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石原慎太郎東京都知事は、3月25日、福島県災害対策本部を訪れ、佐藤雄平福島県知事と会談した後、報道陣に「私は原発推進論者です、今でも。日本のような資源のない国で原発を欠かしてしまったら経済は立っていかないと思う」と発言している。
http://www.gaylife.co.jp/?p=1775 (太字による強調はすべて引用者による)

この懲りない発言を私は無責任・自分勝手・軽率であると思うと同時に狂気じみているとも感じる。人が安全に生存する上での基本中の基本である大気、土壌、水は福島第一原発事故によってすでに汚染された状態である。汚染水の海への廃棄も当然のことながら、近隣諸国の怒りを呼んでいる。海外における日本の評価は今後より厳しくなるだろう。しかもいまだに事故収束の目途は立っていない。これからさらに汚染が拡大する危険も依然として消えていないのだ。もしかすると、半永久的に立ち入ることのできない地域が国土の一角にできることになるかも知れない、それも広大な範囲で、とふと思ったりして、虚しさの混じったつよい危惧を感じる瞬間があるのだが、こういう不安・葛藤を市民の誰でもが心中それぞれのかたちでだいているのはおそらく間違いないことだろう。そういう時の上述の石原都知事発言である。

石原都知事のように(与謝野・海江田などの政府閣僚もそうだが)、これまで強力に原発を推進してきて、この期に及んでなお「私は原発推進論者です、今でも。」というような発言をする政治家は、その際、同時に、これまで国内で発生した原発事故に対して推進派である自身がどのような改善策を提示し安全性への有効な援助をしてきたのか、また福島第一原発(新潟刈羽原発や静岡県の浜岡原発も同様)の深刻な危険性についてこれまで専門家や市民などから提示されてきた数多くの指摘・忠告にどのようなかたちで、どの程度、真剣な対応・取り組みをしてきたのかを詳細に説明してほしいと思う。そのような実態、実情について私などは何も知らない。報道陣も都知事の主張を黙って聞いているだけでは能がない。このような疑問を政治家たる者が有している責任問題として追求し、問いただすべきだろう。石原都知事は「資源のない国で原発を欠かしてしまったら経済は立っていかないと思う。」とも発言しているが、さまざまなエネルギー政策の手法を提示した上で「立っていく」と主張している専門家も幾らでもいるのだから、こういう発言をするに際しては必ず論拠を示した上で述べるのが常識だと覆う。

最悪の場合には日本の土地も人間も破滅させかねない、その上近隣諸国の空や海にまで放射能をまき散らすという犯罪的事故を発生させているのだから、政治家の責任はこれまで原発を推進してきたさまざまな勢力のなかでも東電とともに断トツに大きいのだ。その自覚がこの人には皆無のように思える。今なお「原発推進論者」であると表明するのなら、まず、今述べたように事故発生までの原発に関する自分の言動・行動が知事としての責任を伴ったものであったことを明確に説明し、次に、今後二度と重大な原発事故が発生することはないという科学的・合理的根拠を聞く者が心底納得いくまで説明すべきであろう。なぜなら、この問題は私たち市民の生命と生活を根底から左右し、揺るがす重大事だからである。それをしないで、「私は原発推進論者です、今でも。」とこともなく述べられたのでは、徹底的に自省力を欠いた人間の無責任な放言としか感じ取れない。

もっとも私はそのような責任ある態度を石原慎太郎という人物がとれるとは情けないことだがとうてい思えない。というのも、2000年4月26日に日本原子力産業会議(現日本原子力産業協会)の講演で石原都知事は下記のように発言している。

「私は、完璧な管理が行われるのであれば、東京湾に立派な原子力発電所を作ってもよいと思います。 /
日本にはそれだけの管理能力がある、技術があると思っております。また、その技術が改善されていく余地があると思っております。それくらい冷静な認識を持たないと、何でも反対ということでは禍根を残すこととなります。

石原都知事の「東京湾に原子力発電所を作ってもよい」という発言はこのときだけのことではなく、講演やテレビなどで昨年まで何度も同じ発言を繰り返しているのだが、「日本にはそれだけの管理能力がある、技術がある」「その技術が改善されていく余地がある」という彼の発言がまったくいい加減なものだったことは、今回完膚なきまでに証明されてしまった。日本には管理能力がある、技術がある、その技術はさらに改善される余地がある、そしてそのような見方こそが「冷静な認識」である、と首都の長として公言してきたこととこの悲惨な現実のギャップに対する感慨(?)は如何なのだろう?

ちなみに、石原慎太郎が原発安全論を盛んに語っていたちょうどその頃、音楽家の坂本龍一が自身の父親について対談でこんな話をしているので引用しておく。

「うちの父がいま80歳です。「どうしてこんなになっちゃったんだろう」というんですよ。「日本人ってどうしてこんなになっちゃったんだろう」って。原発で人為的な事故が起こったでしょう。しかも誰もきちんと責任をとらない。ぼくにポロっと言ったことがありますよ。「日本人は、こういうことだけはやらなかったのにな」って。」 「もう生きていたくないという気持ちもあるでしょうね。見たくないっていう。」(「反定義 新たな想像力へ」辺見庸×坂本龍一(朝日新聞社2002年))

石原知事より、坂本龍一のお父さんの方が比べるのもはばかられるほど正確に現実を見据えていたと私は思う。また石原知事は今回の事故を惹起した東京電力に対し「蹴飛ばしたくなる」とも発言しているが、理由は異なるにしろ、誰かれに「蹴飛ばしたくなる」と言われても仕方がないのは自分も同じではないだろうか。都知事のこの発言に対して「石原節は健在だった」と書いた新聞記者もいたが、おもねっているのか、能天気なのか、情けなさすぎると思う。かりにも新聞記者ならば、石原慎太郎がこれまで熱烈に原発を推進してきたこと、東京湾に作ってもいいほど日本の原発は安全だと吹聴してきたこと、さらに核武装論者でさえあることも承知しているだろうに。今年(2011年)に入ってからでも、彼は、

「ちょっと抵抗あると思うけど日本と韓国が一緒になって核兵器を持たなくてはダメ。それが一番いい。アメリカも助かりますよ」(「石原慎太郎、産経紙上で大放談」2011.01.03)

と平然と核武装論を唱えている。福島第一原発事故発生後の「天罰」発言や「今でも自分は原発推進論者」という発言をこの「核武装論」や前述の「原発安全論」と照合・勘案して考えてみると、石原慎太郎が東京電力を「蹴飛ばしたくなる」のは、これまで率先して原発安全神話を振りまいてきた自分のメンツが今回の事故で傷ついたこと、また永年の夢(?)である日本の核武装が当面遠のいたと思わざるをえないことなどへの苛立ちのせいではないかという気もする。いずれにせよ、東日本大震災後のこの人の発言には、一つとして強烈な違和感を覚えさせないものはないように思えるのだが、それが被災者や被災地の農・漁業を営む人々が蒙っているさまざまな苦難や市民一人ひとりの生活の安全などより、「原発」「核武装」への自己の執着の方が大事という石原慎太郎個人の「我欲」によるものでなければ幸いである。
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2011.04.08 Fri l 石原慎太郎 l コメント (0) トラックバック (0) l top