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先日(5月9日)、佐藤優氏が「週刊文春」の最新号で、橋下徹大阪市長がもしも総理大臣に就任するとしたらそれを支持するか否かというアンケートに答えて、自分は支持する、と語っているというブログ記事を読んで、一瞬のけぞってしまった。いくら何でもそんな無節操なことを…? などと言ったらわざとらしいかも知れない。これまでの佐藤氏の言動を見れば節操とか正直とか一貫性とか羞恥心なんてものを氏に求めても仕方がないことは多くの人の目にすでに明らかだろうから。それでも、佐藤氏が橋下氏について「新潮45」( 2011.12月号 )という雑誌で「状況対応で向こう岸に渡ろうとしている現在の日本によくいるひ弱なエリートの一人に過ぎない 」「支離滅裂なひ弱なエリートである橋下徹氏の素顔を描く方が、この政治家をめぐる神話を脱構築する効果がある」と語っていると聞いたのはついこの間(とはいえもう5、6ケ月前のことになるが)のことだった。「新潮45」でのこの佐藤氏の発言を最初に知ったのは私の場合こちらのブログによったのだが、ブログ主のZED氏は、この発言について「それにしても、佐藤優が橋下に対してあんな事を言ってるとは思わなかった。」と述べつつ、

「とは言え、佐藤の親分である鈴木宗男(ヤクザ用語で言う所の現在「社会不在」中)の、そのまた親分格である小沢一郎が橋下に対して「つかず離れずで行け」として裏で手を組むそぶりをしている事から、多分佐藤は時期を見て橋下に媚を売る方向へ転換するだろう。とりわけ橋下が選挙に負けていたならともかく圧勝してしまった以上、佐藤ら小沢一派は急速に橋下一派への接近とゴマすりを始めるはず。 」

と記述されていた。私は橋下氏を「ひ弱(なエリート)」とする佐藤氏の見方は的はずれの度が過ぎていて奇異な感じをうけた(橋下氏は誰が見たって、(佐藤氏と同様に)「ひ弱」とは言えないだろう。)ものの、「佐藤ら小沢一派は急速に橋下一派への接近とゴマすりを始めるはず」とのZED氏の見方には「?」と感じた。この疑問は佐藤氏が口にする政治信条と橋下氏のそれとが異質だなどと考えた上でのことでは全然なく(後に述べるが、私はしばしば佐藤・橋下、両氏の言動に共通性を感じてきた。)、佐藤氏とその周辺の人々が形成しているらしき人間関係を思い浮かべてのことである。「フォーラム神保町」の仲間であるはずの山口二郎氏や香山リカ氏が現在盛んに橋下批判を繰り広げている以上、また佐藤氏が金光翔さんに提訴された民事裁判での代理人が、かつて橋下氏がテレビで視聴者に向かって懲戒請求を煽動したことで大きな被害を被ったことが明白な光市事件弁護団の弁護人である以上、佐藤氏も内心はどうあれ、また鈴木宗男氏(小沢一郎氏)絡みの何らかの思惑が存在するにしろ、当面さすがに橋下擁護の言論は口にしない、できないのではないかと思ったのだった。でもこうなってみると、そんな考えは甘過ぎたということである。

山口二郎氏、香山リカ氏などが橋下氏についてその言動のファシズム性を「ハシズム」と呼称して(編集者の発案かも知れないが。)批判していると聞いたとき、とっさに思い浮かんだのは、正直なところ、「見事なまでの二重基準」「厚顔無恥」というような言葉であった。橋下氏の言動に対して真っ先にファシズム性を指摘・批判している山口氏や香山氏は、佐藤優氏という、橋下氏とほぼ同様の排外主義・民族差別主義的言論活動を展開してきた人物にこれまでどう対応してきたのだろう。一言でも批判するどころか、金光翔さんの「「佐藤優現象」批判」のような論考が出ても完全無視し(この論考については当然知っていると思う。)、明らかにこれを「タブー」として取り扱い、佐藤氏と仲良く行動を共にしてきた人たちである。そういう自分たちのこれまでの行為について、橋下=ファシズム批判を行なっている現在、どう考えているのだろう。佐藤氏の言説や自分たちの行動にはフッァショ的な要素はなかったと考えているのだろうか。

しかし橋下氏を問題視するだけの思考の働きを備えていながら、自分のすぐ側にいる佐藤氏の同種の傾向に疑問を持たないという感覚や思考構造は私には理解不能である。佐藤・橋下というこの2人の言動や、そこからかいまみえる世界観には、もしかすると2人の異質な点を挙げたほうが早いかも知れないというほど、共通点が多いように思える。下に挙げる「眼光紙背」の各文章のタイトルを見ただけでもおおよそ判るのではないかと思うが、これらの掛け声は場合によっては橋下氏の口から出てもおかしくはないのではないだろうか。

じつは上で引用させてもらった「新潮45」もふくめてここで取り上げる佐藤優氏の原文に目をとおしたのは今回がはじめてである。 ここ1年ほど、私は活字媒体における佐藤氏の文章はほとんど読んでいなかった。ネット上の「眼光紙背」はたまに見ていたが、内容は相変わらずで(例:「アメリカに対して異議申し立てをきちんとする野田佳彦首相を外務官僚は全力で支えよ」 2011年11月15日 )、投稿頻度はめっきり少なくなっている。昨年の3月11日以後、「国家翼賛体制の確立を!」「大和魂で菅直人首相を支えよ」「福島原発に関する報道協定を結べ 」「頑張れ東京電力!」など立て続けに発表した記事の内容があまりに醜悪だったため、批判に晒されこそすれ(こちらこちら)、表だってはさすがに誰もこれを評価はしなかったようである。それに加えて岩波書店の「世界」への寄稿が中断されたままのせいもあるのだろう、もうさして活発な言論活動は行なっていない印象を受けたこともあり、わざわざ雑誌や著書に手を伸ばす気にはなれなかった。(強調の下線はすべて引用者による。)

この機会に「新潮45」や最新号の「週刊文春」(久しぶりに週刊誌を買ったら、380円にもなっていて驚いてしまった。)やネット上に出ているものなど、佐藤氏の文章をいくつか読んでみた。どれも相変わらず佐藤氏らしいハッタリの効いた発言揃いだと思ったが、このうち山口二郎氏の2012.1.16日付Twitterでの発信「佐藤優さんが橋下の本質はマッカーシズムだと看破してました」には特にそう思った。

山口氏の「佐藤優さんが橋下の本質はマッカーシズムだと看破してました 」との口調には佐藤氏の慧眼に感心しているというような気配があるが、「新潮45」掲載の橋下氏を論じた佐藤氏の文章の題は「「反ファシズム論」では彼に勝てない」である。いわく、ファシズムの先導・煽動者は弱者に優しいが、橋下氏は弱者に優しくない。また橋下氏は「大阪府知事に就任してから、大阪府中の労働組合連合会や教職員組合と対決姿勢を鮮明にし、結果として組織された労働者の団結を強化している。ファシストはこのような間の抜けた戦術をとらない。」などと、ファシズムの理論家だったというマラパルテという人物の「クーデターの技術」(イザラ書房)という著書に全面的に依拠して「橋下=非ファシスト」と主張し、「橋下氏は、ファシズムを構築する意思もインフラも持たない。状況対応で向こう岸に渡ろうとしている現在の日本によくいるひ弱なエリートの一人に過ぎない。実態から懸け離れた反ファシズム論を展開し、橋下氏の幽霊政治を恐れるよりも、スキャンダリズムを最大限に駆使し、支離滅裂なひ弱なエリートである橋下徹氏の素顔を描く方が、この政治家をめぐる神話を脱構築する効果があると筆者は考える。」と結論づけている。

しかし多くの人と同様、私も橋下氏にはもちろん強烈にフッァショ性を感じさせるところがあると思う。学校の教職員に対して処分で恫喝して君が代斉唱を押しつけたり(おそらくこれがいたく石原慎太郎東京都知事の気にいったのではないか)、ついには斉唱している教職員の口元の監視という世にもおぞましい行動に打って出てみたり(監視を実践した校長はこれが橋下市長の意に添うと考えたのだろう。しかしこれは途轍もないレベルでの人権侵害であり、人間の尊厳の全否定であり、それと同時に古今東西の「歌」というもの総体への他に考えられないほどの侮辱であろう。)、その前には大阪府内の朝鮮学校に補助金の廃止で恫喝して教育内容への干渉を企んだり、北朝鮮・朝鮮総連との関係の転換を迫ったり、そのようにして児童・生徒を初めすべての朝鮮学校関係者、在日朝鮮人全体に不当な心労を舐めさせておきながら、結局補助金の多くを削っている。橋下氏のこういう施策およびこういう施策を行なっているにもかかわらずその支持率が高いというところに私もフッァショ性を感じる。でもまぁファシズムの定義はさまざまに存在するようなので、佐藤氏が「橋下氏は、ファシズムを構築する意思もインフラも持たない。」と言うのなら、それに対してあえてケチをつけたり、取り合おうとは思わない。しかし「新潮45」であれだけ明確に橋下氏のファシズム性を否定した佐藤氏が「橋下の本質はマッカーシズム」と述べたというのはまったく解せないことである。それでは、マッカーシズムはファシズムと無関係・無縁の主義だというのが佐藤氏の理解ということになるが、これはどう考えてもおかしいだろう。この佐藤発言はネットでも見ることができる。

「 佐藤優氏 橋下徹氏の成功はニヒリズムを克服できるかどうか
 過去のどの政治家と比較すると橋下氏の特徴が鮮明になるだろうか。筆者は、1950年代の米国で活躍したジョセフ・マッカーシー上院議員(1908~1957年)との類比で現在の橋下氏を考察している。マッカーシー上院議員が展開した「赤狩り」(共産党員もしくはその同調者と見なされた者への激しい攻撃)は、マッカーシズムと呼ばれたが、これに橋下市長の手法は親和的だと思う。
 米国のジャーナリスト、リチャード・ロービアは、〈マッカーシーは重要な意味での全体主義者ではなかったし、反動でもなかった。こういう用語は主として社会的、経済的秩序にかかわるものだが、かれは社会的、経済的秩序には全く関心がなかった。
 マッカーシーが思想、主義、原理の領域においてなにものかであったとするなら、一種のニヒリストであった。かれは根っからの破壊勢力、 革命的ビジョンなき革命家、理由なき反逆者であった〉(R・H・ロービア[宮地健次郎訳]『マッカーシズム』岩波文庫、 1984年、16頁)と指摘した。
 マッカーシズムの嵐が吹き荒れたのは、わずか4年間に過ぎなかった。外交・防衛政策にポピュリズムを持ち込んだマッカーシーは、国益を害する存在になったので、政治、経済、メディアのエリートによって放逐されたのである。
 しかし、マッカーシズムによって反共主義が定着し、社会に寛容さがなくなった。橋下氏が敵を探し出し、それと対決する手法を取り続けるならば、いずれかの段階において、 政治舞台から排除される。聡明な橋下氏はそのことに気づいているので、方向転換を考えていると思う。その成功は、橋下氏がニヒリズムを克服できるか否かにかかっている。(※SAPIO2012年5月9・16日号)」

「聡明な橋下氏」ねぇ。半年前は「支離滅裂なひ弱なエリート」と評していたというのに…。それはともかく、私はこれまで佐藤氏とは異なり、マッカーシズムはファシズムの一種である、少なくともファシズムの特徴をさまざまに備えた主義主張だと理解していた。こういう理解は別に珍しくもないごく一般的なものと思うのだが? たとえば、 加藤周一と鶴見俊輔の対談を収めた 「20世紀から」(潮出版社2001年)でもマッカーシズムは話題にされているが、加藤周一はマッカーシズムについてナチスのホロコーストと比較して「(イデオロギーが絡むと)正義は全面的にこちら側にあるから、反対意見はぜんぶ間違っている。そういう人間はいないほうがいいということになる。マッカーシズムも物理的に殺したわけではないけれども、通底するものがあるんです。」と述べている。

佐藤氏が引用している『マッカーシズム』という本を私は読んでいないが、この本の著者はマッカーシズムについてファシズムとは異質の主義だと述べているのだろうか。おそらく誰にしろそんなことを言う人物はないないと思うのだが? そもそもマッカーシーがニヒリストだったとしても、そのことは彼がファシストでなかったことの証明にはならないはずだ。また佐藤氏はSAPIOや文春で、「現時点までの橋下氏の政治手法を見る限り、社会的弱者に対する優しさ、排外主義の両要素が欠如している。橋下氏をファシスト視する言説が説得力を持たないのは、分析する対象の実態と噛み合っていないからだ。」(「SAPIO」2012年5月9日号)と述べている。朝鮮学校への対応を見れば橋下氏に「社会的弱者に対する優しさ」が見られないのは事実だが(とはいえ、ご本人は公務員叩きをすることで、公務員一般を既得権益者とみなして反感をもつ層に優しさを現しているつもりかも知れない。)、しかしこの朝鮮学校のケースは(佐藤氏の主張とは逆に)排外主義の要素を橋下氏が存分に備えていることを明白に証明している。「説得力を持たない」のは佐藤氏の言説のほうだろう。こうしてみると、橋下氏に関する佐藤氏の発言内容はまさしく下記の指摘のとおりではないだろうか。

「 ただ、上記文春記事をちょっと読んでみると「橋下は石原慎太郎と違い、これまで排外主義を政治的カードにしていない」といった内容の事を佐藤は書いていたが、これもまた全くの嘘ハッタリもいい所だ。朝鮮学校への補助金カットは? 北朝鮮や総連を暴力団やナチスになぞらえた事は? 橋下はこれまで充分すぎるほど排外主義を政治的カードに悪用してきた。それこそ石原慎太郎並みに。

佐藤から橋下へのおべんちゃらコメントは、やはり相変わらずの嘘ハッタリと露骨なゴマすりにまみれた「佐藤節」全開であった。何しろ差別主義者に対して 「あなたは差別主義者じゃありませんから安心して下さい」というのだから、これほど橋下の琴線に触れる言葉はあるまい。石丸次郎や在特会の例を見るまでもなく、この手の差別主義者連中ほど「自分は差別主義者じゃない」と主張したがるものなのである。」
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2012.05.14 Mon l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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