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菅首相は12月10日、拉致被害者家族会との懇談会で「万が一の時に北(朝鮮)におられる拉致被害者をいかに救出できるか。準備というか、心構えというか、いろいろと考えておかなければいけない」とか「救出に直接、自衛隊が出ていって、向こうの国の中を通って、行動できるか、という所までいくと、まだそうしたルールは決まっていないのが現状」などと述べ、「韓国との間で検討を進める必要性を指摘した」(asahi.com.2010年12月10日23時17分)そうだが、一体何を言いだすやら、何と愚かな政治指導者だろう。

首相は翌日の11日、この発言について、記者団に「一般の邦人が韓国の中、例えばソウルとかに住んでいる。有事のときに拉致被害者を含めて一般の邦人の救出に自衛隊の輸送機などが受け入れてもらえるか、考えなければいけない」と語り、「韓国の邦人救出を念頭に置いた発言」(毎日新聞)だったと釈明したそうだが、これでは何の釈明にも軌道修正にもなっていない。

米・韓・日が寄り集まって北朝鮮に誇示することを目的の一つとして軍事演習をつづけていることは、万人の目に明らかであり、こういう行動を挑発といわずして何というのだろう。万が一、日本が米韓とともに北朝鮮攻撃に加わるようなことがあったら、それは日本国憲法の決定的な否定であり、犯罪であるとともに、朝鮮への再び、三度の侵略に他ならないだろう。そのような事態を招いたら、世界中の心ある人々から、特にアジア諸国の人々から真っ先に指弾を浴びるのは、アメリカや韓国よりもまず日本ではないかと思う。19世紀の後半から1945年まで日本が台湾・朝鮮・中国をはじめとしたアジア諸国でなしてきた犯罪の数々は、当然のことだと思うが、被害国の人々には今もまったく忘れられていないようである。北朝鮮に住む大多数の人々にとっても同様なのではないだろうか。

先日、ブログ「河信基の深読み」12月11日付の記事を拝見していたところ、コメント欄に二人の人の次の意見が載っていた。興味深いコメントなので2件とも引用させていただく。

「ある評論家(元自衛隊)が言ってました。/韓国の軍関係者との会話で、「もし半島で有事が起きた時は、自衛隊は韓国軍に協力して戦う」と言ったところ、その韓国の軍関係者は「もし自衛隊が一歩でも韓半島に立ち入った場合は、南北は即座に協力し、一緒に日本と戦う」と言ったそうです。/それは、その韓国の軍関係者一人の意見というより韓国国民の民意だと思いますし、北の民意も同じだと思います。」

「昔、ある韓国の大統領の前で故金日成主席の“悪口”を散々言った日本の首相(だったと思います)がいたそうです。ところがその韓国の大統領、『立場は違えど金日成は韓(朝鮮)民族の英雄、日本人の貴方が言うのは我慢ならない』という趣旨の発言をしたそうです。」

私も1900年代の後半、ある韓国人が、日本は北朝鮮を攻撃すれば韓国は自分たちを支持するだろうと思っているのかも知れないが、とんでもない。日帝支配の40年間の苦難・悲劇の数々、韓国人が日本の味方をすることは決してない。」と述べるのを聞いたことがある。また、その本の題名も著者名も今は忘れてしまったのだが(どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください)、在日朝鮮人の意識と生活を追ったノンフィクションの本に、金日成が死去した直後にその本の著者がボードヴィリアンの故マルセ太郎から聞いた話として記されていた言葉が忘れられない。マルセ太郎は、本当はもっと早く金日成が死んでいろいろなことが自由になればいいと思っていたんだよね。でもそういうことを日本人にだけは言われたくない。…自分がもし、言葉を奪われ、名前を奪われ、土地を奪われ、強制労働に連行されような目にあったとしたら、その時どう思うか、想像してみればいい。」という趣旨のことを述べていた。至極もっともなことだと思う。私がそのような立場にたったら、マルセ太郎氏と同じように感じ、考えるだろう。(下線による強調はすべて引用者による)

戦前・戦中のことだけではない。戦後における日本の行動・姿勢についても疑問視する人はアジアだけではなく、ヨーロッパなど世界中に大勢いるようである。たとえば、前にも書いたことだが、文芸評論家の加藤周一の発言である。加藤周一は、大学卒業後の人生の半分を欧米やアジア諸国の大学に招かれ、日本以外のあちこちで暮らしてきたそうだが、次のような発言をしている。

「それ(引用者注:ドイツ)と比較して日本側はまず第一に賠償を少ししか払っていない。それから個人賠償は今までほとんど全くしてこなかった。しかも政府の態度がちがいます。ブラントにしてもそうですが、ドイツの首相乃至大統領は明瞭な謝罪をしました。それを日本ではごまかす。「残念なことが過去にありました」「心が痛みます」。それは謝罪じゃない。自分の心が痛むか痛まないかが問題ではないのです。被害を受けた方からいえば、相手をはっきりさせて、朝鮮人に対してあるいは中国人に対して謝らなければ意味がない。中国と日本との間に戦争があったことに関して、こっちの心が痛もうと痛むまいと、そんなことに中国側では興味がないでしょう。謝罪というのは相手に対する行為であり、心が痛むのは当方の気分の問題です。それは全然二つのことですね。ヨーロッパ人は、そういうことを強く感じていて、日本の評判はあまりよくない。「どうもおかしい。戦争の時代からずっと続いているんじゃないか」という感じは、ヨーロッパ人のなかにもかなり深くある。もう少し詳しくいうと、ヨーロッパにおける一般大衆は、中国や韓国に対するようには日本に関心がない。しかし、国際的な問題に関心のあるヨーロッパ人の間では、日本の評判があまりよくないということです。国際的には一言でいうと「孤立した」状態になっています。」

「侵略戦争であるかないかを問題にしているのは、日本だけです。必ずしも被害国じゃなくても、どっちかなどということを考えている国はほかにはないでしょう。もちろん韓国や中国やマレーシアでそんなことは問題にならない。日本人に殺されたわけじゃないけど、パリでも「あれは侵略戦争であったかなかったか」ということは誰も問題にしていないでしょう。そういう問題を考えること自体が、鎖国心理のあらわれで、日本の特殊事情です。天下の常識に従えば、侵略戦争だ。」(『歴史としての20世紀』加藤周一著作集24)

加藤周一はまた下記の発言もしている。

「 東南アジアは根本的には韓国、中国と同じです。インドネシアでも、タイでも、マレーシアでも同じだと思いますが、ただちがいもあります。日本の経済的な力は、中国を支配してはいないけれど、東南アジアではかなり強い。戦争の過去から来る反感と現在の日本との経済的結びつきから受ける利益とが競合している。だから、東南アジアの国々の企業の社長や政府の役人に会えば、反日的なことをいう人は少いでしょう。しかしタイでさえ、大学に行って学生と話せば、日本批判は激しい。おそらくマレーシアやインドネシアではさらに猛烈でしょう。
 かつてドイツのヘルムート・シュミット元首相が日本へ来たときに、「日本には友人がいない」といいました。ドイツがヨーロッパに統合されるということは友達がいるということです。日本はアジアに全然入り込めていない。そのためには政府間交渉だけではなくて、その国の人民との関係を構築しなければならない。それには過去の話を忘れることができません。
 中国でも対日批判は厳しい。政府間交渉とかビジネスの交渉の話は知らないけれども、大学のなかの学生乃至教師と接触すると、日本批判の鋭いこと、深いことがわかります。親日的な日本学者でさえもそうです。もちろん日本人がみんな悪いといっているわけではない。しかし侵略戟争の過去にどう対応しているか、南京虐殺に関してどう考えているのかということで、日本人を二つに分けてつき合っているのではないかと思うほどです。私の印象では、日本のことを研究し、日本学の専門家であるような学者で、かなり親日的な人でも、南京虐殺に日本人がどう反応するかで扱いがちがってくる。そのくらい激しいものです。おそらく大学の教師および学生でそういうことを考えていない人はいないのではないかというぐらいの印象をもちました
 それではなぜ「失言」がくり返されるのか。これは政府だけの問題ではなく、社会の問題です。報道でも、メディアでも、芝居でも、映画でも、あるいは雑誌などの言論機関でも、文学でも、意識してその問題に対処するということが、この50年間非常に薄かった。この点ではドイツの方がはるかに徹底しています。」(『日本はどこへ行くのか』岩波書店1996年)

加藤周一はその文章を読むかぎり、事実を脚色して大袈裟な表現をする人ではない。むしろ何事においても抑制的に述べる傾向をもった人のように思う。それでも世界各地で生活し、日本に対する諸外国の人々の評価を知ると、上記のような厳しい日本批判を紹介せざるをえないのだと思う。日高六郎も海外生活の長かった人であるが、加藤周一の共通点の多い発言をしている。

「 1945年、敗戦の11月にアメリカから連合国の賠償使節団としてポーレー(エドウィン・W・ポーレー)という人が日本に来ました。ポーレーはその報告の中で、敗戦日本は日本が侵略したアジアの諸国、朝鮮も含めたアジアの諸国の民衆の生活水準よりも高くなることは許されないというふうに言いました。道義的にこのことに対して反論できるでしょうか。
 その後、冷戦状態になって連合国の方針が変わります。そして朝鮮戦争が始まり、日本の工業はたちまちにして戦前の水準を回復する。それ以後のことはもう申し上げるまでもない。
冷戦の痛ましい犠牲者、分断の悲劇のいけにえとして徐勝さん、徐俊植さんがおり、その他の大勢の方々がおられた。冷戦のおかげで日本人は現在、この経済的繁栄を獲得している。これが歴史です。しかし私はこの歴史の軌道は狂っていると思う。どこかで日本人はそのつけを払わなければならない時が来ると思う。」(『個人的な感想』 民衆が真の勝利者 編集=徐君兄弟を救う会(影書房1990年))

使節団のポーレーという人物が、「敗戦日本は日本が侵略したアジアの諸国、朝鮮も含めたアジアの諸国の民衆の生活水準よりも高くなることは許されない」とまで述べたところをみると、史実と照らし合わせてみても想像できることだが、日本の侵略の規模、日本軍が諸国でまき散らした惨禍の内容がどのようなものだったかを物語っているように思う。日高六郎がいう「日本人はそのつけを払わなければならない時が来ると思う」という発言は、日本があちこちに自衛隊を派遣すればするほど、支払わなければならないつけをさらに大きくするばかりだと思う。「奢れる者は久しからず」はつとに歴史の証明するところであり、21世紀はアメリカの没落の世紀になるだろうとは多くの人が心中深く予感していることである。日本は今のように米国に追従して米軍とともに行動していたら、滅亡の道をひた走るしかないのではないだろうか。民主党政権になって以後、政権首脳から一度として真に見識ある発言を聞いたことがない。今年3月に発生した韓国海軍の哨戒艦沈没問題にしても、当事者の北朝鮮が犯行を否定し、ロシアや中国も北朝鮮の関与を疑問視しているというのに、日本政府は(政府に追随するマスコミも)その主張・見解を徹頭徹尾無視・黙殺し、韓国側の言い分を100%鵜呑みにした言動をしていたが、あの姿は誰の目にも不自然きわまりないものであったと思う。
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2010.12.14 Tue l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
中原中也が死去したのは、1937年(昭和12年)10月、死因は「結核性脳膜炎」。生れたのは1907年(明治40年)だから、ちょうど30歳で亡くなったことになる。1909年生れの大岡昇平より2つ年長、1902年生れの小林秀雄より5つ年少であった。生前に刊行した詩集は1934年(昭和9年)の「山羊の歌」一冊。死去の少し前、清書をおえて小林秀雄に託した原稿が、「在りし日の歌」として刊行されたのは、死の翌年のことであった。

生前唯一の詩集である「山羊の歌」について、大岡昇平は、次のように書いている。

「中原は羊の年の生れであった。(略)同じ羊でも戦闘的な「山羊」と自分を想像することを好んだ。「山羊の歌」題名の由来はそこにあるのだが、高森文夫の証言によれば、「修羅街輓歌」が最初に選んだ題だったという。
 それにしても私は憎む、
 対外意識にだけ生きる人々を。
 ……………
 いま玆に傷つきはてて、
 ――この寒い明け方の鶏鳴よ!
という怒りと歎きが、「山羊の歌」刊行当時、中原の切実な感情であった。「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ」(いのちの声)という宣言で、詩集は閉じられる。」(角川書店『中原中也全集 1』解説)

30歳での死はなんといっても早すぎるが、大岡昇平は、中原中也が死んだ1937年以後、日本が辿った現実をみると、中原中也の神経があの苛烈な事態に堪えられたとはとうてい考えられない、よい時に死んだといえるだろう、とどこかに書いていた。詩集「在りし日の歌」は、『蛙聲』という詩で終わっているが、不気味な世界、不吉な先行きを感じさせずにおかない詩であるように思う。

 天は地を蓋(おほ)ひ、
 そして、地には偶々(たまたま)池がある。
 その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
 ――あれは、何を鳴いてるのであらう?

 その聲は、空より来り、
 空へと去るのであらう?
 天は地を蓋ひ、
 そして蛙聲は水面に走る。

 よし此の地方(くに)が濕潤に過ぎるとしても、
 疲れたる我等が心のためには、
 柱は猶(なほ)、餘りに渇いたものと感(おも)はれ、

 頭は重く、肩は凝るのだ。
 さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
 その聲は水面に走って暗雲に迫る。 」

「在りし日の歌」の「後記」には、中原中也の手で次のように記されている。

「詩を作りさへすればそれで詩生活といふことが出来れば、私の詩生活も既に23年を経た。もし詩を以て本職とする覺悟をした日からを詩生活と稱すべきなら、15年間の詩生活である。/長いといへば長い、短いといへば短いその年月の間に、私の感じたこと考へたことは尠(すくな)くない。今その概略を述べてみようかと、一寸思つてみるだけでもゾツとする程だ。私は何にも、だから語らうとは思はない。たゞ私は、私の個性が詩に最も適することを、確實に確めた日から詩を本職としたのであつたことだけを、ともかくも云つておきたい。 」(1937.9.23)

このような文を読んでいると、中也の『わが半生』という詩の

 私は随分苦労して来た。
 ……………
 とにかく私は苦労して来た。
 苦労して来たことであった! 」

という一節がひとりでに浮かんでくる。

「中原来て晩まで。中原に居られるのも嫌、帰られるのも嫌、変な気持です。中原帰つたら当分変な気持、中原にすまぬと云ふ気持ちです。」

上記の文は竹田鎌二郎という中原中也の友人の日記にある言葉だそうだが、大岡昇平は、「これはわれわれの、少なくとも私の気持にはぴったりです。」と述べている。

大岡昇平は、『スタンダールと私』(1966年)という表題の文章のなかに、

「私の作品にスタンダールの本質的な影響というべきものはない、と自分でいってしまうのは少し辛いが、恐るべき現実から、目をそらしてはならない、というのも、スタンダールの教えなら、それに従うほかはない。」

と書きしるしている。大岡昇平は『わが文学生活』(1976年)においてインタビュアーに「文体の上でとくに影響をうけた作家というと、誰でしょうか。(略) というのも、たいへん特徴ある文体をもっていらっしゃるように思うからです。決然とした、しかも明晰な文章ですが、…」と訊かれて、

「スタンダールです。なんでもスタンダールより師匠はいないのですよ。」

ときっぱり答えている。だから、「私の作品にスタンダールの本質的な影響というべきものはない」と述べているのを読んで、私は最初かなり驚いたのだが、それでも自分の作品についてのこの判断は案外当をえているのではないだろうか。

大岡昇平は死の直前までスタンダールについて書いているが、その文章の出だしのところで、「愛するものについてうまく語れない」と述べている。その言葉はスタンダール、大岡昇平、双方の愛読者である私などにはとてもよく理解できるように思った。大岡昇平はスタンダールについて「わが文豪」「わが大作家」「わがスタンダール」という言い方をよくしていて、そういう言い方一つにしてもスタンダールに対する愛着と敬意の混ざった感情がいつもよく伝わってきたものであった。学んだことは数知れずあったのだろうが、そして読者にもそのことはよく理解できるようにも思うのだが、それでも本質的には二人の作家としての個性は異なるように感じる。むしろ、小説家と詩人との違いは厳然とあるにしろ、中原中也のほうがスタンダールと共通性があるように感じるのである。選択する言葉がどちらかというと単純な語句のせいなのか、それらの語句による表現がいつも非常に深いある一点に達しているという実感のせいなのか、読みながらうける印象に共通点があるような気がする。もしかすると、大岡昇平自身、そのことを感じてはいなかっただろうか。

「「語り尽くせない、これ以上の讃辞はないだろう」とヴァレリーはスタンダールについていったが、同じことが中原についてもいえるのではないでしょうか。」(『思い出すことなど』筑摩版 大岡昇平全集 18)

と大岡昇平は書いている。
2010.12.06 Mon l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回書いた文章は、『大岡昇平・埴谷雄高 二つの同時代史』から-という題とあまり関係ない内容になってしまった。今回もそんな予感がしないでもないのだが、まずは『二つの同時代史』に載っている中原中也に関する話題から。

「 埴谷 中原のことはいまは秋山駿をはじめとしてみんなが書いて、中原中也は大岡昇平がいろいろ書いたからこんなに有名になったというのが定説になってるけど、『俘虜記』の中で君はすでに中原のことを書いてるよ。君はドイツ人に、日本の詩人の代表とし中原の詩を翻訳してやっているんだ。」
 大岡 たまたま入ってきたドイツ人の捕虜に独訳してやった。
 埴谷 『俘虜記』に中原の詩が出てくるんだから、ずっと戦前から君は中原のことをほめつづけているんだ。
 大岡 おれに独訳できたんだから、これはまた不思議だねぇ(笑)。とにかく高校は乙文だし、捕虜は暇だから、ドイツ語を教わりながら共訳したんだ。 」

大岡昇平が、レイテの捕虜収容所でドイツ人捕虜が教えるシラーのバラードに対抗して、中原中也の一つの詩を独訳し、「現代日本の最大の詩人の作品である」といって見せた作品は、『俘虜記』によると、やはりミンドロ駐屯中に立哨の時口ずさんだ『夕照』だったそうである。当時の大岡昇平には、『夕照』中の勇ましい箇所よりも「小兒に踏まれし 貝の肉」というような柔和な感じの詩句が心に訴えてきたとのことである。ただ、埴谷雄高は上の対話で「中原中也は大岡昇平がいろいろ書いたからこんなに有名になったというのが定説になってる」と述べていて、大岡昇平はここでこそその言葉を否定していないが、中原中也について書いた文章において何度かその「定説」なるものを明確に否定している。たとえば、「中原中也の読まれかた」(『波』1975年)という表題の文章で、そのような評価は「私にとってありがたい言葉だが、事実に反している。このことには旧臘17日の授賞式(引用者注:野間賞)の挨拶で言及したが、念のためここに書きとめておきたい」と述べて、「詩の読者は作品とじかに向かい合う。(略)詩壇においても、中原の評価は私が書いた「ため」ではなく、「にもかかわらず」高まってきているのである。」といろんな例を挙げて説明している。

詩でも小説でも、文学作品にそのものとしての価値がなければ、誰がどう誉めようと、その場かぎりのことで終結してしまうだろう。大岡昇平が自分の功績を否定するのは当然の態度・姿勢だと思う。大岡昇平は1943年(昭和18年)ふと開いて見た亡き友(こういう言い方をよく大岡昇平はしている)中原中也の詩が思いがけぬ甦りをもたらしたと書いているが、実は、その当時、高校生や大学生の一部では『湖上』(ポッカリ月が出ましたら、 /舟を浮べて出掛けませう。 /波はヒタヒタ打つでせう、 /風も少しはあるでせう。 …)や『春日狂想』(3/ ではみなさん、/ 喜び過ぎず悲しみ過ぎず、/ テムポ正しく、握手をしませう。/ つまり、我等に欠けてるものは、/ 実直なんぞと、心得まして。/ ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――/ テムポ正しく、握手をしませう。)などの詩が熱心に愛誦されていたそうである(大岡昇平自身は戦後になるまでそのような事情はまったく知らなかったという)。萩原朔太郎についてもその死後全集発刊に対する三好達治の献身的な努力があったからこそ、朔太郎はいつまでも読まれるのだ、と評している文章を読んだことがあるが、こちらの方も決してそんなことはないだろうと思う。大岡昇平、三好達治は中原中也、朔太郎の作品の秀逸さと愛着とに惹かされ、そうすることに喜びや自発的な責任を感じるからこそ、詩人の全集刊行に協力を惜しまず、詩の読解や解説を書いたりして広く紹介したのだと思うし、そのことには何の疑問もなく本質的には無償の行為であったに違いないと思う。

ところが特に大岡昇平に対しては、彼の没後、「大岡昇平が死んだので、これでようやく中也の詩を先入観なく自由に読むことができる環境ができた」というような趣旨の発言がいくつもあった。大岡昇平の死後数年経ったころ、中原中也の有名なお釜帽を頭に載せたピエロ風の写真を撮った店の主人がつい何年か前まで生存していたことが分かった。なぜ大岡さんはそのことを調べようとしなかったのだろう、とまるで写真館の調査をしなかったことが大岡昇平の失態であるかのように書いている文章を見かけたこともある。この書き手は私の知らない人だったが、今さらそんなことを言うのなら、写真館の主が生存しているうちに、自分で調べてみればよかったろう、調べた上で自分で発表するなり、大岡昇平に教えてあげるなりしたらよかったではないか、大岡昇平がいなくなった今になってそういう不平不満を言うのは筋違いで、卑怯な態度ではないかと思ったものだ。

さて、大岡昇平が中原中也と知り合ったのは、昭和3年(1928年)。大岡昇平は翌年,京都大学に入るのだが、東京の大学に入れないこともなかったそうだが、わざわざ京都に行った理由の一つには、中原中也との関係がギクシャクしだしたせいもあったそうである。

 埴谷 京都は何年に行ったんだっけ。
 大岡 昭和4年。そろそろ中原と仲が悪くなってくるころだよ。
 埴谷 要するにうるさくなってきたんだな。
 大岡 うるさいより、堪えられないってこと。とにかく朝昼晩くるんだからね(笑)。つまり波状訪問。二日泊って帰って行って、やっと今日は一人になれたと思って、夜、風呂に入って机にむかって本を広げると、窓の下から「大岡ぁー」って中原の声がする(笑)、ぞっとしたね。また泊まりにきたんだよ。」(『二つの同時代史』)

大岡昇平は自分のあだ名は「ひがみ屋」とか「さびしがり」であり、若い時からどんな交友関係でも相手に訪問されるより自分が訪問する方がいつもはるかに多かった。逆だったのは、唯一、中原中也だけであったとどこかに書いていた。二人が本当に親密で関係がしっくりいっていたのは知り合ってから一年間だけだったようだが、大岡昇平は周知のように、戦後倦まずたゆまず中原中也について書き、中也の全集の刊行に献身した。新たな伝記や作品や書簡なども発見され、全集は三度も出されたが、1979年、その三度目の全集刊行後、経過を振り返って大岡昇平はこんなことを書いている。

「思郎さん(引用者注:中也の弟)の近著『中原中也ノート』にも、私の『中原中也』に対する不満が表明されている。こうして私は中原の二人の弟(拾郎さんとは年が大分違うので、お話をする機会がない)から不興をこうむった形になったのであるが、中也自身からは申すまでもない。遺稿中に、「玩具の賦」(昭和九年)があるだけではない。考証を進めているうちに、彼がその短縮稿を「文学界」へ発表しようとしたことが明らかになってきた。こんど新発見の書簡十通にも、私の悪口が二度出てくる。まるで私は中原から悪くいわれていたことを掘り出すために、作業をしているようである…(略)」(『四谷花園アパート』)

中原中也の日記には、「今日は非常にお天気がよい」と尋常に記された後、「大岡といふ奴が癪に障る」(昭和10年)という悪口もあるが、中原中也の友人(大岡昇平も青山二郎の部屋(四谷花園アパートの一室。中原中也も昭和8年(1933年)に結婚した後、このアパートに住んでいた)で何度も会ったことがあるというが、青山二郎の中学時代からの友人だった人物。)が亡くなった(1972年)数年後、改築の際、天井裏から家族の誰も知らなかった日記や書簡がごっそり出てきて、その中には大岡昇平が上の文章で述べているように、中原中也からの十通の書簡も含まれてあり、そのうちの一通には

「大岡一族が集つてゐると裏長屋みたいだといふのは実際だよ。シャアシャアしながらケチなんだ。あんな暗い感じのものもない。いつそまだケチの方がいい。ケチなのにシャアシャアでは、当人シャアシャアでケチの方が帳消しになるつもりだから煮ても焼いても食へないものになるだけだ。」

と記されていたそうで、「まるで私は中原から悪くいわれていたことを掘り出すために、作業をしているようである」という大岡昇平の嘆きの感想は、読者の目にもそのとおりに映り、私は同情してしまうのだが、大岡昇平はつづけて次のように書いている。

「書簡の中にある「大岡一族」については、少し弁明しておかなければならない。(略)「一族」は、当時私が同棲していた女とその姉である(略)」「私の同棲した女については、青山の『中原中也の思ひ出』にも出てくる。彼女は「エスパニョール」の「女給」だった。」「私がシャアシャアしているのは、現在でもそうだが、いまわれわれが金を使って生活している以上、ケチでない人間はいないはずである。他人をケチだとは、自分がケチでなければわからないことだろう。女たちは信州松本の出で、むしろ朴訥で、気よしだった。だから私と二年も同棲したりしたので、少なくとも、彼女と私は、中原にケチといわれる筋合いはない。」と怒って(?)反論しているが、中原中也に関する知友による多くの証言から推しても、実際大岡昇平のいうとおりだったのではないかと思われる。

しかし、遠い昔のそんな出来事はもはやどうということのないことであり、私が感銘を受けるのは、大岡昇平がこういう手紙を書いた中也に対して一時的には癪にさわり、腹を立てたりしたとしても、その詩がある以上、中也に対する尊敬や懐かしさには何らの変化もあるはずはなかっただろうということに対してである。

大岡昇平には、後輩にあたる何人もの作家の質問(インタビュー)に応えていろいろなことを話した「わが文学生活」(中央公庫1971年)という本があるが、その最後の部分で「しかし観念の世界でも、現実の世界でも、ことが絶えないからね。とにかく知りたいことが年がら年じゅうあとからあとから飛びこんでくるからおさまる暇はないですよ(笑)。」と述べている。1976年時点では、「知りたいことが…あとからあとから飛びこんでくる」とは言えただろうが、現在だったらどうだろうか。さすがに、現状を見たら、またこの中に置かれたら、もうそうは言わなかったのではないかという気がする。ただ、結びの言葉である「しかし、文学に対してだけは忠実であるということはいえるかもしれないな。忠誠ですよ(笑)。」という発言に対しては心から合点することができる。中原中也(富永太郎に対してもそうだが…)に対する姿勢にそのことがよく出ているように感じる。



最後に、中原中也の詩『湖上』と『春日狂想』を「中原中也全集 1」(角川書店)の「在りし日の歌」より引用掲載しておきたい。(偶然だが、私もこの二つの詩は好きである。)


 湖 上

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
   
沖に出たらば暗いでせう、
(かい)から滴垂(したゝ)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。
   
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでせう。
   
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。
   
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。


 春日狂想

   1 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
  
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
 
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
 
奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2
 
奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前(せん)より、人には丁寧。
 
テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりぢぢい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
そこで地面や草木を見直す。

(こけ)はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。
 
    ((まことに人生、一瞬の夢、
     ゴム風船の、美しさかな。))

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外(そと)はまことに賑(にぎや)かなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国(あつち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、 
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう。
2010.12.05 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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