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昨日(1月29日)、映画「冷たい熱帯魚」(監督・脚本:園子温、脚本:高橋ヨシキ、主演:吹越満・でんでん、配給:日活)が東京都内で公開になり、今後も全国で順次公開されるとのこと。

この映画について知ったのは、当ブログの、カテゴリでいうと「埼玉愛犬家連続殺人事件」欄(の記事)を検索で訪れてくださる方がこのところ急増していて(といっても、あくまで当ブログの普段のアクセス状況を基準にしてのことだが)、不思議に思ったので、こちらもネット検索してみたところ、どうやら上記の新作映画が原因らしいのである。

当ブログが連載で書いた「埼玉愛犬家連続殺人事件」に関する記事は、1993年に起きたこの事件で、発生からおよそ1年半後の1995年、加害者として逮捕起訴された三人の人物のうちの一人である風間博子さんに言い渡された死刑判決への疑問をつづったものである。風間さんは今から2年前の2009年に上告が棄却され、現在は確定死刑囚の身である。風間さんの死刑判決は、全3事件のうち初めの2件に関与し、被害者計四人のうちの三人を主犯である元夫と共謀し、殺害したという理由によるものだが、被告側の主張をことごとく退け、検察側の主張をほぼ全面的に採用して風間さんの死刑を導いた判決文は、主要な裁判資料を一通り読み通した結果、私には「無理を通せば道理が引っ込む」という諺があるけれども、その諺を地で行ったような、裁判のテーブルに乗っている証拠に真っ向から反する、どんな矛盾もモノともしない事実認定の連続で成り立っているもののように思われた。別の言い方をすると、根拠を持った合理的な主張はさまざまな難癖をつけられて徹底的に否定・排除され、不合理な主張の方は一も二もなく肯定と賛同の態度で受け容れられ、ふんだんな助け舟さえ与えられた上での判決というように目に映った。

もう3、4ヶ月前のことになるが、ある読者の方がコメント欄で、これは別のエントリーに関してだったが、現状の刑事裁判の重大な問題点として、下記の指摘をしておられた。

「捜査側はいい加減な捜査と証拠の提示をしても裁判所が救ってくれるので、いい加減な仕事しかしません。どんどん変な判例がふえて、どんどん捜査能力は落ちていきます。村木局長無罪判決はその0.1%に与することのできる勇気ある裁判官の事例であり、奇跡ですね。
 今回の大阪地検特捜部の証拠偽造などは、「何をしても裁判所は救ってくれるに決まっている」という甘ったれた思い上がりの仕業です。裁判所の捜査側に甘い姿勢が、捜査機関のモラルの低下を引き起こし、それが非常に明確に出てしまったということだと思います。しかし、検察庁は「自分達が全面的に悪い、反省して出直す」という姿勢を打ち出して、ことが裁判所に及ぶことを阻止すると思います。 」

私には、風間さんの判決は、上の文中の指摘である「何をしても裁判所は救ってくれるに決まっている」という捜査側の甘ったれ、思い上がった期待に裁判所がこれ以上はないほど完璧に、また忠実に応えたケースのように感じられる。

さて、ネットを検索してみると、映画「冷たい熱帯魚」は、この「埼玉愛犬家連続殺人事件」をモデルとして作られているとの指摘がもっぱらなのである。そこで、この指摘についての映画製作関係者の直の談話がないかと探したところ、ありました。1月20日、六本木のビルボードライブ東京で「冷たい熱帯魚」の特別試写会が開催され、本作の監督である園子温氏自らが、三池崇史映画監督、本映画の主演を務めた吹越満氏との三人で行なったトークイベントで、三池氏に本作が生まれたきっかけについて訊かれて、次のように話している。

「プロデューサーから言われたので作ったんですけど(笑)。実際にあった愛犬家殺人事件をリサーチして、ある意味、忠実に作ってます。でも、事実って「起・承・転」まではいいけど、「結」がだらしない。やっぱり映画だったら、「転・結」ぐらいはフィクションにしたかった」

この監督談話を、試写会などですでに映画「冷たい熱帯魚」を観た人が述べている感想やストーリーの概略と総合して判断すると、「実際にあった愛犬家殺人事件」とは、「埼玉愛犬家連続殺人事件」のことであり、「リサーチして、ある意味、忠実に作ってます。」という発言は、志麻永幸著『愛犬家連続殺人』(角川書店2000年)(前年の1999年に新潮社から『共犯者』という表題で出版されている本と一読したところ内容は同一と思われた。著者名は異なっている。)を下敷きにしてそれに「ある意味、忠実に作っ」たと語っているものと受け止めていいように思われる。

映画は登場人物の職業も現実とは異なるようだし、私自身は観てもいないので、映画自体に何かをいうつもりは全然ないのだが(『愛犬家連続殺人』を読んだ映画製作関係者がこの本の内容や登場人物の言動に矛盾や不自然さを感じなかったかどうかに関心はあるが┅┅)、ただ映画の下敷きにされていることが確かと思われる『愛犬家連続殺人』という本については述べておきたいことがある。これはごく単純なことで、この本の内容は事実をありのままに正直に叙述したものとはとうてい思われないということである。特にこの映画に興味を持っている方、これから観る予定のある方、またもうすでに観終えた方にもぜひそのことをお伝えしたい。

『愛犬家連続殺人』の著者「志麻永幸」は筆名で、この人物は「埼玉愛犬家連続殺人事件」で主犯男性と風間さんの共犯として逮捕起訴され、「死体損壊・遺棄」の罪名で実刑3年の判決を受けた人である。つまり、この事件で逮捕された計三名のうち、二名は殺人(「死体罪損壊・遺棄」罪も加わる)による死刑判決、志麻氏(当ブログではこれまでの記事で本名の頭文字を採って「Y氏」と表記しているので、ここでも以後「Y氏」と記す。)のみは実刑3年という判決であった。そもそも裁判自体、主犯男性と風間さんは同一裁判であり、Y氏だけひとり分離裁判であった。

第三者である私などからみると、犯罪自体の重大性と凶悪性、Y氏自身が認めている範囲に限っても、3件すべての事件においてY氏が果たした共犯としての役割の重さ(事件当時の三人の生活環境について少し言及しておくと、その頃風間さん夫婦は正式に離婚しており、別居生活であった。仕事場はもともと夫は犬舎、風間さんはペットショップと別々だったため、当時の二人は接触自体がきわめて少なかった。それに比して、Y氏はこの主犯男性の運転手役を務めたり、Y氏宅で同居生活をしたりと、その頃の二人の関係は公私ともに非常に密接であった。)にしては、Y氏の判決は驚くべく軽いと感じるが、しかしY氏の受け止め方はそうではなかった。自身の起訴が決定してからの担当検事に対するY氏の恨みは骨髄に徹するほど深いもので、理由はY氏によると、捜査段階で検事の用意した調書を認めれば、早期釈放、悪くても起訴猶予で釈放という約束ができていた、少なくともY氏自身は固くそう思い込んでいたという事情が伏在したことによるもので、そのことをY氏は公判でも事実上認めており、自分が検察内部で受けた想像を超える特別待遇の実態についても白状・暴露している。

一方、風間さんは捜査段階から一貫して自分は被害者の殺害など予想さえしていなかったこと、もちろん事前計画などのどんな共謀にも実行にも一切関与していないこと、しかし、二度目の事件では元夫に「E(被害者)の家に行ってるから、(夜)10時頃迎えに来てくれ。」という口実で事件現場に呼び出され、車の中で元夫とYの二人が被害者の頸を左右から紐で絞めて殺害するのを目撃させられたことなど、具体的な証言を詳細に述べている。自分に関するこういう風間さんの証言ーー殺害実行犯であるとの名指しの指摘ーーに対して、驚くべきことにY氏は特別な反応を何も示していない。風間さんを攻撃するような言動は一切していないのだ。判決は実刑とはいえ、わずか3年の刑だったにも関わらず、釈放・起訴猶予が叶わなかったことで「自分はあいつに騙された」「嘘をつかれた。決して許せない」と担当検事にあれほど憎悪を露わにしたY氏が、である。

Y氏は主犯および風間さんの第一審裁判の第16回公判に証人として呼ばれている。そのときのY氏は事件の詳細についての弁護人の尋問に証言拒否を繰り返したが、風間さんが殺人・死体遺棄などへの関与を全面否認していることについて尋ねられると、次のように述べた。

「本人が言ってんだから、間違いないでしょう。本人が言ってんだから、それで合ってるでしょう」
「私は、博子さんは無罪だと思います。言いたいことは、それだけです。」
「私は、博子さんは無罪だと思いますと言ったんです。全部ひっくるめて。」

このY証言について、風間さんの弁護人は「弁論要旨」のなかで、「Yからすれば、被告人風間に対し、何ら悪感情を持っていたわけではないし、あくまで自分の身代わりとして共犯に取り込む供述をしたが、Y自身の刑事裁判は「死体損壊・遺棄」で当初の目的を達成させたことから、今後殺人等でむし返されることはないと確認し、被告人風間に対する同情心と良心の呵責を抱き」、上記のような証言をしたのだという見解を述べ、また下記のようにも記している。

「このやり取りは、Yが本件に対する証言の中で唯一きっぱりと述べた部分であり、又被告人風間の罪体に関する重要な部分であり、Yが何故に証言拒否を繰り返す中で、この部分について明確に証言したのか、これは正にYのぎりぎりの「良心」であったと確信するものである。」(第一審弁論要旨)

第一審の裁判官は判決文においてこのY証言を完全黙殺した。その証言はなかったことにしてしまったのだ。しかし、Y氏の風間さんに関する同様の証言はこれにとどまらない。満期で出所し、本の出版も終えた数年後、Y氏は風間さんらの第二審の裁判に証人として出廷している。弁護人による事件の詳細に関する尋問に「知らぬ、存ぜぬ」で押し通したY氏は、ただ風間さんに関してだけは第一審時以上に積極的に証言している。風間さんの一審判決が死刑と聞いて非常に驚いたこと、風間さんが今この場にいること自体が誤りであること、自分が出所している以上、同じような立場にあった風間さんも直ちに釈放されるべきであること、などの発言内容であった。判決はほぼ検察官の主張どおり――ということは捜査段階におけるY氏の調書どおりということである――のものだったが、ここでY氏は実質的には風間さんに対する死刑判決の根拠である自らの調書を否定したことになるし、自著『愛犬家連続殺人』は信用のおける本ではないことをも認めたといえるだろう。

当ブログのこの事件に関する記事をお読みいただければ有難く思うが、早くから風間さんの無実を感じ取り、風間さんを支援してこられた「友人の会」に事件と風間さんについて簡潔に要約した文章が掲載されているので、こちらもご一読をお勧めする。
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2011.01.30 Sun l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
石原慎太郎は1999年に都知事に就任した後、翌年から「三国人」発言をはじめとして次々と差別発言などの舌禍事件を引き起こしている。これをみてその都度私も驚き呆れたり、怒りをおぼえたりしたのだが、当時、この件に関して一番つよく実感して暗澹たる思いがしたのは、それを報じるマスコミの腰が最初から引けているようにみえたことだった。何に怯えているのか、石原慎太郎やその周辺の迫力・威光になのか、彼に対する世間の空気が以前とは異なることを察知してなのか、特にテレビでは各局のレポーターが終始自身の発言に慎重に、というより臆病になっている様子で、石原発言の問題点の明確な指摘、徹底した批判はほとんど聞かれなかったように思う。

それで彼の国会議員時代はどうだったかと振り返ってみたのだが、どう考えてみてもこれほどの腫れ物扱い状態ではなかったように思えた。そもそも石原慎太郎の国会議員としての存在感は年ごとに希薄になっていったのではなかっただろうか。議員生活の終盤、私にはっきりしていたのは「青嵐会」の一員であることと、横柄な態度、問題発言でよく顰蹙を買っている政治家という印象だった。95年に自ら議員を辞めたときはさすがに大きな話題になったが、かといって辞職を惜しむ声は世論においても特になかったのではないだろうか。作家の瀬戸内寂聴さんが、石原さんは文学者だから、と議員辞職後の作家活動への期待を述べていたことは印象に残っているが、それも寂聴さんが石原慎太郎に好意をもっているらしいのをちょっと意外に感じたからであった(二人には作家デビューが同時期だったという縁があるらしい)。

石原慎太郎の都知事就任の1、2年後だったか、それとももう少し後だったか、目に余る暴言、傍若無人の振る舞いが許されている理由について都内在住の知人に話をしてみたことがあるのだが、知人は、「青島前知事への支持者をはじめとした都民の落胆失望。これが最大の原因ではないか」という意見を述べていた。個人的に知っている都の職員が、二人を比べて「やはり石原さんでなきゃあ」と言っていたとも話していた。確かに青島氏は知事に就任した当初からすでにいろいろな意味で燃え尽きてしまっていたのか、如何にも無気力そうに見えたし、何より施策面で新宿西口地下道のダンボールハウスの強引な撤去など、支持者の期待を裏切る行動がつづいたことは間違いないと思われる。しかし、かといって、そのことが新知事の暴言・横暴が許される理由にはならないはずなのだが、結果としては前任者の不評も石原慎太郎に追い風となったのだろう。2001年の小泉総理が初めから世論の熱い歓迎を受けた背景の一つに前任者がひどく不人気の首相だったことがあったと察せられるが、共通点があるように思われる。こういう場合こそ私たちは慎重にならなければならないという教訓は過去に枚挙の暇がないほど得ているはずなのだが、同じことを繰り返している。

もう一つは、これがじつのところ石原都知事が人気を得た最大の理由ではないかと思うのだが、99年は「周辺事態法」や「自衛隊法改正」などの日米新ガイドライン関連法、通信傍受法、国旗・国歌法、改正住民基本台帳法が成立した年、有事法制の準備が着々と進められていることが誰の目にも明らかになった年だった。このころから国家主義的傾向の濃厚な勇ましい発言に対して、それがいかに非論理的なものであろうと、憲法を正面から蹂躙するようなものであろうと、結果的に弱い者、異質な者をいたぶる性格のものであろうと、これまでのように呆れられたり、冷眼視されたり、厳しく批判されるということなく、何となくそのまま通り、いつの間にか受容されてしまうという空気が至る所で急速にできていったように思う。そのような空気は石原慎太郎の個性・資質にピッタリ、相呼応するものだったに違いない。

もともと日本は「みんなで渡れば怖くない」「長いものには巻かれろ」式の、個人が極度に孤立を怖れ(させられ)る、集団意識の過剰な社会。前回も引用した『二つの同時代史』で埴谷雄高が述べるところによると、戦後すぐ雑誌『近代文学』を発刊したときGHQの検閲を受けなければならなかったわけだが、実際に検閲するのはGHQに雇用された日本人だったとのこと。ところが日本人は茶坊主型が多くて、「あとで問題が起きたとき責任が自分にかからないように、これはアメリカの占領方針に反するだろうと、できるだけ拡大解釈して、ほんとに小さなことでもチェックして返してくる。」そうで、日本人が日本の作品を「自己規制」し、なかには上のアメリカ人への削除報告が多いほどいいと思っているような茶坊主もいたそうである。埴谷雄高は「おれは、権力者に対する茶坊主ぶりでは、日本人は世界のベストテンのなかにはいると思ってるよ。」と嘆いていたが、いやいや今ならベストテンどころか、ベストスリーに入ってしまうかも知れない。笑い事ではなくて。

そういう情勢の下、石原都知事には最初からお誂え向きの舞台が整えられていたのだろう。その延長上に橋下徹大阪府長の誕生もあったのではないかという気がしているのだが、また、佐藤優氏の登場も同一線上にありながら、こちらは時代を画するような深刻かつ特異な出来事だったように思うのだが、この件はまた別の機会に。

つい先日、ネットのニュース欄で石原慎太郎本人が「総理大臣になれないと思ったから、それでは都知事に、と考えた」という趣旨のことを語っているのを読んだ。99年の知事選出馬は唐突に思えたが、では国会議員を辞めたときから都知事選に出る計画をもっていたのだろう。もちろんそれは本人の自由。問題は、上記の総理大臣云々発言でも分かるとおり、権力欲は人一倍つよいらしいのに、いざ望みどおりにトップの座につくと、権力を握っているという自覚、それに付随する責任感などは、権力欲の十分の一も持っていないらしいことである。その顕われが数々の暴言・妄言であり、施策の失敗や問題点の指摘に対する他者への責任転嫁と論理も何もない駄々っ子のような弁解や反論であるだろう。

これまでに石原慎太郎が行なってきた独善的言動の実例は挙げればきりがないほどあるわけだが、最近はこの得意芸にいよいよ磨きと拍車がかかって、マツコ・デラックス氏の表現ではないが、何か錯乱状態に陥っているようでもある。昨年12月3・7日には同性愛者についての驚くべき発言があり、つづいて15日には都知事ご執心の「東京都青少年の健全な育成に関する条例」の改正案が可決された。まずは同性愛者に対する差別発言から。かなり話題になった事件(?)だし、たいていの人は知っていると思われるが、一応、12月7日付の毎日新聞のネット配信記事を引用しておく。

「 東京都の石原慎太郎知事は7日、同性愛者について「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」と発言した。石原知事は3日にPTA団体から性的な漫画の規制強化を陳情された際、「テレビなんかでも同性愛者の連中が出てきて平気でやるでしょ。日本は野放図になり過ぎている」と述べており、その真意を確認する記者の質問に答えた。
 7日の石原知事は、過去に米・サンフランシスコを視察した際の記憶として、「ゲイのパレードを見ましたけど、見てて本当に気の毒だと思った。男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」と話した。同性愛者のテレビ出演に関しては、「それをことさら売り物にし、ショーアップして、テレビのどうのこうのにするってのは、外国じゃ例がないね」と改めて言及した。」(2010年12月7日 23時08分)

外国の実情はよく知らないが、「外国じゃ例がない」は怪しいと思うナ。障害者差別発言のときは、人間の生死という重大な問題について、外国だったら安楽死になるのではないか、云々と根拠も示さずに嘘くさいことを述べていたようだが、今回も同様のように思われる。立場もあるのだから、何事もちゃんと裏をとって正確な話をするという人間一般の基本中の基本くらいは心得ていてほしいものである。

親しかったという三島由紀夫も同性愛の傾向があったことは今ではほぼ定説とされているが、三島もやはり「足りない感じが」したというのだろうか。三島に限らず、文学者(芸術家)には同性愛的傾向をもった人物は多いようで、ジャン・コクトーも同性愛者として知られている。石原慎太郎は、『灰色の教室』という短編小説のプロローグにコクトーの小説『怖るべき子供たち』の有名な一節を引いている。また、他の作品でもコクトーの凄さについて語っているのを読んだことがあるが、コクトーもまた「足りない感じ」であり、「マイノリティーで気の毒」(それにしても、ここでの「気の毒」という言葉は何と酷薄なイメージを伴っていることだろう。)なのだろうか。文学は弱い者、苦しむ者のために存在する。少なくとも、文学は弱い者いじめを根底から否定するものである。そう私は常々実感し、ふかく信じているので、こういう石原慎太郎を作家・小説家とは思っても、文学者とは思えないし、思わないのである。作家の精神は必ず作品に現われずにはすまないと思う。

「青少年の健全な育成に関する条例」については、多くの反対意見が出ているが、読ませていただいた意見には共感することが多かった。思想・言論・表現・道徳の領域の問題について、国家はもちろん地方公共団体などの公的機関が取り締まり役として関与することは止めてもらいたい。漫画を描く前に萎縮してしまうと漫画家の方が述べているのは当然だと思う。戦時中の最後の十年間の日本には詩や小説など文化面の創作品で見るべきものはほぼ皆無であった。言論・表現の自由が奪われていたからである。敗戦後の十数年間に今でも読むに堪えうる秀作が続出しているのは、何はともあれ軍部や特高が姿を消し、個人に思想・言論・表現の自由が保障され、社会に自由・解放感が戻ったからであることに疑問の余地はないだろう。

正直にいって、石原慎太郎の小説の取り柄は、三島由紀夫が『完全な遊戯』で述べているところのスピード感、それから物怖じすることのない単純な若々しさ、勢いのよい筆づかいなどにこそ(のみ?)あるのではないだろうか。それらは規制の存在するところではたちまち枯れ死してしまうものだと思う。かつて彼の作品を批判する人はたくさんいたが、すべて言論によるものであって、規制やら取り締まりやらをいう人は誰一人いなかったはずだ。脳裏に思い浮かべもしなかったろう。

条例可決後の12月17日の記者会見で、石原慎太郎は、一人の記者に、「真実の性教育」(カッパ・ホームス1972年)という著書のなかで「いかなる書物も子供を犯罪や非行に教唆することはない」と記し、「表現・言論の自由」を規制することは無意味と述べていたことを指摘されると、「そのころの私は間違っていました」とすかさず応えたそうである。この返答をみると、暴力シーンや性描写の多かった若いころの自作に忸怩たる思いがあるのかと考える人もいるかも知れないが、そのようなことはまったくない。福田和也・田原総一朗、両氏との対談インタビューで語っているところをみると、石原慎太郎の自作への愛着、自負は大変なものである。自分がそうであるなら、他人も同様ではないかという最低限の想像力がこの人にはいつでも欠如しているようだ。それから条例改正にいたるまでの手続きの不適切さは目に余るもので、その独善性、傲慢さには怖ささえ感じられた。
2011.01.27 Thu l 石原慎太郎 l コメント (0) トラックバック (0) l top
福田和也氏は次の文章でも石原慎太郎に過度にいい役を振り過ぎだと思う。

「 江藤(淳)、三島(由紀夫)のような意識的な書き手ですら、石原氏にたいしては、過度の親愛の情と妬視から自由になれませんでした。
 私も同様です。 」(『石原慎太郎の季節』)

福田氏が石原慎太郎に対して「過度の親愛の情と妬視から自由になれ」ないのは、石原慎太郎に魅力を感じない私などには実感として理解しがたいこと、むしろ「変わってるナ」と感じることだが、本人がいうのだからきっとそうなのだろう。しかし、江藤、三島が石原慎太郎に「過度の親愛の情と妬視」を持っていたという実例などの根拠を本書で何も示してはいないのに二人の名を挙げ、「私も同様です。」とは、軽率のそしりを免れないのではないだろうか。この面々では、福田氏も含め、江藤、三島、石原と全員右翼政治思想の持ち主という共通点がある(大雑把だが、そういってもいいだろう)のだが、私には福田氏がそういう内輪の人間関係だけに限定して石原慎太郎を語っているようにも感じられる。

真面目にはあまり誰も問題にしてくれない作品を高く評価してくれたのなら、江藤、三島は石原慎太郎にとってよき理解者、有難い友人・先輩という関係にあたり、三人それぞれの資質を考えれば「妬視」云々には無理があるのではないか。江藤と三島もまた異なる資質の持ち主だと思うし(ついでに読者としていうと、この三人の中では『仮面の告白』を書いた三島由紀夫の力量が圧倒的だと思う。江藤淳の評論は漱石論などおもしろいと思ったこともあるが、大岡昇平も指摘し批判しているように、漱石と嫂の登世との関係について確かな証拠もないのに何事も自己の主張に都合のよいように強引な解釈をしたり、中野重治の小説『五勺の酒』をこれも自分の主張に都合よく解釈して中野重治をまるで天皇主義者であるかのように述べていて、その作家精神の誠実さには私はちょっと疑問を感じもする。前者については、漱石の次男・伸六氏が、著書のなかで、父のような人にあれほど敬愛の気持ちを起こさせた嫂とは、いったいどんな人物だったのだろうと思う、と嫂の人格・人物像への関心を述べていたが、私にはその意見が一番ピッタリくる。江藤氏の不倫説にはどうみても無理があるように思う。後者については、江藤氏の説より、藤枝静男の「志賀直哉・天皇・中野重治」における解釈のほうがはるかに公平であり、考察に深さもあると思う。(注1))、「妬視」は根拠が示されていないために、もっぱら福田氏の思惑もしくは願望によって持ち出されたもののように思える。

1958年作の『完全な遊戯』は、なぜか血や涙の一滴まで枯らしてしまっているような若者数名が通りがかりに偶然見かけた若い女性を当時は珍しかった自家用らしい車で数日連れまわし、メンバーの一人礼次の兄が所有する山荘に連れ込み、輪姦し、知り合いの熱海の店に売り飛ばし、その挙句、邪魔になったのか崖下の海に突き落としていともあっさり殺してしまうというストーリーの短編小説である。事実経過を物語る作者の態度からは無残に殺される哀れな女性の存在に対しても、残忍な若い男たちの所業に対しても、肯定や否定などの感情や批評性はなんら感じ取れない。男たちが、何をいい、何をしたか、そして知的障害者であることが暗示されているこの女性がどんな無残な結末を迎えたかという事実だけが明確に簡潔に描写されている。最後にヒョイと女性を海に突き落とす場面には呆気にとられたが、たぶんこの場面が作品の印象を強めているのであろう。この後帰りの車を走らせながら、三人の男たちは、「これでやっと終らせやがった」とか「その割にこの遊びは安く上ったな」などという会話を交わしている。

三島由紀夫が新潮文庫の『完全な遊戯』の帯として書いたという推薦文を「三島由紀夫研究会メルマガ」から引用させていただく。

「ニューヨークにゐたとき日本から来た文芸雑誌を読んで、どの小説もピンと来なかったが、石原氏の「完全な遊戯」の神速のスピード感だけはピッタリ来た。会話のイキのよさ、爽快な無慈悲さ、・・・・・・私は読者が抹香くさい偏見に煩はされずに、この、壮大な滝のやうではないが、シャワーになつて四散した現代的リリシズムを浴びせられるやうにおすすめする。」

「神速のスピード感」との評価にはなるほどと肯ける。読み始めれば登場人物にひどい奴らだと嫌悪・不快を感じたとしても、たいていの人は作品のスピード感、テンポのよさのために最後まで読みとおすのではないだろうか。「会話のイキのよさ」という指摘には、やっていることがことだけに陰湿さが付き纏っていることを付け加えてよければ理解できなくもない。でも、この作品に「爽快な無慈悲さ」「現代的リリシズム」を認めるというのは、どうだろう。「爽快」、「リリシズム」という言葉が急に安っぽく汚れたように感じられないだろうか。私はこの2点の批評が適切だとは思わなかった。でももしこの小説が人間の生活の営み、人の性格の多様性、複雑な奥行き、生命の価値などとは無関係な人工的な世界を描いたものと規定するならば、「爽快な無慈悲さ」「現代的リリシズム」という評価も成り立つのかもしれない。この箇所を読んで、私は中野重治が三島事件を批判するなかで三島の作品について語っていた言葉を思い出した。

「三島の文学には巧みなところがあり、しかしその性質が上出来のホンコン・フラワーめいたものなことを誰にしろ否定できない。生命・生存から離れて行くことのなかにそれの完成がある。(注2)」(『いくつかの事件についての感想』新日本文学1971年5月号)

「上出来のホンコン・フラワーめいたもの」という三島文学に対する表現は驚くべく卓抜だと思うが、これは『完全な遊戯』を批評した三島の上の言葉にも当てはまるように感じたのだった。
 
『完全な遊戯』には他に時代を先取りしたという声もあった(ある)ようだが、この男たちはワルではあっても精神的異常性をもった集団というわけでもなさそうで、だからこそ「会話のイキのよさ」というような評価も出るのではないか。レイプに罪悪感の片鱗ももたない連中はどうにも悪辣に違いないが、かといってこういう不良集団と確たる理由もなくゲームのように殺人を実行する集団(実在するかどうか知らないのだが)とでは、心理の動きも含めてその間には比較を絶する断絶があるはずで、彼らは世間知の上でも結構限界というような処世術は心得ていそうである。この作品発表時だけではなく、たとえ現在の世相であったとしても、この場合の殺人には極端に無理があるのではないだろうか。

三島由紀夫は読者に「抹香くさい偏見に煩はされずに」読めと勧めているが、当時におけるこの作品の悪評は「抹香くさい偏見」によるものではなく(レイプや殺人は小説において古今東西絶えず取り扱われてきた材料で、それ自体はちっとも珍しくないものである。)、むしろこの殺人の無理・不自然のせいだったのではないだろうか。

この若者グループが女性を連れ回した日数はせいぜい二、三日である。そして彼女は自分がどこにいるのかさえしかと理解している様子はない。グループの中の礼次という男の名は覚え、心惹かれている様子ではあるが、何ら騒ぎ立てるわけでもなく、終始ぼんやりとしていて物静かである。男たちは別に追い詰められているわけではないのだ。殺害しなければならない理由は何もなさそうに思える。出会ったとき彼女は身なりもととのっていたというし、「横浜」という言葉が何度も口から出るところを見ると、横浜あたりにちゃんとした家があるようでもある。拾った時と同様にどこかの街角で彼女を車から降ろし、自分たちだけ急いで立ち去ればよかったのではないか。そうすれば彼女には誰かの保護が期待できただろう。

殺害後の「この遊びは安く上ったな」という言葉にしても殺しを仕事にしているような者でもなければ、まず誰の口からも出るものではないだろう。言い換えると、この作の悪評は若者たちにあのような形で一人の若い女性を殺させる作者に動機の不純さ、軽薄さをみたからではなかっただろうか。すぐれた作品は読んでいるうちに読者を無心の境地にさせ、作品世界に没頭させる力を持っていて、そこに文学の醍醐味もあると思うのだが、石原慎太郎の作品にはこれに限らずもともとそういうものは望むべくもない。ただもしこれが新しさへの作家的挑戦だとするならば、作者はこの殺人が登場人物たちの日常の生活ぶり、性格、人の心の動きに適うものであるかどうか、十分に考えたのではないかと思うが、私は作品から、特に女性殺害後の若者たちの会話から推して、そういうものは気配さえ感じることはできなかった。

ちなみに、前記の「三島由紀夫研究会メルマガ」によると、三島は『完全な遊戯』に対して次のような所見も述べているそうである。(太字による強調は引用者による。)

赤ッ面の敵役があまり石原氏をボロクソに言ふから、江戸っ子の判官びいきで、ついつい氏の肩を持つやうになるのだが、あれほどボロクソに言はれてなかつたら、却つて私が赤ッ面の役に回つてゐたかもしれない。その點私の言ひ草は相対的であり、また、現象論的であることを御承知ねがひたい。従つて、ひいきとしては、氏の一勝負一勝負が一々気になるが、今まででは「処刑の部屋」が一等いい作品で中にはずいぶん香ばしくないものもある。

氏の人柄のタイプは、文壇ではずいぶん珍種だが、避暑地の良家の子弟の間ではごくふつうのタイプである。たとへば「太陽の季節」の背景をなしてゐる葉山あたりでも、石原氏によく似た青年はたくさん見かける。物の言ひつぷりも典型的なそれで、文壇人種のはうが、よつぽど世間からずれてゐるのである。

氏の獨創は、おそらくさういう生の青春を文壇に提供したことであらう。」(東京新聞1956年4月16日)

「……却つて私が赤ッ面の役に回つてゐたかもしれない。その點私の言ひ草は相対的であり、また、現象論的であることを御承知ねがひたい。」という言い分はずいぶん意味深長である。三島由紀夫に限らず、批評においてこういう内容が条件のようなものとして前置きに記されることはきわめて珍しいのではないか。「赤ッ面の役に回つ」た場合の三島の批評を聞いてみたかった気もちょっとするが、ここにみられる三島由紀夫の一面は、後に三島由紀夫があのような死を選択したこととなんの関係もないことなのだろうか。『完全な遊戯』に対しての「爽快な無慈悲さ」「現代的リリシズム」「抹香くさい偏見」などの言葉は私はどうも気になる。


 

(注1) 大岡昇平は本人も十分認めているごとく口が悪い。批判する場合は特に辛らつである。その点埴谷雄高はそうではない。言うべきことはもちろんきちんと言うにしても、「近代文学」でも人間関係の調整役に回ることが多かったというように、態度は概して穏やか。大岡昇平・埴谷雄高対談集『二つの同時代史』(岩波書店1984年)でも同様なのだが、江藤淳の言動・振る舞いについては珍しく厳しい(?)見方を示している。「江藤淳の「先見の明」」という小見出しまでついている。以下に引用する。

   江藤淳の「先見の明」
 埴谷 安保(引用者注:60年安保)のころのことでもうひとつおもしろいのは江藤淳のことだよ。「聲」(引用者注:当時大岡昇平や中村光夫らが出していた同人編集文芸誌)に江藤が『小林秀雄論』を書く前だよ。そのころ江藤は吉祥寺にいたから僕のところに始終きていたんだよ。もともと彼は『夏目淑石』を学生時代に書いてそれを平野謙が非常に認めたんだ。荒正人は認めなかったけれどね。そういうことがあって僕のところに学生時代にきたのがはじめなんだよ。平野さんがほめているのにどうして荒さんは私のことをけなすんでしょうと聞くから、そりゃ荒は自分が漱石の専門家だと思っているからで、そんなの気にする必要はない、批評にかぎらず文学者はほめられたりけなされたりすることは当り前で、始終あるんだというようなことを答えたりしているうちに彼は結婚して、吉祥寺に住むようになった。それ以来僕のところに始終くるようになったんだよ。
 そのとき彼はまだ若くて、「近代文学」という戦後派が、日本文学の中心だと思っていたんだろうね。それが文壇状況がだんだんよくわかってくるにつれて、鎌倉組が中心であって、「近代文学」戦後派というのは傍流だということに気がついたわけなんだよ(笑)。
 大岡 それは文壇的にだろう。
 埴谷 そういうことだ。文学と文壇の差異に気がつくんだけれども、しかし安保のころはまだ「若い日本の会」をつくって安保闘争を彼なりにやっていたんだ。それを僕も盛んに激励した。
 大岡 そのときは鎌倉組は先が知れてる、反抗するのが有利だと思ってたんじゃないのか。
 埴谷 まだ戦後派の僕らが中心だったんだね。ところが、ハガチ一事件で、左翼が羽田でやっているのを見たときからだんだん左翼がいやになってきたんだよ、江藤淳はね。実際くだらない左巽もいるからね。
 彼は社会党の大会に出席してがっかりもしたけれども、このハガチ一事件が決定的だね。そして、左翼が次第にはっきりいやになってくると、『作家は行動する』を書いたり、「若い日本の会」をつくったのは、埴谷に煽動されたからだということに落ち着いちゃったんだよ。埴谷は若いものを煽動する名人で、自分まで煽動されちゃったというわけだね。
 大岡 あとからそう合理化するんだよ。ハガチーを見て、こりゃいけねえって思ったわけじゃない。前から寝返る気があって、きっかけに使ったんだ、とおれは思うよ。江藤に『小林秀雄論』を頼みに行った、というのは安保の前だよ。『作家は行動する』の中で彼が小林の悪口を書いているんだけれども、おれは、小林の文壇で果した役割としては君の言う通りであるけれど、小林という人間は違うんだ、だからそこを少し書いたらどうかと言って、頼みに行ったんだ。「聲」三十四年十二月号「冬号」おれが編集担当だから、十月頃手紙を出した。そしたら彼もそんな問題がちょっと頭に引っかかっていたと言って、そうして連載になったんだよ。
 まだそのころは、花田清輝という人は、本当に革命を頭のなかで考えている人です、と言ってたよ(笑)。江藤の転向もだんだんなしくずしにおこったんだろうね。
 埴谷 そうだよ。なしくずしなんだよ。『作家は行動する』のころは数日おきに僕のうちにきていて、僕といろいろ話をして、『作家は行動する』を書きあげた。
 ところが、それがまちがえたというふうになったから引っくり返ったわけだが、どうもうまいときに小林秀雄のほうに行ったな。
 大岡 とにかく『小林秀雄』は安保より前だ。しかし世の中は変わってくるからな。
 埴谷 世の中も変わってくるけど、江藤淳は、ある意味で言うと、右傾化の現在を先取りしたわけで、皮肉にいえば、非常に先見の明があるとも言える。状況が現在のように変わる以前に、江藤淳はすでにどんどん変わってきている。
 大岡 それはまあ、先見の明とは言えないだろう。
 埴谷 それはほめすぎかな(笑)。
 大岡 目先に従っただけだよ。
 埴谷 もちろん目先だけれども、しかし言い方は、うまくも、へたにも、いろいろあるわけだ、いまから言えばね。
 大岡 当人は先見の明と思っているかもしれないね。 」


(注2) 中野重治のこの文章の前後をもう少し長めに引用しておく。

美学、美学とあまりに言いつのられて、反射的に醜学とさえ言いだしたくなるが、そもそも言って、美と醜とに何が決着をつけるかというと、押しつめていえば、人間とその生活とにそれがどう関係するかであるだろう。三島の文学には巧みなところがあり、しかしその性質が上出来のホンコン・フラワーめいたものなことを誰にしろ否定できない。生命・生存から離れて行くことのなかにそれの完成がある。生命・生活は、「カツコいい」という言葉を使えばなかなかカツコよくないことをもとおして維持され発展させられる。そこに真実の美が見出されてくる。三島における「カツコいい」はこれの反対極をなしていた。命から離れて行くもの、その極が「事件」へ行きついたのはある程度必然に近かつたと言つてよく、その醜と滑稽とは三島の最後の檄の文体、演説の言葉内容と演説すがた、あの組織の制服と鉢巻、わけても彼の辞世(?)の歌にあけすけに出ている。事件が即座に「狂気」「犯罪」として政府側から扱われ、それが現自衛隊にその存在の合法性を主張するのにひと役買わされたことは、日本の政治権力の帝国主義的性格を照らしだすものであり、それを私はさつき言つた(引用者注:中野重治が事件についての感想を20行ほど書いて「週刊現代」に寄稿したこと)何行かのなかで書いた。)
 しかし三島が、「菊と刀」の「刀の復権」を主張したことは意味ふかい。「刀の復権」を三島は「天皇の復権」に結びつけている。秀吉が刀狩りによつて農民から没収して彼の権力に集中した刀、明治の天皇制政府が侍その他から没収して天皇の政府に集中・改編した刀、これの復権は、それによつて脅迫され殺されする勤労人民および他国人民の、その脅迫され殺されする状態の暴力的合法化でなければならない。たぶんこれが、この事件で十ちゆう七、八まで見すごされた一つではなかつたかと私は思う。 」

この後、中野重治は「あすこには、生きた展望を失ったものの萎縮した自殺が見出される」とも述べている。
2011.01.22 Sat l 石原慎太郎 l コメント (0) トラックバック (0) l top
東京都知事で作家の石原慎太郎について論じた『石原慎太郎の季節』(飛鳥新社2001年7月)という単行本で、著者の福田和也氏は、(あとがき)にこのように書いている。

「 石原氏は、論じにくい存在です。
 文芸畑にかぎっても、石原氏を論じて読むべき文章はほとんどない。
 三島由紀夫、江藤淳、そして橋川文三、磯田光一といった書き手に、かろうじて指を屈せるぐらいのものです。
 なぜ、石原氏が論じにくいのか。
 氏の存在と活動領域の広さがなまなかの批判や分析を許さない、評者が真率であればあるほど、その大きさに眩暈を覚えるか、あるいは慎重にならざるをえないというところがある、そのためもあるでしょう。
 しかし、もっとも大きい問題は、石原氏にたいするとき、誰もが平静ではいられない、ということです。
 石原氏には、人の痛覚を刺激し、感情を刺激するところがある。
 もちろん、感情にもいろいろあります。憧憬もあれば、嫉妬もあり、羨望もあれば親愛の情もあるでしょう。」

上の文章における「文芸畑にかぎっても、石原氏を論じて読むべき文章はほとんどない。」という福田氏の指摘は事実そのとおりだと思う。70年代以降のことになるが、私も石原慎太郎の作品や人をそれなりに丁寧に論じた文章を見かけた記憶はまずないし、作家や批評家による文学に関する対談や座談会においても事情は同じだったように思う。文芸の分野で石原慎太郎が話題になるとすれば『太陽の季節』で芥川賞を受賞したときの社会的事件ともいうべき世間の熱狂に限られていたのではなかっただろうか。この『太陽の季節』によって後の大スター・弟の裕次郎が映画デビューして爆発的人気を得たのでもあり、こういう華やかな話題も一方に抱え込み、それやこれやで福田氏が本書の別の箇所で、

「『太陽の季節』は、石原氏の商業誌における処女作であり、芥川賞を受賞して文学の世界のみならず、作中の風俗を真似する「太陽族」なる集団を生み出し、社会全般に大きな影響を与えました。
 『太陽の季節』は、高度成長の入り口に立って消費社会を望見していた日本人にとって、その尖端を垣間見せる作品であると同時に、新世代の反抗の論理や、新しい享楽と倫理の形姿を予見したという意味で、きわめて鋭く時代を先取りしたものだったのです。」

と述べている内容にはおおむね同意できる。しかし、その後文芸の分野で石原慎太郎が論じられることがほとんどなかったことの理由が、さまざまな論者が石原慎太郎の「大きさに眩暈を覚え」たり、憧憬や嫉妬に「感情を刺激」され、「論じにくい」ためだったという福田氏の主張は当を得たものとは思えない。石原慎太郎が論じられない原因は、端的にいってその作品にわざわざ取り上げて論ずるにあたいする優れた作、魅力的な作がなかったこと、また作家の価値は何といってもどれだけの質量(特に質)の作品を書いたかによるのだから、そういう意味で石原慎太郎という作家も文学的にみれば魅力がなかった、批評家や同業作家の持続的な関心を惹くことも、論ずるだけの意欲・情熱を与えることもできなかったという点に尽きるのではないかと思う。

たとえば、ここに大岡昇平と埴谷雄高の対談集『二つの同時代史』(岩波書店1984年)があり、戦前戦後の作家や作品、それに纏わるさまざまな出来事や人間的諸関係などが自称・ポンコツ老人二人によって率直にまた縦横無尽に語られているが、ここには石原慎太郎の名もその作品も一切出てこない。そしてそれはきわめて自然なこと、合理的なことでさえあると思う。私はこの対談本を何度も読んでいて、加藤正などというすぐれていたらしい戦前の学者のことを知らされるなど新たな興味をおぼえさせられることも多かったのだが、読んでいて石原慎太郎のことを思い出すことは一度もなかった。もし著者二人によって石原慎太郎の作品が賞賛でもされていたりしたら(ありえないことのはずだが)、読者としての私はさぞ興醒めしたことだろう。幸いであった。

『太陽の季節』については正宗白鳥が書いていた感想が印象深い。正宗白鳥全集のどこかに載っていたのだが、あの小説に出てくる障子に孔を開ける云々の箇所は、ちっとも新しくない。自分の子ども時分、郷里(岡山)に近い官立の高等学校の寮でそういうことが日常茶飯に行なわれているという噂話が盛んに聞こえてきて、それで自分は官立の学校に行くのをやめ、私立に行くことにしたのだ、という意味のことをちょっと吐き出すような苦々しい調子で書いていた。もっとも正宗白鳥のこの言葉は、『太陽の季節』の作者に対してというより、そういうことをやたらと話題にするマスコミに対しての反感と批判だったのかもしれないが。

私は『太陽の季節』を二、三十年も前に『処刑の部屋』など他の石原作品五、六冊とともに続けて読んだのだが、そのとき不快感や疑問混じりではあったが強い印象を受けたのは『完全な遊戯』だけであった。『太陽の季節』を含めたその他の短編小説には「若さの勢い」とでもいうべきものは感じたものの、他の同時代の作家に比べても文章がかなり拙劣なのは仕方ないにしても、感覚や価値観が本質的にひどく通俗的、すでに古びていると感じた。辟易してそれ以上読むのを止めたのは、中篇の『行為と死』を読んでから。これは発表当時「観念的すぎる」という悪評を受けた作品ということだが、主人公の男性は三人称で書かれているにもかかわらず、彼による一人よがりの「俺は、俺は、俺は、」、「俺が、俺が、俺が、」という話を気負って聞かされているという印象を受けた。これは内面描写が貧しく、作品の底が浅いということを物語っているのではないかと思う。他の日本人女性二人についてもいえることだが、とりわけ押し寄せてくるイスラエル・英仏軍に家族とともに抗してスエズで最後まで戦う気構えのエジプト女性が、自分本位の「愛」を押しつけるだけの主人公のような男性に惹かれているように描かれているのも小説として不自然だと感じた。第二次中東戦争という歴史的時間と空間に材をとっていながらその緊迫感が伝わってくることもほとんどない。端的に作家の実力不足、題材が手に余ったということなのだろう。索漠とした読後感であった。

福田氏の「石原氏にたいするとき、誰もが平静ではいられない」「石原氏には、人の痛覚を刺激し、感情を刺激するところがある。」という見解はあるいは事実かも知れないが、もしそうであるならその原因のほとんどは、日本に住むあらゆるマイノリティーや特定の外国にたいする剥き出しの差別・偏見を臆することなく吐き散らし、対象者(よく考えれば私たちほとんどの大衆が何らかの形で攻撃の対象として当てはまるかも知れない)の心を不当にも深く傷つける、「北朝鮮とは戦争したっていい」「テポドンを日本に四、五発撃ってもらいたい」などの危険で無責任な言辞によって苛立たしさや好戦的な空気を煽っていることなど、負の要因によるものではないだろうか。そういう「勇ましい」言動を頼もしさと捉える人も結構いるようではあるが。


上に引用した文章に続いて、同書で福田氏は下記のように記述している。

「 江藤、三島のような意識的な書き手ですら、石原氏にたいしては、過度の親愛の情と妬視から自由になれませんでした。
 私も同様です。
 というよりも、私は自分の情感に屈服しました。その点で本書が客観的ではないという批判があれば甘んじて受けます。(略)けれども私は精一杯「フェア」であろうと努力しました。(略) 」

まず、福田氏の「私は精一杯「フェア」であろうと努力しました。」という発言だが、「フェア」であろうと努力したにしては、石原慎太郎の人物像を語る上で欠くことができないと思われる挿話が幾つか欠落しているように思う。

1970年、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に私兵の楯の会とともに乗り込み、日本中の耳目を一身に集めて派手な死に方をしたとき、国会議員だった石原慎太郎は一報を聞いて「これは、現代の狂気です。」と期せずしてだろうが、自民党政府閣僚とまったく同じ言葉を発している。誰にしても三島由紀夫とわずかでも交流のあった人は特に愕然としたことだろうが、それでも知友のなかで事件を三島の「狂気」のせいにしたのは石原慎太郎だけだったと記憶する。周辺の作家や編集者が当時三島の身辺に感じとっていたという不穏な気配に石原慎太郎は気付いていなかったのだろうか。本書で福田氏が石原慎太郎と三島由紀夫の関係に言及していることが多いので、この出来事が記されていないことは腑に落ちない。この件は特に作家石原慎太郎の洞察力を含めた精神内容を考察するのにもってこいの材料だと思われるが、論者の福田氏は文芸評論家なのだからなおさらである。

石原慎太郎をフェアに論じる気があるのならば、もう一つ抜いてならなかったのは、第37回衆議院議員選挙を目前に控えた1982年11月に起きた「黒シール事件」だったろう。石原慎太郎の公設秘書が同じ選挙区から立候補を予定していた新井将敬氏の政治広報ポスターに「1966年に北朝鮮から帰化」という黒シールを貼った事件である。昼間は目立つので深夜黒い服装で貼って回ったと伝えられているが、石原慎太郎は「秘書が勝手にやった」と、こういう場合の政治家の常套句を述べた。しかし、「公職選挙法違反」であることが明白な上にこういう陰湿きわまる特異な行動を秘書が政治家本人に秘密のままで行なうだろうか。石原慎太郎は新井氏の帰化を匿名の投書で知らされたそうだが、ならばこのことを秘書に伝えたのは石原慎太郎本人であろう。「秘書が勝手にやった」は通らないはずである。また「朝鮮籍」は存在しても「北朝鮮籍」というのはないのだから、政治家として当然知っておくべき制度についても無知だったわけだ。すったもんだの末、石原慎太郎は新井氏に謝罪したとも伝えられるが、都知事就任後の「三国人」発言(福田氏はこの発言を本書で全面的に擁護している。さすがかつて米国のイラク攻撃、自衛隊の後方支援に対しラジオ出演で何の躊躇もなく快活に賛同した人だけのことはある。そのくせ本書でも人の死の重さについての日本人の感覚の鈍磨について嘆かわしいとばかりに云々しているのだから、こういう人たちが文学に関わっている意味が理解しがたい。あの「三国人」発言には関東大震災時に流言飛語を撒き散らし、民衆を煽動した者たちと共通の心性さえ感じられた。)、つい昨年の「政権首脳には帰化した政治家が沢山いる」(これはまったくのでたらめのようである。記者は「その情報をどこで得たのか。誰に聞いたのか」と質問していたが、石原慎太郎は「多すぎていちいち覚えていない」と応じていた。そういう当然の質問にちゃんと答えることもできない他人の情報を公開の場で口軽にしゃべる政治家の責任を記者はその場その場で厳しく追及するべきだろう。)などの相次ぐ暴言・放言にみるとおり、新井氏への謝罪は口先だけのことだったのだ。

以上2点、三島事件に際しての「これは、現代の狂気です。」という第一声の件と「黒シール事件」とを避けて作家および政治家・石原慎太郎を語れる、語ってもいいと考えてこれらの件を意識的に除外したのなら、著者はかなり狡猾、もし思い浮かばなかったのだとしたらなんとも鈍感な文芸評論家だと思う。
2011.01.17 Mon l 石原慎太郎 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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