞こうとするのであります、早く読んでいただきたい。尚、只今、裁判所の前で松川事件公正判決要請大会が行われており、そこから大会において三つの項目すなわち、
一、裁判の即時打切り、裁判の公正を期するため裁判のやり直しをせよ
二、三裁判官の即時罷免
三、二〇名の被告即時釈放
こういうことを裁判長に申入れたいから弁護団から斡旋を願いますというのがきています。けれども現在は私はやはり言われかけたことはききたいと思います。後でこれらの人達とあるいはうかがう様になるか判りませんがおききをねがいたいと思います、私達は早くききかけたことはききたいと思います。
――以後判決理由の要旨を裁判長朗読、午後3時15分閉廷――。 」


判決に憤激した被告たち

   佐藤一の声明書朗読

 第二審の判決で第一審同様死刑の宣告をされた佐藤一君は、前から病気で執行停止になっているため、直ぐ拘置所に戻る必要はなかった。そこで判決が終ると、裁判所前に降りしきる雪をおかして集まって、この日の判決を待っていた群集の前に立って、音吐朗々と左の被告団声明書を朗読した。

  「真実を踏みにじって本日、鈴木裁判長は有罪の判決を下した。これは裁判長が良心をすて、独立を失い、人間性を投げ捨てたためである。二十名が無実であり、無罪であることは一切の証拠からまったく明かである。裁判官がどう判決しようとも真実は唯一つであり、決してうばい去ることはできません。我々はこの真実を守ってあくまでも闘い、必ず松川事件の真相を明かにし、国民の皆様とともに、正義と自由のために闘うものであります。国民の皆様、全世界の皆様、どうか絶大の御援助をお願いします。
  一九五三年十二月二十二日正午        松川被告団 」

 この佐藤一君の声明書朗読は、録音で聞いても堂々として気塊に溢れたものであった。法廷における発言やこの声明書朗読が、余りに元気に溢れていたので、それをラジオで聞いた東京の官憲では、あのような元気横溢した発言をする人間を、病人として執行停止にして置く必要はないといって、直ちに仙台の警察に、執行停止を取止めて収檻するようにとの命令を下したが、それを知った袴田弁護人が裁判長に交渉して、やっと事なきを得たというようなエピソードもある。」(「松川事件のうちそと」広津和郎)

上述のように広津和郎は、病気(肺の病)で入院中の佐藤一被告が仙台裁判所前で被告団声明書を驚くべく元気に読み上げたことを書いている。私もビデオでこの場面を見ているが、本当に佐藤被告は病人どころか、気力横溢の健康体の人のように見える。おそらく、憤激、怒りがあまりにも大きく、メラメラと反骨心が燃え上がっていて、意気消沈どころではなかったのだろうと思う。

それにしても、自ら17人の被告人に対し、死刑4名、無期3名をふくむ重罪を課した裁判長が、当の被告人にその判決の根拠を追求されると「やっているかやってないかは神様しかわかりません。」とか「見解の相違です」という返答をしようとは…。前代未聞であるだろうが、この事実こそ松川裁判の性質をよく物語っているように感じられる。なお20人の被告人のうち、3名の人(斎藤、武田、岡田)はこの日無罪となった。その理由は二回行なわれたという国鉄と東芝間の列車転覆のための謀議のうち、一回目の謀議に首謀者として出ていたはずの一人の被告人に隠しようのない明白なアリバイがあることが判明したため、その謀議自体がなかったことにされたためだった。これは、最高裁における「諏訪メモ」の出現と同じケースということになる。
2010.10.08 Fri l 裁判 l コメント (6) トラックバック (0) l top
広津和郎編・著の「松川事件のうちそと」という小型本(新書サイズ)は、1959年8月10日の最高裁判決を前にした同年3月に光書房から出版されている。

控訴審の有罪判決直後から『中央公論』誌に4年半連載された「松川裁判」について、広津和郎は、自分はこの裁判を巷でよく言われている政治事件として見るのではなく、普通の刑事事件と見て真相がどうであるかを検討する、と何度か述べている。実際、「松川裁判」では具体的な諸事実と判決文とを一つひとつ丁寧に照合し、詳細な検討を重ねていき、そうすることによって判決文がいかに不合理な判断をしているか、裁判官がいかに意識的な証拠の歪曲と捏造をつらねていって被告人たちに故意に罪を負わせているかということが浮き彫りになっているように思う。

「松川事件のうちそと」において、広津和郎は、「一つの捏造は次の捏造を作り出す」と述べている。一つ証拠の捏造をすると、それにツジツマを合わせるために、さらに新たな捏造を作り出さないわけにはいかなくなるというのである。そのことは、私たちが松川事件だけではなく、他の冤罪事件を見ていく場合、まったくそのとおりであるとふかく実感することである。不合理を押し通せば必ず別の不合理を呼ぶのだ。そうなると物事の当たり前の論理はそっちのけになり、自然に反した奇妙奇天烈な結論が導き出されることになる。論理性、合理性は本当に大事。とりわけ裁判には必要不可欠であり、これなくして裁判の公正は保たれないとつくづく感じる。

その点で、最近落胆したのは、かねてから信頼感をもっていた保坂展人氏のブログ「どこどこ日記」9月9日付の「鈴木宗男氏「失職・収監」で国策捜査の検証を」という記事であった。保坂氏は次のように書いている。

「2002年当時、私は鈴木氏を「疑惑の人」と見て追及してきた立場だったが、その後の『国家の罠』(佐藤優著)に出てくる「国策捜査」をめぐる構図を見て、私たちの追及も、メディアスクラムと呼応した「予断と偏見」を前提にしていたことを強く感じるようになった。」

保坂氏は、「『国家の罠』(佐藤優著)に出てくる「国策捜査」をめぐる構図を見て、私たちの追及も、メディアスクラムと呼応した「予断と偏見」を前提にしていた」と、佐藤氏の言い分を全面的に信用し、佐藤氏も鈴木氏も「国策捜査」の犠牲者のように描いているが、その根拠は一つも示されていない。このような重大なことを述べる時に根拠を提示しないことには疑問を感じる。まして保坂氏はこの間まで国会議員だったのだから。

『国家の罠』が出版されてからもう5年は経ったと思うが、その間、佐藤氏は自分と鈴木宗男氏が「国策捜査」の罠にかかったと言って、「国策捜査」「国策捜査」と繰り返しているが、自分たちが潔白であるか否かを第三者(読者・市民)が公平に判断できるような情報の提示を一切していないように思う。私は、ウェブ上で随分検索してみたが、法廷で誰がどのような具体的証言をしたのかなど、裁判の実際的な経過を知ることはできなかった。あれだけ本を書いていながら、佐藤氏にこの点に関する本はないようである。これは裁判をめぐる話題では珍しいことで、私たちがあの事件はおかしい、とか、冤罪ではないか、と感じるようになるのは、主体の側から、その事件の最も肝心な点、不審な点について、客観的な判断材料をあれこれ提示されるからなのだ。保坂氏が鈴木氏を「国策捜査の被害者」だというのなら、当然その根拠を示すことが必要とされている。こちらのブログでは、鈴木氏に対する最高裁の決定について、

「…話を鈴木宗男氏の刑事事件に対する最高裁決定に戻しますと、私はこの決定は極めて妥当であり、決定理由も丁寧に示され、的確なものであると考えています」

という前書きの下、執筆者の見解が明確に述べられている。私などは鈴木氏の裁判の経過の詳細を知らないのだから、判決文について正確な判断はできないが(ただし、佐藤氏ともどもイスラエルとの関係など不審に感じる点はある)、保坂氏が鈴木氏を国策捜査の被害者と考えているのなら、タイトルのように「鈴木宗男氏「失職・収監」で国策捜査の検証を」などと人ごとのようにも感じられる主張をするのではなく、まず最高裁判決を妥当としている上記のブログの主張に反論するなりして、鈴木宗男氏が「国策捜査」の被害者である根拠を示してほしい。これでは本末転倒ではないかと思うし、このような没論理(少し言い過ぎかも知れないが)の現状は、根拠を示してせつせつと冤罪を訴えている他の人たちのためにも、また今後の司法のためにも、かなり深刻に不安な要因、傾向ではないかと思う。


話が脱線してしまったが、広津和郎はこのように20人の被告人が列車を顛覆させたのではないということの立証に全精力を注ぎこんでいて、では真犯人は誰なのか、というような話題にはほとんど言及していない。以前引用した講演で、その点に少し立ち入って占領軍の「シャグノン」という人物の名前を出しているが、この「松川事件のうちそと」でもやはり「シャグノン」という軍人の名が出ている。「シャグノン」の名は、松川事件の前に起きた国鉄の下山総裁事件で必ず引用される有名な名前だが、この名は実は松川事件が発生する直前に福島で起きた「福管事件」でも出てくるのだ。朝鮮戦争が始まる前年のその当時、国鉄を牛耳って95,000人もの国鉄労働者の馘首を目論んでいたシャグノンの名は、鉄道関係では東京のみならず、福島にまで轟いていたというのである。当時の世相や事件の背景を知る上では参考になるかも知れないので、広津和郎の発言を一部引用しておくが、その前に、同時期に発生した他の不思議な事件、下山事件、三鷹事件の時系列も簡単に記しておく。

7月5日  国鉄の下山総裁が行方不明になる。翌6日、0時25分ころ、遺体が国鉄常磐線北千住・綾瀬間で発見される。
7月15日 国鉄中央線三鷹駅で無人電車が暴走、死者6名、負傷者20名。
8月17日 国鉄東北本線松川・金谷間でレールが外され列車が転覆。機関士など3人が死亡。


  巻頭に (広津和郎)

「われわれはあの松川被告諸君が真犯人ではないと言うと、「それでは真犯人は誰なのだ?」という質問をよく受ける。
われわれとしては、松川被告の諸君が真犯人でないという事を証明できれば、それで充分なのだと考える。併し「それなは真犯人は誰なのだ?」という質問をする人達の気持も分からないことはない。
あの被告諸君が列車顛覆の真犯人でないということの証拠を示すよりも、若し出来るならば「真犯人を探し出して見せる方が松川被告諸告が真犯人でないと言うことを一層手っ取り早く質問者に理解させるには違いないと思う。
併し残念ながら、「それでは誰が真犯人だ」と確言する程のキメ手を、われわれはまだ持合わしていないのである。私達は此処で松川第一審、第二審の裁判官のような、キメ手のないものを、推察によって認定すると言う態度は、極力排撃しなければならない。
 併し参考にすべき資料が全然ないわけでもない。
 あの事件はアメリカの占領軍の指示によって、吉田内閣が人員整理のためにあの年(引用者注:1949(昭和24)年)6月に定員法を制定して間もなく起ったものである。その定員法によって、国鉄が大量クビキリをしたことは、本文の「歪曲と捏造による第二審判決」の中でも少し触れているが、その大量クビキリについて三つの事件が起った。下山事件、三鷹事件、松川事件がそれである。国鉄が第一回のクビキリを発表する二日前の夜中に当時国鉄を牛耳っていたアメリカのシャグノン中佐が、下山総裁の家に自動車を乗りつけて、テーブルの上にピストルを置いてクビキリ断行を迫ったという事実のあったことも、「歪曲と捏造による第二審判決」の中に述べて置いた。
 そのシャグノン中佐の名は、東京ばかりでなく福島にも現れているのである。
 松川事件の前に、福島には福管事件というのがあった。それはクビキリ反対に立上った国鉄労組福島支部の幹部連中(この中には松川被告も数人いる)が、管理部長と団体交渉をしていた。その途中、管理部長が団体交渉を一方的に打切って労組幹部達に面会を拒絶したので、それを憤った組合の人達が管理部に押しかけて行った。管理部ではそれを警察に通知したので、警官隊がやって来て組合員に解散を命じた。その解散を命ずる時、「シャグノンの命令だ」と警管隊は言ったのである。
 これがいわゆる「福管事件」と称せられるものである。
 シャグノン中佐が、国鉄総裁をピストルで威嚇してクビキリを迫ったばかりでなく、福島でまでシャグノン中佐の名が如何に大きな響を持っていたかが、これで分るであろう。
 それから間もなく松川事件が起り、福管事件の中心的幹部が、松川の被告として逮捕されたのである。
 無論シャグノン中佐と松川事件とを関連させて考えるべき証拠はない。併し松川事件が起った当時の時代的背景を考える上では、これは一資料たるを失わない。」(広津和郎「松川事件のうちそと」)

上記のように語った後、広津和郎は、「消えた人」という題の熊谷達雄氏という人が書いた文章を紹介し、これを収載している。政治的大事件、大陰謀事件では、その周辺の脇役のような位置の人が不審な死を遂げるというような不可解なことが起こりがちだが、この本も松川事件におけるそのような不審な出来事を描いたものである。8月17日早朝、東北の一鉄道で列車が顛覆したことは事実であり、20人の被告人たちがそれを実行していなければ、他の何者かが実行したことになるので、松川関係者は当然のことながら広津和郎も含めてこのようなことにも関心を向けたようである。「消えた人」というのは、実は松川在住の斎藤金作という人物のことで、事件を詳しく紹介している「松川事件」というサイトに【トピックス 斎藤金作怪死事件】としてその詳細が載っている。

(上記で付した太線はすべて引用者によるもの)

10月15日 タイトルに追加を入れました。
2010.10.07 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
横浜ベイスターズが身売りになるかも知れない、新潟に行く可能性も? というニュースが流れている。本当にどなたかの言葉ではないが、「いつまでも あると思うな プロ野球」という気持ちがひしひしとしてくる昨今の野球界である。今、横浜ベイスターズの筆頭株主はTBSだとか。いつの間にやらという感じだが、考えてみると、私自身この3、4年どこの球場にも行っていない。テレビ中継もほとんど見ない。どうもそのような気分になれなかったのだが、ただそう多くはないが(せいぜい二十数回)、横浜球場が一番数多く通った球場でもあり、これは聞いただけで寂しくなる話題であった。熱心なベイスターズファンはどんな心境だろう。さぞ気が気でないことだろう。

天秤打法の近藤和、権藤・権藤・雨・権藤の権藤博投手(注)明治大学からバッテリ-としてそろって入団し、プロでも大活躍した秋山登投手ー土井淳捕手の時代をはるかに経て(ボイヤー、シピンという外国人選手もいたなぁ。)、田代富雄選手や斉藤明夫投手、遠藤一彦投手などが主力として活躍したころの関根潤三監督、近藤貞雄監督の時代。私としてはあの頃の横浜が一番好きだったし、今思い出しても心地よくなつかしい。草野進(蓮實重彦氏のこと。この人は一癖も二癖もある物書きのように感じられ、私も決して好みというわけではない。ただ、「世紀末のプロ野球」(角川文庫)は日本プロ野球に関する文章のなかで3本の指に入る傑作だと思っている。再読、再々読…、読んだ回数はどうも軽く十回は超えていそうだ。長嶋茂雄選手のプレイが好きな私にはなんといっても長嶋評がすばらしく思える。また、(突然話題が変わって恐縮だが)この人が称讃しているというのでその気になって観た映画で幻滅したことは全然ないので、野球にしろ、映画にしろ、鑑賞力における才能・力量については確かなのではなかろうか。)がよく言っていたことだが、この二人の監督は横浜という都会の土地柄、チームカラーによく合った指揮ぶり(よくいえば洗練されている。反面、粘りに欠ける。諦めがよすぎる)を見せてくれたように思う。

「横浜ベイスターズ」はその前身を「大洋ホエールズ」といった。大洋ホエールズは、1960年(昭和35年)、西鉄ライオンズから招いた知将・三原脩の下、最下位から一躍優勝するという離れ業をやってのけた。これはプロ野球史に燦然と輝く伝説の一つだと思うが、今回この売却かも? というニュースを聞いて私が一番最初に思い浮かべたのは、小学生のころの弟が何回も、そのたびに感に耐えぬかのように口にしていた言葉であった。

ある時期、大洋の営業成績が振るわず、ひどい赤字経営であるとか、身売りになるかも知れない、というような話題がしきりにマスコミに出たことがあった。その時、大洋の社長だか会長だかもう忘れてしまったが、そのどちらかが、弟によると、「球団の赤字? そんなもの、鯨を一頭よけいに獲ればすむことだ。なんの問題もない。」と言ったらしい。本当にそのとおり言ったのかどうかは分からないが、弟はそう聞いたのだという。そして、鯨一頭で万事解決! なんと気宇壮大な球団だろう!と、シンから感心し、その話がすっかり気に入ってしまったらしい。その後、何度、弟の口から「大洋ホエールズはすごい!鯨一頭よけいに獲ればそれで球団はつづくんだ。」という言葉が出るのを聞いたか知れない。その口調はいつも断固としていて、信頼と尊敬の念にあふれていた。

ただ、私もそうだが、弟も特にどこかの球団のファンということではないようだった。弟は堀内恒夫投手のファンだったのだ。快速球とボールを投げた後帽子が横っちょに曲がるほどの力投ぶりが、弟にはひどく格好よかったらしい。中学時代野球部に入り投手をやるようになったのは堀内の影響が大いにあったように思う。だからといってそう巨人、巨人というわけではなかったのは私も同じで、どうやら姉弟ともに、選手に惹かれてその所属球団もついでに(?)応援するという感じだったのだが(それがともに巨人だったのは単なる偶然!(笑))、でもその弟が今はもういないので、このようななつかしい話もできないのがとても寂しい。


(注)「権藤・権藤・雨・権藤」と登板過多をファンに同情されたり感嘆されたりした権藤博投手は中日ドラゴンズの選手でしたね。錯覚してしまいました。お詫びして訂正します。
2010.10.05 Tue l スポーツ l コメント (0) トラックバック (0) l top
最近はそうでもないが、2003、4年頃は一日に何度かパソコンのニュース覧(「Yahoo! JAPAN」など)を見ることが多かった。ワープロに変えてパソコンを導入(最初はイヤイヤだった。でも仕事の都合上仕方なく)して2,3年、苦労の甲斐あって(?)少しは使い方を覚えた時期で、この機器がひどくもの珍しく感じられた頃だった。しかしニュース画面をみると、「検察は……容疑者に死刑を求刑」「…死刑が言い渡された」「これで死刑確定」というように、「死刑」という言葉がやたらと目についた。求刑に始まって判決となると一審から最高裁まであるのだから、時にはほとんど毎日死刑宣告報道に接しているような気がしたものだ。

大勢の被告人が出たオウム裁判が進行している時期であり、その影響があったとは思う。しかし具体例を見ると、決してオウムのせいとばかりは言えなかったので、こうまで頻々とに死刑判決が出なければならないほどに治安が悪化し、陰惨な犯罪が発生しているのかと思って記録を見てみると、まったくそんなことはなかった。日本における殺人事件の件数は20数年前から今に至るまで殆ど変動はない。否、むしろ減少傾向にある。たとえば、こちらのサイトによると2007年度の記録は、

「2/1に警察庁が去年の犯罪統計を発表したんですが、殺人の認知件数は1,199件で平成3年の1,215件を下回って戦後最低を記録しました。」

ということである。神奈川県横須賀市が発表している「犯罪発生件数の分布」における2009年度までの「▼ 図3 凶悪犯罪件数と殺人及び強盗件数(全国) 」(この図表はサイトの一番下に掲載されている)を見ても、認知された殺人件数は増加どころか年々減少傾向であることがわかる。

となると、理由を単純に考えれば、これまでは死刑にされず、無期や有期刑になっていた事件に死刑判決がくだされているということになるだろう。死刑について、「死刑執行・判決推移」というサイトを見せていただくと、70年以降、国際的な死刑制度廃止および減少の流れによる影響もあったのだろうか、日本の死刑確定数は毎年単数、それも5名以下という年が多い。ぐんと増えたのは2004年からで、これ以降まるで「死刑ラッシュ」とでもいうしかない死刑確定者の急増である。その結果、ここ数年は死刑確定が常時100名を超えているので、法務省は確定者が100名を超えないように按配して死刑執行を実施しているのではないかと新聞などメディアが書いているのも当然のころであろう。しかし、80年代の確定死刑囚は全国で20数名だった。これはほぼ一貫していた。

ところで、無期刑がどんな状態なのかを見てみると、こちらも異常なばかりの上昇ぶりである。こちらのサイトで上から二番目の表「年末在所無期刑受刑者の推移」を見れば分かるように、1998年の968名(これ以前はもっと少なく、今回はどうしてもその資料を探し出すことができなかったが、数年前に私は無期刑の収容者数400~600名程度という数字を見た記憶がある。おそらく70~80年代の記録だったかと思う)から2008年は1,711名に増えている。十年間で被収容者はほぼ倍になっているのだ。これは仮出所がほとんど皆無である(2008年の仮釈放者は1,711名のうち、3名。よく、無期になると7年で出てくるとか、10年で出てくるとかという話をする人がいるが完全なデマであり、今、無期刑の実情は終身刑の扱いとほとんど同じである。)ことと同時に、以前は有期刑が下されていた犯罪に無期判決が下されるようになっているためであることが、このサイトの冒頭の表グラフ「新規無期懲役刑確定者の推移」によって読み取れると思う。それまで年間40数件だった無期刑が21世紀に入る頃から、二倍、三倍に増えている。

私は内心ではもともと死刑に反対ではあったが、特に死刑廃止運動に関わったこともなく、個人的に死刑関連の本を読んだり、新聞やニュースで死刑に関する報道を見たり聞いたりする程度だったので、それまでは日常的にそうそう死刑について気にかけているわけではなかった。が、国際的潮流からいっても、日本もそろそろ死刑廃止に向かうのではないかと予測される時期であるにもかかわらず、この傾向は完全な逆行状態である。

2004年頃から厳罰傾向が顕著になっていったといっても、前兆というか、あらかじめの準備・計画は当然行なわれていたはずで、1995年のオウム事件も一つの契機・要因になったことには違いないだろう。地下鉄サリン事件以後、オウムやオウム信者に対してならば、どんな違法な取締リも許されるという暗黙の了解(土壌)が社会的にできてしまっていたから。ただそれよりも、この死刑判決の急増は1999年頃からとみに動きが活発になってきた日本政府の軍国化への傾き、有事法制の成立、イラク特措法、テロ対策措置法成立の動きと歩調を合わせていたのではないだろうか。特に2002年に閣議決定され、2003年に成立をみた有事法制関連3法(武力攻撃事態法、自衛隊法改正、安保会議設置法改正)と密接な関係があるように、どちらかというと政治感覚が鈍いと自認している私にもなにか切迫感をもってそのように感じられたのである。また2002年9月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による日本人拉致事件が明るみに出たこと、この事件をめぐるその後の日本国内の動向も影響をおよぼしたかも知れない。その他には腑に落ちるような理由が思い浮かばなかったし、平和を謳った憲法の精神を蹴飛ばして敵を想定し、武装に力を入れていけばいくほど、懲罰精神が高揚していくのは当然のことのように感じる。弱い立場にある者や、粗雑に扱っても誰にも文句は言われない者に対して取り扱いが過酷になるのも必然の成り行きではないだろうか。しかし、裁判所の恣意的な判断によりこの間まで有期刑だった者を無期にし、無期だった者を死刑にするのは不公正なこと、自分勝手なことであり、許されることではないと私は思う。そのような驕り昂ぶりは必然的に誤審を生みやすくするだろうとも思う。

あるいはこの急激な死刑急増をはじめとした厳罰化の潮流には、私たち一般市民には分からないもっと別の確固とした意図が何か隠されているということもありえるのだろうか。

気になるのは、前回も触れたコメント覧における無空氏の発言である。私は80年代に入った頃からそれまでに比べて日本の刑事裁判から緻密さ、丁寧さが失われていると感じることが多いと書いたのだが、すると、無空氏は、この意見を肯定し、次のような返事を書いてくださった。

「……裁判所が捜査・検察側言い分を99.9%鵜呑みにし、弁護人側の言い分を0.1%氏か聞こうとしない結果です。/即ち、捜査側はいい加減な捜査と証拠の提示をしても裁判所が救ってくれるので、いい加減な仕事しかしません。どんどん変な判例がふえて、どんどん捜査能力は落ちていきます。村木局長無罪判決はその0.1%に与することのできる勇気ある裁判官の事例であり、奇跡ですね。 /今回の大阪地検特捜部の証拠偽造などは、「何をしても裁判所は救ってくれるに決まっている」という甘ったれた思い上がりの仕業です。裁判所の捜査側に甘い姿勢が、捜査機関のモラルの低下を引き起こし、それが非常に明確に出てしまったということだと思います。しかし、検察庁は「自分達が全面的に悪い、反省して出直す」という姿勢を打ち出して、ことが裁判所に及ぶことを阻止すると思います。

他方弁護士は、どんなに努力しても0.1%しか報われませんので、ほとんど無駄だと「無意識的」に思い込み、尻込みしている状態です。 /裁判員制度はこのような裁判所のあり方を変えてくれる可能性がありますが、無罪判決が多くなると法務省や裁判所はこれを潰してしまうでしょうね。その時の口実は「国民に負担を掛けすぎる」です。国民の多くはやりたくないと思っていますので、あまり反対なく終止符を打つことが出来るでしょう。 」


上記の文章のうち、裁判員制度については、私は今のところ被告側に不利な状況が出るのではないかと懸念のほうを多く感じているのだが、それ他についてはまったく同感である。特に、「捜査側はいい加減な捜査と証拠の提示をしても裁判所が救ってくれるので、いい加減な仕事しかしません。どんどん変な判例がふえて、どんどん捜査能力は落ちていきます。村木局長無罪判決はその0.1%に与することのできる勇気ある裁判官の事例であり、奇跡ですね。」という発言については、内心薄々疑っていたことをズバリと言い切ってもらったような気がしたものである。知っている範囲で言うと、風間博子さんに死刑を宣告した判決文は、私にはどうしても不合理きわまりない検察の言い分をすべて鵜呑みにして無理に無理を重ねて書いたものとしか思えない。もし被告側と検察側、両者の全言い分、全主張を知った上で、判決の正当性について合理的な説明ができる人がいるならばぜひ教えを乞いたいと思うくらいである。

これは1990年のことだが、藤田省三は「現代日本の精神」という文章のなかで文部省をきびしく批判しているが、そのなかで、司法についても戦後一度解体するべきであった、と次のように述べている。 

「戦後内務省はつぶされたけれども、本来文部省もつぶすべきだったのです。思想統制を暴力的にやったのは内務省警保局特高警察だけれども、思想的に日常的にやっていたのは文部省教学局と司法省の思想課です。司法省もほんとうは一度解体しなければいけなかったのですが、文部省は全廃すべきだった。いまでも全廃すべきです。」(強調のための下線は引用者)

藤田省三のこの発言がなされた1990年と言えば今から15年前のことである。文部省についての発言もそのとおりだとつくづく思うが、法務省も戦後そのままの形式で存続してはならなかった、シンからの責任をとる意味で解体すべきであったことが、発言の時点より今はいっそう「そのとおり」としみじみうなずける思いがする。池田克などという人は戦前治安維持法の立案者の一人であり、思想犯取締りの検事だったそうだが、戦後公職追放されたもののすぐに復活を許されて最高裁判事となり、松川裁判にも参加して被告人たちを有罪とするほうに加担している。幸いにもこの時事件は危うくも高裁に差戻しになったから事なきを得たものの、これを見ても、司法は戦前から本質的・根源的には変わらなかったのだろう。だから刑事裁判においても、事実の認定が厳密な証拠によるのではなく、時代の風潮や官僚間の人間的しがらみに応じて右に左に揺らぐことになるのではないだろうか。厚労省の村木局長の事件で顕在化した大阪地検特捜部の検事による事実の改竄が氷山の一角でなければ幸いだと思う。
2010.10.02 Sat l 死刑 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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