QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
夜、眠りにつく前、たいてい睡眠剤代わり(?)に本を一、二冊寝床に持って行くのだが、ここ一、二年、その回数が一番多いのは、『大岡昇平・埴谷雄高 二つの同時代史』(岩波書店1984年刊行。実際に対談が行なわれたのは前年の83年)である。それで、いくつかこの本について、またこの本に関連しての話を思いつくまま記してみたい。

二人とも1909年(明治42年)生まれで同い年。70歳を二つ、三つ越えた二人が幼年時代からのそれぞれの経験や見聞きした出来事を振り返り、語り合うという趣旨の本で、内容は戦前戦後の歴史を知る上でも大変興味深く、読みながらついつい彼らが今もし生きていたら、どんな発言をし、どんな文章を書くだろうか? などと想像したり、またいまもこの二人の文学者を好きなことには何の変わりもないが、日本の将来を見通す彼らの目も案外甘かったのではないかと不満をおぼえたりもして、それやこれやで読んでいて飽きがこない。

同年といっても、埴谷豊高は台湾生まれで1923年(関東大震災の年)、家族揃っての上京までは父親の仕事の関係(台湾精糖の社員)で台湾で育っている。大岡昇平のほうは東京渋谷育ちである。こちらは父親が株屋で、幼年時代は貧乏だったのに、1920年(大正9年)の不景気の時父親は「売り」に出て、大儲けしたそうである(しかし、1931年(満州事変の年)に「買い」に出て破産したそうだが…)。その時建てた新築の家は当時のお金で5万円もかかったというから、何とも豪勢な話である。

埴谷雄高は本の後書きとして「ボレロ的饒舌をつづけて」と題し、

「この対談をはじめるにあたって、大岡昇平は、この俺達の年齢じゃこんなことを二度やることもないから、言いたいことはみんな言いつくしてしまおうぜ、と述べ、私も、そうだ、なんでもみんな話そう、と応じたのであった。尤も、一応年代を追ってゆきながらも、話があちこちへ跳ぶこうした種類の対談で「言いたいことを言いつくしてしまう」ことなど必ずしも果たせず、言いおとしたことも多いけれども、しかし、80パーセントくらいは、「ポンコツ二廃人」ながら、話しおえたのである」

と記しているが、「80パーセントくらいは(略)話しおえた」という言葉は、おそらく本音であろう。二人が知り合ったのは戦後それぞれが作家として出発した後のことだったようだが、老年に近くなってから急速に親しくなっていったようであり、ここでは二人とも忌憚なく本心を語っているのではないかと思う。ただし、大岡昇平の毒舌と論争癖は大変(?)なものだから、意見が異なると想像される場面では、埴谷雄高の意見表明がやや譲りがちのようにもみえる。たとえば、ドストエフスキーについて、埴谷雄高は、『地下室の手記』以降の作品がそれまでより断然よいと考えているに違いないのだが(彼はドストエフスキーとその作品を論じた多くの文章でそんなことは議論の余地もなく明白なことであるかのような言い方をしている。)、大岡昇平がドストエフスキーの中では『死の家の記録』が一番いいと述べているのに、異議は唱えていない。でも『死の家の記録』を非常に高く買う人は他にもいて、大岡昇平によると、数学者の遠山啓がそうだったそうだが、中野重治も『死の家の記録』をドストエフスキーの作品中最も印象深い作品、人間の生への「飢渇」が漲っている作品として絶讃していた。しかし、大岡昇平がこの作品について埴谷雄高に「ドストエフスキーのなかで一番優れているだろう。この意見にはシンパがいるんだ。数学者の遠山啓だよ。遠山啓は、『死の家の記録』のあとの作品を認めないんだ。」と言うのに、埴谷雄高が持論を主張せず、「トルストイもそうだよ。ドストエフスキーでいちばんいいのは『死の家の記録』だと彼はいっている。」と応じているのは、埴谷雄高という人は温厚(芯はきわめて強いと思うが)な人なのだなぁ(もしかして年のせい?)。それでも、「…おれは『野火』に「たとひわれ死のかげの谷を歩むとも」というエピグラフをつけたけど、これは中村真一郎に対する挑戦なんだ。死の影とかなんとかいってるけれども、軽井沢にいてなにが死の影だ。こっちは兵隊で本当に生死の境を潜って来たんだぞって言う気持ちがあったからね。」との大岡発言に対しては、「いやあ、きみは本当に闘争力が旺盛だな。独歩に対しても闘争心、中村に対しても闘争心、そのうちに埴谷に対しても闘争して、死者たちについて何か書くんじゃないか。実際、感心だよ。」と述べた後、「ただ、その闘争心は他の人に向けてくれ、おれに向けないで(笑)。」とつづけているのは、一本釘をさしているようで可笑しい。

大岡昇平は1928年(昭和3年)に小林秀雄と知り合い、そのすぐ後に中原中也をその小林に紹介されて知り合っているのだが、こうして大岡昇平の旺盛な「闘争心」云々の話をきいていると、表題にわざわざ「昇平に」という言葉を付している中原中也の『玩具の賦』という詩が思い浮かぶ。1934年(昭和9年)、この詩が発表された時期の中原中也との関係について大岡昇平は、「…例によって喧嘩もしたし、「玩具の賦、昇平に」なんて体裁の悪い詩を書かれたりしたのだが、彼の談話はまた生気を取り戻したようで、私の方では昔ながらの彼の豊かな映像と素早い判断に感嘆していたのである。」(『中原中也』講談社文庫1989年)、「おまえも俺に喧嘩を吹っかけて、俺が評論などでちょっと頭を出かけると「昇平に」(「玩具の賦」)という詩を書いたり、それを「文学界」に持ち込んだりした。おまえの方にも嫉妬がある。まあ俺に対する軽蔑を伴ってるが。俺がひょっと頭を出かけるとおまえは出て来て、あいつは駄目な男だと言う。そういうことはあったので、まあお互いさまだと思ってくれ。」(同上「著者から読者へ」)などと述べているが、後者は死去の8日前に入院中の病院で口述したものだということである。)せっかくだから、またおもしろい詩なので、大岡昇平が編集し解説も書いている「中原中也全集 2」(角川書店1967年)からこれを引用し掲載しておきたい。


  玩具の賦
             昇平に
どうともなれだ
俺には何がどうでも構はない
どうせスキだらけぢやないか
スキの方を減(へら)さうなんてチャンチャラ可笑(をか)しい
俺はスキの方なぞ減らさうとは思はぬ
スキでない所をいつそ放りつぱなしにしてゐる
それで何がわるからう
俺にはおもちやが要るんだ
おもちやで遊ばなくちやならないんだ
利権と幸福とは大体は混(まざ)る
だが究極では混(まざ)りはしない
俺は混(まざ)らないとこばつかり感じてゐなけあならなくなつてるんだ
月給が(ふ)えるからといつておもちやが投げ出したくはないんだ
俺にはおもちやがよく分つてるんだ
おもちやのつまらないとこも
おもちやがつまらなくもそれを弄(もてあそ)べることはつまらなくはないことも
俺にはおもちやが投げ出せないんだ
こつそり弄べもしないんだ
つまり餘技ではないんだ
おれはおもちやで遊ぶぞ
おまへは月給で遊び給へだ
おもちやで俺が遊んでゐる時
あのおもちやは俺の月給の何分の一の値段だなぞと云ふはよいが
それでおれがおもちやで遊ぶことの値段まで決まつたつもりでゐるのは
滑稽(こつけい)だぞ
俺はおもちやで遊ぶぞ
一生懸命おもちやで遊ぶぞ
贅沢(ぜいたく)なぞとは云ひめさるなよ
おれ程おまへもおもちやが見えたら
おまへもおもちやで遊ぶに決つてゐるのだから
文句なぞを云ふなよ
それどころか
おまへはおもちやを知つてないから
おもちやでないことも分りはしない
おもちやでないことをただそらんじて
それで月給の種なんぞにしてやがるんだ
それゆゑもしも此(こ)の俺がおもちやも買へなくなった時には
寫字器械奴(め)!
云はずと知れたこと乍(なが)ら
おまへが月給を取ることが贅沢だと云つてやるぞ
行つたり来たりしか出来ないくせに
行つても行つてもまだ行かうおもちや遊びに
何とか云へるものはないぞ
おもちやが面白くもないくせに
おもちやを商ふことしか出来ないくせに
おもちやを面白い心があるから成立つてゐるくせに
おもちやで遊んでゐらあとは何事だ
おもちやで遊べることだけが美徳であるぞ
おもちやで遊べたら遊んでみてくれ
おまえに遊べる筈はないのだ

おまへにはおもちやがどんなに見えるか
おもちやとしか見えないだらう
俺にはあのおもちやこのおもちやと、おもちやおもちやで面白いんぞ
おれはおもちや以外のことは考へてみたこともないぞ
おれはおもちやが面白かつたんだ
しかしそれかと云つておまへにはおもちや以外の何か面白いことといふのがあるのか
ありそうな顔はしとらんぞ
あると思ふのはそれや間違ひだ
北叟笑(にやあッ)とするのと面白いのとは違ふんぞ

ではおもちやを面白くしてくれなんぞと云ふんだろう
面白くなれあ儲かるんだといふんでな
では、ああ、それでは
やつぱり面白くはならない寫字器械奴(め)!
――こんどは此のおもちやの此處(ここ)ンところをかう改良(なほ)して来い!
トツトといつて云つたやうにして来い! 」(1934.2) 

この詩について、大岡昇平がどこかに、「全然覚えてはいないが、多分中原の部屋を訪ねて行った時に、(自分が)珍しいおもちゃがあるなぁとか何とか挨拶代わりに言ったのではないか」というようなことを書いているのを読んだことがある。それにしても、詩といえども「おまへにはおもちや以外の何か面白いことといふのがあるのか/ありそうな顔はしとらんぞ」以下の舌鋒は鋭い。鋭すぎる。

大岡昇平が戦後中原中也の詩集や全集の刊行に注いだ力と情熱は傍目にもたいしたものだったようだが(ただ会ったこともない富永太郎の詩の編纂に対しても同様だったようである。この場合の情熱も、その詩に最初に触れた時に覚えた感動が原因だったことは大岡昇平本人の文章や談話からして確かだと思われる。)、これは友人だったこともさることながら、召集される前、いよいよ死の覚悟も必要とされると思っていた頃、ふと中原中也の詩集を開けて読んでみたところ、「彼の残した詩句が不思議に心に染みるのを認めた」ことが真因だったようである。『俘虜記』には、フィリピンの前線で歩哨の際に、中原中也の『夕照』という詩に勝手な節をつけて歌っていたという文章があるし、前述の『中原中也』にも、「前線で立哨中、熱帯の夕焼を眺めながら「夕照」を勝手な節をつけて歌った」と記述されている。

丘々は、胸に手を当て
退けり。
落陽は、慈愛の色の
金のいろ。

ただ、この『夕照』について、「同時に昭和4年頃私がこの詩を褒めた時の、中原の意地悪そうな眼附を思い出した。「センチメンタルな奴」とその眼はいっていた。」(『中原中也』)とも記されているところに、二人の性格と関係性がほのみえるようでちょっと可笑しくもある。
スポンサーサイト
2010.11.29 Mon l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
11月23日、北朝鮮が韓国に砲撃し犠牲者が出たというニュースが入ると、翌24日、朝鮮学校への授業料無償化制度の適用について、菅首相は「私から(高木義明)文部科学相に、こういう状況の中なのでプロセスを停止してほしいと指示を出した」と述べ、仙谷由人官房長官も「現在進めているプロセスをいったん停止する方向に動く」などと発言した。朝鮮学校の教師や生徒、関係者を長期にわたって散々苦しめた挙げ句、ようやく適用が決まったばかりの無償化制度適用をまたもや棚上げにすると発表したのだ。

子どもにとって生きていく上で何が最も耐えがたくつらいかといえば、不和や虐待などの家庭の問題を除けば、学校や近隣を初めとした日常生活の場における差別・いじめではないかと思う。いじめがつらいのは、大人も同じだが、まして年端のいかない十代の少年・少女においてをや。

菅氏が総理になってすぐに沖縄に行った際、もうこれ以上基地の押しつけには耐えられないと抗議する沖縄の人たちに向かって「感謝します」(趣旨)と言ったとき、この人の感覚は普通ではない、と思ったが、まさかこんなことまでやるとは…。何を目的としてこういうことを言い出したのか知らないが、政治家とか首相とかいう前に、一人の人間として考え方に重大な欠陥があるとしか思えない。菅氏だけではなく、仙石、高木氏などの閣僚も同じである。一体、朝鮮学校の十代の生徒たちが北朝鮮の砲撃にどんな関係があるというのだろう。恥も外聞もない、明白な弱い者いじめであり、百害あって一利なしとはこういう手法を指すだろうと思う。国際的にも呆れられ、軽蔑されるのがオチだということが分からないというのが不思議である。

今年2月に日本は「国連人種差別撤廃委員会」から多くの懸念と勧告を受けているが、当然のことながらその中には、高校無償化から朝鮮学校を除外するという案件も入っている。また3月には、同委員会は日本報告書審査にともなう総括所見を発表。「日刊ベリタ」のこの記事によると、これを受けアムネスティ・インターナショナル日本は、以下のように述べていた。

「日本政府がただちに、勧告の完全実施に向け必要な措置を講じるよう要請した。国連の総括所見は、日本の国内立法は差別の禁止を明確に規定していない。そのため、差別行為、嫌悪発言、公人による差別的な発言の流布、扇動が横行している現状を指摘、包括的な差別禁止法を制定し、刑事上、民事上の責任を明らかにするよう日本政府に要請している。これが実現すると、移住労働者や在日韓国朝鮮人に差別と排外主義の言動を繰り返しているネット右翼や在特会(在日特権を許さない市民の会)などの動きは許されないことになる。また鳩山政権が検討している高校無償化から朝鮮学校を除外する動きに対しても懸念を示し、朝鮮学校高級部の無償化対象からの排除は、現在日本社会を覆っている排外主義と関わりがあると言い切っている。」

何のことはない、菅政権は国連の「日本政府がただちに、勧告の完全実施に向け必要な措置を講じる」ようにとの要請に応えるどころか、朝鮮半島の混乱に乗じて政府自ら率先して、国連の言う差別と排外主義の増幅に手を染めているのだ。「最小不幸」どころか自分たちの手で不幸の種を蒔き散らしているのだから、何ともお粗末な政権だという慨嘆を抑ええない。

それから小沢一郎氏のことだが、この人が信頼のおける政治家でないと思うことの一つには、十何年も前から「国連主義」を唱えておきながら、人種差別や死刑制度の廃止に関しての国連からの勧告をまともに取り上げたり、積極的に取り組もうとする態度を見せたことはただの一度もないように見えることがある。国連、国連というのなら、朝鮮高校の無償化対象除外問題に関する国連の勧告についても真剣に受けとめ、党内で積極的に言葉を発し、排除阻止に力を尽くすのが当然ではないだろうか。これを見ても、小沢氏の国連主義というのは、ISAF(国際治安支援部隊)への加盟など軍事問題に限ってのことであろうという疑いを強くもった。私は国連指揮下であろうとも軍事力を行使することには絶対反対だが、これでは小沢氏は自ら口にする国連問題に関して最低限の筋も通していないことになるのではないだろうか。

人間についての定義をしようとすれば、多種多様、いろいろな意見があるだろうが、何人たりとも差別(それがどのような性質のものであってもそうだが、特に人種差別はそうではないかと思える)に耐えることはできない。自分自身で思いを巡らしたり、経験に即して考えてみたりしても、これは人間の条件の一つであるように思うが、何よりも歴史が証明してきた事実であると思う。もちろん日本の侵略・植民地支配の歴史こそがそうであり、外国人の学校も含めて授業料を無償化するというのなら、何はさておいても、在日朝鮮人の所属する学校に対してこそ真っ先に支給すべき筋合いであるだろう。これは余談になるかと思うが、私は、今の日本に在日朝鮮人がいてくれるということは、日本社会にとってつくづく感謝すべきことであると思う。もちろん例外はあるにしろ、在日朝鮮人の発言を聞いたり、文章を読んだりしてみると、一般的にいって日本人より思考力が、深さといい、鋭さといい、確かさといい、格段に優れているように感じることが多い。同じ社会の空気を吸って生きていながら、そして人口比率からいえば一握りでしかないのに、不思議なことだがこれは紛れもない事実であるように感じる。ずっと以前からそうだったのか、それとも近年の傾向なのか、どちらなのかははっきりしないのだが、あるいは後者ではないかという気もするのである。菅政権は一刻も早く、朝鮮学校の生徒、教員、関係者に謝罪し、今回の冷酷な措置を取り消すべきである。
2010.11.26 Fri l 社会・政治一般 l コメント (1) トラックバック (0) l top
訂正とお詫び  前回、ガバン・マコーマック氏の論文の翻訳を今後も追加掲載すると記しましたが、その後、配信先「Japan Focus」にこのことをお伝えしたところ、ガバン・マコーマック氏ご自身からご連絡をいただきました。翻訳した者が、何度かマコーマック氏とメールでお話しした結果、著作権をはじめとした問題もあり、ここで一旦訳文をこのブログにアップすることを中止することにしました。マコーマック氏には大変丁寧かつ率直な対応をしていただき、訳した当人は感銘を受けていました。訳文を読んでくださっている方には中止をお詫びいたします。(12月1日)


ご連絡-今日、新たにできた訳文を初回分につづいて追加掲載しました。今後もこのように少しずつですが、このエントリーに追加していきます。細切れのようで読みにくいかとも思いますが、時間のあるときに覗いてみていただければ幸いです。(11月22日)


金光翔さんの「対週刊新潮・佐藤優」裁判も大詰めに近づいたようで、結果が大変気になる今日この頃なのだが、「私にも話させて」のこちらの記事も注目! ガバン・マコーマック氏の著書を私はこれまで一冊も読んだことがなくて、名前もそういえばどこかで聞いたことがあるかな…と、かすかな記憶があるくらい。それでもこの「現代日本の思考」(?)という論文はすぐにもぜひ読んでみたかったのだが、残念至極なことに英語力がないので自力で読むのは無理。ただ、身内に英語が読める者がいるので、翻訳を頼みこんで、仕事のかたわらボチボチやってもらっています。まだ初めの方しかできてないけど、金さんが登場したところは、いきなり興味深い。英語が読めるといっても、この種の論文などは苦手かも知れないので、もしかすると間違いもあるかも知れないけれど、一応掲載してみます。誤訳がありましたら、気づいた方、教えてください。出だしの佐藤優氏が外務省で鈴木宗男氏と仕事を共にした結果、逮捕・拘禁されたこと、その後の経過などは皆さんご存知のことだから最初のその部分は省いて、それ以降をほんの一部ですが、記事の翻訳を。(太字による強調は引用者による)


  現代日本の思考
 ガバン・マコーマック
2009年の時点で佐藤は、19の様々な政治的立場を持つ新聞や雑誌にコラムを書き、それは一般的に「左派」もしくは「社会民主主義」とみられる‘世界’と‘週刊金曜日’から、右よりの‘正論’や‘諸君’、‘サピオ’、‘産経新聞’までおよび、そして‘福音と世界’、‘アサヒ芸能’、‘中央公論’や‘週刊プレイボーイ’といった宗教、芸術、文化に関する総合誌をも含むといった、独自のやり方で保守と社会民主主義の隔たりを繋ぐ存在になっていた。*10
しかしながら、佐藤の立場はこれら膨大な執筆を通じて現れる所では、はっきりと保守的かつ国粋主義者であり、彼自身の称する「保守陣営に属する右派」という言葉にふさわしいものである。
ある種の欧州共同体の先駆けとしての大東亜共栄圏構想の擁護や、西洋帝国主義と、中国における蒋介石のような、その操り人形への米国の支援からのアジアの解放へ対する日本の努力の放棄という米国の徹底的な要求からくる、必然的な成り行きとしての西洋諸国との戦争の擁護。
日本に、「国益」を増大させ「自国愛」を養うことを重要視し、それが北朝鮮とアルカイダによって晒されている脅威に、より上手に対処できるよう図られた「現実的平和主義」を採用しろと呼びかけること。
日本・イスラエル間の結びつきの構築に対する非常に精力的な努力と、日本への模範としてのイスラエル愛国主義の勧め、イスラエルの行う戦争の擁護。
戦術的な柔軟性(ロシアが定期的に返還の用意を示唆してきた北方二島の確実な返還を優先すること)と、然るべくして全四島の返還が実現されなければならないという戦略的な決意という立場に基づいた、日ロ関係正常化の強力な勧め。
憲法改正、またはその文面の再解釈のいずれかを通じて、自衛隊を通常の軍隊として「正規軍化」し、地域に対する役割を果たさせ、(台湾が日本の防衛圏の中にあるという考えに立った)集団安全保障への参加のための法制度整備の推奨。
「北朝鮮の脅威」と、それがどの様にして解消されなければならないかという日本の要求を受け入れることへの、北朝鮮にとっての必要性により注力することを説くこと。佐藤は賞賛を以てイスラエルが(2007年の戦争の際の)レバノンでの同様な拉致問題に対してとったやり方を引き合いに出し、日本は北朝鮮に対し、もし日本の要求をのまなければ、ロシアと日本が半島の掌握権をかけて争った1905年当時のような状態に半島を逆戻りさせる危険を冒しているのだと、はっきりと示す必要があると説く。彼はまた、有事の際には、日本に核兵器を導入する権利を容認することも必要であるとしている。
北朝鮮政府へ圧力をかける方法として、在日朝鮮人の北朝鮮と提携する団体である朝鮮総連への、より強い圧力の正当化。
中国、韓国と米国(の下院議会)は靖国問題や「従軍慰安婦」問題で日本を批判する権利はなく、日本はこれらの批判を無視するべきだという強い主張。
中国と韓国にまつわる「反日性」は日本にとって脅威となっており、それに対して日本は団結し、強くあらねばならないという(2007年の時点での)考え方。
間違いなく、ありきたりのプロフィールではない:佐藤は、有罪判決を受けた元外務相職員でありロシア専門家で、保守派で、護憲派であり*11、キリスト教徒で(もともとは神学部生であった)、イスラエル擁護者であり、同時代でもっとも広く著作が出版されている知識人であり、左派-右派の隔たりをしょっちゅうなんなく跨いで越してしまう唯一の存在であるのだ。
これまで誰も、若い(1976年生まれ)在日朝鮮人(在日)の出版社社員であるキム・グワンサン以上に、彼が「佐藤優現象」と呼ぶものを解明しようとより多く努めた者はいない。キムの初めのその題材に関する小論文は(その中で彼は最初にその言い方を作り出したのだが)、「<佐藤優現象>批判」と題され、日本の隔月刊誌インパクションに現れた。*12 それ以来、佐藤が彼自身の著作を拡大させるためと殆ど同じだけの勤勉さと情熱をもって、佐藤現象についての批判的分析に注力してきた。違う点は、キムが最初の論文以後生み出した数千ページにわたる物のどれも、彼のブログを除いてはどこにも載せられていないことである。
キムは、何故佐藤の右翼的な見解のことを知っているはずの、「左派」または「リベラル」に属する出版業界の傑出した存在までが、それにも拘わらず彼に言い寄り、彼の原稿を競って出版しようとするのかについて疑問を呈している。佐藤現象を説明するために、キムは、日本は今(特に2001-2007の小泉政権と安部政権時代の)国粋主義者の波に晒されており、その中で伝統的なリベラル・左派陣営は、国威と国家のグローバルな影響力への右派の集団的な大望に飲み込まれてしまうことによる「転向」の最中にあるのだと述べる。キムが信じるところでは、「護憲」を求める人々さえも、日本の国家と社会の連続性と、強さ、一体性が優先されるという命題のもと、改憲派の反対者とも連帯をする傾向にあると言う。別の言い方をすれば、正に彼の姿勢が冷戦時代の「左派-右派」の隔たりを超えるという理由で、佐藤は多くの編集者と出版社を呼び寄せるのだ。
佐藤は非常に広範な主題について、印象的な多才さでもって著述をするが、それら著作を全体として捉える時に初めて、――彼の寄稿は国粋主義的な、右翼的な雑誌から、「左派」で「リベラル」な雑誌への両者に及ぶ――キムの、日本の「普通の国」としての未来を支持する、左派-右派にまたがる国粋主義的な枢軸の構築についての主張の意味が分かってくる。キムは、彼が「佐藤優現象」として言及するものを、「集団転向(shudan tenko)」の現代版として解釈をする――転向とは、1930-40年代の現象を呼ぶ際に使われる用語で、その中では、多くの左派と共産主義者たちが彼らの信条を、共産主義者の国際主義から、天皇を中心に据えた日本の国粋主義に変えていった。キムによれば佐藤は、「大政翼賛」制度として知られる、団結した(またはファシスト的な)国家体制を構築するのに、かつて近衛(文麿)によってなされた役割を現在果たしている。
2009年6月、キムは、彼自身によると、彼の評判を傷つけ、それと共に誤りであるとする、2007月12月の“週刊新潮”で発表された記事中の彼に対する言及について、佐藤と二人の出版社の人間に対して名誉毀損の訴えを起こした。*13 この訴訟は現在も続いている。この出来事自体、まったく注目に値するものではあるのだが、この短文中で説明するにはとても込み入りすぎて、また激しく争われすぎている。これを取り巻く状況は、キムが岩波書店という(とりわけ“世界”を出版する)出版会社の社員であるという事実により、さらに複雑になっている。彼の雇い主が発行する、影響力のある雑誌へ対する彼の批判的な注視は、殆ど雇い主からの好意などは起こさず、キムは彼が職場で岩波書店の労働組合もが連座した、脅しやいじめと同等な圧力に晒されていると言う。キムの職場での追いこまれた状態は、彼が、2007年に岩波書店の企業内組合を脱退し、その代わりとなる、独立した組合を展開し始めた時によりいっそう深まった。*14
 」


ネット検索をしてみたところ、まだ翻訳は出ていないようなので、つづきを訳してもらったら、また当ブログに載せるつもりでいます(どなたかが全訳を発表してくだされば別)。上の文章中「違う点は、キムが最初の論文以後生み出した数千ページにわたる物のどれも、彼のブログを除いてはどこにも載せられていないこと」という叙述にはハッとさせられる。こういうなりゆき・事態に現代日本の政治・社会、文化水準が象徴的に現れているのではないかと思う。何度でも言ってしまうのだけど、少し前まではまさかこんなことになるとは予想していなかった。


11月22日 読者の方から‘福音と世界’という雑誌があることを教えていただき、福音の世界→‘福音と世界’に訂正いたしました。
2010.11.18 Thu l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
工藤美代子著「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」について、もう少し述べておきたいことがあるので、これまでに書いた部分と重複するところもあるかと思うが、書いておきたい。

工藤氏は、吉野作造について、

「「朝鮮人が虐殺された」とする説の展開に最も指導的な役割を担った吉野作造博士」

と書いている。吉野作造については、琴秉洞氏も「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」のなかで、

「この虐殺事件の時に良心的に活動した日本人の一人である吉野作造」「史料77~79は東大教授吉野作造の文である。78の「朝鮮人虐殺事件に就いて」は有名だが、吉野にはこの外にも「圧迫と虐殺」と題する原稿があって、これは前出『関東大震災と朝鮮人』(みすず書房刊)に収録されている。/ 史料78に「手当り次第、老若男女の区別なく、鮮人を鏖殺(おうさつ)するに至っては、世界の舞台に顔向けの出来ぬ程の大恥辱」とあるが、当時、学者で彼ほどに朝鮮人問題に好意的であったものはいない。」

と述べているように、その訴え、主張が当時の社会にあって際立って説得的であったことは事実のようである。しかし、もし彼が何かの都合でこの問題に関する言葉を何も発しなかったとしたら、関東大震災時における権力と自警団・住民による「朝鮮人虐殺」が歴史的事実として認識されることがなかったかといえば、そんなことはありえない。権力側が流す言い分をそのまま紙面に載せた震災直後の新聞各紙のデマゴギー(山崎今朝弥弁護士が当時述べた「新聞社の見識のないことと意気地のないこと。」という発言を想起すべし。)や、内田良平のような右翼のこれも何ら具体的根拠をもたない独断的言説に依拠する以外、自己の主張の理由・根拠を一切提示することもできないまま無責任にもデマに充ち充ちた本を書き、発表してしまう工藤氏や版元の姿勢とはまったく様相を異にする、震災直後から如何に日本人による朝鮮人への酷たらしい虐殺、朝鮮人狩りが各所で頻発したかということのきわめて具体的な目撃証言及び体験証言は無数に存在するからだ。

たとえば、以前に当ブログで触れたことだが、中野重治は「在日朝鮮人の問題にふれて」において、志賀直哉と佐左木俊郎という二人の人物の震災体験について書いている。まず志賀直哉の『震災見舞』の方だが、その一節には、奈良から上京した志賀直哉が目撃した日本人の言動が次のように描かれている。

「そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけて休んでゐる時だつた。丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。
『――叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかつたのがある!』刺子の若者が得意気にいつた。『――鮮人が裏へ廻ったてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ』刺子の若者は自分に気を兼ね一寸此方を見、言葉を切ったが、直ぐ続けた。『然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ。』二人は笑つてゐる。ひどい奴だとは思つたが、平時さう思ふよりは自分も気楽な気持でゐた。」

もう一人の佐左木俊郎という人物のことだが、この人は震災当時『新潮』の編集者だったようだが、その体験について、『小説新潮』(1972年9月号)に今東光は「青葉木菟の欺き」という題で次のように書いているそうである。

「……幸いにして彼(引用者注:佐左木俊郎のこと)はずつと後(昭和5年)になつて『熊の出る開墾地』という作品を世に問うまでに至つたのである。
 ところが、佐左木俊郎は大正12年9月の関東大震災に命を失うことなく助かつたが、あの混乱の中で朝鮮人虐殺事件が起つた時、彼は朝鮮人に間違われて電信柱に縛りつけられ、数本の白刃で嬲殺しに近い拷問を受けたのだ。彼は、
『日本人という奴は、まつたく自分自身に対して自信を持つていない人種ですな。僕の近所の奴等が僕が自警団員のため額や頬をすうと薄く斬られ血まみれになり、僕は彼等に日本人だということを証明して下さいと叫んでも、ニヤリと笑うだけで首を振つて保証してくれる者が一人もないのですよ。男ばかりでなく親しい近所の女房どもさえ、素知らぬ振りなんです。僕はこの時ほど日本人だということが恥ずかしく厭だつたことはありません』
『其奴等は今どうしてる』
『なあに。ケロッとしたもんですよ。あの時、口を出したら自分等も鮮人と思われるから怖かつたつてね』……………」

体験記といえば、江口渙の「車中の出来事」も同様である。工藤氏は、内田良平の「震災善後の経綸に就て」(工藤氏は「善後」を「前後」と記しているが、「現代史の会」編の「ドキュメント 関東大震災」には「善後」とあるのでこちらを用いた。)を引用しているが、内田良平は、

「今回の震災に乗じ社会主義者及び一部不逞鮮人等が爆弾を投じ或は放火を縦(ほしいまま)にし或は毒殺、掠奪其他在らゆる非道なる兇行を逞うしたるは天下万人の斉(ひと)しく認むる所にして一点疑ひの余地を存せざるなり。」

と、「社会主義者及び一部不逞鮮人等」による「爆弾を投じ或は放火」「毒殺」「掠奪」が「一点疑ひの余地」なく存在したと言い切っている。しかも、それを「天下万人の斉(ひと)しく認むる所」とまで断定しているところを見ると、この人物はこけおどしや嘘を用いることに躊躇しない人物のように思える。この文章にそのような断言をするだけの根拠は一切示しえていないからだ。「社会主義者及不逞鮮人の徴章と符号」の題の下で記されている文章はたとえば次のとおりである。

「彼等が投弾放火其他の凶行には予じめ其場所を指定し置き、兇行担当者は其場所に於て兇行を行ふこととなしたるものの如く、下記の符号は早きは一ケ月以前より塀或は井戸側等にインキ若くは白墨等にて記し置きたるものなり。雑司ケ谷の如きは九月一日震災後間もなく此の符号を井戸に着け廻したる事同方面の調査報告中にても知らるべし。但し、該符号は必ずしも全部一致し居らざるが如く、方面により多少の相違なきにあらず、想ふに是れ其指揮者を異にせるによるものならんか。」

徴章は、ヤ(殺人)、ヌ(爆弾)、A(放火)、●(石油放火)、その他、井戸投薬などの分かりやすい簡単な徴章から複雑で奇怪なものまである多種の徴章や符号について、社会主義者及び一部不逞鮮人が示し合わせて塀や壁に書き記したものと主張している。工藤氏の著書にも内田良平主張のこの「徴章と符号」が掲載されている(P208。関心のある方は参照されたし。)。湯浅警視総監や四谷警察署はこれらの徴章・符号について「掃除人夫の符号なりとて打ち消し」があったそうだが、内田良平は、これについて

「 四谷署発表の符号は他と比べて極めて複雑である。当該「中央清潔会社」へも内田は出向いたが、人夫たちが解雇され不在で社長では要領を得なかった。つまり、元来、符号の役割があるとすれば、仲間同士の間で通用しなければ意味がないのだから、符号の存在自体を、本人以外には分からないというのでは怪しいといわざるを得ない。」

などと述べている。だが、これは悪質であることはもとより何とばかばかしい主張であることだろうか。大地震の予知が出来る人間などいるはずもなく、実際この震災により何万、何十万の人々が命を落とし、重軽傷を負い、地震と火事の恐怖に怯え切り、また飢えてもいるのである。このような状況下で、在日朝鮮人には、日本人と違いそのような危機は身に迫っていなかったとでもいうのだろうか。「大地震の9月1日は、人も我もひたすら恐怖と不安のうちに日を暮らし、夜を明かした。」(嶋中雄三)ということだが、このつらい心情・境遇は朝鮮人も同じことであったろう。いや、異国の地で遭遇する大災害なのだから、まして当時の在日朝鮮人は来日2、3年未満の極貧の人々がほとんどだったそうだから、日本人以上に心細さ・不安・恐怖は大きかったはずであるが、ともかく、寺田寅彦の「流言蜚語」を読めば、内田良平が言うところの「徴章と符号」の言などは朝鮮人暴動捏造のための戯言以外の何ものでもないことが誰にも得心されるのではないかと思うので、もう一度引用しておきたい。

「「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。もしもその町内の親爺株の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化らないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が、有効に伝播したとしたら、どうだろう。それは、このような明白な事実を確実に知っている人が如何に少数であるかという事を示す証拠と見られても仕方がない。
 大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。
 例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
 仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。 (略)
 爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。
 尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。
 科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。」(寺田寅彦「流言蜚語」)

工藤氏がその著書で朝鮮人暴動があったことの根拠の一つとした内田良平の言い分などは、寺田寅彦の上の文章に明確に表れている良識的・合理的姿勢の前ではいっぺんに吹き飛んでしまう儚いものでしかないことがよく理解されるのではないだろうか。震災時の朝鮮人虐殺問題について発言した右翼のなかには、上杉慎吉という人物もいたようで、琴秉洞氏はこの人について次のように述べている。

「史料80の上杉慎吉は(引用者注:吉野作造と)同じく東大教授である。憲法学看で国粋主義者として知られ、同時期、右翼の頭山満、内田良平らと「震災善後措置ニ関スル建言書」(後出)に名をならべ、朝鮮人暴動は事実であったと支配層たる官憲の意図通りに動いた人物だが、この80ではその警察官憲こそが自動車、ポスターで「○○(鮮人)襲来、放火、暴行」を宣伝していたことを明言し、その責任を問うている。皮肉であり矛盾のようでもある。」

その「史料80」とは次の文章である。

「 警察官憲の明答を求む 上杉慎吉
 私は数百万市民の疑惑を代表して、簡明に左記の五箇条を挙げて、警察官憲の責任に閲し明答を得たいと思ふ。
 一、9月2日から3日に亘り、震災地一帯に○○襲来放火暴行の訛伝謡言が伝播し、人心極度の不安に陥り、関東全体を挙げて動乱の状況を呈するに至つたのは、主として警察官憲が自動車ポスター口達者の主張に依る大袈裟なる宣伝に由れることは、市民を挙げて目撃体験せる疑うるべからざる事実である。
 然るに其の後右は全然事実に非ずして虚報であつたと云ふことは、官憲の極力言明して打消して居る所である。然らば警察官憲が無根の流言輩語を流布して民心を騒がせ、震火災の惨禍を一層大ならしめたるに対して責任を負はなければなるまい。
 二、当時警察官憲は人民に向て○○○○の検挙に積極的に助力すべく自衛自警すべきことを極力勧誘し、武器の携帯を認容したのであつた。而して手に余らば殺しても差支なきものと、一般をして何となく信ぜしめたのである。而して之を信じて殴打激殺を行つた者は到る処に少からぬのである。此れ等の自警団其の他の暴行者は素より検挙処罰すべきこと当然であるが、さて之に対する官憲の責任は如何。
 三、仮りに警察官憲が之を勧誘教唆したのではないとしても、彼の場合にあれだけの大騒擾大暴行を起して、之を予防も鎮圧も出来なかつたと云ふ、職務を盡くさざりしの責任はどうする。
 四、当時警察官憲は各種の人民を見界なく検挙し殴打した。遂に之を段戮し、其死体は焼棄てたと云ふことは亀戸事件にも見えて居る。此の警察官憲の暴行には軍隊も協同したと云ふことであるが、警察官憲は無責任と云ふわけには行くまい。
 五、憲兵が大杉を殺した事件には警察官憲の諒解承認又は依頼勧誘があつたものと疑はれて居る。
 既に疑があれば、憲兵方面では甘糟大尉が軍法会議に移されたと云ふだけで、大杉と野枝と子供と三人を殺したと云ふ事実はまだ疑はしいのに、断然司令官迄が責を引きたるが如く警察や政府の方面でも、即時罷免其他責任を明にする処置は執らねばならぬであらう。詳しく論すれば論じ度きこと多くあるが、明瞭を期する為め、右の五点の要領を述べる。之を述べる所以は、これだけの事が明にならぬと云ふと、数百万市民の胸が治まらぬからである。(談)」(『国民新聞』1923(大正12)年10月14日夕刊)

この文章には、同じ右翼でも内田良平のものと異なり悪辣さは感じられないように思うが、これはむしろ内田良平の主張内容が酷すぎるということなのだろう。琴秉洞氏の内田良平評は下記のとおりである。

「内田は「鮮人の暴挙と残虐行為とは、掩ふ可からざる事実にして、而かも公憤を発した市民が、自衛の為にこの不逞鮮人を殴打し又はこれを殴殺したのは実に止むを得ないこと」と云い張るのである。まったくの茶番劇で当初、内務、治安当局の意図通り、又は意図以上に動き、大虐殺が外国に知られては困ると判断した政府が、朝鮮人暴動流言のトーンダウンを図ると、逆に政府当局に食ってかかるという手の込んだ演出までやる。何のことはない。政府当局が彼等に朝鮮人問題で食ってかかられたということは、為政者の公正さを内外に示すというおまけまでつくことになるのである。」


目撃・体験記といえば、「朝鮮人虐殺における知識人の反応」には、島中雄三という人物の次の文章も収められている。琴秉洞氏の解説には、

「史料126の島中雄三は、大正デモクラシーの申し子の一人で、評論家、社会運動家である。この文は大震一年後に発表された。この島中の体験記は実に貴重なものと思う。朝鮮人襲来の流言を聞いた彼は直ちにウソだと断定している。それだけでなく、朝鮮人狩りにいきり立っている自警団と真正面に向き合って彼等の非なるを説きつづけている。島中自身が群衆から「叩き殺せ」の罵声を浴びながらの奮闘である。生半可な知識人、人道主義者のやれることではない。社会および権力の在り様を見透した真の日本人の典型を見る思いである。島中雄三の弟雄作はこの数年後中央公論社の社長になる人物として有名。」

と記述されているが、「史料126」の表題は「自警団」で、副題に「震災当時の思ひ出」とある。発表されたのは震災から一年後の9月である。以下に引用する。


「自警団  震災当時の思ひ出」 島中 雄三

 自警団とは、昨年九月大震火災の混乱に乗じ、恐怖と陰謀とが野合して生み落した私生児である。
 今はもう影も形もないやうであるが、この私生児が犯した大罪悪は、思ひ出すさへ戦慄を禁じ得ぬ。
 大地震の九月一日は、人も我もひたすら恐怖と不安のうちに日を暮らし、夜を明かした。幸に私は、地震の被害も少い山の手に住み、火の手にも遠かつたので二日はや平静に帰った。久世山の高見から、下町一帯の猛火を見おろしながら不思議にも無事であり得た自分たちの幸運を喜ぶ心と.想像だも及ばぬ幾十萬の悲惨な死を傷む心とに.交々自分々ひたらせた。丁度その頃である。下町の方からワーッワーッと喊の聲が起り、ついで『朝鮮人が朝鮮人が』といふ声が人々の口から聞えた。夕方であつた。十八九の青年が真青な顔をして死物狂ひで駈け抜けたと思ふと、竹槍棍棒をもつた若者十数人が、ドヤドヤとそれを追つかけた。久世山一帯の避難者は、何事とも分らず騒き立った。女子供は顔色かへて遁げた。
 青年はやがて捕まった。と見るや三つ四つ続け様に打たれて、その場に倒れた。群衆はその周囲に集まつた。
 が、多くの人々の期待に反して、獲物をもつた若者たちは、すごすごと青年の周りを離れた人々は物足らぬ顔を見合せた。
『朝鮮人ぢやないんだつて、日本人だつて。」
『馬鹿な奴だなア。日本人なら日本人つて言へばいゝのに。』
『顫えてばかりゐてまるで口がきけないのさ。可哀さうに。』
 口々に人々は言ひ合つた。
 私は、何故とも知れぬ恐れにふるへ上つてゐる子供たちをすかしたり慰めたりしながら、遠くからそれを眺めてゐた。憤りが胸を突いて来る。けれども、何うしやうもない。
『朝鮮人が何か悪いことをしたのでせうか。』
『さァ、何ですか。何でも頻りに火を放けてまはつてゐる朝鮮人があるツて言ひますが。』
 近所のK氏はさういつて、解せぬ顔付をしてゐた。
『朝鮮人てトテモ悪い奴なんだね あの火事は皆鮮朝人が火をつけたんだつてね。」
『朝鮮人て世界中で一番悪い奴なんだって。』
『朝朝人をみんな叩き殺してしまふといゝんだね。」
 子供たちは可愛い顔をしてそんな恐ろしいことを口にしあつた。
 これは大変なことを言ひふちすものだと私は思つた。けれども思っただけで何うしやうもなかった。
夜に入ると朝鮮人の噂はますます烈しくなつて来た。朝鮮人を追ひかける群集の喊の声は、物凄くあつちこつちで起つた。
『皆さん朝鮮人が到るところに放火して歩いてゐます。各自に警戒して下さい。男の方は一人づゝ自宅に帰つてゐて下さい。竹槍でも棍棒でも何でも用意して、朝鮮人と見たら叩きのめして下さい。』
 かう音つて大声にふれ廻る若者の一隊があつた。
『此の上火を放けられちやたまらないな』私は苦笑した。
『ほんとでせうか』妻はウロウロし出した。
『嘘だよ嘘だよ。そんな馬鹿なことがあるものか。』
『でも……』
 そのうち石油の臭ひがすると言ひ出すものがあつた。
『臭い臭い。』
『石油石油だ。』
 人々はいよいよ騒ぎ出した。
『まつたくですわ。ほら、石油の臭がしますわ。』
『さうかね。』
『ほら、するぢやありませんか。』
 さう言はれてみればそんな臭ひがせぬでもない。
『石油の臭ひか知ら。』
『石油ですよ、石油の臭ひですよ。あなたは鼻が悪いから。』
 私は言はるゝまゝに自宅へ帰つた。真暗な中から提灯を探し出して蝋燭を鮎じ手に手ごろの竹の棒をもつて、兎も角お附合ひに家の附近を見張りした。
 この頃までは、まだ自警団といふやうなものはなかつた。しかし金盥を叩いたり拍子木を打つたりして、様々の流言を傳へて歩く若者の一群はあつた。それは私たちの住む小日向台町附近の人ではなくして、皆他区の人のやうであつた。
 私の住む小日向台町一帯の附近は、大体に所謂知識階級が多く住んでゐた。官吏勤人、大学教授や新開雑誌記者や、さうした種類の比較的わかつた人が多かつた。同時に此等の種類の人は、東京といふ土地を一種の植民地のやうにしか思つてゐない。二十年住んで居ようが三十年住んで居ようが、東京は唯仕事の便宜上或は生活の便宜上、身を託してゐる足留地である。従つて自分を守ることは知つてるるが公共の仕事に熱心ではあり得ない。隣り合せて住んでゐても、口をきゝ合ふなどは極めてめづらしいといふ有様である。それは多くの人が、自分の住む所以外に故郷といふものをもつてゐる関係からである。だからいざとなれば故郷へ帰る。それが此の人たちの強みである。それだけに東京市民としての騒い意識は此の人たちにない。
 不意の大きな天災は、しかし此ういふ人たちにも、隣保扶助の心を起させたのは事実である。長年壁一重に住みながら口をきいたこともなかつた隣家の主人同志が.急に現しく話し合ふやうになつたのはそのその証拠である。此の隣保扶助の心は、人間の生れながらにもつてゐる本来の心であるか、或は一時の変態心理であるかは兎も角、当時のあの大きな自然の叛逆に錯愕おく所を知らなかった人々にとつて頼みになるものはたゞ同じ災に顫へた人々の心であつた。この心が互に結び付いて頭上にふりかゝる当面の災害を防止するために一致の行動を取らうとするのも必然である。もし自警団といふものが.かういふ必然の心理過程によつて起つたものであるならば、よしその行動に過誤があつても、恕されていゝ事情がある。
 ところが実際はさうでなかつた。
 二日の夜、といふよりも三日の明方である。二三十人の何処から来たともなき若者一群が、手に手に武器をもつて叫んだ。
『朝鮮人三百人の一隊が、今此の久世山を目がけて押し寄せて来ようとしてゐます。女の人や子供は遁げて下さい。男は皆武器をもつてこゝで防いで下さい。』
 之を聞いた避難者の群れは、俄に上を下へと騒ぎ出した。女たちは顔色をかへて遁支度に取り掛った。寝てゐた子供たちは泣き出した。『さァ大変だ』といふので、男たちは手に手に竹槍棍棒をもつて起ち上つた。
『敵は何処だ。何の方面だ。』
 此に至つて私の全身は怒りに顫へた。何といふ不埒な、そして愚妹な民衆!
 私はしかし静に言つた。『君たちは何かこゝで朝鮮人を相手に戦争をおッぱじめようといふのか?』
 若者の一人は私の顔を見て黙ってゐた。
「朝鮮人々々々といふが、何を証拠に朝鮮人が火を放けたと君等はいふのか。朝鮮人のうちにも、悪い人間はあるかも知れない。しかし朝鮮人の悉くが放火犯人だと何うした断定するのだ.日本人のうちには朝鮮人よりももつと悪い人間が沢山あるだらう。君等朝鮮人を悉く叩き殺してしまふつもりなのか。」
 私の声は次第に激した。成るべく落ち着いて物を言はうとするが、その声は我ながら驚くばかりに高かつた。
『朝鮮人であらうが九州人であらうが、同じ日本の同胞ぢやないか。同じ震災に遭うて身の置きどころもない気の毒な羅災民ぢやないか。君たちはそれを助けようとしないで、叩き殺さうとするのは一体どういふ積りなのだ。もしさういふ事をした時に、将来日本にとつて伺ういふ禍を起るかといふことを考へてみたのか。』
『何だ、何だ。馬鹿なことをいふ奴があるな。何処の奴だ。』
『日本の人民でありながら怪しからんことをいふ奴だ』
『殴れ殴れ。』
『叩き殺せ。』
 群集は私を取り巻いた。私は自分の危険を感じないではなかつたが.しかし騎虎の勢ひもう止むを得ない。手にした握り太の竹の棒をふり廻しながら、私は一団の首謀者とも見える年嵩の男に肉迫した。
『三百人の鮮人といふが、果して悉く悪人だと君は認めますか。』
『あなたは少しも下町方面の事情を知らないからそんな事をいつてるのです。認めるも認めんもない。皆奴等が火を放けて廻つてるのだ。』
『よし。確にさうであるなら僕もこゝで君等と一緒に戦はう。内地人であらうが朝鮮人であらうが.さういふ不埒な奴に封して容赦はしない。だが、君、もしさうでなかつたら何うするのだ。僕は警察へ行つて聞いて来る。替察ではそれを何と認めてゐるかたしかめて来る。それまで待つていたまへ。』
『警察なんかあてになるかい。』
『警察のいふことが信用できないで君等のいふことが信用できると思ふか。」
 そこへ一人の若者が口を出した。
『私は警察へも行つて来たんです。警察では避難民だらうといふのですが、警察のいふことは全く信用ができません。』
『警察で避難民だらうといつてゐるものを君等が勝手に放火隊にさめてしまつてゐるのだね。さうだね。』
『勝手にきめてゐるンぢやない。朝鮮人と見れば、片つ端から殺しちまへといふ命令が来てゐるんだ。いつまで訳の分らんことをいつてると叩つ殺してしまふぞ。』
 少し離れて大声でさう怒鳴つたものがある。
『さうださうだ。やれやれ。やッつけろ。』
『諸君、馬鹿なことを言はないでも少し気を落ち付けたまへ。いゝか。君等の心持は僕にも分る。僕等も同じ日本人だ。しかし、さういふ乱暴なことをした結果がどんな重大なものだかを考へてみたまへ。もし君等が、朝鮮人であるが故に彼等を征伐しようといふんなら、以ての外のことだ。僕はこゝで朝鮮人の味方して君等と戦ふ。』
 さう言つて私は彼等を睥睨した。首脳者らしい年長の男は、周囲の者に何事か私語いた。私が二言三言いふ間、彼等は黙つてゐた。私はもう言ふべきことを言ひつくしたので静に彼等のそばを離れた。
 夜がしらじらと明けはじめた。此の時になつても、彼等の所謂三百人の朝鮮人の一隊は何処にも見えなかづた。避難者たちはやつと少し落ち着いた。すると、今までいきり立つてゐた若者たちは、ぞろぞろ、ざわざわ、何かさゞめき合つてるたが、やがてそのうちの一人の最後に言つた言葉は、私にとつて永久に忘れない謎である。
『君この邊は駄目だ。あつちへ行かう、あつちへ』かうして彼等の一群は、音羽の方へ向つて去つた。
 その翌日から、自警団といふものが私の町内にも組織された。しかしそれは一種の強制であつた。それが組織される前に、今いつたやうな若者の一団が、各区各所に出没して盛んに活動したことは事実である。何者の命令によつてであるかそれは知らぬ。兎にも角にもそれが所謂自警団なるものゝ正体であることは、大正震災史を編むものゝ逸すべからざる重要事であると思ふ。 」(『文化運動』1924(大正13)年9月号)
2010.11.17 Wed l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (0) トラックバック (0) l top
松川事件の第一次最高裁判決における「少数意見」を取り上げたこの記事を読んでくださった方から、11月2日付けで下記のコメントをいただいた。

「差戻し後上告審判決の少数意見もなかなか面白いですよ。結論は逆ですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%A3%AF%E5%9D%82%E6%BD%A4%E5%A4%ABでハイライトを読むことができます。」

アクセスしてみると、ウィキメディアの、なんと「下飯坂潤夫」の項目であった。1、2ケ月前に、松川事件の主任弁護人であった大塚一男氏の「回想の松川弁護」(日本評論社2009年)を読み、下飯坂氏のユニークな人物像(裁判官像)に触れて改めてつよい印象を受けていたところだったので、思わず笑い出してしまったのだが、この方の「なかなか面白い」という表現は言い得て妙であり(このようにしか言いようがなかったのかも知れない。というのも、このサイトに出ているように、下飯坂氏は松川事件で無罪判決を下した差戻審の門田判決に対し「その浅薄さ、その短見さ極言するとその卑劣さ、云うべき言葉を知らない。しかも大言壮語する。弱い犬程大いに吠えるのたぐいである。」などと述べているのだ。)、判決に対する裁判官によるこれほどユニークな意見にはそうそうお目にかかれないことは確かであろう。

下飯坂氏はかつて最高裁判事だった人で、松川事件でも二度の最高裁判決(大法廷と第一小法廷)に加わり、二度とも有罪判決に加担した人だが、そのたびに驚くべき少数意見を書いたことで有名であった。1959年8月、松川事件の第一次最高裁判決は7対5という僅少差によって「仙台高裁差戻し」が決定したのだが、被告人たちの無実があまりにもはっきりしている事件なので(そのように私には見える)、この7対5という評決には「どうして?」「なぜ?」という割り切れない気持ちは今でも纏わりついている。

この時には、田中耕太郎最高裁長官の少数意見が世上の話題を一身に集めることになった。その陰に隠れてあまり目立たなかったかも知れないが、下飯坂氏の少数意見もひどく変わったものだった(どんなふうに変わっていたかは、後ほど引用する大塚弁護士の話に出てくるのでそれで判断できると思う)。その後、周知のように仙台の差戻審で全員無罪判決(1961年)が出たわけだが、検察はまたも上告した。そして1963年、最高裁第一小法廷の4人の裁判官によって審議が行なわれ、3対1の評決で検察上告は棄却された。これで14年間にわたる松川裁判はようやく終結したが、この時ただ一人、高裁差戻しを主張し、少数意見を書いた裁判官が下飯坂氏なのであった。

この時の判決文は、全文の長さ415丁で、本文42丁、斎藤朔郎裁判長による補充意見5丁、残余の368丁は、すべて下飯坂裁判官による少数意見だったそうである。その少数意見は、上のサイトにあるハイライト部分の「弱い犬程大いに吠える、云々」などという言葉・表現から推測できると思うが、被告人の訴えについては「空々しい」「図々しい」、差戻審の門田無罪判決に対しては「欺まん」「ごまかし」「浅薄」「短見」「卑劣」、同僚裁判官に対しても「拙速主義」「観念主義」という言葉を浴びせ、無罪判決を徹底的に非難する内容だったそうである。(「松川運動全史」(労働旬報社1965年))

これに対し、斎藤裁判長は「たとえ少数意見が千万言を費やそうとも、この最終判決の真実性については、いささかの自信も揺るがない」と記者会見で述べたそうであるが、私がこの斎藤裁判官に感銘を受けたのは、斎藤氏が述べる裁判官の「自由心証」という重要な問題についての見解であった。判決の補足意見でも「自由心証は、ある程度の直感力に基づくものとはいえ、その確信は、われわれの社会通念による論証に十分たえるものでなければならない。確信するが故に真実であるということは、成り立たない議論である」「捜査の欠陥を、裁判所の専権として有する、自由心証の自由をもって補充し、真実性を容易に承認するが如きことがあっては裁判の中立性を放棄するものであろう」と述べているが、「回想の松川弁護」によると、斎藤裁判官はこの判決から1年後の1964年、再び「自由心証」の問題を取り上げ、これについての論文を書かれたそうである。

「自由心証」について誰がどのようなことを述べているのか私はよく知らないのだが(広津和郎は、松川事件の二審判決を批判する過程において「自由心証」について、裁判官に「自由心証」が委ねられているということは、裁判官が自由に対して最大の責任を負わされているということである、という趣旨のことをどこかに書いていた。広津和郎のその批判の眼目は、松川事件を担当した裁判官による「自由心証」の恣意的な運用についてであることは誰の目にも明らかだったと思う。斎藤裁判官はあるいは広津和郎のその発言を知って(読んで)いたかも知れない。広津和郎が「自由心証」について述べた意見に法曹界の人間の一人として正面から応えたのだという見方もできるかも知れない。)、知っている範囲では、下記の「回想の松川弁護」に記されている斎藤氏の見解(論文)に最も納得がいく。それでは、大塚一男弁護士の「回想の松川弁護」から印象に残った箇所を引用するが、最初に、「弁護士をやっておりますと、いろいろな裁判官に行き当たります。」ということで、有名な(?)鬼頭判事補のことが述べられている。「離婚事件」の依頼を受けて、鬼頭判事補と関わり合い、思いもかけないような厄介な目に遭ったそうであるが、そのあたりは通過して、下飯坂氏のところから――。(下線、太字による強調は引用者による)


 鬼頭は判事補ですから任官してから10年以内の人でありますが、では鬼頭は特別かというと、実はそうも言えない。今度は非常にべテランの裁判官に行き当たったときのことを少しお話をしたいと思います。今日お集まりのみなさんは戦後生まれのかたもだいぶおられるようでありますので、松川事件といってもちょっとおわかりにならないかもしれませんが、日弁連が出した『弁護士百年』というアルバムがございます。その中に「松川事件と裁判批判」ということで、こういう説明がしてあります。これで、松川裁判とはどういうものかということを一口で説明できようかと思います。

「昭和24年8月17日、東北本線松川駅近くで旅客列車が脱線転覆し、乗務員3名が死亡する人為的事故がおきた。捜査当局は事故直後の内閣官房長官の発言を裏付けるかのように福島の国鉄、東芝両労組貝を10名ずつ逮捕し、訴追した。一、二審は死刑、無期等の重刑を言い渡した。この裁判に疑いの目を向ける者は時と共に多くなった。文学者廣津和郎の4年半に及ぶ二審判決批判(『中央公論』連載)は広範な国民の心を動かし、関心と理解を深めた。無実の証拠を押収しながら、10年ちかく公開を拒む検察側の行動に国民はいきどおり、不安と恐怖をおぼえた。階層、思想、組織をこえて無実の者を殺すな! の声がたかまった。数名ではじめられた弁護活動も、逐次全国各地から参加をえて300名近い大弁護団になった。仙台弁護士会は二審から会として弁護を引きうけ、袴田重司、大川修造らを先頭に参加した。昭和38年9月、五度目の判決で無罪が確定」(日弁連のアルバム『弁護士百年』より)

 最初は8名、二度日は全員
 松川事件とその裁判、その運動を語れば、斎藤裁判官の下飯坂批判に書いてあるこういう説明がほぼ要点を尽くしていると思うのですが、この三度目の裁判が最高裁の大法廷にかかりました。そして五度目の裁判が最高裁の第一小法廷にかかりました。
 三度目の裁判というのは、4名の死刑をふくむ有罪判決を取り消してほしいという弁護側の上告にもとづいて開かれたのでありますが、この二度の最高裁の審理には下飯坂さんというキャリアの長い裁判官で、たしか大阪高裁長官から最高裁に入った人が関与しております。最初の大法廷のときは12人の裁判官が関与したのですが、7人の人は、この有罪判決は重大な事実誤認の疑いがあるから、仙台でもう一度やり直せ、という意見でした。4人の裁判官――田中耕太郎、池田克、垂水克己、高橋潔らは、17人全員に対する死刑判決等の裁判は真実であるから上告を棄却しろといい、下飯坂さんだけが「この17人のうち少なくとも8名は間違いないから、最高裁で8名についてだけ有罪にしろ」という主張をしたのです。結局、多数の7名の裁判官の意見が判決となって松川事件は差し戻され、仙台高裁で(昭和)36年の8月に無罪になりました。
 そうしますと、今度は検事が上告しました。検事の上告に対して最後に開かれたのが五度目の最高裁第一小法廷の裁判です。このときには下飯坂さんはどういうことをいったか。「検事の上告は理由があるから、17名全員についてもう一度裁判をやり直せ」といっています。最初のときは8名を有罪にしろといい、二度日のときには17名を有罪にしろといっているわけです。
 松川事件はもともと国鉄と東芝10名ずつの労働者をつかまえて裁判にかけているものですから、もし下飯坂さんが三度目の裁判をやれば、「いや、17名じゃなくて20名を有罪にしろ」と主張したのではないかと思われるぐらいに、裁判のたびに意見が変わった人です。それにしても、有罪であるということだけは間違いないという意見になるのです。
 きょうは将来裁判官になる人もお見えになっていると思うのですが、この下飯坂意見は、裁判官になる人が下飯坂意見のように考える裁判官になってはいけないということを教えてくれる意味では、大変役にたつ意見だと思います。(笑)間違ってもこういう意見と同じような考え方になっては裁判公害が増えて、国民がますます冤罪に苦しむことになりますので、十分にご注意をいただきたいと思いますが、下飯坂さんの最後の意見ではこういうことを言っているのです。

「さもあれ私は合議で3対1で敗れた。しかし、私は本当に敗れたと思っていないのである」(略)
「要は裁判に対する態度の違いであり、極言すると人生への生き方の相違でもあろう。私は、失礼ながら斎藤裁判官の補足意見を拝見してその感を深うした次第である」

 こういうことを言って、あくまでも有罪を主張いたしました。これに対して斎藤朔郎という主任裁判官は、「たとえ少数意見が千万言を費やそうとも、この最終判決の真実性については、いささかの自信も揺るがない」と、記者会見で手短に述べておられます。

 斎藤裁判官の下飯坂批判
 実はこれには後日談がございまして、この斎藤さんがその後にこういうことを書いている。これをここでご紹介したかったのです。「自由心証――すなわち、証拠の支配――」という論文です。

刑訴318条が証拠の証明力は裁判官の自由な判断に委ねる、といっている趣旨は、裁判官が証拠に対し主たる地位に立つということをいっているわけでなく、その一つ前の刑訴317条は、事実の認定は証拠による、といって、証拠が主たる地位にあることを示している。裁判官は証拠の忠実な従僕としてその証拠のそなえている支配力に従順に服さなければならない。それはその証拠のあるがままの姿、その証拠が現にそなえている証明力のそのままの程度を裁判官の心証に写しとるということであって、これが裁判官の証拠に接する基本的な態度でなければならない。われわれは法律に対しては比較的よくその支配に服しているといえようが、証拠に対しては、その支配に服するどころか、それを支配するような僣越をおかしているようなことはないであろうか

これから述べるところが斎藤さんの下飯坂さんに対する批判です。

波立つ池水、にごれる泉水は、事物の姿をありのままに写すことはできない。証拠に接するわれわれの心境は平静にして清明な水面にたとえることができるものでなければならない。事件に対してなんらかの理由で異常な執念を燃やし、義憤をぶちまけていて、証拠の冷静な評価ができるものであろうか。そのような態度で事件に接して行くならば、自己の思うままに証拠を駆使して、証拠の王様になりあがったような尊大、不遜な裁判官になってしまう。同じ時代に同僚としてひとしく裁判所に職を奉じて合議部を構成している裁判官のうちで、人生観を異にするがために証拠の評価の結論を異にするような事例があろうとは思われない。その差異の生じる原因は、先に述べたように、証拠に接する当初における裁判官の基本的な態度、心理的状態の差異によるものと考える」

 これが斎藤朔郎裁判官の下飯坂意見に対する手厳しい反論です。斎藤さんはこの論文を(昭和)39年の6月1日に善かれて、その年の8月上旬に亡くなられましたので、これが斎藤さんの最後の意見みたいなものだと思うのですが、「裁判官が証拠を離れて、何か執念を燃やして王様らしく勝手に振舞うということは、とんでもない事実の誤認をおかす」ということを、斎藤さんはここで冷静に、かつ強く、下飯坂意見に反論をしているのです。

 力みかえった裁判官の危険性
 下飯坂さんは、実は二度目の最高裁の八海事件のときに裁判長をやり、広島高裁の無罪の判決を破棄いたしました。「吉岡の述べている上申書や供述の行間には真実がおどっている」といって無罪判決を破棄し、広島高裁に差戻しました。その差戻しを受けた広島高裁の河相裁判長が死刑の判決を言い渡します。その死刑の判決のあった翌日の『朝日新聞』の紙面に、こういうことが下飯坂さんの談話として載っておりました。

「長い裁判官生活で覚えているのはこの八海事件と松川事件だ。私が死んだらこの二つの事件の判決文を棺の中へ入れてもらうつもりだ」

 私はこの記事を読んでまことにりつ然としました。つまり斎藤朔郎さんがいっておりますように、裁判官が力みかえって、あらかじめ執念を燃やして事件に取り組むと、こういうことになります。これは恐ろしいことです。人を死刑にすることもできる人間が、自分の松川事件と八海事件の判決文を棺の中へ入れてもらいたいといっている。その後、下飯坂さんは亡くなられたから、いまごろはおそらくあっちのほうで自分の書いた意見をまた繰り返し読んでいるかもしれません。(笑)これは恐ろしいと思うんです。こういう態度で事件に接したならば、結局、犯罪のなきところに犯罪を認め、無実の者に対して死刑を言い渡すという精神構造になるのです。

 私は、鬼頭判事補の場合と、この道何十年というキャリアの下飯坂判事の過ちを、みなさんにご紹介したのですが、鬼頭判事補あるいは下飯坂判事のお二人だけが例外であるという証拠は、実はまったくないのです。むしろ官僚裁判官の世界にはこういう資質というものが傾向的、体質的にあるのではないかということをみなさんにお考えいただきたいのです。
 そういいますと、裁判官にも大勢の中には変なのもいるけれども、弁護士の中にもいるではないかというお詰も出てきます。弁護士は一万人以上おりますから、変な人もいると思います。しかし、弁護士はどんなに変なのがおっても、人に死刑を言い渡すことはない。弁護士が力みかえってみたところで、決してそういう権力公害ということになるはずはないのでありまして、これは同日の談ではございません。また、弁護士の場合は選ぶこともできるし断ることもできます。ただし、さんざんに仕事をさせておいて報酬を払う段になって断るということはできないのであります。(笑)
 そういうことで弁護士はポンと一つ解任届を出せばいつでも断ることはできます。しかし裁判官は、忌避の申したてを何べんやっても、忌避が通るということはないんです。
 私の知るかぎりにおいては、松川事件の石坂修一という最高裁の裁判官が、弁護団からの忌避の申したてに対して自ら手を引き回避しました。これがおそらく明治以来の裁判制度の中でただひとつ実質的に忌避が通った例ではないかと思います。 」(「回想の松川弁護」より)


以上長くなったが、大塚弁護士の談話を引用した。このなかにあるように、そしてウィキペディアにも記されているように、下飯坂裁判官は「八海事件」でも広島高裁の3人全員に対する無罪判決を破棄してもう一度高裁に差戻しをしている。1962年のことだから、五度目の松川裁判の判決が出る1年前のことである。八海事件の差戻審は再び有罪判決を出した。最終的に3人の被告人の無罪が確定したのは1968年の三度目になる最高裁判決(八海事件は七回の裁判を強いられた)によってであった。斎藤裁判官が述べている「自由心証」についての見解は、まさに下飯坂裁判官のような裁判官のあり方への批判だと思うのだが、この考え方はすべての裁判官が備えているべき必須の条件ではないだろうか。

裁判官は証拠の忠実な従僕としてその証拠のそなえている支配力に従順に服さなければならない。それはその証拠のあるがままの姿、その証拠が現にそなえている証明力のそのままの程度を裁判官の心証に写しとるということであって、これが裁判官の証拠に接する基本的な態度でなければならない。

現在では田中耕太郎氏や下飯坂潤夫氏のように極端に強烈なパーソナリティを持ち、誰の目にもその特異な個性・思想が判別できるような裁判官はあまりいないかも知れない。しかし実際に法廷の場に表われる裁判に対する個々の裁判官の姿勢はどうなのだろうか。ここ十年ほどの極端な重罰化傾向(このこと自体がゆるがせにできない大問題だと思う。)をみると、裁判には実は当時と同じく、あるいはよりいっそう深刻な多くの問題が伏在しているのではないだろうか。実際、私が風間博子さんに対する一・二審の判決文を読んだところでは、松川事件の一・二審に見られる「証拠の曲解・捏造」は事件の内容、時、場所の違いを超えてそのまま再現されている、少なくとも大変よく似ている感じを受けた。
2010.11.06 Sat l 裁判 l コメント (4) トラックバック (0) l top
     
関東大震災時における「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」のなかで、編者の琴秉洞氏が、もしかするとただ一人、まるで、「問題のある発言をしているけれど、こういう型の人間では、対等に取り扱って叱ってみても仕方がない」とでもいうかのように、さしたる批判もなく通過している(ように見える)人物があった。それが小説家の「葛西善藏」なのだが、琴秉洞氏はあるいは、震災に関する廣津和郎の文章を読み、そこに描かれている葛西善藏の姿を見てそのような判断をされたのかも知れない。

震災に関する廣津和郎の文章は、「年月のあしおと」(講談社、1963年刊)から一部を抜いたということだが、これは「葛西善藏の「蠢く者」」という小見出しが付いた文章の一部分であり、琴秉洞氏は、

「鎌倉に住んでいた広津は、「町役場からだと云って、自転車に乗った男が」朝鮮人襲来を触れまわっているのを聞いて、「そんな莫迦な話があるものか」と言下に否定している。そして、葛西善藏に建長寺の菅原管長が竹槍を持って出た話を聞いて広津はこの管長に批判的に対している。広津の良識の眼は曇っていない。」

と廣津和郎を評しているが、一方、「代表的私小説作家葛西善藏の大震記」をも取り上げていて、その葛西善藏については、

「自己および自己周辺の人々を題材に凄絶な葛藤の世界を描く巧者だが、ここでは素直に自然の猛威に脱帽している感がある。彼はこの時期、鎌倉建長寺の塔頭、宝珠院に起居して創作にはげんでいた。それにしても「管長さん始め、僕なぞも○○など持って○○○警戒に出た」とあるが、葛西のような云わば一種の幼児性のある男はともかく、建長寺の管長ともあろう善知識(であろう、と思う)が、一犬虚を吠えて高大実を伝う図を地でいっていたとは驚きでもある。」

と、「葛西のような云わば一種の幼児性のある男はともかく」と述べていて、琴秉洞氏の批判の対象は「建長寺の管長」である。下に廣津和郎の「葛西善藏の「蠢く者」」を掲載しようと思っているが、この文章を読んで、廣津和郎について二つ感じたことがあった。その一つは、この人にはどうやら合理的な思考の習慣がしっかり身についていて、ちょっとやそっとのことではそれを失うことのない型の人物であるらしいこと(松川事件への取り組みもその一つであったろう。戦中も勇ましい(?)ことを述べたことはおそらく一度もないはずである。)、もう一つ感じたのは、心の底に日本人全体に対するある種の不信感が一貫してあるのではないかということである。

震災の際の朝鮮人への対応についても「ああ云う場合、この国の人間には、野蠻人の血が流れているのではないかという気がする。」と書いているが、「心臓の問題」という文章にも、1936年の2・26事件から間もなく、街を息子(おそらく十代後半だったと思われる)と一緒に散歩していた時、息子が警官に「おいこら」と乱暴な呼び止められ方をして近くの派出所に連れて行かれたことを書いている。その時息子は学帽を被らずにいたためか、人相がある達しの人物に似ているとかの理由で呼び止められのだが、それに対して「何の用なのです?僕はこれの父親なのだが……」と質問や抗議をする廣津和郎に対し、その警官は「父親? ふん、父親でも構わん。この男をしらべる事がある。向うに行っていろ」からついには「君は警察というものを知るまい。訊問、検束、みな自由なのだぞ。」とまで言ったらしい。その威嚇――特に「検束が自由」と述べたことへの廣津和郎の衝撃と怒りは大きく、「訊問はまだよろしい。併し人民を検束する事が警察の自由であるとは。――これは一つの恐怖である。」と書いている。その怒りは家に帰ってもどうしても治まらないので、警視総監に抗議の手紙を10枚も書きかけたそうだが、丁度心臓を悪くしていた時で、その心臓が益々興奮を強め、とうとう手紙を書きつづけることができなくなったと述べている。その他、防空演習の際の燈火のことで、血気にはやった青年たちが規則づくめに凝り固まってしまって、人の事情説明など聞こうとせず、居丈高に命令したりすることがあったり、そんなこんなを経験しているうちに、廣津和郎は次のように感じるようになったという。

「若し何かの規則を作って、その規則で何かを民衆に言ってもよいという権限を与えたら、日本人はみな警官になり得る素質を持っているのかも知れないと考え、とうとう苦笑して、灯火を消してしまって、ベッドの上に仰向けに転がった。――人をとがめていいという権限を与えたら、日本人はみなその人をとがめる権限を享楽しそうである。規則の内容は問題にせずに、その規則の適用範囲を拡げるだけひろげて、人をとがめる事に喜びを感じそうである。」(「心臓の問題」文藝春秋1937年)

     
廣津和郎が自分は若い時からニヒリスティックな傾向がつよかったと書いているのを何度も見たことがあるが、エネルギッシュでねばりづよい松川事件への取り組み方を見ていると、そういう側面がどうも分かりにくかったのだが、最近何となく理解できるような気もする。それでは、以下に「葛西善藏の「蠢く者」」を引用する。


「葛西善藏の「蠢く者」」  廣津和郎著
 葛西(善藏)も宇野浩二と同じく、大正八年頃から確固たる地歩を文壇に占めて来た。そして震災の二、三年位前から、鎌倉建長寺の或寺の部屋を借りて、そこに住んでいた。
 あの震災に關聯して、今思い出しても日本人として堪らない気持のするのは、各地に起つた例の鮮人騒ぎである。日頃から鮮人をいじめていたということから来た、復讐を受けやしないかという強迫観念か、或は国内の革命でも恐れるために、わざと国民の気持を、彼等に向けさせるために、何ものかがあんな策動をしたものなのか、とにかく鮮人に對して、あの時日本人の行つたことは、これは何とも辯解のしようのない野蠻至極のものであつた。ああ云う場合、この国の人間には、野蠻人の血が流れているのではないかという気がする。
 鎌倉でも同じことで、田中純の家に避難している時、或日の午後、町役場からだと云つて、自轉車に乗つた男が、「今鮮人の一隊が小袋坂まで押し寄せて来ています。横須賀の海軍の陸戦隊があそこを守つていますが、突破されると、合図の鐡砲を打ちますから、それを聞いたら武器を持つた男の方たちは、門前に出て下さい。婦女子と子供は山に逃げて下さい」と云つて解れまわつたものである。
 私は、
そんな莫迦な話があるものか。鮮人が地震を予知していたわけではあるまいし、何虞で勢揃いし、何虞からやつて来るというのだ。かりに横濱あたりで勢揃いしたところで、一體何しに鎌倉になどやつて来るのだ。たといやつて来るにしても、保土ヶ谷や戸塚の青年團がそれを通すか。そんなことは絶封に考えられないよ。僕はこれから寝るから、ほんとうに鮮人が来たら起してくれ。――若しほんとうに来るとしたら、家が焼かれるかも知れないから、山に逃げる人たちは、野宿のために、毛布か掻巻の一枚ぐらい宛持つて行くんだな」と云つて、人々を安心させるために、畳の上にひつくり返つたら、實際に眠つてしまつた。
 夕方眼をさましたが、無論鮮人など来る筈はなかつた。
 その翌日私は建長寺に葛西を訪ねて行くと、建長寺附近でもその騒ぎがあつたらしく、
「ここの菅原管長は見上げたものだぞ。昨日は竹槍を持つて出て来て、村の若者と一緒に寺の門前を守るというのだからな。はじめは寺の寶刀を持つて出て来たが、注意した者があつたので、竹槍に代えたが、とにかく村の若者と一緒に、竹槍を持つて、鉢巻をして出て来るところが愉快だよ」と葛西は面白そうに云つた。
「愉快なものか。圓覚寺の古川管長はどうしていた?」
「禪堂に籠つたきり出て来なかつたそうだ」
「それでこそ管長だよ。あんな場合、管長位がおちつかなくつてどうするんだ」
「いや、管長などと云つておさまらずに、村の若者と一緒に竹槍を持つて出るのが面白い」
 實に他愛のない云い合いであるが、そして日頃菅原管長に感心しているわけでもない葛西であるから、何虞までが本気でそんなことを云つているのか解らないが、しかし鮮人問題では私は腹が立つていたものだから、ついむきになつて、
「おい、葛西、君の小説はうまいよ。名人藝には違いないよ。だが、その名人藝は、君が建長寺の屏風に雀を描いたら、その雀が朝な朝な米を食いに屏風から飛び出したという傳説でも出来そうなうまさだよ。だが、雀がとび出したつて、そんな藝術は古いんだぞ」と云つてしまつた。
 そこで葛西と喧嘩別れの形で別れたが、それから間もなく汽車が通じるようになると、葛西は私のところには別れの挨拶もしに来ず、鎌倉を引揚げて東京へ行つてしまつた。
 葛西は本郷の方の下宿におせいさんと一緒におちついたという噂を聞いたが、私のところにははがき一本よこさなかつた。
 それから半年ぐらいの後、多分大正十三年になつてからであつたと思うが、「中央公論」に葛西が久しぶりで「蠢く者」という小説を書いたので、それを讀むと、思わず私は眉をひそめた。それは葛西が下宿で結核で血を吐いてだんだん衰弱して行きながら、おせいさんにいじめられたり、撲られたりする何とも云われぬみじめな小説だからである。
 葛西は昔から自分が相手をいじめながら、自分が相手にいじめられたと書く癖のある男である。葛西に惚れ込んでいる谷崎精二に云わせると、葛西には強迫親念があって、自分がいじめられていると思うのが、葛西に取つては實感なのだと葛西のために弁解しているが、私は谷崎のその同情ある見方にはあまり賛成していない。(略)
 私は谷崎のように同情的な見方はしていないので、葛西の書くものを、十分警戒して讀んでいるのであるが、しかしこの「蠢く者」はあまりにみじめ過ぎる。私はおせいさんが葛西に三度三度、雨が降つても風が吹いても、自分の家である牛僧坊下の茶店から、葛西の寺まで食膳をはこんでいたのを知つているし、深切で、優しく、忍耐強く、長い間酔つ拂つて管を巻く葛西の介抱をしていたのを知つている。そのおせいさんが、血を吐く葛西をいじめたり、撲つたりすることは考えられないと思いながらも、葛西のこの小説は、葛西がいじめられるそのみじめさが眞に迫つている。
 これは一度見舞に行かなければならないと思うと、私はじつとしていられなくなつて、或晩本郷の下宿に葛西をたずねて行つた。
「中央公論」の編集の伊藤君が、葛西の「酔狸洲七席七題」の口述を筆記しているところであつた。
 私が彼の部屋に入つて行くと、「おお、廣津、とうとう来た、廣津はやつぱり来た」と葛西は云つて立上るなり、私に抱きつき、「来た、廣津はこれ、この通り、おお、やつぱり来た」とベろべろと私の頬を舐めまわすのである。葛西はべろんベろんに酔つていて、息は酒臭かつたが、小説で讀むと、彼は結核で盛んに血を吐いているとある。その血を吐く口で、頬を舐めまわされるのはやりきれたものではない。結核菌が顔中にべたべたくつつく気がする。
「もう解つた、解つた」と云いながら、私は彼の近づけて来る口を両手で遠ざけた。
 それからやつとおちついて、彼は彼の座に戻り、私は伊藤君の横にすわつたが、葛西の机の上には線香立があり、彼は伊藤君に口述筆記をさせる問、時々線香立に線香を立て、一寸黙祷するような恰好などをするらしい。
 酒を飲み、線香を立て、彼流のとりとめのないお喋りをしながら、時々気が向くと、さて口述筆記となるのであるが、それはほんの数行で、又酒を飲み、線香を立て、黙祷し、駄辯り、そして気が向いた時、續きを口述するという風らしいので、筆記原稿はいくらも進まないらしい。こうして毎日葛西の口述筆記をしにやつて来て、彼の野狐禪的な気焔をじつと聞いていなければならない伊藤君の忍耐は大變なものであろう。
 おせいさんはと見ると、鎌倉時代と同じ善良な顔をして、しかしその頃から見ると、大分世帯やつれを見せながら、部屋の隅にしずかに坐つていた。
 葛西をいじめたり撲つたり――とんでもない。凡そそんなことがある筈はない。小説にあるように小さくなつているのは葛西ではなく、おせいさんである。荒れる葛西におとなしく辛抱強くかしずいている昔ながらのおせいさんである。
 又一杯葛西に喰わされたか、と思つたが、別に腹が立つわけではない。あの「蠢く者」の迫眞性に、警戒しながらもつい引つかかつてやつて来たということが、わけもなくおかしくもなるのであつた。 」(「年月のあしおと」講談社1963年)

     
廣津和郎が朝鮮人襲来の噂の件について上で述べていることは、科学者であり随筆家でもあった寺田寅彦が震災後に「流言蜚語」で述べていたことと内容的にひどく似ている。以下に、その「流言蜚語」の一部を引用する。

「 例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
 仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。
(略)
 爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。」(「流言蜚語」(1924(大正13)年9月 『東京日日新聞』)

     
また、作家の佐多稲子が書いていることだが、震災の際に近所のおかみさんが述べたという発言も同じ種類のことであった。佐多稲子は、震災の頃はたしかまだ独り身で、中野重治や後に結婚することになる窪川鶴二郎など同人雑誌「驢馬」の人達と知り合う前のことだったと思うが、「朝鮮人大虐殺に関する知識人の反応」を読むと、震災についてこういう文章を書いている。

「 私はこのときのことをおもい出すたびに、同じ長屋で親しくしていたひとりのおかみさんの言った言葉を同時におもい出す。日頃から気性の勝った人だった。夫は旅まわりの劇団についてまわっている貧しい興行師で、その留守中、病人の舅と幼い娘を自分の内職で養っている、そういう人であった。とにかく騒然とした一夜が明けて、長屋のものが半壊のわが家のまわりに寄り合ったとき、ひとりが自分のゆうべの恐ろしかった経験を話し出した。話し手の彼女は、一晩中朝鮮人に追いかけられて逃げて歩いた、というのだ。それを聞いたとき、興行師のおかみさんは、利口にその話を訂正した。彼女はこう言ったのである。朝鮮人が暴動を起したなんていったって、ここは日本の土地なんだから、朝鮮人よりも日本人の数の方が多いにきまっている。朝鮮人に追いかけられたとおもっていたのは、追われる朝鮮人のその前方にあんたがいたのだ。逃げて走る朝鮮人の前を、あんたは自分が追われるとおもって走っていたに過ぎない、と
 私はこの訂正を聞いたとき、強いショックでうなずき、兼ねてのこの人への尊敬をいっそう強くしたり全くそのとおりだとおもったし、しかもそういう判断にいっこう気づかなかった、ということにショックを受けた。 」(「下町のひとびと」)

廣津和郎も寺田寅彦も、そしてこのおかみさんも、しごく当然の合理的な見解を述べているのであり、こうして読んでいると一も二もなく肯けることだが、しかしこのような当たり前の発想・考え方はその時点では周辺と隔絶していたのだ。おかみさんの話をきいてすぐに納得した佐多稲子はやはり怜悧な人だと思うが、こういう人でさえ、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という風評に対してそれまで特に疑念をもったり、反発している様子はない。とすると、私などはさらに自分はそうではなかったろう、真相を見抜けていたはずだと言い切れるかどうか。常に自省・自戒していなければならないのだが、それでは、現在の日本社会はどうなのだろうか。1995年に神戸で大震災が発生した時、関東大震災のことが一瞬頭に浮かんだりしたということを在日朝鮮人の作家が書いているのを二篇ほど読んだことがある。その時、私は本当に意外なことを聞いたように思い、そんなことはもう決してない、そう言い切ってもいいと思い、むしろ危機に遭遇していまだにそのようなことを思い浮かべる人がいたということにショックを感じたものである。

今でも、再び同じことが発生することは今後はもうありえないと思っているが、どうしてもわだかまりが消えないのは、日本政府がこの事件について、本や資料などで知るかぎり、自警団の一部を起訴して有罪にしてはいるものの、それは形式を踏んだだけのもので、その他に当然なすべき調査もしなければ、被害者に対して何らの謝罪も補償もしていないということである。何事もそうだと思うが、特に弁解の余地のない悪事をなしてしまったら、謝罪をするしかない。謝罪をするとしないとでは現在だけではなく、将来においても天地の差が出てくることは間違いないように思う。だからこそ、また大きな災害や事件が発生した時に、形を変え、今度はまた別の対象に向かった攻撃が起きないとはかぎらないように思えるのである。何か一つ事が起きると、一斉にある一点に全神経、全注意を向けてしまうという、「長いものには巻かれろ」「みんなで渡れば怖くない」式の日本人の性向に根本的な変化はないのではないか、というよりこのところそのような傾向がむしろつよまっているのではないかという気もするのである。
2010.11.03 Wed l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (0) トラックバック (0) l top
琴秉洞氏が編纂された2冊の分厚い「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」(緑蔭書房1996年)から、 関東大震災時における体験記や詩作品を抜き出して紹介したい。人間の残忍さに恐怖する記録の数々とともに、人物の見識の高さや人間味の豊かさに救われる気持ちになった文章も多かった。そのなかから今日は江口渙が9月1日の震災からそう間のない11月に『朝日新聞』に2回にわたって発表した文章と萩原朔太郎が震災翌年の2月号のある雑誌に発表していたという詩を引用する。江口渙、萩原朔太郎ともに(他の文章についても同様)、琴秉洞氏が懇切な解説を書かれているのでまずその文を先に載せ、その後に作品を引用したいと思う。ここですこし感想を述べると、江口渙の「車中の出来事」にはその場の情景が目に生々しく浮かんできて、恐怖や嫌悪で身体が凍りつきそうな気がした。江口渙は「無防備の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにはいかなかった。」と書いているが、江口に限らず、2冊のこの本には、当然のことのように思われるが、「つくづく日本人が嫌になった」「もう自分が日本人の一人であることが嫌になった」というような感想は実に多く見受けられた。

萩原朔太郎の三行詩「近日所感」は私も初めて読んだ。「その血百里の間に連なれり」の「その血」は、他ならぬ日本人が殺した朝鮮人の血に他ならないことを作者が暗澹たる気持ちでじっと見ていることが感じとれる。「こういう詩を書いていたんだ!」と驚きとも感慨ともつかない感じをうけたが、しかし、それよりもさらに驚きと感銘をうけたのは、この詩をはじめて読んだという琴秉洞氏が述べている、この詩から受けとられた底知れぬほどの感動の深さに対してであった。琴秉洞氏はこの本(1・2とも)の扉裏のすべてに朔太郎のこの詩を採用していられる。


それでは、まず江口渙についての琴秉洞氏の解説から。

「 史料162~163の江口渙は作家で社会運動家としても知られる。その創作および社会活動は、「蒼白きインテリー」の代表にも擬せらるる小説書きの世界において、その骨太さの故に異彩を放つ存在である。
 162の「車中の出来事」は大震の年の2月後に【東京朝日新聞】に発表されたものであるが、この時期に「大和魂」に対して、心から侮蔑と憎悪を感じた」という勇気には驚きの念を禁じ得ない。(管理人注:江口渙は震災の7年後にもう一つ朝鮮人や社会主義者殺戮に関する文章を発表していて、この本にも収載されている(史料163)。これは、琴秉洞氏の解説をそのまま記すと「内相水野こそ虐殺事件の最初の点火者と名指している。当時、すでに濃厚な疑いをもたれ、論証は弱いながらも内相水野を点火者と断定しているのだ。次に驚くべきことは、大杉栄は憲兵隊本部でなく、麻布三聯隊の営庭で銃殺されたと断言していることである。恐らく元帥畑俊六の日記の存在は知る筈もなく「その秘密は当時麻布三聯隊にいた一年志願兵の口から端なくも暴露された」としているが、それにしては大変な情報を公表していたものである。」とのことだが、大変迫力のある文章である。ただ、長いものなので、今回はこちらのほうは割愛する)」(「琴秉洞氏の解説」より)


  車中の出来事   江口 渙 
   上
 屋根と云う屋根は無論の事、連結機の上から機関車の罐の周囲にまでも、丁度、芋虫にたかった蟻のように、べた一面、東京からの避難民を乗せた私達の列車が、赤羽の鉄橋を北へ渡ったのは、九月八日の午後六時すぎででもあったろうか。
 汽車の中は、地震の噂、火事の噂、鮮人、社会主義者の噂でもって一杯だった。何処で如何に丸焼けに逢ったか、そして何処で如何に生命がけに、だが如何に勇敢に逃げ延びたかと云う風な事が、機関銃の雨を冒して敵陣を乗っ取った勇士のような態度と矜持とでもって話された。然も少しでも多く丸焼けになり、少しでも多く生命がけで逃げた者ほど、尚更みんなの称賛を博していた。そして、この際人間としてむしろ焼け出されたのが本当で、焼け出されないのは間遠っているのだと云う風な感じさえ与えた。だから地震にも火事にも逢わない私などが同じ汽車に乗り合わせているのは、はなはだ肩身のせまい事であった。
 汽車が荒川の鉄橋を殆ど渡ろうとした時だった。みんなの話しに耳を貸しながらぼんやり外を眺めていた私は、一丁足らずの上流を、岸に近く、何か白い細長いものが流れて来るのに気がついた。多量に水蒸気を含んで鈍く煙った雨上がりの薄暮と、うす濁りのしている河水のために、最初はその白いものが何であるか、少しも見当がつかなかった。
 然し、畦の草叢の上を一群の人々が、その白いものを追い駈けるらしくぞろぞろやって来るのを見た時、殊にみんな手に手に竹槍や鳶口らしいものを持っている上に、白いものに向かってしきりと石を投げつけているのを見た時、それが何であるかを私ははじめて知つた。
「あれは何です」
 傍に立っていた若い男がこう私に訊いた。
「どうも死骸のようですね」
「きっと××[鮮人-編者]でしょうね。それとも主義者かしら」
「さあ。どっちですかね」
 重そうに流れて来る白い細長いものと、投げられた小石がその周囲にしきりにあげる飛沫に眼をやりながら、私は押し潰されるような気持ちでもってこう答えた。そして、更に息をころして尚もそれ等のものを見詰めた。
「やあ××[鮮人]。××[鮮人]」
「何。××[鮮人]だ。何処に。何処に」
「あれを見ろよ。あれを」
こんな叫びがあっちこつちに起こつたと思うと、車内は忽ち物狂わしい鯨波の声でみたされてしまった。そして、一度に総立ちになったみんなは、互いに肩や頭を押しのけてまでも、ひたすら上流の河面を見ようとさえ焦った。
 やがて汽車が鉄橋を渡り終わってそれ等のすべてが視界から消えさった時になっても、人々の動揺は鎮まらなかった。そして××[鮮人】と主義者との噂がなおさら盛んに話されたのは云うまでもない。

   下
 それから二十分程たった後だった。私から三側後の座席で突然喧嘩が始まった。三十四、五歳のカアキ一服を着た在郷軍人らしい男と、四十前後の眼鏡をかけて麦藁帽子をかぶった商人かとも思われる男とである。その男は地震でのびたらしい不精髭をはやして、白シャツ白ズボンで肩から水筒をかけていた。喧嘩の原因はどっちかが足を踏んだとか踏まないとかと云うのらしい。向き合って腰をおろした二人はしきりと大声で罵り合った。「そらッ。喧嘩だ」というので、物見高い車中の眼は、たちまちその方へ注がれた。しかし誰も仲裁なんかしようともしない。却って弥次ったりケシかけたりした。
 喧嘩は暫時続いていた。すると在郷軍人らしい方が、片手を網棚にかけて、突然座席へ突っ立ち上がった。
「諸君、こいつは××[鮮人]だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」
 こう叫ぶと片手で相手を指差しながら、四角い顎を突出して昂然と車中を見渡したと思うと、いきなり足を揚げて頭を蹴った。この場合、××[鮮人]と云う言葉が車中にどんなショックを与えたかは、私が説くまでもない。車内はたちまち総立ちになった。叩くような怒声と罵声が一面あたりに迸って、血の出るような興奮がみるみる無気味な渦を巻き起こす中で、みんなの身体は怖ろしい勢いで波を打った。
「おら××[鮮人]だねえ。××[鮮人]だねえ」
 押し合いへし合い、折重なって詰め寄った人間の渦の下から」時どき脅え切ったその男の声が聞こえた。然も相手がおろおろすればする程、みんなの疑いを増し昂奮を烈しくするばかりだった。
 やがて次の駅についた時、その男はホームを固めていた消防隊と青年団と在郷軍人団とに引渡された。そして、手と云わず襟と云わず遮二無二掴まれて真逆さまに窓から外へ引き摺り出されたと思うと、何時か物凄い程鉄拳の雨を浴びた。
「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ」
 私は思わず窓から首を出してこう叫んだ。側にいた二三人の人もやはり同じような事を怒鳴った。然しホームの人波はそんなものに耳を貸さない。怒号と叫喚との渦の中にその男を包んだまま、雪崩を打って改札口の方へ動いて行った。そして、何時の間にか鳶口や梶棒がそっちこっちに閃いたと思うと、帽子を奪われ眼鏡を取られたその男の横顔から赤々と血の流れたのを、私は電燈の光ではっきりと見た。
 こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。私には、一箇月程だった後に埼玉県下に於ける虐殺事件が公表された時、あの男も一緒に殺されたとしか思われなかった。そして無防備の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにはいかなかった。ことに、その愚昧と卑劣と無節制とに対して。」
             (『東京朝日新聞』1923(大正12)年11月11・12日]


「 史料237の萩原朔太郎の「近日所感」は、『現代』大正24年2月号の「近作一什」という、詩人、歌人、俳人19人の作を集めた項の欄に載ったものである。私には朔太郎は高村光太郎とならぶ高名の詩人という位の認識しかなく、彼の詩集も「月に吠える」というのがあったなあ、とかすかに覚えている程度で、勿論、中身はろくに読んでもいない。しかし、この「朝鮮人あまた殺され云々」の 近日所感」を眼にした時、私はほとんど雷に打たれたかのようであった。このような詩を雑誌に発表した人がいた、というのが先づ大きな驚きであった。萩原朔太郎という詩人が日本の詩の世界でどんな評価を受けているのか、どんな立派な、または拙い詩を書いているか、後にどんな良いこと、悪いことをした人物なのかは問う所でない、という実に主観的な、衝動的な非理性的極まる想念に頭が満たされたものである。
 この詩こそは、大震時の朝鮮人虐殺と関連した良心的日本知識人の至高の意志表現であろう。この詩を書いたときの朔太郎の思想と感情の純粋さと高さを、他の日本知識人の積極的肯定型、消極的肯定型、大勢順応型の文、言と比較してもらいたい。朔太郎のこの詩の前では、文だけでなく人間そのものが忽ち色槌せてゆくのが判るだろう。この史料集の各中扉裏にこの詩をおいた所以である。」(「琴秉洞氏の解説」より)


  近日所感   萩原朔太郎

 朝鮮人あまた殺され
 その血百里の間に連なれり
 われ怒りて視る、何の惨虐ぞ  」

          (『現代』1924(大正13)年2月号)

   注:惨虐(さんぎゃく)
2010.11.02 Tue l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (1) トラックバック (0) l top
「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」(工藤美代子著)は、2009年12月の刊行(その前(2008年5月から翌年7月までの1年以上)、『SAPIO』に連載されていたことは前に書いた。)だが、いったいなぜ今この時に、このような内容の文章が雑誌に連載され、単行本として出版されるようなことになったのだろうか。私には、これは「ナチスのホロコーストはなかった」「南京虐殺は嘘である」といった本と同種の、歴史を歪め、ねじ曲げるためのデマゴギー本と瓜二つに見える。関東大震災発生の1923年と言えば、今から87年前のこと。震災の体験・記憶をもつ人はほぼ亡くなってしまっていることや、現在の日本社会が極端に右傾化の傾向が強まっていること、特に2002年の朝鮮民主主義人民共和国による日本人拉致事件発覚以後の在日朝鮮人に向ける日本社会の視線の厳しさなどを奇禍として、もうこういう本を出してもいい、大事にはいたらないと、著者、編集者、出版者ともどもそう考えたのだろうか。

それにしても、本書の内容のお粗末さには恐れ入るばかりである。究極のところ、この本は、震災発生当初の「2000人の朝鮮人襲来」「朝鮮人恣に掠奪、暴行」などのデマを満載した新聞記事を鵜呑みにし、それを「事実」と見なし(しかしそれが「事実」であることを示す証拠は本のなかにただの一つも明示されていない。したくてもできなかったのだろうが)、丸写しにした代物である。著者は、日本人(自警団)は暴行・虐殺を恣にする朝鮮人に自衛手段として対抗し、その過程での過剰防衛の結果朝鮮人虐殺もいくらかは発生した、と述べ、この全体を指して「「朝鮮人虐殺」の真実」と主張しているわけである。

工藤氏は、菊池寛(の朝鮮人暴動に関する発言)に触れた芥川龍之介の文章に対して「いったいどういう感覚をしていればこんな読み方ができるのだ?」と言いたくなるような摩訶不思議な解釈をしていたが、この事例ほどあからさまではないが、他の知識人に関しても不審なことをさまざま書いている。自警団の呼び出しに応じてそれに参加した内村鑑三や井伏鱒二の文章に対して、また震災で崩壊する以前の横浜を哀惜した谷崎潤一郎の文章に対しても、「初めに朝鮮人の暴行・略奪ありき」という自分の主張に沿うようにその趣旨をねじ曲げた解釈をしているのだ。

内村鑑三や井伏鱒二の日記・文章を読むと、確かにイヤイヤ自警団に参加しているようには見えない。かといって、朝鮮人の放火や暴行や井戸に毒を入れたなどの流言を信じている様子も見えない。つまり、彼らはこの問題については一切触れていないのだ。この触れていないことに関する批判はありえると思うし、事実、琴秉洞氏は内村鑑三について、「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」のなかで「朝鮮人虐殺問題に、只の一言も触れずに通した事実には驚嘆を禁じ得ない。」と批判している。内村鑑三は、聖書の読み取りをはじめとしたキリスト教理解の深さにおいて日本人クリスチャンよりも朝鮮人クリスチャンをはるかに信頼していることは彼の手紙などで明白である。琴秉洞氏はそのことを知っているからこそ、他でもないこのような悲惨時における内村の沈黙をいっそうつよく批判したのではないだろうか。

琴秉洞氏は、群馬県安中キリスト教会の牧師、柏木義円の主宰する『上毛教会月報』から、震災関連の柏木の文章を抜き、「どうか植村、内村の文と読み比べて戴きたい。軍隊出動の問題にしても、自警団評価の問題にしても、柏木の眼は透徹している。殊に(略)「此れ大虐殺に非ざるか」に至っては、義のためには、理のためには、冷酷、鉄巌の如き権力といえども正面に対して恐れない哲人のような柏木義円を実感させて余りあるものと云える。」と述べている。琴秉洞氏の上の文章に「植村」とあるのは植村正久牧師のことで、この人も震災を語るに際し、朝鮮人虐殺に関して一切触れていないそうである。しかし、そうであるからといって、「朝鮮人の暴行・掠奪があった」と主張する工藤氏が自己の主張に内村や井伏や谷崎が同調しているかのような書き方をしているのは、まさしく詐欺者の手法であり、卑怯この上ないのではないだろうか。

工藤氏は自著において「参考文献」として山田昭次氏の著書「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」を挙げているが、見たところ一向に参考にした様子はないようである。だが山田氏の本には、デマの流布の発生源やその後の経過を克明に物語る貴重な資料が豊富に掲載され、また各事実に対し深い分析・考察がなされていると思うのでこれから見てみたい。まず官憲側の資料から。(下線、太字による強調はすべて引用者による)

「 警視庁編・刊『大正大震火災誌』(25年)には、「流言蛮語が初めて管内に流布されたのは1日午後1時頃」で、富士山が大爆発を起こした、東京湾沿岸に大津波がくる、更に大地震の来襲があるといった自然災害に関するデマがまず流布され、午後三時頃には「社会主義者及び鮮人の放火多し」というデマが流布され、2日午前10時頃には「不達鮮人の来襲あるべし」、「昨日の火災は、多くは不達鮮人の放火または爆弾の投榔によるものなり」といったデマが流布されたと記されている(445~446頁)。
 デマの発生源については「9月1日の震火災起る、これ実に陰謀野心の徒の乗じ得べき好機会なれば、予ねてより鮮人暴動の杞憂を抱ける民衆が、直覚的にその実現を恐れたるも亦謂(まついわれ)なきに非らず」
と、民衆がデマの発生源だと断定した(453頁)。
 神奈川県警察部編・刊『大正大震火災誌』(26年)にはこの点に関しては「この時に当り一部不逞者の暴行掠奪等あるや、これ等の行為は針小棒大に、然かも僚原の火の如く伝わり、好事家これに付和して虚を大にし、人心は益々悪化すると共に極度の不安に陥り、警察当局が如何にこれを安定せしめんと欲するも、一度大なる惨禍に罹り不安に陥りたる人心は容易に緩和すべくもあらず」と書かれている(389頁)。本書は朝鮮人の暴行掠奪があったことにして、これを針小棒大なデマに作り上げたのが民衆で、警察はデマを押さえようとしたのだといっているのである
 私も民衆がデマを伝播させたことは認める。しかしこれら警察編さんの書物は、警察署や警察官がデマを流したことを隠蔽しており、ここに国家の事後責任がはっきり示されている。」(山田昭次著「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」(創史社2003年)

上の警察の資料は、震災後2、3年後にまとめられたものであるが、山田氏によると、地震発生日の9月1日の夕方には早くも警官や警察署は「朝鮮人が暴動を起こした」というデマを流したという。そのことを裏づける史料が同書には以下のように提示されている。


�東京市麻布区本村尋常小学校一年生 西村喜世子「だいじしんのおはなし」
 大じしんのとき、わたくしはいいぐらにいました。(中略)みんなで本村のほうににげてきました。〔中略〕それからゆうがたになったら○○○○○○○〔ふていせんじん〕がせめてくるからとおまわりさんがいいにきました。(東京市学務課編纂『東京市立小学校児童震災記念文集』24年。

�寺田寅彦「震災日記より」9月2日から
 帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが13人避難して来ていた。いずれも何一つ持ち出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○〔朝鮮〕人の放火者が徘徊するから注意しろと言ったそうだ。(琴秉洞、96年、285頁)(管理人注:琴秉洞氏によると、寅彦はこの報を聞いて日記に「「こんな場末の町へまで荒らして歩くためにはいったい何千キロの毒薬、何万キロの爆弾がいるであろうか」と科学者に相応しいきわめて冷静な判断を記しているそうである。)

�23年10月28日付け『報知新聞』夕刊市内版(記事要約)
10月25日に東京の本郷小学校で開かれた本郷区会議員・区内有志・自警団代表者の会合で曙町村田代表は「9月1日夕方曙町交番巡査が自警団に来て『各町で不平鮮人が殺人放火しているから気をつけろ』と二度まで通知に来た」と報告した。

�埼玉県入間郡入間町(現・狭山市)警察から発したデマ
 地方に於ける訛伝の一節として埼玉県入間町〔在郷軍人会〕分会長の口頭報告したるもの左の如し、
 9月1日午後7時頃警察署は警鐘を乱打し、警察官は和服に日本刀を帯び自転車に乗じて町民に左の如く警告せり。
 爆弾兇器を有する鮮人11名当町に襲来し内1名捕縛さる。此者は六連発短銃を携帯す、全町は 燈を滅し戸綿をせよ。(東京市、27年、294頁)

 ���は東京市内で9月1日夕方警察官がデマを流布したことを示す。�は埼玉県入間市(現・狭山市)で同日晩に警察署がデマを流したことを示す。 

 次に2日に警察署または警察官がデマを流したことを示す史料を挙げる。

�東京市麹町区富士見尋常小学校六年生 岩崎之隆 「大正震災の記」
 (9月1日の)夜が明けるが早いか巡査がやってきて、一軒々々に「かねてから日本に不平を抱く不逞○〔鮮〕人が例の二百十日には大暴風雨がありそうなのを知って、それにつけ込んで暴動を起そうとたくらんでいた所へ今度の大地震があったので、この天災に乗じて急に起って市中各所に放火したのだそうです。また横浜に起ったのは最もひどく、人と見れば子供でも老人でも殺して了(しま)い、段々と東京へ押寄せて来るそうだから、昼間でも戸締を厳重にして下さい」と、ふれ歩いたので、皆はもう恐くて恐くて生きた心持ちもなく、近所の人もひとつ所に集って、手に手に竹槍、バット等を持って注意をしていた。(東京市学務課編纂前掲書、琴秉洞、89年、346頁)

�東京市京橋区京橋高等小学校一年生 鈴木喜四郎「思い出」
 噫(ああ)-思い起せば9月1日時計の針が正に正午を報ぜんとする一刹那、地鳴りと共に、やにわに大振動。〔中略〕)〔2日〕日は西に傾いた。今晩は○○○〔不逞鮮〕人の夜襲があると言ううわさがぱっとたつと、巡査が「今晩は○○○〔不逞鮮〕人の夜襲がありますから気を付けて下さい」と叫びながらまわってあるいた。(東京市学務課編纂前掲書、琴秉洞、89年、370~371頁)

�中原村(現・川崎市)青年団員・在郷軍人会中原分会員小林英男の日記9月2日より
 この日、午後、警察より、「京浜方面の鮮人暴動に備うる為出動せよ」との達しあり、在郷軍人・青年団・消防団等、村内血気の男子は各々武器を携え集合し、市之坪境まで進軍す。(川崎市役所、300頁)

��は東京市内で9月2日に警察官がデマを流した事例である。�は警察署が同日、架空の朝鮮人暴動に対処して中原村の在郷軍人会分会や青年団員に武装出動を命じたことを示す。
 以上のように、1日夕方から個々の警察署や警官は朝鮮人が暴動を起こしたと宣伝し、2日ともなれば、在郷軍人会や青年団に武装出動を命じた例もある。ただし、時期から見てこれらは国家の中央からの指令に基づく行動ではなく、何かにつけて朝鮮人に神経を尖らす警察の日常の習性から現れた行動であろう。」(同 上)

さて、治安の中枢部である内務省の動きであるが、山田氏は「内務省警保局長の朝鮮人暴動の認定」について、次のように述べている。

「 治安の中枢部である内務省警保局長が朝鮮人が暴動を起こしたと認定して行動を起こしたのは、9月2日であったと考えられる。その根拠の第一は、船橋海軍無線電信送信所から9月3日午前8時15分に呉鏡守府副官経由で各地方長官宛に打電された内務省警保局長の左記の電文である (次頁参照)。これは東京で朝鮮人が暴動を起こしたと告げ、朝鮮人取締りを命じたものである。
 「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不達の目的を遂行せんとし、現に東京市内 に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし。」(琴秉洞、91年、185)
 電文の欄外には「この電報を伝騎にもたせやりしは2日の午後と記憶す」と注記されている。つまり騎兵が電文を受け取って船橋に向かって東京を出発したのは2日の午後であり、警保局長が朝鮮人暴動を起こしたと認定したのが2日だったことを示す。このことは次の史料とも符合する。次の史料は9月2日、埼玉県内務部長香坂昌康が9月2日の晩に郡役所経由で埼玉県内の町村へ発した指令である。

 「庶発第八号
   大正十二年九月二日
               埼玉県内務部長
 郡町村長宛
    不逞鮮人暴動に関する件
     移牒
 今回の震災に対し、東京に於て不逞鮮人の妄動有之、又その間過激思想を有する徒これに和し、以って彼等の目的を達せんとする趣及聞、漸次その毒手を振わんとするやの惧(おそれ)有之候に付ては、この際町村当局者は、在郷軍人分会・消防隊・青年団等は一致協力して、その警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度。右その筋の来牒により、この段及移牒候也。」 (吉野作造、24年、96頁)
 23年12月15日の衆議院本会議での永井柳太郎の演説によると、埼玉県の地方課長が9月2目に東京から本省つまり内務省との打ち合わせを終えて、午後5時頃帰ってきて香坂内務部長に報告し、香坂はその報告に基づいて上記の移牒を守谷属に県内の郡役所に電話で急報させ、各郡役所はこれを電話や文書で各町村に伝えた。
 したがって、この移牒が言うところの「その筋」とは内務省であり、内務省の指示に基づいて香坂は埼玉県内の郡町村に右の指令を発したのである。しかもそれが9月2日であり、警保局長が船橋に向けて騎兵に電文を持たせたのと同じ日である。東京市とその周辺五郡に戒厳令を布告したのも9月2日である。以上の根拠により、治安の中枢部の内務省警保局が朝鮮人が暴動を起こしたと認定したのは9月2日であると判断する。 」(同 上)

この時から、数日にわたり、工藤氏が朝鮮人暴動の証拠として挙げるデマ記事が新聞各紙によって一斉に報道されることになった。山田氏の同書によると、『福岡日日新聞』は3日、「横浜監獄を脱出せる暴行○○[鮮人]の一隊 百鬼夜行の態にて西進 静岡連隊の出動」「○○○○[不逞鮮人]二千の群 発電所襲撃の暴挙」「歩兵隊と戦闘開始 更に増援隊派遣」といった記事が掲載されたそうである。工藤氏の挙げる「事実」と何とよく似ていることだろう。

政府(山本権兵衛内閣)が政策転換を模索し始めたのは、前回述べたことだが、9月5日の「内閣告諭第2号」の「不穏な朝鮮人は軍隊、警察へ引き渡せ、云々」からだったが、その後10月20日には、司法省は、次のような発表をした。

「 今その筋の調査した所によれば、一般鮮人は概して純良であると認められるが、一部不逞の輩があって幾多の犯罪を敢行し、その事実宣伝せらるるに至った結果、変災に因って人心不安の折から恐怖と興奮の極、往々にして無辜の鮮人、または内地人を不逞鮮人と誤って自衛の意味を以て危害を加えた事犯を生じた…」(『国民新聞』23・10・21)

この司法省の言明について、山田氏は下記のように批判している。

「 つまり「不逞鮮人」の「犯行」があったのだから、朝鮮人が虐殺されても仕方がないという、弁解の口実として「不逞鮮人」の「犯行」が発表されたのである。」

山田氏は、司法省発表による朝鮮人の「犯罪」の詳細な表を本書に載せているので、詳細を知りたい方はぜひこの本(p94)を直接ご覧になっていただきたい。放火1件、脅迫1件、強姦殺人1件・4名、などの一見おどろおどろしい罪名が並んでいるが、肝心の中身はといえば、不思議なことにほとんどの例は加害者も被害者も氏名不詳、氏名の判明している人物は現在居所不明とされている。これに対し、東洋経済新報社の石橋湛山は下記のように述べている。

「官憲の発表に依れば、殆ど皆風説に等しく、多分は氏名不詳、たまたまその明白に氏名を掲げあるものも、現にその者を捕えたるは少ない。斯くてはその犯罪者が、果たして鮮人であったか、内地人であったかも、わからぬわけである。」(『東洋経済新報』23.10.27。)

また弁護士の布施辰治も『日本弁護士協会録事』(24・9)に掲載した「鮮人騒ぎの調査」で

「当局の発表した凶暴鮮人の暴行脅迫、放火強姦と云うのは、被害者の名前も判らなければ、被告の名前も判らない流言蜚語その儘の訛伝(かでん)が、死人に口なき被害者に鞭打つものではあるまいかを疑わなければ為らない」

と厳しく批判したが、山田氏によると、多くの新聞は「子供だましのような司法省発表の口車に乗せられてしまった」そうである。山崎今朝弥弁護士は『地震、憲兵、火事、巡査』でいわく、「知識階級とは無意識者の謂(いい)か。新聞社の見識のないことと意気地のないこと。」とのことだが、私も当時の新聞がこれほどまでに情けない、権力追従の露わな姿を晒しているとは思っていなかった。

なお、姜徳相氏は自著「関東大震災」(中公新書1975年)において、この件について「氏名の判明している金孫順、姜金山など、朝鮮人の名前としては奇妙であり任意に創作した疑いすら見られるが、その彼らも亀戸署に拘禁され、同署が類焼したため2日に解放され、所在不明とある。(略)朝鮮人の総員検束が始まったばかりのときに解放とはどういうことか。命があれば、必ずどこかの収容所に検束されていなければならないのに行方不明とはどういうことか。両氏は逆に亀戸署で虐殺された被害者の可能性が強いのである。」(p37)と述べている。
2010.11.01 Mon l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (4) トラックバック (0) l top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。