QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
前回書いた文章は、『大岡昇平・埴谷雄高 二つの同時代史』から-という題とあまり関係ない内容になってしまった。今回もそんな予感がしないでもないのだが、まずは『二つの同時代史』に載っている中原中也に関する話題から。

「 埴谷 中原のことはいまは秋山駿をはじめとしてみんなが書いて、中原中也は大岡昇平がいろいろ書いたからこんなに有名になったというのが定説になってるけど、『俘虜記』の中で君はすでに中原のことを書いてるよ。君はドイツ人に、日本の詩人の代表とし中原の詩を翻訳してやっているんだ。」
 大岡 たまたま入ってきたドイツ人の捕虜に独訳してやった。
 埴谷 『俘虜記』に中原の詩が出てくるんだから、ずっと戦前から君は中原のことをほめつづけているんだ。
 大岡 おれに独訳できたんだから、これはまた不思議だねぇ(笑)。とにかく高校は乙文だし、捕虜は暇だから、ドイツ語を教わりながら共訳したんだ。 」

大岡昇平が、レイテの捕虜収容所でドイツ人捕虜が教えるシラーのバラードに対抗して、中原中也の一つの詩を独訳し、「現代日本の最大の詩人の作品である」といって見せた作品は、『俘虜記』によると、やはりミンドロ駐屯中に立哨の時口ずさんだ『夕照』だったそうである。当時の大岡昇平には、『夕照』中の勇ましい箇所よりも「小兒に踏まれし 貝の肉」というような柔和な感じの詩句が心に訴えてきたとのことである。ただ、埴谷雄高は上の対話で「中原中也は大岡昇平がいろいろ書いたからこんなに有名になったというのが定説になってる」と述べていて、大岡昇平はここでこそその言葉を否定していないが、中原中也について書いた文章において何度かその「定説」なるものを明確に否定している。たとえば、「中原中也の読まれかた」(『波』1975年)という表題の文章で、そのような評価は「私にとってありがたい言葉だが、事実に反している。このことには旧臘17日の授賞式(引用者注:野間賞)の挨拶で言及したが、念のためここに書きとめておきたい」と述べて、「詩の読者は作品とじかに向かい合う。(略)詩壇においても、中原の評価は私が書いた「ため」ではなく、「にもかかわらず」高まってきているのである。」といろんな例を挙げて説明している。

詩でも小説でも、文学作品にそのものとしての価値がなければ、誰がどう誉めようと、その場かぎりのことで終結してしまうだろう。大岡昇平が自分の功績を否定するのは当然の態度・姿勢だと思う。大岡昇平は1943年(昭和18年)ふと開いて見た亡き友(こういう言い方をよく大岡昇平はしている)中原中也の詩が思いがけぬ甦りをもたらしたと書いているが、実は、その当時、高校生や大学生の一部では『湖上』(ポッカリ月が出ましたら、 /舟を浮べて出掛けませう。 /波はヒタヒタ打つでせう、 /風も少しはあるでせう。 …)や『春日狂想』(3/ ではみなさん、/ 喜び過ぎず悲しみ過ぎず、/ テムポ正しく、握手をしませう。/ つまり、我等に欠けてるものは、/ 実直なんぞと、心得まして。/ ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――/ テムポ正しく、握手をしませう。)などの詩が熱心に愛誦されていたそうである(大岡昇平自身は戦後になるまでそのような事情はまったく知らなかったという)。萩原朔太郎についてもその死後全集発刊に対する三好達治の献身的な努力があったからこそ、朔太郎はいつまでも読まれるのだ、と評している文章を読んだことがあるが、こちらの方も決してそんなことはないだろうと思う。大岡昇平、三好達治は中原中也、朔太郎の作品の秀逸さと愛着とに惹かされ、そうすることに喜びや自発的な責任を感じるからこそ、詩人の全集刊行に協力を惜しまず、詩の読解や解説を書いたりして広く紹介したのだと思うし、そのことには何の疑問もなく本質的には無償の行為であったに違いないと思う。

ところが特に大岡昇平に対しては、彼の没後、「大岡昇平が死んだので、これでようやく中也の詩を先入観なく自由に読むことができる環境ができた」というような趣旨の発言がいくつもあった。大岡昇平の死後数年経ったころ、中原中也の有名なお釜帽を頭に載せたピエロ風の写真を撮った店の主人がつい何年か前まで生存していたことが分かった。なぜ大岡さんはそのことを調べようとしなかったのだろう、とまるで写真館の調査をしなかったことが大岡昇平の失態であるかのように書いている文章を見かけたこともある。この書き手は私の知らない人だったが、今さらそんなことを言うのなら、写真館の主が生存しているうちに、自分で調べてみればよかったろう、調べた上で自分で発表するなり、大岡昇平に教えてあげるなりしたらよかったではないか、大岡昇平がいなくなった今になってそういう不平不満を言うのは筋違いで、卑怯な態度ではないかと思ったものだ。

さて、大岡昇平が中原中也と知り合ったのは、昭和3年(1928年)。大岡昇平は翌年,京都大学に入るのだが、東京の大学に入れないこともなかったそうだが、わざわざ京都に行った理由の一つには、中原中也との関係がギクシャクしだしたせいもあったそうである。

 埴谷 京都は何年に行ったんだっけ。
 大岡 昭和4年。そろそろ中原と仲が悪くなってくるころだよ。
 埴谷 要するにうるさくなってきたんだな。
 大岡 うるさいより、堪えられないってこと。とにかく朝昼晩くるんだからね(笑)。つまり波状訪問。二日泊って帰って行って、やっと今日は一人になれたと思って、夜、風呂に入って机にむかって本を広げると、窓の下から「大岡ぁー」って中原の声がする(笑)、ぞっとしたね。また泊まりにきたんだよ。」(『二つの同時代史』)

大岡昇平は自分のあだ名は「ひがみ屋」とか「さびしがり」であり、若い時からどんな交友関係でも相手に訪問されるより自分が訪問する方がいつもはるかに多かった。逆だったのは、唯一、中原中也だけであったとどこかに書いていた。二人が本当に親密で関係がしっくりいっていたのは知り合ってから一年間だけだったようだが、大岡昇平は周知のように、戦後倦まずたゆまず中原中也について書き、中也の全集の刊行に献身した。新たな伝記や作品や書簡なども発見され、全集は三度も出されたが、1979年、その三度目の全集刊行後、経過を振り返って大岡昇平はこんなことを書いている。

「思郎さん(引用者注:中也の弟)の近著『中原中也ノート』にも、私の『中原中也』に対する不満が表明されている。こうして私は中原の二人の弟(拾郎さんとは年が大分違うので、お話をする機会がない)から不興をこうむった形になったのであるが、中也自身からは申すまでもない。遺稿中に、「玩具の賦」(昭和九年)があるだけではない。考証を進めているうちに、彼がその短縮稿を「文学界」へ発表しようとしたことが明らかになってきた。こんど新発見の書簡十通にも、私の悪口が二度出てくる。まるで私は中原から悪くいわれていたことを掘り出すために、作業をしているようである…(略)」(『四谷花園アパート』)

中原中也の日記には、「今日は非常にお天気がよい」と尋常に記された後、「大岡といふ奴が癪に障る」(昭和10年)という悪口もあるが、中原中也の友人(大岡昇平も青山二郎の部屋(四谷花園アパートの一室。中原中也も昭和8年(1933年)に結婚した後、このアパートに住んでいた)で何度も会ったことがあるというが、青山二郎の中学時代からの友人だった人物。)が亡くなった(1972年)数年後、改築の際、天井裏から家族の誰も知らなかった日記や書簡がごっそり出てきて、その中には大岡昇平が上の文章で述べているように、中原中也からの十通の書簡も含まれてあり、そのうちの一通には

「大岡一族が集つてゐると裏長屋みたいだといふのは実際だよ。シャアシャアしながらケチなんだ。あんな暗い感じのものもない。いつそまだケチの方がいい。ケチなのにシャアシャアでは、当人シャアシャアでケチの方が帳消しになるつもりだから煮ても焼いても食へないものになるだけだ。」

と記されていたそうで、「まるで私は中原から悪くいわれていたことを掘り出すために、作業をしているようである」という大岡昇平の嘆きの感想は、読者の目にもそのとおりに映り、私は同情してしまうのだが、大岡昇平はつづけて次のように書いている。

「書簡の中にある「大岡一族」については、少し弁明しておかなければならない。(略)「一族」は、当時私が同棲していた女とその姉である(略)」「私の同棲した女については、青山の『中原中也の思ひ出』にも出てくる。彼女は「エスパニョール」の「女給」だった。」「私がシャアシャアしているのは、現在でもそうだが、いまわれわれが金を使って生活している以上、ケチでない人間はいないはずである。他人をケチだとは、自分がケチでなければわからないことだろう。女たちは信州松本の出で、むしろ朴訥で、気よしだった。だから私と二年も同棲したりしたので、少なくとも、彼女と私は、中原にケチといわれる筋合いはない。」と怒って(?)反論しているが、中原中也に関する知友による多くの証言から推しても、実際大岡昇平のいうとおりだったのではないかと思われる。

しかし、遠い昔のそんな出来事はもはやどうということのないことであり、私が感銘を受けるのは、大岡昇平がこういう手紙を書いた中也に対して一時的には癪にさわり、腹を立てたりしたとしても、その詩がある以上、中也に対する尊敬や懐かしさには何らの変化もあるはずはなかっただろうということに対してである。

大岡昇平には、後輩にあたる何人もの作家の質問(インタビュー)に応えていろいろなことを話した「わが文学生活」(中央公庫1971年)という本があるが、その最後の部分で「しかし観念の世界でも、現実の世界でも、ことが絶えないからね。とにかく知りたいことが年がら年じゅうあとからあとから飛びこんでくるからおさまる暇はないですよ(笑)。」と述べている。1976年時点では、「知りたいことが…あとからあとから飛びこんでくる」とは言えただろうが、現在だったらどうだろうか。さすがに、現状を見たら、またこの中に置かれたら、もうそうは言わなかったのではないかという気がする。ただ、結びの言葉である「しかし、文学に対してだけは忠実であるということはいえるかもしれないな。忠誠ですよ(笑)。」という発言に対しては心から合点することができる。中原中也(富永太郎に対してもそうだが…)に対する姿勢にそのことがよく出ているように感じる。



最後に、中原中也の詩『湖上』と『春日狂想』を「中原中也全集 1」(角川書店)の「在りし日の歌」より引用掲載しておきたい。(偶然だが、私もこの二つの詩は好きである。)


 湖 上

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
   
沖に出たらば暗いでせう、
(かい)から滴垂(したゝ)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。
   
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでせう。
   
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。
   
ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。


 春日狂想

   1 

愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
  
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、

奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
 
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
 
奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。

   2
 
奉仕の気持になりはなったが、
さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前(せん)より、人には丁寧。
 
テムポ正しき散歩をなして
麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔(けいけん)に編み――

まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
まるでこれでは、毎日、日曜。

神社の日向を、ゆるゆる歩み、
知人に遇(あ)へば、につこり致し、

飴売爺々(あめうりぢぢい)と、仲よしになり、
鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
そこで地面や草木を見直す。

(こけ)はまことに、ひんやりいたし、
いはうやうなき、今日の麗日。

参詣人等もぞろぞろ歩き、
わたしは、なんにも腹が立たない。
 
    ((まことに人生、一瞬の夢、
     ゴム風船の、美しさかな。))

空に昇つて、光つて、消えて――
やあ、今日は、御機嫌いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処かで、お茶でも飲みましよ。

勇んで茶店に這入りはすれど、
ところで話は、とかくないもの。

煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
名状しがたい覚悟をなして、――

戸外(そと)はまことに賑(にぎや)かなこと!
――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

外国(あつち)に行つたら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮。

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、 
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テムポ正しく、握手をしませう。

つまり、我等に欠けてるものは、
実直なんぞと、心得まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テムポ正しく、握手をしませう。
スポンサーサイト
2010.12.05 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。