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今日から10月。3月11日の大震災からとうに半年が過ぎたことになる。被災地の復旧・復興は遅々として進まず、福島第一原発事故も収束に向かう気配はない。気になることは山積みだが、水をふくめた食べ物の問題も今最も懸念されることの一つだ。事故以来、放射能が食品におよぼす影響に不安を感じることなく生活している人は、日本に居住している以上、ほとんど誰もいないのではないだろうか。

もちろん、福島を中心とした被災地の人々、その近辺の人々の不安と神経の遣いようが比較を絶していることはいうまでもないことだが、私のように関東地方在住の者もスーパーや市場に行くと、事故以来、特に野菜類についてはどうしても産地の表示を見てしまう。瑞々しい青菜を見ながら「これでも放射能を吸っているのではないか?」などという考えが浮かんでしまうのは我ながらつらいし、作物を作っている人々に申し訳ない気持ちにもなる。そうこうしているうちにいつの間にか買い物の時間が長くなり、そのわりに購入する食品は少なくなり、そうして帰宅した時にはヘトヘトに疲れてしまっていたりいる。

そろそろ新米の出盛り期だが、四国の高知や九州の宮崎産の新米からもセシウムが検出されているという。それでいて原発に近い千葉や茨城産の米からは未検出だったともいう。とにかく本心をいえば、放射能が含まれている食べものを購入し、食卓に出すのはイヤでたまらない。

出身が九州・熊本県の小さな島である私は、子どものころ、食べて害毒になるものが農産物に混じっているかも知れないなんて、考えたこともなかった。人参、ピーマン、じゃが芋、さつま芋、玉ねぎ、ほうれん草…。母親や親類や近所の人は大抵畑で野菜を作っていたが、好き嫌いを別にしていえば、それらはみな栄養の塊そのものと思っていたものだ。実際には、農薬や化学肥料も使っていたのかも知れないが、食べ物の安全性に対する子どもたちの信頼感は無限なほど大きかったと思う。

こういうことをつらつら思い返すというのも、大震災・原発事故以後のことである。食べ物を意識し、食べ物について考える機会がいやでも増えてしまったので、関連して思い出す過去の出来事も多い。たとえば、これはもう10年以上も前のことになるだろうか、テレビ朝日の『徹子の部屋』に陶芸の道を歩んでいるという20代半ば、あるいは後半の若い男性が出演しているのを観たことがある。物静かな感じのその人は学生時代にオートバイ事故により記憶を喪失したそうで、病院で意識を取り戻した時は、目の前の母親の顔を見ても誰だか分からなかったそうだ。母親や妹が優しく親切にしてくれるのに対し非常に恐縮した気持ちになったそうで、番組にVTR出演された妹さんが言っていた。「お兄ちゃんは、事故の後、それまでとは別人のようにいい人になってしまって…」。完全に記憶を失っていた彼は親身に世話をしてくれる肉親に有り難くも戸惑い、恐縮するばかりだったらしい。

そのくらい、過去の何もかもを忘れてしまっていたのだが、彼が自分の過去につながるなつかしさを最初に覚えたのは、病室での母親の「…これ、食べる?」という言葉だったという。「食べる」という言葉に聞き覚えがあるような、何ともいえないなつかしさ、喜ばしさが湧いてきたのだと語っていた。

その時から、彼は少しずついろいろなことを、思い出すのではなく、新たに覚えていったのだというが、「食べる」という言葉に感じた彼のなつかしさは、それが本能的、感覚的なことであるからという理由だけではなく、食べることに関して彼のなかに蓄積されていた経験が温かくて混じりけのない悦び、純金のごときものだったからではなかったかと思う。現在のように放射能を気にし、怯えながらの食生活では、食べることが彼のような良き体験として人(特に子ども)のなかに記憶されるものかどうか疑わしいと思う。

食べ物についての私自身の記憶だが、時々ふと思い出す良い体験の記憶をいくつかもっている。みな小学生時代の思い出になるのだが、まず一つは、近所の友達数人と山のてっぺんに登ったときのことで…。遊んでいて、ついつい勢いづき、調子に乗って、眼下に遠く海を見下ろすある山の頂上まで行ってしまった。登り切って、「アー、疲れた、疲れた」と言いながら、ふと傍を見ると、その辺の石の間をチョロチョロと清水が流れている。手で掬って飲んだのだが、その水の美味しかったこと。何か不思議なことに出会っているという気がしたものだった。その後も小・中学校の運動会の練習の後など、列を作って並んで待って井戸水を飲み、美味しさに喉を鳴らしたものだが、山の頂上で飲んだあの水の美味しさにはとうてい太刀打ちできない。完全に別格なのである。たしか墓の上の、そのまた上の山だったと思うが、それも今となってはしかとは思い出せない。ただ、喉を通っていった水の清らかでありながらコクのある味は今も喉のあたりにたしかに残っているようなのだ。

次もやはり山における記憶だが、これは先程の山とはまったく別方向の奥深い山。一緒に行った友達に在り処を教えられたのだと思うが、まず百数十の急階段をのぼって八幡宮に行き、その奥の山道をずんずんずんずん歩いて行くと、やがて薄暗く湿った大きな森のなかにすっぽり入りこんだ。季節は梅雨明けのころだったのか、鬱蒼と繁った大樹から時折ポタ、ポタと水が滴り落ちてきた。足許を見ると、熟して紫がかった深紅の大きなヤマモモが地面を覆った草の上に散り敷かれていた。「ワッ」と喜び、拾って口に入れると、その美味しさに驚嘆した。皆、しばらくの間黙って食べていた。

もともとヤマモモはおつな味の果実だが、そのヤマモモは大きさが一様に直径15ミリほどもあり、その日はちょうど実が大木から振り落とされた後のまさに食べ時だったのだろう。その後、ヤマモモは口にしていない。あのときの美味しさを超えるヤマモモには二度とめぐりあえないと思うから、できればこのまま口にしないほうがいいのかも知れない。

それからお米のこと。親類にお米を作っている家があり、新米は毎年もらっていたが、ある時、稲刈りが済んだ直後、さっき少しだけ精米をしたのだと言って、ウチにも一回分のお裾分けをしてくれたことがあった。その味が新米とはいっても、普通の新米とはまったく別物なのだった。あれは何かの副食といっしょに食べるのはもったいない、そんなことをしてはバチがあたるといいたくなるような新米の味だった。

  新米にまだ草の実の匂ひかな  蕪村

というようなことをふと思い出したりする昨今である。山や森や海は私たち人間には作り出せない。食べ物のうち、最も貴重であり基本なのは、水であり、米であろう。原発事故はあれもこれも取り返しのつかない事態を無数に引き起し、今もそれを進行させている。福島の山や森や畑など、放射能汚染のために人が通れず、立ち入りできなくなっている場所も数多くある。そのことに言い尽くせない憤りや悲しみをだいている人がどれだけ多いか分からない。
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2011.10.01 Sat l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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