QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
シリアの紛争について気にかかることをトボトボとでも書こうかと思うのだが、まず初めに先日の20日シリアのアレッポで取材中紛争に捲き込まれて亡くなった山本美香さんに哀悼の意を表し、また周囲の人々にもお悔やみを申し上げたい。

しかしながら、この事件の実体もじつはよく分からない。現場で突然遭遇した相手側から山本さんについて、日本人だ、という声が上がったと伝えられているが、山本さんにしろ同行の佐藤和孝氏にしろ外見によって東洋人との判別はできたとしても、いきなり日本人と断定するのは普通なかなか困難、むしろ無理ではないかと思うのだが…。それとも日本人と言ったのは反政府側の人物だったのだろうか。いずれにせよ、まだ本当のことは表面に現れてはいないのだろう。

それなのに、日本のマスコミは例によって例のごとく、山本さんたちと行動を共にしていた反体制派側の言い分をほぼ100%鵜呑みにして、「政府軍は外国人ジャーナリストを狙い撃ちにしているふしがある」などといった報道を繰り返してはばからないのだ。その証拠を出せ、と言いたいが、矛盾を見ようとはせず、疑問もいだかず。昨日や今日始まったことではないが、日夜まったく同じことの繰り返しで、もうほとほとうんざり、ゲッソリである。日本のマスコミは、取材でシリアを訪れていた英国の「ニュース4」というメディアのスタッフが「案内してくれていた反体制派の人間によって政府軍側の拠点地域に連れて行かれ、そこで置き去りにされた」「政府軍側に殺害されるように反体制派側に謀られた」と証言していることを知らないのだろうか? 知らないなんてことはないだろうと思うのだが…。次の記事は26日付けの日本テレビとテレビ朝日のものである。

「 シリア首都近郊で200人超の遺体 虐殺か(日テレ< 2012年8月26日 19:36 >)
 激しい戦闘が続くシリアの首都のダマスカス南西部で25日、女性や子供を含む200人以上の遺体が見つかったと人権団体が明らかにした。政権側による虐殺の可能性があると伝えている。
 イギリスに拠点を置くシリアの人権団体によると、遺体が発見され たのはダマスカス南西部のダラヤで、インターネット上には、現場で撮影されたとされる映像が投稿されている。200人以上の遺体の中には女性や子供も含まれているということで、人権団体は政権側による虐殺が行われた可能性があると伝えている。
 ダラヤでは3日にわたって激しい戦闘が行われた後、25日までに政府軍が一帯を制圧したという。」

「 シリア首都で200人以上の遺体…政府軍が処刑か(テレ朝・8月26日)
 シリアの首都ダマスカスの郊外で、200人以上の遺体が発見されました。政府軍に処刑された可能性があります。
 戦闘が激しさを増しているダマスカスの攻防戦で郊外の町ダルアーを取り返した反体制派が、200人以上の遺体を発見したと発表しました。遺体の多くは政府軍が押し入った家の中や地下室で発見され、犠牲者には女性も含まれているということです。また、遺体は頭や胸を撃たれていて、反体制派は政府軍による大量処刑だと主張しています。ダルアーは労働者階級が多く住む町で、反体制派による首都へのゲリラ攻撃の拠点になっていて、政府軍が大規模な掃討作戦を仕掛けていました。ダルアーの反体制派は、この作戦で合わせて270人が犠牲になったと主張しています。」

日テレ、テレ朝とも記事の内容はほぼ同一だが、この情報源について日テレは「 イギリスに拠点を置くシリアの人権団体 」と言い、テレ朝は「 反体制派が、…発表しました 」と述べている。日テレの言う「 イギリスに拠点を置くシリアの人権団体 」とは何ものなんだろうか。人権団体がなぜ遺体発見当日に発見当事者の反体制派とそっくり同じ内容の発言ができるのだろうか。それにしても、ダマスカスで発見されたという200人以上の遺体。犠牲者には女性や子どもも含まれている。遺体は頭や胸を撃たれていて、反体制派は政府軍による大量処刑だと主張している。これらの説明は、今から3か月ほど前の5月末に発生したホウラ事件のとき聞かされた説明と何とよく似ていることだろう。まるであのときの話をそのまま聞いているようである。

あの事件をよく思い出してみよう。ホウラで発生したあの残忍冷酷な事件は政府軍側が引き起こしたのではなく、あのときこれは政府軍の仕業だと言って騒ぎ立てていた反政府軍側の犯行であることは今となっては誰の目にも明白であろう。丁度あの時期、米国のクリントン国務長官やスーザン・ライス国連大使を中心に米欧と反体制派はアサド政権の残虐性を口をきわめて非難し、そういう人道的危機情勢であるにもかかわらず安保理で拒否権を行使してガンとしてシリアへの介入を許容しない中露をも責め立てていたのだ。まさにその只中でホウラ事件は起きた。これがアサド政権の仕業なら、政権自ら自国への米欧の軍事的介入を呼び込んでいることになる。それともひょっとしてそういう国際社会の動向を渦中のアサド政権は知らなかったとでもいうのだろうか。あるいは政府側はみんなすでに頭がおかしくなっていたのだろうか。しかし、アサド大統領はその約1週間後に行った演説のなかで「怪物でもあんな残忍なことはできない」と述べたそうである。しかも、犠牲者の多くがアサド政権の関係者や支持者、そしてその家族だったことは今では多くの人によく知られているはずだ。

あらゆる不審、疑問に蓋がされてしまい、英国のBBC放送のウェブサイトなどは何とホウラ虐殺の現場写真としてネットに掲載されていたイラク戦争時の遺体が並んだ他人の写真を勝手に使用していたのだという。BBCにイラクで撮った自分の写真が使われているのを見た撮影者は「椅子から飛び上がるほど驚いた」そうである。これほど無責任で卑怯なことをやるまでになぜ記者の精神が退廃してしまっているのかといえば、リビア、シリアと昨年から連続している米欧の悪どい戦略にこういうメディアが完全に組み込まれていることに主因があるのだろう。

日本のメディアも欧米に右へならえで、ホウラ事件をアサド政権の仕業と決めつけて書き立てた。そこで知りたいのだが、彼らは現在も当時と同じくあの事件をシリア政府軍側が引き起こしたと考えているのだろうか? そのように考えているからこそ、今回のダマスカス郊外の事件も「 政府軍に処刑された可能性があります 」などといとも軽々に言えるのだろうか。あるいはつよい米国に逆らうことなどできないという奴隷根性にドップリ浸かりきっているのだろうか。本当のところは分からないが、ここまで来るともうそろそろ自分たちも侵略者・テロリストの側面援助者であり、日々視聴者・読者を騙しつづけているという自覚を持つべきだろう。少なくともホウラ事件があの報道で間違いなかったのかどうか今からでも調査・検証して結果を視聴者・読者に知らせるべきだろう。この報道は明らかにおかしい、まったくの嘘もしくは根拠のない一方的な話ではないかと視聴者・読者が感じとらずにいられない内容を日々ニュースとして垂れ流しつづけるのはもはや記者や報道機関とは名ばかり、戦争犯罪の共犯者ではないかと思う。

一説では、建国以来米国が他国に軍事力を行使して介入を行なった回数はゆうに百数十回を数えるのだという。その都度、独裁政権が民衆を無慈悲に扱っているのを止めさせるための人道的見地からの介入だとか、民主主義と自由を導入し根付かせるための援助などと立派な理由を挙げているが、それが成功した事例が過去に一つでもあるのだろうか。 あるとしたらそれはどの国、どの地域の例なのだろうか。耳にするのは当該国の民衆による米国への怨嗟の声ばかりのような気がするのだが? そもそも「独裁」が悪いから体制の転覆をはかるのだと言ったって、米国は自分たちのお気に入りの独裁者なら、自国民や周辺諸国にどんな残虐なことをやる独裁者に対しても何の痛痒も感じるふうもなく支持をつづけてきたではないか。コンゴのモブツ、インドネシアのスハルト、チリのピノチェト、ルワンダのカガメ、等々、いくらでも名が挙がるだろう。これらの場合と、イラク、リビア、シリアとの違いは何だろう。米欧の言いなりになるかならないか、国家として独立独歩の途を歩もうとするかどうかの違いであるように見える。

目に映り、耳に入ってくるシリアに関する情報を考え合わせて判断すると、昨年のリビアのカダフィ体制が倒されたときも同じように感じたが、シリアの人々に圧倒的に支持されているのは、国民評議会や自由シリア軍などと名乗っている反政府軍側(ここには武装集団アルカイダも相当数混じっているという説が根強い)ではなく、アサド政権側であるらしいということである。民衆の支持あればこそ、いまだ政権は持ちこたえているのだという説明や証言はあちこちで数多く見ることができる。2006~2010年までシリア大使を務めていたという国枝昌樹氏も著書「シリア」(平凡社2012年)のなかで、シリア政府の国内における人権弾圧などのさまざまな問題点を挙げながらも、少数民族、少数宗教宗派の人々などを中心にシリア国民のアサド大統領への支持率が高いことを明言されている。本のなかで印象に残った箇所を一つ挙げておく。2011年の12月から先遣隊160人規模で始まったアラブ連盟の監視活動についての叙述である。

「 シリアを非難する諸国の期待を背負って始まった監視団の活動だったが、事態は意外な方向に進む。
 外国メディアからの性急な問い合わせに対して、監視団の団長はシリアの情勢に特に問題視するべきものはないと反応すると、欧米と一部のアラブ諸国の神経は逆なでされた。
 その後も団長が監視団の業務を慎重に進める考えであると述べると反体制派はいきり立ち、スーダンの軍人である団長は市民を弾圧した軍歴を持っているなどとして団長への個人攻撃も始めて、監視団が活動する間も死者は増え続けていると神経質に叫ぶ。1月15日になるとカタールのハマド首長はアラブ軍の派遣を検討する可能性に言及する。」

私たちがマスコミ報道で知らされていた事実とはかなり異なる内容である。先日は「ロシアの声」で次の記事を見た。

シリア大統領は退かず、民衆の支持のため
  シリア大統領のバシール・アサドは「退任しない。なぜなら大多数の民衆の支持があるからだ」。日曜、米ラジオ局のSAWAによるインタビューの中で、シリア情報相のオムラン・アズ=ズアビ氏が表明した。
 情報相によれば、アサドの退任はただ一つの道、選挙を通じてのみ行われる。その場合、シリア民衆自身の手によって選挙が実施され、大統領の運命が決定されるのでなければならない。
 この表明は、新しく国連・アラブ連合同特別代表の任に就いたラクダール・ブラヒミ氏が、シリア危機の正常化に関する独自のプランを推進する準備を進めているとの報を受けて打ち出された。テレビ放送局「アル=アラビーヤ」の伝えるところによれば、合同特別代表の要点の一つは、アサドに退任を促し、移行政権に全権を委譲することを勧めることにあるようだ。」

米欧はサウジアラビアやカタールやトルコとともに反体制派側に武器や資金の援助をすることで他国の体制転覆をはかるという暴挙を直ちに止めるべきだろう。シリアという国はシリアで暮らし、シリアで生きている人々のものであり、米欧には何の権利もないはずだ。
スポンサーサイト
2012.08.29 Wed l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (1) l top
石原慎太郎東京都知事の領土問題を筆頭とした最近の言動(最近の、といっても、これは一昔前の「三国人」発言とか、女性や障害者に対する差別発言など数々の暴言・妄言の記憶が下敷きになっていることは間違いないのだが…)を見ているうちに、若いころのこの人が書いた「完全な遊戯」という小説のことが時折りふっと頭に浮かぶようになった。小説「完全な遊戯」の内容がそうであったように、尖閣諸島(釣魚諸島)購入宣言やこれに付随しての米国での広告活動などにも、退屈しのぎのための「遊び」の動機がどこか紛れこんでいるように感じるのである。

「日本文学全集66『現代名作集㈣』」(筑摩書房1977年)には、安部公房の「時の崖」や森茉莉の「気違いマリア」など同時代の20数篇の作品とともに、石原慎太郎作の短編小説「完全な遊戯」も収められている。この集の解説によると、この作品の初出は1957年10月号の「新潮」。芥川賞受賞からおよそ1年半ほど後のことになる。「名作集㈣」の目次をみると、どの作家の場合も平等に一人一作の割り当てとなっているので、この集の編集者たちにとって、77年時点での石原慎太郎の代表作はこの「完全な遊戯」との判断があったとみてもそう間違いはないのではないかと思う。以前、山川方夫という作家も、この「完全な遊戯」を、前年(56年)に発表された「処刑の部屋」とともに傑作あつかいしているのを見たことがある。そう言われてみれば、芥川賞受賞作の「太陽の季節」がだらだらした散漫な印象だったのに比べると、こちらは全体が格段にきびきびとしていて、何が描かれているのかがはっきり分かる。内容のほうも、いまになってみるとなおさら、「太陽の季節」がひどく凡庸に感じられて読みながら退屈するのに比べ、「完全な遊戯」のほうはいまだ十分刺激的である。「完全な遊戯」の出来が「太陽の季節」よりも一段上であることは確かなように私も思う。時々この作品が頭に浮かんでくるのには多分そのせいもあるのだろう。

「完全な遊戯」は、二人の若い(と感じられる)男性が、雨の夜半、傘をさして一人ぽつんとバス停に立っている女性を車で拾うところから話が始まる。その女性を兄夫婦が夏の家用に買ったという東京の家に連れこんで強姦する。翌日他の仲間たちにも強姦させ、この女性がどうやら精神を病んでいるらしいことが分かると、処置に迷い、仲間の一人が馴染みだという熱海の旅館に売り飛ばす。しかしその後、旅館側から困っているので引き取ってくれという電話がかかってくると、三人で出かけて行って女性を秘密裡に上手に外に連れだす。そしていともあっさり崖上から海に突き飛ばして殺してしまう。これはそういうまったく身も蓋もない筋の小説である。

「日本文学全集66『現代名作集㈣』」における「完全な遊戯」の解説には、「あらゆる倫理を否定した人間の本能に根づく自然ともいえる非モラルの世界…をとことんまで追求した作品である。」「偶然から女を拾い、もて遊び、最後に殺してしまい「この遊びは安く上がったな」とうそぶく青年たちには世間の同情や共感をひくものはなにもない。けれど倫理の否定はここまで行きつかなければならないのだ。それを敢えて書いた作者の勇気と真実にぼくは脱帽したい。」(奥野健男)などと記されている。しかし、これでこの作品はほんとうに「非モラルの世界」「倫理の否定」について追求したものと言えるのだろうか。

青年たちの生活ぶりについて読者に分かることは、彼らが仲間うちでブリッジなどをして遊んでいるらしいこと、1957年という時代に自家用車を持っていること、この小説の中心人物、すなわち女性を車で拾い、最後に女性の好意と信頼感を利用して海に突き落とすことになる青年の兄夫婦は夏の家を持っていて、彼もその家を気軽に利用できる立場であること、パーティーなどにも出没しているらしいこと、仲間の一人は熱海の旅館の馴染み客であること、などである。そこから察するに、けっこう余裕の感じられる優雅な(?)生活をしている様子でもある。作品の雰囲気からいうと、彼らのグループは普段警察などの厄介になっているといった様子でもなく、みんなわりあい利口そうでもある。だからこその「完全な遊戯」と作者は言いたいのかも知れないが、しかし人間、この程度の事情と背景のもとで、実際上も心理上も別段追いつめられてもいないのに(事実、彼らの態度や言動には追いつめられたような様子はいっかな見あたらず、むしろ余裕綽々である。)、こんなにあっさりと人ひとりを殺せるものだろうか? 殺人という行為にいくまでに彼らの心理はどこで飛躍したのだろうか? 解説者は、「非モラルの世界」や「倫理の否定」の追求、と述べているが、作者はむしろ「モラル」や「倫理」について、ほとんど何もつきつめて考えていないのではないだろうか? 解説には、「人間の本能に根づく自然ともいえる(非モラルの世界)」という言葉もあるが、この殺人のどの場面が、どのようにして、「人間の本能に根づく自然」な行為であるといえるのか、疑問である。

たとえば、少年や青年による実際の殺人事件をみると、報道では一見いかにも安易に軽々に人を殺しているように見える事件でも、すこし事件の経緯を追って事情を見てみると、「安易」などとは決して言えない重い現実があり、それに押しつぶされるようにして事件が引き起こされたことを実感しないですむことはまずないように私には思える。複数の少年たちによるあの悪名高い「女子高生監禁殺人事件」にしても背後にはやはりそのようなものが感じられた。「完全な遊戯」の読後感として腑に落ちないのは、無辜の一人の女性をまさに「モノ」のように殺した直後、「この遊びは安く上がったな」という「完全な遊戯」の青年たちの今後に、作者はどうも平穏な生活を見ているように思えること、もしくはそういうことについてはほとんど何も考えていないように思えることであった。

以前の記事で、私は石原氏が尖閣諸島問題について述べた、「自分の家族を犯そうと思って強盗が入ってきたら、素手でもそこの主人は戦わないといけないんじゃないですか。 甘んじて、奥さんや娘が強姦されて、ものを盗られて、暴力沙汰に及ぶからと、あえてすべてを譲ったところで済むんですか 」という発言を取り上げたが、これは何度読んでもそのたびに恐怖をさそわれる発言である。中国が現在どのような国であるか、中国の現体制を好むか、好まないかというようなこととは無関係に、これまで中国が日本に対して「強姦」したり、「ものを盗」ったり、「暴力沙汰に及」んだこと、つまり侵略におよんだことは一度もない。日本が中国に対してそれをやったのであることは、誰もが知っている厳然たる歴史的事実である。それにもかかわらず、上記のようなことを述べる人間はたしかに相手国から「狂った輩」と言われても当然だろうが(しかもこの人はあれだけの騒ぎを自ら引き起しておきながら、なぜに尖閣列島の領有権が中国ではなく日本にあるのかについて、一言も語っていない。)、このような言動の背後には一騒ぎ起したいというようなふざけたもの、退屈しのぎの遊び、とでもいうような軽薄なものがあるように私にはどうしても思え、そこに「完全な遊戯」という小説の読後感と似たものを感じてしまう。「文学」とか「文学精神」なんてものをどのように定義したとしても、現在の石原都知事の言動にはその片鱗も認められないこと、皆無であること、その振る舞いはむしろそういう精神に完全に敵対するものであることは、上記発言の一事をもってしても、誰でもが認めざるをえないのではないかと私は思う。
2012.08.05 Sun l 石原慎太郎 l コメント (3) トラックバック (0) l top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。