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光市母子殺害事件の最高裁判決は元少年の上告を棄却する理由の第一番目に、彼が「差戻し控訴審で、故意や殺害態様について不合理な弁解をしており、真摯(しんし)な反省の情をうかがうことはできない。」点を挙げている。判決が指摘する「不合理な弁解」のうちの「故意」の問題については前回すこし取り上げた。被害者方を訪れる前にアパートの呼び鈴を押して回った行動について、元少年は差戻し控訴審に入ってからそれまで認めていた「美人な奥さんと無理矢理にでもセックスをしたいと思って」との自白を否定し、「戸別訪問をしたのは人との会話を通じて寂しさを紛らわせるなどのためであり,強姦を目的とした女性物色行為ではなかった」と新たな供述を行なった。最高裁がいう 「故意」についての「不合理な弁解」とはおそらくまず第一にこの供述の変化および新たな供述内容を指しているのだと思われるが、この件について私は前回元少年のそれまでの供述より新供述のほうがはるかに自然で合理的であるように思えると述べた。

その理由は、少年にはこれまで一度も女性との交際・交渉の経験がないこと、 彼は普段少数の友達とゲームをして遊ぶことが多かったらしいが、家庭や学校の内外で女性を襲ったり追跡するなどの性に関する問題行動はまったく報告されていないこと、小学生や中学下級生くらいまでの少年のなかには悪戯や退屈凌ぎのために余所の家のチャイムを鳴らし、家人が玄関に出て行くと隠れたり逃げたりするような行動をする子が時々いるが、 家庭裁判所の「少年記録」に「IQは正常範囲だが、精神年齢は4,5歳」 と書かれていたことが示すように実年齢より精神が幼かったことは明白と思われる彼には友達と待ち合わせの約束をした3時までの時間潰しのためにこのような着想をしたとしてもさしてギャップは感じられないこと、当時の彼が家族には会社に行っていると思わせながら入社したての会社を休みつづけていたことはたとえ無意識にせよ相当な疎外感や罪悪感などの不安が彼の内部を占領していたにちがいなく、これらを考え合わせると、時間潰しの他に気分転換や漠然とした人恋しさのためにアパートの呼び鈴を押し、声を掛けて歩いたという説明のほうが、たとえ彼のなかに女性や性への関心・欲求があったとしても、強姦目的の行動と説かれるよりははるかにリアリティと自然さを感じる。

今回の最高裁の上告棄却は3対1の多数決で決定されたそうだ。上告棄却に反対して再度の審理差戻しを主張した宮川光治裁判官の反対意見、 多数派の金築誠志裁判官の補足意見については後で言及したいと思うが、ここでは最高裁が支持した差戻し控訴審は少年のアパート訪問の動機についてどのような判断をしたかをもう少し細かく見てみたい。数字の①、 ②は引用者加筆。

 ① 「 野田教授は、強姦という極めて暴力的な性交は一般的に性経験のある者の行為であり、性体験がなく、性体験を強く望んで行動していたこともない少年が突然、計画的な強姦に駆り立てられるとは考えにくいなどとして、強姦目的の犯行であることに疑問を呈している。 しかし一般論として、性体験のない者が計画的な強姦に及ぶことは、およそあり得ないなど言えない。」(差戻し控訴審判決)

 ② 「 犯行計画というものは、その程度がさまざまである。本件のように、襲う相手も特定されておらず、相手を襲う場所となるはずの相手の住居も、その中の様子も分からないという場合、 犯行計画といっても、それは一応のものであって、実際には、その場の状況や相手の抵抗の度合いによって臨機応変に実行行為がなされるもので、あらかじめ決めたとおりに実行するというようなことが希であることは多言を要しない。」( 同 上 )

① について。元少年の精神鑑定を行なった精神科医の野田氏は法廷で、性経験を持たない少年が白昼近所のアパートを訪問して女性を探し、強姦してでも性行したいという衝動に駆り立てられることは考えにくい、と元少年の日常やその時・その場の状況を前提に置いて証言しているのに対し、判決は「しかし一般論として、性体験のない者が計画的な強姦に及ぶことは、およそあり得ないなど言えない。」と反論している。しかしこれは反論にもならない無意味な発言ではないだろうか。野田氏の見解は経験則・論理則の見地からみてごく常識的な内容のものだろう。これに反論し、その証言を退けるのに「およそあり得ないなど言えない。」の一言で済むのなら、裁判官の仕事は誰にでもできると思われる。そりゃあ確かに「性体験のない者が計画的な強姦に及ぶこと」がないとは言えないので、それ自体は誤りではないだろう。けれどもそのとき元少年にはいかなる意味でも具体的な対象・目当ての女性が皆無なのだ。相手が知人や顔見知りの間柄の場合は何かの機会に偶然二人だけになったのを利用して乱暴したり、赤の他人の場合は、たとえば夜道で偶然すれちがった初対面の女性を人通りが絶えているのをいいことに暴力的に暗がりに引きずり込む、など(イヤな話ばかりで恐縮だが)、ともかく相手の意思を一切無視し蔑ろにすれば自分の欲望のままに暴行が可能と思える状況ーー別の面からいうと、具体的に相手の顔・姿を確認している(もしくは、確認した)状態ーーがあってはじめて強姦の意思は形成されるのではないかと思う。しかし今少年の目の前にあるのは昼間の社宅アパートの建物であり、彼に女性との性経験がないのであればなおさら、この場で強姦も辞さないほどの強烈な欲望に駆られ、即、その実現のために排水検査員を装うという計画を立て(朝から会社の作業服を着ていることも暴行計画に利用できるとただちに思い付き)、すかさず行動に移したというこの判決はちょっと納得しがたい。被害者女性が23歳の若い母親だったために、私たちは実際にそのアパートにそういう女性が住んでいることを知っているが、おばさんやおばあさんばかりが住んでいることもありえる。少年がこのとき何の具体的手がかりもないのに抽象的な「美人な奥さん」が住んでいると妄想し、その妄想を「襲う」というところまで膨らませていったというのは現実問題としてひどく無理があると思う。それにもし彼が呼び鈴を押して回って女性を物色し、強姦してでも目的を遂げようとしたというのなら、むしろこれまでの彼が何らその種の問題行動を起こしていないことの説明がつかないと思う。

②については、この部分の判決文を書きながら裁判官は不審を感じなかったのかと私は読みながら大変不審に思った。「本件のように、襲う相手も特定されておらず、相手を襲う場所となるはずの相手の住居も、その中の様子も分からないという場合、 犯行計画といっても、それは一応のものであって、 」という判決文には今も不思議の感に耐えない。 判決文中の「襲う」を「強盗する」に置き換えて考えてみれば、この判示の奇妙さがよく判ると思う。「襲う相手も」「場所となるはずの相手の住居も」「その中の様子も分からない 」 強盗計画がもしありえないのであれば、同様の強姦計画もありえないのではないだろうか。少年はアパートの各戸住人に対し、「玄関で「排水検査に来ました。トイレの水を流してください。」などと言うのみで、その住民が水を流して玄関に戻っても、会話しようという素振りもなく立ち去ったり、住民がトイレの水を流している間に玄関に戻って来るのを待つことなく立ち去っている。」という態度だったそうで、その素っ気なさを捉えて裁判所は「寂しさをまぎらわせるためなどの訪問だった」との供述と合致していないことを指摘し、新供述の信憑性を否定しているが、人とのコミュニケーションがそんなに自分の計画どおり、思いどおりに行くのなら、少年は昼間からこんなところでぶらぶらしておらず、入社した会社にちゃんと通勤していただろうし、このような事件を起こすこともなかっただろう。アパートでの彼の態度は、もしも彼が強姦計画を持っていたと仮定すると、私は裁判官とは逆に少年の態度の大っぴらさにむしろ驚く。多くの住人に対して会社の作業服を着て、顔をさらし、なりすました排水検査員としての言葉も発している。ここでちょっとでも騒ぎなどを起こせばたとえ逃げても自宅はすぐ近くなのだから身元が割れると考えなかったとしたら、そのほうがどうかしているだろう。アパートを回って歩く少年には強姦の計画も意思もなかったように私には思える。
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2012.02.29 Wed l 裁判 l コメント (2) トラックバック (0) l top
周知のように、去る2月20日、最高裁は1999年に発生した光市母子殺害事件の元少年の上告を棄却した。最高裁が一・二審の無期判決を広島高裁に差し戻したのは2006年、広島高裁は2008年元少年に今度は死刑を宣告した。そして迎えた2度目の最高裁、通算5度目の判決は彼の死刑を確定するものとなった。事件が若い母親と1歳に満たない女児が白昼自宅で殺されるという痛ましいものだったこと、事件の数日後に容疑者として逮捕された人物が近くに住む18歳になったばかりの少年だったこと、一人遺された夫であり父親である男性が終始被告人への極刑を求めつづけたことなどにより、この裁判は世の大きな関心と反響を呼んできた。

今回の死刑確定判決に対して新聞(テレビは見ていないので不明)はおおむね「やむなし」の論調のようではあったが、予想したよりは多くの新聞(特に地方紙)で「これでいいのだろうか?」 という自問自答や懐疑の感じられる記事が書かれているように思った。ある地方紙は「光市事件」と題した短文のなかでカミュの「ギロチン」中の印象的なエピソードを引用して死刑の本質に光をあて、記事の終りを「鉛をのんだように胸が苦しい。」との文字で結んでいた。ほぼ全紙が共通して挙げている指摘もあった。この判決は今後の少年事件の判決に多大な影響をおよぼすだろう、少年犯罪に対して更なる厳罰化が推進されることになるだろう、という予測である。これまで少年事件における死刑判決は4人の死者を出した68年の永山事件を基準として判断されてきたが、これからは永山事件に替わってこの事件が少年犯罪の死刑基準になるだろうというわけである。この事件の死者は前述したように2人であった。

ここ10年ほど成人の死刑確定判決がおそろしい勢いで増えつづけている。少年事件も同じ道をたどるのだろうか。しかしこれは青少年および社会にとって有害無益な、決してあってはならないことだと思う。徹底して寛大さを欠いた厳罰一本槍の判決によって甚大な悪影響を受けるのは当事者少年だけではないだろう。人を残酷で卑怯な人間にすることは困難ではない。最も有効な方法は相手に卑怯な仕打ちを数多くあたえ、残酷な振る舞いを始終見せつけることである、と聞いたことがある。誰が言ったことかは知らないのだが、この言明はまったくの真理ではないだろうか。環境の影響を心身に直に受け入れざるをえない少年・少女への寛大さの欠如が何であれ良い成果を生み出すことはないだろう。じつは日本社会では殺人などの凶悪事件は年々減少をつづけているのだが、刑罰はこれに反比例して重くなりつづけている。ここ10年ほど無期もそうだが死刑は想像を絶する増え方である。日本社会ではもう一つ同じように増えつづけてこちらはただ今高留まり状態だが、きわめて深刻な実態と思われるのが毎年その数3万人を超える自殺者の問題である。日本社会における死刑と自殺者の増大にもおそらく関連があるのではないか。現在、自分のものもふくめて人の命がかけがえのないものという意識が私たちの内部からこれまでのどんな時代よりも希薄になってしまっている気がしてならない。

さてこの事件と判決についてとつとつ考えながら書いてみたいのだが、その前に元少年の実名報道について感想を述べると、これまで少年法の精神に照らしてメディア上では元少年の実名は伏せられていたが、今度の最高裁判決によって死刑が確定すると同時に朝日新聞をはじめ、読売、産経、日経、共同通信、NHK、テレビ朝日などの多くのメディアは実名報道に切り替えた。理由について、「死刑確定で社会復帰の可能性がほぼなくなった」「国家によって生命を奪われる死刑の対象者は実名が明らかにされているべき」などの弁明が目についたが、なかには「元少年の更生に留意する必要がなくなった」という主旨のものもあった。毎日新聞や中日新聞や多くの地方紙はこれまでどおりの匿名報道を継続。その理由は「毎日新聞は元少年の匿名報道を継続します。母子の尊い命が奪われた非道極まりない事件ですが、少年法の理念を尊重し匿名で報道するという原則を変更すべきではないと判断しました。/少年法は少年の更生を目的とし、死刑確定でその可能性がなくなるとの見方もありますが、 更生とは「反省・信仰などによって心持が根本的に変化すること」(広辞苑)をいい、元少年には今後も更生に向け事件を悔い、被害者・遺族に心から謝罪する姿勢が求められます。また今後、再審や恩赦が認められる可能性が全くないとは言い切れません。(毎日新聞 2012/02/20)」。毎日新聞のこの説明は朝日や読売の実名表記のための言い分とちがって筋がとおっている。一貫性と統一性が感じられる。願わくばいつもこのようであってほしいものだ (笑) 。読者の立場からこの問題を見ると、私たちが被告人の実名を知ったからといって益するものは別段何もないように思う。たとえば事件について考えたり人と議論する場合でも事件名や事件の内容に触れることで用はすべて足りるはずだ。実名表記についての朝日新聞などの言い分は表層的なもの、弁解じみたもので、とても人を得心させるものではないと感じた。では、次に20日の最高裁判決要旨を中日新聞から引用する。(/は改行部分)

 「 光市母子殺害事件の最高裁判決要旨
 20日に言い渡された光市母子殺害事件の最高裁判決の要旨は次の通り。
 犯行時18歳だった被告は暴行目的で被害者を窒息死させて殺害し、発覚を免れるために激しく泣き続けた生後11カ月の長女も床にたたきつけるなどした上で殺害した。甚だ悪質で、動機や経緯に酌量すべき点は全く認められない。何ら落ち度のない被害者らの尊厳を踏みにじり、生命を奪い去った犯行は、冷酷、残虐で非人間的。結果も極めて重大だ。 殺害後に遺体を押し入れに隠して発覚を遅らせようとしたばかりか、被害者の財布を盗むなど犯行後の情状も悪い。遺族の被害感情はしゅん烈を極めている。 差し戻し控訴審で、故意や殺害態様について不合理な弁解をしており、真摯(しんし)な反省の情をうかがうことはできない。平穏で幸せな生活を送っていた家庭の母子が白昼、自宅で 惨殺された事件として社会に大きな衝撃を与えた点も軽視できない。 以上の事情に照らすと、犯行時少年であったこと、被害者らの殺害を当初から計画していたものではないこと、前科がなく、更生の可能性もないとはいえないこと、遺族に対し謝罪文などを送付したことなどの酌むべき事情を十分考慮しても、刑事責任はあまりにも重大で、差し戻し控訴審判決の死刑の量刑は、是認せざるを得ない。

 【宮川光治裁判官の反対意見】 被告は犯行時18歳に達していたが、その年齢の少年に比べて、精神的・道徳的成熟度が相当程度に低く、幼い状態だったことをうかがわせる証拠が存在する。 精神的成熟度が18歳に達した少年としては相当程度に低いという事実が認定できるのであれば「死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情」に該当しうる。 被告の人格形成や精神の発達に何がどう影響を与えたのか、犯行時の精神的成熟度のレベルはどうだったかについて、少年調査記録などを的確に評価し、必要に応じて専門的知識を得るなどの審理を尽くし、再度、量刑判断を行う必要がある。審理を差し戻すのが相当だ。

 【金築誠志裁判官の補足意見】 人の精神的能力、作用は多方面にわたり、発達度は個人で偏りが避けられないのに、精神的成熟度の判断を可能にする客観的基準はあるだろうか。 少年法が死刑適用の可否について定めているのは18歳未満か以上かという形式的基準で、精神的成熟度の要件は求めていない。実質的な精神的成熟度を問題にした規定は存在せず、永山事件の最高裁判決も求めているとは解されない。 精神的成熟度は量刑判断の際、一般情状に属する要素として位置付けられるべきで、そうした観点から量刑判断をした差し戻し控訴審判決に、審理不尽の違法はない。」(中日新聞 2月 21日)

最高裁は08年の差し戻し高裁判決を全面的に支持し、「被告は暴行目的で女性を窒息させて殺害し、発覚を免れるために激しく泣き続けた生後11カ月の長女も床にたたきつけるなどした上で殺害した。」と断定していて、一審以来の裁判所の事実認定が今日まで一切変わっていないことが確認できる。けれどもこの事実認定が証拠に則した正確なものであるかというととてもそうは言えないように私には思えるのだが…。そもそも、最高裁段階で弁護人を依頼された2人の弁護士がともかく会ってみようと元少年にはじめて面会に行った際、彼に事実はどうだったのかをもう一度自分の口で最初から話してほしいと言うと、彼は裁判記録とまったく異なることを話し始めた。自分には殺意もなかったし、女の人を絞殺もしていない、赤ちゃんを床にたたきつけてもいない、などを述べたとのことである。その前後の経過についてのテレビ出演や弁論要旨などにおける弁護人の説明によると、面会後、元少年の話と裁判記録を照合し、専門家に相談もして検証を進めていくと、面会時に元少年が述べた内容はほぼぴったり記録と合致していた。これまで事実として裁判所に認定されて世の中に広く流布・喧伝され、それによって人々を震撼させたり憤怒をかき立ててきた彼の行為ーー女性に対し「親指を立て両手で全体重をかけて力いっぱい絞めたが死ななかったので、今度は両手を重ねて絞め、死に至らしめた。」、また子どもが泣き止まないので「激高して子どもを自分の頭上に持ち上げて床に叩きつけた。」などという取り調べ段階での被告人自身の供述調書とは別の事実が表に出てきたということであった。

上の「判決要旨」に見られるとおり 、最高裁は被告人について「差し戻し控訴審で、故意や殺害態様について不合理な弁解をしており、真摯な反省の情をうかがうことはできない。」と判示している。しかし、事件の「故意性」ということでいえば、経験則、論理則のどちらからいっても私には「18歳の少年が起こした事件は故意であった」という判断のほうがはるかに不合理・不自然に思えるのだが? その春高校を卒業して排水工事会社に勤め始めた少年は周囲に馴染めず、10日ほど通っただけでその後は朝家は出るものの通勤を止めてしまった。その日も会社に行くと言って作業服を着て家を出たものの、午前中を友達の家で遊んでいた。昼頃友達は用事があると言って家を出たが、その場所が少年の会社の近くだったため彼は会社の人に会ったり見られたりすることを恐れて同行せず、その友達とまた午後3時にゲームセンターで待ち合わせる約束をして昼食のために家に戻った。昼食を終えて家を出たのは1時40分頃だったが、3時まではまだ時間がある。彼は近くの社宅の玄関のチャイムを端から順番に押して行った。判決は取り調べ時の供述調書にあるとおり彼が強姦目的で排水工事業者を装って女性を物色して回ったのだと判示しているが、差し戻し審で彼は3時の約束の時間までの空隙を埋めるために思いついた行動だったと述べている。

この事件に関心のある人にはこれはある程度知られていることかと思うが、元少年について「家庭裁判所の調査官(3名)による詳細な「少年記録」には「A(引用者注:元少年のこと)のIQは正常範囲だが、精神年齢は4、5歳」と書かれていました。」と差し戻し審で弁護人の申請によって元少年の精神鑑定を行なった野田正彰氏は雑誌のインタビューで話している。元少年はそれまで女性と交際・交渉を持ったことは一度もなかったという。そういう少年が友達との待ち合わせ時間までの一時間余の間にいきなり強姦相手の女性を物色するために近所の住宅のチャイムを片端から鳴らして歩いたというのはあまりに不自然・不合理であろう。たまたま彼が水道工事の服装をしていたために被害者宅で「ご苦労さま」と迎え入れられ、このことを彼自身意外だったと述べている経緯には私は自然さとそれ故の信憑性を感じる。そこでこのような大事件を引き起こしてしまうわけだが、これは元少年がせっかく入社し、その会社は和気曖々とした温かな雰囲気の職場だったにもかかわらずいたたまれなくなって休むようになったという事情と通底していて、彼のコミュニケーション能力の未熟ないしは不全が最悪の結果を招き寄せてしまったのではないだろうか。前述した野田正彰氏は2007年7月25日差し戻し審の証人尋問で精神鑑定の結果について「人格発達は極めて遅れており、他の18歳と同様の責任を問うのは難しい」「元少年の父親が妻と元少年に繰り返し暴力を振るっていたことが、元少年の内面に大きな影響を与えた」「事件当時までの人格発達は極めて遅れており、 更に母親の自殺で停滞した」 (毎日新聞 2007年7月26日) と述べている。
(つづく)
2012.02.24 Fri l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top
(2月15日23時:一番後ろに文章を追加しています。)

今回岩波書店が行なった社員募集の方法の件につき東京労働局の「東京労働局へのご意見」係に自分の意見を書いたメールを送信しました。文面は以下のとおりです。

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 東京労働局 様

いつもお疲れ様でございます。 先日から新聞やネットなどで話題になっております岩波書店の社員募集の件ーー岩波書店が社員の公募に際し「※岩波書店著者の紹介状あるいは 岩波書店社員の紹介があること 」という条件を付けた問題でメールを送らせていただきます。

今月3日に小宮山洋子厚労大臣は「こうした募集方法は聞いたことがない」と述べられていましたが、私なども同様で、大変驚きました。岩波書店は厚労大臣が「早急に事実関係を把握したい。調査してみます。」と発言したことやネット上で広く人々の話題になり議論を呼んでいることに対して、この募集方法の意図を「不況の折りからの経費と時間 の削減のため」とか「意欲のある学生に出会いたかった」などのやや混乱した説明をされていました。岩波書店にとっては外野のこのような反応はどうも予想外のことだったのかと思われます。

就職希望者の立場から眺めますと、岩波書店の著者や社員に対して就職のための紹介状を書いてほしいと頼めるほどに彼ら・彼女らと親しい関係の学生や社会人の数はごくごく一部にかぎられていると思われますし、そもそも岩波書店の著者の定義にしてもそれが具体的に誰を、どんな人物を指すのか一般社会には周知されていないと思われます。私などもせいぜい数人の学者や作家の名前や顔がぼんやり思い浮かぶくらいです。厚労大臣が「調査をしてみます」と述べたり、その他「岩波書店がコネ採用を堂々宣言した」、「紹介状取得という条件は一般学生にはきびし過ぎる」などという批判が出ますと、岩波書店は「小社に入社を希望なさる方は、 岩波書店著者にご相談いただくか、お知り合いの岩波書店の社員に直接ご連絡をください。」と、募集広告に明記されていた異様な文句をそのまま繰り返し(まるで岩波書店の入社希望者は岩波書店の著者や社員と知り合いであることが普通であるかのような言い方に聞こえて実際驚きます。)、そのあと「いずれの方法もとれない場合は、小社総務部の採用担当者(03-5210-4145)に電話でご相談ください。」と述べています。しかし「電話でご相談」といっても、岩波書店自身、自社の採用試験には多い年には1000人近い応募者がいると述べていますので、現実にそういう相談の電話が総務採用担当者に掛かってくるという事態になりますと、当初「経費と時間の削減」のために紹介状制を採ったと述べていた岩波書店は、どのような電話対応をするつもりか知りませんが、いずれにせよかえって膨大な時間と手間を要するようになること必須と思われ、これでは全入社希望者に要求した紹介状はいったい何のためのものだったのか訳が分からなくなります。

以上の経過を見聞きしていますと、岩波書店の社員採用の方法には企業が憲法上、そして社会規範上からも公正・公平な採用選考の手続きをとり、自社への就職希望者に均等な機会をあたえるという実践的責任が求められ科されているということ、企業の選考の自由はそれらの責任を全うした上での自由であり、雇用主だからといって何でもかんでも好き勝手に振る舞えるわけではないという認識が根本的に欠けているように思われます。出版社としての岩波書店は古くから労働問題でも良書を出しているとの社会的評価を得ていますが、そういう出版社であればあるほどこういう背任の責任はいっそう重いはずです。この問題では、岩波書店のどこが悪いんだ、 とか、自分の会社の社員を選ぶのだから好きな方法で選んでいいはずだ、というような意見も見られますが、このまま岩波書店の行為を是と認める「世論」が拡大してはびこるようなことになりますと、日本社会は江戸時代かそれ以前の時代に逆戻りではないかという恐れを感じたりします。

じつは岩波書店の現役社員の方のブログ記事 「 メディア報道における岩波書店の弁明への疑問と批判 」 によりますと、 事の真相は岩波書店が現在自ら説明している内容とは相当異なっているようです。ぜひこの記事もご一読いただき、実態を精査していただきたく思います。

なお、就職試験における「縁故」の問題で行政の改善指導を受けた事例には沖縄振興開発金融公庫の場合があるようです。この公庫は民間企業ではなく特殊法人ですが、行為は岩波が今回行なったことに似ているかも知れません。「職員採用試験の指定履歴書で、 採用の判断に必要のない縁故者の存在の有無と氏名を記入させる項目を設けていた」とのことです。 (琉球新報2002年10月15日

 2月12日

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追記ーー岩波書店の社員選考の方法について、世の中では「岩波にはまったく問題はない」「合理的な選考方法だ」という意見も数多く見られるようである。なかには、「岩波書店より、話を大きくした厚労省のほうが問題だ」という意見・主張まである。次の「岩波書店コネ入社 むしろ「当然」で厚労省介入は「不当」の声」( 2012.02.08)という記事がその代表例ではないかと思う。

「岩波書店の“コネ”入社が騒ぎになっている。入社試験のエントリーに「岩波書店著者の紹介状あるいは岩波書店社員の紹介があること」と注釈をつけたからだ。これについて 厚生労働省は「コネを条件にした募集方法は聞いたことがない」として、問題が無いか調べるという。

しかし私が大学を出た25年前でも岩波は「常連筆者の紹介状」をエントリーの条件にしていたように思う。なにを今更だと思うし、年に数人程度しか取らない社員200人の中小企業の採用試験にわざわざ厚労省が乗り出すというのは、岩波のリベラリズムに対する政府の牽制かと勘ぐってしまう。

「就職の機会平等が失われる」という意見があるが、そもそも岩波は高度に専門的な本をメインに出している出版社であり、要求される専門スキルは高く、あらかじめハードルを高く設定するのも理由がある。理系の大学院生が研究室の教授の推薦状をもって企業の面接にいくのに近い。

それに「社員の紹介」とも書いている。受験したい学生は普通にOB訪問して紹介状を書いてもらえばいいだけだ。他企業のリクルーター式就職と変わらない。OBがいない大学生は編集部に手紙を書くなりしてアプローチすればよい。何のツテもない筆者に手紙を書いてアプローチするのはどんな編集者でも毎月のようにやっている作業である。」(ノ ンフィクション・ライターの神田憲行氏)

この意見は、岩波の立場、入社希望者の立場、世の中にあたえる影響など諸々の問題点を丁寧に見ていくというより、はじめから岩波書店の立場にたって発言している人のもののように思える。「 25年前でも岩波は「常連筆者の紹介状」をエントリーの条件にしていた 」ことを神田氏は岩波擁護の根拠にしているが、私などはこれが事実なら岩波書店は当時から大きな問題を孕んだ出版社だったのではないかと思う。神田氏は「 岩波は高度に専門的な本をメインに出している出版社であり、要求される専門スキルは高く、あらかじめハードルを高く設定する 」とも述べているが、仮に岩波書店が「要求される専門スキル」が高く、採用に際して高いハードルの設定が必要な会社だとしても、その設定内容が著者の紹介状の提出というのでは、これが公募である以上まったく不適切だろう。なぜなら知り合いでもない著者に就職のための紹介状をもらいたいとは相手の負担や迷惑を考えてなかなか言えないというのが人の、特に若い人の一般的な心理だろう。また著者のほうでも実際よほどのことがなければ見ず知らずの人間に紹介状は書かないだろうと思う。だからこの紹介状の問題についての岩波書店の説明は最初から妙なのであるが、岩波社員の紹介状についての「 受験したい学生は普通にOB訪問して紹介状を書いてもらえばいいだけだ」という神田氏の言い分もあんまりだ。今回の募集に当たって岩波書店は社員の出身校のことなどには何も触れていない。就職希望者は岩波に自分のOBが在籍しているかどうかも分からないのに訪問などしようがない。それから「…わざわざ厚労省が乗り出すというのは、岩波のリベラリズムに対する政府の牽制かと勘ぐってしまう。」という言い分には正直あきれる。これは私も今回東京労働局のホームページを見てはじめて知ったのだが、東京労働局の事業のなかには「公正な採用選考」という部門があるのだ。これを見ると、厚労相が岩波書店の採用選考問題に敏感に反応したのは当然だったのだろう。神田氏が岩波書店をリベラリズム、すなわち、自由や平等や社会的公正を指向している出版社だと思うのなら、厚労省に妙な勘ぐりをするより、岩波書店の言行不一致ぶりを指摘するのが自然だったように思う。
2012.02.15 Wed l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 岩波書店の社員募集の問題点と金光翔さんの考察

2月2日、岩波書店のホームページに2013年度の定期採用の要項が掲載され、その応募資格の項目に「 ※岩波書店著者の紹介状あるいは岩波書店社員の紹介があること 」と明記されていたことが波紋を呼んでいる。多くの人は当然のことながらこの募集要項を見て、岩波書店が今年は自社の著者および社員のコネ、縁故がある者のなかから社員を採用すると宣言したものと受けとめて話題にしたり、是非を論評したりしたわけだが、岩波書店はこの騒ぎに珍しく(?)素早い反応を示し、こちらの取材によると「 岩波書店「縁故採用ではない」と主張、意欲ある学生求める」と下記のように述べたとのことである。

「 岩波書店総務部の採用担当者は、オルタナの取材に対して「今回このような制度を取り入れたのは、数人のわずかな採用人数に対して毎年1000人近い学生が応募をしてくる。採用にかけるコスト削減ではなく、単純に興味本位だけで受けにくる学生の数を減らし、意欲のある学生に出会いたいとの意図からこの制度を取った」と答えた。/企業が雇用する際に、その企業と何らかの関わりがあることを採用の条件とする縁故採用と騒がれている件については「紹介文はあくまで応募条件であり、採用条件とは別のものである。例年通り筆記試験や面接の上、採用を判断するので、紹介文の中身はその後の採用試験の合否に影響しない」と、縁故採用ではないと強く主張した。/しかし、課題もある。岩波書店はOB/OG訪問を受け入れていない。岩波書店とのつてがない学生には厳しい対応だ。」( オルタナ 2月3日20時50分)(/は改行箇所)

岩波書店は「岩波書店著者の紹介状あるいは岩波書店社員の紹介があること」という応募条件を設けた理由につき、上記のように「採用にかけるコスト削減ではなく、単純に興味本位だけで受けにくる学生の数を減らし、意欲のある学生に出会いたいとの意図からこの制度を取った」と述べているが、その前日の別の取材では、その理由を「出版不況もあり、採用にかける時間や費用を削減するため」(共同通信2月2日 18時19分) としている。上の2つの報道が岩波書店の発言を正確に反映しているとの前提に立てば、今回の募集方法の意図について岩波書店は2月2日には「コスト削減のため」と言い、翌日の3日にはそれを「コスト削減ではなく」と明確に否定し、「意欲のある学生に出会いたいとの意図からこの制度を取った」と述べている。自分たちの意図についての外部への説明がたった一日でまるっきり変わってしまっている。

「意欲のある学生に出会いたい」という岩波書店の説明についても疑問がある。岩波書店の著者や社員に知人はいないが、何とかそういう人を探しだして紹介状をもらおうと努力することは確かに「意欲」を要するだろうが、ただこの「意欲」は志の高さや編集業務との適性などとはあまり関係はなさそうだ。採用試験は結果がどうなろうと自分の力量だけで勝負したい、そうすべきだという考えの持ち主のほうに精神的自立心や健全さが感じられると思うし、またそれが普通の良識ある考え方ではないだろうか。岩波書店が応募希望者に要求している条件は対象にとってあまりに負担の大きい無茶なことのように思う。岩波書店は、この度の募集方法について「応募条件であり、採用条件ではない」との発言もしているようだが、著者および社員の紹介がなければそもそも受験できないのであれば、採用されるのは必然的に紹介状をもらうことができた人にかぎられるのだから、岩波書店のこの言い分もまたヘンではないだろうか。第一、「岩波書店の著者」と聞いて、その意味するものを正確に理解できる人など世の中に何人いるだろうか。

この問題について、小宮山洋子厚生労働相は3日、閣議後の記者会見で「こうした募集方法は聞いたことがない」 「早急に事実関係を把握したい」と述べ、調査に乗り出す考えを明らかにしたそうだが、この発言には、良い意味でちょっと驚いた。電通やテレビ局などはコネ入社の社員で一杯、などという話をよく聞くのでこういう話題には厚労相といえども当たらず障らずの対応をするのではないかという先入観があったのだ。女性差別のなかでも就職問題では特に差別され、苦境に立たされることの多い女性だが、その女性大臣ならではの敏感な反応だったのかも知れない。

それにしても、問題なのは、岩波書店が労働問題に関してどのような本を出版しているか、自社のその出版物と岩波書店役員・社員の現実の行動が、まるで逆走を意図しているのかと思うほどに、いかに遠く隔たっているかということである。そのことを考えれば、他所もやっているから、などと見過ごすことは今後の社会にあたえる悪影響という側面からもよくないだろう。じつは私もこういう条件のついた社員募集広告を見たのは小宮山氏同様今回が初めてだった。

ところが、サイト「首都圏労働組合」で、今回の問題を取り上げた金光翔さんの「 メディア報道における岩波書店の弁明への疑問と批判 」という記事を読むと、問題の根は今私たちが知っているよりもっと奥深いところにある、むしろこの件は世間が認識していることとは全然別のストーリーを持った出来事のようなのである。具体的な詳細についてはぜひ金さんの記事を読んでいただくとして、そのなかの以下の見解にはつくづく同意させられる。

「 ネット上では、「縁故ならばなぜホームページ上で公開するのか分からない」とか「岩波書店は、何か意図があってホームページ上で、議論を呼ぶこと必至であるこの応募条件を公開したのだろう」といった趣旨の発言が散見されるが、私は、これは極めてシンプルな理由に過ぎないと思う。すなわち、会社上層部も採用担当者も、このような応募条件が、 社会的に大きな注目を浴びるという可能性を全く想定していなかった、 のではないか。私は、岩波書店は、自分たちがやろうとしていることが社会規範・社会常識から著しくズレているとは夢にも思わず、自分たちの行為が社会でどのように受け取られるか、という点への認識を全く欠いたままで、昔からやってきたという、このような条件を大っぴらにしてしまったのではないかと思う。私がこの首都圏労働組合特設ブログで繰り返し書いてきた光景である。 」

未読の方は、ぜひ上記記事全文のご一読を!
2012.02.07 Tue l 社会・政治一般 l コメント (2) トラックバック (0) l top
昨年3月から10月までの7カ月間にわたりリビア国内に空から猛爆撃を繰り返したNATO軍が、空爆による民間人の犠牲者はいない、と言い、西側メディアは、空爆によって40名から70名の民間人が犠牲になった、と発表していることを下記の報道で知った。

「 露国連大使 リビア空爆犠牲者NATOの責任追及(「ロシアの声」 20.12.2011)
 ロシアのヴィタリー・チュルキン国連大使は、NATO軍のリビア空爆によって民間人が死亡したことについて、調査を行うよう要求した。ニューヨークで発言したチュルキン大使は、NATOは民間人の犠牲はないという「完全にプロパガンダ的な姿勢」をとった、と指摘している。
 ロイター通信がチュルキン大使の言葉として伝えたところによれば、「第一にそれは絶対にあり得ないことであり、第二にそれは嘘である。」と発言した。
 NATO軍は今年3月から10月にかけて、リビア上空の飛行禁止空域を認めた国連安全保障理事会決議に基づいて、リビアでの軍事作戦を行い、西側メディアの発表では、空爆によって40名から70名のリビア民間人が犠牲になったとされている。
 またチュルキン大使は、国連のパン・ギムン事務総長が14日、NATO軍のリビア作戦を擁護する発言をしたことについて非難している。国連事務総長は、NATO軍の行動は、3月17日の国連安保理決議に基づいたものだったと述べているが、ロシアは、国連事務局が、安保理の重要問題に関してより注意深い判断を下すことを期待している。 」

「 ロシア NATO空爆によるリビア民間人犠牲者の調査を呼びかける(「ロシアの声」23.12.2011)
 ロシアは国連安全保障理事会のリビアに関するブリーフィングで、 北大西洋条約機構(NATO)の空爆で民間人が死亡したことに関する特別調査を国連の後援で実施する必要があると述べた。
 チュルキン大使は、調査は国連あるいは国連の後援で出来るだけ早く実施されるべきだとの考えを表し、発生した事件を分析する必要があり、今後このようなことが繰り返されてはならないと強調した。
 ロシアは、NATOがリビアに関する国連安保理決議の委任から逸脱したと考えている。
 チュルキン大使は、NATOがリビアで行われた作戦を「成功」と考え、今後も同様の作戦の使用を提案していることにロシアは懸念していると伝えた。 」

しかし、昨年の10月20日にカダフィが無惨な殺され方をしたその8日後に、リビアの反乱軍側は、NATOの爆撃により「少なくとも民間人3万人が死亡した 」と発表している。

「 NATOのリビア攻撃で、3万人が死亡 -(「 IRIBラジオ日本語」 2011年10月28日 )
 リビアの新保健大臣が、この7ヶ月のNATO北大西洋条約機構の爆撃で、少なくとも民間人3万人が死亡したことを明らかにしました。
 フランス通信によりますと、リビアの情報筋は、28日金曜、 この死者の数を、アラブ諸国で起きた革命の際の死者の数よりも多いとしています。 国連安全保障理事会は、27日木曜、リビアでの武力行使を許可する任務を終了する決議を全会一致で採択しました。 リビア国民評議会は、26日水曜、少なくとも今年末までのNATOのリビア駐留を要請し、 カダフィ死後も、最後のカダフィ支持派の存在が、国にとっての脅威であるとしました。 」

ブログ「 報道写真家から(2) 」のこちらの記事にNATOによるリビア爆撃の実情が記されている。

「NATO軍の出撃は通算26500回を数え、そのうち約9700回の空爆が行われ、およそ6000の標的が破壊された。NATO軍の空爆には精密誘導爆弾が使用されたと言うが、こうした兵器には十分な誤差があり、「誤爆」もそれほどめずらしいことではない。また、通常爆弾が使用されなかったわけではない。地上では、豊富な武器弾薬を供給された反乱軍が、空爆の支援を受けながら、市街地に徹底的した砲撃を加えた。

空爆と砲撃により、諸都市の基幹インフラは壊滅し、多くの住居が破壊され、医療機関も機能しなくなった。死者は3万人とも見積もられている。15万人という記載もある。NATO軍と反乱軍が引き起こしたこれらの事態こそ、正真正銘の人道危機ではないのか。」

出撃回数26500、空爆回数9700、標的破壊回数6000。これで民間人の犠牲者無し、とか、民間人犠牲者数40~70人などという言説をいったい誰が信じるだろう。こういう白々しい嘘をよくつけるものである。国連は犠牲者の把握にまだ手を付けていないのであれば、ロシアのヴィタリー・チュルキン国連大使の主張どおり、死者数、負傷者数を徹底的に調査し、世界中に発表しなければならない。他国の国内問題に一方の味方として率先して介入し攻撃を加えたのだから、それがどのような結果を生んだのか最後の最後まで責任を持つのは当たり前で、このままでは無法者ーー彼らのいうテロリストの所業そのままだろう。国連の事務総長は特にこういう調査のような任務には職務上の責任を持つべきなのではないかと思うが、現在の事務総長は何事においても欧米の言いなりに動く人物のようで、そのおかげか先日米国から絶賛されていたが、一方、 訪問先のガザではデモ隊から靴を投げられたそうである。

ロシアのチュルキン国連大使の発言で最も気になるのは、「NATOがリビアで行われた作戦を「成功」と考え、今後も同様の作戦の使用を提案している」という箇所である。4日、国連安保理でシリアに対する制裁決議案はロシアと中国が拒否権を行使して否決されたが、日本のメディアも欧米と同様ひどく不満そうである。下記の毎日新聞の記者は「 住民の犠牲が拡大する中、安保理が機能不全ぶりを露呈する結果、となった 」と述べている。

「  シリア:国連安保理での決議案否決 機能不全ぶりを露呈
【ニューヨーク山科武司】国連安全保障理事会(15カ国)は4日、反体制派への武力弾圧を続けるシリアのアサド政権に対し人権侵害・暴力の即時停止などを求める決議案を採決した。13カ国が賛成したが常任理事国のロシアと中国が拒否権を行使し決議案は否決された。シリアについては昨年10月にも安保理の非難決議案が中露の拒否権行使で否決されている。住民の犠牲が拡大する中、安保理が機能不全ぶりを露呈する結果、となった。
 決議案は欧米とアラブ諸国が共同提出した。採決後、ライス米国連大使は中露の拒否権行使を「うんざりだ」と断じ、「シリア人民を裏切り、臆病な独裁者を擁護する行 為」と非難した。グラント英、大使も「シリアの殺人機械(アサド政権)による300日の抑圧の中でも、最も恥ずべき日だ」と厳しく批判した。
 一方、ロシアのチュルキン大使は「決議案は一方の勢力に肩入れし、政権交代を狙ったもの」で内政干渉だと説明。中国の李保東大使も「まだ協議の余地がある。今、採決の必要はない」と述べた。
 決議案は、アサド政権に大統領から副大統領への権限移譲などを求めたアラブ連盟の行程表(1月22日決定)を「全面的に支持」し、暴力と人権侵害の停止や都市部からの軍撤退などを要求。従わない場合、「さらなる措置を検討する」とした。
 最終案が2日、まとまったが、ロシアは4日、改めて「全面的な支持」をさらに弱めるよう要求し協議続行を主張。常任理事国5カ国が採決前、最後の交渉を続けたが、 溝は埋まらなかった。 」(毎日新聞 2012年02月05日)

3日から4日にかけてのリビア国内の武力攻撃を伝えるNHKの記事は次のとおり。

「 シリア “弾圧続き死傷者多数”
 シリアの人権活動家によりますと、中部の都市ホムスでは、3日深夜からシリア軍による激しい攻撃が行われ、去年3月に反政府デモが始まって以降、最悪となる300人が死亡したということです。これについてサウジアラビアで反 政府デモを支援している活動家はNHKの取材に対して、「政府軍は迫撃砲や ヘリコプターで無差別攻撃を行った。建物のがれきに埋もれた人々の捜索が続いているが、狙撃兵が配置されている場所もあり作業は難航している」と話しています。一方、シリア国営テレビはホムスへの攻撃について、「シリア軍ではなくテロリストの仕業だ」と伝えています。ホムスでは、大勢の市民が参列して犠牲者の葬儀が行われましたが、市内での軍による武力弾圧は4日も続き、 多くの死傷者が出ている模様です。今回のホムスでの弾圧を受けて、チュニジア政府は、シリア大使を召還する手続きに入ったことを明らかにし、シリアに対する周辺のアラブ諸国からの圧力がさらに強まることも予想されます。
 アメリカのオバマ大統領は声明を出し、「アサド大統領が人命をどれほど軽視しているかを示す行いだ」と非難しました。そのうえで、「市民を虐殺する政府に国を統治する資 格はない。アサド大統領は国民を殺害し続けるのをやめ、 民主化への移行が直ちに行われるよう退かねばならない」として、アサド大統領の退陣を求めました。 ( NHK 2月5日)

NHKの場合は一応「一方、シリア国営テレビはホムスへの攻撃について、「シリア軍ではなくテロリストの仕業だ」と伝えています。」と政府側の主張も報じてはいるが、その直後に「 ホムスでは、大勢の市民が参列して犠牲者の葬儀が行われましたが、市内での軍による武力弾圧は4日も続き、 多くの死傷者が出ている模様です。 」と述べているので、これでは、シリア政府の主張は嘘ですよ、と言わんばかりだ。しかし、リビアでは政府を支持する市民のデモも多数回行なわれている事実を日本のメディアはまったく知らないなんてことがありえるのだろうか?ブログ「media debugger」には「シリア人の圧倒的大多数は、イスラエルや日本、ペルシア湾岸の 親米独裁国家を含むNATO側諸国による「人道的介入」/「保護する責任」の履行を正当に拒否して、過去数カ月にわたって自決権を掲げる大規模なデモを繰り広げている。」と記述され、大規模な自決権デモの様子を伝えているサイト「グローバル・リサーチ」が紹介されている。 それからこちらの動画も参考になる。さて、NHKの報道内容と同じ事実について「ロシアの声」は次のように報道している。

「 シリア ホムスの目撃者が糾弾「反体制派、アル・ジャジーラは虚言」
 シリアのホムス市で政府軍による大量虐殺があったとされる報道を受けて、ロシアの声は同市の市民カマリ氏と電話インタビューを 行った。これについてカマリ氏は「シリア軍はホムスを砲撃していない。これは反体制派の武装集団が行った」と証言している。

 マスメディアはホムス市で大量虐殺があったとしているが、何があったのか?

 昨夜(3日)テレビで恐ろしい映像を見た。私の住む地区の人たちの死体が映し出されていたが、彼らは誘拐され、殺されていたの だ。

 誰が誰を殺したのか? シリア軍か、それとも別の誰かが殺したのか?

 これは武装集団、自称「自由軍」のならず者たちだ。

 死者らの中に知り合いはいたのか?

 もちろんだ。その多くが私の友人で親戚もいた。兄弟、従兄弟たちの姿も…。彼らは死体となっていた。この人たちはみんな武装集団によって誘拐されたもので、殺され、今、死体となって映し出されたのだ。私はアル・ジャジーラ、アル・アラビアを糾弾する。彼らはこのおぞましい殺戮に加担したのだ。彼らは2度の殺戮を行ったことになる。最初は命を奪い、2度目はその名誉と人間の尊厳を奪った。その死体を公開し、嘲笑することで。

 それでは軍はどこにいるのか?

 軍はここにはこなかったし、今もいない。昨日テレビは軍隊とならず者の衝突があり、撃ち合い、破壊行為があったと報じたが、とんでもない! これはすべて武装集団の手によるもので、彼ら自身が町を攻撃し、40発を超えるロケット弾が発射された。町の各所で200発ほどの対戦車ロケット弾の炸裂する音が響いている。シリア軍の関係者らは私たちと同じように射撃、爆撃から身を隠していた。火の雨が降ったようだった。テレビが伝えていることは全て嘘だ。 」(「ロシアの声」2月5日)


「 シリア ホムス市民の目撃証言 政府軍の砲撃報道を否定
 国連安保理で対シリア新決議案が検討を開始される数時間前に、世界のマスコミにはシリアで軍の戦車隊がホムス市を砲撃したニュースが伝わった。砲撃による犠牲者の数は200人を超えている。ロンドンを拠点とするシリアの人権団体「シリア人権監視団」はこの事態を「大量虐殺そのもの」と非難し、アラブ連盟の即刻介入を求めた。
 これに対しシリア政府はホムス砲撃の報道を否定している。アルジャジーラ、アル・アラビアのテレビ報道では街頭に並ぶ数百人の死体の映像が流されたものの、政府はこれを「武装戦闘員によって誘拐、殺戮された市民」だとコメントしている。
 ロシアの声の記者がホムスにいる市民と電話連絡を行ったところ、反政府派の武装戦闘員らが深夜、アメリカ軍部隊、治安部隊の配属場所を銃撃したという目撃証言が得られた。最も激しい攻撃が行われたのはホムス市のザハラ・アルマン・カルムロス地区で、目撃者らは、テレビ映像の死体のうち、少なくとも数体は前もって誘拐された市民のものだと語っている。 」 ( 同 上 )

国連安保理でシリア制裁についての採決が行われる直前にシリア国内の蛮行が猛威を振るう結果になったのは偶然だろうか? シリア政府が仕掛けたとしたら、政府は国連安保理に対して絶好の介入の機会を提供することになるのだから、これは常識的に考えてまずありえないことではないかと思う。それにしてもNATOの先行きが不気味に感じられる。

2012.02.05 Sun l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
「 堺市の竹山市長が「大阪都構想」について「議論する協議会に参加しない」と表明しま した。
 大阪市の橋下市長は「平松前市長と同じ」と堺市長を批判しています。
 松井大阪府知事、橋下大阪市長のもとを訪れた堺の竹山市長。
切りだした内容は…
 「2月の議会で(協議会設置の条例を)上程させていただくことは、今回は難しい」 (堺市 竹山修身市長)
 「大阪都構想」について話し合う協議会への参加を見送るというのです。
 「大阪府と堺市の間に二重行政ないと思ってます。今の政令都市よりさらに権限と財源がほしい」(堺市 竹山市長)
 政令市に昇格してまだ6年の堺市が、「大阪都」によって分割されるのは納得できないという竹山市長に対し、橋下市長は…
 「非常に残念です。平松前市長が言っていた主張と竹山市長が同じことを言い始めた。『独自で行くんだ』と。首長(市長)になってしまうと、独自でやりたくなってしまう」 (大阪市 橋下徹市長)
 あきらめきれない橋下市長は、今後も粘り強く、竹山市長に協議会への参加を呼び掛けたいとしています。」 (02/03 22:38) (MBS 毎日放送)

上の報道のように堺市の竹山市長は大阪都構想の協議から降りると表明したそうだが、これは自然の成り行きではないかと思う。別の報道記事によると、市長は都構想に対して「民意もない」とも述べたそうだが、普通に考えてそのとおりではないだろうか。というのも、私は神奈川県在住の者だが、もしも川崎や横浜という都市が人口が多すぎる、二重行政で不効率だ、などの理由で消滅させられて県によって吸収・分割されるという話が出てきたとしたら相当な戸惑い・抵抗感をおぼえるにちがいないと思う。愛着( 住民にとって愛着の程度は府(県)と市(町村)では具体性において差異がある)も無視できないが、それよりも、権限も財源もこれまでよりずっと縮小させられ、端的にいって自主権を奪われることになるのだ。たとえば、政令指定都市の場合、府県知事を通さずに独自に国と交渉ができるそうだから、その権限の大きさと自治体としての独立した性格が分かろうというもの。都構想は堺市の側に立って考えてみれば、ほとんどメリットのない話のように思われる。これは大阪市にしても同様ではないだろうか。

村上弘氏の「『大阪都』の基礎研究 ー橋下知事による大阪市の廃止構想ー」によると、専門家の間では、東京都制は太平洋戦争の勃発がなかったらおそらく実現できなかっただろう、と言われているそうである。1943年の都制導入は戦争遂行のための国民統制・支配の必要上それまでの東京市より東京都という集権体制のほうが国にとって都合がよいという理由によるもので、決して住民の福利や生活向上、東京の発展のためではなかったということである。また先進国にかぎることだが、東京都のような都区制度を採用している大都市は世界のどこにも見られないそうだ。そりゃあ、基礎自治体の当事者にとっては権限も財政も他の一般的な自治体より小規模にさせられるのだから勘弁してもらいたい制度だろう。東京都特別区は現在も法人税、市民税の徴収の権限は付与されておらず、東京都から配分してもらっているのだ。戦後の東京の発展は都制度によるものではなく、首都機能によるものであることは明らかであるように思われる。

橋下氏は「平松前市長が言っていた主張と竹山市長が同じことを言い始めた。 『独自で行くんだ』と。首長(市長) になってしまうと、独自でやりたくなってしまう」と述べているが、この言い方はじつにヘンだし、平松・竹山の両氏に失礼だろう。もし、これまで府と大阪・堺市が合併してそれなりに実績を積み上げて上手くいっているところに市側が基礎自治体として独立したいと言い出したのならまだ橋下氏の言い分も分からなくはないが、これまで大都市自治体として実績を積んできた市に対して合併を強硬に言い出したのは知事時代の自分のほうだったろうに。このような無神経で自分勝手な言い分を聞いていると、橋下氏こそ府知事になったことで大阪市や堺市が持つ権限や財産を府のものにして『独自にやりたくなった』のではないかと言いたくなる。

もちろん橋下氏は都構想について大阪全体の発展のためと称しているし、主観的にはそうにちがいないだろう。が、堺市長は「大阪府と堺市の間に二重行政ないと思ってます。」とも発言している。この発言からは、そもそも都構想が生じた原因の一つであったはずの「二重行政の除去」について府と市の間できちんと詰めるというような作業はこれまでやったこともないし、大まかな共通認識さえ築いてきていないらしい様子が伺える。してみると、橋下氏が大阪市を(可能ならば堺市も)廃止しなければ大阪全体の発展につながる政策はできないという政策とはどのようなものなのか? 第三者は本人に具体的な構想を語ってもらうしか知りようがないし、これだけ重大な課題なのだから橋下氏にはもうそろそろ公的にきちんと語る必要も責任もあるだろうと思う。
2012.02.04 Sat l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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