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岩波ブックレットに関して ②

   

「岩波ブックレット『憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言』をめぐる一件 」における金光翔さんの報告によると、岩波ブックレット『憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言』は、本のタイトルおよび広告コピーはコピーライターの前田知巳氏、広告デザインはデザイナーの副田高行氏が担当したそうである。『広告批評』(2005年9月号)の天野祐吉、前田、副田の三氏による鼎談で、前田氏は、「ムカツク国はある。だからこそ、キレてはいけないのです。」という自作のコピーについて、「それ実は、この中で一番、今回の趣旨を具現化した言葉だったんです。」と述べている。また、そういう「ムカツク」気持ちを抑えてしまい「「世界はみんないい国だ」みたいな前提」で護憲を語るのは「頑な」であり、「リアルじゃない」とも述べている。それから、「「ムカツク」とか「キレる」とか、これまでの岩波にはないボキャブラリーだったので、それも意味があるんじゃないかと思った。」とも語っている。

しかし「ムカツク」「キレる」という言葉、特に「ムカツク」のほうは小学校高学年から高校一、二年くらいまでの年少者ならまだしも、それ以上の年齢の人間がジョークや皮肉としてではなく、自分の感情・意思表現としてこういう言葉を抵抗なく使用するとしたら、それはその人物の精神的な幼児性や思慮不足を露呈しているに過ぎないように私は感じるのだが…。まして特定の国家に対して使用されるのであれば、なおさらである。前田氏はこの「ムカツク国」について、「どの国だっていいんです。ある人はアメリカだろうし、ある人は中国だろうし。」と述べているが、これは私も金さんと同じように明確に北朝鮮を指していると思う。というのも当時の日本社会の情勢からしてもそれ以外の国を指していると考えること自体はなはだ不自然だと思うが、このブックレットのタイトルに「憲法を変えて、戦争に行こう」という言葉が用いられているからでもある。アメリカに「ムカツク」日本人は数多く存在するとしても、だからといって「アメリカと戦争しよう」という人間は皆無だろう。中国についても、アメリカ級ではないにしてもほぼそれに準ずるとみてよいのではないかと思う。

だから、「ムカツク」「キレる」が、「岩波にはないボキャブラリーだったので、それも意味があるんじゃないかと思った。」という前田氏の発言には、いったいどのような「意味がある」のだろうと疑問をもったのだが、ただ前田氏のこの発言からすると、これまで岩波書店が有してきたイメージとはガラリ異なったコピーを作る、という企画の方向性へのある程度の合意が岩波書店との間に(邪推すると、カタログハウスの斎藤氏との間にも)あらかじめ結ばれていたのではないかとも思う。前田氏と副田氏にとってはこの仕事は大変印象深いものだったようで、朝日新聞社発行の『広告月報』(2008年01月号)の『心に届く広告の決め手は言葉』というタイトルの二人の対談でも、岩波書店のこの広告について懐かしそうに触れている。

「副田 しかし、岩波の広告はコピーもすごいよね。僕は最初、本のタイトルだけでいいと思ってた。そしたらキャッチをよこしてきてびっくり。紙面ではコピーと本のタイトルを分けて配置したんだけど、広告審査で引っかかるかもしれないという話があったんだよね。でも岩波は、これを拒否する新聞なら載せないと言ってくれた。
前田 あれは感動しました。
副田 その迫力が届くんだよね。僕は、このコピーは「19人目のメッセージ」だと思ったんですよ。…」


   

金光翔さんの「岩波ブックレット『憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言』をめぐる一件 」に描かれているカタログハウス社の斎藤駿氏の言動や、ブックレット刊行までの岩波書店内部の動き、そして現実にブックレットの刊行直後にこの本がカタログハウスの雑誌『通販生活』の附録として定期購読者に配布されたらしいことを知ると、出版にかかった費用の全部かどうかは分からないが、大部分が斎藤駿氏から出ているのではないかと第三者に想像されても仕方ないだろうとは思う。また、著者の人選もさることながら、ブックレットのタイトルやキャッチコピーの内容がこれまでの岩波書店の刊行物とはまるで傾向を異にしていることは、もし資金が斎藤駿氏から出ているのだとしたら、斎藤氏の意向が本の内容にかなり反映されている結果ではないかという憶測をされても無理はないのではないかとも思う。

再販制度というものについて私は無知なので失礼なことを述べていたら申し訳ないのだが、このプロジェクトがこの制度に違反するというようなことはなかったのだろうか。「岩波書店と話し合い、裏表紙にある定価やバーコードは消した。」という朝日新聞の記事が金さんの本件エントリーで紹介されていたのでその点もちょっと気になったのだが…。おそらくそのようなことはなかったとは思うが、そうだとしてももしこのプロジェクトの資金が第三者から出ていたのだとしたら、金さんが指摘しているように、出版社の良識・外部からの独立の問題、また著者や読者に対しての道義的・社会的責任の問題については、岩波書店としてまず自己検証の必要があるのではないだろうか。さて斎藤駿氏について金さんは、

「カタログハウスの斎藤駿が『軍縮問題研究』2006年5月号に発表したエッセイ「そろそろ、信念から戦略へ――説得力のつくり方」を紹介し、検討しておこう。実は、私は今回の記事を書くにあたって、斎藤のエッセイを読み、このブックレット・プロジェクトとのあまりの符合ぶりに驚愕したのだが、これは、後述するように、このブックレット・プロジェクトとほぼ同時期に始まったリベラル・左派内の<佐藤優現象>を考える上でも示唆に富む内容である。」

と述べているが、ここで紹介されている斎藤氏のエッセイを読んでみて、金さんの上の指摘はブックレットのタイトルやコピーについて考えると確かに「符合ぶり」についても肯ける点があるように感じられたが、私は特に「ほぼ同時期に始まったリベラル・左派内の<佐藤優現象>を考える上でも示唆に富む内容」という指摘に関心をもった。エッセイは、「◇「北朝鮮の脅威」に正面から向き合わないと。」という節見出しから始められているそうだが、斎藤氏は、ここでまず、市民レベルでは護憲の考えをもつ人と、改憲を主張する人とは憲法に対する姿勢に「ちょっとの差異」しかないと述べている。そして、その「ちょっとの差異」とは、「言うまでもなく「北朝鮮の脅威」だ」という。以下に少し引用させていただこう。

「隣国が現実にテポドンを発射し、拉致事件をおこし、不審船うろうろ事件をおこし、核保有国願望を表明しているのだから、これを「脅威」=「不安」ととらえるのは当然の感情だ。

ところが、護憲派の多くの人たちはこの不安を一笑に付してしまう。

「アメリカの軍事力には依存しない、自衛隊は解消するでは無責任すぎない? 丸腰でいて、万一、北朝鮮が攻めてきたらどうするつもり?」

――どう考えても、攻めてくる理由がない。バカバカしい。

「でも、万一、攻めてきちゃったときはどうするわけ?」

――攻められない状況を外交(六ヵ国協議)の力でつくっていく。

「万一、その外交を無視して攻めてきたときは?」

――視聴率狙いのテレビ報道に踊らされないでよ。

「将軍様の抑えが効かなくなって、万一、軍部が暴発しちゃったら……もう、いいや、きみたちとは話が通じない」 」(強調はすべて引用者)

上記の文章の後、斎藤氏は、「こうして、かつての護憲派はどんどん改憲派へ転向していってしまう。私も身近かで何人もの転向事例を経験している。」と述べているのだが、「攻めてくる理由がない。」と述べた後、なぜ「バカバカしい。」と続けるのか、もしくはなぜその一言で話が終わってしまうのかが分からない。「攻めてくる理由がない」と考えているのであれば、この場面ではそのことを懇切丁寧に、少なくとも熱意をもって説明するのが普通の対応だと思うのだが…。「攻められない状況を外交(六ヵ国協議)の力でつくっていく。」「視聴率狙いのテレビ報道に踊らされないでよ。」との発言にも同様の感想をもった。日本が北朝鮮に感じている脅威などとは比較にならないほど深刻に、北朝鮮は米国あるいは米日韓連合に対する軍事的脅威を常に感じ続けてきただろうと思う。米国が北朝鮮と結んでいる朝鮮戦争の「休戦協定」を破棄して「平和条約」を締結することこそが、北朝鮮に核を放棄させる鍵であり道筋であることは、これまで多くの人が指摘してきているが(だから、「護憲派」かどうかはともかく、「多くの人たちはこの不安を一笑に付してしま」っているわけではない。)、これは論理的にも感情的にも人を納得させ、説得できうる解釈・説明だと思うのだが、斎藤氏はそうは考えなかったのだろうか。強調部分の返答には、初めから相手の言い分のほうがもっともなもので正しく、これに対する説得的な反論や批判はありえないことが前提になっているようで、これはこの対話を浅薄で意味のないものにしている、いやむしろ北朝鮮の脅威を主張する人々にとって都合のいいものにしてしまっているのではないかと思える。
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2011.06.07 Tue l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top