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民主党の前原政調会長は10月23日、NHKテレビ番組で、環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉参加問題について、「交渉に参加して、国益にそぐわなければ撤退はあり得る」と述べたそうである。

「 野田首相は11月12~13日に米国で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議でTPP交渉参加を表明する意向だが、民主党内には反発がある。前原氏の発言は、各国との交渉には参加した上で、協定を締結するかどうかは改めて判断すればいいとの選択肢を示したもので、TPP慎重派に理解を求める狙いがあるとみられる。」(2011年10月23日 読売新聞

これを知って、先日の亀井静香氏の前原氏批判を思い出した。「政府の責任は国民に正確な知識を届けることだが、それをしない。(前原氏らが)自分たちのしていることも分からないのは、それこそ『TPPおばけ』だ」と述べたことで、そのときもこの批判はもっともだと思ったが、今回の前原発言を聞いて改めてそう感じた。

TPPのデメリットは農業部門への打撃が第一だと言われているが、どうもそれだけでは済まなさそうである。たとえば、医療の分野への悪影響が心配だ。国民皆保険が機能しなくなるという指摘が医療関係者からもしきりになされている。もしそういうことになれば、私もふくめた貧乏人はやがて病院にも行けなくなる事態が頻出するのではないだろうか。これは市民一人ひとりの生活・人生の死活問題に直結する問題であり、ぜひ早急に推進派、特に政府の懇切丁寧な応答を聞きたいと思うのだうが、いまだに納得できる見解は聞けていない。答えられないのだろうか?

さて、前原氏の「交渉に参加して、国益にそぐわなければ撤退はあり得る」という発言だが、何とまぁ甘い考えを持った政治家なのかとあきれてしまう。怖いのは、もしかすると半ば本気でそういうことが可能と考えているのではないかということである。それも漠然と、妄想のごとくに。前原氏は外相時代にも、「TPP参加、米国からの要請一回もない」(朝日新聞2011年2月4日)として、次のように述べていた。

「 前原氏は「予算委では『TPPは米国に言われてやらざるをえない』という米国脅威論が強いが、認識不足だ」と指摘。「私の知る限り、米国から(参加要請を)言ってきたことは一回もない。それどころか、日本が色々な条件をつけるのなら、勘弁してほしいという慎重論が多い」と説明した。服部良一氏(社民)、石田祝稔氏(公明)の質問に答えた。 」

前原氏は相手(米国)が言葉や態度に強制的なものをちらつかせることさえしなければ、「要請はない」と受けとめる簡単な人物なのだろうか。もし本当に米国からの要請はない、けれどもそれが国民のためになると思うのなら、国内でもっと丁寧に、積極的にTPPのメリットについても、デメリットについても聞く者が得心するよう説得的に説明できるだろう。

今回のTPPに関する、途中からの「撤退はあり得る」という発言だが、前原氏がもしそのような行動が可能だと本気で考えているのならば、沖縄の普天間基地の移転問題に関してももう少し違った態度がとれるのではないだろうか。現在の前原氏の米国追従、沖縄に対してのみ強硬な姿勢はどう説明されるのだろうか? 日本がTPPに関して一旦参加を表明した後に撤退可能と考えているのなら、沖縄の基地の危険性、沖縄県民がもつ基地拒否の強固な意思に反して前原氏が率先して辺野古移転に拘泥するのはおかしいのではないか。基地問題に関しても、米国の意思を米国の代理人のごとき態度で沖縄に押しつけるのではなく、沖縄住民の立場に立って米国にモノをいうことができるのではないか。

「撤退」発言を聞いてとっさに思い出したことが亀井氏の言葉の他にもう一つあって、それは安倍元首相がかつて集団的自衛権行使の問題に関して述べた「日本の主体性」「日本の自由意思」についての発言である。今回の前原発言を聞くと、課題の相違はあるにしろ、問題に対する政治家としての発想というか、姿勢というか、安倍氏とよく似ている点があるのだ。豊下楢彦氏の『集団的自衛権とは何か』に詳細が描かれているので、該当部分を以下に引用する。


「 日本の主体的判断?
 ところで安倍は、集団的自衛権を行使することによって、日本が米国の戦争に巻き込まれるのではないか、という世論の危倶を念頭におきつつ、次のような立場を強調する。「日本人はよく早とちりをするのですが、「できるようにする」ことと「やる」ことの間には大きな差があるんです。集団的自衛権を行使するかしないかは、政策的判断です」と(『論座』2004年2月号)。つまり、政府の解釈変更や改憲によって日本が集団的自衛権を行使できるようになったとしても、それを行使するか否かは米国の思惑ではなく、あくまで日本の主体的判断に基づいたものである、ということなのである。
 しかし現実の日米関係は、日本に「主体的判断」を許すような状況にあるのであろうか。安倍の主張は、日本が集団的自衛権の行使に踏み切ることへの米国側の“期待”の大きさを過小評価しているのではなかろうか。一例として、米国を代表する保守系誌の一つである『ナショナル・レビュー』誌の編集長リチャード・ロウリーの主張を見てみよう。

 「米国にイエスと言う日本」
 彼は2005年7月、「太陽が昇るとき」と題する論文においてまず、「日本を、ヨーロッパにおける英国のように、アジアにおいて米国が信頼できるパートナーにする」ことが米国の「目標」であるが、そこに立ちはだかる「主要な障害」が憲法9条であると、安倍とほぼ同様の主張を展開する。とはいえ彼は、かつて「ノーと言える日本」が議論されたが、今や「小泉が米国に対してイエスと言う日本をつくりあげてきた」と当時の小泉首相を絶賛し、「数年以内」に憲法が改正されるであろうと楽観的である。憲法9条は、日本が正式の軍隊をもち、武器輸出を行ない、なによりも集団的自衛権を行使することを禁止してきたが、憲法が改正されるならば、インド洋であれイラクであれアフガニスタンであれ軍隊を展開でき、あるいは北朝鮮に爆撃を加えて中国を牽制することもできると、ロウリーは大いなる�期待″を膨らませるのである。
 ロウリーの議論できわめて興味深いのは、日本が軍事的な活動領域を飛躍的に高めると、周辺諸国において、「日本軍国主義の亡霊」の復活に対する危倶が増大するであろうことを読み込んでいる点である。そのために彼は、日本が核兵器や弾道ミサイルなど「攻撃的兵器」にアクセスすることを許さず、さらに「同盟における目上のパートナーとして米国は、日本の意図について周辺地域を安心させる役割を果たすべきである」と述べている。(略)

 改めて今日の状況を見るならば、今や米軍再編において、「国家戦略」のレベルまで「日米一体化」が進められようとしている。さらに、国際的にはもちろん米国内においても「愚かな誤った戦争」との評価が定まりつつあるイラク戦争について、日本は開戦時の「支持」の立場を、日米関係に配慮していささかも修正することができない。こうした「現実」において、安倍が主張するように、仮に日本が、米国から集団的自衛権の行使を求められる際に「主体的判断」をくだして「ノー」と言えば、いかなる事態が生ずるであろうか。それは言うまでもなく、米国側からすれば、日本の�裏切り行為�そのものであろう。そもそも集団的自衛権の行使にあたって「主体的判断」を主張するというのであれば、こうした事態を覚悟しておかねばならないはずなのである。」(豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』岩波新書2007年)


以上のとおりである。今回のTPP問題に関して、「撤退もあり得る」という前原氏は、「「撤退」と言えば、いかなる事態が生ずるであろうか。」という側面をどれだけ真剣に考えて口にしているのだろうと、大変疑問である。安倍氏、前原氏のように問題に対する徹底した思考の形跡が微塵も感じられない、その場かぎりの甘いぼんやりとした考えで物事を過激に急激に動かそうとしているのをみると、あまりのことに気持ちが暗澹となる。野田政権が発足してまだ2カ月足らずだが、政府は原発再稼働への動き、武器輸出禁止三原則の緩和を示唆するなど、何かあらゆる面で事態はますます悪い方向に向かって走っている気がしてならない。
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2011.10.23 Sun l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (1) l top
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