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 中野重治の江藤淳に対するきびしい批判…1961年

江藤淳は『昭和の文人』執筆時に中野重治が存命であったなら、果たしてこのような文章を発表しただろうかという疑問も私には浮かぶ。「 彼は…(略)…、終生廉恥を重んじ、慟哭を忘れることがなかった。そのような中野重治の文業に対して、私はほとんど自らの慟哭を禁じ得ぬ思いであった。」 などの発言は、「中野重治「再発見」の現在」がズバリ指摘しているとおり、江藤淳が「自分の姿に似せて相手を」、つまり中野重治を「つくりかえ」ていることだと思う。したがってこれは中野が無視や苦笑いで済ますことのできる程度・内容をはるかに超えていることを江藤自身解っているのではないかと思うから、中野が存命であったなら果たして…というような疑問をもつのだが、しかし江藤淳という文学者にはそのような感想や意見は全然通じないのかも知れないとも思う。(強調の下線はすべて引用者による。)

それというのも、江藤淳はかつて中野重治から「プライヴァシーと「せいのび」」(初出1961年。現在「中野重治全集24巻」に収載)と題された文章においてきびしい批判をうけたことがある。これは江藤淳が当時文学界に発表した「小林秀雄論 第二部 その四」」のなかで中野重治について書いた文章に対しての反駁文だが、中野重治は江藤淳の文章を一つひとつ細かく拾い上げ、その誤りを丁寧に指摘している。これを読むと、江藤淳は『昭和の文人』の中野論で顕わしているものと共通した側面を1961年当時すでに見せていたこと、そしてその側面を(他ならぬ)中野自身から鋭く指摘・批判されていたことが分かるように思う。

江藤淳への中野の「きびしい批判」と先に書いたが、とはいってもこの「プライヴァシーと「せいのび」」で中野が江藤を批判する態度・論調はいつもの中野のそれに比べるとかなり物柔らか、抑制的である。この理由の一つには、当時、1902年生まれの中野は59歳、1932年生まれの江藤は29歳であり、江藤はまだ非常に若かった。この30という年齢差や、このころの江藤淳は大江健三郎や石原慎太郎らと「若い日本の会」を結成、反安保の姿勢で活動していた時期なので、それらの事情が江藤を批判する中野の心境に影響していたのではないかと思われる。しかしもっと大きな理由は、問題が社会的出来事や文学・芸術方面一般のことではなく、直接に自分という人間をめぐる問題であること、特にそれが中野重治の転向以後の1935年、1936年ころの言動の問題であるという、問題のそういう微妙さ、複雑さによったのではないかと思う。

さて、「プライヴァシーと「せいのび」」だが、中野重治はここで、むかし斎藤茂吉が「私が死んで遺稿を出すときには、書簡だけは公表せずにもらひたいのである。」と書いていたことを紹介する。そして、「手紙を書いたという事実がある以上、また手紙そのものが残っている以上、その間の消息がほじくられずにはすまぬということは一般には認められることだろうと思う。」と述べ、また「書簡だけは公表せずにもらひたいのである。」という生前の茂吉の意思がその死後聞き入れられないであろう、書簡はほじくり返されるであろう、またそれはやむを得ないことであろう、とも述べる。そしてそこから一転、次のように書簡をほじくる側のほじくる理由を問題にする。

「しかし、ほじくりは何のためにほじくられるか。ほじくりのためのほじくりは生産的でない。ただその間の消息を明らかにするためのほじくりが生産的になる。そしてこの後のほうのほじくりについては、茂吉にしろ誰にしろ全般的にこれを禁止することはできない。わたくしごとからそのワタクシが、プライヴァシーの枠が外されるのだから。だからそこでは、消息を明らかにすること、真実を取りだすことにほじくりが従属させられる。そうなければならぬ。」

として、中野は書簡をほじくる、書簡がほじくられる、つまりある個人のプライヴァシーの枠を外す、枠が外ずされる場合の原則を明示する。その原則は、上記のように、①書簡が書かれた事情消息を明らかにするためのほじくりであること、②真実を取りだすことにほじくりが従属させられること、である。中野重治はそのように問題を立てておいてここから本題に入っていく。

「反対に、わが頭に或る仮定があつて、それを裏づけるためだけに文書あさりするのに止まるとなると話は学問的でなくなつてしまう。実地問題として、たいていの場合わが頭に何かの仮定がある。ほじくりをして行つてそれが事実の裏づけをえたように思えてくることがあり、しかしいつそう作業をつづけて行つてこの関係が逆になつてくる場合もある。この場合、ある人はそれまでの仮定をこわしてもうひとつ向うに新しい仮定を立てる。そしてさらに作業をつづける。しかし他の或る人は、第一の仮定から決して動かない。第一仮定に具合いいものをほじくりから取つてきて、これに逆らうらしいものは弾きとばして行つてしまう。第一仮定がそのまま固められる。
 ただちにそれと言うのではないが、それに似たものが私にふれて出ているので江藤淳の『小林秀雄論」(『文学界』)について書いておきたい。」

そう言って中野が江藤淳を批判した文章の中身は次のとおりである。一部を引用する。

「 そこ(引用者注:文学界に載った江藤淳の「小林秀雄論」)に私の「二律背反的な態度の矛盾」ということが出ている。
「 中野氏は、昭和10年代の感傷的な左翼青年がそう信じたほど一貫した『信念』の道を歩いていたわけではない。彼は孤立をえらびながら『提携』を説いたが、全く同様に従軍の覚悟を語りつつファシズム反対を説いている。しかし、この矛盾を責めるのはおそらく過酷であろう。」
 ここいらは、単純に言って私にわかりかねることでもある。当時の私に矛盾があつたとして、「この矛盾を責めるのはおそらく過酷であろう。」というところなどが私には単純にわからない。「矛盾を責める」というのが、もし矛盾を指摘してそれを認めよと迫ること、そしてそこからの脱出を要求することを意味するのならそれが「過酷」であるはずはない。それをしないのならば批評家が消えてしまう。ことわつておけば、私は、私には矛盾がなかったとか、『二律背反的な態度』がなかつたとか、「感傷的な左翼青年がそう信じたほど一貫した『信念』の道を〔私が〕歩いていた」とか言おうとするのではない。ただ私が「不可能をあえて主張した」とか、「できないに決まつているような路線に固執した」とか、「孤立を選びながら『提携』を説いたとか、「従軍の覚悟を語りつつファシズム反対を説い」たとか言われるとなるとちよつと待ってくれと言いたくなる。そんなことは事実としてないし、なかつた。何か江藤には、科学者、批評家として事実しらべをある程度で止めてしまうようなところ、同じく科学者、批評家として基本的に想像力の弱いようなところがあるのではないか。」
 
「 『中野重治氏は、昭和11年10月に『二つの戦争について』というエッセイを書いている。これが全集の現在までに刊行された巻に収録されておらず、年譜にも記載されていないのはどのような事情によるものか知らない。そこで中野氏が述べているのはこういうことである。』
「年譜」というのがどれを指すものか私にはわからぬが、あるいはどの年譜にもそれがのっていないのかも知れない。それはそれらの年譜が詳しいものでなかったという「事情」に単純によるのだろう。『全集』でいえば、それはそれの第15巻にのっている。しかし第15巻はその前の1冊から1年以上して出たのだから、江藤が見なかったというのならば仕方ない。ただ戦後に出た『楽しき雑談』第2にはのっている。年譜は別として、「どのような事情によるものか」という言葉に含みがあったのならば含みのほうがちがっている。
 そこで、「そこで中野氏がのべているのはこういうことである。」といって江藤が「2つの戦争について」の部分を引用している。ただし彼はそれを星加輝光の「戦時における小林秀雄」から引用した。星加の文章は『九州作家』第36号(1958年2月)にのったもので、江藤は、星加の「このエッセイに引用されている部分に拠った」とことわっているが、この「部分に拠った」というのが、星加の引用をさらに部分的に江藤が引用したというのかどうか今私にわかっていない。それは星加の原文についてみればわかるが今ちよつと『九州作家』が見つからぬ。なお江藤は、星加の評論を「すぐれた労作」と書いている。また江藤は、私の文章を本文では「2つの戦争について」といい、註では「2つの戦争のこと」といっているが後のほうが正しい。
「そこで中野氏がのべているのはこういうことである。」
 「そこで話を飛ばして、いよいよ戦争となった暁にはわれわれ文学者はどうなるか? 事情が非常に切迫して来た瞬問には、私は文学者といへども銃をとらねばならぬと思ふ。これは文学的表現としていふのでなく、全く文字どほりの意味においてだ。(中略)私はナチスではないからナチスを担ぎはしないが、生きた軍事知識のためにビストルも習ひたいし、タンクの活動もよく知りたい。(中略)フールマノフとかオストロフスキーとかいふ作家を読んで気づくことの一つは、奴等は鉄砲をうちもしたし鉄砲でうたれもした、人間の3人や5人は叩っ斬って来てゐるといふことだ。」
 こう引用してつづけて江藤は書いている。
「9月に在郷軍入会令が公布され、10月に内蒙古軍が綏遠に侵入し、11月に日独防共協定が成立し、12月にワシントン海軍条約が失効したというような当時の時勢の急転換を想いおこしてみれば、ほかならぬ中野氏のこのような発言がどれほど「民衆煽情」に役立つたかは容易に想像される。(中略)中野氏は、昭和10年代の感傷的な左翼翼青年がそう信じたほど一貫した『信念』の道を歩いていたわけではない。彼は孤立をえらびながら〔提携〕を説いたが、全く同様に従軍の覚悟を語りつつファシズム反対を説いている。」
 「……というような当時の時勢の急転換を想いおこしてみれば」、これこれのことが「容易に想像される」という本人を前において私は「加像力の弱いようなところ」などと書いたが、江藤の引用には無理があることを江藤自身も認めるだろうと思う。彼は(中略)と入れて心やすくつづけているが、第一の(中略)の前と後とのあいだには大きな段落がある。そしてそこの文句こそ、少なくとも私の書いておきたい肝腎のことの一つなのだった。第二の(中略)の前と後とのあいだにもちよつとしたことがある。それは当時おこなわれていた或る事実に関することで、つまりそういう、私としては曲りなりにも言っておきたくて書いた部分を飛ばしてしまって、勝手に(中略)でくくられてはたまったものでないという感じが出てきてしまう。しかも、「そこで話を飛ばして」の前にこそやはり私の言いたいことがあるのだつた。それだからこその「そこで」「飛ばして」であつただろう。私が、「従軍の覚悟を語りつつ」などということがどこにあるか。江藤が勝手に(中略)してしまった部分にでもそれがあるかないか。
 私は「孤立をえらびながら『提携』を説いた」りはしなかつた。帝国主義戦争反対の勢力、気運が孤立させられつつあるからこそ、孤立させられたくなくて「提携」を説いていた。このへんのことは、平野謙の私の『全集』第15巻の解説にも、また今彼の書きつづけているこの時期の文学史(『文学界』)にもよく触れられている。私の文章が「どれほど『民衆煽情』に役立ったかは容易に想像される。」と江藤はいうが、もしこの「煽情」が、たとえば「帝国主義戦争を内乱へ」といつたことの反対の煽情、帝国主義戦争そのものへの「民衆煽情」だつたという意味で江藤がいうのならば、彼における想像力の衰弱は極端なものということになるだろう。
 1935、6年における私の態度はへつぴり腰だつた。私の信念は動揺していた。「共産党という『正義『』に属している彼の、非党員林氏に対する優越感も作用していたかも知れない。』などはあまりに桁はずれている。

「『文学者に就て』について」で私は反対を書いている。当時「転向」のことがあつた。いくらかヒステリックにではあつたが、私は、「転向作家が転向によって失つたのは第一義的生活であって、第二義的、第三義的生活はまだ残されていると見るなぞは甘い考え方である(中略)だから彼らは、たとえていうのではあるが、第二義的に生きようとしてわずかに第三義的に生きてきたような作家より心ずつとずつと下へ、どん底まで堕ちたのである。」と書いている。だいいち、江藤が(中略)でくつつけて孫引きした文章で私は国内戦について書いている。それを、「アメリカ、ソヴェート同盟、中華民国の三つ」を「仮想敵国」とする国外戦との対比で書いている。過去の戦争での文学者と戦争との関係のところでも「シベリヤ干渉戦」という言葉で少しのことを書いている。そして実戦との関係ではただフールマノフやオストロフスキーを出している。知っている人もあるだろう。あのころ大森駅の上、馬込へ越える山のところに実弾射撃練習所があつた。あすこへ私ははいろうとしてはいれなかったことがある。内乱がおきると思っていたわけではない。しかしファシスト的な作家たちが陸海軍大演習にくつついて行き、私がピストルの射ち方も知らぬのは何さま残念というわけだつた。
 こんなことは笑われてよかろう。私が、帝国主義戦争への「民衆煽情」に役立つたなどはあまりに「容易に想像」されすぎている。
「二つの戦争のこと」に前後して私は「青葉時の憂鬱」を書いている。「不穏文書取締法案」、「国家総動員秘密保護法案」などとの関係で私は「軍民離間策ということ」について書いている。2・26事件以後の空気のなかでそれは書かれている。「ソヴェートについての考え方」では「支那ソヴェート」について、また「日本の外務省が……蒋介石と手を組んでソヴェート攻撃にのりだすことを宣言した」ことについて書いている。また「日本新聞記者の寧都訪問記」というものを書いている。「条件づき感想」では「北支事変」について書いている。「二つにわかれた支那その他」では中国の「二つの政府」について書いている。そしてそこでは、「私の同情が戦争と税企とになやむ厖大な零細農民の上にあるか、あらゆることをしてきたし今もしている浙江財閥などの上にあるかを別として」というようにへっぴり腰で書いている。つまり私は、帝国主義戦争との関係でいえば、「一貫した『信念』の道を歩いていたわけではない」と同時に、帝国主義戦争への「民衆煽情」の道とは大体において決して言えぬ道を歩いていた。そんなことが「容易に想像される」という江藤は、彼の今日の、今日以後の戦争関係問題についてあまりに手軽にすぎて考えているのではないかどうか。在郷軍入会令、日独防共協定、ワシントン条約などといつたものを持ちだしている本人が、そういう条件のもとで曲りなりにもあらがおうとしていた勢力、そのせめてものうごめきに眼をふさぎたかつたのはどうしたわけからだったろうか。 」


上記の文章のうちの「私としては曲りなりにも言っておきたくて書いた部分を飛ばしてしまって、勝手に(中略)でくくられてはたまったものでないという感じが出てきてしまう。しかも、「そこで話を飛ばして」の前にこそやはり私の言いたいことがあるのだつた。それだからこその「そこで」「飛ばして」であつただろう。」とか、「私の文章が「どれほど『民衆煽情』に役立ったかは容易に想像される。」と江藤はいうが、もしこの「煽情」が、たとえば「帝国主義戦争を内乱へ」といつたことの反対の煽情、帝国主義戦争そのものへの「民衆煽情」だつたという意味で江藤がいうのならば、彼における想像力の衰弱は極端なものということになるだろう。 」、「在郷軍入会令、日独防共協定、ワシントン条約などといつたものを持ちだしている本人が、そういう条件のもとで曲りなりにもあらがおうとしていた勢力、そのせめてものうごめきに眼をふさぎたかつたのはどうしたわけからだったろうか。」などを読むと、中野重治のなかでは江藤淳に対して、怒りもさることながら、その人間性と文学性への不信の念はそれよりもさらに強く深かったのではないかという気がする。

中野重治が、今では古典と言われるべき小説『村の家』を書いたのは1935年であった。江藤淳が中野批判の対象にしている諸々の出来事はその翌年および翌々年のことのようである。そのような時期に、中野重治が帝国主義戦争に「民衆煽情」をしたり、「従軍への決意」を語ったりするようなことがありえるかどうか、もし江藤淳の文章が何かの思惑をもって故意にこのように書かれたのでなかったのなら、江藤淳は対象について深く考えもせず、最低限必要な調査もしないでこのようなものを書いたことになる。どちらにせよ率直に言って、文学者としてのセンスの欠如や剥落を感じさせずにおかない話だと思う。この件のみで言うのではないが(たとえば、大岡昇平と埴谷雄高の対談による『2つの同時代史』をみると、大岡・埴谷の2人が揃って身も蓋もないと言いたいほどのあけすけな言葉を用いて批判的に語っている文学者はほとんど江藤淳しかいなかった(*)。井上靖に対する評価も大岡、埴谷ともにきびしいが、批判の内容、性格が異質である。今振り返ってみると2人の江藤評には中野の江藤批判と通底するものがあるように感じる。)、ただこの問題一つに話を絞っても、江藤淳が文壇で長く重きをなしたのは、個人の文学的才能や実力よりも、日本社会の右傾化、それに乗じた巧妙な処世術、文壇の衰弱・廃退、等々によるものではなかったのかという疑いをもたずにいられない。

……………………………………………


 江藤淳の「先見の明」(『大岡昇平・埴谷雄高 2つの同時代史』(岩波書店1984年)

 埴谷 安保のころのことでもうひとつおもしろいのは江藤淳のことだよ。「聲」に江藤が『小林秀雄論』を書く前だよ。そのころ江藤は吉祥寺にいたから僕のところに始終きていたんだよ。もともと彼は『夏目漱石』を学生時代に書いてそれを平野謙が非常に認めたんだ。荒正人は認めなかったけれどね。そういうことがあって僕のところに学生時代にきたのがはじめなんだよ。平野さんがほめているのにどうして荒さんは私のことをけなすんでしょうと聞くから、そりゃ荒は自分が漱石の専門家だと思っているからで、そんなの気にする必要はない、批評にかぎらず文学者はほめられたりけなされたりすることは当り前で、始終あるんだというようなことを答えたりしているうちに彼は結婚して、吉祥寺に住むようになった。それ以来僕のところに始終くるようになったんだよ。
 そのとき彼はまだ若くて、「近代文学」という戦後派が、日本文学の中心だと思っていたんだろうね。それが文壇状況がだんだんよくわかってくるにつれて、鎌倉組が中心であって、「近代文学」戦後派というのは傍流だということに気がついたわけなんだよ(笑)。
 大岡 それは文壇的にだろう。
 埴谷 そういうことだ。文学と文壇の差異に気がつくんだけれども、しかし安保のころはまだ「若い日本の会」をつくって安保闘争を彼なりにやっていたんだ。それを僕も盛んに激励した。
 大岡 そのときは鎌倉組は先が知れてる、反抗するのが有利だと思ってたんじゃないのか。
 埴谷 まだ戦後派の僕らが中心だったんだね。ところが、ハガチー事件で、左翼が羽田でやっているのを見たときからだんだん左翼がいやになってきたんだよ、江藤淳はね。実際くだらない左翼もいるからね。
 彼は社会党の大会に出席してがっかりもしたけれども、このハガチー事件が決定的だね。そして、左翼が次第にはっきりいやになってくると、『作家は行動する』を書いたり、「若い日本の会」をつくったのは、埴谷に煽動されたからだということに落ち着いちゃったんだよ。埴谷は若いものを煽動する名人で、自分まで煽動されちゃったというわけだね。
 大岡 あとからそう合理化するんだよ。ハガチーを見て、こりゃいけねえって思ったわけじゃない。前から寝返る気があって、きっかけに使ったんだ、とおれは思うよ。江藤に『小林秀雄論』を頼みに行った、というのは安保の前だよ。『作家は行動する』の中で彼が小林の悪口を書いているんだけれども、おれは、小林の文壇で果した役割としては君の言う通りであるけれど、小林という人間は違うんだ、だからそこを少し書いてみたらどうかといって、頼みに行ったんだ。「聲」34年(引用者注:1959年)12月号「冬号」おれが編集担当だから、10月頃手紙を出した。そしたら彼もそんな問題がちょっと頭に引っかかっていたと言って、そうして連載になったんだよ。
 まだそのころは、花田清輝という人は、本当に革命を頭のなかで考えている人です、と言ってたよ(笑)。江藤の転向もだんだんなしくずしにおこったんだろうね。
 埴谷 そうだよ。なしくずしなんだよ。『作家は行動する』のころは数日おきに僕のうちにきていて、僕といろいろ話をして、『作家は行動する』を書きあげた。
 ところが、それがまちがえたというふうになったから引っくり返ったわけだが、どうもうまいときに小林秀雄のほうに行ったな。
 大岡 とにかく『小林秀雄』は安保より前だ。しかし世の中は変わってくるからな。
 埴谷 世の中も変わってくるけど、江藤淳は、ある意味で言うと、右傾化の現在を先取りしたわけで、皮肉にいえば、非常に先見の明があるとも言える。状況が現在のように変わる以前に、江藤淳はすでにどんどん変わってきている。
 大岡 それはまあ、先見の明とは言えないだろう。
 埴谷 それはほめすぎかな(笑)。
 大岡 目先に従っただけだよ。
 埴谷 もちろん目先だけれども、しかし言い方は、うまくも、へたにも、いろいろあるわけだ、いまから言えばね。
 大岡 当人は先見の明と思っているかもしれないね。
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2012.05.22 Tue l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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