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 菊池寛宛の書簡

後の世代の者である私の目から見ると、中野重治が、一般的にこれは後ろ指(批判ではなく)をさされても仕方ないと考えられることがもしあるとすれば、戦争末期の42年、発会が決まった日本文学報国会に自分も入会したいという趣旨の書簡を菊池寛に書き送ったことくらいではないかと思う。この件は、ウィキペディアの「中野重治」には次のように記述されている。

「太平洋戦争開始時、父親の死去による帰省中だったために検挙をまぬがれた。戦時下も『斎藤茂吉ノオト』などの作品を発表した。文芸家協会の日本文学報国会への改組にあたって、自分の過去の経歴 (左翼活動)のために入会を拒まれるのではないかという不安におそわれて、菊池寛に入会懇請の手紙を送っていた(後に、手紙を保管していた平野謙によって暴露された)。」

後年、平野謙は中野重治のその行動について、中野は内務省警保局による38年の執筆禁止令につづく再びの執筆禁止令を恐怖したのではないかという指摘をしている。中野重治は全集の何巻だったか「著者うしろ書」のなかで平野謙のその指摘について触れ、そうではなかった、作品を発表できるかどうかなんてことはふらついた精神状態だった当時の自分には問題にもならなかった。自分が恐れたのは、ひたすら治安維持法による逮捕拘禁だった、という趣旨のことを書いていた。真珠湾攻撃の際、中野の東京の自宅には官憲が踏み込んだそうだから、故郷に帰省中でなければ当日逮捕されたことは間違いない。そういうなかにいた中野には、太平洋戦争の開戦をうけて多くの物書きが口々に洩らした、スッキリした、これでスッキリした、という発言はまったく別世界の出来事にしか思われず、心底コタエタらしい。そのような情勢のなかで中野重治は文学報国会入会が拒否されるようなことがあれば、それは即逮捕拘禁につながると思ったようである。

真珠湾攻撃から半年後の1942年5月にひらかれた文学報国会の発会式についても中野重治はどこかに(そのうち調べておきます)書いていた。その日の会場で大勢のなかに混じって乞食のように惨めな気持ちで式典を見上げていたこと、壇上に多くの作家たちが並ぶなか東條英機がその前に立ってあいさつを行なったこと、そのなかで東條が、爾来文学というものは天才の仕事でありまして…、という言葉を発したとき、その背後に隣り合って立っていた武者小路実篤と徳田秋声がわずかに身体を動かし、下を向いたまままチラと目を合わせて苦笑いしたこと、その光景がその日の自分にとって唯一の慰めであったこと、などを書いていた。
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2012.05.30 Wed l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
「慟哭」をGoogleで検索してためしに一行目のサイトをクリックしてみると、目に飛び込んできたのは「「慟哭」(どうこく)は、 工藤静香 通算18枚目のシングル 。 1993年2月3日発売。発売元はポニーキャニオン 。」という文字…(笑)。そんな歌があるとは今の今まで知らなかった。作詞は中島みゆきだというから、普通の恋愛歌なのだろう。間違っても臣民や右翼が天皇や国家を思って泣くというような内容の歌でないことは確実だ。次に「慟哭」の意味について検索してみたら、「悲しみのあまり、声をあげて泣くこと。」とある。おもしろいと思ったのは同じサイトの「類語」の項目で、 そこには「号泣(ごうきゅう)/慟哭(どうこく) 」と出ている。

「[共通する意味] ★大声をあげて激しく泣くこと。
 [使い方] 〔号泣〕スル ▽妻の遺体にとりすがって号泣する若い夫
      〔慟哭〕スル ▽父の訃報(ふほう)をきいて慟哭する青年
 [使い分け] 「号泣」は、大きな泣き声で泣くことをいい、「慟哭」は、激しい動作で泣くことをいう。(提供元:「類語例解辞典」) 」

これを見ると、「慟哭」という名詞にも時と場所に相応しい適切な使い方がちゃんとあった(ある)わけである。決して初めから国家主義者の専用語ではなかったのだ。江藤淳は『昭和の文人』で「慟哭」を強引に中野重治に押しつけて自分一人で陶酔しているように私には見えたが、ああいうふうにある特定の言葉に対して特異な情念や意味を含有させるやり方は、そもそもは戦前の30年代後半から40年代にかけて活躍した京都哲学派と日本浪漫派の人々によって始められたようである。加藤周一の「戦争と知識人」(1959年)には次のように記述されている。

「 私はここで戦歿学生の手紙(引用者注:遺稿集『きけわだつみの声』収録のものだと思われる。)を引用しない。しかし愚かないくさのなかでの避け難い死に、何とかして意味をあたえようとしたとき、多くの手記の筆者たちがより所とせざるをえなかったのは、何よりも京都の哲学者と日本浪曼派の仲間であった、ということだけを指摘しておきたいと思う。
 それならば京都学派と日本浪曼派は、どういう論理で「大東亜戦争」を讃美し、絶対化しようとしたのであろうか。

3 日本浪曼派と京都哲学
 2.26事件(1936年)以来のファシズム「新体制」を正当化し、中国侵略戦争と太平洋戦争に理論的支持をあたえようとしたのは、日本浪曼派と京都哲学の一派だけではなかった。一方には狂信的な国枠主義者があり、他方には官立大学の御用社会学者があり、弾圧によってジャーナリズムが整理されていった後には、ほとんどすべてのジャーナリズムがただそのためにのみあった。しかしすでに繰り返し指摘してきたように、太平洋戦争の段階で戦場に追いたてられた世代の知的な層にとって、いちばん深い影響をあたえたのは、おそらく日本浪曼派と京都哲学の一派であった。
 日本浪曼派は反合理主義的な立場から、明瞭に定義することのできない言葉を駆使して、読者の情念に訴え、戦争の性質を分析せずに、戦争支持の気分を煽りたてた。保田与重郎はその意味での名手であったろう。浅野晃、芳賀檀、そして亀井勝一郎がこれに加わる。そこでしきりに用いられたのは、たとえば、「悲願」「慟哭」「憧憬」「勤皇の心」「悠久のロマンチシズム」「民族といふ血で書かれた歴史の原始に遡る概念」というような言葉であった。「悲願」という言葉は今でものこっていて、「原爆実験の禁止は国民の悲願である」などという。要するに、その論理的内容は、原爆実験をやめてもらいたいと日本国民が思っている、ということにすぎない。「慟哭」というのは、つまり泣くことである。大へん悲しんで泣くことだといってもよかろう。日本浪曼派の魅力の半分は、「大へん悲しんで泣く」といったのでは何の変哲もない事柄を、「慟哭する」ということで有難そうにするしかけ以外にはなかった。それにひっかかったのは、戦争中だろうと何だろうと、ひっかかった側に物事を正確に考え正確にいいあらわす習慣が足りなかったからである。こういう安上りなしかけで理窟らしい理窟のできあがるはずがない。
 しかし亀井勝一郎は、日本浪曼派式方言を使いながらも、とにかく理窟らしいものをつくりあげた批評家であった。中国侵略戦争に対するその見解は、たとえばつぎのようなものである。
「人間にとって求道は無限の漂泊であり、恐らく死以外に休息はあるまい。……たとへば我らの現に戦つてゐる支那事変そのものが、実は親鸞の教の真実を語つてゐるのだ。領土も、償金もいらぬ、云はばいかなる功利性をも拒絶した上に、今度の事変の理想がある。求めるところは東洋の浄土に他ならない。」(1941年6月講演)
 だから支那事変は、「民族の壮大な運命」であり、「天意として敬虔に享けねばならない」ものだということになる。」(『加藤周一著作集 7』平凡社1979年)(強調の下線はすべて引用者による。)

このような経緯と内実をもつ「慟哭」という言葉を中野重治に被せることの不当・不適切さは明らかだろう。ちなみに、加藤周一は医学部の学生として26歳で敗戦を迎えている。少年のころから反戦の意識をもっていたという加藤周一には京都の哲学者や日本浪漫派の人たちが用いる「悲願」「慟哭」「憧憬」「勤皇の心」などの言葉は自分たちを戦場に従順に引きずり出すために用意された、それにしてはお粗末な子ども騙しの理屈以外には見えなかったようである(ほぼ同様のことを加藤周一より5歳ほど年下の吉行淳之介もエッセイで何度も述べているが…)。その加藤周一が戦時中熱心に読んでいた現役の作家は、石川淳や林達夫とともに中野重治だったという。中野重治の「転向」という事実は、「村の家」という作品とともに転向作家と言えば中野重治というくらいによく知られていることだが、「村の家」を読むと中野重治は2年を経た獄中暮らしのなかで発狂の恐怖にとらわれるようになっていることが感じとれる。正直に言って中野重治のあの転向の仕方は中野の関係者を別にすれば、それを他人が責めることができることのようには思えない。

「中野の関係者を別にすれば」と先に述べたが、これとてもそう簡単に何かを言い切ることはできないだろう。石堂清倫氏の「「転向」再論ー中野重治の場合」によると、中野は1932年4月4日に逮捕され、 およそ2年後の34年5月26日に法廷で、「日本共産党員たることを認め、共産主義運動から身を退くことを約束」して、執行猶予で出獄しているが、「党の組織関係については一貫して陳述しなかった」とのことである。

当時の日本共産党中央委員には何人もの公安のスパイが潜り込んでいて、実質的には党は潰滅状態、個人の党活動は逮捕されるがためのものになりはてていたという。その他に当時の共産党の方針がどれだけ正しかったかという問題もあるだろう。石堂氏の諸発言のなかで驚かされるのは、共産党は天皇制廃止を党是に掲げながら、かつて党員の誰一人として、「天皇制イデオロギーの基本文献である」軍人勅諭、教育勅語に対する綿密な批判を試みた人物はいなかったということである。石堂氏は「支配階級は軍隊でも学校でもあらゆる機会に反復して教えこんでいる」のだから、「この有様では反天皇制の運動が「転向」として終わるのは必然であった。」と述べている。その他にも石堂氏は重要な問題点をいくつも(たとえば、日本人の愛国心が支配階級のみならず、社会主義者や共産主義者にあっても初めから排外主義的であったこと、など。)説得的に指摘されているが、そのようななかで獄中の中野重治があれ以上無理をしなかったのはよかったのではないか、むしろあれは適切な判断だったのではないか、と外野のそれも素人考えではそう思えたりする。

石堂氏の文章からの引用になるが、中野重治は自身の「転向」について「 僕が革命の党を裏切りそれにたいする人民の信頼を裏切つたという事実は未来にわたって消えないのである。」と述べて、自分の行為の非を認め、あるいは責めているが、同時に「それだから僕は、あるいは僕らは、作家としての新生の道を第一義的生活と制作とより以外のところにはおけないのである。」「もし僕らが、みずから呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的綜合のなかへ肉づけすることで、文学作品として打ち出した自己批判をとおして日本の革命運動の伝統の革命的批判に加われたならば、僕らは、そのときも過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮べたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。」と、文筆活動をとおした闘いへの決意を述べている。また、小説「村の家」で転向して戻ってきた息子の勉次に対して「筆を棄てて百姓をやれ」と説く父親に対して勉次は結局「よくわかりますが、やはり書いていきたいと思います」と答えている。

もちろん中野重治ひとりにかぎったことではないが、中野の場合の「転向」もこのようにさまざまな背景・要因・事情をふくみ持つのに対して、『昭和の文人』において江藤淳はそれらを一切がっさい無視して「転向=天皇の臣民への転向」という単一の図式にはめこもうとしている。前回のブログで1961年時における中野重治の江藤淳に対する批判を紹介したが、中野のあの批判はその後の江藤淳に対しては何らの影響も効果ももたらさなかったように思える。江藤淳は中野重治について「終生廉恥を重んじ、 」と述べているが、確かに中野重治はそういう人だったのかも知れない。佐多稲子の『夏の栞 ー中野重治をおくるー』(新潮社1983年)には、こんな場面が描かれている。最期の入院をしていた中野重治のもとを親しい人たちが訪れて、ロビーに詰めている。そこで、新しく出す本(多分、中野重治全集28巻のうちの最後の一巻のことではないかと思う)の題名について、編集を引き受けていた人物(松下裕氏)が、他の人に次のような話をしている。

「今度の本の題のことで、わが生涯と文学、というのはどうでしょう、と僕が云ったんですが、中野さんは、生涯、というのに一言ありました。自分から、生涯、と云うことに抵抗があるようです」

傍でそれを聞いていた佐多稲子は、「それは中野の感覚だ、と同感しながら、しかし私は何も云わず、…」と書いている。それからこういうこともある。中野重治全集第24巻に「原鼎あて河上肇書簡」(初出『展望』1967年)という題の文章が載っているのだが、ここで中野は河上肇の「晩年の生活記録抄」(河上肇全集第12巻)に出てくる「×さん」の「×」は誰であるかを推理している。要は、中野はこの「×」と伏せ字になっている人物は「原鼎」ではないかと推理し、そういう自分の推理のゆえんを河上肇から原鼎あてに出された多くの書簡や河上肇の日記に出ている原鼎についての叙述を引用することによって証明しようと試みているのである。なぜ中野がそういう試みをするのかといえば、原鼎という人物は中野の亡き友人(高等学校時分の後輩)だったからなのだが(その前提に河上肇の人と学問への中野の敬意があることは言うまでもない。)、この推理を述べるにあたって、中野は次のように書いている。

「むろん、河上さんも亡くなり奥さんも亡くなって、私はつつしみ深くあらねばならぬことを知つている。」

実際中野がここで展開している推理は無理のない穏当で節度あるものにちがいなく、内容には真情あふれる豊かさが感じられる。これらのことは江藤淳が述べるように、「廉恥を重んじ」る人の姿が彷彿とするエピソードだと思う。しかしながら、そういう中野について江藤淳は「終生廉恥を重んじ、 」と書いた後、すぐ「慟哭を忘れることがなかった。そのような中野重治の文業に対して、私はほとんど自らの慟哭を禁じ得ぬ思いであった。」とつづけているのだから、こういうところをみると、私には、こちらのほうは「廉恥を重んじ」る姿勢を持ち合わせていなかったように思える。中野重治はその文章や論理の展開について「執拗」とか「ねちねちとしている」とか「例によつてことばに異常なこだわりを示しながら」などとたえず人に言われながら、そういう相手に対して、たとえば「むしろ私は、土井こそ、まして「詩人」として、せめて常識程度には言葉にこだわれと言いたい。」(「誤解と誤解主義」全集24巻)などと言い返している。そういう中野重治の言葉に対する鋭敏なこだわりに江藤淳が配慮した様子が全然ないことにもちょっと驚かされる。

中野重治が「五勺の酒」を発表したのは1947年1月だから、敗戦からちょうど1年半後のことになる。その1年半の間に中野重治がアカハタなどに書いた文章には下記のものがふくまれている。「五勺の酒」を読む場合にも(江藤淳の中野重治論を読む場合でも)何かと参考になるかと思うので、引用しておきたい。


 ○ 租税と御下賜金
 わが天皇は今度税金を納めることになつた。わが天皇は、財産家として財産税を、戦時利得者として戦時利得税を納めることになつた。結構と思う。間違いなくそれを納めればそれだけ天皇は一人前の人間に近づけるわけだ。納税義務の履行ということで、特に戦時利得税の完納ということで、天皇は、戦時利得者としての責任の一部を正当にはたせるわけだ。
 そこでわが天皇は、その納税の意義を正しく理解せねばならぬと思う。大蔵大臣が、これを税金として扱うか御下賜金(ごかしきん)として扱うかまだ決つていないなどいつているけれども、税金は個人のほしいままな施与(せよ)ではない。税金は寄付金ではない。納税は義務であり、その不履行は法的に罰せられるのだ。国民はすべてかくのごときものとして苦しみつつ税を納めているのだ。
 天皇はこのことをよくよく理解せねばならぬ。万が一税金と御下賜金とをすりかえるようなことがあれば、それは国民にたいする最大の侮蔑であることを知らねばならぬ。

 ○ 実地と空想
 明治元年、天皇は牧場を入れて2万2千町歩もつていた。明治21年までそれが続いた。この年、天皇は国の土地90万8千25町歩を盗んだ。それから自分の土地29万5千町歩を出して、国の土地82万7千町歩を盗んだ。23年、国の土地200万町歩を盗んだ。27年、そのうち63万町歩を残してあとを売つた。別に23年、101万588町歩を自分用ときめた。そこで明治27年、その所有総反別、牧場を除いて360万町歩となつた。21年から27年までの7年で、彼はそれまでの所有土地の163倍を盗んだのであつた。
 これは帝国学士院の推薦で有栖川宮記念学術奨励金をもらつて皇室経済史を研究している奥野高広という学者が書いている。7年で164倍にした土地をその後の43年で何倍にしたか、その現在高が正確に知りたい。
 東京の宮城は65万7千111坪ある。京都の皇居は27万629坪ある。東京の宮城へ畑15坪建坪15坪の家を建てると2万2千軒ほど建つ。一戸5人として人口11万の美しい町が建つ。そこへ子供づれの戦災者たちを薪炭つきで住まわせたい。

 ○ 天皇と戦争犯罪責任
 政府――天皇の任命した幣原内閣――は、国民には戦争責任がないと言明した。逮捕された戦争犯罪容疑者たちは、しやべる機会があつたかぎり、彼らには戦争犯罪責任がないと主張した。フィリピンの山下などは、死刑の宣告後までも自己の無責任を主張した。それから貴衆両院の議員たちは、議会そのもので、彼らの無責任を主張した。
 国民に責任のないことは明らかだ。しかし政府が言明したのは、国民から追いつめられての結果だ。「一億総懺悔」が、国民から手ひどくしつぺ返しをくつた結果だ。しかしとにかく政府は言明した。戦争犯罪責任は国民にはない。国民はだまされ、威嚇され、戦争に駆りたてられただけなのだから。それから山下らは主張した。彼には責任はない。彼および彼らはただ「命(めい)のまにまに」戦つただけなのだから。それから逮捕された連中、「重臣」とその連類とは主張した。彼らには責任はない。彼らは強制されたのだから。彼らは「内心」戦争に反対だつたのだから。彼らは強制によつて自己を枉(ま)げたものではない。暗殺さえ彼らは恐れなかつた。ただ宣戦が天皇によつて布告されたため、「承詔必謹」の「臣道実践」においてそれに従つたまでなのだから。議員連中も同じく主張した。彼らには戦争責任がない。その理由は、――その理由は何だかわからなかつた。
 そこで戦争犯罪責任が国民にはないことになつた。将軍連にもないことになつた。「重臣」連にもないことになつた。議員連にもないことになつた。戦争犯罪責任はどこへ行くか。どこへ行くことができるか。
 逮捕された容疑者連中、現職の大臣連中、将軍連中、重臣連中によつて、戦争犯罪責任は、集中凝固して天皇に帰せられた。近衛などは、最も卑劣な証拠摩滅によつてそれを天皇に帰した。
 天皇の重臣、天皇の政府の大臣、天皇の軍隊の将軍、天皇の議会の議員、この連中がよつてたかつて、天皇を戦争犯罪の主犯の位置に追いあげたことは興味がある。彼らは天皇制擁護を叫んでいる。同時に天皇を戦争犯罪人の主犯の位置に追いあげている。

 ○ 憎悪と破壊
 売国奴的天皇政府批判の言葉をすべすべしたものにしようとする試みは正しいか。天皇制打倒の理論から天皇制にたいする無限の憎悪、呪いをひきぬこうとする試みは正しいか。共産主義者は愛せられねばならぬという言葉を共産主義者は敵からも愛せられねばならぬという言葉にすりかえようとする試みは正しいか。すべてこれらの試みは足腰たたぬまでに叩きのめされねばならぬ。
 国民の敵を国民の敵として国民の前に正確につるしあげよ。共産主義者の仕事は敵のカを破壊することだ。敵の組織、その機関、その活動、その反撃を先手をうつて破壊せよ。破壊という言葉が、軍国主義者、官僚、大資本家、大地主の連合軍によつて国民にたいする彼らの暴力活動の口実につかわれるかもしれぬことを恐れるな。破壊の実行が、口実につかう力をも敵からうばうのだ。憎悪と呪狙、破壊と荒療治、このことに責任を感じよ。売国奴的天皇政府をいまなお存続させておくことにたいする火傷をするような恥と悲しみ、そこに革命家、主義者があるのだ。

 ○ 道徳と天皇
 国民は道徳をもとめている。目のまえが苦しくとも、一本の道徳が、国民生活の全面をつらぬくことをもとめている。看板だけのぬりかえ、民主主義への擬装をにくむのも、それによつて国民生活が道徳的に腐らされるからだ。「無理が通つて道理ひつこむ」かぎり、鷺が烏で通るかぎり、まじめな国民の努力の根、そのたましいの支えが失われるからだ。あらゆる偽ものが、あの手この手と苦しい言いわけをしているのも、道徳をもとめる国民の声、その純粋の力に服せざるをえぬからだ。
 しかしあらゆる偽ものも、天皇ほどのずうずうしさをみせたものは一人もない。きのうは神、きようは人間というほどの烏ぶりをみせたものは一人もない。元旦の詔書ではおくびにも戦死者にふれず、たちまち供出強制令、金融資本救済令に判子をおし、その手で、背広にきかえて宮廷列車で戦災地見舞い(?)に出かけたほどの贋金ぶりをみせたものは一人もない。天皇は贋金つくりの王である。この点こそ国民道徳の腐敗源である。 」
2012.05.28 Mon l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
「  入れ墨調査実施せず、橋下市長が市教委を批判
 橋下徹大阪市長は25日、市教育委員と意見交換し、「プライバシー侵害のおそれがある」などとして市教委が入れ墨調査を実施しないと決めたことについて 「入れ墨のある教職員がいたらどう責任を取るのか」などと強く批判した。
 調査は橋下市長の発案で市長部局の全職員に実施。だが市教委の同意が得られず市立学校の教員らには行われていない。橋下市長は「行政職員より、教職員に入れ墨がある方が 『ちょっと待ってくれ』というのが保護者の感覚」と主張。「教委は労務管理の責任者であることを認識してほしい」と迫った。
 これに対し、教委側は「学校では過去に入れ墨関連の不祥事はない。魔女狩りのような調査は信頼関係を崩す」などと反発した。」 (朝日新聞 2012年5月25日)

大阪市教育委員側が主張するとおり、入れ墨調査は「魔女狩り」に他ならない。調査をした結果かりに入れ墨を施している教職員が存在したとしたら、橋下氏はその人をどうしようというのだろう。血祭りに挙げて当面の話題にでもするつもりなのか。しかし、入れ墨をしている人がいようといまいと、調査の執行自体が、教育現場の環境と人間関係を根底のところで破壊するだろう。教職員、生徒、保護者はそれぞれ心の深部に傷を負うだろう。それほどこのアイディアは非情かつおぞましいものである。2、3ヶ月前、大阪のどこかの中学校の卒業式では、君が代斉唱の際、校長サイドは教職員が起立しているかどうかの監視だけではあきたらず、きちんと声を出して歌っているかどうかの口元チェックを行なったのだという。

その報道は今思い出しても心が暗欝になるおぞましい話であった。人の心のなかに土足で入り込む、という表現があり、このことの非人間性についてはよく批判の的になるが、口元監視については他人の心のなかに土足で入り込もうとすると同時に、口という他人の身体のなかまで監視し、スキあらば侵入しようとする蛇のような執拗さが感じられた。この入れ墨調査はその延長線上の出来事である。君が代、入れ墨ときて、次はどんな挑発・脅迫が待っているのだろう。そのうちご真影への敬礼とか言い出してもおかしくはない流れ・雰囲気である。政府や自治体の長による国民・住民へのどんな憲法違反が行なわれてもマスコミにはそれを指摘し検証する職業意識も気概もない。現状は好き放題やりたい放題の者の天下である。いったい口元チェックだの入れ墨調査だのを、対象の意思を無視して平然と実行する政府や自治体が世界のどこに存在するのだろう。学校の入学・卒業式に国歌を歌うという国さえ私は聞いたことがないのだが、歌わなければ処罰という国が他にどこかにあるのか、マスコミは調査して教えてほしいものである。

児童・生徒は、日々学校で多くのことを学んで成長していかなければならない存在である。そういう児童・生徒は自分たちが日々教わっている教師が国歌斉唱で監視されたり、入れ墨調査などをされているのを見て、何を感じるだろうか。教師が人間としての尊厳、個人としての個性にまったく敬意を払われていないことは明らかなのだから、そういう教師を子どもたちが心底から尊敬したり慕うことが可能だろうか。多かれ少なかれ、その心情に翳りが生じることは避けられないように思う。橋下市長は、市教委に対し、「入れ墨のある教職員がいたらどう責任を取るのか」などと強く批判したそうだが、「入れ墨のある教職員がいた」からといって、その教員が入れ墨を盾に人を脅したり、犯罪を犯したりするのでなければ、何の問題もない。昔、小説家の永井荷風は女性の名前を腕に彫っていたそうだが、慶應大学で講義をしていた。入れ墨がある人間が教壇に立つのはけしからぬなどと愚劣でヤボでギスギスしたことを言う人間はいなかったようで幸いであったが、ここでももちろん市教委は何の責任もとる必要はなく、むしろ市教委に向かって的はずれにも「どう責任を取るのか」などと脅し文句を口にする市長のほうに無視できない問題がある。

橋下市長は「行政職員より、教職員に入れ墨がある方が『ちょっと待ってくれ』というのが保護者の感覚」とも主張したそうだが、もちろん行政職員に対する入れ墨調査もとんでもない暴挙である。橋下市長の場合、やることなすこと、人権侵害、憲法違反の疑いの濃厚な行為・発言の連発である。そういう橋下氏の言行を支持する人は、自分が日々安全に暮らしていけるのは、まがりなりにも、法によって、とりわけ憲法の各条文によって人権の保証がなされているからだということを自覚したほうがいいと思う。 たとえその行動に憲法違反・人権侵害の恐れがあろうとも橋下氏を支持するというのでは、自分は今後人権侵害などの、どんな理不尽な目に遭ってもかまわない、甘受すると述べていることに等しいのではないか。

橋下市長は「保護者の感覚」を勝手に決めつけて「入れ墨調査」に執念を見せているが、この姿勢は実に不気味である。保護者および大人の感覚として、私は入れ墨調査など決してやってほしくないという気持ちでいっぱいである。学校の先生には子どもに学ぶことのおもしろさを教えてもらいたい、どの子どもも差別なく受け入れてやってほしいなど希望はいくつもあるが、入れ墨がその人の身体のどこかにあるかどうかなどまったくどちらでもいいことである。自分とは異なる他者にそのような関心の持ち方をするのは不健全であり、非礼きわまりないことであろう。

それにしても、 そんなことをすれば「プライバシー侵害のおそれがある」「魔女狩りのような調査は信頼関係を崩す」と、当然予想される常識的な指摘や忠告を人にされていながら、それに一顧だにしないで非合理かつ邪悪な自己主張を繰り返すことのできるリーダーというのは始末におえないと思う。最低限必要な論理も倫理も持ち合わせていないことがあまりにも明白だからなのだが…。
2012.05.26 Sat l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 中野重治の江藤淳に対するきびしい批判…1961年

江藤淳は『昭和の文人』執筆時に中野重治が存命であったなら、果たしてこのような文章を発表しただろうかという疑問も私には浮かぶ。「 彼は…(略)…、終生廉恥を重んじ、慟哭を忘れることがなかった。そのような中野重治の文業に対して、私はほとんど自らの慟哭を禁じ得ぬ思いであった。」 などの発言は、「中野重治「再発見」の現在」がズバリ指摘しているとおり、江藤淳が「自分の姿に似せて相手を」、つまり中野重治を「つくりかえ」ていることだと思う。したがってこれは中野が無視や苦笑いで済ますことのできる程度・内容をはるかに超えていることを江藤自身解っているのではないかと思うから、中野が存命であったなら果たして…というような疑問をもつのだが、しかし江藤淳という文学者にはそのような感想や意見は全然通じないのかも知れないとも思う。(強調の下線はすべて引用者による。)

それというのも、江藤淳はかつて中野重治から「プライヴァシーと「せいのび」」(初出1961年。現在「中野重治全集24巻」に収載)と題された文章においてきびしい批判をうけたことがある。これは江藤淳が当時文学界に発表した「小林秀雄論 第二部 その四」」のなかで中野重治について書いた文章に対しての反駁文だが、中野重治は江藤淳の文章を一つひとつ細かく拾い上げ、その誤りを丁寧に指摘している。これを読むと、江藤淳は『昭和の文人』の中野論で顕わしているものと共通した側面を1961年当時すでに見せていたこと、そしてその側面を(他ならぬ)中野自身から鋭く指摘・批判されていたことが分かるように思う。

江藤淳への中野の「きびしい批判」と先に書いたが、とはいってもこの「プライヴァシーと「せいのび」」で中野が江藤を批判する態度・論調はいつもの中野のそれに比べるとかなり物柔らか、抑制的である。この理由の一つには、当時、1902年生まれの中野は59歳、1932年生まれの江藤は29歳であり、江藤はまだ非常に若かった。この30という年齢差や、このころの江藤淳は大江健三郎や石原慎太郎らと「若い日本の会」を結成、反安保の姿勢で活動していた時期なので、それらの事情が江藤を批判する中野の心境に影響していたのではないかと思われる。しかしもっと大きな理由は、問題が社会的出来事や文学・芸術方面一般のことではなく、直接に自分という人間をめぐる問題であること、特にそれが中野重治の転向以後の1935年、1936年ころの言動の問題であるという、問題のそういう微妙さ、複雑さによったのではないかと思う。

さて、「プライヴァシーと「せいのび」」だが、中野重治はここで、むかし斎藤茂吉が「私が死んで遺稿を出すときには、書簡だけは公表せずにもらひたいのである。」と書いていたことを紹介する。そして、「手紙を書いたという事実がある以上、また手紙そのものが残っている以上、その間の消息がほじくられずにはすまぬということは一般には認められることだろうと思う。」と述べ、また「書簡だけは公表せずにもらひたいのである。」という生前の茂吉の意思がその死後聞き入れられないであろう、書簡はほじくり返されるであろう、またそれはやむを得ないことであろう、とも述べる。そしてそこから一転、次のように書簡をほじくる側のほじくる理由を問題にする。

「しかし、ほじくりは何のためにほじくられるか。ほじくりのためのほじくりは生産的でない。ただその間の消息を明らかにするためのほじくりが生産的になる。そしてこの後のほうのほじくりについては、茂吉にしろ誰にしろ全般的にこれを禁止することはできない。わたくしごとからそのワタクシが、プライヴァシーの枠が外されるのだから。だからそこでは、消息を明らかにすること、真実を取りだすことにほじくりが従属させられる。そうなければならぬ。」

として、中野は書簡をほじくる、書簡がほじくられる、つまりある個人のプライヴァシーの枠を外す、枠が外ずされる場合の原則を明示する。その原則は、上記のように、①書簡が書かれた事情消息を明らかにするためのほじくりであること、②真実を取りだすことにほじくりが従属させられること、である。中野重治はそのように問題を立てておいてここから本題に入っていく。

「反対に、わが頭に或る仮定があつて、それを裏づけるためだけに文書あさりするのに止まるとなると話は学問的でなくなつてしまう。実地問題として、たいていの場合わが頭に何かの仮定がある。ほじくりをして行つてそれが事実の裏づけをえたように思えてくることがあり、しかしいつそう作業をつづけて行つてこの関係が逆になつてくる場合もある。この場合、ある人はそれまでの仮定をこわしてもうひとつ向うに新しい仮定を立てる。そしてさらに作業をつづける。しかし他の或る人は、第一の仮定から決して動かない。第一仮定に具合いいものをほじくりから取つてきて、これに逆らうらしいものは弾きとばして行つてしまう。第一仮定がそのまま固められる。
 ただちにそれと言うのではないが、それに似たものが私にふれて出ているので江藤淳の『小林秀雄論」(『文学界』)について書いておきたい。」

そう言って中野が江藤淳を批判した文章の中身は次のとおりである。一部を引用する。

「 そこ(引用者注:文学界に載った江藤淳の「小林秀雄論」)に私の「二律背反的な態度の矛盾」ということが出ている。
「 中野氏は、昭和10年代の感傷的な左翼青年がそう信じたほど一貫した『信念』の道を歩いていたわけではない。彼は孤立をえらびながら『提携』を説いたが、全く同様に従軍の覚悟を語りつつファシズム反対を説いている。しかし、この矛盾を責めるのはおそらく過酷であろう。」
 ここいらは、単純に言って私にわかりかねることでもある。当時の私に矛盾があつたとして、「この矛盾を責めるのはおそらく過酷であろう。」というところなどが私には単純にわからない。「矛盾を責める」というのが、もし矛盾を指摘してそれを認めよと迫ること、そしてそこからの脱出を要求することを意味するのならそれが「過酷」であるはずはない。それをしないのならば批評家が消えてしまう。ことわつておけば、私は、私には矛盾がなかったとか、『二律背反的な態度』がなかつたとか、「感傷的な左翼青年がそう信じたほど一貫した『信念』の道を〔私が〕歩いていた」とか言おうとするのではない。ただ私が「不可能をあえて主張した」とか、「できないに決まつているような路線に固執した」とか、「孤立を選びながら『提携』を説いたとか、「従軍の覚悟を語りつつファシズム反対を説い」たとか言われるとなるとちよつと待ってくれと言いたくなる。そんなことは事実としてないし、なかつた。何か江藤には、科学者、批評家として事実しらべをある程度で止めてしまうようなところ、同じく科学者、批評家として基本的に想像力の弱いようなところがあるのではないか。」
 
「 『中野重治氏は、昭和11年10月に『二つの戦争について』というエッセイを書いている。これが全集の現在までに刊行された巻に収録されておらず、年譜にも記載されていないのはどのような事情によるものか知らない。そこで中野氏が述べているのはこういうことである。』
「年譜」というのがどれを指すものか私にはわからぬが、あるいはどの年譜にもそれがのっていないのかも知れない。それはそれらの年譜が詳しいものでなかったという「事情」に単純によるのだろう。『全集』でいえば、それはそれの第15巻にのっている。しかし第15巻はその前の1冊から1年以上して出たのだから、江藤が見なかったというのならば仕方ない。ただ戦後に出た『楽しき雑談』第2にはのっている。年譜は別として、「どのような事情によるものか」という言葉に含みがあったのならば含みのほうがちがっている。
 そこで、「そこで中野氏がのべているのはこういうことである。」といって江藤が「2つの戦争について」の部分を引用している。ただし彼はそれを星加輝光の「戦時における小林秀雄」から引用した。星加の文章は『九州作家』第36号(1958年2月)にのったもので、江藤は、星加の「このエッセイに引用されている部分に拠った」とことわっているが、この「部分に拠った」というのが、星加の引用をさらに部分的に江藤が引用したというのかどうか今私にわかっていない。それは星加の原文についてみればわかるが今ちよつと『九州作家』が見つからぬ。なお江藤は、星加の評論を「すぐれた労作」と書いている。また江藤は、私の文章を本文では「2つの戦争について」といい、註では「2つの戦争のこと」といっているが後のほうが正しい。
「そこで中野氏がのべているのはこういうことである。」
 「そこで話を飛ばして、いよいよ戦争となった暁にはわれわれ文学者はどうなるか? 事情が非常に切迫して来た瞬問には、私は文学者といへども銃をとらねばならぬと思ふ。これは文学的表現としていふのでなく、全く文字どほりの意味においてだ。(中略)私はナチスではないからナチスを担ぎはしないが、生きた軍事知識のためにビストルも習ひたいし、タンクの活動もよく知りたい。(中略)フールマノフとかオストロフスキーとかいふ作家を読んで気づくことの一つは、奴等は鉄砲をうちもしたし鉄砲でうたれもした、人間の3人や5人は叩っ斬って来てゐるといふことだ。」
 こう引用してつづけて江藤は書いている。
「9月に在郷軍入会令が公布され、10月に内蒙古軍が綏遠に侵入し、11月に日独防共協定が成立し、12月にワシントン海軍条約が失効したというような当時の時勢の急転換を想いおこしてみれば、ほかならぬ中野氏のこのような発言がどれほど「民衆煽情」に役立つたかは容易に想像される。(中略)中野氏は、昭和10年代の感傷的な左翼翼青年がそう信じたほど一貫した『信念』の道を歩いていたわけではない。彼は孤立をえらびながら〔提携〕を説いたが、全く同様に従軍の覚悟を語りつつファシズム反対を説いている。」
 「……というような当時の時勢の急転換を想いおこしてみれば」、これこれのことが「容易に想像される」という本人を前において私は「加像力の弱いようなところ」などと書いたが、江藤の引用には無理があることを江藤自身も認めるだろうと思う。彼は(中略)と入れて心やすくつづけているが、第一の(中略)の前と後とのあいだには大きな段落がある。そしてそこの文句こそ、少なくとも私の書いておきたい肝腎のことの一つなのだった。第二の(中略)の前と後とのあいだにもちよつとしたことがある。それは当時おこなわれていた或る事実に関することで、つまりそういう、私としては曲りなりにも言っておきたくて書いた部分を飛ばしてしまって、勝手に(中略)でくくられてはたまったものでないという感じが出てきてしまう。しかも、「そこで話を飛ばして」の前にこそやはり私の言いたいことがあるのだつた。それだからこその「そこで」「飛ばして」であつただろう。私が、「従軍の覚悟を語りつつ」などということがどこにあるか。江藤が勝手に(中略)してしまった部分にでもそれがあるかないか。
 私は「孤立をえらびながら『提携』を説いた」りはしなかつた。帝国主義戦争反対の勢力、気運が孤立させられつつあるからこそ、孤立させられたくなくて「提携」を説いていた。このへんのことは、平野謙の私の『全集』第15巻の解説にも、また今彼の書きつづけているこの時期の文学史(『文学界』)にもよく触れられている。私の文章が「どれほど『民衆煽情』に役立ったかは容易に想像される。」と江藤はいうが、もしこの「煽情」が、たとえば「帝国主義戦争を内乱へ」といつたことの反対の煽情、帝国主義戦争そのものへの「民衆煽情」だつたという意味で江藤がいうのならば、彼における想像力の衰弱は極端なものということになるだろう。
 1935、6年における私の態度はへつぴり腰だつた。私の信念は動揺していた。「共産党という『正義『』に属している彼の、非党員林氏に対する優越感も作用していたかも知れない。』などはあまりに桁はずれている。

「『文学者に就て』について」で私は反対を書いている。当時「転向」のことがあつた。いくらかヒステリックにではあつたが、私は、「転向作家が転向によって失つたのは第一義的生活であって、第二義的、第三義的生活はまだ残されていると見るなぞは甘い考え方である(中略)だから彼らは、たとえていうのではあるが、第二義的に生きようとしてわずかに第三義的に生きてきたような作家より心ずつとずつと下へ、どん底まで堕ちたのである。」と書いている。だいいち、江藤が(中略)でくつつけて孫引きした文章で私は国内戦について書いている。それを、「アメリカ、ソヴェート同盟、中華民国の三つ」を「仮想敵国」とする国外戦との対比で書いている。過去の戦争での文学者と戦争との関係のところでも「シベリヤ干渉戦」という言葉で少しのことを書いている。そして実戦との関係ではただフールマノフやオストロフスキーを出している。知っている人もあるだろう。あのころ大森駅の上、馬込へ越える山のところに実弾射撃練習所があつた。あすこへ私ははいろうとしてはいれなかったことがある。内乱がおきると思っていたわけではない。しかしファシスト的な作家たちが陸海軍大演習にくつついて行き、私がピストルの射ち方も知らぬのは何さま残念というわけだつた。
 こんなことは笑われてよかろう。私が、帝国主義戦争への「民衆煽情」に役立つたなどはあまりに「容易に想像」されすぎている。
「二つの戦争のこと」に前後して私は「青葉時の憂鬱」を書いている。「不穏文書取締法案」、「国家総動員秘密保護法案」などとの関係で私は「軍民離間策ということ」について書いている。2・26事件以後の空気のなかでそれは書かれている。「ソヴェートについての考え方」では「支那ソヴェート」について、また「日本の外務省が……蒋介石と手を組んでソヴェート攻撃にのりだすことを宣言した」ことについて書いている。また「日本新聞記者の寧都訪問記」というものを書いている。「条件づき感想」では「北支事変」について書いている。「二つにわかれた支那その他」では中国の「二つの政府」について書いている。そしてそこでは、「私の同情が戦争と税企とになやむ厖大な零細農民の上にあるか、あらゆることをしてきたし今もしている浙江財閥などの上にあるかを別として」というようにへっぴり腰で書いている。つまり私は、帝国主義戦争との関係でいえば、「一貫した『信念』の道を歩いていたわけではない」と同時に、帝国主義戦争への「民衆煽情」の道とは大体において決して言えぬ道を歩いていた。そんなことが「容易に想像される」という江藤は、彼の今日の、今日以後の戦争関係問題についてあまりに手軽にすぎて考えているのではないかどうか。在郷軍入会令、日独防共協定、ワシントン条約などといつたものを持ちだしている本人が、そういう条件のもとで曲りなりにもあらがおうとしていた勢力、そのせめてものうごめきに眼をふさぎたかつたのはどうしたわけからだったろうか。 」


上記の文章のうちの「私としては曲りなりにも言っておきたくて書いた部分を飛ばしてしまって、勝手に(中略)でくくられてはたまったものでないという感じが出てきてしまう。しかも、「そこで話を飛ばして」の前にこそやはり私の言いたいことがあるのだつた。それだからこその「そこで」「飛ばして」であつただろう。」とか、「私の文章が「どれほど『民衆煽情』に役立ったかは容易に想像される。」と江藤はいうが、もしこの「煽情」が、たとえば「帝国主義戦争を内乱へ」といつたことの反対の煽情、帝国主義戦争そのものへの「民衆煽情」だつたという意味で江藤がいうのならば、彼における想像力の衰弱は極端なものということになるだろう。 」、「在郷軍入会令、日独防共協定、ワシントン条約などといつたものを持ちだしている本人が、そういう条件のもとで曲りなりにもあらがおうとしていた勢力、そのせめてものうごめきに眼をふさぎたかつたのはどうしたわけからだったろうか。」などを読むと、中野重治のなかでは江藤淳に対して、怒りもさることながら、その人間性と文学性への不信の念はそれよりもさらに強く深かったのではないかという気がする。

中野重治が、今では古典と言われるべき小説『村の家』を書いたのは1935年であった。江藤淳が中野批判の対象にしている諸々の出来事はその翌年および翌々年のことのようである。そのような時期に、中野重治が帝国主義戦争に「民衆煽情」をしたり、「従軍への決意」を語ったりするようなことがありえるかどうか、もし江藤淳の文章が何かの思惑をもって故意にこのように書かれたのでなかったのなら、江藤淳は対象について深く考えもせず、最低限必要な調査もしないでこのようなものを書いたことになる。どちらにせよ率直に言って、文学者としてのセンスの欠如や剥落を感じさせずにおかない話だと思う。この件のみで言うのではないが(たとえば、大岡昇平と埴谷雄高の対談による『2つの同時代史』をみると、大岡・埴谷の2人が揃って身も蓋もないと言いたいほどのあけすけな言葉を用いて批判的に語っている文学者はほとんど江藤淳しかいなかった(*)。井上靖に対する評価も大岡、埴谷ともにきびしいが、批判の内容、性格が異質である。今振り返ってみると2人の江藤評には中野の江藤批判と通底するものがあるように感じる。)、ただこの問題一つに話を絞っても、江藤淳が文壇で長く重きをなしたのは、個人の文学的才能や実力よりも、日本社会の右傾化、それに乗じた巧妙な処世術、文壇の衰弱・廃退、等々によるものではなかったのかという疑いをもたずにいられない。

……………………………………………


 江藤淳の「先見の明」(『大岡昇平・埴谷雄高 2つの同時代史』(岩波書店1984年)

 埴谷 安保のころのことでもうひとつおもしろいのは江藤淳のことだよ。「聲」に江藤が『小林秀雄論』を書く前だよ。そのころ江藤は吉祥寺にいたから僕のところに始終きていたんだよ。もともと彼は『夏目漱石』を学生時代に書いてそれを平野謙が非常に認めたんだ。荒正人は認めなかったけれどね。そういうことがあって僕のところに学生時代にきたのがはじめなんだよ。平野さんがほめているのにどうして荒さんは私のことをけなすんでしょうと聞くから、そりゃ荒は自分が漱石の専門家だと思っているからで、そんなの気にする必要はない、批評にかぎらず文学者はほめられたりけなされたりすることは当り前で、始終あるんだというようなことを答えたりしているうちに彼は結婚して、吉祥寺に住むようになった。それ以来僕のところに始終くるようになったんだよ。
 そのとき彼はまだ若くて、「近代文学」という戦後派が、日本文学の中心だと思っていたんだろうね。それが文壇状況がだんだんよくわかってくるにつれて、鎌倉組が中心であって、「近代文学」戦後派というのは傍流だということに気がついたわけなんだよ(笑)。
 大岡 それは文壇的にだろう。
 埴谷 そういうことだ。文学と文壇の差異に気がつくんだけれども、しかし安保のころはまだ「若い日本の会」をつくって安保闘争を彼なりにやっていたんだ。それを僕も盛んに激励した。
 大岡 そのときは鎌倉組は先が知れてる、反抗するのが有利だと思ってたんじゃないのか。
 埴谷 まだ戦後派の僕らが中心だったんだね。ところが、ハガチー事件で、左翼が羽田でやっているのを見たときからだんだん左翼がいやになってきたんだよ、江藤淳はね。実際くだらない左翼もいるからね。
 彼は社会党の大会に出席してがっかりもしたけれども、このハガチー事件が決定的だね。そして、左翼が次第にはっきりいやになってくると、『作家は行動する』を書いたり、「若い日本の会」をつくったのは、埴谷に煽動されたからだということに落ち着いちゃったんだよ。埴谷は若いものを煽動する名人で、自分まで煽動されちゃったというわけだね。
 大岡 あとからそう合理化するんだよ。ハガチーを見て、こりゃいけねえって思ったわけじゃない。前から寝返る気があって、きっかけに使ったんだ、とおれは思うよ。江藤に『小林秀雄論』を頼みに行った、というのは安保の前だよ。『作家は行動する』の中で彼が小林の悪口を書いているんだけれども、おれは、小林の文壇で果した役割としては君の言う通りであるけれど、小林という人間は違うんだ、だからそこを少し書いてみたらどうかといって、頼みに行ったんだ。「聲」34年(引用者注:1959年)12月号「冬号」おれが編集担当だから、10月頃手紙を出した。そしたら彼もそんな問題がちょっと頭に引っかかっていたと言って、そうして連載になったんだよ。
 まだそのころは、花田清輝という人は、本当に革命を頭のなかで考えている人です、と言ってたよ(笑)。江藤の転向もだんだんなしくずしにおこったんだろうね。
 埴谷 そうだよ。なしくずしなんだよ。『作家は行動する』のころは数日おきに僕のうちにきていて、僕といろいろ話をして、『作家は行動する』を書きあげた。
 ところが、それがまちがえたというふうになったから引っくり返ったわけだが、どうもうまいときに小林秀雄のほうに行ったな。
 大岡 とにかく『小林秀雄』は安保より前だ。しかし世の中は変わってくるからな。
 埴谷 世の中も変わってくるけど、江藤淳は、ある意味で言うと、右傾化の現在を先取りしたわけで、皮肉にいえば、非常に先見の明があるとも言える。状況が現在のように変わる以前に、江藤淳はすでにどんどん変わってきている。
 大岡 それはまあ、先見の明とは言えないだろう。
 埴谷 それはほめすぎかな(笑)。
 大岡 目先に従っただけだよ。
 埴谷 もちろん目先だけれども、しかし言い方は、うまくも、へたにも、いろいろあるわけだ、いまから言えばね。
 大岡 当人は先見の明と思っているかもしれないね。
2012.05.22 Tue l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
文芸評論家の福田和也氏が書かれた小説家 佐多稲子についての文章がウェブ上に出ていることを少し前に知った。
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/26762?page=3
初出は『週刊現代』(2011年11月)だったようである。10回の連載になっているが、第4回目の題名は、「カフェに溜まる文学青年たちが、女給の才能を存分に開花させる」である。「カフェに溜まる文学青年たち」とは、この翌年の1926年に佐多稲子の夫となる窪川鶴次郎をはじめ、中野重治、堀辰雄など、雑誌『驢馬』に集う同人たちのことである。 連載第1回目には、このときから7年ほど前、15、16歳の少女だった佐多稲子は不忍池の清凌亭という料亭で働いていて、そのとき芥川龍之介や久米正雄などの文学者たちと知り合っていたことなどもかなり詳しく叙述されている。佐多稲子の名前を、またその作品が語られる場面を見聞きすることが少なくなっている昨今、このような文章が書かれることは、古くからの佐多稲子のファンである私にはとても嬉しいことであった。「 …昭和の文学史は、佐多がいないと大分、寂しいものになるだろう。少なくとも、私にとっては、そして少なからぬ読者にとって佐多は、ある意味で、林芙美子よりも、宇野千代よりも、吉屋信子よりも大きな存在だろう。」との福田氏の見解にも、常々、佐多稲子を得がたい作家の一人だと思っている私は心から賛同する。

ところが、この連載にはつよい違和感・抵抗感をおぼえさせられる記述もある。それも佐多稲子本人に関してではなく、中野重治に関するものであり、この部分は上述した連載第4回「カフェに溜まる文学青年たちが、女給の才能を存分に開花させる」 のなかに出てくる。佐多稲子を論じる上で中野重治は欠かせない存在にちがいないのだから、執筆者の筆が中野重治におよぶのは自然なことだと思うが、その内容が問題で、私ははなはだ奇異な思いがした。以下の文章である。

「 文芸評論家、江藤淳はごく若い 頃 ---湘南中学時代、石原慎太郎氏とともに、従姉の夫であった第一高等学校文科教授の江口朴郎の元を訪れ、史的唯物論について話を聴いたという---を除けば社会主義、共産主義、つまりは左翼的な思潮にたいして常に一線を画してきたが、昭和六十年一月文芸誌『新潮』誌上ではじまった連載、『昭和の文人』で平野謙、中野重治を扱っている。

 平野に対しては、戦時下でのふるまいも含めて、かなり批判的なスタンスを取っているが、中野にはかなり同情的、というより深く、大きな共感を抱いているように見 える。

 例えば中野重治の詩、「雨の降る品川駅」について、江藤は次のように書いてい る。

「 どういうものか、私はこの『雨の降る品川駅』という詩が好きで、大学の講義で 昭和初期の詩歌を論じたときにも、進んで取り上げたことがある。そのとき、学生の 前でこの詩を朗読しているうちに、ある感動が胸に迫って一瞬読みつづけられなくなり、われながら少からず驚いたこともある。/それは、もとより私が、詩の中で謳わ れている『日本プロレタリアート』のイデオロギーに、いささかたりとも共感を覚えたためではない。

 イデオロギーではなく、『さようなら 辛/さようなら 金/さようなら 李/さようなら 女の李』という告別の言葉にこめられたあるラディカルな旋律が、突然思いも掛けなかった戦慄を喚び起したからこそ、私はしばらく朗読を中断したのである。/いま、あらためて読み直してみると、最初からこの詩のなかには、さほどのイデオロギー的抵抗を感じずに済むような、適切な距離の基軸が埋め込まれている。

 『さようなら』と呼び掛けられている『辛』も『金』も、『李』も『女の李』も、 誰一人として日本人ではない。朝鮮人でありながら、同時に『日本帝国臣民』であることを強制されていたこれらの人々が、『日本天皇』に敵意を抱き、敬愛の念を持たないのは、きわめて自然というほかない」

 ここで江藤は、かなりきわどい語り方をしている。日本プロレタリアートのイデオロギーについては、まったく共感を覚えないといいながら、同時に日本プロレタリアートの代表的詩人である、中野重治の作品に「読みつづけられない」ほど感動している。思想的にはまったく受け入れないが、感性においては全面的に肯定する、といった事態は、許容されるのだろうか。

 この問いは、かなり厄介なものだ。

 もちろん、人はイデオロギーを超えて理解しあう事は出来るだろう。けれども、 『辛』や『女の李』は、あきらかに戦前の日本を、そしてその国家を統治している天皇を打倒しようとしている。共産主義者である中野が『辛』の側に立つのは当然だと しても、天皇の臣下であることを引き受け、そして誇りにしてきた藝術院の会員であ る江藤は、しばしば天皇陛下の謦咳に接する機会にめぐまれている。その江藤が朝鮮の共産主義者の別離を謳った調べに感極まるとは。もちろん、そこにこそ文芸の神秘があるのだけれど。

 しかしまた一方で、中野にもまた、江藤と共鳴する響きがあった。 転向した共産主義者である、中野重治は、戦後すぐに書かれた短編小説「五勺の酒」のなかで、中学の校長の口を借りて、戦後すぐに行われた全国巡幸について、こう述べているのだ。 「移動する天皇は一歩ごとに挨拶すべき相手を見だすのだ。

 そうして、かぶつては取りかぶつては取りして建物のなかへはいつて行つた。歯がゆさ、保護したいという気持ちが僕をとらえた。(中略)なるほど天皇の仕草はおかし い。笑止千万だ。だから笑うのはいい。しかしおかしそうに笑え。(中略)僕はほんとうに情なかつた。日本人の駄目さが絶望的に自分で感じられた。まつたく張りということのない汚なさ。道徳的インポテンツ」。

 敗戦を迎え、『敵』であるはずの天皇に、無限の同情を覚える中野と江藤の距離はさほど遠くはなかっただろう。」(強調の下線はすべて引用者による。)


この文章は、「 カフェ「紅緑」時代は、稲子にとって、遅くやってきた青春時代だった。その輝きはまばゆく、その資質、才能を開花させただけではなく、人生行路をも、大きく変えてしまったのである。 」という佐多稲子の歩みと中野重治ら『驢馬』同人との運命的な出会いについての叙述につづいてのものである。福田氏の文章の内容自体への疑問だけではなく、こういうところでどうして江藤淳の中野重治に関するこのような文章が出てくるのだろう、との疑問もないではない。なぜこんな場面で何の脈絡もなく江藤淳の中野重治評が出てくる必要があるのか、あまりに唐突で、奇異な印象をうけるのだ。

江藤淳の『昭和の文人』に対しては「中野重治「再発見」の現在」という批判の文章があり、これもウェブ上で読める。数年前、私はこの批判文を読んで江藤淳の『昭和の文人』を初めて読んでみたのだったが、中野重治に関する記述については実に薄気味悪い文章だと思った。特に堪えがたく感じたのは「慟哭」という語句が頻出することであった。江藤淳は本の「あとがき」でも、

「  私はこの仕事によって、ほとんど中野重治という文人を再発見したといってもよい。彼は若年の頃の詩に詠じた『豪傑』にこそならなかったが、終生廉恥を重んじ、慟哭を忘れることがなかった。そのような中野重治の文業に対し て、私はほとんど自らの慟哭を禁じ得ぬ思いであった。

と述べているが、これに対して 「中野重治「再発見」の現在」は、

「 もちろん中野重治は再発見され、再評価されるべきだ。単に再発見だけでなく、今後もくりかえし再再再…発見されるだろう。しかし発見は事実に即し、テクストそのものに即しておこなわれなければならない。もちろん時代の変化によって、読みの変遷はある。それがあるからこそくりかえし「再発見」が必要になり可能になるのだから。だが、自分の姿に似せて相手をつくりかえることは「再発見」でも「再評価」でもない。そして江藤淳によって再発見された「日本民族の不幸に慟哭する中野重治」 「天皇を愛する中野重治」は、まさにそのようなものであった。」

と批判している。この批判内容に私は共感・賛同するが、特に下線を付けた箇所の批判には全面的に賛同する。
2012.05.20 Sun l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
1週間ほど前のことになるが、橋下徹氏が口にしたと言われる発言の正確なところを確かめようとしてネット検索をしていたところ、北村隆司という人の次の記事に行き当たった。

 「反「ハシズム」学者が橋下市長に勝てない理由―私の分析」

このなかに、非常に驚かされたことに、橋下徹大阪市長をインドのマハトマ・ガンジーになぞらえて論じている箇所があった。執筆者の北村氏によると、「理念と原点が確りしてい」る橋下氏の戦略は、ガンジーの「塩の行進」に似たものがあるというのである。その文章を以下に引用させていただく。

………………………………

「 橋下さんは、自分の理念と原点(オリジナルインテント)が確りしていますから 、何処から攻められてもぶれません。又、間違ったと思えば直ぐ訂正し、知らない事は素直に知らないと認めるのも、いさぎよいのではなく、そうしないと原点が崩れるからです。

彼の戦略は、ガンジーの「塩の行進」戦略に似たものがあり、反ハシズム学者とはスケールが違います。

インドの独立運動の重要な転換点となった塩の行進は、英国植民地支配を支える収入源だった塩の専売制度に運動の焦点を絞った、ガンジーの天才的な戦略ですが、橋下市長の「新しい統治機構」を目標にした「都構想」戦略と通ずる物があります。

塩の専売制度は、誰でも海岸地域で作れるにもかかわらず、一般人が塩を作る事を禁じ、違反者には刑事罰を課し、労働者が金を払って塩を買う事を強制した制度で、日本の霞ヶ関と良く似た統治機構でした。

ガンジーが塩の専売制度に抵抗の焦点を絞った事は、地域、階層、宗教、人種的な境界を越えた共感を呼び、インド人大衆を広く動かすのに十分な力を発揮しま した。

「都構想」は、これまでの個別政策中心の「対症療法」から、諸悪の根源である 「官僚制度」と「中央集権」を追放する「根本療法」への戦略転換の象徴で、英国の統治機構を追放する事を目的とした「塩の行進」の役割りを果たすものです 。

ガンジーの基本的な考え方の一つであるサッテイヤーグラハとは、サッティヤ(真実)とアーグラハ(説得)とを統合したものですが、これも、橋下市長の基本型で、朝から生テレビの論争で圧勝を呼んだ秘密兵器です。国民は、現場の「真実」なしの理屈だけの「説得」には騙されなくなったのです。 橋下市長の見逃せないもう一つの才能に、「特定の立ち場に立って、そのあるべき姿を代弁する」アドヴォカシー能力があります。この能力は「課題」を中心に「問題点」を分析し「適正手段」を選択する、客観的な論議には欠かせない能力です。

内田樹教授はその著書で「アメリカの初期設定のように、理念に基付いて建国されていない日本には、立ち帰る原点がない」と指摘し、国政に於ける原点の重要さを強調されましたが、橋下市長の強みの源泉として、個々の政策の良し悪しではなく、原点を持った稀な政治家である事も見逃せません。

視聴者の圧倒的多数が、橋下市長との論争で山口、香山、薬師院各教授が完敗したと判定した理由は、弁論技術の巧拙ではなく、理念の有無と現場把握力の差です。」

………………………………


このような発想がなされ、このような文章が書かれうるとは私は思っていなかった。「ガンジーの基本的な考え方の一つであるサッテイヤーグラハとは、サッティヤ(真実)とアーグラハ(説得)とを統合したものですが、これも、橋下市長の基本型で、朝から生テレビの論争で圧勝を呼んだ秘密兵器です。」などと、執筆者は本気で考えているのだろうか? ガンジーと、「朝から生テレビ」(「朝まで生テレビ」の誤りだと思うが)や橋下徹氏とを並べて論じているが、最初のほうを少しばかり観たあのテレビ番組の内容を思い出すと、双方の気の遠くなるような隔たりにいまさらのように気づかされる。「 彼(注;橋下大阪市長)の戦略は、ガンジーの「塩の行進」戦略に似たものがあり 」って、「似たものがあ」るなどとこの文章の書き手がもし本当にそう思って記述したのなら、そんなことを思っているのは世界広しと言えどもこの人だけだろう。現在橋下氏を熱烈に支持している人々のなかにはあるいはそうだ、そうだ、と唱和する人がいるかも知れないが、けれども本心からそんなことを思う人間はまずいないだろう。なぜなら誰もが知るようにガンジーの「塩の行進」の目的は自分たちの国インドを長い強固なイギリスによる植民地支配から解放し、独立をかち取るためであった。ガンジーの人生も人格も政治的活動もそのすべては過酷な植民地支配からの国の独立、人々の解放に捧げられたものであり、ガンジーという人が私たちの内に敬愛の念を呼び覚ましたり、その言葉、行動が崇高さを感じさせずにおかない理由の第一はそのためであろう。

一方、橋下氏はどうか。自国が長い間植民地にして言葉や名前を奪い、人々を村ごと焼き払う、教会ごと焼き払うなど残虐のかぎりを尽くした朝鮮に対して謝罪の気持ちなどは一片もなく、朝鮮学校の補助金問題への対応や北朝鮮に対する「ナチス」「暴力団」などという罵倒を見れば分かるように、侮辱のかぎりをつくしている。世界のあちこちでナチスに比されているのは過去の日本であって北朝鮮ではありえないことを知らないのだろうか。ひょっとしたらこの人は潜在的に自分に対していだいている評価を、どんなことを言っても大事には至らないのだから言いたい放題口にしてもかまわないと思っている(らしい)北朝鮮に向けているのではないかという気がする。たまにツイッターの文句をみることがあるが、そう言いたくなるほどにその発言内容は異様である。

このように植民地支配に対して強者が弱者を支配して何が悪い、くらいにしか考えていないことが明白な酷薄かつ薄っぺらいお調子者にすぎない人物を、北村氏は植民地支配に対して持続的で賢明な戦いを挑みつづけた20世紀の偉人の一人であることは間違いないであろうガンジーに並び比べているのだ。本当に恥ずかしいことである。ガンジーが、①1939年インドを訪問した賀川豊彦に向かって、②また1942年には公開状「すべての日本人に」において、言葉の端々に対象への行き届いた配慮をにじませながらも、日本の行動について、対日感情について何と言ったか、 「世界の名著 ガンジー ネルー」訳・蠟山芳郎(中央公論社1967年)から以下に引用しておきたい。

 ① 「あなたがた日本人は、すばらしいことをなしとげたし、また日本人から、私たちは多くのことを学ばなくてはなりません。ところが、今日のように中国を併呑したり、そのほかぞっとするような恐ろしいことをやっていることを、どのように理解したらよいのでしょうか。」

 ②-1 「まず初めに言わせてもらえば、わたしはあなたがたにいささかの悪意も持っていません。けれどもわたしは、あなたがたが中国に加えている攻撃を非常にきらっています。あなたがたは、崇高な高見から帝国主義的野心にまで降りてきてしまいました。あなたがたは、野心の達成には失敗してアジア解体の張本人となり、知らず知らずのうちに世界連邦と、同胞関係をさまたげることになりましょう。同胞関係なしの人間は、いっさいの希望をもてなくなってしまうのです。」

 ②-2 「こうした楽しい回想(引用者注:日本山妙法寺の僧侶たちとの共同生活や交流を通じての日本人への高い評価)を背景にもっていたので、あなたがたが、わたしには理由のないものに思われる攻撃を中国に加えたこと、そして報道が正確だとすれば、あの偉大な、そして古くからの国を無慈悲に荒らしてしまったことを思いだすたびに、わたしは非常に悲しく思います。」

 ②-3 「さらに私たちは、あなたがたやナチズムに劣らず私たちがきらっている帝国主義国に反抗しなくてはならないという、特殊な立場にあります。帝国主義に対する私たちの反抗は、イギリスの人々に危害を加えると言う意味ではないのです。私たちは彼らを改心させようとしています。イギリスの支配に対する非武装の反乱です。今、この国の有力な政党(会議派のこと)が、外国人の支配者と決定的な、しかし友好的な闘いを交えています。しかし、このことで、外国からの援助を必要としてはいません。あなたがたのインド攻撃がさし迫っているという特定の瞬間をねらって私たちが連合国を困らせているのだというように、あなたがたは聞かされているということですが、それはたいへんまちがった情報です。もしも私たちが、イギリスの苦境を乗ずべき好機にしようと欲しているのならば、3年前、この大戦が始まったときに、すでに私たちは行動していたはずです。イギリス勢力の撤退を要求する運動を、けっして誤解してはいけません。事実、報道されるように、あなたがたがインドの独立を熱望しているならば、イギリスによってインドの独立が承認されることは、あなたがたにインドを攻撃させるいかなる口実もいっさいなくしてしまうはずです。さらに、あなたがたの言うことは、中国に対する無慈悲な侵略と一致していません。
 わたしは要請したい。もしも、インドから積極的な歓迎を受けるだろうと信じようものなら、あなたがたはひどい幻滅を感ずるという事実について、けっしてまちがえないようにしてください。イギリス勢力の撤退を要求する運動の目標とねらいは、インドを自由にして、イギリス帝国主義であろうと、ドイツのナチズムであろうと、あるいはあなたがたの型のものであろうと、すべての軍国主義的、帝国主義的野心に反抗する準備をインドに整えさせるためです。
 もし私たちがそういう行為に出なければ、私たちは世界の軍国主義化をただ傍観している見下げた奴に堕落してしまうのでしょうし、また、非暴力こそ軍国主義的精神と野心とに対するただ一つの解毒剤であろうとする、私たちの信念を無視することになってしまうでしょう。」

上記のようなガンジーの公開状の文面について、訳者の蠟山芳郎氏は、「ガンジーは、インドが独立を獲得するのに他国の援助を欲していないこと、世界大戦を利用する考えをもたないこと、この際イギリスをインドから撤退させることこそ、インドが大戦争の渦中にまきこまれない保証であること、などを慎重に考えたうえで非服従運動を起こしたことをていねいに説明しているのだが、神経の荒っぽい日本政府ならびに軍当局からは、なんら関心をひきだせなかった。」と書いている。


以上見てきたように、北村氏が橋下大阪市長をガンジーに並べて持ち上げようとしている行為は単に恥を知らない人物の行為というしかないように思う。北村氏は、おそらく橋下氏をナチズムに譬えた「「反「ハシズム」学者」に対抗してガンジーを持ち出したのだろうが、これはあまりに歴史を、また読者をなめた行為であって、一片の説得性も持っていないことは明白だろう。

ところが、このような一種詐欺まがいのことをやっているのは北村氏だけではないのだ。同じくインドのジャワーハルラール・ネルーの発言に対しても日本のあるタイプの人々は、自分の主張に都合のいい部分のみを選んで引用し、ネルーの発言の趣旨とはまったく異なる意味内容にしてしまっている。以前同様のことを「新しい教科書をつくる会」も行なったと聞いたことがあるが、次の『日本に学べ』という記事もそうである。(強調のための下線はすべて引用者による)

「 「日本が勝ちました。大国の仲間入りをしました。アジアの国、日本の勝利は、全てのアジア諸国に計り知れない影響を与えたのです。少年の私がこれにいかに興奮したか、以前、あなたに話したことがありますね。この興奮はアジアの老若男女全てが分かち合いました。欧州の大国が負けました。アジアは欧州に勝ったのです。アジアのナショナリズムが東の国々に広がり、『アジア人のためのアジア』の叫び声が聞こえました」(筆者訳)。
  インドのネルー首相は、少年の頃、日露戦争での日本の勝利を知った。インドがまだ英国からの独立運動を行っていた頃のことだ。冒頭の一節は、ネルーが後年に書いた「娘に語る世界史」の一節である。娘とは、のちにネルー首相の後を継いでインドの首相になったインディラ・ガンジー首相だ。上野かいわいの日本の小学生たちは、戦後に上野動物園から象や猛獣がいなくなっていたことを嘆き、象を送ってくれるようにネルー首相に手紙を書いた。ネルー首相の贈り物は、まな娘の名をとったインド象「インディラ」であった。」

私の40有余年の外交官生活で得た感想は、日本ほど世界中で尊敬され、好かれている国は少ないということだ。(略)」


上の文章中、下線を引いた部分は、原文においてはおそらく下記の文章の下線部分と同一箇所ではないかと思う。執筆者は文中で明らかな嘘をついているわけではない。しかし、この部分だけを引用してすましていることは作者および読者に対して完全に不誠実であろう。この文章のすぐ後には、「ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけくわえたというにすぎなかった。」という真に重大な言葉がつづいているのだから、これを抜かしての引用ではネルーの意図したところが読者には全然伝わらない。それどころか、読者はネルーの意図とは逆の内容を教えられることになる。以下に「みすず書房」の大山聰氏の訳文をもう少し長く引用しておく。未読の方はぜひ読み比べていただきたく思う。


「 父が子に語る世界歴史 4(ジャワーハルラール・ネルー著・大山聰訳)(みすず書房1959年初出)
 117 日本の勝利 1932年12月30日
 日露戦争は、1905年の9月のポーツマス条約でおわった。ポーツマスは、アメリカ合衆国にある。アメリカ大統領が両当事国をそこに招いて、講和条約が締結されたのだった。この条約によって、日本はとうとう旅順港と遼東半島をとりかえした。日本が中国との戦争後に、これらを放棄しなければならなかったことは、おぼえていることと思う。日本はまた、ロシアが満州に建設した鉄道の大部分と、日本の北方によこたわるサハリン(樺太)の半分をとった。さらにロシアは、朝鮮にたいするいっさいの権利を失った。
 かくて日本は勝ち、大国の列にくわわる望みをとげた。アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そしておとなが、おなじ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国はやぶれた。だとすればアジアは、そのむかし、しばしばそういうことがあったように、いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。ナショナリズムはいっそう急速に東方諸国にひろがり、「アジア人のアジア」の叫びが起こった。しかしこのナショナリズムぱたんなる復古でも、旧い習慣や、信仰への固執でもない。日本の勝利は、西洋の新産業方式の採用のおかげだとされている。この、いわゆる西洋の観念と方法は、このようにして、いっそう全東洋の関心をあつめることになった。

 118 中華民国 1932年12月30日
 日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかを、われわれはみた。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は、朝鮮の没落を意味した。日本は開国の当初から、自己の勢力範囲として、すでに朝鮮と、満州の一部に目をつけていた。もちろん、日本はくりかえして中国の領土保全と、朝鮮の独立の尊重を宣言した。帝国主義国というものは、相手の持ちものをはぎとりながら、平気で善意の保証をしたり、人殺しをしながら生命の尊厳を公言したりするやり方の常習者なのだ。だから日本も、朝鮮にたいして干渉しないと、ものものしく宣言した口の下から、むかしながらの朝鮮領有の政策をおしすすめた。対中国戦争も、対ロシア戦争も、朝鮮と満州を焦点とする戦争だった。日本は一歩一歩地歩を占め、中国が排除され、ロシアが敗北したいまでは、あたかも無人の野を行く観があった。
 日本は帝国としての政策を遂行するにあたって、まったく恥を知らなかった。ヴェールでつつんでごまかすこともせずに、おおっぴらに漁りまわった。1894年、日清戦争の開始直前に、日本人は朝鮮の首都ソウルの王宮に腕ずくで押しいって、日本の要求を聞き入れなかった女王〔閔妃〕を廃して、幽閉した。日露戦争後、1905年に朝鮮国王は、むりやり朝鮮独立の放棄をみとめさせられ、日本の宗主権を受けいれた。しかしこれでもたりず、5年もたたないうちに、この不幸な国王は廃され、朝鮮は日本帝国に併合された。これは1910年のことだった。3千年以上にわたる長い歴史をもつ独立国としての朝鮮はほろびた。廃位された国王は、5百年まえにモンゴル人を駆逐した王朝〔李氏朝鮮〕に属していた。しかし朝鮮は、その長兄と仰いだ中国とおなじく、罰金を支払わなければならなかった。
 朝鮮――この国は、古い名称で呼ばれることになった。朝の爽やかさという意味だ。日本はいくらかの近代的改革をもちこんだが、容赦なく朝鮮人民の精神をじゅうりんした。長いあいだ独立のための抗争はつづけられ、それは、いくたびも爆発をみた。なかでも重要なのは、1919年の蜂起であった。朝鮮人民――とくに青年男女――は、優勢な敵に抗して勇敢にたたかった。自由獲得のためにたたかう、ある朝鮮人団体が正式に独立を宣言し、日本人に反抗したばあいなどは、かれらはただちに警察に密告され、その行動を逐一通報されてしまった! かれらはこうして、かれらの理想に殉じたのだ。日本人による朝鮮人の抑圧は、歴史のなかでもまことにいたましい、暗黒の一章だ。朝鮮では、多くは大学を出たばかりの、若い少女が、闘争の重要な役割を果たしていると聞いたら、おまえもきっとこころをひかれるだろうと思う。 」
2012.05.18 Fri l 橋下徹 l コメント (2) トラックバック (0) l top
先日(5月9日)、佐藤優氏が「週刊文春」の最新号で、橋下徹大阪市長がもしも総理大臣に就任するとしたらそれを支持するか否かというアンケートに答えて、自分は支持する、と語っているというブログ記事を読んで、一瞬のけぞってしまった。いくら何でもそんな無節操なことを…? などと言ったらわざとらしいかも知れない。これまでの佐藤氏の言動を見れば節操とか正直とか一貫性とか羞恥心なんてものを氏に求めても仕方がないことは多くの人の目にすでに明らかだろうから。それでも、佐藤氏が橋下氏について「新潮45」( 2011.12月号 )という雑誌で「状況対応で向こう岸に渡ろうとしている現在の日本によくいるひ弱なエリートの一人に過ぎない 」「支離滅裂なひ弱なエリートである橋下徹氏の素顔を描く方が、この政治家をめぐる神話を脱構築する効果がある」と語っていると聞いたのはついこの間(とはいえもう5、6ケ月前のことになるが)のことだった。「新潮45」でのこの佐藤氏の発言を最初に知ったのは私の場合こちらのブログによったのだが、ブログ主のZED氏は、この発言について「それにしても、佐藤優が橋下に対してあんな事を言ってるとは思わなかった。」と述べつつ、

「とは言え、佐藤の親分である鈴木宗男(ヤクザ用語で言う所の現在「社会不在」中)の、そのまた親分格である小沢一郎が橋下に対して「つかず離れずで行け」として裏で手を組むそぶりをしている事から、多分佐藤は時期を見て橋下に媚を売る方向へ転換するだろう。とりわけ橋下が選挙に負けていたならともかく圧勝してしまった以上、佐藤ら小沢一派は急速に橋下一派への接近とゴマすりを始めるはず。 」

と記述されていた。私は橋下氏を「ひ弱(なエリート)」とする佐藤氏の見方は的はずれの度が過ぎていて奇異な感じをうけた(橋下氏は誰が見たって、(佐藤氏と同様に)「ひ弱」とは言えないだろう。)ものの、「佐藤ら小沢一派は急速に橋下一派への接近とゴマすりを始めるはず」とのZED氏の見方には「?」と感じた。この疑問は佐藤氏が口にする政治信条と橋下氏のそれとが異質だなどと考えた上でのことでは全然なく(後に述べるが、私はしばしば佐藤・橋下、両氏の言動に共通性を感じてきた。)、佐藤氏とその周辺の人々が形成しているらしき人間関係を思い浮かべてのことである。「フォーラム神保町」の仲間であるはずの山口二郎氏や香山リカ氏が現在盛んに橋下批判を繰り広げている以上、また佐藤氏が金光翔さんに提訴された民事裁判での代理人が、かつて橋下氏がテレビで視聴者に向かって懲戒請求を煽動したことで大きな被害を被ったことが明白な光市事件弁護団の弁護人である以上、佐藤氏も内心はどうあれ、また鈴木宗男氏(小沢一郎氏)絡みの何らかの思惑が存在するにしろ、当面さすがに橋下擁護の言論は口にしない、できないのではないかと思ったのだった。でもこうなってみると、そんな考えは甘過ぎたということである。

山口二郎氏、香山リカ氏などが橋下氏についてその言動のファシズム性を「ハシズム」と呼称して(編集者の発案かも知れないが。)批判していると聞いたとき、とっさに思い浮かんだのは、正直なところ、「見事なまでの二重基準」「厚顔無恥」というような言葉であった。橋下氏の言動に対して真っ先にファシズム性を指摘・批判している山口氏や香山氏は、佐藤優氏という、橋下氏とほぼ同様の排外主義・民族差別主義的言論活動を展開してきた人物にこれまでどう対応してきたのだろう。一言でも批判するどころか、金光翔さんの「「佐藤優現象」批判」のような論考が出ても完全無視し(この論考については当然知っていると思う。)、明らかにこれを「タブー」として取り扱い、佐藤氏と仲良く行動を共にしてきた人たちである。そういう自分たちのこれまでの行為について、橋下=ファシズム批判を行なっている現在、どう考えているのだろう。佐藤氏の言説や自分たちの行動にはフッァショ的な要素はなかったと考えているのだろうか。

しかし橋下氏を問題視するだけの思考の働きを備えていながら、自分のすぐ側にいる佐藤氏の同種の傾向に疑問を持たないという感覚や思考構造は私には理解不能である。佐藤・橋下というこの2人の言動や、そこからかいまみえる世界観には、もしかすると2人の異質な点を挙げたほうが早いかも知れないというほど、共通点が多いように思える。下に挙げる「眼光紙背」の各文章のタイトルを見ただけでもおおよそ判るのではないかと思うが、これらの掛け声は場合によっては橋下氏の口から出てもおかしくはないのではないだろうか。

じつは上で引用させてもらった「新潮45」もふくめてここで取り上げる佐藤優氏の原文に目をとおしたのは今回がはじめてである。 ここ1年ほど、私は活字媒体における佐藤氏の文章はほとんど読んでいなかった。ネット上の「眼光紙背」はたまに見ていたが、内容は相変わらずで(例:「アメリカに対して異議申し立てをきちんとする野田佳彦首相を外務官僚は全力で支えよ」 2011年11月15日 )、投稿頻度はめっきり少なくなっている。昨年の3月11日以後、「国家翼賛体制の確立を!」「大和魂で菅直人首相を支えよ」「福島原発に関する報道協定を結べ 」「頑張れ東京電力!」など立て続けに発表した記事の内容があまりに醜悪だったため、批判に晒されこそすれ(こちらこちら)、表だってはさすがに誰もこれを評価はしなかったようである。それに加えて岩波書店の「世界」への寄稿が中断されたままのせいもあるのだろう、もうさして活発な言論活動は行なっていない印象を受けたこともあり、わざわざ雑誌や著書に手を伸ばす気にはなれなかった。(強調の下線はすべて引用者による。)

この機会に「新潮45」や最新号の「週刊文春」(久しぶりに週刊誌を買ったら、380円にもなっていて驚いてしまった。)やネット上に出ているものなど、佐藤氏の文章をいくつか読んでみた。どれも相変わらず佐藤氏らしいハッタリの効いた発言揃いだと思ったが、このうち山口二郎氏の2012.1.16日付Twitterでの発信「佐藤優さんが橋下の本質はマッカーシズムだと看破してました」には特にそう思った。

山口氏の「佐藤優さんが橋下の本質はマッカーシズムだと看破してました 」との口調には佐藤氏の慧眼に感心しているというような気配があるが、「新潮45」掲載の橋下氏を論じた佐藤氏の文章の題は「「反ファシズム論」では彼に勝てない」である。いわく、ファシズムの先導・煽動者は弱者に優しいが、橋下氏は弱者に優しくない。また橋下氏は「大阪府知事に就任してから、大阪府中の労働組合連合会や教職員組合と対決姿勢を鮮明にし、結果として組織された労働者の団結を強化している。ファシストはこのような間の抜けた戦術をとらない。」などと、ファシズムの理論家だったというマラパルテという人物の「クーデターの技術」(イザラ書房)という著書に全面的に依拠して「橋下=非ファシスト」と主張し、「橋下氏は、ファシズムを構築する意思もインフラも持たない。状況対応で向こう岸に渡ろうとしている現在の日本によくいるひ弱なエリートの一人に過ぎない。実態から懸け離れた反ファシズム論を展開し、橋下氏の幽霊政治を恐れるよりも、スキャンダリズムを最大限に駆使し、支離滅裂なひ弱なエリートである橋下徹氏の素顔を描く方が、この政治家をめぐる神話を脱構築する効果があると筆者は考える。」と結論づけている。

しかし多くの人と同様、私も橋下氏にはもちろん強烈にフッァショ性を感じさせるところがあると思う。学校の教職員に対して処分で恫喝して君が代斉唱を押しつけたり(おそらくこれがいたく石原慎太郎東京都知事の気にいったのではないか)、ついには斉唱している教職員の口元の監視という世にもおぞましい行動に打って出てみたり(監視を実践した校長はこれが橋下市長の意に添うと考えたのだろう。しかしこれは途轍もないレベルでの人権侵害であり、人間の尊厳の全否定であり、それと同時に古今東西の「歌」というもの総体への他に考えられないほどの侮辱であろう。)、その前には大阪府内の朝鮮学校に補助金の廃止で恫喝して教育内容への干渉を企んだり、北朝鮮・朝鮮総連との関係の転換を迫ったり、そのようにして児童・生徒を初めすべての朝鮮学校関係者、在日朝鮮人全体に不当な心労を舐めさせておきながら、結局補助金の多くを削っている。橋下氏のこういう施策およびこういう施策を行なっているにもかかわらずその支持率が高いというところに私もフッァショ性を感じる。でもまぁファシズムの定義はさまざまに存在するようなので、佐藤氏が「橋下氏は、ファシズムを構築する意思もインフラも持たない。」と言うのなら、それに対してあえてケチをつけたり、取り合おうとは思わない。しかし「新潮45」であれだけ明確に橋下氏のファシズム性を否定した佐藤氏が「橋下の本質はマッカーシズム」と述べたというのはまったく解せないことである。それでは、マッカーシズムはファシズムと無関係・無縁の主義だというのが佐藤氏の理解ということになるが、これはどう考えてもおかしいだろう。この佐藤発言はネットでも見ることができる。

「 佐藤優氏 橋下徹氏の成功はニヒリズムを克服できるかどうか
 過去のどの政治家と比較すると橋下氏の特徴が鮮明になるだろうか。筆者は、1950年代の米国で活躍したジョセフ・マッカーシー上院議員(1908~1957年)との類比で現在の橋下氏を考察している。マッカーシー上院議員が展開した「赤狩り」(共産党員もしくはその同調者と見なされた者への激しい攻撃)は、マッカーシズムと呼ばれたが、これに橋下市長の手法は親和的だと思う。
 米国のジャーナリスト、リチャード・ロービアは、〈マッカーシーは重要な意味での全体主義者ではなかったし、反動でもなかった。こういう用語は主として社会的、経済的秩序にかかわるものだが、かれは社会的、経済的秩序には全く関心がなかった。
 マッカーシーが思想、主義、原理の領域においてなにものかであったとするなら、一種のニヒリストであった。かれは根っからの破壊勢力、 革命的ビジョンなき革命家、理由なき反逆者であった〉(R・H・ロービア[宮地健次郎訳]『マッカーシズム』岩波文庫、 1984年、16頁)と指摘した。
 マッカーシズムの嵐が吹き荒れたのは、わずか4年間に過ぎなかった。外交・防衛政策にポピュリズムを持ち込んだマッカーシーは、国益を害する存在になったので、政治、経済、メディアのエリートによって放逐されたのである。
 しかし、マッカーシズムによって反共主義が定着し、社会に寛容さがなくなった。橋下氏が敵を探し出し、それと対決する手法を取り続けるならば、いずれかの段階において、 政治舞台から排除される。聡明な橋下氏はそのことに気づいているので、方向転換を考えていると思う。その成功は、橋下氏がニヒリズムを克服できるか否かにかかっている。(※SAPIO2012年5月9・16日号)」

「聡明な橋下氏」ねぇ。半年前は「支離滅裂なひ弱なエリート」と評していたというのに…。それはともかく、私はこれまで佐藤氏とは異なり、マッカーシズムはファシズムの一種である、少なくともファシズムの特徴をさまざまに備えた主義主張だと理解していた。こういう理解は別に珍しくもないごく一般的なものと思うのだが? たとえば、 加藤周一と鶴見俊輔の対談を収めた 「20世紀から」(潮出版社2001年)でもマッカーシズムは話題にされているが、加藤周一はマッカーシズムについてナチスのホロコーストと比較して「(イデオロギーが絡むと)正義は全面的にこちら側にあるから、反対意見はぜんぶ間違っている。そういう人間はいないほうがいいということになる。マッカーシズムも物理的に殺したわけではないけれども、通底するものがあるんです。」と述べている。

佐藤氏が引用している『マッカーシズム』という本を私は読んでいないが、この本の著者はマッカーシズムについてファシズムとは異質の主義だと述べているのだろうか。おそらく誰にしろそんなことを言う人物はないないと思うのだが? そもそもマッカーシーがニヒリストだったとしても、そのことは彼がファシストでなかったことの証明にはならないはずだ。また佐藤氏はSAPIOや文春で、「現時点までの橋下氏の政治手法を見る限り、社会的弱者に対する優しさ、排外主義の両要素が欠如している。橋下氏をファシスト視する言説が説得力を持たないのは、分析する対象の実態と噛み合っていないからだ。」(「SAPIO」2012年5月9日号)と述べている。朝鮮学校への対応を見れば橋下氏に「社会的弱者に対する優しさ」が見られないのは事実だが(とはいえ、ご本人は公務員叩きをすることで、公務員一般を既得権益者とみなして反感をもつ層に優しさを現しているつもりかも知れない。)、しかしこの朝鮮学校のケースは(佐藤氏の主張とは逆に)排外主義の要素を橋下氏が存分に備えていることを明白に証明している。「説得力を持たない」のは佐藤氏の言説のほうだろう。こうしてみると、橋下氏に関する佐藤氏の発言内容はまさしく下記の指摘のとおりではないだろうか。

「 ただ、上記文春記事をちょっと読んでみると「橋下は石原慎太郎と違い、これまで排外主義を政治的カードにしていない」といった内容の事を佐藤は書いていたが、これもまた全くの嘘ハッタリもいい所だ。朝鮮学校への補助金カットは? 北朝鮮や総連を暴力団やナチスになぞらえた事は? 橋下はこれまで充分すぎるほど排外主義を政治的カードに悪用してきた。それこそ石原慎太郎並みに。

佐藤から橋下へのおべんちゃらコメントは、やはり相変わらずの嘘ハッタリと露骨なゴマすりにまみれた「佐藤節」全開であった。何しろ差別主義者に対して 「あなたは差別主義者じゃありませんから安心して下さい」というのだから、これほど橋下の琴線に触れる言葉はあるまい。石丸次郎や在特会の例を見るまでもなく、この手の差別主義者連中ほど「自分は差別主義者じゃない」と主張したがるものなのである。」
2012.05.14 Mon l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
4月27日付「日刊ゲンダイ」にその前日(4月26日)の小沢一郎氏の無罪判決をうけて「小沢無罪判決を多くの人々はどう評したか」というタイトルの記事が掲載されている。ゲンダイがここで言っている「多くの人々」とは、 作家の三好徹氏他、郷原信郎、内田樹、碓井広義、佐高信という諸氏のことで、この人々は一様に今回の無罪判決を寿いでいる。裁判の過程で小沢氏の有罪を決定付ける証拠は出なかったようだから、この判決は妥当なものだったように私も思う。これで有罪判決が出ていたとしたら、さまざまなシコリが残っただろう。この裁判でも検察当局の劣化がきわ立ったようである。取り調べの全面可視化、証拠の全面開示化は避けられない。一刻も早く法制化に着手してもらいたいと思う。これは警察・検察の捜査能力向上に結びつくにちがいないのだから、結局は捜査当局のためにもなるはずだ。

一方小沢氏の立場について触れると、 小沢氏の元秘書3人は一審で有罪判決を受けており、現在までの報道で知るかぎりではこの判決も妥当であるようにみえる。これに関して政治家・小沢氏の政治責任、道義責任が問われるのは当然のことだと思うが、氏のこれまでの態度・振る舞いは終始一貫他人事のようで決して誉められたものではなかったと思う。

日刊ゲンダイは90年代には小沢氏を金権政治家、自衛隊の海外派兵を企む危険な政治家だと指弾していたと記憶するのだが、現在のように小沢一郎応援筆頭メディアに路線変換した時期やきっかけは何だったのだろう。民主党に合流した後の小沢氏の例のスローガン「国民の生活が第一」に参ったということだったのだろうか。

さて日刊ゲンダイの上記5人の発言者のうち意気盛んなのは、碓井広義、佐高信の両氏である。まず碓井氏の発言から。

今回の判決の結果、既存メディアが小沢報道の検証を怠れば、間違いなく崩壊に向かいます。小沢氏を一方的に攻撃した大政翼賛的な報道は、検察のリーク情報や反小沢派の意向に流されたように見える。こうした疑念にメディアがどう答えるのか。視聴者や読者は目を光らせています。自らの非を認めず、従来の報道を正当化するような小沢叩きを続ければ、いよいよ、既存のメディアは信用を失う。 ただでさえ、若年層を中心にメディア離れは加速している。ネットやソーシャルメディアの方が、真実が混じっているだけマシだという価値観が広がっています。今回の小沢判決で既存メディアは存立の危機に立たされています」(上智大教授・碓井広義氏=メディア論) (強調のための下線はすべて引用者による。)

この発言をうけて、ゲンダイは「だからこそ、既存メディアは小沢を亡き者にしようと必死だったのだが、案の定と言うか、正義のカケラもない魔女狩りは失敗した。 小沢はもちろん、「落とし前をつけろ!」とは言わないだろうが、世間はそういう目で見ているのだ。」と述べている。

長期にわたって権力中枢に座を占め剛腕を振るってきたはずの政治家小沢氏をまるでいたいけな被害者扱い、悲劇のヒーロー扱いだが、既存メディアが視聴者や読者の信用を失ってきているのは明らかな事実にちがいない。でもそれは小沢叩きを行なってきたからではない。大手メディアの信用失墜はこの問題とは無関係で、小沢問題に関するかぎり、「視聴者や読者」が「目を光らせてい」るのは、むしろ小沢氏がその長い政治生活のなかでカネに関して全体どんな行動をとってきたのか、ということに対してだろう。 碓井氏とゲンダイは、小沢氏に無罪判決が出たことで、「あぁ、そうだったのか。小沢氏は本当は潔白だったのに、大手メディアのせいでとんだ濡れ衣を着せられ悪者にされてきたのか!」などと思った一般大衆がどれだけ存在すると思っているのだろう。一部の熱烈な信者のような人々を除けば、世のなかにそんなおめでたい人間は皆無に近いと思ったほうがいい。そのくらいのことはメディアが行なう各種の世論調査でとうに明らかになっているはずなのに、碓井氏もゲンダイも知らぬ顔の半兵衛を決めこんでいる。この点に迂闊に踏み込んだらかえって人々の小沢氏への疑念・不信をつよめたり、生活苦に喘ぐ層の怒りを買う結果になったりして、自分たちの立場を危うくしかねない、少なくとも得策ではないと感じてそうしているのではないだろうか。

小沢氏は新進党、自由党、民主党の党首時代に、税金で賄われている政党交付金をどのように使っていたのかが不明、それから莫大な額の組織対策費が小沢氏の腹心と言われる数名の議員にのみ支出され、その使途もまた不明であることなどが松田賢也氏の著書には克明に記されており、上脇博之氏のブログではこの件もふくめて小沢氏のカネの問題(もちろん、問題はカネの件にとどまるものではないが。)について丁寧な調査・検証がなされている。小沢氏が問題なのは、これらについてこれまで一度もまともな説明をしたことがない、ということだ。少なくとも私には小沢氏の説明が腑に落ちたという経験の記憶はない。

年収200万、300万、あるいはそれ以下の低額所得者でも納めなければならない税金は当事者にとってかなりの額、きびしい割り当てになるのであり、多くの者は身を削る思いで納税の務めを果たしている。税金の大半はそのように人々のなけなしの財布から出ているのが実状だと思うが、そのなかの決して少なくないカネの使途を小沢氏は不明にしている。その一方当人は数々の不動産を買っているとか選挙に際してグループの議員たちに総額数億円にも上る多額の寄付配分をしているなどの実態を知らされれば、有権者の脳裏にその政治家に対する「なぜそんなにお金があるの? 打ち出の小鎚でも持ってるの?」という疑問が浮かぶのは当然のことである。 これは税金と関係あるかないかは判らないが、前述した松田氏の著書には小沢氏の不正な金銭強奪についての野中広務氏による生々しい証言さえ記されている。日刊ゲンダイが小沢氏を潔白と断言するのならダンマリを決めこむ小沢氏に代わってこれらの件についての全体を紙上で懇切に説明したらいいのではないか。まさか根拠もなく一政治家の擁護・太鼓持ちを務めているのではないのだろうから、 ぜひ紙上で一大展開してもらいたい。私もそうだが、有権者は本当のことを知りたいと思っている。

次に佐高信氏のコメントを取り上げる。佐高氏は下記のように発言している。

松下未熟塾の政治家による子供の政治が終わりを告げ、大人の政治が、ようやく始まる。そんな期待が持てます。民主党における小沢一郎氏は、子供の中にひとり、大人が交じっているようなもの。小沢氏が真っ白かどうかは分かりませんが、極端な話、悪いこともできない子供には良い政治もできないのですよ。子供集団の民主党政権は、官界、財界にナメられている。だから、消費税引き上げや原発再稼働などという考えられない話が出てくるのです。政治がダメだから官が暴走し、消費税引き上げに反対する文化人を狙い撃ちにするような嫌がらせも起こっている。こうした政治を是正しなければならない。小沢氏が無罪を勝ち取ったことで、状況は確実に変わってくると思います

思わず全文に下線を付けてしまったが、これは一体全体何という情けなくもバチ当たりな発言であることだろう。こういうものを読むと、この人は途中で変質したというより、もともとろくにモノを考えることをしない・できない人物だったのではないか。時流に乗ってまんまと自分を良識派、憲法擁護派の立場に置くことに成功したものの、当初から他人の弱点を突いた攻撃を得意とするだけの鉄砲玉のように軽~い人物だったのではないか、と思いたくなる。言うにこと欠いて、「小沢氏が真っ白かどうかは分かりませんが、極端な話、悪いこともできない子供には良い政治もできないのですよ。」はあんまりだ。こういう発想・発言を指して一般社会では長らく「永田町の論理」と評してきたはずだが、この人にはどうやらその永田町の論理が完璧に染み込んでいるらしい。そうでなければこういう音は出ないだろう。

昨日5月3日は憲法記念日だったが、佐高氏は例年どおりどこかの会場で日本国憲法を擁護し、賛美する講演を行なったのだろう、きっと。そういう言動と「小沢氏が真っ白かどうかは分かりませんが、極端な話、悪いこともできない子供には良い政治もできないのですよ。」という発言が同一人物のなかに並存可能であるとして世間に通用し、怪しまれないところに絶望的な日本の現状が明示されているとは言えるだろう。佐高氏の論理でいいのなら、政治家はいっそのこと、犯罪者集団のようなところから引っ張ってきたほうが育成の手間も省けて好都合なのではないか。ここには「悪」や「善」についていくらかでも考察した気配は露ほどもない。単に、悪(狡)賢い人間、どんな手を使っても自己の勢力拡大のために剛腕を振るうことのできる人間、ふてぶてしい人間ーー要するに「つよい人間」ーーに対するこの人のつよい憧れの念が感じられる。それまで散々悪口を書いていた石原慎太郎にいざ会うと異様なまでにへりくだった哀れというしかない態度をとったことなども思い出される。佐藤優現象の強烈な推進役になったのもむべなるかなである。

小沢氏について「悪いこともできない子供には良い政治もできない」と言って擁護の主張をするのなら、小沢氏の「悪いこと」と「良い政治」とは何を指してそう言っているのか、佐高氏には事例を挙げて懇切丁寧に説明・釈明してもらいたい。このような重大な発言は思い付きの言いっぱなしで通用させてならないことは今ではもうあまりにも明らかだ。佐高氏は「 子供集団の民主党政権は、官界、財界にナメられている。だから、消費税引き上げや原発再稼働などという考えられない話が出てくるのです。」と言う。ところが、政治が「官界、財界にナメられ」る元凶の一つである「企業・団体献金」について、2009年の衆院選挙で民主党はその全面廃止をマニフェストに掲げていたにもかかわらず、政権奪取後はこの問題を21世紀臨調に諮問することで反故にした。この施策を行なったのは、政権交代後の鳩山政権下における小沢幹事長であった。何のことはない、民主党議員のなかで「財界に」政治を「 ナメ 」るスキをあたえている筆頭は佐高氏ご推奨の小沢氏だったのだ。

実は小沢氏が企業・団体献金の全面廃止を国会に上程せず、21世紀臨調に諮問したのをうけて、上脇博之氏は自身のブログでつよい懸念を示されていた。財界の資金援助をうけていてその影響下にあることが明白なこの団体が企業・団体献金の全面廃止を打ち出すはずがないと予想されたからで、結果は案の定であった。今回の小沢氏無罪判決に際しても上脇氏は下記の発言をされている。

「 政治資金規正法等も改正されるべきである。/ その主要な第一は、企業・団体献金を全面禁止すること。 民主党はマニフェストでこれを公約しながら、小沢氏が幹事長時代にこれを反故にしてしまった。 企業・団体献金は政治腐敗の温床であり株主や労働組合員の人権を侵害しているから、 即刻法律改正して全面禁止すべきである。 」(/は改行部分)

さて先に引用した佐高氏の発言中の「だから、消費税引き上げや原発再稼働などという考えられない話が出てくるのです」という部分についての感想は、あぁ、佐高信という人はこんなにまで小狡い人物だったのか! の一言である。小沢氏が現在野田政権の消費税増税方針に反対していることは多くの人が知っている。佐高氏はそのことを利用して、小沢氏は消費税のみならず原発再稼働にも反対しているという虚偽の宣伝をしているのだ。明白に人々(私たち)を騙しにかかっているのである。

小沢氏が昨年3.11の後1週間近く公衆の面前に姿を現さず、姿を現したと思ったら、当時の菅首相を引きずり降ろすことに一大精力を傾けたことは周知の事実である。小沢氏は、この難しい時期に菅さんに代わって指揮をとれる人物がいるのかというどこかのインタビューに答えて「いくらでもいますよ」「菅さんでなければ誰でもいい」と宣っていた。この事実について佐高氏はどのように解釈しているのか聞かせてもらいたい。91年の青森県知事選における小沢氏の活躍についての感想も聞きたい。六ヶ所核燃料サイクル基地建設が選挙の争点だったこの年の青森県知事選について、鎌田慧氏のルポルタージュ「六ヶ所村の記録 上下」(岩波書店1991年) には下記の叙述がある。

「…「地方自治体の選挙に政府が干渉するのはおかしい。準公共企業体の独占企業の団体である電事連が選挙を請け負って、カネをふんだんにだしている」 これが「核燃選挙」といわれる知事選の実態である。やってきた自民党の小沢幹事長は遊説にまわらず、青森市内のホテルに陣取って土建業者を呼びつけ、ひとり3分ずつ面会した、とのエピソードは、よく知られている。現職候補と自民党は、県財界、農漁業団体はおろか、保育園のはてまで締めつけていた。」

このような事情をみると、東日本大震災発生後姿が見えなかった間の小沢氏はあるいは東京電力などの電力業界関係者と連絡をとって対応を協議していたのではないかという推測が浮かんでもあながち無理はないだろう。むしろ一番自然な推測のようにも私には思えるのだが、これについて佐高氏はどう考えるだろうか?

それから佐高氏は昨年の原発事故の後、それまで原発推進の旗振り役を務めてきたような文化人を俎上にのせた本を出版したそうである。その本を私は読んでいないし、今後も読むつもりはないが、あるブログはその本についてブラックリストの人選がフェアではない、親しい関係にある人物は原発推進者であってもリストから除外している、という趣旨の指摘をされていた(こちらこちら)。リストから除外されているなかに佐藤優氏が入っているだろうということは、佐高氏の普段の言動をみていれば聞くまでもなく判ることである。しかしあからさまにこういう不公正・不公平な言動をみせる佐高氏のような人物に、対象が原発であれ、改憲であれ、本心から反対するというようなことが可能なのだろうか。私には疑わしく思える。

佐高氏は「消費税引き上げに反対する文化人を狙い撃ちにするような嫌がらせも起こっている。 こうした政治を是正しなければならない。小沢氏が無罪を勝ち取ったことで、状況は確実に変わってくると思います」とも述べているが、この発言には、この人の近年の文章に特有の何とも言いようのない気持ち悪さがにじみ出ているように思う。自分は消費税引き上げに反対して嫌がらせをうけている(が、それに負けずに自分は頑張っている、闘っている)という自画自賛の含意もあるのだろうが、狙い撃ちにされているという嫌がらせの内容については何も記さず、おまけに「小沢氏が無罪を勝ち取ったことで、状況は確実に変わってくると思います」などと意味不明の発言がつづいている。そのせいか、あるいは率直さに欠けるせいか、この文章にはとりわけイヤな後味をおぼえた。
2012.05.04 Fri l 週刊金曜日 l コメント (4) トラックバック (0) l top
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