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前回引用した原発に関する吉本隆明の発言は毎日新聞に掲載されたものだったが、その後、8月5日には日本経済新聞にも新たな談話が載っていた。「事故によって原発廃絶論がでているが。」という質問に、「原発をやめる、という選択は考えられない。(中略)燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめる、というのと同じです。」「危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集めお金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。」「全体状況が暗くても、それと自分を分けて考えることも必要だ。僕も自分なりに満足できるものを書くとか、飼い猫に好かれるといった小さな満足感で、押し寄せる絶望感をやり過ごしている。公の問題に押しつぶされず、それぞれがかかわる身近なものを、一番大切に生きることだろう。」などと話している。(以下、強調はすべて引用者による。)

原発は、「燃料としては桁違いにコストが安い」と断言しているが、そうではない、という専門家の指摘も数多く出されている。吉本隆明は「コストが安い」という情報が確かだとどうして言い切れるのだろう? 何よりも、電気の燃料として莫大な危険を伴う原発を使わずに他のエネルギーに移行することが、なぜ「人類をやめる、というのと同じ」ことになるのだろう。事故の収束のメドも立っていない。事故の原因も完璧には判明していない。洩れだした放射性物質が自分たちの身体や環境にどれほどの影響を及ぼすのか皆内心では戦々恐々としている。その上、現在稼動中の原発が再び事故を起こしやしないかという不安もある。こういう最中に、「原発をやめる、という選択は考えられない」、それは「人類をやめる、というのと同じです」などという発言を聞くと、2003年、イラク戦争中に米国のラムズフェルドがクラスター爆弾だったかの最新鋭の兵器をカメラの前で披露して、それがどんなに優秀な殺戮兵器であるかを得意気に話しているのをテレビで見たが、ふとあの時の光景が思い出される。

「知恵を集めお金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。」とも述べているが、空虚な言葉としか感じられない。「完璧な防御装置をつくる」ことが人間に可能なのかどうかもはなはだ疑問だが、たとえば自然災害の存在はどうなるのだろう。吉本隆明は、「「反核」異論」」(深夜叢書社1982年)や「「情況への発言」全集成3」(洋泉社2008年)においても、あれだけ雄弁に他人を批判し、自己の論説を誇りながらも、日本が世界有数の地震国であること、原発の運転には被爆を前提とした人間の手が必要とされること、人間の年齢が少なければ少ないほど受ける被害が大きくなるという放射性物質の性質のことなど、彼の主張に不都合と思われる部分には一切触れていなかった。

また、「公の問題に押しつぶされず、それぞれがかかわる身近なものを、一番大切に生きる」という指摘もどうかと思う。原発事故は、いまだ帰宅できない8万人を超えるという被災地の人々の苦難はもちろんだが、日本に住むほとんどの人間にとってももうすでに「公の問題」ではなく「私的な問題」に変わりつつある。特に子どもやその親にとって、現在、「公の問題に押しつぶされず、それぞれがかかわる身近なものを、一番大切に生きる」こととはどのようなことなのだろう、と考えさせられる。


さて、「「情況への発言」全集成3」は、2008年刊行だから、今から3年前のことになる。吉本隆明は、この本に「あとがき」を書いているのだが、その「あとがき」の「註記」として、大岡昇平について言及している。下記に一部を引用する。


 新書版のためのあとがき 註記
 この第3巻には、大岡昇平問題が話題の一つとされている。不足をおぎなっておきたい。もう本の表題も覚えてないが、埴谷雄高と大岡昇平の対談集がたしか岩波書店から出版され、その中にわたしの人格が疑われるような発言があったが、わたしは埴谷の受け流し方と大岡の発言の両方に不満で、特に何の関係もない大岡のデマゴギーは黙殺できなかった。ただ大岡の『野火』という小説作品のなかで、フィリピンでの日米戦闘の場面で主人公の人命を撃つことが嫌いな考えから、故意に米兵からそっぽをむけて銃を発射する場面があって、戦中世代で真正面から日米戦争に向かって従事したわたしも鮎川信夫も対談で都合が良すぎる旨、批判したことがあった。その仕返しかなと解釈した。
 わたしは凡庸な学生として主戦派だった。ただ言っておけば学生報国会とかの組織などに一切関係したことはない。鮎川信夫はわたしより年長で兵士として東南アジア方面に出征した。これは鮎川信夫の『戦中日記』に記されている。
(略)
 今さら大岡を相手に何かを言う気はないが、補足の文を添えておく。わたしはこの埴谷・大岡の対談集を読んでひどいものだと思って埴谷にも大岡にもその旨をのべ、訂正か抹消かすべきだという旨を送った。埴谷からは返答はなかった。だが絶版が行われた。そしてその後にわたしがコム・デ・ギャルソンの服をきてモデルをつとめたことをからかって論難してみたり、お前の家はシャンデリアがついてるそうじゃないかとか書いてわたしをからかった文章をよせてそれを含む論争にまで発展した。
 大岡昇平は岩波書店のわたしの知らぬ編集者を使いによこした。(どうして欲しいのか)と言うので(一番単純なのは大岡発言をこう直せば訂正になる)と答えた。これがわたしの記憶にある補足したい事項だ。大岡昇平が、『文学界』に書いている断片の文章によると(訂正しろというのは後ろめたいところがあるからだ)というニュアンスになっている。(その上、裁判になれば和解を要請されることになるだろう)などと記している。わたしはあきれ果てるとともに真底から言葉にならない埴谷・大岡世代の左翼体験者やシンパ(同伴者)のひとりよがりな逃げ口上に瞋(いか)りを感じた。文筆をもてあそぶ者として、わたしに直接訊ねれば直ぐに解決することを、風聞によって確信もなく教宣される。教宣するのも阿呆だが、される方も阿呆だ。これがいい年齢した知識人のすることか。逃げ方が気にいらぬ。会社勤めのふつうの庶民サラリーマンでもこんな嫌な逃げ方で、自分を偉ぶりはしない。気の弱い人ならくさり果ててしまうかいびられて自殺したり、殺されたりしてしまう。戦前にも、戦後にも日本国でその例があった。大本が腐っているからだ。
2008年3月  」


吉本隆明が、「もう本の表題も覚えてないが、埴谷雄高と大岡昇平の対談集がたしか岩波書店から出版され」と書いている本は、「二つの同時代史」という表題で、「たしか」に岩波書店から出版された本である。1982年~83年にかけて岩波書店の『世界』に連載され、1984年に単行本として刊行された。大岡昇平と埴谷雄高は同年齢。二人とも戦後になってから文学の世界で活躍をはじめた人たちである(ただ、二人とも戦前・戦中にそれぞれ本を出版しているし、大岡昇平はスタンダールの研究者・翻訳者として、埴谷雄高はドストエフスキー関係の翻訳などで一部では知られていたようだ)。ともに同時代を生きたわけだが、ただ個人的に親しくなったのは晩年になってからで、長い間遠いような、近いような知り合い関係だったらしい。それだけに(?)、話題は豊富で、読者としては、二人の幼年時代から戦前・戦中・戦後にかけての体験や世相を具体的に知ることができ、読んでいて大変おもしろい。これは私が大岡・埴谷ともに好きな作家だからだと思うが、今も時々本棚からとりだしては読んでいる。

吉本隆明は客と一緒になって(この「客」なる人物が、「主」の焚きつけ役、主の徹底的な賛同者として設定されている。珍しい方法だと思う。)、この大岡・埴谷対談を「全体の印象をいえば、まぎれもないたれ流しの老文学者特有の遠近法のない回想談」「もともといくら老いても、こんなたれ流しみたいな回想談をすくなくともおまえはやるな。やりたくなったり、やることを誘われたりしたら拒絶しろ。そういう自戒の鏡としてしか、おれはこの手の回想談なんぞに興味がない」などと語っている。言われてみれば、確かにそういう一面があるとは思う。二人とももう70歳を2つ、3つ超えているし、肉体も衰え、特に大岡昇平は心臓病、糖尿病など幾つもの病気をかかえていて、話しぶりにも内容にも若い時のような冴えはないかも知れないとは思う。しかし、ここ十数年、吉本隆明が表明する発言は当時のこの二人と較べていくらかでもマシだと言えるだろうか? むしろはるかに及ばないのではないだろうか。

「二つの同時代史」では吉本隆明の話題も何回か出ている。そのうちの一件(特に大岡昇平の発言)が吉本隆明を怒らせ、訂正の要求ということになったわけだが、その件に触れる前に、上記の「新書版のためのあとがき 註記」の吉本隆明の文章の誤りについて述べておきたい。吉本隆明は、「二つの同時代史」における大岡昇平の一発言を「デマゴギー」と述べて、その「デマゴギー」を発した理由について、2008年時点における自身の推測を次のように述べている。

「大岡の『野火』という小説作品のなかで、フィリピンでの日米戦闘の場面で主人公の人命を撃つことが嫌いな考えから、故意に米兵からそっぽをむけて銃を発射する場面があって、戦中世代で真正面から日米戦争に向かって従事したわたしも鮎川信夫も対談で都合が良すぎる旨、批判したことがあった。その仕返しかなと解釈した。」

「仕返し」かどうかよりも先に(もっとも私はそうは思わないが)、『野火』という小説は、敗残の部隊からも病院からも追い出された孤独な日本人病兵がフィリピン・レイテの山野をひとり彷徨したあげく、フィリピンの若い女性を銃で撃って殺してしまうというストーリーであり(もちろんそれだけではないが)、米兵を撃つ、撃たないが問題となっている作品は、『俘虜記』という記録小説である。しかも吉本隆明は、「主人公の人命を撃つことが嫌いな考えから、故意に米兵からそっぽをむけて銃を発射する場面があって」などとまるっきり新説(?)を書いている。「そっぽをむけて銃を発射」したりしたら、それが敵に命中しようがしまいが、圧倒的優勢の何千という敵兵に襲われ包囲されているのだから、たちまち撃ち殺されてしまう。駐屯地はミンドロ島。重いマラリアに罹っていたために山の途中で僚友から取り残され、動けなくなった主人公はひとり叢の中の地面に転がり、内心「もはやこれまで」と死を覚悟した。その時ふと「たとえ米兵がきても撃つまい」、死ぬ前に人を殺したくない、と思ったそうである。そこにひとりの米兵がやってきた。主人公は寝転んだ格好のまま思わず銃を構えたが、撃たず、まだ二十歳にもなっていなさそうな若い米兵は何も気づかずに向こうに去っていった、という出来事の経過であった。『俘虜記』のこの場面は、「撃つまい」と思い、事実「撃たなかった」、そういう自己の意識、行動についての執拗な追及の記録である。「人命を撃つことが嫌いな考えから」、「故意に米兵からそっぽをむけて銃を発射」した、などという場面はなかったはずである。

『野火』も『俘虜記』も、大岡昇平の代表作というだけでなく、戦後文学を代表する傑作でもあると私は思うし、世評もそのように遇してきたと思う。吉本隆明は「文芸批評家」でもあると思うのだが、それにしては上の文章はあんまりではないだろうか。これが年齢からくる生理的な衰えによるものならそうそう責められないとも思うが、それならば文芸批評にしろ、文明批評にしろ、この種の仕事はもう止めたほうがいいのではないだろうか。しかし、出版社の編集者や吉本隆明の周囲の人たちはこの誤りに気づかなかったのだろうか。『野火』、『俘虜記』という作品の価値を思えば、信じられないことである。

また吉本隆明は、同じ文章のなかで「大岡昇平は岩波書店のわたしの知らぬ編集者を使いによこした。」となんだか不満げに書いているが、これは吉本隆明が、大岡昇平に文章の訂正を要求するだけでなく、埴谷雄高にも岩波書店にも大岡昇平に訂正を要求する書信を送ったことを通知したから、その時富士の山小屋にいた大岡昇平は動きようがなかったので、岩波書店の担当編集者に「どうすればいいのか」という伺いをもって吉本宅に行ってもらったと、後に『文学界』に連載していた「成城だより」に書いている。大岡昇平は出版社にまでその話をもちこんだ吉本隆明の行動を「異様」と述べていた。

吉本隆明が文章の最後のほうで、「気の弱い人ならくさり果ててしまうかいびられて自殺したり、殺されたりしてしまう。」と述べているのには、吉本隆明自身の他人に対する辛辣な発言の数々が思い浮かんで、私はあきれて笑ってしまった。
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2011.08.11 Thu l 吉本隆明 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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