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J-CASTニュース(2011/5/17 20:06配信)の記事「起立しない教員は「クビ」 橋下知事、国歌斉唱で処分基準」は、「大阪府の橋下徹知事は2011年5月17日、国歌斉唱時に起立しない教員の免職処分基準を定めた条例案を9月府議会で審議する方針を示した。」という記述の後、国歌に関する橋下知事の過去の発言を次のように伝えている。(強調はすべて引用者によるもの。)


「 府教委の指示に従わない「君が代反対」の教員が絶えない中、橋下氏は以前からの国歌斉唱への強いこだわりを見せてきた。
たとえば2008年の「全国産業教育フェア大阪大会」の開会式挨拶では、数百人の高校生を前に、自らが受けた教育について「戦後教育の中でも最悪。国歌も歌わされたことがない」と批判し、「社会を意識しようと思えば国旗や国歌を意識しなければいけない」と熱弁。大阪府庁の新規採用職員任命式では2010年から君が代斉唱を取り入れ、「日本国家の公務員が国歌をきちんと歌うことは義務」と語っていた。」

このように橋下氏は自分が受けた学校教育について「最悪」「国歌も歌わされたことがない」と述べている。「国旗・国歌法」が成立したのは1999年なのだが、橋下知事のこの発言をみると、彼の理解では、「君が代」は戦前・戦中・戦後を通し一貫して日本の国歌であったということのようだ。でも事実は決してそうではなかったようである。


   

詩人・小説家であり、批評家でもあった中野重治は、「君が代」は「日の丸」(注1)と異なり、明治以後のどのような法律においても国歌として定められたことはただの一度もないことをたびたび書いている。1977年(死去の2年前)の「男の一分と裕仁天皇」(全集28巻に収載)という題の文章は、冒頭が次のとおりである。

「「キミガヨ」を国歌なみに扱おうとする動きがあり、これはみな知つている。これに反対の声があることも、世間みな知つている。ただしこれは、キミガヨを国歌として「復活」させようという動きなのではない。キミガヨは、旧憲法、旧法律上、国歌であつたことがなかつたのだから。なかつたもの、それの復活ということは法的にありえない。このことは、私は何度か書いてきた。ただそれは、天皇が超憲法的に「神」とされてきたのに並んで、超憲法的、超法律的に、つまり全く不法に国歌あつかいで事実上おしつけられてきたのだつた。だから、キミガヨ国歌あつかいの新しい陰謀は、言葉どおり不法の企てであつてそれ白身憲法背反のことである。」(引用者注:この文章は全体が長くもなく、内容はなかなかに興味深いので、これに続く後半部は(注2)として、末尾に引用しておくことにする。)

この文章を読むと、中野重治は当時、「君が代」が「国歌あつかい」はされても法制化されることがあるとは当面の問題としては考えていなかったようにも思える。日本国憲法の前文や各条文の内容から推し測って、この憲法の下では、天皇と天皇家の栄光・繁栄を祈り寿ぐことが主題の「君が代」を法的に国歌として定めることはいくら自民党政権でも躊躇するだろう、できないだろうと考えたのだろうか。あるいは、そういうこと以前に、明治以後「天皇が超憲法的に「神」とされてきたのに並んで、超憲法的、超法律的に、つまり全く不法に国歌あつかいで事実上おしつけられてきた」歴史的事実、それに対する反省も性懲りもなく再び同じことを企む勢力への弾劾をここではひたすら述べているのだろうか。

「君が代」は過去国歌であったことはないと述べているのは、思想史家の藤田省三も中野重治同様である。1990年のとある集会で「今なぜ大嘗祭か」(「戦後精神の経験?」収載)と題して、藤田省三は下記のような話をしている。

「明治時代には日露戦争の時でさえ、1905年日露戦争の最中ですね、『朝日新聞』の今で言う「天声人語」みたいなコラムに、「皇室に歌あり、民に歌なし、民に歌なき国民は不幸なるかな」という政府批判がちゃんと載っているんです。ということは、知っている人はもう“「君が代」というのは「国歌」でも何でもないんだ。天皇家の歌であるかも知れないけれども、国民の歌ではない、民の歌ではない”ということをはっきり知っていたのです。それがその後の数十年のうちに、つまり私たちが子供のころ(引用者注:藤田省三は1927(昭和2)年生)が一番すごかったわけですけれど、さっきいったようにきびしい条件のもとで、周囲から圧力をグンと加えて、「臣」と「民」を溶接させて、一億一心にするころになりますと、学校のなかに殆ど毎日のように、歌わせるわけですから。いつの間にかそれが「国歌」であるかの如き幻想を日本中の一億人がみんなもってしまった、もたしてしまった。 」

私は中野重治、藤田省三という二人の作家が残している作品・著作は傑出してすぐれていると感じていて、いい加減な内容を書いたり話したりするようなことはないと思うので、彼らの発言内容はまず間違いなく事実だと思うが、そうだとしたら、「国歌も歌わされたことがない」という橋下知事が受けた教育は、少なくとも国歌という点にかぎっていえば、別に「戦後教育の中でも最悪」だったわけではなく、しごく正当なものだったということになるだろう。


   

「君が代」に纏わる話題でほとんど唯一といっていいくらいなのだが、私が愉快にも痛快にも感じ、好きだと思うのは、宮沢賢治に大きな影響をあたえたといわれている、賢治小学校3・4年のときの担任教師であった八木英三先生の言葉である。八木先生は宮沢賢治の伝記類には必ず登場するので知っている方も多いかと思うが、当時まだ二十歳にもならない若いこの先生は広い自由闊達な精神をもっていて、「君が代」についても教室で「君が代ではない、わが代だ。わが代こそ千代に八千代に、だ」と語って生徒たちを驚かせたそうである。

私もこの話を何かの本ではじめて知ったときは思いもかけなかった言葉に出会って驚いたのだが、この挿話一つで、この先生が心も頭も自由であるとともに、如何に生徒たち一人ひとりの人格と人生を大事に思っていたか分かろうというものである。また、八木先生のこの言葉により、あの歌は大人にとってもそうだが、児童・生徒にも決して相応しいものでないことが自ずと炙り出されているように思う。都知事や府知事や教育委員会などの狭量で硬直した「義務だ、ルールだ」「起立し、歌わなければ停学だ、懲戒免職だ」という言動は教師だけではなく、児童・生徒の精神にも多大な悪影響をあたえているのではないかとの懸念もつよくいだかされる。このように八木先生の挿話は現実と照らし合わせて実にいろいろなことを感じさせ、考えさせるものであるが、詩人宮沢賢治によき感化をおよぼした、大きな影響をあたえたという評価についても、一も二もなくすんなり納得させるつよい力が「わが代」という発想・言葉には確かにあると思う。


     ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

(注1) 「日の丸」の法制定
1870年(明治3年)、太政官布告第57号「商船規則」制定。(縦横比率は7対10とし、赤丸は旗の中心から100分の1竿側(左)寄りとする)
1899(明治32)年、船舶法を制定し、船舶の国旗掲揚について定める。

「映画日本国憲法読本」日高六郎(2004年11月6日)
「――先生はヨーロッパにいらっしゃるわけで、外側から日本を見ることでわかることは何かありますか。
 僕は、中国で生まれて中国で育った。(略)僕は、もう少し日本人にはアジアの民衆の気持ちを知ってほしい。この間、サッカーの試合で中国の観衆が日本の国歌のときにブーイングしたけれど、僕は中国人の心が痛いぐらいにわかる。あの15年戦争のなかで2000万の人間が死んだ。南京虐殺事件が話題になるけれど、もっと小さい町、小さい村でどんなことが行われたか。(略)日本が徐州を占領したとき、もう青島は日本軍の支配下です。中国の小学校や中学校の子どもたちに日の丸を持たせて徐州陥落のお祝いの旗行列をやらせる。そういうことに親父も憤慨していた。非常に保守主義の私の父もね。
 結末はどうかというと、解散する場所で、ひとりの子どもが、「かいさーん」という声と同時に、日の丸を下に落とし、靴で踏みつけた。先生も子どもも、全員それをやりました。
 不思議なことに、日本軍側は、処分という事件にしなかった。むしろそういう事態が起こったことが外に拡がり、知られることを防ごうとしたんですね。」


(注2) 「 ところで、このあいだ天皇の新聞記者会見というのがあつた。あれは宮内庁が取りしきるもののように見える。出席の記者も、よほど変り者ぞろいなのかも知れない。ただし、しらべずにこう書いてしまつては私の方がまちがうかも知れない。失礼の場合は、事実を示されれば私の方で訂正する。
 そこでしばらく前のその会見のとき、だれか記者が、裕仁天皇がマッカーサー元帥のところへ行つたとき、どんな話をなさつたのかという意味のことを質問した。すると天皇が、それは二人だけのあいだの話で、人に洩らすわけには行かぬ、それでは男としての面目がすたる、というようなことを言つて記者は黙つてしまつた。納得したのか、二の句がつげなかつたのかは、新聞印刷の限りわからなかつたが。
 しかし私は全く異様な気持ちをいわば舌でなめた。天皇がアメリカへ行つたとき、マック夫人から言いだしたが天皇は訪問しなかつた。それには理由が「男として」あつたのかも知れぬ。しかし時がたつた今になつても、日本の新聞記者に洩らせぬようなどんなことをあのとき天皇はマックと話しあつたのか。約束なりしたのか。「男の一分(いちぶん)」、「男として」、――女を含めて言葉の方が泣くだろう。」(77年10月18日)

簡単な感想だが、77年にはすでに敗戦後の昭和天皇がマッカーサーに対し、占領終了後も米軍は沖縄に50年、あるいはそれ以上の長期にわたって駐留して日本を守ってほしいと懇願していたことが明らかにされていたので、このころ中野重治の天皇に対する見方はこころなしかそれ以前より一段と厳しくなっているように感じる。
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2011.05.21 Sat l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
   

2008年の大阪府知事選に自民党(古賀誠議員など)がタレント兼弁護士の橋下徹氏擁立に動いていることを知ったときには、驚いた。自民党の支持者だったことは過去一度もなかったと思うが、それでも「そこまで落ちぶれたのか、 自民党!」というような見下げはてた気持ちがしたものであった。当時の橋下氏は、大阪のテレビ番組で視聴者に向かって光市母子殺害事件の弁護人たちに対する懲戒請求を煽動し、その結果、各弁護士会には煽られた視聴者からの懲戒請求が殺到するという騒ぎを引き起こしていた。また、当時、彼のホームページには、「橋下流、交渉術」として、『合法的な脅し』と『仮装の利益』『お願い』の三つが弁護士業遂行上の手法として堂々掲げられていた。これはずいぶん話題になったから多くの人は周知のことだろうが、一応記しておく。

「身に付けていった交渉術が『合法的な脅し』と『仮装の利益』。
 これが僕の交渉方法の8割から9割を占めます。
 最終手段で『お願い』をすることもあります。
 合法的な脅しとは、法律に反しないギリギリのラインで、相手側にプレッシャーをかけることです。
 『仮装の利益』とは、『こちらの要求に従えば、これだけの不都合が避けられますよ』と、実在しない上乗せを示し、相手を得した気分にさせて要求を通すというもの。
 これも合法的な脅しと併せてよく用いる交渉方法です。
 それでも話し合いに進展が見られないときに使う奥の手が、『お願い』です。」


また、これは雑誌の見出しだったのではないかと思われるが、「論理とは詭弁だ 異色の若手弁護士が語る説得法 『詭弁を弄してでも、黒いものを白いと言わせるのが論理的な交渉の醍醐味』と豪語する橋下弁護士 」という文章が今も依然としてネット上に見られるが、ソースは分からない。ただ、上記の文章にも言えることだが、「論理とは詭弁だ」とか「黒いものを白いと言わせるのが論理的な交渉の醍醐味」などというせりふは実に橋下的であり、これが他の誰でもない、橋下氏自身の発言であるだろうことはちょっと疑いようがないように思えるところが、なんとも言えない、個性的である。

「懲戒請求」煽動の問題に話題を戻すと、橋下氏はこの件で二件の訴訟を起こされている。一件目の提起は2008年であり、二件目は2009年で一件目とは別の弁護人19名によるもので、橋下氏と読売テレビを相手に一億円以上の賠償請求がされているとのこと。どちらの裁判も現在進行中のようである。弁護士の阪口徳雄氏は、自身のブログで、二件目の訴訟について、「この裁判は橋下弁護士は再度敗訴するだろう。」と述べている。以下に同ブログからもう少し引用させていただく(/は改行箇所)。

「テレビで、被告人の弁護人の訴訟活動を批判するなら、これは表現の自由の範囲内。/しかし彼は、視聴者に向けて『懲戒請求』を呼び掛けている。/懲戒請求された弁護士らは無意味な懲戒請求でもそれに対応する負担が生じる。橋下弁護士も弁護士である以上、懲戒請求の現実は知っているはず。/しかも、この懲戒請求の呼びかけは、無責任なワイドショーテレビなどが作りだした『世間の意見』に迎合しただけで、弁護士として何の見識も見られない。/弁護士がこの程度のレベルと思われるだけでも、同じ弁護士として恥ずかしい限り!!」

とのことであるが、当たり前の弁護士で阪口氏のこの意見に反論するのは難しいだろう。大阪府知事選は結局橋下氏は無所属で出馬、自民党と公明党は府連レベルで支援したそうだが、「弁護士失格」(刑事にしろ、民事にしろ、裁判を余儀なくされた場合、この人に弁護を依頼しようとする一般市民が何人いるだろうか? たとえタダでも。)としか言いようのないこのような人物を選挙に担ぐことができるという時点で、自民党にも公明党にもあきれはてるのだが、ただここまでくると、もう個々の政党の問題というより、日本の政治土壌の問題であり、これはその腐乱現象の象徴的出来事ではないかという疑いをもつ。


   

橋下府知事が君が代斉唱時に起立しない教員は辞めさせると述べた件について、最初に5月16日の発言を日経新聞から引用する。(強調はすべて引用者による。)

「君が代起立しない教員「絶対辞めさせる」 橋下知事 (日経新聞ウェブ刊5月17日)
地域政党「大阪維新の会」の府議団が5月議会に提出を目指す君が代斉唱時に教員の起立を義務付ける条例案について、大阪府の橋下徹知事は16日、「(起立しない教員は)絶対に辞めさせる」として、強い姿勢で臨む考えを示した。府庁で記者団に語った。
 維新府議団は同日、条例案の対象に府立学校だけでなく、府内の政令市を除く市町村立の小中学校の教職員も加える意向を示した。
 橋下知事は「国歌・国旗を否定するなら公務員を辞めればいい。公務員の身分保障に甘えているだけ」と強調し、「辞めさせるルールを考える」と述べた。維新は条例案に罰則を設けない方針。起立しない教員は地方公務員法に基づく懲戒処分を受ける可能性があるが、最も重い処分の免職の適用は困難との見方もある。
 府教育委員会は2002年に君が代斉唱時の起立を府立学校などに通達し、職務命令違反で懲戒処分とした教員は計7人いるが、処分はいずれも最も軽い戒告。また東京高裁は今年3月、都立学校の教職員167人の処分を「懲戒権の乱用」として取り消す判断をしている。」


次に、翌17日の橋下府知事の発言とこれに対する周辺の反応をスポーツ報知の配信記事から引用する。

「橋下知事「許さない」 「君が代」起立しない教員、全部クビ!(スポーツ報知 5月18日)
 大阪府の橋下徹知事(41)は17日、入学式や卒業式での君が代斉唱時に起立しない教職員に対する免職処分の基準を定めた条例案を、9月の府議会で審議する意向を表明した。橋下氏は「辞めさせるルールを考える。国旗国歌を否定するなら公務員を辞めればいい」と16日に述べており、その具体策として条例化への意欲を示した。大阪府教職員組合は、同様の条例は全国でも例がないと指摘し「民主主義の根幹を揺るがす」と猛反発している。

 君が代斉唱時に起立しない教職員はクビにする―。16日には「身分保障に甘えるなんてふざけたことは、絶対許さない」と強硬発言を繰り返していた橋下知事はこの日、その具体策として条例化に言及。「(校長などからの)職務命令違反を繰り返した場合、段階を踏み停職を入れるが、最後は免職処分とする」と処分基準の考えを示した。

 自身が代表を務める「大阪維新の会」の府議団が、教職員に起立を義務づける条例案を、19日開会の5月議会に提出する予定。維新の会は府議会で単独過半数を占めているため、提出すれば可決する見通しだ。ところが、維新の会の条例案には罰則規定がないため、橋下知事は、その実効性を担保するため、免職処分の手続きを定めた規定の条例化を目指す。

 これに対し、大阪府教職員組合は「大変大きな問題。知事に異論を唱える声を条例で封じる。これはファッショ以外の何者でもない」と指摘。また、「教育文化府民会議」はこの日、条例案の提出を見合わせるよう府議会各会派に求めるなど、反発の動きも出ている。

 大阪市、堺市の政令市を除く府内の公立小中学校教職員の処分権は大阪府教育委員会にあり、従来の規定では、懲戒処分のうちで最も軽い戒告が“上限”。府教委によると、2002年度以降、君が代斉唱に関する職務命令違反で厳重注意か戒告となった教職員は計9人だという。同知事は「免職になるルールを作った後は政治が介入せず、どういう職務命令を出すかは学校現場に任せればいい」とし、最終的な処分の判断を学校側に委ねる意向を示した。 」


いったいぜんたい、こやつは、…いや、この方は、いつの時代のどこの国の専制君主なのかと見紛うばかりの暴君ぶりである。99年に「国旗・国歌法」が成立したとき、当時の小渕首相は「命令とか強制とか、そういう形で行われるとは考えておりません」「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではありません」と国会答弁し、野中官房長官も「強制的に行われるんじゃなく、それが自然にはぐくまれていく努力が必要と考えております」という旨の答弁をしていた。

現実にはそれ以前から学校現場では学習指導要領に基づく「強制」が行なわれてきており、首相らの発言を額面どおりに受け取る向きは少なかったと思われるが、しかし、国会での答弁は公的発言であり、これは政府による国民・市民への誓い、約束には違いないだろう。第一、「国旗・国歌法」が制定されたからといって、それが入学式や卒業式に国旗・国歌を強制できる根拠になりうるとは法律のどこにも記述されていない。

その後の経過をみると、東京都などは教師を休職処分にまでしたりと常軌を逸した行動が続けられてきたが、とうとう「懲戒免職」の脅しをかける知事まで現れたわけである。橋下氏は府知事選出馬の会見で「石原都知事の政策に感動した。」と述べていたと記憶するが、この強硬ぶりを見ると石原慎太郎の影響もあるのかも知れない。朝鮮学校への都・府それぞれの補助金を他地域に率先して打ち切った点も共通している。橋下知事の場合はわざわざ学校を訪問までして、教員・生徒たちに散々気を遣わせた上での打ち切りであった。なかなかできることではないだろう。

16日に橋下知事は「国歌・国旗を否定するなら公務員を辞めればいい」、「辞めさせるルールを考える」と述べているが、冗談ではない。被告人を弁護するのが職務である弁護士がその役割を忠実に果たしているのに対し、テレビ番組で調子に乗って懲戒請求を煽って騒動を起こすのがせいぜいの弁護士、仕事上の交渉術においては『合法的な脅し』と『仮装の利益』提示を得意としていた弁護士。つい数年前までそのような弁護士であったこの知事から、「国歌・国旗を否定するなら公務員を辞めればいい」といわれる筋合いはない、と教師は内心誰でもそう思うだろう。

「日の丸」「君が代」には日本が他国への侵略を恣にし、他民族を苦しませぬいた戦前・戦中の歴史がいまだに生々しく刻印されているように思われる。もし日本がこれまでに自己の過ちを素直に認めて被害国および被害者に心からの謝罪をし、できるかぎりの補償をしてきたならば、国旗・国歌についての日本人の考えももっと多様にそして自由になり、認識も深められていたのではないかと思う。しかし現実はそうではなかった。「国旗・国歌法」は議論らしい議論もされず、硬直した単調で一本調子の言説が行きかう延長線上で強引に制定されたのだった。理由は一つではないだろうが、日の丸・君が代を素直に受け入れることはとてもできない。そのように感じ、考える人々が存在するのは当然のことだと思う。

逆に、そのような感受性や歴史観が根絶やしになったなら、現状の日本社会はまったく絶望的になるのではないかという気がする。そしてこのような思い、考え方、生きる姿勢を憲法19条の「思想・良心の自由」は個人の正当な権利として許容している。というより100パーセント保証し、支持しているとさえいえると思う。憲法に支持されず、許されていないのは、地位にモノをいわせて個人の尊厳の象徴ともいえる「思想・良心の自由」を踏みにじり、その上、他人のかけがえのない職業、生活の糧でもある職業まで奪おうとする、そこまで思い上がってしまっている橋下知事のほうだろう。歌は強制され脅迫されて歌うものではない。少数意見の存在の価値を知らないリーダーは救いがたい。大阪府議会はこのような恥ずべき条例案の提出をぜひとも拒否してほしい。なんだか、学校の先生も、児童・生徒も、ひいては私たち一般市民も、実は帝国ニッポンの臣民だったのかと錯覚する気分である。
2011.05.19 Thu l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
昨日、5月17日はとても腹立たしくショックなニュースに二件もであった。両方とも大阪発で、一件は橋下徹大阪府知事の「君が代斉唱」に関するいつもながらの横暴・傲慢発言。日経新聞のウェブ刊によると「地域政党「大阪維新の会」の府議団が5月議会に提出を目指す君が代斉唱時に教員の起立を義務付ける条例案について、大阪府の橋下徹知事は16日、「(起立しない教員は)絶対に辞めさせる」として、強い姿勢で臨む考えを示した。府庁で記者団に語った。」というニュースであった。もう一件は、昨年4月最高裁が「十分な審理が尽くされたとは言い難い」として審理を差し戻した「大阪母子殺害・放火事件」に関するニュース。大阪地裁の差戻し審において最重要証拠になることが確実であった「未検査の吸い殻71本」をなんと大阪府警がとうの昔に紛失していたことが17日に分かった(毎日新聞)というのだ。

いったい何様のつもりだか、国歌斉唱時に起立しない教諭は免職させると言い放った橋下府知事の言行についての感想・意見は別の機会に譲るとして、今日はこの「大阪母子殺害・放火事件」の「タバコの吸い殻紛失」の件を取り上げる。

この事件については最高裁が差戻しを決定した後、読者の方に教えられ、判決文を読んでみたところ、稀にみる公正なよい判決だと思い、当ブログも記事にしたことがある。「「大阪母子殺害・放火事件」大阪地裁に差戻し-最高裁第3小法廷」。その後も差戻し裁判の開始がいつになるのかなどいろいろ気になってはいたのだが、まさか証拠品紛失という事態が起きるとは……。事件の全体像についてご存知ない方もいられるかも知れないので、5月17日の毎日新聞ウェブ版から、事件の概要および今回判明した吸い殻紛失の記事を引用しておく。まず、事件の概要から。


「 ◇大阪市母子殺害事件

 02年4月14日夜、大阪市平野区のマンションの一室から出火、焼け跡から主婦の森まゆみさん(当時28歳)と長男瞳真(とうま)ちゃん(同1歳)の他殺体が見つかった。まゆみさんは森健充被告の妻の連れ子の嫁。検察側は、まゆみさんへの恋愛感情を募らせた森被告が、拒絶されたことなどを憤って絞殺し、瞳真ちゃんを浴槽で水死させて放火したとして殺人と現住建造物等放火の罪で起訴した。最高裁が無罪の余地があるとして死刑を破棄した判決は過去6件しかなく、後に全て無罪が確定している。 」


次に、「未検査の吸い殻71本 府警が紛失」というタイトルの記事。

「 大阪市平野区で9年前に起きた母子殺害放火事件で殺人などの罪に問われた大阪刑務所刑務官(休職中)の森健充(たけみつ)被告(53)の裁判で、大阪府警が被告の足取りに関わる重要証拠のたばこの吸い殻72本のうち71本を紛失していたことが17日分かった。誤って廃棄したとみられる。最高裁は昨年4月の差し戻し判決で吸い殻を鑑定する必要性を指摘しており、差し戻し審での審理に大きな影響が出そうだ。

 事件では、森被告の関与を示す直接的な証拠はなく、検察側は状況証拠の積み重ねで立証を進めた。府警は現場マンションの階段踊り場の灰皿から吸い殻72本を採取し、森被告が吸っていたものと同じ銘柄の吸い殻1本を発見。DNA型鑑定で森被告のものと断定した。

 関係者によると、紛失したのはこの1本を除いた全て。府警はこれら71本を段ボール箱に入れて平野署4階にあった捜査本部の整理棚に置いていたが、起訴から間もない02年12月下旬に紛失が判明。捜査員が24時間常駐する捜査本部から第三者が持ち出した可能性はないとして、誤って廃棄したと結論付けた。

 府警は、公判で弁護側が吸い殻に関する証拠を開示するよう請求した後の04年1月ごろまで検察側に紛失を伝えていなかった。

 検察側は一貫して、森被告のものとされる吸い殻について「被告が事件当日に捨てたもので犯人性を強く示す」と主張。弁護側は「森被告が被害者夫婦に自分の携帯灰皿を渡したことがあり、その中の吸い殻を事件以前に捨てた可能性がある」と反論した。1審の大阪地裁は検察側主張を認めて無期懲役、2審の大阪高裁は死刑を言い渡した。

 しかし、最高裁は昨年4月、「十分な審理が尽くされたとは言い難い」として審理を差し戻した。その際、71本の中に被害女性が吸っていた銘柄が4本あることに注目。差し戻し審で71本を鑑定するよう促し、「被害女性のDNA型に一致するものが検出されれば、携帯灰皿の中身を(踊り場の)灰皿に捨てた可能性が極めて高くなる」と指摘した。裁判官1人は「一致すれば無罪を言い渡すべきだ」との補足意見を付けた。

 検察側が地裁や弁護側に初めて紛失の事実を明らかにしたのは、昨年7月に大阪地裁で行われた差し戻し審の打ち合わせ。弁護側から1審段階で吸い殻に関する証拠の開示を何度も求められた際、検察側は「開示に応じる理由がない」などと拒否していた。【苅田伸宏】 」


最後に、同新聞に掲載されている事件発生から今日までのおおよその経過も引用しておく。

「 ◆大阪・母子殺害事件の経緯◆

02年4月14日 事件発生
   ↓
    中旬   府警が階段踊り場灰皿から吸い殻採取
   ↓
  11月16日 府警が森被告を逮捕
   ↓
  12月7日  検察が殺人罪で森被告を起訴
   ↓
    下旬   吸い殻を入れた箱の紛失が発覚
   ↓
03年3月31日 大阪地裁で初公判
   ↓
  12月    弁護側が吸い殻関連の証拠開示を依頼
   ↓
04年1月    府警が大阪地検に紛失を報告
   ↓
         検察が「開示しない」と回答
   ↓
05年8月3日  大阪地裁が無期懲役判決
   ↓
06年12月15日 大阪高裁が死刑判決
   ↓
10年4月27日 最高裁判決(地裁に審理差し戻し)
   ↓
10年7月    地検が地裁と弁護人に紛失を説明 」


被告人は取り調べ段階から、使いかけの携帯用灰皿を被害者および被害者の夫(被告人の義理の息子)にいくつか渡したことがあり、被害者がその中身を自宅マンションの階段踊り場の灰皿に移したに違いないと訴えていたそうである。警察はそのことを知り、また踊り場の灰皿に在中していた72本の吸い殻のなかに被害者が吸っていたタバコと同銘柄の吸い殻が4本在中していることももちろん知っていたはずなのに、その時点でなぜその4本の吸い殻が被害者のDNAと一致するかどうかを調べようとしなかったのだろう。一致したからといって即被告人の主張が正しいことにはならないが、最高裁の何人かの裁判官によると、写真ではどちらの吸い殻も非常に古びて見えるそうである。特に被告人の吸い殻はもしその階段踊り場で吸ったのだとしたら犯罪当日に吸ったことになるのだから、その一、二日後にそうそう古びて見えるのは確かにおかしいし、また被告人の発言の信憑性を測る上で被害者が愛用していたタバコと同銘柄の4本の吸い殻のDNA鑑定および吸った時期の確定はこの上なく重要だったはずである。

毎日新聞の上記記事によると「府警はこれら71本を段ボール箱に入れて平野署4階にあった捜査本部の整理棚に置いていたが、起訴から間もない02年12月下旬に紛失が判明。捜査員が24時間常駐する捜査本部から第三者が持ち出した可能性はないとして、誤って廃棄したと結論付けた。」ということだが、この府警の説明も不可解である。いとも簡単に「誤って廃棄したと結論付けた。」と述べているが、誰が、いつ、どのような経過で「誤って廃棄した」のか捜査しなかったのだろうか? 被告人が「使いかけの携帯用灰皿を被害者に渡したことがあるので、被害者がその中身を階段踊り場の灰皿に捨てたに違いない」と供述し、被害者の吸っていたタバコと同銘柄の吸い殻も見つかっている以上、71本の吸い殻の行方も法廷で問題になることが分かりきっていたと思えるのに、紛失を一年以上も検察官に隠していたのだろうか? そしてその間、検察も4本の問題の吸い殻について気にも留めなかったのだろうか? 警察に紛失を打ち明けられた時、検察はどのような対処をしたのだろうか? 紛失により処分を受けた警察官はいるのだろうか? 検察は、法廷でなぜ正直に紛失したことを述べなかったのだろうか? 紛失を隠しておいて死刑を求刑する心境はどういうものだったのだろうか? また、これまでの三回の判決――無期懲役、死刑、審理差戻しの判決をそれぞれどのような気持ちで聞いたのだろうか? 

一・二審の裁判官に関しても大きな疑問がある。携帯用灰皿についての被告人の一貫した訴え、被告人の吸い殻が水に濡れたわけでもないのに古びて褐色に変色していたこと、などを総合して勘案すると、4本のタバコが被害者の吸ったものかどうか、もし被害者の吸ったものだったとしたら、時期はいつごろのものか、それを調べることこそ真相究明のための裁判所の主要役割だったと思うのだが、なぜ検察官に4本の吸い殻の提出を命じなかったのだろう。もしそうしていれば、「紛失」の件も法廷の場でとうに明らかになり、事件を見る人々の視線も裁判への関心の度合いも全然違っていたはずなのだが…。一・二審の裁判官の失態もまた重大だと思う。
2011.05.18 Wed l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
最初に、岩波書店の金光翔さんに対する解雇通告(等)に関連して、ウェブ上で目に入ってきた文章を紹介しておきたい。

○片山貴夫のブログ 急報 岩波書店が金光翔さんに「解雇せざるをえない」と通告
○media debugger 岩波書店へのメール3
○全体通信 金光翔氏の解雇を許してはならない
lmnopqrstuの日記
○アンチナショナリズム宣言 モラル無き企業ー東京電力と岩波書店 
○一撃筆殺仕事人:佐高信先生追っかけブログ 信州岩波講座9月に佐高さん講演会、対談。
○こころなきみにも 金光翔への集合暴力(1) 
○横板に雨垂れ 岩波書店へのメール文    等々。

○金光翔さんの「首都圏労働組合特設ブログ」の最新記事はこちらの「岩波書店、「解雇せざるをえない」通知撤回を拒否」


さて、本年4月1日金光翔さんに突如解雇通知を送ってきた岩波書店から刊行されている労働問題関連の本にはどのようなことが描かれ、どのような見解・主張が述べられているのだろう。今回の岩波書店の解雇通知を考える上で、図書館から借りてきた下記の一、二冊の本も参考資料になるのではないかと思うので、一部引用してみる。

まず、笹山尚人著「労働法はぼくらの味方!」(岩波ジュニア新書2009年)。印象に残った箇所をいくつか挙げるが、最初は、解雇について。この本は金光翔さんが解雇の理由として会社から告げられたユニオンショップ制については触れていないが、一般論としては大いに参考になるだろうと思う。解雇について下記のようなことが述べられている。


① 解雇について

「…おじさん(引用者注:職業は弁護士。アルバイトをしている高校生の甥や派遣で働いている姪の悩みに答えて労働法について説明している。)は、それでは、と言ってから、「解雇」の問題について『六法全書』を開きながら説明をしていった。

 「解雇」とは、使用者が労働者に対し労働契約を解約したいと通告することなんだ。本来、期間の定めのない労働契約を解約する場合は、労働者からでも、使用者からでも、一方的に解約通告ができるんだ(民法627条)。この場合、通告から二週間を経過することで、契約関係は自動的に解消されることになる。
 しかし、これをそのまま認めてしまうと、使用者からの解雇の場合、労働者は突然生活の糧を失い、路頭に迷うことになる。これでは不都合なので、解雇については判例上、「解雇権濫用法理」という理論が発達して、規制することになったんだ。つまり、客観的に合理的理由が存在し、それが社会通念上相当として是認できる場合でなければ、解雇は権利の濫用として無効なんだ。
 この場合の「解雇に合理的な理由がある」ことは、使用者の側で主張し、立証しなければならない。


●労働契約法 第16条
 解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。

つまり「解雇」をするには、合理的な理由、もっと平たく言えば、世間一般の目から見て、「なるほどそれならクビになっても仕方ない」と考えられるような、それ相応の理由が必要となる、というルールが確立しているんだよ 」
「…法の定める「合理的な理由」というのは、たとえば、会社のお金を使い込むとか、その人が責められて職を追われても仕方ないぐらいの非難されるべき行為を言うんだよ。(略) 」


② 次は、職場の「セクハラ・パワハラ・いじめ」に関して。

「 頼子サンは、C社という派遣会社に登録し、D社を紹介され、そこの営業部に派遣されて働いている。主要な仕事は、パソコン入力だが、実際はお茶くみから電話受け、来客対応まで雑務全般を受け持っている。フルタイムだが、「ハケン」なので、定時には仕事を止めて帰ることが許されている。(略)

 ところで、頼子サンは、かねがね、この職場のパワハラに悩まされてきた。川田という直属の上司に当たる営業課長が、頼子サンを「おい、ハケン!」と言って、きちんと名前で呼ばない。そして、「ハケンは気楽でいいよな。俺たちは定時にあがるなんて夢のまた夢だよ」とか「ちゃらちゃらした指輪をつけやがって」といった発言を繰り返す。はては、「ハケンのくせに、こんなこともできないのかよ! 何のために高い派遣料払ってるのかわかりゃしねえ! お前みたいな無能な奴が、社会にいるのは信じられねえよ!」と罵倒する。また、ほかの社員に向かって、「このハケンは、人格的に問題あるからな」と大声で言ったりする。

尚平おじさんがセクハラ・パワハラ・いじめについて説明してくれた。
(略)
 社会的には、たとえばセクハラは「意に反する性的言動」と定義されている。パワハラは、「職場において、地位や人間関係で弱い立場の労働者に対して、精神的又は身体的な苦痛を与えることにより、結果的に労働者の働く権利を侵害し、職場環境を悪化させる行為」であると定義されている。法の考え方では、セクハラ・パワハラ・いじめは、「人格権侵害」と考えられているんだ。これらの行為は結局、法律上は、ある種の法益を侵害する場合に、許されないということになる。では、どのような法益を侵害するのかといえば、それは、「人格権」と言われているものだ。
 人格権とは、名誉とか、自由とか、人格と切り離すことができない利益のことだ。人格権については、例えば、肖像権やプライバシー権といった形で、裁判所の判例でも認められているんだ。
 つまり、職場においては、人格への攻撃を行い、相手の人格に傷を負わせた状態にすることが、法的には許されないんだ。これに対しては、攻撃を行う本人に対して、そのような攻撃を行うことは許さないと中止を求めること、傷を負った点について、不法行為だからということで損害賠償を求めることができる(民法709条)。この加害行為が、刑法に定める犯罪行為に該当する場合は、加害者に刑事責任が発生する。
 また、企業は、労働者の心身を健全に保つことができるように、職場環境をそれにふさわしいように整える義務があると考えられている。裁判では、使用者には、「労務を遂行するに当たり、人格的尊厳を侵し、その労務提供に重大な支障を来す事由が発生することを防ぎ、またはこれに適切に対処して、職場が労働者にとって働きやすい環境を保つように配慮する注意義務」があるとされた例もあるんだ。就業環境整備義務とか、就業環境調整保持義務とか言われている。これは、仮に使用者が個々の労働者との労働契約においてとくに約束していなくても、労働契約を締結した以上、使用者が労働者に対して当然に負う義務であると考えられているんだ。したがって使用者が、いじめやパワハラが起こっている環境を知りながら放置しているような場合は、企業そのものに、職場環境整備義務違反で賠償責任が発生することになるんだ。
 更にそのことは、労働契約法の定めにも反映しているんだ。平成20(2008)年3月1日施行の労働契約法では、「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする」との条文が定められたんだ(第5条)。
 企業には労働者の心身の健康を保全するため最善を尽くす義務があるという安全配慮義務の考え方は、判例の集積によって、当然視されてはいたのだが、今回、法律でも明文化されたことになる。この条文は、就業環境整備義務については明確に定めたものではないが、この義務が安全配慮義務の考え方のいわば延長線上にある義務であり、男女雇用機会均等法第2条が、使用者に、労働者がセクハラによる不利益を受けることなどがないよう、働きやすい環境を作るよう必要な措置を講ずる義務を定めていることから、就業環境整備義務についても、法律上は存在することが当然視されているんだ。
 したがって、労働契約法に言う「生命、身体等の安全を確保」するということの内容には、人格権が含まれると解釈すべきであり、この条文によって、職場環境整備義務が使用者に課されたと考えるべきだと私は思っている。
 おじさんはその説明に更に付け加えた。
 「この考え方からすれば、先ほど、頼子が説明してくれた言葉の数々は、仕事の内容と無関係に人格を侮蔑する内容だから、人格権侵害と言って差し支えない。発言した川田課長は、率先して職場環境整備義務を遵守すべき立場にある管理職だね。この人の発言を会社は中止させ、また、そのような発言を行わせないような措置を取る義務がD社にはある。だから、頼子は、川田課長個人に対し、慰謝料請求という形で損害賠償を請求することもできるし、職場環境整備義務違反があったということでD社に損害賠償を請求することもできるんだ


③ 労働組合の活動の意味

 「法は、労働組合の活動を強力に保護しているんだよ。まず、憲法だ。憲法は、労働者に働く権利を認める(27 条)と共に、団結権、団体交渉権、団体行動権を保障している(28条)。その基礎に立って、労働組合の活動と発展を保護する見地で、労働組合法が定められている。
 労働組合法では、通常なら民事上、刑事上の責任が発生する場合でも、労働組合の正当な行為(例えば、ストライキ)であればそれは免責するとしている(第8条)。また、使用者は、労働組合の活動の阻害となる不当な行為を禁止されている(同7条)。この中には、「団体交渉の拒否」というのがあって、会社は、労働組合の話し合いの申し入れ、つまり、団体交渉の申し入れについては、拒否してはならないんだ(2号)。
(略)
 法が、このように労働組合の活動を手厚く保障するのはなぜか。労基法第一条二項は次のように定めているんだ。「この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、……その向上を図るように努めなければならない」。
 労基法は、自らは労働条件の最低限を定めたにすぎないから、あとは「労働関係の当事者」、つまり労働者側でいえば、労働者とその団結体である労働組合に、がんばってくれよ、というエールを、その第一条で送っているんだね。」

「……労働組合って会社の中にあるものじゃないの?」
「たしかに、日本の労働組合は、そのようなタイプのものが多いな。でも、法律上、労働組合は企業ごとに作られなければならないというルールはないんだ。欧米では、むしろ、企業を超えて、産業全体で労働組合を作る、「産業別労働組合」というのが主流で、日本のように、企業ごとに労働組合を組織するのはイレギュラーなんだよ。だって、そうじゃないか。労働組合が企業ごとに作られていたら、労働組合はその企業の浮沈にどうしても依存することになるだろ。だから、そんなやり方は克服されなければいけないんだ。日本でも、産業だとか、地域だとか、そういったまとまりで、誰でも、どんな雇用形態でも、加入できる、「個人加盟型ユニオン」が近時勢力を伸ばしているんだよ。
 私が言っているのは、真吾も、頼子も、そうした個人加盟型ユニオンにまず加入して、会社に団体交渉を申し入れてもらって、そのユニオンと一緒に会社と話し合う道を進みながら解決を探ったらどうか、ということなんだ。
 真吾は、小林さんはもちろん、職場のほかのみんなにも話してみたらいい。みんなの問題なんだからな。労働組合は、団結が大事。つまり、一人でも多く仲間がいて、会社にそのことで圧力をかけ、話し合いで解決を探るのが一番なんだ。
 頼子も、前沢さんを誘って、入ってみるといい。お前の受けたパワハラや、派遣制度を悪用して雇用のチャンスを奪ったことを、きっちり償わせることを目指すといい。前沢さんの雇用問題も解決できると思うよ。

 法律界の格言に、こういう言葉がある。「法は自ら助くる者を助く」。助けてもらおうと考えるだけではだめなんだ。自分の権利を、自分の手で勝ち取るために、組合に手助けしてもらうんだ。自分で動いてこそ、組合の仲間も助けてくれるし、多くの仲間が増えていくし、世間の人も支持してくれる。法はそういうときに、強大な力を発揮して君たちを守る最強の武器になるんだ」 」

「権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しない」とは、これも岩波書店から出ている「日本の思想」(丸山真男)に引用されていた言葉だったと思う。例としては、お金の貸し借りに関連して述べられていたと記憶するが、この格言も「法は自ら助くる者を助く」と同様決してそれだけにとどまらず、私たちに保障されているあらゆる権利について言えることで、実践によって強固な権利にしていかなければならないと思う。


④ 次に、「岩波講座 基本法学 2 団体」

1983 年刊行のこの本には、「三 労働組合」山口浩一郎著の項にユニオン・ショップ協定と脱退の問題(脱退の自由と制限)についての記述があるので該当箇所を引用する。「内部関係の原則」において、(a)組合員資格、(b)均等待遇、の原則に続いて、(c)脱退の制限 についての原則は以下のように述べられている。

自由意思にもとづく脱退を制限することは、組合員の固有権を侵害し公序良俗(民法90条)に反するものとして許されない。このような組合規約の条項は無効であり、それにもとづく行為は違法である。」(p135)

次に、現状の問題点の指摘だが、「(3)組織強制」の項目で、ユニオン・ショップ協定の問題点が取り上げられている。

「 労働組合が他の社団と異なるのは、加入について組合の側から一定の強制が許されていることである。このような加入促進の仕組みを組織強制といい、それは非組合員に一定の不利益を与える形でおこなわれる。わが国で広くみられるのはユニオン・ショップ協定とよばれるもので、組合員であることを従業員たる地位の維持条件とするものである。それは、通常「会社は組合に加入しない者、組合から除名された者および脱退した者は解雇する」というような表現で労働協約に定められる。
 このような組織強制が適法とされるのは、団結権の保障下においても必ずしも自明のことではない。ユニオン・ショップ協定は従業員でありたいと望むものには組合員であることを要求するものであるから、組合組織の維持・拡大に資することは明白であるが、労働者の方からいえば、特定組合への加入を強制されることになるからである。現に、アメリカではユニオン・ショップ協定は個々の労働者の勤労権を侵害すると考えられ、これを違法とする勤労権立法が制定されており、西欧諸国でもこのような協定は労働者の消極的団結権(組合に加入しない自由)を侵害するものと考えられる傾向が強い。わが国では、勤労権の保障(憲法27条1項)は雇用機会を保障するための国の政治的貴務を定めたものといわれ、団結権の保障(同28条)には消極的団結権は含まれていないと解されているために、このような問題は生じないが、ユニオン・ショップ協定は積極的団結権(組合選択の自由)を侵害するものとして違法ではないかとの疑問が提起されている。 確かに、近時は、少数派組合員を除名して企業外に放逐するなど組合民主主義の観点からみて思わしくない方向にこの協定が利用される例が少なくないが、一般的には組織維持・拡大の機能を否定することができず、労働協約の大多数(90%近く)がこのような協定をおいている現状からみて、一応これを有効とし、適用場面を限定することによって解決がはかられようとしている。判例による実際の取扱いをみても、複数組合併存下の他組合員や組合分裂時の脱退者あるいは一方の組合から脱退して別組合に加入した者などには適用を否定する態度がとられ、ユニオン・ショップ協定の適用場面は著しく限局されている。」(p137)

続いて、「(4)脱 退」の問題点。
「 脱退については公的介入が顕著である。脱退は自由であるというのが通説の立場であり、この自由は社員たる組合員の固有権であるから組合規約をもっても制限できないものとされている。判例も、組合規約に定めがなくとも脱退は自由であり、脱退を制限する旨の規定(例えば、「脱退には執行委員会の承認を要する」)は無効であるとしている。ただし、脱退届の方式、提出先、予告の要・不要等脱退の手続については、組合規約に定めがあればそれに従わなければならない。」(p138)


笹山尚人氏の「労働法はぼくらの味方!」一つ読んでも、岩波書店および岩波労組による金光翔さんへのいじめがどれほど悪質か明らかであろう。組合アンケートの文書のなかには、金光翔さんが労基署の助言・援助も受けて会社に残業代を請求し、勝ち取ったことについて嫌味たっぷりに揶揄している文章もあった。これでは、岩波書店労働組合とはいったい何のための、何を目的として存在する組織なのだろうと疑いをもたないわけにはいかないだろう。

笹山尚人氏が本書で述べている「解雇については判例上、「解雇権濫用法理」という理論が発達して、規制することになったんだ。つまり、客観的に合理的理由が存在し、それが社会通念上相当として是認できる場合でなければ、解雇は権利の濫用として無効なんだ。/ この場合の「解雇に合理的な理由がある」ことは、使用者の側で主張し、立証しなければならない。」という見解は、岩波書店の金光翔さんへの解雇通知についてもそのまま該当するだろう。岩波書店が「首都圏労働組合の実体を自分たちは知らない」という場合、何を指して「実体」と述べているのかを金光翔さんの前に明らかにしなければならない。それも早急に。一人の社員に対し、その待遇を宙ぶらりんにして真綿でじわじわと頸を絞めるようにして苦しめる権利など会社がもっているはずがない。笹山尚人氏にも「労働法はぼくらの味方!」の著者としての発言を期待したい。また、岩波書店の著者の人々にはそれぞれに「さわらぬ神にたたりなし」(?)の状態を脱して言論人、著述家としての真価を発揮してほしいとお願いしたい。
2011.05.12 Thu l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
   

金光翔さんは5月4日付で「首都圏労働組合特設ブログ」に、「「岩波原理主義者」たちとの闘い――「解雇せざるをえない」との通知について」という記事をアップされている。岩波書店が金さんに突如「解雇せざるを得ない」という通知を送ってきたというのだ。この遣り口はともかく酷過ぎるので、批判記事を書かねばと思い、あらためて「首都圏労働組合特設ブログ」の過去記事をいくつか読み返してみたところ、そこに記されている一つひとつの出来事がこれまでにもましてリアリティをもって感じられ、重苦しい気持ちになった。

ただ気分が重くなった理由はそれだけではなく「「岩波原理主義者」たちとの闘い――「解雇せざるをえない」との通知について」に引用されている岩波労組および岩波書店役員の人々の最近の発言を知ったせいもあるように思う。この人々は一方で一社員におそらくは誰がどこからみても非常識、理不尽としか言いようのない解雇通告(岩波書店の人たちに、御社のこれまでの刊行物でこのような解雇のあり方を肯定的に描いたり評したりしている書物が一冊でもあるのかとぜひお尋ねしたい。)を行なっていながら、もう一方では「本来、人が人として生き生きと活動できる社会の在り方を直接的あるいは間接的に問題提起しているのが、私たちの働いている岩波書店」「文化の配達夫たる岩波書店」「100年この先も続かなければ」(以上、岩波労組員)、「岩波書店として社会的発信を強めていくことを方針としていきたい」「岩波書店ここにありという存在感を未来へつなぐ」「最悪の事態を超えた事態がいま進行している。悪夢といってもよい事態です。我々の力が足りなかったのではと、怒りとともに忸怩たる思いを禁じ得ません。岩波茂雄が敗戦のときに感じたのとまさに同じような気持ちです。」「今、社会にむけて発信しなくて何のための編集者、何のための出版社、何のための岩波書店かと思います。」「人々を励まし、前を向いてもらえるようなことを考えなくてはならない。」「岩波書店がこうした出版を続けていかなければ、どこが出せるのかと、この1年間何度も感じてきました。」(以上、岩波書店役員)などと述べている。

自分たちは「岩波書店」という偉大な(?)老舗出版社の一員であるという自負心にお互いどうし酔っているような発言の数々である。随所で「岩波書店の社会的責務」とか「皆が一丸となってがんばりたい」「会社と社員の信頼関係を築いていかなくては」などの発言が混じっているが、なんとこれは労使交渉の場(「2011春闘団交ニュース」3月16日付より)における発言だという。金光翔さんが記事のタイトルに用いている「岩波原理主義」という形容は確かにこれ以上はないほど適切だというしかないように思われる。

特に異様に感じたのは、「人々を励まし、前を向いてもらえるようなことを考えなくてはならない。」という発言である。大勢でたった一人の社員に対し散々嫌がらせを続けてきて(金光翔さんが提示したきわめて重要な問題と思われる<佐藤優現象>の有害性についてただの一度として答えもせず、誠意ある対応を示すこともなく)、その挙句、ネット検索をしても、手近の本を見てみても、ただの一つとして有効であるという見解の見られない解雇通告をして苦しめておきながら、そういう自分たちが「人々を励まし」たり、「前を向いてもらえるようなことを考え」だしたりできると思っているらしいことである。「文化の配達夫たる岩波書店」「100年この先も続かなければ」という発言もすごい。100年といわず、どうせならこの際、「1000年王国を目指さなければ」と言ったほうがこの場に相応しかったかも知れない。


   

岩波書店は「首都圏労働組合」の実体が分からないと言っていたようだが、労働組合は同一企業の人間であるか否かにかかわらず、二人以上の労働者によって結成可能である。岩波書店は金光翔さん以外に首都圏労働組合員は皆無だと言いたいのだろうか。しかし、金光翔さんは「岩波書店は首都圏労働組合とのやりとりにおいて、「委員長」「住所」は認識しているはずである。」と述べている。会社に知らせる必要があるのはそれで十分であり、後は金光翔さんの会社における組合活動が「首都圏労働組合」の実体のはずである。金光翔さんの「岩波書店労働組合員、会社に対して私への弾圧を扇動 」によると、「首都圏労働組合は、岩波書店労働組合とは別途、春闘・秋年闘の一時金を要求している」そうであり、また過去にさかのぼって残業代の請求も行ない、後述するが「東京都労働相談情報センター」に労働環境改善のために「あっせん」の依頼をするなどの努力をしている。これだけ組合としての活動をして残業代については相応の実績を上げているのだから、これらの活動こそが首都圏労働組合の実体であるといえるのではないだろうか。

そもそも、岩波書店は、金光翔さんによると「実体があると判断する」基準を示そうともしなかったのだという。「岩波書店代表取締役社長・山口昭男氏と佐藤優」から該当箇所を引用する。

「私は以前、「岩波書店による私への攻撃� 「首都圏労働組合 特設ブログ」を閉鎖させようとする圧力」の「(注1)」で、岩波書店の首都圏労働組合に関する主張について、以下のように述べた。

会社(注・岩波書店)は、首都圏労働組合に実体があると判断する、規約などの材料を自分たちは持ち合わせていないと言っているが、では規約を渡せばいいのか聞くと、それはあくまで検討材料の一つだ、とのことである。組合に実体があると認める客観的な基準を示さず、実体があるかを判断する主体はあくまでも会社側、という論理なのだ。労使対等という、労働法の基本原則から乖離していることは言うまでもない。こんな論理ならばいくらでも「実体があると判断する」ことを先延ばしできるから、実際には、会社が、首都圏労働組合が労働委員会による資格審査に通って、法人として不当労働行為の救済申立ができるようになるまで、「実体があると見なさない」ということだろう。
(略)
だが、岩波書店のここでの主張は、団交拒否の、典型的な不当労働行為である。例えば、手元にある労働組合関係の入門書(ミドルネット『ひとりでも闘える労働組合読本』緑風出版、1998年)にも、「組合結成の通告に対して、会社は、「組合員全員の名簿を提出しなければ組合としてみとめない」、「法律のみとめる組合ではない」(管理職組合の場合など)など、組合否認の姿勢でのぞんでくることが往々にしてあります。こうした会社の主張にしたがう必要はありませんし、団交拒否は不当労働行為になります」(27頁)とある。」

以上、金光翔さんの文章を引用した。いったいこれでどうしてユニオンショップ制による解雇が可能と考えることができたのかと不思議に思えるが、岩波書店の周辺には解雇可能とそそのかすような人々も存在するのかも知れない。


   

この記事の初めに私は「「首都圏労働組合特設ブログ」のいくつかを読み返してみたところ、そこに記されている一つひとつの出来事がこれまでにもましてリアリティをもって感じられ、重苦しさに気持ちが、云々」と書いたが、それはたとえば「あっせん」という件一つとってもそうであった。岩波労組の嫌がらせを止めさせるために金光翔さんがこのあっせん問題に費やした労力も相当なものである。これは、2007年の出来事だが、簡単に記しておきたい。金さんが岩波書店労働組合に内容証明郵便で岩波労組脱退届を出して以後のことだという。

「私は、…… 既に岩波労組に内容証明郵便で脱退届を出している。組織への「脱退の自由」の観点から、労働組合からの脱退は労働組合の承認を待つことなく、脱退届を出すだけで成立することは、判例上、確定していることである。ところが、岩波労組は、私の脱退を認めず、毎月、給与支払日前後に、私の職場まで執行委員が押しかけてきて、組合費を支払うよう要求してくる。」(「首都圏労働組合特設ブログ」『週刊新潮』の記事について�より)

同僚社員が大勢働いている職場に岩波労組の執行委員に毎月組合費を払え、払えと押しかけて来られることは精神的苦痛であり、迷惑以外の何物でもないので、今後組合費を払う意思はないので徴収行為を止めてくれと言っても止めない。仕方なく、この「嫌がらせ」行為について、「東京都労働相談情報センター(東京都産業労働局の出先機関。以下、センター)に相談したところ、会社には、労働基準法上、職場環境配慮義務があり、労働者(すなわち私)が精神的苦痛を受けている今回の件に関し、会社が、状況を是正するための何らかの措置を講じる必要があるだろう」と言われた。
   ↓
そこで、金さんは(2007年)10月19日、会社に文書を提出し、職場環境配慮義務の観点から、岩波労組による社内での組合費徴収行為を、止めさせるよう会社(窓口は、総務部長(取締役))に要請した。
   ↓
その後、会社との何度かのやりとりを経たが、11月9日、会社から、「金からの要請の件について、岩波書店労働組合に、金との「話し合い」で解決してほしい旨申し入れた」との回答を得た。
   ↓
11月15日、金さんは、岩波労組委員長・副委員長と、「話し合い」を行なった。岩波労組の回答は、「会社からの申し入れはあったが、岩波書店労働組合としては、これまでの徴収行為に関する方針を改めるつもりはない、社内での徴収行為は引き続き続ける」とのことであった。
   ↓
同日、金光翔さんは会社に対し、岩波労組との「話し合い」は不調に終ったので、10月19日の金さんの要請について、会社はどのような措置を執るか、改めて見解を伺いたい旨を述べた。
   ↓
11月19日、会社(総務部長)は、センターから、会社・センター間で相互で確認された事実関係を踏まえた上で、今回の件について、会社が職場環境配慮義務の観点から、状況を是正する義務がある旨を伝えられた。
   ↓
11月22日、会社から金さんに対して、「検討した結果、この件は、会社としては、岩波労組に対してこれ(注・11月9日に金さんに伝えられた岩波労組への申し入れ)以上の対応はしない。岩波労組と金の「話し合い」で解決すべき問題であると考える」旨の回答があった。
   ↓
同日、金さんは、会社のこの回答をセンターに伝え、センターに、「あっせん」(センターの業務内容の一つ。センターのホームページには、「労使間のトラブルで、当事者が話し合っても解決しない場合、労働者(又は使用者)の依頼と相手方の了解があれば、当センターが解決のお手伝い(あっせん)をします」とある)を依頼した。
   ↓
11月28日、センターは、会社(総務部長)に対して、センターが、会社と金さんとの間で「あっせん」を行うことを提案したが、会社は拒否した。」(『週刊新潮』の記事について�より)

上述の経過を見れば分かるように、11月19日、東京都労働相談情報センターは岩波書店に対し、「職場環境配慮義務の観点から、状況を是正する義務がある旨を伝え」、11月28日には、都労働相談情報センター自ら、会社と金光翔さんとの間で「あっせん」を行うことを提案し、岩波書店はこれを拒否している。センターの人はかの有名な岩波書店のこの実態にどのような印象・感想をもっただろうか。

この後、金さんがこの件に関する顛末を「首都圏労働組合特設ブログ」に書くと、以後岩波労組は金さんが職場に不在のときに組合費請求書を置いていくようになったとのことだが、正式な脱退届を提出し、すでに「首都圏労働組合」という別の組合に所属して活動している人物に対し執拗に組合費を請求するという行為が常軌を逸している、違法行為でさえあるかも知れないとは組合執行委員の人々はついぞ考えなかったようだ。

この「あっせん」の一件は、岩波書店および岩波書店労働組合が金光翔さんに行なった厖大な質量の理不尽な嫌がらせ・いじめのほんの一例に過ぎない。
2011.05.10 Tue l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
   

4月30日、「校庭利用基準、変更せず=年間20ミリシーベルト―細野補佐官」との見出しで「時事通信」の次の記事がウェブ上に掲載された。(太字による強調はすべて引用者による。)

「 細野豪志首相補佐官は29日夜、TBSの番組に出演し、辞任表明した小佐古敏荘内閣官房参与(引用者注:この人物は典型的な御用学者という説があり、これは事実のようなので、辞任の理由をご本人の主張どおりに受けとっていいかどうか分からないが。)が甘すぎると批判した学校の校庭利用制限に関する放射線量の基準について「われわれが最もアドバイスを聞かなければならない原子力安全委員会は年間20ミリシーベルトが適切と判断している。政府の最終判断だ」と述べ、変更しない方針を示した。/ 同時に「通っているお子さんや親御さんの気持ちがあるから、(被ばく量を)できるだけ下げる努力を当然すべきだ」と強調した。 」(引用者注:/は改行部分)

上記のように、放射線量基準値「20ミリシーベルト」について細野豪志首相補佐官は「原子力安全委員会の助言」を強調しているが、翌30日、官直人総理も衆院予算委員会で「政府の決定は原子力安全委員会の助言に基づいたものだ」と反論し、また、高木文部科学相は、「この方針で心配はない」と強調した(フジテレビ)。三人とも「20ミリシーベルト」に何の問題もないとし、その根拠として官総理と細野氏の二人は原子力安全委員会の助言を挙げている。しかしこの言い分はおかしい。4月13日時点では、原子力安全委員会は、記者会見で、子どもについては大人の半分の「10ミリシーベルト」を基準とするのが適切と語っていたはずだ。

「 福島第1原発:子どもは年10ミリシーベルト目安
 福島第1原発事故の影響で、福島県内の一部の小中学校などで大気中の放射線量の値が高くなっている問題で、内閣府原子力安全委員会は13日、年間の累積被ばく放射線量について「子どもは10ミリシーベルト程度に抑えるのが望ましい」との見解を示した。同委員会は、10ミリシーベルトを目安とするよう文科省に伝えたという。
 10ミリシーベルトは、政府が福島第1原発から20キロ圏外の「計画的避難区域」の基準とした年間被ばく放射線量の20ミリシーベルトの半分にあたる。子どもは、大人よりも放射線の影響を受けやすいとされている。代谷誠治委員は会見で「校庭で土壌から巻き上げられた放射性物質を吸い込み、内部被ばくする場合もあることを考慮すべきだ」と述べ、「学校でのモニタリング調査を継続して実施する必要がある」とした。
 震災後にできた現地の市民団体「原発震災復興・福島会議」が、福島県が4月上旬に実施した小中学校や幼稚園などの校庭・園庭での調査結果を基に独自に集計したところ、県北地域を中心に、全体の2割で、大気中(地上1メートル)で毎時2.3マイクロシーベルト(0.0023ミリシーベルト)以上の放射線量が検出された。仮に、校庭に1年間いた場合に20ミリシーベルトを超える値で、同団体は線量の高い学校での新学期の延期や学童疎開の検討を要請している。【須田桃子】(毎日新聞 2011年4月13日 21時04分) 」

毎日新聞のこの記事は触れていないが、従来、一般公衆の被ばく許容量が「年間1ミリシーベルト」とされていることからすると、原子力安全委員がここで述べている「年間10ミリシーベル」も、おそろしく高い数値ということになる。記事によると、安全委員会は、10ミリシーベルトを目安とするよう文科省に(すでに)伝えたというから、これを素直に受けとって推測すると、「目安10ミリシーベルト」と伝えられた文部科学省か政府、あるいはその両方が安全委員会の提示した「10ミリシーベルト」に異議を唱えた結果、急きょ「20ミリシーベルト」に決定された確率が高いのではないだろうか?


   

この問題における政府・文部科学省の決定を批判し、撤回を求めた日弁連の「会長声明」(2011-4-22)には下記の文面がある。

「文部科学省は、電離放射線障害防止規則3条1項1号において、「外部放射線による実効線量と空気中の放射性物質による実効線量との合計が3月間につき1.3 ミリシーベルトを超えるおそれのある区域」を管理区域とし、同条4項で必要のある者以外の者の管理区域への立ち入りを禁じている。3月あたり1.3mSvは1年当たり5.2mSvであり、今回の基準は、これをはるかに超える被ばくを許容することを意味する。しかも、この「1.3ミリシーベルト同規則が前提にしているのは事業において放射線を利用する場合であって、ある程度の被ばく管理が可能な場面を想定しているところ、現在のような災害時においては天候条件等によって予期しない被ばくの可能性があることを十分に考慮しなければならない。 」

文部科学省は「電離放射線障害防止規則」において、放射線量が「3月間につき1.3 ミリシーベルト」を越えるおそれのある区域を「管理区域」と定めているそうであるが、「3月間につき1.3 ミリシーベルト」は、年換算にすると日弁連が述べているごとく「5.2ミリシーベルト」である。政府・文部科学省は「管理区域」におけるこの基準量のおよそ四倍もの放射線量を児童・生徒が通う小中学校に上限値として許容するというのだ。しかもこの「20ミリシーベルト」には「放射線管理区域」における基準の場合と異なり、内部被ばく量は含まれていないとのことだ。「管理区域」は部外者の立ち入りが禁じられ、また、放射線を扱う業務への18歳未満の就業は労働基準法で禁止されていることを勘案すると、この措置には大きな疑問をもたないわけにはいかない。

枝野幸男官房長官は4月30日午前の記者会見で、「20ミリシーベルトまでの被ばくはかまわないという指針ではまったくない。相当大幅に下回るとの見通しのもとで指針は示されている」と述べた。(毎日新聞)」とのことだが、「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」という通達文書に現実に「20ミリシーベルト/年」と明記されている以上、枝野氏のこの弁明は意味をもたないと思う。枝野氏などの政府・文部科学省が「20ミリシーベルトまでの被ばくはかまわない」と考えてはいないことを認めたとしても、現状のままでは「被ばくはかまわない」が「被ばくはしかたがない、やむをえない」に変わるくらいがせいぜいのことだろう。どうしても「明らかに誤解をされている」と言いたいのなら、現実にこの基準量の大幅引き下げ可能な政策を実現するしかない。


   

4月19日に政府・安全委員会・文部科学省が「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」を発表すると、直後から「政府の対策費用の節約のために、児童・生徒の健康が犠牲にされようとしている」「子どもたちの将来が心配だ」という声がウェブ上にあふれた。この種の問題において最も細心の配慮を必要とする年齢の子どもたちが生活する小中学校において「放射線管理区域」の四倍の量の上限値が許容されるという政策に多くの人がつよい懸念を示し、当局にきびしい批判を加えたのは当然のことだった。

文部科学省は「1~20mSv/年」について「安全と学業継続という社会的便益の両立を考えて判断した」と説明しているが、この説明は枝野官房長官の場合と同じく説得力をもっていない。日弁連が指摘しているように、公衆の安全と経済的・社会的便益を総合的に勘案した上で基準量として設定された数値が従前の「年間1ミリシーベルト」だったはずだからである。この基準を忠実に守ろうとすれば、現在地の学校での授業継続が不可能となる。政府・文部科学省は子どもの健康と将来を犠牲にすることになったとしても,経済的・物理的負担を惜しんで「20ミリシーベルト」の措置をとったのではないだろうか。安全委員会が「基準値10ミリシーベルト」を口にしてから一週間足らずで「20ミリシーベルト」の通達文書が発出されている点をみても、幅広い議論がなされたとは思えない。真摯な考慮・議論の末のぎりぎりの選択だったともとても受けとれない。このことを最も鋭敏に感じ取っているのは、教師や父母の悩みも深いだろうが、当の子どもたち自身だろう。

どこの国、どこの社会にとっても子どもはかけがえのない存在のはずである。しかし今回の「20シーベルト」の件は、日本政府が子どもたちの心身の健康や今後の健全な成長について大して深くも真摯にも考えていないことを白日の下に晒してしまっている。思えば、昨年高校授業料を無償化するにあたって朝鮮学校だけを対象外とするという差別政策を平然と敢行した日本政府、文部科学省であった。宮城県知事は、大震災直後の混乱のさなかで自分たちと同様の被害に遭い、同様に苦しんでいる朝鮮学校への補助金を打ち切っている。1924年の関東大震災は日本人の精神に悪い意味で途轍もなく大きな影響を与えたと言われているが、今の私たち日本人と日本社会は、おそらく関東大震災当時よりもっと深刻な社会的・精神的問題を抱えているように思われる。

この境地を脱して少しでもよい方向に進むためには、政府・文部科学省が「20ミリシーベルト基準」を必要とする環境下の学校に通う児童・生徒のためにこの措置を撤回し、安全な教育環境を用意することは絶対的に必要不可欠と思う。また、政府・文部科学省にこのような驚くべき発想が湧き出し、これを政策として躊躇もなく実行に移せるということは、その源に朝鮮学校のみを無償化の対象から外した経験があることは確かではないかと思える。大人より心身ともにつよい子どもの感受性が無視されて事が決定されている点では共通性があると思う。「20ミリシーベルト基準」とともに、朝鮮学校への差別政策を、政府・文部科学省はもちろん、宮城県、東京都、大阪府などの自治体も早急に撤回することを請願する。このようなことが一つずつ着実に実行されていくのでなければ未来に希望なぞ生まれようがないのではないだろうか。
2011.05.02 Mon l 東日本大震災 l コメント (3) トラックバック (0) l top
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