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  「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」について (上)

この件は岩波書店の金光翔さんに対する解雇せざるをえないという通告問題とは、通底するところはあるにしても、直接的因果関係のあることではない。ただ、3、4年前、私がこの本を一読したときから内心に小さなしこりのようにわだかまっていたことなので、この機会に書いておこうかと思う。

2007年10月に、魚住昭氏の「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」という単行本が刊行された。版元は講談社だが、この文章は実は刊行のつい一、二ヶ月ほど前まで、岩波書店の『世界』に連載されていたものであった。単行本「我、国に裏切られようとも」の後ろ扉には「本書は、『世界』(岩波書店)2006年11月号~2007年3月号、9~10月号に掲載された「聞き書 村上正邦 日本政治右派の底流」に加筆・修正し構成したものです。」と記述されている。

『世界』10月号が発売されるのは9月なので、常識的に考えると、『世界』10月号の発売時点でこの連載が講談社から出版されることはすでに決定していたということになるだろうか。『世界』連載時に私がこの文章を読んだのは多分一回くらいで内容的には特に記憶に残るほどの明確な印象は受けなかったと思うが、本になった「我、国に裏切られようとも」を通読して、「これは一体何のために書かれ、どうして『世界』に連載されることになったのだろう」と驚きもし、不思議にも思った。執筆者の魚住昭氏に対しても、岩波書店の『世界』に対しても。

成功した実業家や政治家が老年に至って書く自伝には自慢話を散りばめた自分に都合のいい挿話ばかりが書かれている、あるいは一つの事実が自分に都合のいいように独善的に解釈されて描かれていると感じることが往々にしてあるが、この本もそういうものの一種のように感じられた。「聞き書」というが、村上氏が答に詰ったり、窮すると想像されるようなことはほとんど何も訊いていない(あるいは訊いて返ってきた回答を文章にしなかったのかも知れないが。)ので、これではまるで魚住氏が村上氏の自叙伝を書いてやっているようなものではないかという気もした。数年前の「野中広務 差別と権力」とは大違いの印象である。私には、『世界』や魚住氏の村上氏に対する基本的な姿勢が佐藤優氏に対する姿勢の延長線上にあるもののようにも思えた。

魚住氏の序「はじめに」にも記されているように、当時の村上氏はKSD事件の受託収賄容疑による逮捕・起訴後の裁判中。一・二審で有罪判決を受け、上告中の身であった。もっとも事件の詳細については私はほとんど知らない。この本自体が事件についての検証を目的としたものではなく、魚住氏の言葉から推測すると、村上正邦という右派政治家のこれまでの歩みを「聞き書」という形式で辿るなかで、「日本政治右派の底流」について考察しようとしたもののようで、事件に触れた場面はせいぜい数ページではないだろうか。それでも公判での証人による証言が村上氏に有利なものが多いことは確かに事実であるようにも感じられた。ただ、後援会事務所の一部をサロンとして共同で使用するという理由で相手に家賃を支払って貰っていたことについて、「秘書に任せていたので自分は知らなかった」という政治家の常套句は、もう何十年も前から世間的にもほとんど信用されなくなっていることなので、村上氏のこの主張にも少々白々しさを感じないではなかったが。

魚住氏は、2001年1月、NHKテレビで従軍慰安婦問題をめぐる女性戦犯法廷ドキュメンタリーが放映されるに際し、日本会議グループや日本会議と関係の深い政治家の圧力により番組が改編されたことや、1999年の国旗・国歌法成立にも日本会議の運動の力が大きく働いていたことを、取材を通して感じ取り、知っていたそうである。日本会議には「生長の家」関係者が多いそうだが、村上正邦氏はその代表的人物であるだろう。

その村上氏に魚住氏がインタビューしようと思い立ったのは、佐藤優氏から、村上氏が「九州の筑豊炭田で貧しい鉱夫の子として生まれ、青年時代には炭鉱で労働運動のリーダーをしていた。幼いころには朝鮮半島から強制連行され、虐待されている人たちの姿も目撃し、心を痛めたことがあると言う。」話を聞いたことだったという。「左翼になってもおかしくない経歴を持つ村上さんが、なぜ右派の代表的政治家になったのか、その経緯をじっくり聞いてみたい。」「もし村上さんがすべてを話してくれるなら、近年なぜ「右派」が急速に台頭して政治の主導権を握るようになったのか、その謎も解き明かすこともできるのではないか。」と思ったそうである。

しかし、その意図はこの本においてはまったく成功しているようには思えなかった。そもそもそのような意図を魚住氏がもっていたということも読んでいてほとんど感じることはできなかった。村上氏は確かに

「 戦争中の炭鉱はとにかく石炭掘れ掘れ、出せ出せで、落盤事故も日常茶飯事だった。朝鮮半島から強制連行されてきて、仕事をさせられている人も多かった。今でもはっきり覚えているのは雪が降った朝の出来事です。
 朝鮮人の坑夫が炭鉱事務所のある広場に引き出されて、衆人環視のなかで日本人の坑内係に何度も木剣で叩かれていた。叩かれるたびに雪の上にバッと赤い血が飛び散る。それでショックを受けて、お袋に「何であんなことをされるんだ」と尋ねたら、その朝鮮人坑夫は「腹が痛い」と言って仕事を休もうとしたので坑夫係に納屋から引きずり出されて折檻されたらしい。
 そんなことは時々あって、「今日は(朝鮮人坑夫が)ダイナマイト自殺した」とか「死んだ」という話を聞いたこともある。彼らは日本人に蔑まれ、ひどい扱いを受けていた。」

と述べている。一方、魚住氏は、この本が出版された翌年にも、次のような発言をしている。

 魚住 ……村上さんも、筑豊の炭坑労働者の息子で、自身も労働運動をしてから東京に出た。在日韓国・朝鮮人が虐待される姿も目にしている。野中さんも村上さんも、「根っこのある政治家」なんです。(中島岳志的アジア対談:「古い」政治家のリアリズム-毎日新聞2008年)

しかし、村上氏が参議院議員として実践した政治活動はどうだっただろうか。村上氏がどんな政治家であったかは、1995年6月9日に衆院本会議で与党3党賛成多数で可決された「戦後五十年不戦決議」をめぐる行動にもよく示されているように思う。

「 村山政権発足後、最初に大幅な妥協を強いられたのは社会党でした。村山首相は衆院本会議(平成6年7月)での所信表明演説で従来の社会党の基本原則を大転換させ、日米安保体制の堅持、自衛隊合憲、「日の丸・君が代」容認を打ち出した。
 このため社会党の支持基盤である護憲派の市民団体や労組などの反発を買った。それだけに、村山首相は戦後五十年の不戦決議の採択は何が何でも実現しなければならない立場に追い込まれていた。
 自民党にとっても不戦決議は社会党と連立を組んだときの合意事項に盛り込まれていたから、その約束を守らなければ政権維持がおぼつかなくなる。しかし、その一方で、党内には、あの戦争は自衛のための戦争であって侵略戦争ではなかったと考える人たちが大勢いた。もちろん私もそうです。」

村上氏は当時参院自民党幹事長であった。決議文であの戦争が侵略戦争であったと認めてはならない、アジア諸国への植民地支配に言及してはならない、と6月6日深夜まで参院幹事長室に50人ほども詰めかけていた民族団体の幹部たちの意を受けて、文案をつくっていた加藤紘一政調会長らを相手に最後の最後まで書き直しに拘泥した政治家が自分だったと村上氏は話している。魚住氏は、村上氏のそういう政治思想についてインタビューをしてよく知っているにもかかわらず、後日「村上さんも、…在日韓国・朝鮮人が虐待される姿も目にしている。」ことを強調して「「根っこのある政治家」なんです。」などと語るのは誠実な態度とは言えないように思う。魚住氏は、それが村上氏の心優しさの証であるというかのように、「朝鮮人が虐待される姿も目にしている」と口にするが、必要とされていたのは、むしろ、「虐待される姿」を見ている村上氏がなぜ「五十年決議」などに際して日本の侵略や植民地支配を頑強に否定するのか、その思想・行動についての自己の解釈を述べることではなかっただろうか。
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2011.06.27 Mon l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top