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石原慎太郎東京都知事の領土問題を筆頭とした最近の言動(最近の、といっても、これは一昔前の「三国人」発言とか、女性や障害者に対する差別発言など数々の暴言・妄言の記憶が下敷きになっていることは間違いないのだが…)を見ているうちに、若いころのこの人が書いた「完全な遊戯」という小説のことが時折りふっと頭に浮かぶようになった。小説「完全な遊戯」の内容がそうであったように、尖閣諸島(釣魚諸島)購入宣言やこれに付随しての米国での広告活動などにも、退屈しのぎのための「遊び」の動機がどこか紛れこんでいるように感じるのである。

「日本文学全集66『現代名作集㈣』」(筑摩書房1977年)には、安部公房の「時の崖」や森茉莉の「気違いマリア」など同時代の20数篇の作品とともに、石原慎太郎作の短編小説「完全な遊戯」も収められている。この集の解説によると、この作品の初出は1957年10月号の「新潮」。芥川賞受賞からおよそ1年半ほど後のことになる。「名作集㈣」の目次をみると、どの作家の場合も平等に一人一作の割り当てとなっているので、この集の編集者たちにとって、77年時点での石原慎太郎の代表作はこの「完全な遊戯」との判断があったとみてもそう間違いはないのではないかと思う。以前、山川方夫という作家も、この「完全な遊戯」を、前年(56年)に発表された「処刑の部屋」とともに傑作あつかいしているのを見たことがある。そう言われてみれば、芥川賞受賞作の「太陽の季節」がだらだらした散漫な印象だったのに比べると、こちらは全体が格段にきびきびとしていて、何が描かれているのかがはっきり分かる。内容のほうも、いまになってみるとなおさら、「太陽の季節」がひどく凡庸に感じられて読みながら退屈するのに比べ、「完全な遊戯」のほうはいまだ十分刺激的である。「完全な遊戯」の出来が「太陽の季節」よりも一段上であることは確かなように私も思う。時々この作品が頭に浮かんでくるのには多分そのせいもあるのだろう。

「完全な遊戯」は、二人の若い(と感じられる)男性が、雨の夜半、傘をさして一人ぽつんとバス停に立っている女性を車で拾うところから話が始まる。その女性を兄夫婦が夏の家用に買ったという東京の家に連れこんで強姦する。翌日他の仲間たちにも強姦させ、この女性がどうやら精神を病んでいるらしいことが分かると、処置に迷い、仲間の一人が馴染みだという熱海の旅館に売り飛ばす。しかしその後、旅館側から困っているので引き取ってくれという電話がかかってくると、三人で出かけて行って女性を秘密裡に上手に外に連れだす。そしていともあっさり崖上から海に突き飛ばして殺してしまう。これはそういうまったく身も蓋もない筋の小説である。

「日本文学全集66『現代名作集㈣』」における「完全な遊戯」の解説には、「あらゆる倫理を否定した人間の本能に根づく自然ともいえる非モラルの世界…をとことんまで追求した作品である。」「偶然から女を拾い、もて遊び、最後に殺してしまい「この遊びは安く上がったな」とうそぶく青年たちには世間の同情や共感をひくものはなにもない。けれど倫理の否定はここまで行きつかなければならないのだ。それを敢えて書いた作者の勇気と真実にぼくは脱帽したい。」(奥野健男)などと記されている。しかし、これでこの作品はほんとうに「非モラルの世界」「倫理の否定」について追求したものと言えるのだろうか。

青年たちの生活ぶりについて読者に分かることは、彼らが仲間うちでブリッジなどをして遊んでいるらしいこと、1957年という時代に自家用車を持っていること、この小説の中心人物、すなわち女性を車で拾い、最後に女性の好意と信頼感を利用して海に突き落とすことになる青年の兄夫婦は夏の家を持っていて、彼もその家を気軽に利用できる立場であること、パーティーなどにも出没しているらしいこと、仲間の一人は熱海の旅館の馴染み客であること、などである。そこから察するに、けっこう余裕の感じられる優雅な(?)生活をしている様子でもある。作品の雰囲気からいうと、彼らのグループは普段警察などの厄介になっているといった様子でもなく、みんなわりあい利口そうでもある。だからこその「完全な遊戯」と作者は言いたいのかも知れないが、しかし人間、この程度の事情と背景のもとで、実際上も心理上も別段追いつめられてもいないのに(事実、彼らの態度や言動には追いつめられたような様子はいっかな見あたらず、むしろ余裕綽々である。)、こんなにあっさりと人ひとりを殺せるものだろうか? 殺人という行為にいくまでに彼らの心理はどこで飛躍したのだろうか? 解説者は、「非モラルの世界」や「倫理の否定」の追求、と述べているが、作者はむしろ「モラル」や「倫理」について、ほとんど何もつきつめて考えていないのではないだろうか? 解説には、「人間の本能に根づく自然ともいえる(非モラルの世界)」という言葉もあるが、この殺人のどの場面が、どのようにして、「人間の本能に根づく自然」な行為であるといえるのか、疑問である。

たとえば、少年や青年による実際の殺人事件をみると、報道では一見いかにも安易に軽々に人を殺しているように見える事件でも、すこし事件の経緯を追って事情を見てみると、「安易」などとは決して言えない重い現実があり、それに押しつぶされるようにして事件が引き起こされたことを実感しないですむことはまずないように私には思える。複数の少年たちによるあの悪名高い「女子高生監禁殺人事件」にしても背後にはやはりそのようなものが感じられた。「完全な遊戯」の読後感として腑に落ちないのは、無辜の一人の女性をまさに「モノ」のように殺した直後、「この遊びは安く上がったな」という「完全な遊戯」の青年たちの今後に、作者はどうも平穏な生活を見ているように思えること、もしくはそういうことについてはほとんど何も考えていないように思えることであった。

以前の記事で、私は石原氏が尖閣諸島問題について述べた、「自分の家族を犯そうと思って強盗が入ってきたら、素手でもそこの主人は戦わないといけないんじゃないですか。 甘んじて、奥さんや娘が強姦されて、ものを盗られて、暴力沙汰に及ぶからと、あえてすべてを譲ったところで済むんですか 」という発言を取り上げたが、これは何度読んでもそのたびに恐怖をさそわれる発言である。中国が現在どのような国であるか、中国の現体制を好むか、好まないかというようなこととは無関係に、これまで中国が日本に対して「強姦」したり、「ものを盗」ったり、「暴力沙汰に及」んだこと、つまり侵略におよんだことは一度もない。日本が中国に対してそれをやったのであることは、誰もが知っている厳然たる歴史的事実である。それにもかかわらず、上記のようなことを述べる人間はたしかに相手国から「狂った輩」と言われても当然だろうが(しかもこの人はあれだけの騒ぎを自ら引き起しておきながら、なぜに尖閣列島の領有権が中国ではなく日本にあるのかについて、一言も語っていない。)、このような言動の背後には一騒ぎ起したいというようなふざけたもの、退屈しのぎの遊び、とでもいうような軽薄なものがあるように私にはどうしても思え、そこに「完全な遊戯」という小説の読後感と似たものを感じてしまう。「文学」とか「文学精神」なんてものをどのように定義したとしても、現在の石原都知事の言動にはその片鱗も認められないこと、皆無であること、その振る舞いはむしろそういう精神に完全に敵対するものであることは、上記発言の一事をもってしても、誰でもが認めざるをえないのではないかと私は思う。
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2012.08.05 Sun l 石原慎太郎 l コメント (3) トラックバック (0) l top
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