QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
  「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」について (下)

村上正邦氏が参議院議員選挙に百万以上の得票で初当選(1974年に続く二回目の挑戦)したのは1980年。議員になるまでの氏は、生長の家創設者の谷口雅春氏の講演に鞄持ちとして随いて回ったり、生長の家の先輩である参議院議員玉置和郎氏の秘書官を務めたり、生長の家・仏教・神道・キリスト教などの諸宗教関係者・団体が集まって1974年に結成された「日本を守る会」(注)に拠って「天皇即位50周年」祝辞行事や、元号法制定(1979年)のために裏方の役回りで精力的に活動していたようである。

「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」を読んでいると、国会議員になってからの村上氏は「参院のドン」と呼ばれていたそうだが、確かにさもありなんと思えるほど、重要な政局や法案成立に深く関わり、存在感を発揮していたようである。PKO法や国旗・国歌法の成立、4月29日を昭和の日とする祝日法改定など。また、小渕首相が病で倒れた直後に密室で後任・森総理を決定したとされるいわゆる五人組の一人でもあった。憲法「改正」はもちろん、優生保護法「改正」などにも最も熱心な政治家の一人であったが、今も講演などで、これらの法改定の必要性を説いて回っているのか、母体保護法「改正」の必要について壇上で話している村上氏の動画がウェブに出ている。本で語っている話とまったく同じ内容だったのにはちょっと苦笑させられたが、その場面を少し本から抜き書きしておくことにする。1982年、参院予算委員会でのことだったそうである。


「総理はじめ閣僚の皆様にぜひ聞いていただきたい歌がございます。」
そう前置きして私は次のような、歌詞を読み上げました。

ママ! ママ!
ボクは、生まれそこねた子供です
おいしいお乳も知らず
暖かい胸も知らず
ひとりぼっちで捨てられた
人になれない子供です
ママ! ママ!
ボクの声は 届いているの
ここはとても寒いの
ママのそばに行きたい
ボクは 生まれそこねた子供です

読み上げた後で鈴木善幸首相らの感想を聞くと、鈴木首相は「幼い生命についての切々たる叫び、そういうものを私はこの詩から感じる」と言い、森下元晴厚相は「まことに示唆に富んだ、内容の深い歌であり詩であると思う」と答えたので私はこう言いました。
「この歌を聞くたびに中絶された胎児のしゅうしゅうとすすり泣く悲しみの声が海の底から間こえてくる思いがする。優生保護の名のもとに聞から闇へと葬り去られた五千万から七千万にも上る胎児の御霊に懺悔し、御霊鎮まれと祈り、合掌しつつ本論に入らしていただきます」
 生長の家は法改正のために七百万人の署名を集めました。玉置と私で二百人近い国会議員を集めて『生命尊重議員連盟』もつくった。そうやって中絶は生命の尊厳を否定するものだから中絶理由から経済条項を削除すべきだという一大運動を展開したんです。
昭和五十七年十一月に総理になった中曽根康弘さんは生長の家の二代目総裁・谷口清超先生と東大の同期だった。そのうえ奥様が生長の家の活動に熱心で、ご主人が朝出かけるときは『甘露の法雨』を必ず背広の胸のポケットへ入れておかれるから、中曽根さんも法改正に積極的だった。 」

この法「改正」案には自民党でさえ女性議員は議連をつくって反対した。これは当然のことで、「改正」されたあかつきにはどんな悲惨な事態が女性の身に生じることになるか、あまりにも明白であった。村上氏が口ぶりからしてそのような事態を想像さえしていないらしいことには一驚をおぼえる。上記の歌詞は誰の作なのか、苦々しいというか、失笑してしまうというか、ちょっと恥辱に似た思いをおぼえたりもするので、これをあちこちで披露するのはどうか勘弁してほしいと村上氏にはお願いしたい。

村上氏にとって1999年の国旗・国歌法の成立は感慨深いものだったようで、「 私は日の丸、君が代という日本人の魂を千代に八千代に残すことができたことを今も誇りに思っています。」と述べている。

日の丸、君が代が日本人の魂だなぞというまるで根拠も説得力もない、日本以外では通用しそうもない勝手な思い込み・決めつけを国民・市民に押し付けようとして作られたのが「国旗・国歌法」ではないのだろうか。上記の村上氏の理屈が成立するためには、アジア・太平洋戦争は侵略戦争ではなく、聖戦だったとしなければならず、その点村上氏の場合、極右政治家としての論理は一貫しているのかも知れない。しかし、この法律が教育の現場で強制力をもつようになって以来、本来児童・生徒の教育に関心や熱意をもっている若い有為な人材が教職そのもの、あるいは公立学校を敬遠するようになっていることも客観的事実である。君が代を起立して歌わなければ処分するというような、恐喝・恐怖を内在する職業や職場を迷いなく選ぶことは、歴史や世界をきちんと知れば知るほど困難なことになるだろう。

魚住氏は、「野中広務 差別と権力」(講談社2004年)のなかで、2003年9月、政界引退を発表した直後の野中氏が有楽町の日本外国特派員協会に招かれて話をしたときのことを次のように書いていた。


「イラクに自衛隊が行ったとき、犠牲者が出なければ日本人は気がついてくれません。正当防衛としてイラクの人を殺すことになる。日本は戦前の道をいま歩もうとしているのです。そこまで言われなければ気がつかないのかなあと思うと、一つの時代を生きてきた人間として本当に悲しくなります」
 悲壮感を漂わせた野中の演説を聞きながら、私はこの野中の評伝が月刊誌に掲載された直後に衆院議員会館で彼に会ったときのことを思い出していた。
 彼はうっすらと涙をにじませた目で私を睨みつけながら言った。
「君が部落のことを書いたことで、私の家族がどれほど辛い思いをしているか知っているのか。そうなることが分かっていて、書いたのか」
 私は答えなかった。返す言葉が見つからなかったからだ。どんな理屈をつけようと、彼の家族に心理的ダメージを与えたことに変わりはない。
 野中は何度も同じことを私に聞いた。私は苦し紛れに言った。
「ご家族には本当に申し訳ないと思っています。誠心誠意書いたつもりですが……これは私の業なんです」
 私の業とは、心の奥深くから湧き上がってくる、知りたい、書きたいという取材者としての衝動のことである。「あなただって、自分の業に突き動かされて政治をやってきたのではないか」
と私は言いかけて、その言葉を途中でのみ込んだ。
 野中は差別という重い十字架を背負いながら、半世紀にわたる権力闘争の修羅場をくぐり抜けてきた男だ。おそらく私が暗に言いたかったことを分かったのだろう。彼はそれ以上、何も聞こうとしなかった。」


「これは私の業なんです」という魚住氏の言葉を、私は僭越な言い方で恐縮だが、おそらく「それ以上、何も聞こうとしなかった」野中氏と同じように受けとめていたのではないかと思う。みんなが薄々知っていることだったとしても、それが重大なことであれば、文字に綴ることには特別の重みが生じる。他人についてその人やその家族を傷つけてでも、自分の業のためにあえて書くというのであれば、自分には書くことにおける責任をきちんと引き受ける覚悟があると宣言したことになるはずだ。そのとき私はそう思って魚住氏の業という言葉に対し、真実に近づこうという気骨のようなものを感じ、清清しい気持ちがしたのだが、けれども、残念なことに、「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」には、そのような心構え、矜持は片鱗も感じられなかった。

「ナーンダ、ソウダッタノ。」というような言葉をある作家が反体制の立場をとりながら勲章を授けられると辞退しないで受勲する人々について失望も露わに書いているのを読んだことがあるが、この本に対して私もちょうどそういう感じをもった。この本について、魚住氏は「はじめに」で「本来なら決して交差しないはずの語り手と聞き手が、たまたま遭遇して生まれた火花のようなものだと言ってもいいだろう。」と述べているが、はたして火花がどこかのページで一瞬にせよ飛び散ることがあっただろうか。そもそも表題の「我、国に裏切られようとも」からして、語り手と聞き手のいい気なナルシシズムが絡んでいないだろうか。

岩波書店は長年、哲学や歴史から物理、数学など幅広い分野にわたって岩波講座という書籍をシリーズで出しているが、2002~2003年には、「天皇と王権を考える」という講座が全10巻で刊行されている。図書館の棚を見ていて王政と天皇制の違いというようなことが解るかも知れないと思って、当時借りたことがあるのだが、第一巻の「人類社会の中の天皇と王権」に「現代天皇制論 ――日常意識の中の天皇制」(栗原 彬著)が掲載されており、このなかに村上正邦氏のことが取り上げられている。その部分を以下に引用する。


 ここで一つ重要な論点として出しておきたいのは、二番目に挙げた「天皇なんて知らないよ」という若者を動員することをめざした、「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」の問題です。これは、1999年11月12日に皇居前広場と外苑を使って行なわれた大規模な祭典です。主催は稲葉興作が会長をつとめた奉祝委員会と、森喜朗が会長であった奉祝国会議員連盟です。しかし、この演出シナリオをつくったのは末次一郎と村上正邦という人物でした。
 末次一郎は国士と言える人物です。佐賀県出身、国民祭典の当時は77歳、陸軍中野学校を卒業した元軍人です。(略)天皇の主催する園遊会に6回招待されているという、民間人では異例の存在です。昭和天皇の大喪の礼にも、新天皇の即位の礼にも招待されています。また若い人の教育、若者の国家への奉仕活動を熱心に推進してきました。
 もう一人が、KSD事件で逮捕された自民党、元参議院議員の村上正邦です。(略)少年時代は、昼は炭鉱で夜は学校というように苦学をした人です。(略)100万の組織票が目当てだったとは思いますが、生長の家の主張を政治的な発言の中にもずいぶん取り込んでいきます。超タカ派の右翼政治家です。この人が国民祭典の企画、立案、実施で、末次一郎とともに大きな役割を果たします。
 この村上という政治家の特徴を表すエピソードを紹介しましょう。1998年に「特定非営利活動促進法」という法律が成立しますが、これはもともと「市民活動促進法」という名称で検討が進んでいたものです。ところが、突然「市民」が落ちて「特定非営利活動促進法」となった。それは村上が、「市民とは何事か。国家観にそぐわないではないか」と強く主張して、こうなったらしいといわれています。
 彼は、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の事務局長、「皇室問題懇話会」事務局長、それから「神道政治連盟国会議員懇談会」幹事長という、ナショナリズムの重要な部分の元締めの位置にいて、政治の世界を牛耳っています。こういう人が国民祭典を企画したのです。
 出席者は、政界、経済界、学会、教育界の著名人はもとより、芸能界、スポーツ界の著名人を網羅する、動員でした。(略)末次や村上からすれば、そういった出席者は国家のエージェントです。国民という観客を動員するエージェントなのです。「天皇制なんて知らないよ」という若者を動員する、観客動員力が、エージェントとして選抜される時の評価の基準になっているのです。
末次や村上で見逃せないのは、発想の中にいつも全体化の契機がある点です。いつも「国体が入っている」と言ってもいいと思います。末次の奉仕活動はそういうものです。そこで想起したいのは、たとえばNPOに熱病のように走る現象です。国家による「奉仕活動の義務化」の提案に異議申し立てをしたのは、日本ボランティア学会有志などごくわずかで、大多数のNPOは沈黙を守って、権力に服従したのです。 」


栗原 彬氏の文章が岩波講座に掲載されてから、魚住昭氏の「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」が『世界』に連載されるまでには4、5年の期間しかない。人気歌手、スポーツ選手など有名人の動員が物凄かった「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」の問題や「市民活動促進法」という名称が「特定非営利活動促進法」に変わった経緯など、先行する岩波書店の書物に叙述されていることなのだから、せめて村上氏に真相を訊いてみると、まだよかったろうと思うのだが、出来上がった本をみると、とてもそういう裁量の余地はなかったのではないかとも思える。自由で公平な聞き書なら、当然許容範囲のことと思われるのだが、紹介者の佐藤優氏への遠慮なのか何なのか、『世界』も著者も知らないふりをしている。不思議なことである。そして一読者である私などがこうしてヘンだと感じるくらいなのだから、当時『世界』を離れるかどうかの渦中にいた金光翔さんはこの件については何も語っていないかも知れないが、実はさまざまなことを感じ、考察していたのではないかとこうしてブログ記事を書きながら思うしだいである。



(注) 「日本を守る会」は、その後、元号法制定のために運動した人々や関係諸団体を中心に1981年に結成された「日本を守る国民会議」とともに、「日本会議」(1997年結成)の前身。かの悪名高い「日本会議」はこの「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」とが合併してできたわけである。

スポンサーサイト
2011.06.29 Wed l 言論・表現の自由 l コメント (1) トラックバック (0) l top
  「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」について (上)

この件は岩波書店の金光翔さんに対する解雇せざるをえないという通告問題とは、通底するところはあるにしても、直接的因果関係のあることではない。ただ、3、4年前、私がこの本を一読したときから内心に小さなしこりのようにわだかまっていたことなので、この機会に書いておこうかと思う。

2007年10月に、魚住昭氏の「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」という単行本が刊行された。版元は講談社だが、この文章は実は刊行のつい一、二ヶ月ほど前まで、岩波書店の『世界』に連載されていたものであった。単行本「我、国に裏切られようとも」の後ろ扉には「本書は、『世界』(岩波書店)2006年11月号~2007年3月号、9~10月号に掲載された「聞き書 村上正邦 日本政治右派の底流」に加筆・修正し構成したものです。」と記述されている。

『世界』10月号が発売されるのは9月なので、常識的に考えると、『世界』10月号の発売時点でこの連載が講談社から出版されることはすでに決定していたということになるだろうか。『世界』連載時に私がこの文章を読んだのは多分一回くらいで内容的には特に記憶に残るほどの明確な印象は受けなかったと思うが、本になった「我、国に裏切られようとも」を通読して、「これは一体何のために書かれ、どうして『世界』に連載されることになったのだろう」と驚きもし、不思議にも思った。執筆者の魚住昭氏に対しても、岩波書店の『世界』に対しても。

成功した実業家や政治家が老年に至って書く自伝には自慢話を散りばめた自分に都合のいい挿話ばかりが書かれている、あるいは一つの事実が自分に都合のいいように独善的に解釈されて描かれていると感じることが往々にしてあるが、この本もそういうものの一種のように感じられた。「聞き書」というが、村上氏が答に詰ったり、窮すると想像されるようなことはほとんど何も訊いていない(あるいは訊いて返ってきた回答を文章にしなかったのかも知れないが。)ので、これではまるで魚住氏が村上氏の自叙伝を書いてやっているようなものではないかという気もした。数年前の「野中広務 差別と権力」とは大違いの印象である。私には、『世界』や魚住氏の村上氏に対する基本的な姿勢が佐藤優氏に対する姿勢の延長線上にあるもののようにも思えた。

魚住氏の序「はじめに」にも記されているように、当時の村上氏はKSD事件の受託収賄容疑による逮捕・起訴後の裁判中。一・二審で有罪判決を受け、上告中の身であった。もっとも事件の詳細については私はほとんど知らない。この本自体が事件についての検証を目的としたものではなく、魚住氏の言葉から推測すると、村上正邦という右派政治家のこれまでの歩みを「聞き書」という形式で辿るなかで、「日本政治右派の底流」について考察しようとしたもののようで、事件に触れた場面はせいぜい数ページではないだろうか。それでも公判での証人による証言が村上氏に有利なものが多いことは確かに事実であるようにも感じられた。ただ、後援会事務所の一部をサロンとして共同で使用するという理由で相手に家賃を支払って貰っていたことについて、「秘書に任せていたので自分は知らなかった」という政治家の常套句は、もう何十年も前から世間的にもほとんど信用されなくなっていることなので、村上氏のこの主張にも少々白々しさを感じないではなかったが。

魚住氏は、2001年1月、NHKテレビで従軍慰安婦問題をめぐる女性戦犯法廷ドキュメンタリーが放映されるに際し、日本会議グループや日本会議と関係の深い政治家の圧力により番組が改編されたことや、1999年の国旗・国歌法成立にも日本会議の運動の力が大きく働いていたことを、取材を通して感じ取り、知っていたそうである。日本会議には「生長の家」関係者が多いそうだが、村上正邦氏はその代表的人物であるだろう。

その村上氏に魚住氏がインタビューしようと思い立ったのは、佐藤優氏から、村上氏が「九州の筑豊炭田で貧しい鉱夫の子として生まれ、青年時代には炭鉱で労働運動のリーダーをしていた。幼いころには朝鮮半島から強制連行され、虐待されている人たちの姿も目撃し、心を痛めたことがあると言う。」話を聞いたことだったという。「左翼になってもおかしくない経歴を持つ村上さんが、なぜ右派の代表的政治家になったのか、その経緯をじっくり聞いてみたい。」「もし村上さんがすべてを話してくれるなら、近年なぜ「右派」が急速に台頭して政治の主導権を握るようになったのか、その謎も解き明かすこともできるのではないか。」と思ったそうである。

しかし、その意図はこの本においてはまったく成功しているようには思えなかった。そもそもそのような意図を魚住氏がもっていたということも読んでいてほとんど感じることはできなかった。村上氏は確かに

「 戦争中の炭鉱はとにかく石炭掘れ掘れ、出せ出せで、落盤事故も日常茶飯事だった。朝鮮半島から強制連行されてきて、仕事をさせられている人も多かった。今でもはっきり覚えているのは雪が降った朝の出来事です。
 朝鮮人の坑夫が炭鉱事務所のある広場に引き出されて、衆人環視のなかで日本人の坑内係に何度も木剣で叩かれていた。叩かれるたびに雪の上にバッと赤い血が飛び散る。それでショックを受けて、お袋に「何であんなことをされるんだ」と尋ねたら、その朝鮮人坑夫は「腹が痛い」と言って仕事を休もうとしたので坑夫係に納屋から引きずり出されて折檻されたらしい。
 そんなことは時々あって、「今日は(朝鮮人坑夫が)ダイナマイト自殺した」とか「死んだ」という話を聞いたこともある。彼らは日本人に蔑まれ、ひどい扱いを受けていた。」

と述べている。一方、魚住氏は、この本が出版された翌年にも、次のような発言をしている。

 魚住 ……村上さんも、筑豊の炭坑労働者の息子で、自身も労働運動をしてから東京に出た。在日韓国・朝鮮人が虐待される姿も目にしている。野中さんも村上さんも、「根っこのある政治家」なんです。(中島岳志的アジア対談:「古い」政治家のリアリズム-毎日新聞2008年)

しかし、村上氏が参議院議員として実践した政治活動はどうだっただろうか。村上氏がどんな政治家であったかは、1995年6月9日に衆院本会議で与党3党賛成多数で可決された「戦後五十年不戦決議」をめぐる行動にもよく示されているように思う。

「 村山政権発足後、最初に大幅な妥協を強いられたのは社会党でした。村山首相は衆院本会議(平成6年7月)での所信表明演説で従来の社会党の基本原則を大転換させ、日米安保体制の堅持、自衛隊合憲、「日の丸・君が代」容認を打ち出した。
 このため社会党の支持基盤である護憲派の市民団体や労組などの反発を買った。それだけに、村山首相は戦後五十年の不戦決議の採択は何が何でも実現しなければならない立場に追い込まれていた。
 自民党にとっても不戦決議は社会党と連立を組んだときの合意事項に盛り込まれていたから、その約束を守らなければ政権維持がおぼつかなくなる。しかし、その一方で、党内には、あの戦争は自衛のための戦争であって侵略戦争ではなかったと考える人たちが大勢いた。もちろん私もそうです。」

村上氏は当時参院自民党幹事長であった。決議文であの戦争が侵略戦争であったと認めてはならない、アジア諸国への植民地支配に言及してはならない、と6月6日深夜まで参院幹事長室に50人ほども詰めかけていた民族団体の幹部たちの意を受けて、文案をつくっていた加藤紘一政調会長らを相手に最後の最後まで書き直しに拘泥した政治家が自分だったと村上氏は話している。魚住氏は、村上氏のそういう政治思想についてインタビューをしてよく知っているにもかかわらず、後日「村上さんも、…在日韓国・朝鮮人が虐待される姿も目にしている。」ことを強調して「「根っこのある政治家」なんです。」などと語るのは誠実な態度とは言えないように思う。魚住氏は、それが村上氏の心優しさの証であるというかのように、「朝鮮人が虐待される姿も目にしている」と口にするが、必要とされていたのは、むしろ、「虐待される姿」を見ている村上氏がなぜ「五十年決議」などに際して日本の侵略や植民地支配を頑強に否定するのか、その思想・行動についての自己の解釈を述べることではなかっただろうか。
2011.06.27 Mon l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
  岩波書店の訂正・謝罪要求について(4)
  「陰謀論的ジャーナリズム、よりファッショ的な形でのプロパガンダ機関化」

岩波書店が金光翔さんに訂正・謝罪要求をしてきた三箇所の文章のうち、今日は最後の③について検討するつもりだが、この内容は前回とりあげた②とよく似ている。

② 「『世界』はどうも、このあたりの政治家や官僚・支持勢力のためのプロパガンダ雑誌になってしまっているように見える。」

③ 「『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズムの、陰謀論的ジャーナリズムへの移行」
「『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズムがよりファッショ的な形で、プロパガンダ機関化しつつあること」(「陰謀論的ジャーナリズムの形成(4):新しい段階へ――『世界』2010年3月号雑感」)2010年2月28日」

それもそのはずで、②も③も、タイトル「陰謀論的ジャーナリズムの形成」という連載記事の一部((3)と(4))なのだ。③は、「『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズム」が、1)「陰謀論的ジャーナリズム」へ移行している、2)よりファッショ的な形で、プロパガンダ機関化しつつある、という指摘だが、この1)2)の指摘・論評が、岩波書店が主張するように訂正・謝罪しなければならない不当なものか、それとも現象の核心、正体を明らかにしようとする真面目な姿勢に支えられた正当なものであるかについて検討したい。


1)リベラル・左派ジャーナリズムの、陰謀論的ジャーナリズムへの移行

前回と前々回に言及したように、『世界』編集長の岡本氏は、日韓のあるシンポジウムで、「外務省の佐藤優が,ロシアとの間で北方四島の問題を実際に動かすために政治家とともに動いたことが.メディアから激しいバッシングを受け,逮捕起訴までされた事件を含め,外務官僚が現実を動かすために行動すること自身がリスクを負うことになってしまった。」と語っている。

佐藤優氏の事件に関する山口二郎氏の見解は、「検察が権力悪を追及する正義の味方というイメージは、もはや過去のものとなった。佐藤優が広めた「国策捜査」という言葉は、メディアに定着した。国策なるものの実体があるかどうかは別として、検察はしばしば自ら描いた筋書きに沿うよう、むりやり無実の人間に罪を着せることがありうることは、むしろ常識となった。」(「陰謀論的ジャーナリズムの形成(4):新しい段階へ――『世界』2010年3月号雑感」)というものである。

青木理氏は、佐藤氏の有罪判決確定を受けて、「多くの人が既に周知の事実として認識しているように、これらはいずれも、政界やメディアなどを覆い尽くした鈴木宗男氏バッシングの中で「ムネオ逮捕ありき」の捜査に突き進んだ検察が無理矢理に描き出した「虚構の絵図」に過ぎない。いまさら語るまでもないが、佐藤氏は2005年に『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を著し、「国策捜査」という言葉を人口に膾炙させるきっかけをつくった。その後の活発な言論活動を含め、佐藤氏の言説が広く受け入れられているのは、検察捜査の歪みを何よりも雄弁に物語る。」(「週刊金曜日」2009.7.10)と書いている。

金さんは連載記事「陰謀論的ジャーナリズムの形成」では、青木理氏の上の発言は取り上げていないが、別のエントリーでこの記事を(この箇所ではなく別の箇所だったと思うが)批判していたと記憶する。上の岡本氏、山口氏、青木氏の文章を読んでみると、誰しも判ることと思うが、それぞれ表現のしかたは異なるにしろ、三人とも佐藤氏は無実の人間であるとの前提でものを言っている。けれども、どのような理由、根拠によって佐藤氏が無実なのかについては一様に何も述べていない。他の場所で述べているのかというと、私の知るかぎりそれもないようである。佐藤氏が国策捜査の被害者であることは今さら言うまでもない自明のことという扱いであるが、しかし、有罪判決を受けた人間についての根拠を示さない無実の主張は本来成立しない。

青木氏は、上述のように佐藤氏の有罪確定について、「政界やメディアなどを覆い尽くした鈴木宗男氏バッシングの中で「ムネオ逮捕ありき」の捜査に突き進んだ検察が無理矢理に描き出した「虚構の絵図」に過ぎない。」と述べているが、その判断はどのようにして導き出したのだろう。以前にも述べたことがあるが、「『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を著し、「国策捜査」という言葉を人口に膾炙させるきっかけをつくった。」ことや「その後の活発な言論活動を含め、佐藤氏の言説が広く受け入れられている」ことは、「検察捜査の歪みを何よりも雄弁に物語る。」ことにはならない。

多くの人が冤罪で苦しんできたし、今も同じだと思う。その無念をようやくの思いで晴らすことができた人もいる。古くは四件の死刑冤罪事件、松川事件、八海事件、最近では足利事件、布川事件が記憶に新しいが、どの例を見ても、検察の立件、判決文の精査を通して具体的、実証的、詳細、緻密に無実の根拠を示していない例はただの一つもなかったろうと思う。無実を言う場合は同時にその根拠を提示することは論理的にも倫理的にも必要不可欠なことだろう。法廷資料とは無関係に自分たちの主観・独断で結論を決め付けて吹聴するのであれば、無実というも、有実というも、人の勝手次第ということになる。岡本氏、山口氏、青木氏の姿勢は、主観的にはどうあれ、客観的にはそのようなものになっているように思う。

三氏はどうも、佐藤氏は(そしておそらく鈴木氏も)不正なことは何もやっていないにもかかわらず、検察その他の謀略にはめられた、国策捜査という国家的陰謀の被害者である、と頭から決め付けていると思われ、このような姿勢、現象を考察した結果として金光翔さんは「陰謀論的ジャーナリズムの形成」と表現したのではないかと思う。実際、上述の三氏のような姿勢では、読者を欺くことになりかねないが、また、冤罪の重さ、深刻さをないがしろにすることにもつながりかねない。そのことを、岡本氏らはどう考えているのだろう。


2)リベラル・左派ジャーナリズムはよりファッショ的な形で、プロパガンダ機関化しつつある

『世界』2010年3月号には、久しぶりに佐藤優氏が登場して、岡本厚編集長の司会で歳川隆雄氏と対談していることはすでに記した。実は佐藤氏は『世界』で大田昌秀氏との対談連載を行なっていたが、この連載はここ半年ほど中断されていた。中断の原因について、金光翔さんは、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」が(引用者:2009年)10月1日にウェブ上にアップされたことの影響があるのではないか、と推測していた。しかし、半年ぶりに『世界』は佐藤氏を登場させ、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」については何の反応も示さなかった。このことについて、金さんは、『世界』は「『世界』の執筆者や熱心な読者すら署名している「共同声明」を、一片の説明もすることなく、無視した、ということである。」と受け止め、なお、

「これは、『世界』が新しい段階に入ったことを示唆しているように私は思う。要するに、小沢一郎の政治資金規制法違反関連の問題をめぐる、このところのジャーナリズム上の大騒ぎの中で、これまでの右傾化路線の延長上ではありつつも、『世界』がもう一段階上のフェーズに移行したのではないか、ということである。」

と述べている。「小沢一郎の政治資金規制法違反関連の問題」については岡本氏の興味深い発言もあり、後ほど言及したいと思うが、岩波書店および『世界』が、熱心な読者の署名もさることながら、岩波書店の著者が署名している「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」を無視したことにはいろいろなことを考えさせられる。金さんの論文「<佐藤優現象>批判」が雑誌『インパクション』に掲載された直後の、金さんに対する岩波書店の対応や、『週刊新潮』での岩波関係者の発言はどうだっただろう。

「岩波関係者」と名乗る人物は、『週刊新潮』の取材に対し、金さんについて「『私にも話させて』というブログで、『岩波』で著書も出版し、大事な執筆者である佐藤氏やジャーナリストの斎藤貴男氏の批判記事を書くようにもなりました。もし執筆者がそれを読み、その筆者が『岩波』の人間であると知ったらどう思うでしょうか。これは思想信条の問題でなく常識の問題です。」(「対『週刊新潮』・佐藤優裁判まとめ」第7回口頭弁論期日①(2010年4月28日):原告準備書面(3))と語っている。また、岩波書店は、金さんの論文発表に対し「著者・読者・職場の信頼関係を損なう行為」として厳重注意処分を行ない、役員の一人は、金さんに直接、岩波書店に一度でも寄稿したことのある筆者への批判を今後はしてはならないと通告したとのことである。

上記の発言をみると、岩波書店は全社一丸となって岩波書店の執筆者を神のごとくに敬っているかのようであるが、それならば岩波書店の著者が何人も署名している「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」を全社一丸となって無視したのは如何なる理由によるものなのだろう。このなかには、岩波書店と縁の深い、また岩波から非常に印象深い著作を刊行している著者も存在するように思うのだが…。

また、今回の「解雇せざるを得ない」通告についても、心ある岩波書店の著者の人々は会社・岩波労組に対して抗議を行なってくださっているそうだが、今回も岩波書店の対応は「共同声明」の時と同様なのだろうか? 5月11日付の「首都圏労働組合特設ブログ」の記事「岩波書店、「解雇せざるをえない」通知撤回を拒否」を読むと、きっとそうなのだろう。だとすると、岩波書店にとって、著者とは本当のところどのような存在なのだろう。岩波社員による岩波書店の著者やその著作への批判は一切許されないが、上層部による著者の無視・黙殺は許される、というような社訓でもあるのだろうか。 

記述が後先になったかも知れないが、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」には、以下の文章が見える。

「佐藤氏は、言論への暴力による威圧を容認し、イスラエルの侵略・抑圧行為や在日朝鮮人の民族団体への政治的弾圧を擁護する等の、決して許容できない発言を、数多くの雑誌・著作物で行っています。当該メディアが佐藤氏を積極的に誌面等で起用することは、人権や平和に対する脅威と言わざるを得ない佐藤氏の発言に対する読者の違和感、抵抗感を弱める効果をもつことは明らかです。私たちは、佐藤氏の起用が一体どのような思考からもたらされ、いかなる政治的効果を持ち得るかについて、当該メディアの関係者が見直し、起用を直ちにやめることを強く求めます。」

この声明に盛られている「当該メディアが佐藤氏を積極的に誌面等で起用することは、人権や平和に対する脅威と言わざるを得ない佐藤氏の発言に対する読者の違和感、抵抗感を弱める効果をもつことは明らかです。」という、出版社にとって非常に重要と思われる意見・問いかけに答えることなく、佐藤氏を黙って再び『世界』に登場させたことは、このことだけに限っても、「よりファッショ的な形で…」と評されて当然ではないだろうか。私はこの表現に違和感をおぼえなかった。その上、『世界』同号には、以下のような発言も出ているのだ。

「 通常国会開幕直前に、石川知裕衆議院議員など小沢一郎幹事長の関係者が逮捕されたことで、政治論議は必然的に資金問題をめぐる小沢と検察の戦いに集中することとなった。政権交代による日本政治の変革、政策の転換に期待を託していた人々にとっては、これは困ったとしか言いようのない事態である。
 今回の事件に対する当惑は、民主党を陰で支配している小沢幹事長の金権腐敗ぶりが明らかになって困ったというものではない。既に昨年春、西松建設による不正献金事件が立件され、小沢は代表を退いた。国民は小沢が違法かどうかはともかく、巨額の政治資金を集めてきたことを承知の上で、民主党に政権を託した。さらに言えば、自民党竹下派の嫡子であり、企業から巨額の政治献金をかき集めてきたという小沢の来歴を承知の上で、ひ弱な民主党を束ねる必要悪として、豪腕小沢の存在を許容してきた。今頃になって、今度は水谷建設の裏金が流れたということで検察が国会議員の逮捕を含む強制捜査に乗り出したことが、困った話なのである。」(「民主党の民主化を」山口二郎)

「小沢氏が不透明な資金を得て、その政治力としていることは推定できる。しかし、民主党や政権首脳が小沢続投を支持、あるいは沈黙しているのは、メディアがいうように、単に小沢支配への恐怖があるというのみならず、検察の捜査(またそれと一体化したメディア)への不信があるからだろう。」(「対談司会」岡本厚)

金さんは、「このような、小沢が「不透明な資金を得て、その政治力としていること」を推定した上で、それ自体を容認・肯定する姿勢は、北村肇『金曜日』編集長の、最近の以下の発言も同じである。」と述べて、次の文章を引用している。

「「正義」の定義は難しい。何しろ、米国にすればベトナム戦争もイラク戦争も正義となってしまう。だが、「不正義」はそれなりに言葉で表現できる気もする。「『力』によって他者を虐げ、あるいは私利私欲を図る行為」――。この解釈に従ったとき、小沢一郎氏をめぐる東京地検特捜部の捜査は「不正義」だろうか。
 特捜部が「力」を持っているのは間違いない。仮に国策捜査の色合いが濃ければ「他者を虐げ」につながる。しかし「私利私欲」があるとは思えない。では小沢氏はどうか。ゼネコンに献金を強制していたことが明らかになれば不正義は避けられない。が、政治改革を目指しての集金なら「私利私欲」と言い切るのは無理がある。政治にはカネがかかる。その現実を捨象しての「正義」は表層的なお題目でしかないからだ。
 小沢氏の師事した田中角栄氏が単なるカネの亡者でなかったことは、その後、さまざまな書籍で浮き彫りになりつつある。ロッキード事件当時、検察は「正義」だった。いきおい、田中氏には「不正義」のレッテルが張られた。だが、その見立てが正しかったのかどうか、まだまだ検証が必要だ。」(『週刊金曜日』2010年2月5日)

これらについての金光翔さんの論評を以下に示しておく。

「「政治改革を目指しての集金」ならば問題ないと北村編集長がしている点は、重要なものを示唆していると思う。山口・岡本編集長・北村編集長の上記言説について、「司法の機能の否定」だけを見るのは適切ではないのである。集金が「政治改革を目指して」のものなのか「私利私欲」のためなのかを判断するのは誰か?北村編集長らリベラル・左派メディアの編集者・言論人である。これらの人物の、「司法の機能の否定」「法治主義の否定」の背景にあるのは、「善悪を決定するのは自分たちだ」という独善そのものの世界観が控えているのだと思われる。」

正鵠を得た批評ではないだろうか。上述の文章を含めた岡本氏およびその他の人々の発言を読んで、「リベラル・左派ジャーナリズムはよりファッショ的な形で、プロパガンダ機関化しつつある」という金さんの批評はきびしくはあっても、事の本質を衝いたものだと思ったが、批評のそもそもの目的はいつもそこにあるのではないだろうか。
2011.06.23 Thu l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
  岩波書店の訂正・謝罪要求について(3)
   「プロパガンダ――鈴木宗男、小沢一郎」

岩波書店が金光翔さんに文章の訂正・謝罪を要求している三箇所のうち、前回は、「② 『世界』はどうも、このあたりの政治家や官僚・支持勢力のためのプロパガンダ雑誌になってしまっているように見える。」(「陰謀論的ジャーナリズムの形成(3) 佐藤優の売込みを図る岡本厚『世界』編集長」2010年2月1日」を取り上げた。この文中の「このあたりの政治家や官僚・支持勢力」として金さんが名前を挙げているのは、佐藤優氏の他、鈴木宗男氏や小沢一郎氏という有力政治家であるが、この時点における『世界』最新号には元防衛事務次官で一審で有罪となった守屋武昌氏まで登場しているとして守屋氏の名前も挙げられている。金さんによると、「鈴木や佐藤は言うに及ばず、守屋も、小沢一郎と「防衛利権」絡みで関係が深いことが指摘されている」とのことである。これらの人物のうち、前回実際に取り上げることができたのは佐藤氏だけだったので次に進みたいのだが、その前に少し前回の確認をしておきたい。

岡本氏は佐藤氏について日韓のシンポジウムで、「ロシアとの間で北方四島の問題を実際に動かすために政治家とともに動いたことが,メディアから激しいバッシングを受け,逮捕起訴までされた」と述べているが、佐藤氏の事件をそのような性質のものと断言する根拠、たとえば裁判資料を岡本氏がどこまで検討・追求しているのかなどはこれまで何も語られていないので分からないし、また佐藤氏は右派雑誌やウェブ上で普段から排外主義的主張を繰り返していることは周知のことなのに、『世界』はそのことに一切目を瞑って彼を重用しているのだから、シンポジウムにおける岡本氏の発言も勘案すると、岡本氏および『世界』は日頃から佐藤優氏のプロパガンダをしていると言われても仕方がないのではないかと私には思える。さて他の人々に関する金さんの記述は以下のとおりである。

「 『世界』の最新号(2月号)では、相変わらず鈴木宗男が登場しているだけでなく、元防衛事務次官で一審で有罪となった守屋武昌まで登場している。

鈴木は、以前にも紹介したように、2009年1月26日質問書提出の国会質問で「今般の武力紛争において、パレスチナ側に一千万ドルの緊急人道支援を行うことは、国際社会に対して、我が国はテロ支援をし、テロに加担する国であるというアピールをすることに等しく、我が国の国益を損なうことに繋がるのではないか。」と発言したり、「ハマスがテロリストである事を政府に対して確認する質問主意書」を繰り返し提出したりするなど、イスラエルの国益に沿うように国政に影響を与えようとしている人物である。勿論岡本も、このことを知った上で誌面に登場させているわけである。

鈴木や佐藤は言うに及ばず、守屋も、小沢一郎と「防衛利権」絡みで関係が深いことが指摘されている(野田峯雄・田中稔『「憂国」と「腐敗」――日米防衛利権の構造』第三書館、2009年3月)。念のためにいうと、守屋は『中央公論』2010年1月号にも登場しているから、「発言の場のない人物に機会を提供した」という言い訳も通用しない。

『世界』はどうも、このあたりの政治家や官僚・支持勢力のためのプロパガンダ雑誌になってしまっているように見える。守屋は、佐藤や鈴木のように、一旦は失脚した政治家・官僚がマスコミの力によって社会的に復権する、という事例を踏襲しようとしているようである。 」


守屋武昌氏については私はほとんど知るところがないし、金さんも守屋氏については、今後『世界』がこの人物を佐藤氏や鈴木氏の前例にならって頻繁に起用するのではないかという懸念を表明しているに過ぎず、特に重要視しているわけではないと思われるので割愛させていただいて、鈴木宗男氏に移りたい。鈴木氏については、私もウェブ上のあるサイトで鈴木氏の国会におけるパレスチナ問題に関する質問主意書を読んだことがある。鈴木氏が国会で、金さんが上述しているとおりの言動をしていたことは確かであり、そのサイトの記述によると、この件につき、鈴木氏に真意を問うための質問書を送ってもなしのつぶてだということであった。
http://list.jca.apc.org/public/aml/2009-February/024069.html
http://wind.ap.teacup.com/applet/palestine/msgcate3/archive

このパレスチナ問題について、佐藤氏にいたっては、『インテリジェンス武器なき戦争』という2006年刊行の本で「アラブを贔屓筋にしている人たちは、イスラエルにやられても文句は言えないですよという話です。たとえばアルカイダ、ハマス、ヒズボラのテロリストを支援するような運動をやった場合、これはイスラエルにとって国家存亡の問題ですから、その人は消されても文句は言えない。それくらいの覚悟が求められる贔屓筋の話だと思います。」と述べている。このような思想の持ち主である佐藤氏、そして基本的な考え方、価値観を佐藤氏と共有していることは間違いないと思われる鈴木氏のような人々にとって、長らく世の中で進歩的・良心的な出版社として通ってきた岩波書店による重用ほど有難いことはないのではあるまいか。

岩波書店は、金光翔さんが『世界』は鈴木氏や佐藤氏の「プロパガンダ雑誌になってしまっているように見える。」と書いたことに対し、「自社の出版物の社会的信用を貶め、会社の名誉と信用を守る義務を負う社員の記述としてはなはだしく不適切」として金さんに「訂正・謝罪」を要求しているわけだが、実際に「自社の出版物の社会的信用を貶め」、「会社の名誉と信用を守る義務」を怠っているのは、イスラエルのパレスチナ攻撃を全面擁護する鈴木宗男氏や佐藤優氏をなぜかことさらに重用する『世界』ではないのだろうか? そもそも『世界』は鈴木氏、佐藤氏のこのような言説や行動が何を意味しているのかについて一度でも視野を拡げて真剣に考えてみたことがあるのかどうか、また当の鈴木氏や佐藤氏、特に佐藤氏にその意図や目的も含めた発言の真意を真剣に問うたことがあるのかと訊きたい。

金さんが論文やブログ記事において常に問題にしてきたのは、世の中で進歩的・良心的な雑誌と思われていて、自らも「『世界』は、良質な情報と深い学識に支えられた評論によって、戦後史を切り拓いてきた雑誌です。創刊以来60年、すでに日本唯一のクオリティマガジンとして、読者の圧倒的な信頼を確立しています。」と誇っている雑誌が、人間の生き死にに関わるような重大な政治、社会、人権問題などに関して、佐藤氏のようにメディアの性格によって自己の主張や見解を露骨に(時には微妙に)使い分けるといった行動に顕著なように、いったいその言説のどこに信頼性や傾聴に値する内容が存在するのか分からない言論人を重用することの社会的害悪、読者に対する甚大な悪影響ということであったと思う。ブログ「media_debugger」のこちらの記事によると、東日本大震災以後、最近の佐藤氏は「生命至上主義」を超えるために、新しい思想が必要であるというようなことを述べているようである。少し引用させていただく。

加藤 確かに天皇の言葉は、現場で命がけで働いている人に、強く訴える力がありそうですね。では、たとえば総理にそれを求めるとしたら、佐藤さんならどんな人が浮かびますか?
佐藤 浮かばない。僕は生命至上主義を超えろっていう感覚ですからね。これは「近代の超克」の問題だと思うのですが、合理主義、生命至上主義、それから個人主義、この三つによって融合した戦後のシステムの中だと変われないんです。今回の津波にしても二十三メートルの津波に対応できるように三十メートルの堤防を造ろうという思想とか、マグニチュード九・〇の地震が起きたから、今度九・四に備えろという、これじゃダメなんです。想定したことを超えたことが起きてる。それに対応するためには新しい思想が必要だと思うんです。恐怖を超えないといけない。〔「東電の幹部たち」などの「エリート」を〕萎縮させるのではなくて。そのへんの技法は旧日本陸軍の指導書である「統帥綱領」や「統帥参考」にあるんじゃないかと思うんですよ。」(『en-taxi』(2011年春号)「加藤陽子・佐藤優・福田和也の鼎談」)

まったく異様発言の連続のような「新しい思想」だと思う。試みに、ネットで「統帥参考」を検索してみると、最初の行の「旧軍統帥参考とガリシア緒戦」というサイトには「統帥参考」の内容の一部が引用されていて、これについての執筆者(元軍人?)の解説も付されている。

「23:統帥者の意思は、外に対するのと内に対するのとを問わず、完全に自主自由を発揮せざるべからず。(統帥者の意思は誰にも拘束されない。)

統帥参考は全編このように読んで明らかに軍人官僚の傲慢さと思われるものに満ちている。これは方面軍司令官または陸軍参謀総長は誰にも拘束されず、責任も持たないと表明しているものだ。/これ程までに思い上がった文書はまず他国にも見られない。」

とのことである。佐藤氏は以前にも「国体の本義」とやらを盛んに宣伝していたように記憶するが、今度のものはいっそう毒気が強そうである。「想定したことを超えたことが起きてる。」という発言が嘘っぱちであることはmedia_debugger氏が文中できっぱり指摘されている。佐藤氏には、「二十三メートルの津波に対応できるように三十メートルの堤防を造ろうという思想」がなぜだめなのかを正確に言ってみろと言いたい。「〔「東電の幹部たち」などの「エリート」を〕萎縮させるのではなくて。そのへんの技法は旧日本陸軍の指導書である「統帥綱領」や「統帥参考」にあるんじゃないかと思うんですよ。」とか、「僕は生命至上主義を超えろっていう感覚ですからね。」などの発言も何を言おうとしているのかについては検討が必要と思うが、なんとも奥が深そうである。

脱線気味になったかも知れないが、小沢一郎氏については、『世界』編集長自身が誌上(『世界』2010年3月号)で小沢氏のプロパガンダをしていると読まれても仕方のないことを述べているのではないだろうか。この号では佐藤優氏が歳川隆雄氏と「“権力闘争”を超え民主主義へ」というタイトルで対談を行なっているが、ここで司会役を務めている岡本編集長は、小沢氏について次のように発言している。

「小沢氏が不透明な資金を得て、その政治力としていることは推定できる。しかし、民主党や政権首脳が小沢続投を支持、あるいは沈黙しているのは、メディアがいうように、単に小沢支配への恐怖があるというのみならず、検察の捜査(またそれと一体化したメディア)への不信があるからだろう。」

これでは、とてもジャーナリストの発言とは言えないように思うのだが…。これについての金さんの論評は次のとおりである。

「民主党政権成立後、『世界』権力批判の立場と公正性を消失してしまっていると思われることは、既に指摘してきているが、ここでも同様の問題が指摘できるとともに、その深化を見ることができると思われる。なぜならば、岡本編集長は小沢が「不透明な資金を得て、その政治力としていること」自体は「推定」しているのだから、本来はその「推定」=嫌疑に基づいて、捜査の徹底を要求し、(『世界』をはじめとした)メディアによる小沢資金問題への取材・調査を行なうべきだろう。ところが、それとは180度逆に、岡本は、「民主党や政権首脳が小沢続投を支持、あるいは沈黙している」という事態を積極的に肯定しているのである。」

このとおりではないだろうか。そもそも小沢氏の政治資金問題については、湾岸戦争時以来、今日まで絶えることなく陰に日に疑惑がささやかれ続けてきたように思う。何の見返りも求めないのであれば、誰も常識を超えた額の献金はしないだろうし、小沢氏の場合は政党交付金など、われわれの税金と関連する金銭問題でも不明瞭な点が存在するようである。こちらのサイトによると、「研究者ら46名で小沢一郎らを東京地検に刑事告発しました!」という出来事も今年2月に発生している。この告発がどんな結果になるのかはまだ分からないが、ただこちらの主張・見解には、岡本氏の上記の無根拠な発言と異なり、このような法的問題を扱う際に必要不可欠と思われる実証的姿勢が明らかに見て取れるということだけは言えるように思う。
 
このように見ていくと、前述したように、岩波書店の出版物の社会的信用や会社の名誉と信用を貶めているのは、岩波書店が主張するように金光翔さんなのか、大きな疑問をもたないわけにはいかない。岩波書店の出版物の社会的信用や会社の名誉と信用が落ちているのは事実だと思われるが、その原因は、実は金さんにあるのではまったくなく、金さんが常々批判しているように、出版物の質の低下、要は『世界』編集長など岩波書店を経営する人々の姿勢や、それに追随する岩波書店労働組合の行動などにこそあるのではないかという疑念に行きあたらざるをえないのである。『世界』が「このあたりの政治家や官僚・支持勢力のためのプロパガンダ雑誌になってしまっているように見える。」という金さんの発言は至当であるように私には思われる。
2011.06.19 Sun l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
  岩波書店の訂正・謝罪要求について(2)
   「プロパガンダ――佐藤優」

今年の2月2日に岩波書店が、ブログ「私にも話させて」の過去の記述に対して、執筆者の金光翔さんに訂正と謝罪の告知を求めてきた箇所三点のうち、これから残りの二点について検討したいと思う。まず、②から。

② 「『世界』はどうも、このあたりの政治家や官僚・支持勢力のためのプロパガンダ雑誌になってしまっているように見える。」(「陰謀論的ジャーナリズムの形成(3) 佐藤優の売込みを図る岡本厚『世界』編集長」2010年2月1日」

金光翔さんのこの記事によると、徐勝 ・中戸祐夫編『朝鮮半島の和解・協力10年――金大中・盧武鉉政権の対北朝鮮政策の評価』(御茶の水書房、2009年11月)という本に、岡本厚氏も『世界』編集長の肩書きで寄稿されているそうである。金さんは、岡本氏が「その中で驚くべき発言を行なっている」として、以下の文章を紹介している。

「 日本の政治家や官僚にとって,日朝正常化にかかわることは高いリスクを引き受けることになってしまった。小渕政権で内閣官房長官となった野中広務は、「金丸訪朝団のときには,金日成主席が超法規的に紅粉船長らを帰らしてくれたんです。そのときに日本の人たちは感動的な歓迎をしてくれたわけですけれども,間もなく、3党合意の中にいわゆる戦後の償いが入っていたとかいうことで,金丸さんは売国奴のように言われちやったんですね。渡辺美智雄さんが訪朝して食糧支援をやったときも、また加藤紘一さんが政調会長のとき,北朝鮮に食料支援をやったときも,売国奴のように言われた。すべてかかわった政治家がリスクを負うようになっているんですよ」と語っている。

 小泉訪朝を推進した外務省の田中均は,その後メディアから激しいバッシングを受け,そればかりか自宅に爆発物を仕掛けられるという被害を受けている。同じく外務省の佐藤優が,ロシアとの間で北方四島の問題を実際に動かすために政治家とともに動いたことが,メディアから激しいバッシングを受け,逮捕起訴までされた事件を含め,外務官僚が現実を動かすために行動すること自身がリスクを負うことになってしまった。

 抱える問題は,日本国民の脱植民地化という巨大なものであるにも関わらず,その解決のための推進力は極めて弱い,というのが現状である。メディアの責任が大きいが,しかしメディアに働く人々の意識も,また日本人全体の意識を反映しているともいえる。」(同書、191頁)

この本は、2008年5月30・31日に開催された国際シンポジウムで発表された原稿をまとめたものということだが、この「シンポジウムの趣旨が、朝鮮半島の平和的統一を志向したものであることは明らかである」とのことである。金さんは、「発表者だけみても、韓国の有力政治家・発言力を持つ学者など、有力者が多い。この中で岡本は、佐藤を、田中均のような、日朝国交正常化に向けて「現実を動か」そうとした官僚と同列視し、紹介している。これは、要するに、岡本が、佐藤を有力者たちに売り込んでいる、ということではないのか。」と述べているが、岡本氏の文章を読んで、私も思わぬ文脈で佐藤氏の名前が出てきたのにはひどく驚かされた。なぜここで突然佐藤優氏の名前が出てくるのか、何の必然性もないだろう。というより完全に場違いである。それでもあえて佐藤氏の名を出すということは、ちゃんと相応の思惑をもってのことなのだろう。ここで、金さんは朝鮮半島に関連しての佐藤氏のこれまでの発言を詳しく紹介している。そのなかからほんの一部だが、以下に挙げておく。

「日本の外交官にとって重要なのは日本の平和であり、国益だ。戦争が日本に経済的利益をもたらす場合、大きな声では言えないが、戦争を歓迎するというシナリオは当然ある。1951~53年の朝鮮戦争が日本に特需をもたらし、戦後の経済復興において一定の役割を果たしたことを想起してみればよい。」、「僕(注・佐藤)は、朝鮮半島が統一されて大韓国ができるシナリオより、北が生き残るほうが日本には良いと思う。統一されて強大になった韓国が日本に友好的になることはあり得ないからね」、「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」 等々。

北朝鮮に関する佐藤氏の発言で私が忘れられないのは、前にも書いたことがあるが、次の文章である。

「 最近、外国のテロ対策専門家が筆者を訪ねてきた。北朝鮮が行う可能性があるテロに対する日本の政治エリート、マスメディアの感覚が鈍いのに驚いていた。その専門家は、「日本警察のテロ対策部門は有能で、取るべき予防措置や広報についてもきちんとした問題意識を持っているのだが、世論の後押しがなく、政治家の理解がないところでは十分な対策をとることができない」との感想をもらしていたが、筆者もその通りだと思う。(略)
 思想戦としてのテロリズムとの戦いを軽視してはならない。この観点から見ると日本は対テロ思想戦の準備が全くできていない。外国のテロ対策専門家は、「日本の原子力発電所の多くが日本海に面しているが、北朝鮮の工作員が上陸して生物・化学兵器で攻撃をした場合の防御策は十分とられているか。原発の警備は民間会社が行っていると承知するが、北朝鮮情勢の緊張を考慮するならば自衛隊が警備するのが国際スタンダードではないか。それから貯水池に対するテロ対策は十分にできているのか」と言う。もちろん関係当局はそれなりの対応はとっているのであろうが、テロの脅威に対する認識は不十分だと思う。
 イスラエルの水資源公団幹部を務めた人物が水の安全保障についてこう述べていた。
「ハマス(パレスチナの原理主義過激派)が貯水池に毒物を混入させるという確度の高い情報が入ってきたのでイスラエルはユニークな対応をとった。エレフアントフィッシュをすべての貯水池で飼うようにしたのである。この魚は、人間にとって有害な物質が水に混入すると、直ちに反応する。貯水池には二四時間体制で監視員を置いて、エレフアントフィッシュの動きに少しでも異常があれば、直ちに給水を中止して調査する」
 これがテロ対策の国際スタンダードなのである。北朝鮮が日本に対するテロ攻撃を仕掛ける場合、貯水池、原発、新幹線などが標的になるのは明白だ。十分な対策をとるべきだと思う。」 (『地球を斬る』2007.1.25)

「外国のテロ対策専門家」が佐藤氏を訪ねてきたのが事実かどうかはともかくとして、そのテロ対策専門家が「北朝鮮の工作員が上陸して生物・化学兵器で攻撃をした場合の防御策は十分とられているか。原発の警備は民間会社が行っていると承知するが、北朝鮮情勢の緊張を考慮するならば自衛隊が警備するのが国際スタンダードではないか。それから貯水池に対するテロ対策は十分にできているのか」と述べたということは、この文章を一読したときも「本当だろうか?」と疑わしく思ったし、今もそう思っている。もしその外国のテロ対策専門家がまともな人物だと想定しての話だが、元外交官とはいえ一作家である民間人に対し、他の国家に関するこれほど重大な話を根拠も示さずにこうも軽々しくしゃべるものだろうか。日本の原発に「北朝鮮の工作員が上陸して生物・化学兵器で攻撃をし」て、北朝鮮にたった一つでも何か得になることがあるというのだろうか。現に3.11東日本大震災に際して北朝鮮は赤十字を通じて義捐金と懇切な見舞いの言葉を贈ってくれている。佐藤氏のこの文章は北朝鮮に対する悪質な誹謗中傷であり、国内的には一種の煽動でもあるように思った。このような噂話が拡がるようなことになると、またも在日朝鮮人が迷惑を蒙るのは目に見えていると思う。

佐藤優氏がこのような発言を平然と続けていることを岡本氏は知らなかったのだろうか? 月刊雑誌の編集長をしている人物がこういうことも知らないなんてないのではないだろうか。だとすると、「趣旨が、朝鮮半島の平和的統一を志向したものであることは明らかである」シンポジウムで、誰かに訊かれたわけでもなく、必要もないのに、小泉訪朝を推進したことで、「その後メディアから激しいバッシングを受け,そればかりか自宅に爆発物を仕掛けられるという被害を受け」た外務省の田中均氏と並べて、わざわざ佐藤優氏の話題を出して佐藤氏を田中均氏と同様の犠牲者のごとく描き出す岡本氏の意図は何なのかと疑念をもたずにはいられない。佐藤優氏に関する岡本氏の話をシンポジウムで聞いた韓国の人々はその佐藤氏がまさか日々上述のような言論活動を行なっている人物だとは想像しないだろう。これは、プロパガンダではないのだろうか。

岡本氏は、「同じく外務省の佐藤優が,ロシアとの間で北方四島の問題を実際に動かすために政治家とともに動いたことが.メディアから激しいバッシングを受け,逮捕起訴までされた」と述べている。つまり、佐藤氏の逮捕起訴と有罪判決は不当だということなのだろうが、岡本氏は一度もその根拠を示したこともなければ、示そうとする意思さえ見せたことがないように思うのだが、どうなのだろうか? もしそのとおりだとすると、雑誌の編集長として無責任きわまりないし、これも一種のプロパガンダというべきものではないだろうか。今からでも遅くはないと思うので、岡本氏および岡本氏と同じ主張をするその他の人々は佐藤氏を冤罪と判断する根拠を『世界』およびその編集長の責任として可能なかぎり指摘し、納得のいく説明をしてほしいと思う。

どうも中途半端なのだが、長くなるので今日はここで終わりにして、後は次回にまわしたい。
2011.06.14 Tue l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
  岩波書店の訂正・謝罪要求について(1)
   「ブラック・ジャーナリズム」

岩波書店が金光翔さんに対し、「岩波書店労働組合が金を除名した結果、このままでは「解雇せざるをえない」ということになる」との文書を送ったのは4月1日で、それより約2ヶ月前の2月2日には、ブログ「私にも話させて」の記述に対して、「自社の出版物の社会的信用を貶め、会社の名誉と信用を守る義務を負う社員の記述としてはなはだしく不適切」として、ブログ上での訂正と謝罪の告知を求めてきたとのことである。金さんはこの「訂正と謝罪」要求と「解雇せざるをえない」という通告とは連続したものと受け止めるべきと述べているが、おそらくそのとおりではないかと思う。岩波書店が謝罪と訂正を求めてきたというブログの文章は以下の三箇所だということである。金さんの文章をそのまま引用させていただく。

① 「左派ジャーナリズムは、ブラック・ジャーナリズム的再編の方向に――佐藤優と癒着する岩波書店も含めて――向かっているようである。」(「論評:佐高信「佐藤優という思想」③ ブラック・ジャーナリズム化する左派メディア」2009年8月10日」

② 「『世界』はどうも、このあたりの政治家や官僚・支持勢力のためのプロパガンダ雑誌になってしまっているように見える。」(「陰謀論的ジャーナリズムの形成(3) 佐藤優の売込みを図る岡本厚『世界』編集長」2010年2月1日」

③ 「『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズムの、陰謀論的ジャーナリズムへの移行」
「『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズムがよりファッショ的な形で、プロパガンダ機関化しつつあること」(「陰謀論的ジャーナリズムの形成(4):新しい段階へ――『世界』2010年3月号雑感」)2010年2月28日」

今日はこの件について思うところを書いてみたいと思うのだが、実は上記の三点はいずれも金さんのブログを一読したその時点で私も大変に印象深く(悪い意味でだが)感じた箇所である。そこに岩波書店が目を留めて訂正・謝罪を求めてきたという点では、岩波書店と一読者である私とは重大と思う箇所が同じだったということになるだろうか。ただ、それらの箇所(文章)のなかの何が、そして誰のどのような言動や行動が問題であるか、という点で考え方の相違があるわけだが。

最初に指摘しておきたいのは、岩波書店が「訂正・謝罪」を求めている金さんの文章が書かれるには、前提条件として次のような問題が存在したであろうということである。(1)岩波ブックレット『憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言』刊行に際して発生したさまざまな奇妙な出来事に対する深い疑念・不信があったこと、(2)それとほぼ時を同じくして岩波書店では佐藤優氏に対する重用<佐藤優現象>が生じたこと(ここに岩波書店の変質がはっきり見てとれるように思われる)。(3)論文「<佐藤優現象>批判」が雑誌に掲載された後、『週刊新潮』が金さんを誹謗中傷する記事を掲載したが、その記事成立に佐藤氏のみならず、岩波書店の人物が複数関与していることは間違いないと推察されること、等々。

岩波書店は、金さんのブログを読んでいる以上、金さんが会社に対し上記のような疑問や批判をもっていることに気づいていただろう。これは非常に重大な問題だと思われるので、岩波書店はまずこれらの疑問に答えて欲しい。その上でなお出版人としての良心に恥じることなく「訂正・謝罪」の要求が可能と思うのならそのときあらためて訂正なり謝罪なりを要求したらいいと思う。「訂正・謝罪」要求の項目①については、私はこのエントリーに引用されている佐高信氏の文章「佐藤優という思想」を読んでなんだか気分が悪くなったことをおぼえている。

「 本誌の読者の中には、佐藤優を登場させることに疑義を唱える人もいると聞く。私も本誌の「読んではいけない」で佐藤の『国家の罠』(新潮社)を取り上げ、“外務省のラスプーチン”と呼ばれた佐藤が守ったのは「国益」ではなく、「省益」なのではないかと指摘したことがあるが、省益と国益が一致するとの擬制において行動する官僚だった佐藤は、それだけに国家の恐ろしさを知っている。たとえば、自分は人権派ではなく国権派ながら、死刑は基本的に廃止すべきだと考えるという。死刑という剥き出しの暴力によって国民を抑えるような国家は弱い国家だと思うからである。そして、ヨーロッパ諸国が死刑を廃止したのは、国権の観点から見て、死刑によって国民を威嚇したりしない国家の方が、国民の信頼感を獲得し、結果として国家体制を強化するという認識があるからだと続ける(佐藤『テロリズムの罠』角川oneテーマ21)。
“危険な思想家”佐藤優の面目躍如だろう。山田宗睦が『危険な思想家』(光文社)を書いた時、たしか、名指しされた江藤淳は、思想はもともと危険なものであり、“安全な思想家”とはどういう存在だと開き直った。この江藤の反論には、やはり、真実が含まれている。
 佐藤優も、国権派ならぬ人権派にとって“危険な”要素を含む思想家であり、人権派のヤワな部分を鍛える貴重な存在である。
 残念ながら、私たち人権派は小林よしのりの暴走を抑止する有効な手を打てていないが、小林がいま一番苛立ち、恐れているのは佐藤であり、佐藤はあの手この手を使って小林を追いつめている。
 まさに博覧強記で、あらゆることに通じている佐藤だが、それゆえに知識過剰な人間に弱い。私がほとんど関心のない柄谷行人にイカれているように見えるのはその一面だろう。 」(風速計)
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=630

佐高氏のこの文章を金さんは一つひとつ細かく分析し、批判していた。詳しくは原文に当たっていただくとして、『週刊金曜日』は2009年初頭イスラエルのパレスチナに対する軍事攻撃を非難して「現代のナチス」とまで呼び、読者にイスラエル製品のボイコットを呼びかけていた。その週刊誌が、日本の言論人の中で誰よりも強力にイスラエルを擁護する執筆者を同時進行で重用している事実は、これ以上はない読者への背信行為だろう。佐高氏はここで死刑廃止の例として、「ヨーロッパ諸国」を挙げている佐藤氏の文章を引用しているが、この行為にも金さんは佐高氏の狡さを見ている。佐藤氏は死刑廃止について語る場合たいていイスラエルの例を挙げ、イスラエルが死刑廃止国であることを強調し称賛している。このように「ヨーロッパ諸国」を例に挙げている場合はめったにないのだが、その点この『テロリズムの罠』という本の死刑についての佐藤文は佐高氏にとって引用するのに大変好都合だったわけである。

でも佐藤氏の場合は死刑についてもこれだけでは終わらない。別の場所では、堂々と死刑の適用範囲拡大の主張をしている。日本はスパイ防止のための法整備を進めるべきであるが、「スパイ防止法」という名称は世論の反発を呼ぶのでもう使えない。その代替として「情報公務員法」の制定を提唱している。情報を担当する人たちは「情報公務員」と規定するそうで、この人々が「情報漏洩をして国に危害を与えた場合の最高刑は死刑にする。つまり、ものすごくきびしい罰則規定を設けるわけです。ただし、事前に自首し、捜査に協力した場合は刑を免除する。このような極端な落差をつけることがミソなのです。」(『国家情報戦略』講談社+α新書2007年)と述べている。ここでの主張によると、死刑廃止はどこへやらなのだ。「このような極端な落差をつけることがミソなのです。」という発言は、特に重大な問題を孕んでいると思う。この例は佐藤氏の言論活動の真髄を表したもの、面目躍如といったところではないだろうか。

つい最近も佐藤氏の発言の二重性にちょっと驚かされる出来事があった。亀山郁夫氏との共著『ロシア 闇と魂の国家』(文春文庫2008年4月)で、佐藤氏は、『カラマーゾフの兄弟』の末弟アリョーシャについて「ぼくはアリョーシャが自殺するようなことはないとみています。アリョーシャは、自殺などしない、もっと本格的な悪党だと思います。」と話していた。「悪党」がどういう意味なのかこれだけでは分からないところもあるが、それでもアリョーシャを悪党、それも「本格的な悪党」とする批評にお目にかかったのは私は初めてだった。単なるその場の思いつきを口にしただけだろう(言い過ぎかな?)が、それにしても…と思っていたところ、最近読んだ『自壊する帝国』(新潮社2006年)では、佐藤氏はアリョーシャについてなんと「生まれつき聖人のような性格をもった三男アリョーシャ――」と生真面目な筆致で記述しているのだった。「一事が万事」とは佐藤氏の場合はその言説への姿勢――二枚舌にこそぴったり該当すると思われる。

金光翔さんが何度も引用していたと記憶するが、佐藤氏のいう「右と左のバカの壁を取り払う」こととは、もしかすると政治や社会問題はもちろん、小説の読み方の場合でも、上述のように自分の主張や見解をその時々の都合次第で、あるいは自分の気分次第で変幻自在にくるくる転回しても、また金光翔さんがこれまで数多く指摘してきたような見過ごし難い怪しげな主張や有害な論説を見つけても、読んだ者(それが出版社の社員であれ、一般読者であれ)はすべからく異論を唱えることなく黙認すべきだという意味なのだろうか? 岩波書店の刊行物をいくらか読んできた一読者の立場からすると、あれほど問題の多い佐藤氏の言説が編集段階で議論もなされず掲載されるということは信じられないことである。「ブラック・ジャーナリズム」という言葉にはいろいろな意味があるのだろうが、「ダーティ」とか「得たいの知れない」という意味も含まれているのだとすれば、なぜかどんな質問や意見や批判の声も黙殺してひたすら佐藤氏を重用する岩波書店の姿勢が「ブラック・ジャーナリズム的再編の方向に向かいつつあるようである。」と評されてもあながち不当とは言えないのではないだろうか。
2011.06.11 Sat l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
去る5月24日に水戸地裁土浦支部が言い渡した布川事件の桜井昌司さんと杉山卓男さんの再審無罪判決が本日(6月8日)午前0時に確定した。検察側の控訴断念によるものである。事件当時二十歳だった桜井さんと杉山さんはともに捜査段階での自白を証拠とされて無期懲役の判決を受け、96年の仮釈放まで29年もの間獄に繋がれていた。仮釈放から15年目、事件発生から数えると44年目にしてようやくの無罪確定である。布川事件の無罪確定に関する記事を読売新聞から一部引用する。

「 戦後の事件で無期懲役または死刑が確定後、再審での無罪が確定したのは昨年3月の「足利事件」に続き7件目。
 これに先立ち、水戸地検の猪俣尚人次席検事は7日夕、「新たな立証は困難で、無罪判決を覆す見込みが立たない」として控訴の断念を表明。無罪判決の確定については「厳粛に受け止めている」と述べた。
 検察側の控訴断念を受けて記者会見した桜井さんは「43年余りかかって無罪になった。支援者の皆さんのおかげ。素直にうれしい」と喜ぶ一方で、「冤罪の原因は警察、検察、裁判官にあるのに、判決は触れず、激しい怒りを感じる」とも語った。杉山さんは「これで普通の人間に戻れる。一区切りつけて休みたい」と安堵の表情を浮かべた。」(2011年6月8日00時24分 読売新聞)

無罪確定に際し、検察は、「厳粛に受け止めている」とは述べているものの、反省や呵責の念、二人への謝罪の言葉はなく、具体的な改善策についても言及していない。冤罪阻止のための方策を自ら率先して探索し、実践しなければ許されないという真摯かつ積極的な姿勢は感じられないのだ。でももうこれ以上、「一件落着」とばかりにこれで済ませてはならないことは明白だ。桜井さん、杉山さんがいみじくも口をそろえて要求されているように、「取調べの全面可視化」と「検察の手持ち証拠全面開示義務」は一日も早く法律として制定されなければならないと思う。

司法が無実の人に有罪を宣告し、監獄に閉じ込めておくということは、実質として国家が一般市民に対し「誘拐・監禁」という重犯罪をおかしているということ。29年間もの長期に亘って囚われの身となっていた桜井さん、杉山さんは、29年間、国家によって誘拐監禁されていたことになるし、捜査における自白強要は恐喝という犯罪であり、たとえ直接的な暴力がなかったとしても、これが耐え難い精神的・肉体的拷問であることに違いはない。市民としてのあらゆる権利剥奪や名誉毀損もふくめ、罪状を列挙していったら、いったいどれだけの質量の司法犯罪が立証されることになるだろうか。仮釈放後の桜井さんと杉山さんを追ったドキュメンタリー映画「ショージとタカオ」の監督である井手洋子さんが雑誌『創』で桜井さんと杉山さんが体験させられた過酷な取調べについてのインタビューをされているので、そのなかから一部を引用させていただく。
http://www.tsukuru.co.jp/tsukuru_blog/2011/05/4020114.html


【桜井】杉山が突き付けられたのは俺の調書だよな。俺の署名が入った自白調書を目の前で見せられて、それでもうダメだと思ったって。

【杉山】そう。それに刑事から「やったと認めれば4~5年で出てこられるが、認めなければ死刑になる」と言われました。「認めなければいつまでも調べる」というのも、非常に堪えましたね。このままずーっと取り調べが続くのか、と。

◆やってない自白調書がどうやって作られるのか◆

【桜井】「やってないなら言えない」という認識が、そもそも間違ってるんですよ。いったん「やった」と言わされてしまえば、その後は誰でも言えてしまうものなんです。事実は捜査官が知っているわけですから。捜査官の納得する答えが出るまで、何度でも質問が繰り返される。イエス・ノーで答えさせられ、答えが合えばそれをノートに書いていく。そして最後に、捜査官がスラスラとまとめるのが自白調書です。誰でも言えるものなんだということが、なかなかわかってもらえないんですよね。
 逮捕されて留置場に入れられて、外の世界と断絶されたところで取り調べを受けるというのは、やはり異質というか、想像を超えたものがあるんですよ。

【杉山】私は「現場の図面を書け」と言われたんです。やってないから書けるわけがない。そうしたら「まずは鉛筆で書け」という。ボールペンで書くと間違えたら消せないから、と。それでも書けないでボーっとしてたら、「普通の家はどういう形をしている?」と訊くんです。丸や三角の家は田舎にはないなと思って「四角だ」と答えたら、「じゃあ四角を書け」と。四角を書いたら「家の中には何がある?」と訊かれる。たいてい箪笥はあるだろうと思って「箪笥」と答えると、「そうだ、箪笥だ」「で、箪笥はどこにある?」と。家の真ん中に箪笥があるわけないと思って端のほうを指差したら「そうだ、そこに箪笥を書け」と言われ、「もうこれ以上は書けません」と言ったら、刑事が引き出しから現場の図面を出して、自分が見るふりをしながら、私にも見えるようにしてくる。そうすると私はそれを見て死体があった場所などを書くことができた。それが取り調べなんですよ。」

二人の犯罪の証拠とされたものは、自白であった。やってもいないことをなぜ自白できるのだろう、とはたいていの人が一応は考えることだろうが、上述の桜井さん、杉山さんが語っているように、そのような環境下に孤立して置かれた場合、人はやってもいないことでもやったと嘘の自白をするほうがむしろ普通だと考えたほうがいいかも知れない。戦前の冤罪事件として名高い帝人事件では大蔵省の役員など18名が逮捕起訴されているが、そのうち最後まで否認し通したのはたった4名に過ぎなかった。また戦後の松川事件では20名の被告人のうち8名が実に詳細な自白調書をとられている。両事件とも、被告人たちは後の八海事件のように肉体に激しい暴力を振るわれたわけではなく、人としての誇りをズタズタに引き裂くような言葉の暴力、長時間の取調べによる睡眠不足や疲労困憊、人間の弱みにつけこんだ脅したりすかしたりの取り扱いなど、まさしく精神的拷問というべき残酷な取調べだったようである。

布川事件の証拠には自白以外にもう一つ通行人の目撃証言というものがあった。しかし、その証言者は公判に入って二人が自白を翻した後に突如現れた人物だったそうである。これは傍目にもいい加減な証言であることがあまりにも明白だったため、二人は一審の法廷審理において自分たちの無実は確実に証明されたと信じ、有罪判決が出るとは夢にも思っていなかったそうである。

「【桜井】何の物証もないし、証言だってすぐに嘘だとわかるようなものでしたからね。だって目撃証言だっていい加減なもので、50㏄のバイクで道を走っていて、100メートル以上も離れたところから二人の顔が見えたなんて言っているけど、見えっこない。このあやふやな証言以外、何の証拠もないわけですから、有罪になるわけがないと思っていました。判決を法廷で聞いているときはぼう然として、心臓がまるで耳元についているかのように「ドックン、ドックン」と脈打つのが聞こえました。」

再審公判で初めて明らかになったことだが、殺害された被害者男性の家の前で見た人物は杉山さんではなかったという近所の女性の証言を捜査当局はそれまでひた隠しにしていたのだ。この目撃証言が初めから法廷に出されていれば、おそらく二人の有罪はありえなかっただろう。それより以前に検察は二人を起訴することはできなかっただろう。これこそが問題の本質ではないだろうか。公正な裁判のためには取調べの全面可視化とともに、捜査側の手持ち証拠全面開示義務が法として必要不可欠であることをこの証拠隠匿は物語っていると思われる。松川裁判でも布川事件と同様の重大な証拠隠しが行なわれていた。松川労組と東芝労組が列車転覆のための謀議をしていたという時刻に、その謀議出席者の中心人物の一人であるとして死刑を宣告された東芝労組の佐藤一被告は実は会社にいて会社側と労働争議について団交をし、そこで多くの発言をしていたことが諏訪氏(会社側)のノートに記されていたのだが、そのノートを検察は押収したまま隠し続けていたのだった。松川事件が最高裁で差戻し判決を得ることができた決め手は、このいわゆる「諏訪メモ」の存在が明らかになったことである。この点、布川事件の経緯とそっくりである。時代は変わっても捜査側の手法はまったく変わっていないのであった。松川裁判の教訓は生かされていなかった。

この場合の捜査陣営の本心を推し量ると、「やつらが犯人であることは間違いないのだから、やつらに有利な証拠を隠したからといって、責められるいわれはない。結果的に事件が解決すればそれでいいではないか。」というようなところではないかという気がする。延々と同じことが繰り返されるのは、取調べる相手を犯人だと固く思い込む、または決めつけてしまう、そのような心理のせいではないだろうか。しかし、それは、自分を正当化するのに都合のいい弁解を捏造しているだけの、自分勝手な居直りに過ぎない。その実態はきびしく処罰される必要のある犯罪であるだろう。

5月18日には、江田五月法相が録音・録画の法制化を含む刑事司法制度の見直しを法制審議会に諮問しているが、審議会には録音・録画の法制化とともに証拠全面開示義務の法制化をもぜひともお願いしたい。


最後に、桜井昌司さん、杉山卓男さん、長い間、本当にお疲れ様でございました。お二人のこれまでのご奮闘に心からの敬意を表し、今後のご健康とご活躍をお祈り申しあげます。
2011.06.08 Wed l 裁判 l コメント (1) トラックバック (0) l top
岩波ブックレットに関して ②

   

「岩波ブックレット『憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言』をめぐる一件 」における金光翔さんの報告によると、岩波ブックレット『憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言』は、本のタイトルおよび広告コピーはコピーライターの前田知巳氏、広告デザインはデザイナーの副田高行氏が担当したそうである。『広告批評』(2005年9月号)の天野祐吉、前田、副田の三氏による鼎談で、前田氏は、「ムカツク国はある。だからこそ、キレてはいけないのです。」という自作のコピーについて、「それ実は、この中で一番、今回の趣旨を具現化した言葉だったんです。」と述べている。また、そういう「ムカツク」気持ちを抑えてしまい「「世界はみんないい国だ」みたいな前提」で護憲を語るのは「頑な」であり、「リアルじゃない」とも述べている。それから、「「ムカツク」とか「キレる」とか、これまでの岩波にはないボキャブラリーだったので、それも意味があるんじゃないかと思った。」とも語っている。

しかし「ムカツク」「キレる」という言葉、特に「ムカツク」のほうは小学校高学年から高校一、二年くらいまでの年少者ならまだしも、それ以上の年齢の人間がジョークや皮肉としてではなく、自分の感情・意思表現としてこういう言葉を抵抗なく使用するとしたら、それはその人物の精神的な幼児性や思慮不足を露呈しているに過ぎないように私は感じるのだが…。まして特定の国家に対して使用されるのであれば、なおさらである。前田氏はこの「ムカツク国」について、「どの国だっていいんです。ある人はアメリカだろうし、ある人は中国だろうし。」と述べているが、これは私も金さんと同じように明確に北朝鮮を指していると思う。というのも当時の日本社会の情勢からしてもそれ以外の国を指していると考えること自体はなはだ不自然だと思うが、このブックレットのタイトルに「憲法を変えて、戦争に行こう」という言葉が用いられているからでもある。アメリカに「ムカツク」日本人は数多く存在するとしても、だからといって「アメリカと戦争しよう」という人間は皆無だろう。中国についても、アメリカ級ではないにしてもほぼそれに準ずるとみてよいのではないかと思う。

だから、「ムカツク」「キレる」が、「岩波にはないボキャブラリーだったので、それも意味があるんじゃないかと思った。」という前田氏の発言には、いったいどのような「意味がある」のだろうと疑問をもったのだが、ただ前田氏のこの発言からすると、これまで岩波書店が有してきたイメージとはガラリ異なったコピーを作る、という企画の方向性へのある程度の合意が岩波書店との間に(邪推すると、カタログハウスの斎藤氏との間にも)あらかじめ結ばれていたのではないかとも思う。前田氏と副田氏にとってはこの仕事は大変印象深いものだったようで、朝日新聞社発行の『広告月報』(2008年01月号)の『心に届く広告の決め手は言葉』というタイトルの二人の対談でも、岩波書店のこの広告について懐かしそうに触れている。

「副田 しかし、岩波の広告はコピーもすごいよね。僕は最初、本のタイトルだけでいいと思ってた。そしたらキャッチをよこしてきてびっくり。紙面ではコピーと本のタイトルを分けて配置したんだけど、広告審査で引っかかるかもしれないという話があったんだよね。でも岩波は、これを拒否する新聞なら載せないと言ってくれた。
前田 あれは感動しました。
副田 その迫力が届くんだよね。僕は、このコピーは「19人目のメッセージ」だと思ったんですよ。…」


   

金光翔さんの「岩波ブックレット『憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言』をめぐる一件 」に描かれているカタログハウス社の斎藤駿氏の言動や、ブックレット刊行までの岩波書店内部の動き、そして現実にブックレットの刊行直後にこの本がカタログハウスの雑誌『通販生活』の附録として定期購読者に配布されたらしいことを知ると、出版にかかった費用の全部かどうかは分からないが、大部分が斎藤駿氏から出ているのではないかと第三者に想像されても仕方ないだろうとは思う。また、著者の人選もさることながら、ブックレットのタイトルやキャッチコピーの内容がこれまでの岩波書店の刊行物とはまるで傾向を異にしていることは、もし資金が斎藤駿氏から出ているのだとしたら、斎藤氏の意向が本の内容にかなり反映されている結果ではないかという憶測をされても無理はないのではないかとも思う。

再販制度というものについて私は無知なので失礼なことを述べていたら申し訳ないのだが、このプロジェクトがこの制度に違反するというようなことはなかったのだろうか。「岩波書店と話し合い、裏表紙にある定価やバーコードは消した。」という朝日新聞の記事が金さんの本件エントリーで紹介されていたのでその点もちょっと気になったのだが…。おそらくそのようなことはなかったとは思うが、そうだとしてももしこのプロジェクトの資金が第三者から出ていたのだとしたら、金さんが指摘しているように、出版社の良識・外部からの独立の問題、また著者や読者に対しての道義的・社会的責任の問題については、岩波書店としてまず自己検証の必要があるのではないだろうか。さて斎藤駿氏について金さんは、

「カタログハウスの斎藤駿が『軍縮問題研究』2006年5月号に発表したエッセイ「そろそろ、信念から戦略へ――説得力のつくり方」を紹介し、検討しておこう。実は、私は今回の記事を書くにあたって、斎藤のエッセイを読み、このブックレット・プロジェクトとのあまりの符合ぶりに驚愕したのだが、これは、後述するように、このブックレット・プロジェクトとほぼ同時期に始まったリベラル・左派内の<佐藤優現象>を考える上でも示唆に富む内容である。」

と述べているが、ここで紹介されている斎藤氏のエッセイを読んでみて、金さんの上の指摘はブックレットのタイトルやコピーについて考えると確かに「符合ぶり」についても肯ける点があるように感じられたが、私は特に「ほぼ同時期に始まったリベラル・左派内の<佐藤優現象>を考える上でも示唆に富む内容」という指摘に関心をもった。エッセイは、「◇「北朝鮮の脅威」に正面から向き合わないと。」という節見出しから始められているそうだが、斎藤氏は、ここでまず、市民レベルでは護憲の考えをもつ人と、改憲を主張する人とは憲法に対する姿勢に「ちょっとの差異」しかないと述べている。そして、その「ちょっとの差異」とは、「言うまでもなく「北朝鮮の脅威」だ」という。以下に少し引用させていただこう。

「隣国が現実にテポドンを発射し、拉致事件をおこし、不審船うろうろ事件をおこし、核保有国願望を表明しているのだから、これを「脅威」=「不安」ととらえるのは当然の感情だ。

ところが、護憲派の多くの人たちはこの不安を一笑に付してしまう。

「アメリカの軍事力には依存しない、自衛隊は解消するでは無責任すぎない? 丸腰でいて、万一、北朝鮮が攻めてきたらどうするつもり?」

――どう考えても、攻めてくる理由がない。バカバカしい。

「でも、万一、攻めてきちゃったときはどうするわけ?」

――攻められない状況を外交(六ヵ国協議)の力でつくっていく。

「万一、その外交を無視して攻めてきたときは?」

――視聴率狙いのテレビ報道に踊らされないでよ。

「将軍様の抑えが効かなくなって、万一、軍部が暴発しちゃったら……もう、いいや、きみたちとは話が通じない」 」(強調はすべて引用者)

上記の文章の後、斎藤氏は、「こうして、かつての護憲派はどんどん改憲派へ転向していってしまう。私も身近かで何人もの転向事例を経験している。」と述べているのだが、「攻めてくる理由がない。」と述べた後、なぜ「バカバカしい。」と続けるのか、もしくはなぜその一言で話が終わってしまうのかが分からない。「攻めてくる理由がない」と考えているのであれば、この場面ではそのことを懇切丁寧に、少なくとも熱意をもって説明するのが普通の対応だと思うのだが…。「攻められない状況を外交(六ヵ国協議)の力でつくっていく。」「視聴率狙いのテレビ報道に踊らされないでよ。」との発言にも同様の感想をもった。日本が北朝鮮に感じている脅威などとは比較にならないほど深刻に、北朝鮮は米国あるいは米日韓連合に対する軍事的脅威を常に感じ続けてきただろうと思う。米国が北朝鮮と結んでいる朝鮮戦争の「休戦協定」を破棄して「平和条約」を締結することこそが、北朝鮮に核を放棄させる鍵であり道筋であることは、これまで多くの人が指摘してきているが(だから、「護憲派」かどうかはともかく、「多くの人たちはこの不安を一笑に付してしま」っているわけではない。)、これは論理的にも感情的にも人を納得させ、説得できうる解釈・説明だと思うのだが、斎藤氏はそうは考えなかったのだろうか。強調部分の返答には、初めから相手の言い分のほうがもっともなもので正しく、これに対する説得的な反論や批判はありえないことが前提になっているようで、これはこの対話を浅薄で意味のないものにしている、いやむしろ北朝鮮の脅威を主張する人々にとって都合のいいものにしてしまっているのではないかと思える。
2011.06.07 Tue l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 岩波ブックレットに関して ①

   

金光翔さんの「岩波ブックレット『憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言』をめぐる一件 」を読ませていただいてからもう二週間ほど経ったことになる。このエントリーについては、ブログ「全体通信」が「「岩波労組」はその構成員を即時「解放」せよ」とのユニークなタイトルの下、鋭い指摘が数多くふくまれた文章を書かれているが、そのなかに

「…金氏が控訴審(引用者注:対『週刊新潮』および佐藤優裁判の控訴審)についての告知に先立って、会社との対立の原点でもあるという、大変興味深く、また充実した内部告発を行っている。発行当時もそのタイトルと表紙デザインについて少なからぬ批判的反響があったように記憶している岩波ブックレット『憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言』(以下 “ブックレット”)の出版経緯が、当時の自らの経験をもとに克明に開示されているのである。」

という記述がある。「大変興味深く、また充実した内部告発」であるという見解には共感したが、このブックレットが「発行当時もそのタイトルと表紙デザインについて少なからぬ批判的反響があったように記憶している」という点について、実は、私はこれまでこのブックレットは読んだことはもちろん見たこともなく、全然知らないことであった。大々的になされたという広告のことなども今回初めて知った。ただ、金さんがエントリー中で触れているように、論文「<佐藤優現象>批判」の「注」を読んだ記憶は残っていて、「ムカツク国」という表現については、「そういえば…」と思い出された。


   

遅ればせながら、今回図書館から借りだして読んでみたのだが、読後感は茫洋として自分でもうまく捉えがたいというかかなり複雑なものであった。これは上述の金さんの文章を読んだため、どうしてもこの企画の背景について考えてしまうせいなのだろう。何をどのように書いたらいいのかあれこれ迷ってしまうのだが、二点に分けて書いてみようと思う。① 一つはこのブックレットそのものについての感想。② もう一つは、この件が、読者にもはっきり分かる岩波書店のその後の顕著な変化――とりわけ佐藤優氏への異常としか思えない重用(いわゆる「佐藤優現象」の強力な推進)――とどのような関連性があるのかという点。この二点について考えながらぼちぼち書いていきたいと思うが、まず①から。

「全体通信」による、「発行当時もそのタイトルと表紙デザインについて少なからぬ批判的反響があったように記憶している」という指摘については、私も今回初めて表紙を目にして「それはそうであったろう」という感想をもった。「憲法を変えて戦争へ行こう」という文字が「という世の中にしないための18人の発言」という、意味においてより肝心の文字よりもはるかに大きなポイントで印字され、これだけで表紙全体のほぼ三分の二を占めている。残りの下三分の一に「という世の中にしないための18人の発言」という文字と18人の著者名が配置されている構成を見ると、胸に「なぜ?」という納得のいかなさがいつまでも残る。意図が見えすいているようでちょっとあざとい印象を受けるのだ。ましてや最初のタイトルだったという『憲法を変えて戦争に行こう――18人が語る、不戦・平和・憲法9条』どおりで刊行されていたとしたら、疑問や不快感は並大抵ではなかったように思う。変更の理由は吉永小百合の強硬な反対のためだったということだが、反対してくれて岩波書店は(本自体も)救われたのではないだろうか。

吉永小百合は昔から野球好きだったようで巨人のファンとして世間によく知られていたが、「江川事件」の後スパッと巨人ファンを辞めた。そのことについて後々、久米宏の「ニュースステーション」だったと思うが、経緯を訊かれて、「(あの事件以来)どうしてもダメなんですよねぇ。」とひどく生真面目に話していたのが印象に残っている。「自分の原稿は引き上げる」と言ったというのも分かるような気がしないこともない。それに十代前半から芸能界にいてアイドルスターとして飛びぬけた存在だった吉永小百合はよく似た性質の出来事をイヤというほど見聞きしたり経験させられたりしていたのかも知れない。読者の立場からすると、エッと驚かされた、あやうく騙されそうになった、という場合、その落差や意外性に解放感をおぼえるなど心地よさを感じる場合もあるが、この場合にはほとんどの読者はそういう気持ちにはなれなかったのではないかと思う。

本文についての私の感想をいうと、全体として内容は決して悪くはないのではないかと思った。前の戦争が侵略戦争であったという視点がどの人の文章にもほぼ皆無なので深さや洞察力という点では弱点や物足りなさは感じるが、人選上(スポンサーなどからかかる圧力がつよいと思われる芸能界の人が多い)、また紙幅の関係上、書き手の人々にそうそういろんな注文をつけるのも気の毒な気がする。全体として書き手の真面目さはよく伝わってくるように思った。これはあるいは、岩波書店の『世界』誌上で佐藤優氏の世にも珍妙な、そして読者の読解力を頭からバカにし切っているとしか思えない護憲論と称する文章を読んだときの不快感の記憶があまりにも強いせいもあるのかも知れない。佐藤氏はこんなことを書いていた。(引用者注:/はすべて改行部分)

「 本連載で、筆者は具体的な政治的提言を行うことをできるだけ控えた。それは最後に一つだけどうしても強調したいことがあるからだ。その強調したいこととは、日本国憲法の擁護である。/ 憲法第9条の改正は共和制に向けた露払いとなる危険がある。憲法第9条を改正して交戦権を認めよと主張する論者がいる。その場合、宣戦の布告は誰が行うのであろうか。論理連関からすれば天皇の国事行為になるはずだ。戦争を行った場合、日本が絶対に勝つという保証はどこにもない。事実、61年前にわれわれは敗北したではないか。敗戦した場合、宣戦を布告した者の責任が追及される蓋然性は高い。ここから天皇制が外圧によって崩れる危険が生じる。天皇制が崩壊すると権威と権力を分離するという日本の伝統が崩れる。共和政体になった場合、権威と権力を一身に集めようとする煽動政治家の詐術によって日本国家がファッショ化する危険性が高まると思う。」(『民族の罠 最終回』佐藤優(『世界』2006年4月号)

日本国憲法の第4条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」、第7条の「この憲法の定める国事に関する行為」の内容、および自衛隊法の第7条「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。」との各条文を見れば、「宣戦の布告」が「論理連関からすれば天皇の国事行為になるはず」がないことは分かり切っているはずだから、この発言も詭弁としか言いようがないと思う。このような重要な問題に関する欺瞞的記述についても『世界』編集部は筆者に意味や意図を問いただそうともしていないのだからあきれてしまう。「共和政体になった場合、日本国家がファッショ化する危険性が高まる」については当時何人もの人がその矛盾を例を挙げて具体的に指摘していたと記憶する。


   

こういう意味不明の護憲論に比べれば、あのブックレットのほうが内容的にずっといいと私は思うが、さてあの本の出版当時の一般的な評価はどうだったのだろうと、アマゾンのブックレビューを覗いてみたところ、69件のレビューが寄せられていて、好意的な評価もずいぶんあった。「各界の著名人が自分の言葉で語った平和のためのメッセージ集です。読み易いブックレットであるという点も好感がもてます。」とか、「様々な世代・分野の人々が文を寄せていますが、やはり実際に戦争を体験している人の話は説得力があります。」。また、タイトルについても岩波書店の意図を好意的に解釈している心やさしい読者もいた。「書店に並んでいるのを見たら、「憲法を変えて戦争へ行こう」!という右寄り?の本ではないかと勘違いされないかと心配したのは私だけかもしれませんが、続く「~という世の中にしないための18人の発言」でほっとして、逆にこのアンバランスなタイトルに魅かれたのかもしれません。とにかく読んで見てください。読みやすくわかりやすい憲法の話です。」

しかし、「私も護憲の立場に立つものである。しかしながら、本書のタイトルに典型的に見られるような「平和国家か、戦争国家か?」といった問いかけ方が、運動論的にどこまで有効なのか少し疑問に思わざるを得ない。」「“著名人”が18人もいて「憲法が変わる」→「戦争に行く」という論理飛躍を誰も追及しない、意思統率のとれた本です。」という痛いところを衝いたと思われるきびしい評価も相当数見られた。また、「…本のタイトルは『戦争は嫌なので戦争をしないためにしなければいけないことは何かを考えたい人のための18人の発言』‥‥ということに。/いや、私はコピーライターじゃないので‥‥。」というやんわりとしたタイトル批判(?)も見られたが、「あれっ?」とタイトルがついた次の批判には、岩波書店は心して耳を傾けるべきだし、それだけにとどまらず版元としての見解をきちんと述べる責任もあるのではないだろうか?

「これって雑誌のフロクについてませんでしたか? 通信販売の。/そうと知っていてブックレットとして販売しているのなら、通信販売雑誌かった人のほうが得したことになります。 /つまり、雑誌のフロクなわけです。この商品は。みっともないことしているなあ。」
2011.06.01 Wed l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。