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厚生労働省が去る3月1日に「社会・援護局関係主管課長会議」の場で、警察官OB等を福祉事務所内に積極的に配置するよう要請したというショッキングな報道があった。すでに多くの団体や人々が厚生労働省に抗議や撤回の要請をしているようであるが、これは国が率先して、生活困窮のために仕方なく福祉事務所を訪れた国民・市民を威嚇・恫喝しようとしているとしか受けとれず、よくもまあこんな恐るべき発想・動きをしたものだと思う。厚労省は、昨年新聞に載った次の事実を知らなかったのだろうか。


 生活保護相談の市民に「虫けら」 大阪・豊中市嘱託職員(朝日新聞2011/11/02)
 大阪府豊中市役所の嘱託職員が市民に暴言を浴びせたとして、大阪弁護士会は1日、市に再発防止を求める勧告書を送ったと発表した。
 弁護士会は先月31日付の勧告書で、職員が2009年10月、「生活保護の支給が遅れている」と訴えた50代の男性に出張所の個室で応対した際、「虫けら」などと大声で暴言を浴びせたと指摘。男性の自尊心や名誉を傷つけ、人格権を侵害したとしている。
 職員は府警OBで、本来の担当職員に同行する形で個室にいた。男性へのこうした対応について、勧告書は「市は(府警OBに)ボディーガード的な役割を期待しており、人権侵害を市も黙認した側面がある」と指摘している。
 これに対し、市生活福祉課は朝日新聞などの取材に虫けらという発言は確認できていないとしたうえで、 「大声を出すなどの不適切な対応はあった。指導を徹底したい」と説明した。(平賀拓哉) 」

おそらく厚労省はこの事実をよく知っていたのではないか。そして自分たちもこれに倣おうとしたのではないか。そう思うと、やりきれなさにただ暗澹とした気持ちになる。なぜ福祉の専門家ではない「警官OB」を福祉事務所に配置するのかといえば、「元警官」という肩書をもつ人物の存在によって生活保護受給者および受給希望者を威嚇・恫喝しようとする以外の目的はありえないだろう。

大阪府の福祉事務所で生活保護受給者に府警OBである職員が「虫けら」と言ったという2009年10月は、橋下府政2年目である。橋下氏就任以前に、大阪府の福祉事務所に府警OBが雇用されるというようなことがあったのだろうか? あったのか、なかったのか、その事実が知りたい。なぜかといえば、福祉事務所に府警OBを雇って訪問者を威嚇する役割を担わせようとするような発想は橋下氏の日頃の言動にあまりにもぴったりマッチしている。他にこのような発想をする人物はそうそうはいないのではないか(いたら大変だ!)と思うからである。

生活保護と橋下氏(大阪維新の会)との関連では、先日下記のような報道もなされた。


 生活保護に「現物支給」…大阪維新の会、政策集に明記へ(朝日新聞2012年6月17日)
 大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)が、次の衆院選に向けた政策集「船中八策」(維新八策)に、生活保護制度の現金給付を改め、クーポン券の利用や生活用品を渡す現物支給を基本にする考えを盛り込むことがわかった。セーフティーネットのあり方にかかわるだけに、議論を呼びそうだ。
 関係者によると、橋下代表ら幹部が生活保護制度の見直しを検討。不正受給問題を解消し、保護費の増大を抑えるため、現物支給を軸にすることで一致した。
 食料品や衣服、生活用品は対象者に配布するクーポンと引き換えてもらったり、指定店で入手できるようにしたりする一方で、現金給付をほとんどなくす方向という。医療費についても一定の自己負担を求めるほか、受給資格は期間限定とし、受給を続ける場合は再審査する制度も盛り込む。(池尻和生) 」

何のための「現物支給」かといえば、これも生活保護受給者に対する「不信」による「監視」目的の、いわば「いやがらせ」「いじめ」の類になるだろう。「現物支給」のためには行政側に多くの人手が要る。お金もかかる。どういう道理でこれが「不正受給」や「保護費の増大」の解消になるというのだろう。「受給資格は期間限定」というのも、受給者の多くが高齢者や病人であることを考えると、大いに問題があるだろう。また、受給者のなかには受給していることを他人に知られたくないと思う人も多いだろう。プライヴァシー保護の見地からいってもその意思はきちんと尊重されなければならない。その側面からも「現物支給」や「クーポン配布」は疑問である。生活保護受給者にかぎっての「現物支給」に肯定的評価ができる点は何ら見られないように思う。

橋下氏や維新の会の発言を真に受けると、何事によらずろくなことにはならない。橋下氏にしろ、大阪・ミナミの通り魔事件の容疑者に対して、「『死にたい』と言うんだったら自分で死ね」という趣旨のことを言い放った知事の松井氏にしろ、その言動からみえる精神構造はどうみたってほとんど街のチンピラまがいである。本来なら厚生省は2009年に発生したという大阪府内福祉事務所の「府警OB」職員による暴言事件に対して注意・勧告をなすべき立場にあるはずだ。それなのに、かえって自らそれを見習って行こうというのだから、まったくどこにも救いようがない。当ブログで何かとその発言を引用することの多い中野重治は生活保護に関しても触れて書いているので次に記す。

「生活保護基準関係の例の朝日茂氏の行政訴訟問題で、早稲田大学の末高信(すえたかまこと)教授が憲法調査会公述人として述べているのなんかを聞くと震えがくる。ただくるのでなくておかしいのと同時に震えがくるのだつたが、ただ震えがくるのよりも恐しい。問題の基礎は基本的人権のことにあつたが、その基本的人権のことでこう末高がいっている。
「生存権的基本権といえども絶対ではない。例えば警官が泥棒をとらえるとき、生命の危険があつてもあえて犯人を捕えなければならない。したがって警官の生命の尊重は絶対でなく相対的である。」
 とても、脆弁だの何だのといつている関ではない。むちやくちやも通りこしてしまつている。居直り強盗は居直るのだから巡査の生命の尊重は制限されている。船はぼろで、医者は一人も乗り組ませていないのだから漁夫の命の尊重は制限されている。たまつたものではない。泥棒に居直るなということがてんで初めから成り立たない。船をちやんとしろ、一船団せめて一人はほんものの医者を乗せろということがはじめから成り立たない。私は、こんな具合の言葉は普通の言葉に言いなおすのがいいと思う。普通の言葉にして、普通の人間の感じ方、考え方にして読みなおせばおかしさと震えとの関係がわかつてくる。緻密なように見えているものの非人間的ながさつさ、一分の隙もないように見えているものの非人間的ながらん洞が誰にも見えてきて決着がつく。ひとめぐりであつてもなくつてもかまわない。人間的とか理性的とかいう言葉の生まれる前のところで木訥(ぼくとつ)に決着がつくだろうと思う。」(中野重治「ひとめぐりか、ふためぐりか」『新潮』1961年)

これは相当に長い(400字詰め原稿用紙25枚分ほどの)文章のほんの一節なのだが、タイトルの「ひとめぐりか、ふためぐりか」の由来は、敗戦から15年たったその時期に、ある人物が「15年ひとめぐり」といつたことを書いたそうで、そこから採っている。その「15年ひとめぐり」の内容は、

「「ひとめぐり」でなくて「一サイクル」というのだつたかも知れない。なにせ、それは、戦後いろいろとあつて15年すぎてしまつたが、15年すぎてみると、何もかも逆もどりしてしまつている、振出しへ戻つてしまつている。元の木阿弥といつた姿ではないかといつたような話」

というようなものだったらしい。それについて、中野重治は、「けれども、ほんとにひとめぐりか、それともふためぐりではないのかといったことも私の頭にはうかんでくる。」「大いにふためぐり風でありはしないか、ひとめぐり説そのものさえどうやらふためぐりじみていはしないかといったことも私には思いうかんでくる。」「そこで、ひとめぐりでもふためぐりでもなくて何かとんでもないめぐりではないかと思えることも私の足もとにはある。たとえば、処女詩集を著者の写真肖像入りで出す風潮というものなんかもその一つにはいる。これなんかは全く事情がわからない。私には呑みこめない。」などと、苦い嘆きの種はつきることなく次から次へとつづくのだが、この60~61年という時期を基点として「ふためぐり」ということになると、昭和の初年にさかのぼるということになるわけである。上の朝日訴訟問題における末高発言が、「ひとめぐり」か「ふためぐり」か「新しい何かとんでもないめぐり」のどれに入るのかというと、中野重治は明言していないが、「何かとんでもないめぐり」のうちに入るのかも知れない。それでもこのとき末高発言はまったく世に受け入れられなかったのだ。朝日訴訟によって生活保護の給付額、その他の福祉が明確に向上したのは、朝日茂氏の主張に世の多くの人が納得、共感、賛同したからだろう。

日本社会における普通あるいはそれ以下の生活レベルの人間にとって、生活保護は決して他人事の話ではない。現状の就職難、リストラ解雇、それに思いがけない病気や事故などの災難は、いつ誰の身に降りかかるか知れたものではない。そういう可能性を考えれば、生活保護は、自分自身の問題なのだ。厚生省が進める「福祉事務所への警察官OB配置」、「現物支給」「期間限定」などという維新の会の主張、ともに餓死者や自殺者をさらに増やすことになるのが目に見えているきわめつきの悪政であり、とうてい見逃せない。両者ともにただちに謝罪して撤回すべきである。
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2012.06.24 Sun l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
「ゴシップ」という言葉は最近あまり聞かれないようである。「スキャンダル」という言葉にとって変わられてしまったのだろうか。あくまで印象上のことだが、「スキャンダル」よりも「ゴシップ」のほうにはまだ愛嬌、他愛のなさ、柔らかさ、余裕、温かさ、おもしろ味が感じられる(場合が多い)ような気がする。昔(明治から昭和の初期にかけて)の雑誌、新聞には、よくさまざまな著名人のゴシップが載っていたらしいのだが、作家の随筆などにそういう話題が取り上げられていることがあり、時々その内容のあまりの意外さや特異さに度肝を抜かれるような思いをしたり、読んだ瞬間笑いだしてしまうというようなことがある。特別に印象ふかくて今でもよく覚えているのは、広津和郎の「年月のあしおと」に記されていたゴシップのことである。

広津和郎の父親は明治の小説家「広津柳浪」であり、「今戸心中」「残菊」など、今でも芝居ではたびたび上演されることのある世評高い小説を書いた人であるが、書けない時期の多い小説家でもあったようだ。広津和郎の幼少年時代の生活は並大抵でなく苦しかったそうで、その当時どこかの雑誌に「柳浪の子供たちが、ひもじさに金魚を食った」というゴシップが載ったことがあったそうである。広津和郎によるとこれはもちろんデタラメだということだが、それから二十数年経って、古本漁りが好きだった芥川龍之介は古雑誌からそのゴシップを見つけ出したらしく、広津和郎(当時、もちろん芥川のように華々しい存在ではなかったが、こちらも小説や文芸評論を書いていた)の行きつけのカフェに行ってその話をして帰ったそうである。ある日、広津和郞がいつものようにそのカフェを訪れると、


 馴染のウェートレスがにやにや笑いながら側に寄って来て、
「あなたは子供の時分に金魚を食べたそうですね」と云ったことがある。
「いや、食べないよ。一体誰がそんなことを云ったんだい?」
「昨日芥川さんが来てそう云っていましたよ。そして広津が芝居を嫌いなのは、子供の時分貧乏で芝居を見たことがないからだとも云っていましたよ」 」(「年月のあしおと」講談社1963年)

そのカフェには芥川龍之介も時々訪れていたのだそうだが、広津和郎の親しいところに行ってそういう話を面白おかしく喋ってみせるところに、芥川龍之介の中学生のようなnaughty boy(いたずら小僧)振りがあるのだと広津和郎は書いている。このゴシップには、ひもじさゆえに子供が「金魚を食う」という、話題の過激さ(どぎつさ)にギョギョッとさせられると同時に、着想のあまりの卓抜さ(?)に感心・驚嘆させられるところもあった。広津柳浪は家で金魚や小鳥を飼うのが好きだったそうなので、「金魚を喰った」はそのことを知っていた雑誌編集者の思いつきだったのかとも思うが、それを拡散した(?)芥川はそのゴシップの性格自体好みだったのかも知れない。

それから時代は少し後のことになるのだが、最近知ってちょっとおもしろいと感じたゴシップの話があった。松下裕氏の「[増訂]評伝中野重治」(平凡社2011年)に記されていたことなのだが…。中野重治にプロレタリア文学時代のことを回想した「あのころ」という題の短い文章があるそうで(私は読んでいない)、松下氏によると、これには「江口換と窪川鶴次郎」という副題がついているとのことである。当該部分を「評伝中野重治」から次に引用する。

「あるとき、『都新聞』か何かにゴシップがのった。『中野重治が窪川鶴次郎をつかまえてもっと勉強しろと言ったそうだ。もっと勉強して詩を書け。そして、いいのが出来たらおれが五円やると言ったそうだが、その中野本人、窪川のとこの二階に居候してるのだから世話はない』。こんな意味のことがもっと上手に書いてあって、それを読んで私たち夫婦はげらげら笑った。むろん私は窪川にそんなことを言っていなかったし、居候なんぞとはとんでもない。しかし話は、根も葉もないだけに実にうまく出来ていた」

窪川鶴次郎は文芸評論家で、佐多稲子の夫。中野重治とは第四高等学校時代以来の友人で、当時ともに雑誌「驢馬」の同人であった。そしてこの当時、中野重治は新婚であったらしい。「私たち夫婦はげらげら笑った」というのはそういう事情を現してのことと思うが、中野重治が窪川鶴次郎に「もっと勉強しろ」「勉強して詩を書け」「いいのが出来たらおれが五円やる」と言ったというのはどの言葉もみなおもしろくておかしいし、関係性を彷彿とさせるようでもある。「中野本人、窪川のとこの二階に居候してる」というのは、中野重治が昼間窪川・佐多夫妻のアパートを訪ねてきて、「書き物をしたいので2時間ほど部屋を貸してほしい」と言ったということを当時ものを書き始めていた佐多稲子が書いていたことがあるので、そのようなことが「居候」云々というゴシップに結びついたのかも知れない。それにしても、中野重治が「こんな意味のことがもっと上手に書いてあって」というのもおもしろくて、そのゴシップ記事の原文を読んでみたい気になったりもした。
2012.06.22 Fri l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
「米フロリダで14日、オスプレイが墜落したことを聞き、身震いするほど恐ろしかった。森本敏防衛相が配備計画を「日程通り進める」とし、沖縄を一顧だにしない態度に身震いした。「まったく痛みを分かろうとしない。そのことが一番悔しい」と言葉を強める。」

上記は、昨日(6月17日)の『沖縄タイムス」に載っていた宜野湾市在住の女性の声である。本当にそのとおりの心境であろうと肯くしかない。8月にもオスプレイ配備との通知を受けて機体の危険性に対する尽きない危惧と恐怖、米軍と日本政府に対する怒りや不信が募る最中でのフロリダにおける新たな墜落事故の報せである。新外相の森本敏氏が米国追従一辺倒の考え方をする人であることは、2001年の9.11以後のテレビ出演における折々の発言でよく知っていたが、それにしても、非人間的というべきか、無責任というべきか、このような事態を受けてなお配備計画を「日程通り進める」と述べるとは。森本氏はもし日本国内でオスプレイによる事故が発生したら、自らいったいどんな責任がとれると考えているのだろう。野田首相は福井の大飯原発3、4号機の再稼働について「国論を二分している状況で、ひとつの結論を出す。これはまさに私の責任であります」と述べていたが、こちらもいったん大事故が発生したらもはや手遅れ。そんなことになったらどんなに青冷めようと地団駄踏もうと、もう個人であれ組織であれ責任をとることも不可能な次元の事柄なのだ。それなのに、一人は「私の責任で」とできもしないことを言い、もう一人は自己の責任には触れもせず虚しくも「日程通り進める」と言う。発言の中身は双方ともに無責任きわまりないものだ。日本という国、政府は、かつての中国侵略、太平洋戦争がそうであったように、今も決定的な破滅に至るまで、過ちを認めて方針転換をするという知惠を持てない国なのだろうか。

下記の記事はオスプレイ配備についての読売新聞の社説である。これをたまたま私が読んだのは今回の米フロリダ墜落事故の発生後であるが、掲載されたのは事故の前日である6月12日だったようだ。内容があまりにひどいのでちょっと取り上げてみたい。

「 オスプレイ配備 着目すべき米軍の即応力強化(6月12日付社説)
 安全性だけでなく、在日米軍の即応力の強化にも注目し、冷静に議論することが重要である。
 米軍の新型輸送機「MV22オスプレイ」が沖縄県の普天間飛行場に配備されることについて、沖縄県など関係自治体が反対している。
 (略)
 自治体は主に、安全性を懸念しているが、誤解も少なくない。
 1990年代の開発段階で事故が相次いだ。今年4月にもモロッコで墜落し、2人が死亡した。
 だが、開発段階の機体の不具合は解消し、米軍の安全基準を満たしており、現在、海兵隊だけで130機以上が世界に配備されている。モロッコの事故も、機体の安全性には問題がないとされる。
 こうした事実関係をしっかり踏まえることが大切だろう。
 そもそも米兵の生命に直結する航空機の安全性に最も注意しているのは、米軍自身のはずだ。
 オスプレイの性能も考慮すべきだ。CH46と比べて、最大速度は約2倍、搭載量は約3倍、行動半径は約4倍となる。航続距離は約3900キロで、朝鮮半島まで飛べるうえ、空中給油も可能だ。
 厳しい北東アジアの安全保障環境において、有事の邦人救出や離島防衛で重要な役割を担おう。
 沖縄配備には自治体の許可や同意は不要だが、安定した運用を続けるには、粘り強く地元の理解を得る政府の努力が欠かせない。
 その意味で、政府が沖縄配備前に山口県の米海兵隊岩国基地に一時駐機し、試験飛行を行う方向で調整しているのは評価できる。岩国市長は態度を保留しているが、政府は説得を続けてほしい。
 疑問なのは、オスプレイの早期配備を容認する森本防衛相に対して、民主党沖縄県連が辞任を求めたことだ。民主党本部は、政権党として、政府任せにせず、県連に翻意を求めるのが筋だろう。(略)  」

読売新聞とは、日本の民間の新聞社というのは名ばかりで、実体は米軍の軍属(?)機関紙ではないのだろうか? この記事はそういう疑いを持ちたくなるほど異様な内容の連続である。「安全性だけ」に目を向けるのではなく、「在日米軍の即応力の強化にも注目し」なければならないと主張しているが、これは私には意味が解らない。オスプレイは4月につづいて6月にも事故を起したわけだが、ここで読売は「在日米軍の即応力の強化」により沖縄では事故は起りえないと言っているのだろうか? もしそうならば、それはどんな根拠で? 「モロッコの事故も、機体の安全性には問題がないとされる」そうだが、誰によって「問題がないとされた」のだ? 「問題がない」と言っているのは米国だけ(日本政府はそれに追従するだけ)だと思うが、読売がその米国の言い分を一方的に支持し、沖縄県民の恐怖や怒りに一瞥もくれないのはどんな理由に依るのだろうか。もし本当に機体に問題がないのなら、米国は(読売も)オスプレイの危険性を憂いている沖縄県民になぜそのことを直ちに具体的に説明しない? 何よりも、「機体の安全性には問題がない」のなら、なぜこんなに事故がつづくというのだろう。事故原因は操作ミスだという声も聞こえてくるが、操作ミスが連続して発生しているというのならそれも機体に問題があるからこそではないかと素人考えでは思うのだが? 

「朝鮮半島まで飛べる」「厳しい北東アジアの安全保障環境において有事の邦人救出や離島防衛で重要な役割を担おう。」との主張も不気味である。これでは読売は、自分の手はいっさい汚さず、沖縄の犠牲の上に立って、中国や北朝鮮を刺激し挑発して北東アジアに争いを引き起こそうとでもいうような妙な下心を持っているのではないかと疑いたくなる。

オスプレイ配備をとおして沖縄の米軍基地について論じた読売のこの社説には、沖縄県民の命と健康、また日常の暮らしに苦痛として侵入してくるさまざまな基地被害に対する視点や配慮がすっぽり抜け落ちていることは、これを読んだ誰しもが感じないわけにはいかないだろう。

しかし事と次第によっては、読売は他の新聞よりもはるかに被害者の立場に重きを置いた記事を書く新聞社である。たとえば、死刑制度を論じた場合がその典型である。死刑を求める被害者遺族の存在を強力な盾に死刑制度の存続を求め主張するという紙面の構成展開では読売は産経と双璧ではないだろうか。沖縄普天間飛行場のオスプレイの配備や基地の存続については、被害に関する住民の切実な訴えに対して歯牙にもかけずに黙殺、一方死刑制度については死刑存続を望む被害者遺族の声を強力に前面に押し立てる。この二つの行動は同じ根から出てきたものであり、読売にとっては何の矛盾もないことだろう。すなわち、権力と距離をとる術を知らず、その意思も持たずに権力と一体化し、結果的により強硬な権力の行使を促すというもの。死刑を言い渡されるような事件を起した人物はかりに死刑にならなくても現状では再び獄から出られる可能性はほとんどない。犯した犯罪の罰は身を以て受けざるをえないし、実際受けているのだ。それに比べて大惨事を引き起こした原発推進当事者や多くの事故を惹起しているオスプレイを平然と沖縄に配備しようという側はどうだろう。彼らに犯罪の自覚がないことは確実だが、現実に犯罪性がないと言えるだろうか。読売や産経がそういう事実に一切頬被りし、死刑について「自分の身内が殺された場合、自分が被害に遭った場合のことを考えてみろ」という世論の声ばかりを取り上げて死刑存続に執心するのは、読売のこの社説が沖縄住民の苦痛について一顧だに払わずに、オスプレイ配備に都合のいい米国発の怪しげな説を並べていることと決して無関係ではないように思える。沖縄がこぞってオスプレイ配備を拒否しているにも拘わらず、読売がそんなにオスプレイ配備が日本にとって重要だというのなら、読売はまず読売本社の近くへの配備を真剣に考えたらいい、考えるべきなのではないだろうか。こういう場合以上に「自分が被害に遭った場合のことを考えてみろ」という言葉が切実に受けとめられ、考えられるべきときはないように思うのだが。
2012.06.18 Mon l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top
私の住んでいる街には分館や閲覧所をふくめると合計13もの市立図書館がある。おかげでいつも何かと重宝に利用させてもらっているのだが、先日そのホームページにアクセスして亀山郁夫訳ドストエフスキーの『悪霊』が入庫しているかどうか検索してみたところ、全館でゼロであった。じつは1年ほど前にも同じことをやってみて、そのとき『悪霊』は米川正夫訳と江川卓訳が数点あり、亀山訳はないことを確かめていたのだが、ただ当時は亀山訳『悪霊』は刊行途中だった(3巻中の3巻目はまだ刊行されていなかった)ので、今後まとめて入るようなことがあるかも知れないと思っていた。しかし現在『悪霊』刊行は完了しており、それからすでに半年以上が経過しているので、今後図書館側がこの本を購入することは何かよほどのことがないかぎりもうないように思われる。ついでに、ドストエフスキー作品に対する亀山氏の最初の翻訳であった『カラマーゾフの兄弟』とその次の『罪と罰』についても検索してみると、前者は6点、後者は3点の在庫状況である(ただし、紛失などによるものか、欠け落ちている巻もそれぞれ1、2冊ずつあるようだ。)。

図書館が亀山訳『悪霊』を一冊も購入していない理由を考えてみるに、図書館側がこの作品の刊行を知らなかったということは普段の書籍購入状況から推察してまったく考えにくい。おそらくは意識的に購入を控えた、見送ったのではないかと推測される。そして購入見送りの理由としては「翻訳に問題がある」という判断がなされた可能性が高いように私には思える。『悪霊』は蔵書として米川正夫訳、江川卓訳が数冊ずつ現存しているのだから、新訳に瑕疵が大きいと判断したならば、わざわざお金を出して購入する必要はないわけである。もちろんこの推測が当たっているかどうかは分からないが、ともかくこの措置はよかった、見識であったと私は思う。

とこのように言っていながら、私自身は亀山訳『悪霊』は読んでいない。その前の『罪と罰』も。『カラマーゾフの兄弟』を読んでみて亀山氏の翻訳の文章にほとほと懲りたのだ。古典は丁寧に読み、熟読してこそその良さが理解でき、味わいが感受できると思っているが、亀山氏の翻訳にはそもそも熟読を困難にするところ、丁寧に読めばそれだけ苛立ちが募っていくというところがあるように思う。その原因は、まず日本語の文章として意味が通じない箇所が多いからである。「亀山訳はわかりやすい」というのが出版社サイドの売り文句だったようだが、亀山訳を読んだ人にはぜひ機会と時間をみつけて他の人の翻訳も読んでみてほしいと思う。

『カラマーゾフの兄弟』以来、亀山訳の検証をつづけておられる木下豊房氏のサイトを拝見すると、「亀山郁夫訳『悪霊』Ⅱ「スタヴローギンの告白」における重大な誤訳」という記事のなかに、「『カラマーゾフの兄弟』から『悪霊』へと、亀山訳の欠陥のパターンを通覧してきた現在、引き続き「検証」作業を続けることの虚しさを感じる。」との記述がみられるが、一読者の立場からみても、この感慨にはまったく同情の念を禁じえない。『悪霊』に関する木下氏と森井友人氏の文章を読ませていただき(お二人には多大な労に対しあらためて「お疲れさま」とお伝えしたい。)、つよく感じたことがいくつかあるのでその点を記しておきたい。木下氏の文章においては、特に次の部分が印象深かった。

「…… <私にとっては、ことによると、あのしぐさそのものの思い出は、今にいたってもなお、さほど厭(いと)わしいものではないのかもしれない。もしかしたら、あの思い出は、今も何か、私の情欲にとって心地よいあるものを含んでいるのかもしれない。いや ― たったひとつ、そのしぐさだけが耐えられないのだ。>いや、私が耐えがたいのは、ただあの姿だけ、まさにあの敷居、まさにあの瞬間、それ以前でもそれ以後でもない、振りあげられた、私を脅しつけるあの小さなこぶし、あのときの彼女の姿ひとつだけ。あのときの一瞬のみ、あの顎のしゃくりかた。それが私には耐えられないのだ。」(亀山訳『悪霊』Ⅱ、p.579-580)

詳細についてはぜひ上に記したサイトをじかに見ていただきたいのだが、亀山氏は他の翻訳者(米川・小沼文彦・江川氏など)の訳では明確に「(スタヴローギンの)行為」と訳されている箇所を、「あのしぐさ」とすることで、これが「スタヴローギンの行為」ではなく、「マトリョーシャの行為」であるかのように訳しているのである。亀山氏の訳語「しぐさ」が「マトリョーシャの動き」を指していることは、その次に出てくる「そのしぐさだけが耐えられないのだ。」という文中の「しぐさ」が、紛れもなくマトリョーシャの動きであることを見れば間違いのないことなのだが、しかし「あのしぐさ」の箇所は本来「スタヴローギンの行為」以外の何ものでもないことは前後の文脈からいってあまりにも明白である。もし亀山氏の訳のように、スタヴローギンにとって「今にいたってもなお、さほど厭わしいものではないのかもしれない」ものが、「あのしぐさ」、すなわち「マトリョーシャの行為」を指しているということになるのであれば、『悪霊』という作品は何が何やら意味不明、作品全体が支離滅裂なものということになってしまいかねない。それほどまでにこの誤訳は無視することのできない、重大な語訳であると思う。しかもこれは単なる誤訳というより、木下氏が疑念を表明されているように、亀山氏のある思惑、少なくともある強烈な思い込みが作用しての結果ではないかと思われるのである。これはちょっとある種の恐怖をさえ感じずにいられない出来事である。

森井友人氏の文章「亀山郁夫訳『悪霊1』アマゾン・レビュー原稿 新訳の読みにくさ・文脈の誤読 ―ドストエフスキー・ファンの願い―」は、亀山訳『悪霊』のなかで日本語として文脈が読みにくいケースを丁寧に指摘した後、「訳者がそもそも文脈を誤読している」ケースの指摘がなされている。その例として挙げられているのが、「ステパン・ヴェルホーヴェンスキーの物語詩が外国の革命的な文集に無断で掲載された時の当人の反応を描写する箇所」である。

「外国から送られてきたその文集を手にした彼は(……)毎日どこからか祝電のようなものが送られてくるのを待ちわびながら、そのくせ人を見下すような外面を装っていた。祝電は一通も送られてこなかった。そこでようやくわたしと仲直りしたわけだが…」(亀山訳p.22)

森井氏は、「この「祝電」が誤訳であることは、文脈から見て取れる。」と述べ、以下のような指摘をされている。

「そもそもステパンは、反体制の進歩的知識人として扱われることに自分の存在意義を見いだしている人物である。だからこそ、語り手の「私」が「この詩も今となってはまったく罪のないものだから出版してはどうか」と主張した時に不満の色を見せて拒絶し、よそよそしくなったのだし、また、だからこそ、この件で彼は慌てふためきながらも、内心気をよくしているのである。」

「「祝電」を送られるようでは、自分の詩が今となっては罪のないものでしかないことを証明することになってしまう。そんな事態をステパンが待ち望むはずがない。待っていたのは、この件で身に降りかかるかもしれない危険(例えば弾圧等)について警告するような内容の電報、つまり、自分が今も当局に一目置かれる反体制の進歩的知識人であることを傍証してくれるような電報のはずである。したがって、ここに「祝電」などという言葉が使われているはずがなく、原文に単に「電報」とあったのを訳者が勝手に「祝電」と「意訳」したと推測がつく。実際、Web上の原文を見ると、単に「電報」と書かれているだけであり、江川訳ほか先行訳でもむろんそのまま「電報」と訳されている。」


森井氏のこの指摘と解釈は正しいと思う。この場面は作品のごく最初のほうにあり、ステパンがどのような人物なのか、このとき読者にはまだよく理解がおよんでいない。だからステパンが待っている「電報」がどのような意味合いのものなのか、瞬間多くの読者が理解に戸惑う個所ではあると思う。実際、初読(江川訳)のとき私もここを読んで即座にはステパンの心理をうまく把握できず、文脈を理解するために前に戻って二度、三度と読み返してみたものだった。そうして初めて森井氏が述べているところと同様の理解に至ったのだが、この挿話にはステパンという人がどういう性格であり、どういう主義主張の傾向や特徴をもった人物なのかが最も鮮やかに現れているように思う。森井氏は「亀山訳を信じて読んだ場合、その脈絡が不明となるだけでなく、ステパンの心理と人物像の理解にも支障をきたすことになるだろう。」と述べているが、まったくそのとおりであり、「誤訳」として見過ごすにはあまりに重大な翻訳上の過誤だと思う。特に、「ステパンの心理と人物像の理解にも支障をきたすことになるだろう。」との指摘は重大であると思うが、上述した「あのしぐさ」の場合においても木下氏が同様の指摘をされている。ロシア語を知らず、したがって原作を読めない読者は亀山氏のこの訳によってスタヴローギンおよびマトリョーシャの人物像についてとんでもない誤解をさせられることになるのだ。そしてこちら(「あのしぐさ」)の誤訳のほうがステパンの場合より問題はよりいっそう深刻だと思う。

森井氏は文章の最後を

「まずは大量誤訳を指摘されている『カラマーゾフの兄弟』に立ち戻り、その間違いを徹底的に正すところから再出発していただきたい。――読者のためにも、そして、何よりドストエフスキーのためにも。/これが一ドストエフスキー・ファンの心から願いである。」(/は改行)

と締め括られている。もっともな発言だし、私もそう願いたいと思う。でも、光文社にしろ亀山氏にしろ、『カラマーゾフの兄弟』の「間違いを徹底的に正す」というような誠意(と能力)がこの人々に望めるのであれば、あれだけ数々の批判を受けた後で『悪霊』をこのような姿かたちで出版するようなことはできなかっただろう。『悪霊』に関して木下氏と森井氏が誤訳、不適切訳として数々指摘されているうち、「あのしぐさ」と「電報」のたった2点の誤訳にかぎっても、どちらも決定的と言えるほどに深く作品の本質に関わる問題なのは明らかであり、それがこのような有様ではこの新訳はドストエフスキー作『悪霊』の翻訳と口にするのは憚られるレベルのものではないのかと思う。このような本に対しては、原則として私の街の市立図書館のように「購入しない」という処置をとること、どうしても購入する必要がある場合は古本を買うことなどの対抗措置をとることにしよう。それにしても自ら翻訳も手がけているある人物が「翻訳はひとつの形式である。そう把握すると、原作に立ち戻ることが重要になる。」と述べているのを読んだことがあるのだが、亀山氏の翻訳ぶりをみると、この言葉がいかに正確に翻訳の核心をついているか、実感的に理解できるように思うのは皮肉なことである。
2012.06.12 Tue l 文芸・読書 l コメント (1) トラックバック (0) l top
数日前のことだが、リビアとNATOに関する下記の記事が目にとまった。(強調の下線はすべて引用者による。)

「 NATO空爆のリビア民間人犠牲者は72人、調査必要=人権団体
 国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)」は14日、リビアのカダフィ政権に対する軍事介入を昨年実施した北大西洋条約機構(NATO)について報告書を発表し、NATO軍の空爆による民間人の犠牲者が少なくとも72人に上ると指摘した。
 HRWは報告書で、犠牲者には女性20人と子ども24人が含まれるとし、犠牲者に対する補償のほか、違法だった可能性のある攻撃についてNATOが調査を行うべきだと強調した。
 人権団体「アムネスティ・インターナショナル」が3月に発表した推計では、NATO軍の攻撃によるリビアの民間人犠牲者は55人とされていた。
 HRWはNATOが民間人犠牲者を最小限に抑える努力をしたと指摘した上で、同機構は数十人の犠牲者を出した攻撃に関する調査を拒否している、と批判した。 NATOは、昨年10月末に終了したリビアでの軍事作戦について、大きな成功を収めたとの見方を示し、「これまでにないほどの慎重さと正確性を保ち、国際人道法の基準を上回る」作戦を実施したとしている。」(ロイター 12年05月14日18:36JST)

NATOはいまもリビア空爆による民間人犠牲者は「0人」と言い張っているのだという。このような言い分が世界に通用するとご本人たちが高を括っていること、また今のところはそれで通用させてしまっていること自体、何とも言葉がないような気がするのだが、これに対して人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)」は民間人犠牲者は少なくとも72人に上ると指摘し、犠牲者に対する補償と違法の可能性のある攻撃についてNATO自ら調査を行うべき、と主張している。また「ヒューマン・ ライツ・ウォッチ」と同じく人権団体の「アムネスティ・インターナショナル」は、3月にNATO軍の攻撃によるリビアの民間人犠牲者は推計55人と発表したようである。

何というか、NATOに対してだけではなく、ヒューマン・ライツ・ウォッチにも、アムネスティ・インターナショナルにも不可解さや疑念を感じずにいられない。あらかじめ三者の役割分担を定めた上での一場の芝居を見ているような気がしないでもない。NATOがリビア空爆において「民間人の犠牲はない」と主張していることについては、昨年下記の記事を読んでいたので知ってはいた。

「 露国連大使 リビア空爆犠牲者 NATOの責任追及 (20.12.2011, 10:11)
 ロシアのヴィタリー・チュルキン国連大使は、NATO軍のリビア空爆によって民間人が死亡したことについて、調査を行うよう要求した。ニューヨークで発言したチュルキン大使は、NATOは民間人の犠牲はないという「完全にプロパガンダ的な姿勢」をとった、と指摘している。
 ロイター通信がチュルキン大使の言葉として伝えたところによれば、「第一にそれは絶対にあり得ないことであり、第二にそれは嘘である。」と発言した。」

「 ロシア NATO空爆によるリビア民間人犠牲者の調査を呼びかける (23.12.2011, 17:16)
 ロシアは国連安全保障理事会のリビアに関するブリーフィングで、 北大西洋条約機構(NATO)の空爆で民間人が死亡したことに関する特別調査を国連の後援で実施する必要があると述べた。
 チュルキン大使は、調査は国連あるいは国連の後援で出来るだけ早く実施されるべきだとの考えを表し、発生した事件を分析する必要があり、今後このようなことが繰り返されてはならないと強調した。
 ロシアは、NATOがリビアに関する国連安保理決議の委任から逸脱したと考えている。
 チュルキン大使は、NATOがリビアで行われた作戦を「成功」と考え、今後も同様の作戦の使用を提案していることにロシアは懸念していると伝えた。

このようにロシアは、昨年末時点で、「民間人の犠牲はない」というNATOの主張を「完全にプロパガンダ的な姿勢」「嘘」と断じ、「国連あるいは国連の後援」でリビア民間人犠牲者の調査をするよう要求していた。また、「NATOがリビアで行われた作戦を「成功」と考え、今後も同様の作戦の使用を提案していること」に対する懸念もちゃんと表明していたのだ。また、これと時期を同じくして、国際刑事裁判所も、カダフィ大佐の殺害が戦争犯罪の可能性があることを指摘していた。

「 国際刑事裁判所 カダフィ大佐の殺害は戦争犯罪の可能性もある (16.12.2011, 12:31)
 国際刑事裁判所(ICC)は、リビアの元最高指導者カダフィ氏の殺害について、戦争犯罪だとする「深刻な疑い」がもたれているため、同氏の殺害を戦争犯罪と判断する可能性がある。AP通信がICCのモレノオカンポ主任検察官の言葉を引用して伝えた。
 主任検察官は、リビアの国民暫定評議会に書簡を送り、考えられる全ての戦争犯罪について調査するよう依頼したと伝えた。そこには、国民暫定評議会の支持者らが行った可能性のあるものも含まれる。」

このようなロシアや国際刑事裁判所のしごく当然の指摘・忠告に対し、国連もNATOも(もちろん国民暫定評議会も)誰ひとり誠実な姿勢を見せた者はいなかった。ヒューマン・ ライツ・ウォッチやアムネスティ・インターナショナルは人権擁護のための団体だというのに、軍事攻撃による民間犠牲者の問題について昨年はなぜ黙っていたのだろう。なぜ今頃になってこのような提起をするのだろう。しかも、民間犠牲者の数を「少なくとも72人」とか「55人」などと述べている。昨年10月、民間犠牲者の数についてリビア国民暫定評議会自ら「3万人」という数字を挙げていたはずだ。

「「 NATOのリビア攻撃で、3万人が死亡 - IRIBラジオ日本語 ( 2011年 10月 28日(金曜日) 16:07 )
 リビアの新保健大臣が、この7ヶ月のNATO北大西洋条約機構の爆撃で、少なくとも民間人3万人が死亡したことを明らかにしました。
 フランス通信によりますと、リビアの情報筋は、28日金曜、この死者の数を、アラブ諸国で起きた革命の際の死者の数よりも多いとしています。 」

報道写真家の中司達也氏は、「NATO軍の出撃は通算26500回を数え、そのうち約9700回の空爆が行われ、およそ6000の標的が破壊された。/空爆と砲撃により、諸都市の基幹インフラは壊滅し、多くの住居が破壊され、医療機関も機能しなくなった。死者は3万人とも見積もられている。15万人という記載もある。」と述べているが、朝日新聞には、「リビア空爆は米軍主導で3月19日に開始。NATOが指揮権を握った3月31日以降、英仏軍を中心に10月20日までに爆撃機が出動した回数は9634」とあり、中司氏の報告とは出動回数において雲泥の差がある。どちらの報告が正しいのかといえば、普通に考えると、中司氏のほうである。なぜなら、8月21日の時点で、NATO自ら「3月31日以来、NATOによるリビアへの出撃回数は19877回に達し、うち7505回が空爆のための出動となっている。破壊した軍事目標は4490カ所に上り、レーダーシステムや倉庫500カ所、指令拠点275カ所、飛行機10機、船10隻、戦車や装甲車両500台以上を破壊した。」と述べているからである。朝日新聞のいう「出動」とはもしかすると「爆撃」のことなのだろうか。このような重大な問題の事実関係については、読者に疑問や誤解の余地をあたえない明晰な書き方をしてもらいたいものである。

リビア国内は7ケ月間という長期にわたって9,000回を超える空からの爆撃を受けているのだ。重要なインフラは壊滅状態にされており、国内が元どおりに復旧し、立ち直るには10年はかかるだろうという指摘がなされているなか、民間人犠牲者が50人とか70人などということがありえるのだろうか。にわかには信じられないのだが、ヒューマン・ライツ・ウォッチは空爆さなかに、そして終息後にも、リビア国内で民間人犠牲者の調査を行なったと述べている。あのような惨状と混乱のなかで、一民間団体がいったいどのような計画を立ててどのような手段を用いれば、「民間人犠牲者は少なくとも72人」という答が出せるだけの調査が可能だったのだろう。何とも不可解な話のように感じられる。

ヒューマン・ライツ・ウォッチにしろ、アムネスティ・インターナショナルにしろ、人権団体を名乗る以上、もっとリビアの一般市民の立場・観点に立って空爆の実態を追求してほしいと思う。リビア市民よりもNATO側にばかり視線が向いているように感じられるのは、爆撃による民間人犠牲者の規模に関する発言を行なうに際し、一般常識的思考も、また「リビアの新保健大臣が、この7ヶ月のNATO北大西洋条約機構の爆撃で、少なくとも民間人3万人が死亡したことを明らかにしました。」という、他ならぬリビア当局の発表さえ無視した内容の発言を行なっているからである。また、カダフィ殺害が戦争犯罪だという指摘について私などはまったくそのとおりだと考えるのだが、ヒューマン・ライツ・ウォッチやアムネスティ・インターナショナルはどのような見解をもっているのだろうか。HRWは「NATOが民間人犠牲者を最小限に抑える努力をした」とも述べているようであるが、どのような根拠をもってのこの発言なのか、その意図を不審に思う。
2012.06.08 Fri l 社会・政治一般 l コメント (1) トラックバック (0) l top
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米国と、フランス・イギリスなどのヨーロッパ諸国はシリアに対して今にも軍事攻撃を仕掛けようと中腰になっているように見える。だが、そのようにしなければならない理由が何なのか、いくらニュース報道を見ても私などには皆目事情が分からない。分かる人がいたら、詳しく説明してほしい。日本政府はシリアの外交官に対して国外追放の措置をしたそうだが、その理由は何なのだろうか? 5月25日夜間にシリア西部ホムス近郊の町ホウラで子どもを含む100人以上の市民が死亡するという大規模な砲撃を受けての措置だというが、しかし、アサド政権側はこれを否定し、「テロリストら」の仕業と主張している。

報道によると、 「現地で活動する国連のシリア監視団は、政府軍のみが保有する重火器が使用されたことを確認」というが、こんなものがホウラの攻撃をシリア政権の仕業であると断定することの証拠になどなるはずがない。もしも砲撃が反乱側によるものであったとしたら、被害者はシリア国民であり、政権側の軍隊・兵士はそれを傍観していることはできない。この場合「政府軍のみが保有する重火器が使用された」ことは当然の処置をとったまでということになるだろう。

この2年近く耳目にしてきたシリアに関する報道を振り返ってみると、そこにははっきり2つの潮流があったように思う。一つは、平和的なデモをおこなっていたシリア国内の反体制派市民に対し、アサド政権が殺人も厭わない残虐な弾圧を行ない、引き続き今も行なっているというもの。これが米国とヨーロッパおよびその追従国である日本などの報道機関が一貫して伝えてきたことであった。もう一つは、主にシリア在住の市民の証言であり、こちらは西側世界の報道内容とは逆に、反乱軍が一般市民に略奪、強姦、テロ行為を行なっており、自分たちは政府側の軍隊に守ってもらわなければ買物のための外出もできず、生活が営めなくなるというもの。どちらの言い分が事実を正確に語っているだろうか? 主張の論理的整合性やリアリティからいって、私には圧倒的にシリア市民の主張のほうに真実性があるように見える。実際、昨年から今年にかけてリビア国内や世界各地で反乱側糾弾、アサド政権支持の大規模なデモ行進が何度も繰り返されている。

「 ロシア 依然として対シリア制裁には反対
 ロシアはシリアでの監視団拡大については検討する用意があるものの、制裁導入には以前と同様反対の立場をとっている。30日、ロシアのヴィタリー・チュルキン国連大使が安保理協議の後、ニューヨークで明らかにした。

 チュルキン国連大使はまた、コフィ・アナン特使によるシリア仲介案は誰によっても履行されておらず、シリア政府およびその反対派勢力双方に重大な落ち度があるとしている。またホウラの事件においても、「100人以上が殺されたということ以外、何も明らかになっていない」と指摘した。

 一方、シリアの武装反対勢力はバシャル・アサド大統領に対して最後通牒を突きつけたことが明らかになった。それによれば、48時間以内に国内における仲介プランを実行するよう要求されている。 最後通牒の期限は6月1日正午で、その後反対派は停戦の義務から解放されると主張している。

 シリアのバシャル・ジャファリ国連大使は記者団に対して声明を発表し、シリア国外の勢力が反対派に対して、対話に応じないよう圧力を加えていると指摘した。またホウラでの民間人大量殺害事件の国家捜査委員会は、今日もしくは明日にも作業を終えるとしている。」(強調のための下線はすべて引用者による。)

ホウラの事件については、ロシア国連大使が指摘するように「100人以上が殺されたということ以外、何も明らかになっていない」というのは客観的事実だと思われるが、米欧がこの事件を契機にシリアに軍事的な制裁を加えようというのであれば、完全に物事のつじつまが合わないではないか。米欧の軍事行動が始まればオウラ事件の何百倍、何千倍ものシリア市民が犠牲になることは明らかだからである。オウラ地域での不幸な事件をこれ幸いとばかりに軍事行動を起こそうという米欧の魂胆は何なのだろうか? 米国のライス国連大使は、政権側と反体制派の政治的対話や安保理の制裁強化が実現しなかった場合は「たった一つの最悪な選択肢が残る。国際社会は安保理外での行動を取らざるを得なくなってしまうだろう」と述べたそうだ。衣の下の本心はあまりにもあからさまに見えている。昨年のリビアのケースを思い出さずにいられないのだが、ベネズエラのチャベス大統領は4月に下記のように語っている。

「 チャベスがシリア大統領と電話会談 ( 2012年4月7日土曜日 )
▼▽▼ベネズエラのウーゴ・チャベス大統領は4月6日、シリアのバッシャール・アサド大統領と電話で30分会談した。会談後チャベスは、「このところずっと通話を試みていたが、やっとつながった」と述べた。
▽アサドは、「シリアでの暴動やテロ活動で軍人2000人が犠牲になった」と語ったという。
▼チャベスは、「米国と、その同盟国がシリアにテロリストを送り込み暴動を起こさせている。 カダフィ大佐虐殺に至ったリビア方式だ」と、NATO諸国を非難した。
▽チャベスはまた、「バッシャールは、政治改革を継続中で、事態は近く収拾に向かうと言ったが、そうあってほしい」と述べた。」


その他の参考になると思われるサイトを下記に紹介しておく。

「アサド・シリアのために世界中で行進」

「大多数の国民がバシャール・アル=アサドを支持しています」

証言——「反乱側が私たちを殺す。軍に残っていてもらわねば」


   2
新しい世紀に入ってから、世界各地で多くの紛争が起きているが、いつも平和と和解への解決策を遠ざけ、事態を悪化させる方向に舵をきることで世界の民衆の災厄になっているのは、米国とNATO、そしてその追従国に他ならないように感じられてしかたがない。アジアでは北朝鮮の問題がある。米国が何を考えているのか、こちらも懸念材料が多くいろいろと憂慮される。日本における北朝鮮報道で顕著なのは、各メディア(朝日も毎日も産経も読売も東京新聞も日経も)が揃いも揃って、完全なワンパターン報道に終始しているということである。読む前から読者にどんな内容の記事であるかが察知され、しかもそれが決して裏切られないということでは、レベルとしては小学校の下級生以下ではないのだろうか。5年も10年もその調子をつづけてよく飽きもせず、自己嫌悪にもおちいらないものだと感心するのだが、北朝鮮という国はすべてのものの悪の巣窟、悪の権化であり、そこに良い側面はただの一つもない。新指導者の金正恩氏がたとえば食料問題や公園の整備のことなどで住民を思う発言をすれば、それは住民に対して住民思いの指導者であることを印象づけるための操作に他ならない、という具合(全紙一致)で、一事が万事すべてこれである。

(例)
 ↓
「 正恩氏が「絶叫マシン」チェック 子ども施設を次々視察
 北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)第1書記が最近、児童施設や動物園、 遊園地などを現地指導した様子を国営メディアが伝えた。以前は軍関係の視察が目立ったが、市民生活や娯楽にも気を配る姿を見せることで、民心を引きつける狙いがありそうだ。」 (朝日新聞2012年6月1日10時4分)

まったく、日本の記者たちがこれほどまでに思考力も想像力も個性も欠いているのは何故なのだろうか? それとも彼らには北朝鮮報道はこのようなものでなければならないというその筋(それがどこかは知らないが)からの達しでもきており、そのためになくなくこんな愚にもつかない推測記事( 戯言 )を明けても暮れても毎日毎日書きつづけているのだろうか? おそらく新聞の購読者は今後さらに減るだろう。

また日本では新聞にかぎらず北朝鮮の食料(飢餓)問題について口にする人が多いが、そのなかでほんの一部の人(たとえば吉田康彦氏)を除けば、「飢餓」という言葉は単に北朝鮮を嘲笑したり責め立てるための恰好の材料としてしかとり扱われていないように感じる。日本政府における北朝鮮への経済制裁は第一に北朝鮮の一般住民を苦しめる機能・役割を果たしていることは明らかであるのに、制裁に賛成しておいて、飢餓問題を口にするなんぞ本来矛盾していると思うのだが、むしろ制裁強化を言い立てる人にかぎって、北朝鮮の飢餓問題についてアレコレ言いたがるようである。こういう人は北朝鮮の飢餓についての心配など何もしていないのだというのが言い過ぎなら、少なくともこういう人たちよりは北朝鮮の指導者層のほうが問題を何万倍、何百万倍も気にかけ、苦悩し、対策に骨を折っていることは間違いない、と断言してもあながち間違ってはいないだろうと思う。


追加-この記事をアップした後で、シリアに関する次のようなコメントを見かけた。私はこの発言は事実を見誤った上でのものだと思うが、現在の報道のあり方ではこのように思う人が多いのも仕方がないのかも知れない。

「シリアでアサドが民衆を殺しまくっているが、それで抵抗がやむどころかますます激しくなっている。」([No.20268] 2012/06/01(Fri) 12:02:32)

2012.06.02 Sat l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (6) l top
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